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意識は創造原理♪意識とは、神であり、生命♪超能力という超意識が神意識そのもの♪キリスト意識とは、霊意識、即ち宇宙意識、普遍意識♪アイアム、真の自己は全宇宙に遍満する大霊そのもの♪我は大愛の中にあり、大愛は我が中にあり♪私と神は一体である。神の全ては私のものであり、私のものは神のものである♪隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です♪悟っている人は、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観ます♪ 一体とは「一つの体」という意味・ 「人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事♪知花敏彦先生・総まとめ記事・第4回目♪

覚者☆知花敏彦先生の記事をまとめてみました。 
皆様の悟り☆覚醒のお役に立てて頂ければ幸いで御座います。
この記事は、第4回目になります♪




キリスト神我は不可視の大霊

キリストとは何かといいますと神我で御座います。神我とは何かというとキリストで御座います。キリストとは何かといいますと大霊で御座います、
でそれが真のあなた方で御座います

キリスト」は「即神理」で御座います。
即ち、「神我」は「神理」で御座います。
神我」を知っているという方は
神理」を知っているということでございます。

だからキリストを通さずにして何者も神の国に入らずと、
キリストの神我」の世界が「神の国」で御座います
、「天国(内なる神の国)」でございます。

キリストは我が内にありと、我は神理なりと、
今即天と、今即実在、真実、即ちキリストは真実で御座います、
即ち神我で御座います。

皆さんの本当のあなた方というのは、全宇宙に遍満する大霊そのものであるということで御座います。

全ては大霊」なんです、「全ては神理」なんです、
全てはキリスト」なんです。

だから、キリストは一にして多なるもの、大霊は一にして多なるものという事でございます、
神は一にして多神」という意味でございます。

だから、我々ってものは、その神我、即ちキリストによって創られたのキリストの表現で御座います。

大霊の他には、キリストの他には、何もないのでございます。
神我の他には何もないのでございます。

「神我」が一切のものを創って、「神我」が一切の中に留まると、即ち、「キリスト」が一切のものを創って一切の中「キリスト」が留まっているという事でございます。

キリストが不可視の大霊」であるということをよく理解することが大切だと思うんですね、
どうですか、キリストは一個人的ですか?
普遍であり大霊だと思いますか?・・大霊ですね。

キリストのましまさぬところとは無いのでございます。
その「キリスト」は、「大霊」そのもの、
神霊」そのもので御座います。
即ち「神そのもの」で御座います。
唯一神そのもの」で御座います。

それが「真(まこと)のあなた」なんです。
私たちは、決してこの姿形が私達じゃないのです、それはあくまでもそのキリストの表現、現れにしかすぎないので御座います。

それをゆっくりお考えになって頂きまして、自分とは何かといったら、
自分、アイ・アム、自分というものが即この

全宇宙に遍満する大霊そのもの」であるという事を、はっきり実感できて、見ることが出来る、思うことが出来るような、「意識状態」にならねばならないのでございます。

これが「キリスト意識」で御座います。
即ちキリスト意識とは、霊意識、即ち宇宙意識、普遍意識で御座います

それを知らずにして、理解できずにして神の国に入らずというのは、キリストを通さなければ神の国に入らないというのは、神我を知らなければ、神我を通さなければ、神我そのものが神の国であり、天国でございますね、

即ち、キリストそのものが天国であり、神理であり、神の国で御座います。

だから、キリストを信ずるものは救われる、信ずるものはっていうよりも理解するものは、知っているものは、即ち神我を知っているものはという事でございます、己を自身を知っている者はという事で御座いますね。

霊の他には絶対に何もないと、霊一元、神の他には絶対に何もない、神我の他には何もない、これを「無我」というんです。


愛はすべての癒し主

その人が愛と調和を知ることによって、いかなるガンも克服できるということですよ。愛に勝てるガンはありますか?、ん、あります?

ガンと愛と戦ってはどちらが勝ちます?、アッハッハ、愛ですよ(笑)
ね、わかりますか。

じゃ、此の世に、癒せない病気があるのか、ないのか、ないですね、
愛を持ってきたとするならば、ね、愛に勝てる病気というのは1つもないのです。

愛はすべての癒し主」です、癒し主ですね、そうですね。

イエス様はなぜ病気治療の名人だったのでしょうか、
愛そのものであられたからだと、ね、
その人のそばにおるだけでも愛を受けたからです、意味分かりますかな?

愛の波動」ですね。
だから周囲の者がその光の影響を受けて、病気が治るわけですね、
あなた方もイエス様のような病気治療の名人になりたかったならば、
これを受けて下さい。

ね、我は大愛の中にあり、大愛は我が中にありと、
私の本性・本質は大愛だったんだと、ね、
全ては愛から生まれて愛だったんだと、
いうことを理解出来ました時に、

目も震えんばかりのね、この肉体細胞が喜びを感じますよ、今ね、
皆さんの前で、こんな事を言うのはおかしいのですけれども

私の細胞ひとつびとつが喜びを感じているんですね、
ふるえんばかりの喜びですよ、

これは想像を絶するものですよ、ね、何故かと言うと、
その細胞ひとつびとつが意識を持ち、喜びを持ってるんですね、
実際に、そのふるい立つ喜びといいますか、というのをね、
体験してみてほしい、と思うんですね。


昇天とは何か

無限なる自分」を小さな自分にしているのは自分自身です。
だから、小さな我から宇宙的我になることを意識の拡大といいます。

意識の高揚というわけです。じゃあ、誰があなたを昇天させるの?ん、
昇天とか成仏というものは、
自我意識状態から本来の「神我意識」状態になる、
神意識状態」なることを、「昇天成仏」というんですよ。

それ以外に成仏があったためしもないし、
昇天という言葉があったためしもない、そうですね。

神我意識」の世界は「神の国」でしょ?
あなたは神我意識にならないでも、神の国に住むの?
自我意識であるかぎり、人間界にしか住めないのですよ。

私は人間だと意識を持った人間が、どうして神の国に入るかということです。あなたが神の国に入るためには、あなたが神意識でなくてはならないという事ですよ。

神でないものがどうして神の国に住むの?ということです。
神ではないと思っている人は人間の世界にしか住めないのです。

だから、再三この人間の世界に生まれてくる、輪廻転生、ね、

転生輪廻というのは、我神なりという神の自覚の出来た人は昇天しますけれども、自分は神であるという神の自覚の出来ていない人間が、一人だって昇天したためしはないのです。

だから、迷った人が昇天することはないのです。
迷った人というのは、自分がある人です。
自負のある人です、これを自縛というわけです、地縛霊というのは。

あなたがなぜ人間界にあなたをとどめているの?
あなたが私が人間(分離意識)だと思っているかぎり、
何万回でも人間の形の世界に生まれますよ。

お分かりいただけますか。
じゃあ、誰があなたを助けるの?誰が?自分(の理解力)でしょ。

だから、神は自らを助くるものを助く、汝の救い主は汝自身なりと、
救い主はあなた自身(の真理の理解力)であって、誰でもない、と。

私知花は、あくまでもアドバイザーです、ね、皆さんにアドバイスをしてるだけであって、実際にこれを行動を起こすのは誰なの?ね、
立って歩めというのはその意味なんですよ。

勇気を持って歩みなさい、と、その意識を持ちなさいという意味です。
だから神を受け入れるか、受け入れないかと。

神を受け入れた者であるならば、あなた自身が神意識になっているはずです。神意識にならないでは、神の国には入らないのです

だから神我(神意識)を通さずにしては神の国にはいることはないと、
わかりますね、神我(真理・全ては一つの生命)を悟らずにして。

神我の世界(ワンネス意識)が神の国ですから、神我の世界(神意識)に入ることが神の国に入るという意味なんですよ。

自我の世界(分離感)は、人間の世界ですから、人間の世界(分離感の世界)から抜けきれないというわけです。これを自縛というわけですね、

私は人間だと思った、生涯を終わったとする人は、
成仏ですか、不成仏ですか?

人間意識で生涯を終わった者は、成仏?不成仏ですよね。
自己を知らないまま、無知のまま、己に迷ったまま、迷いですよ。
自分を知らないという事は、迷っているということですよね。

悟った人というのは、自分を(父なる神と常に一体・神と私は永遠に一つ)知っている人という意味です。
悟ってる人であるならば、この形を自分だとはいいません。

言う?言わない、言ませんよね。
普遍的その大生命を己だといいます、今、考えない、意識しなくても

形をまだ意識して生きているかぎり、自分がありますから、
自負です、自分を背負っているわけです。

自負は即自縛です。自縛は即自我です。
だから、自我意識は、悟りですか?迷いですか?

迷った人には自我意識があるけれども、悟った人には神我意識しかないのです、自我意識はない。
自我意識に生きるか、神我意識に生きるか、だけのものだったのです。


意識は創造原理

 「意識は創造原理」ということを説明したいと思います。
まず最初に意識とは何であるかを知らなければ意識は物をつくる力であり、原理であるのを知るのが不可能になります。

 誰でも意識を持っていますが、その意識が何であるのか判らないのです。どういう働きをしているのかということも、意識・意識とよく言いますけれども、意識とは一体何でしょうか。

 その意識がどのように何であるのかを知っている人は非常に少ないのです。意識がどのように私達に影響を及ぼしているのかを知らねばなりません。

 皆さん、意識のない人間は一人もいませんし、皆さん方は誰でも意識を持っています。

 意識があります。意識なくしては物は存在しませんから
何でも(素粒子レベルで)全部意識を持っています。

 その意識が何故、物を作る力であるのか、
また創造の力であるかを理解したいものです。

 「意識」とは一体全体何であるかといえば、
「神である」と答えるのが正しいのです。
「神」であり「生命」なのです。

 われわれはその意識を持っていなければ、われわれは今ここに存在もしませんし、生きてもおりません。ですから皆さん方は意識が無くなれば、物を作る力が無くなり力が無くなり物を想像する力もありません。

 この意識で物が作られているのです。われわれの意識が日常生活に如何ように影響しているか、この人は意識の高い人とか、低い人とかいう言葉で表しています。

 意識の高い人とはどういうことを意味しているか、意識が高くなれば高い表現をしますし、低くなれば低い表現をします。この世は表現の世界で現象界ですから物が現れるのです。

 イエスは「創造の場と創造の力は皆さんの内にある」といわれました。
その創造の場と力も自分の内あり、その創造とは夢の中において行われるものであって、過去のものでもなく未来のものでもない。
 それがいま皆さんの意識状態だということです。

 ちょうど皆さん方は今ここに意識が向いて意識が働いて具現している訳でして、皆さん方の日常生活の一分一秒間に意識が働いて物を創造しているのです。
 即ち「意識そのもの」が「宇宙を創造している」のです。物を作り出しているのです。

 低い意識状態の者は低いものを結果的に創りだして高い意識状態の者は高いものをこの地上界に具現していくのです。造り出すのです。

 皆さん方は神意識という言葉を宇宙意識・普遍意識とかの言葉にして言いますが、神意識とは一体何なのか、皆さん方は神意識になりたいとう希望がありますが、神意識が何であるかが判らないと神意識にはなれません。

 神意識とは「我れ神なり」と自分は神であるという意識をしている人が神意識です。

 普遍意識とは何かといえば、自分が普遍意識的な存在であるということを普遍意識というのです。我、神なりといっているならば神意識です。

 そして我人間なりと意識している人は肉意識と言っているのです。
だから「想念は実現の母」とイエスはいっております。

 想念がものを作る、想念は力である。
想念が私達の日常生活の中に環境に全てに現れている。

 私達の意識そのものが神の想念ですから、正想念を常にもち良い想念を持っていますといい結果が現れます

 これを自由意志といい人間には悪いものを意識することも、良いものを意識することも、全て与えられているのです。
 
 それを自由意志、自由選択といいますが、皆さんの日常生活の中に現れているのです。

 想念が高いというのは、理想が高いとか、理念が高いとか、意識のことを理念とか理想とかいうことでも伝えられています。

 理を思うこと神を思うことも理想です。理に叶ったことを常に思うこと、神の意識は完全意識ですから完全のみを思い続けているのです。

 神の意識は不完全ではありません。神意識とは完全意識。何故、神は完全なのかといえば完全のみを意識しているから完全なのです。

 われわれ人間は何故、不完全性が現れるかといえば不完全を意識するから不完全が現れるのです。

 不完全を意識しなければ不完全は現れないのに不完全なものは作らないのに、人間には不完全と完全という自由意志があるが故に不完全も意識して、完全も意識しようとする両面を持っています。

 神に不完全という意識はありません。完全だけを意識しています。その意識は皆さんの中にある。

 それを自由意志・自由選択でもって完全なものを作り出すか、不完全なものを作り出すかは、皆さんの自由意志です。

 皆さん方が常に創造性を完全なものに向けて完全意識を持っておりましたならば、完全状態が皆さんの日常生活に現れを持っておりましたならば、完全状態が皆さんの日常生活に現れてくる筈です。

 ですから創造の場も、創造の力も皆さん自身の中にあります。その意識が全てのものを作り出していますから、その意識のことを内なる神、即ち内在神といわれているのです。

 皆さん方が低い状態のものを意識すれば低いものが現れ、高い状態のものを意識すれば高いものが現れます。そして意識の高い人というのは想念が高いのです。

 今までは我は肉なりという肉意識を持っていた人が、我は大霊なり、
我は大生命なり、普遍なり、無限なり、大宇宙そのものなりという意識状態になった時、意識の高揚、意識の拡大というのです。

 そして今、私達はどこに意識をしているのですか、結果の世界とか低い状態のものを意識しているならば意識の低い人というのです。低いものばかりを意識しているならば、低いものが現れます。

 私達が神のような完全意識を持ちますと日常生活に完全なものしか現れません。意識が完全意識を持ちながら、皆さんの日常生活に不完全が結果として現れると思いますか、皆さん方は自分が思っている通りのものでそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもないのです。

 皆さんの意識状態が皆さんの日常生活に現れている。その意識を常に高い所に留め置かれて、高い所を意識していますとそれが日常生活に現れてきます。皆さん方の自分自身を決めているのは自分自身であります。限定することも開放することもできるのです。

 皆さん方が宇宙意識を持っているか、自分が宇宙そのものであり、大霊そのものであり大生命そのものであると、普遍的なものであるとそのように意識を持っている人は意識の高い人です。

 我は人間なり、我は肉体なりと思っている人は意識の低い人といえます。ですから皆さんの意識が今高い状態に留め置かれているのか、低いものを意識しているかによって、結果としてこの地上階に現れるものも、想念で皆決まってしまうのです。

創造の場と創造の力は汝の内にあり」といわれ、想念は実現の母といわれるわけです。皆さん方は何をするにも行動より想念が先ではありませんか。

 どこどこへ行きたいと思って初めて行動を起こすのではありませんか。想念が全てこの肉体を支配しているといえます。

 また想念は力であるといえます。例えば盗みを働く人ならば盗みたいという意識想念を起こした時、盗みという行動を起こすのです。皆さんは思った通りの行動しかしません。

 意識がすべてを決定づけている意識が肉体の支配者であります。
汝の主は意識なり」といえます。

 例えば、自分は病気だと支配者が意識すれば必ず肉体は支配下は病気を表現してくれます。苦しいと意識状態を起こせば肉体は必ず苦しみます。

 嬉しいと想念が思えば嬉しい表情をしてくれます。それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない。

 そのままの皆さんの意識が、心が、この肉という表現の世界に現れてくるのです。肉体は意識の表現媒体であるといえるのです。

 そして全ては意識がものを創るのです。意識の力が理想を達成させるのです。理想を高く持つということは、意識を高く持つことで、意識を高く持つものは成功し、失敗するものは意識が低いのです。

 想念はものを創るというのはこのことを言っているのです。
この三次元は現象世界といい意識を表現する場所であり、その表現する力でもあり、この「意識」が「内なる神」というのです。

 どんな行動でも想念が主であります。われわれは日常生活の一分一秒の中で想念が非常に関係していることを知らねばなりません。ですから想念をコントロールすることを大切にせねばなりません。

 正しい意識のコントロール、即ち正しく使うことを正想念といいます。正しい想念は正しい結果が現れます。

 私達は思っていることがこの地上階にいくらでも具現できるのです。自分の理想を思い続けていますと肉体はその完成のために必ず働いて実現できます。

 心の次元は霊の次元ですから、思いを起こしていきますと、霊の次元で創られた雛形の青図面は必ず現象世界という結果の世界に現れてきます。

 想念の世界はまた、霊の次元です。霊の次元で創られたものが、結果として三次元という物質界に現れるのです。

 霊の次元の想念は如何に大切化ということになります。だから外界というのは内界の投影・投射に過ぎない結果の世界に過ぎないということです。

 想念の結果、意識の結果がこの世ですから、見える世界はすべて結果世界ですから、心の影とまでいわれるのです。

 外側は内側の結果です。その内側は意識であり想念ですから想念の場、ものを創る原理は私達の内にあるのです。その想念、意識をどう正しく使うかが問題です。

 その想念を自由意志により、ある者は悪想念を起こしますと、結果は悪として生まれる、盗みを働きたいと思えば盗みという結果が現れる。

 想念の世界は霊の世界、即ち神の想念は正想念なのです。その想念は人間が創り出したもので、自由意志で自由選択で創り出したもので、常々に心の中に完全ビジョン、即ち完全想念を描いていると霊次元で図面ができるのです。

 それを絶対に疑わず待っていると霊次元で図面ができるのです。その想念の管理、即ちコントロールが非常に大切なのです。

 想念が低く理想も低くて、生きるのも嫌だと思い続ければ必ず死にます。自殺でもしようか、生きるのも嫌だ嫌だと、常に嫌だという想念を持っていますと、肉体も嫌な表現をします。顔に表現が出ます。

 顔ばかりでなく出て来る波動も暗い波動が出てきます。その意識が日々の1分一秒によって物を作り出していることを知らねばなりません。皆さん方は建設もしますが、破壊もするのです。

 例えば物を買ったとしましょう。これを買って大丈夫だろうかと心配します。せっかく物を手にして具現したものを色々と金が行き詰まってしまって、どうのこうという時にはき的な想念を持つものです。

 そんなことは持ってはいけないのに自分で創り出したものを、自己破壊してしまう想念を創り出し結果として現れるのです。

 私達の全ての人は思っていることの意識が現実に現す超能力者です
超というのはこの世から離れたものの想念の世界で超意識です。それを創り出しているのですからこの世で超能力者で無い人は一人もおりません。
 
 すべて霊的力その想念の力がものを具現しているのですから、物質界という世界に物を創造して作り出しているのです。
 ですから超能力者であるのです。
その「超能力という超意識が神意識そのもの」なのです。

 それが誰でもその中に霊的力があるのです。それを霊能力といっているのです。想念の力そのものが霊能力というのです。

 その霊能力を正しく使えば運命が良くなりますし、破壊的に使えば運命が悪くなります。

 その想念が悪くなれば運命も悪くなります。意識が低下すれば、破壊的に使えば、結果的に日常生活で身体の中に現れてくれます。

 皆さんが完全意識をもてば自分の周囲に環境にすべてに完全なものが現れ、不完全意識を持てば、周囲に環境にすべてに完全なものが現れ、不完全意識を持てば、周囲に環境に不完全なものが現れてきます。

 何故、皆さん方は常に善意に完全意識を持とうとしないで、せっかく恵まれた幸せを崩すのですか、創ってみたり崩してみたりして、その苦しみを体験しておられます。

 神のように常に不動なる完全意識を持っていましたならば、運命に環境に全て完全なるものが現れます。それは、あなた方の想念如何に係わっています。思っている通りであってそれ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 今ならこの意識がものを創る力であり、創造原理であるのが判りましょう。神が一切のものの創造主であるように創造主の力が、皆さん自身の中に留め置かれているのです。

 皆さんが今、理想として自分という意識が想念がはっきりとものを創り出すことが、理解しておられるならば決して破壊的想念とか、低い想念は持たないと思います。

 今、ここに皆さん方の集まりの場が出来上がっているのは、誰の想念の力だと思いますか。それは私、知花の想念の力によります。

 これは沖縄にいる時にはっと閃きまして、即ちイメージが湧きまして、山梨に行って、こういう話をやらねばならないという思いが起こったので、この肉体が行動して1988年10月にここに来ました。こうして私の想念が具現して、そこに現れているのです。

 これは私の想念の結果であって。皆さんは知花の話を聞きたいという想念の結果が今日という結果が今日という日を招いたのです。

 ですから偶然なるものは一つもないのです。すべて必然なのです。霊の次元で起こったものがこの三次元という次元に必然に起こるのです。

 想念の世界、意識の世界は霊の次元ですから意識は霊ですから、想念は霊ですからその霊という原因の世界で組み立てられたものが結果の世界という三次元に物が具現されているのです。だから肉体というものは、はっきりいえば霊の操り人形なのです。

 表現媒体ですから、その表現している霊、即ち意識がなければ皆さんという操り人形はここに存在することはありません。肉体は想念の操り人形に過ぎないということです。想念に振り回されているのです。
 
 この肉体は食べることも寝ることも排便も全て想念が肉体に命令して行動する。意識が肉体を支配しているのです。
 日々の一分一秒でも、意識が働いて肉体を支配しているのです。
 あなた方の肉体から一分一秒間でも意識が働いていない時はありません。肉体から意識は離れません。

 皆さん方は常時、考えたり思ったりしています。それを正しく思い考える意識が如何に大切なことだといえます。

 この地上界に正しく念ずる事が出来るか、思う事が出来るかによって我々はこの地上界に正しく表現するか、悪い表現をするかだけのものです。

 自分自身を良くするも悪くするのは誰に責任がありますか。この責任を誰が負うのかは明白です。全て自分自身が創った環境であって、自ら創った苦しみであって、誰が創ったものでありません。

 あなた方は全てのものを創る意識がありまして、その意識がこの世の結果としてものを創り出していますから、皆さん方一人一人が創造主です。

 神は皆さん方を通じて、ものを創造していらっしゃるのではありませんか。このことがはっきり判りますと意識がものを創り、その意識が神であることが判ります。

 意識世界がものを創り、その意識が神であることが判ります。意識世界はものを創造するのであり、皆さん方の中に意識があり、その意識が神であり、創造主である力を持っているのです。

 そして無限の力を人間のみに与えられています。鉱物・植物・動物には与えられていません。鉱物・植物・動物には決まった一定の創造のみしか与えられていないのです。ですから悪くも良くもなりません。

 彼らは花ならば、その花以上のものには良くはなりません。また悪くもなりません。それは自由意志がありませんから。

 われわれ人間には物を得る力・全て引き寄せる力。創造する力があります。この世に鉱物・植物・動物を作ってその支配者として神さまは人間を創られましたが、われわれ人間は万物の支配権を持っています。

 しかし私たちは万物の低能となり下がったのです。創造の力が低下してしまい、想念の力が低下してしまいまして、悪い表現、悪い結果を生み出してしまったのです。意識の使い方が非常にヘタなのです。

 常に私達が完全意識を持って、完全ビジョンを持っていたならば、目の前にも環境にも素晴らしい物が現れますが、私達のビジョンが狂ってしまえば狂ったものしか結果として現れません。
 神のビジョンは完全ですから良いことだけが、どんどん興ってくるのです。

 神意識そのものになりましたならば、完全意識そのものになりましたならば、やることなすこと、全てが上手くゆくのです

 上手くゆかないのは何がそうさせるかといえば、もう大変だこれは躓くのではないかという意識が躓かしているのです。これはもう完全意識ではないのです。

 例えばある企業を経営しているとしましょう。そしてその経営者が倒産するのではないかという、思いの倒産する状態のビジョンを描いたとするならばその会社は誰が破壊しようとしていますか。

 その会社を自分が建設したのに自分が自己破壊していることになるのです。そのような思いを持った社長の会社に入ってはなりません。必ず倒産します。

社長の想念の世界には霊の世界には潰れるという青図面として出来ているからです。

 その想念を変えない限りアカシック・レコードといいまして想念形態といい、霊の次元ではその人の運命として想念形態が霊の次元では青図面としてあるから、それが具現してこの三次元に現れるのです。

 その人が持っている想念形態を観ればその人の運命と想いが判るのです。

 その通りのものが三次元の地上界に現れますから、悪ければ破壊的意識を持っていることや悪想念の破壊的な想念意識を持っているのが判るのです。

 その想念意識の部分を徹底的に直すことによって、その会社を潰さずに生き返らせることが出来ます。その想念意識を変えない限り確実に潰れるのです。

 霊の世界・想念の世界では潰れることが判っても、三次元の世界はゆっくりとしか現れません。それはバイブレイションが違うからです。

 思ったことがすぐに実現するのではありません。霊の世界で潰れることのビジョンを作っているのですから、潰れるのが当たり前なのです。

 夫婦の離婚もそうです。私達の夫婦はもう仲が悪くなったから、こういう具合に離婚していくだろうとイメージを創るのです。
 分かれたときの準備・お金・住む場所などのビジョンの世界を創ります。

 その通りのものを肉体は働きますから結果として地上界に実現させるのです。とんでもない間違った状態をビジョン化するのですから。皆さん方は創り主・創造主です。

 いま現に皆さん方は物を創造しています。だから創造したものが日々の生活の中に現れるのです。ですから常に良いものを創造し建設してゆかねばなりません。

 最初は夢でもいいのです。夢が実現されていくのです。不可視の世界が可視の世界を創っていくのです。

 皆さん方は宗教で救われるものではありませんが、宗教をやったら幸せになるという意識を持ったならば、どんな宗教でも間違った宗教でも、幸福に成るという意識であるから成るのです。

 宗教でよく病気を治すといいますが宗教が病気を治したのではなく、病気の本人の意識が治ると思っているのですから治るのであって宗教では治りません。此の宗教に入れば治るという意識が結果として治したのです。

 ですから「の信ずる通りなり」といわれるのです。宗教そのものに力があるのではなく我が内に力があるのです。
 幸せになるのも健康になるのも自分自身なのです。

 薬でもこの薬を飲めば病気が治るという意識が大切です。こんな薬は飲んでも治らないという意識があれば、飲んでも治りません。
 それほど意識の働きが重要です。「汝の信仰、汝を活かす」のです。

 自分を活かすも殺すも自分の意識次第です。ですから皆さん方はその意識を常に正しく使うことが大切です。

 その意識を建設的に使い破壊的に使わないことです。同等の力ですから、原理ですから、創造の力も創造の場も皆さん自身の意識次第ですから。

 どういう意識をもてばいいのかそれで運命も決まるのです。常に建設的な意識を持つことが救いになるのです。その救い主が皆さん方の中にあるのです。

 その救い主こそ唯一の救い主です。
だから「汝の救いは汝自身なり」といわれるのです。
神は自らを助くる者を助くる」といわれる意味です。

 嬉しい嬉しいと毎日思い続けている人は毎日が嬉しいのです。また悲しい悲しいと想い続けている人は、毎日が悲しいのです。

 嫌だ嫌だと思えば毎日イヤなのです。それはどうしてだと原因をいえば、意識であるということです。

 肉体は意識に絶対服従ですから、嬉しいと思えば顔はニコニコします。嫌だと思えば嫌な顔を肉体が表します。
その表現は皆さんの心次第です。その心が意識だという事です。 

   この世は心の影とか意識の鏡などというのです。私は意識の高い人ですといっても、その人の日常生活をみれば現れているものが不調だらけやら不完全なことが多いならその人は嘘であると判ります。

 悟りとは常に完全意識・神意識までに到達するということです。ですがその使い方が問題なのです。不完全を意識しながら結果的に完全を得たいと思っても、得ることはできません。破壊的な力と建設的な力は同一の力です。

 戦争を起こしているエネルギーと平和のエネルギーは同一のエネルギーです。
 それは本人の意識次第によって、ある者は戦争を起こすのに使い、ある者は平和に使っているだけなのです。あなたの心が平和であるか不調和であるかは意識次第です。

 自由意志・自由選択で皆さん方は使っているのです。どうか皆さん方は自分で自分の自由を奪わないように自分を開放して頂きたいと思います。

 私は小さい頃から失敗という言葉がないのです。失敗したら成功だ、こういう事をやるとこういう結果になるのか、これは発見したのだ、新しい発見だ、やってみたから判ったのだ、と何時も希望があるのです。

 何時も発見して行くのです。マイナス思考がないのです。ものを何時も善意に善意に解釈していくのです。

 皆さんも常に善意に解釈して良い意識を持てば、良い結果がどんどん生まれてくるのです。そうすれば悪いものが無くなるのです。

 悪い荷物から開放されるのです。お金も今はなくっても何時かあるようになると思えば必ずあるようになるのです。

 何時も無いと思えば無いのが当たり前になってしまいます。無くっても有る意識がお金を生み出すのです。

 自分に無くっても銀行に有るそれを利用すれば良いはずです。誠心誠意によって土地なりの担保でお金が借り入れできて、そのお金でものが実現するのです。意識の力によって出来るのです。

 この現象界でこのものを買ったからどうなるという低い意識、破壊的な想念を持たないことが大切です。素晴らしいものが興るのだという意識が素晴らしくするのです。

 夫婦でも結婚して良い家庭、良い子供が出来るように、常に完全意識・完全ビジョンを持ち合わせていると必ず具現するものです。

 この世の三次元に現れるのです。結果の世界に現れるのです。それが皆さんの真の祈りです。想念、即祈りです。

 皆さんの想念が何故実現しないかといえば、その想念をすることも少ないが、払い下げることも早いのです。

 例えば、この前まではこういう場所にこういう家を建てて住んでみたいと折角思っても、すぐに駄目だと、霊の次元で青図面を描いても、それを具現するまでは常に高い意識に留めおかないと実現しません。
 結果が今出ないといって意識を払い下げてしまうと実現はしません。

 霊の次元で描いたものは必ず実現するのだというビジョンの意識を高めていれば必ず実現するのです。霊の次元と、この三次元とはバイブレイションが全然違いますから思ったことがすぐに現れるものではありません。

 しかし皆さん方のバイブレイションが、神への信頼感を持つようになって、高いバイブレイションとなったならば祈りと結果はすぐに一つになります。

 ですからイエスのバイブレイションの高さによってこの世にものを具現するのも、祈りとその結果はすぐに一つとなったのです。
 
 われわれもそこまで完全意識になれば、すぐ即祈りと結果はその場で一つになるのです。祈りと個体は一つになるのです。
 それがその場で具現する時代がやってきます。

 皆さん方がバイブレイションが低い限りにおいては相当の時間を要しますが、イエスみたいにバイブレイションが上がってきますと、その同じバイブレイションが働きますから、すぐそこでものが具現するのです。

 ちょうどイエスが三千人か五千人かのひもじい人々にパンを分け与えられたというのは、このビジョンを描かれたのです

 想念の霊の力で意識を起こされたのです。
神の意識と同通しておりましたのです。

 それが実現されて三次元的に、このパンが三千人か五千人位の人々に分け与えられたのです。

 それはその人の想念の高さ、意識の高さがバイブレイションの高さですから、皆さん方が常に意識が高い所に留め置けば、常に意識が高いということで、バイブレイションが高い人だということです。
 
 皆さん方は、たまには意識を高くするのですが、すぐに落として低くしてしまう。低い意識状態を起こしてしまいます。

 どこかのエレベーターのようなもので、今日は高い意識状態であるのに何か周囲で悪いことが起こると、すぐに下の方の地獄に落ちてしまうという結果、それを「善悪の知恵の実をまだ食べている」というのです。

 絶対善・絶対完全の意識状態を不動心といいまして留め置くことが大切です。これを神が私のハートに定着されたと完全性が定着した、完全意識状態のみが定着したことを「我がハートに神が着座なされた」というのです。

 不完全な意識は神の意識ではありません。神意識とは何かといえば完全意識です。

 常に皆さんの意識の中から不完全性も無くならず完全性も持ってなく、完全も不完全も思うならば、結果も全て完全となって現れるのです。

 ですから意識がものを創っている力であり、創造の力である。創造の場も、創造の力も、我が内にあると日々一分一秒間の意識の思いが、如何にわれわれの日常生活に影響しているかを知らねばなりません。

 皆さん方の今日という1日1日を完全な意識状態に留めて置くことが、絶対に成さねばならない。

 この世に現れる創造の原理であることを知り、正しいものを創造しているか、悪いものを創造しているかは、皆さん自身であることを知って戴きたいのです。


人間はなぜ神か 神の心 人の心

 「神の心」と「人の心」というものがありますが、本来は一つの神の心しか存在致しません。
 大宇宙という中心に神の存在があり、大宇宙そのものが神の心です。

 そして、私達人間には、個別化された心というものがあります。しかし、その個別化された心というものは、大宇宙の神の心の中に存在致します。

 常に神は私達に啓示を与え、中心を与え、私達を守って下さっています。私達の心に色々なインスピレーションを、その啓示を与えて下さっているのです。

 しかし、人間が勝手に、神からの中心を断ち切ってしまっているのです。神の御心のように、神から送られた中心によって私達が動いているならば、

浅瀬に乗ったり、困難にあったり、事故災難にあったり、病気になったりする事はありませんが、私達は神から分離して、神の心から離れてしまったために、神からの中心を自らが断ち切ってしまったのです。

 それは、常に母船より小さな船へと、中心を発信しています。けれども人間が受け付けないのです。
 受け付けない為に自分が勝手に生きていると、自分が勝手に動いていると思い込む様になり、自分勝手な行動をしているのです。

 私達が自分勝手な行動を取るのではなく、人の心が常に神の心を素直に受信して、私達の人生なる航路を航海していますと、道を間違う事無く、道に迷う事無く神に導かれ、幸せな健康な、完全なる状態を保つ事が出来るのです。

 この肉眼では観えませんが、大宇宙の中心には神の中心部があります。皆さん方の肉体にも、中心部の心というものがあります。

 心というものは、船でいえば舵取りです。船長です。私達の肉体を動かしているのは心です。心が命令してそれで肉体が動くのです。
 その心というものが間違っていますと、私達の言葉遣いや、想いや、行動のすべてが間違ってしまうのです。

 私達は、神から派遣された小舟のようなものです。お互いに出て来た所は一緒です。ですが、お互いが敵だと見なしています。

 私達はお互い敵ではありません。味方同士です。あなたも私も味方であり、一つの根源から発生したものです。

 私達の心は常に神の心と連結されて、繋がれて、神に素直になって人生行路を送るようになればこの世に躓(つまず)く事はありません。

 神の心というのは完全無欠の心です。決してそこには、不完全なるものは存在しない事が分かるようになります。ですから、「神に素直でありなさい」と、私はいつも申し上げているのです。

 私達は今、自分勝手に生きています。だから自分は何処から出てきたのかも分からないのです。闇の人生を、闇の旅をしている小舟の様なものです。

「肉体は魂の乗り舟」といい、肉体そのものは魂を宿している、心を宿している一つの乗り舟、航海の乗り舟に過ぎないのです。 
 今、私達は三次元という次元に、旅をしている小舟の様なものです。

 あなたが神からの中心を絶やす事がなければ、この世の航海は困難ではありません。非常に楽しく航海が出来ます。

 その力は全て神から、神の中心エネルギーは全て神から与えられていますが、そのエネルギーさえも私達は遮断するようになってしまったのです。

 消極的という人の心はマイナスのエネルギーのことで、そのエネルギーが全てを破壊してゆくのです。消極的というのは破壊的エネルギーの事です。

 積極的というのはプラスのエネルギーの事で、建設的エネルギーの事です。神は常に建設的エネルギー、プラスのエネルギーを私達に注いで下さっています。
 しかし、人間が勝手にその積極的エネルギーを、消極的エネルギーに変えてしまっているのです。

 その消極的というものは「心の在り方」その想いが一番大事なのです。心が消極的である時、私達は自己破壊を招き相手を破壊してしまうのです。

 プラスのエネルギーをマイナスのエネルギーに変換してしまい、私達自らが神から遠ざかり、その神の力を失っている状態です。

 皆さん方は、今からでも遅くはありません。自分自身の全てを神に委(ゆだ)ねるのです。
 神に素直に「我が心を導き給えと、神の心に委ねてゆく事によって、全ての神の力を、我がものとする事が出来るのです。全知全能です。その力も知恵も、その完全さも、この世で現す事が出来るのです。

 神からの中心を断ち切っているのは、自らの自分勝手な想念(自我)です。そうすると、この舟は闇に人生行路を航海します。どのようにして何処へ公開するのかが分からない。何処に辿り着くのかが分からない。
 
 指示命令するというその完全なる指導者(神我)が付いていないから、何処かの浅瀬に乗り上げるか、色々な荒波に揉まれるか、あるいは転覆するか、その航海が困難になるのです。
 その事がこの世の悩み、苦しみ、罪、汚れを犯す事になるのです。

 神につながっておれば、素直に神からの中心に従う事が出来るのです。
そして「私達の心と神の心が連絡されている」という事を悟り、

常に、神に委ねて生きていられる様になれば、今日という1日も、神の導きによって航海する事が出来、平安と安らぎの中に、力と知恵の中に生きる事が出来るのです。

 今、皆さん方は、神と人とは全然別の存在だと考えているのです。神はどこか別の所にいて、〈神と自分とは別の存在だ〉と思う事が迷いです。
 その迷いというものを断ち切らない限り、私達は神からのインスピレーション、天啓を受ける事が出来ないのです。

 それは、あなたの持っている自我の心。私は私。神は神。あの人はあの人。という分離観念、分離意識、あるいは表面意識という外なる意識が、肉の意識が妨げとなって、神からの啓示を断り続けているのです。

 素直な心になって《おお、我が神よ、我が父よ。今日も我を導き給え》と、その父なる神にお願いをして、神に心を全開すれば、私達には知恵と力と愛が流されます。それを思った瞬間にそれが充満するのです。

 神と私達の分離は一切ありません。一つなのです。しかし、それをあなたの自我の心で境目を造り、あなたは神を分離して考えるのです。

「何かの修行をしないと神に至る事が出来ない」という誤った教え方の為に、賛美歌を唱えないと神と繋がらないとか、お経を上げないと神と繋がらないとか、誤った指導者が出て来たために、この世に現れている乗り舟である人間は、余計に混乱させられてしまったのです。

 神と自分を分離させているのは、自分自らの心で〈分離している〉という想いの中にしか、それは存在していません。
 《一つである》と想った瞬間に、皆さん方は一つと繋がります。知恵と力に繋がります。その知恵と力がある事を、皆さん方は認めていないのです。

今、私は神とつながって、神の知恵と力に私は満たされている〉と想った瞬間、皆さん方にはその神の知恵と力が満たされるのです。

 しかし、私は神からの分離で人間であると想っている(自我・偽我の)人は、神の知恵と力には満たされる事はありません。

 私達は非常な過ちと罪や汚れを造り出しています。何をしでかすか分からない、勝手な行動をしているのです。

 それは舵取りのない様な、船長が乗っている様な、いつ何処に、どのように辿り着くかも分からない、まるで漂流している船のようなものです。

 舵取りは神です。私達の舵取りを見守って下さっているのです。人生行路が過ちを起さない様に、舵を取って下さっているのは神の心なのです。

 その船長に従わないで、私達はどう、航海する事が出来るのでしょうか。その中心部から、《こういう具合に航海したら危険ですよ》
《こういう具合に航海したら非常に素晴らしい人生行路が送れますよ》

という具合に、毎日、昼夜休みなく、一分一秒の休みなく、神は私達に通信して下さっているのです。

 それなのに、それを私達の自我で神からの通信を遮断してその聞く耳を持たない。神に従わない。自分勝手に自分の欲望達成のためにもがいているのです。
 そこには事故、災難、病気、様々な苦痛が出てきます。神の言う事を聞いているならば、そんな事は一切関係なく私達は平安な航海をすることが出来るのです。

 それが分かるようになりますと、神の心に人の心が従うようになった、委ねるようになった、という事になるのです。

 そして、心を全開して〈神よ、我を守り給え。我を導き給え〉と祈る心を起こした瞬間、神は《分かってくれたか……。では、私のその想いを行ないなさい。私の御心を行ないなさい》と応(こた)えて下さいます。

 そして神の御心を、私達が神の御心を想い、人生行路を歩むならば、この世で苦しむ事は一切ありません
 しかし、私達の自我で、神の知恵と力を遮断して、神からの啓示を断ち切る事によって迷っているのです。

 皆さん方が神に還るためには、その通信されている神からの中心を素直に受け入れて、素直に航海する事によって、これまでの長い長い人生の度は終わり、神の御元(みもと)に還るのです。神の御国(みくに)に入る事が出来るのです。

 その事を、イエス様は「我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と言われ、私達に航海を間違わないようにと、常に神に至る道を示して下さっているのです。

 私、皆さん方の前にいるこの知花は、神の心とつながり神の御心を行っている状態にいます。私の心は常に神の愛に満たされ知恵に満たされています。
こんなにまでも神は私達を愛して下さっていたか」という事が分かるのです。

 今まで私達は色々と何回もその航海の旅に出ました。何世紀に渡って、何転生もかけて、この世に現れてきました。

 けれども、神の御心に従わず、勝手な振る舞いをし、勝手な航海をして来たのです。今こそ神に素直になり、神からの中心を受けて航海しようではありませんか。

 そうすれば、皆さん方は本当に素直な、健康と幸せの中で航海することが出来ます。波風は立ちません。人生の浮き沈みの苦難な道もありません。

 それは全て神が沈めて下さるからです。神が全てを示して下さるのです。荒れている海の航海と、静かな海の航海とは、神には全てが分かっておられ、「この道を歩むと平安である」と、「この道は苦難である」と、私達はその示された道に従って航海して行く必要があるのです。

 世の中の人は、今、神を散々空想し妄想してもがいています。しかし、それらの人々が空想している神は何処にも存在致しません。

 神棚に神を祀って、そこから啓示を受けて航海しようとする人ばかりです。神棚を通して神に通信を送れるものではありません。

 私達の生きた神の中心を、その受信機であり送信機である心を通じてのみ、神はお働きになられるのです。その受信機であり送信機というものは、皆さん方一人びとりが持っている『心』の他には存在致しません。

 その『心』が皆さん方の運命を決めているのです。心の素直な人は善い運命を辿(たど)りますし、心が非常に不真面目で自我の強い人は悪い人生を歩むのです。その人生行路を歩むわけです。

 それは自我の強さによって変わるものです。神に素直な心になって、神と一体になって、私達が人生行路を歩んだならば、非常にやすらぎと平安と幸せの人生行路となるのです。

 今、皆さん方の心に通信されて来るもの、神から通信されて来る事を信じますか。信じるならばあなた方は、今、即、信じる瞬間に導かれます。

「そんな事があるものか……」という疑問心があります。古い長い習慣で皆さん方は神から離れていましたので、中々神に素直になれないのです。

〈知花の言っている事は嘘ではないだろうか。そんな事があるのだろうか。おとぎ話の様なものだ〉と皆さん方はきっとそう思います。

 しかし、現実的に素直になってみて下さい。神と繋がりますと、物凄い強烈な力が皆さん方に現れるのです。

 それは宇宙力といって、この宇宙の力を我が力とする事が出来るのです。そのエネルギーは積極的です。これは神の心にのみ存在致します。それを受け入れる体制が出来たなら、受け入れたならば、物凄い力が出てくるのです。

 しかし、受け入れない人には力が出ません。そのエネルギーを破壊的な人の心で消極的なものに、破壊的エネルギーに、つまりマイナスのエネルギーに変換してしまうからです。

 本来、大宇宙そのものには、宇宙力という一つの力しか存在しません。その一つのエネルギーしか存在しないのです。そのエネルギーを受ける側が善い方向に使うか、悪い方向に使うかによって決まるのです。神の力を悪用するとその人は罪を犯している、という事になるのです。

 例えば、あなたの発する言葉、その発生音というものは神のエネルギーです。そのプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに、自らかってに変換したとするならば、それはその神のエネルギーを盗み取った盗人です。それが罪となって、苦しみとなって、その人に跳ね返って来ます。

 人に「○鹿○郎!」といった瞬間に自己破壊です。その神のエネルギーを、自分自身が変換した罪を報いなくてはならないのです。
 人を憎む心もその通りです。人を憎んだ瞬間に、神の積極的な心を人のさもしい消極的な心に変えてしまったのです。
 
 その建設的エネルギーを破壊的エネルギーに変えてしまった、変換してしまった、人を憎むという事は破壊です。

 せっかくの建設的エネルギーを、破壊的、消極的エネルギーに変換する事によって、私達はその罪を報いなくてはならないのです。

 ですから、皆さん方は神の積極的なプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに変えないようにする、その心掛けが必要です。

 そうなれば、皆さん方の前から破壊というものが全部なくなります。今は自らが破壊しているのです。

 皆さん方の想いが消極的である間は、一切、知恵でも力でも幸せでもありません。そのエネルギーの使い方を識別しなくてはなりません。

「私はもう駄目だ」という事はもうすでに消極的です。
〈私はもう駄目だ〉と想った瞬間駄目になってしまうのです。

 せっかくの健全なるエネルギーを、駄目だというエネルギーに自分が変えてしまったのです。その瞬間あなたはマイナスのエネルギーに満たされてしまいます。

 皆さん方の人体のエネルギーは消極的、破壊的エネルギーに、皆さん方が勝手に変換してしまったのです。

 自分は健康であると想っているのは、積極的エネルギーです。自分が素晴らしいと想った瞬間、それは素晴らしい建設的なプラスのエネルギーです。

 自分に力があると想った瞬間あなたに力が出て来るのです。自分には力がないと想う人は消極的ですから力はありません。

 事実そうなのです。その力は想いというもので、プラスにもマイナスにも自由自在に、私達人間の心が変換してしまうのです。

 厄介(やっかい)なものです。自分の想いというもので自分を低い低い次元にまで落としてしまう、本当に落としてしまうのです。

 この事は、皆さん方が食べているその食べ物にも言えるのです。例えば、このミカンがそうです。私がこのミカンを食べる時、
〈物凄く健康になる、力になる〉と思った瞬間、そのミカンは神の心に変わります。それは積極的エネルギーに変わるという事です。

 しかしこのミカンを食べて、人の心が〈これが力なんかになるものか〉と想った瞬間、そのミカンには力がなくなります。

 皆さん方はいつもお食事を頂きます。お食事を頂く時、神に感謝して
我が食する物は全て、神の積極的なエネルギーとなり、プラスのエネルギーとなって我が力となる》というその想いで頂きますと、その食事はあなたにとって強烈な力となるのです。

 しかし何も想わない。神にも感謝しない。ただ、食べたいから食べているだけという様な、マイナス思考を持っているならば、その食事は力にはならないのです。それは神の心に素直ではないからです。

神の心というものは、積極的な心のことです。それが神我です
「人の心というものは、消極的な心のことです。それが自我です」

 積極的は神我なのです。これが真の私達です。本来、私達は積極的な心しかなかったのです。神の心しかなかったのです。

 消極的は自我にあります。それが「自我の心」といって、自らの心を造り出してしまっている。それが次元を低めて、神の力を落としてしまっている状態です。

 ここにミカンがあります。皆さん方はこのミカンを食べて、このミカンに力があると思いますか。〈ある!〉と想うと、その瞬間にあなたはこのミカンにエネルギーを与えたのです。

 奪う事も、与える事も、あなたの心が神とつながり、受信する事によって、いくらでも出来るのです。この事は、このミカンではなく皆さん方の食生活全てのものに当てはまります。


-----それは、ここでも実験する事が出来ます。

皆さんの前で、このミカンに消極的力を与えると、マイナスのエネルギーとなります。そのミカンを食べる事によって力があるかないか。
 消極的とはどういうものか。心ひとつで、想い一つで、それを交換できる事を実験して見せます。皆さん信じますか。物凄い力なんですよ。

 あなたにこのミカンの皮を向いて頂きましょう。そう、皮をむき終わったら、半分に割って下さい。食べられるように、一切れ一切れに分けてください。

 別の人。はい、あなた、前に出てきて下さい。では、私がこの人に向けて、人間の心で〈このミカンを食べても力が出るはずがない〉という想いを起こします。それからこのミカンを食べてもらいます。

 まずミカンを食べる前に、この人の力を試してみます。では、立って下さい。私と腕相撲してみましょう。う~ん、相当力持ちですね。
 はい、もういいです。これだけの力のある人が、このミカンを食べると力が無くなるのです。

 はい。食べて下さい。食べましたね。どうですか、食べた瞬間、力がなくなりますよ。〈このミカンはもう駄目だ〉と、私が消極的な想いを起こしたから、この人はもうボロボロなんですよ。このミカン一切れで力がなくなるのです。

 今、この人は子供みたいな力になっています。力が入らないのです。では、もう一度私と腕相撲してみましょう。さあ、どうでしょう。
 この通り力がないのです。あなたがどれだけ頑張ってもこの通りです。まるで小さな子供と腕相撲しているようなものですね。

 これを、今度は宇宙エネルギーに変えます。積極的エネルギーに変えてみます。このミカンを食べますと、宇宙の力がその人に存在します。

この同じミカンの一切れに《これは神から与えられた偉大なるエネルギーの根源である》、と私はこれに感謝してこの人に食べてもらいます。

 では、あなた、エネルギーが出て来ると思って、このミカンを食べて下さい。このミカン一切れを食べる事によって、もうこの人は、今、大変な宇宙力を持っています。これは、神から宇宙の力が与えられたのです。

 これは、前の消極的エネルギーから、積極的エネルギーへ、プラスのエネルギーに変換したのですね。

 このように皆さんの中にある積極的な想いと消極的な想い、その想いというものが、これほどの力があるという事を分かって頂きたいのです。

 これは誰が出て来てやっても同じことなんです。誰か他に希望者があれば前に出て来て下さい。誰でもその力を試す事が出来るのです。

 だから、皆さんの想いでこのミカンをいくらでも変換出来ます。変換して〈宇宙大の力が出る〉と想って食べてみて下さい。事実、その通りになっています。

 しかし、その力は目には見えませんから、証明する事が出来ないのです。こうして試す事は出来るのです。でも、それを誰も信じてくれないのですね。

 言葉も力です。力は言葉に出て来るのです。言葉にどれぐらい力があるかという事を、知らなくてはなりません。
 私は今ここおにいるこの人から、いくらでも力を奪う事が出来るのです。この人を零(ぜろ)にして、私は百にする事が出来るのです。

 では、そこのあなた、前に出て来て下さい。さあ。私と握手しましょう。こうして握手する事によって、私はこの人から力を奪う事が出来ます。

 私位はこんなに背が小さいでしょう。この人は大男ですね。この人の方が力がありますね。でも、もうこの人は力がないのです。私に全部この人のエネルギーが流れてきたのです。

「私が全部吸い取った」という言葉を出しましたので、この人にはもう力はないのです。はい、あなた、力を入れてみて下さい。どうですか?力が入らないのですね。

 その力を奪う事も与える事も出来るんです。またこうして、私がこの人にエネルギーを与えます。《エネルギーよ。私からこの人に流れて行きなさい》と想った瞬間に、瞬間にですよ。時間も空間もないんです。
 
 瞬間にこの人のエネルギーは流れて行くのです。どうですか。皆さんお分かり頂けますでしょうか。
 はい、もう結構です。ご自分の席にお戻り下さい。-----

 
 これが皆さん方の思いの中と、言葉の中にあるのです。皆さん方の日常生活の想いが、如何に無知な消極的エネルギーに、マイナスのエネルギーに変換しているかという事です。

 あなたの病気の原因は、みんなこれから来ているのです。
〈私は病気だ〉という想いは病気のエネルギーが流れます。そうすると病気を必ず造ります。なぜ自分の中に自分で病気を作りたがるのですか。

自分は健康である〉と想えば健康のエネルギーが流れるのに、〈自分は病気だ〉という想いを起こすと、瞬間に、あなたはそのエネルギーに満たされるのです。病気というエネルギーという悪魔にやられてしまうのです。その事を無知というのです。

 私は、いつも皆さんに申し上げております。「なぜ健康になる根源を、皆さん方の心一つで健康にもなれるのに、なぜ不健康な想いをするのですかと、常に申し上げているのはその意味なのです。

 私がなぜ病気知らずだと、私の家族皆が病院知らずだというと、人間は所謂(いわゆる)心で病気を造り、病は気からという様に、《私達家族は皆健康である》という想念を一杯持っているからです。

 そうしますと病院に行く必要はありません。常に、健康なエネルギーが流れているからです。

 皆さん方が病気という想念を起こした瞬間、病魔があなたに入ります。そのマイナスのエネルギーが、破壊的エネルギーで自己破壊を招くのです。

〈近い内、私は病気になりはしないか……〉と想った瞬間に流れています。そして「とうとう私は自分が思った通りの病気になってしまった。私は超能力を持っているのだ」と言うのです。

想念は実現の母』といって、それは想った通りのあなたにしかなれないのです。病気になる事をあなたが望んだのです。

 自分はどこどこが悪いのだと、悪いエネルギーを毎日送るのです。何処に行っても、誰に会っても「私はどこどこが悪い。何々という病気だと思う」というのです。

 そうすると、病気だと想うエネルギーがそこに集中的に集まって、その通りの病気になってしまうのです。それを想っている間は絶対にその病気は治りません。

 なぜならば、自らが病気だというエネルギーを、マイナスの破壊的エネルギーを送るからです。それを送らなくなった時に治ります。忘れた時治ります。

自分は健全である。その様な事は私の心の過ちであった。エネルギーの使い方が分からなかった為、私は心の過ちを犯した》という事を、悔い改める事によって、今、即、治ります

「そんな事があってたまるか」と、反発する自我の強い人は治りません。
神に素直になって、〈想いというもので、こんなにも自分の肉体がエネルギーに関係しているのか〉

という事が分かって、自分の心が神の心に素直になった瞬間に、皆さん方に救いが、癒しの手が差し伸べられます癒やすも癒さないも自分自身にかかっています。神に素直になるかならないかだけなのです。
 
 神の心というのは積極的な心、積極的な想いの事です。《自分は病気である》という想いは消極的です。積極的というのは〈自分は健康である〉という想いの事です。それが積極的な心です。プラスのエネルギーの事です。

 だから皆さん方には、健康的なエネルギーしか与えられていないのです。健康の力しか与えられていないのに、自らの過ちがその力を破壊的に使ってしまい、自己破壊を招いているのです。

 身体の何処かが痛いという人がいたら、すぐそこで〈あなたは痛くありません〉と、それに命令するだけで、その積極的なエネルギーが入って行くのです。
 その人に入って行くエネルギーは、あなた方の心でコントロールするのです。

神の意識を、神の心を我が心として』。それを御言葉(みことば)といいます。言葉をエネルギーに変換した、その積極的な言葉遣いは神の御心です。
消極的な言葉遣いは悪魔の言葉です。悪魔からの使いです。

「私は病気だ」という言葉は神にはありません。神の心にはありません。悪魔の心にしか存在しないのです。
 それは魔の心です。神の心は積極的、魔の心は消極的であるという事を忘れてはなりません。

 皆さん方が今、魔の心を多く持っているのか。神の心を多く持っているのか。それによって皆さん方の運命が違って来るのです。

 しかし、そういう心を今、瞬間的に使うだけではなくて、常日頃からそういうエネルギーを想っている事です。

私と神は一体である。神の全ては私のものであり、私のものは神のものである」と。

知恵も、力も、愛も、全て私のものとなってそこにある〉と想う事です。四六時中想うことです。そうした時、皆さん方は四六時中、神の中で生きています。それは素晴らしいことなのです。

 これが事実である事が、いくらでも証明できる様になります。
例えば「水を飲んで病気を治す」「水を飲ませて病気を治す」というその事は、〈この水に宇宙エネルギーが充満している〉という想い、

想念を起こす事によって、事実その水に宇宙エネルギーが集中されて癒しの水となるのです。
 これを飲む人は物凄いエネルギーに満たされて、そのお陰で病気が癒されるのです。皆さん方が四六時中、神の中で生きておれば、それは事実において出来るのです。

 神の力には私達の自我では及びません。及ぶ事が出来ないのです。ですから、神の力というものを皆さん方は半信半疑でいるのです。

 癒す力も全てあなたに備わっています。特別な人間というのはありません。神に素直に行っているか、行っていないかだけなのです。

 人の病気は「はい、あなたは治りました」と、言葉だけで癒せます
「治りました」という瞬間に、その人が癒されるのです。それがイエス様の癒しであったのです。イエス様は大病人でも癒されました。

 その事は、イエス様が完全なる神の心と、ご自分の心が一体化なさっていたからです。ですから、イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。


『父なる神と私は常に一体である』

 父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。

 ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。
 実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。

 それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。

 それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い、そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。


人間はなぜ神か 創造者と被造物

 皆さん方があの世に帰った時、皆さん方は何を問われると思いますか。
 神は「あなたは私に何をしてきたか」と言われるのです。
「隣人に何をして来たか」と言われるのです。
 隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です。

 ですから、「あなたは、わたしを憎んで来ましたね。私に嫉妬しましたね。私を貶しましたね。私の悪口を言いましたね」と言われます。

 あなた方がそのまま、罪、汚れのままで周囲の人を憎んでいたならば、謗(そし)っていたならば、怒っていたならば、裁いていたならば、そのように問われると思います。

 悟っている人ならば、内界に還る人ならば、この形体に捉われずに、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観のです。

 皆さん方がこの世に生を持っているのは、一つのものになるためなのです。皆さんの心には分離と差別があります。一つになっていないのです。

 そして『一つの存在である』と悟る事が一番大きな悟りです。
これを「大悟」といいますあなたの中の生命も、私の中の生命も、隣人の中の生命も一つの生命、一つの生命しか存在しないのです。

 この世に肉体を持っている者だけではありません。先にあの世に還った方々、肉体形体から離れた方々も一つの生命であるのです。

 同じ生命です。あなたの命、私の命というのは何処にもありません。その事を皆さん方は非常に理解に苦しんでいるのです。
 命は分離しているものではない。どうでしょうか。分離していると思いますか。今ならお分かりだと思います。

 この全宇宙というものは、一つの生命にあるのです。この事を「大生命」といいます。この大生命の中に、大生命という存在の中に、個別化されたその形体というものがあるだけです。いくつも形体があるわけです。

 そして、皆さん方の生命はこの大生命と一体です。この大生命から離れているものは一つも存在しない事を、皆さん方によくご理解頂きたいのです。

 幾つもあるように見えますが、皆さん方はその形体というものを見るから、「私の命だ、あなたの命だ」というのです。

 その大生命という一つの中に、皆さん方の生命があるのです。外側を見るから、目が眩んで私達は迷うのです。内を観れば一つである事が分かるのです。

内観しなさい。神の国は汝の内にあり、外に神を求むるなかれ」というのは、その事を言うのです。

 私達は見えるものによって無知にされています。例えば、私があなた達に「あなたと私は一つですよ」と言った時、あなた方は怒るはずです。

「こんな汚い顔の人と私は一体ではない」というはずです。
入れ物が違うだけで、形体が違うだけで、中身はあなたのものも私のものも、みんな同一のものです。

 世の中に、色々な着物があるようなものです。しかし、内なるものは同一のもので、皆さん方は神の分け御霊であるのです。分生命でもあるのです。

 その分生命とは、このように個別化されているが故に、個別化された生命の事を「分生命」というのです。しかし、個別化と分割とは意味が違います。

 形体の外にも神はまします。と同時に、内にも神はまします。
それは「私達は神の中にいると同時に、神は私達の中にいます」という事です。これがイエス様のお悟りであり、お釈迦様のお悟りであったのです。

 皆さん方も、最高の絶頂の悟りが得られるのです。しかし、一つの問題があります。皆さん方がここで神理の話を聞くには聞きます。

 ある人は石のように硬い土に私の神理を聞いた種を蒔こうとします。私の神理を聞いて「ああ、素晴らしい」と一時的には涙を流して喜びます。

 しかし、せっかく発芽した種も、石のように硬い土のため根を張る事が出来ず、それは枯れ果てて行きます。

 そして、またある人は雑草の中に種を落とします。神理の話を聞いたものの周囲はみんな雑草のため、その雑草の影響を受けて同じ様な雑草になってしまいます。それらの人達は、せっかくの神理の悟りというものを実らす事が出来ないのです。

 ある人は、良き土地に深く根を下ろします。これはその人の信念で、信仰で、私の説く神理を、心の奥底に根強く実らす事のできる人です。そういう人は実りのある魂となります。

 ここで私の話を聞いて、涙を流して感動をしたものの、私の元を去って行く人が一杯いるのです。

 これは石のように硬い土に植えられた神理で、一時的に感動はしたのですが根付く事無く枯れてしまい、それは何の役には立ちません。

 あるいは、神理はよく理解したつもりでいたけれど、家族達や周囲の人達がみんな迷い人であるために、そこで身動きできず、そのまま雑草と共に枯れていってしまう。

 これは雑草の中に蒔かれた霊的種といって、この事を、イエス様は麦の種蒔きの例えで言っておられます。

 私のこの話を皆さん形は聞いていますが、どれだけの人が根を下ろして、それを我がものとするか、自分のものとしてそれを生かすか。

 生かすも殺すも自分次第です。良き土地に自分の信仰を植えているか。石のように固い土地に植えているか。

 道端に植えて黒い鳥(カラス)に食べられてしまうか、雑草の中に植えて雑草の影響を受けているのか。今、皆さん方のその道は非常に険しいものですが、自らそれを開かなくてはならないのです。

 如何でしょうか。もう大体、神についてご理解頂けたでしょうか。今までのように、世の中で説かれている神々と、今聞いている神々と、どちらが正しいと思いますか。
 神棚や祭壇の中に神がいるというのは、幼稚であるか、白痴であるか、何かであるはずです。無知なるものは、神に対して罪するものなのです。

 神は私達の手よりも足よりも身近に、現実的に私達の中で働いておられるのです。その神を外に求めています。何百万もかけて神棚を作り、その中に神がおると一生懸命拝んでいる人がいます。可哀相な存在です。

 これもみんな無知の仕業です。その形体に、被造物に目が眩(くら)み神を知らない者です。ですから、今まで自分が信じて来たものを、全て放棄しなければなりません。

 それには大変な勇気を必要とします。
本物を知るためには、これまでの偽物を放棄しなければならないからです。

 神のみが生きておられます。神のみが生きておられるのであって、人間が生きているのではありません。それをよく理解して下さい。
皆さん方は神以外に何かがあると思っているのです。何もないのです。

 神は無限です。神の他になにかがあるならば、神は無限にはなりません

無限の中に別のものが存在すると思いますか。無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。

 無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。神の他に何かがあるというならば、それは人間の心の迷いが造り出したものなのです。それを「不完全なもの」というのです。

 私達はまだそういう神理的なものに、目覚めていないのです。それに目覚めなくてはならないのです。

〈な~るほど。よく考えてみると神からの分離はありえない。なぜなら神は無限であるといわれるし、その無限の中に私達は存在するのだ。

 その事が達は神の中に生きているという事になる。そうすると神のみが生きているという事になるのだ〉と。

 神の他には何も存在しない。そのことを神一元といいます。光一元ともいいます。

 お釈迦様は「宇宙即我」と言われました。宇宙即我というのは「宇宙は私であった」という事です。なぜならば、大生命という宇宙の中にあなたは存在するのです。そして、全体としてのあなたであるのです。

全体はあなたであり、あなたは全体の中で生きている」。その全体が大宇宙であるのです。その宇宙はあなたであると同時に、あなたは宇宙の中の存在であり、その中の生命であるのです。
 ですから、皆さん方も「宇宙即我」なのです。

 何処を見ても、何を見ても神しかありません。神は天をお造りになり、地球をお造りになり、その中に住む動物、鉱物、植物、そして人間をお造りになったのです。

 人間も動物、鉱物、植物の全て、あらゆるものは神に被造物に過ぎません。その中に、神ご自身が命として宿っておられるのです。

 ですから皆さん方は、やたらに生き物をないはずです。殺してはならないのです。それは神の宮を破壊することになります。

 命は破壊する事が出来ません。しかし、被造物である宮という、この世に現れる使命を果たさんがための形体は、崩す事が出来るのです。

 イエス様は十字架にかけられても、この形体は破壊できても、命は破壊出来ませんでした。すぐ復活されたのです。3日で甦られたのです。

 イエス様は偉大なる方でしたので、肉体までも復活して甦られたのです。イエス様が如何に偉大なる人物であるかという事は、創造者と被造物の関係を、すべてお悟りになられた方であった事で分かるのです。

 肉体を持った人間だけが、この大生命の中にいるのではありません。肉体を離れた皆さん方の身内の方は、幽体をまとったという形体だけが違うのであって、一つの大生命の中におられるのです。

  だから身内の方々は「私は肉体を離れても、もっともっと身近にあなたと共にいるのですよ」と言われるのです。

 なぜならば、この三次元にいるときには、どうしても三次元という肉体の束縛を受け、飛行機に乗らなくてはならない、自動車に乗らなくてはならないのですが、

 しかし、この世を去った方々は、飛行機も乗り物も何も必要としません。ご自分が行きたいと思った所に、即、いつでも、何処でも、自由に行くことが出来るのです。

 そして皆さん方は、その方々からいつでもご守護、ご加護を頂けます。ご指導頂けるのです。だから「私は生きていた時よりも、もっと身近に皆さん方のそばにいます」と言われるのです。

 イエス様は二千年前にお亡くなりになりましたが、現実にイエス様の御名(みな)を語れば、即、そこに救いとして現れると言われているはずです。

「キリストの御名において」と唱えておられるはずです。皆さん方はいつでも、イエス様のキリストの救いを受けることが出来るのです。あるいは、お釈迦様を念ずる者は、色々と仏陀のご加護を受ける事が出来るのです。

 しかし、皆さん方に一番大事なことは、その創造者と被造物との関係をよく理解する事です。悟ることです。

 必ず、その造られたものの中には、神がおられる事を絶対に忘れてはなりません。

 花一輪の中にも、小鳥一羽の中にも、どんなものの中にも、その形体を神が創造されて、その形体の中に神が宿っておられるのです。その事を、皆さん形に強く申し上げたいのです。

 これを本当に、心からそれを信じ、心から信仰出来た時、皆さん方はどういう気持になると思いますか。これこそ天界というものです。

 自分の心の中に邪気が残ってない。愛しか残っていない。慈悲しか残っていない。これを「仏の心」というのです。「神の心」というのです。
 その時は、もうすでに皆さん方は久遠の生命を得ています。生死をさまよう事はありません。

 外界というものに、束縛されてはならないのです。この世の制限から、束縛から、皆さん方は開放されなくてはなりません。その無知が、そこに捉らわれる無知が、制約を受け束縛を受けるのです。

 皆さん方を苦しめているのは、この制約、束縛なのです。これを主体性として捉えることによって、苦しみを得ているのです。

 主人であり、支配者である本物は内におられます。偽物の写しである外なる形を、私達は偽我といっているのです。
 偽物の我、実相の我、神我そのものの我。その区別が皆さん方には出来ていないのです。

 これが理解できた時、「もう何ものも私を束縛する事はない。それは私の中にまします神が全ての支配者であった。この支配者は内なる神の現れであられた」と、自覚できる様になるのです。

 しかし皆さん方は、まだまだ古い習慣性を持っていますので、なかなかそこを理解しようとはしないのです。

 その自覚を瞑想を通して〈この私の肉体は神がお造りになって、この私の中に神が宿っていらっしゃるのだ。

 イエス様が「人間は生ける神の宮である」と言われたのはその意味だったんだ〉と悟る事が出来た時、もう憎むものがない。怒るものがない。喧嘩をするものがない。

 それを理解していない間は、皆さん方はまだまだ生死の苦しい、浮き沈みの激しい奴隷化を、束縛を受けています。

 これに捉われている人間は、生きているようで死人です。だから、私は「この世の中で本質的に生きている人間を見た事がない」というのは、その意味なのです。

 インドのサイババさんは、こういう事の形体の全てをお悟りになり、その法則をご理解されていますので、神の化身と言われているのです。
「自分は神の化身である」と、ご自身が言っておられるのです。

 あなた方もそれが分かれば、「私も神の現れであった」「神の化身であった」というはずです。そうじゃありませんか。

 本質的において、皆さん方とサイババさんと何が変わりますか。それを知っているか、知っていないかだけなのです。

 皆さん方も神の化身です。ただ〈化身ではない〉と思っているのは、外なる形体に目が眩まされているだけなのです。

 外なるものと内なるものとの理解が出来るようになります皆さん方はもう救われています。このことは非常に大切な事なのですが、皆さん方は、今ここで解放されるか、そのままその外なるものの被造物に捉われて、それの奴隷下に置かれるか。束縛下に置かれるか。ということです。

 支配者は内にまします。しかし、私達は、今、外なるものの形の支配下に置かれているのです。これを物質の奴隷化といい、物質の奴隷にされているのです。

 この世の如何なるものも、私を妨げる事は出来ません。
「私はこの世の妨げを受けない」という事は、この被造物である形体は、この創造主が全てを支配し、創造主が神である事を私は知っているからです。

 その創造主が、全知全能の神が、自らの中にも宿っておられる事も私は知っているからです。だから、私はこの世のものの支配者なのです。この世を克服した者なのです。

 イエス様もそう言われたのです。しかし、皆さん方はまだまだ克服していません。形や姿に捉われています。この世の敗北者です。

 真の勇者というのは、被造物をすべて自分の内面(神我)によって支配させた時、形あるものの価値観というものを知っています。朽ち果てるものである事も知っています。

 色褪せるものであり、変化してやまないものがこの形体なのです。だから、皆さん方の形体は、どんなにあなたが若くありたいと思っても年をとって行きます。その年を取っていく我を、皆さんは見つめているのです。

 あなたに年を取らない我がいるのです。これを何かといいますと、創造者であられるあなた自身の命そのものの事です。

 本質においては年を取りません。あなたの着物が古びていくようなものです。あなた方は、自分の着けている着物が古くなったら「私は年を取った」

と言いますが、着物が年を取ったのであって、あなた自身が年を取ったのではありません。着物が古くなったのであって、あなた自身が古くなったのではないのです。

 肉体というものは、丁度(ちょうど)、着物が古くなると脱ぎ捨てる様なものです。肉体が着物ですから、着物は永遠ではありません。

 肉体をいう衣装、即ち、神現す衣装も、古くなると脱ぎ捨てるのです。命という中身が永遠なのです。

 皆さん方には「久遠の生命」をよく理解して頂きたいのです。一番の問題は、創造者と被造物の関係をよく理解する事です。

 信念において、本当に心の底から理解した時、もうあなたはこの世で悪口を言わないはずです。
 言っていたならば迷いです。分かっていないからです。悟っていないからです。 

 皆さん方が周囲の人の悪口を言うならば、あなたはまだまだ本質的には無知です。自分自身が死人であり、無知であり、迷いである事を知らなくてはなりません。

 よくよく考えてみて下さい。これは一度聞くだけでは分かりませんので、常に瞑想(内観・全てに神を観るを)し、軽く目を閉じて、

〈この肉体は神がお造りになって、神がここに中に宿っておられる。そうなれば人様はみんなそう(神・大愛)なんだ。周囲の者、生きとし生けるものみんなそう(神)なん

と分かるようになった時、皆さん方はものを正しく観ている事になるのです。これが八正道の「正しく観る」「正しく思う」「正しく語る」というものです。

 今、皆さんの五感の目というものは、正しくものを観ていないのです。形体しか見ないからです。皆さんは中身を観る事は出来ません。

 外なる見るという事は、この「見る」です。内なるものは「観ずる」事です。それがこの「観る」というものです。「見る」と「観る」とでは全然違います。

 皆さん方は「みる」といえば形を見るものと思っています。「観る」というのは「観ずる」事ですから、この「見る」というのは形体を見て、迷いの五感で見ているのです。

 しかし、これはあなた方の心の目で観るのです。皆さんはよく、みる、みる、と言いますが、この「見る」事だと思っている人が多いのです。

「見る」と「観る」というように、「みる」というものが二通りあります。
『観る』これを心眼、あるいは、意識の目といいます。

 軽く目を閉じて何かを想うと、その想ったものが観えて来ませんか。心の目で観えるはずです。

 あるいは、宇宙を観る事も出来るのです。その観るがこれなのです。目を閉じていても観えるはずです。
 それは心が観ているのです。意識が観ているのです。

 皆さん方は「みる」といったらすぐ形に捉われて、この見るを考えるのです。形を見ると思っているのです。それは大きな間違いです。そこをよく考えて頂きたいのです。

 私達は目を閉じていても色々なものが観えます。心で想っている通りそれが観えます。例えば、昔どこか遠くに行った時の場所も観えます。遠く離れた人の顔も観えます。心で想ったものが観えるのです。

 しかし、五感の目では、遠くの場所や遠く離れた人の顔は見る事は出来ません。目を閉じていても心の目はみんな観えるのです。

 だから、この五感の目は如何に近目であり、何も分からない無知の存在であるかが分かるのです。

 心の目、意識の目は自由です。心の目で意識の目でものを観るならば、色々なものが観えるのです。そして、意識の目がそこ(大生命・大愛・神我)に向いた時、皆さん方は現実にそこに行って観ているのです。それがはっきり分かるようになります。

 今は、皆さん方はそこまでいっていません。なぜならば、本物が、自分と創造主の関係さえ分かっていないからです。

 皆さん方は目を閉じて瞑想をしている時、色々なものを観ているのです。その事についても、もう大体お分かりになったでしょう。

 皆さん方に私が強く申し上げたいのは、神と造られたものとの関係です。その形あるものはみんな神が造られたものであって、我々人間が造ったものは何一つ無いという事です。

 何度も申し上げていますが、働き手も神であるのです。皆さん方は自分が働いていると思っているのです。あなたが働けますか。
あなた自らは一切[無]なのです。肉体は働かないのです。

 働いているのは、あなたの内なる神があなたの中で働いているのです。生きているのも神のみが生きているのであって、働いているのも神のみが働いているのです。

 私がこうして皆さんの前でお話ししているのも、私という知花が働いて話をしているのではありません。私の中に、働き手である神、生命そのものがあればこそ、私はこうして皆さんの前で働く事が出来るのです。

 あなた自らは無です。あなた自らは何も成し得ることは出来ません。あなたに命という神の活動源がなければあなたは働けますか。
 あなたの働きは誰が働いていると思いますか。それがあなたの中の神です。

 ですから、皆さん方は自分が仕事をしたとか、何かをしたとか思っていますがそれは錯覚です。あなたは自分では何も出来ないのです。
でも、みんな出来ると思っているのです。そこに非常に問題があるのです。

 もう一度申し上げます。あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは本当に現実的に仕事が出来ますか。しかし、皆さん方は出来ると思っています。それが問題なのです。

 あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは現実の仕事が出来るでしょうか。その働き手が神なのです。その神が仕事をしているのです。

 それが分かった時、皆さん方は無我の境地となります。
私は自らは無であって、私の中で神が働き給う。なるほど、中で働き給う働き手は神であったのだ〉と、この事が分かると謙虚になります。

 もう威張らないのです。なぜなら威張るものがないのです。自らに威張れるでしょうか。自分が働いていないのに、「私がやった」というのは盗人です。謙虚な気持ちがないからです。

 神を知らない人が威張るのです。自分が造ったものもなければ、自分がやったというものもないのです。みんな神が働いておられるのです。

 そうなりますと、あなたは何を威張るのですか。あなたの中に神が働かなかったら、あなたは何が出来ますか。その働き手は神なのです

 今、世の中で威張っている人は、神を知らない、真の自分を知らない人です。神がどの様にして自分の中で生きておられるのか、働いておられるのかが分からないのです。いかに世の中が無知であるかが分かります。

 今、如何に自分が無知であるか、実相において無知であるかが分かります。それはみんな形体を、その形である被造物を物差しとして考えているからです。
 だから、皆さん方は「私がやった。私が造った。私のものだ」というのです。

 完全なる神を、皆さん方は蔑(ないがし)ろにしているからです。神をそっちのけにしています。

 内なるものを皆さん方は自覚しておりません。内なるものこそが本物であって、外なるものはその道具にしか過ぎない、写しにしか過ぎないのです。

 皆さん方の子供を造るのも神がお造りになるのであって、お母さんが子供を作るのではありません。お母さんが子供を造れたなら大変な事です。

 お母さんが子供を造るのではない、お母さんの中に宿っている神が子供を造るのです。命が生命を造るのです。

 それを「これは私の子供です。私が造って、私が産んだ子供です」というならば、それは無知であるという事です。

 本物を観ていないのです。形でものを判断して、被造物でものを判断して、外なる目でものを見ているのです。それは大きな間違いです。

 本物を観ることです。真の我(神我)を知ることです。それには、日常生活の中で本物の観方(みかた)を訓練しなくてはなりません。
それを訓練して、いつも自分に言い聞かせるのです。

創造主が私の中におられて、私の肉体は被造物であって、その中に神はおられる〉と。

 神がおられるのです。神が自分の中におられるのなら、人様の中にも神はおられるのです。

 だから人様を神とみなし、見えるものの中に、全て神が宿っている事を知るようになったら、感謝と、喜びと、分かち合いと、助け合いになるのです。
 
 今、助け合えないのはなぜでしょうか。それは形に目が眩んでしまっているからです。ご理解いただけたでしょうか。

 今日から皆さんの心は晴れると思います。清くなると思います。それは、憎むものがないからです。

 謗(そし)るものがないからです。怒るものがないからです。その対象物がないからです。怒りようがないのです。

 それを知ったならば怒れますか。奪い合いも出来ません。なぜなら、人から奪う事は神から奪う事になります。
 だから、人を嫉妬する事は神を嫉妬する事になるのです。

 私がいつも言う「迷っている人間の言葉に迷わされてはならない。迷っている姿に迷わされてはならない」とは、その事なのです。

 その彼等は本質から離れた迷い人であって、本来の姿を現しているのではないのです。

 だから「闇の中にいて闇に染まらない我であれ」というのです。その闇に染まる人間というのは、雑草の中に生えている霊的種であるのです。

 周囲が闇で、迷い人で、この創造物に目が眩み、形に目が眩んでいるものが自分の家族の中に多くいるとすると、あなたは雑草の中に蒔かれた種のようなものです。

 だが、この影響を受けないように、力強く芽を吹き出す事が大切です。周囲が如何に迷い人で雑草であっても、その影響を受けない力強い根強い信仰が大切です。

 家族の者が勉強している同士であれば、周囲に雑草がありませんから非常にやり易いことはやり易いものです。実りが大きいのです。

 実を三十に付ける者、五十付ける者、八十付ける者、百付ける者、実り多きあなた方はその環境によっても十分影響を受ける事も分かります。

 しかしたとえ家族の者が迷い人で雑草であったとしても、それを乗り切らなくてはならないのです。

 これからは、皆さん方の目は、正しくものを観る事が出来ると思うのです。今までは正しくものを観ていなかった事に、反省出来るでしょうか。

〈無知の目で、五感の目でものを見ていたのだな。形でものを見ていたのだな。内面の心(全てに神を観る見方)でものを観ていなかったのだな〉という事が分かると思います。

 正しく観る(全てに大愛を観る)ということは、五感の感化(外)にあるのではありません。正しく観る(神一元・愛一元・光一元というのは、私達の神我の中にあるのです。

 この神理を皆さん方に見せる事は出来ません。神理は皆さん方が悟るしかないのです。感じるしかないのです。それ以外に方法はありません。

 是非、1日も早く皆さん方が、正しくものを観たり感じたりする事が出来ます事を、お祈り致します。


人間はなぜ神か 神の心 人の心

『父なる神と私は常に一体である』

 父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。

 ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。

 実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。

 それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、
 神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。

 それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、
積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い
そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。

 それは、全て建設されて行きます。その建設されたものを破壊しているものは、消極的な心、即ち、マイナスのエネルギーで、
「私はもう駄目だ。私位は学問もない。力も知恵もない。財産もない」という悲観的なもの、消極的なもの、これが自己破壊を招くのです。

 私達が本当に神に素直であれば、痛み苦しむ事もないし、病気になる事もないし、あるいは、経済的にも苦しむ事もないのです。

 全てのものが私達の実相の世界に、神の恵みを与えられているのですが、ただ私達が受け取らないだけなのです。

 全てのものです。全ての全てです。その全てのものが知恵であり力であり、その全てのものが与えられているのです。

 この私が神と一体である限りは、この世に存在する自然の摂理さえも、私を妨げる事は出来ません

 例えば、私がどこか遠い所へ行こうとすれば、例え飛行機に乗る切符がなかろうが、それを妨げる事は出来ないのです。必ず私に飛行機の席を開けてくれます。

 それは自然をみんな克服しているからです。自然のものの節理によって私を妨げようとする事は出来ないのです。

 そして、その出発する日に台風が向かってきたとしても、私自身がどうしてもその所へ行かなくてはならない神の御心であれば、私は必ず行けるのです。

 その台風はよそに流れて、私の行く手を遮(さえぎ)る事は出来ないのです。なぜならば、そういう風さえも、雨さえも、そして海さえも、全ての自然を支配しているのが私達の力であるからです。

 ですから、今、人間が思っているその様な小さなものを、自我で支配しているのではありません。これは全てのものを支配している力です。それが宇宙力なのです。

 それが皆さん方の一人びとりの中にあるのです。それを素直に受け入れるか。素直に自分のものとするかしないか、という事です。

 しない人は苦しみます。する人は、素直になれる人は本当に幸せで健康で力と知恵に満たされて、安らぎの生活を送ることが出来るのです。毎日が楽しいのです。

 こういう楽しい人生行路があったのに、その楽しい嬉しい人生行路は誰のお陰だと思いますか。それは神の御蔭(おかげ)なのです。

神の心を素直に受け入れる』。この私達の心が、神の心を受け入れる事によってのみしか出来ないのです。これを信仰というのです。それ以外の信仰は何処にも存在致しません。

 真の信仰というものは、実在する神の力を、神そのものを受け入れる事なのです。神そのものに全託(ぜんたく)する事なのです。
 これは真の救いであり、現実的であり、実際的となるのです。

 皆さん方はもう今日から健康になれます。その秘訣をここで学びました。自分の身体に関して一切消極的な想いを起さない事です。

 健康になる秘訣をもう一つお教えしましょう。それは年を取らない事です。なぜ年をとると思いますか。

〈自分は幾つになったから〉と、年齢を意識した瞬間に私達は年を取るのです。年齢を意識しない事によって年を取りません。

 本来、人間に年はあるのであって、実相世界には年は存在致しません。私もその過ちを犯して40数年余りの肉体舟を持っておりますが、
 以後年を取らない様に、年を数えない様に、幾つになったと聞かれても、
「分かりません。神のみが知っています」と言っています。

「あなたは幾つになりましたか?」「分かりません」と言っています。
「年と私とは関係ありません」と言っています。

 自分の年さえも忘れるくらい幸せになる。これは浦島太郎になります。浦島太郎は年を忘れていたのです。それは真理です。そうすれば、自分は浦島太郎の様に年を取らないのです

 これは海の中で年を取らないだけではなく、私達が本当にこの世の竜宮のような、幸せで平安で生きる喜びに、人を助ける喜びに、神の心に満たされていたならば、この三次元が、即、竜宮であるのです。

 今の私には、自分の年を考える時間など持ち合わせておりません。喜びにあふれて何日であるかも何曜日であるのかも、事実分からないのです。

 旅をしていても今日は何日なのか、何曜日なのか、殆ど意識していません。私に聞いても「暦を見て下さい」としか言えないのです。
 分からないのです。 なぜならば、私は、時間、空間、距離を超越しているからです。

 皆さん方は心配をします。その心配する事はマイナスのエネルギーです。
よく心配するお母さん方がいます。心配は破壊のエネルギーであり、自己破壊のエネルギーであり、消極的なエネルギーです。

 子供を心配するお母さんは、あたかも愛情深いお母さんの様に見えますが、そのお母さんは「無知のお母さん」になります。あるいは「無知のお父さん」にもなります。それは子供を破壊します。

〈カゼを引きやしないか。病気になりはしないか〉と、子供に、毎日マイナスのエネルギーを送っているのです。そうすると、子供は熱を出したり、カゼを引いたり、とうとう病気になってしまった。

〈私が思っていた通りになってしまった。私はそれを見抜く超能力を持っている〉と、自分の子供を病気にして自分を自慢し、それを人に言いふらしているお母さん方もいます。

「私には2~3日前からこの子がカゼを引くと分かっていたのです。案の定、熱を出しました。私は直感力がいいのですね」という人がいました。

 それは病気になれ病気になれと、「なれ」とは言葉ではいいませんが、〈なる、なる〉と思っていますからその通りになるのです。それは破壊のエネルギーを、子供に注いでいるからです。

 その意味がお分かりでしょうか。そのエネルギーの使い方を間違えるとあなたは罪人となります。目に見えないエネルギーで、人を傷付けているのではありませんか。

 例えば、癌患者がいたとします。医者は癌は治らない不治の病と思っていますから、〈これは癌だから、もうじき死ぬであろう〉と、このマイナスのエネルギーをまず最初にその医者が起こします。看護婦が起こします。

 医者は家族の人に伝えます。奥さんは〈私の主人は癌で死ぬのだ〉と、子どもたちは〈お父さんは癌で死んでしまうのだ〉と、家族全員でマイナスの破壊的な死の念を送ります。

 そして身内の人を始めとして、親戚の人、知人、友達までが寄ってたかって殺してしまうのです。集団殺人です。

〈癌だから治らない。もう助からない。もう死ぬのだ〉と、大勢の人からマイナスのエネルギーを送られますから、もう本人はたまったものではありません。

 癌は治ります。決して不治の病ではありません。しかし、一旦癌を病むと殺す人が周囲に一杯いるのです。妻でさえ主人を殺す張本人です。

〈癌は死ぬ。もう助からない〉と、大勢の人の心で消極的な心で集団殺人をするのです。恐ろしい事です。目に見えないだけで本当に恐ろしい事をしているのです。

 見舞いに来る人もその人を殺しに来るのです。
「早く良くなって下さい」と、治すために、励ますために来るのではなくて、みんなの念によってたかって殺しに来るのです。

〈この前来た時よりも今日の方が弱っている。もうそろそろではないか〉と、〈もしかすると、明日か明後日には呼ばれるのではないか〉というような念を、消極的な念を、集中的にその人に送っているのです。

 敏感な患者なら身内の人が病院に入って来る事が分かります。身内の人は心配という消極的なエネルギーを絶えず強く送っています。

 本人は身体の調子を悪くする、その暗示をかけに来る身内の破壊的な念が近づけば近づくほど、本人にはそれが分かり苦しみだすのです。

 皆さん方もそういう無知を、目に見えない罪を犯してきたのではないでしょうか。それが罪でなくて何でしょうか。

 私達が神を知っていたならば、そういう罪を犯さないと思うのです。
ですから「言葉遣いに気を付けなさい。想いに気を付けなさい。そして行為には気を付けなさい」と、私はいつも皆さん方に言っているのです。

 あなたの想いが消極的ではないか。あなたの言葉が消極的ではないか。あなたの行為が消極的ではないか。消極的な言葉や想いや行動は、私達が神を裏切る行為なのです。罪を犯している姿です。

 今、地球上には、そのような破壊的な波動が、闇の波動が一杯です。その波動を清めるために私は《大丈夫だ》というエネルギーを送っています。

 大丈夫という言葉。それは強烈な世の救いです。全体に大きく影響するのです。今ここでも、私は《大丈夫だ》というエネルギーを送りました。そうするとそのエネルギーは全宇宙に影響します。
 
 皆さん方が〈もう大変だ〉と思った時は、破壊的エネルギーを全宇宙にばらまいたのです。それは罪です。あなた一人だけの破壊ではなく、全体に大きく影響する事を絶対に忘れてはなりません。

 目には見えない集団殺人という事が、この説明でお分かりだと思います。可愛さのあまりに人を殺してしまう。それは無知の姿です。

 子供がよく病気になるのもその一つです。子供が病気にならないように、常に大丈夫だという愛のエネルギーを、その言葉と思念でもって守ってあげる事です。

 家庭においても家族の人がお互いに、一切、消極的な言葉を出さない事です。そうなれば、その家庭は常に積極的な神の心の中に、光の中に生きている事になります。消極的な言葉と想いのある家庭は、闇の中に生きている事になります。

 皆さん方の家庭が闇の家庭か、光の家庭か、それは皆さん方の想いが消極的なのか、それによって決まります。

 常に、家庭の人が積極的に生きているなら、積極的そのものは神我ですから、神と共に生きている家庭人です。そこには神が充満します。
 神のエネルギーが、建設的エネルギーが充満しています。

 神の中に生きたいならば、私達の言葉や想いが積極的でなくてはなりません。それは神と一体である証です。

 現実的に、実際的に、その力の影響をお守り受けている姿です。その事を、皆さん方は知らなくてはならないのです。

それを実践する日常生活の中に、真の救いはあったのだ」と。
神棚を作る事によって神が働くのではなくて、
「自分は神の心の中に生きる者であるか。人の心という外に生きる者であるか。それは自分自身の心次第であった」という事をよく知って欲しいのです。

 あなた方は今まで人の心で生きて、神の心で生きてはいなかった。あなたが神の心と一体となって、神に全開して生きることが如何に大切であるか、という事をよくご理解頂きたいと思います。その力を、即、今日から応用して頂きたいと思います。

 言葉は神なりき。言葉は力なりき。だから私達の言葉は力であった。初めに言葉があった。言葉は色々な物資となった。

 神が『光あれ』といえば光が発生した。神が『海あれ』といえば海が誕生した。神が『山あれ』といえば山は誕生した。神が『動物あれ』といえば動物は誕生した。

 その支配者として、すべての自然の支配者として、その自然の全ての克服者として、万物の霊長として、神は最後に人間をお造りになったのである。

 神は最後に『人間あれ』といわれた。そして、神は人間の形体を、その雛形を造られ、神ご自身が私達の中に住み給うようになられたのである。
 それが創世記である。
 
 この世の全てのものは、私達の支配下にある事を忘れてはなりません。その事が万物の霊長なのです。だから私達は海の神を礼拝してはなりません。
 山の神を礼拝してはなりません。火の神を礼拝してはなりません。水の神を礼拝してはなりません。決してそれらを崇拝してはなりません。

 火はあなたの為にあります。水はあなたの為にあります。山はあなたの為にあります。海はあなたの為にあります。

 あなたがそれらの神を拝んだとすると、あなたはそれらの神より下になります。あなたの為にそれらの神があるのであって、それらの神の為にあなたがあるのではありません。

 それらの神を一生懸命拝んでいる人がいます。火は人間の為に造られたのであって、火のために人間は造られたのではありません。海も人間のために造られたのです。山も人間のために造られたのです。

 ですからそれらの神を祭って一生懸命拝んでいる方々、人間は間違えています。自分が全ての支配者であり、克服者であることを忘れています。世の中には「如何に間違った神々が祀られているか」という事です。

 しかし、それを粗末にしてはなりません。自分の生きる糧ですから、尊敬しお互い愛し合う海であり、山であり、火でなくてはならないのです。

 ですが、それを自分の上に置いて、それらの神々が私より上だと錯覚している妄想家が、如何に多いかという事です。

 火の下にいるとあなたは火の災いを受けます。火をあなたが支配すれば火はあなたに従います。海を礼拝すれば海の災いを受けます。

 しかし海を支配すれば私達は私達は海の災いを受けません。山を支配してしまえば、山の災いをうけないのです。決して事故、災難に遭う事はありません。

 しかし、山の災難に遭うのは山に支配されているからです。海の災難に遭うのは海に支配されているからです。火の災難に遭うのは火に支配されているからです。
 山の神が、海の神が、火の神が、それらの方が私達より上だと思っているから、色々な災難に遭うのです。

 私達はこの世の支配者である事を忘れてはなりません。私達はその上に立つ者です。決してその下にあるものではありません。 

如何に人間が神であるか」という事を、みなさん方一人びとりが自覚されんん事をお祈りしなたら、こうして「神の心、人の心」をお伝えしているのです。

 そこに力の全てを、その神の力を現す事が出来るのです。肉体というものは皆さんの支配下にあるものです。しかし世の人々は今この肉体に支配されております。肉体はあなたの心でいくらでも支配できるのです。

肉体よ。神の使命を果たしなさい〉と、あなたの心で肉体に命令すべきであって、なぜ肉体に使われなくてはならないのでしょうか。

 肉体はこの三次元の乗り舟に過ぎません。その有限なるこの世的なものに支配されてしまって、本質的な自分自身の心を忘れているのではないでしょうか。

 心が主人であって肉体が主人ではありません。肉体は心の下僕です。召し使いです。しかし、世の人々は召し使いである肉体に支配されています。

 私達は、この肉体に支配すべき心を持っている事を忘れてはなりません。心があくまでも主人です。

 皆さん方の主であり、克服者である『汝自身のキリスト』を忘れてはなりません。それが、皆さん方に内在する『内在の神』あるいは『内在のキリスト』というものです。

 皆さん方は神の御心そのものを、知恵と力と宝物を持ち合わせております。それをよくお悟りになって、我がものとして頂かん事をお祈り致します。


人間はなぜ神か 神と人間の関係

 私達は自分自身の中に神を秘めています。
「キリストとは何か」と言われたら、皆さんは人格神のイエス・キリストを想像します。
 十字架にかけられたイエス・キリストの姿を想像しますが、そのキリストは皆さんの魂の中におられるのです。

 ですから、この肉体というものはその魂の中におられるキリストを顕現する、この世でキリストの働きを現す媒体であり、そのキリストの住処(すみか)であり宮であるのです。

 しかし、その宮なる肉体、その肉体に皆さん方は捉われています。皆さん方一人びとりが、自分の中にキリストを宿している事を忘れてはなりません。

 世の中では、自分の浅はかな物差しで人格神を作って唯一の救い主と拝んでいます。神は皆さんを通してお働きになられます。
 決して人間の手作りのお宮を通してお働きになるのではありません。

 神は「あなた方は生ける神の宮なり。仏の宮なり」と申されています。
生きた神が皆さん一人びとりの中におられるという事です。

 その生きた神の名前がキリストであり仏陀であるのです。それは宇宙意識の事です。私達の神性なる意識の事を「キリスト」といい「仏陀」というのです。
 キリストを宿し仏陀を宿している魂そのものが、偉大なる存在である事をあなた方はみんな忘れてしまっています。

 それでは「人間と神の関係」はどうなるのでしょうか。もうここまで話をすれば、個人個人でそれを理解していかなければなりません。
 本当に「自分の肉体を通してキリストをこの世に顕現しているのだろうか」と言いたいのです。

顕現するのだ〉と、努力する事です。自我という肉に溺れない様にし、にくから出てくる欲望を禁制しコントロールする。
 それを克服する事によって、神性なるキリストが私達を通して現れる様になります。これを成さずにして、何者もこの世の使命を果たした事にはならないのです。

 私達と神とは切っても切れない関係です。「キリストより語る」。それは言霊となって、神の誓願となって、その力は偉大なものとなります。

 私は以前、片方の耳が聞こえない人に会いました。その聞こえない耳は鼓膜喪失のため、医者は治療不能であると診断したものです。
 
 私はキリストより聞こえない耳に命令しました。
『耳の意識よ、しっかりしなさい!』『神の使命を果たしなさい!』と。

 その時、何が起こったと思いますか。鼓膜のない耳が聞こえる様になったのです。その人は「聞こえます!」と言うのです。小さな声で「もし…もし…」と言えば、大きな声で「ハイ!ハイ!」と言うのです。

 なぜ、そのような奇跡が起きるのでしょう。内なる言霊より、キリストより、その肉は造られています。御霊は、キリストは主人です。
 その主人が造った三次元的なバイブレーションは、命令的なものを与える事によって完全となったのです。

 ですから、肉はあくまでも造られた物であって、造り主である御霊(みたま)がそれを支配して皆さんの中におられます。

 神は皆さんの中におられます。肉を支配する神が皆さんの中におられるのです。それを自覚出来るようになりますと、もうこの世で悩む事はありません。もう皆さん方は病気になる事がないのです。

 肉体が何であるか分からないから、神理が何であるか分からないから、今まで、迷い、苦しみ、肉に捉われて来たのです。

 いくらでもあなた自身の御霊から、不調和を起こして悪くなっているその部分に命令することが出来るという事です。

 現実に、今ここに胃下垂だという人に、上江洲さん(※上江洲義秀先生)がその人の胃の意識に呼びかけて、
元の神から与えられた使命を果たしなさい』と命令しますと、胃は造られたものであり、造り主の御霊には逆らえませんから、お臍(へそ)の下まで落ちていた胃がグーッと上の方へ上がってきます。

 胃だけが聞くのではなくて、全ての細胞は皆さんの言霊によってそれが支配できるという事を体験しなくてはなりません。

 上江洲さんだけがそれが出来るのではありません。上江洲さんの持っている御霊もキリストも、皆さんが持っていて御霊もキリストも同一のものです。それをあなた方が信ずるか信じないかで、発揮する力が違うのです。

 それを「信仰」と言います。「汝の信仰、汝を癒やせり」。それは信ずるか信じないかという事です。
 神を信じているかいないかはあなたの信念にかかります。信仰にかかります。

 上江洲義さんは神が自分を通して働いて、その力が肉体を支配し、その胃を支配する事が理解出来ていますから命令する事が出来るのです。

 なぜ、あなた方にはそれが出来ないのか、何処に差があると思いますか。それを信ずる心の強さ弱さによって違うのです。

 あなた方は自分自身の肉体を、あなたの御霊によって支配しなければならないのです。世の人々は、多くの人々は、殆ど肉によって支配されています。

「この世で造られた物によって、なぜ私達はそれに支配される存在なのだろうか」という事を知らなくてはなりません。

 今、肉に生きているのではないでしょうか。肉の支配下に置かされているのではないでしょうか。肉に操られ、肉が「何かをしなさい」といえば、あなたはその何かをするのです。

 肉が酒を飲めといったら酒を飲む。肉が賭け事をしたいといったら賭け事をする。その様な不調和なものはみんな肉から出てきます。

 私達は肉の奴隷ではないのです。肉というものは、肉体というものは、私達のキリストの支配下における部下なのです。

 この世に現れているもの。その物質的三次元のものは、すべて御霊によって造られているもので、肉が作り主ではないのです。

 その造り主である御霊が、皆さん方の中に、一人一人の中に宿っている事を知らなくてはならないのです。

 イエス様はその事を悟っておられましたので、風を支配されました。海を支配されました。
 台風が荒れ狂う大海原の小舟の中で、「風よ!海よ!静まれ!」と。

 それは何処から支配されたと思いますか。何処からその声が出たと思いますか。それは自然界を創造した神のご意志であるキリストにより、言霊によって、風と海を支配されたのです。

 この三次元の全てのものに御霊が存在しています。しかし、人間は万物の霊長です。神に似せてお造りになっています。この世に現れているものは何物も礼拝してはなりません。

 私達が礼拝しなければならないものは、神であるキリストそのものだけです。尊敬はしていいのです。大事にしてもいいのです

 しかし、その支配下に置かれてはならないのです。そうなりますと人間は万物の霊長ではなくなります。

 なぜ万物の霊長であるものが、山神様を拝み、海神様を拝み、火の神様を拝み、水の神様を拝まなくてはならないのでしょうか。

 私達は山のために、海のために、水のために造られているのでしょうか。神は私達のために山をお造りになり、海をお造りになり、火も、水もお造りになったのです。

 そして、神は私達にこの三次元のものを支配させる為に、私達をここに送って下さったのです。

 しかし、今の世の中の人は、海神様だ、山神様だ、火の神様だ、水の神様だといって拝むのです。山はどうでしょうか。山はあなたの為にあるのか。

 山のためにあなたが生きるのか。火はどうでしょうか。火はあなたのためにあるのか。火の為にあなたが生きるのか。それなのに、それを拝む人が一杯いるのです。

 支配すべきで怖がる事ではないのです。それらは、あなた方の御霊によって支配すべきなのです。しかし、あなた方はそれを怖がっているのです。

 だから、色々なこの世の三次元的な諸天善人を祀って、それを拝む習慣性というのが出て来ているのです。もうすでに万物の低調になっています。

 万物を支配する万物の霊長たる人間が、万物の低調になって色々なものを拝む様になってしまったのです。

 すでに、万物の低調になっているのではないでしょうか。万物の霊長たる人間が、石を始め木や銅や色々なものを拝んでいるのです。

 それは愚かな話です。石像を拝み、木像を拝み、銅像を拝み、様々なものを拝みます。それは神を知らない、自分を知らない、「神と人間の関係」を知らない無知からそういう事が起こるのです。

 どうでしょうか。皆さん方は世の支配者である事が、もうお分かりだと思います。世の支配者であり、山を支配し、海を支配し、全てのものを支配すべき私達が、肉たるそのちっぽけなものに支配されるのでしょうか。

 その肉そのものは御霊の支配下であって、あなた方は肉に支配されてはならないのです。肉のために御霊があるのか。御霊のために肉があるのか。どちらだと思いますか。御霊のために肉があるのです。

 神は御霊のために肉体をお造りになって、そのものは部下であって、三次元に現れるための一つの道具にしか過ぎないのです。皆さん方はその道具に支配されてはならないのです。

 それをよく理解した時、皆さん方は、肉という自我意識を克服する事は簡単にできます。しかし、まだまだ自我に振り回されています。

 肉の言うがままです。〈何処かに美味しいものを食べに行け〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と美味しいものを求め探します。
 〈旨い酒が飲みたい〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と完全に肉の支配下に置かれている状況です。

 肉に使われてはなりません。肉体を支配せねばなりません。肉体を自由に御霊によって支配し、コントロールして、このキリストをこの世に表現するためとするのです。決して肉の快楽に溺れてはなりません。

 それに操られている間は、皆さん方はまだまだ神我という本性を、神を、キリストを観ておりません。信じておりません。だから、キリストを通さずにして何者も神の御国に入る事は出来ないのです。

 皆さん方は内在のキリストを秘めております。(神我)キリストは全ての支配者であり、唯一なる神の子です。神の意志を受け継ぐ者です。
 そうした時この三次元の目に見せるもの、物質界を支配したという事になります。その時初めて自然の法則を超越し、宇宙の法則に従ったという事になります。

 自然の法則の支配下に置かれている者は敗北者です。皆さん方はその自然を克服するすべての力を持っております。それが皆さんに内在しているキリストです。

 どうでしょうか。もう大丈夫でしょうか。肉体に操られる事はありませんか。肉体に負けてはなりません。イエス様は肉体の欲望を克服された時は、「サタンよ、退け!」と言われたのです。

 肉体は皆さんを誘惑します。イエス様もその誘惑を何回も受けられたのです。
〈こんな神の伝道をするよりは、あなたは一国一城の王になった方がいいだろう〉という肉の意識が、黙想(瞑想)されていた時に、強烈にイエス様の心を誘惑したのでした。

 その時、イエス様は《サタンよ、退け!》と言って、その肉の誘惑を、御霊より言霊の力によって、完全に支配されたのです。

 皆さん方も肉から出て来る欲望を、「サタンよ、退け!」と一喝(いっかつ)して、それを追い払わなければなりません。

 色々な名物を求め歩いて、何々名物だ、どこどこ名産だと、欲望と快楽に溺れてしまい、金を使い暇を潰しそれを求めるために肉に操られている人もいます。また、豪華な美食だといって食欲という悪魔に操られる人もいます。

 そんなものに操られたりするために私達があるのではありません。そういう事を全てを支配し克服して、肉に属するものを、この地に属するものを克服してこそ、皆さん方は解脱出来るのです。

 皆さん形を、この世に束縛している原因は何でしょうか。それはこの世に敗北しているからです。この世のものに、全てのものに打ち勝つ事なのです。

 肉に打ち勝ち、物質に打ち勝ち、全てを支配する事によってのみ、皆さん方はこの世の束縛から解放されるのです。それを「解脱」と言います。

 本当に「自分自身が何か」という真理の追求を、そして求道の精神を、生半可ではなくてそれをかたせなくてはならないのです。

 イエス様は「この世の全てを克服した時、私はこの世を克服したのであると言われたのです。

 その時、イエス様は三次元的な肉的な物質的な存在から霊的存在となられたのです。霊が勝利したからです。

 まだまだ皆さん方の霊は物質に勝利していません。物質の奴隷下に置かれています。色々と造られたものに、その造られたものの概念で生きています。

 あなた方の考えを支配しているのは、殆どが三次元的、その物的なものなのです。
 四六時中私達が神を思う事によって、物質、肉体に支配される事はありません。
 そういう欲望が出る時「サタン(偽我)よ、退け!」と、それを克服する事が出来るのです。

 この世で、どんなに地位や名誉や財産を持っていようとて、それは肉と共に葬り去られるものです。この世的なものです。

 持ち帰れるものは一切ありません。それらのものを得た所で何になりますか。「自分が何であるか」を知らないから、それを欲望的に求めるのです。

 それらの人達は、この世では大きい者の様に見えるかもしれませんが、あの世では小さな者でしかないのです。なぜならば、物質の支配下に置かれているからです。

 その人達が物質の支配下に置かれていなければ、この世の財産や地位や名誉を得るという、自己顕示欲的な慾望などは求めようとはしないのです。
 それは、三次元的です。物質的です。そして未熟です。幼稚です。

 今、皆さん方は、三次元的なもの、物質的なものを一つ一つ克服しつつあります。
 そうした時「我は神なり」「我は霊なり」「我は生命なり」「我は神理なり」と、言える程の強い信念、深い信仰を持たなければなりません。
その信仰があなたを救います

 しかし、今、あなた方は「自分が何であるか」を知りません。ですから、世の物質の誘惑に振り回されるのです。
 その物質による世の誘惑に振り回されていればいるほどこの世で苦しみを造っています。

 これを克服した分だけ幸せを健康を得る事が出来るのです。この世の恐怖というものが一切なくなります。何故ならば、この世の全てを御霊が克服してしまうからです。

 まだまだ皆さん方は、物質の少ない事を怖がり、地位や名誉や財産の少ない事を怖がり、色々なものを恐怖しています。物質を怖がっています。執着しています。それが皆さん方の苦悩となっているのです。

 今、肉体について、その肉体が何であるのかをよく考えて下さい。そして、その肉に支配されてはならない事をよく理解して下さい。

 肉体は、この世的な、一時的な住処にしか過ぎません。それを「人間」と呼んでいるのです。

 皆さん方の中に神が住んでいるのです。あなた方が拒否さえしなければ、神はあなたの肉体を通してのみ働きます。

 あなた方は御霊より、内在のキリストにより、色々な神理を伝える事が出来、正しい言葉遣いと、正しい想いと、正しい行為が出来るようになります。

 今、皆さん方が正しい言葉遣いと、正しい思いと、正しい行為が出来ていないのは、この肉が邪魔しているからです。

 肉は利己的です。魂は非利己的です。自分が三次元的なものを克服しているかしていないかは、自分の行いを反省してみれば分かります。

 自我で肉の敗北者である人は必ず利己的です。しかし、その利己的である肉を克服した者は、非利己的になっています
 非利己的な総合的なものの見方です。ものの考え方です。
自他一体』。一体観念の中に生きています

 聖書の中にこの様な事が書かれていると思います。ある街が大火事に遭いました。火事の災害を受けなかった金持ちの人達に、イエス様はこう言われました。神から預かっているものを神にお返ししなさい」と。

 その人の持ち物は神のものであって彼等のものではないのです。
「それを必要とする所のために、神から預かったものを神にお返ししなさい。

それを必要とする困った人にあなたの財産を与えなさい」とイエス様は言われたのです。
 
 ある人は全部与えました。ある人は半分与えました。ある人は何も与えませんでした。何も与えなかった人、その人は盗人です。

 あなたの持っている財産や、そういうものは誰のものだと思いますか。神のものです。それを私のものと錯覚して執着しているのです。 

 あなたのものであれば、あなたがこの世を去る時それを持ち帰れるはずです。持ち帰る事は出来ません。預かりものです。

 神からの預かりものを持っていながら、それでいて「これは私のものだ」と威張りくさる人がいます。そして何も持っていない者を罵る人がいます。これは非常な盗人であり、罪人です。災いなる者です。

 自分のものがない事を皆さん方は知らなくてはなりません。その時が来れば全てはた叩いて皆さん方は困っている人に、貧しい人の為にお返ししなくてはなりません。
 それが出来る人は真の勇者であり信仰者です。神を信じている者の信仰です。

 それは、神理を通して眺めてみれば、自分のものがない事が分かります。それが理解出来ない人は、私の言葉を「おかしな事を言う」と思うでしょう。

 しかし、事実はそうではないのです。自分のもの、私のものというのはないのです。全てが神の預かりものです。

 この肉体でさえも神から預かっているものです。ですから、私達は死にたくないと思っても、寿命が来れば行かなくてはならないのです。

 自分の肉体が自分のものだと思っていてもあなたの思う通りにならないのです。肉体が自分のものであるならば、自分の思い通りにする事が出来るはずです。

 思い通りにする事は出来ません。言う事も聞きません。なぜならば、それは神のものだからです。自我ではどうする事も出来ません。

 あなたの支配しているのは神ですから、私達は肉体でさえも神に捧げる事です。これが本当の「献身」というものです。

 命を捧げる者。自分自身の外なる命と内なる命を神に捧げて人々のために捧げた時、皆さん方は「永遠の命」を得ます

 しかし肉我の自分に生きようとする者は、永遠の命を得る事は出来ません。神を知っていないからです。神理を知っていないのです。
 
 だから「生命を得ようとする者は生命を失い、生命を捨てる者は生命を得る」という言葉があるのです。この事は非常に大事な事です。

 神とは何でしょうか。神とは宇宙の摂理であり、法であり、エネルギーです。私達は宇宙の中の存在です。

 私達一人びとりはその宇宙の中に、宇宙エネルギーの中にいるのです。そして私達一人びとりは、その宇宙エネルギーを持っているのです。
 
私は神の中におり、神は私の中におられる」というのはその意味です。
エネルギーの中に私達はいるのです。私達の中にエネルギーがあるのです。

神は内にいると同時に外にもいる。全ては神であり全体は神である」と、それが分かる様になります。
 
 神と人間とは一つの存在、一体の存在です。なぜならば、神は無限であるからです。神から分離した人間は何処にも存在致しません。

 神から分離した人間がいるならば神は無限ではなくなります。普遍でもなくなります。

 あなた方は、今、即、神の中におり、神はあなた方の中におられます。それが分かりますと、唯一神のみの実在、神一元という悟りに到達致します。

 神一元です
しかし、人間の浅はかな感化(自我)が、色々なものを分離し、独立させて考えているのです。あなた方の肉の意識がそれを妨げているのです。

〈自分は神と分離しているのだ〉と思わせる様に誘惑するのです。
あなた方が中々神理に入って行けないのは、自分自身の肉による自我意識が、神から遠ざけているのです。

 事実においては、神の中に私達はおり、神は私達の中におり、それは一元なるエネルギーの中におるのです。エネルギーは外でもなく内でもなく、また、外でもあり内でもあるといえるのです。

 この事は、〈今、あなたは神の中にいる。それはあなたは神の中の存在であって、そしてあなたの中には神が存在している〉という事です。

神の中に自分は存在し、自分の中に神は存在する。常に神と自分は一体である」と、この事の意味をよく理解して頂きたいのです。

 そうした時「人間と神の存在というもいのは一つの存在である」という事が分かるのです。そこには、人間と神が独立し分離している存在ではなく、「人間と神は一体であった」という事です。

 一体とは「一つの体」という意味です。
人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事です。
その神が皆さんの中に、生命の中におられます。

 ここで私が一番言いたい事は、「神の存在を、内在のキリストを、あなたの肉を通して完全にこの世に現す様にしなければならない」という事なのです。

 何回も、何回も、私は同じ事を言っています。飽きる程そういう事を言っています。しかし皆さん方はまだ肉に敗北しています。ここから自分の家に帰りますとまた敗北するかも知れません

〈知花はなぜ毎日同じ事を繰り返すのだろう。なぜそう言うのだろう〉と。それを自ら追求する事によって、自ら自問自答して、内から答えを得る事によって神に至る事が出来るのです。

 今、世の中では、色々な誤ったものの見方と、誤ったものの教え方をしています。それにはまず統合的な高い意識を高揚させてから、そこから全体を見る事です。一部だけを見てはならないのです。

 しかし皆さん方の見方は、近眼になってしまって、一部しか見ていません。ですから全体と自分の関係を見失っているのです。厳しいようでもやらなければならないのです。

 世の人々は、神に至るのに平坦な道を選びがちです。肉欲も、情欲も、飲み食いも、常平生それをやりながら神に至ろうとしています。

 物質の支配下に完全に置かれて、霊的なものに遠ざかっているからです。平坦な神への道というのは何処にもありません。

 道は厳しいのです。狭いのです。この世のもの全てを、あなた方が御霊によって克服しなければならないからです。

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。本来は人間と神の関係さえもないという事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、関係さえもなく、一つの存在であるのです。

人間と神は、即、一体の存在であり、我々も神の存在であり神そのものであった」という事が分かるのです。我は神なり。我は生命なり。我は神理なり。と。

我は神であり、我はキリストである」という悟りに至らなくてはならないのです。

 この世というものは、始めがあり終わりがあります。皆さん形には誕生があり死があります。

 しかし、これはこの世的なものであって、もうひとりの真の自分には誕生もなければ死もない存在なのです。それがあなたの本質であり、生命であり、魂であるのです。それに早く気付く事です。

 初めがあり、終わりのある存在ではありません。それを追求して、それを克服して、初めがあり終わりのあるものに捉われないように。
 
 それは初めがなく終わりがないものによって造られたものであり、それを造ったものによって支配しなくてはならないのです。

 その造り主である神の御意志が、内在のキリストとして皆さんの中に宿っています。早くそのキリストに気付く事です。

 その支配者である全知全能であるその方(神我キリスト・宇宙生命)を、皆さん方は早く気付いて欲しいのです。

 神棚を通して神は働くのではありません。生きた人間の肉体を通してのみ神は働き給うのです。
神は人間を通して働き給う」と、その事を決して忘れないで下さい。
 
 なぜならば、人間そのものが神であるからです。神棚そのものは神ではありません。それは三次元的な、物質的な存在であるのです。

 私達は神である生命を頂いています。「我は生命なり」です。その生命が働き手であり、生きているわけです。どんな植物の中にでさえも神は生きて働いているのです。だから植物は成長し、花が咲き、身を付けるのです。

 皆さん方の奥さんは「カミサン」といって神様です。本物の神様です。ですから大事にしなくてはならないのです。

 皆さんの周囲には沢山の生きた神々がおられます。その生きた神々を私達は愛し合わなくてはなりません。真の神の愛です。

 あなた自身の中に神がおられるなら、あなたの隣人の中にも神が宿っておられる事を知らなくてはなりません。そうなれば、その隣人を貶す事は神を貶す事になり、その隣人を罵る事は神を罵る事になるのです。

 そうならないように、皆さん方は「隣人愛」をしなくてはならないのです。「自分を愛するが如く人々を愛する」と、それをしなくてはならないのです。

これは神を愛している姿であり、神を賛美している姿なのです。

 誰の悪口を言ってもなりません。神を知らない者が人の悪口を言います。神を知っている心の清い者が人の批判や悪口を言うでしょうか。

 人の批判や悪口を言うならば、その者の心は曇っているのです。真の自分を知らない、神を知らない者です。

 そのような迷い人の言葉や姿に迷わされないで、一生懸命、自分自身の神を観つめ、その「神と人間の関係」を追求し、求道され、実践されます事をお祈り致します。


知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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プロフィール

斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

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