- No
- 3975
- Date
- 2020.02.15 Sat
「素直であること」「感謝すること」「反省すること」「許すこと」 それが神に愛される生き方♪物にも人にも感謝が出来る人は心が豊か♪ 「許す」ことで悪い相性も変わっていく♪反省して欠点を直すから成長できる♪試練は心の研磨剤の教え♪人の世は善・悪があってこその修行♪愛する人と友情を育むコツ♪神様の心と「見えない世界」の仕組み♪心が磨かれていなければ「行」は無意味♪気付きはいつからでも遅くない♪家庭円満のコツの気付き♪人間も「アクを抜く」ことで磨かれる♪金スマでお馴染みの青森の神様・木村藤子さん・総まとめ記事♪
木村藤子さんのご著書から引用させて頂きました♪
本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます・感謝感謝です。
青森の神様・木村藤子さん
はじめに
私達は人間として誕生した以上、この世を修業の場として悩みや苦しみに出るのはやむを得ないことです。なぜなら、その修業の道を通らなければ、前世からの背負っているカルマが解消できないからです。
しかし、そもそも悩みを作り出しているのは自分自身であり、またその悩みを解決するのも自分自身。人間というのは、自ら不幸を作り出し、また自ら幸福も作り出すのです。
私が事あるごとにお伝えしてきました「気付き」というものは、
不幸を生み出す根源である「自分を変える」という事です。
自分が変わることで、新たに見えてくる世界があります。
私が認識する世界は一つだけではなく、
自分自身が変わっていくことでいかようにも変容していきます。
人間もまた同じように、自分の相手へ対応(言動)の仕方によって、
実に様々な反応が返ってきます。
感情的で、相手を傷つけるような言葉を相手に投げかければ、
相手も感情的な言葉をあなたに返してくるでしょう。
反対に、思いやりと理解を持って対応すれば、
相手もあなたに優しさを返してくれるでしょう。
また、例え相手が態度に出さなくても、カルマは
しっかりと残っていくということも忘れてはいけません。
一般的に、私達人間は相手の”反応”を見て相手がどう思っているかを判断しますが、心の中を外には出さない方ももちろんいるわけで、それでもやっぱりあなたがした言動はいい悪いにしろ、必ずカルマとしてインプットされるのです。
ここで忘れていはいけないことは、カルマは
「いいカルマ(徳)」と「悪いカルマ(業想念)」があるということです。
この世で幸とか不幸がまるでひょうたんの形のように交差するこの人生を、いい時も有頂天にならず、悪い時はそこから脱出する方法を探り、そのように諦めず謙虚に生きていくことが、カルマと上手に生きていくということでもあります。
「素直さ・感謝・反省・許し」
が神様に愛される生き方につながる
人間である以上、誰でも間違えたり、失敗することはあります。大切なのは、過ちに気づいて直していくことです。
学歴や社会的地位に関係なく、また何歳になっても、例え、今、この世を立つ瞬間であっても、自らの過ちに気づけばそれがカルマの克服、解消につながります。それこそ神に愛される生き方です。
そのためには、素直であること、感謝すること、反省すること、許すこと、が大事です。
神は、人間に対して、上辺の良さだけはなく素直さ、正直な心を望んでいます。
正直な心とは、間違いに気付いたら素直に「ごめんなさい」と謝れる心です。ところが、身内など親しい間柄の人ほど、それが出来ない人が多いようです。
親子関係に関わらず、どんな人間関係においても、相手の事を理解する上で、一番大事なのは、話し合いです。
相手の気持をしっかりと理解して、自分の思いを愛艇分かりやすく伝える。それと同時に、忘れていはいけないことは、相手の話をよく聞くことです。
夫婦や恋人同士、また職場などでお互いに 理解しあうためには、次の3つの心がけが大切です。
・自分の事を棚に上げて、相手の事ばかり意見したり、批判しない。
・話をする時は、ポイントをまとめて簡潔に、要点を抑えて伝える
・相手を理解しようとするとともに、「勝つためだけの喧嘩」をやっていないかどうか、そのことに気付く。
自分の姿を映し出す
「カガミ(鏡)」から、「ガ」=我を取ると、「カミ」=神となります。
つまり、素直な気持ちで相手の意見に耳を傾けて、「自分が傾けるべき所は何か?」に気付いて直すことが、心の汚れを祓うこと、即ち、心の浄化に繋がるのです。
少しでも自分の心が神に近づく事ができたならば、相手に対しても素直に感謝できるし、また相手の欠点や至らなさも許す事が出来るようになります。
夫婦は、お互いにカルマを克服、解消し、無償の愛を育んでいくために結んだ縁、その関係、交流の中で、いかにそれぞれの我を抑制できるかが大事です。
物にも人にも感謝が出来る人は心が豊か
「素直であること」「感謝すること」「反省すること」「許すこと」、
それが神に愛される生き方に繋がると言いました。
この中の「感謝すること」は、人に対してはもちろんですが、物に対しても同じで、物を大切に扱うことによって心が豊かになることもあります。
最近、よく「断捨離(だんしゃり)」という言葉を聞きます。私も長い間車庫に置いてあった物を整理し、断捨離をしてみましたが、よくよく考えてみると、捨てるだけが能でもない事に気づきました。
断捨離をする前に、まず物を買わない方法もあります。
そして、本当に必要なものにお金をかけることや、大切な物を出来るだけ長く使うことも大切です。
要は、どのような心の状態で物を買うか、ものに接しているかです。ストレス解消の為に安いものばかり買い集めても、結局使い切れなかったり、まだリサイクル出来るのに捨ててしまったり、リフォームできるのに壊してしまう。
そのように、心にしっかりとした目的が得られないまま、買い物をし、断捨離を繰り返したとしても、結局のところは元の木阿弥で、衣服でも家具でも物に囲まれた生活に戻ってしまうのでしょう。
また、一人暮らしの人はまだしも、家族がいたら勝手に物を処分したり、家族の愛着があるものまで捨ててしまったら、トラブルの元になります。
例えば、本にしても愛着がある本ほど、生涯手元において置きたいもの。それまで何度も読んでいても、時が経って読んだらまた違った点に気をつけたり、あるいは、将来自分の子供が興味を持ってその本をてにするかもしれません。
住まいにおいても同様で、私も家をリフォームする際、「その家で大切に使っていた古い物を一つ使うと良い。という話を聞いて、昔の家のテーブルを拝殿で机代わりに使用しています。
このテーブルは、今はなき両親にとっては大切な買い物で、今から60年前ほども前、私が小学生の頃、長女である私の姉が結婚する時、親類縁者の来客を迎えるために購入したものです。
母が嫁がせる娘に対する愛着の心で買ったテーブル、私にその当時の話をしてくれた母の顔が、50年過ぎても昨日の事のように記憶に残っていて、私も、我が子を娘に出す親の愛情を理解できる歳になりました。
子供の頃は座敷に置いてあったそのテーブルを大切な両親への思いとともに処分せず、足にキャスターを付けて再利用することにして、今は拝殿の前の大事な御役目を果たしてくれています。
「許す」ことで悪い相性も変わっていく
人間と人間の関係というのは、お互いの理解力によって支えられています。
どこまで相手を許してあげる事が出来るか。
どこまで相手の心情を考えてあげることが出来るか。
どこまで相手の事情を考えてあげることが出来るかです。
これまで何度もご紹介させて頂きました。
「許すこと人・それぞれに・訳がある
時の違いの・憎しみかな」
とい私が創った詩があります。
生きている時間、環境、見ていること、感じていることが違うのだから。人それぞれに事情があります。その事を理解し、相手のことを許してあげよう、という意味です。
そうした相手の事情、心情をを理解するためにも、まは自分が正しい判断力、理解力、知識を手に入れる事です。
そして、人間関係においては「話し合う事」「気付くこと」「忍耐すること」「努力すること」がいかに大切かという事を忘れないことです。
相性が悪いと思っていた人と善い関係性を築く事ができれば、それは自分自身の魂の成長につながります。自らの意志で幸せの道を選んで進んでいることになりますから、必然的に人が集まって来て、幸せの連鎖が起こります。
人を許すというのは、言葉でいうほど感嘆な事ではないかもしれません。
仏教におきましては、許すことというのは基本理念として置かれているくらい大事なことです。
つまり、逆に入れば人間はそれだけ人のことを許せない生き物だということなのではないでしょうか。
やはり人は、自分の事を一番可愛いと思ってしまい、自分を守るために人を傷つけてしまうのだと思います。
その時の感情に任せて、怒りや憎しみを抱いていては、悪いカルマの思う壺になってしまい、どんどん悪いカルマをためてしまうことになるのです。
私達は聖人ではありませんから、人から何かされたとしたら、その時は許せなくてもいいのです。勘定がありますから、ある意味しょうがないのかもしれません。
しかし、いくら感情的になったとしても、周囲の人達にその人がいかにダメな人で、悪い人で、信じられない人で・・・・・etc 言い触らしたりしてはいけません。
グッと抑えていれば、時が解決してくれることだってあるのですから。
過去、現在、未来を考えずに一時の感情で行動していては、うまくいくものも上手くいきません。
一時の感情に流されずに一旦グッと堪えて、冷静な判断力でもって人と付き合い、人生を生きていかなければいけないのです。。
そうすることで、円滑な人間関係が生まれ、人生は幸せのな方へどんどん進んでいくのです。
人を許すということは、自分の人間関係の幅をどんどん広げることでもあると思います。人にはいい部分と悪い部分があって当然です。100%完璧な人など、この世には存在しないのです。欠点があって当然なのです。
となれば、悪い部分は許してあげ、いい部分を見てあげて下さい。そのように人を許し、人を受け入れて行くことが出来れば、自然と周りに人が集まるようになり、どんどん幸福が訪れるはずです。
人との相性というのは、このようにして築き上げていく事が出来るのです。嫌いだから嫌とばかりいっていては、幸福のチャンスを自ら放棄してしまっていることと同じなのです。
人との良い相性を築き上げ、幸福を手にして下さい。
反省して欠点を直すから成長できる
上司との良好な関係の築き方についてお話したいと思います。
まず理解しなければならないのは、上司はその会社で自分よりも何年も経験がある先輩だということです。
自分より確実に仕事に対する知識と経験を持っています。
そして、会社というのは多くの場合トップダウン方式で、役職が上の人の決定が部下が従う、という構造を持っています。つまり、部下というのは、上司(又は会社)の決定に従って行動し、また常に自己反省して成長していくことが求められているのです。
もちろん、こうしたほうが上手くいくのではないかという考えがあれば、上司と相談すればいいと思います。でもそれをするには、まず自分の素の部分の欠点を治してからです。
そうしなければ、上司や周りの同僚から煙たがられ孤独するだけです。人間的魅力をつけることで、自然とコミュニケーションを上手く取ることができ、仕事を円滑に進めていくことが出来るのではないかと思います。
自分が絶対正しい、こうすることが一番だ、と思ってしまう方がいますが、人が考えることの中に「絶対」なんて存在しないのです。やはり謙虚に人の意見を聞き、冷静に話し合いの下に仕事を進めていくのが、一番よい方法ではないのでしょうか。
時に、自分の信念を貫く事も大切ですが、長い目で見れば、立場をわきまえて上司と接する事が大切なのです。
人を色眼鏡で見ない
編集部 本文の中では、「正しい判断力」という言葉も強調されていますが・・・
木村 神の愛を受け入れて、それに答えられる自分になるためには、正しい判断力を養う必要があります。
これは、私が自分のお役目を果たしていく上で特に心がけていることですが、私に限らず誰でも同じだと思います。
私の場合は、神から見せられた相談者の状況を性格に把握して、それを間違いのないように伝えなければなりません。
相談者から尋ねられる様々な問題について、それぞれに正しい判断が出来ないと、神は私に教えてくれているはずなのに、神からのアドバイスを正しく理解して伝えられなくなってしまいますので、色々な知識。常識を得るように心がけています。
また、私のみならず、どのような仕事であっても、そのお役目をしっかりと果たすために、正しい判断力が求められるのは当然のことですから、知識を増やすことは、ある意味、心の修行であり、仕事であろうと、家庭であろうと、この世での自分のお役目を果たし、幸せへと向かう心の修行は日常、絶え間なく続くものなのです。
つまり、「知識を増やすこと」は、自らの欠点を直すためには「絶対に不可欠なこと」といえると思います。
編集部 正しい判断力と偏った判断力の違いは何でしょうか?
木村 正しい判断力とは。自分の自我や欲、俗にいうひがみ根性などのない心で物事を捉える、幅広い常識や良識に照らしあわせてみた間違いのない考え方や物の見方です。
それに対して、偏った判断力は、自分勝手な考え方で、物の見方が非常識だったり、無知からくる誤った考え方です。
それが、自己中心的な物の見方や考え方となって表れているがために、人間関係のもつれ、夫婦の不仲、子育ての失敗などを起こしているのです。
その原因を根本の所から考えずに、「汚いものにフタをする」が如くに、見ようとしない、気付こうともしないのが問題なのです。
自分の姿を周りの人々が見ていることに気づかず、自分の考えだけで行動し、ひんしゅくを買っていることにも気づかずにいる姿は、あたかも童話の「裸の王様」と同じだと思います。
自分の自我や偏った知識を基準にした考えは、正しい判断力とは言えません。
常識や良識があるかどうかであり、例え学歴がなくても、知識の広さや知識を深める心を持ち続け、偏見の心を捨てる努力をすれば、自ら正しい判断力がそなわるはずです。
編集部 先生のように直に神様にお仕えする仕事にかぎらず、どんな人にも自分のお役目を果たすために正しい判断力が求められるし、あらゆるものから学ぶ姿勢が、神様に愛される心にも通ずるということですね。
木村 はい。正しい判断力を養う事によって、、相手のみになって考えられる理解力も得られると思います。
相談者の中には、家族や親戚、職場の上司や同僚、恋人や知人などの身近な人とのトラブルや争いという悩みを抱えて来られる方も多いのですが、人間関係の問題の殆どは、知識不足が根底にあり、過去、現在、未来を考えず、また、相手のみになって考えられないことから起きていると言っても過言ではありません。
相手の心は他人に見えないだけに、自分自身が正しい判断力を持っていないと、相手の本当の気持ちや真意を理解出来ず、ちょっとしたことに対して、我慢できず、感情的に行動したことが将来(未来)において裁判沙汰や事件にまで発展するトラブルの源(根底)や原因になったりするということです。
また、その裁判沙汰そのものが一方的に「勝つ」のみで押していては、未来においてさらなる愚かさの上塗りとなることもあるのです。
例えば、相手の言動に対して、「ひどい言葉をかけられた」「失礼な態度をとられた」と一方的に被害者意識を持って、「許せない」「もう我慢できない」と不満が爆発してしまうこともあったとします。「
でも、そこで「相手に問題がある」と決めつける前に、「なぜあの人はああいう言動をしたのだろうか?」と冷静になって考えてみる必要があります。
もしかしたら、以前に自分の言動に問題があったり、あるいは、他の原因でストレスを抱えている事もありえるわけです。
相手のみになって考えるというのは、「どうせあの人のことだから・・・・・」とか、「◯◯に違いない」んまどと自分の先入観(思い込み)や独断で決めつけないということです。
自分の感情や被害者意識を一旦脇に置いて、その人の気持ちや立場、状況に思いを馳せながら、「なぜ、そういう言動をとるに至ったのか?」について、過去、現在、未来の繋がりの中で冷静に考えてみる。
そうすれば、それまで気づかなかった、その人の背景や事情などの別の理由が見えてくることがありますし、相手もそのような温かい考えをもったあなたに感謝の心を持ち、未来において固い友情に変わったり、子供達が助けられる事もありえるわけです。
そうすると、「もしかしたら、以前の私の言動や態度に反感を持っていたのかもしれない」とか、「ストレスが溜まっていて、他に発散の方法が見つからずに、たまたま出しやすい私に向かってぶつけてきたのか・・・」などと理解できて、相手を許せるようになることもあります。
そのように、正しい判断力を養うためには、知識と理解力、そして、他人への愛情も必要となります。
心が乱れていると気づけない
編集部 反対に、神様が嫌う心があるとすれば、どんなことでしょうか?
木村 感情の起伏が激しい人、人を陥れようとする人、もう一つは、ひがみ根性の人です。
感情の起伏が激しいと、いくら神様が良い方向に導こうと思っても、本人の心が乱れているためにその援助を受け取れず、それだけ自分の不足、欠点にも気づきにくくなるのです。
カルマは、困難な状況や思いがけないトラブルという形でやってくる事が多いのですが、それは見方を変えると、神からの「気づきなさい」というサインでもあります。
心が平静であれば、そこで気付いて直せるので、ピンチをチャンスに変えられます。
ところが、感情の起伏が激しく、いつも心が乱れているようだと、気付きどころか、ますます問題を悪化させてしまうことにもなりかねません。
例えば、夫婦喧嘩や親子喧嘩をして、もともとは幸せを求める目的は同じなのに、お互いに感情的になった場合には、人の話を聞くこともせず、一方的に我を押し通してしまいがちです。
自分だけが聡明だと思っていて、その怒りや憤りが激しければ激しいほど、自分を試みる事ができず、「そもそもなぜ喧嘩になったのか?」「どうすれば仲直りできるのか」について冷静に考えることすら出来なくなります。
自分の心の不足にさえ気づけず、相手に対する理解もできないまま、「自分は正しい」「間違っていない」「相手がこちらのことを分かっていない」と、愚かな自分を守るためだけのプライドの中、知人や身内の者に嘘をついては自分の側に取り込んで、挙げ句の果てには、憎しみだけが心に残っていしまうのです。
僻み根性もその一つです。
そのような、恨みつらみの感情は、神の愛とは反対のもので、悪い結果のみ残り、当人もいずれは孤立の中、親しい人も離れていき、寂しい人生となるわけです。
編集部
親しい間柄ほど、「自分のことを分かってもらえない」「なぜそんなことをするの?」というような事態が起きると、つい感情的になりがちですが、出来るだけそれを避けるためには、どんなことを心がければいいのでしょうか?
木村 ます、「なぜ自分が感情的になるのか?」相手が、「的か味方か」を考えてみてください。
それも出来ずに腹をたてるのは、相手についての知識、その人に対する理解力が乏しいことから起きている、いわば、愚かさです。
家族や恋人、会社の同僚など、相手のことを「分かっているつもり」になっているだけで、本当のその人の気持ちや状況について実はよく分かっていない、正しく理解できていないことがよくあります。即ち、知識不足。
何か人間関係でトラブルが起きた時には、まず自分に欠点がなかったかを考えるのが大切で、感情的に反発するのではなく、「なぜ?どうして?」という問を発しながら、相手のその時の状況や事実関係を冷静に理解することに努める。
そして最も大事なことは、過去・現在・未来を考えて言葉を発することです。
火に油を注いでも何も良いことは生じません。
何かトラブルがあったとしても、そこですぐに感情的になるのを抑えて、一旦、相手の気持ち、相手の身になって考えてみると、すぐには気付かなくても、後になってからなぜ相手がそのようにするのかが理解できる事があるからです。
人間の心を見る方法
良好な人間関係を築いていこうとする時「相手の心を見るようにしましょう」という事を、事あるごとに述べてきましたが、相談者の方から「心を見るとはどういう事ですか?」という質問が多く寄せられました。
確かに、「心を見よう」と言葉にするのは簡単ですが、”心”という目には見えないものを見なければいけないわけですから、その方法が分からないというのは当然の事だなと気づきました。
ではまず”心”というものについて考えてみたいと思います。
心とは何か、と問われれば、私は”考え方・人間性”と言えるのではないかと思います。心を”考え方・人間性"に言い換えると、かなり具体的にイメージが湧いてくるのではないでしょうか。
心というのは人間の土台になるものです。心はそのまま言動に出ます。心が乱れていれば言動も乱れ、逆に心が整っていれば言動も乱れることはないわけです。
では、その肝心要の心はどうやって磨いていけばいいのでしょうか。
それは、見聞を広げることです。
なぜ、見聞を広げることが心を磨くことに繋がるのでしょうか。それは、「心とは考え方」だからです。
沢山の事を見聞きし、様々な人の生き方、考え方を知ることにより、自分の選択というものが広がっていき、その中から最適な選択を選ぶことが出来るようになります。
間違った言動をしてしまうのは、知識不足によるものであり、つまり、正しい知識を得る事で、正しい言動を選択”出来るようになる”のです。
人生というものは、運命という大きな流れはありますが、一瞬一瞬、人間はいくつかの選択肢の中から自ら進む道を選びます。意識していようが無意識であろうが、選んでいるのは自分自身。
自分の中にある知識、経験からその時の自分に合った選択肢を選んでいるのです。正しい考え方を100とした時、自分の考え方のレベルが30であればそれに見合った選択をし、90であればもっとよい選択をする事が出来ます。
この世は因果の法則で成り立っていますから、全て自己責任の世界だと言えます。一瞬一瞬を自分で選択しているのですから、他の誰でもなく自分の人生の責任は自分自身にあるのです。
どんなに自分のことを案じてくれる親や兄弟、友人がいたとしても、彼らが代わりに人生を生きてくれるわけではありません。人生を生きていくのは、他でもない自分自身しかいないのです。
希望の法則 人間の心を見る方法
さて、心をいうのは考え方だということが分かりました。そして、心を磨くには見聞を広げなければいけないという事も分かりました。
では、ここでのテーマである、”心を見る”とはどういうことなのか。目に見えない心を見るとは、一体何を見れば良いのでしょうか。
私達は心を目で見る事は出来ませんが、心から生まれるものは目で見ることが出来ます。そうです。先ほど述べましたように人の”言動”です。言動を見ることで、その人の心を見ることが出来ます。
心(考え方)によって、その人がとる言動というものは違ってきます。一人ひとり心が違うために、一人ひとりの言動も違うのです。
同じような言動をする人というのは、心が似ているという事です。だから、一緒にいて居心地がいいと感じるのです。
ただ、「相手の言動を見ることで心が分かります」とは言いましたが、すべての人が相手の心を見られるようになるわけではありません。相手の心を見られるようになる為には、自分自身の心を磨く事が先決なのです。
自分の心が磨かれていれば、相手の心が曇っているいるか、磨かれているかがすぐに分かります。なぜなら、相手を理解する能力が高くなるので、相手の立場に立って物事を考えることができるからです。
逆に、自分の心が曇っていれば、相手の心を正しく見る事は出来なくなります。綺麗に磨かれた心を持つ人のことを信じられなかったり、逆に心が曇っている人を信じてしまったりしてしまいます。
なぜなら、幅広い判断力や知識がないために井の中の蛙となってしまい、自分を過大評価して天狗になってしまうからです。
あなたが心の眼で見ているこの世界は、あなたの心が映し出しているあなただけの世界です。自分の心が晴れ渡っていれば、この世界も晴れ渡って見えるでしょう。逆に、自分の心が曇っていれば、この世も曇って見えるでしょう。
心を磨くことに終わりはありません。この世を旅立つその瞬間まで、自分の魂が光り輝くように心を磨き続ける努力を重ねていきましょう。
考える力
ここでは”考える”ということについてお話したいと思います。
「え?普通、誰でも考えているでしょう」と思うかもしれませんが、実は中々出来ていないのではないかと思います。
確かに誰しもが考えていきてはいるのですが、本当に考える力を持っている人とそうでない人間には決定的な違いがあると思うのです。
それは、”疑問点を見つけ、解決する力”です。
言葉にするのは簡単ですが、これを出来ている人はそう多くはないように思います。
ではまず、疑問点を見つけるということについて考えてみましょう。
普段の生活の中で、例えば読書をしていたりテレビを見ていたりしている時、”ただ読んでいるだけ”の方がいます。
もちろん、目から情報が入ってきますから、何かしらは考えてはいるでしょう。しかし、大切なのは意識的に考え、そして疑問点を見つけることが、考える力を育てる源になります。
ただ漠然と、他人事のように読んだり見ているだけでは、実は考えているようで何も考えていないために、私がいつもお伝えしている”知識”が身につきませんし、その本やテレビ番組の内容自体は覚えていたとしても、人生に応用することが出来ません。
例えば、小説の中で主人公とその友達が仲違いをしてしまう場面があったとします。
ここで、「なぜ二人は仲違いをしてしまったのだろう?」
「主人公のあの発言が原因となったんじゃないだろうか」
といったような疑問を持ち、それについて深く思考しなければ、”主人公とその友達の関係性が壊れた”という上辺だけの事実しか残らず、小説の内容が記憶として残るだけです。
しかし、一歩踏み込んで、それまでの二人の関係性から
「なぜ彼らの仲は壊れてしまったのか」
「何が原因だったのか」「どうすべきだったのか」
登場人物はどんなことを考えていたのだろうか」ということを習慣的に考えることで、現実の世界での人間関係にも応用する事が出来ます。
これこそ読書することで得られる素晴らしさだと思います。
テレビも同じです。ただ見るだけではなく、なにか疑問点を見つけて、
「なぜ?なぜ?なぜ?」と深く頭の中で追求して考えていく事で、
人生に応用できる”何か”を見つけることが出来ます。
ここまできて初めて”考えている”と言えるのです。皆さんはどうでしょうか。
普段からこうした事が習慣化している人にとってはなんてことは無い事なのですが、これが意外と出来ていない方が多く、考える力が無いために苦しみから脱出できないで苦しんでいます。
でも、これは習慣の問題ですから、訓練することで誰でも考える力を付けることが出来ます。何も特別な能力ではなく、皆その方法を知らないだけですし、考える力が生きていく上でどれだけ必要な事かという事に気付いていないだけなのだと思います。
疑問点を見つける事ができ、それについて考え抜く習慣が身につけば、知識はどんどん蓄積されていって苦難に立ち向かう対応策が増えるので、問題解決能力が上がっていきます。
日々の訓練によってここまで出来るようになれば、困難な状況にあっても慌てることもなくじっくりと考えて、と前向きになることが出来ます。
世の中の基本にあるのは人間関係。その人間関係を良好に保つためにはどうすればいいのか。これが人生の根底に有ります。八方美人になるのではなく、ピエロのようになるのではなく、
”見栄を張らずに素直に生きる”。幸せに生きていく為には、こうしたことを考える力、答えを見つけ出す力を身につける必要があります。
理解しているつもりでも、意外と出来ていない”考える”という事。意識的に疑問点を見つけ、疑問に思った事は投げ出さずに考えぬいてください。そうすることで知識が身につき、皆さんの人生を豊かにしてくれます。
「人生を豊かにするのは他でもない、自分自身」なのです。
考えたつもりになって考えることを止めず、いつでも新鮮な気持ちで物事を見極めるようにしましょう。
編集部 人間関係においても、知識が必要だということですね。
木村 その通りです。感情的になるということは、相手に対する知識不足からきています。
前に述べたように、過去・現在・未来、原因ー結果という繋がりの中で、常識や自分の言動と照らしあわせながら、どうして相手がそのような言動や態度をとったのかを、第三者の目で見つめてみることが理解力を深める事になり、それが新たな知識になります。
その知識が増えれば増えるほど、理解力が深まって、よけいなトラブルを防ぐ事ができます。
相手に対する理解と知識があれば、例えその相手から愚かな行為を見せつけられたとしても、相手がきづけないことに対し、憐れんだり、気の毒にこそ思えても、感情的に反発することはなくなります。
また、いくら相手が感情的になっていても、こちらに理解と知識があれば、例え、トラブルが10あったとしても、3にも2にも減らせます。
また、その瞬間は不愉快になったとしても、一晩じっくり考えれば冷静になれるでしょう。
夫婦や恋人同士の間柄でも、また子供に対しても、相手が自分の理解出来ない言動や腹立たしい態度を取ったとしても、それを頭ごなしに怒ったり、叱ったりせずに、「どうして?」「何が問題なの?」と聞いてみる。
そして、「私はこう思った」「こう感じる」と自分の気持や考えを言葉にして伝えながら、穏やかに会話していくことが何より大切です。
会話とは相手があっての事であり、一方的に感情的な気持ちのみを話すのであれば、それは「独り言」を喚く姿と変わりありません。
それらを十分意識しつつ、日々の中、積み重ねていけば、意味のない喧嘩や感情的にもめることも殆ど無くなると思います。
もし、意見の違いから言い争うになったとしても、それを持ち越すこともないし、不満な感情を溜め込むこともなくなるでしょう。
大事なのは、日頃からよくコミュニケーションをとって、「会話」をすること、そうすれば、自然に相手に対する理解が深まり、何かあっても、一方的に相手を攻めたり、自分の主張や我を押し付けることもなくなるのではないでしょうか。
このような「心の知識」が忘れ去られたり、気付かずに苦しんでいる人々がいかに多いことやら・・
・・・日々痛感しています。
愛という言葉の意味は
「愛」この言葉を聞いて、あなたは何をイメージするでしょうか?
私は透視能力者として、神との会話の中で、それによる気付きをもたらすことを御役目としてきたわけですが、常に感じているのは、神はあらゆる人に分け隔てなく愛を注いで下さっているということです。
私のもとに来られる相談者の方々も、「愛してもらえない」「愛することが出来なくなった」などと合いに関する悩みが尽きないようですが、視点を現世から霊界に移せば、実は愛とはどんな人に対しても常に注がれているもの。
より具体的に言うなら、皆さんを守護してくださっている神様やご先後様の霊から、いかなるときも惜しみない愛が送られて来ています。
しかし多くの人がそれを受け止める事ができずに、愛憎に悩んでしまいます。なぜ受け止めることが出来ないかというと、性格の欠点を直すというカルマの修行をしていないために心が汚れてしまっているからです。
心の汚れが多ければ多いほど、自分が信じている神やご先祖様がいくら守ろうとしても、守り切れないこともあります。
だからせっかく神が援助の手を差し伸べ、迷いから救って下さろうとしても、その兆候や気配に「気付く」事ができず、カルマにまみれた自分の中だけで愛を考え、悩みから脱却できるきっかけを掴めずにいるのです。
逆に、心を清め、魂を磨けば(悪いカルマの解消)、愛が常にそこにあるということを理解でき、感じることが出来るようになります。
そうすると自然に、家族はもちろん、周囲の人達にも愛を分け与えたいという気持ちが湧き、情を込めて人に接することが出来るようになります。
そしてその結果として人から信用され、幸せになっていくのではないでしょうか。
これが、人生がよりよくなる「大きな愛」という発想です。
「心を清め魂を磨く」などと書くと難しそうに思えるかもしれませんが、人を思いやり、節度を持って行動するなど、人として大切なことを全うしていけば大丈夫です。
どうでしょう、皆さんは愛という言葉に「愛されたい」「愛がほしい」と自分の立場からの意味ばかり付けてはいませんか?
愛について考えた時、相手の立場や状況を考えずに、”自分だけの欲望”に偏っている自分に気づかなければいけないのです。
まさか、と思った所が「気付き」の入り口
人間はいざ自分が当事者になると、「まさか!」と思いがちです。
まさか自分の子が、まさか自分の性格に問題が、真坂自分の教育に問題が……エトセトラ。
この「まさか」が気付くことを阻害しているのです。
確かに、人間は自分に過ちがあるとは思いたくないでしょう。
でも、人間ですから、過ちを犯して当然なのです。
私も、あなたも、必ず「気づかないがための過ち」をどこかで犯しています。
だからこそ、この世に存在しているのです。
「まさか」と思った所が気付きの入り口です。余計なプライド、自身は捨てて、自分の過去、現在、未来を見つめなおして下さい。人に指摘されて「まさか」。
自分でうすうす気付いて「まさか」。まさか、まさか。
ここが入り口です。必ず、ここに気付きがあります。
ここで謙虚に自分を見つめ直して、素直に自分の過ちを認めるのです。この一歩踏み出せるかどうかが重要なのです。なぜなら、真実の答えは自分の中にあるからです。
人からの助言や注意によって「ハッ」と気付かされることはありますが、その後の実行、つまり人から気付かされた自分の性格の欠点を直そうと実際に行動するのは自分自身しか出来ません。
人からの助言、注意といったものは気付きの「きっかけ」であって、
いざ実行するのはやはり自分自身なのです。
「まさか」というのは半信半疑の状態ですので、ちょっと勇気を出せば「気付く力」による幸せの道を歩み出せる場所にいるのです」。
「もしかしたらそうかもしれない・・・・・」
と自分では感じていますので、その心の声に耳を傾け、前に進むべきです。
過去の自分の言動を思い返して「もしかして・・・・・」「まさか・・・・・」そう少しでも思い当たる節があったら、そのことについて突き詰めて考えてみて、直す努力をして下さい。
「まさか」と思った所に答えがなかったとしても、必ず何かしらのヒントはありますし、考えることで魂の成長につながります。
ひとつずつ、ひとつずつ、ゆっくり段階を登るが如く自分の欠点を直していくことで、幸せな道が見えてきます。
人間は誰でも気付く事ができます。気付きというのは、悟りなどとは違い、何も特別なことではありません。自分の過ちを認めて反省し、直すべきところは直していくという、人間としての正しい生き方なのです。
人間も「アクを抜く」ことで磨かれる
素直、素直といいますが、では、素直とはどういったものだと思いますか?
これは、「ありのまま」とか「飾り気のない様」といった意味ですね。ここで大切なのが、単純に「ありのままの飾り気のない私を出していけばいい!」ということではなくて、自分の「素」の部分の欠点に気付いて直していかなければならないということです。
みなさん、「アク抜き」ってご存知ですよね?
タケノコやゼンマイなどの山菜は調理する前にかならずアク抜きをしますよね。アク抜きは変色を防いだり、苦味やエグ味を取る効果があり、そうすることで、美味しく食材を頂くことが出来ます。
今の喩え話の食材(タケノコやゼンマイ)を言い換えれば「自分」。「アク」というのは、苦味や毒味、つまり性格の欠点ですね。この自分の「アク」を取り除いていかなければ、いくら素を出したところで、また問題点が発生してしまいます。
素のままでいるのはいいのですが、その素が綺麗なものにならなければ、とても周りから受け入れられません。
素が綺麗に磨き上げられている人だからこそ、素直でいることでキラキラと輝いて美しいのです。
素を磨くことが出来れば、着飾る必要はなくなります。そんなことをしなくても、素でいることがその人の魂が美しく、そして綺麗に見える一番の方法なのです。
素の部分を磨くこともなくありのままでいることは、
「我(偽我・エゴ)」を出しているだけになってしまうのです。
結婚相手をにするのは不幸を招くだけ
男と女。同じ人間なのですが、考え方も生き方も全く違いますよね。
お互いに「女は何を考えているのか分からない!」「もう、男って本当に信じられない!」
と言ったりしているのが常です。そのくらい、考え方が違うのだと思います。
しかし、私達人間は意識があり考える事ができますから、コミュニケーションを取ることで理解し合ったり、歩み寄ったりしてお互いのズレを出来るだけ修正していきます。
夫婦関係の問題は様々ですが、大きな問題に発展するまでの過程には、実は同じような間違いをお互いに犯している場合があります。今回は、お互いにこれをやっては絶対にいけないことを明確にしたいと思います。「
これを守ることこそが、夫婦円満のコツといえましょう。
まず、女性のほうからお話します。
外で友人や知り合いなんかと話していて、自分の夫の悪口を言う方がいらっしゃいます。よく笑い話なんかになったりしますが、これは絶対にやってはいけません。
そもそも、その夫を選んだのは自分自身です。関係をうまく気付けていないのは夫だけのせいではなく、自分にも原因があった訳です。そこに気付かなければいけません。気付いていないからこそ、悪口を言ってしまうのです。これこそが大事な所です。
人間二人が対立しているとき、カルマを考えればどちらか一方だけに原因があるということはありません。程度の差はあれど、どちらにも原因はあるのです。
もちろん、夫の悪口を友人なんかと話すことでストレス発散になるのかもしれませんが、そのようなストレス発散法ではなく、もっと楽しいことをして発散して欲しいものです。人を陥れて(陰口)ストレスを発散しているようでは、悪いカルマを積み重ねていることになってしまいます。
また、自分の子供に父親の悪口を言う方もいますが、これも絶対にやってはいけません。子供に悪影響を及ぼしてしまいます。
母親と子供がまるで味方同士のようになって父親を蔑(さげ)すむといったこともありますが、そのようなことをしていては、将来、その子供もそういうことをするようになってしまうでしょうし、あるべき過程の姿では無いと思います。
次に、夫を立てないということについてお話します。
夫を立てるというのは、男女平等とか、そういった概念とは違う話です。テクニックといったら男性の方に失礼かもしれませんが、妻が夫を立てるというのは、やはり、夫婦がうまくやっていく秘訣でもある訳です。
みなさんは、夫を立てない女性を見て、気持ちが良いでしょうか?
「強い女性で素晴らしい!」と思いますか?思いませんよね。
それよりも、控えめで夫を立てている女性を見たほうが、
「なんて素晴らしい人なんだ」と思うのではないでしょうか。「
夫を立てるというのは、男性が上で女性が下ということではありません。「夫婦のあり方」としてそのほうがうまくいきますし、美しいのです。あるべき姿だと言ってもいいかもしれません。
歴史上の人物の自伝なんかを読んでみると、妻が夫を立てて、うまくコントロールすることによって、夫婦の絆が強まり、確個とした基盤が家にできているのが分かります。
次に男性です。
一番やってはいけないことは、人前で自分の妻を叱りつけることです。
「何をやってるんだ!」「しっかりしろ!」自宅で相談を受けているとこういう光景をよく目にするのですが、もう目のやり場に困ってしまいます。
このように人前で自分の妻を叱る方は、家のことを何もしなかったり、妻のことをまるで家政婦のように扱っていたりする場合があります。。
結婚というのは一人の大人の男性と一人の大人の女性が家庭を作り、人生をともに歩んでいくことです。こういったことをしていては、やがて愛想を尽かされてしまいます。
それとは逆に、外で自分の妻を褒める男性というのはとても素敵です。大人の男性なのですから、それくらいの余裕があってしかるべきなのではないでしょうか。
次に、家のことを何も手伝わないということ。
家はお互いの協力のもとに築き上げていくものです。ましてや、昨今では夫婦共働きという家庭がかなり増えてきいます。であればこそ、二人の協力なしでは、あまりに妻の負担が大きくなってしまいます。
選択をしてあげるとか、食器洗いをしてあげるとか、掃除機をかけてあげるとか、そのくらいしてくれるだけでも女性というのは嬉しいものです。二人は一生連れ添っていくパートナーなのですから、協力することが本当に大切なのです。
夫婦関係を円満にするにはお互いに役割というものがあります。おガタイの役割をしっかりとこなしながら協力し、歩み寄る。お互いに自分に自身の意見だけを主張していては上手くやってはいけません。
もともとは赤の他人同士な訳ですから、時にはぶつかることもあるでしょう。
そういったとき、そのままうやむやにせず、きちんと冷静に話し合って一つ一つ解決していきましょう。
お互い違う性格な訳ですから、お互いに尊重しあいながら、お互いに相手をいい意味でコントロールし合うことが必要だと思います。
素敵な夫婦の間で育った子供もまた、将来幸せな家庭を築くことが出来るのです。
心を磨くことが神様に愛される生き方につながる
自分の心を見つめて、できるだけ心の汚れをなくし、清めていくという六根清浄の教え。本来であれば、それを解くのは、神仏の心を学び、伝える宗教界のはず・・・・・。
ところが、現実はなかなかそれがなされていないのです。千差万別の人間の世に生まれ、誰もが「幸せになりたい!」はずなのに、それを教え直していくことが大変むずかしいからではないでしょうか。
神に愛されたい、神の守護を得たいということは「自分が幸せになりたい」「人と調和しながら自分らしく生きたい」ということでしょう。
ならば、まず、自分の心の不足、愚かさに気付くこと。
気付くために、知識を得ること。
そして、神の真心に照らし合わせて、自分自身の中に清く、素直な心を持つことです。
常日頃から、清らかな心を保つように努めていれば、自分の中にほんの少しの我欲や不足という汚れかがあっただけでも気付きやすく、素直に反省して、それを直せるからです。
例えば、何も書かれていない真っ白な紙の上に、黒い墨が一滴でも落ちれば、その黒墨の存在がすぐに分かるようなものです。
そして、心の汚れが少なければ少ないほど、相手に対する理解や愛情も深まります。
その人が置かれている状況や苦しみの原因にも気付くことが出来るため、心の中でその人を許せるようになるのです。
もちろん、この世は善だけでなく悪もある世界であり、カルマの清算のための修行の場でもあるわけですから、誰もが神のように常に100%美しい心のままでいることは出来ません。
ようは、カルマという課題に向き合って、心の汚れを出来るだけ取り除いて、新たなカルマを作らないことが大切なのです。
その意味において、人の心は、神の真心も、またそれとは正反対の穢れた心も映し出す「鏡」であるともいえます。
では心の鏡が汚れないようにするにはどうすればいいのか?
「カガミ」から「ガ」=我を取ると、「カミ」=神になります。
お釈迦様が悟られたように、いくら肉体をいじめるような難行苦行をしてもガをなくすことは出来ませんし、決して心が清らかになるわけではありません。
そのような肉体を酷使する無意味な荒行に対して、六根清浄というのは、自分の中の鏡(心・魂)をピカピカに磨くことによって清らかさや正しい判断力を得るための方法、即ち、神との繋がりをより確かなものにしてくれる”心の行”といえます。
だからこそ、心を清め、魂を磨いていくことは、宗教・宗派に関わりなく、その気さえあれば誰もが実践できる、神に愛される生き方につながる道だと私は思います。
見えない世界の道しるべ
難行苦行をしても「我」をなくすことは出来ないし、心が清らかになるわけではありません。心を清め、魂を磨いていくことは、宗教・宗派に関わりなく、誰もが実践できる「心の行」です。
六根清浄
天照大神は次のように言われました
人間は、本来、天の下にいる神の分霊(分け御霊)であり、誰もが貴い存在。
穏やかで平安でいることが神の望みであり、
人の心は神の真心を映し出す鏡。
だから、心を傷つけるようなことはしないでほしい。
それゆえ、
目で他人の色々な汚い面(醜い言動)と見たとしても、
心の中までは汚すことなく清らかさを保つ。
耳で他人が語る色々な汚い言葉(悪口や陰口)を嗅いたとしても、
心の中までは汚すことなく、清らかさを保つ。
鼻で周囲を色々な臭い(嫌な臭い)を嗅いだとしても、
心の中までは汚すことなく、清らかさを保つ。
自分の口で色々な汚い言葉(人を傷つけるような暴言)を発してしまったとしても、
心の中までは汚すことなく、清らかさを保つ。
自分の身体に色々な汚いものが触れたとしても
心の中までは汚すことなく、清らかさを保つ。
頭の中で色々な汚い(善くない)ことを思ったとしても、
心の中までは汚すことなく、清らかさを保つ。
この時、人の中に、神の分霊としての清らかさが現れる。
人は皆、心の中にダイヤの原石を持っている
正直になること、素直になることというのは、シンプルなようでなかなか出来ないものです。
何故かと言うと、余計なプライドや虚栄心(偽我・エゴ)が邪魔してしまうからです。でも、それらを捨て去った時、目の前には無限の幸福への道が開けます。
人間関係が円滑になり、周りの人達が様々な幸福を分け与えてくれるでしょう。
相談者と対峙していますと、ダイヤの原石(本質・良心・真我)を皆持っているのに、プライドや虚栄心がせっかくのダイヤを隠してしまっていることが分かります。
そして、そこに気付くことが出来ないために、いつまでも自分のダイヤを見つけられずに幸せを逃してしまっているのです。
自分が余計なプライドや虚栄心を持っていることを認めるのは、これまでの自分を否定することになるので、たしかに怖いことだと思います。
しかし、これまでの自分を変えなければ、未来を変えることは出来ないのです。
過去を振り返ってみて幸福でなかったとすれば、それはなぜなのかを考えることが必要です。必ず、自分の中に答えが見つかるはずです。
今の自分の世界を創りだしたのは、他でもない自分自身なのですから。
勇気を出して自分を変えてみれば、プライドや虚栄心を捨てることは大した事ではなかったということが分かるはずです。
一歩を踏み出してこれまでの自分と決別することで、新たな自分へと生まれ変わることが出来ます。自分以外に、自分のことを変えられる人はいないのです。
素直で正直な自分へ変わることで、うちからにじみ出る、一生鈍ることのない魅力を手に入れる事ができます。
勇気を出して、その一歩を踏み出しましょう。
日本人一人一人が今こそ心の復興
魂の復興を遂げなければならない時期に入ったと思います
そして、誰でも、欠点に気付いて直せば、どんなことも成長の種となり、共有すべきカルマの出会いの中で暮らす人達、または、接する人達、即ち、供なる修行中間である家族や友人、知人、職場の人達同士が共に心を磨き、和解し高めあえる関係を築く事ができます。
20代、30代で気づけなかった人が、60代、70代になって気付き、「もう少し早く気付けばこんなことにはならなかったのに・・・・・」と後悔することが沢山あります。
それだけでも、その方々の魂が向上できたということなのです。あなた自身が、本人が気付いて欠点を直さないことには、形を変えた次なる修行が待っています。
※これでもか!これでもか!というが如く、様々な形で苦しみが繰り返されるのです。
(※魂の気付きが起きて、悔い改めをして内省して改心した時に、カルマは消滅します。
苦しい・辛いことがあっても、自己の欠点を直したり、相手を許さない限りカルマは消滅いたしません。一概に、嫌なことが起きればカルマが消えるという訳ではないようです)
そのように人間が欠点に気付いてくれないのを、神やご先後は。見捨てることなく気長に見つめているのです。
かつて、神が私を部下として使うために、あれほどどこの道が嫌だと駄々をこねていた私をなだめ、励まし、守り、まるで幼児の手を握りしめるように、慈しみながら一歩一歩手を引いてここまで見守ってくれたように・・・・・。
これは、私だけでなく、あなたを見守っている神や仏も同じです。「気付いて欲しい、早く、早く・・・・・」と、
あなたの心を気長に見つめているのです。
視えない世界の道しるべ
気付きとは、あなた自身が欠点に気付き、直すことです。
すなわち。直すことにより、神に愛される生き方となるのです。
心が磨かれていなければ「行」は無意味
あなたの願いを叶え、幸せを手に入れるためには◯◯行をしなければいけない。
あなたの人生がうまくいかないのは、悪霊がついているから。
困っていたり、悩みを抱えている時に、いかにも能力者然とした人からそう言われれば、視えない世界の話だけに、つい信じてしまう人がいるのも仕方がないことかもしれません。
真の神は「本人の心のあり方が幸せを呼ぶ鍵」であるということに、一人一人が気付いて欲しいと願い、また、守護神・守護霊を通じて私達を幸せへの道へと導きたいのです。
ところが、宗教に限らず、視えない世界に興味のある方々の中には、「何かの行をしなければ自分の願いが叶えられない、幸せになれない」と思い込んでいる人も少なくないようです。
ですが、それは間違った知識です。神は、身体を痛めつける荒行と引き換えに幸せを与える、などということはありません。
幸・不幸はあなたの心次第。
何度も言うようですが、「心が磨かれてなければ、例えどんな行をしたとしてもカルマという心の垢、汚れが必ず出てきます。」
心を磨くというのは、心に染み付いた汚れや不足を自覚して、それを悔い改めることです。
心の汚れとは。性格上の欠点であったり、間違った考え方(偏見や思い込み)、強欲、見栄や恨み、つらみ、妬み、人を見下したりおとしめたりするような態度で、そこに悪いカルマの種があります。
その種を自ら刈り取らなければ、カルマを克服・解消することは出来ません。
トラブルが起きたり、つらいときこそ、カルマがもたらす心の汚れや不足に気付くチャンスです。
一見不幸に見えたり、ピンチに遭遇したときこそ、心の汚れを浄化して一つずつカルマを解消しながらスピリット(精神・魂)を向上させる事が出来るのです。
それが分かれば、荒行をすることの無意味さや、力を誇示するがために人が驚くようなことを能力として見せる行為などは、スピリット(精神・魂)の向上とは全く関係ないということも理解できると思います。
むしろ、多少霊能力があることで自分は特別だと勘違いする人も多く、そのためにかえって人を指導する立場であるが故に、カルマの汚れの上塗りをしてしまうことも珍しくありません。
人が真似できない荒行を重ねることをよしとする心のみで、神が望む心になれない場合、我欲(自己顕示欲や虚栄心、支配欲など)を助長し、カルマに気付くための自己観察(内観)や謙虚な姿勢を失って、無自覚のままカルマを増やしてしまう恐れがあるからです。
ただ人を驚かせるような程度の低い霊能力は、神仏ではなく、低級霊の働きに他なりません。
命をかけて行なう水行や滝行などの荒行も、ただ自分の身体を痛めつけるだけのことであり、
そのような「荒行は、完璧に心の修行として生涯持続するのは困難である」、
私は20歳の頃からそう言い続けてきました。
心ができない(磨かれない)まま悟りを求めようと、荒行を続けていても、必ず苦難の行が癒えた頃、心のリバウンドが起きます。
行をしなくても、心からの自分の欠点に気付き、直したならば、自分の得た知識の一つとして、例え欠点を繰り返したとしても、すぐ反省が出来ます。
その「すぐに反省が出来る心」がないと、夫婦間の不和や職場での孤立など、様々な人間関係の崩壊に繋がります。
つまり、「欠点に気づける」ということは、すぐ自分の心、我欲を嘗みることが出来、反省が早くなり、その結果、「人を許す心」、「寛大な心」ができる。
それこをが「神が求める真髄」であり、しっかりとした判断力や理解力を養いながら、素直な心でスピリット(精神・魂)を磨いていくことになるのです。
若い頃、難行苦行に明け暮れたゴータマシッダールタ王子(お釈迦様)は、数種の荒行の結果、死の直前まで行き、そこで
「いくら難行苦行を続けてもカルマを克服することは出来ない。いくら肉体をイジメても心が出来なければ人は何も得ることが出来ない」
と悟り、ブッダ(覚者)となったと言われています。
全く同感です。私は行の経験はありませんが、神は私に透視能力(ご利益)を授けるがために、理解力と判断力などの心を求めました。
私はその求めに対して己の心を徹底的に見つめ、まるで試験に合格するが如く、トップの神からOKサインが出て、初めてご利益を授かったのです。
神様の心と「見えない世界」の仕組み
間違った考え方や知識不足に気付いた人達
神に愛される生き方・・・・・それは、時代に応じた幅広い知識や常識を得ながら、正しい判断や理解力を深めることによって心の不足を知り、自分の至らなさを直し、人を許せる寛容さを身につけることです。
全ての人の幸せを願っている神の望みは、一人一人のスピリットが向上していくことであり、私達がこの世に修行に来ているのもそのためだからです。
その方々の子孫が「気付いて直す」事を知って、そのまた子孫に伝えていくことにより、すべて「霊のせい」という誤りを直すだけでも、今後の日本を変えることが出来ると思うと、その気付いてくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいになります。
「気付き」の大切さがマスコミを通じて人々に伝わり、本を読んで下さった方々から、次のような嬉しい反応もありました。
主人のせいではなく、妻の私が悪かったから夫婦のケンカが絶えなかった。
私達が不仲で、親の子育てが悪かったから、子供が精神のバランスを崩していた。
私自身の心に不足、問題があったがために、職場の人間関係を悪化させていた。
仕事が長続きしなかったのは、私のわがままやプライドが強すぎたから。
いつも恋愛がうまくいかなかったのは、相手ではなく、私の方に原因があった。
そのように、不幸やトラブルの原因が自分自身の間違った考え方にあったのだと気付かれた方々がたくさんいらっしゃいます。この気付きこそが、不幸を幸福に変える瞬間です。
それまでは、何かトラブルがあると、霊の仕業だとか、ご先祖が浮かばれていないだとか、あるいは相手のせいにしてしまう人がたくさん相談に訪れ、
こちらが透視をした上で「そうではありません」といっても納得しない人が多かったのですが、ここにきて、学歴のみではなく、常識を身につけ、幅広い知識を得ることの必要性が表面化されてきたのです。
つまり、自分を過大評価するのみで、知識、常識がなければ、自分の何がいたらないのか、どこが間違っているのか認識できず、自らのトラブルや不幸の原因に気付けなかったのです。
今では、「霊の障りですか?」という人はかなり減り、「私の心が悪かったからでしょうか?」「知識が足りなかったからでしょうか?」と初めから質問される方が多くなりました。
よほど精神バランスを崩している方でなければ、「自分の愚かさが家族を不幸に下のではないか」と自分の心の不足、即ち、トラブルや不幸をもたらしている本当の原因に気づきだしているのです。
子育てにしても、親御さんが「自分の育て方に落ち度があった。それで今、娘や息子が苦しんでいる。私自身が反省して心を改めなければ、子供だけでなく、窓にまで問題が及ぶ。心を入れ替えてなんとかしないと・・」と。
私の著書を読んで下さった多くの方々が何割かでもそのように理解し、しっかりと受け止めてくれたならば、その方のご家族、縁者、子孫の方々も幸せになれる・・・・そうなれば本当にありがたいことです。
神との約束である私の任務も果たせることになり、嬉しいことです。
愛する人と友情を育む
皆さんの周りには、真の友達と呼べる人はいるんでしょうか?夫や子供、親兄弟を愛せる人は多いですが、友達をきちんと愛せる人はどれくらいいるでしょうか。
逆に言うなら、友達を愛することが出来るようになるということは、即ち他人を愛せるということであり、究極の形である、「無償の愛」に一歩近づいたことになるのではないでしょうか。
人間は、本物の愛の送料が多いほど幸福感を持つことが出来ます。もちろん家族と大きく愛を育むことでも送料は増えますが、友達を愛せる人の殆どはすでに家族をきちんと愛する事ができているので、やはり愛する友が増えるほど人生が幸せになっていくと言えるでしょう。
「そうはいってもなかなか友達を愛するイメージが持てない・・・」と言う方もいると思います。
実は真の友達になる人というのは、前世で侃い接点を持ち、魂のレベルで繋がりがあります。
時には前世で親兄弟であることすらあります。初対面から妙に気が合ったり、思わぬ共通の趣味があったりするのは、偶然ではなく前世での繋がりを表すサインであり、それが沢山有るほど、魂レベルの結びつきが深いことになります。
そして、魂の結びつきの強い相手というのは、一緒にいる程自分の人生を補助し、いいカルマを積ませてくれます。
語り合う楽しみを教えてくれ、人生のアドバイスもしてくれます。寂しい時、悲しい時、嬉しい時、自分のことのように心から共感してくれる友達は、幸せな心にしてくれるかけがえのない存在です。
本物の愛と同じように、本物の友情であれば、自分の感情だけ押し付ける関係性であったり、打算などは介在する予知がありません。
逆に、すぐ壊れるようなものは、互いの損得が絡んだまがい物の友情でしかありません。正しい霊の結びつきは、俗世間の影響を受けるほど軽薄なものではないのです。
なお、先ほど愛があってもマンネリやケンカが起こることについて述べましたが、すでに男女の愛が成立しているところに友情の発送を持ち込むと、関係が良好になる場合があります。
友情もまた愛の形なのですから、理解し難いい発想ではないかと思います。
友達というのは、共通の趣味や価値観の上に築かれる関係性であるわけですが、夫婦間においても、共通の趣味を持ち、同じ価値観を共有できる他人を交え、友達のように付き合える場所があると、心の安定を保つことが出来、ストレスを趣味といういい形で発散できます。
夫婦であるとともに、仲の良い友達夫婦でいることが出来れば、結婚生活はずっと安定したものになります。
人の世は善・悪があってこその修行
どんな立派に見える人であっても、この世に生まれてきたということは、どこかに心の不足(欠点)があるからこそ。
無知や強欲、人の道に外れた悪行と呼ばれる様々な行いも、そこから生じています。
しかし、それでも、神は、例えどのような人手あっても気付いて欲しい、幸せになってほしい、幸せになってほしいと心の成長を願い、見守っています。
「人の世は、善・悪があってこその修行だから、悟りを開いた人ばかりでは修行にはならない」からです。
この世から悪がなくならないのは、人は悪を見て「善の大切さを知る」からです。
そのために、神の世界から落ちた魔のもの、低級霊が、人間の心の悪に潜んで動くのです。この世に天国と地獄の様相が現れているのはそのためです。
しかし、だからといって、上手く行かないことを低級霊のせいにしたり、悪が反乱していいというわけではありません。
霊障とカルマとは違います。
「魔を呼び寄せているのは、あくまでも自分の汚れた心。」
カルマは持って生まれたスピリットの業、したがって。心の悪を退け、少しでも善の行いを積み重ねていくことが大事で、それが死後、スピリットの霊界ロード(幽界の階層)の行く末を決めるのです。
私の透視能力について未だに間違って捉えている方もいるので、ここで少し説明をさせて頂きます。
人によって「当たる」「当たらない」ということもあります。それは、カルマという壁がある場合、その人自身がカルマを乗り越えなければいけない問題の相談もあるということです。
そのような時は、その壁を乗り越えるためには、その人自身が自分のカルマの欠点に気付いて直さなければ、神も救うことが出来ないのです。
なぜなら、簡単に救っていては、その人の修行にはならないからです。修行とは、欠点を改めることなので、カルマの欠点を直さないことには、この世に生まれた目的を達する事ができません。
この世に生まれた誰もが人生において、通らなければいけない「道」なのです。
試練は心の研磨剤
神からすると、どんな人間にもカルマがある以上、本人がそのカルマに気付いて改めるまで諦めることなく手を差し伸べ続ける。そのようにすべての人間が我が子のように見守り、成長を望んでいます。
分かりやすく言えば、神から見たら、人間は皆、大なり小なり欠点を持ち、この世に誕生しているということです。
そこで、共に気付きあい、学び合い、和解して、高め合うために、カルマで縁ある人と出会います。
時には、腹の立つ相手であったり、時には助け合う人手あったりしつつ・・・・
だから、どのような人であっても、相手を見下したり、苦しめたり、悪口を言っては貶めたりしてはいけないのです。
神の願いは、ただひたすらに我が子の成長を願う親心と同じ。「本来、親には子供に対してどんなことを望んでいるのだろうか?」、あるいは、「親であるならば、子供に対してそんなことをするのだろうか?」と考えてみれば、神の親心を指し測る事ができます。
神は、私達がどんな艱難辛苦に遭おうとも、それによって心を磨いて人間性を高める事が出来るように、その試練を心の研磨剤として成長して欲しい、そう願っているのです。
ですから、不安にかられるのではなく、何かあった時こそ原点を見つめ、その試練を通じて心を磨き、共に支えあい、スピリットの向上を目指して前向きに生きていくことが神の望みであり、神に愛される生き方だと思います。
見えない世界の道しるべ
私達は、たとえどんな艱難辛苦に遭おうとも、その試練を通じて心を磨き、共に支えあいスピリットの向上を目指して前向きに生きていくことが神の望みであり、それこそが神に愛される生き方なのです。
「全ては神=我神なり」という真理♪
意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=
全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=
宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神
全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=
大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり
調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる
愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間
愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に
調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁=闇人間=罪人=未完成
調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感
調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識
イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。
真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。
愛は天と地の架け橋 この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪
神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの
神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
第六密度以上の高次元存在(ブルーエイヴィアンズ)が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話
★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。
今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。
現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。
そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。
しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、
そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになる”ということです。カルマがなくなるんです。
これは、エネルギー的なものです。
「カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
「許してエネルギーを解放するもの」なんです。
カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
………………………………………………………
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪
自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
==魂の課題を克服=カルマが消滅♪
許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪
ケイシーリーディングから…♪
全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
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