人間はなぜ愛か
人間の本質は愛、なぜ
人間は愛の仮の姿です。「人間(分離)は仮相」で「愛(全一体)は実相」です。
実相の自分は愛(全一体)であって人間(分離した存在)ではありません。
愛がなかったとすれば、絶対に人間は存在できないのです。
「我は愛」であって、我は人間ではないのです。しかし、残念ながら皆さん方は仮相という人間を見て、「実相の自分(大生命)」という「愛の自分(真我)」を観ていないのです。
仮相を見るべきですか、「実相(全てに神)を観る」べきですか。
実相は人間ですか、愛ですか。「実相は愛です。大愛」なのです。
愛は宇宙にいくつありますか。宇宙には愛(生命)は一つしかないのです。
無限大の愛(遍満する大霊)しかないのです。
その愛がなかったとすると、人間は絶対に存在出来ないのです。
ですから存在の本源は愛(神)であるのです。
人間は全て[霊と水バランス(調和)]でもって存在しているのです。
その霊と水がなければ、人間という形体は絶対に存在する事は出来ないのです。
その形体を人間と言っていますが、人間の本質は即大愛なのです。ですから皆さん方は我は大愛なりですか。我は人間なりですか。自分は愛なのか人間なのか。愛の自分と人間の自分とどちらが本物でしょうか。
人間は偽我、愛は神我となっています。しかし、皆さん方は自分の事を人間と言うのです。「我は大愛なり」というべきであって、「我は人間なり」といってはならないのです。
では、「愛の自分を観る」べきか、「人間の自分を見る」べきか、という事です。
「人間(分離の見方)は仮相の自分」です。殆どの人がこの仮相の人間(分離意識)であって、実相(内在の神・根源)という愛(神)を見失っているのです。
その「実相(本質・根源・真我・宇宙生命・無限者・大愛)を観るべき」であって、
仮相(分離意識でもの見る見方)を見てはいけないのです。
人間とは、愛の仮の姿(愛の表現体・愛の顕現)ですから『愛の化身』となるのです。
宇宙法則の中に[陰陽の法則(全ての実態は愛と調和)]というものがあります。
陰とは(質量)の事です。陽とは(エネルギー)の事です。
全てのものはその陰陽の調和、即ち、霊と水の調和によって存在するのです。
その調和の事を「愛」といい、それは大調和ですから「大愛」です。
ですから、その調和によって全てのものが創造される事を「愛の具現」というのです。
その陽の事を「父なる神」といいます。その陰の事を「母なる神」といいます。
ですからその「愛の具現者、全ての創造者、全ての創造主は神」である
という事がそこに言える訳です。
その愛(無限大の愛)がなくては人間は存在できないのです。
霊と水(父母の愛)がなければ人間は存在できないという意味は、この肉体は水出てきます。
お母さんの羊水で十ヶ月10日で出て来て、
そこへ霊(生命)というものが宿って、初めて人間は生きることが出来るのです。
では、初めに本質ありきですか。愛ありきですか。それとも人間ありきでしょうか。
大愛(神)が人を造って、その大愛(神)が人の中に宿っていませんか。
これを「内在の神」と言っているのです。だから、愛我が中にましますと、
人間は愛の化身であると、愛の仮の姿であると言うのではありませんか。
もうそろそろ皆さん方も愛に目覚めたらどうでしょうか。
自分は人間ではなくて、愛(神)であるという事を悟らねばなりません。
イエス様は「我は人間なり」と言われたのですか。「我は愛なり」と言われたのですか。
あなた方は悟れば人間になるのですか。愛になるのですか。
自分が愛(神そのもの・神ご自身・大生命)である事を知る。
その愛(神は宇宙法則・愛の法則)を知る事は己を知る事になるのです。
愛を知らない人間は己を見失っているのです。
だから私は人間だというならば、それは嘘つきになります。
なぜならば「人間(分離意識・偽我・マインド)は嘘の自分」となり、
「愛(全一体・全てに神を観る・宇宙意識・神意識)は本当の自分」となるからです。
愛の事を神我といいます。愛の到達が神我の到達となります。
だから『我は愛なり』と『我は慈悲なり』という事になります。
それは『愛のキリスト』『『慈悲の仏陀』となっています。
愛以外何もないのです。愛(無限の生命)のみが独存しているのです。
愛以外絶対に何も無いのです。全て愛(神ご自身)なのです。
全き愛(マタキアイ)と書いてこの字が読めないのです。意味が分からないのです。
どのように形が変わろうがその「本質は愛」なのです。
あなたの本質は人間ですか。それとも愛ですか。
人間の本質は愛であると、愛こそ絶対実在であると、
実在しているのは「愛」であって人間ではないと。
その愛は有限の愛でしょうか。「無限の愛」でしょうか。
「霊も無限大」で、「質量も無限大」です。
「霊はエネルギー」で「水は質量」ですから、
無限大のエネルギーと無限大の質量(大愛)しかないのです。
これを「大バランス」「大調和」「大愛」といっているのです。
即ち、そこには「無限(大愛・神一元・愛一元)」しかないのです。
ならば、我は無限なりですか。我は個人なりですか。そこには無限の愛しかないのです。
しかし、皆さん方にはまだ人間という観念、概念があります。雑念があります。
「私は愛です」という人は正思念(ワンネス意識)です。
「私は人間です」という人は悪思念(分離意識)です。
その人間という悪思念(不調和・分離感)を捨てなければならないのです。
人間は本物ですか。偽者ですか。「愛は本物」です。「愛は神我」で、
「人間(分離意識)は偽我」となっています。
その「人間(分離意識)という仮相」で、「愛(ワンネス)という実相」を目隠しされているのです。
皆さん方はその仮相(形態・姿・形)を見ることが出来、触る事も出来るのです。
その中に宿り給う「実相(神・愛)という本質」は見る事も触る事も出来ないのです。
その「愛」がここにある、あそこにある、と言えますか。「無限」ですから
「全宇宙に遍満している」のです。だから愛には内外(うちそと)がありません。
見えるもの、見えざるもの、ことごとく愛なのです。ですから
「神の在し在さぬ処はない」という事は、「愛の在し在さぬ処はない」という事です。
「全き」愛ですから「愛の他には何もない」のです。
なぜ「全てが愛」なのかという事は、
愛(神)が全てを造り、その「大愛が全ての中に宿っている」ならば、
全てが大愛ではありませんか。
初めに形ありきですか。「初めに愛ありき」ですか。
その「愛」が「全ての本質」ではありませんか。
だから人間の本質は神であるという事です。その大愛の事を大神様というのです。
愛は万物の造り主、万物の親です。大愛が万象万物を造って、大霊が万象万物の中に宿っています。これを唯一不二の愛というのです。即ち、唯一不二の神となるのです。
「内在の愛」と「内在の神」とは、
「愛眼を開く事」と「神我を開く事」とは、「同じ事」です。
皆さん方は本物を観ないで、どうして偽者を見ているのですか。
人間は偽者、即ち人間は偽我、愛は神我、これが愛のキリストです。
我は愛(全一体・大生命)であって、我は人間(分離した存在)ではないのです。
まだ皆さん方には人間という観念、概念、雑念があるのではないでしょうか。
人間という思いがある限り、あなたは悟る事が出来ないのです。
人間だと思っている人に悟った人がいるのでしょうか。
あなたは悟ったら人間になりますか。それとも愛になりますか。
愛(大生命)だと想わなくてはなりません。愛(神)を観なくてはなりません。
自分を人間だと見ている人の事を闇の人といいます。
自分を愛(宇宙生命)だと観ている人は神眼の開かれた人といいます。
初めに人間ありきですか。初めに本質ありきですか。本質なき形体なんて存在いたしません。本質がなくてどうして形というものが存在出来るのですか。
形を存在至らしめているのは本質(神・大生命)ではありませんか。
「初めに本質ありき」というのは、「初めに神ありき」という意味です。
「全ては上によってなれり」と言うのは、「全ては本質によってなれり」という事です。
では、存在の本源は形ですか、本質ですか。その形を至らしめているのは本質なのです。その本質は大調和です。
だから神は愛なり、大調和なりというのです。これをプロフェクトバランス、大バランスといい、者は全ての質量とエネルギーのバランスで存在しているのです。
アンバランスでは絶対に形という世界は存在できないのです。
だから、もう「愛以外に何もない」と、「何を見ても愛」だと観なさなくてはなりません。
全てに愛(神)を観る。全てに愛(神)を観(かん)じなくてははりません。
残念ながら形皆さん方は物を見てしまった。
その見ている物の本質を観ていないのです。
「形を見るならば本質を観よ」だと思います。
皆さん方は形を見るべきですか。本質を観るべきですか。
では、その本質は何処にありますか。
それは汝の内にあり。だから愛は汝の内にありとなるのです。
これが内なる神、内なる愛というものなのです。
その愛のことを「天」と言っているのです。仮相のことを「地」と言っているのです
仮相と実相は表裏一体です。その大愛のことを「大天」と言っているのです。
だから「天は汝の内にあり」というのです。
人間の我が、愛の我に還ることを「天に還る」といいます。
では、その愛は何処にあるのですか。それを「汝の内にあり」というのです。
偽我の我が神我の我に還る事を天に還る。愛は神我ですから、
「神我は天」で「偽我で地」となっています。
「私は人間」だ、「肉体だという人」は、「地に生きている人」です。
「私は大愛」だ。という人は、「天に生きている人」です。
だから天は我が内にあり、それを存在の天と言って、
天(実在・真の自己・真我)は汝の内にありという事です。
「実相は天」、「仮相は地」となっています。この地の事を仮相世界といい人間は仮相です。「仮相という人間」を見るべきか、「実相という愛」を観るべきか。どちらでしょう。
「実相という本質」を観るべきであって、仮相という人間を見てはならないのです。
だから「外を見るな内(実相・神・本源)を観よ」というのです。
内なるものなくして外なるものは存在出来ないのです。本質がなくてどうして形が存在出来るのですか。初めに「人間ありき」ですか。「本質ありき」ですか。
では、本質は宇宙にいくつありますか。たった1つです。
だから「人間の本質は愛」であると、「神である」といえる訳です。
もう今こそ愛眼を開くべきではありませんか。あなたは人間眼ですか。肉眼ですか。
「人を見よ」ですか。それとも「大愛を観よ」ですか。どちらが正しくものを観ていますか。
「自分を大愛と観ている人」と、「自分を人間と見ている人」と、
どちらが正しくものを観ていますか。
人間がこの大愛を否定できるのですか。皆さん方は修行をして大愛になるのですか。
元々大愛なのですか。皆さん方は今も大愛で、未来永劫に大愛なのです。
「私は人間です」と未だにいう人に〈何を言っているのですか〉と、
その人を捕まえて分からせようとしたいのですが、
それでは人間の自由意志を犯す事になります。人間の自由意志を犯す事は出来ないのです。
無知の人は己を人間だと見ます。神眼が開かれた人は本質を観るのです。イエス様は「あなた方の見ているものはただの人間です」と言われてます。
皆さん方は人間の本質を観ていないのです。人間の本質は愛ではありませんか。
愛が無くては絶対に人間は存在しないのです。
だから『人間の本質は愛(神)である』と、ここにはっきり言えるのです。
人間を存在至らしめているのは愛ではありませんか。違いますか。愛無くして人間は存在できるのですか。では、存在の本源は人間ですか、愛ですか。
「神おわしますが故に我はおわすのである」というのは、
「大愛おわしますが故に我はおわすのである」と、その大愛とは大神様のこと、
だから愛は神ですから「人と神は不可分である」という事です。
決して愛から離れては存在出来ません。
「人間は神から一秒間も離れる事は出来ない」という様に、人間の形体は愛から一秒間だって離れる事が出来るのでしょうか。
だから「人間一人びとりは神につながらないでは不毛である」と、
「愛につながらなくては不毛である」と。
では、人が生きているのですか。神が生きているのですか。
「※神のみが生きて神のみが働き給う。人間自らは無なり。御業を為し給うは神のみなり」という事です。(※イエス様の御言葉でもあります)
人間一人びとりは神の化身です。愛の化身です。その本質は神であるという事です。では、我は人間なりですか。我は神なりですか。
あなたは悟れば人間になるのですか、神となるのですか。神の自覚といって、
「我は神(愛)なり」の自覚がなくてはならないのです。
我は人間なりではなく、仮相という人間を見るか、「実相という神」を観るかです。
「実相という神」。だから「神は万物の造り主」、「万物の親」というのです。
「大愛」が「万象万物」を造っていませんか。何があなたを造っているのですか。
形が形を造っているいるのですか。本質が形を生むのですか。
本質がなくて形を生む事が出来るのですか。
本質(大愛・神)が形を生んで、その本質が形の中に宿っているのではありませんか。
では、我は人間なりでしょうか。我は本質なりでしょうか。その本質が愛ではありませんか。人間の本質は愛ではありませんか。
その本質に始めがあったり、終わりがあったりするものでしょうか。形体は破壊できましても、その本質なるエネルギーと質量は破壊する事は出来ません。これを久遠の愛といいます。
永遠の愛、無限の愛です。これが我ではありませんか。
いつか朽ち果てる形体があなたなのですか。久遠の大愛があなたなのですか。
あなた方はその愛を知るべきではありませんか。その愛を知らない事は誰を知らないという事ですか。愛を見失う事は己を見失う事です。
その本質を知らない人間のことを「迷い人」といい、本質を知っている人は「悟り人」といい、悟った人は「自分は愛である」といいます。
迷った人は「自分は人間である」といいます。どちらが悟り人ですか。あなたは悟れば人間になるのですか、大愛になるのですか。人間を見るべきですか、大愛を観るべきですか。
愛は一(いつ)にして多身、一なる愛が様々な形を現しているだけではありませんか。
どのように形が異なろうと、その本質は愛ではありませんか。
皆さん方は形という世界でものを見るのではなくて、その形の本質を観るように努めなければなりません。それゆえに内観(全てに神を観る)しなければならないのです。
内なるもの(大愛・大霊)なくして外なるもの(すべての形体)は存在出来ない、本質なくして形あるものは存在出来ないのです。
皆さん方は形を自分だと見ているのです。それは単なる無知というものです。その自分を人間だと信じている人の事を、妄信家、狂信家というのです。もう妄信も狂信もこれくらいにしたらどうでしょうか。
真の信仰家とは、人間だと信ずるべきか。愛だと信ずるべきか。自分を愛だと信じている人は神信者です。自分を人間だと信じている人は無神論者です。即ち偶像崇拝信者です。
何故ならば、形体を信じて本質(根源・真の神)を信じていないからです。本質を信じていないという事は、神を信じている姿ではありません。
イエス様は「我は姿・形に属する者である」と言われたのですか。
「我は姿・形に属する者にあらず。我は愛なり」と言われたと思います。
あなたは姿・形に属する者ですか。愛に属する者ですか。愛がなくて姿・形が存在出来るのですか。姿・形の本質は、即ち、愛ではありませんか。
霊と水(の調和)(陰陽の法則=愛と調和=大愛)ではありませんか。
神の国は霊と水の国です。その神の国は汝の内(本質・根源)にあります。
霊と水(愛と調和・大愛)を宿さないで、この世に物が存在した試しはないのです。
この大愛の事を神理というのです。
神理と愛とは、愛の追求とは、神理の追求とは、その神理が汝の内にあるのです。
その神理(大霊・大生命)は万象万物の造り主、万物の親です。
神理が万象万物を造って、神理が万象万物の中に宿っていませんか。
という事は、全き神理になりませんか。それでは私は人間なりですか。
私は愛なりですか。我は愛なりです。我は神理なりです。
本質の追求が神の追求です。しかし、皆さん方はまだ人間という、
概念、雑念があるのではないでしょうか。
「雑念を捨てなさい」というのは、「私は人間である」という雑念を捨てなければならないという事です。
人間という思いは正思念ですか、雑念ですか。この人間という雑念がある限り、あなたは決して悟る事はないのです。
一時(いっとき)だって人間だと思ってはならないのです。
四六時中神を想うという事は、四六時中愛だと想っていなければならないのです。
四六時中悟っておく為には、四六時中愛でなければならないのです。
あなた方はその逆の、四六時中人間だと思って生きているのではないでしょうか。という事は、四六時中迷っているという事になりませんか。
人間だと思った状態は、悟った状態ですか。迷った状態ですか。
「愛のキリスト」ですから、「慈悲の仏陀」ですから、
だから皆さん方は決して人間だといったり、思ったり、語ったりしてはならないのです。
〈私は人間だもの……〉本当ですか?
〈私は愛だもの……〉そうです! 愛です。
ですから、肉の人になるのではなく愛の人になりなさい。全てが愛ではありませんか。
どう形が異なろうとその形は愛ではありませんか。
愛を宿さない形体というものがありますか。愛を宿さないで形が存在出来るのですか。存在の本源は形ですか。愛ですか。
「初めに神ありき」というのは、「初めに本質ありき」即ち「初めに愛ありき」という事です。その愛によって全ては成れりではありませんか。
違うと思いますか。それでは存在の本源は形ですか、愛そのものですか。
「存在の本源は神である」と、
神こそ絶対実在で、本質こそ絶対実在で、久遠の愛、無限の愛とはその意味を言うのです。
愛には初めがなく終わりがありません。
初めなき終わりなき愛、これを久遠の愛といい、その久遠の愛を久遠我といいます。
それは永遠の自分ではありませんか。愛は死にますか。
ますか。破壊できますか。区切りはありますか。それは普遍です。普遍的愛です。
愛がここなる、あそこにあると言ってはならないのです。
即ち、見えるもの見えざるもの尽(ことごと)く愛(神)であるからです。
だから「何が愛だ」と」言った瞬間、それはもう愛ではありません。これは神理ではないという事です。愛は全ての全て、ありてあらゆるものなのです。
その愛に、善い愛、悪い愛、というものがありますか。
愛に善悪というものがあるのですか。善悪は人のものです。愛のみが独存する中で、悪なんかは何処にも存在しないのです。愛の外に何かがあるのでしょうか。
あなたが愛以外に何かを知っているならば、あなたは単なる愚か者です。
「あなたが知っているものは何ですか」と言われた時「愛のみです」と。
何故かといいますと、愛以外に何もないのですから、だから愛以外に知る訳にはゆかないのです。
違うとお思いですか。愛の他に何かがあるのですか。愛もあって悪魔もあるのですか。愛は万物の造り主、万物の親です。では悪魔は誰が造るのですか。その本人の心ではありませんか。
悪を持っている人は悪を観ます。愛を持っている人は愛を観ます。悪を観る人の心に悪が住んでいるのであって、その本人が造らない限り悪は存在しないのです。
それでは悪魔の生みの親は何処にいるのですか。その本人の心ではありませんか。愛に善悪があるのですか。完全しかないのです。愛はそれだけで完全なのです。
一元論ですか、二元論ですか。愛一元論です。
〈愛もあって不調和もあるのですよ〉それは本当ですか。不調和は実在するものですか。その不調和は誰が造ったものですか。
それは神のものではなくて人のものではありませんか。迷いのものではありませんか。迷った者には不調和がありますが、悟った人には不調和なんかはなく大調和あるのみ、大愛あるのみです。
神はこう申されます。「私には愛しかないのである。不調和は私のものではないから私は知らない」と。
その不調和とは迷いそのものの事です。愛とは調和そのものの事です。悟りそのものなのです。あなたが悟れば調和そのものとなるのです。あなたに不調和がある限り、あなたは迷っているのです。お分かり頂けますでしょうか。
愛(神)の他には何もないと。愛(神)の他に何かがあると思っている人がおりましたならば、愛以外に誰が何を造っていると思っていますか。
愛は万物の造り主です。全ての本質は愛です。そうであれ、愛以外のものが何処かにあるのですか。愛のみですから、愛以外のものがあると思う事は、人間の観念概念が造り出した単なる迷妄にしか過ぎないのです。
あなたが愛を悟った時「神以外、愛以外のものがあります」と言うと思いますか。そこには絶対なる神、絶対なる愛があるだけではありませんか。
故に「神は絶対なるものであられる」と、「絶対なる愛であられる」という事を知らねばならないのです。
皆さん方はもっともっと「自分というものは何か」という事を、徹底して追求してゆくべきではありませんか。あなたが自分の事を人間だと思っているならば、あなたは自分を見失っていませんか。
本来のあなたは人間ですか。大愛そのものですか。その大愛は全知全能ではありませんか。「愛に勝る力はない」といっているではありませんか。
愛は神聖エネルギー、愛のエネルギー(無限大の愛)ですから、即ち、完全ではありませんか。では、神は不完全な人間をお造りになっておられますか。
はじめから完全として造られた人間を、それを不完全にしているのは誰でしょうか。それは自分自身ではありませんか。
皆さん方は形が自分自身だと、その形体を自分と見ていますが、この本質を自分だと観なくてはならないのです。本質なき形体はないのです。
初めに本質があるのであって、形があるのではありません。人間の形を取った本質ではありませんか。だから人間の本質は神である、愛であるという事が言えるのです。
全てが神ですから「誰々が神だ」「これこれが神だ」と限定して言えるのですか。全き神というのは、全てが神であるという事ではありませんか。神は一(いつ)なるものであるという事を知らねばならないのです。
神の存在しない所はないという事は、このエネルギーも無限大で、質量も無限大ですから、それが全宇宙に遍満している事を、遍満の神、遍満の愛というのです。(※神は無限の生命・宇宙エネルギー・無限大の愛)
ですから悟るのも迷うのもあなた次第です。色々な事を、頭の中で、概念で造り出す迷妄を持っている人が世の中には一杯います。
これが人間の苦しみとなっているのです。それは単なる概念にしか過ぎないのです。そんなものから何も得るものはありません。
この世の中に善悪があるのですか。絶対善しかないではありませんか。完全しかないではありませんか。皆さん方が自我でものを見るから、不完全のものの見方をするから、不完全の状態の現れ方をするだけなのです。
人間を見て愛を受け継いだ人は一人もいないのです。本質を受け継ぐには本質(大愛・大生命)を凝視しなければなりません。
これが「汝の観るもの受け継がん」仮相という人間を見ていて愛を受け継いだ者は、未だかつて一人もいませんという事です。
愛眼を開くことを、神眼を開く事とは同じ事です。自分を大愛(無限の生命)だと観るか、それとも人間という仮相を見るかだけのものです。
だからお釈迦様は「外を見るな内を観よ」と。内なるもの(神)なくして外なるものは存在しないと。外は仮相世界で内は実相世界であると。
だから内を観よと。外なる仮相を見るのではなく内なる実相世界のみを観よと。その実相世界を天というのであると。人間の我(偽我)が愛の我(普遍我・宇宙我・大愛・神我)に還る事を天に還るというのであると。
それは愛の大国であるから、愛は汝の内にあるから、即ち、汝の内なる天(神の御国)に還るのであると。本来の我(神我)に還る事であると。
神我は天で、自我は地となっています。天地一体となっています。天地一体とは「神我と自我は一体」という意味です。即ち、自我は仮相・神我は実相となっています。神我は天・自我は地。
ですから外という仮相を見て生きている限り地に這って生きる者、実相に生きる者は天に生きる者、即ち、地に這って生きる者の事を「地獄に生きる者」といい、天(愛)に生きる者の事を「天国に生きる者」と言うのです。
我は天より語るという事は、我は実相より語るという意味です。これを、愛の声。天の声と、言っているのです。
だから愛より語るべきか、肉より語るべきか。という事です。愛より語るは内なる声であると、これを「御言葉(みことば)」というのです。
ですから皆さん方は「私は人間なんです。肉体なんです」と、そんな事を言ってはならないのです。
「私は人間だ」といった瞬間、あなたは自分で自分を偽っていませんか。人間とは本当の自分ですか。偽りの自分ですか。
では、それは誰が誰を偽る事になるのですか。
だから「汝、偽るなかれ。汝、嘘つくなかれ」と言うのです。
どうしてあなたは大愛(久遠我・無限の生命)なのに人間という嘘をつくのですか。「人間は嘘の自分」です。「大愛は真実の自分」です。真実を語るべきですか。嘘をつくべきですか。「嘘に生きる」べきですか。「真実に生きる」べきですか。
あなたが人間として生きているならば、あなたは生涯嘘つきで終わらねばなりません。嘘を言う限り嘘の罪を犯していますので、罪人として生涯を終わらねばなりません。
嘘は罪になりませんか。人間と言った瞬間にあなたは罪人ではありませんか。嘘つきではありませんか。これを「罪人」というのです。
罪を消すには本物を認めなければならないのです。嘘をつかない事です。人間という嘘はつかない事です。あなたは人間ではなくて、愛そのものではありませんか。人間というべきですか。愛というべきですか。
どちらが正しくものをを言っていますか。「私は人間です」という人と「私は愛です」という人と、どちらがどちらが正しく語っているのでしょうか。
だからイエス様は「我は愛なり」(アイアムラブ)と言われたのです。
皆さん方はこの形というものが自分なのか。本質という愛が自分なのか。これを徹底的に識別して行かねばならないのではありませんか。
では、天は何処にありますか。天に還る事を愛に還る。
その愛の大国(内なる神の国・神性意識)に還る事を天国に還るというのです。
愛に生きればそこには一点の悩みも苦しみも、そして病も存在致しません。完全ですからそこには病があるはずがありません。愛は病気になりますか。年を取りますか。死にますか。愛は普遍不滅ではありませんか。
愛の世界に「生・老・病・死」という4つの苦しみがあるのですか。そこには平安しかないのではありませんか。
あなた方はなぜ不安と恐怖に怯えているのですか。愛に生きているからですか。偽我という嘘をついているからですか。その人間に生きているからですか。
人間として生きる限り、あなたには生・老・病・死の4つの苦しみがつきまといます。皆さんの悩みがなくなるためには嘘をつかない事です。嘘の自分に生きない事です。真実の自分に生きるべきなのです。
「大愛」と「人間」とどちらが真実ですか。我は大愛なりと。
愛がなくてどうして人間が存在出来るのですか。
人間一人びとりの本質は、即ち、大愛ではありませんか。
だから愛は一(いつ)にして多神(愛の表現体・神の具現)となるのです。
愛が様々な形を表しているだけではありませんか。愛がなくて形という世界が存在出来るのですか。だから存在の本源は愛であるという事になるのです。存在の本源は神であるのです。
あなたは悟ったら人間になるのですか。愛となるのですか。人間だと思っている人に悟っている人がいるのですか。人間と思っている人の事を迷い人と言いませんか。
大愛(今即天・今即神)だと思っている人の事を悟り人と言いませんか。
これを大悟と言います。あなたは悟ったら愛となるのか人間となるのか。
では自分が迷っているか悟っているか誰が一番良く知っていますか。
迷うも悟るも誰次第ですか。あなたは修行して大愛になるのですか。元々大愛なのですか。大愛になるのには修行が必要なのですか。お金が一円だってかかるのですか。天に還るも宗教次第ですか。お金次第ですか。
それともあなた次第ですか。実相(第一原因・無限者・神・大愛)は天です。仮相(表現体)は地です。天と地という事は実相と仮相は一体という意味です。
(見えるもの見えないもの全てが神・色心不二・色即是空)
それを天地一体と言っているのです。その実相が何処にあるのですか。それは汝の内(宇宙生命・内在の神)ではありませんか。
仮相の自分が実相の自分(大愛)に還る事を天に還ると言うのです。
神我は平安です。
だから「神が平安であるが如くそなたたちも平安であれ」と。
正しい生き方をする事です。皆さん方は正しい生き方をしていないのです。仮相という人間に生きるから苦しいのです。
実相という我(キリスト意識・全一体・愛と調和)に生きるならば苦しい事はあるはずがないのです。
自我に生きる限り、あなたは苦しまねばなりません。自我は楽しいのですか。苦しいのですか。いつも不安と恐怖に怯えているのではありませんか。
苦しみに疲れ果てた人は、もう本来の我に還りましょう。愛の大国に還りましょう。その愛の大国は汝の内にあるのです。
だからあなたは元々愛であり、初めから愛であり、未来永劫に愛なのですが、ただ自分が愛である事を忘れ、人間だと勘違いしているだけなのです。
皆さん方一人びとりが大愛ではありませんか。あなたの中の愛(御霊神霊・大生命)が様々な形を現しているだけなのです。愛がなければ絶対に形という世界は出来ないのです。
(色心不二・色即是空、全てが愛そのもの・愛一元)
『初めに愛ありき』。これが初めに神ありきなのです。その神によって全ては成れりです。神おわすが故に我はおわすのであると。愛おわすが故に我はおわすのであると。だからあなたは愛そのものなのです。
悟ったら愛になります。それは人の道ですか。愛の道ですか。人の道(仮相の道)から外れても構いませんが、愛の道から外れてはなりません。
その大愛の道の事を「大道」といいます。「惟神(かんながら)の道」といいます。
皆さん方が本当にこの人間を、この肉体を我として生きている限り、あなたから悩み苦しみが絶対に無くなる事はありません。迷っている限り悩み苦しみはつきものです。
もう疲れ果てた人、本来の我の愛に還る時が来たのではないでしょうか。天国に入るも入らないも誰次第ですか。還るも還らないも誰次第ですか。
では、救い主は誰ですか。頼れるのは誰ですか。いつ還るのですか。それは今だと思います。あなたは今、即ち、大愛なのです。
今、即ち、「我は愛である」と思えばよいのです。そこから始まるのです。
明日から何年後に修行として愛になるという人がいるのですか。元々愛、今も愛、未来永劫に愛です。これは久遠常在です。これを久遠我といいます。
救世主がこの世におるならば、それはあなたご自身ではありませんか。
唯一の救い主は誰ですか。それはご自分なのです。
「神は自らを助くる者を助く。汝の救いは汝自身なり」であって、決して他人ではありません。
他力信仰ですか。自力信仰ですか。もう騙されている他力の時代は終わったのではないでしょうか。他力的にあなたが救われると思いますか。
あなたを救うのも救わないも己次第です。どうでしょうか。あなたが人間だと思ってあなたが救われますか。
人間だと思っている人の事を「救いがたい人」というのです。
人類救済というのは、物理的に救済が出来るのですか。自我のままでほっておいたら何も為した事にならないのです。その人間を(偽我から)克服させて、大愛(神我)に還す事が唯一の人類救済ではありませんか。
即ち、神我に目覚める事が唯一の人類救済です。外側の救済なんかあるのですか。だから「愛なき行為は無に等しい」という事になります。
皆さん方はこの人類救済というのは「物資で救済できるのだ」というならば、これは偽善的行為というものです。偽善とは偽我で行っている行為の事です。神我で行っているのは真の善です。
善は神我で行うべきですか。偽我で行うべきですか。偽我で善が行えるのですか。その偽我で行っている善の事を「偽善」と言うのです。
ですから皆さん方はそういうもので、あなたの偽我でいくら善い事をしたとしても、あなたに(真の自己に目覚める霊的な)救いは来ないのです。
だから「おお神よ、神よ」と言った所で何の価値もありません。神よ神よと呼ぶことではなくて、その神が何であるかを理解する事ではありませんか。
神は至る所におられますので、あなたの中にも全宇宙にも遍満しておられますので、大声を張り上げて呼ぶ必要があるのですか。
なぜなら、あなたそのものが神ですから
「あなたが言わない前から神は知っておられる」というのはその事です。
だから「神は全てを知り給う」という事になるのです。
あなたの思っている事は、全部、神はお見通しではありませんか。
なぜなら、あなた自身が神であるからです。
では、神に隠せるものがありますか。あなたがそっと隠れて「これは神様に聞こえないように」と言っても、それはお見通しではありませんか。
「これは神様に見られないように」と行っても、それもお見通しではありませんか。それはあなた自身の本質が神であるからです。
ですから「神様!」と大声を張り上げる必要がないのです。天に向かって大声で「神様!」と呼んでいる人は神を知っている人ですか。知らない人ですか。神はあなたと共におられるのです。
自分が何者か知らない者は、外の何処か遠くの彼方に神がおると思っていますから、あの様に大声を張り上げているのではないでしょうか。だから街頭の祈りは禁物です。
「わたしはあなたと共にいます」という事です。神はあなたと共におりますという事です。あなたの心の中での祈り。これは無言の祈りといってあなたは声を出さなくてもよいのです。これが沈黙の祈りというものです。
大声を張り上げる必要はまったくないのです。
もう一つ、祈りについてお話しましょう。真の祈りとは、人間という前提で人間として祈る事ですか。神我で祈る事ですか。「キリストの御名(みな)において祈れ」という事は、「汝の神我より祈れ」という意味です。
神我の祈りは真の祈りで、偽我の祈りは偽りの祈りです。それでは、あなたの祈りは聞き入れられましたか。祈り方に問題があったのですか。
答えに問題があったのですか。偽りのあなたが祈ったのでは偽の祈りになりますので、それは真の祈りにはなりません。
キリストの御名に於いて祈れ。汝の密室にて祈れ。というのは、神我より祈れという意味です。あなたの自我で祈って答えが出ましたか。思い通りの答えが出ましたでしょうか。
祈り力とは「祈りと答えは一つである」という事実の中に存在するのです。
自分と神とは一体である。神の御意志が自分の中で為されるのである。
という深い理解を持って祈ることです。
その事は「神の宿り給うあなたの内なる聖なる中心の中に入るがよい」といわれていますように、汝の密室に入って奥底の真心の中で祈れ、即ち神我(キリスト)より祈れという事なのです。
その「祈りと答えは一つである」という事は、あなたが神我という本来の我、その愛の自分から祈ったとするならば、その祈りと答えは一つになりませんか。
だから皆さんがいくら泣き言を言って自我で祈ろうが、何をしようが、それは無効となるのです。聞き入れられないのです。
真の祈りの答えを出すためには、真の祈り方をしなければなりません。誠の自分で真心から祈らねばなりません。
「神の心」を「真心」といいます。「人間の心」を「偽心」といいます。
偽りの心で祈ったとしてもそれは偽りですから、それは神と波長が合いませんから答えが出るはずがないという事です。
「自我の祈り」は「偽り」の自分です。「偽心」です。
真心は「御心(みこころ)」といって「神の心」です。「神意識」は即ち、「神の心」です。 「肉意識」は「肉の心」となっています。
「あなた」は肉体ですか。「神そのもの」ですか。
愛の心で祈らねば、キリストの御名に於いて祈らねばならないのです。
だから「祈りをする時は全ての者と和解してから祈りなさい」と。
「全ての者と調和してから祈りなさい」と。
あなたが神に祈る時、まず第一に、あなたに不満を持っている人を思い起こし、心の中でその人と和解するのです。
その時初めて、神はあなたの祈りを聞き入れて下さるのです。
心の中で和解して、初めて自由となり許しが得られるのです。
その時初めてあなたの心は真性を現し、愛なる神はあなたを祝福して下さるのです。
なぜなら、あなたの心の中にこそ神の館の入り口への鍵があるのであり、その神の館の中には、諸々の恵みがあなたのために貯えてあるからです。
だが、あなたは決して自分を欺(あざむ)く言葉を、祈りに加えてはならないのです。
それは何にもならないのです。
その様な言葉は神の御国には届かないのです。本気でないもの、感じてもいない事をいうのは祈りではないからです。
本当の祈りは真剣さです。その様な祈りには大きな吸引力があります。祈りの時、真剣である事の重大性を、私はあなた方の心に刻み付けておきたいのです。
不調和は自我です。この世にあなたが一人でも嫌いな人がいたのなら、その人も神ですから、あなたは神を嫌っているという事になるのです。
人を嫌う事は神を嫌う事になり、人の悪口という事は神の悪口をいう事になるのです。
さんざん人の悪口を言いながら「私は信心者で御座います」と。これは偽者です。信心者であるためには、この世の中に一人でも嫌いな人がいてはならないのです。
「神を愛する」という事は「隣人愛の事」ではありませんか。
その「隣人一人びとりが愛の化身」ではありませんか。
その本質は神ではありませんか。隣人を嫌うという事は神を嫌うという事ではありませんか。
ですから、あなたの祈りが聞き入れられるか聞き入れられないかという事は、この世の全てと調和しているかと、愛しているかという事が第一条件ではありませんか。
もし、この世に嫌いな人が一人でもいるならば、あなたは悟っているのですか。迷っているのですか。あなたは悟ったならば全てを愛する者となりませんか。自分を愛する様に他を愛する様になるのではありませんか。
他を愛する事は己を愛する事ではありませんか。
なぜならば、その「本質(根源)は一つしかない」からです。
全ての一(いつ)なるものの現れですから、愛の世界には他人というものはないのです。
他人は存在致しませんので[自他一体]です。
「自他一体」ですので、「全てを愛し通さなければならない」のです。
もし、あなたに好き嫌いがあるならばあなたは自我です。
「あの人は好き。この人は嫌い」というならば、それは単なる自我ではありませんか。
愛の世界に好き嫌いがあると思いますか。しかし皆さん方にはまだあります。非常に好き嫌いの激しい人がおりますが、それは全くの自我です。
神我には好き嫌いがありません。それは絶対なる愛しか無い事をご理解頂きたいと思います。
もう何を観ても愛を観じなければならないのです。だから新しい人、古い人、昔からの付き合いの人、全て同じ様に愛さなければならないのです。
後先がないのです。そういう所もご理解頂かなければならないのです。
今、自分は悟っているか、迷っているかは誰に聞くべきですか。
誰にですか。その「答えはあなたの中に存在している」と思います。
〈ああ、まだまだ私は自我なんだ〉とかを感ずるはずです。神我そのものになっているならば、この世に於いて嫌いな人は一人もいないはずです。
嫌いな人がいる限り、あなたは自我である事を知っておいて下さい。神には好き嫌いというものがありません。絶対なる愛しかないのです。
ですから、絶対なる愛の道から外れてはならないのです。
イエス様は御自分を十字架に架けたローマの兵士の事さえも祈られました。
「この者共の罪を許し給え」と、「知らぬが故に犯した罪を許し給え」と、今、自分を殺そうとする人の為にイエス様は祈られたのです。もし、あなただったらそう出来るかという事です。
例えば、あなたは顔を殴られて、その人を憎まないでいる事が出来るでしょうか。もし、それが出来るなら真の愛です。真の愛の勇者です。
「右の頬を打つ者がいたら左の頬も打たせなさい」と、イエス様はそれぐらいの勇気と愛がなくてはならない事を説かれておられるのです。
これが本当の愛の勇者です。どんな事をされても許す事の出来る自分が、その愛ある心が非常に大切なのです。
許しは愛です。そして愛は許しです。神は偉大なる許しの方ですので、許す事が偉大な勇気、偉大な愛である事を分からなくてはならないのです。
皆さん方は愛をもって許す事により、色々な制約・束縛から開放されるのです。人を許さない事によって、許す愛の勇気がない事によって、自分を束縛しているのです。苦しめているのです。悩んでいるのです。
あなたが人を愛して許す心になった時、真の安らぎと平安があなたの心の中に生まれて来るのです。
自分を汚す者でも、自分を罵る者でも、本当に自分が愛する事が出来た時、あなたは真の勇者となり、真の愛を施している事になるのです。
だから、あなたが誰からどんな悪口を言われようが、復讐しようとか、憎み返そうとか思ってはならないのです。
そういう事をされてもすぐ噛み付く様な人であれば、その人はまだライオンであるという事です。即ち、自我であるという事です。
ライオンとはあなたの肉我の事です。自我の事です。子羊とはあなたの神我の事です。その神我とは自我が戯れる事を、ライオンと子羊が戯れるという意味なのです。あなたの自我はすぐ噛みつきます。
それはライオンよりも早く噛みつきますから、ライオンよりも短気ですから大変恐ろしい動物です。そういう事を皆さん方はよく理解して行かないとならないのです。
お互いの夫婦でさえも、噛み付き合っているのではありませんか。
どうでしょうか。違いますか。それはライオンだからです。
子羊の神我で生きているならば、噛み付き合う夫婦というものは無いと思います。
また、他の誰にも噛みつかないと思います。どうか、もう食ってかからない様にして頂きたいと思います。
ですから、あなたが外部の人から何と非難されようが、批判されようが、
許しと愛があればそれに打ち勝つ事が出来ませんか。
これを「愛の剣(つるぎ)」と言うのです。
愛という剣を持っていれば、この世の全てに打ち勝つのではないでしょうか。
あなたは憎しみの剣を使うべきですか。愛の剣を使うべきですか。
愛のある所に過ちは決してないのです。愛はそれ自身で完全であるからです。その愛に勝てるものがありますか。
愛で克服出来ないものがありますか。
愛さえあれば如何なるものにも打ち勝つ事が出来るという事です。
だから、あなたが明日からどんな人に悪口と言われようが、憎まれようが、決して復讐をしようと思ってはならないのです。
愛の道から外れない為には、愛で通さなければならないのです。
愛そのものの日常生活をしたとするならば、あなた方に苦しみはあるのでしょうか。苦しみは愛から来るのですか。不調和から来るのですか。
多く苦しんでいる人は、多く不調和を持っているという事です。調和の人が苦しむはずがありません。
この私、知花が苦しまない理由は、私は誰から貶されようが、罵られようが、その人を憎み返す事がないからです。これは小さい時からの私の特権でした。私は小さいときから悩みや苦しみがなかったのです。
私は「いいじゃないの、言いたいから言ったのでしょう」としか言いません。
しかし皆さん方は「誰が何と言った!」と聞き耳を立てて、それに憎しみを増幅させようとしてゆきませんか。
悪いことは受け入れるべきですか。聞き流すべきですか。受け入れたら「盛られた毒」を食った事になります。即ち、悪の誘惑に負けた事になるのです。
それを請け合わなかったならば「悪に抗するなかれ」と「悪にあがらう事なかれ」と、その悪に抵抗する必要があるのですか。悪に抗するのですか。悪に抗するなかれですか。
悪に従う必要はありません。
「いいじゃないの」と聞き流せばあなたを害する事も、相手も傷つける事もないのです。
己も傷付けず、相手も傷付けない方法は『許しと愛以外にない』という事です。
これを実行していけば、世の中に苦しむ人は一人もいないという事です。
愛の道から外れるから苦しいのであって、愛の道を押し通していれば、世の中に苦しみなんか存在するはずがないという事です。
もし、あなたが私の話を聞いて嘘だと思うなら実行してみて下さい。
実行しないで「嘘だ、嘘だ」と疑って、一向(いっこう)に愛に生きようとしない人間が世の中に一杯いるのではありませんか。違いますか。
だから、その事をイエス様も「なぜあなたたちは疑うか」と申されているのです。
宇宙の中心より流れ出る愛とは。その宇宙の中心は何処にあるのですか。
それはあなた方の中にあるのです。
宇宙の中心はあなたの中にあり、地球人類全ての中にあるのです。
そこから愛が白光と共に全世界に向けて放流放射されているのです。
それを『愛光』と言うのです。
その愛光は全てのものを愛の癒しでもって抱擁(ほうよう)するのです。
これが神の愛の力です。
『愛に勝る力はない』という事を、『愛は全ての癒し主、全ての救い主である』
ことを、皆さん方は絶対にお忘れにならないで下さい。
どうかその事を強く銘記しておいて下さい。
愛です。全ては愛です。皆さん方が本当の愛の自分というものに目覚めた時、それが実行できる様になるのです。
だからまず第一に「自分とはなんぞや」と、人間なのか、愛なのか。
これを徹底して理解してゆかねばならないという事です。
書紀の言葉
(師は演壇の下の広場に下りられ、最前列の女性を師の元へ招かれた。「後ろを向いて下さい」と、その女性の背中に軽く手を触れられた瞬間、彼女は愛のエネルギーを受け師の方へ引き寄せられてゆく。
もうそれだけで彼女は完全にトランス状態になっているのである。
師が2~3歩後退(あとずさ)りされると、彼女はすでに立っておられない状態で、師から放たれる愛の吸引で師の方へ引き寄せられてゆく。
そして引き付けられる様に師に倒れ込む。師はそれを身体で受け止めながら講話を続けられる)
「愛は吸引力」といって「力」なのです。「愛」は「ものを引き付ける力」ですから、こちらが「愛であれば」、こういう具合に「形という世界を自由自在に操る事が出来る」のです。
これは「愛に勝る力はない」という事で、愛を注ぐ、エネルギーを注ぐ事なのです。
そうしますと、彼女の肉体はこの愛のエネルギーでどんどん柔らかくなってゆくのです。
書紀の言葉
(師に受け止められている彼女の全身はますます柔らかくなり、自分で立っている事が出来ず、師の足元へ崩れ込み、そのままその場で横になってしまうのである。
横たわっている彼女を通じて、師はその強烈な愛のエネルギーを、癒しのエネルギーを、この会場にいる全部の人達に同時に与えられているのである)
だから、自分は人間だ、肉体だと思っていては、この力を絶対に使う事は出来ないのです。
愛になったら皆さんは病気になるのですか。愛のエネルギーです。神性エネルギーです。愛のエネルギーは癒しのエネルギーです。
二千年前にイエス様が多くの病人を癒されたエネルギーが、今、皆さんにお見せしたこのエネルギーだったのです。
不調和のエネルギーというものはあるのですか。愛のエネルギーしか、神性エネルギーしかないのです。それが癒しのエネルギーです。
だから皆さん方も、せっかく持っている愛のエネルギーを出し惜しみする事なく、有効に人の為に働かせたら如何でしょうか。
この愛は使ったら減るものでしょうか。愛は使えば使うほど多くなるもので、決して減るものではありません。
一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人へと、その様に何人というのではなく、全てを愛したら如何でしょうか。
これが真の意味の『全(また)き愛』ではありませんか。
この神の愛は差別ですか。無差別の愛ですか。所得ですか。無所得ですか。
神の愛は善人にも、悪人にも、平等に注がれていませんか。愛を宿さない悪人というものはいるのですか。悪人でさえも愛の現れではありませんか。
悪人の本質は愛なのです。この世の中に愛を宿さないものは一物もないという事です。だから神の愛は無差別であると、無所得であるというのです。
それは無限大の愛ですから、それを使ったら減るのでしょうか。
使えば使うだけ多くなるのが愛なのです。
だから「愛は求め得るものではなくて与えるものである」という事になりませんか。
愛を得ようとする者は愛を失い、愛を放つ者は愛を得ます。ですから、あなた方は乞食みたいに人の愛を貰おうとする前に、人に愛を注いだらそうでしょうか。「私に愛を下さい」というのですか。
愛を与える事ですか。愛は貰うべきものでしょうか。与えるべきものでしょうか。愛は与えるべきものなのです。
その愛は無尽蔵(むじんぞう)ですから、与えても与えても決して減る事はありません。だから多く愛しなさいと、隣人愛をしなさいと言うのです。
自分の都合のいい人だけを愛したとして、それは愛にはなりません。これは差別の愛ですからこの愛の事を「盲愛」といいます。
真の愛は差別いたしません。都合が良かろうが悪かろうが神は全てに愛を注いで下さっていますので、私達も都合のいい人悪い人全てに愛を尽くさなねばならないという事です。
これが神の道です。これ以外に神の道はありません。
もし、この世に宗教というものがあるならば、それは愛の宗教だけではありませんか。なぜかといいますと、「愛以外何も無い」からです。愛以外の宗教があるならば、それは宗教ではないという事です。
もし、今からの21世紀の宗教があるとすれば、世界一つの愛の宗教しかないと思います。愛以外の宗教が合ってはならないのです。何故ならば、愛以外の宗教は宗教ではないからです。
「愛以外何も無いからである」と言えませんか。それは神理の実践、即ち、愛の実践ではありませんか。どんなに憎まれても、悪口を言われても、その人を許して愛する事が誠の神理の実践ではないでしょうか。
避難したり、批判したり、恨んだり、憎んだりしないように、許しと愛に生きる事が誠の愛の実践、即ち、神理の実践だと思います。
それを行う事によって、皆さん方は身も心も健康になるのではないでしょうか。それ外に皆さんの救いの道はありますか。
だから何を言われても悪を食うか食わないか、その誘惑に負けないように気を付けて頂きたいと思います。
悪を悪で克服した試しはありません。争いで争いが無くなりますか。闘争は何処までも闘争です。それを無くするのには愛しかないのではありませんか。世の中の闘争を無くする為には、愛をもってくればいいと思います。
敗北あれば勝利ありと、勝利あれば敗北ありと、敗北と勝利の苦い思いを、善悪の世界をさまよわねばなりません。戦う者は敗北者です。戦わぬ事が肝心(かんじん)です。
これが「負けるが勝ち」という事です。皆さん方は負けたつもりが勝っているのではありませんか。何か文句を言われた時負けておればいいのです。
負けていれば勝っているのです。勝とうとするから負けるのです。
どうでしょうか。闘争で闘争を無くする事が出来ますか。愛しか無いと思います。
許しと愛があれば如何なるものにも打ち勝つ事が出来ます。
ですから、愛の実践、これに勝さる力はないと。これを徹底して日常生活で生かしてゆく事が誠の神理の実践であると。
これ以外に修行があった例(ためし)はないという事です。
修行とは愛に生きる事です。これ以外に修行があるはずがないという事です。
不調和だらけの人間が頭を剃って滝行に打たれても、それは何の変化も、何の変哲もありません。変哲があるのはあなたの日常生活が愛の生活であるという事です。
その所をよく理解して頂いて、今までの自分の生き方は正しかったか、正しくなかったかと、これを見極めて、今からの生活を「愛という一点張り」で押し通してゆかなければならないのではありませんか。
それ以外に道はありますか。道は唯一つ、それは愛の道だと思います。
それ以外に道はない。
だから「我は道なり」と「我は愛なり」と、その愛の道から脱線しないようにしなければなりません。
愛の道から脱線している者は、神の道から脱線した者であるとお考えになって結構です。愛の道から外れれば苦しむだけではありませんか。
だから『私に添いなさい』と。「私に添いなさい」という事は
「愛に添って生きなさい」という事なのです。
それを実行して、実践して、日々の生活の中で愛があります事をお祈り申し上げます。
それこそ皆さんの健康を幸せを生み出す、唯一の秘訣であり鍵だと私は思います。
いくらあなたが健康食だ無農薬食だと頂いても、争う限り、不調和である限り、それこそ幸せも健康も訪れません。
なぜ人類は病気になるかといいますと、それは不調和で生きるからです。
不調和な心が起こった時、あなたの体内で化学変化が起こります。
細胞が酸化してくるのです。それが病の原因となっています。
その健康を維持するためには愛の道しかないのだと、
幸せを維持するには愛の道しかないのだと、これを徹底して実行して頂いて
「為すべき道は己しにしかない」と、この道を一生懸命歩むこと。
これ以外に道はないという事です。
もう皆さん方は愛についてご理解頂けたと思います。今、実際にそれを実践している私もその一人です。誰から文句を言われようと、罵られようが、その人を憎み返すという思いが全くありません。
ですから、健康を維持し幸せを維持する事の体験者が申し上げているわけですから、皆さん方のそれを体験して頂ければ「成る程、知花の言っている事は嘘ではなかった」という事を体験しご理解頂ける事と思います。
これを実行した時、愛ある所に光があり、光あるところ愛があります。その時皆さん一人びとりは光の住民となります。
愛という光は永遠に消えない聖なる火です。これは全ての国民(くにたみ)の光、全世界を照らす光です。その愛の光に満たされて、皆さん方の日常生活を歩めば決して躓(つまづ)く事はありません。
人生の躓きはないという事。その時皆さんの為す事する事、全てがうまくゆくという事です。その愛でもって為せば、うまく行かないものはこの世の中にはないという事を、自信を持って申し上げたいと思います。
言うこと、為す事、全てその通り実現されます。
なぜならば、それは神の御心に通じたからであると。
皆さん方の不調和の心は神の道には通じませんので、波長が合いませんから、是非、愛という波長に合わせて日常生活を行えば、あなた方の思い通りの人生が歩める事を断言いたします。また、それを保証いたします。
是非、実行して頂きたいと思います。
皆さん方の元に、「神の愛と平安」が留まります事をお祈りいたします。
あとがき 編者
闇とは人間が造り出した心の影の事です。だからこの闇を恐れてはならないのです。私達にはその闇に打ち勝つ力、即ち、愛を持たされているからです。
神は光です。愛は光です。「自分が闇に打ち勝つ光である」という事を、こうしてこの書を読む事によって理解する事が出来、悟る事が出来るからです。正しい信仰を持つ事が出来るからです。そして、それを実践する事が出来るからです。
その事を筆者(知花先生)は「愛に勝さる力はありません。愛は神であり、神は愛であるからです」と申されているのです。
闇は光を理解する事は出来ません。光のみが理解するからです。それを理解するのは光であって闇は理解しないのです。闇の中へ光が入れば、闇は瞬間に消されてしまうからです。光ある所必ず闇は消えるのです。
だから、光である愛を顕(あらわ)せばよいのです。そうすれば人類が救われます。それは地球が救われるという事になるのです。
そして、人類が救われ、地球が救われるという事は、銀河系宇宙の調和に繋がり、それが無限宇宙の調和につながるという事になるのです。
何故ならば、人間は小宇宙といわれるが如く大宇宙と一体であり、その無限なる大宇宙こそが、ただお一人なる父なる神の御神体そのものであるからです。
だから『今というこの時』、私達は何を想い、何を悟り、何を為すべきか。それは私達が愛を想い、愛を語り、愛の行為をせねばならないのです。そのために本書著者がこの世に出て来ておられるのです。
そのために神の道を、愛の道を示しておられるのです。そして、そのためにこの書を著(あらわ)しておられるのです。
「我は初めから愛であり、今も愛であり、未来永劫愛である」といいます。それは単なる口先だけの言葉ではなく、親切により、愛により、理解によって『本物の自分』に目覚め、『愛と調和』に目覚め、それを世に顕す事が、この世で生かされている私達人間の使命だと思うのです。
著者[知花敏彦師]は、私達に愛の道をお示し下さいました。その道を歩むのは私達自身です。今すぐにでも歩む事が出来るのです。愛の道標(みちしるべ)を記して下さっているからです。
知花敏彦師が付けられた足跡に従えばよいのです。その道を自分自身の理解力でもって歩むのです。私達には何人も触れる事の出来ない自由意志というものを、神から与えられているからです。
そして、一人でも多くの人々が神の愛に目覚め、神の御心を受け継ぐ者となり、この地球が、愛の光に満たされます事を願ってやみません。
どうかこの本が広く世の人々に行き渡りますように、そして、そこに愛の火が灯(とも)りますようにお祈りいたします。
この編集を通して、真のキリスト伝導者[知花敏彦師]のお手伝いをさせて頂く事が出来ました事は、編者として大いなる心の喜びと感謝致します。 そして、この仕事をお与え下さいました父なる神に心より感謝申し上げます。
あなたの御名(みな)が崇められますように
あなたの天国(みくに)が来ますように
あなたの御意志(みこころ)が天におけるように地にも行われますように
彼方からのぬくもり ~聖なる母性より愛をこめて~ からの引用ですが・・・♬
大いなる自己 姫之宮亜美さん
私たちには、光り輝く神聖が宿されています。その神性とはよく『大いなる自己(内なる神・真我)』と呼ばれていますね。
あらゆる次元を超えて、天の愛の次元まで大きく広がっている光の自分自身です。この大いなる自己の「大いなる」という言葉の深さは、多分私たちの想像を遥かに超えているのです。
私達のご先祖様とお呼びしている、信じられないほどの数のスピリットさん達は皆、私達より先に降りて、それぞれの与えられた人生の中で魂を磨く旅をしていました。そして、実は私達は、このご先祖様の生まれ変わりでもあるのです。
それぞれの時代を生きてきたご先祖様もまた、大いなる自己に導かれて、魂の学びをしていました。つまり、当たり前ですがご先祖様にも大いなる自己があったのです。ご先祖様が何千人、何万人いらっしゃろうと、私達は皆、この大いなる自己によって一つに繋がっています。
私達が今、自分個人だと思っている個性のある心さん(魂)は、この大いなる自己の一側面、一部分なのですね。そしてその大いなる自己のさらに違う側面がお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんであり、おばあちゃんでもあります。
つまり、ご両親を含めたご先祖代々様とは、自分の大いなる自己の別な側面でもあるわけです。お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、そしてお顔すら知らないずっと先のご先祖様も、皆大いなる自己の一部、大きく広がったあなた自身の一部なのです。
お父さんの怒りは、自分でも気がつかない自分の内部の怒り、お母さんの傷みは自分の内部の傷み、ご先祖様の苦しみは自分の内部の苦しみなのです。全てが自分の魂を映す鏡の一部なのですね。
心で通じ合う宇宙
皆さんは、霊界というと、どこか遠いところにあるように思ってしまうかもしれません。でも、霊界はいつも私達と共にあり、周波数が違うだけなのです。
例えば”心”は存在しますが、目には見えませんね。それと同じで、霊界とは私達の”心”や”意識界”と同じ次元のものなのです。
私達の心の次元は、そのままご先祖霊界さんと通じています。ご先祖様方とは大きい自分自身のことですから、そんな魂さんたちが優しい次元の霊界に数多くいらっしゃるほど、自分の元にその霊界の空気が伝わってきます。
つまり、ご先祖様と呼ばれる魂さん達がたくさん朗らかな宇宙にいらっしゃれば、肉体を持っている今を生きる子孫の心には、その世界のほのぼの感が流れ出してくるのです。
背景の霊界がほのぼのすると、生きている私達の心もほのぼのと温かくなるので、神様の心がどんどん表に出てくるのですね。澄んでいて気持ちのいい心(霊界さん)がどんどん溢れてくるようになります。
自分の内側が気持ちいいと、気持ちの良い波動が出ますから、さらに心地のいいものを引き寄せ始めます。だから、運が良くなってくるのです。内側が澄んでいるから、何かに気づくことも易しくなりますし、何より天の愛と同調する優しさが出てきます。
また、霊界が澄んでいると、天の愛が遮られることなく、スーッと届いてきます。素晴らしいアイデアや閃き、そして守護力などが気持ち良く流れ込んで来るので、魂が強くなってくるのですね。
ご先祖様もかつては、私達と同じ地上生活を送っていたのですから、今の私達と同様、迷うことも寂しくなることもあったでしょう。自分の光に気づけず、迷い続けたまま一生を終えてしまった方もいらしたかも知れません。
地上で生活している間には、色々な生き方が選択できますから、一生懸命、善意を持って生きる人もいれば、善意など考えたこともないという一生を生きる人もいます。
なぜ生まれてきたかを追求し、その答えを掴みたいと大切に生きている人も言えれば、何もかも面倒くさいと惰性で生きている人もいます。天と真心で通じて、キラキラと輝いて生きる人もいれば、天に背を向ける人もいる。
肉体に宿っている間なら、愛のない選択をしたり、光のない考え方をしていても生きられるかも知れません。でも、肉体を脱ぎ捨ててしまうと、その人の心そのものが、その人の住む世界(霊界)になってしまいます。それで、天への還り方がわからなくなる魂さんがいるのです。
バイク事故で亡くなった少年の霊を救ったお話
霊は心のバイブレーションのお姿です。それを示す私の体験を一つ分かち合いましょう。ある日の夜中、私は不思議な気配に目を覚ましました。耳の奥というか、頭の奥にツーン、ビリビリという音が鳴り響いていたのです。
それは一生のテレパシーでしたから、私はまだ横になったまま、「ああ、誰かが私にコンタクトしたがっているんだな。」と思いました。
すると、誰かがスッと私の頭を両手で包み込んだのです。とたんに、耳をつんざくようなバイクの音がしました。きっとバイクの事故で帰天した男の子だなと思いました。
私は身を起して座り直し、自分の霊的中枢から、その男の子に話しかけてみました。「どうしたの? 私に何を話したいの?」
次の瞬間、私の内にその人の意志が伝わってきました。
「自分は真だったってわかってるんだけど、母親がさ、泣きすぎてて・・・。ボク、縛られて苦しくて行けないんだ。あんたなら何とか出来るんじゃないかと思って・・・。」
15歳くらいの少年でした。私はニコッと微笑んでこう答えました。
「そうなの。大丈夫、もちろん応援してあげますよ。お母さんはどっちの方向にいるの?」
男の子は一つの方向を指しました。霊的感性には色々あって、私自身は特に巫女的な資質がとても強いので、私の霊性の中へ御霊(みたま)にお越し頂いてお話をするのですが、この時も彼が私の霊性の中にいらっしゃったのです。
「いい? 私と同じようにやるのよ。」というと、「うん」と少年は素直に従います。私は自分自身を感じ、あらゆるものの暖かさに感謝をしました。
すると、私の霊性が感謝によって、徐々に温かくなります。感謝という響きに、私自身が打ち震えていたのです。
魂(霊)は準備さえ出来ていれば、一つの波動に共鳴します。だから私に心を開いてくれた彼も、その「ありがとう」に共鳴し始めました。
「さあ、こうやるんですよ。この感覚を十分に感じながらこう言うの。
『お母さん。今日まで育ててくれてありがとう。
お母さん、悲しませてごめんね』
心が温かくなるように言うのよ」
彼は私を真似て合唱すると、泣きながら同じ言葉を言いました。その言葉を聞いていると、私の霊性も温かくなるくらい彼の言葉にはとても心がこもっていました。
すると、それまで幽体だった彼のカタチがスーッと美しい光の響きに変わりました。「ありがとう」という意志を残して、彼は天に昇っていったのです。
この場合は、決してお母さんの念が彼を縛っていたわけでなく、その念がとても強く届いた時に、少年の方がお母さんを傷つけてしまったことに罪悪感を持ち、自分のその想いに縛られていたのです。
だから私は、彼の中の純粋な神性の部分の鏡になってあげたのです。罪悪感のその奥の、彼の良心(神性)をエネルギーとして映し出してあげたのです。そう、やっぱりここでも、愛と感謝なんですね。
繰り返しになりますが、感謝は天の波動なのです。ですから、そういう気持ちが出てきて心が暖かくなると、すでにその波動は幽界ではなく、天界の温かみなのです。
ただただ感謝すること。それだけで、天の愛に共鳴する波動が出てきて、自ずと天に同調し、スーッとその世界のバイブレーションになってしまうわけなのです。これが、いわゆる昇天です。
多くの人々は、迷っている霊を浄化し昇天に導くのに、例えば私のような立場の者が、普通の人にない強い力を使ってそれをしているのだと思われるようです。見た目そう見えることもあるかもしれませんが、本当は違うのです。
その人(霊)を神(天)に還すのは、その人自身の神性のみなのです。
他の何人(なんびと)もそれに代わることはできません。
その人が、自分も神性を持っているんだ、自分の中にも愛があったんだと気づけるように、その人の内なる神の光が安心して表に出てきやすい様に、お手伝いしてあげるだけなのですね。
人が愛という光明を発揮出来るようになるためには、温かく愛されることが必要です。愛されて大事にされると、魂というものは自分を粗末にはしなくなる。いえ、できなくなるのです。自分の中のかけがえのない資質が共鳴して表に出てくるからです。
愛されたから、その愛に涙し、痛みを与えることが出来なくなる。そして、愛が揺り動かされて溢れ出すから、自ずと愛したくなってしまう・・・。
「愛する、感謝する」という神の心が表に出てくるわけです。即ち、自分を天に導くのは、自分の中に芽生えたその振動(愛のエネルギー)だけなのです。
大切なのは、自分も他の人も、そして迷子の霊さんも、大きな神様に愛された美しい霊なのだということを、しっかり受け止めることなのです。
■実験木さんからのテレパシーと実験者テスト
---太陽は黄金の国だ。ピラミッドの地下には黄金が埋めてある
三上 西洋の子供達は太陽を黄色く描くということは聞いていましたが、今にして思えば黄色の方が本当だと思います。黄色といえば黄金に繋がりますが、まさか太陽は黄金の国ではないでしょうね。
木 そうだね、あなたも頭の回転が今頃少しは良くなったようだね。実はそのまさかなんだ。太陽は全体に黄金、すなわち純度の高い金だ。それに銀が多いのだ。
地球を衛星写真でテストしてごらん。鉄反応が出るよ。小さな磁石をサンプルに使ってみることだ。磁石の反応もでるよ。月もやってごらん。何が反応するか、どんな金属かすぐわかることだ。
今は太陽の話だからその話に戻ろう。
太陽に金と銀が多いということは、物凄いエネルギー源に繋がるわけだ。あなたも知っていることだと思うが、金は金属の内で最高に電気をよく通す。いわゆる通電率が高いわけだ。
ついで銀だ。その金と銀が沢山あればどうなると思うね。
金と銀に電位差があることは知っているね。その電位差が問題だね。太陽の回転運動は金と銀の電位差によって、強力な電流を生ずることになる。これがいわゆる太陽エネルギーなんだ。
莫大な金と莫大な銀の間に流れる電流はすごいものだ。これにより金銀による強力にして特殊な電磁場が出来て、使用の惑星空間に金銀による特殊電磁波を放射しているんだ。
太陽が黄色に見えるわけもそこにあるわけだ。
紀元前3000年もの昔に、エジプト王は”黄金の王”自ら名乗ったというが、彼らの太古の昔、すでに太陽は黄金の国であることを知っていたわけだ。
だから、太陽を崇め、太陽神としての宗教が生まれたわけだ。
ピラミッドも太陽との交信に使ったんだ。王をピラミッドの中に葬ったのは、亡くなった王が太陽に転生して、地球との交信のためと考えられる。
その証拠にはピラミッドの底辺(幻室のある所)には金板が埋めてある。これはピラミッドの写真でテストしてみれば分かることだ。
ピラミッドの下に金板が埋めてることは、太陽の金銀エネルギーと同調させ、ピラミッドの尖頭をアンテナにして交信するためのものなんだ。
巨大な造りといい、太陽との交信原理といい、何世紀も経た今日までとても及びもつかない壮挙を太古の人類が既に成し遂げていたとは、素晴らしいことではないか。彼らの偉業を想起して、あなたも頑張るんだね。
三上 有難うございました。太陽エネルギーとは何か。ピラミッドの関係等、貴重な勉強をさせて頂きました。
結果 太陽から金と銀の反応が出たことを確認する。 地球の写真からは鉄反応を確認、月にはプラチナ反応を得た。
「私が開発した永久発電装置の公開をしたい」との申し出でがあり、全員注目する中で奇妙な永久磁石が提示された。
それは本来の磁石と見かけは全く同じなのだが、両極にNまたはSが記されていて、その中間に反磁極が記されている、その時点で出席者一同はフリーズした。簡単に言うと単極磁石(モノポールマグネット)と同等の効果を示すものである。
しかも、これは超低温化でのみ実現するリニアモーター用の電磁石と同じ作用が常温化で可能であるという画期的な磁石……、説明を聞きながらそれぞれが手にし、ある人などは持つ手がふるえてさえいた。
驚きはそれだけでは済まなかった、次にテーブルに置かれたものに一同絶句。夜店の屋台で売られているような、玩具の招き猫である。
その横にこれまた、一辺が10センチ四方の透明なプラスチックの箱が二個置かれている。子供の理科の実験装置の様なもので、「エッ! これが永久発電装置!」と拍子抜けをした人もいた。
しかし、片方の箱に入れられた備長炭」に電極がつけられ、もう片方には電極となる金属プレートとフェライトが入れられているだけである。
【別の話です♪】
「私の車は11年落ちなのですが、いたってスムーズでパワフルな走りでしょう。それは私の発明品を使用しているからです。
こうすると部品が摩耗しにくいので、車は何年でも使うことができるようになる。すべての必要部分に適用すれば、燃費も5分の1になるのです。
エンジンオイルがまったくないのに、壊れずに走った例もあるくらいですから(笑)」これはたいへんな驚愕的事実だ。
エコロジーに対する意識が高まっている昨今、燃費が5%下がるだけでも企業は大々的に広告宣伝をするくらいなのに、それが80%下がり、耐用年数が大きく延びるというのだから、もし世界中の内燃エンジンに採用されれば、宇宙船地球号というフレーズでおなじみの、バックミンスターフラー博士が提唱したバッキー理論のように、これだけでもエネルギー革命に匹敵する力を持つかもしれない。
実際、名古屋万博においてそのような発明品の一つを自動車販売店とタイアップで出展する予定だったそうだが、そのインパクトの大きさゆえに、イル○○ティからの忠告があり、取りやめたのである。
なぜならそれが、既存の産業モデルに大きな打撃を与えるものだったからだ。万博は本来、そのような革新的技術やアイディアを公開する場のはずだが、それを好まない勢力があるということを意味している。
きっとこれまでも、そうした圧力めいたものや、葛藤があったに違いない。時折、T先生はこれを話して良いものかというそぶりで、しばらく思案してから話されることがあった。
長寿の秘訣
病気というのは、その人の体質で決まる。がんならガンの体質、糖尿は糖尿の体質がある。その体質を変えないと、がんならがんがあちこちに現れる。
食事と同時に、心の怒りがアルカリを酸性に変えてしまう。
したがって怒りっぽい人で長生きする人は殆どいない。
長生きしている人の話を聞いてみると、殆どの人が、好き嫌いを言わず腹八分。さらに日常のことにクヨクヨしないと言っている。
今やストレスからいかに逃げるかが長寿の秘訣といっても過言ではない。
私の不思議な神秘体験
いつのまにか神霊治療ができるようになった
私が最初にフィリピンに行ったのは肺がんの治療のためだが、それ以来もう30回以上フィリピンに行っている。私にとってフィリピンは始めて行った時から相性が良いというか、素晴らしい気分にさせてくれる所だった。
たとえば、瞑想して、太陽を仰いでいると、それだけで大空の中に自分の意識がサーッと上昇するような気分になる。”宇宙即我” という言葉があるが、その言葉が実感として分かるのである。
私はこれは素晴らしい境地ではないかと思うようになっていった。元々私は田舎育ちで、太陽を拝むのが非常に好きだった。ことに高橋信次先生に出会って、先生に言われて以来、私の家から仏壇以外は全て取り払ってしまった。
そうなると、拝む対象がないと何となく寂しい。そこで思い出したのが、私が子供の頃、農家の人が毎朝柏手を打って太陽を拝んでいたことである。
そこで私は毎朝太陽を拝むことにしたのである。やってみると、これが非常に気持ちがいい。例えばヒステリーの人などもこれをやるだけでいいのではないかと思う。それほど爽快な気分になれるのである。
特にフィリピンのバギオで太陽の光を浴びている時、次のような体験もさせられたのである。
例えばある時は、二千年程前の私の過去世の意識が突如出てきた。
この時は古代エジプトの美しい田園風景が浮かび、樹木や家々の周囲にある田んぼでは、ファラオであろうと誰であろうと一日中働いている。彼等は非常に調和と安らぎのある日々を送っている。
朝夕太陽を拝み、謙虚な日々を送っている意識が出てきたのである。その状況も鮮明に現れていた。私が太陽を拝むのが好きな理由もそれでわかったような気がしたものである。
さらにある時は、紫色の文字が大空に現れてきたこともある。その文字は”公”という字だったりする。その時の私の判断は、これは何事も”私”の感情を交えず公平に判断を下せということではないかというものだった。
そういう意味でも私にとってフィリピンという国は、今や私の第二の故郷の様なものになっている。そして私は、このフィリピンで神霊治療を受けているうちに、自らその能力を持つようになったのである。
これまで私は、何事も独学でマスターしてきた。例えばゴルフ場の設計、造成、工事監督等々、すべて見たり聞いたりして覚えたもので指導者についたわけではない。この神霊治療もそうである。
私と一緒に日本から行った人の中には、治療ではなく神霊治療をマスターするために行った人もいる。そういう人は、ナナパスさんや助手の人か病気の直し方を習っている。ナナパスさんは私の患部に光を当てて一生懸命やっている。
私自身には何も教えてくれない。しかし私は、ナナパスさんや他のヒーラーの方法を表現は悪いが盗み取りしている。そうして後で自分一人になった時に、神に祈ってからナナパスさんのやり方をまねていると、勝手に私の手がサーッと動いていく。それが治療になるのである。
フィリピンのヒーラーは、治療を始める前にかならず神に祈りを捧げる。
例えば前述したサンティエ先生は、「アイ・ラブ・ゴッド」と言っていた。そうするとその瞬間にサンティエ先生の手はビリビリ反応が起きている。それは強烈なものだった。
フィリピンでの不思議な出来事
私がこれからここで書くことは、実際に体験したことである。私が最初にこういう事をかくのは、その体験があまりにも神憑り的なものなので、普通の人には容易に信じることが出来ないものだろうと思うからである。
私自身、高橋信次先生との出会いにより、色々な現象を見せられていなければ信じることができなかったであろう。
私は昭和61年の6月、数人のメンバーとフィリピンのバギオに向かった。その時、ロザレスにある小さなバンガローのような教会で素晴らしいものを見せられたのである。
私が例によって水で身を清めて、その粗末な教会で祈っていると、突然半月状のピカッとした三日月のようなものが出始めたのである。その色たるやきらめくような金色である。その右側にダビデの星がくっきり出ていた。
ダビデはイスラエル統一王国第二代の王、ダビデ王朝の創始者と言われている。ソロモンの父で、人間的弱さを持ちながらも、その信仰の深さゆえにメシア(救世主)の原型とされている人物である。
私が心から驚嘆すると同時に、今更のようにフィリピンの磁場の強さに驚かされた。この翌日は、私はメンバーの原さんに紹介されたエミリオさんに会うために、セブ島に向かった。
エミリオさんの住んでいる部屋は、本当に小さなもので、片隅に治療代がポツンと置かれてあるのが目立つ、何の変哲もないものだった。
ただ私の目を引いたのは、その部屋の隅の天井の方に、キリストの幼児の頃のお人形がガラスケースに入っていたことである。そのエミリオさんの治療法は、メスを直接使って、晴れている患部を切開し、中の膿や悪い血を全部出して治すというものである。
切開するといっても、日本と違って麻酔もかけなければ、手術後もバンソウコウをぼんと貼って終わりという、至って簡単なものである。
私が帰る前日に、他の島から、乳ガンが悪化し、日本なら到底手術もできないと思われる人が治療所にやって来た。
この人は、粗末なベッドに横たわって、小さな声でお祈りを唱えている。前にもかいたが、フィリピンの人は非常に敬虔なクリスチャンが多い。
そしていよいよ手術が始まったのだが、その手術たるや、やたらに突きまくる。切りまくるという感じで、患部は血まみれ状態、見ていてこれは助からないのではと思ったくらいである。
手術の最中は、その部屋にいる全員が一生懸命お祈りをして、手術が無事終わることを神に祈願している。そして結果的には手術も無事終わって、その患者は助かったのである。
私は部屋の隅にある木の椅子に座ってぼーっとしていたが、自分の守護霊に、エミリオさんの過去世を尋ねた所、「※ジーザス」という。
(※イエス様の類魂(分魂)という意味なのでしょうか...?きっと大きな役割があって生まれてきたの次元の高い魂の方なのでしょうね)
エミリオさんが治療をやる時見ていると、左上方に像が2つ出て、その後から十字架が出てきた。私はそれを不思議なことがあると思って見ていたが、守護霊から「ジーザス」という言葉を聞いて納得できたのである。
私はこのセブ島で色々なものを見せられた。例えば、私はホテルの七階に泊まって、することもないので朝晩瞑想をしていた。瞑想を初めてしばらくすると、真っ青な南の空の中にピラミッドの形をした線が出来た。
そして宇宙の神のエネルギーの様な粒子が空いっぱいに降り注いでいるのが見えたのである。さらにその翌日、やはり瞑想していると、今度は空いっぱいに紫がかった十字架が現れてきた。
その十字架は巨大なもので、ホテルの際(きわ)から、空いっぱいにそそり立っている。その十字架の中央には、黄金の光がある。気が付くと空の色も変わり、キラキラしている。そして、その十字架の上に丸い日輪が見えてきたのだった。
その日輪というのは、その前日に海水浴に行った時、川辺で見たものと同じだった私達は、その日、エミリオ先生を交えて、泳ぎに行った。
フィリピンの海水浴というのは、海岸はみな金持ちが押さえてしまって、全て有料になっている。そこで貧しい人達は、近くの川で泳ぐ。それを海水浴と称している。
私達も金を払うのはしいので、川で泳いだ。
私はその時にも日輪を見ている。それはどういうことかというと、私がひと泳ぎして、川の縁(へり)にある気にもたれて、みんなと話をしている時に、ふとこの光景は、インド時代というより、エジプトの過去世の光景と同じだなあと思って、その景色を眺めていた。
するとだんだん目が森の上の方に上がってきて、さらに上がると太陽の周囲を囲むように丸い日輪が出ていたのである。それは全部見えるのではなく、雲があるので、一部分が見えるのだが、それでも綺麗な虹が見えたのである。
さらに、その大手術のあった日、昼から三時頃まで休憩な時間があった。私が一旦ホテルに帰ってお祈りをした時、十字架の中に黄金に光り輝く仏陀が現れたのである。
その仏陀は、私のために、調和や安らぎ、慈悲などを祈ってくれた。私にとってそれは、大変な感激であった。それ以来、日本に帰ってからも仏陀はしばしば現れるようになった。
私にとって、このセブ島行きが大きな霊的転換点となった。さらにそのセブ島で、私は日本から一緒に行ったある大学の講師を媒体として、天上界から黄金の指揮刀を与えられたことも特筆すべきことだった。
こう書いてくると、あまりにも神がかり的なことばかりなので、どれだけ信じて漏れるか不安だが、全て事実なので、あえて書き出した次第である。
私の神霊治療の効果
こうして私はフィリピンで神霊治療を体験している内に、自分でもそれが出来ることが分かってきた。私のやり方は、まず主の祈りを捧げる。これを唱えている内に心が無の状態になってくる。そのうち手がバーッと熱くなる。
私はこの主の祈りを5回やってから、相手の為に祈って治療を始める。そうすると、勝手に手が動き始める。これはもう自分の意思ではない。ちょうど「コックリさん」の様なものである。
私は、フィリピンの神霊治療以前に、宮崎の清山先生から手ほどきを受けた※精気応用円循環法、また高橋信次先生の講習会で教えられた※光の当て方も知っているという下地がある。
(※ご著書に詳しく方法が記載してあります)
この高橋先生の白浜の講習会で教えられた方法というのは、手を直接患部に当てずに1センチほど離し、呼吸を吸う時に頭上から天上界の光を入れて、吐く時に掌(てのひら)から光を出すというものである。
私はこれまでに、この神霊治療で、医療から見放された人を何人か治療している。例えば、50歳ぐらいの奥さんで栃木県大田原氏浅香の橋本トミイさんという方は、股関節に異常をきたし、家の中でも杖をつかないと歩けない。
しかも激しい痛みを伴うために大変苦しんでいた。もちろん、医者にも通ったがどうしても治らない。私と一緒にバギオからヒーラーが治療のために何人かやって来が、それでも治らなかった。
ある時バギオからヒーラーが治療のために何人かやって来た。治療書を貸してくれと言うので、うちのゴルフ場を課した時に、その橋本さんも治療を受けに来た。
私がヒーラーの治療を見ていると、日本人の霊能者で原さんという方が、「社長のパワーは強いから皆にやって下さい」という。
私はその時に橋本さんを治療したが、パンパンに膨らんでいたものが半分ぐらいになった。それでその後本格的に治療を始めたわけである。
こんなことを書くと神がかり的になるが、私の守護霊は、3回ほど治療すれば治ると教えてくれた。
そこで私が、八重洲富士屋ホテルに部屋を取ってもらって橋本さんの治療を初めたのである。その時橋本さん以外に、橋本さんの親戚の人が2人来た。3人は、富士屋ホテルに二泊三日して、その間私は3回治療した。
その結果、橋本さんは帰るときには杖を使わずに歩けるようになっていた。私はその時、一緒に来た親戚の2人も治療したが、一人の女声には狐が憑依していた。その人は何も病気はないということだったが、顔色がどうも良くない。
ところが治療をしている内に、頭の上に青白い光が出て、おかしいなと思っているうちに狐が出てきた。 私はそこで、フィリピンの教会で瞑想中に出てきた私の中国時代の過去世(後述)の意識の経分の一部を唱え、天上界の光をかざし、ヤーッと十字を切ったらすっ飛んでしまった。
その途端に青ざめた顔がパーっと明るくなり、ニコニコした笑顔で治ってしまったということもあった。結局、橋本さんは、その富士屋ホテルの3回の治療だけで完治し、今では家の仕事を一生懸命やっているということである。
この人以外にも、植物人間の状態で、医者もとっくに見放している男の人も、毎月一回治療している。最初に始めてから今年(平成3年)の5月で丸2年が経っている。最初は首も動かせず、口も利けなかったものが、今では顔色も良くなって、車椅子に乗れるまでに回復している。
さらに弁護士事務所で事務長を務めている人は、3つの時に雪に目を当てられ、それで医者に行ったら手術をされた。しかし、それでも治らない。
そこで別の医者に行って分かったことは、手術の時に視神経が切られてしまっていたのである。視神経が切られていてはどうにもならない。その後、片方の眼だけを頼りにして、日大法科を卒業、現在に至っている。
ところが最近、仕事の無理や不節制がたたったのか、見える方の眼までおかしくなり、医者に駆け込んだ時は手遅れ状態になっていた。
それを私に治してくれと言ってやって来た。私の所に来る友人は、そんな医者が見放した人ばかりである。私が色々見ていると、どうも肝臓がやられている。そんな事は眼科の医者にはわからない。
そこで大阪市福島区野田駅前にある吸玉治療の浄血治療所を紹介し、次に私がスポーツ振興の御殿場瞑想センターで治療したら、一回目の時に、眼から虫が無数に飛んでいたのが治り、二回目の帰りの車の中で、御殿場のハイウエーに入ったら、それまでボヤッとしか見えなかったライトの光がハッキリ見えるようになったというのである。
ただ私がこう書くと、いかにも現代医療を否定しているように思われる方がいるかも知れないが、決してそうではない。
これは高橋信次先生も言っておられたことだが、医学というのは、神の指導のもとに発展していくものなのである。したがって先生は、どんな場合でも、まず医者に行きなさいと言っておられた。医者でもどうしても治らないときにはいらっしゃいと・・・。
どんな病気の場合でも、一つは病気の70~80%は心の不調和から来る。それは確かである。ただ現在の医学というのは、大きく見れば神の恩寵で発展しているのだからやはり医学を大事に見ることは必要である。私は今もそう考えている。
悪霊払い
こうして私は高橋信次先生が亡くなった後は、フィリピンの神霊治療を受けながら体的な勉強を続けていた。その結果、エジプト、インド、中国における私の過去世も次第に分かってきた。
例えばインドの時代の私は、バラモン教徒で、悟りを開くために滝に打たれたり、森で瞑想しているうちに、最後にお釈迦様に出会って、やっと悟りを開くことが出来たという。
あるいは、過去、私が中国で唱えていたお経がバギオでの瞑想中に出てきたりもしている。このお経は、その後の私の霊的活動の中でしばしば登場してくる。というのは、悪霊払いの一つのキーワードになったのである。
そんな私でも、心が不調和になると、やはり悪霊に憑依されることがある。
私がこの悪霊を取るために、非常に苦労したことがある。それこど神霊の本を読んだり、自分で考えた方法をやったりもしたが、どうにもならないことがあった。
その時の悪霊は、真っ黒いサタンの様な霊で私に憑依して、1週間も10日も動かなかった。私は自分に可能な事は全てやったら、それこそヤクザの様にふてくされて動こうとしない。
私はそれこど毎朝「心行」を唱えたり色々な事をやっていたのだが、ある朝、突如として私の守護霊が、私に変わって中国のお経を唱えて悪霊払いを始めたのである。そして私の守護霊が一声気合を入れると、さしもの強力な悪霊が除去されたのである。
その除去された悪霊はどこに行ったか---というと、まるで深海の底に沈んで行ってしまったような意識感覚だった。そうして、十分ぐらい黙ったままの状態だったが、そのうちブルブル震えて、助けてくれと言い出した。そして最後に反省し始めた。
私の守護霊が、本当に悔い改めるかと念を押して、再び中国のお経を私の口を通じて唱えて十字を切った。するとその悪霊はそれこどどこかにすっ飛んでしまった。そして、こういうことが2.3回続いている内に、私自身がこの悪霊払いが出来るようになったのである。
だが、それ以後もよほど私の心が悪いのか、さらにもっと悪い霊が出てきた。この時は悪霊を取るために、主の祈りを5.60回ほど繰り返した。いわゆる「天にまします我らの父よ・・・」で始まるあの主の祈りである。
私も必死である。もう40回、50回唱えていると、その中に自分自身の反省も全部込められているから、涙が滂沱(ぼうだ)と流れてきて、100回めぐらいには声も枯れてくる。
そうして悪霊を払ったら、すっかり取れている。その時は、ああ流石に素晴らしいものだなあと思ったものである。
今でも私は時には悪霊に憑依されることがある。これは高橋先生が言っておられたが、いくら悪霊を払っても、病気を治しても、あなたの心が悪ければ、取っても取っても憑依されますよということだった。
実際にその通りである。それは私自身が何回も体験しているのよく分かる。やはり最後は、自分の心をいかに正すか。それが大事なのである。
マイナスイメージはダメなのである。よく陰気な人がいるが、そういう人はちょっとしたことでクヨクヨしたり、ジメジメして自分だけでなく周囲も暗くしている。そういう人は悪霊の温床になりやすい。
やはり意識的にでも明るい心でなければいけない。その為には、毎朝鏡を見る時に、意識して笑顔を作り明るい心にすることが大事である。
人が変な奴だと思おうと、そんなことは構わずニコニコする。そうしている内に心まで明るくなる。心が陽性になれば、体も酸性からアルカリ性になる。そうなれば病気にもかかりにくくなるし、悪霊に憑依されることもなくなるのである。
「神は我が内にあり」からの引用ですが…♪
テーマを与えてくれる人 助安由吉さん
どんな素晴らしい魂の修行者でも
学びのテーマを与えてくれる人がいないと
修行の成果はあがらないのである
何もなければそのまま月日が経ち
一生が終わってしまう
けれどもそのようにならないために
生まれる前に人生計画というものを立てる
協力者とともに立てるのである
その下準備のために
魂の修行をするために今生に誕生する
そして計画通りに進んでいくけれど
苦しみや辛さを与えてくれる人に対して
恨んだり憎んだりして
なかなかスケジュール通りにはいかない
途中でこの計画をオジャンにする人もいるし
計画通りに成果を上げる人もいる
自分にとって不都合なこと
嫌なこと
腹が立つこと
困ったこと
強く憎しみが出るようなことは
すべて人生計画に織り込んであるものである
そして頼んであった魂が
その協力をしてくれるのである
こんなありがたいことはない
それらを乗り越えたならば
大きな魂となれるからである
しかし頼まれた方の
あなたに協力する立場の人は大変である
ある時期自分の魂を
地獄に落としてやらなければ
不可能なことが多いからである
そのうえ目覚めない魂であったなら
一生恨まられるかもしれない
それでも生まれる前の計画であるから
約束を反故するわけにもいかず
一生懸命努力する
しかし協力する本人も
そこまでは知らされていない
自然にそのような動きをとってしまうのである
協力してもらう立場の人も
協力する立場の人も
同じ土俵で修行するのである
だから
試練を与えてくれる周囲の人は
魂の修行者にとっては
大恩人ばかりなのである
この真実を知っていないと
これからの修行にはずみがつかない
あなたをどん底に突き落とした人が
今までいたかもしれない
いやこれからそんな人が現れるかもしれない
この人こそあなたにとっては
かけがえのない大恩人である
決して恨んだり憎んだり
無視してはならない人である
あなたのために身を売ってまで協力する
素晴らしい魂なのである
心の底から感謝して与えられた大試練に耐え
与えられた苦しみから抜け出さねばならない
一生の内にこのような人が
何人もいるのが普通である
この時代に生を持つ魂の修行者たちは
厳しい試練を計画の中に織り込んでいる
そのことを知った上で
これからの人生を
後ろ向きではなく前向きにとらえてもらいたい
あなたの魂の修行の成果は問題を与えてくれた人
苦しみを与えてくれた人に対して
どれだけ感謝したかできたかによって決まる
これをしっかりを腹に据えて
これからに対処していただきたい
この時代に生を持つ魂はみんな大きい
乗り越えられないものは何一つない
これをしっかりと心に刻んで
日々の修行に精を出してほしい
苦しみの解消法は「感謝」
苦しみから逃れたいと思っているうちは
苦しみから離れることは出来ない
与えられた苦しみならば
避けようと思わず積極的に入り込み
その中から何を学べば良いかを考える
その時その苦しみは苦しみでなくなる
そして苦しみから学んだことがはっきりした時
それは喜びに変化する
自分に都合の良いことも
あるいは自分にとって不都合なことも
それに執らわれている間は苦しみは消えない
今苦しんでいるのは
身体を通しての不調和な環境である
自分にとって最も不都合なことである
これは自分の本性の真の姿でない
学びのための仮の姿しかない
これを理解した時
今苦しんでいるのは仮の姿の
自分であることに気づき
本性の真の自分に焦点を合わせるようになる
これによって苦しんでいる自分と
やすらいでいる自分を発見する事が出来る
この発見方法は誠に簡単である
苦しみを与えてくれる環境や相手に対して
心の底からの感謝の念を持つことである
色々と学ばせていただく幸福を心の底で感じ取るのである
その時すべての苦しみは氷解していく
「全ては神=我神なり」という真理♪
意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=
全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=
宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神
全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=
大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり
調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる
愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間
愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に
調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁=闇人間=罪人=未完成
調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感
調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識
イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。
真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。
愛は天と地の架け橋 この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪
神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの
神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
●自我・偽我(マインド) =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●ワンネス意識(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
世界一の大覚者・超能力者・上江洲義秀先生による
神癒の真言(マントラ)
人はこの世に生を受け、時には悩み苦しみ、病を背負い立ち止まります。その時、ここに記された真言(マントラ)に触れることで悩み苦しみから脱し、癒やされるようにとの思いで綴(つづ)りました。
多忙な方、急を要する方はこの節を繰り返しお読みくださり、癒やされてゆく事を願うものです。
我 神なり。我 命なり。我 愛なり。我 光なり。
我 神なり。
真理という名の絶対法則である神は全てのものの中に生き続けます。神我一体の境地の中で霊魂体の一致がなされれば、天の実相の光が降り注ぎ、その身は黄金に輝き、内なる神性が花開いて本質を顕現させるのです。
その時、知恵の泉が開かれて、全てを天使の囁(ささや)きと聞けば、神が命として無限の力を携(たずさ)えて生きているのを悟るのです。
我 命なり
命は久遠常在永遠不滅。宇宙で失われるものは何一つとしてなく、ただ変化しているのみ。可視と不可視は表裏一体(色即是空)。
見えないもの(宇宙に遍満する大霊・大生命)こそが命をまとった本質。
一命一体、自他一体、全一体こそが不変の真理。無限の知恵、愛、光は内在する命そのものであり、全てを活かし、一瞬たりとも休まず、途切れる事はありません。命を養い、命を変えうるのは命自身、久遠の光に照らされて我神と共に歩む時、神こそ命と知るのです。
我 愛なり
愛は命、そして力。愛は生かし、結び、支え、守り癒やすもの。愛する事は愛されるよりも尊く、真実の愛は見返りを求めません。
カルマは神の愛。人は縁により出会い、※その全てを赦し、愛すことによって焼き尽くされて灰になるのです。
一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です。
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです。
あなたが許さなければ、あなたも許されません。
まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい。
そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。
あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。全ての人の罪を、許してあげなさい。
そうすれば、あなたは全てから、許されます。私、神から許されます。
罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
人を愛さない者は、私も愛しません。
神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。
自らを愛する事なくして全てを愛せず。久遠の愛の中にあって我愛なりと生きる時、そこには恐れも災いもなく、無限の至福の中、喜びが尽きる事はありません。
我 光なり。
光に満ちた全一体の調和の中にいて人は病むことはありません。苦は幻と知れば苦は消え去るもの。
現象は真我権限のためにあり、その中にこそ己を磨く宝があり、全ての責任は己自身にありと心に定め、身口意を正し、我神なりと命を輝かし、全てを愛し尽くした時、人は己の中に神を見、この世を照らす光となるのです。
人は、無形無相では知りえない真理と調和を学ぶため、肉体をまとってこの世に生まれてきました。今を生きる事は永遠の中に生きる事、一瞬の閃光の中に悟りへの真理があります。
病は苦から、苦は欲、無知、恐れから生じるもの。肉体船を操るのは心。行いも思いから生じ、心を正す事なくして何も変わらず。久遠常在永遠不滅の真理への気づきにより時空の扉が開かれて過去未来が変わり、病さえも消え去るのです。
無限の根源に不可能はなく、思いは権限の母。正しき思いは無限に飛び立つ美しき天使となって自らを癒しに癒し、無限向上を目指してゆくのです。
エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)を悟ることに集約される事を訴えています。
ケイシーは、神の栄光は全創造物の中に現されている(全ての全ては神の現れ・神の他には何も存在しない)のだと繰り返し語っています。
「人間性の全体、体と心とが神の現れ」であるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。
「汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。
あなたの知る善の全て、神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」
イエス様の名言♪
「我は汝らに告げる。汝の隣人を愛せよ。汝の仇(かたき)を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。これ天(内・潜在意識の最奥)にいます汝らの父(キリスト)の子とならんため(※神我キリストへの覚醒めの為)なり。
人は異質の統一を見、不和の調和を見ます。自分とは違う人々との接触に神の光(大愛・宇宙生命・神)を観ます、その時にのみ「汝の隣人を愛せ」という戒めの真意を理解できるでしょう。
問「キリスト意識とは、心の上にかたどられ意志力による目覚めを持つ、
魂と神との一体の自覚(無限・宇宙との一体感)と述べて宜しいでしょうか。」
答「その通りである。それが正しい考え方である。」
(キリスト意識に覚醒めた)人は凡人には見えない、奥にある一体と本質と調和
(宇宙生命・神我キリスト)を観ます。人はただ愛するのみになります。
キリスト意識に覚醒めると、(全ては神であり自分そのものですから)憎む事はできなくなり、羨(うらや)む事もなく、悩まされもせず、拒まれもせず、挫折も、恐怖も持つ事はありません。
(悟り)人は自分自身の魂と万物を一つと観ているため、あらゆるものの中にキリスト(神我)を観ます。これが覚醒めであります。
これがキリスト意識、クリシュナ意識、神意識であり、これが天国に招かれる真の改心なのです。
愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、
自分の中にも他人の中にもある愛の光(キリスト・真我)を見つめる事にあります。
聖なる愛(大愛・宇宙エネルギー)が神から来るように、愛は個人の魂から放たれます。
聖なる愛はあらゆる憎しみや嫉妬に打ち勝つ力と共に、流れ出てきます。
「汝の敵を愛せ」という言葉には何ら論理的な矛盾も心理的なパラドックスもありません。愛なる語(全ては一つの悟り)が強められれば、敵は自動的に敵は無くなるからです。
ケイシー・リーディングから……♬
「己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。」
(貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です)
隣人との接しを通じての神の愛は終日の作業です。我々は神がどのような形で自らを示されるかを知る由(よし)もありません。(全ては神の具現)
それはタクシーの運転手かもしれず、店員かも、学生かも、今日しかも、患者、医者かもしれません。
だからこそ、我々は荒い言葉、怒った顔を慎み、非難を愛に変えて、常に、あらゆる人との接触で(全ての全てであられる)神を崇めるのです。
求道者がこの段階に至ってなければ、聖なる愛を自ら実践することによって明想(全てに神を観る・我神なりの自覚)を続けなければなりません。
神への、我らが家(久遠のホーム)への、本源への、我らがの目標(神我顕現・神との合一)への探求は、こうして全的な働きとなります。
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、主(宇宙生命・大愛)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まる
あの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
覚者・上江洲義秀先生・至高の名言
全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を
(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。
目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。