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- 3920
- Date
- 2019.07.19 Fri
私の表現力の源泉について 真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪天啓・インスピレーションを頂く秘訣 「精妙な感覚」の磨き方のお話♪人類のお悩み「性欲・情欲」の正しい理解 性エネルギーという贈り物の正しい解釈のお話♪聖フランチェスコの得た偉大なる悟り話♪神を愛する方法♪バーソロミュー朗読♪解脱・覚醒♪バーソロミュー・バシャールが語る「全ては神」の真理♪真理への気付きでカルが解消♪悟り・解脱♪バーソロミューが語る真実の愛とは♪全ての人間は大いなる愛そのもの♪バーソロミューが語る真の霊性の高い人♪全てが神という本質的真理の理解度♪バーソロミューが語る性欲の真の意味♪ラー文書が良く分かるお話♪遺伝子組み換え果物判別法♪悟り・全ては一つ♪どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるか♪今を生きる悟りのお話♪私の表現力の源泉について♪真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪
エササニ星人・バシャールさんの回答 バシャールの記事♪
私たちの世界では、非常に古代ですがそうした意識はシャカーナと呼ばれていました。私たちのシャカーナ、あなた方のキリスト意識、仏意識、そしてほかのすべての物が一緒になって神の意識を創っています。
永久保存版♬知花敏彦さんの神我に目覚める♫瞑想の極意♪白色同胞団♪神我と自我の詳しい説明♪悟りとは何か♪ から一部抜粋ですが……♪
金星、地球、火星 - スピリチュアルな日記 - Gooブログ
生まれた順番は、火星>地球>金星の順、でも霊的な進化の具合は金星が一番進んでいるらしい。太陽と一番長い間、一体だったからです。それ故金星には霊的な進化した人々が住んでいるといいます。
一方、一番早く生まれた火星は霊的には地球より未発達で、火星の人には地球人のような自我が存在しない為、感情の抑制ができず争いが絶えなかった。マーズが戦神と呼ばれるのはそのためだとシュタイナーは語っています。
仏陀は地球に釈迦(ゴータマ・シッダルダ)として生まれる以前、実は金星で輪廻転生を繰り返した。そして最後の転生を地球で行い、そこで如来となり地球の人々に真理を伝えたのだといいます。
その後仏陀はイエスを守護し、キリスト降臨の支援をしました。キリストは仏教で言う毘盧遮那仏です。また大日如来とも言います。宗教の世界ではキリストと仏教は対立的に語られていますが、霊的実像としては元々同じ存在なのだとシュタイナーは主張していました。
キリストがイエスの身を借りて地球に降立った後、仏陀は火星の進化を助けるため、17世紀頃に火星においてイエスの行ったような活動を実施したと言われます。
その結果、争いの星だった火星は進化を遂げ、地球に対しても悪影響を及ぼさなくなったということです。
これらの話を臨死体験前の私が聞いたとすれば、おそらく何かの寓話だと思ったでしょう。現代の常識からすれば恐ろしく突飛な話です。
一方最近気になる話で、京都の鞍馬山の伝説があります。
鞍馬山には650万年前、護法魔王尊が地球救済の為に、金星から降立ったと言う伝承があります。日本の伝説が大抵「昔々、天の方から・・・のミコトが」という抽象的な表現なのに、鞍馬山の伝承はやけに具体的で年、場所がはっきりしています。
金星人は物質的肉体こそ持っていないでしょうが、極めてリアルに存在する気がしています。
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。 宇宙はあなたの味方です。 自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。 宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。 宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。 バーソロミュー 真の愛とは何か 愛ではないものとは 地球の人々の最も深い関山事のひとつは愛であり、愛とは何かということだと思います。 愛とは、本当は非常に単純なことなのですが、地球界では、多くの錯覚や誤解に満ちた概会になっています。そこで、「愛ではないものは何か」ということについて考えてみたいと思います。 自分には愛し愛される相手がいると感じている人たちは、自分たちの愛を非常に強くて深い、決して変わることのない感情であると思っています。 ここで問題になるのは「決して変わらない」という言葉です。 一見すると永遠につづくと思われる強い愛も、よく観察してみると、決してそれが永久に続くものではないことに気づきます。 ここに深くて変わらぬ愛を抱きあっていると思っている二人がいるとします。このふたりが人生を共に歩むにしたがって、ある日、奇妙な事が起こります。 ふたりにとって重要な問題に関して、大きな意見の食い違いが生まれたのです。このような状況にどう対処するかは人によって違ってきます。 ふたりがインテリの場合は、それぞれが自分の立場を正当化して議論をするでしょう。 ふたりが、怒るのは良くない事だと考える「いい人」であれば、自分の不満をそれとなく間接的に表現するでしょう。 また、感情的な人たちの場合には、怒鳴ったり、わめいたりする事になります。いずれにしても、これらの言動はどれも怒りや恨みの表現であって、愛情表現ではありません。(感情の愛・盲愛) こうした状況においては誰も愛を感じることはできません。 自分の夫婦関係や恋愛関係を注意深く観察すると、このような摩擦が何度も起きていることに気がつくはずです。 一般に愛と思われているのは、実は、引力のように惹きつけられる「魅惑」という感情の動きです。 そして、この引力には反発という感情がついてきます。 この相反するふたつの感情は常に共存しています。 現在、深い愛情関係にありながら、この魅惑と反発の感情が共存していることを認めるだけの正直さを持ちあわせない人に対しては、私から何も言うことはありません。 誰かに心を動かされているからといって、その感情を愛だと思いこむのは単純すぎます。 自分の心のなかをよく見つめてみると、非常に意地悪で否定的な感情や恨み、利己的な考えもあるのに気がつくはずです。 それは、とても人間的なことです。 ではここで、愛とは何でないか、という点について考えてみましょう。 愛は自然についたり消えたりするものではありません。 ある日あったものが、次の日にはなくなっている、というようなものでもありません。それは愛ではなく、感情です。 愛とはワクワクするような華やかなものである、というイメージを捨ててほしいと思います。 愛とは魅惑的なものであるという考えが誤りであることに気づき、自分の人生において大切な人々に対して抱いている本当の感情を理解した時に、やっと愛とは何かを理解できるのです。 愛とは何かということが、なぜそんなに大事なことなのでしょうか。 自分は最高の愛を経験していると感じている人も多いことでしょう。 しかし、私の目から見ると、地球の人々は最もすばらしい愛をまだ経験していません。 最高の愛とは、人々が考えているよりはるかに素晴らしく(真の光悦感)、地球界で言われる「最高の愛」はそれに比べると色あせて見えます。 ここでヒントを出します。それによって、恋愛関係にあるとき、人がとる行動についての誤った思いこみを捨てる助けにしてください。 まず、自分が非の打ちどころのない完壁な恋人であると思っている(反省出来ない)人は、自分を変えようとは決してしません。 一方で、恋人に対して自分の思いやりの足りなさを率直に認める(内省する)ことの出来る人は、自分の行動を変えることをいといません。 自分のなかの思いやりのない部分に気づくということは、他人から学ぶという姿勢を持つことで、柔軟な思考を必要とします。 この姿勢は、大いなる自由―「人間界の幻影の鎖を解き放ち、無限の可能性に目覚めた状態」を得るために通らなくてはならない過程において重要な一歩です。 では、誰から学んだらよいのでしょうか。それは、学ぶ人がどんな人で、どんなタイプのものにその人が惹かれるかによります。 経験者の助けを借りるのが嫌いな個人主義者の場合は、ふつう自分自身の経験から学ぶことになるのですが、この方法はとても困難です。 本質(神我)と幻影(自我・偽我)を常に判別できるとは限らないし、時には、わき道にそれて、つまらない退屈な人生を送ったりしてしまいます。 最も簡単な方法は、すでにその道を切り開いた先駆者(知花先生)を見つけ、自分にあった方法でその先駆者から学ぶことです。 これには色々の方法があります。この先駆者は生きている師やグル(導師)でもかまいませんが、他にも先駆者はいます。 多くの先駆者はすでにこの世にいませんが、あゆんだ軌跡をはっきりと残しており、本を通してそれを知ることができます。 そうした本のリストから「これだ!」と感じるものを見つけてください。 そして※本物の愛、大いなる愛へ一歩でも近づけるよう、その先駆者の助けを借りてください。 まず、あなた自身のなかで、どういった分野で愛情を持った行動がとれないのかを見つけ、それから、あなたの求める「大いなる愛(大愛・真の自己)」の状態を実現(神我顕現)し行動に移している師を探してください。 師は、必ずしも現在生きている人でなくてもかまいません。 肉体を持っていないからといって、その人の力強い生きた叡智を学び取れないということはありません。 人聞は個々別々の肉体を持つバラバラの存在だというのは地球界の幻影(自我・偽我)であって、高い意識の観点(普遍我・宇宙我・キリスト意識・全てに神を観る)ではないのだという事を理解してください。 では、肉体を失うと、その人の叡智はどこに行くのでしょうか。 叡智は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原(愛の光)の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。 偉大な真理や叡智(普遍不滅の大霊・真の自己)は死滅することはありません。 真理や叡智そのもののなかに勢いや速度(全ては波動)というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)の中を動きまわっています。 真理を求めたり、求道の思いに導かれたりするのは、そのような真理が宇宙のエーテル体(宇宙生命・大愛)の中に存在するからなのです。 そのような叡智や真理を自分に引き寄せ、それを実感することは誰にでも可能です。 たとえば、自分にとっての真理の道はキリストまたはキリスト意識(神我)を体現化した道を歩むことだと決心したとします。 その場合、キリストの愛と叡智を今の時点でも受け取ることができます。 ここで私が言っているのは、二千年前に示された、神の真理を肉体を通して現したパワフルで創造的な叡智(真理・宇宙法則)であって、現在、キリストの言葉として信じられている単なる宗教上の解釈のことではありません。 キリストの没後、人間の言う「連続する時間」の流れの中のどの時代においても、キリストの道を歩む者なら誰でもこの真理に生き生きと触れることができました。 そして、これらの人々の存在が真理の勢いを今まで維持してきました。 すぐれた使徒はこのようにして偉大な師に仕えるのです。 つまり、使徒は学び、理解し、教えを身につけ、さらにその教えに心を注ぎ、行動し、自ら体験することによって教えを生かし、「後世に残して」いくのです。 ですから、使徒が教えを身につけ、それを実践することは、師に対して大きな貢献をしていることになります。 このような教えを地球界で実践することによって、教えの真髄をより実際的に理解することができるようになります。 ですから、宇宙の「大いなる叡知(宇宙真理)」と結びついた偉大な師(知花先生・上江洲先生)の誰とでも、今、交流することができるのです。 あなたが自分の進むべき「道」を選び、その道に従って生きようとするなら、まず、心を完全に開いて「大いなる叡智」が何らかの形で自分の前に現れるように謙虚に(※神に)祈ることです。 (※神の御心(大愛)が我が中で行われますように・貴神(きしん)の想い我が想いへとならせ給え・貴神の言葉我が言葉へとならせ給え・貴神の想い我が想いへとならせ給え、(by知花先生)等々♪) そうすると、あなたの人生にいろいろなことが起きはじめます。 その起こり方もさまざまです。 たとえば、何年も前にもらって読まずに放っておいた本が急に読みたくなったり、前に読んだ事のある本がまた目に入り、今度読むと以前とは違った新しい事を発見するということがあったり、また、友達から何かもらったり、新しい考え方に巡りあったり、といった事が起こります。 地球界の人々の感覚では、こんなことは日常的な取るに足らない事に思えるかもしれません。しかし、宇宙の叡智との結びつきを知ろうとするなら、こうした小さな出来事に心を留めることが必要です。 「大いなる自由(解脱・覚醒・アセンション)」を求める心が真摯であれば、「広大無辺なもの」(宇宙の無限の存在)はあなたの探求を速める手伝いをしてくれる事がわかります。 今まで思いもかけなかったような人たちに出会うようになり(シンクロニシティ)、さらに、さまざまな事が起こりはじめますが、それが単なる偶然で起きているのではないという事を理解しなくてはなりません。 なぜなら、これらすべてはあなたという存在の「あり方」そのものが強力なメッセージを宇宙に送りだしているために起こっていることだからです。 「助けてください。私にはこれが必要です」というあなたの求めの声が宇宙に流れたからなのです。 こうして求めるものが明確になり、それを自分という存在の「あり方」の中心にすえたときから、自分のまわりで何かが起こりはじめます。 このことが愛といったいどういう関係にあるのでしょう。 実はこれらすべてが愛と関わりを持っているのです。 愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。 自分の中や自分の周りにあって、自然に流れ動く(存在する)ものが愛なのです。そして、その人のあり方(裡なる神)そのものが「崇高なる愛」なのです。 しかし、このことに地球の人々はまだ気づいていません。 人々は、愛を非常に狭いあやまった見方で見ています。 ある肉体が別の肉体を好きになったり、自分のまわりの少数の肉体に好意を持つことが愛だと思っています。これは全くナンセンスです。 愛とは行為や行動をさすのではありません。 愛のただ中にいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方(愛のみが実在との気付き)そのものだという事実です。 人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。 愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。 あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。 それは「大いなる源(創造主)」(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられ、はじめから人間にそなわっているものです。 すべてのものはこの「大いなる愛(大愛)」から創りだされます。 ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。 どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。 とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心の中から沸き起こってきます。 これが「大いなる愛」です。 (感情・マインドで)誰を愛するか誰を愛さないかを、いつも自分で選んできた人々にとってこれは信じがたいことかもしれません。 あなたは一日のうちに何回も、自分の心の中から思いやりや、相手の気持ちを理解する心が自然にわき上がってくるのを経験するようになります。 このような感情は必ずしも誰かに向けられた情熱的な感情ではありません。 むしろ、日常のちょっとしたことから生まれる小さな心の動きです。 自分では意識しないような、日々の小さな出来事のなかに織りこまれている感情です。 他人とのいさかいなどから目を離して、このような感情の動きにもっと注意を払うようにすると、そうした感情が強くなり、もっとひんぱんにそれを経験するようになります。 愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したり出来るものではないという事を忘れないで下さい。あなたに出来る事とは、愛を体現していると思う道に従うことだけです。 真の自分とは何か(大愛・全一体感)、自分とは何でないか(自我・分離感)、という事が解ってくるにつれ、この愛の真理に気づく様になります。 人生に対するこれまでの幻影(分離感)がはがれ落ちると、それに代わって入ってくるのが、「大いなる愛」という、ダイナミックなパワーです。 このパワーは「神なる源」の主なエネルギーのひとつです。 このエネルギーは、あなたの中を流れて外界に出ていき、そのたびに勢いを増していきます。この(愛の)エネルギーは観察することができます。 行動に現れた愛として見ることができます。 ただし、現在、地球界で見られるもののほとんどは個人対個人の愛の行動で、「大いなる愛」はほとんど見られません。 自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。 性的な魅力を感じていることや、友情や、親としての本能的感情などに見られる愛は、自分はますます愛情深い人間になりつつあると思わせるために、その人のエゴが使う手立てにすぎません。 では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。 自分の心をよぎる全ての人、自分の目の前に現れる人の全てに対して、温かい思いやりの心とその人達の気持ちを理解する心 (全てを許し愛する寛大な心)を持つことが出来た時、その人は本当に愛情深い人という事が出来ます。 殆どの人は、いい仕事を持ち、愛する人々に囲まれていれば、自分の人生はうまくいっていると考えます。 これもまた地球界の人々が抱いている幻影の一部です。今はまだ多くの人が、このような感情的な愛を本当の愛と勘ちがいしています。 自分の人生を誰かのために犠牲にしようとしている人は、もう一度考えてみてください。 相手がいつもひどい事ばかり言うような場合でも、あなたはその人に対して美しく、清らかな愛情を持ち続ける事が出来るでしょうか。 このような愛情関係においては、ふつう、それぞれがその関係から何を得ているかということが問題となります。 たとえ、自分にプラスになるものを得ていなくとも、その関係から何かを得ている限り、その人はその関係をつづけるでしょう。 けれども、その関係が変化して、自分が望むものが何ひとつ得られなくなったときに、「愛がさめた」とその人は言うのです。 恋におちいることができるということは、また、さめることもできるということです。 人間のエゴから生まれるこのような愛情関係のように、やって来たり去っていったりする愛情は本物ではないのです。 自分の感じている気持ちが「大いなる源」から生まれる本物の愛なのか、または、エゴの生みだした単なる幻影なのかを知るには、 自分がその瞬間抱いている感情や思いを見つめ、「自分の周りでどんな事が起ころうとも、この気持ち(全ての全てを愛する心)を常に持ちつづけることが出来るだろうか」と自分に問いかけることです。 もしその気持ち(真の愛)を永遠に持ち続ける事が出来ないのでしたら、それは地球界における浮かんでは消える人間ドラマのひとつにすぎません。 「神なるもの」が生みだす本物の「創造劇(愛と調和)」ではありません。 こういう感情(表面意識)にいちいち心をわずらわせなくてもいいのです。 この自分への問いかけは人生のあらゆる出来事に応用できます。 ある特定の出来事を心に思い浮かべると、そのときの気持ちや考えが不変のものかどうか、自分でわかるはずです。 不変のもの(大愛・愛と調和の想念)であれば、その感情は「大いなるすべて」の一部であり、大切にすべき感情(想い)です。 ここで私が強調したいのは、努力や意思の力で愛を得ることはできないということです。あなた方ひとりひとりがすでに愛そのものだからです。 ただ、この愛の状態を実感するためにあなたに出来る事があります。 それは愛したいと心から望むことです。これは誰にでも出来る事です。 自分に対する見方を(大愛・全てに感謝に)変え、他人との関係を(愛と調和に)変え、世の中に対する自分の態度を(愛と調和に)変えるのです。 自分の可能性の全てを(神の愛をこの世に顕現したい)生かしたいと強く望めば、あらゆる面において自分の態度を(大愛に)変える事が出来ます。 もしもそれが信じられないなら、今、自分の人生にどんな愛があるかよく考えてみてください。本物の愛は現れたり、消えたりしません。 それ(真の自己・神聖な愛・神我)は(ハートの中に)常にあるのです。それが本物の証(本物のあなた)です。 あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。 そして(全てを)愛したいと強く望むことです。 その(愛を顕現したいという)強い気持ちが正しい道へと導いてくれます。 正しい道を歩んでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。 真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます。 こうした道は、最初はどんなに険しくとも、最後には愛に巡り会います。最初は愛に偏った道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。 愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。 どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。 どんな道を選ぶかはそれぞれの責任です。愛と叡智を自分のものとしていない師や、グルを、※まちがって選ばないようにしてください。 愛を生みだす公式のようなものはありません。 何度も言いますが、愛のエネルギー(無限宇宙の大愛)はすでにあなたの中を流れています。 自分の中にある愛に注意を向けなければあってもなくても同じです。 愛があなたの人生に役に立つのでなければ、あってもしかたがないではありませんか。 「大いなる愛」とは、あなたの求めるものすべてに対して休むことなく流れる深い愛のエネルギーであり変わらぬ思いやりの心です。 それはこの宇宙のすべてを創りだした「大いなる源」の一部です。 そして「大いなる源」の一部であるあなたの一部でもあります。 人間はひとりひとり別々の肉体と別々の心を持つ「大いなる源」とは関係のない存在であるという考え(分離意識)は、誤りであり、錯覚(自我・偽我)です。 すべての人間は「大いなる愛」そのものであるということを真剣に考えてみてください。あなたは愛(神・無限大の愛)なのです。 あなたが愛なのですから当然あなたは愛を知る事が出来ます。 |
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。 宇宙はあなたの味方です。 自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。 宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。 宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。 バーソロミュー 質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。 霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、 宇宙が命(大愛)に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる(許し愛する)心を持つにいたった人です。 自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。 それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。 というのは、この方法を長い間続けていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。 もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。 自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。 こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。 頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。 自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか。 自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。 そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。 同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。 「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。 私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。 理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。 誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。 どうしてそんなことがわかるのですか。 また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。 過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。 それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。 自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。 けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。 頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。 そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。 自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。 人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。 そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。 他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。 ※本質的(神我)には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。(※神・大愛は完全であり絶対善です) 人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れ(分離感・自我・偽我)から人を傷つけるのです。 自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。 誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。 こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。 理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。 いいですか、よく聞いてください。 頭で人生を理解することはできません。人生はそんなに単純ではありません。自分で思うほど、あなたは単純ではありません。 あなた(の本質)は途方もなく広大無辺な存在(無限宇宙・神そのもの)だと、私は何回もお話したでしょう? 人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。 「頭(表面意識・マインド・自我)で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在(神)であることを否定しているのです。 したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。 あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。 そして最後には、「私とはこういう私(宇宙意識・大愛・神そのもの)なのだ」ということを(ハートで)理解するのです。 求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。 「広大無辺性(無限大の宇宙)」に法則を当てはめることはできません。 広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。 それはまるで、海辺に立って両手を広げ、 「波よ止まれ。なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。だから私はここに立って命令する。波よ止まれ」というようなものです。 不可能なことです。 弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」という考えを持ちます。 そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。 仮にこれが本当だとしてみましょう。師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。 では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。 あなたですか、師ですか。師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。 師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。 師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。 あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。 そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。 私はそうは思いません。今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分(裡なる神)だと感じているとします。 カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。 どうやって探したらいいでしょうか。 今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。 もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。 ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。 つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。こんなことが意味をなしますか。 私にはそうは思えません。 このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。 問題は、あなたが何かを知らないということではありません。 問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。 あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。 このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。 あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。 エゴはいつも、「心配するな。悟りはすぐそこだ。もう少しがんばれ。 すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」とささやきつづけます。 誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。それでは求める人になってしまいます。 前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。 求める人は求めつづけます。 見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。 私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。 何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。 一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。 人生はもっとよくなってはいきません。 自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。どうかわかってください。 「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。 未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。 今日こそが毎日です。 今日こそがすべての日です。 今日こそがその日なのです。 求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。体をこれ以上きたえることもできない。できることはすべてやった。できる限りの努力はした」 と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。 求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。 この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。 エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。 本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。 エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。 このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。 何しろあなたは神を求めているのですから。 神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。 こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。 ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。 あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。 まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。 どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。 一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。もしも一定のやり方があるとすればの話です。しかし、そんなものはありません。 既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。 このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。 このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。 こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。 何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。 気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、※神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。 (※「神は汝の内にあり」「神と人は常に一体」が神理であり、悟りそのものですから、そこに気付くことが解脱にとって最重要♪) 高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。 非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。 長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。 しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在の証である」とも昔から言われてきています。 この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。 次のことをどうかおぼえていてください。 自分は歩むべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分は守れていると感じはじめることがあります。 そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。 自分の人生が道理にかなっているのは、頭(マインド・自我)を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか? 命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。そういうふうにはなっていないのです。 神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。 もしも神、すなわち、命(宇宙生命・大生命・大愛)が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。 「大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。 「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。 「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。 自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。 ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。 葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。 これがパラドックスだということがわかりますか。 悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめた時だというわけです。 ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。 ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている(今即天・今即実在・宇宙即我)」と言っています。 それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。 でも、やはり信じていないのです。 マハリシはつづけます。 「悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである」 それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や はり信じません。 マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。あなたが判断してください。 マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください。 マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。 ただし、中途半端に信じるのはやめてください。 中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。 自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。 よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。 誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。 自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。 人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。 残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつ(色心不二・空即是色)なのです。地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。 無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ(愛して)、自分を完全にありのままに受け入れ(愛し)、 他人を完全にありのままに受け入れ(許し愛して)、自分自身を愛するように他人を愛することです。 自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。 では、どうやって愛すればいいのでしょうか。 自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。 今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。 この一瞬において(全てが)自分自身(全ては自分)であることです。 一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にも厳しくなくなります。 この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。 これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。 この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません。 しかし、あなた方が、「神なるパワー(大愛)と呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。 この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。 人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。 こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。 それはとても単純なことから起きたのです。 あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。 「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。 人生、もう少し予測可能であるべきだ。いくつか規則を作ろう。 規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」 予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。 予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、当てにできないので、都合が悪い存在です。 そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。彼らは気が変わるので、不都合なのです。 彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。 そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。 そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。 人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。 何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。 どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。 何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。 何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。 しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。 「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。 すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。 けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。 教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。 私には悪は見えません。私は悪の存在を信じません(真実・実在に於いて、心の影・自我・闇は存在しません・神一元・愛のみが実在・光一元)。 私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れ(無知・分離感)が原因だと考えます。 心の中に「大いなる愛(神我キリスト)」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。 けれども、怖れ(自我・偽我)は「大いなる愛(大愛)」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。 傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。 心が痛むにまかせていてごらんなさい。誰かそれで死にましたか。 すべての人々は傷つけられた経験があります。何度も何度も傷つけられた経験があります。それでも、人々はちゃんと生きています。 そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。 あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。悲しみなくして喜びは、経験できません。 そのふたつは同じ世界の両面なのです。 ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです(全てを愛し全てを許し愛の光で抱擁してあげる)。どうでもいいことです。 傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。 どちらでもいいのです。そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。 堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。 真剣にやってください。 こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。 自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。 あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。 このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。 けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。 覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。 自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。 (※全ては自分・全ては神・大霊との一体感) 喜びや慈しみの心や命(神)を感じることでしょうか。 (※慈悲と愛が宇宙神理・全てに神(命)を観る) それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。 注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。 あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。 それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。 そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。 でも、きびしい修行をする必要はありません。 あなたは心を静めることが必要なだけです。 あなたがしなければならないのは、それだけです。 心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。 いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。 瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。 あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。 そして、その結果、困ったことになるかもしれません。 みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。 子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。 小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。 顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。 そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。 その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。 では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。 まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。 自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。 自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。 地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。 今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。私たちはあなた方に「今のままでいいのですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。 すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。だから、すべては今のままで、※そのまま(愛おしい)でいいのです。 (※勘違いしやすい部分ですが、所謂、努力しなくていい[偽スピ系]というわけではありません。難行苦行悟りに非ず・全て善し・全てが愛おしい・全てに感謝・と解釈すると自然な気が致します) 何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。 あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。 そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。必ずわかります。 この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。 あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。 「大いなる光(大生命・大愛)」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、育んでくれていることをあなた方は知っています。 それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。 人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。 しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。 あるがままですべて完壁(全て善し・全てに感謝)だということがわかり、その(神の)一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。 あなた方はみんなその無限の広がり(無限宇宙・宇宙生命・大生命)の一部であり、それは実に美しいのです。 どうか、そうした見方(神のみが実在・全てに神が宿り給う)をするよう心がけてみてください。 質問: これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。 自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。 あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。 これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。 全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。 痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。 感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。 それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。 古いパターンの考えが現れなくなります。 それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。 そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。 こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。 そのための唯一の方法はとにかくやることです。 自分の考えを考えないようにすることはできません。 ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。 古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。 しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。 この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。 これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。 新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。 ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。 これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。 これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。 けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。 肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。 瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。 真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。 ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。 そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。 まさにそれだけです。それはすばらしい生き方です。 瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。 全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。 人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。 けれども、あなたは何も知ってはいないのです。 なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。 常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。 すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。 人生は決して古くなったり、終わったりはしません。 あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。 メタフィジックス通信様 (ラー文書が良く分かる良質記事♪) この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。 宇宙はあなたの味方です。 自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。 宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。 宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。 バーソロミュー 性の問題をきちんととらえるためには、過去に戻って考える必要があります。 ご存じのように、性にまつわる問題というのは何も現代に限ったことではなく、昔からいろいろあったことで、それは不可思議なものであり、人々をとまどわせるものです。 これをもっと広い見地から見るために、人間の性の持つ役割というものを考えてみたいと思います。 性行動に関する「ルール」を私がここで述べようなどというのではありません。性行動のルールを作るのはあなたの責任です。 それは、どういう社会的法律のもとで暮らすかを決めるのが、あなたの責任であるのと同じです。 では、過去にさかのぼってみましょう。魂がこの地球にやってきて、肉体を身につけ、これから何をすべきかを決定した時代に戻ります。 そのとき、人間たちは「パワー」を与えられました。 このときに与えられたパワーは七つのテャクラと関係したエネルギーでした。 現代の人は、エネルギーというものを、規則正しい法則にしたがって動くものだと思っていますが、ここでいうエネルギーは、人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーであり、それは特定の目的を持つものでした。 目的のひとつは考えることであり、もうひとつは感じることでした。 私がいう性エネルギーも、こうしたエネルギーの一種でした。 性エネルギーやパワーは、人間ひとりひとりが自分の意思で決めて使うようにと、与えられたのです。 はじめの頃は、性エネルギーはほかのエネルギーと分離してはいませんでした。 人を狩猟にかり立てる衝動と性衝動とのあいだに、たいしてちがいはありませんでした。その頃は、それぞれのエネルギーのあいだには、はっきりした区別がなかったのです。 はるかな過去世において、すべての人間の体のなかでエネルギーがスムーズに流れていた頃、それぞれの人間は、自分がどんな人間なのか、どんな人間になりたいのかということにもとづいて、人生におけるさまざまの選択をしていました。 あなたが地球界に転生してきたのは、今回がはじめてではないということをここで理解しておいてください。 あなた方は、この地球界にずっと長いあいだ、何回も転生してきています。 ですから、過去世からの性癖のようなものが各人のなかにあらかじめあって、それが、その人のありよう、意識などににじみでてきます。 このような過去からの性癖がひとりひとりの性に対する態度に影響し、その人となりの一部となります。 あなた方が何度も転生して、時間と空間のなかを移動するにつれ、性エネルギーは自己表現のひとつの方法となり、人は自分の意思にもとづいてそれを使いました。 ほかのエネルギーと同じように、性エネルギーも、ひとりひとりが自分に対してだけ責任を持つものとしであったのです。 性エネルギーは、「その人らしさ」の一部であり、ひとりひとりがしっかり意識すべきものとしてあったのです。 自分らしい感じ方、自分らしい行動をするためのものでした。 あなたは、自分の考え方しだいで人生が調和に満ちたものになったり、逆に不調和そのものになったりするということ、そしてその自分の考え方というのは、自分の責任であるということを経験から理解するようになりました。 それと同じように、自分の性エネルギーをどう使うかというのもあなたの責任なのです。 けれども、現代では、誰もそうした責任を認めようとはしません。 人はすべての行動に対するルールを作り、個人としての責任をとろうとはしません。 何をすべきかは法律や社会のおきてに決めてもらう、そうすれば自分の責任は関われないと思っています。 こういうやり方はうまくいっているでしょうか。 「暗黒の時代」の昔に決められた性道徳は人々に喜びを与えているでしょうか。(あなた方はまだそういう古い性道徳のなかで生きでいるのでしょう?) もう、そろそろ自分自身の性に目覚めるときです。 他人のモノサシに左右されず、自分にとって、男であること、女であることはどういうことかを表現することです。 いつも生き生きして、元気いっぱいで、優しい気持ちに満ちて、クリエイティブでダイナミック、そして明るくエキサイティング・・・自分をそんな人間だと感じさせるようなことをしてください。 そうすることがあなたの責任なのです。 社会のおきてにしたがって行動しようとすると、自分の欲望との板ばさみになります。 神が、人間の性行動のすべてを、関心を持ってじっと見ていると信じている人も多いようですが、実のところ神はそんなことには全く関心がありません。 セックスは人間ひとりひとりの問題です。 神はそんなことにちっともかまってはいないし、他人もそんなことに関心をはらうべきではないのです。 神が関心を持っていることはただひとつ――人間がどれほど真理に目覚めているか、その人の生きる力や愛情、他人への思いやりがどんなものか、ということです。 社会のおきてにしたがって生きてきて、その結果、怒ったり、恨んだり、人を批判したり、ネガティブになっているとしたら、神と調和しているとはとても言えません。 性や性行動の話になるといつも決まって同じ質問が出ます。 みんなが自分の好き勝手な性行動をとったら、世の中はメチャクチャになるのではないか、というものです。 規則をすべて取り除いたら、いったい、どうなるのだろうか、という質問も出てきます。 これに対する答えが、私と地球の人々との考え方のちがうところです。 人間から社会的な規則を取り去ったら、人々は自分自身の心のおきてを見いだし、もっと人間的で自然で、優しく親切になる、と私はかたく信じています。 私は人間を信じていますが、人間は自分たちを信じていません。 人間は、まるで自分たちは檻に入れられた動物だ、とでも思っているようです。 社会のおきてという檻がなくなれば、自分たちは性欲に狂った野獣のようになると信じているのでしょうね。そんなことにはなりません。 安心してください。 人間は「大いなる創造物」の一部であり、 その気になれば、何が一番よいかを知る能力をそなえています。 しかし、自分自身の内に指針を求めるのではなく、社会のおきてに判断を求めると、問題の本質が不明確になります。 自分自身のなかにあるおきては完全に予測できるものです。 私は、人間を支配する「大宇宙の法則(宇宙神理)」を知っているので、そう断言できるのです。 人間が人間を創りだしたのではないということは、もうわかっていますね。 人間は(神に)創造されたものです。 あなたは、この「あなた」というすばらしきものを与えられたのです。 あなたのなかには「大宇宙の法則」が働いており、これはあなたが自分で創りだしたものではありません。 この「(宇宙)法則」は例外も全くなく、完全に信頼できるものです。 人間が作ったどんな法律よりも信頼できます。 自分の(裡なる)「存在(神我)」そのものを心から信頼しようと決心すると、他人への深い思いやり、人の心を理解する能力、調和、勇気、知恵など、これまで自分が求めていたものが、すぺて自分のなかにすでにあることがわかるようになります。 人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。 そうでなければ、人間が創られたときの「原材料」はいったいどこから来たと思いますか。 創造のその瞬間、人間はすばらしい贈り物を与えられました。 なかでも重要な贈り物が、男性女性という性別、セクシュアリティだったのです。 外の世界と関わろうとするときに、人はどうも混乱してしまうようです。 人は自分のなかのある種の感覚や感情を何とか他人の感情と調和させようと努力します。 また、人はそれぞれ性に関して異なる意見を持っています。 みんなちがうのですから当然です。 自分の性を理解しようとするときに、頭でわかろうとはしないでください。 人が性のパワーから何かを学ぶことができるのは、それが体のなかで動いているときです。 性エネルギーそのものは、ほかのどんなエネルギーとも同じように純粋です。たとえば、倒錯的行為について考えるとします。 すると、パワーが増加します。ここで、ただちに頭が働きだして「善」か「悪」かの判断を下してしまいます。 性というものを自分はどんな目的に使っているか考えてみてください。 他人を自分の思いのままにするために、性的パワーを使う人もいます。 セックスがとても「上手」になって、人をコントロールする目的にそれを使ったりします。 他人を罰するために性的パワーを使う人もいます。 とても「下手」になってそれで人をコントロールしたりします。 性的パワーを全く使わない人もいます。 何らかのパワーを手にすると人は自問します。 「このパワーをどう使おうか。誰と一緒に使おうか。 自分の人生にどう役立てようか」と考えます。 自分の性というものは見ることはできませんが、自分のなかにあるパワーとして感じることができます。 そこで、、同じような質問を自分にする必要があります。 「私は自分の性を何のために使いたいのか」 これは個人的な問題ですからひとりひとりが自分の心の奥深く、 自分の「あり方」そのものに問いかける質問です。 誰も性欲に狂った動物になったりはしませんから、こういう質問をすることを怖れないでください。 性について真剣に深く考えていくと、性エネルギーは肉体というものの偉大な味方だということがわかります。 もちろん「味方」はいわゆる霊界にもいて助けてくれますが、ここで話しているのは物質界にいる味方のことです。 性が人間の味方だというのは、自分らしく自然に生きることを通して、自分というものをよりいっそう知る機会を与えてくれるからです。 自分のなかの性を素直に見つめ、それについて考えるのは、非常に勇気がいることです。 年齢に関わらず、どんな人であろうと、性に対してゆがんだとらえ方をしていたり、自分の性欲を不快に思ったり、そのことで悩んだりしている人は、性こそが自分にとって解決すべき「未処理」の分野なのだ、ということに気づいてください。 現在、自分の人生に性を表現する相手がいない人は、自分でそうしたくないと決めたからです。 自分の人間観、人生観にしたがって性欲が表現されていれば、かならずその人に合う相手が見つかります。 醜いからとか、太っているからとか、年をとっているからとか、何らかの理由をつけて自分の性エネルギーを使っていない人は、自分のそういう考え方を外界に投射しているためにそうした現実を経験するのです。 性を全く無視して生きれば、面倒が起こらないと思いこんでいる人もいますが、そういう人は性の問題に何度も直面するはめになります。 性に心を悩まさなくてもいいようにと、手術までする人がいますが、性エネルギーは手術後も残っていて、自分の体のなかを動きまわっているのを発見することになります。 性エネルギーは肉体の一部なのですから、捨て去ることはできません。 性欲は肉体が持つ欲望のなかでも最強のもののひとつだからこそ、常に人間の味方になることができるのです。 現世でこの問題を解決するか、来世でするか、いつかはこの問題に直面しなければなりません。 性エネルギーという神からのすばらしい贈り物をどう使うのか、自分のなかではっきりさせることです。 そうすると、人生に変化が起きてきます。 今までとちがう経験をたくさんするようになります。 今までなかったものがその人の人生のなかに現れたり、今まであったものがなくなったりします。 大切なことは、自分に問いかけ、それに答えることです。 「この驚くべきパワーを自分は何のために使いたいのだろうか?」と。 いずれにせよちょっと乱暴ですが、神は性エネルギーを通して何を人間に望んでいたのか、ということを私が推理してみたいと思います。 たとえ話をしましょう。 ここにティーンエイジャーがいて、車を買うことになりました。 あこがれのポルシェです。 さて、いざ車のキーを渡すときになって、 親は「これはたいへんだ」とこわくなります。 強大なパワーは非常に危険なことに使われる可能性があるし、ティーンエイジャーの息子、または娘がまだ未熟な子供だということが、頭にひらめきます。 これと同じように、神が性エネルギーを人間に与えたときも、 「これはたいへんだ」という思いがありました。 神が望んだのはこのパワーが、深い意識をもって有益な目的に使われることでした。 そのひとつは、人間の喜びのためでした。 性の喜びとすばらしさ、そのもののためです。 もうひとつは、パワーというものがあるということ、それが存在し、動き、創造し、何かの形となり、ダイナミックで変化していくものである、ということを人間に教えるためでした。 人間の思考力のほかに、これほどの力を持ったパワーがほかにあるでしょうか。 そして最後に、この贈り物にはもっと高い目的もありました。 それは感謝の心です。肉体の喜びに対する感謝であり、命を実感できることに対する感謝、肉体以上のものになれることに対する感謝の心です。 性エネルギーが外からおとずれ、体を満たし、感動を与えると、人は喜びを感じ、生きていることを実感し、感覚のすばらしさを味わいます。 そういう経験をしたあとでは、今度はそのパワーが反対方向に流れることも可能なことを、理解できるのではないでしょうか。 ちょっと説明しましょう。 性エネルギーは外から自分のほうへやってくるもの、または、自分の内部からわきでてくるものだ、と人は感じています。 神が望んだのは、性エネルギーの流れは反対方向に行くこともできるのだということを知って、人間がそのエネルギーとともに、発生源である「大いなる源」へとさかのぼってくることでした。 エネルギーは両方向に流れます。 人間がエネルギーとともにさかのぼることができれば、エネルギーの根源である、「大いなる源」と合流できるわけです。 「大いなる源」と合流するには多くの方法があり、とくに、これと決まった正しいやり方というものはありません。 あなた方が、正しいやり方をしなければならないと思いこんでいるから、むずかしくなるのです。 あなた方はこれまで「読むべき」本をすべて読み、師につき、「正しい」道を歩んできました。 ところが、「大いなる源」へ戻っていく道を少しでもかいま見た人は、ここで壁にぶつかります。その理由はその人の思いこみにあります。 自分には「大いなる源」へ戻っていくだけの資格がないとか、そうするには何らかの犠牲をはらわなければならないなどと、信じているからです。 したがって、セックスの一瞬一瞬を通して、性エネルギーが教えようとしているレッスンにちっとも注意をはらいません。 セックスのただなかにありながら、それを感じようとしないので、意識が体験から離れてしまいます。 このように気が散るのには、いろいろな原因があります。 まず第一に罪悪感があります。 こんなことをしていてはいけないとか、神が見ているのではないかとか、師が見ているのではないか、と思ったりします。 こんなことを考えているので、セックスをなかば無意識的に行い、性の不思議な魅力も、性エネルギーの動きも感じることができません。 性エネルギーは人間の味方なのです。 けれども、どんなに力強い味方も、心ここにあらずの状態にいる人や、耳を傾けようとしない人を助けることはできません。 意識を集中させ、セックスの初めから終わりまですべてに注意をはらい、自分の反応や感情を見つめ、エネルギーがどんな動きをしているか、性エネルギーが自分をどのように解き放ってくれているか、 どこのところでエネルギーがとどこおっているか、その滞(とどこお)りをどうするか――このようなことに注意をはらう必要があります。 意識がそこになければ、人はそこにはいないわけで、何も学ぶことはできません。性生活が満足なものでない場合、パートナーの数を増やせばいい、と思っている人がたくさんいます。 それでもまだ体力があまっていると、自分がまだ満足していないだけでなく、パートナーの数が増えたぶん、自分に文句を言う相手も増えたわけで、悩みの種を増やしてしまったことに気づきます。 なかには、自分の問題は現在のパートナーが悪いのであって、もっと官能的な相手を見つければ、満足が得られると思っている人もいます。 そうして、ちがうパートナーを見つけてみても、まだ不満です。 性エネルギーから満足を得られるのは、それがすべてのレベルで賢明に使われたときだけです。そうでない限り、満足は得られません。 性エネルギーは、この喜びのレベルまで来たらストップする、などというようには創られていないからです。 では、もっと深い経験をするにはどうしたらいいのでしょうか。 瞑想をしている人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。 性エネルギーにも同じような働きがあって、あなたをより広大な意識へと誘う「引き金」となります。 自分がすべてのレベルで学び成長していく手段としてセックスを利用したければ、自分の内部やまわりで何が起こっているかに耳を傾け、注意をはらわなければなりません。静かにして意識をとぎすますのです。 性エネルギーの動きに気づき、それを感じ、動くさまを知るようにならなければなりません。生殖器部分は宇宙のパワーであるクンダリニーの発火点に非常に近いことも、観察していくとわかります。 意識を完全にとぎすましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから天項のチャクラまでエネルギーをかけのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分のなかにあることがわかります。 性エネルギーのすばらしさを感じない人は、そう感じないように、頭のなかで何かがスイッチを切っているからです。 このエネルギーは一方向に流れるだけではない、ということを思いだしてください。 エネルギーの筒の一方の端と、もう一方の端を分離するわけにはいきません。それらはつながっているのです。 性は神から人間への贈り物です。 神からの贈り物はすべて、ひとつの目的を持って与えられました。 将来、神のもとへ、「大いなる源」へ戻っていくために使われるようにです。 ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。 神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。 しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。 どの転生の人生でどんなふうに性エネルギーを使うかは、あなたの自由です。けれども、性エネルギーは、それを使って「家(神の御国)」に帰るようにと、神から与えられたものであることを忘れないでください。 何か質問がありますか。 質問:「クンダリニー」のパワーは非常に危険で、それを得るには師につくべきだと思っていました。ちがうのでしょうか。 長時間の瞑想や禁欲生活、プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法)などの精神的修行をしてこのクンダリニーのパワーを「獲得」し、自分の意思通りにそのパワーを使おうというのでしたら、確かに師につくべきでしょう。 私が人間として転生したときの経験から言いますと、私には師もいませんでしたし、私がしようとしていることを理解できる人も全くいませんでした。 私にあったものといえば、エネルギーの動き、それだけでした。 私が確信をもって言えるのは、エネルギーの動きというのは完全に信頼できるものだということです。 エネルギーはそれ独自のやり方で動き、独自のペースですすむのであって、私の能力以上のスピードですすんだり、能力以上のところへ私を連れていくこともありませんでした。 すべてがうまく行きました。エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。 まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。けれども、ダムの門を開けて、いっせいに水を放流すると、水の勢いが激しくて危険です。ですから、自然にマイペースでやってください。 何をするにも師が必要だなどと思いこまないでください。 あなた自身が教師なのです。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれがパワー制御装置のようなものを持っています。 エネルギーが動くにしたがって、道も開けてきます。 私の言うことをうのみにはしないでください。 もちろん、ほかの人の言うこともうのみにしないでください。 自分自身の内なる声に耳を傾けてください。 少しやってみると、自分も性エネルギーについて知っていることがある、ということがわかります。性や性エネルギーから、自分が切り離されていると感じる必要はありません。 セックスによる結びつきの目的は、すべてのレベルで人をはぐくみ、育てることにあります。 セックスへの理解を深めたいと思っているパートナーがいる人は、自分をはぐくみ、育てるものはどこから来るのかを知るために、次のようなことを実行してみてください。 欲しいと思う人はタントラ・ヨガの本を手に入れてもいいでしょう。 けれども、べつになくてもかまいません。 自分にとってセックスとは何かということについて、自分自身の本を書くつもりになってください。そのために自分が実験場となり、実験体となるのです。 では、あなたがパーティに出席しているとします。 誰かがあなたに近づいてきて、その結果、あなたは自分のなかで性欲がわき起こってくるのを感じます。 修行をしている人は、「性エネルギーを経験することは有益だろうか」と、ただちに自問します。 一番下のレベルにいる人にとっては、答えははっきりしています。快楽です。そこでそのための行動をとるか、またはとらないことを選びます。 もう少し高いレベルにいる人は(私は、この「レベル」という言い方をまるで信じません。でも、皆さんは大好きでしょう?)、 「ちょっと考えなくては。今このエネルギーを行動に移すと、私の人生に混乱が起きるだろう。それだけの価値があるかどうか」と考えます。 それだけの価値があると思えば行動に移し、ないと思えば行動しないでください。そして、いずれを選ぶにしても、自分の行動の責任をとる覚悟をしてください。 最も高いレベルにいる人は、 「このような状況でこの人と性の表現をすることは、私にとって、神を理解するのに最もふさわしいかどうか」と自問します。 これらの行動の結果、人は知りたくなかったことを知ることになります。 どんな場合も似たもの同士が互いを引き寄せますから、低いレベルにしかいない人が、自分より高いレベルの人に魅力を感じるということは、まず起こりません。 低いレベルの人にとって、自分より高いレベルの人は自然さに欠けるように見えるからです。その次のレベルは「かたく結ぼれているカップル」のレベルです。 彼らは必ずしも高い意識をめざすことを第一義にしているわけではなく、相手という人間とかたく結ぼれているのです。 一番高いレベルの人たちは、自分の人生のあらゆる出来事や経験を「神のもとへ帰る」覚醒のために使おうとします。 質問:性エネルギーはどのように動かせばいいのですか。 自分の体のなかのどの部分で性エネルギーを感じているか、まず見つけてください。 そして、その感覚とともにいることによって、その感覚をとぎすまします。 自分の想念が現実を創造するということを、あなたは理解しているのですから、意識的に自分の体のなかでエネルギーを上昇させようと決心するのです。 すると、エネルギーが上にあがりはじめます。 ほとんどの人は、人間の体には七つのチャクラがあると信じていますが、実際にはもっとあります。 体のいたるところにチャクラがあります。 エネルギーを動かしはじめると、これらのチャクラがまわりのチャクラのスイッチを入れていきます。 これは神経間のシナプス(ある神経の軸索とほかの神経の樹枝状突起との接触部分)の動きであり、非常に速いスピードで起こります。 いったん、始まったら、もうコントロールすることはできません。 あなたがするべきことは、エネルギーを感じ、エネルギーそのものと、それを上昇させたいという自分の願望に意識を集中することです。 そしてエネルギーが動くにまかせます。 エネルギーは、自分の意識が向いている体の部分に移動します。 まず、一番下のチャクラから始めて、順番に上のチャクラへと意識を集中させていきます。こうすると、エネルギーが天頂のクラウン・チャクラを通りぬけます。やってみてください。 性エネルギーは神から与えられた贈り物のなかでも、最高のもののひとつだということを忘れないでください。この贈り物には何のルールもついてきませんでした。ルールを作ったのは人間です。 自分が話す内容の質や自分の行動の質や人生に起きるあらゆることの質が、ひとりひとりの責任であるのと同じく、性行動の質もひとりひとりの責任です。あなたが決めることです。 「まちがった」こととか、「正しい」ことというのはありません。 あなたがどれを選ぶか、ただそれだけのことです。 質問:性に関する社会的ルールは、人間が「神のもとに帰る」のを怖れているから作られたのでしょうか。 性に関する社会的ルールを作ったのは、自分が性の表現を自由にできないと感じた人たちです。現代の人々のことを言っているのではなく、古代の聖職者たちのことをさしています。 彼らは、自分たちは一般の人とはちがうと思い、自分たちはセックスをすべきではないと決めました。 このおきてを作ると、ただちにそれをほかの人々にも強要しました。 それ以後、性は多くの社会的制限を課せられるものとなりました。 セックスを通じて多くの人々が完全なる悟りを開いたにも関わらず、このおきては守りつづけられてきました。聖職者たちは、自分たちのやり方で達成された悟り以外は本物でないと信じたのです。 ちょうど、医者が、西洋医学の治療法以外で治った病気に対し、当初の診断がまちがっていたにちがいないと信じるのと同じです。 古くからつづいている宗教のやり方にしたがっていれば、そこで起きた「悟り」の経験も信じてもらえます。あなたが守っている規則を作ったのは、神だなどと誤解しないでください。神は人間に何も強制しません。 ここではっきり申し上げますが、あなた方の人生で起こっていることの大半は、いわば実験です。人生は、創造しつづけるダイナミックなアクションです。 神が、やるべきことをすべて示して、人間はただそれを実行するだけだったら、人生にどんな意味があるというのでしょうか。 人生は、不可思議に満ち満ちた、すばらしい創造の過程であり、 あなたもその創造の一部です。 あなたが考えたり、言ったり、したりすることはすべて、この創造的行為を構成する要素です。したがって、「あやまち」などというものは存在しませんし、「悪い」ことも存在しません。すべては「生きること」なのです。 はい、では説教はこれくらいで終わりにしましょう。 みなさん、今日はどうもありがとう。 自らの空虚感を人や物では埋められないQ、 どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるのでしょうか? なぜならあなた方が特定の人や物、あるいは考え方や主義などに執着することに何らかの価値を見出している限り、本心から自由になりたいとは思わないはずだからです。つまり、まだ執着していたいものから、自分を引き離すことなどできないのです。 それが夫や妻、あるいは恋人であったり、お金、権力、見栄、立場、セックス、あるいは酒や麻薬などであるかもしれず、そこにはもっと多くの可能性があります。そして、それらに執着することによって今まで自分が得ているものは何であるかのリストを作ってください。 そのために多くの愛情関係が、実際には相手を失う「怖れ」に根ざしたものになっています。ですから自分の執着を知るためには、今の相手があなたの人生から去っていったらどうなるかを自分に聞いてみるとよいでしょう。 そしてその関係は自分の人生のプラスではなく、実はマイナスであることがわかるでしょう。そこのところまであなた方が気づいて理解するとき、初めてその執着から自由になりたいという自分の望みに、エネルギーを注ぐことができるのです。 つまり「それ」が自分の価値の基準なのです。つまり執着しているものが車であろうと、人間であろうと問題ではないのです。何であれ自分以外のものに執着していると、その結果、それを失うことで自分の価値も減少してしまうと感じるのです。 本来自分のものではない人間や物に執着してしがみつくのは、健全ではないばかりか自由な生き方ではありません。こうしたことを理解すると、物や人にこだわらない境地へ向かって、一歩を歩み始めたことになります。ですから「執着を捨てる」「執着しない」ことに価値を見出すことがその一歩なのです。 そしてあなたも喜んで興味を持ってそれらの動きに参加することです。物や人にこだわらないという必要性があなたに理解できると、あなたの意思は「神の意思」と結ばれることになり、この段階をたやすく歩むことができます。 あなた方が強く望むことは現実になるので、あなたが「大いなる自由」を得たいという深い望みを心から持つようになるまでは、「自分と神との断絶、自分と他人、自分とまわりの世界との断絶」といったあなた方のエゴが生み出した世界観に翻弄されて生き続けるしかないでしょう。 しかしながら実際には、あなた方は全て同じなのです。それは今までもずっとそうであったし、これからもそれは変わりません。つまりあなた方にとってもっと優れて高貴な人からもっとも堕落した人まで、すべての人間は同じなのです。 人が注意を払えるのは「今この瞬間」だけであり、それは実に単純なことです。一瞬一瞬を意識するとき、あなただけがそこにいてそれ以外のすべては存在しません。そうした瞬間には、自分とまわりの世界が切り離されていると感じることはありません。そこにあるのはあなたと、あなたのなかにあるものと、あなたのまわりにあるものだけのはずです。 それはどこかと言えば、「未来」や「過去」などは存在しないのですから、それはここ、今しかありません。「広大無辺なもの」とともにいるには、「今というここ」にいなければならないのです。 「振り子」を一方だけに固定しようとしないでください。あるがままにさせておくのです。あるがままにさせることによって、その瞬間の心の平安や知恵や「大いなる自由」がやって来ます。 |

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