- No
- 3935
- Date
- 2019.09.01 Sun
イエス・キリストの人生 イエス様ご本人が語るご自身の壮大な人生談♪イエス様の身長は168cm・62kg・血液型はA型♪イエス様の伝えたかったのは「真理を知って、真理に生きる」あまねくすべての人々が神の子であり、神そのもの♪イエス・キリストの人生は天界と地上との共同歩調による大計画♪
新山上の垂訓 助安由吉 から引用させて頂きました♪
イエス・キリストの人生
イエス様ご本人が語るご自身の壮大な人生談
今回は、あの世界一有名な「イエス・キリスト」、すなわちイエス様ご本人が直々にご講釈をして下さっている、素敵なお話をご紹介させて頂きます。
怪しいチャネラーが交信したのではなく、天上界から派遣された12人のキリストのお一人であられる「助安由吉さん」という方が、明想中に、光一元の意識状態の中で、イエス様から受けたメッセージという形になります。
天上界から派遣された12人の中には、知花敏彦先生や、上江洲義秀先生もおられます。
な~ぁるほどぉ♪そういった一番信頼できる系統の方なのね♡♪…という認識をして頂ければ幸いであります。
信じるか信じないかはあなた次第…といった内容ですが、大筋では有名なMドリール博士等と同じですから、真実である可能性は大いにあると考えても良さそうです。
このお話から、イエス様の生き様は「心身の神癒の、M・マグドナルド・ベイン」さんのスーパーパワーアップ版といった印象を受けました。
40日の伝道活動の時は、完全に神の道具に徹しておられて、その間に奇跡等を起こされたのでしょうね。
イエス様ご本人は、「水をワインに変えたとか、パンと魚を増やしたとか、こういう作り話は…」と仰っておられましたが、私の見解では、多分実際にあった事であり事実だった…という風に捉えております。
何しろ、神様がイエス様の肉体を操作されていた訳ですから。それぐらい実際にあったと考えるのが自然でありましょう。
神の御業が、イエス様の肉体を通して、オーバーシャドウ(真の神憑り)中の神ご自身によって行われた…というそんな解釈で御座います。
「魂の法則」では、イエス様の伝導期間に「ロゴス・キリスト」がイエス様に影響を与えており、「二人で活動していたと言っておこう」との記載がありました。
イエス様の言われる「父なる神」と「ロゴス・キリスト」は言葉は違えど、同じ存在を言い表しているのかもしれませんね。
信じる信じないは別として、読み物としてはかなり面白いので、
一度、最後までご観覧頂ければ幸いで御座います。
「神の道具」という御言葉が…とても印象に残りました。
愛は天と地の架け橋Ⅰ⇐リンク先でイエス様のご講話が見れます♪
イエスの生い立ち (イエス・インマヌエルより)
私イエスは、紀元前4年11月25日ベツレヘムにおいて生まれました。馬小屋で生まれ、かいば゚桶に寝かされた事になっていますが、そんな事はありませんでした。
普通の家で生まれたのです。また母親マリアが天使から告知された事になっていますが、これも違います。私は父親ヨセフと母親マリアの子として普通に生まれ、皆様と全く同じように生まれ育ったのです。
私が生まれる時、東方から三人の博士が私をひと目見ようと、星に導かれてきたと伝えられていますが、これも作り話であり、本当ではありません。
ヘロデ王が生まれたばかりの赤ちゃんを皆殺しにすると言ったため、両親は私を連れて、ベツレヘムからエジプト(今のカイロ)に逃れました。
ヘロデ王は翌年、前三年に亡くなりましたが、両親は用心をして私が四歳になるまでエジプトにいて、その後ナザレに帰ったのです。
私は少年時代から体質的に大変敏感な子供でした。大人の思うことが手にとるように解り、お世辞なども本音がすぐに解ってしまうため、大人に対して不信感を持った事が何度もあります。
少年時代から青年時代にかけて、私はいつも大きな力によって守られているように感じていました。また、私の心の中に疑問が生じると、たちどころにその答が心の中に浮かんでくるのです。
一体これは誰なのか、当時の私には理解ができませんでした。私という一人の人間がいて、また違うもう一人の人間がいて、また違うもう一人の自分がいる、その人は何でも知っていて困った時にはすぐに教えてくれるのです。
このような日々を父ヨセフの大工仕事を手伝いながら日を重ねていきました。23~24才の頃より私の心の中に大きな変化が生じました。
このまま父ヨセフの大工仕事をすることに対して、心苦しく思うようになり、何か私のやる事が他にあるように感じ始めたのです。私の中のもう一人の自分は、大きな力をだんだん出し始めてきました。
そして、25才の時に、遂に両親にこの事を打ち明けて、私自身の霊的修行のためにエジプトのピラミッドに行くことに許しを乞うたのです。
父のヨセフも母マリアも驚きましたが、大きな反対もなく許してくれました。25才の時、幼児の時に行ったことのあるエジプトに一人で旅立ったのです。
念願の大ピラミッドに行き、そこの神官に多くのことを学びとり約一年滞在しました。その間、様々な霊的修行をしました。詳しくは省きますが、人間の魂と霊についての基礎的なことは、このピラミッドにおいて学んだのです。
またこの時期に、私は大恋愛をしました。エジプトの女性で、とても聡明で気立ての優しい人でした。私は結婚まで考えましたが、これからの私の修行を考えますと、それもできず大変苦しみました。
ピラミッドで一年の修業を終え、この方と泣く泣く別れ、次の修行の他、中インドに向かってひとり旅立ったのです。私の中の主が結婚を許してくれませんでした。
肉の身を持つと、この性の問題抜きに考えられない事を、この時の恋愛で強く感じ取りました。そのあと中インドでの2年間の霊的修行と、更にヒマラヤでの三年間の修行はとても厳しいものであり、
この間には好きな人が現れることもなく、しかし性的な面での悩みは尽きませんでした。特にエジプトで別れた彼女の事を思い出すと、とても会いたい衝動に駆られたのです。
またイスラエルでの伝導期間中にも、肉の身である私にとって好ましい女性が何人もいました。マグダラのマリアもその一人でした。夜一人にもなり、ほっとくつろいだ時に、その性的な面が現れます。
これも人間が平等に神から与えられた自然現象です。男性は女性に惹かれ、女性は男性に惹かれるのは当然のことであり、これを善悪で片付けるのではなく、父なる神のみ計らいによって決めていくのが大切な事だと、当時の私は思ったのです。
毎日毎日の私の行動は、父なる神の意思に沿って行われていましたので、性の問題についても、自我をはたらかした事は特にありませんでした。
すべてはうまく運んでいた事は確かなことです。それはそれとして、とにかく父なる神の計画通り、無事六年間の霊的修行を終えて、懐かしい我がふる里ナザレに帰ってきたのです。
その前年、父ヨセフは病気で亡くなっていて、母マリアと弟や妹達が迎えてくれました。なんと行っても父の死に目に合えなかった事は、肉体を持つ身としては大変悲しい出来事でした。
その後の生活は多くの方々が知っている通りであります。西暦27年の30才の1月13日に、ヨルダン川において洗礼者ヨハネによるバプテスマ(洗礼)を受けてから、私の活動は私の内にある大いなる父、大いなる神によって始められたのです。
私自身は単なる父なる神の道具でしかありませんでした。そのために六年間の厳しい修行が必要だったのです。私という私はイエス自身ではなく、父なる神だったのです。
したがって、パリサイ人達はそれが理解できずに、大きな誤解を生む結果となってしまいました。それが原因で 次から次へと不信感が広がっていったのです。
その反面、私イエスを神のごとく信ずる人たちも大変多くなっていきました。奇跡も私自身の力ではなく、父なる神のみ力によって次々と現象化していったのです。私はただ御心のままに動いたに過ぎません。
12名の私の仲間も、この事についてはあまり理解ができなかったのです。そのため何回も皆と話し合う機会を作りましたが、その都度、私を特別扱いにして耳を貸そうとしません。
父なる神に対する全幅の信頼さえ確立できれば、あらゆる力は私と同じ様に、あるいは私よりももっと大きな力を出せる事を何回も何回も話しましたが、実際にはそのようにならないまま、私はこの地上を去らざるを得なくなりました。
イスラエルにおける父なる神のみ言葉を伝える伝道活動の期間も、ヒマラヤで修行している時に知らされました。
そのためあまり時間がありませんので、その間私の動きは大変ハードなものになりました。私の仲間の12名も大変だったと思います。
エルサレムに行って十字架で処刑される事も、私には完全に解っていました。限られた時間内に、私は父なる神の道具に徹していろいろな所に行き、いろいろな人々に逢い、色々な癒やしを施しました。
その間私の肉体はいつも守られていました。エジプトや中インド、ヒマラヤにおいて厳しい霊的修行をしていた為、私の肉体は霊的な面が多く出ていたのです。
いくら歩いても、いくら寝なくても疲れるという事が無かったのです。
六年間の霊的修行で、完全に自分の肉体を父なる神に明け渡し、自由に使って頂けるようになっていたからです。
ここで私の身体についてお知らせしておきますと、私の身長は、168cmであり、体重は62kgでした。特に目立つ程ではなく普通の人間でした。現代で言うところの血液型はA型でした。
そして皆様もご承知の伝導の期限切れが近づいて、十字架においての処刑の日が迫ってきました。
その時の私は、肉体イエスは殆ど感じていませんでしたので、そのことについて全く問題がなかったのですが、一番気になっていた事はイスカリオテのユダの事でした。
どのような経過で私の処刑がなされるかは、大体は解っていましたが、小さな事は教えてもらってはいませんでした。
私が父なる神のみ言葉を伝え、その結果イエスが処刑される……この計画は、私がこの地上に生まれる前から決まっていたものです。
現実に私がそれを知ったのは、ヒマラヤ修行中の三年目でした。
ユダが私を裏切って売るという行為がなければ、この計画は成就いたしません。その結果ユダにそのしわ寄せがいきます。それを知っていてもユダはこの割の合わない役を自ら買って出たのです。
その事を知っている私の気持ちは大変複雑で、この計画を止めてもらいたいと何度思ったか知れません。しかしこれはイエス個人の小さな問題ではありません。
地球の人類に影響を及ぼす、大変な、天界と地上との共同歩調による大計画であったからです。いよいよ処刑の日が迫ってきました。
私はユダの気持ちを思うといても経っておれない程の気持ちになっていました。ユダのやる事も、他の仲間のやる行動も、みんな手に取るように解ります。
そしてこれを成功させるにはユダの裏切り行為がなければ成立しません。ユダに対して申し訳無さと、感謝の気持でいっぱいでした。
12名を集めて最後の食事をいたしました。その時私は初めて「この中に裏切り者がいる」と12名の仲間に知らせました。私の最も苦しい時間であり、最も辛い言葉であったのです。
そのあとゲッセマネの庭において、私は父なる神に祈ったのです。ようやく私の心は落ち着きを取り戻しました。
父なる神は「一切は我々にお任せなさい。この計画の成功によって人々は救われるのです。」と言われたのです。
私はユダの事が気になりながらも無事、この計画が成功するように祈りました。予定通りユダの手引きによって、遂に私はローマ軍に逮捕されたのです。
計画が順調に進んでいることに、私は心より満足でした。事前にすべての計画を知り、心の準備は完全に出来ておりました。私の肉体は、更に肉体感覚が減少して霊的な力が倍増していました。
両手両足に釘を打ち込まれた時にも、その痛みは瞬間のみであとは全く痛みというものがありませんでした。脇腹に槍(やり)を刺された時も、一瞬の痛みでその後の痛みは全くありませんでした。
私は肉体を持ちながら、肉体から開放されていたのです。それと同時に、霊体が急速に覚醒していったのです。両隣の罪人や、ユダのことや、仲間達のこと、母マリアのことなどが思い浮かび、父なる神に肉体を持った最後の祈りをしたのです。
「このことに関するすべての人々に、父なる神の愛が降り注がれますように。そして平安が訪れますように」
そしてこの計画を実現して下さった多くの人々に心から感謝を捧げました。
「※我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言ったとされていますが、全てを知り尽くした計画の実行に対して、どうしてこのような言葉が出ると思いますか。感謝こそすれ、未練がましいことは全く無かったのです。
※補足説明ですが……♪
イエスの最後の言葉は誤って伝えられている
「父よ、父よ、あなたはなぜ私をお見捨てになったのですか?」
あなた方の聖書にはこう書かれているが、イエスは決してこんなことは言っていない。
唯一神アトンにその身を捧げ尽くしていた我々の偉大なる長兄が、いかに絶望的な状況に置かれていたにしても、人類が「あなたはなぜ私をお見捨てになったのですか」などという、神への疑いを表明するような言葉など、発するわけがない。
それは臆病者の言葉である。それは、自分の使命が果たせなかった者の言葉であり、決して神の言葉ではない。
その言葉は、「彼」が実際に発した言葉が誤って解釈され、伝えられたものである。それは元々、当時の流通言語だったアラム語で語られたものではなく、それよりもずっと古い、「太陽の言語」あるいは「母なる言語」として知られる言語で語られたものだった。
さらに、イエスが死の直前に発したその言葉を、聖書は
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と記しているが、実際にイエスが口にしたのは、
「エロイ、エロイ、ラマ、ズバクタニ」だった。
そして、その「エロイ、エロイ、ラマ、ズバクタニ」を正しく翻訳すると、こういう意味になる。
「父よ、私は自分の魂をあなたに捧げた、そして今、使命を果たした」
とにかく、西暦32年4月1日午後3時半頃肉体的には死を迎えたのでした。僅(わず)かではありましたが、父なる神のみ力の元で、私の伝導生活は予定通り終止符をうったのでした。
私の亡骸(なきがら)は、現在の園の墓という場所に置かれました。私には復活というテーマがあり、これがなければ今度の計画も半分の成功にしかなりません。
その時の私は完全に霊体になっていましたので、すべての事が解ります。三日目の復活という事は、私の肉体が空中に分解し溶ける日数であったのです。
3日間で私の肉体は、完全に現象界であるこの世から消えてしまったのです。霊体は自由ですので、何処にでもいけます。このようにして、三日目で肉体が消えてしまったので、復活したという事になりました。
当時の私は、霊体でありながら肉体を物質化したり、消したりする事ができました。これもヒマラヤでの修行の賜物です。
以上が私イエスのあらましの経過です。私がこの地上を去った後、仲間とかパウロによって、父なる神からの真理の言葉を広く知らせる事が出来ました。特にパウロの力が大変大きく働きました。しかし、大きな所で間違いを犯してしまったのです。
第一の間違いは7つの教会は一人ひとりの内に建てるのが本筋でした。7つというのは自己の完成を意味しています。それを外に建ててしまったため、これまで多くの混乱が生じる事になってしまったのです。
その後時代を経るにしたがって、偶像崇拝になって、大いなる神の使徒であった私、大いなる父の道具であった私を、神として祭り上げてしまったのです。
私の絵とか、十字架の処刑のものなどが大量に出回り、私イエスが志したこととは全く逆の方向に進んでしまっているのです。もう一度原点に戻って考えて頂きたいのです。
私イエスがヒマラヤにおいて修行している時に、父なる神より私に御言葉がありました。
「イエスよ、我が言魂を伝えなさい。そしてあなたがそのように生きなさい」これが原点なのです。
父なる神の言魂を信じて、そのまま行為に現すこと。それ以外に何も付け加えてもならなかったのです。ところが人々は色々なものを多く作ってしまい、それに振り回されているのが現状です。
簡単なことです。「真理を知って、真理に生きる」たったこれだけです。すべての偶像崇拝は多くの弊害が生じます。
それに私イエス一人が神の子ではなく、あまねくすべての人々が神の子であり、神なのです。
それを知って、私イエスを特別扱いにしてはならないのです。イエスは処女懐妊によって生まれたとか、馬小屋で生まれたとか、水をワインに変えたとか、パンと魚を増やしたとか、こういう作り話をして、私を神格化してしまったのです。
私イエスは全く普通の人間であり、たまたま私の肉体を大いなる父なる神に自由に使ってもらった、ごくありふれた神の下僕、神の使徒の一人だったのです。
今真実を知って、一人でも多くの人々が内にある大いなる父、大いなる父なる神と接触されて、私より大きな力を発揮して頂きたいと切に願っています。
それは誰にでも出来る事だからです。そして誰もが皆その力を持っているからです。信じてこれからの時間を大切に生きて下さい。
(1991・12・16 3時30分、アルベル山にて)
「魂の法則」からイエス様の「地上での使命」からですが……♪
…………………………………………………………………………………
続きを見たい方はこちらへ♪
「魂の法則」の記事♪注・Wi-Fiスポット必須・激重記事です
天上界のリーダー・覚者・知花敏彦先生
瞑想とは何か
瞑想の意味は神秘に達すること 知花敏彦師の記事♪
瞑想に興味を持っている人や実際瞑想をしている人は多いのですが、果たして瞑想って何なのでしょうか。また、何のために瞑想するのでしょうか。
瞑想の意味を知らなければ、瞑想にはなりません。ただ目をつむっていればよいというものでもありません。
瞑想しないで神の国、すなわち神我到達は出来ないと言われています。
イエス様もパプテスマのヨハネも十年間、インドに渡って瞑想をしました。瞑想の達人になって神我到達の域に入ったのです。
みなさんに「どういう瞑想をしますか?」と尋ねましたら、「自己を見つめる瞑想をしています」と答える人が多いようですが、確かに自己を見つめるのも一つの方法ですが、神我を見つめるのが本当の瞑想です。
自分を自分と思い込んで瞑想するのならば、それは自我の瞑想であって、本来の瞑想ではありません。神我という、大霊との一体感を本当の瞑想というのです。
自己の本性を見つめることは無限で普遍的な大宇宙と一体化することです。
深い瞑想状態に入った時、色即是空、空即是色が理解できる
私達は今まで外側の姿、形の外観、つまり表面を見つめてきました。その肉の目と耳を閉ざして大霊(神・神我・大生命)へと心を集中する、これを瞑想状態といいます。
今まで自分たちが考えている肉体という外念は存在しません。肉体という物質は存在しないのです。肉体は霊体であるといえます。
「色即是空・空即是色」
これは般若心経の言葉です。見えるものは見えないものであり、見えないものは見えるものであると、その見えないものと見えるものは同一であるという意味です。
話を聞いたり、考えるだけでは何の意味もありません。話そのものや考えることは神理ではないからです。文字そのものは神理ではありません。
ですから、いくら話を聞いてもいくら本を読んでも、瞑想を実践しなければ真の自己を実感することは出来ません。
瞑想中は、大霊(神我・大生命)以外の事を見てもいけないし、思ってもいけません。大霊そのものへの一心集中を行います。
ところが、一般にまかり通っている瞑想は、光が見えた、霊の次元から姿が見えた。景色が見えたといった状態を瞑想といっています。
真実(根源・無限・内在する真我・裡なる神)との一体感、実在との一体感の我に帰ることが大切で、これを図ることが本当の瞑想です。
瞑想は教えてもらうものではなく、自分で実感するもの
皆さんの中には、瞑想を教えて下さいという人がいます。ですが、瞑想はそう簡単に教えられるものではありません。自分自身で実感するしかないのです。
聖者の方たちには「完全沈黙」をしています。完全沈黙というのは五感の沈黙、自我のない状態をいい、この世のものを全然感じなくなります。この完全に自我意識から開放された状態を完全沈黙といいます。
私達の肉体は存在していないのですが、私達自身は肉体を感じています。肉体は霊体です。霊が肉という姿・形をしているだけであって、姿・形の実体は全て大霊といえます。
神の臨在感とは
「無我の境地」というのは、何のないという意味ではありません。
自我がないことです。
「神(遍満する大霊・大生命)あるのみ」という境地です。
今まで私達は自己中心的な、自我の自分を感じていましたが、そのような自我がない状態を「無我の境地」というのです。そこには普遍的な自己、宇宙的な自分があります。
自分が全宇宙そのものであり宇宙霊そのものである。宇宙意識そのものであるという状態に意識を統一することです。
「汝の見るもの全てを受け継がん」
つまり、大きいものを見れば大きい物を受け継ぎ、小さいものを見れば小さいものを受け継ぐことになります。
「想念は実現の母」 と言われています。自分を人間と思っているのか、大霊と思っているかで。自分自身が決まります。
寝ても覚めても四六時中、神を思い、自分が神であり、大霊であり、大生命である、との思いが大切です。
これを思い続けることを「連続的祈り」といいます。祈りは神との一体感です。即ち「神の臨在感」です。
瞑想こそが宇宙神のバイブレーションに合わす唯一の方法
皆さん方が神と一体化した時、神の心臓と自分の心臓が一体となって鼓動するのです。
神への到達というのは神そのものに成りきることです。世の中では「神になる」といえば特別な意味に捉えられますが、特別なものではありません。
自己実現というのは、大霊、神我が自分自身だと自覚できる状態を把握することです。生命の把握を「自覚」ともいいます。あるいはまた「実感」ともいいます。
「汝の意識するとき、汝はそこに居るのである」 という名言があります。
外側を意識すれば、外側に留め置かれます。内側を意識すれば内側に留め置かれるのです。
世の中で瞑想している人は沢山います。ところが瞑想が何であるかをはっきり理解できている人は案外少ないのです。瞑想が何であるかわからないのに瞑想することは出来ません。
瞑想は神への一心集中である
瞑想とは皆さんが「こういうものか」と自分で見出すものであり、人から習って出来るものではないのです。
皆さんの中には、瞑想中に色々考え事をする人がいます。考え事は全て雑念です。完全な深い瞑想状態というのは、この世的なものが1点の意識もない、大霊そのものに溶けこむようにして、大霊そのものになる。融合するという一体感です。
それができるようになるまで、皆さん方は瞑想していかなければなりません。ただ何回か繰り返しているうちに、無意識のうちに軽く目をつむった瞬間、大霊を自覚できるようになります。
「神理が神理を啓示する」という言葉があります。私達が神理へ一心集中をすればするほど、「天啓」というインスピレーションを受けることが出来ます。
私達が、普段なぜ「天啓」というインスピレーションが受け取れないかといいますと、自分の意識が非常に低い状態だからです。低い意識状態というのは、外側を意識した状態のことをいいます。内側を見つめている時には高い意識状態といえます。
密教では、「欲望」「感情」「意思」を経て「覚者」に達する段階がある
密教学では、イニシエーションという言葉を使います。第一イニシエーション、第二イニシエーション、第三イニシエーション、第四からは覚者といいます。
イエスキリストがこの世で十字架にかけられた時は、第三イニシエーションだったのです。十字架にかかって、肉を十字架にかけられることによって、第四イニシエーションという覚者になり、第四が終わるとすぐに第五という位を授けられたのです。今は第七です。
第一イニシエーションというのは、まず肉の欲望です。食欲、物欲です。美味しい物を食べたい、良い洋服を着たい、豪華な家に住みたい、豪華な車を乗り回したい、そういう欲望を克服した状態を、第一といいます。
そして、それを欲しがっている間は、肉が強力に働いています。ご飯を出されても、美味しい物が出ないと「これが食えるか」という意識です。意識の高い者が「これが食えるか」とは言いません。
食べ物への文句、それは一番、低い状態です。
肉の自我がうんと働いている状態です。食べ物を文句無しに食べる、ありがたく感謝して食べる。美味しいとかまずいということは、無関係です。それが克服できますと、第一段階のイニシエーションです。
第二イニシエーションというのは何かといいますと、感情のコントロールです。感情が出ない、何か人から言われて、かっかとして鬼みたいになる人や、すぐにかっと思う人など・・・・・。
これは感情のコントロールが出来ていないのです。すぐ怒ったり憎む。そのような嫉妬深いというような感情はコントロールできなければなりません。
それらは瞑想を通して全部が克服出来ます。食べ物の欲望が無くなります。人を許せるようになります。
第三イニシエーションとは何かといいますと、意思のコントロールです。意思とは何でしょうか。これは想念のことをいいます。想念のコントロールのことです。意思の力をいうのは想念の力です。
今まで悪想念だったのが、常に良い思いを持つような意思になります。皆さん方は自由意思を持っていますから、悪いことも出来、悪想念も持つことが出来ますし、また正しい想念を持つことも出来ます。
欲望、感情、意思の3つが克服されるために、私達はぜひとも努力しなければなりません。すぐに妬みっぽい、怒りっぽいというようでは、まだまだ感情のコントロールが出来ていません。
気が高いとは、バイブレーションが高いことで、意識の高揚を意味している
瞑想しないで、皆さん方のバイブレーションを上げることが出来ません。意識の高揚こそがバイブレーションです。意識は自我意識にいながら、バイブレーションの高い人がいるでしょうか。瞑想を通してのみ、バイブレーションを上げることが出来ます。
意識の上がった状態を、バイブレーションの高い状態といい、意識の低い状態を、バイブレーションが低い状態と言います。
バイブレーションの高低があるから、低周波数と高周波数があるわけです。バイブレーションの高い人というのは、どういうことなのでしょうか。
常に自分が大霊(神我キリスト・大愛)との一体感を感じていきますと、いつも皆さん方は、高我の自分、神我の自分、高い次元に自分を留め置いていることになります。
我々が大霊との一体感を感じている時に、初めて私達は神のバイブレーションまで高めることが出来ます。神を意識している時は、神のバイブレーションです。肉体を意識しているときは、低我の、低次元のバイブレーション状態です。
バイブレーションが上がった方のことを、どのようにいうかといいますと、気高い人といいます。
バイブレーションの低い状態を気落ちをいいます。バイブレーションが高い状態というのは、エネルギーが高い状態であり、自我意識はエネルギーが低い状態です。
エネルギーが低い人が病気になる
低次元意識で生きる限りはエネルギーが低いのですから、私達は病気になります。
しかし、覚者の方々は病気にはなりません。なぜかといいますと、エネルギーを高めておりますので、病気にはならないのです。意識の低い人が病気になるのです。
神我は、罪を知らず、病を知らず、死を知らずといい、我々は神我に到達しないかぎり、罪と病と死は無くなりません。肉体の破壊があるだけです。
白色同胞団 ホワイトイーグルの意味と、七という聖数の意味
イエス・キリストの肉体は、十字架以後は完全な変成を遂げられていたわけです。その時に、オリーブの山の上に立っておられましたが、目の眩まんばかりの白光に輝いたのでした。
真っ白姿で、雪のように輝いて見えます。白色同胞団といいまして、ホワイトイーグルともいいます。その神我は白光の世界です。皆さん方は、白い色といいますと、何を思うでしょうか。
白色とは七つの色をミックスすると、白光になります。七色の虹の七つのチャクラの生命線が一つになった時には、白光として輝きます。
私達は七つの虹色とか、七色の翼とか、七大天使とかいいます。
あるいは七つの天門とか、七つの霊的中枢とか、あるいは七つの教会とも言われています。それが一つになった時、白色となります。
自分は大霊であることが、はっきりと実感できるまで瞑想をして頂きたいと思います。たくさんの話を聞いたり本を呼んだりすることよりも、少しでも時間が有りましたならば、大霊との一体感の方が大切であります。
皆さん方の瞑想状態を見せて頂きますと、到達されている方とされていない方とは、相当の格差があります。
到達している方からは、相当の光が出ています。
今から何ヶ月前までは、大勢の大衆の中からようやく一人か二人、白色に輝く者がおりました。この頃は大半の人が、瞑想している時に輝いております。
瞑想している時にあれやこれやと物事を考えながら目をつむっている人がいます。明日はどういう仕事をしようか。どうしようかと考えながら目をつむっている人、これは自我瞑想ですから、そのような人からは光が放つことはありません。
それは目をつむって三次元的な事を考えているわけですから、神への到達ではありません。ですから瞑想でもありません。
瞑想とは、神そのものに成りきる。大霊そのものに成り切るということです。
瞑想が如何に大切であるか、またどうすれば瞑想できるのだろうか
瞑想しないで、神が探せるでしょうか。瞑想しないで、神の扉が開かれるでしょうか。もし瞑想なんか不要、という方がおりましたならば、その方は地獄が好きな方なようです。
今はアクエリアスの時代、水瓶座の時代と言われています。この時代は、非常に大切な、霊的にも求めやすい時です。霊的な道案内人の現れるときでもあります。またこの時代は最後の振るい分けともいいます。最後の審判ともいいます。
そして熟した魂と未熟な魂の収穫時にあたります。熟した者は天の蔵に納められ、未熟なものは再生されます。即ち、輪廻を繰り返すことになります。
「時が来たら、あなた方は天の蔵に納められるであろう」という言葉があります。その時が今のこの時代です。
皆さん方は今生で成し遂げられなかったとすると、また何万年この世をさまようか、再生されるまで、次のお迎えが来るまで、収穫時が来るまで皆さん方は何回もこの地上界をさまようことになります。
それは聖者も予言されています。
最初から瞑想が出来た人はいません。みんな瞑想の素人であったわけです。瞑想していると、いろんな雑音が浮かびます。
今日は何をしようか、あれをしようか。夕飯は何を食べようか、今日の夕飯はまずかったとか、お酒でも飲もうかとか、何をしようか、遊びに行こうか、そんなことを考えます。
そういう雑念は放っておいていいのです。いつの間にか瞑想しているうちに、雑念は減っていくものです。
神の道は細く長いのです。「選ばれた者は多いけれども、招かれた者は少ない」という言葉があります。
この意味は、本当に招かれるもの、神の国へ入れるものは数少ないという意味です。皆さん方は瞑想を通じて、色んな答えを出して頂きたいと思います。
瞑想とは四六時中、神を思うことである
「神にて語らせよ」という言葉があります。神にて語らせよ、という意味は、生命より語る、霊より語るということです。
生命より語るためには、霊的な自覚、生命の自覚はなさねばならないということです。あなたは霊的自覚、生命の自覚がなくても、あなたを通して神が語っていることになります。
ところで神は神棚をとおして語るのか、霊媒を通して語るのか、あなたを通して語るのか、どちらでしょうか。あなたを通して語るのです。
四六時中神を思うというのは、どういう意味だと思いますか、あなたは四六時中大霊そのものであり、大生命そのものであるという思いが、四六時中神を思うということです。
四六時中皆さん方は自分が、人間だ、肉体だと思っているのか、自分は四六時中その遍満する大霊そのものであり、大生命だとおもうのが瞑想です。
瞑想とは何かと言われたならば、神を意識することです。神を思うことです。自分は人間だと思っている時は、瞑想状態ではありません。
生命はいまだかつて、一度も争ったことはありません。生命はいまだかつて罪を犯したことがありません。汚れたこともありません。
イエス様は偉大な言葉を残しています。
「一番大事なものを人に与えなさい」という言葉です。
その一番大事なものは何かといいますと、
「命」です。その命とは、真理のことです。
(※必読♪瞑想の重要な注意点)
☆瞑想は絶対に現象を求めてはならない☆
瞑想が非常に危険であるという事は、
ややもすると、
幽界にチャンネルを合わすから危険だという事です。
ですから、
瞑想中に憑依霊を受けたり、
異常が起こったりするわけです。
その時、気が狂ってしまったりするわけです。
身体の調子が非常におかしくなったりするわけです。
瞑想が危険だという事は、
まず、現象(幻)を求めてしまうのです。
この物質界も現象界であり、
幽界も現象界ですから、
「実在」を求めなければならないのに、
瞑想中に、全て、現象だけを求めている人がいるのです。
なにか見えないかな・・・・・。
何か奇跡が起こらないかな・・・・・。
というものは、
どこに意識を向けていると思いますか。
それは、幽界に意識を向けていますから、
そのような間違った瞑想を多くやって、
気違いになった人は一杯いるという事です。
悟りを加速させる感動の記事はいかがでしょ


「神理とは何か」といえば、愛そのもののことであり、調和そのものの事です。愛そのものに生きている者、調和そのものに生きている者は、神に生きている者です。肉を持ちながらにして、天の住者です。
あなた方が不調和であるかぎり、神理を知っていませんし、神を知っていません。神を知っている者に、不調和があり得ると思いますか。神を知らないから、不調和なのです。
(神は愛である)と、どこのキリスト教でも看板は掲げていますが、その愛がどこに存在して、どのようにして働いているかということを知らないのです。
ただ、空想的な、妄想的な夢物語で、「神は愛だ」と、言っているだけではありませんか。あなた方が愛をよく理解して、それこそ、神を、父を知った者、己を知った者となって頂きたいのです。
その愛の、有り難みを知っている者のみが、自分のものとするでしょう。
愛を知らぬ者は、神を知りません。
愛そのものを知っている者が、神を知っているのです。
だから皆さん方は、今後は愛そのものとなり、調和そのものとなって、日々の生活をして頂きたいのです。
「何を見ても愛なんだ」と。「愛の他には何もないのだ」と。
「愛なくして物は存在しないのだ」と。「神なくして何も存在しないのだ」と。
「なるほど!神こそが全ての父なんだ。全ての本源なんだ」
「神を宿さぬ物は何もない。鉱物、植物、動物、全ては愛なんだ」
「その霊と水との、父と母との愛がなければ物は存在しないのだ」と、そういうあなたになって頂きたいのです。
「父なる神様、母なる神様、ありがとう」と感謝できるあなた方になって頂きたいのです。
神は一切の生みの親です。神なくして物は存在しない、生まれてこない、神は一切の生みの親なのです。
「神こそが我々の父」と、はっきり断言、言明できるのではありませんか。全ての父です。すべての親です。そのものなのです。
「神棚の中に神がおるのだ」「はるか天の彼方に神がおるのだ」というように、今まで聞かされていた神と、今、ここで言う神と、どちらが本物の神だと感じられるでしょうか。
あなた方は、神そのものではありませんか。愛そのものではありませんか。あなたの全身に愛が満ち満ちていなければ、あなたはここに、今、生存しているでしょうか。
今こそ、あなた方は全身に愛を感じてください。
その愛に、区切りも、分離も、別離も、何もありません。
全宇宙に遍満する、大愛あるのみです。
その大愛こそが、全ての父ではありませんか。
「皆さんは大愛の中に留まり、大愛は皆さんの中に留まっております」
そのことを、よくよく自分に、心して、言い聞かせてください。
それこそが、皆さんが知らねばならない「真の神」なのです。
その神を知らないでは。何も始まらないのです。
私達は愛に生かされて、愛に生きていながら、いかに愛というものが、自分とかけ離れた存在であったかと気付かされます。この知花が、いかにあなた方を愛しているか。
また、あなた方が、いかにこの知花を愛しているか、よく分かります。
お互いが、愛そのものであるということなのです。
私達の本性、鉱物、植物、人間、全ての万象万物の本性は愛です。
全ての実態は愛です。調和です。
鉱物も愛なくしては存在しない。
植物も愛なくしては存在しない。
動物も愛なくしては存在しない。
人間も愛なくしては存在しない。
愛の具現です。愛の象徴です。
今こそ、皆さん方が、全てが愛だと、全てが神だという理解が出来ると思います。
神の愛は、至る所にまします。空間というものはありません。
永遠であると、無限であると、永遠なる愛の中に、無限なる愛の中に私たちは存在し、愛そのものの中で存在しているのではありませんか。
それが、永遠なる自己、久遠なる自己、そのものをはっきり理解できるまで、自分の心に言い聞かせてください。
それが、あなたのハートに定着するまで、着座するまで、これを自分に言い聞かせて頂きたいのです。
これを知らないでは、何も始まらないのです。本源に返ることはないのです。だから「霊と水に生まれ変わらなければ、神を観たるにあらず」と、聖書にも示されているのです。
この私の元を離れていく人のことを、私は如何に愛しているか。
離れていけば何もわからなくなる「もったいない」と、皆さん方ならおわかりだと思います。
なぜならば、彼らも私自身であるからです。あなた方自身でもあるからです。全てです。平等です。無差別です。無差別の愛というものが、今ならお分かり頂けると思います。
今まで、あなた方の愛だと考えていたものが、いかに不純な愛であったか。愛というものをいかに理解していなかったか、ということがお分かりだと思います。
「これは愛なんだ」とか、「これは愛ではないのだ」とか、そんなものがあるのでしょうか。「愛一元」です。愛そのものです。
そこに、憎しみが入り込む余地がありますか。愛の中には、いかなる憎しみも、いかなる怒りも、入り込む余地がありません。
どうですか。
「どこを観ても、何を見ても愛なんだ。神なんだ。調和なんだ」
「それなくして、何も存在しない」
動物を見ても「ああ、愛の現れなんだな、神の現れなんだな」
お花を見ても「霊と水との愛と調和の現れなんだな」
子供を見ると「神の現れなんだな、愛そのものなんだな、愛がその子に無ければその子は存在しないんだな」ということが見られませんか。
もう見られるはずだと思います。
あなたが空気を吸っても、空気そのものは、愛そのものなのです。
見えるもの、見えないもの、全てが愛です。
水蒸気も、そして、形を取って地の水となっていても、全て愛なのです。
今なら、「愛一元の世界」「調和一元の世界」「神一元の世界」ということが、お分かりいただけるでしょう。
「これが神だ」「あれが神だ」という、戯言(たわごと)の時代はもう過ぎました。これでもう、皆さん方は「これが神だ、あれが神だ」ということは、一言も言わないと思います。
この世の中に、神理でないものが一つだってあるでしょうか。
全ては神理、全ては愛です。
神理の中に、神理でないものがあるはずがありません。
大宇宙そのものが、大神理そのものであるからです。
大宇宙そのものが、大愛であるからです。
大宇宙は、霊と水によって、愛され調和されて存在します。
皆さん方は、今、即、大愛の中におり、大愛はあなたの中にまします。
「我は神の中におり、神は我が中にまします」
その大愛を観じてください。
この愛をあなたに訴えたくて、数々の言葉の中で、どう言ったら分かってくれるか、こういったら分かってくれるかと考えていました。
皆さん方が、いかにその愛に目覚めてほしいかという一心なのです。
しかし、皆さん方は、それを中々理解してくれないのです。
この無知は、二千年前と今も変わりなく続いています。
私は、二千年の間に確実に人間が進歩しているという確信を持ってこの世に参った者です。(※知花敏彦師はイエス様の予言を成就するため、宇宙神理を伝えるために天上界から派遣された地球最高の大覚者の方です)
一日も早く真の自己に目覚めて、神我の自分は愛そのもの、調和そのもの、普遍そのもの、無限そのもの、久遠そのもの、大宇宙そのもの、大愛そのものであるという、その本質のゴールに達して頂きたいのです。
悟りの最重要キーワードとして、「神の一人子・神我キリスト」という言葉がございます。精神世界の追求者のお方でしたら、「神我」とか「神我キリスト」という言葉についてご存知だと思いますが、実際の意味合いを深く理解されているかと言いますならば、そこまでの方は多くないと思われます。
地球最高の覚者であられる、知花敏彦先生から学びました宇宙神理を一人でも理解できますよう、細かく噛み砕いて易しくご説明させて頂きたいと存じます。
すべての表現には、神の細胞である「コスモ細胞・宇宙細胞・原子キリスト・原始細胞」が内蔵されております。この神の細胞が、ヒマラヤ聖者の生活でも有名な「神我」と言われている存在でありまして、この神の細胞は宇宙創造主のお創りになられた全ての全てに宿っているのですね。
ちなみに、「自我」は本来存在しないものですので、「偽我」といわれております。神の一人子は「神我」でありまして「自我」ではないそうです。
続いて、「神の一人子」で何故「一人」というのかについて申し上げますと、宇宙創造神はお一方であられますので、原因は一つ、親はお一人ということですから、親である神は「お一方」であられるということになります。
ということは子供である、この世界の見えるもの、見えないもの、ありとあらゆるもの、草花、岩、動物、人間様々、色々な島宇宙、等々も含めて全てが、神の表現であり、全ての原因者であられる、大神様(大霊・宇宙霊・御霊神霊)の大愛の現れですから、全ては「神の実の子」と言えるわけであります。実の子は「お一人」ですから、神の一人子となるわけですね。
親は一人、子は一人、父と子は一体、原因と結果は一体、全一体が真理、大いなる一しか存在しない、ということは、神我と自我は一体、原因も結果も全てが神、つまり目に見えるもの見えないもの全てが「神・大霊」であり、自分が神そのものであるという「大霊との一体感」が、いわゆる悟りを開くのに大切な宇宙神理なので御座います。
この全てが神に見える目が「1つ目」に目覚めた状態、いわゆる第三の目に目覚めた状態ともいうそうで御座います。この「全てに神を観る状態」が内観・億念をしている状態ともいわれております。
この「神我キリスト」は世間一般でいう所の、「深層意識」や「神意識」「全一の意識」と呼ばれているものでも表現されております。
全ての知恵や英知・力は、大生命であられる宇宙創造神から来ているものでありまして、外側から見れば分離や別々のものと感じるのですが、内側(神我キリスト)から見れば、全ては神でありまして、普遍、無限、遍満する大霊あるのみということなるわけで御座います。
「全ての原因=神・大霊=父・親・表現者」
「全ての結果=子・表現体・肉体」となります。
表現は多々様々ではありますが、原因も結果も含めて、色心不二・色即是空、つまり全てが神の現れでありまして、全ては神一様・神のみが独存するのが宇宙神理であり、神の表現を内(神我)から見れば「全ては一つ」でありますので、神我キリストは「神の一人子」といえるのでありますね。
宇宙には一つの心・神の御心しか存在しませんので、表現も結果も「神我キリスト・宇宙神」の御心の中の表現ですから、宇宙世界は神の御神体・一つの生命体ということになりまして、全ては同一の根源から生まれた・表現された存在でありますから、全ては一つということになり、その表現の根源の全てが「神の一人子・神我キリスト」と称されているので御座います。
全ては宇宙創造神の中に存在しており、見えるもの見えないもの表現の全ての中に、宇宙創造神であられる「神我キリスト」が内在して宿っていらっしゃるわけで御座いますね。
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
神我とは、自分が神の御心の結果・愛の具現であることを悟った我、神の愛を顕現するためだけに自分が存在していると悟った我、だともいえますね♪
とりあえずこんなご説明でしたが、神我キリストのご説明につきまして、お判りになって頂けましたでしょうか。皆様のハートの奥底に神理の理解がストンと落ちて、魂の覚醒が進みます事を心からご祈念申し上げます。
全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。
目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。
人間が生まれてきた目的
地球は魂を完成させる場である
百点満点が取れるようになった時、神様はあなた方を選ばれます。
(もうこの者は大丈夫だ。もっと高度な勉強をさせてもよい)
とおっしゃって、高度な惑星に連れて帰るのです。
しかし、向こうでもまた修行です。
今、地球は中程にあります。下段でもなく、中段です。
これよりももっと下に、霊の低級の次元があります。
今、人間は、真中にあり、完全でも低級でもなければ、高級でもないのです。
宇宙には太陽系惑星があり、高級の惑星が金星であり、水星であり、土星であり、地球惑星より優れた惑星であるのです。
この地球で問題を解いてそこに帰る魂を、皆さん方は「成仏」と呼んだり「昇天」と呼んだりするわけです。
問題は地球にあります。真の生き方(神我顕現)をここで学んで、その神理に基いて生きられるようになると、この地上界には生まれ変わりはしません。もっと高度な惑星に上がれます。
これを「昇天」と言ったり、地球からの「解脱」といいます。
それを成し遂げないかぎり、地上界の浮き沈み(地球での輪廻転生)の世界で勉強させられます。
体験ですから、まあ、それもよいでしょう。しかし、本当は「今世で卒業して、みんなで帰りましょう」と言いたいのです。
高度の惑星に連れて帰るために私(知花先生)は、この地球に来ているので、皆さん方に高度な神理を説き、その神理に基づいて生きて、そして完成し、皆さん方を連れて帰りたいのです。
高度の惑星に帰ると、皆さん方は向こうでは「天使」と呼ばれます。高度の惑星では、地球から卒業した人材のことを「天使」と読んだり、「ハイアラーキー」と呼んだりするわけです。
高度な惑星から肉体を持って指導者として、地球の我々の魂の兄弟を救済しに天使が降りてくるわけです。
地上の母なる肉体、お腹を借りて誕生して、普通の人間のように生まれてくる天使と、そのまま肉体を持って、ポツリとどこかに存在して導く天使と、二通りの天使がいます。
皆さん方が、空想、妄想しているような天使ではありません。
天使方は、宗教的、オカルト的、空想妄想的な、目に見えない存在ではありません。
今、この地球上に別の惑星から何万という天使方が、人類救済のために降りてきていらっしゃいます。その方々を、皆さんは「宇宙人」と呼んでいますが、正に、宇宙人です。
「イエス様は宇宙人であった」とか、「お釈迦様は宇宙人であった」といいますが、その通りです。あなた方も宇宙人です。
「一なる宇宙」の中に存在する。1個の惑星が地球であって、あなた方は宇宙人だからです。
その理由がおわかりだと思います。ですから、「天使方は、正に高度な宇宙人である」というわけです。
イエス様が「わたしは上から来た者である。あなた方は下から来た者である」といわれたことは聖書にも書いてあると思います。
「下から来た者」とは、低次元の惑星から徐々に進化してきた者のことで、私達は地球の中間の学びをしているわけです。
人間の目的は何でしょうか。
魂の向上、「自己完成」が最大の目的です。自己完成、魂の完成のために地球があるのです。
この地球上で学ぶものがなくなったならば、もう1段高度の惑星に移される。それを「甦る」といい、「昇天」していくわけです。
この地上界で完成されていない者は落第なので、それが完成されるまで地上界で生まれ変わりをします。
「輪廻」を繰り返すのです。
昇天すると、輪廻する者。高い方に帰るか、また、落第してここに生まれるか。それは、あなた方の自由意志です。
今世で本当に神理を理解し、正しい道、方に添った生き方をすることによって、あなた方が完成されるわけです。
あなた方は、今、それを求めておられます。そうした時、世の中の幸せはあなた方が造りだします。
あなた方が救われた時、あなた方は世の中の指導者になります。あなた方を通じて人々が救われていく。それだけ高度な指導が出来るのです。
聖書の真義から
新約聖書に出て来るイエスの正味の活動期間は約40日間であり、イエスの生涯については、他の大宗教の様にくわしくは伝えられていないようです。そこでドーリル博士の別の論文 ”イエスの秘的人生” から抜粋的にイエスの生涯を如何に列記して読者の参考に供することとします。
イエス・キリストの略歴
・誕生は、一般に考えられている様に西暦紀元前6~7年。
・11歳の時に第一イルミネーション(魂の輝き、神我一体境の第一段階)を得られる。
・12歳まで、宗教的教師でもあった父ヨセフの指導を受けられた。
・13歳の時、父ヨセフ・母マリヤと共にエジプトへ遊学。ピラミッド内で最初の秘伝を受けられる。
・エジプトではアトランティス人の後裔の指導を受けられる。
・16歳の時に、ヨセフとマリヤは、イエスをエジプトに残したままガリラヤに帰る。
・その後、イエスは師によってチベットへ送らる。
・シャンバラ(”秘境真義”参照)で大聖に学び、20歳で第二イルミネーションを得られる。
・インドに行き、カシミールを中心に各地に巡回して教えたり学んだりされた。25歳の時に最高の神我一体境である第三イルミネーションを得られる。
・かくて、心、霊、肉ともに完全な師としてエジプトへ帰り、一年間、更に研究を続けらる。
・その後、ナザレへ帰り、洗礼のヨハネの弟子たちと接しられる。そしてそれから三年間、自分の大偉業の準備をされた。
・29歳の時に自己の新しい教えの宣布に乗り出される。
・33歳で十字架、三日後に復活、復活後も、いろんな形で11年間も弟子にグノーシス(神秘派)の秘儀を指導される。
・その後シナで一年間、当時そこにいたユダヤ人たちに教えられる。後、全シナを旅行してからチベットへ向かわれる。
・チベットの某秘所〈超人の住む所、現在もあるが、外界とは完全に遮断んされており、飛行機からも見えない)へ行って5ヶ月滞在。
その間、1日2回づつ教えを説かれる。(この時にドリル先生も2000年前の前世で、イエスの教えを直接聞かれ、食事も共にされた。イエスの声は、文字通り銀鈴の様だったそうである)
・次にラッサ市の地下深くにあるシャンバラへ行かれ、4年半すごされ、人類向上の新しい試みもなされた。
・この時からイエスは、シャンバラの大聖がた(144人)の首長となられ、地球を去るまでその地位におられた。
・シャンバラに4年半滞在後、別の地下王国(南太平洋の地下奥地)へ行かれる。15年間にわたってレムリヤ種族(日本人やユダヤ人の源流でもある。当時そこに幽閉されていた)を指導され無数の魂を外界へ送り出される。
・それから地球中心の奥部に入られ、幽閉されたネガティブ(否定、消極)の者どもを二ヶ月間指導される(”秘境真義”参照)
・再び地上に戻られ、パレスチナ、ギリシャ、スカンジナビアの各地を回って各秘院で教えられる。
・その後アメリカ大陸(南・北)にわたられ、9年間各地を回って教えを説かれる。
・再びシャンバラ(北極地方の地下、今も秘密事項)へ行かれ、35年間の長きにわたって、地球の将来と第七地球サイクルの準備をされた。
・満100歳の日から10日目に各地の弟子たちを集めて(魂の肉体脱出で)最後の教えを説かれた後、頭部から火炎冷火を発し、全身を火で包まれ、燃焼しつくされた。残ったものは、大きな真珠大の輝く宝石の様なものだけ。(今も北方シャンバラにある)。
・地球を去られてからは、宇宙聖白色同胞団へ行かれ、そこの大聖として、宇宙進化のために働かれる。
隠されたイエス・キリストの物語すべての記事
この物語は、イエスがイエスとして転生を生きた時代より、ずっと昔に端を発するものである。エドガー・ケイシーとジュワルクールは、イエスの数々の過去世を挙げている。
エドガー・ケイシーによれば、イエスには、アミリウス、アダム、メルキゼデク、エノク、ゼンド、ウル、アサファ、イエシュア、ヨセフ、ヨシュアといった人物として生きた過去世がある。
それにジュワルクールが更に加えて、イエスとして生きた後の転生を2つ挙げている。それらはダイアナのアポロニウスとシリアの人で、後者としてのイエスは20世紀中頃にアセンションを遂げている。
ジュワルクールは、エドガー・ケイシーによるイエスの過去世についての情報を真実であるとしている。アトランティスに生まれたアミリウスは、「父」の最初の子としてのイエスの転生であり、利己的な生き方へと導かれることを自らに許した転生でもあった。
その後、アダムとイブの物語で知られるアダムとして転生し、それからサレムの聖職者メルキゼデクとして生きた。その後の転生では、ペルシャにおける宗教の偉大なアヴァター、ソロアスターの父のゼンドであった。
私の調査では、ゾロアスター自信は仏陀の転生の1つである。そして、「神とともに歩む者」エノクとしての転生と、アサファとしての転生が続いた。
イエスはイエホーシュアでもあった。イエホーシュアは、ネヘミヤ、エズラ、ゼルバベルが要因となり、神への信仰の再確立を試みていた当時、バビロンの捕囚から帰還した人々に道理を説いた人物である。
イエホーシュアはまた、それまでに書かれていた著述の翻訳に携わった書記でもあった。
イエスはまた、カラフルな上着をまとい、それを妬んだ兄弟たちに水路に突き落とされた旧約聖書に登場するヨセフとしても生きた。
そのヨセフは、後々、ファラオの夢を解釈するまでになる。それからイエスは、ヨシュアとして戻ってきたが、そのヨシュアはモーゼの代弁者であり、ユダヤ人を約束の地へ導いた者として知られる。
イエス・キリストとしての転生において、イエスは十字架に掛けられた時点で第四イニシエーションに達している。彼の最後の三年間は、キリストによりオーバーシャドウされていた。
そのキリストこそ、惑星聖師団とグレードホワイトブラザーフッドの長である主マイトレーヤその人に他ならないのである。
主マイトレーヤが就任しているキリストという地位は、霊的統治期間における役職の肩書であり、その省庁に匹敵する場所の名称でもある。
主マイトレーヤはイエスのグル(導師)であり教師である。イエスの生涯の三年間は、二人が肉体を共有していたのである。十字架の上でアセンションを遂げたのは主マイトレーヤであり、イエスではない。
イエスの方は第四イニシエーションを授かり、マスターの資格を得、輪廻転生のサイクルから脱したのである。
アリス・ベイリーの著書にあるジュワルクールの情報によれば、イエスは九年後にタイアナのアポロニウスとして再び転生し、第五イニシエーションに達している。アポロニウスは非常に偉大な人物で、実に多くの人がイエスとアポロニウスを取り違えているほどである。
それはイエスとアポロニウスの教えの内容が酷似しており、それぞれが生きた時代もそれほど隔たりがないからである。
ジュワルクールは、イエスについてさらに素晴らしい情報を伝えている。イエスは十二花の上で「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んでいるが、私はこの言葉にずっと困惑させられてきた。
というのも、これはとてもマスターたる者の発言であるとは思いにくいからである。
アリス・ベイリーの著書の中でジュワルクールは、イエスがそう言ったのは、それがちょうど第四イニシエーションにおいて魂体、即ちコザール体の消失が関与する時であり、魂が、モナドないし霊(スピリット)に帰還する瞬間だったからであると説明している。
イエスはその時、彼の魂あるいはハイアーセルフが彼の元を去るという体験をしており、それまでの全転生と通じて魂に師事してきた彼にとっては、それはまこと蘇我間をきたす体験であったと思われる。
その瞬間イエスは、自分の教師が魂からモナド、即ち強大なる「われ臨在なり」に変わっていたことにまだ気づいていなかったのだのである。
それでその本の束の間の、再びスピリット(霊)と繋がるまでの間だけ、イエスは自分の魂の喪失を体験したのである。
ほとなくスピリットとつながったイエスは、「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」と言っているが、この時の「父」は、モナドないしスピリット(霊)のことである。
巷の感心を集めている裏話に無原罪説があるが、ジュワルクールやエドガー・ケイシーによると、聖母マリア自身も同様にして生まれていたのだという。
エドガー・ケイシーは、聖母マリアとイエスは同じ魂から来ており、そうした関係絵をケイシーはツインソウル(双子の魂)と呼んだ。
ジュワルクールによれば、イエスは第三イニシエーションの参入者として、イエスの肉体に転生したという。
イエスの過去世を振り返ってみると、それらは地上の2つの大宗教がいかなる相互関係にあるかを示唆しており、そのことについては感慨さえ覚える。
キリスト教徒とユダヤ教徒は、しばしば互いに張り合い、どちらも自分たちの宗教こそ「正当」であるとの主張を繰り返してきた。それがどれほど馬鹿げたことであるかは、両宗教に関与していたのが同じ魂であることを見ても明らかである。
イエスはユダヤ教のラビであり、旧約聖書のヨセフでもあった。またユダヤ教の開祖メルキゼデクであった転生では、アブラハムの師であり指南役を務めていたのである。
ユダヤ教徒キリスト教の感動的な結びつきはまだ他にもある。パプテスマのヨハネは、その過去世において、あの偉大なユダヤ預言者のエリヤだったのである。
さらに興味深いのは、聖母マリアの夫ヨセフが、他ならぬセント・ジャーメインその人であったという事実である。
そして乳飲み子であった救世主を訪問した三賢人は、ジュワルクールとクートフーミと、エル・モリヤだったのである。
ジュワルクールによれば、アセンションを達成した唯一のキリストの弟子は、最愛の人ヨハネ(即ちクートフーミ)その人である。
アブラハムが、アセンションしたマスターのエルモリヤであり、第一光線の主、即ちチョハンであるということも、もう1つの裏話として付け加えておきたい。
知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目
知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
スポンサーサイト






