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- 4029
- Date
- 2019.11.18 Mon
内なる空間の認識・”神の王国(内なる神の国)はあなた方の中(意識)にある”♪「あなたとは何者」なのか? 「意識」である。♪ 伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。♪
母親に長すぎるから短くした方がいいと言われたので、記事の後半を分割してみました。うっかりコピペを2回していた部分がありました。
大変失礼致しました。心からお詫び申し上げますm(_ _)m(´;ω;`)
内なる空間の認識
あなたもときおりは思考と思考のあいだの空間が生じているのに、自分では気づいていないのかもしれない。
経験に振り回され、形に、つまりモノの意識にばかり自分を同一化するよう条件づけられていると、最初はその空間に気づくことがとても難しい。
要するにいつもほかのことに気を取られているから、自分自身に気づけない。
つねに形に振り回されているのである。
自分自身に気づいているように見えるときでも、自分自身をモノとして、思考の形として見ているから、気づいている対象はその思考であって、あなた自身ではない。
内なる空間のことを耳にしたら、探したくなるかもしれないが、モノや経験を探すように探しても決して見つかりはしない。
これはスピリチュアルな認識や悟りを求めるすべての人々が陥るジレンマだ。
だからこそイエスは言った。
「神の国は目で見える道しるべを伴って来るのではなく、また
『ほら、ここにある!』『あそこにある!』というようなものでもない。
”神の王国(内なる神の国)はあなた方の中(意識)にある”のだから」。
目が醒めているあいだじゅう不満や不安や心配や鬱(うつ)や失望やその他ネガティブな状態で過ごしているのでなく、たとえばシンプルな雨や風の音を楽しむことができるとしたら、
空を流れる雲を美しいと眺め、ときには一人でいても寂しさを感じず、娯楽という精神的な刺激物も必要としないとしたら、
何も求めずに親切に対応する赤の他人のように自分自身を見られるとしたら・・・・・ふつうなら絶え間ない思考の流れで占領されている心に、ほんの一瞬であれ空間が開かれたということだ。
そのときには、たとえかすかであっても静かな生き生きとした安らぎが感じられる。
その安らぎは、背景にやっと感じ取れる充足感から、古代インドの聖賢がアナンダと呼んだ「いまに在ることへの歓喜」まで、度合いはさまざまだろう。
形だけに関心を向けるように条件づけられていると、間接的にしかこの安らぎに気づけない。
たとえば美を理解し、シンプルなものごとを評価し、一人でいることを楽しみ、愛情をもって親切に人に接するという能力のいずれにも共通する要素がある。
その共通の要素とは、これらの経験を可能にする見えない背景としての充足感、平和、躍動する生命感である。
人生における美や優しさやシンプルなものごとの良さを認識できたときには、その経験の背景として自分のなかに何があるのかを観察しよう。
ただし、モノを探すように探してはいけない。
それは「ああ、こんなものがあった」とわかるようなものでも、精神的に把握して定義できるものでもない。
それはまるで雲ひとつない空のようなものだ。
形のない空間であり、静謐(せいひつ)であり、「いまに在る」楽しさであり、同時にこれらの言葉をはるかに超えていて、言葉はただそれらを指し示す道標でしかない。
自分のなかに直接感じることができれば、それらはさらに深くなる。
だから何かシンプルなものを――音や光景や感触を――評価したとき、美を目にしたとき、
他者への愛情あふれる心遣いを感じたとき、その経験の源泉であり背景である内なる広やかさを感じてみよう。
歴史を通じて詩人や賢者は、真の幸福――私はそれを「いまに在る喜び」と呼ぶ――がシンプルで一見ささやかなものごとのなかにあることを見抜いていた。
ほとんどの人たちは何か意味があることが起こらないかとそわそわしていて、ささやかなことを(ほんとうはぜんぜんささやかではないかもしれないのに)見落とす。
哲学者のニーチェは珍しく静かな深い落ち着きを経験したとき、こう書いた。
「幸せには、幸せになるためには、ほんのささやかなことで充分なのだ!
・・・・・まさしくごくささやかで穏やかなちょっとしたこと、滑るように動くトカゲの気配、吐息、挙動、一瞥(いちべつ)
――そんな小さなものが最高の幸せをもたらす。静かであれ!」。
ではなぜ「ごく小さなこと」が「最高の幸せ」をもたらすのか?
実は真の幸せはこのようなものごとや出来事によって引き起こされるのではない(最初はそう感じるかもしれないが)。
これらのものごとや出来事はごくささやかで控えめだから、意識のほんの一部しか占領しない。
そこで残るのが内なる空間、形に邪魔されない意識そのものである。
内なる意識空間とあなたの本質とは同じひとつのものだ。
言い換えればささやかなものごとは、内なる空間の余裕を与える。
そしてこの内なる空間、条件つきではない意識そのものから、真の幸福、「いまに在る」喜びが輝き出す。
だが小さくて穏やかなものごとに気づくためには、あなたの内側が静かでなければならない。
鋭敏さが要求される。静かであれ。見よ。耳を澄ませ。いまに在れ。
内なる空間を発見する方法がもう一つある。
意識を意識することだ。
「私は在る(I Am=我神なり・我生命なり)」
と考えるかつぶやき、あとは何も付け加えない。
「私はある(I Am=我無限なり・我愛なり)」
のあとに続く静けさを感じ取ろう。
自分の存在を、何もまとわない素裸の自分自身を感じよう。
そこには老若、貧富、善悪、その他いかなる付属品もない。
それはすべての創造、すべての形を生み出す広々とした子宮である。
正しい行動
エゴはこう問う。どうすればこの状況を使って自分の要求を満たせるのか、あるいは自分の要求を満たす別の状況に変えることができるか?
「いまに在る」とは、内に広がりがある状態だ。
「いまに在る」とき、あなたはこう問う。
どうすれば自分はこの状況の、この瞬間の要求に応えられるだろう?
実は、そんなことを問う必要もない。
あなたは静かで意識が研ぎ澄まされた、あるがままのいまに対して開かれた状態でいる。
そのときあなたは状況に新しい次元を、空間をもち込む。
そして見て、聞く。状況とひとつになる。
状況に対して反応するのではなく状況とひとつになると、解決策は自ずと現れる。
実際には見て聞いているのはあなたという個人ではなく研ぎ澄まされた静寂そのものだ。
すると行動が可能であるなら、あるいは必要であるなら、あなたは行動を起こすだろう。と言うか、行動があなたを通じて起こるだろう。
正しい行動とは、全体にとって適切な行動だ。
行動が完了したとき、研ぎ澄まされた広やかな意識はそのまま残る。
誰もガッツポーズを取って「やったぞ!」と叫んだりはしない。
「見ろ、私がやったんだ!」などと言う者は誰もいない。
すべての創造性は、内なる広がりから生じる。
創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。
自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。(盗みの罪)
(全ては神の御業・神の道具意識・ただただ神様ありがとうございます・私の体を通して神の御業が顕現なされた事に感謝致します…が正解♪)
ただ認識する
だいたい人は自分の周囲の世界にほとんど気づいていないし、慣れ親しんだ環境ならとくにそうだ。
関心の大半は頭のなかの声に吸い取られている。
知らない場所や外国に旅行すると生き生きする人がいる。
旅先だと思考よりも感覚的な認識――経験――のほうが意識の大きな部分を占めるから、より「いまに在る」ことができる。
だが旅先でも完全に頭のなかの声に占領されている人もいる。
そういう人たちは瞬間的な判断で認識や経験を歪めてしまう。
彼らは実はどこにも出かけてはいない。
身体が旅をしているだけで、当人はいつもいるところ、自分の頭のなかにいる。
ほとんどの人の現実はこうだ。
何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪(こうお)や善悪を決める。
この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。
この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。
この休みないラベル粘りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。
ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。
身近なモノ――ペン、椅子、カップ、植木など――を選んで観察してみよう。
好奇心と言えるような強い関心をもって見つめるのだ。
個人的な思い入れの強い、買ったときのことやもらった人など過去を思い出させるモノは避ける。
また本やボトルのように文字があると思考を刺激するので、これも避けよう。
緊張せずリラックスして、しかし感覚を研ぎ澄まして、すべての関心をモノに注いで観察する。
思考が混ざってきても、それに巻き込まれてはいけない。
認識から思考を追放することができるだろうか?
頭のなかの声のコメントなしに、結論を出したり、比較したり、何かをそこから引き出そうとせずに、ただ観察することができるか?
二分ほど観察したら、今度はいまいる場所に視線を向けて、目に入る一つ一つのモノに観察眼を向けてみよう。
つぎに物音に耳を澄ます。
周囲のモノを観察したのと同じ姿勢で聞いてみる。
自然の音――水音や風の音、鳥のさえずり――が聞こえるかもしれないし、人工の音が聞こえるかもしれない。
心地よい音も耳障りな昔もあるだろう。
だが良い音だとか悪い昔だとか、区別をつけてはいけない。
解釈なしに、ただ音を聞く。
ここでもリラックスした、しかし研ぎ澄まされた感覚が鍵だ。
こんなふうに見たり闘いたりしていると、最初はほとんど気づかないような不思議な静謐(せいひつ)さが生まれることがわかるかもしれない。
背景の静寂として感じ取る人もある。
安らぎと呼ぶ人もいる。
意識のすべてが思考に吸収されなくなると、残された部分は形のない、条件づけのない、本来の状態のまま留まる。
それが内なる空間である。
経験しているのは誰?
見る、聞く、味わう、触る、喚ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?
たとえばあなたの答えが、
「もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ」
なら、あなたは間違っている。
ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。
すべての経験には三つの要素が考えられる。
感覚的認識、思考あるいは精神的イメージ、そして感情だ。
ジェーン・スミス、上級会計士、四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これらはすべて思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ。
このどれも、また自分自身について語ったり考えたりするすべても、経験の対象であって主体ではない。
あなたは何者かというこのような定義(思考)ならいくらでも増やせるし、そうすればあなた自身という経験の複雑さは増大する
(同時にかかりつけの精神分析医の収入も増える)だろうが、そんなやり方では、すべての経験に先立ち、それがなければどのような経験も成り立たない存在である主体には行きつかない。
それでは経験しているのは誰なのか?
あなただ。
「あなたとは何者」なのか?
「意識」である。
「私とは意識」であり、「意識はすべて」であり、
「全てを超えている宇宙の要素」です。
(※「すべての意識」は=「神の意識」です。全ては神から生まれしものであり、全ての全てが神の現れであり、未来永劫「神」以外のものは存在いたしません)
「意識」とは何か?
この質問には答えられない。
質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。
意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。探しても無益だ。
「知る」ということはすべて、二元性の領域――主体と客体、知るものと知られるものがある世界――の話だ。
主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。
「私」には形がないからだ。
知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。
形のない次元とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。
その空間が生命であり「私は在る(神の中の存在)」ということだ。
そこには時間はない。
「私は在る(宇宙生命・神意識)」も永遠で、時間を超越している。
その空間で起こることは相対的であり、一時的である。
喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。
内なる空間(内なる神の国)発見の最大の障害、経験の主体を見つけるうえでの最大の障害は、(三次元的)経験に投入するあまりに自分自身(真我)を失うことである。
要するに、意識(真の自己)が自分の夢(偽我)に呑み込まれてしまう。
あらゆる思考、感情、経験に占領され、まるで夢のなかにいるような状態になる。
何千年ものあいだ、人間にとってはこの状態がふつうだった。
意識(神)を知ることはできないが、自分自身として意識(神)を意識することはできる。
どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。
(未来永劫…私達は、永遠に神の御心の中に存在しており、父なる神と常に一体ですから)
いまここに在る自分、「いまに在る(神の中にいる)」
自分(真我)として、たとえばこの言葉が認識され思考になる場、
内なる空間(父なる神と常に一体・ワンネス意識)として感じられる。
それ(真理の理解)が土台の「私は在る(我神なり)」ということだ。
(真理を)読んだり考えたりしている言葉は前景(前提)で、
「私は在る(全ては神・全ては私)」は基部(実践)、
すべての経験や思考や感情を支える背景(土台)である。
呼吸
思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。
この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになるが、いまでも地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。
中断の長さは気にしなくていい。
数秒でも充分だ。
努力しなくても、中断時間はだんだん長くなっていく。
大事なのは長さよりも頻度で、日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。
先日、ある人にスピリチュアルな大きな組織の事業計画を見せてもらった。
実にさまざまな興味深いセミナーやワークショップが用意されていて壮観だった。
見ているとスカンジナビアのビュッフェ、スモーガスボードを連想した。
さまざまなご馳走のなかから好きなものを選んで食べる、というあれである。
見せてくれた人は、どれか推薦できそうなコースはないかと私に尋ねた。
「さあ、どうだろう。どれもなかなかおもしろそうだがね。
しかし、これだけは言える」と私は答えた。
「できるだけ頻繁に、思い出すたびに自分の呼吸を観察してみること。
これを一年続けてごらん。そうしたらここに書いてあるすべてのコースに参加するよりも効き目があるよ。それに無料だしね」。
呼吸(全ては神の呼吸)を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。
意識を喚起する方法の一つである。
意識(神意識)は外に現れないまま、丸ごと貴方の中にあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。
呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。
空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。
息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。
一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。
意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけめ多く繰り返す。
これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。
ただ、二、三時間 呼吸瞑想法を実践したところで(そういう人たちもいる)、必要なのは一つの呼吸を観察することだけだし、気づくことができるのもそれだけだ。
あとは記憶や予測、つまりは思考である。
呼吸はあなたの行為というよりは自然な出来事で、それを観察するだけのことだ。
呼吸は意図しなくても起こっている。身体のなかの知性が起こしている。
あなたはそれを観察するだけ。
緊張も努力もいらない。
それから呼吸の短い中断に注目してみる。
とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。
多くの人は呼吸が不自然に浅い。
呼吸に気づけば気づくほど、呼吸は自然な深さを取り戻す。
呼吸には形がないから、昔からスピリット(霊)と――形のない生命と―同一視されてきた。
「神は土地のちりで人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった」。
ドトイツ語の呼吸――atmen――は古代インドの言葉であるサンスクリット語で内なる「聖霊」と神を意味する「アートマン」から来ている。
呼吸には形がないという事実も、呼吸の観察が人生(生命)に空間を創り出す、つまり意識を生み出すきわめて効果的な方法である理由の一つだ。
呼吸はモノでなく形がないからこそ、瞑想のすばらしい対象となる。
もう一つ、呼吸の観察が効果的な理由は、呼吸がごくささいなあたりまえに見える現象であることで、ニーチェが言う「最高の幸せ」をもたらす「小さなもの」だからだ。
正式な瞑想法として呼吸観察を実行するかどうかはあなたが決めればいい。
しかし正式な瞑想法も、日常生活のなかに空間の意識を取り入れる代わりにはならない。
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる――これがすべての内なる変容の鍵なのだ。
呼吸を観察するとき、あなたは絶対的に「いまに在る」。
それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。
意識的に呼吸すると心が停止する。
それは茫然自失とか半睡状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。
思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。
そしてさらによく観察すると、この二つは――完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは――実は同じことだと気づくだろう。
空間の意識の現れである。
依存症
長いあいだにしみついた強迫的な行動パターンを依存症と呼ぶなら、依存症は半実在、身代わりの存在、定期的にあなたを完壁に支配するエネルギーの場としてあなたのなかに生きている。
あなたの心と頭のなかの声も占領される。
そうなると頭のなかの声は依存症の声になる。
その声はこんなふうに言うだろう。
「今日も大変な一日だった。ご褒美があってもいい。
どうして人生に残されたたった一つの楽しみまで諦めなくちゃいけないの?」。
気づさが欠如し、この内なる声に自分を同一化していると、気がついたら冷蔵庫を開けてカロリーの高いチョコレートケーキに手を伸ばしていることになる。
場合によっては依存症が思考する心を完壁に飛び越えてしまい、ふと気づいてみたらタバコや酒を手にしている。
「あれ、どうしてこんなものをもっているんだろう?」。
まったく無意識のうちにタバコを取り出して火をつけたり、酒をグラスに注いでしまう。
あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような強迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。
強迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。
次にしばらくのあいだ、強迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。
そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの強迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。
それからまた数回、意識的に呼吸する。
そのあとは強迫的な衝動が――そのときだけは――消えているかもしれない。
あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。
その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。
さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。
気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。
ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧みに)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。
そんな主張をしているのは誰か?と自問しよう。
依存症そのものだとわかるはずだ。
それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。
内なる身体(宇宙エネルギー)への気づき
生活のなかでこの内なる空間を見つけるためのもう一つのシンプルな、しかし非常に効果的な方法も、呼吸と密接に関連している。
身体に入ったり出たりする空気の流れを感じ、胸と腹のふくらみと縮みを感じることで、内なる身体(宇宙エネルギー)にも気づくことができる。
そうすると関心は呼吸から、身体のなかに存在し全体へと広がっていく生命感を感じることへと移るかもしれない。
たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭のなかの声に自分を同一化しているので、自分のなかの生命感を感じられなくなっている。
物質的な身体を動かしている生命(神)、
自分自身である生命(神)を感じられないなんて…、
こんなひどいことはない。
だから人はこの本来の幸せな状態の代替物を求めるだけでなくいつもちゃんとあるのに見すごしている生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。
ある人は代替物を求めてドラッグでハイになり、大音量の音楽を聞くなどして五感を過剰に刺激し、スリルや危険な行動やセックスに溺れる。
人間関係の波乱までがこの裏の生命感の代わりに使われることがある。
また多くの人がつねに背景にうごめく不安をごまかそうとしてすがるのが、親密な人間関係だ。
「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である。
もちろんそんな期待は「失望」に変わることがほとんどだ。
そして再び不安が甦(よみがえ)ると、人はたいていパートナーを責める。
二、三度、意識的に呼吸してみよう。
内なる身体を浸している微妙な生命感を感じ取れるだろうか?
自分のなかにある身体を感じられるだろうか?
順番に身体の各部に意識を向けてみよう。
手を感じ、次に腕を、脚を、足を感じてみる。
腹、胸、首、頭を感じられるだろうか?
唇は?
そこに生命感はあるだろうか?
次にもう一度内なる身体全体を感じてみる。
目を閉じていたほうがやりやすい人もいるだろうが、自分のなかの身体を感じたら、今度は目を開けて、身体を感じながらあたりを見回してみよう。
読者のなかには目を閉じる必要がなくて、このページを読みながら内なる身体を感じられる人もいるだろう。
内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)
内なる身体(無限宇宙)は固体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命(神・大愛)である。
身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。
あなたがそれに気づいたというのは、その知性そのものが自らに気づいたということである。
それは科学者には発見できない(それは探求している意識自体だから)、捉えどころのない「生命(神の愛・宇宙生命)」そのものなのだ。
物理学者が発見した通り、物質が密な固さをもっているように見えるのは、実は人間の五感がつくり出した幻想である。
この物質には肉体も含まれる。
私たちは肉体を形として考え感じているが、その九十九・九九パーセントは空っぽの空間なのだ。
原子の大きさと比べると原子と原子の空間はこれほどに大きいし、その原子のなかにもまた広大な空間がある。
密な物質としての肉体というのは誤解でしかない。
それはいろいろな意味でミクロ版の宇宙空間なのだ。
それでは、宇宙空間における天体と天体のあいだの広がりはどれほど大きいのか。
一秒間に十八万六千マイル(三十万キロ)進む光は、月から地球まで一秒ちょっとで到達する。
太陽の光は約八分で地球に届く。
そして宇宙で私たちにいちばん近い隣人であるプロキシマ・ケンタウリ星(私たちの太陽に最も近い別の太陽)の光が地球に届くのには四・三年かかる。これが私たちを取り巻く空間の大きさだ。
さらに銀河と銀河のあいだの空間となると、もう理解を超える。
私たちの銀河にいちばん近いアンドロメダ銀河の光が届くのには二百三十万年かかるのだ。
あなたの身体がこの広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできているとは、実に驚くべきことではないか?
したがってもっと突っ込んで考えてみると、形であるあなたの肉体は本質的には形ではない。
内なる空間、インナースペースへの入り口だ。
内なる空間には形はないが、生き生きとした生命がある。
その「空っぽの空間」は充実した生命で、そこからすべてのものが生じる隠れた源なのだ。
伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。
思考や言葉は形の世界に属している。
だから形のないものは表現できない。
したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは、思考が創り出した誤解である。
実際に起こっているのは、身体として現れている(生命が私という)意識「私は在る(我生命なり)」という意識――がそれ自身を意識したということだ。
「私は在る」という私(I=全一体)を一時的な形としての「私(I=分離意識)」と混同しなくなると、無限にして永遠の次元(ワンネス意識・神)が「私(I=内在の神)」を通じて立ち現れ、「私(I=意識としての私)」を導く。
さらに形への依存(分離感)から解放してくれる。
だが、「この形、これは私(I=分離)ではない」と知的に認識し、あるいは信じても役に立たない。
大事なのはいまこの瞬間、
内なる空間の存在(宇宙生命・神)を感じられるか、
つまり「いまに在る(神我が中にまします)」
自分自身(宇宙に遍満する大霊)を感じ、
「いまに在る(今即天・今即実在)」ことが自分(神)なのだ
と感じることができるか?ということである。
あるいは別の道からこの真実にたどりつくこともできる。
こう自問してみよう。
「私はこの瞬間に起こっていることばかりでなく、すべてが起こる場、時間を超えた生きた内なる空間(内在の真我)として、いまこの瞬間を感じているだろうか?」。
この質問は内なる身体とは何の関係もないように見えるかもしれないが、いまという空間に気づくと、同時に自分のなかでも生き生きとした生命感を感じることに驚かれるはずだ。
内なる身体の生命感(大生命)を、「大いなる存在」の喜びと不可分の生命感を感じるのである。
身体を超えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。
毎日の生活のなかでできるだけ内なる身体(神の息・無限の生命)に気づき、空間を創ろう。
何かを待っているとき、誰かの話を聞いているとき、空や木を見上げているとき、花を、パートナーを、子どもを見ている時、それと一緒に自分のなかの生命感(宇宙意識・神意識)を感じよう。
これは関心あるいは意識の一部を形のない次元に留めて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。
こうして自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨(いかり)として役立つ。
思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わないですむ。
考え、感じ、感知し、経験しているとき、意識は形として生じる。
思考、感情、感覚認識、経験への輪廻である。
仏教徒がいずれはそこから脱したいと願う輪廻はつねに起こり続けている。
そこから――「いまに在る」という力を通じて――脱出することができるのは、いまこの瞬間しかない。
(過去や未来に囚われない・今この瞬間・神に感謝のみの意識)
今という形を全面的に受け入れる(神に感謝する)ことで、
あなたは内なる空間、今の本質と調和する。
この受容を通じて、あなたは内なる広がりになる。
形ではなく空間と調和する。
それによって人生に真の視点とバランスが生まれる。
すべての創造性は
内なる広がり(内なる神)から生じる。
創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。
自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。
ただ(全てが神だと)認識する
だいたい人は自分の周囲の世界にほとんど気づいていないし、
慣れ親しんだ環境なら特にそうだ。
関心の大半は頭のなかの声に吸い取られている。
知らない場所や外国に旅行すると生き生きする人がいる。
旅先だと思考よりも感覚的な認識――経験――のほうが意識の大きな部分を占めるから、より「いまに在る」ことができる。
だが旅先でも完全に頭のなかの声に占領されている人もいる。
そういう人たちは瞬間的な判断で認識や経験を歪めてしまう。
彼らは実はどこにも出かけてはいない。
身体が旅をしているだけで、当人はいつもいるところ、自分の頭のなかにいる。
ほとんどの人の現実はこうだ。
何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪(こうお)や善悪を決める。
この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。
この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。
この休みないラベル粘りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。
ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。
身近なモノ――ペン、椅子、カップ、植木など――を選んで観察してみよう。
好奇心と言えるような強い関心をもって見つめるのだ。
個人的な思い入れの強い、買ったときのことやもらった人など過去を思い出させるモノは避ける。
また本やボトルのように文字があると思考を刺激するので、これも避けよう。
緊張せずリラックスして、しかし感覚を研ぎ澄まして、すべての関心をモノに注いで観察する。
思考が混ざってきても、それに巻き込まれてはいけない。
認識から思考を追放することができるだろうか?
頭のなかの声のコメントなしに、結論を出したり、比較したり、何かをそこから引き出そうとせずに、ただ観察することができるか?
二分ほど観察したら、今度はいまいる場所に視線を向けて、目に入る一つ一つのモノに観察眼を向けてみよう。
つぎに物音に耳を澄ます。
周囲のモノを観察したのと同じ姿勢で聞いてみる。
自然の音――水音や風の音、鳥のさえずり――が聞こえるかもしれないし、人工の音が聞こえるかもしれない。
心地よい音も耳障りな昔もあるだろう。
だが良い音だとか悪い昔だとか、区別をつけてはいけない。
解釈なしに、ただ音を聞く。
ここでもリラックスした、しかし研ぎ澄まされた感覚が鍵だ。
こんなふうに見たり闘いたりしていると、最初はほとんど気づかないような不思議な静謐(せいひつ)さが生まれることがわかるかもしれない。
背景の静寂として感じ取る人もある。
安らぎと呼ぶ人もいる。
意識のすべてが思考に吸収されなくなると、残された部分は形のない、条件づけのない、本来の状態のまま留まる。
それが内なる空間である。
経験しているのは誰?
見る、聞く、味わう、触る、喚ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?
たとえばあなたの答えが、
「もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ」
なら、あなたは間違っている。
ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。
すべての経験には三つの要素が考えられる。
感覚的認識、思考あるいは精神的イメージ、そして感情だ。
ジェーン・スミス、上級会計士、四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これらはすべて思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ。
このどれも、また自分自身について語ったり考えたりするすべても、経験の対象であって主体ではない。
あなたは何者かというこのような定義(思考)ならいくらでも増やせるし、そうすればあなた自身という経験の複雑さは増大する(同時にかかりつけの精神分析医の収入も増える)だろうが、
そんなやり方では、すべての経験に先立ち、それがなければどのような経験も成り立たない存在である主体には行きつかない。
それでは経験しているのは誰なのか?
あなただ。
あなたとは何者なのか?
「意識(意識=神)」である。
意識とは何か?
この質問には答えられない。
質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。
意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。
探しても無益だ。
「知る」ということはすべて、二元性の領域――主体と客体、知るものと知られるものがある世界――の話だ。
主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。
「私」には形がないからだ。
知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。
形のない次元(空・大生命)とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。
その空間が生命であり、「私は在る(無限の生命)」ということだ。
そこには時間はない。
「私は在る(創造主の意識・神意識)」も永遠で、時間を超越している。
その空間(三次元界)で起こることは相対的であり、一時的である。
喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。
内なる空間発見の最大の障害、経験の主体を見つけるうえでの最大の障害は、(三次元の)経験に投入するあまりに自分自身を失うことである。
要するに、意識が自分の夢に呑み込まれてしまう。
あらゆる思考、感情、経験に占領され、まるで夢のなかにいるような状態になる。
何千年ものあいだ、人間にとってはこの状態がふつうだった。
意識を知ることはできないが、自分自身として意識を意識することはできる。
どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。
いまここに在る自分、「いまに在る(神と私は常に一体)」自分として、たとえばこのページの言葉が認識され思考になる場、内なる空間(神意識としての自分)として感じられる。
それ(真理の解釈)が土台の「私は在る(我神と一体なり)」ということだ。
読んだり考えたりしている言葉は前景で、「私は在る」は基部、すべての経験や思考や感情を支える背景である。
呼吸
思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。
この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになるが、いまでも地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。
中断の長さは気にしなくていい。
数秒でも充分だ。
努力しなくても、中断時間はだんだん長くなっていく。
大事なのは長さよりも頻度で、日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。
先日、ある人にスピリチュアルな大きな組織の事業計画を見せてもらった。
実にさまざまな興味深いセミナーやワークショップが用意されていて壮観だった。
見ているとスカンジナビアのビュッフェ、スモーガスボードを連想した。
さまざまなご馳走のなかから好きなものを選んで食べる、というあれである。
見せてくれた人は、どれか推薦できそうなコースはないかと私に尋ねた。
「さあ、どうだろう。どれもなかなかおもしろそうだがね。
しかし、これだけは言える」と私は答えた。
「できるだけ頻繁に、思い出すたびに自分の呼吸を観察してみること。
これを一年続けてごらん。そうしたらここに書いてあるすべてのコースに参加するよりも効き目があるよ。それに無料だしね」。
呼吸を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。
意識を喚起する方法の一つである。
意識は外に現れないまま、まるごとあなたのなかにあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。
呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。
空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。
息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。
一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。
意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけめ多く繰り返す。
これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。
ただ、二、三時間 呼吸瞑想法を実践したところで(そういう人たちもいる)、必要なのは一つの呼吸を観察することだけだし、気づくことができるのもそれだけだ。
あとは記憶や予測、つまりは思考である。
呼吸はあなたの行為というよりは自然な出来事で、それを観察するだけのことだ。
呼吸は意図しなくても起こっている。
身体のなかの知性が起こしている。
あなたはそれを観察するだけ。
緊張も努力もいらない。
それから呼吸の短い中断に注目してみる。
とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。
多くの人は呼吸が不自然に浅い。
呼吸に気づけば気づくほど、呼吸は自然な深さを取り戻す。
呼吸には形がないから、昔からスピリット(霊)と――形のない生命と―同一視されてきた。
「神は土地のちりで人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった」。
ドトイツ語の呼吸――atmen――は古代インドの言葉であるサンスクリット語で内なる聖霊と神を意味するアートマンから来ている。
呼吸には形がないという事実も、呼吸の観察が人生(生命)に空間を創り出す、つまり意識を生み出すきわめて効果的な方法である理由の一つだ。
呼吸はモノでなく形がないからこそ、瞑想のすばらしい対象となる。
もう一つ、呼吸の観察が効果的な理由は、呼吸がごくささいなあたりまえに見える現象であることで、ニーチェが言う「最高の幸せ」をもたらす「小さなもの」だからだ。
正式な瞑想法として呼吸観察を実行するかどうかはあなたが決めればいい。
しかし正式な瞑想法も、日常生活のなかに空間の意識を取り入れる代わりにはならない。
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる――これがすべての内なる変容の鍵なのだ。
呼吸を観察するとき、あなたは絶対的に「いまに在る」。
それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。
意識的に呼吸すると心が停止する。
それは茫然自失とか半睡状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。
思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。
そしてさらによく観察すると、この二つは――完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは――実は同じことだと気づくだろう。
空間の意識の現れである。
依存症
長いあいだにしみついた強迫的な行動パターンを依存症と呼ぶなら、依存症は半実在、身代わりの存在、定期的にあなたを完壁に支配するエネルギーの場としてあなたのなかに生きている。
あなたの心と頭のなかの声も占領される。
そうなると頭のなかの声は依存症の声になる。
その声はこんなふうに言うだろう。
「今日も大変な一日だった。ご褒美があってもいい。
どうして人生に残されたたった一つの楽しみまで諦めなくちゃいけないの?」。
気づさが欠如し、この内なる声に自分を同一化していると、気がついたら冷蔵庫を開けてカロリーの高いチョコレートケーキに手を伸ばしていることになる。
場合によっては依存症が思考する心を完壁に飛び越えてしまい、ふと気づいてみたらタバコや酒を手にしている。
「あれ、どうしてこんなものをもっているんだろう?」。
まったく無意識のうちにタバコを取り出して火をつけたり、酒をグラスに注いでしまう。
あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような強迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。
強迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。
次にしばらくのあいだ、強迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。
そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの強迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。
それからまた数回、意識的に呼吸する。
そのあとは強迫的な衝動が――そのときだけは――消えているかもしれない。
あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。
その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。
さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。
気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。
ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧みに)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。
そんな主張をしているのは誰か?と自問しよう。
依存症そのものだとわかるはずだ。
それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。
内なる身体への気づき
生活のなかでこの内なる空間を見つけるためのもう一つのシンプルな、しかし非常に効果的な方法も、呼吸と密接に関連している。
身体に入ったり出たりする空気の流れを感じ、胸と腹のふくらみと縮みを感じることで、内なる身体にも気づくことができる。
そうすると関心は呼吸から、身体のなかに存在し全体へと広がっていく生命感を感じることへと移るかもしれない。
たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭のなかの声に自分を同一化しているので、自分のなかの生命感を感じられなくなっている。
物質的な身体を動かしている生命、自分自身である生命を感じられないなんて、こんなひどいことはない。
だから人はこの本来の幸せな状態の代替物を求めるだけでなくいつもちゃんとあるのに見すごしている生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。
ある人は代替物を求めてドラッグでハイになり、大音量の音楽を聞くなどして五感を過剰に刺激し、スリルや危険な行動やセックスに溺れる。
人間関係の波乱までがこの裏の生命感の代わりに使われることがある。
また多くの人がつねに背景にうごめく不安をごまかそうとしてすがるのが、親密な人間関係だ。
「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である。
もちろんそんな期待は「失望」に変わることがほとんどだ。
そして再び不安が甦(よみがえ)ると、人はたいていパートナーを責める。
二、三度、意識的に呼吸してみよう。
内なる身体を浸している微妙な生命感を感じ取れるだろうか?
自分のなかにある身体を感じられるだろうか?
順番に身体の各部に意識を向けてみよう。
手を感じ、次に腕を、脚を、足を感じてみる。
腹、胸、首、頭を感じられるだろうか?
唇は?
そこに生命感はあるだろうか?
次にもう一度内なる身体全体を感じてみる。
目を閉じていたほうがやりやすい人もいるだろうが、自分のなかの身体を感じたら、今度は目を開けて、身体を感じながらあたりを見回してみよう。
読者のなかには目を閉じる必要がなくて、このページを読みながら内なる身体を感じられる人もいるだろう。
内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)
内なる身体は固体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命である。
身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。
あなたがそれに気づいたというのは、その知性そのものが自らに気づいたということである。
それは科学者には発見できない(それは探求している意識自体だから)、捉えどころのない「生命」そのものなのだ。
物理学者が発見した通り、物質が密な固さをもっているように見えるのは、実は人間の五感がつくり出した幻想である。
この物質には肉体も含まれる。
私たちは肉体を形として考え感じているが、その九十九・九九パーセントは空っぽの空間なのだ。
原子の大きさと比べると原子と原子の空間はこれほどに大きいし、その原子のなかにもまた広大な空間がある。
密な物質としての肉体というのは誤解でしかない。
それはいろいろな意味でミクロ版の宇宙空間なのだ。
それでは、宇宙空間における天体と天体のあいだの広がりはどれほど大きいのか。
一秒間に十八万六千マイル(三十万キロ)進む光は、月から地球まで一秒ちょっとで到達する。
太陽の光は約八分で地球に届く。
そして宇宙で私たちにいちばん近い隣人であるプロキシマ・ケンタウリ星(私たちの太陽に最も近い別の太陽)の光が地球に届くのには四・三年かかる。これが私たちを取り巻く空間の大きさだ。
さらに銀河と銀河のあいだの空間となると、もう理解を超える。
私たちの銀河にいちばん近いアンドロメダ銀河の光が届くのには二百三十万年かかるのだ。
あなたの身体がこの広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできているとは、実に驚くべきことではないか?
したがってもっと突っ込んで考えてみると、形であるあなたの肉体は本質的には形ではない。
内なる空間、インナースペースへの入り口だ。
内なる空間には形はないが、生き生きとした生命(大愛)がある。
その「空っぽの空間」は充実した生命で、そこからすべてのものが生じる隠れた源なのだ。
伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。
思考や言葉は形の世界に属している。
だから形のないものは表現できない。
したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは、思考が創り出した誤解である。
実際に起こっているのは、身体として現れている意識――「私は在る」という意識――がそれ自身を意識したということだ。
「私は在る」という私(I)を一時的な形としての「私(I)」と混同しなくなると、無限にして永遠の次元――神――が「私(I)」を通じて立ち現れ、「私(I)」を導く。
さらに形への依存から解放してくれる。
だが、「この形、これは私(I)ではない」と知的に認識し、あるいは信じても役に立たない。
大事なのはいまこの瞬間、内なる空間の存在を感じられるか、つまり「いまに在る」自分自身を感じ、「いまに在る」ことが自分なのだと感じることができるか?ということである。
あるいは別の道からこの真実にたどりつくこともできる。
こう自問してみよう。
「私はこの瞬間に起こっていることばかりでなく、すべてが起こる場、時間を超えた生きた内なる空間として、いまこの瞬間を感じているだろうか?」。
この質問は内なる身体とは何の関係もないように見えるかもしれないが、いまという空間に気づくと、同時に自分のなかでも生き生きとした生命感を感じることに驚かれるはずだ。
内なる身体の生命感を、「大いなる存在」の喜びと不可分の生命感を感じるのである。
身体を超えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。
毎日の生活のなかでできるだけ内なる身体に気づき、空間を創ろう。
何かを待っているとき、誰かの話を聞いているとき、空や木を見上げているとき、花を、パートナーを、子どもを見ているとき、それと一緒に自分のなかの生命感を感じよう。
これは関心あるいは意識の一部を形のない次元に留めて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。
こうして自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨(いかり)として役立つ。
思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わないですむ。
考え、感じ、感知し、経験しているとき、意識は形として生じる。
思考、感情、感覚認識、経験への輪廻である。
仏教徒がいずれはそこから脱したいと願う輪廻はつねに起こり続けている。
そこから――「いまに在る」という力を通じて――脱出することができるのは、いまこの瞬間しかない。
いまという形を全面的に受け入れることで、あなたは内なる空間、いまの本質と調和する。
この受容を通じて、あなたは内なる広がりになる。
形ではなく空間と調和する。
それによって人生に真の視点とバランスが生まれる。
ギャップに気づく
人は一日じゅうさまざまなものを見たり聞いたりしている。
何かを見たとき、あるいは聞いたとき
(それが見慣れない、聞き慣れないものであればとくに)、
心が見聞きした対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。それが内なる空間だ。
その瞬間の長さは人によって違う。
たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので、多くの人は見逃してしまう。
そこではこんなことが起こっている。
新しい光景あるいは音が立ち上がり、それを知覚する最初の瞬間に習慣的な思考の流れが中断する。
知覚の必要性に応じて、意識は思考から逸れる。
とくに目新しい光景、耳慣れない音だと、呆然として「言葉を失う」。
思考の中断時間が長いためである。
この空間の頻度と長さで、人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。
エゴとはこの空間次元に対する意識の完全な欠如を意味するから、どこまでエゴから解放されるかによっても違ってくる。
自然に起こるこの短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。
そうなれば思考にぜんぜんあるいはほとんど邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。
周囲の世界が新しく、新鮮で、生き生きとして感じられる。
抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通して人生(生命)を認識すればするほど、周囲の世界は生気を失った単調なものになる。
自分自身を発見するために自分を捨てる
内なる空間は、形に自分を同一化しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じる。
形に同一化しなくてはならないというのはエゴの必要性であって、真の必要性ではない。
これについては前にも簡単に触れた。
そういう習慣的なパターンを捨てるたびに、内なる空間が現れる。
真の自分自身になる。
これはエゴにとっては自分を失うことと感じられるが、実は反対だ。
イエスは、自分自身を発見するためには自分を失わなければならない、と教えた。
形への同一化というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになる。
少なくなることによって、豊かになるのだ。
人々が無意識に形への同一化を強化しようとするやり方がある。
充分に目覚めていれば、こういう無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるだろう。
自分がしたことを認めろと要求し、認めてもらえないと怒ったり動転すること。
自分の問題や病気について語りあるいは騒ぎたてて関心を引こうとすること。
聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。
他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。
所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。
心のなかで、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。
こういうパターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験をしてみることをお勧めする。
そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのだ。
ただパターンを捨てて、結果を見ればいい。
形のレベルの自分を重要視しないのも、意識を生じさせるもう一つの方法だ。
形への同一化にこだわらなくなったとき、あなたを通じてどれほど大きな力が世界に流れ出すかをぜひ発見していただきたい。
静寂(宇宙に遍満する大霊・大生命)
「静寂は神の言葉で、他はすべてその下手な翻訳にすぎない」という言葉がある。
静寂とは、実は空間(無限)を表すもう一つの言葉だ。
人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分(神意識)と触れ合うことができる。
それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。
静寂(宇宙に遍満する大霊・大生命)には形はない。
だから思考を通じて静寂(大生命)に気づくことはできない。
思考は形だ。
静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。
静かに停止しているとは、思考抜きの(神一元・神への愛と感謝のみの)意識でいることだ。
静かに停止している時程、深い本質的な自分自身(真我)でいるときはない。
静かに停止している時、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分(神意識・宇宙意識)になる。
静かに(自我・偽我の)停止している時、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。
無条件の、形のない、永遠の意識になる。
人は一日じゅうさまざまなものを見たり聞いたりしている。
何かを見たとき、あるいは聞いた時
(それが見慣れない、聞き慣れないものであればとくに)、
心が見聞きした対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。それが内なる空間(内なるキリスト意識)だ。
その瞬間の長さは人によって違う。
たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので、多くの人は見逃してしまう。
そこではこんなことが起こっている。
新しい光景あるいは音が立ち上がり、それを知覚する最初の瞬間に習慣的な思考の流れが中断する。
知覚の必要性に応じて、意識は思考から逸れる。
とくに目新しい光景、耳慣れない音だと、呆然として「言葉を失う」。
思考の中断時間が長いためである。
この空間の頻度と長さで、人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。
エゴとはこの空間次元に対する意識の完全な欠如を意味するから、どこまでエゴから解放されるかによっても違ってくる。
自然に起こるこの短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。
そうなれば思考にぜんぜんあるいはほとんど邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。
周囲の世界が新しく、新鮮で、生き生きとして感じられる。
抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通して人生(生命)を認識すればするほど、周囲の世界は生気を失った単調なものになる。
自分自身を発見するために自分を捨てる
内なる空間(ワンネス意識)は、形に自分を同一化(自分が個人だ認識)しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じます。
形に同一化(分離意識)しなくてはならないというのは、
エゴ(偽我)の必要性であって、真の必要性(真我)ではありません。
これについては前にも簡単に触れましたね。
そういう習慣的なパターン(分離意識)を捨てるたびに、内なる空間(真我)が現れます。
真の自分自身(真我・ワンネス意識)になります。
これはエゴ(自我・偽我)にとっては自分を失うことと感じられるでしょうが、実は反対なのです。
イエスは、自分自身を発見するためには自分を失わなければ(滅私・神への全託をしなければ)ならない、と教えました。
知花先生も「全託なくして悟りなし」とおっしゃられました。
「滅私・神への全託」とは文字通り「自分のすべてを神に捧げる事」です。
間違った自我の解釈によって「生贄」とかの習慣になってしまった事もあるようです。
そうではなくて、「真我」の正しい解釈では、自分のなしたことは全て神の御業であり、全てが神のお陰であり、私を通して偉大なる神がお働きになられているだけなのだ…という真理の深い理解の境地に達した後に、「全てが神の御業」だと自然に思えるようになります。
自分の御業は何もない…私の全ての全ての成し遂げた事は
「神のもの」であり「神の御業」ですから、私の全てを神にお返し致します。という…そういった境地だと言えましょう。
実は私、もうとっくに「神への全託」はしておりまして、滅私して、自分の御業は何もございません…と、このブログで成し遂げた事も全て「神の御業」で御座います…と「全ての全て」を神にお返し致します……と「神にすべてを全託」して神に返納しております。
私の体を通して何か善行をなしたとしても、それはもう全ての全てが神の御業なんです。神が私を通してお働きになられているだけなのです。
何か良いことをしたとしても、「神様が私を通してお働きになられた」のであって、ありがたい…「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します。」なんです。
だから本当に、「神への全託」してしまったら、「神様、有難うございます」しかなくなります。
私とは「神の道具」にしか過ぎませんから…、滅私・自分が無い…
「無我の境地」とは言いますけれども、意外とこれは、
「神の道具意識」とも言えるのかもしれませんね。
わかりやすく申し上げますと…そういう境地だと言えましょう
形への同一化(分離した自己)というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになります。
(分離の自己)少なくなることによって、(全一体・ワンネス意識に近づき)豊かになるのです。
人々が無意識に、形への同一化(自我)を強化しようとするやり方があります。
充分に目覚めていれば、こういう(間違った)無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるでしょう。
自分がしたことを認めろと要求し、認めてもらえないと怒ったり動転すること。
自分の問題や病気について語りあるいは騒ぎたてて関心を引こうとすること。
聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。
他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。
所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。
心の中で、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。
こういう(不調和・偽我の)パターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験をしてみることをお勧めします。
(想念観察・内省・悔い改め・洗心・身口意を正す)
そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのです。
ただ(エゴの)パターンを捨てて、結果を見ればいいでしょう。
形のレベルの自分を重要視しないのも、意識を生じさせるもう一つの方法です。
形への同一化(分離意識の自己)にこだわらなくなった時、貴方を通じてどれほど大きな力(真我)が(貴方を通して)世界に流れ出すかをぜひ発見して頂きたいのです。
静寂(全一体・自他一体・全てを愛する我・静かな心・無限の赦し・愛と調和・神への連続的感謝の意識状態)
「静寂(静かな心)は神の言葉で、他はすべてその下手な翻訳にすぎない」という言葉があります。
静寂とは、実は空間を表すもう一つの言葉です。
人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができます。
それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれません。
静寂(無限大の愛・宇宙生命)には形はありません。
だから思考(分離感)を通じて静寂に気づくことはできません。
思考は形です。
静寂に気づくとは、静かに停止(全一体・我は全体なり・全体我なりの意識を)しているということです。
静かに停止しているとは、
思考抜きの意識(神への連続的感謝・慈悲と愛)でいることです。
静かに停止している(愛と調和・慈悲と愛の意識状態の)時ほど、深い本質的な自分自身(真我・全一体)でいる時はありません。
静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人(分離)という心理的、精神的な形をとる前の自分になります。
静かに停止(無限の赦し、慈悲と愛、愛と調和の意識状態で、神への深い愛と感謝を)している時、あなたは一時的な存在(自我)を超えた存在に変容します。
無条件の、形のない、永遠の意識(愛の王国・内なる神の国)になります。
それが、その人の「意識の進化を示すもの」であるからなのです。
宇宙創造の神が勧める霊性を高める方法 洗心
いつももつべき正しい心(=常の心)
強く 明るく
正しく 我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ
心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)
憎しみ 不満
妬み 疑い
猜み 迷い
羨み 心配心
呪い 咎めの心
怒り いらいらする心
不平 せかせかする心
■四句御箴言(しくごしんげん)
与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ
与えられたことを拒むこれ欲なり
与えられぬことを欲するこれ欲なり
セント・ジャーメインさんによりますと、
●「神と繋がっている状態」というのは、「絶え間ない感謝の流れ」
●全てのことに対しての感謝
●全ての瞬間に、ありがとう、ありがとう、ありがとう
●私達のエネルギーは感謝の波動にある
また、エイブラハムさんによりますと、
「瞑想よりもっと上の状態がある。
もっといい気分の状態がある。
それは感謝の状態だ。」
との事です。
イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。
真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。
愛は天と地の架け橋 この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪
神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの
神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
ケイシーリーディングから…♪
全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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