- No
- 4010
- Date
- 2019.11.11 Mon
「神への全託」の実体験・覚醒秘話♪「神の道具意識」の詳しい説明話♪「私」とは「意識を持っている神の道具」♪「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します」♪「すべて」は「みんなの物」であり「すべて」は「神の物」♪全ては神のもの♪『パパラギ』 立風書房 刊 エーリッヒ・ショイルマン 著♪
知花先生も「全託なくして悟りなし」とおっしゃられました。
「神への全託」とは文字通り「自分のすべてを神に捧げる事」です。
間違った自我の解釈によって「生贄」とかの習慣になってしまった事もあるようです。
そうではなくて、「真我」の正しい解釈では、自分のなしたことは全て神の御業であり、全てが神のお陰であり、私を通して偉大なる神がお働きになられているだけなのだ…という真理の深い理解の境地に達した後に、「全てが神の御業」だと自然に思えるようになります。
自分の御業は何もない…私の全ての全ての成し遂げた事は「神のもの」であり「神の御業」ですから、私の全てを神にお返し致します。という…そういった境地だと言えましょう。
実は私、もうとっくに「神への全託」はしておりまして、自分の御業は何もございません…と、このブログで成し遂げた事も全て「神の御業」で御座います…と「全ての全て」を神にお返し致します……と「神にすべてを全託」して神に返納しております。
私の体を通して何か善行をなしたとしても、それはもう全ての全てが神の御業なんです。神が私を通してお働きになられているだけなのです。
何か良いことをしたとしても、「神様が私を通してお働きになられた」のであって、ありがたい…「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します。」なんです。
だから本当に、「神への全託」してしまったら、「神様、有難うございます」しかなくなります。
私とは「神の道具」にしか過ぎませんから…、自分が無い…「無我の境地」とは言いますけれども、意外とこれは、「神の道具意識」とも言えるのかもしれませんね。
わかりやすく申し上げますと…そういう境地だと言えましょう
逆の視点からいえば、仮に、道具がいきなり自分がやった、これは自分が良い事を書いたんだ…とか主張しだしたらこれは大変ですね(笑)。これがいわゆる「盗みの罪」というものです。「神の御業」を「自分の御業」だと言っているわけですから。
ちなみに間違った事をした時は「自我・偽我」が出てしまったと即座反省するとよいでしょう。
「正しい行い」「善行」「愛と調和」「慈悲と愛」は全て「神の御業」、
「間違った行い」「不調和」は、「自我・偽我」が出てしまったという解釈で大丈夫です。
私はずっとこの解釈で上手くいっていますから、バッチグー(笑)
でモウマンタイ(無問題)です☆彡♪
真実、実相においては、自分(三次元的な自己)はないと…、
「私」とは「意識を持っている神の道具」なのだ…という感じの理解で捉えて頂ければ、宜しいかと思います。
「全てが神の御業」これが「真理」で御座いますから。
何も考えない…とか、脳が空っぽとか…そんな観念的なものではなくて、このように突き詰めて分析的に真理を追求していきますと、観えてくるものも御座います。
私の真理のアプローチは、徹底的に…客観的に…論理的に、合理的見識を持って分析し、色々な覚者方の教えを融合して、自分の中で「真理の捉え方・理解度」を昇華していくスタイルです。
神を真摯に求めるお祈りが通じて、神様、守護霊様、守護神様、天上界の方々、等々のサポートも頂いたのも間違いないと確信しております。
お風呂に入っている時に気づきの天啓を頂いたり、寝起きの朝の時に、真理の進んだ考えが脳裏に浮かんだり…とか、リラックスしている時に頂く事が多いようです。
そういう体験が山程あるのです。そういった小さな積み重ねによって、ここまでの境地に至ってますから、有り難い限りですね。
自分の力だけでは…到底、ここまでの深い真理の理解にまで到達することは不可能だったでしょうから…、だからこそ、本当に「神様有難うございます」…しかないのです。
真理の正しい理解が進みますと、全ての全てが神のお陰であり、神の御業なのだ…という意識状態になります。
他にも…自分をサポートをして下さった高次の存在(守護霊様・守護神様等)の方々にも有難うございます…の想いで満たされ、心が…意識が…神への感謝で満ち溢れている状態に自然と変容してまいります。
私は自分にあった修行法を追求して、ここまで到達致しました。「真理の理解」によってであります。私が、何回も何回も「真理の理解」が大事ですよ…と書くのは、こういった背景があるからなのです。
こういった経緯を経て、現在の「愛一元」という高い意識状態になり、「神の愛に満ち溢れた意識状態」に変容致しました。お陰様で、軽く覚醒している感じではあります。ありがたい事です♪
こういってはあれですが、実際ここまで奥深いことポンポン書けちゃうようになると、大概の人は調子に乗ってしまい、自分がここまで成長できたんだ…とか、いい事を書いている自分は偉いんだ…とか、自分は他の人間より優れたグルのようになった…とか、の慢心に陥りがちになる部分は否めません。
「真理の理解」が浅いと、「浅い部分」が「弱点」となって、宇宙法則に沿った正しい意識状態にまで至れない部分が出てきてしまうからです。
この弱点を克服する為には、どうしても奥深い「真理の理解」が必須になってきます。
宇宙法則に沿った、「真理に完全に合致」した正しい「真理の思考」が自然にできるようになる位にまで「真理の理解」が深くならないと、「真の謙虚」の意識状態になるのはなかなか難しいのではないかな…と。
「真の謙虚」の意識状態になって初めて、「全てが神の御業」と自然に思える様になれる訳ですから。
自分の体を通して、どんな偉大なる御業が顕現なされても、「神への感謝」になり、慢心に陥る事無く対処できるようになり、「神様ありがとうございます」しか出なくなります。
そういった意味でも、私は「全てが神の御業」だと、魂の奥深いレベルで理解していますから、幸いにして調子に乗らずにいられます。
神様は素晴らしいなぁ…なんて神様は素晴らしい叡智をお持ちなんだろう…って、結構他人事みたいな(笑)、自分が行っているのではないと…深く理解していますから、自然と「真の謙虚の境地」でいられるのです。
神様からしても、ちょっと使ってあげると、すぐに天狗になったり、有頂天になって増長マンになるような危なっかしい人間…「浅い理解の人間」を神の道具として使うのは、危なくてしょうがないだろうなぁ…って。
そういった意味でも、私みたいに高いレベルにまで「真理の理解」が至った人間は、どんどん叡智を授けても「神様有難うございます」で、天狗になりませんから、神様も安心してお使い下さるんだろうなぁ…って、そんな理解でございます。
実際に神様が、「貴方」を神の道具として使ってみて、この者は天狗にもならず、謙虚で感謝の意識状態を維持できる本物だと…神の道具としてふさわしい信頼できる者だと…。
そのように神に認められた時に、「真の覚醒」が許される…と、「覚醒」とは、意外とそんな感じなのかもしれませんね。実際に引き上げて下さるのはどこまでも神様ですから。
実体験から「神への全託」「神の道具意識」を語ってみましたがいかがだったでしょうか?
皆様の真理の深い理解・魂の覚醒の一助にして頂ければ、それが私にとって至上の喜びであり、神が一番お喜びになられる事だと申し上げつつ、記事を拝読して下さった皆様への感謝と共に、今回のご説明を終わらせて頂きます。ご拝読ありがとうございましたm(_ _)m♪
オマケ情報で~す♪
上江洲義秀先生も「明想が完璧」と絶賛された…という
究極の意識状態に到達された方の超高次元・波動上昇ブログです♪
『パパラギ』 立風書房 刊
エーリッヒ・ショイルマン 著
全ては神のもの
ポリネシア西サモアのウボル島ティアペ村の酋長ツイアビは、利発で穏やかな親切そうな大男。
願いがかなってヨーロッパの国々を回り、サモアの人々にパパラギ(白人)のことを知らせようとした。
しかし酋長ツイアビは、彼の先祖が西洋文明を迎え入れたことを後悔し、西洋文明を軽蔑するに至る。
酋長ツイアビは、西洋文明に何を見たのか。
鋭く冷静な、先入観に捕らわれない観察力。
酋長ツイアビはあらゆるものの真理を見抜いていく。
「君たちは、我々に光を持って来ると言うが、本当は違う。
君たちは我々を暗闇に引き込もうとしている。」
「パパラギ」とは「白人」のこと、見知らぬ人のこと
でも 言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人
はじめてサモアに来た白人の宣教師が、白い帆舟(ほぶね)に乗っていた
遠くに浮かぶ白い帆船(ほぶね)を見て、島の人たちは それを天の穴だと思った
白人がその穴を通って彼らの所へやって来た ――パパラギは天を破って現れた
パパラギ(白人)は一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。
彼はいつでも、どうしたら或るものが自分の役に立つか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。
それもたいてい、只一人だけのためであり、みんなのためではない。
この一人というのは、自分自身のことである。
もし、ある男がこう言うとする。
「ボクの頭はボクのもので、ボク以外の誰の物でもない。」
それはそうなのだ。
確かにそのとおりだ。
それについて誰も文句を言える者はない。
手の持ち主以上に、その手の権利を持っている者はない。
ここまでならパパラギは正しいと思う。
だがその先、ハパラギはこうも言う。
「このヤシはボクの物だ。」
何故かというと、ヤシがそのパパラギの小屋の前に生えているから。
まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。
ヤシは、決して誰の物でもない。
決してそうではない。
ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。
神はたくさんの手を持っておられる。
どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。
私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。
だがしかし、こう言ってはならない。
「神の手はボクの手だ」
しかしパパラギはそう言うのだ。
私たちの言葉に「ラウ」というのがある。
「私の」という意味であり、同様に「あなたの」という意味でもある。
二つはほとんど一つであり、同じ意味である。
だがパバラギの言葉には、この「私の」と「あなたの」以上に、違いの大きな言葉はほとんどない。
「私の」とは、ただ私一人、私だけの物である。
「あなたの」とは、ただあなた一人、あなただけの物である。
それゆえパパラギは、自分の小屋の範囲にある物を、全てボクの物だと言う。
誰もそれには権利がないと言う。
彼の他、誰も。
もしあなたがパパラギの所へ行き、何かそこに有るものを見るとすれば、それが果物だろうと、木だろうと、水だろうと、森だろうと、たとえひと塊りの土だろうといつも誰かがそばに立っていて言う。
「これはボクの物だ。気をつけろ、ボクの物に手を出すな。」
にもかかわらずあなたが手に取ろうものなら、彼はわめき、あなたを泥棒と呼ぶ。
これは非常に不名誉な言葉なのだが、ただあなたが隣人の「私の物」にちょっとさわってみただけで、こんな呼び方をされてしまう。
彼の友だちや、大酋長の家来たちが急いでやって来て、あなたを鎖につなぎ、ファーレ・プイプイ(刑務所・牢屋)に入れてしまう。
そしてあなたはもう一生のあいだ爪はじきにされる。
そこで、ある人が「これはボクの物だ」と宣言した物に、ほかの人が手を出さないよう、これは誰の物、これはそうでは無い、ということが特別の掟によってきっちりと決められている。
そのうえヨーロッパには、誰もこの掟を破らないよう、専門に見張りをしている人たちがいる。
この人たちは、パパラギの物が、何ひとつ取られてしまわないように見張っている。
それはパパラギが、よそから自分で取ってきた物だが。
パパラギはこうする事によって、神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかの様に見せ掛ける。
ヤシも木も花も、海も空も、そして空ゆく雲も、本当に自分の物になったかの様に。
パパラギが、自分のたくさんの「ボクの物」の為に掟(おきて)を作り、番人を持たねばならないのは、「ボクの物」をほんの少ししか持っていない人たち、あるいは全く持っていない人たちが、彼の「ボクの物」を持って行ったりしないようにする為でもある。
それというのも、たくさん自分の物にする人がたくさんいるとすれば、何も持っていない人もまた、たくさんいるということだ。
「ボクの物」がたくさん集まってくる魔法や交ないを、誰もが知っている訳ではないし、「ボクの物」を集めるのは、一種特別の勇気がいることだ。
私たちが名誉と呼ぶもの、それと必ずしも手をつないでいなくても良いという勇気。
そんな、とんでもない勇気をパパラギは持っている。
神様を困らせたり、神様の物を取り上げたりしたくない為、自分ではほとんど何も持っていない人もいる。
こういう人たちは、パパラギの中では一番いい人だと言ってもいいだろう。
けれどもそういう人は、確かに、そうはいない。
たいていの者は、恥ずかしげもなく神の物を盗んでいる。
他にすることを知らないのだ。
何か悪いことをしているのだという気は、ほとんど全く無いようだ。
みんながそうしているし、全く気にはしていないし、誰も恥ずかしいとは思わないからである。
父親からたくさんの「ボクの物」をもらって生まれてくる人も多い。
とにかく、パパラギの神様はもうほとんど何も持っていない。
人間がみんな盗んでしまって、ボクの物とあなたの物とに分けてしまった。
みんなの物と定めて造りたもうた太陽を、神はもう、みんなに平等に分ける事ができない。
みんながみんな、人よりたくさんの太陽を要求するからである。
大きくてきれいな日当たりに、ほんの少しの人が日なたぼっこをしているかと思うと、たくさんの人が日陰で哀れな日射しをあびている。
パパラギの神様はもはや、その大いなる住処(すみか)の最高のアリイ・シリ(支配者)ではなくなり、もはや本当の喜びを失ってしまわれた。
パパラギはこう言うことによって、神を否定する。
「みんな、ボクの物だ。」
けれどもパパラギは、色んなことをいっぱい考えているにもかかわらず、遥(はる)かな事については何も考えない。
それどころか、自分のしている事を、立派で正しいと言い切る。
だがそれは、神の前では立派でも無く、正しくも無い。
もしパパラギが正しく考えるなら、彼にだって解るはずだ、
しっかり持てないものは誰の物でも無い、という事が。
そして、しっかりと持てる物など、元々何も有りはしないということが。
そしてさらに、神がその大いなる住処(すみか)を造りたもうたのは、みんながそこに喜びの地を持つ為だという事を、もしパパラギが理解してくれたら。
大いなる住処(すみか)は充分に大きく、誰にでも日だまりと小さな喜びがあり、そしてどの人にも小さなヤシの木の薮(やぶ)と、足を乗せて立つ土地が確かにあるはずだ。
それが神の心であり、神の定めたもうた事でもある。
神がどうしてその子どもの一人でもお忘れになろうか。
所が実際には、何とたくさんの人々が、神様に用意していただいたはずの小さな場所を探し求めている事か。
パパラギが、神の言い付けを聞かず、自分たちの掟(おきて)を作ったので、神はパパラギの財産にたくさんの敵を送られた。
パパラギの「ボクの物」を打ち壊す為に、湿気と熱を送られた。
パパラギの物は、やがて古び、ぼろぼろになり、腐って行く。
神は、彼らの財宝に襲い掛からせる為に、火に大きな力を与えた。
そして嵐にも。
だが、中でも重く神が定めたもうたのは、パパラギの心の中に恐怖を植え付けた事である。
取ってきた物を無くしはしまいか、という不安。
パパラギは決して深く眠った事がない。
昼間に集めてきた物を夜のあいだに持って行かれないよう、目覚めていなければならないから。
彼はいつでも、どこでも自分の「ボクの物」に苦労をさせられ、気を遣わねばならない。
あらゆる「ボクの物」はパパラギを悩ませ、あざ笑ってこう言う。
「あなたはボクを神様から盗んだ。だからボクはあなたを悩ませ、うんと苦しめてやる。」
だが神は、恐怖よりもっとずっと悪い罰をパパラギに与えた。
神はパパラギに、「ボクの物」をほんの少し、あるいは全く持っていない人と、たくさん持っている人との間に戦いを与えた。
この戦いは、激しくつらく、夜も昼もない。
この戦いは万人を苦しめる。
万人の生きる喜びを噛みくだく。
持てる者は与えねばならぬのに、やろうとはしない。
持たない者が神の戦士であることもめったにない。
彼らは、ただ少し遅く来すぎて掠奪(りゃくだつ)に間に合わなかったか、それとも少し運が悪かったか、機会が無かっただけなのだ。
神様が掠奪されてすってんてんになられた事は、一番分け前の少なかった人なら覚えている。
そして、神の手に、もう一度全てを返そうではないかという、正しい人の声はほとんど聞かれない。
おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。
サモアの一つの村なら村人全部が入れる程の大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。
こんな人間をどう思うか。
手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。
私にはあなたたちの目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。
そうなのだ、これがいつでもパパラギのする事なのだ。
たとえ百枚のむしろを持っていても、持たない者に一枚もやろうとはしない。
それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろが無いのを、持たない人のせいにしたりする。
たとえ小屋の天井(てんじょう)の一番高い所まで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べ切れない程でも、食べるに物無く、飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。
しかもたくさんのパバラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。
熟したヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。
パパラギは、葉も実も落とすまいとするヤシの木のように生きている。
「これはボクの物だ!取っちゃいけない!食べちゃいけない!」
どうすれば、ヤシは新しい実を結ぶか。
ヤシはパパラギよりもずっと賢い。
私たちの中にも、ほかの人よりたくさん物を持つ人はたくさんいるし、たくさんのむしろや豚を持っている酋長に、私たちは敬意を払う。
だがこの敬意は、酋長一人に向けられているものであり、むしろや豚が尊ばれているのではない。
何故ならそれは、私たちの喜びを示し、酋長の勇気と知恵を称えるために、私たちがアローファ(贈り物)として彼に贈った物だから。
だがパパラギは、その兄弟のむしろや豚の数を称える。
勇気や知恵はどうでもよい。
むしろや豚を持たない者は、ほんの少ししか、あるいは全く尊敬してはもらえない。
むしろや豚は、自分で貧しい人々、飢えた人たちの所へ歩いては行けないし、パパラギもまた、それを自分の兄弟たちに分けてやろうとは思わない。
何故なら、パパラギが尊敬しているのはその兄弟たちではなく、めいめいが持っているむしろや豚の数なのだから、どうしてもそれを手放す訳にはいかない。
もしパパラギがその兄弟たちを愛し尊び、そして「ボクの物」、「あなたの物」の取り合いで戦う事をしないなら、兄弟たちの所へ自分のむしろを運んで行き、みんなで自分たちの大きな「ボクの物」を分け合うはずである。
兄弟たちを暗い夜の闇の中へ突き出すかわりに、自分のむしろを分け合うだろう。
しかし、パパラギには解っていない。
神が私たちに、ヤシや、バナナや、おいしいタロ芋、森の全ての鳥、そして海の全ての魚を与えたもうた事が。
そして私たちみんながそれを喜び、幸せにならねばならない事が。
それは、決して私たちの中のわずかな人間だけを幸せにして、他の人々を貧しさに悩ませ、乏しさに苦しめる為のものではない。
神からたくさんの物をもらえば、兄弟にも分けてやらねばならない。
そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。
何故なら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、誰か一人が他の者とは不釣り合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心では無い。
さらに、誰か一人がこう言うのも神の心では無い。
「ボクは日なたにいる。あなたは日陰に行け。」
私たちみんなが、日なたに行くべきである。
神が正しいその手の中で、全ての物を支えておられるかぎり、戦いも無ければ苦しみも無い。
狡猾(こうかつ)なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。
「神様の物なんて何も無い。あなたが手でつかんだものは、あなたの物だ。」
そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。
正しい知恵に耳を傾けよう。
「全ては神の物」だ。
『パパラギ』 立風書房 刊、エーリッヒ・ショイルマン 著
エーリッヒ・ショイルマン 注―――
私たちの所有概念に対するツイアビの軽蔑的な言葉は、サモアの原住民が、完全な共有財産制のもとで生活しているという事実を知った人になら、十分理解できるにちがいない。
そこには事実、我々が使う意味での「私の」「あなたの」という概念はない。
私のどの旅行の時も、原住民は当然の事として、私に宿を、寝むしろを、食事を、そして全ての物を私と分け合ってくれた。
そして私はよく、酋長の最初のあいさつとして次のような言葉を受けた。
「私の物は、あなたの物。」
盗むという概念も、島民のあいだには縁遠いものである。
「すべて」は「みんなの物」であり、
「すべて」は「神の物」である。
「全ては神=我神なり」という真理♪
意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=
全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=
宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神
全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=
大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり
調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる
愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間
愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に
調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁=闇人間=罪人=未完成
調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感
調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識
イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。
真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。
愛は天と地の架け橋 この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪
神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの
神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話
★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。
今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。
現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。
そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。
しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、
そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになる”ということです。カルマがなくなるんです。
これは、エネルギー的なものです。
「カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
「許してエネルギーを解放するもの」なんです。
カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
………………………………………………………
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪
自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
==魂の課題を克服=カルマが消滅♪
許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪
ケイシーリーディングから…♪
全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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