- No
- 3995
- Date
- 2019.11.02 Sat
【知花敏彦】全知全能の世界からのメッセージ 神は全ての創造主♪今回の「正真正銘の本物の宇宙神・父なる神・創造主(宇宙生命・宇宙意識)からのメッセージ」の記事によって、沢山の方々の魂が覚醒し、神我顕現に繋がって頂ける事をご記念お申し上げます。ぜひご一読下さいませ♪
宇宙にたったひとつのいのちの仕組み から引用させて頂きました♪
今回の「創造主(宇宙生命・宇宙意識)からのメッセージ」の記事によって、沢山の方々の魂が覚醒し、神我顕現に繋がって頂ける事をご記念お申し上げます。ぜひご一読下さいませ♪
【知花敏彦】全知全能の世界からのメッセージ 神は全ての創造主
1988年6月2日の知花敏彦さんの講話の記録です。創造主が直接知花敏彦氏の肉体にオーバーシャドウして語りかけるという世界でも稀な貴重な記録です。
神は生きておられます。無限宇宙という神の生命の中に、全ての物が創造されたのです。そして私の生命と、神の生命とは、同一の生命で御座います。
神が生きておられるから、私は生きております。皆さんも同様で、独自の生命というものがあるのでは無く、唯一不二の生命、神の生命が、無限宇宙を支配しているのです。
そして一つの生命の中に基いて、全ての物が生存、存在を保っているのです。だから、皆さんと神は、不離一体なのです。しかし、皆さんの肉体の感化というものが、神と自分とは別の存在だと、考えるようになりました。
そして、神から自らを、分離させてしましました。色々な恐怖感や、不安を持つようになったわけです。
しかし、それは真実なるものではなく、真理でもございません。
真実において、また、実在においては、私達と神とは、不離一体でございます。
私の中に、私を通じて生きておられるのは、その無限を支配しておられる、全知全能のご自身でございます。
神が私達をお創りになって、神ご自身が私達という肉と魂を通じて、ご自身の表現のために、顕現せんがために、私達をお創りになったわけです。
しかし、私達は未だにそのことを知らず、私達が何処から出て来た、生まれてきた者であるのか、誰によって創られた者であるのか、という事さえも解らないままに、盲目の人生というものを生きてきたわけです。
これが、この世の様々な、不幸災難でございます。
この世に、神以外は何も無いのでございます。ここに存在するのは、全て神でございます。
皆さん方が、自分が神であり、神そのものであると言えるような精神状態、意識の状態に到達しないかぎり、神が皆さんの中に、現れようがないのです。
皆さん方は、まだまだ、私という神を疑っております。
神という私を疑っているのです。
皆さん方の五感の感化という無知が、私というものを理解させないように、一生懸命もがいているサタンなのでございます。
だから、見えるものだけを判断しているのです。見えない私という生命、即ち、神を受け入れなくてはならないのです。しかし、皆さん方は、私というものを実感として、あなた方の中に留めて、受け入れていません。
私は、あなた方を通じて顕現したくてしょうがなくて、皆さんの中でノックしているのですが、皆さん方はまだ、私を受け入れておりません。
現に今、あなたの中におるのは、私である神なのです。あなたという一部の神が存在するのではありません。全体者である神、絶対者である神なのです。
生命というものも、少生命というものがあるわけではございません。唯一不二の大生命が、あるのみなのです。皆さん方は、生命の中において、このように創造されたわけです。
神の生命と、皆さんの生命とは、同一の生命である事を、皆さん方は忘れております。
神が生きているから、皆さんは生きているのです。私そのものが、生命そのものであり、生きているのです。
しかし、皆さん方はまだまだ、その事を理解しておりませんから、死にはしないか、という恐怖感を持っております。皆さんは死にません。なぜなら、宇宙の生命は、久遠であり、常在するものであり、永久であります。
皆さんは、まだまだ分離感、私からの分離感を持っています。神という観念、あるいは概念が、皆さん方の空想によって、または推理によって、様々な先入観になって、皆様の脳裏にあるからです。
私と皆さんと不離一体、あなた方は永遠に永久に、私から離れる事は出来ないのです。
皆さん方は、それを悟った時、即、私の内におることが出来ます。
あなた方は、私、父なる神の中に留まり、父なる神は皆さんの生命として、あなたの魂の中におります。
そうすると、自分と父なる神は一体であるので、私の中に生きておられるのは、神ご自身であられる、私の中で働き給うのは、語り給うのは神ご自身であられる、という境地にまで、あなたの外なる肉の意識が、内なる意識を知り始めるのです。
意識的に、私の中に、この内なる内在意識、キリスト意識の中に、自分の意識によって、意識的に入ってこなくてはなりません。
皆さんの心の奥底、魂の中心に私はおります。存在します。ここが皆さんの言われている御国で御座います。天上界でございます。内は天であり、外は地上界でございます。
ですから、皆さんの肉体は地で、内なる内在意識という私の生命は、天でございます。皆さん方は、小宇宙を現しています。内は天で、外は地、地上界です。
この大宇宙でも、物質界というのは地であり、眼に見えない無限宇宙そのものと内界は、天であります。
「神の国は、汝の内に在り」というのは、あなたの生命そのもの、生命意識そのものが、神であるという事なのです。
あなたの神は、自分の手や葦よりも身近におられるのです。そして、これが、あなた、真の自分、実在の自分、実相なのです。しかし、あなた方は中々、私を信じてくれないし、受け入れてくれません。
今、皆さん方が、私を受け容れるならば、今、即、自分が無限宇宙と一体であり、そして今、自分の中に留まっている生命が、宇宙生命そのものである、私そのものである、神そのものである、創造主そのものであると気づくのです。
なぜならば、創造主以外に、何ものも無いからです。神以外には、何も無いからなのです。私という神が、全てを創造し、創造したものは、私の中において創造したのです。神の中において、創造されたのです。
外側というものは在りません。全部内側なのです。そして、皆さん方一人ひとりは、私の中で創造されて、私は、皆さん一人ひとりの中に、今おります。今の今です。永久におるのです。皆さん方は、今の今、永久に、久遠の神の家のおったのでございます。
その事を、五感の感化で生きている、肉の感化で生きている者にとって、外側に生きている者にとっては、理解することは不可能でございます。
あなた方の意識が、ここでお話を聞く度に高揚されまして、その高い意識の状態でのみ、私の高いお話は理解できるのです。ここで言う、私という”I am”は、神の事を言っているのです。
私は、この知花が、自分自身が神である事を知っていますから、私と言わせていただきます。私が、皆さんを創って、私が皆さんの中にある事を知りなさい。そうすると、皆さん方は私と、どこにも分離の無い、壁のない状態、不離一体になれるのです。
しかし、あなた方の心が、私との分離の境目を創っているのです。心にのみ、私との分離感が在るのでございます。それを、迷いと申します。神は全ての創造主であり、創られたものの主であります。
聖書の中にも、全ての創り主であられる神と言われています。創り主は唯一、一様(ひとさま)しかおりません。その事を唯一神と言います。あるいは、宇宙創造神と言います。神は一様なのです。
そして、一様であると同時に、多神なのです。神は唯一、一様であるけれど、皆さんを創造して、神自身、自分自身を、皆さん方一人ひとりに宿しております。
自分自身が、神と無限者であられる唯一神とによって創られ、自分自身の中に、唯一神である、創造主である神が、私達の中に留まり、私を通じて語り、私を通じて働いてらっしゃるのだと、あなた方が、私を容認して受け入れるならば、私はあなたを通じて語り、あなた方を通じて働きます。
しかし、あなた方は、未だかつて私を受け入れようとしない、私を嫌っております。まだ、半信半疑なのです。神を信じておりません。私を信じておりません。
この中で私を信じて、私を受け入れている者は、一人もおりません。いるのならば、私のような者になっているはずですから。
私というのは、無限の智慧であり、力であり、愛なのです。あなた方は、無力のあなた方ではありません。自らは、創られたもので、その自らは無なのです。イエス様も言われた筈です。
「私、自らは無であるが、私の中に、私を創り給うた、全ての創り主である神が居られるが故に、私は全てである」と言われたわけです。
そして、あなたの中に、自らをお創りになって、ご自身を宿しておられます、その事を、イエス様は、「人間は生ける神の宮なり」と言われました。
生きた神、現実なる、主なる神が、皆さんの真我なのです。
創造の神、全知全能の神を、認めて下さい。認めたら、あなたは悲しむ事も、苦しむ事も、何も無いのです。
私を受け入れないが故に、皆さん方は、この世で様々な不幸や災難を、招いているのです。
私を、今日という今日、今という今、受け入れるならば、もう皆さん方は、この世で迷う事も、苦しむ事も、何も無いのです。
なぜなら、あなた方の中にいる私は、一体を支配する権威を持ったものなのです。
なぜなら、私は、あなたの中にいる私は、無限そのものであり、無限者、全知全能の、すべてを創った智慧と、力と、愛の持ち主であるからです。
それを皆さん方が、今にでも、あなたの外なる意識が、内なる意識という私の内在意識に気付いて頂き、意識的に融合し、合体して、受け入れて欲しいのです。
そして、あなたを、今の今、癒します。
あなた方は不完全で、私は完全無欠です。私があなたの中におるならば、あなたは完全無欠でしか在り得ないのです。
あなた方がこの世で、色々な不完全や病を持っているのは、私が皆さんの中におられないからなのです。
もし皆さんの中に、私がおるならば、皆さん方は無欠です。完全です。なぜならば、私そのものが無欠であり、完全であるからです。
今、受け入れたならば、皆さん方は、意識的に私と共に食し、全ての私のものを、皆さんは受け継ぎます。神のものは、私のもの、私の智慧と、力と、愛をあなたに捧げます。
あなたが、私を受け入れない限り、私はあなたに捧げる事が出来ないのです。
現に今、私はあなたの中におります。あなたの中におる私は、無限なのです。智慧であり、力であり、愛なのです。
それを今、皆さんは受け継ぐことが出来るのです。受け入れるならば。
しかし皆さんは、神であるという信念が弱く、信仰が浅く、心の底から自分が神である、全知全能の神であるとう信念がありません。
ですから、皆さん方は、神を信じないが故に、恐怖しているのではないでしょうか。神を、私を受け入れないが故に、不幸や災難を招いているのではないでしょうか。
私を受け入れますと、無限の自由が手に入るのです。なぜなら、自分が全ての、一切を支配する権威を持っている事を、知るからです。
自分自身が、その無限なる自分、あなた自身が、個人や1個としての存在ではなくて、一個は、無限を、無限なる私を現す、表現する媒体なのです。あなた方の肉体や、血や肉は、私を表現する媒体にすぎません。
しかし、皆さん方は肉と血に生きて、私という生命を受け入れてくれません。神が生きているから、私、この知花が生きていると、よく言いますが、その意味を本当に悟ったならば、皆さんも同じ発見をするでしょう。
神が生きていなくて、この世に生きているものは、一つもございません。なぜなら、神のみが生きて居られるからです。私は人間の中だけに生きているのでは、ありません。山の中にも、生きております。
山は私が創り、私は山の中に、自分の生命を留めております。そして山は、私の智慧と力と愛を、表現しております。山の力は、智慧は、愛は、私の現れなのです。
私なる神の現れ、創り主である私、全能である私が、神の私が、山の中にも居ります。海も、私が創りました。そして海に、智慧と力と愛と美を与えているのは、私なのです。
海に生命がいなければ、私という生命がとどまっていなければ、海の存在はありません。
山の生命という私がいなければ、山の存在はありません。私が全てのものの中に、生きて働いている事を、認めなさい。
しかし、あなた方は、まだ私を嫌っております。受け入れておりません。
あなたが常に、今までの先入観を放棄し、
「我が内に生きておられるのは、神ご自身である」
「今、現に、この肉を通じて見ておられるのは、神ご自身なのだ」
と、受け入れるのです。
こんなに素晴らしい真理があるのですから、あなたがそのように私を受け入れたならば、私はあなた方と通じて働く事が出来るのです。自分自身を表現する事が出来るのです。
そのために、私はあなた方のハートをノックしているのです。私に全開して、私を受け入れた者は、私に似る事が出来ます。私が、彼、彼女を通じて、私の全てを受け継ぐからです。
その時になって、初めて皆さん方は、我が子になるのです。実子になります。一人子になります。
しかし、あなた方は、私という父を、受け入れてくれない、認めてくれません。
あなたの父は、何処におるのでしょうか?あなたの親は、何処におるのでしょう?
これを知らぬ事が、「迷える子羊」と言うのでございます。
あなたは、誰によって創られ、誰によって生かされていると思うのですか?
この真理を知らないで、「私達は、神様を信じています」と言う、妄信家、狂信家が沢山います。
神は現実的であり、実際的であり、活動的であり、現れ、生きておるのです。あなた方が、考えているような私は、何処にもおりません。
私は、あなたと共に、一体でおるのです。共におるのです。外にも内にも、無限に満ち満ちております。その私なる、真実なる神を、今、皆さん方は、こうして知花を通じて示されています。
しかし、皆さんには、今までの先入観、神に対しての先入観が、邪魔をしています。盲の者が、盲の者を導き、様々な髪を創り出し、神を幽想したのです。そのような古い革袋を、捨てなさい。
私というこの真理、知花を通じて語る真理を受け入れるには、新しい革袋を準備しなさい。そうしない限り、皆さん方は、古い先入観を持ったまま、古い革袋に、新しい葡萄酒を注ぐ事になり、貧しい葡萄酒になります。
今まで植え付けられた、全ての先入観を捨てなさい。全てのお酒を捨てなさい。葡萄酒を捨てなさい。
今、私から与えられる葡萄酒は、永遠に尽きることのない葡萄酒なのです。
皆さん方は今、久遠なる者へと、永遠なる者へと、永遠の自分へと、この知花を通じて導かれます。
難しいでしょうか?なぜ、あなた方は、もっと神に素直になれないのでしょうか。
あなた方は、神に素直であると思っていているけれど、今この中で、私に素直である人は、おりません。
あなた方は、私が創ったのです。そして、あなた方の中におるのです。
それを、受け入れる事が、素直なのです。疑うというこ事が、素直でしょうか。
まだ、疑ってかかっています。話を聞きながらでも半信半疑、疑問だらけです。
「自分をお創りになったのは、神様なのだ」
「自分の中に今、現に生きておられるのは、神様なのだ」
「今、現に、私の中で働いておられるのは、神様なのだ」
この3つを受け入れるだけでも、あなた方は良いのではないでしょうか。
なぜ、それを拒むのでしょうか?一体全体あなたは、誰によって創られたのです?
誰に創られたという事も解らないのに、創り主である私がこうして語るのに、なぜ、あなた方は、私を知ろうとしないのでしょうか?私を受け入れようとしないのでしょうか?
一体全体あなたは、誰によって創られ、誰によって生かされていると思っているのですか?
私です。私以外に、生きているものは無いからです。
全ての、一体の生命は、私であります。
なぜなら、一切のものを創ったのは、私であるからです。神なのです。主なる神なのです。
神、無くして、何か出来得たでしょうか。あなた方の目は、まだ節穴です。この目に見える物は、全て私の物なのです。私が創ったのです。
そして、私は目に見える物の中に、私自身の命を留めております。智慧を、力と、愛を、現しております。
しかし、皆さん方は、私を外側に求めるようになったのです。
「雲の彼方から、やがてイエス様が救いに来る、雲に乗って救いに来る」あるいは、「何万回、般若心経をあげておれば、この世を去った時、お釈迦様が迎えに来る」などと、如何にも、子供騙しの様な事を幽想し、妄信、狂信しております。
現実には、そのようなものは、ございません。あなた方のすべき事は、死んでいる神を妄信、狂信する事を止め、現実的に、真の信仰を受け入れ、神に生きる事なのです。
賢者は、神の中に生きます。愚者は、死んだ神を、礼拝します。
神は礼拝するものではありません。神に生きる事なのです。
神を信ずる事は、最高の礼拝は、神を受け入れて、神のような生き方をする事ではないでしょうか。
それが、私を信じている姿ではないでしょうか。私のような御心を行わないで、私は神を信じていますと、口先だけで、私を賛美したり、お経をあげたりする事なのでしょうか?
創り主である創造主は、皆さん方が創造主のような生き方をする、その創造主の御心と、智慧と、力と、愛を現すことが、真の信仰ではないでしょうか。
自分が誰によって創られたかも解らない、今、なぜ生きているのかも解らない、この世が存在している目的というのも解らないような生き方、神が何処にいるかも解らない、神が何なのかも解らないで、神を信じていますと言うような事を、妄信とか狂信と言うのです。
私と皆さんとは一体です。今、現に、皆さん方は、私という神の中に留まっていて、私は、皆さん一人一人に、生きて働いております。
皆さん方の真の信仰とは、神と共に働く事なのです。神と共に生きる事なのです。それが、生きた真実の神なる私なのです。
ただ、私を拒んでいる、疑問視しているあなたが、私と共におらないだけなのです。その防壁は薄いものです。その防壁を取り除くのは、唯一、あなた方一人ひとり、自らなのです。
誰も、あなたの壁を取り除く事は出来ません。宇宙を想像して下さい。
無限宇宙は、私なる神の身体なのです。
あなた方は、無限宇宙から外側の存在では無いはずです。
今、あなたは、久遠という私の身体の中に、私の中に居るのです。昔から居った所なのです。ただ、あなたが、神とあなたは別々だ、人間と神とは別々だというように、様々な妄信家や狂信家、盲の指導者に、先入観を植え付けられているだけなのです。
それは、真実ではありません。そうであったのならば、神は無限者ではあり得ないのです。全知全能でも、あり得ないのです。全知全能の神である私が、無限者である私が、どうして別々にものを創るのでしょう。
私の中において、内において、全てのものを、私は創造しました。そして、創ったものになる、創ったものを現すには、創ったそのものに、私がならなくてはならないのです。
そこに私がございます。それが、皆さんの内在神でございます。
これは、今から3000年前に、釈迦・仏陀を通じて、私は宣言しました。
「神・仏は、汝自身なり」
「仏は、あなたの心の中に、中心に生きておる」
と、内観しなさい。億念しなさい。内を追求すれば、原因の仏に到達するし、外という現れた外観を見れば、結果があるのです。
私は原因です。原因なる私無くして、結果というあなた方があるのでしょうか。あなたの中に、原因と結果があるのです。あなたという肉体は、結果なのです。
生命という原因があるから、現にあなたは、今、ここに存在する事が出来るのです。原因である生命、私、神が、あなたの中に留まっていなければ、結果というその肉体の存在はありません。
しかし、あなた方は、自分の生命、個人の生命があって、個人の力があるという、私からの分離感を持って、盲目の人生を歩んでおります。
私は道です。この知花を通じて、道を示します。この知花の言う事を、よく受け入れるのです。そして私を、この知花の教えを受け入れる者は、私を受け入れる者なのです。
ここに座っている皆さん、一人だって、私を受け入れていないのです。何回も知花の言葉を借りて、私達は道と私を示してきましたが、誰も素直に受け入れてくれません。
「受け入れています」「解っています」と言うけれど、観念で受け取っただけで、真心から、心の底から、本当に心の底からは、受け入れていません。
私は外側にいるのではありません。底、奥深い心、真心、中心なるもの、中からと思えている者は、この中に一人もおりません。おらないから、私を見ることが出来ないのです。
それは、サイババさんも、言われました。
「あなたの心に、真珠はございます」と。
そうしたら、皆、浅瀬で真珠で一生懸命に真珠を探すのです。真の価値の在る真珠は、浅瀬にあるものではありません。浅瀬にあるものは、価値の無いものなのです。
心に深く、意識の奥深い所に、私は留まっているのです。底の底まで追求して行かない限り、探しだす事は出来ません。
あなた方は、上辺だけで、「こんな事なら、もうとうとうに知っています」と言います。
何を知っているのでしょうか?私の所に一度も来た事も無いのに、知識的に知花がそう言ったから、信じましょうとか、上辺の心で、そして浅瀬で真珠でも拾い上げる事が出来るような気持ちで、皆さんはおります。
信仰というものには、浅い信仰と深い信仰がございます。私は深遠なる、深い心の奥底に、留まっているのです。浅い心で、私を受け止める事は出来ません。
だから、心の底から、精神を尽くし、力を尽くし、魂を尽くし、
「自分自身の中に、今、現に現れておられるのは、神だ。現に今、私の中に働いておられるのは、神だ。もうこれ以上の事は、どこにも無い」という、強い信仰を持つ事です。
あなた方の今、考えている事は、観念です、概念です。まだ、浅瀬におります。
だから、あなたの中に神が現れようが無いのです。あなたの心の底の奥の底に、私がおる事を知りなさい。
皆さんは、「もうこれは、この前も聞きました」「もう解っています」と言いますが、誰も解っていません。観念で捉えているだけなのです。
ですから私は、同じ事を繰り返す事によって、奥深く、奥深く、皆さんを、私のおる所まで、連れ込もうとしているのです。同じ事を繰り返しているうに、皆さんの意識が深まるのです。魂が高揚するのです。
低い次元に、神様はおりません。高い次元に、あるいは深い意識の中に、私という本物がおる事を知りなさい。
この知花の意識は、私の中にいつも入り込んで来ます。いつでも私の元に留まることが出来ます。私の中に、この知花が留まらなければ、おらなければ、私はこの知花を通じて、語ることは出来ないのです。
あなた方も、今の今、今の今です。それを受け入れれば、私の元に、意識的に来ることが出来ます。軽く目をつぶって、浅瀬で、こうでもない、ああでも無いと、詮索する事では無いのです。
私を心の底から、底の底から、精神を尽くし、全ての全力を尽くして、私を信じて、受け入れる事です。その時、私は、皆さんと共に居ります。
そして、自分が御国に入った事を、実感致します。御国に入りますと、外側が如何に無知であるか、自分が無力であったか、妄信的、狂信的であったかが解ります。 この世で信仰しているようなものは一切、真実の次元にはありません。
そこには何があるのか、調和があるのみなのです。愛あるのみなのです。智慧あるのみ、力あるのみなのです。そして、久遠あるのみなのです。破壊も、終わりも、初めも無い、初めからあった素晴らしいものがございます。
今までに、様々なな預言者が、出るには出たけれども、その預言者でさえも、そこに至る事にはなりませんでした。日本でも、未だかつて、そこに至った者は、一人もございません。おるなら歴史に残っております。
そこに至った者がいないから、浅瀬で様々な夢想的な、あるいは幽界や霊界の事を、真理だと思い込んでいるのです。
あなた方の為さねばならない事は、その自分の本源本質に至る事であって、幽界や霊界などで、途中下車している迷い人の、迷える魂の住んでいる所を探求する事ではないのです。
どんなに幽界や霊界では、こうでありますと言った所で、これは真理ではないのです。其処は、迷い人、この世で解らなかった者同士の、肉体を去った者同士の、溜まり場にすぎません。
幽界では、それを真理だと思い込んで、それを真理だと言って、信じこませる者もいます。
あなた方の為すべき事は、幽界や霊界、この3次元の事などに、囚われる事ではないのです。自分で自分を、本当に自分という本物の自分を、掴む事なのです。
あなた方は掴んでおりますでしょうか?
自分というものを、説明できますか?自分で自分を説明出来た時、あなた方は私の元におります。
自分を知らない者が、どうして他様(よそさま)を知ることが出来るでしょう。先ずあなたは、誰を追求する事も無く、誰を貶す事も無く、自分を探求する事からしなくてはなりません。
「神を知る前に、己を知りなさい」 己を知らない者が、どうして人を裁くのですか?
あなたに、自分さえも解らない者に、どうして人を裁く権利がありましょうか?私達は先ず、自分を知る事です。完全に理解する事なのです。
これが出来た時、もう皆さん方は不動であります。もうビクともしません。不安も恐怖も、その日から吹っ飛んでしまいます。恐怖するものはありません。
あなた方が、この世に存在している目的は、真の自分を探しだす事なのです。自分を掘り下げて、掘り下げて行くと、何に至ると思いますか?
神に到達するのです。自分が神であった事を、知るのです。
それが、神に到達した終着駅なのです。
神の他には何も無かった、全ては神がお創りになった。全ては神の中に存在し、そして創られた物の中には全て、神が留まっておられた。何処を見ても、神しかおられない、今の自分がおる所も、生きている所も即、久遠のホーム(家)である事が解ります。
あなた方は、自分のおる所さえも知りません。
世の中には、過去生を思い出したら最高の悟りだと、思い込んでいる者もおります。
どんなに異言を語ろうが、過去生を思い出そうが、あなたの救いとはなりません。思い出して、そして増長マンになっている者もいます。
あなた方の思い出すべき事は、過去の事では無く、あなた自身の事ではないでしょうか?
自分が何なのかを知らない者が、過去を思い出した所で、異言を思い出した所で、何の価値もないのです。
誰か一人でも良いから、愛する事をして欲しいのです。
私の本質を、人々と分かち合う、全ては自分であるが故に、皆さん方が、お互いに仲良くする事を、私は待ち望んでいるのです。誰かを貶めたり、非難したりしながら、「私は、過去の何某の生まれ変わりだ」と言った所で、私は喜びません。
私が、皆さんに望んでいる事は、お互いに愛し合う事なのです。過去生を語る事ではありません。過去生を思い出す事を、望んでいるのではありません。
あなたが、私を思い出す事を、望んでいるのです。
私を知る事を望んでいるのです。
皆さんでも、私が光をちょっと与えますと、過去生を思い出します。そして過去生を語ります。私はその事で、たくさんの失敗をして来ました。
ここで過去生を語った者は、私の会に一人も残っていません。もう自分は偉いものだ、いや私はキリストの生まれ変わりだったのか、いや私はヨハネだったんだと、増長マンになって、もう彼らは、何をしでかすか解らないような人間に、なってしまったのです。
皆さん方、よく考えて見て下さい。どんなに過去生を思い出そうが、異言を語ろうが、大して大事な事ではないのです。
一番、大事な事は、自分を追求して、自分が何者なのか、この世で何をすべきか、どういう生き方をすべきか、そして自分と他人との関係を、よく理解する、知り尽くす事ではないのでしょうか。
あなた方は、ここに座っている隣人との関係を、ご存じですか?
あなたなのです。
ここにいらっしゃるか方々は、体型や環境は違うけれども、私という一つの根源に基いて、生きているのです。
あなたが隣人になす事は、全部、自分になす事であり、神になす事なのです。
だから、愛し、愛し合いなさい。許し合いなさい。あなたが愛し合って、許し合って、初めて私の中に居るのです。私そのものが愛であるからです。私そのものが、愛する事を望んでいるからです。非難しあう事を、望んではおりません。
今、世の中の伝統宗教は、私というキリストの名を語りながら、あなた方の分離を創りだしております。
私キリストは、分離ではありません。全一体です。
キリストは、唯一、一様(ひとさま)しか居りません。その一様のキリストが、あなた方、一人ひとりの真我なのです。
神は大調和です。
大宇宙を眺めて下さい。宇宙には数えきれない星々があるけれども、彼らはぶつかり合っているでしょうか?
お互いの調和を保ち、距離を保ち、愛し合い、分かち合って、決してぶつかり合う事はありません。あなた方は、創られた星々にも劣るのでしょうか。
万物の霊長と言われた私達だけが、争っているのではないでしょうか。不調和の者となっているのではないのでしょうか。不調和の者となっているのではないのでしょうか。
恥じなくてはなりません。私、神は、皆さんの中におります。皆さんの根源は、調和、愛でございます。
それ以外のなにものでもないのです。あなた方の無知そのものが、私からの分離を引き起こし、それによって、様々な対立、争いを起こしているのです。
真実なる真理、私を知れば、皆さん方は愛そのもの、分かち合いそのもの、助け合いそのものであるという事に、気付きます。もう誰の悪口も言いません。誰も憎みません。そこには、愛しか無い事が解ります。
これが皆さんの神に至る、唯一の道なのです。
愛を通さずにして、私の元に来た人は、一人もおりません。
人を憎みながら、天上界行きだ、人を貶めながら、天上界行きだという自己満足をやめなさい。自己満足を、やめるのです。私は、憎しみではありませんから、憎しみを持った者は、私の中におらないのです。
私は愛であるが故に、皆さん方が、全ての全てを愛し、全ての全てを同朋とし、分かち合い、助け合いをした時、あなたは私のこころに似て、私と共に食します。そうした時、皆さんは、幸せじゃないでしょうか。
あなた方の不幸災難は、何から来ましたでしょう?人を憎む事によってです。人の悪口を言う事によってなのです。愛し合って、あなた方は不幸になれるでしょうか?
愛は、幸せになる秘訣であり、憎しみは、不幸せになる秘訣なのです。
あなたは、自分で自分の不幸せ、不健康、様々な事を創っていながら、私は不幸者で御座いますと言います。
誰があなたの不幸を創ったのでしょうか?
あなたです。
あなたが憎まなかったならば、怒らなかったならば、嫉妬しなかったならば、裁かなかったならば、あなたは不幸せになりますでしょうか?
愛そのものであった時、許しそのものであった時、皆さんは不幸せになれますでしょうか?
愛に生きる事は、私に生きる事なのです。
皆さん方が、愛そのものであるからです。なぜなら、私、神が、愛そのものであるからです。幽想的、空想的なものではなくて、他ならぬ現実的、実際的な私を、皆さんは知っていると思います。
愛する者のみが、私の元に留まります。
憎しみを持つ者は、地獄へ行きます。彼らが創った地獄です。
私は地獄を知りません。憎しみを知りません。罪を知りません。死を知りません。
私は完全なる愛にして、完全なる、久遠なる、常在なる者でございます。
この私の御心を行なう者は、私の御国に住むであろうと、2000年前に、イエスを通じて私は語りました。
お互いを許し合い、お互いを愛すべし、隣人を愛しなさい。
愛して初めて皆さんは、私と共におります。そして幸せになります。健全になります。愛でない者で、健全で幸せになっている者は、一人もおりません。
また、私の元に来る事も出来ません。私は彼らが来たら、何というと思いますか?
「私は、あなたなど知りません」と言うでしょう。なぜなら、私は憎しみを知らないからです。
愛がある者が来た時は、「私は、あなたを知っています」と言うでしょう。
憎しみや、怒りや、嫉妬を一杯持った者が、私の元に来ると、「私は、あなたを知らない」と言います。なぜなら、私は愛しか知らないからです。愛そのものであるからです。
私の元に来るためには、皆さんが、愛でなくてはならないのです。私は、愛しか知らないからです。
私達は、教会へ行っているから、お経を何万回あげているから、愛の御心、愛の王国に入るのだなどという、自己満足をやめなさい。
あなた方が、愛そのものになって、私はあなたを知るのです。私というものは、憎しみを知らないからです。裁きを知らないからです。怒りや、非難する事を、私は知りません。私の御心は、愛そのものであるからです。
あなた方は、今日という今日、自分は、本来の自分は、愛そのものであったのだ、そして初めて、自分は幸せなのだなあと認め、一切の人を許し、裁かず、怒らず、憎まずに、愛そのものの人になって下さい。
今日から、あなたは私と共におるのではないのでしょうか。そして、今日から幸せなのでしょうか。愛の中になぜ、不安や恐怖があるのでしょうか?ありません。憎しみや、怒りや、恐怖に、不安は留まるのです。
愛の中には、安泰、安全、完全、安らぎがあるのです。それが、皆さんの御国なのです。
「神の国は、汝の内にあり」。私は皆さんの中に、無限の愛を留めたのです。
あなたの本質、本性は、愛なのです。その本質、本性が、私の御心、神の御心なのです。
愛に生きる者は、私の御心を、行なう者なのです。
人を裁く者は、私の心に反する者なのです。
そうする者は、私の元に来る事はありません。神は愛しか知らないので、愛ある者しか、神は受け入れません。
神の御元、私の御元に来たいならば、皆さん方はすべてを許し、全てを愛しなさい。
そうした時、私は皆さんを知っていますと言います。
何万回お経をあげたところで、私の元には来れません。
私と一体なった時、世の光となります。
あなたが常に愛であれば、あなたの周囲の人々全部が、あなたによって利益をもたらされます。良い気持ちになり、救いとなります。
解るでしょうか、愛ある人に、皆、寄ってくるのです。そして皆さん方は、愛でもって人々を幸せにするのです。あなたがその救い主である愛なのです。
その愛は、皆さん一人ひとりの中に、その神なる、創り主である神の本質本源を、持たせております。これが、皆さんが知らなければならない、私なのです。
私は神であり、愛であり、愛は神なのです。
その神が、皆さんの中に留まっている、無限の愛なのです。その愛を通じて、初めて皆さん方は、私の元におる事が出来るのです。
皆さん方が、家族の者、隣人、職場の人々を、許し、愛し合った時、皆さんは恐怖を感じますか?苦しみがありますか?ありません。
愛から外れた時に、苦しむのです。
私から分離すると、愛から分離して、憎しみは愛からの分離ですから、私からの分離になり、苦しむのです。嫉妬も、私から離れているのです。だから、不安なのです。解りますか?
愛という私から、離れないで下さい。
私から離れなければ、あなた方は何処にいても、安全なのです。安泰なのです。平安なのです。
私という神なる愛から離れれば、皆さん方は不安です。恐怖です。
あなたが愛であるという事は、常に私と共におるという事です。簡単ですね。そしてその愛が、皆さん方にあるのです。
この知花が、それを体験しまして、この世の中に一人も憎まず、怒らず、謗らず、全ては兄弟姉妹だ、愛だという体験をしました。
そして、自分自身を追求していった時、自分の救いは、愛しか無いという事を、悟ったのです。自分が全てを愛した時、自分が救われている事を知ったのです。
自分が周囲を憎んでいる間は、迷いであり、救われないのです。
あなた方が、誰かを見ても愛おしくなり、愛というものを感じるようになって初めて、皆さん方は救われるのです。
誰かを見て怒るような、嫉妬するような、嫌うような心がありましたら、あなたの心は平安ではありません。苛立ちます。苦しみます。
その苦しみは、一体、誰が作ったのでしょうか?自らなのです。地獄は、自ら創って、自らが自分自身をその中に閉じ込めているのです。
神に至る道は、儀式的なものでは無く、あなた方が、愛に生きる事以外には無いことを知らなければなりません。
何万回、讃美歌を唱えようとも、何万回、お経をあげましても、その人の愛の実践にはなりません。どこへも行けないのです。自分で創った地獄に落ちるしか無いのです。自己満足にしかなりません。
イエスは、言われました。
「むやみやたらに、我が名を呼んではならん。我が御心を行う者が、兄弟姉妹である」と言われたのです。
御心を行う者とは、愛を行う者という意味なのです。愛し合う事、神は愛であると言っているのです。愛は神であり、神は愛である、その神の愛の御心に生きない者が、どうして私という愛の王国に住む事ができるでしょう。
愛の王国に住むには、あなた方が、この地上界で、愛というものにならなくてはなりません。愛を実践していなければならないのです。あなたはどんな障害、妨害を加える者にも、あなたは、許し、愛する事が出来るでしょう。
イエスは、自分に石を投げ、唾をかけ、罵る者さえも、愛されたのです。あるいは、自分の肉体の身を滅ぼす者さえも、愛されたのです。であるが故に、愛の王国に入る事ができたのです。
イエスは、愛そのものに生きられたのです。どんなに唾をかけられようが、貶されようが、罵られようが、石を投げられようが、彼らを許し、彼らを愛されたのです。
あなた方の愛は、如何でしょうか?
ちょっとでも自分にとって都合の悪い人を、憎んだり、裁いたりしているのではないでしょうか。それが、愛なのでしょうか?愛ではありません。
愛を行う為に、一番必要とするのは、あなた方を憎む者、罵る者、妨害する者を、愛する事ではないでしょうか。それらの人々を愛して初めて、あなたは、真の愛を体験するのではないでしょうか。
お互いに愛し合っている者同士は、どんな悪人でも愛し合います。真の愛とは、あなたにマイナスになる人でも許し、愛する事なのです。お互いを許し合い、愛し合う事なのです。
皆さん方は、救いの道は、自分でしか為し得ない、宗教では無いという事が、もうお解りだと思います。沢山献金する事でもない、過去世を思い出す事でもない、為さねばならない事は、愛だという事が、解ったはずです。
どんな世界中の文献を見ても、記憶して、人前で真理を解こうが、その者に愛が無ければ、地獄行きなのです。私の元に来ることは、出来ません。
愛ある者のみが、私と共に住む事が出来るのです。
あなた方は、学問があって、人前で法を説いたり、真理を説いたりする者が、あたかも天上界行きだと、錯覚しておりますが、どんなに学問が無かろうが、あるいは人前で話をしなくても、その本人の心に愛が満ちていれば、私の元に来る事が出来ます。
性別、年齢、学問、一切関係ないのです。
何が関係するかというと、愛だけなのです。
なぜならば、私の御国である王国は、愛の王国だからです。私は、愛しかないからです。学問とか、知識は、関係ありません。私に関する事は、愛のみです。
この世の学問は、この世の物質を得るための糧に過ぎません。この世の地位や名誉も、贅沢をするための糧にすぎません。私とは、関係がないのです。
私と関係があるのは、愛です。例えば政治家で、総理大臣であろうが、その者に愛が無かったら、私の国に入る事は出来ません。ストレートに、地獄へ落ちて行きます。
どんなに財産や名誉や地位にあっても、愛が無ければ、私の元に住む事は出来ません。
私は、彼を知らないと言います。なぜなら、彼が私を知らないからです。彼が、私を知っているならば、彼は、私である愛であるはずです。
あなた方が、私を知る為には、私にあなた方を知らせる為には、あなた方が、私を知っていなければならないのです。
子が父を知り、初めて父は、あなたを知ります。子が父なる御心である愛を行って初めて、私はあなたを迎え入れるのです。子が、父のような、愛であって初めて、「よく頑張って来てくれたね」と、私は快く、放浪の旅を続けてきたあなた方を、迎え入れます。
私の元に来るためには、この世で一人だって好き嫌いがあってはなりません。なぜなら一人でも、私であるからです。私が創った者であり、その中に私が居るからです。
神は全ての創り主、全てを創って、全てのものに、ご自身を宿しております。
あなたが隣人を嫌うなら、私を嫌っているのです。私を嫌う者は、私から嫌われます。私を愛する者は、私から愛されます。全ては私なのですから。
私は、人間だけに居るのではなくて、金魚一匹の中にも、居るのです。
金魚一匹も、私という神が創って、私という神が今、生きているのです。私の愛の現れなのです。智慧の現れです。力の現れです。あなたは何処を見ても、私を見なければならないのです。
外に木がございます。木も、神が創造しました。そして、そこに私が居ります。現に生きております。私が木の中に生きていなければ、木の存在はありません。私は第一原因者である神自身なのです。
という事は、皆さんもそうなのです。あなた方一人ひとりが、そうなのです。それに気づけば、皆さん方は、無限なる者となるのです。まだまだ皆さんは、把握、自覚、理解をしておりません。世の中では、神を信ずるという事について、誤った説かれ方をしております。
神を信ずるという事は、神を良く理解し、知る事なのです。神を知らないで信じている人を、妄信者、狂信者と言います。今までの色々な先入観の神は、神棚の中におったり、お墓や仏像など、様々です。
神を有限化してしまい、人間の浅はかさな知恵にまで、神を低下させてしまったのです。
私達は、神を私達のレベルまで引き下げるのでは無く、私達の意識を、神にまで高めなければならないのです。
私は、偉大であり、無限なのです。あなた方の考えているような、浅はかで、小さな、あるいは有限的な神ではありません。
無限です。そして偉大なのです。
私は、目に見えないその粒子の中にも、微粒子の中にもおるのです。
私は、至る所におります。であるが故に、無限者なのです。無限なのです。完全なのです。
神は全ての創造主なのです。
神様は、木をお創りになり、金魚をお創りになり、海をお創りになり、山をお創りになり、そしてその中に、ご自身が宿っていらっしゃるのです。
そして空気の中にも、水の中にも、私達の中にも、動物の中にも、全てを創造して、その全ての中に、私がおる事を知りなさい。全てが私である神ならば、あなた方は、全てを愛さなければならないのではないでしょうか。
「神を愛します、賛美します」と言いながら、「この野郎、あの野郎」と貶め合う、何が賛美でしょうか。
ハレルヤという意味は、最大限に神を賛美するという意味です。何処におる神を、賛美しているのでしょうか?
私は、何処におるのでしょう?彼らは、それを知りません。ただ、口先だけで、神を賛美します、ハレルヤ、ハレルヤ、何年間もハレルヤ、ハレルヤを唱えました。唱えたけれども、一向に救われないのです。口先だけの信仰であったからです。
私もハレルヤ信仰でした。ちょうど13歳の時、ハレルヤ信仰の洗礼を受けました。川で洗礼を受けたのです。しかし、満足しませんでした。
一生懸命ハレルヤを唱えました。ハレルヤを唱えれば救われると言いますから、喉が枯れる程、唱えました。しかし一向に、心の平穏を保つ事は、出来ませんでした。
その内それが、実は嘘を付いていた事が、解ったのです。真の神を知らないで、ただ、妄信的に神を賛美していたのです。
真の信仰とは、真実に愛する事ではないでしょうか。あなたを真実に愛しますと、口先で言う必要もないのです。真に愛する事が、真の信仰なのです。口先だけで、愛だという事では無いと思います。
愛は、口で説くものでは無いのです。語るものでも無いのです。真に、その愛に生きる事だと思います。
「あの人達は、地獄行きだよ。このハレルヤ教会にいる者だけが、御霊を受けて天国界に帰れるのだ。彼らは邪道で、邪教で、献金もしないから、地獄へ行くんだ」と、教えられました。
私はそれを、現に真に受けてしまったのです。それが、古い葡萄酒であったのです。盲の指導者に、目を眩まされてしまっていたわけです。しかし、一向にそこに救いがもたらされないので、ある日私は、牧師に言いました。
「私は一体、いつ救われるのでしょうか?こんなに長い間ハレルヤを唱えてきたのに、一向に私の心に安らぐ気持ちがありません」。
そうしたら、「死んだら救われるのです。
死んだらイエス様が、あなたはもう洗礼を受けているので、白い羽衣を与えられて、自分の身元にパラダイスに連れて行くのです」と。
もし私が、妄信家でしたら、それを信じていたでしょう。しかし、私は疑いました。生きている時に幸せでない者が、どうして死んだら幸せになれるのだろうかと、疑いました。そして言ったのです。
「私は、生きている時に幸せが必要なのです。死んだら地獄へ行っても構いませんから、生きている時に、幸せになる道を教えて下さい」
そしたら、「欲深め、神に素直であれ」と、怒られました。しかし、真の幸せはあったのです。
生きている間に、隣人愛をする事だったのです。人々全てを許し、私をどんなに迫害し、罵る者でも、全てを許し、すべてを愛する事だったのです。
それを実感した時、私は、生きている時に天国がある事を、知ったのです。「ああ、なるほど、幸せだなあ」と、思ったのです。
それは口先だけの信仰ではなくて、真に心から、一人ひとりを愛する事だったのです。
誰を見ても愛なのです。あの人を見ても、この人を見ても、現にその日常生活で、私達が愛に生きてこそ、生きている時に救われるのです。
そして、生きている時に救われる者は、この世を去っても救われて、この世で救われていない者は、あの世に帰っても救われない事を知ったのです。
死んだら救われるのではありません。この世での悪人は、あの世でも悪人なのです。悪霊なのです。
この世で、愛の深い人は、あの世でも愛の深い人です。この世で愛し得ない者は、あの世でも、愛し得ないのです。
あの世に帰ったら、愛になれるのでしょうか?なれません。この世で高級な人間は、あの世でも高級霊なのです。その事が、はっきりと解ったのです。
私が、この世とあの世を行き来し、霊的霊視力が出て来たので、それがはっきりと解るようになったのです。
皆さん方の、今の自分の状態が、あの世へ帰った時の状態なのです。多くを愛する者は、愛深い者として、愛の次元に帰ります。
神の家には、沢山の館が準備されているというのは、この事なのです。あなた方の意識のレベルの事なのです。
あなたがもし、イエスと共に、同じ館に住みたいのなら、イエスと共の次元にいたいのなら、イエスのような意識状態でいなくてはならないのです。
イエスは、愛そのものでした。誰も憎まず、すべてを許しました。そして愛しました。そのような状態になって初めて、あなたはイエスと共に住む事が出来るのです。
人を憎み、貶し、汚しながら、イエスと共に住むのだといくら言っても、その願いは叶えられません。イエスの元に帰りたいのなら、イエスの教えを実行し、守り、イエスの教えた御心を、受け入れる者のみが、行けるのです。
讃美歌を唱えても、口先だけで、心が鬼のような、悪魔のような生き方をしていては、彼らが来ても、私は知らないと言うでしょう。なぜなら、彼らは私の教えを、守らなかったからです。
私は何と言いました?私の御心を行う者と、言ったはずです。私に似るようになりなさいと、言ったはずです。
私を礼拝しなさいとは、一言もいっておりません。私を礼拝するという事は、私の教えを守っている者が、私の教えを礼拝している姿ではないでしょうか。
私の教えを守らないで、「主よ、主よ」と、私の名前を呼ぶ事をやめなさい。私は、その者を決して喜びません。
私の教えを守っている者を、喜びます。守って、愛する事です。愛する事です。許す事です。あなたは、お互いを許すべし、愛すべしと、示したではないでしょうか。
それを行わないで、憎しみ合いながら、怒りながら、週に1回日曜日に来て、「主よ、主よ」と言っていますが、それは私を裏切っているのです。アンチ・キリストです。
私は、何と教えました?お互いを、愛すべしといったのです。
先に入る者は、後になるといったはずです。彼らは、先に入ろうとします。
私達は、もう天上界行きだと言いますが、彼らは後になるのです。後になる者は、先になり、小さい者は、大きい者なのです。
自分たちは、献金もしているから、大丈夫だと増長マンになっています。彼らは、地獄から招かれないように、賛美をしているのです。地獄から免れたいために、賛美をし、献金をしているのです。しかし、彼らは、地獄を免れる事は出来ないのです。彼ら自らが、自らの地獄を創っているからです。
神は、地獄を創っていません。人間の無知と無悟りが、地獄を創ったのです。
私は、愛のみを全ての者に、与えています。私のその御心である愛を、実行しなさい。そうすれば、皆さんは、私と共に居ります。
皆さんが愛であれば、今から2000年前のイエスが、皆さんの側に、いつでも来る事が出来るのです。憎しみであれば、来る事が出来ないのです。愛であれば、いつでも参ります。
仏教であれば、仏陀もその通りであります。仏陀は、慈悲に生きた方です。慈悲心そのものなのです。仏陀の教えは、慈悲なのです。
その慈悲に生きてこそ、仏陀を信じている者なのです。仏陀の仏像を造って、般若心経をあげる事ではないのです。釈迦に説法というのは、まさにその通りです。私というその仏像、釈迦の仏像を造って、そこで釈迦の創った般若心経を唱え、釈迦に説法をしているのです。
あなた方が、そのお経の意味を理解し、日常生活の物差しとすべきなのです。良い声を出して読む事ではないのです。意味も解らないのに、良い声を出して、何万回もあげたら救われると、教えるようになってしまったのです。言葉でも、讃美歌でもありません。
一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です。
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです。あなたが許さなければ、あなたも許されません。
まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい。そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。
あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。全ての人の罪を、許してあげなさい。
そうすれば、あなたは全てから、許されます。私、神から許されます。
罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
人を愛さない者は、私も愛しません。
神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。
献金は、必要ないのです。愛し合う事が、如何に世への奉仕であるか、私への奉仕であるか、救いであるか、もうお解りだと思います。
神の心は、怒りでも、憎しみでも、裁きでもありません。
神の心は、愛です。
私に生きるという事は、私を信ずるという事は、愛に生きるという事です。
どうか皆さん方の日常生活での、愛の実践のあらん事を、お祈りしながら、
今日の「神は、全ての創造主であり、神は、一体を支配する。そして、愛そのものである」という事の、ご説明を終わらせて頂きます。
皆さん方が、今日から素晴らしい愛の発揮、大きな救い主の手助けとならん事を、お祈りしながら終わらせて頂きます。ありがとうございました。
オマケ情報で~す♪♫
「人生攻略法」様の超良質記事です♫
テレビにもご出演された「すごいおばちゃん」のお医者さんのブログ♪
内容がめっちゃ濃くて読み応え満点です♪超おすすめ♪
私も懐かしさもあり、楽しみながら日々拝読しております。
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知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目
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