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すべてをいたわり 思いやり「愛」生きている時が明想♪「癒やしの真理」「苦の正体」 「自我の克服」「病の本質」♪「一命一体、自他一体、全一体」であることを悟ることが必要♪無形・無色の本質、原因の原因が神♪見えないものこそが命をまとった本質♪原因が全ての本質であり、全ての本質は命♪「神」は「宇宙の愛の法則(愛と調和)」知花敏彦先生♪上江洲義秀先生の究極の総まとめ記事♪

上江洲義秀先生・神様からの処方箋 から引用させて頂きました♪

 今回の記事と、下のリンク先の【上江洲義秀先生の「明想」総まとめ記事】の2つの記事で、上江洲義秀先生の総まとめ記事が完成となります。ぜひ一度ご観覧下さいませ♪

上江洲義秀先生の「明想」総まとめ記事はこちら♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-3929.html



上江洲義秀先生のご光話

すべてをいたわり
思いやり「愛」生きている時が明想

 私が小さい時「明想」という言葉を知らされた時、特別な人間が、特別な方法で学んでいる事を「明想」だと、思っておりました。

 しかし明想とは、特別な方法でもない。特別なことをしていることでもない。
日々の生活の中で、全てをいたわり、思いやり、「愛」生きている時が、明想という事を知ってもらいたい。

 山や洞窟にこもって、目を閉じて、座しているだけが明想ではない。日々の生活の中で、我々は、明想でなければなりません。

 目を閉じている時だけ「愛」。目を開ければ、即「偽我」に戻っていくならば、何の明想でもありません。

 24時間、四六時中、全てを思いやり、全てをいたわり、「愛」生きている時、「明想」といいます。

 で、我々が時間のある限り、目を閉じて座る事は、
我々の本質は、全てを許し、愛すること(慈悲と愛)が我々の実態なんだ」と、それを実感するためです。

 だから皆さんも、時間が許される限りは、この肉体・心・感情・五感、あるいは理性というものを閉めて、閉める事を通じて、全ての本質は本質なり、全ての本質は命なり。

 そこをしっかり見つめてみて下さい。我すでに愛なり。我すでに命なり。我すでに真理なり。しっかりその内観を見つめてみて下さい。
……………………………………………………………………
ケイシーリーディングから「愛」について……♪
 愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、
自分の中にも他人の中にもある愛の光(真我・キリスト・愛・本質)を見つめる事にあります。
……………………………………………………………………


上江洲義秀先生のご光話
「癒やしの真理 苦の正体」
「自我の克服」「病の本質」からの抜粋ですが……♪

「苦」の原因は「執着」と「分離感」、そして「恐れ」です。執着は欲から生まれ、分離感は無知から生じます。

 分離感とは恐れ、善悪、好悪など自他の区別を強く意識する事です。
苦は、創造者(神)と一体化し、「我神なり」と悟り「全一体」を知る事で消え去ります。宇宙を貫く不変の法則の真理を知り、執着や分離感をなくす事で消え去るのです。

 苦はすでに自らの中に実在(真我・大愛・宇宙生命)が顕現していると悟った時、そして苦が悟りに至るための手段であり過程であると悟った時に止むのです。

 私達の生きる目的はただ一つ。真我が真我としてより完成するために偽我を作り、真我そのものをより輝かせるためです。

 魂と肉体の二者一体(神我顕現)が完成した時、私達は長い旅路(輪廻転生)を終え、根源と合一(神との合一)してゆくのです。

 病の原因となるものは「生活習慣」、「感情」、「前世のトラウマ」と大きく3つに分けられますが、それらを冷静に観察、分析すると根本的には「思いぐせ」が御本人のエネルギーの流れを悪くし、肉体に影響を与えているのが分かります。

 自我は思いが集約されたもので、個は個でありながら全体と繋がっていることを思い起こさねばなりません。

「一命一体、自他一体、全一体」であることを悟ることが必要なのです。
 対立は調和を乱し、愛を基とする宇宙の流れに反するものであること、そしてエネルギーの流れを良くするためには、宇宙との調和が必要である事を知って頂きたいと思います。

 あなたは、誰かを愛することなく人を責め続けていなかったでしょうか。感謝することも与えることもなく、ただ何かを切望していなかったでしょうか。

 肉体は心の影です。現象は実相の影です。これらは一体です。自我(分離意識)こそが私達が克服しなければならないもので、神も人も、そして私達の隣人も一体(全てが神・全てが私・全ては一つ)です。

 神は人間の中に命を吹き込み、(現れとしての神・愛の表現体としての神である)人間に、神の似姿(慈悲と愛=神の愛そのものの顕現=神我顕現)たらんことを望みました。

 神は私達に神との一体感(全一体感・愛の顕現)を求め、法則(神=愛=宇宙法則)にそわなければ現象としてあらわし、(意識の進化や)悟りを促すのです。
 悲しみによって喜びを、病によって健康を知るように促しているのです。



ケイシーリーディングから「全体(神)と一つ」であるお話ですが……
 …… …… …… …… …… …… …… …… ……
問「心と物質と霊という意識の中にあって、実体の活動(輪廻転生)の目的とは何でしょうか。」

答「それは、その実体(意識)が自分自身であり、なお全体の一部(父なる神と常に一体・宇宙は一つの生命体)である事を自ら知るようになる為である。

 全体そのものではなく、全体(神)と一つであり、そこから、自分自身の個別性を保ち、自分が自分である事を知って、しかも自分を生まれさせた、

意識を与えてくれた第一原因(神・無限者・大愛)の目的と一つであることをも知るという事である。これが目的である。これが(人間が)存在している事の原因である。」

問「物質的表現に生まれる魂の目的は何でしょうか。」

答「その初め、魂が個人的に現れ出る働きにおいて、それは創造的力または神の伴侶(神との合一・真我顕現・覚者)となる目的を帯びていた。」
 …… …… …… …… …… …… …… …… ……

とらわれない「神」  上江洲義秀先生のご光話

問 神の本質とは何でしょうか。

上江洲義秀先生のお答え

 無形・無色の本質、原因の原因が神です。
 見えないものこそが命をまとった本質です。

 私達の肉体に愛を与えているのが「命」であり、命こそが力、全知全能の神です。神は私達の中にあるのです。

 神は五元要素で私達を生かしています。「地」がなければ家も建たず、
「水」がなければ育ちもしません。「火」はエネルギーを与え、
「風」は波動を整え、「空」は呼吸につながります。

 これは、書物からではなく、私が明想を通して神を味わっているからこそ自身を持って言えるのです。

 原因が全ての本質であり、全ての本質は命です
 迷いとは、原因を見ることなく、結果という存在に気を取られ、それに振り回されて右往左往する姿のことです。

 原因と結果、見えるものと見えないものは一体です。
 相手を強く非難していたものは自分自身の影なのです。


覚者・知花敏彦先生による
「神」は「宇宙の愛の法則(愛と調和)」というお話

 陰陽のバランスを神というのですから、今までの宗教家の説く神はどこにも存在していないといえます。

「われわれの神」の宗教家は唱えますが、元来「われわれの神」はありません。全体の神があるだけです。(神一元・全ては神ご自身・神の他には何も存在しない)

陰陽の法則は全てに存在しているのですから、神は至る所に存在しています。
(神は宇宙に遍満する大霊・大生命・宇宙生命)

 どんな微細な一粒子も陰陽の法則(愛と調和)に基いて存在しています。これを「宇宙法則」といいます。神は宇宙の愛の法則でもあります。
 宇宙には愛の法則が絶対に実在しています。陰と陽の愛の法則(愛と調和)によって、全ての万世万物が生かされていることをよく理解して頂きたいと思います。

 陰と陽の法則を宿していない人間がいるのでしょうか?偶然この世に出てきた人間がおりましょうか。エネルギーという、プラスとマイナスの質量で、陰と陽で私達の肉体形体は存在しています。

 そのバランスで存在しています。バランスが崩れると病気になります。バランスが破壊されれば死に至ります。

 ですから、病気は不調の結果となるのです。何の不調和の結果と言いますと、陰と陽の不調和です。陰陽の法則を犯さないことです。

 罪なき者は中性(愛と調和)でなければなりません

みなさんがたの肉体の一つと考えてみると、エネルギーと質量との調和で肉体は調和しています生命エネルギーと質量のバランスを崩さなければ、どなたでも健康でいる事が出来ます。

ケイシーリーディングから……♪

則とは何か。愛である。愛とは何か。神である。
神とは何か。(宇宙)法則と愛である。これが真理そのものの周期である。あなた方がどこにいようと、どの国にいようと、それは常に同じである」


祈り      上江洲義秀先生のご光話

 祈りは命の息吹であり、私達が行使しうる最も強い力といえます。私達が祈る時、不安が心を占めていたり、関心が外に向いている時には祈りは通じにくいものです。

 心を内奥に向け、静謐(せいひつ)なときの中に於いてのみ、正しいものを伝える事が出来るのです。
 内なる声、内なる目に導かれて心から思いを発し、求めれば祈りは通じます。祈りと答えは一つ。

我神なり」と、神との一体感のもと「神の思いが我が中で行われますように」と祈り続ければ、その祈りが深いほど実現してゆくのです。

 神の勝利によって祈りが実現してゆく様をありありと描ききれば、神の意に叶うその祈りは成就(じょうじゅ)します。

「祈り」は「意乗り」に通じ、生命は意識によって働き、意識によって内なるものが外に向かい、形になるのです。
 
 祈りの際に両の手を合わせて合掌するのは、霊であって生かしている右手と物質を象徴している生かされている左手を合一させる姿であり、一命一体をもってその思いを実現させようとする姿そのものなのです。

 祈りとは神我一体の境地にならんとする意識の表現です。意識が極度に集中された時、私達の創造を遥かに超える力がはたらくのです。

 人はそれを「奇跡」と呼びます。人が病から癒やされてゆくのもある意味で自らの、そして親しい者たちの祈りの力といえるかもしれません。

 私達は今生、または過去生で付けた魂の汚れや傷を正していかなければなりません。そのためには日々正しい身口意を積み重ねていくしかないのです。

 現象としての病、事故などは己自身に原因がある場合の他、時には伴侶や親しい人の代わりとなって表出する事があります。

 それらを避け、または癒やすためには自省と共に真摯な祈りを続けるしかありません。
 
 しかし、祈りが願望に、そして願望が欲望になる事は避けなければなりません。人間の深層意識は集合意識となって現象化し、大きな災いを招くことは太古からの歴史の教訓として私達の中に入っているはずです。

 過度な欲は己をそして周囲をも傷つけるものである事を認識して頂きたいと思います。

悟り

 真理を悟ることによって人は魂のみならず、魂と連動した肉体までもが高い次元の波動を受け、神との一体感をより覚えるようになります。

 真理は人を恐れから解き放ち自由にするものです。それまで苦と思われたものが苦でなくなり、私達を成長させるための手段であり、
 一つの過程であった事が心から理解できた時、この世にいながらにして全く別の法則が働き始めるのです。

 その時、空を飛ぶ一羽の鳥も、道端の一本の草も、あなたにとってそれまでとは全く異なり、荘厳な光りに包まれた存在と感じられるようになるのです。

 悟りの程度が深まるに従って、それぞれの内に神が顕現し、大いなる力が働き始めるのです。そしてより悟りが進んでゆくと、外なる肉体の感覚は次第に薄れ、魂と融合してついには一切なくなった時、そこに自分が生命として神と共に光を放ち存在している事を悟るのです。

 自らの悟りの段階を高め、その境地としてそこに至った過程を縁ある人に伝え、悟りを促す事が真に人を助ける事になります。悟りの境地が高い者ほど謙虚であるのは、※悟りに限りがない事を知っているからです。

※ドクターピープルズという高次の存在によりますと、地球は分離は幻想であり、全ては一つ・全ては神という真理を学ぶための星だそうです。
 それを悟る事によって地球での輪廻転生は卒業という形になるかと思われます。ちなみに惑星によって魂が学ぶ目的は変わるみたいです。

 この世で学ぶことは限りなく多いのです。荒い波動のこの世で成長を遂げていく事こそ生きる目的と言えます。この世とは己と周囲との調和を学ぶ場なのです。

 魂が肉体を作り、試行錯誤を繰り返しながら一体となる事を私達は目指した全ては一つ・宇宙は一つの生命体・全ては神の悟り)のです。
一命一体、自他一体という調和を成し遂げよ」と神は諭しているのです。

癒しの実現

 心の癒しを実現するためには思いを発する母体である心の転換が必要です。心の転換のためには病の本質を見極め、真理を知ることです。

 病の原因の多くは心の不調和から生じるものです。御本人の自覚がない場合でも、原因となっている場合が多いのです。

「心の表現=思い」を変えるには真理を知り、それを心の底から理解する事です。(※神=宇宙法則”真理”の理解=悟り)

 歪みとは調和の乱れでもあり、弦を調律するように真理に沿って正してゆかねばなりません。真理とは宇宙の法則です。

 その全体像は決して言葉に表せるものではありませんが、
見えるもの、見えないものは表裏一体」(色即是空・全ては神の現れ)
原因があり結果がある」(原因者である神が必ず結果の全てに宿り給う)

「生死に区別はなく、命は永遠不滅で苦の原因である死の恐れは必要のないもの」
一命一体、自他一体、全一体」(全ては一つ・全ては自分・全ては神)
といった真理の集積こそ宇宙の法則なのです。

 神の本質である真理(神我)を私達が体現(神我権限)し、(明想で)神との一体感を味わうことで心の転換が私達の中に起こってくるもので、そこに癒しの力が働き始めるのです。

 神の似姿である私達はより神に近づいてゆかなければなりません。真理を心から悟ると、偽物が消え、全く異なるメカニズムが発動し、
 治すのは他ならぬ自分自身の中にある神である事が分かり、自然治癒力がより働いてくるようになってきます。

 今を生き抜き、生き尽くすことで過去も未来も変わるのです。この世に出る時に私達が過去生の記憶を消されるのは今を全力で生きるためです。

 今を全力で生きることで未来は変わり、傷つき、悲しみに包まれたこの世における過去の数々の出来事さえも、より完全に近づくための一つの過程として光に満ちたものに変わるのです。

 真理に触れ、心から悟ることで人は変性意識に目覚めます。心の変容は脳から肉体に伝わり、細胞一つひとつに変化を促(うなが)します。

 真理を悟ることで一気に意識が変化することがありますが、それがより進むと肉体までもが現界の影響から離れ、別の法則が働き始めるのです。

 様々な超能力が日常的に発揮されるまで変性意識が高まる事が、時として見られるようにもなるのです。
洗心でアンタカラーナを伸ばすのと併用するといいかもしれません)

 変性意識(神意識・光のシャワーで魂の油注ぎ)がより浸透する事で肉体と心との調和が生まれ、自然治癒力がより進むようになり、思いやりや優しさのエネルギーが自分への癒しにもつながるのです。

 肉体はエネルギーで出来ており、そこには他ならぬ命(神我キリスト・大愛・御霊神霊)が躍動しています。生命は愛。愛こそ神の姿であり、根源には一切の分離や対立は存在しません。

愛と執着の違い    

問 人生の中では殆どの人が直面し、悩むのが「愛と執着」というテーマと思いますが、この世で生きている限り逃れられないものなのでしょうか。

答 
「愛と執着」、これは実に多くの人々が悩み、日々葛藤しているものです。「これだけの事をしてあげたのに」と、愛を与えたつもりが相手から見返りがないといって嘆く人は多いものです。見返りを求めるのは偽我そのものです。

「愛と執着」の違いについては、体験を通してでなければ分からない事があるのも事実です。苦しみ悩んだ末に徐々に理解していくというのが普通です。

 真実の愛は、好き嫌いというモノサシを取りません。感情的なものでもありません。すべての創造されたものを愛し生かす事です。

 そして真実の愛(神我)は見返りを望みません。人も物も必要な時に移っただけで、手元にある時には大切にし、そして手放す姿勢も時には求められるのです。

 この世では、差別し、敵対する事と同時に、執着する事が悟りに至れない一因になっています。執着に基(もと)づく愛は相手も自分も苦しむ事になるものです。

 根源の世界には悩み苦しみはなく、無限の至福に包まれて止む事がありません。そうした境地を皆さんにも味わって頂きたいと思います。

 ヨガナンダの講話の中には浮気をした奥さんの話が出てきます。浮気をした相手の男は去っていき彼女は金も友人も無くしてしまいました。

 その時、ご主人は奥さんに向かって「体験は終わりましたか?体験が終わったら帰りますか?浮気相手は魂を欲した。
 私は魂(本質・根源・内在の神・私である貴方)を愛します」と再び戻ってくる事を許したのでした。

 講義の中でご主人のような境地に成る事は難しいと思われるかもしれませんが、(真の自己・神我の)本質は「許し」「愛す」こと(慈悲と愛です。

 浮気という行為は決して褒められるものではありませんが、相手の魂の傷の原因を本質(根源・神我)の方から見ることで「許し」「愛す」事が出来るのです。

 本質とは神の命、神の光そのものです。そうした見方が出来た時に、あなたの波動が変わり、ステージが一つ上がる事になるのです。日々途切れる事無くそうした境地にいられるよう努力して下さい。


蒔いた種を刈り取る     カルマの記事♪

問 近年、様々な場面で「二分化」が進んでいるように思いますが、先生のご意見をお聞かせ下さい。

答 自分が発したものがそのままどころか、何百倍にもなって自分に帰ってくる事があるのを知るには、自ら体験するのが一番良いのです。

 良いことも悪いことも作用は反作用を生み、しかも増幅されて返って来るのです。
 沖縄で私は、あるエネルギーが地・水・火・風・空に触れて激しい勢いで跳ね返されてくるのを明想の中で、はっきりとしたビジョンとして見せられた事があります。

 明想の中でこそ根源の実相を見る事が出来るのです。何者でもなく、自らの力で跳ね返されてゆくその様子は強く印象に残っています。

「身から出た錆(さび)」の言葉通り、鉄が酸化して錆が生じるように、自分にも何らかの原因があって障害が起きるのです。

 自分が起こした事はある時には間接的に返ってきますが、いずれにしても蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません

 種が多く喜ばしい実となるのか、苦いだけのものになるのか……、時には自らの生命(いのち)で償い、刈り取られる事さえあるのです。

 私が以前から光話の中で繰り返しお伝えしてきた通り、ここ数年間で人によって大きな差が付きます。良くなる方、落ちていく方の差が激しくなります。
 そして、小さな非難が大きな事故につながる事さえ出てきます。「山は口を開けて待っている」のです。

 本質から離れたものはあなたに一時の快楽を与えはしますが、それは永続きしません。本質に近いものほど、その働きはゆっくりではありますが続いてゆくものです。

 人は予想もしなかった事に出会うと「何故?」と驚いてしまい、時には考え込んでしまうものですが、原因と結果の世界からみれば、全ては(宇宙)法則の現れです。

 僥倖(ぎょうこう)の前兆が、次々と襲い来る災難であったりする事もあり、大きく飛躍する前には膝を曲げ、身をかがめなければならないのです。

 すべての責任は自分自身にあると心に定め、我神なりとその命を輝かし、全てを愛し、光となって力強く一日一日を送って下さい。

 
自分という「全一体」     

問 先生は光話の中で「全一体」という言葉をよく使われますが、この先生のお話の中の貴重なお言葉、「全一体」について教えて下さい。

 富んでいる者も貧しい者も、年老いた者も若き者も、この世に存在するすべてに意味があります。そうした見方が出来ないという事は自らを傷つける事につながります。

 全一体---殺した人も殺された人も、それを見ている自分自身も、すべて自分なのです。

 真我は様々な偽我を作り、それを克服し、磨いてゆくことでより真我としての輝きを増すのです。偽我とは個性、思い込み、感情、欲望などの総体を表現します。

「一命一体」「自他一体」そして「全一体」なのです。真我、偽我も二者一体で表現するのです。

 特に私達の眼の前で罪の行いがなされた時、それを看過してしまう事は悪いカルマを作る事になると神は言います。
 罪を見て見ぬふりをする事は「ゼロ」ではなく罪を実際に犯す事に劣らぬほど良くない事であると言っているのです。

 罪を正す時に「神よ、この者たちに光を、心にやすらぎを」と祈る、その対象は殺した人、殺された人、そして自分自身なのです。
 自礼拝もが必要なのです。自らを愛せない者はすべてをも愛せないのです。

 あなたが目の前の者に対して見下げた言葉を吐けば背負いきれない程の罪を追う事になります。これは心して下さい。差別する心が生じ、それを言葉に出すという行為には特に注意して下さい。

 内在する神により一点の狂いもなく裁きが行われます。この事を知って下さい。裁きという表現よりも、「結果を招く」「作用を及ぼす」という方が相応(ふさわ)しいかもしれません。

 誰かが罰するのではなく、この宇宙の意志が自然に、言った本人にある状況をもたらす事になるのです。

 相手によって自らの態度を変える人は、相手によってその扱いを変えられます。あなたが行った事、言葉に出した事、思ったことは多少の時間の開きことあれ、あなたに返ってゆくのです。

 その仕組を悟り、身をもって知ったならば、相手も自分であるとして接し、絶えず謙虚でいる事を心がけて下さい。やがて周りが常に穏やかにあなたに接してくるようになるのが分かり、心が平安に包まれるでしょう。

「悟り」は「差取り」に通じます。全一体を知り、執着する事なく神として生きることです。
 それを日々続けていく事により、あなたの行く先々で黄金に輝く幸せの扉が開かれていく事でしょう。



地球一の大覚者・超能力者 上江洲義秀先生について

 上江洲義秀先生ってどんな人?って思われる方もいらっしゃるでしょうから、簡単にですがご紹介させて頂きます。
 上江洲先生とは、お釈迦様やイエス様と同じ境地、完全なる解脱の境地・第五イニシエーションまで到達し、完全覚醒された悟り人(覚者)の方です。

 瞬間移動・どんな病気でも治せる最高のヒーリング能力・天候操作・動植物との会話・時空間移動・オーバーシャドウ(真の神憑り)・物品引き寄せ・等々、思い浮かぶだけ記載してみましたが、もっと色々出来ると思います。

 オーバーシャドウでも相手にするオーバーシャドウの体験談は特に面白かったなぁ……犬の意識に乗り移って操ったお話とか、人間に乗り移って操ったりとか、常識を超えた驚愕エピソードでした。NARUTOの、山中いのというキャラの心転身の術というのに似てる感じでしょうか。

 ドラゴンボールと、NARUTOと、ドラえもんを足した様な事をこのリアルな世界で出来ちゃう、とんでもなく凄い方だという認識で大丈夫かと……。
 
 簡単にですが、きっと本物の凄い方なんだろうなぁ…と思って頂ければ幸いです。この機会をきっかけにして、上江洲義秀先生の教えに触れて頂ければ私にとって最高の喜びであり・至福・極上の幸せであります♪

この瞬間の
私の最新の真理の理解のお話

 私のこの瞬間の、最新の理解をまとめてみました。ある程度、理解が進んだ時に、こうやってまとめてみると、真理の理解が整理できて、より高い高い段階の知見に進むことが出来るのではないでしょうか。皆様の意識の進化にお役に立てれば光栄の極みで御座います。

「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり



 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我
 

全一体感を観じるマントラ(真言)に出会えたお話

 真理と悟りについての思考中に、一番使い勝手がいいマントラって何かな~って考えていたある時…、ふと何となく思い浮かんだマントラが、非常に効能があると感じましたのでご紹介させて頂きます。

 心の中で唱えると、全一体感を観じる…といいますか、スーッと心が全一体感…神の御心の中に入っていける……意識が高まっていく…高い波動に変容していく、といったかなり高い効果を観じることが出来ました。
 
 今まで色々なマントラを心の中で唱えてきましたが、その中で一番効能がある気がしたのです。お恥ずかしい話ですが、今まで、マントラによる意識の変化というのを、そんなに如実に観じる事はあまりありませんでした。

 しいて言えば、一瞬でも人を責めるような想いが出そうになった時に…、「サタン(偽我)よ退(しりぞ)け~」という一括するマントラはかなり効果がありました。
 このマントラはお釈迦様やイエス様も唱えられていたようで、この真言でサタン(偽我)を追い出していたそうです。(by知花先生☆上江洲先生)

 波動に敏感な私でも、「我神なり」だけでは、あまり変化を如実に感じる事はなかったのですが、今回、気づかせて頂いたマントラでは心の中で呪文のように唱えた途端(笑)、意識が神意識に近づく意識の変化を観じる事が出来ました。

 前置きが長くなってしまいましたが^^;、ついに!!……ドキドキ………そのマントラをご紹介申し上げますと、下に記したマントラとなります。

●我神なり、すべては神なり
●我キリストなり、全てはキリストなり
●我本質なり、すべては本質なり
●我生命(いのち)なり、全ては生命(いのち)なり
●我愛なり、すべては愛なり
●我真理なり、全ては真理なり
●我光なり、すべては光なり
●我無限なり、すべては無限なり
●我大霊なり、すべては大霊なり
●我宇宙エネルギーなり、全ては宇宙エネルギーなり

 
 知花敏彦先生や上江洲義秀先生♪をご存知の方々ならお馴染みなマントラ、「我神なり」等の後ろに「全ては~~なり」を続けて唱えてみるというマントラであります。

 「神の自覚」と「全てに神を観る」という内観の最重要な2つの視点を、しっかり言葉の中に内包しているという、中々、一粒で二度美味しい、いいとこ取りで、シンプルで使い勝手がいいマントラの様に感じました。

 そのマントラを唱えた後では、自然に全てに神を観じれるフィーリングを感じやすくなっている自分に気づいた事がありました。ここまで短期間での意識の変化を感じたのは初めてでしたので、これは素晴らしいな…と思った次第なのです。

 「全てが神」に見えた時…1つ目という悟りの目が開眼すると…、覚者☆知花敏彦先生は仰っておられますが、その1つ目が悟りだと定義しますならば、このマントラを唱える事自体が、ある意味「悟りへの内観」をしているとも言えるでありましょう。

 このマントラに自分の想いを乗せてしまう……、マントラと自分の思いを一体化させてしまうイメージで、自分の心がこのマントラそのもの……その想いが自分の思いなんだぁ……という感覚で唱えると効果がより高まるかもしれませんよ♪ちなみに私は、そんな感覚で唱えております。

 私はこのマントラに抜群の霊的パワーを感じましたので、ぜひお見知りおきを頂ければ幸いであります。効果を感じる一種の神秘体験が出来ちゃうかもしれませんし……なんてったってお金もかかりませんからね(笑)。


2018年6月24日の記事♪
地球最高の大覚者 上江洲義秀先生について

 今まで、上江洲義秀先生の事は存じ上げていたのですが、知花敏彦先生で宇宙神理をかなり深く学んでおりましたので、もうそれで結構満足している部分が御座いまして、お恥ずかしい話ですが、あまり深く上江洲義秀先生の教えについて追求する時間を取っておりませんでした。

 ここ最近、ふと目に入った上江洲義秀先生のご著書に目を通した所、買った頃に読んだ時とは比べ物にならない位、あまりにも素晴らしい内容である事に気づかせて頂けたのです。

 なぜ、こんな素晴らしい内容だと今まで気付けなかったのか、実に不思議なのですが(笑)、きっとそれはそれで意味があることなのでしょう。

 そういった訳で御座いまして、こんな知花先生の教えを更に細分化して、分かりやすく説明して下さっている究極の真理を、世界人類の魂の覚醒のために、お届けしたいという燃えたぎる思いとなった訳であります♪

 それにしても、上江洲義秀先生は高尚な詩人の様な、高い文芸的教育を受けた文豪のような素敵な文体をされておりますね。本当に感銘と感嘆を抱きましたし、華麗な表現に多大なる衝撃を受けました。

 ですが実の所、上江洲義秀先生はこの世の教育は殆どと言っていいほどお受けになられておらないそうです。それなのにこんな優雅で甘美で芸術的で麗しい表現を自由自在に駆使されている事は、真実に根源の世界からの無限の叡智からのものなのだとしか……、実に摩訶不思議であり、究極の悟りに到達された偉大なるお方であることを証明されているように存じます。

 上江洲義秀先生のご著書は、私が今まで見た書籍の中で、間違いなくダントツにナンバーワンの高次元な超濃厚な悟りの書だと断言させて頂きます。

 知花先生と同じ内容では意味がない訳ですし、どういった形で宇宙神理を説かれているのかと…、最近、二回目に拝見した時に、自分でも驚くほどに、本当に不思議な程に、上江洲義秀先生の教えの深さと知花先生との微妙な違いが理解出来たのでした。

 現在では天上界の覚者方、聖者方は全力で、上江洲義秀先生を支援されている事でありましょう。ぜひ皆様も、地球最高の大覚者であられる上江洲義秀先生のご著書を拝見して頂ければ幸いでございます。

 上江洲義秀先生のご著書さえあれば、悟りの全ての全ての謎が解けると言っても過言ではないでありましょう。
  
 時代もあるのでしょうけれども、知花先生が大まかにお伝えしていた部分を、かなり詳細にご説明して下さっている部分も多々見受けられました。

 そういった意味でも、知花敏彦師の教えに既に精通されているお方でも、新しい悟りの発見を華麗に見出す事が出来るのではないでしょうか。

 究極の悟りへ答えが、地球最高の大覚者であられる ”上江洲義秀先生” の偉大なる業績によって、地球人類全てに明かされる素晴らしい黄金時代に入りましたね。
 これは地球人類全てにとっての祝福・福音でありましょう。

 徹底した洗心を実践して、私にとって一番難易度が高かった、せかせいかしない、イライラしない、も全くと言っていい位なくなりました。

 そうして心が不動心になってまいりますと、心が綺麗な鏡のようになってきて、天啓、いわゆるインスピレーションがスムーズに入ってくるようになりました。

 上江洲義秀先生とは全く比較にはなりませんが、本当に大事な時に、大事な叡智と言いますか、こういった文章を作成する時にも、パッ、パッと必要な単語が脳裏に湧いて来るのですね。本当に有り難い事で助かっております。

 結構、それが普通になっておりますが、細かい文章の単語をひねり出す手間がかなり削減されますので、インスピレーションがスムーズに頂けるという事は、地味地味ですが、実に便利で有り難い一種の能力だと感じております。

 こんな文章も全然詰まる事無く、流れる清流が如くスラスラ書けちゃう♪
 イータイピングもあまり練習していないのに、”洗心効果” で集中力がアップしている様子で、予想よりいい点数が簡単に出ちゃう…みたいな♪

 特殊な能力でなくても、洗心を徹底的に実践してまいりますと、私の様に、それがごく普通と感じるくらいに、善なるインスピレーションが自然に頂ける人間に変容して参ります。それは実体験からして自信を持って断言出来ます。

 洗心している間に、いつの間にやら、軽い能力者になっていたという感じで御座いますね。本当にいつの間にか知らぬ間になっていた……という♪
 七念層が綺麗になってアンタカラーナが伸びてくれたからかもしれませんね。


 きっと上江洲義秀先生の場合は、完全に覚醒された偉大なるお方ですから、私の体験からしましても、高尚な詩人の様な洗練された語彙も、自然に湧き出る泉が如く、無限の叡智から得ておられる事だと推測されます。

 今更ですが、上江洲義秀先生の偉大さに気づかせて頂けましたので、珍しく熱く語らせて頂きました(笑)。長文のご拝読有難うございましたm(_ _)m♪


上江洲義秀先生のご光話
苦の正体(苦しみから開放される秘訣) 

 人生は肉体をまとい、生老病死を伴(ともな)った現界の荒い波動の中で日々を送らなければならないという意味では「苦」です。

 しかし、私達はそれをも楽しみ、学びの手段としなければなりません。何故ならば魂と肉体の調和を果たすために自ら選択してこの世に来たという事実は消すことが出来ないからです。

 たとえあなたの記憶から消されていても、それは厳然とした事実として不可視の記録庫に書きされている事を知って頂きたいと思います。

「苦」の原因は「執着」と「分離感」、そして「恐れ」です。執着は欲から生まれ、分離感は無知から生じます。

 金銭、住まいなどの物質、そして生命に対する過度な執着が苦を生む大きな原因となり、それらへの執着をなくすことで苦は消え去ります

 金銭、住まい、そして何よりも生命は私達がこの世を渡っていく時に無くてはならない者です。しかし、私達は1人で生きていけるわけではありません。

 隣人を始めとする周囲の環境全てとの調和の中で生かされている存在である事を悟る時、日々の生活を送るために必要以上のものを望むことは調和を乱し、己をも傷つける事を知る事になるのです。

 苦は創造者と一体化し、「我神なり」と悟り「全一体(宇宙は一つの生命体・全ては一つ)」を知ることで消え去ります。

 宇宙を貫く不変の法則の真理を知り、執着や分離感をなくす事で消え去るのです。

 人は過去の縁というものに触れた時、様々な感情が湧き上がります。時には内から外へ感情が吹き出すのを抑えきれなく成る衝動に駆られる事も出てきます。

 しかし、目前の現象に振り回され、感情の奴隷になってはいけません。人が感情という偽我に惑わされ、霊性な判断を失った時に苦は生まれるものだからです。

 執着することなく、自他を分ける事もなく、過去も未来もなくこの一瞬が全てである事を心から知る時、苦はなくなるのです。

 苦は既に自らの中に実在が顕現している(父なる神と私は常に一体である)と悟った時、そして苦が悟りに至るための手段であり過程であると悟った時に止むのです。

 その結果、病さえも遥か彼方に消え去ってゆきます。そして苦を糧として悟りに至る象徴が泥の中に咲く連の花であるように、現界で生きる私達の中にも真理という大輪の花が咲くのです。苦を通じて真理を知ることで苦は苦でなくなり、苦そのものが無にかえるのです。


宗教は一つ     上江洲義秀先生の記事♪

 神は一つ、宇宙は一つ、そして宗教は一つです。
 キリスト(メシア・救世主)は決して特別な存在ではなく、皆の中にある神がキリスト(神は汝の内にあり)であり、仏陀であり、神そのものの本質が本来、人間の中に備わっているのです。

 愛という神の本質がそれだけ顕現しているかに個人差があるだけであり、神は全ての人々の中に神そのものが顕現する事を強く待ち望んでいるのです。

 神は命(宇宙生命・大生命)。私達が日々の中で生き、感じているものこそが神です。花々は命がなければ咲き誇ることは出来ません。石一個、虫一匹にしても同じ事が言えます。
 
 私達がこうして言葉を話せるのも命のお蔭である事に感謝しなければなりません。命そのものがすべてを通して生きている神ではないでしょうか。

 神は我が内にあり命そのものがあなた方の中で働いている神である事を知って頂きたいと思います。

 命こそ智恵であり力。私そのもの、あなた方そのものが神なのです。我神なるがゆえに無限の力、無限の智恵、無限の愛を内包しているのです。

 永遠の命こそが私であり、そこには不安も恐怖もありません。我は全て、全ては我なのです。一つは全体につながり、何を見ても神そのもの

 人の本質は命(無限大の愛)であり。命が息づいている一転生の今の今生の日々を私達は決して無駄に過ごしてはいけないと悟って頂きたいと思います。

 神は愛、命、そして光愛こそが根源である神の泉と私達をつなぐ水路です。水路は天候に左右されることなく水田に水を張り、秋には黄金色の稲穂を収穫させる命ではないでしょうか。

 愛は創造し、生かし、闇を消し去り、恐怖に打ち勝つ光そのものです。私達は神からの水路を枯らす事があってはならないのです。

 神は命そのものであり、私の命とあなた方1人ひとりの命に分離はなく、唯、万物の命が生かし、生かされている、それが唯一の命なのです。

 創造する者もされた者も一体(父と子は常に一体)です。真我の目覚めによって1人ひとりが進化を遂げ、幻が克服されてゆく事で黄金時代とも呼びうるような世界が築かれるのです。

 神は無限の意識、智恵、そして個々の現象を作る質量であり、この三者は一体となって働き、そのうちのただ一つが欠けても成り立つ事はありません。

 すべての創造の根源は無限の愛という原因(神)によって生かされている事を私が体験したように、あなた方もそうなって頂きたいと思います。

愛の架け橋

 聖人とは、乗り舟である肉体、結果である現象に惑わされることなく、真理を静心の中、内観によって見出した者をいいます。私達は神という本質を見失い、幾転生の人生を迷いの連続としてはなりません。

 自分が神であることに目覚めることが「自覚」であり、目覚めた者を「覚者」と言うのです。肉体を我として生きるのは錯覚で、内なる神を我として生きるのが悟りの人です。

 人を裁き、誹(そし)り、嫉妬をしていたその相手は万物の化身である神そのものだったのです。神は万物を愛によって生かし、万物が大愛の中に融合することを切に望んでいます。

 神の働きがなければ゚蟻一匹たりとも存在する事は出来ません。現象界の知識は無限の中では針先の一点であることを知って頂きたいと思います。

 私達にとって新たな人生とは気付きによって真我の大海に入りゆき、自らの本質は神であったことに目覚めるための旅のことです。

 私達は朽ち果てゆく物質をめぐる戦いの人生を送ってはならず、我神なりとして生き続けなければなりません。

明想の境地          

 狭義の明想とは、静寂の中で自らの意識の中に深く、より深く入っていく事です。より精妙な波動の中で集中していく過程で真理を悟っていく方法とも言えます。

 明想の境地を判断する物差しとして現象を参考にする方法があります。天の霊流に身体が引き上げられてゆく感覚を受ける方、白い光の中に全身が包まれてゆく感覚を受ける方など、境地が深まってゆく感覚は人それぞれといえます。

~~~  中略 ~~~       

 こうした境地に誰もがなれるという訳ではありませんが、明想の中、そして日々の生活の中に於いても、こうした境地に近い状態には到達出来るものであり、一人でも多くの方が「我神なり」の状態を味わって頂きたいと願っています。




神     (知花敏彦先生の教え)

 「今即久遠」「今即永遠」「今即実在」「今即霊」「今即神」です。
 今から神になる者は一人もおりません。初めから神しかおりませんのにどうして今から神になれましょうか。自分が神になることは自分が神であったことを知ることが必要なのです。

 自分が神であった、全体が神であった、全てが神であった、ということを理解することです。それを知らないのを無知というのです。
 自己を見つめるということは神を見つめるということになります。

 自己を知ることは神を知ることです。自己を知らないで神を知ることは不可欠です。自分は神ではないといったならば、もう絶対に神を探すことはできないのです。私達が神で無かったなら神を探すことはできません

 我れ神なり、我れ生命なり、であって神は全ての全てであり、ありとあらゆるもの、神以外何もないのです。神一元という意味です。
 神一元とは神以外はない、神が全てだという唯一不二の神というのです。無限者・普遍者なのです。その中に神以外は存在できません。

 それに対し、神を知らない心の状態を引き起こしたのが、この世の悪といわれているものです。神を知らないから悪とか悪魔とかいうのです。

 神を知っているものには悪とか悪魔は存在しません。神を知らない心の状態が悪というのです。神を知れば悪は存在しません。絶対善があるだけです。絶対神があるだけです。絶対愛があるだけです。絶対調和があるだけです。

 だから神を知らない者のみに悪魔・悪霊があるのであって、神を知ってしまえば、私達の今いるところが天なのです。いま即天とは実在という意味です。

 地獄とは非実在という意味です。非実在とは天しかないのに、天一元しかないのに、天以外に何かあると思う心が引き起こした幻想なのです。その中に自らの獄壁を作り、自らを閉じ込めているものです。

 私達が全てを神とみなしたならば、全てが神だと観たとするならば神こそ絶対実在で絶対に神しかいないとなったならば、私たちは一つ目になったということです。

 神もいるが悪魔もいるというならば二つ目です。目が開かれているのではありません。心眼が開かれているのではありません。その悪とは何なのかを考えれば判りましょう。悪は神を知らない人間の状態なのです。

 私達が真理を知り神を知れば悪を行えません。悪魔もいるが神もいるという指導者は神を知らない指導者であって失格者なのです。悪霊とは自分が死んでも神の霊であることを知らない、その霊的力を誤用している、誤って使っている状態の事を悪霊というのです。

 全体が一つであるのを全一体感といい、自他一体感といいます。霊には区切りがなく別離がないとはっきり理解したならば自他がありません。他人がありませんので、即自分ですし全体も自分であるのです。

 これを全我といい、全我の自分というのです。普遍的自分です。宇宙意識・普遍意識・神意識というのです。私達の生命には区切りがありません。区切りがあれば無限生命ではありません。

 生命が区切られていないと判れば、私達の生命は区切りがなく様々な形態を現しているのです。ひとつ様しかいません。一つの命しかありません。ですから全体は我ということ、全我ということになります。

 例えばここに一本の木があるとします。この木の葉も一つの命で全体の木の葉が生きているのです。個人個人の木の葉の命はありません。一本の木の個々の葉は外側から見れば一枚一枚ですが、内側から観れば一つの生命であるのが判ります。
 
 ですから「生命の木を把握しなさい」とイエスは言われましたが、生命の次元から観れば同一だという意味が判りましょう。
 外側から見れば個々ですが内側から観れば全体です。

 この全体が我だと判りますと誰を憎めますか。一本の木の個々の葉一枚一枚が憎みあったら、誰を憎んだことになりますか。
 自分自身を憎んでいることになります。

 外から見れば私達一人一人で個人個人ですが、内から観れば全体になるのです。外から見れば小さな私達ですが、内からみれば大きな我になるのです。内側を観れば大我であり、外側から見れば小我で、外側は小我で内側は全我です。

 外側の外観から見るから小さなものとしてこの木の葉を見ますが、木の葉の生命は小さいものではなく大きな生命です。

 私達の個人の命も同じように大きな生命です。この形態を見れば小さな小生命と思っていますが、小生命と大生命は一体だということで霊と大霊は一つであり離別していません。

 「神は汝の手よりも足よりも近し」といわれる所以(ゆえん)です。
「天は近し、神は近し」と言われ、神の中にいて神そのものであるのに神を探している。そして今から神になろうとしています。

 今の今、神の中におり、神なのに入ろうとしています。
「いま即実在であり」「いま即天であり」「いま即神である」修行して神になるのではなく初めから私達神なのです。神には修行は必要ありません。

 「難行苦行、悟りにあらず」の言葉通り、自分が神であることを自覚する、自己を知るということが如何に大事であるかと言えます。自分の中に神がおれば全体の中にも神がいることが判ります。全てに神がいると言えるのです。

 イエス・キリストは「神の実子になられた」ということは、自分は神の実子であるのを悟られたという意味です。あなた方とイエス・キリストの違いはあなた方は神の実子ではないと思っているという違いなのです。

 あなた方を創られた方は神以外に誰がおりましょうか。見えるもの全て神のもの神以外の誰があなた方の創り主なのでしょうか。神こそわれわれの父なのです。

「何者もこの世で神以外に、父と呼んではならない」といわれる意味がわかりましょう。あなた方が神の実子であることがはっきりわかりましょう。あなた方の生みの親はまさに神なのです。

 このことを知ったならば万物の中に神がおられ、万物は神の子であるということになります。何を見ても如何なる形態でも、神を宿せぬものはないと判れば、神の他には絶対になにもないということ、神のみがまします、神のみが独存するということが判ります。

 あなた方はあちらに神を求め、こちらに神を求めていましたが、神の中において神は自分であり、同時に全体が神であります。であるが故に神は無限者であられる。
 この世の中で神でないものが一つでもあったならば神は無限者でもなく全体者でもないし、全知全能でもあり得ないのです。

 我を知ることは神を知ることの名言であるのです。
神を知る前に自己を知りなさい。自己を知った時、神を知るのである」という意味です。

 生命・大霊には区切られた生命、区切られた霊はありません。ですから私達一人びとりは個我であると同時に大我であるのです。ですから私達一人一人は個我であると同時に大我であるのです。

 形を見れば小我の小さいものですが、原因は大原因そのものですから大霊・大生命そのものであるのです。区切られた生命や如何なる形の形態の制限設けないのが生命であり、神なのです。神が形態の自由を奪われたり制限されたりはしません。

 だから神はいたる所にまします。神のましまさぬ所とてなく、空の世界にも色の世界にも偏在したまい、鉱物・植物・動物・人間とて神を宿さなければ存在しないのです。

神は自らの住み家を自ら創り給うて、自ら留めたもうた」。
そして、「形態をお創りになり形態に自らの生命を宿しておられる」。私達の肉体は神の働く焦点、神を表現せんがために存在しているのです。

「生ける神の宮なり仏の宮なり」という意味です。神のみが生きているのです。神の他には生きているものはありません。生物は全て神です。

 無限の中においてこれが神だ、あれは神ではないと区別しているのは真理ではありません。もしそのようにいう人がおれば、その人達は妄信であり狂信家です。

 無限者の神の中において神以外の者が存在できましょうか。神は無限者であられ、大宇宙そのものが神であられるといいながら、ここに神はいて、あそこに神はいないと、どうしていえましょうか。
 
 今の宗教家達は間違いを語っています。何かの修行や何かの宗教をやらないと、神の中に入れないと思ってはいないでしょうか。

 今、神の中におるのです。お釈迦さまは「今即天」といわれ、イエスは
「私は初めから久遠の中にいた」といわれました。私たちは初めから久遠の中にいるのです。

人々は誰でも神を探し、神がどこにおられるかと一生懸命に探し続けてきました。しかし神を探した人はほんの微々たる少人数に過ぎません。

 何故ならば自分が神であること、「我れ神なり」という事実を知らないからです。その自分が神であるのに神をしているのですから探すことはできません。神が神の中においては神を知るということです。

 神が何なのか、神がどこにいるかを知っている人が非常に少ないのです。一生懸命に神を求めている人はが非常に多いのです。神がどこかに存在するといって探していたのでは何時までたっても探すことは出来ません。

 自分が神であり万象万物が神であること、全てが神である自覚、神を自覚するということは自分自身が神であることを知るのが一番大切です

 神がどこかにいるのではなく神は全てに偏在したまい、全てに帯座されている。神はここやあそこにいるのではないのです。他に神を見出そうとしても、見つかることはありえないのです。

 神の中に今いるのです。そして自分自身が神なのです。神はありとあらゆるもの、全ての全てです。神の他には何もないのです。宇宙そのものが神なのです。

 何年も何十年も神を探しても神は見つけることは出来ません。そこで、人間は神を造ったり、遠い彼方に神がいると想像して新興宗教を造っているのです。

 イエス・キリストは、「神のいるところに私がいて、私のいる所に神がいる」と言われ、お釈迦様は「我が内に仏(神)がいる」と言われました。

 この言葉を徹底して知り学び理解すべきです。自分自身が神であることを自覚できない人が神を知ることは絶対にできません。

 「我れ神なり、我れ生命なりと」。何故、全てが神なりといえるのか。神は万物の親、万物の創り主であり万物の生命でもあります。大生命そのもの、大霊そのものが神そのものです。

 大生命・大霊・神のほかには何も存在しないのです。神のみが実在する。神こそが絶対実在であり、その他には何も無いのを知るべきです。神は空の世界でも色の世界にでも全宇宙に遍満している神一元です。
 神のほかには絶対に何もないということを知ることです。


全一体感、全てが私が「宇宙即我」に気づいたお話

 お釈迦様が悟りを開かれた後に第一声を発せられました。その御言葉とは「宇宙即我」であります。じゃあでは何故その御言葉だったのでしょうか。

 その点の理解がより深くなりましたのでご説明申し上げますと、宇宙といいますと、銀河系の風景や、お星様がキラキラ輝いている夜空を思い浮かべる方が多いですが、宇宙とは「無限・全体・ありてあらゆるもの」、の比喩としての意味もあると思うのです。

 そういう解釈で考えてみますと、お釈迦様の御言葉は、「無限即我」「全体が私」「私とはありてあらゆるもの、即ち一つの生命」という意味合いで語られたと考えられます。

 ヒマラヤ聖者の生活探求等のご著書にある真我(神我)の英語では、なんと記載されているのでしょうか……、ドキドキ……それは、
 何と”アイ・アム”なのです。ドッひゃ~といった感じですが、全ては私、全一体感、自他一体感・全てが神と思える意識状態とも言えます。

 全一体感・自他一体感は光であり実在、分離意識、分離感は闇であり非実在という事になります。カルマは分離意識の中に存在するものですから、カルマは真実、実在においては、本当は存在しないものだとも言えるわけです。

 この辺りが深く理解できますと、愛という神性火花、全一体感という無限の完全意識の前では、カルマは影、幻の如く消え去るしかないという、上江洲義秀先生の説かれる真理が、すんなりと頭の中で整理されてまいります。

 悟りを一番短い言葉でご説明するなら、それはズバリ「分離意識の克服」でしょうか。ピンとこない方もいらっしゃるかもしれませんが、知花敏彦先生上江洲義秀先生の記事をご観覧して頂ければ容易に理解して頂けます。

 後もう一つ悟りに至るためにどうしても克服しないといけない事が御座います。それは「全てを愛し全てを許す」という事です。

 これはどういう事かと申し上げますと、人を責める思いを持っている時点で、いくら「我神なり」と思った所で ”分離意識” ”偽我状態” なんですね。

 「全一体感」「自他一体感」「全ては私」という境地はどうしても、「全てを愛し全てを許す」境地に至らないと到達できないのです。

 先程、悟りとは「分離意識の克服」と書きましたが、誰か一人でも許さない存在がある限り分離意識ですから、残念ながら悟りには至れないという事になってしまいます。

 ですから、真理を徹底的に理解した上で……全てを愛し尽くした時に、自然に宇宙即我の境地に至っていく道が出来上がるわけなのです。

 その状態で上江洲義秀先生明想を実践して頂いたら、かなり短い期間で 「
根源への到達」「神との合一」「宇宙即我」 を体験して頂けるかと思われます。


創造主様からのメッセージ♪から一部引用ですが……♬ 明想の記事♪


 一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです。あなたが許さなければ、あなたも許されません。

 まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい。そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。

 あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。全ての人の罪を、許してあげなさい

そうすれば、あなたは全てから、許されます。私、神から許されます

 罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
 人を愛さない者は、私も愛しません。

 私の元に来るためには、この世で一人だって好き嫌いがあってはなりません。なぜなら一人でも、私であるからです。私が創った者であり、その中に私が居るからです。

 神は全ての創り主、全てを創って、全てのものに、ご自身を宿しております。あなたが隣人を嫌うなら、私を嫌っているのです。私を嫌う者は、私から嫌われます。私を愛する者は、私から愛されます。全ては私なのですから

 神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。

 
 悟りとは理解、真理の理解こそが悟りなのです。覚者・上江洲義秀先生も

真理を理解した時に、皆さんは全ての全ての悩み、苦しみから開放される事において、「真理は汝を自由ならしめん」と言います。】

という風に仰っておられます。
 ぜひ皆様も”真理を理解”して”真の自由”を手に入れて下さいね♪(ゾゾ社長の前澤友作さんや、嵐の大野君もぜひ自由の為に^^……笑)

 私の実体験ですが、真理を理解すればするほど、胸の奥底から溢れ出る愛の光がほとばしる光源の様に光りだしてくるのが観じられます。

 頭の表面で理解するのではなく、ハートの奥底にストンと落ちる理解だと、魂の内なる輝きに直結して来るのを何段階も経験してまいりました。

 真理の理解度が深まれば深まるほど、真の愛というものが分かってきますから、自分の魂が非利己的な真の愛に目覚めてゆき、「内在の真我の輝き」がましてきて、この世の闇の影響を全く受けなくなっていったのです。

 よく人間の心には善と悪が在るなんて言われておりますが、真実において、真の自己である真我に目覚めると、「絶対善・絶対愛・絶対調和・ただ愛おしい」という「善想念のみしか湧いてこない」のですね。

 この時に、自分の本質は「善」のみだったと実感・自覚することが出来るでありましょう。

 徹底的に洗心して、全ての全てを愛し尽くし、許し尽くした時に、真の自己である真我が覚醒め始めるのです。そうしますと不思議な事に、意識状態が愛に満たされてきて深遠で何とも言えない静寂感に包まれてまいります。

 平安と安らぎといいますか、"聖者は沈黙を守る" "静心” ”愛と調和の不動心”……そんな境地になってゆくのです。
 そうなりますと、何を見てもただただ愛・愛・愛……、これが神の御心なのかと、真の自己とは愛そのものであったのか……と、まさに愛一元ですね。

 人間の本質は”愛”です。全一体感という真理の中には”愛”のみしか実在しないという事を実感させて頂きました。この境地に到達しますと、心が常に愛で満たされていますから、この世の闇の影響を一切受けなくなります。

 私は、自身の体験からの確信を持って、人間の本質は愛であったと…愛のみが実在であったと、愛がすべてであったと、力強く語ります。

 ”悪”とは分離意識の中に存在する影、幻(まぼろし)であり、実在しないものですから、分離意識を全一体感という愛の光で克服した時に、貴方の心の中から影のように消えてなくなります。

 その時貴方は、愛に目覚めた者 ”克服者キリスト” です。愛はフォース(力)ですから、その時から真の意味での超能力が開花し始めるというわけですね。これが覚者の超能力と言われているものであります。

 チャクラは愛でしか開かないと言われておりますが、全一体感(全ては神・全ては私)という真理がこの”愛”です。愛はすべてを制し超越する力です。真の愛に覚醒めた時、その偉大なる力を手に入れる事が出来るでありましょう。

……というわけで【全ては私=宇宙即我】という驚愕の事実が判明してしまいましたが(笑)、そのお釈迦様の偉大なる悟りを詳しくご紹介して下さっている上江洲義秀先生の動画をご紹介させて頂きます。良かったら見て下さいね♪

全ては私 稲穂の会 上江洲義秀先生


答えは「私」 【朗読】バーソロミュー3(122)


ジョルノ・ジョバァーナ風に語る悟り話

ジョルノ・ジョバァーナさんのパロディーが入っていますが……

 このシンチョウグッド(私)には正しいと信じる夢がある!『悟り人』になるという夢が……、その夢を守るため、全てを許し愛する『慈悲と愛』という黄金の精神で生きる……全身全霊の命がけの覚悟が……僕にはあるッ!

 すべてを愛しすべてを許す慈悲と愛の境地、愛という神性火花を常に心に灯して生き続ける、「全一体感という愛」で生きるという覚悟が!!

 五井先生や、上江洲義秀先生の壮絶な超能力のお話に憧れて、『悟り人・覚者』に憧れるようになったのだ!!(ここだけちょっと誇張とフェイクが入ってます……嘘をついている味がする……笑)

 ゲームを捨ててまで悟りを開きたいというほどの、気高き『覚悟』と……覚者になるという黄金のような『夢』に人生をかけよう……黄金の精神で……

 無限を愛し、全てを愛し、隣人を自分の様に愛し、どんな悪のような現れに対しても許し、慈悲と慈しみで包んであげれる愛のキリストに……、全てを愛で克服し乗り越える”克服者キリスト(覚者)”に僕はなるッ!!

 精神世界を追求しだして約四年、気高き『慈悲と愛』と、悟りを開くという黄金のような『夢』を追求してまいりましたが、お陰様で現在では、こんな境地が存在するんだ……と思えるまでのゴールド・エクスペリエンス(黄金体験)な至福な境地に到達致しました。かなりの境地かも♪
  
 現在では、毎日が平安と安らぎに満ち溢れたゴールド・エクスペリエンス(黄金体験)な日々、まさに全一体感という至福の黄金の境地に到達し、一瞬一瞬が、喜びに打ち震える生きながらにして天の住者という状態であります。

 悟りを追求して本当に良かったと、命がけの覚悟を持って追求して本当に良かったと……、真理を追求するって本当に価値の在る生き方だったと…涙。

 全身全霊で悟りを追求して愛に生きるという『覚悟を生きてる人』、本当にやるといったらやる……『スゴ味』があったのが良かったようです。

 我神なり、全てに神を観る、全一体感、自他一体感、すべてを愛しすべてを許す、悪を愛で抱擁してあげる・悪を善で抱擁してあげる深い愛、神への愛、
 全ての生きとし生けるものとの一体感、無限大の愛に生きる、慈悲と愛に生きる、君の命がけの信念と行動、僕は敬意を表するッ!!

 僕は…悟るのをやめないッ!!胸に秘める内なる真我の黄金の風を輝かすまで……今生で悟りを開いて、輪廻転生にアリウェデルチ(さよならだ)!!


「2018/10/23(火) の記事」
最近、上江洲義秀先生の光話にハマっているお話


 最近は、朝から一日中上江洲義秀先生のご光話を聴きまくっております♪大体(購入した分も含めて)約60話ぐらい視聴したかと思われます。
 知花敏彦先生の170話とのミックス視聴で真理の理解がより深く完璧に近づいている今日この頃だったりします(@^▽^@)ニコッ♪

 色々なネットの生活にお役立ちな情報を楽しみながらも、耳では常時上江洲義秀先生のご光話を聴くという、一挙両得な効率的な時間の使い方をしながら、人生をエンジョイしながら悟りを追求する毎日です♪

 ちなみに、下のリンク先にもある中村寿子先生の明想指導の動画も50回以上視聴しております。

 私は基本的に受験勉強的な努力を惜しまないタイプの人間ですので、こういった直感的な修行と思われる悟りへの道の努力に対しても、脳裏に悟りの知識を詰め込み教育の如く(笑)、猛勉強しているという訳で御座います。

 右脳的アプローチだけではなく、左脳的アプローチも併用しながら効率良く脳の潜在意識に真理の知識が染み込むような形で追求するのが、魂の覚醒への時間も短縮できるような形ではないかなぁ……っていうそんな感じでしょうか。

 メジャーリーグでもスタットキャストという球種分析で、玉の速度や回転数などを研究して球筋を分析するのが流行っているそうですが、覚醒への悟りもメジャーリーグのように徹底的に分析をするのが一番手っ取り早く、深い理解に到達できるコツのように思うのです。

 そういった考え方で、知花先生と上江洲先生の説かれている真理を、お互いすり合わせて理解をより深めていくという作業を日々続けております。

 私の脳裏でお二人の教えが融合されていくと、言葉違いが多少あっても、お二人の説かれている真理は全く同じ事を仰られていますから、有り難い事により深く、面白いぐらいに真理が理解できるようになりました。

 どちらかの教えを学ばれている方は多いと思いますが、意外とご両人とも徹底的に分析しながら追求している真理の追求者の方は意外と少ない気がします。この方法でしたらきっと驚くほどに誰でも深い悟りの理解の境地に到達出来るのではないでしょうか。個人的にオススメしたいです(笑)。

 えっ、どうしたらお二人の教えを追求できるの?……って思われる方もご安心下さい。記事の一番下にある「お勧めスピリチュアルサイトをご紹介」の知花敏彦 まなびの会 上江洲先生 ゆいまーるプロジェクト♪や、

知花敏彦師の記事♪ 上江洲義秀先生♪」のリンク先の記事を見て頂ければお金もかけずに、誰でも高いレベルの境地まで到達出来ますので、もし良かったら記事を見てあげて下さいね♪

 また、知花先生の教えで解脱・覚醒まで到達された偉大なる覚者である「かとうはかる先生」の理想社会を考える会(かとう塾)で真理を学ばれると、より真理の理解が容易に進む事でありましょう。

 イエス様は十字架に貼り付けられるまでは、第三イニシエーションだったそうですが、上江洲義秀先生は、現在の時点で解脱のレベルである第五イニシエーションまで到達されていますから、ある意味…イエス様よりもレベルが上の方という解釈も出来ます。

 そういった意味でも、本当に奇跡の地球人類の最高の境地まで到達された、偉大な大覚者である上江洲義秀先生のご光話は、人間に生まれた以上、死ぬまでに一度は聴いておきたい、
 これ以上の価値はないと言っても過言ではない程に、有意義な素晴らしいお話ですから、ぜひこの機会にご視聴頂ければ幸いです。

 今回ご紹介している動画は全部、中国語の通訳が時期的にまだ無かったり、カットされていたりして、非常にテンポが良く聴きやすくなっていますから、ストレス無く楽しくご清聴して頂けるかと思います。

 私はもう耳に穴が空くほど聴いておりますが(笑)、何回聴いても奥が深くて聴き入ってしまいますねぇ……・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・

 面白いことに何十回もご光話を聴いておりますと、潜在意識の奥底に真理の知識が染み込むみたいで、自分が理解しているが如く、真理の知識の脳の引き出しがスムーズになってくるんですね。

 分かりやすく申し上げますと、一夜漬けの勉強ではすぐに忘れてしまいますが、長い期間をかけて学んだ知識は時が過ぎても、すぐに忘れることはないといいます。

 その例えと同じで、何十回も繰り返し聴いていると、大事な時に大事な知識が、溢れ出る知性が如く自分の叡智の一部となって真理の深い理解の一部、魂の覚醒への栄養となって根源という大海へのスムーズなエンジンとなってくれるのです。これは体験から確信しております。

 一回聴けばいいや~ではなくて、何回も何回も繰り返し視聴するというのも修行法としてアリかな……と、新しい修行方法をご提案してみました。もし宜しければ、ご参考にして頂ければ幸いで御座います┏○ペコ♪


上江洲義秀先生のご光話
『真実の天下り』 2012.11.4 ふれ愛の会 【第二部】 山梨
◆ 抜粋 
・ 神の完全意識がこの肉体という表現体を通して愛を示すことを、本当の天下り。
 
・ 一点の狂いのない答えを与えきれるのは、ひとりびとりの内に内在する神そのもの。
それをみなさんが表現できてこそ、本当の天下り。
 
・ 無限の智慧の中には、偽我なるものは、すべて飲み込まれる。
 
・ 智慧も力も愛も光も、時空間、壁、距離、いっさいを超えて、どこにでも遍満しているがゆえに、すべての想いがそこにある、ということを知ってもらいたい。

●天とは神として全体意識

 
真実の天下りを、説いてみたいと思います。
 
よく今の政治家は、「天下り」と表現されます。じゃ、真実の天下りを知っていましょうか。天とは神の完全意識。

で、神の完全意識がこの肉体という表現体を通して愛を示すことを、本当の天下り。

つまり、みなさんが「我は神なり、神は我なり、我と神とは一体なり」その境地で一瞬一瞬生きておられるならば、それ・・真の天下り。

人間意識、肉体意識、個人意識という偽我生きながら、天下りをされる者は一人もおりません。
 
天とは、神の完全意識。神の完全意識が、つまりこの肉体をオーバーシャドウして、、これ真のオーバーシャドウ。

で、日本で言わせれば、真の神懸かり。あの沖縄のユタの説いている、あの幽界の者が懸かられていることが、あれがオーバーシャドウではありません。
 
我、神なり、我と神とは一体なり。西洋で、、英語で言えば本当のオーバーシャドウ。日本で言うならば、真実の神懸かり。

だからみなさんは、誰かれから間接的にメッセージや、インスピレーションを受ける必要はないんだ、と。

あなた方自身の内在の神が、直接あなた方のこの肉体をひっぱり生かすこと、導き生かすことが、これが本当の神懸かりであり、本当のオーバーシャドウ。

そこからメッセージ、インスピレーション受けぬかぎり、誰を通してメッセージというならば、みなさんはその人の観念、概念で振り回されるだろう、と。
 
なぜなら、私がその体験者。もうさまざまに引きずり回されました。我が中に神を忘れて、外、外、外に神を求めて、神のメッセージだ、インスピレーションだ、天啓だ、、どこからメッセージは来ましょうか?

七十億の人間から真実の答えが与えられることはないんだ、と。一点の狂いのない答えを与えきれるのは、ひとりびとりの内に内在する神そのもの。

で、それをみなさんが表現できてこそ、本当の天下り。天とは、神の無限として完全意識であることを知ってもらいたい。
 
あの、みなさんは、モーゼの十戒の映画を観たことがありましょう。あのモーゼが杖を投げたときに、一匹のコブラに変わりました、

その杖は。で、相手は二本の杖を投げて二匹のコブラに変わりました。それは、二匹を例えているけれど、何万、何十万、何億でもいい。

で、相手の二匹のコブラはモーゼの杖が変わったコブラに飲み込まれました。それは、じゃ何を象徴にしているのか。数は何十億でもいいこと、ただそれだけの数を出しえないがゆえに、象徴づけて「二」を出しただけ。

その飲み込まれたものは、何を意味しているのか。「無限の智慧の中には、偽我なるものは、すべて飲み込まれる」という象徴です。
 
七十億の偽我生きている者が、真我なる我に太刀打ちすることはできぬ、という象徴。偽我なる者は、すべて真我によって飲み込まれるという象徴で、あれを示していることを理解してもらいたい。

ならば、どこから天啓は、どこからメッセージは、、外という結果なるものから訪れ来るではありません。
 
内在の神そのものから、直結でみなさんは受け取れるあなた方であるために、、。私にそれを教えたのは、ヒマラヤの聖人でした。

今から三十年前、あるがんの方に私が手を触れようとした時、
「今、あなたのこの肉体も私が使える準備が整った。」

もう明想状態の中にあって、肉体的なバイブレーションも上がり、意識そのものも高めたがゆえに、ヒマラヤの聖人が即そこに私の目の前に現れて、

「今、準備整ったこの肉体を通してヒーリングをしたい。この肉体を貸してくれ。」だったのです。
 
で、私がその肉体を明け渡した瞬間、もう末期のガンが二、三分で瞬間に癒えたこと。そうすることにおいて、私がこの肉体をこのように提供し、そこで神の偉大なる御業ができたことを感謝します

・・と想ってその方にその表現をしようとした瞬間、逆に向こうのほうが「あなたの伝導体を使い、神の御業が成しえたことを心から感謝します。」と、瞬間、その聖人が私から抜けました。
 
それも一つのオーバーシャドウ。で、その逆にみなさんがその状態を幽界から受けるものを、なんというのか、、憑依現象。だから、我々は、真の神のオーバーシャドウを受けるか、憑依現象を受けるか、二通りの一つ。

皆さんは、何を受けたいのか。幽界なるものの憑依現象か。神、我として神直結にみなさんは、オーバーシャドウ、神懸かりを受けたいのか。

で、離れて(その聖人は)私にこう言われました。「これも一つのオーバーシャドウ。しかし、それは間接的オーバーシャドウであって、直結ではない。」と教えられました。
 
たとえば、モーゼが、私の肉体を使ってここでみなさんに御業を示す、光話でもいい、あるいはその病気の癒しの表現でもいい。

間接的オーバーシャドウ。どの聖人が私の肉体を使って、ここでどんな御業を示しても、それは間接的オーバーシャドウ。

いったんこの肉体を通して、根源の中に至った方々は、みなさんは聖人と言われます、あるいは賢者と言います。

その聖人と言われたその方々が、我々の肉体を使って顕現することを、これ間接的オーバーシャドウ。

しかし、あなた方が内在の神、「我は神なり、神と我とは一体なり」その境地から一瞬一瞬顕現できること、これ、本当の神懸かり、本当のオーバーシャドウ、真実の天下りといいます。
 
じゃ、今の政治家に本当の天下りをされている方がいるのか、真の天下りがされているならば、世界は変わっていくだろう。日本は変わっていくだろう。

素晴らしき日本建設、世界建設。平和のために働き生きるならば、それ本当の天下りだろうと。天とは神の無限として完全意識。神の完全意識が、この肉体を通して顕現し、どうして戦争を引き起こしましょうか、

どうして対立や、あの国とは手を結びたくない、あの国は否定する、都合いい国とは手を結ぶ・・、天においてはすべて一つではないでしょうか?天において、分離差別があり得ましょうか?
 
天は神の完全意識。だから、みなさんが天国に帰るとは、「我と神とは一体なり」その境地に至ることを天国に帰る。肉体去ってから、良いことをしたからこの人は天国に入るんだ、、

この者は悪いことをしたから、肉体去ってから地獄に落ちるんだ、、そのようなことは、どこにも存在しなしない。今、即みなさんが、神我一体の境地ならば天国そのもの。

で、肉意識で、「あの人は許せない、この者は嫌い、この人は愛せない」と、憎しみ、怒りに燃えて生きているならば、そのままにして、もう地獄。
 
さっきも説いたように、実相という、、本来、実相世界には天国、地獄もない。完全意識のみの実在の中に、相対するものは無いと先ほど説きました。

しかし、そこに導くために私は、あなた方が今、全体意識で神、我として顕現できているならば、天国の住人。

今、即、天国。天とは神として全体意識ですから、
神は無限の中にすべてを創造して、無限そのものとしてすべてを生かしたるもの。

一物だって、分離したるものはいない。なら、分離して生きている者を、逆に天の反対・・地と、説いているだけにしかすぎません。

だから、我々が朝に、昼に、晩に、もう常に結果的なことしか思わない、もう寝ても覚めても、明けても暮れても結果的なことばかり。

想いは意識はもう、目が開けば、すぐ肉体以外には、もう考えもしない、思いもしない、意識もしない。思うのは、考えるのは結果だけのこと。
 
結果は、何というのか、地と言います。結果だけに生きているものを、なぜ、蛇と言いましょうか?蛇は地を這って生きるものだけに、象徴づけられて、蛇のように地を這うもの、と表現します。も

う、朝に昼に晩に、寝ても覚めても結果だけのことしか考えない。物質をかき集めるための金儲けだ、と。もちろん、否定はしません。肉体あるかぎりは、金も富も物質も必要です。

それを私はゴミ箱に捨てなさい、という意味ではない。
イエスキリストが、「すべての財産を捨てて、私について来い。」と、金持ちに説いた時に、その金持ちは、「私には、そんなことは、できません。」と、断りました。
 
それは、けっして持っている物を、ゴミ塵を捨てるように捨てなさい、といった意味ではありません。あって、とらわれない自分。あって執着しない自分。これを解脱とも言うではないでしょうか。

だから解脱とは、偽物いっさいを脱ぎ捨てている者。あるいは偽物から解放されている者。肉体持ちながら、肉体の影響を受けぬ自分。

家族いながら家族に縛られない自分。もちろん肉体を粗末にしなさい、でもない。家族を粗末にしなさいでもない。この世を否定しなさいでもない。
 
ただ我々は、天下りで生きているのか、この天という神の完全意識で、この肉体を顕現できているか。常に、朝に昼に晩に、もう結果という仮想のことしか想っていない者、(それを)地を這う蛇のような者、地を這って生きる者。肉体あって肉体の影響を受けぬ自分、

家族いながら家族に縛られない自分、この世を生きながら、この世に支配されない自分、これこそ解脱ではないでしょうか、それこそ出家とも説くではないでしょうか。
家族を捨てて、山や洞窟に籠ることが出家ではありません。
 
なぜ、ここで出家を「出る家」と書いているのか。それは、単なる象徴。肉体は、様々に象徴づけて説いていきます。「命の乗り船」「命の乗り馬」「命の飼い犬」。

だから、命の飼い犬と説いている聖人は、むやたらに断食しようとする弟子にこう言いました。「なぜ、、あなたの飼い犬ではないのか。」

あなたというのは、神。「神の表現体、神が表現する道具ではないのか。あなたの飼い犬ではないのか。

なぜむやたらに断食しようとするのか、骨の一本や二本はくれてやったら。」と、そう説いた聖人もいます。
 
で、イエスキリストは、この肉体は、神の生ける宮なり、神の生ける宮。しかし、あの当時の、宗教家は、宮というならば、あの宮殿、またあの大きな建物、教会。それを宮と勘違いしている者に、

「たとえあなた方が、この肉体にくぎ打ち、磔て破壊したところで、私は三日後には、この宮を組み立ててあなた方の前に現れましょう。」と、

そう言った時、その無知なる者たちは大きな混乱を招きました。この宮を、教会や神殿だとしか見てないその宗教家は、

「何を言うのか、この宮は何十年、何百年の年月を要して我々が完成させたと思うのか。それを、あなたが三日間で組み立てよう、というのか。」と、笑いました。
 
イエスキリストが説いた宮は、この神の表現体であるこの肉体を説いたことを知らねばなりません。

磔られて三日後には、またエーテル質量で、この肉体を組み立てて多くの人間の前に現れ見せたではないでしょうか?それを、宮の建設。

だから肉体は、命の乗り馬、命の乗り船、命の仮の姿、仮の衣装、命の飼い犬と、様々な表現で説きました。
 
では、「命の住む家」と説くならばどうなのか。もうみなさんは、出家と理解できましょう。家族を捨てて、山や洞窟に籠ることが出家ではありません。

肉体ありながら、肉体に支配されない自分。肉体ありながら肉体の影響を受けぬ自分、これが出家。ならば、みなさん、家族を捨てずとも、今、出家することができるではないでしょうか?
 
我、血や肉、姿、形でもない。我、人間、肉体、個人でもない。我、神なり、我、霊なり、我、真理なり。

その境地で、はっきりみなさんが自覚しているならば、それこそもう出家。我と神とは一体なり。この肉体を通して、神が顕現できるならば、本当の真実の天下り。
 
だから、天下りは、けっして偽我のものではありません。

常にこの肉体という表現体を、神のために使い生きている者を、これが天下りではないでしょうか。神の御心がこの肉体という表現体を通して、顕現すること、、

真我顕現。神と我とは一体なり。その境地でこの肉体を、一瞬一瞬示している者、表現していることを、それが本当の天下りということを知ってもらいたい。
 
今、世の人間が、天下りができた者が増えれば増えるほど、どういう現象が起こるのか。素晴らしい世界へと建設されていくだろう。

しかし、その逆に、個人的欲望の天下りであるならば、自分さえよければいい、自分の家庭さえ守っていればいい、自分の国さえ豊かであればいい、利己主義、で、そのような天下りが増えていけばいくほど・・・

先ほど、この昼間の光話でIさんが言われたように、なぜこの現象の世界は、このような世界になってしまったのか。

あなた方は愛の持ち主であり、智慧の持ち主、力の持ち主でありながら、我は神なり、我、神なるがゆえに、無限の智慧、無限の力、無限の愛の泉、宝庫、我が内にあり。
 
その持ち主であるにかかわらず、愛をください、愛してほしい、愛を、愛を、、。ゆえに、もうこの世界はどうなるのか。与えるものはいない。

得たい、得たい、得たい者。得たい者は奪われる。愛を得ようとする者は愛を失い、愛を放つ者は愛を得る。命を得ようとする者は、命を失い、命を放つ者は命を得る。
持てる者、さらに多く与えられ、持てぬ者は持っている物さえも奪われる。
 
で、これ常に例えたではないでしょうか。ある一人の男性が、王の位を得に町まで出かけたい。

十名の使用人を呼んで、まぁ日本円に例えるならば、百万でもいい一千万でもいい、平等に十名に与えて、「私が王位を得て帰って来るまでに、その元金をもっと増やしてほしい。」と、

出かけたその方は、王の位を授かって帰って来た時に、十名の使用人を呼んでひとりびとりに問いた。
 
で、一番最初に呼ばれた者は、「あなたは、その元金をどれだけ増やすことができたのか。」と聞かれた時、

「私は、その元金をもとにして、十倍増やしました。」と、「よくやってくれた、あなたには十の町を治めさせてあげよう。」と、与えられました。
で、二番目に呼ばれた者は、「五倍増やしました。」と、

「では、五つの町を治めさせよう。」一番最後に呼ばれた者は、「私は一円も増やしませんでした。」「なぜ増やさなかったのか?」

「今の人間は、嘘つきがいるし、欲深い盗人がいるから、その元金をもとに仕事をしようとするなら、騙されては困るからそれで仕事をしなかった。」「なら、なぜ銀行に預けなかったのか。

銀行に預けさえすれば、利息で増えていたではないのか。もう、あなたの持っている金を全部、最初増やした者にあげなさい。」しかし、その者はなんと言ったのか。「あの者は、持ちすぎているではないのか。」
 
それが、持てる者は、さらに多く与えられる、持てぬ者は持っている物さえも奪われる。このように我々は、与えない乞食になってはなりません。

乞食は乞食以上の分け前を与えられた乞食は、世にひとりもおりません。我々は、ください、ください、の乞食ではなく、すべてを与えて尽くし生きる我々になってもらいたい。
 
また、自分自身の中に無限の宝があるにもかかわらず、外に求めていたその一例は、何十年も古い木箱の上に座って乞食をしていた男が、通りがかる者にいつも野球帽子を差し出して、ください、ください、と願ったこと。

ある時、一人の男性がそこを通りかかったとき、いつものように野球帽子を差し出して、ください、、と言った時、「私はあなたに与える物は、何も持ってない。」と答えました。

「あなたが座っているその箱はなんなのか。」と聞かれた時、「とるに足らない古い木箱の上に座って、私は何十年も乞食をしています。」
「じゃ、蓋を開けて、中を覗いたことがあるのか。」と、聞かれた時、ないんだ、、と。

「なら、蓋開けて中を覗いてみよ。」と。おそるおそるその乞食は、蓋を開けて中を覗いてみたならば、黄金の宝がぎっしり詰まっていた、と。あるにもかかわらず、ください、ください、、の乞食。
 
我々もその通り。ください、で言うかぎりみなさんは、内在の神は動くことはないだろう、と。与えて与えて与え尽くし生きるあなた方になった時、智慧も力も、愛も光も、内からこんこんとほとばしり出てくるだろう、と。
 
これ、私が南米に行く当時のこと。我々の家の前に、何メートル離れていたか、、みんなが使っていた縦長の井戸がありました。で、もう幼稚園、小学校一、二年、南米に行くまでのこと。

それを今振り返ってみればわかります。定期的にお父さんたちが、あの深いその井戸に入って、一年に一回なり、二回なり、すべて汲み出して大掃除するんです。

何をしているんだろう、なぜそうする必要があるんだろう、と思いました。なぜ、いつでも湧き出ているその中を、あえて汲み出して捨てる必要はないはずなのに、なぜそうするのかと。
 
それが、この現象という結果の世界でも行われていた。で、与えれば与えるほど、こんこんと湧き出てくる。

堰き止めれば、堰き止めた水は腐っていく。だから、そのように、お父さんたちが汲み出せば汲み出したほど、新鮮なその湧水がこんこんと湧き出てきました。

で、その翌日からの水は、いっそう美味しかった。それを記憶に私は覚えています。
 
我々もその通り。兄弟姉妹のために、智慧も力も愛も光も汲み出して、与えれば与えるほど、こんこんとほとばしり出てくるではないでしょうか。

だから、得たい者に、くださいください、と願う者に、真実の明想をしている者は、ひとりもいない。真実の明想をしているならば、智慧も力も愛も光も、自由自在に、常にこんこんと湧き出ています。

与えれば与えるほど、湧き出てくることを知ります。だから、どんなに深い明想状態の中にあっても、与えられている障害も乗り越えられない。で、目の前に現れた宿題も越えきれない、苦しみもがいているならば、何の明想か、と私は言います。
 
何のために、明想しましょうか。本当の天下りであるために、明想しています。神と繋がり神の偉大なる能力を、自由自在にこの表現体を通して顕現するために明想しています。

じゃ、明想状態の中にあって、智慧も湧き出てこない、力も湧き出ない、愛も湧き出ない、ただ愛してほしい、愛をください、愛を、、。どこに明想がありましょうか。
 
本当の明想状態の中にあるものは、はっきりわかります。与えて与え尽くし生きることに変わります。もう、もらいたい者ではない。ください、ではない。

得たい者ではない。どんな条件の中にあっても、与えて与え尽くし生きます。それが本当の天下り。
 
なぜ、、この肉体という表現体に下っているのは、全知全能の神そのものではないでしょうか。全知全能なる神の完全意識ではないでしょうか。
 
 じゃ、神の完全意識が、この肉体を支配しているならば、無能、無力であるはずはないではないでしょうか。無知、無能、無力、、ならば、それは明想状態の中にはありません。

真実の天下りされているでは、ありません。今ここに、立ちながらも世界のあり方が、わが完全なる神の意識の中に、すべてを写し見ることができます。今どういう状態が、どこでどう起こるのか。

ただそれは、神の能力はもてあそぶものでないゆえに、そうせぬことであって、今ここに立っていながら、この会場から一歩も出ずとも、知りたいことをすべて知ります、見たい物すべて見ます、で、わかりたい物がすべてわかります。
 
これこそ自由自在、観自在、無碍自在の、神の絶対なる境地ではないでしょうか。(しかし、ほとんどの者が)何も見えない、何も知らない、何も理解してない。

よく、今の科学も、無限というその根源実相から見れば、もう幼稚園生のままごと、というではないでしょうか。
 
これは、今の科学者を笑うことではありません。たとえば、ここが、今日本として、これは私の住んでいた南米アルゼンチンのちょうど地球の裏側として、ここ日本から光を発生させたら、

あの地球の裏側の南米まで、何分何秒でその光がそこまで到達した、と言います。何を言うのか、と。人間が作り上げた物ならば、そうでしょう。

しかし、この宇宙には、何が遍満しているのか、無限の光です。無限の智慧です、無限の力です、無限の愛です。いたるものが遍満しています。
 
ならば、初めからあった光が時間、空間、壁、距離を超えているならば、今、即、そこにあるものであって、何分、何秒かかってここまで光が到達するのか、、初めからあるもの。

だからこそ、我々はこの肉体から我を解き放つことができるならば、「我、意識したところに我あり、我の想ったところに我いる」

観自在、無碍自在、自由自在の私。私が今、「私」と説いているのは、肉の私にできるはずはない。肉の私は、無知、無能、無力、迷い。
 
最高学位を得て、地位や名誉、財、富、金、物質に囲まれて、年ごろになっていい男性、女性とめぐりあって結婚し、子をつくって生涯優雅な生活を終えたところで、この肉体が私であるならば、なんの価値があるのか。

無知、無能、無力、無知の人生、盲目の人生、迷いの人生。しかし、あなた方がこの肉体、すべての存在の根源である神こそ、我なり、、というその境地に至ってみてください。
 もうここで光を発生させる必要もない、即そこに光があることを知ります。
 
我、光なり。すべては、光なり。初めからあったもの、今もあるもの、未来永劫にあるものが、時間かかるはずはない。智慧もその通り。


だからよく、百何匹のその猿を用いて表現するのも、その波動そのものではないでしょうか。
 
これは、、私が地球の裏側である南米のジャングルに住んでいました。で、私の従妹が沖縄に住んでいました。まったく地球の反対側。

しかし我々が体験したことは、もうそこでは、何も見聞きするものもない。ただ向こうから手紙が届いて、小学校6年か中学生あたりか、沖縄でビー玉が流行りというならば、南米のジャングルの子供たちも学校でビー玉。

で、沖縄で凧揚げよ、というならば、南米でも凧揚げ。なぜでしょうか?その意識、その波動がそのままにして、そこにあるからではないでしょうか?

それが途切れている、というならば、そこに時間、空間、壁、距離が、今のみなさんが感じているとおり、そこに距離あるならば、それで感じられるはずがない。
 
そこに、そのままにしてその意識、その想い、その波動があるがゆえに、同じ時期に同じ状態で、取り合えるということを知らねばなりません。

だから、今このクラインガルテンのここに立って、この話を意識拡大されている者は、たとえ中国であろうがインドであろうが、ヨーロッパであろうがアメリカであろうが、その私の光話、その内容を聞いている者が必ずいる、ということを知らねばなりません。
 
なぜ、、私は日本の山梨の、このクラインガルテンというここに立ってのみ私はあるのか?

全体にあります。全体にある者は、それに波長あう者は、バイブレーションそれそのものに同調する者は、その場で即、私の光話を聞いているということを知らねばなりません。

そこにいます。そこにあります。限定された肉体は、あなた方の前に立っていましょう。しかし、私の意識はどうなのか、全宇宙へとかけめぐっていることを知らねばなりません。幽界なる者がその話を聞いている、ということを知らねばなりません。
 
だから私はたとえ会場に肉体を持っている者が、一人であっても二人であっても、私は約束ならば、そこで光話する、というのは、その意味。なぜなら、幽界なるものが、いつでも何千という方々が集います。

この前も、たんぽぽの会で、「幽界」と私がチャンネルを切り替えて見たならば、何千名がその会場に入っていたではないでしょうか?

で、幽界でも、今、肉体を持っている意識状態は、今、変わらぬかぎり、今、変性、変生をさせぬかぎり、幽界に行ったって、同じことという、その状態を私は説きました、、
そういう方々が、いっぱい来ていましたから、あの会場に。
 
だから我々は、過去でもなければ、未来でもない、今、我を制御できる、この一瞬、この瞬間。今、己を改善できる、この一瞬、この瞬間こそが実在と言います。過去にでもない、明日にでもない。
 
だから私が、「明日、明日、明日にする」という者に、「明日はないんだ」と言います。「今が今であって、明日なるものがあるのか」と。
 
もちろん結果の世界で、ものを見るならば、今日明ければ明日がありますから、ずっと続いて明日、明日、、と言いましょうけど、実在の中には、明日はない、ということを知ってもらいたい。

実在とは、実際にあるもの。実在とは、今、今、この一瞬、この瞬間。それのみが実在、それのみがあるのみ。
 
一秒過ぎ去れば記憶、一秒まだ来ぬ未来は、記憶の混じった希望。だから、過去、未来を思い悩むことなかれ。

実在という、この瞬間を生きている者には、何の心配も、不安も、恐怖も無い。この一瞬というこの瞬間に、時間、空間、壁、距離を超えた無限として、すべてがあることを知っています。そこにみなさんに至ってもらいたい。
 
もうこの光話、この話は、最終の最終のものが説かれていることを知らねばなりません。それ以上のものが、みなさん、どこで聞いたことがありましょうか?

智慧も力も愛も光も、時空間、壁、距離、いっさいを超えて、どこにでも遍満しているがゆえに、すべての想いがそこにあることを、読み取れることを知ってもらいたい。
 
たとえば、Aさんがここで何かを想った。で、時間も空間も、壁も距離も、皆さん自身が想っている通り、この世界に存在するならば、Bの人間がここで(Aさんの想いを)取れるはずがない。

なぜ、取れるのか?その想いがすぐここにあるからではないでしょうか?これが理解できるならば、みなさんは、もう携帯でもしもし、と話す必要はない。

「もし、もし・・(会場笑)」 どこに、、?ここにあるのに、、。で、みなさんがダイヤル回せば、お金もかかる。私はゼロ、一円も支払ったことはない、すべてが見える、すべてが知る、すべてがわかる、宇宙の果てのものまで。

しかしみなさんは、もうボタンを押せば押しただけ、お金が出る。このように、時間や空間、距離、壁に縛られるみなさんであってはならない。
 
だから、私は家内に言います。即、電話をつかんで、お姉さんや家族の者誰かれに、、というならば、いつあなた自身の内在の、この宝物は磨かれるのか、と。

まぁ、私は電話するな、とは言いません。もし、やりたいならば、やる前に相手の意識はどう想い、どうしているのか、まずそれを想い訓練すること。そうすれば、ここに向こうの想いがあります、即それを取れるようになれましょう。

これは、23日前に私が体験したのです、たんぽぽの会でした。で、Iさんが沖縄に引っ越したい(という想いをキャッチして)で、私「まだ早い、まだいけない。」と、(想い)私が家に帰って来た時に、家内にすぐ言われてびっくりしました。

Iさんの引っ越し、延びた」と。しかし、私には、その原因もすべて知っています。なぜ、たとえば私が横浜にいる、Iさんが山梨にいる。

時間も空間も、壁も距離もない。そこにそのままにして、その想いがそこにあったの。すべての答えがそこにあるの。
 
だから、どこに何も聞かずに、あ、、と、即、すべて受けとめる。で、なぜそうなのかも、すべてそこに答えがある。これほどの偉大なるそのコンピューター、それだけの能力を持っていながら、もったいない、なぜ閉ざすの?と、言いたい。
 
これは、家内が沖縄の歌「てぃんさぐの花」で、よく歌っているではないでしょうか?で、それをまた意味を説いているではないでしょうか?

「宝の玉とて、磨かぬものは輝かない。磨いてこそ輝いていくんだ、磨いてこそ光るんだ。」と。我々も初めから神である事実は、誰も否定することはできない。しかし今、誰が顕現できているのか?その顕現あるためには、磨かねばならない。
 
それは常に鷹や鷲を例えます。本性として与えられたその動物、その獲物をつかむためには、初めからそうつかめたものは、いない。

本性とて、磨いて磨いて磨きあげて輝いて、それがその中に現し示されること。我々もその通り。だから、怠け者であるかぎりは、また来世に苦労するだろう、と。今生、努力する者は来世には、また磨かれて来世には輝いて出て来るだろう、と。
 
今、インターネットにも、これから20××年迎えれば、我々は、もう寝ていても座っていても悟れる、と、説いている方もいるそうです。私がインターネットを見たではない、北海道で、パンフレットをよこされました。

それには、「もう、あなた方は努力する必要はないんだ」と、もうバタバタ明想したり、このような真理を学ぶ必要すらもないんだ、と。

時期くれば、寝ていても座っていても自ずと悟れる、というパンフレットを見ました。これは、インドで学んだものから出てきています。
 
そのような状態で、我々は徹底して努力に努力を積み重ねていく、、じゃ、あなた方は、そこで寝ていなさい、ウサギとなって負けるだろう、と。

心を尽くし精神を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、内在の神を愛せよ、、と、説いていることを知らねばなりません。叩いて叩いて、叩いていればこそ、叩いた扉は開かれる、ということを知らねばなりません。

探して探して探し続けよ、ならば、探しものは見つかるだろう。求めて求めて、求め続けよ、ならば求めたものは、与えられるだろう、と。
 
じゃ、百メートルのゴールを前にして、我々は合図で一歩もそこに踏み出していかない。そこに坐して座って、誰が運んでくれるのか。

坐して神を拝むことなかれ。一歩努力した分は進みます、十歩努力した者は、十歩進んでいます。この世の仕事の成功の背後にも、霊的完成の背後にも、常にそこには努力という働きがあることを知らねばなりません。意

志と忍耐と勇気と努力。その4つはみなさん自身が根源に帰って来てほしいために、神から与えられた最高な手段であることを知ってもらいたい。
 
人間意識、肉体意識、個人意識という偽我をほっておかれて、解脱に悟りに至った者がいるでしょうか?悟りある者は智慧に、悟りある者は力に、悟りある者は愛に、、。

じゃぁ、私は天下りなんて、いまだかつて聞いたことがなく、ただ政治家が一度や二度、テレビでのニュースで言っているのは、見たことがあります。しかし、真実の天下りを説いているのか、、と。
 
なぜ私は真実の天下りが理解できるのか?みなさんに、この言葉で話すことができるのか?それは、私がそのものであるゆえに、説くことができるではないでしょうか。私とは天そのものです。

天とは神です。神の完全意識そのものが天です。この上江洲という肉体を通して、語り示し、顕現するのは、私、神そのもの。ならば、これが本当の天下りではないでしょうか?どこに天下りがありましょうか?
 
けっして、あなた方はいと小さき弱き、無能、無力の存在ではありません。あなた方の智慧は、いつでもいつでも、輝き、、愛は光は常にあなた方を通して顕現したくて顕現したくて、常にあなた方のこの心の扉をノックしていることを知らねばなりません。
 
「目覚めよ、我が子たちよ!目覚めよ!この肉我なるこの結果に支配される、あなた方ではあってはならぬ。私という根源そのものが即、あなた、、あなた方、、。」と、神は常にそう説いていること。

そこをみなさんは、理解してもらいたい。私が神、と説いているその私は、即、あなた、あなた方自身であることを知らねばなりません。私とあなた方とは、即、一体ではないでしょうか?
 
「自らに目覚めよ!自らの心を開きなさい。小さな自分を捨てなさい。神の偉大なる光に目覚めよ。」、と。

それは全知全能の天そのもの、ということを理解してもらいたい。「錯覚から覚めよ。幻覚から覚めよ。夢から覚めよ。」

けっしていと小さき、この表現体である、いつか色あせゆく、それそのものが、真のあなた方ではありません。

本来のあなた方は、無限の智慧です。無限の力です。無限の愛です。無限の光です。それが実在として真実のあなた、あなた方。
 
真実は、ただ一つ。姿、形、形態なき、無形無双の原因のない原因に、今、私と名付けて、みなさんの前に、こう示しているだけであって、本来、真のこの私が名前で示しえるはずはない。

私は私、という名前でもありません。神という名前でもありません。私は名前や、その形、形態、すべてをいっさいを超えた無形無双の原因のない原因として、無限の実在であることを知ってもらいたい。
 
じゃ、真実在るものはなんなのか。無形無双の原因のない原因です。ただそれを示すために、私と名前を付けて、皆さんの前にこのように示しているだけ。

だから、ここで、私が私と語るならば、無限の束縛、制約、限定のできない、私、私を説いていることであって、この肉の私を説いていることではないんだ、と。

肉体の私は、内在のこの実相を顕現するための道具にしかすぎないことを知ってもらいたい。
 
肉体、自ら無なり。肉体、自らゼロなり。肉体、自らは何の力もないんだ、と。しかし、あなた方も、あなた方の中に内在の神を認め、神と我と一体なり、という境地に至ってみてください。あなた方こそが、想像もできぬ顕現がされていくだろう、と。

これこそ、本当の天下り、と言います。内在の天の御心が、神そのものが、ひとりびとりのこの表現体を通して、ここで顕現し生かすことが、本当の天下り。けっして小さき弱きあなた方を私と錯覚して、幻覚に陥ってはなりません。
 
絶えず神に酔ってもらいたい。神よ、神よ、神よ、、わが内なる神よ。我が内なる神と、我とは一体なり。そのように、一瞬一瞬、常に神の名を呼べるあなた方になってもらいたい。

どうしてどうして、人間意識、肉体意識、個人意識という偽我そのものに、己を錯覚で生きながら、いつ神はあなた方のその伝導体を通して示されましょうか?
 
一度に二人の主人を持つことはできません。あなた方の肉我が、この表面に現れ示しているならば、内在の神、全知全能なる、その絶対なる者は常に内で沈黙を守っていることを知らねばなりません。

で、その内在の神こそが表面に顕現した時、偽我なる者は内で沈んでいるだろう、沈黙をしているだろう、、と。だから、一度に二人の主人を持つことはできない。どこにみなさんが意識を常にとどめおくか。
 
我すでに神なり。我すでに真理なり。我すでに愛なり、無限なり。

それをたえずたえず皆さんは、一瞬解き放つことなく、寝ても覚めても友達と話し合っている時も、この肉体を通して仕事をしている時も、食事をしている時も、我と神とは一体なり、、

もうその時期、その時がみなさんの前に、今存る、ということを知ってもらいたい。
 
早く、全知全能の神を受け入れて、自由自在、無碍自在、観自在に、この顕現できる真実の天下りをしたあなた方になってもらいたい。

天下りは、肉体を我として生きている者に、天下りなる者はありません。我、神なり。我と神とは一体なり。神我一体の境地。

この肉体を通して神が現れ示すことを、真実の天下りであることを理解してもらいたい。
 
共に助けあい、共にいたわりあい、足りない物は補いあい、いい物はわかちあい、今生こそ我々は真実の天下りに至り、この世界を美しき世界へと導いていきたいと思います。

そのためには、あなた方が、無限の智慧、無限の力、無限の愛、光の所有者にならねばなりません。

今までのように、愛をください、愛してほしい、愛を愛を、、と、得たい乞食では、どうすることもできません。

与えて与えて与え尽くし生きるあなた方でありますように。だから、神は能動、与える者と言います。肉体はそれを受けて顕現するための道具であるがゆえに、受動と言います。
 
能動なる神なる本質と、受け入れて現し示す受動なるこの肉体は、表裏一体ではないでしょうか。能動と受動とは一体なり。原因である神と、結果であるこの肉体とは、表裏一体なり。

そのように、プラスとマイナス、表裏一体。けっして、この能動と受動が分離してはなりません。能動と受動の一体感、神我一体の境地、これこそ真実の天下りと言います。
 
じゃぁ、神から分離して、肉体が私、私で生きている者に、ほんとの天下りが理解できましょうか?

体と言う、この表現体を通して神が顕現すること、それが本当の天下りであることを知った時、我々は智慧も力も、愛も光も、この表現体を通して内在の神が下り、示していくことだろう、と。

けっして蛇のように、寝ても覚めても、結果に支配された結果人間になってはなりません。蛇のように地を這う人間となってはなりません。
 
逆に我々は、黄金の翼を広げ、天空高く飛び立つ不死鳥のごとく、そのような悟りに至ってもらいたい、根源に至ってもらいたい、あるいは泥沼に花咲く蓮の花よりも、神我という美しき花を開花させるひとりびとりでありますように。
 
今日も魂高き、美しいあなた方と共に、ここに今日学べたことに感謝します。どうもありがとうございました。



上江洲義秀先生  ご光話
「神を演ずる」 2007,11 

皆さん、こんばんは。
皆さんはこの大舞台という地球に、何を演じに肉体衣装をまとってきたのかと。それは人間を演ずるためではなく、我は神なり、神を演ずるために、我々は今肉体という衣装をまとっていることを知ってもらいたい。
 
皆さんは、この一転生という人生を通して、神を演じ終えてテストに合格し、解脱に至ってもらいたい。

つまり解脱とは、この現象という見える世界から、宇宙真理という本質の世界に卒業して帰りいくことを解脱と申します。
 
我々が神を見失って人間意識・肉体意識・個人意識という物質世界に踊り踊らされて、何万回でも輪廻転生を繰り返してきたことを知ってもらいたい。

皆さんに思い出して欲しいと、何万回輪廻転生すれば気が済むのかと。神は遊び疲れた者よ、我が元に来なさいと。
 
いつも、この肉体という衣装をまとうたびに、偽我意識を演じ、一向に合格して、神の御心に帰る者がいない。

ゆえに今生こそは神を演じ終えて、テストに合格し、今生こそは実相という本質の世界に帰って来いという意味ではないでしょうか。
 
遊び疲れた者よ我が元に来なさい。我が元で永遠の至福を味わい生きよと。神を演じ合格し終えた者は二度と再び苦しみを悩みを、この現象の世界で演じ生きることはありません。これこそ解脱ではないでしょうか、これこそが離脱ではないでしょうか。
 
解脱とは、離脱とは、ただ肉体を破壊することではありません、肉体を脱ぐことではありません。今肉体を持ちながら、皆さんが無限という宇宙意識の中に目覚め生きることを解脱と申します。
 
皆さんの幾転生という人生をかけての最高の希望ではなかったでしょうか。何か知りたい、何かつかみたい、何か得たい、ここまで皆さんが追い求めてきた何かは、無限という宇宙意識の中への融合そのものではなかったでしょうか。
 
つまり神は我なり、我は神なり、我と神とは常に一体なりという神との合一、神との融合、それ成さずして皆さんはこの世界を卒業し帰ることはできません。

神を我として愛を、仏を我として慈悲を、常に演じ生きてもらいたい。皆さんは何を演じにきたのかと、憎しみ怒りを演じるためではありません。神の無限の大愛そのものではないでしょうか。
 
だから愛美しく常に正しく生きよと、お釈迦様はそれを八正道の物差しと、我々に説いて教えたではないでしょうか。

八正道の物差しを中心にして生きることができるならば、泥沼に花咲く蓮の花よりも、神我という美しき花を開花させることができるだろう。

それで南無妙法蓮華経を説いたではないでしょうか。けして南無妙法蓮華経・南無阿弥陀仏は死んだ人間を成仏させるために説いたものではありません。

生きている我々に宇宙真理という法則を説いて、無限という大海の中に融合させること、それが南無妙法蓮華経であり、南無阿弥陀仏であることを知ってもらいたい。


だから人間意識・肉体意識・個人意識から神性意識・霊性意識・仏性意識へと、皆さんの目覚めを、神は常に待ちわびているではないでしょうか。

目覚めよ、目覚めよと、けしていつか虚しく朽ち果てていく、この偽我という小さな肉体が真のあなた方ではなく、宇宙そのものとして無限大のあなた方であると。

宇宙、即、我、宇宙即我 、父なる神と我とは一体なりと。それを皆さんが八正道の物差しを中心にして正しく生きることができるならば、誰しもが無限という合一ができると説いているではないでしょうか。
 
正しく見、正しく思い、正しく聞き、正しく仕事をし、正しく生活をと、一番最後に神との合一、仏との合一、定めに入ると言っているではないでしょうか。

人間意識・肉体意識・個人意識で、この現象の世界を卒業し帰れた者は一人もおりません。だからこそ六十何億の人間が輪廻転生という法に縛られて、ここに舞い戻ってきたではないでしょうか。
 
肉体を持つ方法は二通り、正しく神を演じ終えることができなかったゆえに、またやり直しのために輪廻転生で、この現象の世界に肉体を持って降りてきた者。

今生神を我として演じ終えて卒業し帰ることはできた、しかし自分だけ神の至福を味わい生きてはならぬと、愛おしい同じ兄弟姉妹のために、愛の手を差し伸べていきたい、

光の道を示してみたい光明路、天船に乗せるために光明路を印に肉体をまとってきた者。だから二通り肉体を持つ方法があると言います。
 
けして皆さんは輪廻転生という仮相の法則に縛られて肉体を持つのではなく、今生こそは兄弟姉妹のために愛の手を差し伸べに、光明路という光の路を示しにくるあなた方になってもらいたい。

あるいは今生卒業して帰った者は肉体持たずしても、一人一人の守護霊として、守護神として留まる方もいましょう。

皆さん一人一人には、目覚めるまで皆さんを守護している方が、常に見守っていることを知らねばなりません。

守護神・守護霊、意味するのは一つです。皆さんが目覚めるまで、常に皆さんを導き下さっているではないでしょうか。
 
なぜ見ることができぬのかと、なぜ語り合うことができぬのかと、それは余りにも我々が物質主義者で生きてきた結果ではないでしょうか。

だから物質主義者から霊的思考者へと、我々が変生変性を遂げぬ限り、皆さんを見守る守護神も、守護霊も、あるいは指導、導いている方々も、また内なる神の声さえも聞くことはできぬだろう。
 
守護神・守護霊とは、我々みたいに肉体という現象我を背負って、幾転生という人生の過程を、様々な試練を、すべて愛で乗り越えた方々が守護霊・守護神として、あなた方を導いていることを知ってもらいたい。
 
皆さんは私だけが生きているというならば大きな過ち、皆さんには守護霊が、無限の全知全能なる神が、皆さんの内にはちゃんと内在していることを知ってもらいたい。

皆さんは世界の果てに旅行に行ったところで、世界の果てどこまで行ったところで、皆さんは私一人ということはないことを知ってもらいたい。

常に皆さんには複数の指導霊・守護霊や全治全能なる内なる神が一時も離れずに、皆さんを見守っていることを知ってもらいたい。


人間意識・肉体意識・個人意識で、どうして物質思考者が、それを見ることができましょうか。

私が意識でもってヒマラヤを訪ねた時に迎えてくれた聖人が、私にこう言いました。なぜ同じ場所にいながら、我々の姿を見ることができぬのかと。なぜ同じ場所にいながら、我々の御言葉を聞くことができぬのかと。
 
それは余りにもあなた方が物質・物質に支配されて肉体を自分として、この物質世界がすべてだという錯覚が大きな雲で、自らの神我を覆って、その声さえも聞くことができぬではないのかと。
 
だから心から一切の執着を、すべての思い癖、悪習をすべてこぼし去った時、皆さんの心は美しく輝くだろう。

美しい心に無限の愛で満たした時に、皆さんはすべてのすべてを正しくものを見たり、感じたり、聞き取ることができるだろう。
 
すべては美しき天使たち、無限に飛び立つ美しき天使たち。すべてに本質である天の姿を、皆さん感じ取ることができるだろう。
 
皆さんの前に、ただ結果として花々が咲き誇っているではありません。結果として咲き誇っている花々の背後には、必ず原因という無限の愛が宇宙真理として、神の御姿を見せていることを知ってもらいたい。


私は一度に二通りを見ています、形として結果なる花々も美しいと見ると共に、その背後にはより一層命の輝きを神の御姿として、真の美しいものとして見ることができると言います。

ここに立ちながら見るあなた方は、いつか虚しく年老いて朽ち果ていくあなた方ではなく、不死不滅永遠の美しきあなた方を神我として、私は今感じ見ていることを知ってもらいたい。
 
単なる女性として、単なる男性として、皆さんはここに肉体をおいているではありません。その背後には永遠不滅の宇宙真理を、神の実在として宿していることを知ってもらいたい。神は皆さんから一瞬感だって分離したことがありましょうか。
 
皆さんがまず明想という手段を通して深く自らの内に潜って、そこに神を見い出した時に、ここに神がいたのかと皆さんが言うならば、私はあなた方から一度だって離れたことはないのだと、

過去において、今において、未来永劫に、あなた方の内にいるにもかかわらず、あなた方が訪ねて来なかっただけにしか過ぎぬではないのかと、かならず神は皆さんにそういうだろう。
 
その時皆さんは今まで至るところに神よ・神よと求めて梯子していた方々が、神は我が内に在り、手よりも足よりも、初めから身近な我が内にいたと、神との融合されていくだろうと。
 
何年か前に私はこういう体験をします、八十何歳かの方が神を知りたい、神を見たい、神を実感したいために、いろんな宗教を梯子しながら何千万という金を使ったと言います。

しかし今の宗教に神を見せる能力はありません。偶像崇拝・盲信・狂信の中に、どうして神を見ること、実感することができましょうか。汝盲信するなかれ、汝狂信するなかれ、汝偶像するなかれ、座して神を拝むことなかれ。
 
そのように何千万という金を使いながらも、神を見ることも、実感することもできなかった。今の宗教には神を見せる力がないのかで、神を宗教で求めるの止めて神社・仏閣・お寺・教会・宮を梯子したと言います。

そこでも見いだすことができなかった、とうとう探し疲れて探しあぐねて、我が内に帰りソファーに座りぼんやりしていると、神は内から答えたというではないでしようか。
 
神は我が内に在り、あなたの心はどこをさ迷っているのかと、それで初めて目が覚めたと言います。
 
だから私が断言して皆さんに言い切ることは、どんな方法で皆さんが神を見い出したにしても、地球の果ての果てまで行っても、神を誰かによって皆さんが与えられて見い出したにしても、

ず皆さんがいうことは、神は我が内に在り、いまだかつて人手に渡ったことはなかったと。

あるいは神は手よりも足よりも、身近な初めから我が内にいたと、必ず言うでしょう。
 
なぜならば今私はすべてのすべて在って在るものの中に、今神を見、今神を感じ取っているからである。神のましまさぬところがどこにありましょうか、
針先一点空間なくそこに神は偏在し、遍満していることを知らねばなりません。
 
だからこそ神は無限なり、神は一元なり、神は愛として完全なりというのは-神ほかに何かがいるというならば、神は無限ではありません、神一元ではありません。

何を見ても形の背後には、形態・姿の背後には、本質神そのものが内在しているがゆえに、神はすべてのすべて、在って在るものを通して生きる宇宙真理・命と言えるではないでしょうか。
 
神ほかに何かが見れるというならば皆さんの目は盲です、目は曇っています、目を見開いた者はすべてのすべて在って在るものに神を見ることができるだろうと、神を感じ取ることができるだろうと。
 
花々は結果として単なる花々が、ここに咲き誇っているのではありません。その背後にはその花々を咲き誇らす力が、愛として神の実在として働いていることを知ってもらいたい。
 
だから人間・肉体・個人という己の働きなんてないと言います。肉体自らは無なり、肉体自らはゼロなり、肉体自らは一点の力も存在しているのではないのだと。
 
しかしあなた方が神、我として一体感の中に融合し自覚した時には、全知全能なる能力はあなた方が観自在・無碍自在・自由自在に示し生かすことができるだろうと。

けして皆さんはいと小さき、弱き存在があなた方ではありません。すべてのすべてを超越できる神として、皆さんは真実なる宇宙生命であることを知ってもらいたい。
 
真実を見る、真実を思い、真実を語るとは、真実はこの大宇宙ただ一つ、神のみが真実です。だから皆さんが神を語れなければ真実を語ってはおりません。すべてのすべて在って在るものから神の御言葉を、メッセージとして受け止めてなければ、真実を聞いてはおりません。
 
いつか虚しく朽ち果てていく五感という結果世界に、五感で振り回されて、あたかも本物のごとく見たり、感じたり、捉えたりで、なんてそれに振り回されて、真の正しい演技を見失っているのかと。愛として慈悲として神仏を演ずるために、今地球という大舞台に降りていることを知ってもらいたい。
 
何を演じにきたと言いましょうか。憎しみ、怒りと言いましょうか、戦争・闘争と言いましょうか、それほど愚かなる者はいません。

だから人間という愚かなる者は肉体まとう前には、正しく神を演じて今生こそは偽我の自分から神我の自分へと、低我の自分から高我の自分へと、今生こそは解脱に至って参りますと、

その約束で肉体を持ったのにもかかわらず、また歌を忘れたカナリヤのように、演技を演ずることを忘れて、また偽我そのものを演じて、憎しみ・怒り・嫉妬・裁き・戦争・闘争・対立となんて愚かなる者が、そのような結果を皆さんは見てはなりません。皆さんは美しき大愛を演ずる最高な大舞台に立っていることを知ってもらいたい。
 
何を演じましょうか、何を演じ終えて帰りましょうか。今生こそ一人一人が卒業し帰り行くことができるか、また輪廻転生という鎖に繋がれるか、今生は非常に大切な時。

イエス様は幕が二つに引き裂かれる時が来るだろうと、今の時代・今の流れを預言されています。

それは霊的思考者として目覚め、神を我として正しく演じ終えて卒業して帰れるか、また物質思考者として物質に振り回されて偽我そのものを演じて、また我々は演技し直すために、輪廻転生をくり返す愚かなる者となるのかと。
 
無知のままに、盲のままに、迷いのままに去るあなた方になってはなりません。無知・盲・迷いとは私私というけれど、本当の私が見えない者を盲というではないでしょうか。

私私言いながら、真の私を知らぬ者を無知というではないでしょうか。私私と言いながら、真の私を理解できぬ者を迷いというではないでしょうか。
 
だから無知のままに、盲のままに、迷いのままに一転生という人生を終えてはなりません。今生こそは皆さんに真実神を我として演技を終えて、真の自分が神であることに目覚めて、今生こそは解脱に至ってもらいたい。
 
そのためには偽物を一切皆さんは脱がねばなりません、肉体という現象我も、これは皆さんに破壊せよという意味ではありません。

粗末に扱えという意味ではありません。与え生かされている限りは、この肉体も常に大切にして神を演ずる道具として、大事に扱わねばなりません、粗末にせよという意味ではありません。
 
しかしそうある中にも皆さんの意識は、この肉体という束縛・制約・執着からは脱ぎ捨てていなければなりません、それが出家ではないでしょうか。

出家は皆さんの家庭・家族を捨てることが出家ではありません。肉体は命の住む家です、この肉体という家を与え生かされていながら、この肉体という家に捕らわれない自分、執着おかない自分、これが出家ではないでしょうか。
 
私は皆さんの前に立ってこの肉体を我として錯覚はしておりません。錯覚から覚めよ、肉体というその器が、肉体というその現象我が真のあなた方ではないのだと、真の私ではないのだと。

今私は命が私であることを自覚して皆さんの前に立ちます、だから肉体という重さも感じておりません、肉体そのものここに在るのかないのかさえも、私が意識しなければ、肉体を感じてもおりません。そ

の状態で常に肉体から意識を解き放つことができるではないでしょうか。
 
皆さんが肉体から意識を解き放って、無限という大海の中に、その意識を融合させることができたならば、この現象という見えるもろもろのものが、どうしてあなた方を支配することができましょうか。ど

んなものをもってしても皆さんを束縛・制約・限定することはできません。
 
だからこう言います、六十何億の人間が、私を縛ることができるのかと、私を混乱に追いやることができるのかと。

私とは万物一体の無限の意識そのものを、私は今私と表現しています。私という無限なる意識を誰が束縛しえましょうか。

誰が混乱に追いやることができましょうか。感自在・無碍自在・自由自在を味わい生きれる真のあなた方であることを知ってもらいたい。
 
我意識したところに我在り、我の思ったところに我いる。先ほども世界という世界の話を言葉に出した瞬間、無限に世界すべてを貫いて無限に広がっていく自分を体験しているではないでしょうか、なんて素晴らしいことか。

ここに立っていながらも無限に己を広げることができることを知ってもらいたい。
 
なぜそれほどの能力を、それだけの力を、それだけの無限の愛を与え生かされているにもかかわらず、私はいと小さき者よと、私はいと弱き者よと、なぜ自らを限定し束縛し自縛するのかと。自らの自縛を、神に対する理解力をもってすべてから解放されて欲しい。
 
そのために明想という正しい手段を用いて、汝すでに神なり、汝すでに仏なり、最高マントラと言えるではないでしょうか、

我は神なり。だからマントラとは訳のわからぬ言葉を唱えることがマントラではありません、神我から語る一言一言はマントラではないでしょうか。
 
なぜ神我そのものが言葉として降ろしたものがマントラであって、何をマントラと言いましょうか。神我から語る一言一言はマントラです。

それを文字にしたのが曼陀羅です。我々が訳のわからぬ文字や絵を見つめて曼陀羅と言いましょうけれど、自分が理解できぬものを見つめて、何の価値があるのかと、何の効果があるのかと。
 
皆さんは理解力を持つために本を読み、話を聞き、様々な知識を蓄えていることを知らねばなりません。

いつかはその知識を実感に変えて、皆さんが無限の大海の中に融合する、真実の糧として使えるあなた方に成ってもらいたい。
 
しかし知識で悟った、話を聞いただけで悟った、本や書物を読んで悟った、知識を蓄えて悟ったというならば、その知識はあなた方を殺すだろう、そこまで訴えている聖人方がいることを知らねばなりません。

知識によって殺されるという意味はどうなのか、知識そのものがすべてであるという錯覚が、真の自分を閉ざして、真の神を見失っていくことが、それが殺された表現ではないでしょうか。

皆さんを殺すという意味ではありません。真の自分を見失った者に何の価値もないこと。


だからこの世の中には四タイプの人間がいるというではないでしょうか。命に生かされていながら命を見失っている者、これを死人というではないでしょうか。

だからイエス様はたとえ片腕を失っても、命に入った方がいいと、これは神との融合を意味します、神との合一を意味します。

あるいは悟りに目が妨げるというならば、目を潰せと言ったのもその意味ではないでしょうか。

皆さんに目を潰し手を断ち切りなさいという意味ではありません。それほど皆さんが無限という宇宙真理に融合の価値があるという意味ではないでしょうか。
 
取るに足らないものに振り回されて、なんて真実の宝を見失っていく人間の多いことか。命そのものがすべてです。

だから命そのものに生かされていながら、命を見失っている者、これを死人と申します。死人がゴロゴロしているようなお墓のようなものであると、今の世の中は。

ぜならば私私というけれど、命を私として表現しているのは皆無にも等しいほど。ほとんど肉体という現象我をさして私、だから死人がゴロゴロしているようなお墓のようなものである、命に生かされていながら命を見失った命知らず、死人と言います。
 
あるいはただ悩み、苦しんでいる時のみ、神よ・仏よ、我を助けて下さいと祈る病人。

ここで話しを聞いている限りは、あなた方は命という本質に生かされずして誰が存在できるのかと、花々一輪咲き誇ることはできない、蟻一匹存在することはできない、一人だってここに存在することができるのかと、そ

う言えば、なるほどすべての本質は命であり、愛であり、神そのものと、そうは言うし、そう聞くけれど、

またここから一歩去れば人間だ、肉体だ、個人だという偽我そのものに皆さんが舞い戻っていくこと。これをボンヤリ者と言います。
 
あるいは健康な者とは今日与えられた一日が二十四時間ならば、常に二十四時間が神に酔いしれて生きている者。

神に酔うとは常に四六時中神を思う、神を意識し、我神なりという実感から離れぬ者、これが本当の健康な者と言います。
 
ほとんどの人間は死人か、病人か、ボンヤリ者か、ほとんど健康な人間なんていないではないでしょうか。我は神なり、神は我なり、我と神とは常に一体なりという境地に至って、本当の健康になってもらいたい。


ならばいかなる試練も、いかなる宿題も笑い・喜び・微笑みながら、すべてを愛という剣で、乗り越えることができるではないでしょうか。

人間意識・肉体意識・個人意識で、どうして偽りという偽りを我として錯覚し生きながら、どうして偽物が偽物をうち消すことができましょうか。
 
光くれば闇去ると言われるように、どうやって自我を消そうかとか、もがきあがく人間もいましょうけれど、偽我でもって偽我が消せるならば、とうに皆消しているだろう。怒りでもって怒りが克服できるならば、とうに皆怒りも消しているだろう。
 
これは私が一番体験者、怒りを消すのは愛です、戦争を癒すのは愛です、憎しみ、怒りをすべてを超越するのは愛ほかにないことを知ってもらいたい。だから皆さんに愛に生きよと、すべてを許し、すべてを愛し。
 
よくキリスト教においては洗礼を受けると言います。洗礼を受けるとは命そのものが神である自覚をし、命に捧げ、命をつまり神を演ずる者が本当の洗礼の意味であることを知ってもらいたい。
 
あの寒い中にプールの中に浸かって水をかぶって、寒い思いをするのが洗礼ではありません。神に無限の命を皆さんが捧げ、神との一体感で神の顕現体となっていくことが、これが本当の全託であり、本当の洗礼であることを知ってもらいたい。
 
皆さんが教会に行って、冬に寒い思いをして頭から水をかぶったところで、なんの効果があるのかと、寒い思いをしただけにしか過ぎぬではないでしょうか。

それでもって無限の智慧を得ることができるのかと、無限の力を持つことができるのかと。神を我として受け入れずして、無限の能力を得た人間は一人をおりません。
 
我は神なり、我神なるがゆえに無限の智慧、無限の力、無限の愛の泉の宝庫は我が内に在りという、その実感から現し示しいけることを知ってもらいたい。

からこそ悟りとは家庭・家族を捨てて山や洞窟に隠もることではなく、今与えられている皆さんの家庭の中で、今与え生かされているこの社会で、真の自分が宇宙真理である正しさを見失うことなく、

我は真理なりという境地に至って生きることが、これが本当の洗礼であり、本当の全託であり、本当の神との融合。そのために皆さんは幾転生も幾転生も、この肉体という衣装をまといきたではないでしょうか。
 
今生も皆さんはただ泣き生まれて、泣き去るために皆さんの存在の目的ではありません。子供たちはなぜ泣きながら生まれ出てくるのかと、

また不自由であるこの肉体という鳥籠に閉じこもって、又一転生という人生を苦しみ、もがいて修行せねばならぬのかと、そのために泣いていることを知ってもらいたい。

泣きながら生まれ出てきたならば、せめて去る時は喜び、微笑み、笑いながら、神を正しく演じ終えて皆さんが解脱、この世を卒業して自信もってこの世を帰るあなた方であってもらいたい。
 
いつ神に肉体を脱げと言われても、常に皆さんがいつでも喜び・微笑み・笑いながら、我は神なりとして常に神を演じ終えることができたんだと、自信もってどこにでも立てる皆さんになってもらいたい。
 
あの時に後一歩努力していれば良かった、あの時に、あの場所で、もう少しは学べたのに。だから虎は死んでも美しい皮を残すけれど、人間は死んで後悔を残すと説いたではないでしょうか。死んで悔いを残すと言っているではないでしょうか。
 
皆さんがもし明想という手段を使えて、自在に皆さんが意識チャンネルを切り替えて、この現象世界から去った幽界の皆さんの身内の方を見て下さい。一人一人が誰一人この幽界で満足している者はいないだろうと。

一人一人が後悔を悔いを残しているだろう。私の一転生という人生はこんなはずではなかったと、今生こそ偽我の自分から真我の自分へ、低我の自分から高我の自分へと目覚めて参りますと、そう言ったのにもかかわらず迷い苦しんでいる人間のなんて多いことか。

これは私がハッキリということは、小学校からそれを私は理解できたからであると。だから私はにとってはその意味が非常にわかります。
 
皆さんは過ぎ去った時間は戻すことはできません、まだ来ぬ未来は時間は使えません、生かされているこの一瞬という、すべて時間・空間・壁・距離一切を超越した無限としての実在を、今皆さんが把握してもらいたい。
 
どんなに過去をこうすれば良かった、ああすれば良かった、誰が戻せましょうか。誰がまたそこに生きることが出来ましょうか。まだ来ぬ未来の時間一分、一秒使えた者がいるでしょうか。そこに生きることができた者がいるでしょうか。
 
だからこそ実在とは皆さんが我は神なりと実感しているこの瞬間こそが、無限として時間・空間・壁・距離を超えた無限の実在であることを知ってもらいたい。

この一瞬という実在を理解できるならば、皆さんは何ものからも縛られることはありません。我々はこの実在というこの瞬間を知らぬがゆえに、思い悩む未来に縛られ、また振り返って過去そのものに皆さんは執着をおいていることほかにありません。
 
過去、未来は今の一点なり。皆さんが今の一瞬というこの実在を知ることにおいて、どんなに幾転生という人生の過程において邪悪なカルマを背負ったにしても、すべてそれそのものを克服していることを知るでしょう。

これから先に皆さんがどんな邪悪な未来を描いていても、この一瞬という実在が大愛として皆さんが演ずることができるならば、神を我として演ずることができるならば、そのすべてが超越されることを知ってもらいたい。
 
だから私には過去・未来は実在ではないし、また輪廻転生・カルマは実在ではないのだと。実在するのは無限として完全意識のみが実在。私が無限として完全意識の中に融合した時には、今私は肉体もって何か表現をしようというその意識を持たぬ限り、肉体なるものは感じてもおりません。
 
なんてこの肉体が超越される喜び、肉体の重さも感じません、肉体なるものに苦しみを体験する必要もありません。

いまだかつてこの肉体背負いながら、一秒だって私は病み苦しんだことはありません、一秒だってこの肉体横に倒した体験もありません。肉体が我ではありません、肉体があなた方ではありません。
 
肉体は神の真実を演ずるために皆さんがまとった衣装にしか過ぎません。肉体は一転生という人生行路を旅するための単なる乗り船にしか過ぎぬ、乗り船があなた方ではなく、真に天船という神我こそが真のあなた方であることを知ってもらいたい。
 
天船に乗りし我、二度とこの世の荒波にのまれることはないと。誰があなた方を振り回せましょうか。誰があなた方を傷つけることができましょうか。この現象の世界がどう荒れ狂ったところで、皆さんの本質に指一本触れることはできません。
 
我この世の無知・闇・悪・迷いをすべてを越えた者であると。すべてのすべてを支配する無限の実在であると。我この世の闇を照らす光なり、我この大宇宙を照らす光なり、この世の無知・闇・悪・迷いが、我が内なる愛という光には指一本触れることはできなかった。

闇の中にいて闇の染まらない自分、悪の中にいて悪に影響を受けぬ自分、これが真の実体皆さんの神我そのものではないでしょうか。
 
だから神我はこの世の何ものによって傷つけられることもありません、病み苦しむこともありません。明日を明後日を心配不安がる神我なるものはどこにも存在しません。神我は過去において、今において、未来永劫に完全無欠、絶対実在と申します。
 
皆さんが今まで在る在ると見てきたもの、在る在ると皆さんが錯覚してきたもの、一つだってそこに実在があったでしょうか。実在ならば永遠であらねばなりません、変化することなく無限の不死不滅なるものであらねばなりません。それは皆さんの中に内在の宇宙真理、神我と申します。
 
これこそ皆さんがつかんだ時に、宇宙の法則の中に観自在・無碍自在・自由自在すべてのすべてを、皆さんが超越することができることを知るでしょう。

汝すでに神なり、汝すでに仏なり、最高マントラをもって無限という大海の中に融合できるあなた方になってもらいたい。明想という手段を正しく皆さんが使い生きることができるならば、今の今無限との合一が可能ではないでしょうか。
 
昔は家庭・家族を捨てて山に隠って一人の分は托鉢でもって食をしながら、食を得ながら、そこで明想という明想に明け暮れて修行したと言います。

しかし今の時代はどうなのかとちゃんと家庭もありながら、ちゃんと職をもちながら、明想という手段をもって我々は無限との合一が果たせることを知ってもらいたい。
 
だから神を悟るには一人でなければならぬとか、一人者ではなければならぬというのは、それは遠い遙か過ぎ去ったものであることを知ってもらいたい。

今は皆さんが寝る時間も、神と交わる時間に当て、無駄な時間を浪費する時間も正しく使い生きることができるならば、誰をも今生神との一体感が可能であることを知ってもらいたい。
 
八時間寝る時間があるにもかかわらず、明想する時間がないと言います、朝に昼に晩に取るに足らないものに明け暮れている時間はあるのに、世間話や人の噂話に明け暮れている時間はあるにもかかわらず、明想する時間はないという人間が多すぎるではないでしょうか。
 
私が小学校一年から神はなぜ昼と夜を与えたのかと、それを追求した時にその答えを得たではないでしょうか。

太陽のある昼は世のために、人のために、神のために、この伝導体である肉体を使って、道具を使って常に美しく神を生きよと、夜に閉ざされた闇の時はそこからが本当の皆さんが真実なる世界へと、神との交わる時間に皆さんが時間をとって欲しいと、神は夜という闇を作ったではないでしょうか。
 
今の人間のように夜にさえも電気をつけて残業で、取るに足らないものに振り回されている限り、どうして神との合一ができましょうか。だから今生は非常に厳しいです。
 
だから今生まれてくる赤ちゃんが誰もいないはずなのに、手足を空中にバタつかせながら誰かを見ているように、誰かと語りあっているように、微笑んだり、声をあげて笑ったりしているのは、あれは守護霊の方々や、天使方や、神との話をしていることを知ってもらいたい。
 
あなたは今生を選んで偽我なる自分から、神我なる自分へと解脱に至ってくるのだと、目覚めて参りますと、あなたは今生肉体という衣装をまとったけれど、今生の誘惑は厳しいよと、右を向いても左を向いても、前を向いても後ろを向いても、何百年・何千年前の昔とは違って、今は物質、物質に洗脳された今の世界で非常に厳しい時代。

それでもあなたはやる自信があるのかと、やれるのかとそう言えば、任せておけと、それで話し合って喜んだり、微笑んだり、笑っている姿を、皆さんは見たこともありましょう。
 
今生は非常に厳しい時代、どこを見ても誘惑・誘惑の今の時代、徹底してそれを克服して皆さんが神我一体という境地に至るには、昔の何十倍・何百倍の努力に努力を積み重ねばなりません。
 
イエス様が、お釈迦様が、愛の法則・慈悲の法則を説いた時代は、まだ今のような物質文明はなかった、それにしても神との融合は難しかったではないでしょうか。

プラス今はどこを見ても物質・物質の誘惑の中に徹底して皆さんは意志と、忍耐と、勇気と、努力を持たずして、それを乗り越えることができた者はおりません。

だからこそ皆さんには神は無限の意志・勇気・忍耐・努力を与えたではないでしょうか。
 
それはなんのために、それを通して私の中に入って来いと、無限なる私と一体感でありなさいと、そのために与えられたことであって、この世の物質を得るために意志、忍耐と、勇気と、努力が与えられているではありません。

非常にそれの使い方を誤ったではないでしょうか、と言って皆さんに私は仕事を捨てなさいではない、けして金・富を粗末に扱いなさいではない。

皆さんが世界の金を得たところで、この世を卒業して解脱に至ることができるのかと、神を演じずして皆さんが、この世を合格して帰ることができるのかと、そのようなものではないでしょうか。
 
だからこそ皆さんがすべての誘惑を退け、すべての執着を脱ぎ捨てて、一転生という人生の過程において、皆さんが詰め込んできた思い癖、悪習すべて一切をこぼし、無限という大愛の中に目覚め、今生こそは解脱・離脱に至ってもらいたい。
 
汝すでに神なり、汝すでに仏なり、正しいマントラで皆さんが無限という大海の中に錨を降ろしてもらいたい。大海に染み入る一粒の滴、一粒、一滴、この無限という大海から分離した者が我あなた方ではありません。
 
なぜ無限という大海からこのように個我なる者が創造されたのかと、無限という大愛を一人一人の肉体という衣装をまとった、その個性を通して、医者は医者の立場から、科学者は科学者の立場から、音楽は音楽家の立場から、

会社の社長は社長の立場から、学校の教育者であるならば、教育者の立場から、無限という神を美しく正しく愛そのものとして演じ生きよと、そのために与えられた演技ではないでしょうか。
 
だからこそ様々な演技を演ずる方々が、ここに出演しているではないでしょうか。例えばここに王という役を選びたい、六十何億の人間が王を望んで、家来を演ずる者がなければそのストーリーは成り立つことがありましょうか。

一人一人に与えられた役割は素晴らしいもの、一人一人に与えられた演技は大切です。だから誰彼よりも誰彼が特別ではありません。王を演じている者と家来を演じている者とは全く一つであることを知ってもらいたい。
 
なぜ王演じて家来を演ずる者がいなければ、けしてストーリーは成り立たない、その逆もその通り。一人一人が正しく己の持ち場を、正しく神を我として演じ、このストーリーを描いた時に本当の美しいユートピア世界の完成ではないでしょうか。

共に我々は誰の演技よりも演ずる場所よりも、誰彼のものが特別だ、誰彼のものが素晴らしいではなく、一人一人が素晴らしい、一人一人が美しいと言える我々になってもらいたい。
 
共に手を取り合い、助け合い、今生こそは神を演じ終えて、一人一人が無限という大海の中に解脱を遂げていきたいと思います。

共に無限という大海の中に今生こそは錨降ろせるように努力していきたいと思います。無限という大海の中にいつでも出入りできるあなた方であらんことを願います。

今日も皆さんと共に学べたことに感謝します。どうもありがとうございました。


覚者・知花敏彦先生のご光話
人間はなぜ神か 神と人間の関係

 私達は自分自身の中に神を秘めています。
「キリストとは何か」と言われたら、皆さんは人格神のイエス・キリストを想像します。十字架にかけられたイエス・キリストの姿を想像しますが、そのキリストは皆さんの魂の中におられるのです。

 ですから、この肉体というものはその魂の中におられるキリストを顕現する、この世でキリストの働きを現す媒体であり、そのキリストの住処(すみか)であり宮であるのです。

 しかし、その宮なる肉体、その肉体に皆さん方は捉われています。皆さん方一人びとりが、自分の中にキリストを宿している事を忘れてはなりません。

 世の中では、自分の浅はかな物差しで人格神を作って唯一の救い主と拝んでいます。神は皆さんを通してお働きになられます。
 決して人間の手作りのお宮を通してお働きになるのではありません。

 神は「あなた方は生ける神の宮なり。仏の宮なり」と申されています。
生きた神が皆さん一人びとりの中におられるという事です。

 その生きた神の名前がキリストであり仏陀であるのです。それは宇宙意識の事です。私達の神性なる意識の事を「キリスト」といい「仏陀」というのです。
 キリストを宿し仏陀を宿している魂そのものが、偉大なる存在である事をあなた方はみんな忘れてしまっています。

 それでは「人間と神の関係」はどうなるのでしょうか。もうここまで話をすれば、個人個人でそれを理解していかなければなりません。
 本当に「自分の肉体を通してキリストをこの世に顕現しているのだろうか」と言いたいのです。

顕現するのだ〉と、努力する事です。自我という肉に溺れない様にし、にくから出てくる欲望を禁制しコントロールする。
 それを克服する事によって、神性なるキリストが私達を通して現れる様になります。これを成さずにして、何者もこの世の使命を果たした事にはならないのです。

 私達と神とは切っても切れない関係です。「キリストより語る」。それは言霊となって、神の誓願となって、その力は偉大なものとなります。

 私は以前、片方の耳が聞こえない人に会いました。その聞こえない耳は鼓膜喪失のため、医者は治療不能であると診断したものです。
 
 私はキリストより聞こえない耳に命令しました。
『耳の意識よ、しっかりしなさい!』『神の使命を果たしなさい!』と。

 その時、何が起こったと思いますか。鼓膜のない耳が聞こえる様になったのです。その人は「聞こえます!」と言うのです。小さな声で「もし…もし…」と言えば、大きな声で「ハイ!ハイ!」と言うのです。

 なぜ、そのような奇跡が起きるのでしょう。内なる言霊より、キリストより、その肉は造られています。御霊は、キリストは主人です。
 その主人が造った三次元的なバイブレーションは、命令的なものを与える事によって完全となったのです。

 ですから、肉はあくまでも造られた物であって、造り主である御霊(みたま)がそれを支配して皆さんの中におられます。

 神は皆さんの中におられます。肉を支配する神が皆さんの中におられるのです。それを自覚出来るようになりますと、もうこの世で悩む事はありません。もう皆さん方は病気になる事がないのです。

 肉体が何であるか分からないから、神理が何であるか分からないから、今まで、迷い、苦しみ、肉に捉われて来たのです。

 いくらでもあなた自身の御霊から、不調和を起こして悪くなっているその部分に命令することが出来るという事です。

 現実に、今ここに胃下垂だという人に、上江洲さん(※上江洲義秀先生)がその人の胃の意識に呼びかけて、
『元の神から与えられた使命を果たしなさい』と命令しますと、胃は造られたものであり、造り主の御霊には逆らえませんから、お臍(へそ)の下まで落ちていた胃がグーッと上の方へ上がってきます。

 胃だけが聞くのではなくて、全ての細胞は皆さんの言霊によってそれが支配できるという事を体験しなくてはなりません。

 上江洲さんだけがそれが出来るのではありません。上江洲さんの持っている御霊もキリストも、皆さんが持っていて御霊もキリストも同一のものです。それをあなた方が信ずるか信じないかで、発揮する力が違うのです。

 それを「信仰」と言います。「汝の信仰、汝を癒やせり」。それは信ずるか信じないかという事です。神を信じているかいないかはあなたの信念にかかります。信仰にかかります。

 上江洲義さんは神が自分を通して働いて、その力が肉体を支配し、その胃を支配する事が理解出来ていますから命令する事が出来るのです。
 なぜ、あなた方にはそれが出来ないのか、何処に差があると思いますか。それを信ずる心の強さ弱さによって違うのです。

 あなた方は自分自身の肉体を、あなたの御霊によって支配しなければならないのです。世の人々は、多くの人々は、殆ど肉によって支配されています。

「この世で造られた物によって、なぜ私達はそれに支配される存在なのだろうか」という事を知らなくてはなりません。

 今、肉に生きているのではないでしょうか。肉の支配下に置かされているのではないでしょうか。肉に操られ、肉が「何かをしなさい」といえば、あなたはその何かをするのです。

 肉が酒を飲めといったら酒を飲む。肉が賭け事をしたいといったら賭け事をする。その様な不調和なものはみんな肉から出てきます。

 私達は肉の奴隷ではないのです。肉というものは、肉体というものは、私達のキリストの支配下における部下なのです。

 この世に現れているもの。その物質的三次元のものは、すべて御霊によって造られているもので、肉が作り主ではないのです。
 その造り主である御霊が、皆さん方の中に、一人一人の中に宿っている事を知らなくてはならないのです。

 イエス様はその事を悟っておられましたので、風を支配されました。海を支配されました。
 台風が荒れ狂う大海原の小舟の中で、「風よ!海よ!静まれ!」と。

 それは何処から支配されたと思いますか。何処からその声が出たと思いますか。それは自然界を創造した神のご意志であるキリストにより、言霊によって、風と海を支配されたのです。

 この三次元の全てのものに御霊が存在しています。しかし、人間は万物の霊長です。神に似せてお造りになっています。この世に現れているものは何物も礼拝してはなりません。

 私達が礼拝しなければならないものは、神であるキリストそのものだけです。尊敬はしていいのです。大事にしてもいいのです
 しかし、その支配下に置かれてはならないのです。そうなりますと人間は万物の霊長ではなくなります。

 なぜ万物の霊長であるものが、山神様を拝み、海神様を拝み、火の神様を拝み、水の神様を拝まなくてはならないのでしょうか。

 私達は山のために、海のために、水のために造られているのでしょうか。神は私達のために山をお造りになり、海をお造りになり、火も、水もお造りになったのです。
 そして、神は私達にこの三次元のものを支配させる為に、私達をここに送って下さったのです。

 しかし、今の世の中の人は、海神様だ、山神様だ、火の神様だ、水の神様だといって拝むのです。山はどうでしょうか。山はあなたの為にあるのか。

 山のためにあなたが生きるのか。火はどうでしょうか。火はあなたのためにあるのか。火の為にあなたが生きるのか。それなのに、それを拝む人が一杯いるのです。

 支配すべきで怖がる事ではないのです。それらは、あなた方の御霊によって支配すべきなのです。しかし、あなた方はそれを怖がっているのです。

 だから、色々なこの世の三次元的な諸天善人を祀って、それを拝む習慣性というのが出て来ているのです。もうすでに万物の低調になっています。
 万物を支配する万物の霊長たる人間が、万物の低調になって色々なものを拝む様になってしまったのです。

 すでに、万物の低調になっているのではないでしょうか。万物の霊長たる人間が、石を始め木や銅や色々なものを拝んでいるのです。

 それは愚かな話です。石像を拝み、木像を拝み、銅像を拝み、様々なものを拝みます。それは神を知らない、自分を知らない、「神と人間の関係」を知らない無知からそういう事が起こるのです。

 どうでしょうか。皆さん方は世の支配者である事が、もうお分かりだと思います。世の支配者であり、山を支配し、海を支配し、全てのものを支配すべき私達が、肉たるそのちっぽけなものに支配されるのでしょうか。

 その肉そのものは御霊の支配下であって、あなた方は肉に支配されてはならないのです。肉のために御霊があるのか。御霊のために肉があるのか。どちらだと思いますか。御霊のために肉があるのです。

 神は御霊のために肉体をお造りになって、そのものは部下であって、三次元に現れるための一つの道具にしか過ぎないのです。皆さん方はその道具に支配されてはならないのです。

 それをよく理解した時、皆さん方は、肉という自我意識を克服する事は簡単にできます。しかし、まだまだ自我に振り回されています。

 肉の言うがままです。〈何処かに美味しいものを食べに行け〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と美味しいものを求め探します。
 〈旨い酒が飲みたい〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と完全に肉の支配下に置かれている状況です。

 肉に使われてはなりません。肉体を支配せねばなりません。肉体を自由に御霊によって支配し、コントロールして、このキリストをこの世に表現するためとするのです。決して肉の快楽に溺れてはなりません。

 それに操られている間は、皆さん方はまだまだ神我という本性を、神を、キリストを観ておりません。信じておりません。だから、キリストを通さずにして何者も神の御国に入る事は出来ないのです。

 皆さん方は内在のキリストを秘めております。(神我)キリストは全ての支配者であり、唯一なる神の子です。神の意志を受け継ぐ者です。
 そうした時この三次元の目に見せるもの、物質界を支配したという事になります。その時初めて自然の法則を超越し、宇宙の法則に従ったという事になります。

 自然の法則の支配下に置かれている者は敗北者です。皆さん方はその自然を克服するすべての力を持っております。それが皆さんに内在しているキリストです。

 どうでしょうか。もう大丈夫でしょうか。肉体に操られる事はありませんか。肉体に負けてはなりません。イエス様は肉体の欲望を克服された時は、「サタンよ、退け!」と言われたのです。

 肉体は皆さんを誘惑します。イエス様もその誘惑を何回も受けられたのです。
〈こんな神の伝道をするよりは、あなたは一国一城の王になった方がいいだろう〉という肉の意識が、黙想(瞑想)されていた時に、強烈にイエス様の心を誘惑したのでした。

 その時、イエス様は《サタンよ、退け!》と言って、その肉の誘惑を、御霊より言霊の力によって、完全に支配されたのです。
 皆さん方も肉から出て来る欲望を、「サタンよ、退け!」と一喝(いっかつ)して、それを追い払わなければなりません。

 色々な名物を求め歩いて、何々名物だ、どこどこ名産だと、欲望と快楽に溺れてしまい、金を使い暇を潰しそれを求めるために肉に操られている人もいます。また、豪華な美食だといって食欲という悪魔に操られる人もいます。

 そんなものに操られたりするために私達があるのではありません。そういう事を全てを支配し克服して、肉に属するものを、この地に属するものを克服してこそ、皆さん方は解脱出来るのです。

 皆さん形を、この世に束縛している原因は何でしょうか。それはこの世に敗北しているからです。この世のものに、全てのものに打ち勝つ事なのです。

 肉に打ち勝ち、物質に打ち勝ち、全てを支配する事によってのみ、皆さん方はこの世の束縛から解放されるのです。それを「解脱」と言います。

 本当に「自分自身が何か」という真理の追求を、そして求道の精神を、生半可ではなくてそれをかたせなくてはならないのです。

 イエス様は「この世の全てを克服した時、私はこの世を克服したのであると言われたのです。
 その時、イエス様は三次元的な肉的な物質的な存在から霊的存在となられたのです。霊が勝利したからです。

 まだまだ皆さん方の霊は物質に勝利していません。物質の奴隷下に置かれています。色々と造られたものに、その造られたものの概念で生きています。

 あなた方の考えを支配しているのは、殆どが三次元的、その物的なものなのです。四六時中私達が神を思う事によって、物質、肉体に支配される事はありません。そういう欲望が出る時「サタンよ、退け!」と、それを克服する事が出来るのです。

 この世で、どんなに地位や名誉や財産を持っていようとて、それは肉と共に葬り去られるものです。この世的なものです。
 持ち帰れるものは一切ありません。それらのものを得た所で何になりますか。「自分が何であるか」を知らないから、それを欲望的に求めるのです。

 それらの人達は、この世では大きい者の様に見えるかもしれませんが、あの世では小さな者でしかないのです。なぜならば、物質の支配下に置かれているからです。

 その人達が物質の支配下に置かれていなければ、この世の財産や地位や名誉を得るという、自己顕示欲的な慾望などは求めようとはしないのです。
 それは、三次元的です。物質的です。そして未熟です。幼稚です。

 今、皆さん方は、三次元的なもの、物質的なものを一つ一つ克服しつつあります。
 そうした時「我は神なり」「我は霊なり」「我は生命なり」「我は神理なり」と、言える程の強い信念、深い信仰を持たなければなりません。
その信仰があなたを救います

 しかし、今、あなた方は「自分が何であるか」を知りません。ですから、世の物質の誘惑に振り回されるのです。その物質による世の誘惑に振り回されていればいるほどこの世で苦しみを造っています。

 これを克服した分だけ幸せを健康を得る事が出来るのです。この世の恐怖というものが一切なくなります。何故ならば、この世の全てを御霊が克服してしまうからです。

 まだまだ皆さん方は、物質の少ない事を怖がり、地位や名誉や財産の少ない事を怖がり、色々なものを恐怖しています。物質を怖がっています。執着しています。それが皆さん方の苦悩となっているのです。

 今、肉体について、その肉体が何であるのかをよく考えて下さい。そして、その肉に支配されてはならない事をよく理解して下さい。
 肉体は、この世的な、一時的な住処にしか過ぎません。それを「人間」と呼んでいるのです。

 皆さん方の中に神が住んでいるのです。あなた方が拒否さえしなければ、神はあなたの肉体を通してのみ働きます。

 あなた方は御霊より、内在のキリストにより、色々な神理を伝える事が出来、正しい言葉遣いと、正しい想いと、正しい行為が出来るようになります。
 今、皆さん方が正しい言葉遣いと、正しい思いと、正しい行為が出来ていないのは、この肉が邪魔しているからです。

 肉は利己的です。魂は非利己的です。自分が三次元的なものを克服しているかしていないかは、自分の行いを反省してみれば分かります。

 自我で肉の敗北者である人は必ず利己的です。しかし、その利己的である肉を克服した者は、非利己的になっています
 非利己的な総合的なものの見方です。ものの考え方です。
自他一体』。一体観念の中に生きています

 聖書の中にこの様な事が書かれていると思います。ある街が大火事に遭いました。火事の災害を受けなかった金持ちの人達に、イエス様はこう言われました。神から預かっているものを神にお返ししなさい」と。

 その人の持ち物は神のものであって彼等のものではないのです。
「それを必要とする所のために、神から預かったものを神にお返ししなさい。それを必要とする困った人にあなたの財産を与えなさい」とイエス様は言われたのです。
 
 ある人は全部与えました。ある人は半分与えました。ある人は何も与えませんでした。何も与えなかった人、その人は盗人です。

 あなたの持っている財産や、そういうものは誰のものだと思いますか。神のものです。それを私のものと錯覚して執着しているのです。 
 あなたのものであれば、あなたがこの世を去る時それを持ち帰れるはずです。持ち帰る事は出来ません。預かりものです。

 神からの預かりものを持っていながら、それでいて「これは私のものだ」と威張りくさる人がいます。そして何も持っていない者を罵る人がいます。これは非常な盗人であり、罪人です。災いなる者です。

 自分のものがない事を皆さん方は知らなくてはなりません。その時が来れば全てはた叩いて皆さん方は困っている人に、貧しい人の為にお返ししなくてはなりません。
 それが出来る人は真の勇者であり信仰者です。神を信じている者の信仰です。

 それは、神理を通して眺めてみれば、自分のものがない事が分かります。それが理解出来ない人は、私の言葉を「おかしな事を言う」と思うでしょう。
 しかし、事実はそうではないのです。自分のもの、私のものというのはないのです。全てが神の預かりものです。

 この肉体でさえも神から預かっているものです。ですから、私達は死にたくないと思っても、寿命が来れば行かなくてはならないのです。

 自分の肉体が自分のものだと思っていてもあなたの思う通りにならないのです。肉体が自分のものであるならば、自分の思い通りにする事が出来るはずです。

 思い通りにする事は出来ません。言う事も聞きません。なぜならば、それは神のものだからです。自我ではどうする事も出来ません。
 あなたの支配しているのは神ですから、私達は肉体でさえも神に捧げる事です。これが本当の「献身」というものです。

 命を捧げる者。自分自身の外なる命と内なる命を神に捧げて人々のために捧げた時、皆さん方は「永遠の命」を得ます

 しかし肉我の自分に生きようとする者は、永遠の命を得る事は出来ません。神を知っていないからです。神理を知っていないのです。
 
 だから「生命を得ようとする者は生命を失い、生命を捨てる者は生命を得る」という言葉があるのです。この事は非常に大事な事です。

 神とは何でしょうか。神とは宇宙の摂理であり、法であり、エネルギーです。私達は宇宙の中の存在です。
 私達一人びとりはその宇宙の中に、宇宙エネルギーの中にいるのです。そして私達一人びとりは、その宇宙エネルギーを持っているのです。
 
私は神の中におり、神は私の中におられる」というのはその意味です。
エネルギーの中に私達はいるのです。私達の中にエネルギーがあるのです。

神は内にいると同時に外にもいる。全ては神であり全体は神である」と、それが分かる様になります。
 
 神と人間とは一つの存在、一体の存在です。なぜならば、神は無限であるからです。神から分離した人間は何処にも存在致しません。

 神から分離した人間がいるならば神は無限ではなくなります。普遍でもなくなります。
 あなた方は、今、即、神の中におり、神はあなた方の中におられます。それが分かりますと、唯一神のみの実在、神一元という悟りに到達致します。

 神一元です
しかし、人間の浅はかな感化(自我)が、色々なものを分離し、独立させて考えているのです。あなた方の肉の意識がそれを妨げているのです。

〈自分は神と分離しているのだ〉と思わせる様に誘惑するのです。
あなた方が中々神理に入って行けないのは、自分自身の肉による自我意識が、神から遠ざけているのです。

 事実においては、神の中に私達はおり、神は私達の中におり、それは一元なるエネルギーの中におるのです。エネルギーは外でもなく内でもなく、また、外でもあり内でもあるといえるのです。

 この事は、〈今、あなたは神の中にいる。それはあなたは神の中の存在であって、そしてあなたの中には神が存在している〉という事です。

神の中に自分は存在し、自分の中に神は存在する。常に神と自分は一体である」と、この事の意味をよく理解して頂きたいのです。

 そうした時「人間と神の存在というもいのは一つの存在である」という事が分かるのです。そこには、人間と神が独立し分離している存在ではなく、「人間と神は一体であった」という事です。

 一体とは「一つの体」という意味です。
人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事です。
その神が皆さんの中に、生命の中におられます。

 ここで私が一番言いたい事は、「神の存在を、内在のキリストを、あなたの肉を通して完全にこの世に現す様にしなければならない」という事なのです。

 何回も、何回も、私は同じ事を言っています。飽きる程そういう事を言っています。しかし皆さん方はまだ肉に敗北しています。ここから自分の家に帰りますとまた敗北するかも知れません

〈知花はなぜ毎日同じ事を繰り返すのだろう。なぜそう言うのだろう〉と。それを自ら追求する事によって、自ら自問自答して、内から答えを得る事によって神に至る事が出来るのです。

 今、世の中では、色々な誤ったものの見方と、誤ったものの教え方をしています。それにはまず統合的な高い意識を高揚させてから、そこから全体を見る事です。一部だけを見てはならないのです。

 しかし皆さん方の見方は、近眼になってしまって、一部しか見ていません。ですから全体と自分の関係を見失っているのです。厳しいようでもやらなければならないのです。

 世の人々は、神に至るのに平坦な道を選びがちです。肉欲も、情欲も、飲み食いも、常平生それをやりながら神に至ろうとしています。

 物質の支配下に完全に置かれて、霊的なものに遠ざかっているからです。平坦な神への道というのは何処にもありません。
 道は厳しいのです。狭いのです。この世のもの全てを、あなた方が御霊によって克服しなければならないからです。

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。本来は人間と神の関係さえもないという事です。
 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、関係さえもなく、一つの存在であるのです。

人間と神は、即、一体の存在であり、我々も神の存在であり神そのものであった」という事が分かるのです。我は神なり。我は生命なり。我は神理なり。と。
我は神であり、我はキリストである」という悟りに至らなくてはならないのです。

 この世というものは、始めがあり終わりがあります。皆さん形には誕生があり死があります。
 しかし、これはこの世的なものであって、もうひとりの真の自分には誕生もなければ死もない存在なのです。それがあなたの本質であり、生命であり、魂であるのです。それに早く気付く事です。

 初めがあり、終わりのある存在ではありません。それを追求して、それを克服して、初めがあり終わりのあるものに捉われないように。
 
 それは初めがなく終わりがないものによって造られたものであり、それを造ったものによって支配しなくてはならないのです。

 その造り主である神の御意志が、内在のキリストとして皆さんの中に宿っています。早くそのキリストに気付く事です。
 その支配者である全知全能であるその方(神我キリスト・宇宙生命)を、皆さん方は早く気付いて欲しいのです。

 神棚を通して神は働くのではありません。生きた人間の肉体を通してのみ神は働き給うのです。
神は人間を通して働き給う」と、その事を決して忘れないで下さい。
 
 なぜならば、人間そのものが神であるからです。神棚そのものは神ではありません。それは三次元的な、物質的な存在であるのです。

 私達は神である生命を頂いています。「我は生命なり」です。その生命が働き手であり、生きているわけです。どんな植物の中にでさえも神は生きて働いているのです。だから植物は成長し、花が咲き、身を付けるのです。

 皆さん方の奥さんは「カミサン」といって神様です。本物の神様です。ですから大事にしなくてはならないのです。
 皆さんの周囲には沢山の生きた神々がおられます。その生きた神々を私達は愛し合わなくてはなりません。真の神の愛です。

 あなた自身の中に神がおられるなら、あなたの隣人の中にも神が宿っておられる事を知らなくてはなりません。そうなれば、その隣人を貶す事は神を貶す事になり、その隣人を罵る事は神を罵る事になるのです。

 そうならないように、皆さん方は「隣人愛」をしなくてはならないのです。「自分を愛するが如く人々を愛する」と、それをしなくてはならないのです。これは神を愛している姿であり、神を賛美している姿なのです。

 誰の悪口を言ってもなりません。神を知らない者が人の悪口を言います。神を知っている心の清い者が人の批判や悪口を言うでしょうか。
 人の批判や悪口を言うならば、その者の心は曇っているのです。真の自分を知らない、神を知らない者です。

 そのような迷い人の言葉や姿に迷わされないで、一生懸命、自分自身の神を観つめ、その「神と人間の関係」を追求し、求道され、実践されます事をお祈り致します。




徳を積む大切さを学ぶお話

 今回は、徳を積む大切さを学ぶお話を、最新記事と過去記事を絡めてご紹介させて頂きます。私自身も、色々な精神世界の為になるお話のお陰で、いわゆる「徳を積む」大切さに気付かせて頂きました。

 それから、ささやかではありますが、ゴミ拾いや、人様に対して、優しく・至れり尽くせりの親切心・愛の態度・爽やかな笑顔……等々、身口意を思いつく限り正して参りました。

 そのお陰で今では、自分でもびっくりするほどにラッキーマンな人生に変容したのです。不思議なツイてるエピソードが山程ある位にです(笑)

 人生は良い事や悪い事が起きるのが普通だと思われておりますが、実の所、日々徳を積んで、想いを正し、行いを正し、言葉を正していきますと、自身が積んだ徳で、守護の神霊の存在にちゃんと守られて、幸せがずっと続いてゆく喜びに満ち溢れた人生に変容してまいります。

 覚者☆知花敏彦先生も、他人に親切にしたり、困っている人を助けたり、笑顔で優しく…等、一杯善い行いをして、「徳を積む人生」を送っておりますと、例え解脱出来なくても、来世はそれはそれは幸せは人生になりますよ……、と仰っておられます。

 ぜひ皆様も、日々「徳を積む」事によって、真の開運者になり、不思議な程にツイてる人生になって、幸せハッピーライフを送られてみてはいかがでしょうか。ご参考になれば幸いで御座います。


      
徳を積む重要性のお話      上江洲義秀先生の記事♪    
カルマゼロへ  (上江洲義秀先生)

 世の中には日々の生活のため、または欲にかられて隣人や知人からの借金を返さない方がおられます。

 返済を強く求められてもその義務から逃れようとし、法的に貸主が請求できる期日が経過すれば、借り主はうまく逃げられたと思うでしょうか。宇宙の法則の中ではそうはいかず、しっかりとした精算が待っているのです。

 仮に、結果的に誰かの財産から百万円という金銭を奪うことになった方がいるとします。時を経て、その方自身が百万円という損失をこうむる事で精算される場合もあります。

 中には己の肉体をもって返さねばならないこともあり、さらに大切な隣人にその影響が及ぶ場合もあります。どの様な方法で精算させられるかは実に様々と言えるのです。

 宇宙のダイナミックな働きの中でそれはなされますが、その仕組み(※因果律・カルマの刈り取り)は、驚嘆するほど実に精密に行われているのです。

 一方で思慮深い情を持って困っている方を言葉で励まし、その方が再び立ち上がれるよう経済的手段で助ける方がいるとします。

 良き言葉、良き行ないは着実に積み重なり、御本人の未来や隣人、子孫に良い影響を与えます。それは厳然とした事実であり、善意のあらわし方は様々あります。

 両者は自らの手によって全く異なる原因を作ったと言えるのです。私達は真理をしっかりと携(たずさ)え、正義に基(もと)づいて日々を過ごさねばなりません。

 聖人は困っている時ほど人に施しをと言っておりますが、困っているという現象の理由は、自らの徳の蓄積が、限りなくゼロに近くなるまっで枯渇している事が原因である事が多く、枯れた井戸からは水を汲む事が出来ないものです。

 徳という井戸水※が枯れてしまっては、私達は半歩たりとも足を前に運ぶことは出来ません。
(※守護霊さんが助けようとしても、「徳」が無いために助けられない事例もあるそうです。非常時に備えて徳を貯めておく事が大事ですね♪)

 「今」からでも、施しという善意や汗水たらす作業で、徳を積み立ててゆく事を心がけて頂きたいものです。



自我・偽我 =分離感・分離意識、表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


上江洲義秀先生の超能力について  上江洲義秀先生の記事♪

 ここ最近、上江洲義秀先生のご著書「神様がくれた処方箋」を拝見したのですが、予想を遥かに上回る偉大過ぎる超能力を発揮されているお方なのがよく分かりまして、事実は小説・マンガ・アニメよりも奇なりとは、まさにこのことだと心底実感した次第であります

 上江洲先生は、テレポーテーション・ヒーリング・時間逆行・物質再現・聖者方と普通に会話・その他等々、私が覚者になったら、こんなことやってみたいな~って思っていた事を全部再現されていらっしゃる様で、覚者の中でもトップクラスの多彩なワザを駆使するテクニシャンなお方で御座いました。

 五井先生も腰を抜かすレベルという表現と言っても過言ではありません、知花敏彦師は覚醒してから、少しずつ色々出来るようになっていった感じであられるので、小さい頃から超能力が覚醒されていた上江洲先生は、超能力については、覚者の中でも別格の様な気が致しました。

 本当に夢のような、魔法のような事が出来ちゃうんですねぇ....真摯に衝撃を受けました。ドラゴンボールさえ軽く超越するレベルですからねぇ

 私もありがたい事に、超能力が少し発現しておりますけれど、覚者方が超サイヤ人でしたら、さしずめ私はチャオズといった感じでしょうか(笑)

 スピリチュアル界隈では、マグダラのマリアさんが随分持ち上げられておりましたが、上江洲義秀先生が一刀両断なされておりました。マグダラのマリアさんと子供達とフランスに行ったとか、どうもあれは違うらしいです。

 ( ^ω^)・・・ツインソウルでもなく、実はエジプトで秘法を学んでいたのでもなかったという....あれは一体?(遠い目)

 聖母マリア様が本当に処女懐妊だったとか、もう異次元級に衝撃を受けたのですが、じゃあ例の父親がアークトゥルス人説、オムネク・オネクさんの父親が金星人説、タオさんの第九カテゴリー、等々の、

「父親が高次元宇宙人説」って一体.....( ^ω^)・・・あっ察し^^;(苦笑)、それでも、こちらの方々のご著書は素晴らしいですが……♪

 それにしても、イエス様の諸説があまりにも多すぎて、どれが真実かわからないという現状があるのですが、上江洲義秀先生の説かれる諸説が一番真実な可能性が高い気がするのですが、いかがでしょうか。

 上江洲義秀先生は詩人の様な、軽やかで艶やかで繊細、かつ優雅な表現力を駆使して真理を説かれているので、神理の勉強をしているのに、優雅な俳句を勉強しているかの様な錯覚に陥ることがあります(笑) 
 表現力が大幅にアップすること間違い無しで御座いますよん♪
 
 悟りに到達する考え方は、知花先生と同じなのですが、カルマに対する考え方が、知花師と大いに違う様に感じました。「カルマは神の愛」という表現に意外といいますか、このような捉え方もあるんだ...と久しぶりに意識に新しい革新を与えて頂きました。

 知花先生は、カルマは自我に属するもので、自我は糸の切れた凧の様なものであり、人間は神(神我)が悪(自我)の殻をかぶった様なもの、というご表現もされております。その基本は上江洲義秀先生も同じなのでしょう。

 ですが、この地球に生まれている99.999......%の方々の、その自我で修行しているこの境遇でさえ、「神の愛であるという視点」は、また新たに魂の成長を促して下さいました。

学びの環境でさえもが神の愛なんですね♡素敵です♪

●カルマ(自我)の因縁での出会いを通しての学びでさえ神の愛♡
●身口意を正し、全てを赦し、愛することでカルマは消え去る


 身口意を正すという視点は、私も長年の人生でも、非常に大事だという認識に達しておりましたので、私の考えを裏付けて下さっている様で、本当に勇気づけられましたね♪

 上江洲義秀先生の『神様がくれた処方箋』は、優雅で麗しい表現が嬉しい、悟りを開く最先端な有意義な情報満載の、超良質な何十回呼んでも、読み飽きない素晴らしいご著書でありますので、大推薦させて頂きます♪



上江洲義秀先生の究極の質疑応答サイトについて
(※現在ではこのサイトは消されております)

 今回は、一昨日(おととい)見つけました、上江洲義秀先生の質疑応答サイトをご紹介させて頂きま~す♬

 おまけ情報ですが、リンク先の質疑応答ページは全部PNG形式の画像として掲載されていますので、右クリックで画像を保存でいつでもスマホやパソコンで見て頂く事も可能で御座います。

 ちなみに最近は、上江洲義秀先生に大ハマリにハマっておりまして、越智先生との対談本以外は、全部購入して全部拝読させて頂きました。

 全てのご著書が素晴らしいのですが、特に「上江洲義秀 光話三選」は、ご光話のベストセレクションと銘打っているだけあって、
 本のどの部分を見ても大変充実しており、絶対読んで良かったと思えちゃう崇高で濃厚な内容で御座いました(ニッコリ

 これは人類必見と言っても過言ではない、近年稀に見る名書……と言いましょうか、人類の歴史に名を刻み込む稀代の覚醒の書、次世代の聖書、究極の神秘へ到達出来る真理の書、と言っても過言ではありません。

 生まれてきたからにはこれは絶対に読んでおかなくちゃぁ…って思える程の、超良質な悟り覚醒を促して下さる素敵な素晴らしい内容ですから、強烈に猛プッシュ、ウルトラ☆超☆大推薦しちゃいます♪

 青い文字のリンク先の下に、私のささやかな解説とマッチするような自分の体験話も少し織り交ぜながら、皆様の悟りの、魂の覚醒のお役に立てればという思いで記載させて頂きました。青い文字のリンク先は必見ですよん♪



上江洲義秀先生の質疑応答

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 知花先生のお話と照らし合わせますと、固体(3次元界)から液体(幽界)を無限ループしている状態が、輪廻転生でありまして、この固体(3次元界)の世界から気体(実相・神界)へ行く事が悟り・解脱という事になります。


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 悟りを開いた覚者になりますと、時空や因果律を超越しますから、自分の寿命までも自分で決められるそうですね(知花敏彦先生談)。
 その様な存在となってほしいという締めが素敵でした♪


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 本山よろずや本舗様でも、チャネラーに自分の運命を任せることの危険性をご自身の体験から啓蒙されていたのを思い出しました。

 覚者・ブルーシャ西村様も、「自分の人生は、自分で選択する」ことの大切さを切実に訴えておられました。自分で考えていく事によって、「魂の判断力が磨かれていく」というのがあるみたいですね。まさにその通り!!と納得のお話で御座いました。

のブログはこちら♪超濃厚な素晴らしい内容ですよ♪

 私の場合は、いい意味で、神様・守護の神霊に導かれてここまでの深い悟りにまで到達できたという感じで御座います。

 真剣に「神様、私に正しい真理をお教え下さい」と神様を求める真摯なお祈り捧げていたのが良かったのかもしれませんね。有り難いことです♪
言い換えるならば、「真理を求めよさらば与えられん」 でしょうか♪
このような「神我の祈り」はどんどんなさったらいいかもしれません(^^)


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 私の面白い体験の一つで、今の自分の顔は痩せ気味で、ちょっと太ったほうがいいかな~って思っていたら、面白い事に、食べる量が適量でもすぐに太っちゃうんですね(笑)。
  何回かこの体験して”想いは具現化する”の実例なんだとを確信しました。

 ですから、”太ったほうがいい” なんて絶対に思わないように気をつけるようになりました♪痩せてるほうがいいな~って思いながら食べていたら、望むものは現れますから、食べる量が同じでも痩せる方へ行きやすいみたいです♪お蔭様で痩せ顔を維持出来てますから多分大丈夫かと…ご参考まで~♪


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 私の場合は身長を2mまで伸ばしたいので(笑)、まだ一応それなりに食事をしておりますが、そこまで伸びたら余り食事しなくても大丈夫かな~といった状態にはなれました。今では一日一食でも全然大丈夫です。


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 日本は世界一熟した魂の集う霊的進化国ですから、治安がいいと言えるのかも知れませんね。誰でも彼でも日本人になれるようでは無いそうですし。

 面白い話で、どこかのサイトで、地球より未熟な星で、全然感情が制御できない魂だらけの星があるそうです。その星で、ある程度感情が制御出来るようになった魂が、地球のある地域に集団で移転しているというお話がありました。戦争が多い地域とだけ……どこかはあえてぼかします(笑)。

 犯罪が多い地域に生まれるという事は、その地域で学ばねばならない事があるからという結論をぼかしながら述べ伝えられているように思えました。


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 初心者向けの質問でも、誠心誠意お答えして下さる、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”を自然に実践されているお姿に大変感銘と感激を受けました。
 それにしても質問者の方に対するお優しいお心遣いに、涙がこぼれ出そうになりますね♪上江洲義秀先生は愛が輝く素敵で偉大なるお方です♪


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 上江洲義秀先生のこちらの回答のお陰で、物事を臨機応変に考える大事さを学べました。偉大なる大覚者であられる、上江洲先生に心から感謝申し上げます。

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 無とは「無限の本質を我と感じている状態」、「無限大の愛即自分」、「宇宙エネルギー即自分」、「宇宙即我」、空・無とは「無限の本質あるのみ」の境地と言えるのかも知れませんね。


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 酒屋で憑依する為に幽霊がウロウロしているお話は、スピリチュアリズムでも見た事がありましたが、どういった理由かも同じでした♪愛という鍵でしっかり自分をガード♪…高級霊と低級霊は波長は合いませんからねっ♪


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 愛はすべてを超越するのですね…愛ほど偉大なるものは存在しないと……愛の次元をこれからも徹底的に高めていきまっしょ~い!♪元子さんの例えは、上江洲義秀先生の十八番ですね♪めっちゃ面白いです♪


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 愛を高める事が疲れない体質になるコツみたいです♪心を非利己的な神我の愛の心にすればするほど、神様と波長が合いますから、宇宙エネルギーを頂けると考えても良さそうですね♪日々、洗心と明想を実践しましょう♪


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 常時、「常に我は無限である」を意識する事がとっても大事な事♪
「愛とは与えるためにある」「愛は吸引力」「与えてさらば与えられん」という感じでしょうか。
「我すでに愛なり」「我すでに無限なり」「我すでに神なり」この神意識を常に意識し続ける事が非常に大事な事ですね♪



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 心配は逆に良くないという細かい事例説明が非常にためになりました。上江洲義秀先生のアドバイスが的確で、本当に驚嘆するばかりです♪


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 ずっと眠っていて下さい…か。なるほど、沢山明想する程良いとも受け取れました(笑)。沢山目をつぶって明想をしよ~っと♪


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 アラン・カルデックさんの霊の書でも、逃げても何回でも似たような経験をさせられるお話がありましたが、結局、自分で困難を乗り越えるしか、運命を代える事は出来ないとも言えましょう。

 私の場合は、徹底的にネガティブな想念を駆除して、全身全霊で洗心して、ポジティブ一途まで想念を磨き上げましたから、お蔭さまで、人生が神懸かりな程に運が良い人間に変容出来ました。

 一番劇的に変わったと感じた時は、洗心の”人を咎めない(心で人を責めない)”をしっかりと実践出来るようになってからですね♪
 そこから本当に運がいいって思える人生になりましたから。それまでは運命に波があったように思えます。  

 私の体験から推測しますと、人を責めない善人になる事が、運がいい人生になる一つの秘訣と言えるかと……。善人はモラルが高いので、どうしても心で人を責めちゃう所がありますから。私もかつてそうでしたし。

 多分そこ辺りが、あの人はいい人なのになぜ……という現象があった要因だったのではないかと…、そんな気が致します。人を責めない事でネガティブがほぼ全部なくなって、自然に善人が人生な幸せになれちゃうかもねっ♪


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 物質が柔らかく感じるという部分が、知花敏彦先生の宇宙即我を体験した後の体験ご講話とそっくりで興味深かったです。波動が極限レベルにまで高まると、硬い物質でも柔らかく感じて簡単に曲げれそうと思えるそうです。

 時空を超える究極の秘密がこの体験談で明らかに♪めっちゃんこ為になる超絶ミラクル神秘体験秘話でした。Kさんはきっと解脱出来るでありましょう。私も時間を割いて「明想」をしていこうと固く決意した次第です♪


オーラ オーラ オーラ から引用させていただきました


守護霊のメッセージを受け取ろう   木津龍馬さんの記事♪

 守護霊がいない人などいません。
 いるというよりは、「ある」とか「存在する」と言ったほうが適切かもしれない。では”どこに”存在しているのか?

 守護霊はオーラの中に、光として、存在しています。

 守護霊は、先祖だったり、おじいさんやおばあさんといった身内だったり、まったく関係のない人の場合だってあるけれど、その人達のオーラの一部分が、オーラの6層目に入って、僕達の存在をサポートしています。

 一般に言われているように、「あれこれ守っていくれている」わけではない。手出しはせずに、じっと見守っているだけです。

 ただし、守護霊がメッセージを”インスピレーション”という形で与えてくれる事はありま「言葉なきメッセンジャー」といった存在です。

 食事に気をつけて血を綺麗にし、感謝することを忘れず、直感を磨いていく。そうするとアンテナが稼働して、より高次の存在である守護霊のメッセージを、ひらめき」「気付き」「虫の知らせ」「内なる声」という形でキャッチできます。


小泉宗雄・「三光太源文化研究所

様から引用させていただきました 


その1 「お袋に小遣いをやれ―」

 
 これは昭和37年頃、今から50年も前に私が体験した実話であります。

 当時、私は恵比寿にあった綜合統計研究所・後年綜研と社名を変えた市場調査機関に勤務していました。

東京オリンピックを数年後に控えた高度成長の時代で、私はまだ20代後半の若さではありましたが、総務主任という役職にあり、今思い返すと多忙の日々が夢のように過ぎ去ってゆきました。

 今でいうクライアント・仕事の発注先は、霞が関を中心とした官公庁と諸団体、当時は銀座にあった電通さんや日比谷の朝日新聞社さんなどで、役員や書類のデリバリー用に、

ブルーバードやライトバン等数台の自家用車がありましたが、社員の営業用として、当時通産省の国民車構想に呼応して発売された三菱コルト600を1台購入しました。

 リアエンジンで空冷式のためか、冬場はエンジンの掛が悪く、しばしばバッテリーが上がって往生しましたが、価格が低廉でリッター当たりの走行距離が長い経済車で、車体がコンパクトなために運転がし易いので、社員に人気がありました。

 車両の管理を担当していたこともあり、勤務が夜分に及ぶ時は、この手軽なコルト600を運転して世田谷の自宅に帰り、朝は恵比寿駅で社員を数人拾って出社するのが常でありました。

 そんな冬の日、朝食を済まして鞄を抱えて玄関で靴を履こうとした時でした。
 「あなた、これから車で行くのか―」、その声は耳で聞いたのではなく、頭の中に強く浮かんできたのです。「はい、出かけます」「それではお袋に小遣いをやれ」「はい」。そんな問答がありました。

 丁度母が玄関までまで見送りに来ていました。財布から確か千円札を取り出して「お母さん、お小遣い」と言って渡すと、「ありがとう」にこにこして受け取ってくれました。

 危惧したエンジンが一発で掛り、赤堤通りから小田急の梅ヶ丘の踏切を渡り、環状7号線とクロスする宮前橋の交差点に入る時でした。何台もの対向車がクラクションを鳴らすのです。「おかしいな、なんだろう」ふとバックミラーを見ると、車のバンパーから白い煙が出ているのです!

 びっくりしました。兎に角、交差点のど真ん中で車両を止め、エンジンキーを回しましたが、どうしたことかエンジンが切れないのです。慌ててトランクを開けると、わっと炎が、もお、びっくり-。
 幸いなことに、交差点の角に大きなSSがあり、従業員の方が二人、大きな消火器を2本抱えて駆け付けて、無事火を消してくれました。

 駆け付けてきた販社のセールスンが車を引き取り、原因不明のままに車両は修理されました。この様な事故は私が処理する立場にあり、実損がなかったことと、欠陥車が社会問題になる以前のことなので、

たまたまの事故として、取り立てて問題にならずに済みました。そのためか、何か夢でも見ているような気持ちでおりました-。

 暫くして、会社から車で家に向かってその交差点を通りかかった時、はじめて愕然としたのです、あの事故がもし別の場所で起きたら、私はどうしただろうかと。

 細い道ではありませんが、淡島までSSはありません。その途中で気が付いたら、あのままだったらガソリンに火が回って車が炎上し、場合によっては近隣にまで火災が広がり-!

 「定められた災厄は必ず来る。しかし大難が小難に、小難が無難になることはある。人間の行為(徳)が主護霊や背後の神霊の力を倍加させて、そのようになるのだ-」と小泉平一は言っておりました。

 「お袋に小遣いをやれ」あの声なき声は、今でも頭に浮かんで参ります。


興味深くて☆スピリチュアル秘話が満載でオススメです♬


祈り (徳によって祈りが叶う原理)   井出昭彦さんの記事♪

 誰もが皆、お祈りをしたことがあると思います。それは心の中であったり、神社の前であったり、お寺の中であったり、あるいは夜寝る前の布団の中であったりしたかもしれません。

 そして多分皆さんは、神様が、天使が、ご先祖様が守ってくれる、導いてくれる、願い事を叶えてくれるとのことで、祈られているのではないかと思います。以下、心の眼の観点から感じたままに記していきます。

 ます、祈りは、徳の数によって成就されるということです。えっ、何のこと?、と思われることでしょうね。きっと。ここで、預金のことを思い浮かべてみてください。

 原理としては同じですから、把握しやすいと思いますので。
あなたが新車を欲しくても、それだけのお金がなければ購入する事は出来ません。(物を買うには)お金という貯えがこの場合、必要です
 
 では徳とはどういうものなのでしょうか。そして徳を積むとは一体どういうことなのでしょうか。人に親切にするとか、街に落ちているゴミを拾うという行為も、徳として換算されて、積まれていきます。

 たとえそこに貴方のその行為を見ている人が誰もいなくても、あるいはあなたの親切を相手の人が気づかないとしても、です

 私は時々、遠隔ヒーリングを行うことがあります。相手には「気を送ったよ」とか、「今からヒーリングをするからね」とかを、特に伝えたりはせず行う場合が殆どですが、心の眼で私自身の徳の数を教えてもらうと、それは増えていたのですね。「情は人のためにあらず」という言葉の意味は実は、このように自分のためとなっているのだ。ということなのです。

 拝めば救われる、という以前に、自分自身の今までに行ってきた善の行為(徳)によって、自分自身が助けられる、救われる、という事柄は実際にあり、それは事実なのであるということを、皆さん方には是非知っておいて頂きたいと思うのです。

 今の日本人における徳の数の平均はいくつでしょうか。百を満点とした場合、その平均値というものは実は二十です。ちょっと少ないなあ、と感じられたのではありませんか。

 ではなぜ少ない数なのでしょうか。それは、自分本位の考え方で生きている人が多いことをそのまま顕しています。

 それだけ自分だけ良ければいいんだ、という考え方に基いて生きている人が多いということを顕しているのですね。ですが、面白いことに、そのような人というのは徳が少ないから、逆に幸せな人生は送りにくいのですけれども。

 自分自身を振り返るということは、自分の心の状態・在り方が、出来事を作り出しているのですから、そのようになってしまった原因は、他人ではなくて自分自身にある、ということに気がつくことなのです。

 例えですが、もしあなたが、全てを人のせいにするようなタイプの人から、何かを言われたり、誇張されていわれたり、あるいはまた、無いことまでもをもひわれたとしても、誰に対しても言い返したり、事実を説明したり、証明したりすることは必要ありません。まずそのような事を言っている人というのは、天上界にある(閻魔帳)につけられてしまうのだそうです。

 加えて、そのような人から何を言われたとしても、「ここで言い返したり騒いでみても、周囲の人達を巻き添えにしたり、事が大きくなるから、ならば黙っていよう」としている人には、大きな徳が積まれるのだそうです。

 預金で言うと普通預金ではなく、定額預金に該当する程の大きな徳になるとのことです。


様から引用させていただきました

正木和三先生の          政木和三先生の記事♪
徳を積んで寿命が伸びたお話    

自分の死期を事前に知り、その予言通りに亡くなったケースは世界でも多くあるようだ。有名なところでは、エマニュエル・スウェデンボルグが自分の死ぬ日にちを予告した手紙を第三者に送り、実際にその日に「霊界へと旅立って」いる。スウェデンボルグによると、霊界との交信により容易に死期を知ることが可能なのだという。

16世紀、当時最高の占星術師といわれたノストラダムスも、多くの事件や人々の死期を予言、実際に的中させたとされている。以前紹介した竹内巨麿の4男高畠吉邦も知人の死を事前に知ることができたために、「誰々さんに会っておきなさい」と、知人が死ぬ前に面会しておくように妻に言うのが常であったという。人には天の法則によって決められた寿命があるのだろうか。

その日は1979年2月であった。これはフーチパターンによって知った「正木の寿命が尽きるとき」だった。「死因」は心臓発作。正木はそれを約6ヶ月前に知った。当時、正木は肝臓をわずらっており、医者から治療を勧められたが、それも断った。死期を知った正木は、ますます目先の欲望に拘らなくなった。

死期が迫っていても、別にそれをそのまま寿命だと受け止め、欲望をすべて捨て去ってしまった正木に、1979年の元旦の朝、生命体からのメッセージが届く。

汝は永年にわたり、陰徳を積みたるがゆえに、汝の寿命を延ばし、汝に力を与える正木は最初、どのような陰徳を積んだのか分からなかった。

 その後、生命体から、瞬間湯沸かし器や自動炊飯器など数々の発明をしながら、自分は一円の収入も得ず、多くの人々に喜びを与えたことが陰徳であることを知らされたという。

正木にとって、発明によって特許権を行使し、カネを儲けるなど、ほとんど考えられないことであった。

あるとき電機メーカーの関係者に、正木が約3000件にも上る自分の発明特許を無効処分にしなければ4000億~5000億円の特許料が入ったのではないかと言われて、正木はこう答えた。「そんなお金なんかいりません。生活できるだけのお金があればいいのです。

それに私は瞬間に発明ができます。瞬間にできるものでお金はいただけませんよ」正木の寿命は先に延びた。

秋山眞人も表現は違うが同じようなことを言う。
徳を積むとは、結果的に自分の得になることをすることなのです」。

つまり、人のためになることをするという徳は、めぐりめぐって自分の得になる、情けは人のためならずという宇宙の法則が働くということのようだ。

最後に、正木が生命体を通じて得た次のようなメッセージを紹介しよう。水をかぶったり、お経をあげたりするのは、自分のための修行であって、自己満足にすぎない。

 本当の修行とは、欲望を捨て自分以外の人々に喜びを与えることである。
すると、人々に喜びを与えたエネルギーが、高次元の生命体となって自分の肉体の中に入ってくるのだ。


様から引用させていただきました

不思議な世界番外6(最終回)
精神が世界をつくる

私は顔を変えたことがある。といっても整形手術をしたわけではない。精神の力で変えたのだ。

まさかと思う方もいるだろうが、実はこれは誰でも無意識のうちにやっていることでもある。苦労やストレスは顔に出るし、穏やかな心は、顔を穏やかにするではないか。

ウソばかりつく政治家が醜悪な顔になるのと同様なメカニズムだ。
私はそれを意識的にやっただけで、別にたいしたことではない。

 それは私がまだ、中学生のときだった。友人に裏切られ、私は極度の人間不信に陥った。すべてを疑いの目で見るため、誰も信じられなくなり、ひたすら孤立していった。

 あるとき、ふと鏡の前で、自分の顔をまじまじと見た。何ということか。鏡に映し出された自分の顔は、それまで見たことがないほどいびつになっていた。

 対称性が失われ、歪んで醜く見えた。
これはひどい。病んだ精神がこれほどまでに自分の顔を歪めるとは!」
――。私はかなりショックを受け、打ちひしがれた。

それからである。私は顔を変えることにした。不思議なことに、私はそれができると確信していた。病んだ精神が顔を変えるのだから、
健全な精神をもってすれば、また顔は変わるはずだ、と考えたのだ。

  猜疑心、不信感、憎悪などの私が持っていたマイナスの感情を、すべての可能性を信じることにより、信頼、愛情、寛容などのプラスの感情にできるだけ変えていった。

  今から思うと、一種の自己催眠であったのではないかと思う。悩みはほとんどなくなり、ストレスにも強くなった。ストレスがあっても、自分を客観視(ストレスに悩む自分を観察)して、まさに客観的に楽しむようにした。

  予想通りに私の顔は、再び元の自分の顔へと戻っていった
そして、自己催眠が効きすぎたのか、今でも童顔のままである)。

  人間の苦労は顔に出てしまう。これは誰もが認めるはずだ。しかし、同じストレスがあったとしても、ストレスに苦しみ、その苦労が顔に出てしまう人もいれば、ストレスをプラスに考え、苦労とも思わない人もいる。

  これが結局、顔を変えることにつながる。ストレスに負ければ、中学時代の私のように顔が歪む。額の皺の刻印は深くなり、実際の年齢よりも老けて見えるようになるだろう。

  だが視点や意識を変えることにより、ストレスは、ある程度の緊張をもたらすだろうが、苦労にはならなくなる。
  同じ年月を経ても、一人は老人のように、もう一人は若々しく見えてしまうのはそのためだ。

  すべては人間の意識が決めるものである。あなたの意識が決まれば、肉体や物質はそれに従うのだ。意識(精神)はおそらく、あなたの世界の統治者である。あなたはこれから、どのような世界をつくろうとするのだろうか。

  これまで多くの超能力者を紹介した。彼らは不思議な世界を旅するものたちである。しかし、実はあなたこそ、この深遠にして不思議にあふれた世界の主役であり、かけがえのない「神の旅人」でもあるのだ。


・自分はついてると思う♪
・いつも笑顔・口角を上げてスマイル♪
・人の気分を害する事はしない・悪口は絶対に言わない♪


1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する

 「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。


2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する

 眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。


3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する

 言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。


4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する

 重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。
 

5.心施(しんせ) 他のために心をくばる

 心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。

6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る

 「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。


宇宙創造の神が勧める霊性を高める方法 洗心

いつももつべき正しい心(=常の心)
強く     明るく
正しく    我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ

心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)

憎しみ  不満
妬み   疑い
猜み   迷い
羨み   心配心
呪い   咎めの心
怒り   いらいらする心
不平   せかせかする心


■四句御箴言(しくごしんげん)

与えられたことを感謝して受けよ      関英男博士の記事♪
与えられぬことを感謝して受けよ

与えられたことを拒むこれ欲なり       瞑想の記事♪
与えられぬことを欲するこれ欲なり
    


上江洲義秀先生のご光話動画(通訳なしでスムーズです)

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 1/6

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 2/6

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 3/6

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 4/6

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 5/6

キリストのヨーガ 上江洲義秀先生 6/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 1/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 2/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 3/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 4/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 5/6

本質はすべての中に 上江洲義秀先生 6/6

上江洲義秀先生 すべては私


この世界は夢である「人間の永遠の探求」より ヨガナンダ

永遠の生命 上江洲義秀先生 1/2

永遠の生命 上江洲義秀先生 2/2

無題 上江洲義秀先生 1/2

無題 上江洲義秀先生 2/2

全ては美しき天使たち1/2 上江洲義秀先生

中村寿子先生の法玉明想指導

上江洲義秀先生直伝の法玉明想指導

 おまけで生活にお役立ちな情報や、人生経験が豊かになっちゃう面白いエピソード話をMORI☆MORI☆盛りだくさんでご紹介~(*^^*)




オートミールクッキー



家族が円満に続くコツ

因果応報の話 選び放題

障害者を差別した因果応報でダウン症の子供が生まれたお話

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斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

 そのノウハウを全て無償で公開しておりますので、もし良かったら皆様も、小顔・高身長の翔平スタイルになって幸せで喜びに満ち溢れた人生を満喫して下さいね♪ 


 スピリチュアルと精神世界・悟り追求者の為になる、宇宙神理(真理)が学び放題な良質な情報を豊富にご用意しております。

 悟りの追求者の方々へ何かしらお役に立てましたならば光栄の極みでございます。修行中の創造主であられる貴方の素晴らしい人生に乾杯♪

究極の美顔法・小顔法「広瀬すずちゃんの横顔の秘密の記事」はこちらになります♪
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