- No
- 4023
- Date
- 2020.02.02 Sun
陰陽の法則・「多く愛する者は多く愛される」という原理♪神がすべてを愛したように、わたしたちも全てを愛そう♪「神の意志」というのは「愛」の事です♪心清き者は幸いなり♪神の御心とはすべてを愛することです♪皆さんが生きているのは神のお陰です。神があなたの中に生きて働いて下さるのです♪不動明王になるには… 一心集中、絶対善の心にすること♪神は絶対善そのもの♪「神と人は一体」「一つの体の存在」♪あなた方は、今、そのままにして神の存在です。 「あなた」は「神の一部」です。「全体の一部」です。「無限宇宙の一部」を構成しているのです♪「私は常に宇宙なる神と一体」「私たち」は無限宇宙の中の1個「一つなる神の一部」♪知花敏彦先生・総まとめ記事・第三回目♪
覚者☆知花敏彦先生の記事をまとめてみました。 皆様の悟り☆覚醒のお役に立てて頂ければ幸いで御座います。 この記事は、第3回目になります♪ |
知花敏彦先生・総まとめ記事・第三回目
改めて知花先生の教えを見直してみますと、現在の真理の理解度に応じた新しい気付きが沢山ありました。大変深い感銘を受けました。
真理の理解度に応じて、深い気付きが得られる…という事は、一回読んだからいいや~ではなくて、努力をして真理の勉強をして…真理の理解が深まった意識状態で、また一度改めて読み直して頂きたいのです。
そうすれば…きっと、貴方の魂の新しい扉…、「内なる神の愛の光」が開放される覚醒に繋がる気づきが得られることでありましょう。
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陰陽の法則
神がすべてを愛したように、わたしたちも全てを愛そう
多くを愛する者は多く愛されます。愛は出せば出すほど多くなるものです。あなたは無限なる愛を持っていながら、どうしてけちくさいことをしますか。なぜこの無限大の愛をあなたがたは表現しないのですかと言いたいのです。
愛は使ったら減っていくのですか。多くなりますか。どちらですか。
「多く愛する者は多く愛される」という原理があります。多く与えるものは多く得ます。与えない者は得る事が出来ません。
あなた方の愛の範囲は狭すぎます。夫婦愛、親子愛などの範囲内で終わってしまうのです。それも大切ですけれども、こんな小さな存在でとめてもいいのでしょうか。私たちは無限の愛ですから、無限の愛を表現しましょう。
夫婦だけ、親子だけを愛しなさいと限っているのは、愛に限界があるのだとみなしている事になります。愛には限界がありません。無限大の愛ですから、無限大の愛を放出しましょう。そうしますと、私たちは無限大の愛を得ます。
あなたがすべてを愛することが出来なくても、全ての愛をあなたが得ることができますか。
有限的な個人的な小さな愛しか表現できない人間に、無限大の愛を得ることは可能でしょうか。多く愛するほうが多く愛される。これは当たり前の法則です。
自分は愛を少ししか出さないのに、出すものより多く得るのですか。夫婦だけが仲良くしていればよい。親子だけが仲良くしていればよい。
こんな汚い小さな愛は存在しません。
神が全てを愛したように、私たちも全てを愛して初めて神の愛といえるのです。本当の神の愛をよく理解して下さい。
多くを愛するものは多くの人から愛されます。愛を得るためには、愛するしかないのです。自分はいっこうに誰も愛さないのに、誰かから愛されたいと思いますか。
あなたが多くの人から好かれる人間になるためには、どうすればよいのですか。多くの人を好きになればよいのです。嫌いな人がいなければ、嫌いな人もいなくなります。
ですから多くの人々を私たちは愛していきたいと思います。愛の法則そのものが、陰陽の法則そのものではありませんか。その法則を守った時に、皆さん方は光となります。
人間はなぜ愛か 神の意志について
「神の意志」というのは「愛」の事です。
本来、私たちは神の愛を受け継ぐものですが、なかなかその愛というものを受け継いでおりません。神の意志とは何かと問われた時「愛だ」と答えればいいのです。神の愛です。そして愛は光です。
本来は私達も光ですが、その本性である意志である愛を自らが曇らせているのです。愛に反するものは闇です。怒りとか、憎しみとか、そしりとか、嫉妬というのは闇で、その本性である光を曇らせているのです。
常に光の中にいるならば、神の意志の中にいるならば、私たちは愛でなくてはならないのですが、愛に反するものの中に生きることによって、悩み、苦しみ、そして病気というものを造っているのです。
それは本性ではありません。神の意志に反することを行っているからです。それは罪、汚れです。あるいは業(ごう)というわけです。
ですから、私達が常に神と共にいたいのなら、神の意志を行わなければならないのです。神の御心の如く生きなくてはならないのです。
「神の御心」とは「すべてを愛すること」です。
「この世に存在するもの」は「愛しかない」のです。
その愛に反するものを私たちは行っているのです。
それは神に逆らっている状態、自分の本性を曇らせている状態です。だから、神に近づくということは、その「愛(全てを100%の愛で愛する)」を通してしか神に近づくことは出来ないのです。
皆さん方はよく「天上界に帰りたい」とか、「成仏したい」とかいいますが、天上界に還るのも、成仏するのも、愛を通さずして、神の意志を通さずして、何者も御国に入ることは出来ないのです。
常に私達が愛に満たされる。朝起きて愛に始まり、そして一日を愛で過ごし、その一日が愛で終わる日常生活であったなら、あなたは光の中の住者となるのです。
悩みも苦しみもないのです。そこは光そのものであり、自分の本性であると同時に神の意志を行っているからです。
イエス様はこう言われたのです。
「我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と。
これが『神の意志、明らかなる愛の御心』です。
これに相反するのは私達の悩み苦しみです。人間は愛でなければならないのです。
私達の根源は愛であるからです。その愛は何かというと神であるからです。
神の御国に入るには、愛を通さずにして何者も御国に入れないのです。
なぜ、そんなにまで愛が実行できないのでしょうか。
以前私は非常に疑問を持ったことがありました。〈なぜ人を憎んだり、謗(そし)ったり、裁いたり、中傷したり、色々なものがあるのだろうか〉と。
自分の正体が、自分の実態が何であるか分からなかったからです。自分が何処から出てきた者で、何処に還るべきかを知らないから、人々が色々な妬みや、謗りや、怒りや、そういうものを行っているのです。
自分は何から誕生して何に還るべきか、何処から出てきて何処に還るべきか。ということを知っていたならば、自分の本性、実態を知ったわけですから、自分の根源は愛であった。自分は神の意志そのものを受け継ぐ者であった。と、そのことが分かってくるのです。
そして、その神の意志を受け継ぐ者が、神の息子となって神の娘となるのです。神の跡継ぎ者となるのです。
その時皆さん方は「神のものは私のもの、私のものは神のもの」といえるような状態となるのです。
今の私、この知花の心の状態がそうなのです。
「神のものは私のもの、私のものは神のもの」と、実感としてそう想っているのです。
そして、神の意志というものは愛であった。この世で何者も憎んではならない。憎むということは神への反逆であり、神から遠ざかることであり、罪であり、汚れであり、それが苦しみの原因であることを私は知っているからです。
常に皆さん方の心の中に本当に愛が満たされているならば、皆さん方も神の意志を受け継ぐ者となるのです。
神の意志を受け継ぎたいのなら、愛に反するものを想わないこと、語らないことです。皆さん方が人を裁くことは神は決してお喜びにはなられない。
人を怒ることもお喜びにはなられない。しかし、その神の望まれないものを私達は平気で行っているのです。神が一番お望みになっていることは愛し合うことです。
お互いにこの世に存在するのはみんな神の子であり、神の創造物であるのです。
神がお造りになったのです。造り主は神であるのです。
その造られた全ての物は、神ご自身がお造りになりましたので、神の意志はこの世に現れている一人びとりを、ありとあらゆる生きとし生けるものを、万象万物を愛してくださっているのです。
そうであるならば私達も万象万物を愛さなくてはならない。これが神の意志です。
そして私達が万象万物を愛し、人々を愛し、分かち合うことが、神の意志を受け継ぐものとなるのです。
それ以外、この愛を通さずにして、何人も御国に入ることは出来ないのです。それなのに、今までは偽りの指導者によって騙されてきたのです。
「主よ、主よ」と主の名を唱えれば天上界行きだとか、お経を何万回あげれば極楽行きだとか、神の御国に入れると言われてきたのです。
しかし、彼等は現実的には愛し合ってもいない。同胞愛をなしてはいないのです。
神は善人にも悪人にも、平等に愛を注いで下さっているのです。その神の愛は無差別の愛です。無所得の愛です。
ですから、神の御国に入るには、神のような愛でなくてはならないのです。本当に自分という我を忘れて、愛だけに満たされるという状態になることです。
皆さん方は、まず今日一日、明日からでもよろしいから愛だけに満たして下さい。そうすれば、あなたにどんなことが起きるのでしょうか。
あなたのこころにこれっぽっちも憎しみがない。怒りがない。嫉妬がない。本当に何処を見ても愛おしく全てに愛を満たしている。それは人間だけではなく動物、植物、鉱物全てにです。
そうなっているとき、もう皆さん方は神に波長が合っているのです。
神に波長を合わすということは、すべてが愛でなければならないのです。
神の愛に満たされているとき、私たちは光明人間になるのです。だから、イエス様は愛に満たされているとき「我は世の光なり」といわれたのです。
光明人間。すなわち世の光です。愛は光です。愛に満たされている時は光明人間です。曇りがないのです。だから愛は光なり。光は愛であるということが分かるのです。
皆さん方は本来光です。皆さん方一人びとりはみんな光なのですが、その光に相反することを、愛に相反することを行うことによってその光を曇らせているのです。
憎しみの多い人は真っ黒くしているのです。怒りの多い人は真っ黒くしているのです。憎しみも、怒りも闇ですから、自分の本性である光を曇らせているのです。これは自らが曇らせているのです。
本来、人間は光そのものです。霊体というものは光体です。光姿体です。
私達の魂というものは光そのものです。神の意志そのままなのです。
神の意志を引き継いで、私達はこの世に存在しているのです。
これを真の我「真我」といっているのです。
人間はなぜ愛か
私は皆さん方に道を示します。
道は示されますが、歩むのは皆さん方一人びとりです。
あなた方が歩まなくてはならないのです。あなた方が実行しなくてはならないのです。
イエス様も「我は道を示す者である」と言われているのです。
皆さん方が本当に真剣に取り組んでいただいて、真の道が示されたならば、それを実行し日常生活に生かして行くことです。
これが如何に大切であるか、ということが言えるのです。
私たちは決して死ぬ存在ではありません。
なぜ死なないかという理由はご存知だと思います。
「神のみ」が生きていて、この「大宇宙」、
「大生命」というものが「一つの生命の存在」、
その中に「私達」が「個別化されたもの」として
「(神意識の中に)存在」し、
それは分離の存在でもなく、差別の存在でもなく、
離れた存在でもなく、「私たち」は「今、神と一体」であり、
「神の生命」を宿しており、そして「神の御霊そのもの」、
「あなたの本質」は「御霊(神意識)そのもの」であって、
迷いの人間の存在ではないことをよく知ることです。
今、もし皆さん方が父の御声が聞こえるならば、父はきっとこう申されるでしょう。
『あなたが自分のことを「私」といっているのは、
あなたは「個別化した私」のことを「私」といっているのです。
わたしとあなたは「わたしという一つのもの」です。
だから「あなた」と「わたし」とは「一体」なのです』と。
そして『私は地上にいるあなたの母の(子宮の)中で、
あなたを私に似せて(肉体を)造りその中に私(神の生命)がいるのです。
そのわたしをあなた方は「私」といっているのです』と。
神は自ら肉体というお宮をお造りになり、自らがそこに住み給うておられるのです。
そのことを「人間は生きた神の宮なり、仏の宮なり」と、「神を外に求むるなかれ」と、
「神は汝の手や足より近きにあり」と、イエス様も、お釈迦様もそのことをお説きになられたのです。
しかし、この世の人間はそのお二人を遠い彼方に祭り上げて、偽の指導をするようになってしまいました。
「神は遠い彼方におられるのだ。神に賛美しなくては救われない。仏にお経をあげなくては救われない」というように、宗教は神仏を人間から遠ざけてしまったのです。分離させてしまったのです。
そのために人間は混乱してしまったのです。宗教によって人間は迷わされてしまったのです。
宗教の指導者達は真面目にやっている方もいて、彼等は真面目にやっているつもりでしょうが、間違った神を教えてしまったのです。間違った指導をしてしまったのです。
そのことをイエス様は二千年前にとうに知っておられました。
イエス様は「盲の者が盲の者を導く」と聖書に予言しておられるのです。
「あなた方はわたしの言葉に躓くであろう」と聖書に訴えておられるのです。
イエス様の言葉の意味が理解できなかったために、その言葉に躓いてしまい、イエス様を神の一人子として遠い彼方に祭り上げて拝むようになったのです。
それは偶像崇拝です。現象我と言って現象を拝んでいる偶像なのです。決して皆さん方は偶像してはなりません。
イエス様もいっておられますように、皆さん方ご自身の中に
「汝の主は、汝の神として、生命として、汝らの中に生きているその神が存在しているのである」ということをよくよく理解して頂くことです。
そして、その神に皆さん方は委ね全託することです。
(『滅私・神への全託』なくして悟りはなし…と知花先生は仰られました)
神がお造りになったその神秘の宮を、私達の小智が何を食い、何を飲み、何をしなくてはならないという詮索をなぜ加えるのでしょうか。
そこからは〈何々が必要だ、何を食べなさい、何を飲みなさい〉と皆さん方にお伝えされており、それをいただければよいのです。
しかし、今の世の中は色々な物が商売としてエゴで出回り、「あれを飲まなくてはならない」とか「これを食べなくてはならない」とか、みんな自我という魔の働きの中に没入しています。
私はいつもこう祈ります。
「我が中にまします神よ。我が知り給うのはあなただけです。
あなたが私のその全神経を、その全肉体細胞を、その肉体頭脳を、全てを支配し給わんことを。そして我を健康であらせ給え」と。
そうしたとき、サーッと胸元が暖かくなり全身にエネルギーの満ち満ちて来るのを体験します。
そうしたとき、即、そう想った瞬間に全ての癒しが行われています。もう何の心配もありません。
皆さん方は病気がどうしたら治るのか、こうしたら治るのかと、我々の小智でいくらもがいてももがき切れるものではありません。それは我々が肉体を造ったのではないからです。
科学が造ったものでもなく、お母さんが造ったものでもなく、
「造り主」は「全て神」であられることを知らなくてはならないのです。
「神」が「唯一の創造主」であられることを、
「唯一無二」の「生ける実在」であられることを、皆さん方は知らなくてはならないのです。
その「創造主なる神に全託」することです。
そうしたとき皆さん方は神に素直ですので、謙虚ですので、
神はあなたの中に即働いて下さいます。
それが皆さん方への神の癒しといわれているものです。
その神の癒しというものを本当に悟っていただければ、如何なる病気も開放されることをわたしは信じています。
それをその人が信ずるか信じないか、神に素直になれるかなれないか、謙虚な気持ちになれるかなれないかということです。
何故なら、私達の肉体で働いておられるのは、働き手である神であられるからです。
あなたが林檎を頂いて、その林檎を血に換え、肉に換え、細胞に換え、あるいは骨に換えて、そのエネルギーを分析しているのはあなたでしょうか。
あなたがいただく林檎をすべての要素に分解し、その位置に位置づけて下さっている偉大な智恵と力は、私達の内在心にあるのですが、それが皆さん方の中に四六時中働いていることを忘れてはなりません。
その偉大なる智恵の御方があなたの中におられるのに、その神を皆さん方は忘れているのではないでしょうか。神はあなたの手や足より近きところのご自身の中におられ、あなたを愛し、今まで生かし尽くし、働かせ、活動させて下さっているのです。
そのことをイエス様は「神の国は汝の内にあり。外に求むるなかれ」と、はっきり断言しておられるのです。
お釈迦様は「自灯明法灯明を汝の師にしなさい」といわれたのです。
決して「お経を上げて外に救いを求めなさい」といわれたのではありません。
そして「汝の内に仏はおわれる。その仏こそが汝自身であり偉大なる救い主である」といわれたにも係わらず、今の宗教は仏像を作り、お寺を作り、お経を上げることが救われる道であると錯覚しています。
あなたは宇宙そのもの
「無限宇宙そのもの」が、「一つ」なる「神の御神体」です。
そして、「私たち」は無限宇宙の中の1個、
即ち、「一つなる神の一部」です。
あなた方の肉体には、約70兆余りの生命体が存在しています。
その生命体とは、神という生命が、1個1個に個別化されている細胞のことを言います。
その1個1個が総計されたものが、あなた方の肉体です。
だから、あなた方の肉体は神の御神体であって、そのあなたという細胞1個1個1個が、宇宙全体を構成する役割を果たしているのです。
「あなた方」は「神と一体」、即ち、「神と一つの体」であって、決して、2つの体というものはなく、「無限宇宙という神の御神体一つ」しか存在しないのです。
だから、あなた方は、今の今、「神と一体」であって、
「神の中に生きている」ということです。
そのことを、イエス様は「私は常に宇宙なる神と一体」であると、
お釈迦様は「宇宙即我」即ち「宇宙は私」であると言われたのです。
そのように、あなた方という個別化された1個の存在も、イエス様や、お釈迦様と同じように、「宇宙なる神の中」に存在しているのです。
宇宙は無限であって、そこに、あなた方を含む1個1個が存在し、その全ての1個1個が全体を構成している。
即ち、「無限宇宙全体」という、
「神なる一体」を構成しているのです。
だから、「神」と「あなた方」は「一体」、
即ち、「同じ一つの体」である、即ち、
「あなた方」は「無限宇宙」という、「神の御神体」を構成しているということです。
人間というもの。それは細胞70兆あまりを総計したものを言います。
細胞の寄り集まりと言って、その70兆余りの細胞、
その「1個1個の全」に、「神という生命」が、「意識」が「宿っている」のです。
その細胞の総決という、人間一人びとりの分霊を総決したものが、分生命を総決したものが『宇宙という神』なのです。
ですから、あなた方は、今、そのままにして神の存在です。
「あなた」は「神の一部」です。「全体の一部」です。
「無限宇宙の一部」を構成しているのです。
言い換えれば、『あなたという1個の存在があって、無限宇宙が構成されている』ということになるのです。
無限宇宙の中で、あなたの1個では、何も成し得ることは出来ません。
1個というものには何の力もないからです。それは、あなたの肉体の一個の細胞には、何の力もないことと同じです。
その全細胞が一つとなる---。
あなたという肉体の中の、70兆余りの細胞が総決されることによって、大きな力となって、働く力となるのです。
その小さな寄り集まりがなければ、あなた方という肉体は動けないはずです。一体であるが故に、小さな細胞という神の力の寄り集まりが、あなた方という肉体を通して、大きな神の力となって現れるのです。
だから、「神と人は一体」であると、「一つの体の存在」であるというのです。
そのことを、イエス様は『「わたしは神と一体である」ことによって、私は神の力を成し得るのである』と言われたのです。
その「神の力」とは、「宇宙全体の力」のことです。
あなた方の一人びとり、全て生きとし生けるものの、寄せ集めた、総決した力が、神の力です。
その力を全部集めることを「全力」と言います。
それは、「全ての力」ということです。
その「全て」の「総決したもの」を「神の力」、
即ち「宇宙力」というのです。
そのことを、イエス様は知っておられました。
だから、イエス様は「わたし自らは無である」と言われたのです。
あなたがたも1個の個人としては無であるが、
自分は全体という神と一体である」と、
その『一つ』という悟りの境地に入った時に、
あなた方は「宇宙力」を得る、
その宇宙力を、我がものとすることが出来るのです。
イエス様は「信仰が深くなれば山をも動かす事が出来る」と言われました。
そのように全力を尽くせば、「無限宇宙の力」が働けば、山も動くのは当たり前のことです。
あなた方も、その同じ力を得ることが出来ることを、ここで知らねばなりません。
あなた方の1個1個の生命が、総決されたものを『大生命』というのです。
それらの、全ての生きとし生けるものの総決された生命が、
「無限宇宙なる大生命」を存在させているのです。
人間はなぜ愛か 謙虚な心
「謙虚」は何かといいますと、それは「威張らない」という事です。
人間はよく威張ります。なぜ威張るのでしょうか。
神は謙虚です。決して威張ることはありません。
神のような人間であるためには、謙虚でなくてはならないのです。
なぜ、人間は威張ってはならないかといいますと、人間はこの世で色々なことを成し遂げていると思っておりますが、それを成し遂げているのは私達ではなくて、
神のみが働いておられ、働き手は神であって、
私達の肉を通して神が生きて、神が御業を成されておられるのです。
これを「自分がやった」といって威張ることは、まだ自分が何かを知っていないからそうなるのです。
皆さん方がやったという仕事は、この世の中だって存在いたしません。
何故このように申し上げるのかと言いますと、皆さん方が生きているのは神のお陰なのです。
皆さんの中に生きているのは神のみで、神のみが生きて働いておられるからです。皆さん方の存在というものは本当は無いのです。私というものは無いのです。
このことを「私は自らは無なり。我が中に神のみが生き、神のみが働き給う。御業を為し給うは我が内なる神の御霊(みたま)なり」と言われているのです。
例えば、この知花という者が皆さんの前でお話をして「私は偉いのだ」と威張っておりましたら、私は神を知らない無知の存在となります。
神は私を生かし私を通して語り給うておられるのです。そして私という肉体を通して神は働き給うておられるのです。働いているのは私ではなくて、私を通して働いて下さる神ご自身が働いておられるのです。
ですから、私達自らは何事もなし得ていないのです。
それなのに、それを「私がやった、私が造った、私が成し遂げた」と言って威張る人は謙虚から外れています。それは盗人になります。
「汝、盗むなかれ」と言われています。私たちがこうして生きておられるのも神のお陰であって、神が私たちの中に生きていればこそ私たちが生きているのです。それ以外は何も無いのです。
生命そのものが神です。私たちは神の命があるから何事も成し得られるのです。そういう事は、神がおられるから私達は何事も仕事ができるのです。
だから御業は全て神のものであり、私達のものではないということをよく理解する事なのです。
私が皆さんの前でお話することは、自分の御業ではなくて、神の御業であるということが分かりますので威張らないのです。
神が為し給うのである。と、それをよく知っていますので、私は偉いとかそういう事がなくなるのです。威張ることがなくなるのです。
威張っている人間は、まだまだ自分が何であるかを知らない、自分が何によって生かされて、その仕事は誰がやっておられるかがわからないのです。
それが傲慢というものなのです。それには威張りというそれが出てくるのです。
賢者は威張りません。賢者という方々は自らを知っておられるのです。
自分が何の力によって生かされ、そして何の力によってこの世で仕事をしているかということが分かるようになりますと、自ら謙虚な気持ちになれるのです。
よく皆さんは謙虚な人を見ます。謙虚な人を見ますと非常に気持ちが良いものですが、何故、謙虚は気持ちがいいのかと言いますと、その分だけ神に近いからです。
皆さん方は威張る人を見て気持ちがいいと思いますか。いい気持ちであるはずがありません。
「私がやった。私はなんでも出来る。あれもこれも全部出来る」と威張って腐っている人間を見ますと皆さん方は気分を悪くします。
それは神から離れているからです。神の道から外れて盗人であるからです。
神の力を神の御業を自分がやったというように、
「自分の右手で為したことを、自分の左手にも知らしめてはいけない」
という言葉の戒めを破っているのです。
だから私達は常に謙虚でなくてはならないのです。
今、私が皆さんの前でこうしてお話が出来るのも、私ではなくて神の御業が、神の力が、神の御霊があればこそ私はこうしてお話ができるのです。
しかし、世の人々はその神のお働きをまだ知りませんので威張るという言葉が出て来ます。
「私が何々をやってやったのにお礼も言わないのか」という事になってしまうのです。
皆さん方働いている。それを自分が働いていると思ったら大きな間違いです。働いているのは、あなたの中の神がお働きになっておられるのです。
だから「神は偉大なる僕の方である。神は偉大なる働き手である。神は偉大なる農夫である」と聖書に訴えられているのです。
働いておられるのは、活動しておられるのは神であって私達ではないのです。
皆さん方の中に命という、あるいは御霊(みたま)という力が存在しなければ、皆さんはここに集まることは出来ないのです。
ここに足を運んでこられたのも神のお蔭であって、あなた方のお蔭ではないのです。神がいなかったならば皆さん方はここに来る事が出来ないのです。
こうして皆さん方がいろいろと学びを得るために、ここに集まりましたのも神のお陰なのです。ですから全て感謝の念の中に私達は生きなくてはならないのです。
そのことがわかりますと何をやっても無所得です。自らは無であるということが、自分の御業が無いということが分かって、働き手は全て神であられると分かった時、
〈神が私の中に生きておられるのだ。そして神が生きていればこそ御業が為し得るのだ。これは神の働きで神の御業なのだ〉
と悟ることが出来た時、皆さん方は無所得(無我)となるのです。
皆さん方がそういう気持ちを、本当に謙虚というものが何であるかということが分かるようになりますと、偉大な悟りに到達しているのです。
何を為しても無報酬ということです。その見返りを持たない、本当に無所得そのものの与えきりの御業が為し得たならば、あなたは自分自身の中にその御霊の力、神の力というものを心から信じている姿です。
これを誠の神信者というのです。
皆さん方の中には神が生きておられますので、自分がいくら長らく生きよう生きようともがいても、それは神のみが知っておられますから、〈私は何十歳まで生きたい〉と思っても無理な話です。
その神が必要とあらば長らくその肉体に滞在して下さいますし、早く出るべきであれば早く出られるのです。
イエス様は、「神の国は汝の内にあり。人間は生きた神の宮なり」と、人間一人びとりに生きた神が存在することを、実在することを、聖書で訴えてくださっているのです。
「生きた神である。人間一人びとりは生きた神の宮である。肉体というのは生きた神の宮に過ぎない。だから、一人びとりの命そのものが神である」と言われているのです。
だから皆さん方は命を学び、それを尊敬し合わなければならないのです。
そして、皆さん方は自分自身の中に神がおられることを知ったならば、この世で全ての隣人は神を宿した自分自身の同胞(きょうだい)であり、
血や肉よりも濃い素晴らしい生命の久遠なる同胞(きょうだい)であるのです。実の兄弟姉妹であるのです。
皆さん方は本当に神を愛しておられるでしょうか。それらが理解できていなければ、また旦那さんを、奥さんを憎んだり悪口を言うかも知れません。
そのことは、神を憎んだり神に悪口を言うようなものなのです。皆さん方はその神を本当に愛していますか。
汝の隣人である旦那さんを、奥さんを、汝の隣りにいる偉大なその神を貶し合っているのではないでしょうか。尊敬しあっていますか。愛し合っていますか。賛美していますか。
それが理解できるようになった時、夫婦仲というものは物凄い喜びと偉大なものになるのです。家庭人全てが愛し合う存在となって行きます。もうその喜びは例えようもないものなのです。
私は家内を自分の所有物だとは思っておりません。
偉大なる共に住む神の現れだと思っています。
私は家内を一度も粗末にしたこともなく、これっぽっちも荒い言葉を言った事もありません。私が家内に何かをして上げますと
「ありがとうね、神様」と答えてくれるのです。
だから私たち夫婦は〈この人は今何を欲しているのだろう。何をしてあげたらいいんだろう〉と、お互い周りを見つめ合い、助け合い、分かち合い、
それを無言の中で、謙虚な愛の中で実践しています。それは互いに神というものを理解し、そして最大にその神を愛し合っているからです。
私はこの世に一人でも憎むという人がいません。一人もいないのです。
なぜいないかということは、人を憎むことがどんなに悪いことであり、自分が苦しむことを知っているからです。すべてを許しています。
なぜなら、神は偉大なる許しの方であるからです。
神が人間の過ちを許さなかったらば、私達は当に消滅しているのです。
私達は神から出て来て、神から生まれていながら親を知らないのです。
親(父なる神・宇宙生命)を知っていないのです。
何から出て来たのか、私達は真の親(内なる神・大生命・大愛・神・宇宙エネルギー)を見失っているのです。
しかし、親は「可愛い子には旅をさせろ」と、苦しんだり転んだりしていても涙を堪えて見つめておられるのです。自らが気が付いて親元に還ることを父なる神は眺めておられるのです。
私達は何回も苦しんだり転んだりして、色々なことにぶつかって初めて親を想うようになるのです。
親を想う心が、その自分の親を捜す心が、それが働きかけてくるのです。苦しい時〈なぜ私はこんなに苦しいんだろう〉と、親を想うことの機会を与えられているのです。
しかし、この世で安楽に暮らしている者は、親を捜し求める機会を失っています。波乱万丈で経済的に恵まれ、色々なものに恵まれている者はこの三次元の世界に満足しているのです。
そういう方々は真の親である父なる神に巡り合うことは、
「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われているのです。
「貧しきものを幸いなり。苦しき者よ幸いなり」と言います。
なぜ「貧しき者よ苦しき者よ幸いなり」というか皆さんはお分かりでしょうか。貧しさの次には喜びが来るのです。苦しみの次には喜びが来るのです。
今、喜びであり、色々な物に満たされている人達は「昼の次には夜が来るであろう」と。しかし、今、自分自身に満足していない方は幸いです。
必ず満足する日が訪れるという事です。「夜があれば必ず昼がある」というように、「夜明け前は暗い。だがその者にはやがて明るい朝が来るであろう」とそれが訪れるのです。必ず訪れます。
それを「貧しき者よ幸いなれ。苦しき者よ幸いなれ。その者は神を観るであろう」というのです。正にその通りなのです。
皆さん方は今、自分の生き方に満足しておられません。満足しておられないからこそ、ここにそれを求めに来られたのではないでしょうか。
そして真の親を知りたいと想う心がけが、皆さん方には一杯詰まっていると思います。
それが神の慈悲、神の愛です。皆さん方は今、神の慈悲に満たされていることを感謝しなければならないのです。
ですから、皆さん方がこの世に生まれて出てくる時も、あの世に帰るときも神のみが知っておられるのです。
そのことを皆さん方は『天命』とか『運命』と言っているのです。
皆さん方は死を恐れる必要はありません。
神(真の自己・真我・無限の生命)は永遠に死なないからです。
神は久遠にして永遠です。なぜ人間は死なないかといいますと、人間が生きているのではなく神のみが生きておられるからです。
しかし人間は〈自分が生きている〉と思っているのです。
その自分が生きているということが迷いなのです。
あなたには、今、命があります。その命そのものが神です。
皆さんが生きているのは神のお陰です。神があなたの中に生きて働いて下さるのです。あなたが働いているのではないのです。
そこに人間という存在、個別化されたものがあり、「私がやったのだ」というものを考えるようになったのです。
ですから〈私は毎日家族のために炊事・掃除・洗濯をやっているのに、誰もお礼を言おうともしない、誰も褒めようともしない〉と思うようになるのです。
しかし「神が炊事をして下さった。神が掃除や洗濯をして下さった」と皆さん方が思ったとき、〈誰かお礼を言って褒めてくれるものはいないのだろうか〉という思いが起こるでしょうか。起こらないと思います。
これが謙虚な心というものです。
皆さん方が世に貢献している姿というもの、そういう謙虚な気持ちになってそれを為し得ているならば、それは非常に素晴らしい美しいものです。
しかし、それに見返りを頂こうとするその利害関係が入って来ますと、もうそれは謙虚ではなくなるのです。
世の中には謙虚のような姿を見せて、まだ自己限定している人がいるのです。「私みたいな人間が・・」とか「私は無知ですので何も出来ないのです」と、これを謙虚だと思っている人もいるのです。
これは謙虚ではありません。それは自己卑下というものです。神の力を限定していて、それも神を知らない無知の存在なのです。あなた方には無限大の知恵と力が備わっているのです。それはあなた方が神であるからです。
あなた方の為している御業は、常に神が為している御業である
ということが自覚できるようになりますと…、
そしてそこに自己限定がなくなりますと…、
偉大なる知恵と力があなたを通して、無限大の人間の想像を超えるような知恵と力が、皆さん方の肉体を通して働くようになるのです。
これが「神我に生きる」ということです。あるいは「神我顕現」ということなのです。
神我というのは「神の我」あるいは「真の我」ということで、
「私達は実相に於(おい)て神であった。命であった」ということが分かるのです。
今、世の中で「人間だ、人間だ」としているのは、五官の感化(自我・偽我)で人間と思っているだけです。
この世に神のみがおられるだけで、人間の存在は本来は無いのです。人間の五官の感化が人間という名前を付けているだけです。
皆さん方は常に神と共に、常に神と一体であるのです。
イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。
神と一体ということは、
『その御業を為す御業は全て神の御業である』
という強い信念と信仰を持っておられたのです。
そして神のその力を相当の意志力でもってこの世に現し給うたのが「イエス様」であったのです。あるいは「お釈迦様」であったのです。
皆さん方もイエス様と同一のもので、同一の生命を持ち同一の肉体を持っておられたのです。
イエス様は特別な人間ではなく今身の人間であられたのです。何が我々と違っていたかということは、その謙虚さ、神の謙虚さ(神の道具意識)を持っておられたということです。
謙虚さを持っておられたということは、ご自分の為される業は、
「その御業は私が為すのではなくて神のみが為し給われるのである」という事を悟っておられたのです。
皆さん方は如何なる仕事をやっている時も、商売をやっている時も、みんな神がやっておられることを自分自身に言い聞かし、それを自覚することが如何に大切であるかということです。
こういう本来の自分を知った時、その謙虚な気持ちが皆さん方に起こって来るものだと思います。
よく世の中では「謙虚に」という言葉を使いますが、その真の謙虚さを知っている人はあまりにも少な過ぎます。
でも皆さん方には真の謙虚さというものを、ここでご理解頂きたいのです。
真の謙虚さというものは
「自らの力は何も無く神のみが働き手であり御業を為されるのである」とそれが分かったとき、謙虚というのが分かるようになるのです。
威張るということは、神を知らない存在なのです。何回も申し上げるようですが、皆さん方は自分というものがまだはっきりと自覚されてないのです。真の自分とは何でしょうか。
その自分を知らないために自分という正体を知っていないのです。その正体を知らないがために、私達はそこに「威張り」というものが出て来るのです。
皆さん方の正体は何でしょう。
皆さん方の正体は『命』であり『神』であるのです。
皆さん方の一人びとりの中に宿っておられ、
活動されてやまないのは神なのです。それがあなた方の正体なのです。
人間はなぜ愛か 謙虚な心
女性というものは非常に素晴らしいもので、神に似せて造られた男性よりも、こういう神秘の力を、外に創造する力を持っておると同時に、その神の愛を、女性はみんな母性愛というものを持っているのです。
だから「母のような愛である」というのです。
イエス様は母の愛について
「地上におけるあなた達の母は神に近く、あなた達にとっても、神にとっても愛おしき者である。あなた達のために母が払った犠牲が、その母に与える喜びが、如何程のものであるか想像してみるがよい」と言われています。
子供を育てる母の愛というものは無所得です。今、赤ちゃんを育てているお母さん、今まで子供を育てたお母さんならよく分かると思います。
我を捨てて無所得の愛を子供に注いているのではないでしょうか。寒い真冬の夜中でも、何回でも起きておむつを替えて、乳を与えて、一生懸命子供を保護して愛の出し惜しみをしないのです。
本当に可愛くて可愛くて仕方がない、全てが愛おしくて愛くるしいとでもいうのでしょうか。
そして目に入れても痛くないと思う心、一体観念です。子どもと一体観念を計った純粋の母をお母さん方は施しているのです。
これが母性愛です。それは神に近い母の愛です。
しかし、子供が大きくなるに連れてその愛は徐々に薄れてきます。それはお母さんの愛は不純の愛に変わってくるのです。お母さんは子供に何かをして欲しいと要求するようになります。
手伝って欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、もうそれは利害関係が入った愛に変わって行くのです。
でも赤ちゃんの時の、赤ちゃんを育てる間の愛は、純粋の愛を現しているのです。それは謙虚の愛であり、本当に素晴らしい威張らない謙虚な愛が現れているのです。これは神の愛なのです。
ですから、私達は常にそういうものが何であるか、これを学ぶと同時にそれを行うことが大切なのです。実行しなくてはならないのです。
皆さん方はいくらそのことを知っても実行しなければ何の救いにもならないし、また、神を観る事も出来ないのです。
お母さんが子供を愛するように、大人になっても子供を無所得のままで愛しきれる。そして神の謙虚な愛を皆さんが日常生活の中で行い、
それは家庭生活だけではなく、汝の隣人にもそういう愛の想いが表現できるようになれば、その人はもう生き神様で神に似てる存在となります。それが真の信仰です。
信仰というのは行為の中になければならないのです。口先だけの信仰というものは真の信仰ではありません。口先だけでは何とでも言えるのです。
人を憎みながら、怒りながら、そしりながら、嫉妬しながら、私は神を最大限に愛していますという訳です。
イエス様はそのことを知っておられましたので、
「汝の隣人を愛しなさい」と言われたのです。
「神を愛する」ということは、銘々が、「一人びとり」が
「神を宿している」「神の御霊(みたま)」であり、
「分生命」であり、「分魂」ですから、
「隣人を愛する」ことが「神を愛する」事なのです。
「皆さん方」は「神の創造物」であるのなら、
「神のお造り」になった「全ての全て」を「愛さなくてはならない」のです。
なぜならば、神ご自身は創造主であり、神はご自身でお造りになった全ての全てを愛して下さっているからです。
動物、鉱物、植物を愛し、生きとし生けるもの
「全ての全て」を、「私達は愛さなくてはならない」のです。
これが「神を愛している姿」なのです。
と同時に「神を賛美している姿」です。
それは人々を賛美するということ、貶(けな)すのではなく誉め称えて、本当の喜びの中に、分かち合いの中に、助け合いの中に仲良く調和の取れた状態、これは神を賛美し、神を愛している姿なのです。
イエス様は
「神を愛するということは汝の隣人を愛することである」と言われているのです。
「汝の隣人」こそが「神の現れ」であり、
「神の御子(みこ)」であるからです。
また、「神ご自身」であるからです。
隣人を貶す者は神を貶す者であり、隣人を冒涜するものは神を冒涜する者であるのです。
その神というものは無限で、全宇宙に遍満しているのです。
だからこの世に現れているもの、目に見えるもの目に見えないもの、全ての全てが神であるということを知らなくてはなりません。
そうなれば私達はそこに差別のない愛で、全ての全てを愛さなくてはならない、全ての全てを賛美しなくてはならないのです。
ただ身内の者だけを愛して別の者は嫌いだと、あの者はこの者は大嫌いだと争っていることは、神を知らない無知の存在であるのです。
神は偉大なる無限者であられるのです。
ですから、私達は、今、現実に、
「無限(神意識・神の御心)の中に生きている」のです。
「神を愛する」という事はどういう事でしょうか。
それは「隣人を愛する」ということです。
自分の奥さんや旦那さんを愛している、そして身内の者を愛している、あるいはあなたの職場の一人びとりを愛していることは、神を愛している姿、賛美し合っている姿です。
無我の境地とは何か
人を苦しめていることは自分を苦しめているようなものなんです。
この細胞がこの細胞を苦しめれば自分を苦しめておりますね。
それと同じようなものなんです。
それを皆さん方は一体観念という、
一体、全一体が神理でございます。
分離は非真実、迷いそのものなんです。
あなた方が神理の中に生きて、神理を知っていたならば、
誰を憎みましょう。誰も憎まないはずですよ。
そこには愛しかないはずです。
ね、ひとつの存在ですから、対立するものがないはずですから、
迷いの中にこそ、対立はあるんですよ。
今まで個人と思っていた自分がなくなって、全我という一体感。
あ~あ、な~るほど、
一つの宇宙生命の中に、みんな一つの体の中にいるんだな、
一つの生命をみんな宿しているんだな。
そして同一の神々のみ中にいらっしゃるんだな。
という事が分かれば、そしたら、あなたは誰をけなしましょうか。
そこにはもう調和と愛しかしか無いと思います。
であるがゆえに神は愛なんです。
私達はまだ、悟りという神理の中の境地に入っておりません。
無我の境地というものは、今まで迷っていた自分がなくなって、
「全我」という「全一体感の中」に「神の中に入る」ことが、「無我の境地」でございます。
そこには無限なる自分、全体なる自分しか無い。今まで個人だと思っていた自分はなくなっています。
迷っていた自分がなくなって、
悟りの自分、「全一体」なる大いなる「無限なる自分」しか残らない。
それが、「無我の境地」でございます。
そういった時、みなさんがどのようなことが起こるといいますと、
あなたが個人、分離でいる間は、迷い苦しまなくちゃならない。
分離でいる間は、迷いなんです、苦悩なんです。
自分の無知で自分を傷つけます、
しかし、悟りという境地、無我の境地に到達したならば、
傷つけるものがありませんから、傷つくことがないのです。
人を苦しめませんので、苦しむことがないのです。
そこにはもう平安と安らぎしか無いのです、
これが神の境地なんです。光悦感といいます。
あなた方が一番この世に生きてる間に、その一番克服しなくちゃならないことは、分離感で御座います。
どこにも分離はございません。分離というのは皆さん方の無智の中に、迷いの中にのみ存在致します。これは実在ではありません。非実在なんです。
勝手に人間が分離してはないけれども、
分離して勝手に争っているだけ、勝手に対立しているだけなんです。
どこにも分離はありません。
それがなくなって対立するものがなくなれば、あなた方は苦しむでしょうか。
悲しむでしょうか。恐怖するでしょうか。
今日の話は、皆さん方を最高の神に到達する神理でございます。
それをあなた方は観念でとらえて、自力でとらえては何にもなりません。
あなた方が意識的にその全一体感になることを無我の境地というので御座います。
意識的にその全一体感に自分が到達。
そして皆さん方が、その「無限と一体」であることによって、皆さん方は無限の智恵と力と愛をあなたのものとすることが出来ます。
なぜなら、あなたは今、分離している間は、一滴の海水のようなものなんです。
一滴の海水を海から持ってくると、使い道がない、無力、ね、何の価値もないけれども、その一滴の海水を全体に大海に返してみて下さい。
その一滴の海水も全一体となったから、全体の知恵と力をその一滴の海水を、我がものとすることが出来る。
あなた方の今、分離の中に、対立の中に、いくら神の知恵と力をあなたが得ようと思っても、得ることはありません。
ね、無限宇宙とあなたが一体となって、全一体、どこにも分離のない状態、宇宙即我という境地にあなたは無限宇宙の中に今いますよね、皆さんがね。
そうすると、無限宇宙があなたでなくてなんでしょうか。
あなたから無限宇宙から分離することが出来ますか。
あなたそのものなんです。だから、あなたは無限者なんです。
その自分が、無限の中に留まり、無限者があなたの中に留まり、あなたは無限者と一体となる。そのことの境地に到達した時、あなた方は無限の知恵と力と愛をあなたのものとする事が出来る。
あなたを通して無限を表現することが出来る。
これが釈迦の偉大な力、宇宙力、天と地を支配する力を得た秘訣。
イエスが天にある言葉を語られた秘訣、彼を通して無限の知恵と力が、言葉を通して現れたのでございます。
おまけです♪
一つのもの(無限の生命)の中に生きているからです。
心は一つの心、神の心(神意識)の中で生きているからです。
人を苦しめていることは自分を苦しめているのと一緒。
一体ですから、神から見れば1個の細胞体です。分離はございません。
悟りとは何かというと、全一体。全ては一つの体ということを悟る。
無限宇宙からすれば全一体なる大いなる自分。全一体が真理。そこには愛しか無い。
そこには愛と調和しか無い。
迷い(分離意識)の中にしか対立はない。
昇天とは何か
無限なる自分を小さな自分にしているのは自分自身です。
だから、小さな我から宇宙的我になることを意識の拡大といいます。
意識の高揚というわけです。じゃあ、誰があなたを昇天させるの?ん、
昇天とか成仏というものは、自我意識状態から本来の神我意識状態になる、神意識状態なることを、昇天成仏というんですよ。
それ以外に成仏があったためしもないし、昇天という言葉があったためしもない、そうですね。
神我意識の世界は神の国でしょ?
あなたは神我意識にならないでも、神の国に住むの?
自我意識であるかぎり、人間界にしか住めないのですよ。
私は人間だと意識を持った人間が、どうして神の国に入るかということです。あなたが神の国に入るためには、あなたが神意識でなくてはならないという事ですよ。
神でないものがどうして神の国に住むの?ということです。
神ではないと思っている人は人間の世界にしか住めないのです。
だから、再三この人間の世界に生まれてくる、輪廻転生、ね、
転生輪廻というのは、我神なりという神の自覚の出来た人は昇天しますけれども、自分は神であるという神の自覚の出来ていない人間が、一人だって昇天したためしはないのです。
だから、迷った人が昇天することはないのです。
迷った人というのは、自分がある人です。
自負のある人です、これを自縛というわけです、地縛霊というのは。
あなたがなぜ人間界にあなたをとどめているの?
あなたが私が人間だと思っているかぎり、何万回でも人間の形の世界に生まれますよ。
お分かりいただけますか。
じゃあ、誰があなたを助けるの?誰が?自分でしょ。
だから、神は自らを助くるものを助く、汝の救い主は汝自身なりと、
救い主はあなた自身であって、誰でもない、と。
私知花は、あくまでもアドバイザーです、ね、皆さんにアドバイスをしてるだけであって、実際にこれを行動を起こすのは誰なの?ね、
立って歩めというのはその意味なんですよ。
勇気を持って歩みなさい、と、その意識を持ちなさいという意味です。
だから神を受け入れるか、受け入れないかと。
神を受け入れた者であるならば、あなた自身が神意識になっているはずです。神意識にならないでは、神の国には入らないのです。
だから神我を通さずにしては神の国にはいることはないと、
わかりますね、神我を悟らずにして。
神我の世界(真我)が神の国ですから、
神我の世界(ワンネス意識・内なる神の国)に入ることが
神の国に入るという意味なんですよ。
自我の世界は、人間の世界ですから、人間の世界から抜けきれないというわけです。これを自縛というわけですね、
私は人間だと思った、生涯を終わったとする人は、
成仏ですか、不成仏ですか?
人間意識で生涯を終わった者は、成仏?不成仏ですよね。
自己を知らないまま、無知のまま、己に迷ったまま、迷いですよ。
自分を知らないという事は、迷っているということですよね。
悟った人というのは、自分を知っている人という意味です。
悟ってる人であるならば、この形を自分だとはいいません。
言う?言わない、言ませんよね。
普遍的その大生命を己だといいます、今、考えない、意識しなくても。
形をまだ意識して生きているかぎり、自分がありますから、
自負です、自分を背負っているわけです。
自負は即自縛です。自縛は即自我です。
だから、自我意識は、悟りですか?迷いですか?
迷った人には自我意識があるけれども、悟った人には神我意識しかないのです、自我意識はない。
自我意識に生きるか、神我意識に生きるか、だけのものだったのです。
不動明王になるには
神は絶対善そのものである
私達が不動心になるということは、不動明王になるということです。日本人は大変、不動明王が好きです。人間は、善悪の心で揺れ動いています。悪の心というものは、人間が創り出したもので、本来は存在しないものです。
神というのは絶対善そのものなのです。人間は、本心と偽心とがあると思っていますが、人間には本心があるのみなのです。
偽我という自分が勝手に創り出した個人意識と、本当の我である真我が一つになると、偽心があるはずがないのです。
人間は善悪の木を食べています。善い心もあって、悪い心もあると考えているからです。「心を一つにしなさい」ということは、悪い心をなくして、善い心だけにして、一心集中、絶対善の心で生きるということです。
そうすると不動心となり、これが本心、良心と言っているものなのです。
善なる心のみ、本心のみがあるのであって、悪いことをすると良心が咎めるのです。
悪い心があると思っている人は、時計の振り子のように善悪に心が揺れます。憎しみ、怒り、嫉妬のような悪い心を持ってはいけないのです。
不動心は不動明王のことです。闇がない光一元の状態を、明王と言い、それが不動不変の状態にあることを意味します。悪いことをしている時は闇です。人間の心は善悪に揺れますから、晴れたり、曇ったりしています。
太陽は曇ったことがないのです。心に本来曇りはないのです。これを清き心と言います。心清きと言い、「心清き者は幸なれ」。その人は不動心であり、光明であるからです。
人の悪口を言う時の人の心は曇っています。心のスモッグがかかっていますから、明るくないのです。
スモッグを創る、創らないは、自分の心次第です。
一心集中、絶対善の心にすることです。これが日常生活に必要なことです。善なる心だけにしなさいという意味なのです。
どんな迫害を受けても、罵られても、心を平穏にして、憎んでも、そしってもならない、怒ってもならない。怒り狂っている時、皆さんの心は曇っています。
誰かに命令されているのではない。悪しき心で、大欠損をして、平気でいるのです。心よりお金を大切にしているから、お金のために心を売り飛ばすことが多いのです。心はお金では買えないものです。お金を一万円貸して、その人が返さないと、怒り狂う人がいます。
私は人にお金を騙されても、怒ることはしません。人から馬鹿だと言われましたが、お金で怒る人は不動明王になれないのです。
人を憎んでいる時、嫌な気持ちのはずです。自分の心が曇りますから損です。不動心、絶対善の心でいたいものです。
お寺にある、剣を持ち、怒りの炎を燃やす不動明王の姿ではないはずです。本来は仏の姿で、怒りの姿に造り間違えているのです。
愛光が燦然とする姿です。顔に現れているのは心です。心の状態を映し出すのが顔、怒りは怖い顔です。嬉しい、楽しい時、ニコニコと仏の顔となります。
心清き者は幸いなり
心が安らいでいる時は、自ずと緊張感がとけて、肉体がリラックスします。心が緊張していると、肉体はリラックスしません。
悪の心がない状態となると、肉体はリラックスするのです。精神統一はリラックス状態で平安の心です。そのためには、人に何を言われても平気でいなければならない。
外なるものの影響を受けないで、常に清い心。安らぐ心でいられることが不動心です。不動心なら心の修行が終わった状態です。
心がいくつあるかを知るべきです。み心、真心しかありません。これが神の心で、実在の心なのです。偽我は、偽りの心となり、上辺の心です。これは実在していません。
あなたが、個人意識で、勝手に創り出したものにすぎません。肉を己として生きる限り、偽心です。心を一つにすると悪の心は生まれてこないのです。
心のことを心霊(または神霊)と言います。大霊は寛大な心、神の心です。心は光で、闇ではありません。心の光を霊光と言います。これを曇らしてはなりません。
イエスは「心清き者よ幸いなり、その者は神の国を見るであろう」と言われているのは、この意味です。
善悪の心に、揺れ動いている所に、神が映るでしょうか。波打っている水面には、お月さまは綺麗に映りません。鏡のように揺れ動かないものに神は映るのです。
今のあなた方の心では、とうてい神は映らないのです。
神を見るためには、平坦な心でなければなりません。
これを静寂な心と言います。
悪霊は自らが創る
外側からの誘惑がサタンの誘惑なのです。サタンは悪、悪の誘惑に負ける。本来サタンという悪はないのです。悪がないと解れば、サタンの誘惑に負けることはないのです。悪が来ても、あなたの光をもって打ち消す。あなたが光そのものであったら、誘惑は入って来ません。
その時あなたは、この世の悪に打ち勝った者となる、誘惑に打ち勝った者となるのです。サタンとは自我意識のことです。
悪い心と悪霊は同じもの。良い心を善霊と言います。神霊ですから、悟った人は善霊となります。
この悟った人には悪霊はありません。悪霊は本来実在しないからです。善悪の木の実を食べている人のみに悪霊があり、その影響を受けるのです。
悪霊は幻、1つ目になっていない人にのみあるもので、絶対実在は神しかありません。アダムとイブの初めに戻り、善悪の木の実を食べていることと同じです。
この時以来、人間はまだ、善悪の木の実を食べ、善悪があるのだと信じ込んでいるのです。心の悪い人のことを善霊と言わずに、悪霊と言います。皆さんは、悪霊が怖い、悪霊に取りつかれていると言います。
あなたが誰かを憎んでいるときには、悪霊に取りつかれている状態、悪い心に取りつかれています。
では、憑依霊は誰が受けるのでしょうか。誰がもって来るのでしょうか。その悪い心に支配された状態を憑依霊と言うし、悪霊に支配されていると言います。
良い心に支配されている時は、神懸かりです。世の中は、悪霊の意味が解っていないのです。その心の悪い状態を悪霊と言うのです。本来はないのですが、その本人が悪を望んで創るわけですから、悪霊が存在することになります。
創らなければよいのです。あなたの悪、憎しみは、あなたが創るからあるのであって、創らなければ、ないのです。悪を創らない人間に、悪は存在出来ないのです。
では、あなたを善人にするも、悪人にするも誰次第でしょか。あなた次第です。誰かがあなたを良い人、善霊に、あるいは悪霊にできるのでしょうか。
あなた自身以外に誰も出来ないのです。だから、良い人間になるも、悪人になるも、他の本題ではなく、自力本願、その人の自由意志、自由選択なのです。
絶対善にあなたがなれば、あなたは絶対善になるのです。それが不動心、善霊です。もう憎しみを感じない、怒りを憶えない、嫉妬しない、悪がない人間にならねばなりません。
そうなる、そうならないは、皆さんの日常生活次第です。
どこかに篭って座ることでしょうか。皆さんの日常生活が、信仰そのものなのです。精神統一は、日常生活の内で行わなくてはならないのです。
今日一日愛の1日であった。
絶対善の一日だった。
誰の悪口も言わなかった。
誰も憎まなった。
これは1日、精神統一をしたことになります。調和の1日だった、愛の1日、調和の1日だった。そこに何の悪もなかった。それの積み重ねです。
みなさんんは不動心になって初めて、不動明王という光輝くものとなるのです。多くの人を憎み、多くのトラブルを起こす人は、病気になりやすいのです。
病気は愛から来るのではなく、不調和から来るものなのです。憎しみや、怒りやそしりが病気の原因になっています。
あなたが絶対善となり、光となったら、世の中に病という闇は存在しないのです。闇から病(やまい)や、悩み(なやみ)は来ます。
天国に住むも、地獄に住むも、あなた次第です。絶対善の心が、神の心、み心です。その悪の心は、あなたの自由意志で創ったものであり、本来は実在していません。
だから、実在する絶対善の心で生きてこそ、私たちは不動心となり、不動明王となります。それは、毎日の日常生活が修業の場であるということです。誰もあなたの心を変えてくれる人はいません。
あなたが、自分の心を善に使うか、悪に使うかは、あなた次第です。あなた方は各々、神の心を持たされているのです。世の中には、神の心を悪い方向に使う人もいます。
その心はエネルギー、力ですから、宇宙にはエネルギーは一つしかありません。神聖エネルギーです。
ある人はこのエネルギーを悪に使い、ある人は善に使うだけなのです。エネルギーには善悪はないのです。
戦争と平和のエネルギーの区別はないのです。その人が戦争に使うか、平和に使うかだけなのです。エネルギーには、善いエネルギー、悪いエネルギー、マイナスのエネルギーもあって、プラスのエネルギーもあるのではないのです。
神聖エネルギーしかないのです。愛のエネルギーしかないのです。これを人間の自由意志で、悪に使うか、善に使うか、建設に使うか、破壊に使うかだけなのです。
皆さんの病気のエネルギーと健康のエネルギーは別々のものではなく、同じエネルギーなのです。その本人が病気という破壊的な方向にエネルギーを使っただけです。
日々、心を正しく使うこと
宇宙にはエネルギーは一つしかないのです。病気に使うか、健康に使うかは、その人間の自由意志です。自由選択です。
病気にするも健康にするも、その使い方次第。正しく使えば健康、誤って使えば病気になります。
宇宙には、たった一つの無限大の神聖エネルギーしかないのです。このエネルギーを、皆さんの心次第で使い方を決めているのです。
悪い心となっている時は、悪いエネルギーに転じており、善い心で正しく使えば、健康になります。
心を正しく使う日常生活を歩まねばなりません。皆さんは今日まで、平気で人の悪口を言い、憎しみを持ってきたと思います。それは得したのでしょうか。損したのでしょうか。
よく考えて下さい。人を憎んで、得をする人はいません。人の悪口を言って得することはなく、損するだけです。みなさんと私が、日常生活であまり会って話をしないのは、皆さんは三次元的、五感的外側の話しかしないので、私にとっては、気に入らないのです。
みなさんは、実在の話をしないで、この仮相界の話しかしませんから、私には気に入らないのです。
消えてゆく仮相の話に対して、聞く耳を持っていません。話を聞いても得にならないのです。気に入らないから黙っていたほうがよい。
これを沈黙というのです。
三次元的なうわさ話、どこどこで誰々さんはね・・・、とかの話は損しているのです。あなた方はせっかく食べたエネルギーを、こんなものに消費せねばならないのですか・・・。
あなた方は、そういう無駄なものにエネルギーを浪費するから、腹も減るのです。おしゃべりしなかったら、腹も減らないのです。意味のないおしゃべりをして、無駄なエネルギーを浪費するから病気になるのです。
不動心になると、もっともっと、ひもじさを感じなくなります。みなさんが不動明王になるためには、絶対善という、今日も1日善の1日であると、決め込んでかかって下さい。
悪いものに負けるものか、サタンの誘惑に負けるものかという強い決意をして下さい。人の悪口を言う時は、あなたはサタンの誘惑に負けている時です。
それは許しと愛で打ち勝たねばなりません。許すことによって勝つことになります。喧嘩は両成敗が当たり前です。両方罪を犯します。両方損をするのです。両方悪いから、両方を裁かねばなりません。双方とも自己主張しているだけです。これは、自己保存の心と言って、一番汚い心です。曇りです。
私はこう思う、私はこう見るという自我意識でものを見たり、考えたりしている時は、そこには善は存在しません。
常に真の我れ、絶対善の心からものを見なくてはなりません。
いい顔であるためには、いい心でなければなりません。
顔は心の映しですから、心以上のものを映すことは出来ないのです。
良い心は良いものを映します。
悪い心は悪いものを映します。
良いものを映し出すか、悪いものを映し出すか、それはあなたの心次第です。
良い心は、神のみを映し出して見るだろうということです。そうすると、この世は波立たなくなります。これが静寂な心と言って、そこに映ったものは、綺麗に見えます。
波の荒い時は、月は綺麗に映らないのですが、心が不動になって、善悪の心に揺れなかったら、そこに映ったものは、綺麗に見えます。
善悪の心というのは、善悪の木の実とも言います。
人間が善悪の心に揺れているということを、動揺といいます。
みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
神は中心です。その中心から振り子が会って、善と悪があると思い込んでいます。
本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。
人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。
不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。
誰でも不動明王になれる
みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
瞑想して、幽界に意識を向けてパルス型になった人もおります。だから、瞑想は危険ですよ。幽界に意識を向けて瞑想したら、感情的になったり、一人笑いをしたり、一人泣きをする人がいるわけですよ。
あなたは憑依霊現象の本を読んでる時、どこに意識は向いてます?幽界に、神に? その本の影響と言うのは大きいですよ。書く人も幽界に意識を合わせて、読む人も幽界に意識を合わさねば読めないわけですから。
だから、書物によって非常に人間に有害なものと、利益になるものがあると、ご理解いただきたいですね。幽界の本を読んで、神界につながる?
みなさん神界に意識を向けますと、この世の本は不要となるんですよ。必要としないのですよ、それ以上のものはないわけですから。
聖書とか仏書とか、天啓を受けたとか神に目覚めた人が書いたものは、神のバイブレーションを持っています。バイブルと言って、バイブレーションなんです。だから、いまだかつて聖書に打ち勝つ書物は存在しないのです。
簡単なんですけれど、難しいのですね。それが、難しいという考えが難しくしてるんですよ。神を想うのが何で難しいのかと。
今、全部物質に向いたから地球のバイブレーション下がって、地球は死ぬか生きるの病にかかっているんですよ。それは、物質に無我夢中だったからじゃありませんか。どうです?
だから、高度の物質文明が栄えた時、地球はバイブレーションが低くなりますので、地球は何回も滅びたわけですよ。誰が滅ぼしたのですか?人間がですよ。そこにいる人間がバロメータを、波動を落としたから、ダメになったのですよ。
今、地球のバイブレーションは上がりつつありますよ。その日をいかに待ち望んでいたか。苦しい時の神頼みと言って、物質に頼れなくなると、みんな霊性に向いてきますので、その日を待っているんですよ。
神を愛するとは、想えばいいのですよ。意識すればいいのですよ。
だから、多く愛する者は愛されるというのはその意味です。
今、知花は1日中思っていますよ。だから、3次元的な外の話に入ってこないというのはその意味なんですよ。
その世界に私がいることによって、わたしからその波動を出すことによって、全てのもののためになるんです。低い意識状態でジタバタして人類救済ができる?そのことをご理解いただきたい。
だから、聖者方が走り回って奉仕するということはないと。
そうすると物理的にも霊的にも恵まれますよ。そこに入ると、必要な時に必要なものが使えますよ。みんなから信頼と、いいあれを受けますのでね。食いはぐれるということは全くないですね。
もう1つ具体的になりますと、見える世界と言うのは、見えない世界の具現ですから、その原質は全て不可視の世界にありますから、後は自分の必要なもの具現すればいいのですよ。でその時代までもう来ますよ。
人工的に、ここで物質を固めて造るんじゃなくて、不可視の質料からすぐに可視の質料としての原質ですね。これを物質化現象と言いまして、家も勝手に自分で創り、食べ物もスーパーも何もないのです。
神は中心です。その中心から振り子があって、善と悪があると思い込んでいます。
本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。
人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。
不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。
あなたがスモッグを造っているのです。あなたは太陽を見ないで、曇った部分を見るから曇っているのです。ちょうとこの世も同じで、太陽は燦然と、曇りの日も、雨の日も輝き続けています。
あなたは、そのスモッグを見ているだけで、太陽そのものになれば、燦然と輝く自分を見ることが可能です。
神のこと、霊のことを霊太陽と言って、霊は太陽なのです。これが宇宙の中心太陽なのです。この霊太陽が全世界、全宇宙を照らしているわけです。太陽はなぜ光り輝き続けているのかと言いますと、放出するからです。
太陽がケチって光を出し続けなかったら、その光は曇ってなくなります。与えるから、与えられるのです。循環の法則を守っているのです。
放出しなかったら、太陽は光を得ることはないのです。出すこと、入れることは、循環の法則、バランスを守っているから、太陽は光っているのです。
あなたも世の太陽となるには、与えきりなさい。
「与えよ、さらば与えられん」の意味は何かと言いますと、「空」は光の粒子ですから、その光を放射することによって、常に空(くう)の光の粒子と入れ替わり、私たちはこの世の太陽となります。
太陽は与えきりですから、次から次に出しても、その光は減ることがない、それは霊太陽から光を与えられるからです。皆さん方も、世の太陽となるためには、多くの人々に宇宙エネルギー、神聖エネルギーを放流、放射してゆくことが大切です。
得ようとする者は失うということは、その意味です。あなた方は出すことは嫌いで、得よう得ようとしています。
「命を得ようとする者は光を失い、光を放つ者は命を得る」という意味です。
与える者は、その与えた人が輝くのです。もらおう、もらおうとする人は、自分が光でないと思っているからです。
与えて光るのか、もらって光るのか、もらおうとすることは破滅です。
与えることは得ることです。
これは循環の法則ですから、与えて、与えてゆきなさいということです。
水車も水の流れをせき止めないで、流れに任せているから、力が出るのです。あなた方も、この肉体という意味を、神の媒体となって、与え切ってゆけば、その偉大なる力、偉大なる輝きを出してくると思います。
「先生、エネルギーを下さい」と言う人は、感心しません。あなたは、乞食になりたいのか、与える者になりたいのか、どちらでしょうか。欲しい、欲しいは乞食です。貧乏です。金持ちは与えます。
与える者になりなさい。与えるものは、物ではないのです。
あなたの善意なる心です。エネルギーです。私には、何も与えるものはありませんと言いますが、エネルギーはあるはずです。
あなたが善意な心になれば、光そのものを放射します。その光を世の人々に注ぎ続けることです。
このことが、イエスの言われた、「我れは世の光なり」ということです。
太陽は与え続けているがゆえに、みなさんは太陽が照り続けると、カンカン照りで熱いと文句を言いますが、曇ると曇っていると文句を言います。
しかし太陽は一切文句は言いません。太陽はいくら文句を言われ続けても、光を与え続けています。あなたがたも、この世の人間同士も同じことだと思います。与えられても、文句を言う人もいっぱいいます。
この知花の話を聞いて、知花に敵対する人も多いのですから。
人から盛られた毒は食べてはいけません。夫婦でも毒の盛合いをしています。サタンの誘惑です。憎しみ、怒り、嫉妬とかと行います。親子でも、夫婦でも、お互いの毒を食べないことです。
サタンの誘惑に負けるということは、人から盛られた毒を食べてしまい、あなたも怒ることです。
悪の心は、あなたが勝手に創らない限り、存在していないのです。この世にあるのは、実在しているのは、絶対善のみなのです。悪の心は人のものです。悪という心は、神というその本心を知らない人にのみあるのです。
心を一つにしなさい、ということは、善なる心のみにしなさいという意味です。心が一つになったら、みなさんには不幸というものはなくなります。
不幸になったり、幸せになったりするのは、善悪の心で生きるからです。
善なる心であるなら、毎日が幸せです。神は幸せそのものです。本当は、不幸な人間を、神は創り出していないのですが,あなたの自由意志でもって、あなたが自分を不幸にしているだけなのです。
誰があなたが自分を不幸にしているでしょうか。
他人ではなく、自分です。
ですから、最大の敵は、自分です。その善悪の自分に徹底して打ち勝つことが大切かと思います。誰もあなたを苦しめていないのです。
あなたの心があなたを苦しめているのです。自分との闘いということに、気づいてほしいと思います。
平気で人を憎む自分、悪口を言う自分に打ち勝って克って下さい。悪の心を自分に住みつかせてはなりません。清い心とするためには、憎しみの心、怒りの心、嫉妬の心をあなたの心から追い払わなければなりません。
これがキリストの帯でムチを造り、神殿を汚す者を追い払ったという象徴的なものです。あなたの心が神殿そのものなのです。
「心を神のみに与えなさい」ということです。
あなたの心を、善悪の住処にするのですか。清き心にして下さい。神のみの住処にしなさい。これが「心を一つにしなさい」という意味なのです。
一時でも、サタンをあなたの心に住まわせてはならないのです。あなたは、あなたの造ったムチで、心のサタンを追い払わねばなりません。
そのまま平気で、怒りの心、嫉妬の心を住まわせてはならないということです。私知花も、心に住み着くサタンを、ムチで追い払おうと努力している一人です。
たまにはサタンが心に入ります。そのサタンが心に入りこんだ時、みなさんはサタンにやられてしまいます。悪に取り憑かれていることになります。それを憑依霊とも言います。みなさんはよくやられています。
あなたが誰かの悪口を言っている時は、神懸かりではなく、憑依霊を受けているのです。それは自分で呼び込んでいるのです。その憑依霊を追い払う時、必ず憑依霊は、この者が私を呼んだのであると言います。
あの人を憎みたいと、憎しみの心をもったわけですから、憑依霊を招待した事になりますから、入ります。心を一つにしなさいということは、善悪の心で生きることではなく、絶対善の心を統一してゆくことです。
これが精神集中、一心集中です。
善なる心のみにしなさいということです。
それが出来たら、あなたは不動明王になっていることになります。
波動とは何か
心の波動が良ければ、バイ菌も無力になる
自分の肉体的な病気は、心の波動が生み出しているのを忘れてはなりません。
例えば外部からバイ菌が侵入してきても、元々体に愛の波動を持っているならば、バイ菌とは絶対に波長が合いませんから、肉体に入ってくることが出来ません。同じものを食べましても、中毒になる人とならない人がいるのです。
低い波動を持っていますと、病原菌、ビールス菌などが入ってきます。皆さん方のバイブレーションが高ければ、低い波動のバイ菌はどうしても入ることが出来ません。そのような人を防御能力が強い人と言いますが、その人間はオーラがあるのです。
愛の波動を出しますと、光のドームができます。オーラが出来るのです。それらはみな光を放っています。その光がピンと張った状態になりますと、バイ菌が入ろうとしても絶対に受け付けてくれません。
ところが、愛の光線が弱くて、自分から出ている波動が弱く、しおれているのではすぐに入ってしまいます。外部から入ってくる病原菌と波長が合わなければ入りようがないのです。
私達の日常生活は全て波動だといえます。心の悪い人は悪い波動が出ます。憎しみの心は憎しみの波動しか出ません。愛の心は愛の波動しか出ないのです。
では、みなさんが人を憎んでいる時はこのオーラは力強く光っていると思いますか、弱いと思いますか。それは弱いのです。
オーラが強くなりますと、それはもうものすごいオーラになり、ドームで包みます。そうなりますと、いかなるものも外部から影響を受けません。
愛は天と地の架け橋Ⅱ
どうか、あなた方は、愛も無いのに神の知恵を得たい、神の力を得たい、
と言うような愚かな考えは捨てなさい。
あなたが愛になって、初めて一切のものと調和して、
初めてあなたがたは私の知恵と力とを授かるものであることを知りなさい。
誰かと不調和を起こしながら、私は神の知恵を得たい、カを得たい、
と思いましても、それは得られるものではありません。
私の知恵と力を得たいなら、あくまでも、皆さん方が愛でなくてはならないのです。
一切のものと調和されていなくてはならないのです。
私が全ての被造物を創って、その被造物を愛しているが如く、
皆さん方も私の愛を実感して、全てのものを愛するものになつて、
初めて皆さん方は天上、地上の全ての知恵とカを我がものとすることが出来るのです。
私に波長を合わせなさい。
常に私をあなたの中に留めなさい。
この知花は言っています。
何十年間もこの知花は同じことを祈って参りました。
「貴神の言葉は、我が言葉と成らせ給え」
「貴神の思いは、我が思いと成らせ給え」
「貴神の行動は、我が行動と成らせ給え」
何十年も、何十年も、それが成就するまで、祈り続けたのです。
あなた方も、そのような神の願いが叶えられる迄、
コップを手から下ろしてはなりません。
これが充たされる迄、神を信じて待ちなさい直今結果が出ないからと言って、
あなたが如何に欲張りであるか、私は知っています。
ここで僅か学んだから、今すぐ神の知恵と力と愛が私の許にあるんだ。
そして、それが成就出来なかったら焦りが出て私を疑う。
そして嫌になる。
「神様は嘘付きだ。私がこんなに信じても、私には何も現してくれない」
と云って又不信感を抱く何不調和の心を起こす。
そのような者が大半です。
私は、そのような不調和と波長が合うものではありません。
一切の焦りを捨てなさい。
あなたの「我」ではどうすることも出来ないのです。
私が波長が含う者のみ。
あなたに原因があるのであって、
私に原因があるのじゃない回私は常に与えているものなのです但唯、
受け取り方に原因があるのであって、与える方に原因があるのじゃないのです。
皆さん方は、神を罵ってはなりません。
神をけなしてはなりません。
あなた方の受け入れる能力に原因があるのでおって、
与える方に原因があるのじゃありません。
常に与えられているのじゃないでしょうか。
唯、受け入れる能力が自分に無いのにも拘わらず、
「私はこんなに神を信じて来たのに、
私には何も下さらない竈何もやって下さらない」と言うような泣き言は止めなさい。
そのような自分の利益の為に、欲望達成の為に、私があるのでは無いのです。
私は純粋なる愛そのものであるからです。
全ては愛するものであるから、私に似ることが大切です。
私に似る事が出来なければ、
どうして私のものをあなたに授ける事が出来ましようか。
一向に私に似る事も出来ないのに、
神の私のものを一切合切を受け継ぎたいと云うような欲望は止めなさい。
あなたは私のものを得る秘訣は、先ず私に似ることなのです。
私のみこころ(御心)をこの世に顕す事なのです。
顕(あらわ)さなければ、どうして私のものを、
あなたに与えることが出来ましよう。
あなた方は、先ず、寝ても覚めても常に私を意識し、
私の愛を四六時中あなた方のハートに掲げなさい。
そして世に示しなさい。
それがあなた方の唯一の私に至る道なのです。
愛のない者は、私に至ることはありません。
私との伴が、懸け橋が、出来ているものでもありません。
世の偽善者のような真似事を止めなさい。
あなた方は、真実なる私の真の信者と成りなさい竈真の信者とは、私の愛を行う者のみです。
あなた方は偽者でしょうか。
口先だけで神を信じ、神を愛すると云う者にならないように、
私の愛を現実にこの肉と魂を通じて現す者と成りなさい。
この世の見本となりなさい。
そうした時、私はあなたが祈らずとも、
私のものは全てあなた方に与えられるものなのです。
あなた方はまだ、私の実態を理解しておりません。
この知花を通して学びなさい。
その受け取り方を知花は知ったからです。
だから、皆さん方が今の自分の考えている愚かさを捨てなさい。
一切の先入観を捨てなさい。
今迄、神、神と聞かされたその神の話を全て捨てなさい。
私は真実なるものです。
現実的なものです。
実際的なものです。
活動的です。
私が遥か遠い雲の彼方におるのだと云う指導者から離れなさい。
私は今即あなたの中に、あなたは即私の中に居ることを知りなさい。
そのことによって、あなた方は私を知るように成るでしょう。
それを常に意識しなさい。
私と「父」とは一体である。
私は一度だって、「父」から離れたことがない。
我々は「父」の中におり、「父」は我が中におる。
全一体となって、そこにおることを知りなさい。
決して、この世の盲の指導者のように、
雲の遠い彼方に私がおるという事を聞いてはなりません。
偽りです。
彼等は、我を観たことも、感じたことも無いのに、
人に偽りを伝えているだけです。
私はここにおります。
あなたの中におります。
私はここに見よ、あそこに見よ、と云う如くにいるのでは無くて、
至る所におるものであることを知りなさい。
私は、その無限空間に満ち満ちている、偉大なる「生命」である事を知りなさい。
宇宙を支配している「大霊」であることを知りなさい。
宇宙を支配している「愛」であることを知りなさい。
あなた方は、如何なる神も信じてはなりません。
今世の中には、様々な神々を人間の無智で創って、
私から、彼あなた方の兄弟・姉妹を遠ざけているのではないでしょうか。
その遠ざけられている兄弟の救済の為にも、
あなた方が、その世の光となって愛の私の見本を示す事です。
それが世の救済です。
今のままでは、兄弟・姉妹は邪悪なる盲目の信奉者によって、食い潰されてしまいます。
どうか皆さん方は、真の我、真の神を実践体験し、
その見本を皆さん方ここで造って貰いたいのです。
どうか皆さん方が、偽者と戦い、
そして、それを皆さん方が本物を示す以外に無いのです。
口先だけでもう納得の行く時代ではありません。
行為で示しなさい。
その行為で示して、初めて皆さん方は世の信頼を受け、
そして、本物と偽者との識別の出来る状態をこの地上界で作らねばならないのです。
どうか皆さん方がその一役を買って戴き、
自分事で悩み言を云うのでは無くて、人様の奉仕に全身を投入し、私に捧げなさい。
そして初めて、皆さん方は世に見本を示す私の良き娘となり、
息子となるでありましよう。
その為にのみ、皆さんは創られました。
今使命を思い出して下さい。
世を清めるのは自分を清めることで、この世を祝福する者です
今の世の中の混乱を乗り切るためには、一人ひとりが高い波動にならないかぎり、混乱期は収まりません。
今の悪い波動に負けるか、善い波動が勝つか、皆さん方が人類を救済し、地球を救済したいならば、今までのような妬みや、怒りや、そしりや、嫉妬という悪い波動を出していてはなりません。この世の中で貢献できません。
世の中を清める為には、あなた方一人ひとりの清めが必要です。あなたが清まらないで世の中を清める事が出来るのでしょうか。あなたが清まることは全体が清まることです。
例えば、今この木に多くの葉がありますが、その木の葉が清まりますと、この木の全体に幸をもたらします。これを祝福と言います。
『世を祝福する者となりなさい』というのです。
世を祝福するためにはあなたが祝福されたものでなくてはなりません。あなたが汚れていて、世を祝福することが出来るのでしょうか。汚れた者が世を清くする事は出来ません。世を清めるためには、自分を清めねばなりません。
なぜかといいますと、世は自分であるからです。全体は我であるからです。全体が我であるならばそれは全一体観であり、その全体が一つであることが分かったならば、あなたの努力は全体の努力になります。今のみなさんがこの意識状態でいきますと、世は救われます。
霊性進化より・・・幽界のこと、瞑想=迷想?、物質化現象
ここの話はあまりに高い話だから、みなさんなかなか理解できない。特に宗教を生噛りしていた者は、そこの先入観があるので時間がかかります。しかし、無信仰でそこに向いてなかったものは、神霊の次元に入りやすいですね。
感情的な人はですね、神霊に入るのも簡単ですよ。ちょっとの努力なんです。幽界で留めたら最後です。だいたい中間のものは感情的になるんです。この世で、ある程度いいところまで先生方が行くけれど、途中で崩れるのは、みんな幽界で崩れてるんです。ここから上にいけないのですよ、感情的になって。
そういう処も、皆さん方は通る必要がない。幽界に意識を向ける必要がないわけですから。
ここの話はあまりに高い話だから、みなさんなかなか理解できない。特に宗教を生噛りしていた者は、そこの先入観があるので時間がかかります。しかし、無信仰でそこに向いてなかったものは、神霊の次元に入りやすいですね。
感情的な人はですね、神霊に入るのも簡単ですよ。ちょっとの努力なんです。幽界で留めたら最後です。だいたい中間のものは感情的になるんです。この世で、ある程度いいところまで先生方が行くけれど、途中で崩れるのは、みんな幽界で崩れてるんです。ここから上にいけないのですよ、感情的になって。
そういう処も、皆さん方は通る必要がない。幽界に意識を向ける必要がないわけですから。
瞑想して、幽界に意識を向けてパルス型になった人もおります。だから、瞑想は危険ですよ。幽界に意識を向けて瞑想したら、感情的になったり、一人笑いをしたり、一人泣きをする人がいるわけですよ。
ここは感情界ですから、感情が高ぶりますから。この感情の波を治めるのは、神霊しかないのですよ。鎮めることができるのは。
だから、「静まれ!」と命令する者がなければ、いつもこういう状態で高ぶった状態で人生を送ってしまう。
だから、瞑想は危険だと言える。それは、高い神霊に意識を向けないで、低い幽界に意識を向けた時です。あなた方が瞑想中に、いろいろの現象に意識が向いてる時、どこに意識が向いてます?幽界に向いてますね。そうすると、気違いになったりするんですね。
もう一つ言いたいのは、神霊に意識が向いてる時に、たたりとか憑依霊の本が書ける? 幽界のことは幽界に繋がっている時にしか書けないのですよ。神に繋がっている人は、神のことしか書けないのですよ。幽界に繋がっていて、神の世界のこと書ける?
だから、「静まれ!」と命令する者がなければ、いつもこういう状態で高ぶった状態で人生を送ってしまう。
だから、瞑想は危険だと言える。それは、高い神霊に意識を向けないで、低い幽界に意識を向けた時です。あなた方が瞑想中に、いろいろの現象に意識が向いてる時、どこに意識が向いてます?幽界に向いてますね。そうすると、気違いになったりするんですね。
もう一つ言いたいのは、神霊に意識が向いてる時に、たたりとか憑依霊の本が書ける? 幽界のことは幽界に繋がっている時にしか書けないのですよ。神に繋がっている人は、神のことしか書けないのですよ。幽界に繋がっていて、神の世界のこと書ける?
あなたは憑依霊現象の本を読んでる時、どこに意識は向いてます?幽界に、神に? その本の影響と言うのは大きいですよ。書く人も幽界に意識を合わせて、読む人も幽界に意識を合わさねば読めないわけですから。
だから、書物によって非常に人間に有害なものと、利益になるものがあると、ご理解いただきたいですね。幽界の本を読んで、神界につながる?
みなさん神界に意識を向けますと、この世の本は不要となるんですよ。必要としないのですよ、それ以上のものはないわけですから。
聖書とか仏書とか、天啓を受けたとか神に目覚めた人が書いたものは、神のバイブレーションを持っています。バイブルと言って、バイブレーションなんです。だから、いまだかつて聖書に打ち勝つ書物は存在しないのです。
ベストセラーなんです。なぜかと言うと、真実を述べているから高いのですよ。また、そこと理解があるものが、神とつながったものが書いてるわけですから。その本がバイブレーションが低いはずはないですね。
だから、皆さんのバイブレーションは自由意思で、外を見ている時はバイブレーション低いし、神という高次元に意識が向いている時は、みなさんの波動は高波動となると。
「われ神なり」という想いを起こしている時、みなさん肉体バイブレーションですか、神のバイブレーションですか?そうすることによって、いかなる病も悩みも解決できますよ。
だから、皆さんのバイブレーションは自由意思で、外を見ている時はバイブレーション低いし、神という高次元に意識が向いている時は、みなさんの波動は高波動となると。
「われ神なり」という想いを起こしている時、みなさん肉体バイブレーションですか、神のバイブレーションですか?そうすることによって、いかなる病も悩みも解決できますよ。
再び病気にならない人は、常に高いものに意識を向けていれば、病気にならないですよ。自己治癒力と言いまして、自分のバイブレーションを上げておれば、いかなる病も癒せます。
どこに意識を向けるかで決まるんですよ。そのことを、考えればいいのですよ。3チャンネルしかありませんので、どこに合わせるか。まあ1チャンネルに合わせますか、神という原点に合わせたいと思いますね。
どこに意識を向けるかで決まるんですよ。そのことを、考えればいいのですよ。3チャンネルしかありませんので、どこに合わせるか。まあ1チャンネルに合わせますか、神という原点に合わせたいと思いますね。
簡単なんですけれど、難しいのですね。それが、難しいという考えが難しくしてるんですよ。神を想うのが何で難しいのかと。
神を想えば神が現れ、そこに意識を向ける人が、1人でも多くなれば、地球上のバイブレーションは高くなりますね。これが、人類救済なんですよ。地球の救済なんですよ。
今、全部物質に向いたから地球のバイブレーション下がって、地球は死ぬか生きるの病にかかっているんですよ。それは、物質に無我夢中だったからじゃありませんか。どうです?
だから、高度の物質文明が栄えた時、地球はバイブレーションが低くなりますので、地球は何回も滅びたわけですよ。誰が滅ぼしたのですか?人間がですよ。そこにいる人間がバロメータを、波動を落としたから、ダメになったのですよ。
今、地球のバイブレーションは上がりつつありますよ。その日をいかに待ち望んでいたか。苦しい時の神頼みと言って、物質に頼れなくなると、みんな霊性に向いてきますので、その日を待っているんですよ。
もっと厳しくなってほしいなと思うんですけれど。物が豊かな時は、どんどん物へ向いていくんですよ。内側のこと考えません。表だけに生きて。そうすると、陰陽の法則が狂いますので、コロッと天変地異をおこさねばならない。
だから、今からの時代は物質文明は終わって、精神文明が始まると言いたい。その先駆者としてのみなさんだと思うんですね・だから1日も早く世の救済というのは、物理的救済じゃなくて、無言の奉仕と、無言の救済が本当の救済だったということにお気づき頂きたい。
だから、今からの時代は物質文明は終わって、精神文明が始まると言いたい。その先駆者としてのみなさんだと思うんですね・だから1日も早く世の救済というのは、物理的救済じゃなくて、無言の奉仕と、無言の救済が本当の救済だったということにお気づき頂きたい。
今その段階に入っていますので、1人でも多くの人が霊性に目覚めていくように努力して行きたいと思います。ありがとうございました。
おまけ(講話後)
※チャンネルを合わすというのは、想えばいいのですよ。
神を愛するとは、神を意識することなんです。
あなた方、子供を愛するとは子供を意識することなんでしょ。
おまけ(講話後)
※チャンネルを合わすというのは、想えばいいのですよ。
神を愛するとは、神を意識することなんです。
あなた方、子供を愛するとは子供を意識することなんでしょ。
神を愛するとは、想えばいいのですよ。意識すればいいのですよ。
だから、多く愛する者は愛されるというのはその意味です。
今、知花は1日中思っていますよ。だから、3次元的な外の話に入ってこないというのはその意味なんですよ。
その世界に私がいることによって、わたしからその波動を出すことによって、全てのもののためになるんです。低い意識状態でジタバタして人類救済ができる?そのことをご理解いただきたい。
だから、聖者方が走り回って奉仕するということはないと。
常に高い波動を全世界に向けて放射すると。
だから皆さん方も少しでもお手伝いができる、放射できる皆さんになっていただきたい。神の媒体になってもらいたいと思うんですね。それ以外に目的はないと。
だから皆さん方も少しでもお手伝いができる、放射できる皆さんになっていただきたい。神の媒体になってもらいたいと思うんですね。それ以外に目的はないと。
そうすると物理的にも霊的にも恵まれますよ。そこに入ると、必要な時に必要なものが使えますよ。みんなから信頼と、いいあれを受けますのでね。食いはぐれるということは全くないですね。
もう1つ具体的になりますと、見える世界と言うのは、見えない世界の具現ですから、その原質は全て不可視の世界にありますから、後は自分の必要なもの具現すればいいのですよ。でその時代までもう来ますよ。
人工的に、ここで物質を固めて造るんじゃなくて、不可視の質料からすぐに可視の質料としての原質ですね。これを物質化現象と言いまして、家も勝手に自分で創り、食べ物もスーパーも何もないのです。
欲しいと思ったら即時に現れますから。見えるものの原質は不可視の原質として存在します。そこから具現されるわけです。
見えるものがなくなるというのは、その不可視の原点に返還されるだけなんですよ。全て不可視の質料からここに現れてるわけですからね。普遍的原質ですよ。それは、全宇宙に満ち満ちているわけです。
憑依現象が起きるわけ
憑依現象を受けている人に対して、「この者から出て行け」とその霊を叱りつけますと、「どうしてですか。この者が私を呼んだのに」といいます。必ずそんな風に言います。
「この者がと友達になりたいといったから私は来たのであって、勝手にこの者の中に私がいるのではない」といいます。憑依現象を受けている一つの現象です。
「どうして私をこの者から出すのか。私はこの者と波長が合うのだ」と言います。
ですから、いつでもいかなるときも憎んだり怒ったりしている人の場合は、そういう憎しみや怒りの幽霊の霊がその人を支配します。
彼らが我々をどういう風に支配する事が出来るかと言いますと、私達の肉体は低分子ですから彼らは我々よりは少し精妙な分子を持っています。
粗雑な分子の中に精妙な分子が入り込む事ができます。彼らのものよりも、この肉体が精妙体を持っていますと、粗雑なものは精妙なものには絶対入れませんから、憑依霊は入れません憑依現象も起こりません。
心の清い人は、体が精妙体になりますから、悪い粗雑な霊を真に受けることはありません。そのような憑依は絶対にありません。
ですから、低分子状態の場合は入ります。彼ら憑依霊はコンクリートのようなものを抜けるのは簡単です。このコンクリートの分子より、彼らの肉体分子をいうのは幽体分子が細かいのですから、抜けるのは簡単なことです。
しかしながら、このコンクリートが彼らの幽体よりも精妙であれば、絶対に入れません。
ですから、私達の心の状態が悪いと、憑依霊を受けやすくなるから要注意です。
憑霊現象と神懸かりは違う
何を言っているのか分からないような気の狂っているような事をべちゃくちゃしゃべりながら、あたかも神懸かりと思っている人もいます。
神懸かりだと思っているのです。しかし本当の神懸かりというのは、この無限大と繋がることです。この人とこちらの人が繋がることが神懸かりではありません。
個人的意識と個人的意識のぶつかり合いは憑依霊です。そして、必ず死んだ人間だけが憑依するのではありません。生霊と言いまして、生きた人間同士の念の力で災を及ぼしています。
「死霊だけがあなたにかかってくるのではありません。念の力とは意識ですから、生霊も死霊も同じことです。そのことをよく注意していなければなりません。
皆さん方は神という言葉を聞いたら、即無限大と考えて下さい。今私に紫式部がかかっていますとか、日蓮がかかっていますとか、そういうのは神懸かりですか。憑依霊ですか。それは憑依霊です。
普遍意識が支配しているのではなくて、個人意識が支配しているのですから、絶対者である神がその人の意識を支配しているときのみが神懸かりです。
生きながらにして他人を守護できる
生きながらにして人を守護することが出来るという意味を、一つ申し上げましょう。
例えば、この知花が誰かさんを「かわいそうだな、救ってあげたいな」と思った瞬間、私は誰かさんのところにいるのです。ですから、意識したあなた方は自分が意識した所にいるのであるということです。
この知花が誰かさんを意識したときには、私は誰かさんの中におります。繋がっているのです。そこで誰かさんを指導することが出来るのです。これが守護霊、守護神というものです。
必ず死んでから出ないと人を守護出来ないと限定的に考えないでください。あなたは意識的にテレパシーを送ればいいのです。
では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。
この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。
「人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
「我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。
「我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
「我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。
「全ては神=我神なり」という真理♪
意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=
全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=
宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神
全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=
大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり
調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる
愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間
愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に
調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁=闇人間=罪人=未完成
調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感
調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識
イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。
真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。
愛は天と地の架け橋 この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪
神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの
神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話
★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。
今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。
現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。
そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。
しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、
そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになる”ということです。カルマがなくなるんです。
これは、エネルギー的なものです。
「カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
「許してエネルギーを解放するもの」なんです。
カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
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「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪
自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
==魂の課題を克服=カルマが消滅♪
許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪
ケイシーリーディングから…♪
全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
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