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私の表現力の源泉について 真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪天啓・インスピレーションを頂く秘訣 「精妙な感覚」の磨き方のお話♪人類のお悩み「性欲・情欲」の正しい理解 性エネルギーという贈り物の正しい解釈のお話♪聖フランチェスコの得た偉大なる悟り話♪神を愛する方法♪バーソロミュー朗読♪解脱・覚醒♪バーソロミュー・バシャールが語る「全ては神」の真理♪真理への気付きでカルが解消♪悟り・解脱♪バーソロミューが語る真実の愛とは♪全ての人間は大いなる愛そのもの♪バーソロミューが語る真の霊性の高い人♪全てが神という本質的真理の理解度♪バーソロミューが語る性欲の真の意味♪ラー文書が良く分かるお話♪遺伝子組み換え果物判別法♪悟り・全ては一つ♪どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるか♪今を生きる悟りのお話♪私の表現力の源泉について♪真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪



私の表現力の源泉について
真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話

 海外のチャネリング系スピリチュアルの中でも、ひときわユニークな内容となっているバーソロミューさんですが、チャネリングの時期はかなり古い時代に行われていたようです。

 それなのに最新のスピリチュアルと比べても、全く相違ない…新鮮な内容と観じられるのは、それが「永遠に変わらない真理」だからだと言えましょう。

 私の解釈ですが、バーソロミューとは、宇宙に遍満する大霊となられた、覚者方・聖者方ではないかという風に感じました。
 
 一回目拝見した時は、あまりそこまで思わなかったのですが、知花敏彦先生の説かれる宇宙真理をかなり深く理解している状態の、二回目に拝見した時に、…これは真理の教えで間違いないっ!!と確信するに至りました。

 知花先生の真理の解釈で読みほぐすと、バーソロミューの伝えたい事を深く理解することが出来まして、それからバーソロミューさんが大好きになりました。

 ちょうどその頃、上江洲先生のご光話を浴びるほど聴いていまして、上江洲先生の教えを理解出来て消化した後ぐらいの時期に、You Tubeの青空永音さんのバーソロミューの朗読に気づいて、それから、青空永音さんの朗読に猛烈にハマって、一日中聴いておりました。

 その青空永音さんの、魅力的で可愛いボイスの朗読を聴きまくっている内に、知花先生と上江洲先生の説かれる奥深い真理が、私の中で、融合・昇華してゆき、色々な奥深い言葉の意味の理解が予想以上に深まりまして、自分でもうまく説明できる様になった気がします。

 実は…真理の説明って、皆様が思っているより難しいものでして、昔、2016年頃、文章で自分の言葉で真理の説明の記事を書こうとした時に、予想以上に難しくて、頭が少し混乱した事が思い出されます。普通の文章よりも三倍難しい印象でした。

 それ以降、知花先生・エドガーケイシー・上江洲先生やバーソロミュー・五井先生・関英男博士、長尾弘先生、高橋信次先生…等々、素晴らしい真理を学び、

ハートの奥底にストンと落ちる理解を何段階も繰り返す事によって、私の真理の表現力も大幅にアップしたように感じております。

 一人だけしか学ばなかったりしますと、語彙が貧弱になりやすい傾向があるように思われます。表現力を上げるためにも、色々な覚者方から学ぶのも一興かもしれません。

ちなみに、私の耳から聞く真理の学習は、こんな感じだったりします。

知花先生のご光話……10ヶ月
上江洲先生のご光話……4ヶ月
バーソロミューの朗読……3ヶ月

の間は、プライベートの時間を全力で聴いておりました。


 今の私に深い表現力が出来るのも、それだけの努力をした上に、人類の魂の覚醒のために…と、根性を出して本を書き出して頑張った努力の賜物だという風に捉えております。
「努力を続けた栄光(果実)」がついに実ったという感じでしょうか。

 長年のボランティア精神の努力が実って、並の人には書けないような、奥深い表現が自然とできるようになった…、と言いましょうか、いつの間にか「なっていた」という表現が正解かもしれません。

 自分でも自分の言葉で書いた記事を読み返して、何と…分かりやすく真理を説明しているんだろう…って(笑)、思うことがしばしばあります♪超絶☆説明上手な人みたいな♪

 私の文章は、色々な教えの表現を幅広く駆使して、惜しげもなく使用してますし、色々な真理を正しく理解した上で、融合して使用してるつもりでおります。

 真理の説明上手になりたい方は、ぜひこのブログを見て頂いて、色々研究しながら、言葉の意味の深い理解を熟考しながら、追求しながら、拝読して頂くと、きっと、口言葉でも、文章でも、素敵で奥深い…分かりやすい表現が出来るようになれる事でありましょう。


天啓・インスピレーションを頂く秘訣
「精妙な感覚」の磨き方のお話

 神様は、対処している問題を真剣に真摯に考えていると、その答えを実生活の中で与えて下さるんですね。守護の神霊の皆様も、教えるために、色々な気づきの事象を見せて下さいます。

 私は、自分が間違った想念を持ってしまった時などに、内在の神、守護霊様、守護神様、等の方々から頭をガツン!と叩かれたような感覚を受けた事もあります(笑)

 昔からそういう部分がありましたが、最近では「精妙な感覚」と言ってもいいぐらいに、脳内に情報がダウンロードされるが如く、守護の方々の有り難いアドバイスをダイレクトに感じる事が出来るようになりました。

 その「精妙な感覚」の磨き方についてですが、基本は、肉食を止めたり、徹底的「洗心」したりと、霊的な正しい努力をして、アストラル体をクリア&クリーンにする事です。

 そうすれば自ずと、高次の存在からのアドバイスが、自然と気付きとして、直感として、天啓・インスピレーションとして、感じる事が出来るようになります。

 止めておいた方がいいのは肉食です。肉食をすると、食べた肉の獣性によってアストラル体が汚れてしまう上、獣肉からの影響で、自我が強くなってしまうそうです。そういう意味でも、真理の追求者は「肉食」だけは止めておく必要があるように思います。

 精妙な感覚は、自分のアストラル体を綺麗にして、波動を上げて自分自身を精妙な高い波動状態にしておかないと、出てこないものですから、まずどうしても「肉食絶ち」だけしておいた方がいいかなと。

 とりあえず、徹底的に「洗心」するのと、肉食を止める事は、
確実に効果を感じて頂ける事は実体験から確信しております。

 私の体験ですが、肉食をやめるだけでもかなり精神が穏やかになります。特に感情の制御が楽にできるようになりました。どうも…肉食によって感情が暴れやすくなるようです。

 ですから、肉食を止めるだけでも、感情の制御が苦手で、暴れ馬のように暴れるような人でも、かなりマシになるのではないでしょうか。

 イライラを抑えきれないような方がいらっしゃいましたら、ご参考にして下さいませ。超オススメです♪


人類のお悩み「性欲・情欲」の正しい理解
性エネルギーという贈り物の正しい解釈のお話

 真理の追求者の方々の、特に男性の方の一つのお悩みとして、情欲、いわゆる性エネルギーの問題があげられます。私自身も、どう扱えばいいのか、試行錯誤したり、悩んだ時期もございます。

 ですが私も、このバーソロミューさんの「性エネルギーという贈り物」を50回ぐらい拝聴して、完全にそのお悩みも解消する事が出来ました。

 私の結論は「性エネルギーは、尊い素晴らしいポジティブエネルギー」というものであります。

 単に、その使い方が問題なだけであって、その「性エネルギー」自体には何の罪もありませんし、ネガティブな要素など微塵もないという事は、自分の実体験の色々な気付きからも確信しております。

 魂の法則でも、「性関係を自制すれば神に近づいたりより純血になれる」とイエスが公言した事は一度もない。と論破されておりますし、また、「進歩した魂にとっては、親密な愛の表現方法だ」とも仰っておられます。

 という意味でも、「性エネルギー」自体は何の問題もなく、高次元な宇宙人さん達でも、普通に清らかに「性関係」を行使されているという事でしょう。

 要するに、その「使い方・想念の在り方」が大事なのであって、「性欲・情欲」自体には、なんのネガティブな要素はない…というのが私の結論であります。

 覚者・知花敏彦先生も、情欲は、プラスがマイナスを求める働きであって、神我一体の境地になれば、「+と-」が完全に中庸のバランスになって、自然と情欲がなくなるんだから、

「+と-」のバランスが出来ないうちに、無理して禁欲をして、精液を(ためて)ぶちまける事はしなくていい…みたいなお話があったように記憶しております。
(詳細な部分が違ったらごめんなさい)

 覚者・上江洲義秀先生も、「あの人は美しい、綺麗」は、別にいいけど、「あの女性と寝たい」とかは良くないと仰っておられました。まさにその通りでありまして、大事なのは、その「想念の在り方」であり、「性エネルギーの使用方法」だと思うのです。

 私も、その想念の在り方で、色々体験・経験したのですが、その中で学ばせて頂いたのが、その美しいと想う相手の女性に対して、何かをしたいとか、不倫でもしようかとか、

実際に影響を与えて、迷惑をかけるアクションを起こそうとする想いは、いわゆる「カルマの上塗り」的な感覚になるという事です。

 これは、守護の神霊の方々の叱咤(汗)や、そういう想いになった時に、自分の周りの波動が曇った感覚に陥ってしまった体験から、ほぼ間違いないと認識した次第です。

 お恥ずかしい話ですが、人間は多少の間違いをおかしながら、成長していくものですから、それはそれで、申し訳ないと反省しつつも、それは魂の成長の一つの過程として、前向きに捉えて、いい経験をさせてもらえたなぁ…と、そんな感じで捉えております。

 誰だって、「情欲・性欲・性エネルギー」は持っておりますが、それを一人で行使する時も、美しい愛に満ち溢れた境地で使えば、それは何の問題もないどころか、

その行為が、心が清らかになる「美しい愛情行為」になって、疲労もあまり感じず、心も清々しい生きてる喜びに満ち溢れた爽快感だけが残る…そういう高い愛の表現方法に変わってまいります。
 これは実体験から観じた事柄であります。疲労感が殆どない感じになります。

 心を磨けば磨くほど、「性エネルギー」の行使が、喜びと爽快感だけが残る、幸せの局地のような、神様が望まれている、美しい清らかな「愛の表現方法」として完成していく様であります。

 私は、「性エネルギー」を使用することを、「罪」「カルマ」「ネガティブな行為」と受け取る事は間違いであり、その考え方自体が、神様に対する間違った考え方だと認識しております。

 もし「性エネルギー・性欲」というものが、「罪」なのだったら、この宇宙全体のあらゆる生物が罪の行為から生まれたものであり、愛の行為自体が罪であり、

虫さんから動物さんまで、全ての存在が、「罪」というものを背負っている、という、もう創造主に対して、失礼極まりない考え方になると思うからです。

 どうして創造主である神が、「愛情表現」「性エネルギー」自体を、「罪」とみなしましょうか。そんなおかしな話はありません。あくまでも使い方が問題なのですね。

 性エネルギーを「本能」といって、まるで「愛情表現」自体を良くない行いのように、語る方もおられます。

 大変申し訳ないのですが、「宇宙の法則である神」がお創りになられた、偉大な繁殖システムの何がいけないのでしょうか。

 その「本能」で生きてる動植物たちの何が問題なのでしょうか。「本能」が「間違った行い」や「罪」とでも言いたいのでしょうか。非常に疑問です。

 私はその動植物たちの「愛の行為」を「愛おしい」としか思いませんし、「本能」で生きている動植物たちを、「神の愛の具現」で「尊い存在」と認識しております。
「本能」だから間違いとか罪とか、などホコリ程も思いません。

 神様が創造された偉大なシステムを否定して何が真理なのでしょうか(笑)、と私は言いたいのです。

 「性エネルギー」自体は、「完全なる神の愛」であり、「神の愛の贈り物」、「ポジティブエネルギー」そのものではないでしょうか。

 もし霊性進化と「性欲を悪者にする思考」をセットにする教えが、仮に真理ならば、人類が真理に目覚めた瞬間に、人類が愛情行為をしなくなり、人類が滅亡してしまいます。

「魂の法則」で語られている通り、こんなおかしな話はありません。ですから、これは真理ではありません。

 全智全能の創造主であられる神が、ネガティブなエネルギーなどをお創りになるなど、もちろんありませんから、情欲・性欲自体は、「ポジティブエネルギーで聖なるもの」です。

 例えば、包丁を使っている職人さんがいるとします。「包丁・刃物」自体には何の罪もありませんよね。
 ですが、使い方次第で、最高の芸術作品にもなり、最高の芸術性のあるお料理にもなります。それはポジティブエネルギーとして使われたという解釈になります。

 その一方で、使い方を誤れば、人を殺めたり、傷つけたりしてしまう事もあります。それはネガティブなエネルギーとして使われたという解釈になります。
 
 その様に「性エネルギー」自体は何の罪もありませんし、その元の本来の状態は、「神からの祝福のプレゼント」であり、ポジティブエネルギーそのものだとも言えましょう。
 バーソロミューさんはその様に仰っておられました。

 ですから「性エネルギー」を使うこと自体が悪いという事は決してないのですね。
私はもう、その「性エネルギー」について、全てのお悩みが解決しておりまして、

バランスの取れた中庸の思考で、神様から与えられた素晴らしい「性エネルギーという贈り物」を、神様に感謝の気持ちを持って、ありがたく使用させて頂いております。

 もう「性エネルギー」に対する罪悪感など微塵もありません(笑)。性欲を抑制する事と、悟りとは、何の関係もないことを熟知して深く理解しているからです。

 ここ辺りは、賛否両論があるとは思いますが、それは無意識のうちに、キリスト教的な禁欲的な価値観である、間違った古い考え方に支配されている方が多いからだと推測されます。

 日本人は本来、性に開放的な民族でしたし、正しい最先端の解釈で捉えれば、私の結論が正しいとご理解して頂けると確信しております。

 あの有名な、「小林健さん」も、高い精神性と素晴らしい超能力をお持ちの方ですが、普通に奥様と愛の行為を堪能されていると、ご著書で伺ったことありますし、韓国随一の霊能者でもあられる、安東民先生も、普通に奥様と「愛の行為」をされているとの記載がありました。

 もし「性エネルギーの行使」と「超能力」が反比例するものでしたら、そのお二人の超能力は、消えてなくなってしまうのではないでしょうか。ですが、実際には何の影響もない事は明らかです。

 そういう意味でも、「性エネルギーを行使する」事と、「魂の成長の影響」は、何の影響もないと結論付ける事が出来ると思うのです。

 身口意を正したり、洗心したり、真理を深く理解したり、愛を高めて高い霊性に磨き上げる事が大事なのであって、「性エネルギー」を抑制する事は特に意味はないという事ですね。

 また、アミ小さな宇宙人でも、性行為はもっと自然で自由なものだと書いていた記憶があります。高度に進化した宇宙人でも、性行為は、「親密な愛情行為」だという訳です。

 私自身、性エネルギーについて悩んで、性欲を抑制しすぎて、自分を縛る事で、うつ状態になりかけた事も御座います。
 そういった経験を経て、抑制すればいいもんじゃないんだなぁ‥って学びましたし、色々試行錯誤の繰り返しで、この究極の結論にまで到達する事が出来ました。

 ただ、誤解しないように付け加えますと、「性エネルギーを行使する」とは言っても、今日はあの人と、明日は別の女性と…みたいな、そういうモラルハザードな事は絶対にしてはいけません。
 二人でするというのは、カルマ的にはあまりお気軽にするのは止めておくべきでありましょう。

 あくまでも、「一人で」中庸のバランスの取れる範囲で、程々に「性エネルギー」を、心の中の妄想中でも、好きな人の幸せを願い、心から愛してる、という感じで、美しい愛の…愛おしさを感じながらする…のが問題がない、という事で御座います。

 その「一人で」「性エネルギーを行使する」時に、清らかな愛おしさを感じる愛で、愛おしい愛で行使する時は、その「性エネルギー」というものは、

それはそれは、何とも言えない「最高のエクスタシー」と感じまして、それがある意味「神の祝福」なのかしら…と、いう風に感じた事も御座います。

 その「性エネルギーに対しての罪悪感」というものを払拭して、真の意味で「性エネルギー」というものを理解できた時に、貴方も、その神の祝福としての「性エネルギー」を縦横無尽に発揮出来るようになり、

 優雅に綺羅びやかに、スマートに、清らかに爽やかに、一瞬一瞬を喜びに満ち溢れた、生きている喜びの実感の最高のエクスタシーとして、疲労感もなく、愛で満たされた至福の境地として、「性エネルギー」は「神の祝福」なんだなぁ…って、観じて頂けるでありましょう。

最後に、分かりやすく簡易比較で表してみますと、


性エネルギー自体は神の贈り物 愛のエネルギー 正解 ○
性エネルギー・情欲・性欲自体がネガティブなもの 間違い ☓

高次元な宇宙人も普通に愛情表現をしています 正解 ○
性欲を自制しないと高次元な宇宙人になれない 間違い ☓

進歩した魂にとっては、性関係は親愛な表現方法 正解 ○
性関係を否定しないと進歩した魂になれない 間違い ☓

愛情表現をしながらでも普通に高い次元に行けます 正解 ○
愛情表現自体を否定するという人類が滅亡する教え 間違い ☓

性欲自体は神からの贈り物で神の愛 正解 ○
性欲自体が罪であり存在してはいけない 間違い ☓

動植物が神の本質である愛を自由自在に表現している 正解○
動植物を本能で生きている下等生物だと見下す 間違い ☓

愛情表現は美しい愛で正しく使えば、それは神の祝福 正解○
性欲自体全部が本能で罪だから、全て克服するべき 間違い ☓

 
「魂の法則」から、性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも純血で高潔だと信じるのは誤りだ、からの引用ですが……


※性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも清潔で高潔だと信じるのは誤りだ、とも言われましたよね。

 その通りだ。司祭であろうと僧侶や修道士であろうと、宗教家に貞潔を誓わせたその様な概念を、どこから引き出して来たのか知りたいものだ。

※イエスが示してた手本によるものだと思いますが。

 君たちはイエスに性関係がなかったと断言できるほど、イエスの私生活を知らないではないか!
 性関係を自制すれば神に近づいたりより純潔になれるなどと、イエスが公言した事は一度もない

 例え本当であっても、全人類が生涯にわたって性関係を控える決意をしたら、120年以内に地球から人間の命は途絶えてしまうであろう!

「生めよ増やせよ」という事と矛盾してしまう、と思わんかね?もし君たちが、性関係以外の増殖法を知っているとしたら、お教え願いたいものだ。過去の時代には、試験管で受精させるなど不可能だったのだよ!

※あなたのお話から、性関係はいつも増殖のためでなければならないと理解するべきでしょうか。

 もちろん違う。もうそれについては十分話しただろうに。進歩した魂にとっては、性関係は親愛な表現方法だ

 それと全く異なるのは、性欲を満たすために、あらゆる手段を用いて自由意志が侵害される場合だ。

 特に女性や子供と言った最も弱い者が性商売(売春や小児童性犯罪の事だ)に従事させられたり、君たちの世界ではよくあることだが、
実際には愛してもいないのに愛していると言ったりして、セックスのために、あらゆる方法で人を操り嘘を付く場合だ。

 イエスはこのような事を全て、告発したのだ。その時代には女性は、性も含めた全ての面において、奴隷に毛が生えた程度に見なされ、実質的には何の権利も持っていなかったのだよ。

 男どもは、誰にも文句を言われずに好き放題で、女性は、男性の権力の乱用を、宗教の加護にすがって耐えねばならなかった。
 たとえば、離婚され、他に生き延びる手段がないために、売春を強いられた。

 イエスは女性の権利を守るために、大いに闘った。女性を性奴隷と見なすことを止めさせ、彼女たちを咎める者を叱咤し、その惨めな状況は男性のせいなのだと分からせようとした。
 しかし、教会がそれら全てを、性を卑しむ詭弁にすり替えてしまったのだ。

※教会は、イエスの母親の聖母マリアを例に挙げて、純血と貞潔を揚げてきたのではないですか。

 イエスの受胎については一旦置いておくが、マリアは大半の女性がそうであるように、伴侶であるヨセフと性関係を持ち始めるまでが処女であった。ヨセフとは複数の息子と娘を得たのだが、彼らはイエスの兄弟に当たる。

 特筆すべきなのは、それがキリスト教徒の福音書に記載されており、筆者達がイエスに兄弟がいたことを隠そうともしなかった点だ。
 
 マリアに他にも子供がいて、彼らに名と性があった事は、福音書の様々な説に反映されている。いくつか例を示してみよう。

 イエスがまだ群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、
「ごらんなさい、貴方の母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」

「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、シモンとユダの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私達と一緒にいるではないか」

 他の者は言った。「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」

 福音書の著者が、イエスに兄弟がいたことを何の問題とせず、恥ずかしがらずにそれを記載しているのに、なぜその後継者たちが問題視するのだろうか?

 
 後は、この記事の下の方にある「性エネルギーという贈り物」をご拝読して頂ければ、もう完璧に理解して頂けるでありましょう。
 もうこれから貴方も「性エネルギーという贈り物」を正しく喜びを持って、ご活用していけるはずです。

 真理の追求者の皆様の「性エネルギー」に対するお悩みの解消に役立てて頂ければ、私にとって至上の喜びであります。



関連記事での追記ですが…♪

正真正銘の本物のイエス様が語る
性エネルギー・結婚の正しい解釈秘話をご紹介

 今回は、あの世界一有名な「イエス・キリスト」、すなわちイエス様ご本人が直々にご講釈をして下さっている、素敵なお話をご紹介させて頂きます。

 怪しいチャネラーが交信したのではなく、天上界から派遣された12人のキリストのお一人であられる「助安由吉さん」という方が、明想中に、光一元の意識状態の中で、イエス様から受けたメッセージという形になります。

 天上界から派遣された12人の中には、知花敏彦先生や、上江洲義秀先生もおられます。
 な~るほどぉ♪そういった一番信頼できる系統の方なのね♡♪…という認識をして頂ければ幸いであります。

 私自身、こちらの内容から本物ならではの高貴な波動を観じまして、100%信頼できる情報と言って差し支えないでしょう…と判断させて頂きました。

 それでどうしても、この最高に素晴らしい内容を、人類の皆様にお披露目したいと…そう思った次第なのです。

 「この記事」と完全にリンクしており、その内容の正しさを裏付ける内容となっております。…ですので、追記させて頂いたという次第であります。

 私の性エネルギーに対する新解釈が、全くもって正しいと分かり、大変感激・大歓喜しております。
「イエス様の真実の性解釈」は私の結論と全く同じものでしたので。

 今回のお話は、知花先生や上江洲先生をご存知の霊性の高い方々でしたら、何の違和感もなくすんなりとハートにストンと落ちて、深い真理の理解にして頂けると確信しております。

初めにイエス様の内容を軽くまとめてみました♪

世間から離れての修行は、逃避の修行で間違い

●「思っただけでも淫乱なり」と言ったのは誤り。真実は全く逆
性を持った人で異性に興味を示さないことなど、全く不可能

●教会の「異性を感じるものはすべて罪」は誤り

性を閉ざしての修行は、かえって悪い方向に進んでしまう

●性を無理に抑える事は、魂の修行としては失敗に終わります

●性は抑える事は、出来るものではありません

●愛情表現(性行為等)を制限する方が大きな問題であり
●それを薦める人々はもっての外・とんでもない事・間違い

●生の交わり(性行為)も罪な事ではありません
●もちろん一人での性行為も罪な事ではありません

●男女の両性の調和、これこそが地球人類の調和
●性を抑えれば抑える程、頭をもたげてくる

●ひとり一人の内にこそ神がおられます
自分が神であると自覚する人が本物の伝道者



結婚について (イエス・インマヌエルより)

 この地球という天体においては、魂の修行が生きる目的であります。俗世間から離れての修行は逃避の修行になり、大きな成果を上げることが出来ません。

 私の時代は大変な時代でしたので、私と12人の仲間は妻帯をせずに真理の電動に力を入れてきました。

 しかし、あれから二千年も経とうとしています。状況は全く変わってしまいます。伝道者は必要ですが、教会堂中心の聖職者は全く必要がありません。

 いない方が地上人類の平和に寄与する事が出来ます。それと神父と言われる人、修道女と言われる人の結婚をすすめます。

 現在のように性を閉ざしてのものは、本当の修行にもならず、かえって悪い方向に進んでしまうからです。人間の本能の中でも、食欲についで大きなものです。

 これを抑える事は、出来るものではありません。もしこれを抑えたとすると、魂の修行から言いますと、アンバランスのものになります。

 本来円満な修行でなければならないのに、いびつな円になり魂の修行としては失敗に終わります。

 世の中には男性と女性しかいません。この2つの性のバランスを欠いているものは、全て失敗の人生となります。

 性を抑えれば抑える程、頭をもたげてくるのものです。また教会では異性を感じるものはすべて罪であるとしています。

 また私が思っただけでも淫乱なり」と言ったとされていますが、真実は全く逆です。

性を持った人で異性に興味を示さないことなど、全く不可能です。

 男女の両性の調和、これこそが地球人類の調和になります。神父さんが妻帯し、修道女が結婚して良き伴侶と共に仲良く生きてこそ、素晴らしき魂の修行が出来るのです。

 一日も早くこのような日が来ることを、私は願っています。結婚は悪いことではなく、生の交わりも罪な事ではありません。

 地上に肉体を持ったなら、(愛情表現は)当然の成り行きなのです。
(愛情表現を)制限する方が大きな問題であり、それを薦める人々はもっての外という事になります。

 神に仕える神父というのも、全く不思議なものです。神に仕えると言っても外には神はいません。

 ひとり一人の内にこそ神がおられます。そうしますと、ひとり一人が神父であって特別な人は必要ではなくなります。

 だから神父も修道女も必要がないのであります。必要なのは、自分が神の子であり、自分が神であると自覚する人であります。

 この様な方は、教会や指導者と言われる人から、言われなくても自分の内側からの導きで自然に動きます。

 これが本物の伝道者であり、神の子としての生き方なのであります。

(1991・12・15・11時20分、アルベル山にて)

セックスについて

この世の中に
男と女がいる限り
セックスという行為がある
これは善でも悪でもなく
自然現象としてある

人間の五官は
人間が作ったり
人間が削ったり
人間が勝手にすることはできない

セックス行為も
大きなウエイトを占める五官の中の
触覚である
この触覚に対して
偏見を持つ人が多い

また過去からの習慣で
あるいは言い伝えで
罪意識を持つ人が多い

これは大きな間違いである
セックスは大いなる神が
子孫の繁栄と
相互の愛の増進のために
与えられた大切なものである

視覚が悪でないように
聴覚が悪でないように
臭覚が悪でないように
味覚が悪でないように
触覚もまた悪ではない

ところが触覚の代表的なセックスのみが
悪としてとらへ
陰でコソコソというのは
大きな間違いである

人間はどんな人でも
セックスを超越して生きることはできない

このエネルギーが
活動エネルギーの根本だからである
抑えることができるが
それは抑圧されて
ストレスがたまるばかりである

人間が人間らしく生きるには
この抑圧があってはならない
性は明るくとらえ
自由にとらえ
自然現象としてとらえなければならない

異性を見てセックスを感じたならば
罪だということはない
このように言うと世の中に
罪人ばかりになってしまう

思うことはエネルギーとなり
その人の環境を作るのであるから
この思い方は人生にとってマイナスとなる

セックスに対して規制してはならない
規制すればするほど
マイナス現象がはたらき
折角与えられた人生が
取り返しがつかなくなる

規制を取り除き
明るく自由な振る舞いができる時
人間の本性が自然に現われて
不調和な状態に陥らない
マイナスの想念を持つから
悪い現象として起きるだけである

セックスは罪な行為ではなく
大いなる神が与え給うた
喜びごとなのである

男性の陽と
女性の陰が共に合体した時
喜びが倍加する

これがセックスの本質なのである
ただし愛される調和が
その背景にあることが条件としてある
性とは聖であり
神聖なる神の行為のことである


セックスは大切

人間生活において
セックスはとても大切なものである
これ抜きの生活は
魂の修行とはいえず
修行の落第生となる

この地上に肉体を持った以上
特別な人はいない
イエスもブッタもモーセも
特別な人ではなく
魂の修行の成果を上げた人なのだ

修行を専門にやっている
聖者と言われている人は
セックスを堕落と考え
世俗的な楽しみと考え
セックス抜きの修行法を考えたりする

これは全くナンセンスだ
全ての人類もその人達と同じように
魂の修行者だ
大いなる神はこの地上に
特別な人など作りはしない
これからも作ることはない

すべての人類は
魂の修行者としてこの地上に生まれている
その人達がセックスを堕落と考え
セックス抜きに生活したならば
どうなるだろうか
子孫はその時点でストップしてしまう

そして何より
セックスとは大いなる神が
人間に与えて下さった大切なものだ
セックスとは性エネルギーを活性化させ
あらゆるものを作り出していく力の源泉なのだ

陽である男性と
陰である女性の愛の表現でもあり
さらにそれを拡大していくためのものでもある

理想としては「ゼロのセックス」があり
これを目標にしていくことが大切だ
セックスに罪悪感は禁物
セックスは喜びごとなのだ
それを情欲とか堕落とか
誘惑とか世俗的な楽しみであるとか
否定的にとらえるものではない

かといって他に迷惑を及ぼすようなセックスは
当然不調和をきたすため
真のセックスとはなり得ない
男女の本当の愛が結び合うものであれば
セックスほどすばらしいものもまたない
神が人間に与えて下さった
愛の極地がセックスである

魂の修行者であるわれわれは
修行を専門にやっているセックス堕落論に
決して耳を傾けてはならない

もし耳を傾けて
そのような考え方を持ってしまうと
これからの魂の修行に大きな重しとなり
成果の上がらない修行となってしまう

その人達の修業はその人達の修業にすぎない
セックスを堕落だと考えたり
セックスを否定したり
セックスを罪悪視するならば
大いなる神に対して否定しているわけで
神などいないと言っているのと同じなのだ
それで神を求めて修行しているのだから
とても変な感じがする

しかしその人達を非難すべきものでもない
その人達はセックスを抜いての修行中なのだ
修行は自由でなければならない
それなりの学びがある
修行は今生限りではなく
これから永遠に転生を繰り返して
学び続けていくものである

われわれ魂の修行者としては
真実を見極めながら
自分の修行に必要なものだけを取り入れて
不必要なものは取り入れない
此のようにしていくことが大切だ
何より選択する力が必要なのだ

……………………………………………………
ここからがバーソロミューのまとめ記事になります♪


聖フランチェスコの偉大なる悟りのお話 

 そこで彼の心にはジレンマが生まれたのです。貴方の心にも同じようなジレンマが生まれる事を望みます。いつも親切で、心優しき人間でいる事は出来ないし、かといって欲望のままでは幸せはもたらさない……。

 では、自分の求める心の平安や喜びをどこで見つけられるのだろうか…彼は有意義な道を選びました。これを別に貴方達に勧めているわけではありません。単にデートしてあげているだけです。

 フランチェスコは深い意識のレベルで、死の現実と対決する事を決心しました。その事を私は確信しています。彼は重い病気を選び、その病気で殆ど死にかけました。

 その病状で心の中の境界線が崩れ始め、ついに高熱にうなされた状態の中で、ある悟りを得ます。
 それまでの彼は、善である事と…神への愛、が同じであると思いこんでいました。けれども、その2つは同じ事ではないと分かったのです。

 善人でなくても、神を愛する事は出来ます。非常に良い人でも、神への愛を全く持たない人もいます。

 フランチェスコがはっきりと理解したのは、神への愛は、神を愛したい…と思う気持ちによって決定されるという事です。それまでの自分の考えの過ちに気づいたこの瞬間は、この上もなく重要な事でした。
 
 神を愛するのは神を愛することによってであり、それ以外の何ものでもありません。
 それが分かったら、高熱の中で、ある問いが繰り返し彼の頭の中で浮かびました。どうしたら神を愛することが出来るのだろうか……どうやって。

 忘れてはならないのは、この人は中世ヨーロッパの教会制度の中で育っており、また同時に、宗教が形式的な意味しか持たない社会で育っている事です。
 彼の友人たちもあまり信心深くありませんでした。母親は神を愛する必要を示してくれましたが、神への愛を実践してはいませんでした。
 
 フランチェスコは、神を愛する道が見つけられなかったならば、自分は死を望む…とまで思いつめました。神を愛する事なくして生きていく事は出来ないと思うのに、どうしたら愛せるのか分かりませんでした。

 愛したいけれども、どうして愛したらいいのか分からない……というジレンマをはっきり自覚する、これは非常に望ましい意識の状態だと言えます。 
 何日も苦しみが続きました。熱が上がり不安が増し、イライラと絶望が募りました。
 
 ついにある朝、まだあたりが静かで物音もせず、もうすぐ夜が明ける頃、窓の向こうで、一羽の鳥が鳴きました。そして、その鳴き声を…フランチェスコは今までとは全く違うように聴いたのです。
 
 そしてその鳥の、鳥の奏でる歌声のパワーによって彼は悟ったのです。
 彼が悟ったのは…、神を愛する方法
唯一の方法は…神の声を全ての中に聴く…という事だという事です。

 鳥の歌声に、死にゆく者の泣き声の中に、狂人の叫びの中に、癩病患者の絶望の中に、恋人たちの抱擁の中に……それこそが神を愛する道なのです。

 これらの音と…神の声を分かつもの何もない…まったくない、これらの音こそが、神の声そのものだ…という事をフランチェスコは悟りました。

 それまでの彼は、神を創造の世界の外にあるもの、人生の奏でる音の外にあるもの、自分自身の外にあるもの…という誤った考えをしていました。
 彼はこの後、二度とこの事を忘れることはありませんでした。

 フランチェスコを覚醒めた者…と呼ぶなら、その覚醒めは、彼がごく普通の人間だったということ、そして…そこからまったく普通でない人間になったという事実に根ざしています。

 その瞬間から、フランチェスコは助けを求める声と、大いなる源とを別のものと考える事が出来なくなりました。大いなる源の実在を知ったからです。

 フランチェスコについて誤った見解がいくつかあり、その一つは父親との関係に対して関するものです。フランチェスコと父親とは非常に仲が悪かったと言われています。

 けれども、フランチェスコが新しく覚醒めた後では、すべての音は神の声だと知っていましたから、父親が出て行けと言った時も、父親の声の音を拒否する事は出来ませんでした。
 
 フランチェスコは分かりました……次に進む道を示して下さってありがとうございました、と言いました。 ”何だと!" ではなく、"分かりました” だったのです。そして出ていったのです。


「全てに神を聴く」で覚醒した聖サン・フランチェスコさんですが、こちらは「全てに神を観る」での大村さんの覚醒話です♪⇓⇓リンク先は⇓⇓

バーソロミューの朗読動画が見たい方はこちらの記事でみてね♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-3.html



バーソロミュー3     

今のまま歩きつづけてください。あなたは必ず覚醒します。
大いなる自己(真我・全一体・自他一体・父なる神と常に一体の境地」とともにいると、すべてがうまくいきます。
大好評『バーソロミュー』の3冊目の本の復刊! 

私たちの人生の目的とは何か?悟りを開くにはどうするべきか?
「大いなる一」と繋がるためにどうしたら良いか?本質的な恋愛関係とは?
戦争をどう捉えるべきか?世界が平和になるにはどうしたら良いのか?
現実を創造していくにはどうしたら良いのか?など、
スピリチュアルであると同時に、とても現実的な内容が語られています。

ワークも掲載していますので、今すぐ実践できるようになっています。
バーソロミューの言葉は、とても優しく温かく、かつ現実的です。
押し付けるようなエネルギーではなく、そっと寄り添いながら、
宇宙の真理や、人生の意義、「大いなる自己(真我)」について解いてくれます。

エゴから送られる無意識のメッセージに気づき、真の悟り(宇宙即我・我神なりの自覚)を開くことができます。
人生の目的、自分の現実を創造するための鍵が分かり、不安や恐怖などの強烈な感情に悩まされなくなります。

人生の目的とは、悟りを開くため

悟りを開くことこそが、私たちの仕事(生まれてきた目的)です。
その上で、事業を経営したり、 子育てをしたり、カウンセリングなどをすればいいのです。
悟りこそが一番大事な仕事なのだとわかるまでは、他の目標は達成できないでしょう。

○それが何であれ、すべては神(宇宙生命・真我・神一元)なのです

どんな出来事が起きようと、エゴ(偽我)がうるさく言っていたとしても、
イライラさせられたとしても、家も仕事も失ったとしても、このマントラを唱えること。
そして心を開き、自分の感情や思考を静かにやさしく眺める。
それにより、自分の内部に存在している、信じられないほどの豊かな人生に気づくことができるでしょう。

○「大いなる一(神のみが実在・全一体・全てが神が真理)」のみが在る

もし今、孤独や不完全さを感じている、望みが叶わないと思っているのであれば、
それは神から切り離されてしまっていると感じているからです。
お金も神がいなければ存在しません。
すべてが神である、つまり「大いなる一(無限大の愛)」しかないのです




神の子としての目覚めを探究している者へ

バーソロミューの教えを学びながら、覚醒意識を目指している人は、『心身の神癒』(霞ケ関書房)と『光の書』(ナチュラルスピリット)で、イエス様の真の教えとイエス様から直接メッセージを受け取りながら、真摯に霊的な向上に努め、神とイエスと天を信じるならば、天の恵みにより、高次の光(波動)を受け取るようになり、内なるキリスト意識(神我キリスト)が目覚め始め、変容が起こり始めるようです。そうすることによって、神の子として目覚めることも可能になるのではないでしょうか。

このシリーズは、神の子として目覚めるための準備と訓練をするのに、大変重要な役割を果たす書です。これらの本の教えを信じて学びながら、その教えを実践して行くならば、純粋な光となったり、「空(神あるのみの境地)」のような状態になると、波動(波長)や性質の異なる様々な高次の光を受け取ることができ、白い天幕の中で、彼らと共に行動することが出来るようになるようです。信じて実践することが、真実を証明することになるのではないでしょうか。

新シリーズの『バーソロミュー』の教えを完了した人は、『キリストのヨーガ』に挑戦して見てください。実践の書としては、最高峰の部類に入ると思います。特にこの本の「はしがき」は、圧巻です。真理や実在への把握には、圧倒されるとされると思います。

インターネットで、「耳から学ぶ バーソロミュー」で検索すると、『バーソロミュー』シリーズの本からの抜粋を聞くことが出来ます。興味深く聞くことが出来て、とても有益です。

『チャネリング・ガイド』(ダイヤモンド社)によると、体が光で満たされると、愛を世の中へ送り出す人となり、素晴らしい光の存在へと進化し、自分の目的を実現できる。スピリットが光の存在として高次の波動となるためには、光(愛)を集めることが不可欠である。人は、創造的で不滅の光になることを学ぶために、ここに存在している。自分で神性を選ぶと、天の力が我々のために働き始める。賢明な使者として人に仕えるには、高い波動への移行が必要となるという。

魂が自己実現(悟り)を求めるのは、それが最も高次な目的だからです。その高次の目的は、神に栄光をたたえ、地上での光の使者として使えることである。聖なる波動と繋がることは、人に大きな影響を与え、変化をもたらす。心を開いて天のサポートを受けながら、より高次の波動に移動することが、健やかな未来を手にする唯一の方法であるという。

『バーソロミュー3』の内容を理解してもらえるように、一部抜粋(第一部チャレンジより)を載せておきます。参考にしてください。

最高の魔法とは、神の意識がこの地球により多く具現されるようになること(神我顕現)です。もっと高い周波数にチャネルを合わせてください。あなたの希望を増し、理解を深め、心を拡げてくれるような波動のエネルギーに耳を傾けてください。神意識の一部としての自分を完全に認識する可能性を、人は持っています。

考えと呼ばれるものが、生まれたり消えてりするのを眺めている<あなた>というエネルギーの場が存在することを認識してください。そうすることによって、完全性に目覚めつつある自分の部分に近づいていきます。考えや感情が生まれたり消えてりするのを眺めているのは、あなたの「真我」または「真の自己」なのです。

エゴ(偽我)は、神は全知全能であらゆるところにら存在する、ということを理解すれば、それ以上何も追求する必要はないと考えます。考えを理解することは、考えるという行為を<感じ取る>ことによってなされます。

思考というのは、肉体のなかを通り抜けていく巨大なエネルギーの場です。全体のプロセスを眺めるという態度を選ぶなら、深い洞察力のある態度へと変化が起きています。

人間が神と呼ぶ「大いなる光」は、広大無辺で、躍動するいのちに満ち溢れ、無条件の愛と無条件の慈悲を持つエネルギー源であり、あらゆるところに存在します。

外にある「大いなる光」と、内にある「大いなる光」とは、まったく同じものです。けれどもそこには膜があるように見えるので、この真理があなた方には見えないのです。

この二つのパワー源が意識の中で合流すると、膜は消え去ります。すると、雑音を生むエゴという自己は、実在しないのだということが見えてきます。肉体はいつかはなくなってしまう非常にはかない容器にすぎず、それを自分の意識の焦点からはずすことはいつでもできるのだ、ということをここで人は悟ります。

すると、自分の意識を個々の部分に向けるのではなく、「なる自己(全ては神ご自身であり愛しい私という意識)」に向けることができるようになります。つまりその人は覚醒するわけです。そして自分の本質(真我・根源)を知るのです。

人生の目的(悟り・解脱)とは、これらのパワーが一つ(分離は幻想であり・全ては愛しい私・神のみが実在という意識)になるのを体験することです。

二つのエネルギーの場のあいだに立ちはだかっている薄い膜だけに意識が向けられているときには、分離意識がうまれます。「神なるパワー」が外側から攻勢をかけ、自身の内なる神も声を大にして叫んでいるというのに、このカーテンに心を奪われてしまった人々は、それから目を離せないでいるわけです。

カーテンはそれ自体の法則にしたがって運動しており、それはエゴの運動の法則なのです。エゴのカーテンは、エゴのエネルギーでよって動いているのです。

神のエネルギー(神我キリスト)は、心の扉がわずかでも開くのを待っています。内側からあなたを満たそうと待ち受けている神のエネルギーが存在するのだということを信じてください。

 あなたがエゴのカーテンから意識を離し、「大いなる光」について考えるたびに、新しい扉が作られて行きます。瞑想するたびに、自動的にカーテンから意識が離れます。二つの分かれている神のエネルギーの場を一つにするのだという意図を持って、何らかの瞑想をしてみてください。やがて、内なるパワーと外なるパワーの感覚がだんだん実体を持つようになっていきます。

問題を見つめることでは、イメージ法のパワーは生まれてきません。問題に対する完璧な答えだと思えるものを、全幅の信頼をもって見つめることから、そのパワーは生まれます。潜在意識は、受け取ったイメージをあなたの人生に具現して見せてくれます。この方法で、人生の古いパターンを変えることができます。崇高な考えだけを抱き続けるのには、固い決意が必要です。最後までがんばる意志の強さと忍耐力も必要です。

人は、出来事をあるがままに体験するのではなく、異なった考え方や行動をとるように習慣づけられています。こうした考えは、絶え間なく生まれたり消えたりするばかりで、これらは分離意識を生むタイプの思考です。

区別や決めつけこそが、私達がなくしていかなければならないものです。出来事のなかに存在する神に意識を向けるようにしてください。
それが何であれ、すべては神(神一元・愛一元・光一元)なのです。

創造とは、何か物を作り出すことではありません。それは大いなる創造者自身の持つ感覚です。すべてはもう完了されているのであり、かつて何かがなされたということもありません。

自分に関する嘘(これまでまわりの世界があなたについてきた嘘)を信じているとエネルギーを奪われ、ムダな努力にエネルギーを浪費してしまいます。そうした固定観念を打ち破ってください。嘘が破壊されたあとに、真理が残るからです。
<心の中心(潜在意識の奥底))>には、「神意識」のあらゆる面が存在しています。そこは、神の叡知を確実に反映してくれる唯一の場所です。

<神を体験している>と言うと、嘘になります。体験と神とが存在するわけではありません。ただ体験だけです。そして体験のなかに神が存在します。自分はすでに悟りの体験をしているのだとわかると、自分のなかの<求める人>の部分が、求めることをやめるようになります。

言葉のゲーム(よりすばらしい言葉、より感動的な言葉を考え出すという無意味なゲーム)があなたを永遠の<求める人>にしてしまわないように、内なる静寂に心を落ち着ける必要があり、それで瞑想という方法を使います。(具体的な瞑想方法は、73ページ参照)
そのパワーは、常に一定の率で機能しています。人によって神を体験する方法は違うかもしれませんが、神のパワーには違いはありません。

意識の深いレベルでは、人は、自分が誰であり何であるかを正確に知っています。何も考えないで、自分自身の中心を感じ取るようにしながら心を静めていくと、自分の中のエネルギーが増えるというか、高まっていくのを感じることが出来ます。

自分がすでに悟りを開いた存在であることを自覚するという目標に対して、これらの嘘(反復を通して教え込まれた固定概念・偽我)が、悟りを体験できないような方向に絶えず人を押しやっています。心の奥に潜む固定概念の力を過小評価してはいけません。霊性を高める努力をいつまでも続けなくてはならなくなるのは、これらの嘘によって創り出された葛藤のせいです。
自分に関する嘘を、自分の本質に関する真実で置き換える作業を始まることです。

考えることをしないでただ体験しているとき、自分という存在の神秘のパワーとすばらしさを人は体験します。神は無条件にすばらしい感覚を与えてくれます。それが神かどうかを知る方法です。

<神を求める>努力をしつづけるには、自分と神との間にはどんな分離も存在しない(父なる神と私は常に一体である)のだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決心が必要です。人は自分が「大いなる源」から出て、「大いなる源」をあとにし、今の人生に入ってきたと信じていますが、人は一度も「大いなる源」を離れたことがないということです。それは人というものの「本質(真我)」なのです。

瞑想の時に広大な広がりを見せるのは、不変の意識の中の「私(神性意識)」です。「大いなる光(神我キリスト)」を見ることが出来るのはこの「私(真我)」であり、「大いなる光」であるのもこの「私」です。それは目撃者であり観察者です。それは決して変わらぬものであり、すべてを眺めるものです。

第4部(帰還)よりの一部抜粋です。

永遠に存在するエネルギーの波には、何十億何百億という点状の光源が含まれています。この波が純粋な覚醒のなかを通っているわけですが、純粋な覚醒は波ではありません。純粋な目覚めた意識が波なのです。純粋な覚醒には形がありません。それは虚空です。輪郭も形もないので虚空と呼ばれています。また、無とか潜在的可能性とも呼ばれています。
この虚空の真ん中にはすばらしい広大無辺の波があります。それは外へ拡がっており、この形のない虚空に支えられています。あなたもこの波の一部です。
(私がこの宇宙の外に出たとき、そこには何もありませんでした。そこにあったのは、虚無でした。)

人々は、神は無形ではないと信じています。神とは形のないものを人格化したものです。そのように人格化されたものが、いわゆる「ハイアーセルフ」と呼ばれるものです。人格化された神にもエネルギーの波にも形がありますから、両方とも純粋な目覚めた意識だということになります。一方、純粋な覚醒というのは、あらゆるものが完璧に調和しており、したがって完全に静止している(あらゆる潜在的な可能性を含んでいる)状態です。

意識のそれぞれの断片が、今では自分自身の可能性を生み出し、自分の人生や現実を創造し、「自分とは何なのか」という自己感覚を生み出す能力を持っています。
人間は、自分たちで作った時間と空間の連続性という概念にとらわれているので、あらゆる瞬間に自分は目の前にあるものを創造しているのだ、という内なる知識を失ってしまいました。
祈りや瞑想や内観に効果があるのは、小さな自己から意図的に意識をはずして、意識のもっと広大な部分に目を向けたです。その結果、その意識のなかにあるものや、「自分の本質」の広大無辺を体験するということが起きたのです。最高の意識としては、潜在的可能性の中心にある純粋な覚醒に入ることもできます。
人が能力の限界を感じる主な原因は、時間と空間です。

さまざまなものを創造するのに、人はそれぞれ違ったエネルギーの部分を使います。二元性の世界を越えた、もっと大きなものを創造したいと願うならば、無限のエネルギーが存在する波動に自分を合わせる必要があります。肉体や精神や感情が生み出す雑音を消したときに、もうひとつの創造的なエネルギー、つまり純粋な覚醒の存在に気付くことができます。そのなかに入ると、ただちに純粋な覚醒を感じ始めます。そこには思考も識別も形もありません。心を静めて、純粋な覚醒のなかに入り、それを感じてることです。
(私の場合、キリスト意識の一部が表面に浮上すると高波動に包まれ、時空を越えたり、多次元に行くこともあります)
 私の体験と本の内容がほとんど合致しているので、バーソロミューの話は本当だと思います。(捉え方の違いはあると思いますが)

マザーテレサが祈りを捧げているそのあいだほとんど、小さな自己の感覚もなければ、肉体や精神や感情の存在すらなくなっています。ただそこには覚醒意識があるだけです。
彼女が純粋な覚醒になりきっている祈りの時間に、彼女の肉体は純粋な覚醒の創造的なエネルギーで満たされます。彼女の考えていることは実現するのです。マザーテレサが「創造するエネルギー」の実行体になったからです。彼女は意識の焦点を自分自身からからはずし、彼女の言う「神の愛の心」、そして私の言う「純粋な覚醒」に向けます。それから自分の全存在をそれで満たします。

絶対的可能性の静寂のなかから生まれて、形のある創造界に突入してきた光の粒子、それがあなたの本質です。あなたの細胞の粒子の一つひとつに、「覚醒」が組み込まれています。

「大いなる光」をあらゆるもののなかに見、自分が「大いなる光」であることをいつも覚えていると、内なる安心感が築き上げられていきます。そうすると、やがて真理が見えてきます。

悩みや苦しみを生む考えや感情から自分を完全に切り離したいのなら、より高い波動へ移ることです。最も高い波動は神の波動であり、それは愛の波動です。

あらゆるものの本質は愛です。「大いなる光」以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やがて来ては去っていく、つかの間のはかない障害物にすぎないのだということがわかってきます。愛の波動こそが人を安全に守ってくれるものです。

覚者というのは、最も深いレベルで、安心して自分の本質になりきっていますひとはそれを<すべてを神にゆだねた状態>と表現します。それは捨てることの最終的な究極の姿です。今起きていることのすべてに意識を向けてください。それから、自分の感情や緊張や周囲からのプレッシャーについて考えたり理解しようとしたりせず、それを解き放つのです。このプレッシャーを創り出したのは自分自身なのですから、それを捨てることも自分でできます。

自分が今この瞬間持っている意識のレベルから出発してください。瞑想を続けてください。読書を続け、無限ということを理解できるようにと祈るのです。そうすれば、意識に関する真理がおのずから明らかになるでしょう。
意識の拡張は可能であるばかりか、必然なのです。意識の拡張が必然なのは、それがあなたの本質の一部だからです。人間としての現実生活にとらわえていない広大無辺の部分があって、それが常にあなたのなかを流れ、前進するよう、促しています。

小さな自己から無限の自己へと飛躍する力を身につけると、多くの可能性が開けてきます。肉体をリラックスさせ、肉体そのものになると、変容の過程が加速します。深い呼吸をし、肉体を感じてください。
意識を拡張する練習を始めて、体の外に出ていく体験(狭い自己の概念から解放された状態)をするようになると、自分の意識を操作する喜びを知るようになります。自分が完全にここにいて、しかも同時に拡張しているのだということがわかるという、すばらし体験をすることができるようになります。

自分は拡張された覚醒意識と無限の創造力を持つ、幸せな人間になると決心すると、その決心と潜在的可能性とが混じり合いはじめます。こうした自分になりたいと宣言すると、それを助けてくれる宇宙意識のパワーを自動的に呼び寄せるのです。この宇宙意識は、人間界、そしていわゆる「高次元」の両方からやって来ます。それはとても膨大ですばらしく、有益な溢れるエネルギーの場です。

「ハイアーセルフ」は、潜在的可能性に満ちた別の創造物で、それがまた、別のもっと広大無辺な球形の意識を創造します。そうした創造物を使う能力に限りがあるとすれば、それは、自分は一つの現実から別の現実へと移動することはできないという、その人の思い込みだけです。

あなたは数兆個の光とパワーの点からなる、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。あなたという存在を構成するパターンの脈動は、無限大に異なる運動を通して、他のすべての物質や創造界のパターンとつながっており、そこには複雑で美しい「ネットワーク」が作られています。

意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外に出たと感じます。「自分」と「他者」が存在します。人が実際に「死んだ」とき、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされたとき、「その人」は「自分」のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となっていきます。このパターンは、自分を基本的パターンを構成しているものと同じ霊的実在なので、それと融合できます。

覚醒意識は意識的に手に入れるものです。覚醒意識のパワーをこのすばらしい肉体のシステムに応用しなければ、脈動するパワーを発射したり、そこから生まれるいのちを感じたりすることもありません。

瞑想をするとき、「あなた」のエネルギーの場と「神」のエネルギーの場とがいっしゃになって、一つのパターンを持つパワーとして脈動することが可能です。その場を離れたあとも、古いパターンは変化してしまい、もっと広大で深い波動を持つ、新しいパターンが代わりにできます。

大いなるいのち」は、体のあらゆる細胞のなかに感じることができる脈動のパターンです。この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸です。

脈動するパターンは、その体験に神秘と感動、そして目的と完全なる喜びを与えてくれます。脈動するパワーの無限の叡知が、人生のあらゆる瞬間を流れています。この電磁的な脈動にはいのちがあります。あらゆる瞬間に、それが自分の肉体や感情体や精神体をかけ巡るのを感じるようになります。それは、体が感じることのできる最高の感覚です。
(私の場合、呼吸法を使ってブロックをはずし、内なるエネルギーを全身に回すことで波動を上げていくと、キリスト意識の一部が浮上して全身が高波動に包まれることがあります。この時のエネルギーは体の中を流れいて、それでその波動の持つ性質を感じ取ることができます。感覚的なことですが、エネルギーが内から湧いてくると感じる場合と外から降りてくると感じる場合があります。両方の時も)

121、122ページと130から132ページの瞑想を使ったエネルギーを感じる練習は、とても役に立つ重要なものです。
瞑想やワークやセッションに参加して、エネルギーを体感(愛・喜び・慈悲・感謝など)することによって、教えが実感できるのではないかと思います。エネルギーが体の中を通ることによって、感情が湧いてくるようです。


知花敏彦 ✵ まなびの会様からの一部引用ですが……♬

生命には大きい、小さいは無いということです。普遍生命ですから、区切られていませんから。。。これが、『宇宙即吾』という境地です。宇宙我です、普遍我です。これを宇宙意識・普遍意識・神意識といいます。
                      知花敏彦師の記事♪

zeraniumの掲示板様のバシャールのメッセージですが……♬

Q、 我々が神様とか仏様とか呼んでいるものの正体は何ですか? また実際に地球にいたといわれるキリストや仏陀の正体は何ですか? 

エササニ星人・バシャールさんの回答   
バシャールの記事♪
 
 今、言ってくださったすべては、実は深いところでは全部「みんな(神は全ての全て在りとあらゆるもの」なのです。
 特に、神と呼ばれる部分は全部「みんな(大いなる一)」です。神というのは、そこにあるすべてのもののことです。すべては神で創られています

 一つのものは、一つであると同時にすべてのものでもあります。簡単にいうと、キリスト意識、仏意識というのは、今言ったものを小さくしたものです。
 キリスト意識、仏意識、また社会意識というものは、地球上のすべての意識でもあり、同時に集合的な意識でもあります。すべての世界がそういった観念を持っています。

 私たちの世界では、非常に古代ですがそうした意識はシャカーナと呼ばれていました。私たちのシャカーナ、あなた方のキリスト意識、仏意識、そしてほかのすべての物が一緒になって神の意識を創っています。

 私たちにとってそれは自分から離れた別の存在ではなく、本来自分の中にあるものであり、自分自身がそうであると思っています。椅子も神、部屋も神、空気も神、すべてが神です。

なぜならすべてが光のエネルギー(光一元)で出来ているからです。
 神が宇宙を創ったというよりも、もっと正確に言うと、神そのものが宇宙(宇宙は一つの生命体・神一元・愛一元・光一元)だということです。


ここからは過去記事からの引用ですが……♬

2012年アセンション最後の真実―マヤ予言の秘密とクラリオン星人の啓示…魂の5次元上昇が今、始まる!!から引用させて頂きました……♬

カルマの解消の仕方  

 カルマという言葉を聞いたことがある人の多くが、それを「罪と罰」というニュアンスで捉えています。しかし浅川氏の話を聞くと、それは正しい理解ではないようです。

 繰り返しになりますが、カルマの法則とは因果の法則です。原因があって結果が現れるという仕組みになっているので、その結果(果)が出た段階で原因(因)は解消されてしまいます。

 これがカルマの法則です。ところが人間は愚かにも、そこからまた新たなカルマを生み出してしまうことが多いのです。

 例えば、Aという人がBという人を殴ったとしましょう。こうしてAが負ったカルマは次の生ではBに殴られることで解消されます。ところが、その時にもしAがBを傷つける言葉を発したら、Aは新たにカルマを作ってしまうことになり、それを解消するために来世で再びカルマの刈り取りが必要になって来るわけでです。

 このような事が起きうるために、カルマの解消には「目には目を歯には歯を」といったシンプルな方法だけでなく、次のような3つのパターンがあるのです。ここで整理してみましょう。

1.相応の報い

これは「目には目を歯には歯を」式に、自分が相手に与えた苦痛などを逆の立場で体験する事によるカルマの解消法であり、いうならば一番原始的な方法です。前世療法を研究しているカナダのトロント大学帷幕部教授ジョエル・L・ホイットン博士によると、こういった方法でカルマの解消を行う人は心が十分に成熟していない事が多いそうです。

2.償いの法則

これはマイナスの行為がプラスの行為によって帳消しになるという、償いの法則に則った解消法です。つまり、悪因は全員によって償われて消えていくのです。私は本書の中で徳積みの大切さを説いているのも、それこそが、徳のカルマを解消する特効薬となるからなのです。

3.大いなる真理への気付き

魂や宇宙の本質に気づいた時にもカルマは解消されます
なぜ、自分はそのカルマを負っているのか?なぜ輪廻転生の繰り返しの中で何度も同じ苦しみにそぐうしてしまうのか?この世にカルマの法則が厳然として存在しているのはなぜなのか?魂の成長とは何か
・・・・・そういった事を正しく理解して生き方を改めた時、もはやそのカルマの必要は無くなり消えていくことになるのです。

 カルマの法則とは魂の成長のための機会であり、「罪」に対する「罰」だけではありません。だからこそ、魂の成長が為された時点で、それに関係していたカルマは解消されます。これはもっと高度なカルマ解消法だと言えるでしょう。

 カルマの発動とは単純にマイナスの行為の裏返しを体験するだけでなく、そこから多くの学びを得ることにも繋がる(全て善し)という事を理解するのに、役立ちそうな事例を紹介しましょう。

 それは、『黎明』に掲載されたもので、試薬の瓶を運んでいる最中に手を誤って手を滑られて割っていしまい、劇薬に硝酸が目に入って失明しかかったある男性の体験談です。

 彼はローマ時代の戦士だった前世があり、その転生時において問題になる事件があったのです。その時両親は既に亡くなっていて、当時は17歳だった妹と二人暮らしでした。友人の戦士と妹が恋仲になり、やがて妹の結婚が迫った時、彼は妹を手放したくない一心から、彼女が不具になれば友人も結婚を諦めてくれるだろうと考えて、妹の目を刃物で突いて失明させてしまったのです。
 
 結局、彼の友人は寛大な心の持ち主であったために失明した妹と結婚して彼女を幸せにするのですが、その時のカルマによって、今世において、彼の目に劇薬が入るという事故が起こったというわけです。
  
 彼はその事故が起きた段階で、ある程度覚醒が進んでいたため、幸いにも適切な処理方法を指導霊から教えられて失明を免れ、しばらくして視力は全快する事になったのです。

 魂の目的は、精神的に何かを学ぶかという点に有るわけですから、カルマの法則も、他の人に対して行った事が単純に自分に跳ね返ってくるというだけではなく、その本人の意識が高まって、自分の身に起きた出来事から学ぶべき教訓をきちんと身につけた場合には、カルマは和らげられ、また消滅することもあるという事実がこのケースから見て取れます。

 なお、この事例に登場する彼は今世ではヒーラー(治療家)となり、ローマ時代の妹の生まれ変わりにあたる女性を自分の患者としてずっと治療にあたっています。

 実は彼女は生まれつき視力が不完全だったのですが、彼の事件の時を同じくして全快したそうです。

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


宇宙の法則 から引用させていただきました(**)すべての記事

お釈迦様がこの方式で転生をして、火星をかなり平和な星になされたという話をネットで見たことがあります。(※過去記事から発見したので追加しました)

転生の法則

「魂が作られると、学習と成長の全パターンが魂のために設けられ、そして、その記録が刻まれるのである。」

 このパターンでは、それほど厳密に設定されているのではなく、かなり柔軟なものです。魂はその成長のレベルを自由に加速出来るし、またある場合には、その生を試行錯誤しながら切り抜けたり、(予定されていた)達成レベルに届かないままにしておいても構いません。

 また、1つの転生と次の転生の間には、明確に定められ限られた時間が、魂のためにとってあります。それも進化の中で魂が成長するにつれ、転生と転生との間は長くなります。

 魂のパターンの中に残っている転生予定が3~4回になった時、その魂は、何百年間も新たに転生しない事を選ぶ事が出来るのです。進化が初級あるいは中級程度の時は、ある一定の時間の感覚をもって転生が行われます。

魂がある星に、唯一1回のみの転生を選べる時は、神への奉仕のために生を受ける時だけである。」

 どの星にも固有の波動があり、その星での転生パターンがほぼどれくらいの回数に及ぶか決まっています。例えば、惑星地球に最初に転生した魂は、いわゆる神との「契約」で、48回から72回の転生を経験する事になっています。

 進化の遅れている魂には、遅れを取り戻すために、早い成長と進化が望めるような転生をする事も出来るのです。

 このような形で転生を行うのは、星の波動と社会の波動に調和を保つためなのです。普通、魂は自分より低い波動の文明には、自ら進んで転生しようとは思いません。

 特別な魂のみが、即ち神への奉仕の任に耐える魂のみが、ある特定の星の波動を上げるのを助ける目的で、意識的に霊的な師として、あるいは教師として自分より低い波動の星での奉仕を選びます。

 この特別の魂はいわゆる「エイリアンソウル(宇宙からの魂)」と呼ばれ、それに値する能力を持って活躍します。通常の進化のコースでは、このような低い波動への降下は、降下したその魂とその星に住む人々との調和と均衡を乱してしまいがちです。

「もしも、エイリアンソウルが、その奉仕の選定を低い波動の中で行い、その生を予定されていたように成就するのが困難になり、自殺とか、狂気とかの異常な方法でその人生を去る時、その魂は、神への奉仕のパターンの責任から開放されて、奉仕が始まる前にその魂が本来属していた領域に戻る事が許される。」

 この理由はいたってシンプルです。神は魂に罰を与えたいのでもなく、また、魂の波動を痛めるような事を望まないからです。

 このような事態に至れば、この魂は、前のような低い波動の世界に、スムーズに再び入っていくための、広範囲な再教育をけることが必要になるからです。


金星、地球、火星 - スピリチュアルな日記 - Gooブログ

金星、地球、火星

2006-11-01 22:23:06 | spiritual

シュタイナーによれば、金星、地球、火星はとても関係の深い姉妹星だと言われています。
生まれた順番は、火星>地球>金星の順、でも霊的な進化の具合は金星が一番進んでいるらしい。太陽と一番長い間、一体だったからです。それ故金星には霊的な進化した人々が住んでいるといいます。
一方、一番早く生まれた火星は霊的には地球より未発達で、火星の人には地球人のような自我が存在しない為、感情の抑制ができず争いが絶えなかった。マーズが戦神と呼ばれるのはそのためだとシュタイナーは語っています。

仏陀は地球に釈迦(ゴータマ・シッダルダ)として生まれる以前、実は金星で輪廻転生を繰り返した。そして最後の転生を地球で行い、そこで如来となり地球の人々に真理を伝えたのだといいます。
その後仏陀はイエスを守護し、キリスト降臨の支援をしました。キリストは仏教で言う毘盧遮那仏です。また大日如来とも言います。宗教の世界ではキリストと仏教は対立的に語られていますが、霊的実像としては元々同じ存在なのだとシュタイナーは主張していました。

キリストがイエスの身を借りて地球に降立った後、仏陀は火星の進化を助けるため、17世紀頃に火星においてイエスの行ったような活動を実施したと言われます。
その結果、争いの星だった火星は進化を遂げ、地球に対しても悪影響を及ぼさなくなったということです。

これらの話を臨死体験前の私が聞いたとすれば、おそらく何かの寓話だと思ったでしょう。現代の常識からすれば恐ろしく突飛な話です。

一方最近気になる話で、京都の鞍馬山の伝説があります。
鞍馬山には650万年前、護法魔王尊が地球救済の為に、金星から降立ったと言う伝承があります。日本の伝説が大抵「昔々、天の方から・・・のミコトが」という抽象的な表現なのに、鞍馬山の伝承はやけに具体的で年、場所がはっきりしています。
金星人は物質的肉体こそ持っていないでしょうが、極めてリアルに存在する気がしています。


この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー


真の愛とは何か 愛ではないものとは

地球の人々の最も深い関山事のひとつは愛であり、愛とは何かということだと思います。

愛とは、本当は非常に単純なことなのですが、地球界では、多くの錯覚や誤解に満ちた概会になっています。そこで、「愛ではないものは何か」ということについて考えてみたいと思います。

自分には愛し愛される相手がいると感じている人たちは、自分たちの愛を非常に強くて深い、決して変わることのない感情であると思っています。
ここで問題になるのは「決して変わらない」という言葉です。

一見すると永遠につづくと思われる強い愛も、よく観察してみると、決してそれが永久に続くものではないことに気づきます。

ここに深くて変わらぬ愛を抱きあっていると思っている二人がいるとします。このふたりが人生を共に歩むにしたがって、ある日、奇妙な事が起こります。

ふたりにとって重要な問題に関して、大きな意見の食い違いが生まれたのです。このような状況にどう対処するかは人によって違ってきます。

ふたりがインテリの場合は、それぞれが自分の立場を正当化して議論をするでしょう。
ふたりが、怒るのは良くない事だと考える「いい人」であれば、自分の不満をそれとなく間接的に表現するでしょう。

また、感情的な人たちの場合には、怒鳴ったり、わめいたりする事になります。いずれにしても、これらの言動はどれも怒りや恨みの表現であって、愛情表現ではありません。(感情の愛・盲愛)

こうした状況においては誰も愛を感じることはできません。
自分の夫婦関係や恋愛関係を注意深く観察すると、このような摩擦が何度も起きていることに気がつくはずです。

一般に愛と思われているのは、実は、引力のように惹きつけられる「魅惑」という感情の動きです。
そして、この引力には反発という感情がついてきます。
この相反するふたつの感情は常に共存しています。

現在、深い愛情関係にありながら、この魅惑と反発の感情が共存していることを認めるだけの正直さを持ちあわせない人に対しては、私から何も言うことはありません。

誰かに心を動かされているからといって、その感情を愛だと思いこむのは単純すぎます。
自分の心のなかをよく見つめてみると、非常に意地悪で否定的な感情や恨み、利己的な考えもあるのに気がつくはずです。

それは、とても人間的なことです。
ではここで、愛とは何でないか、という点について考えてみましょう。

愛は自然についたり消えたりするものではありません
ある日あったものが、次の日にはなくなっている、というようなものでもありません。それは愛ではなく、感情です

愛とはワクワクするような華やかなものである、というイメージを捨ててほしいと思います。
愛とは魅惑的なものであるという考えが誤りであることに気づき、自分の人生において大切な人々に対して抱いている本当の感情を理解した時に、やっと愛とは何かを理解できるのです。

愛とは何かということが、なぜそんなに大事なことなのでしょうか。
自分は最高の愛を経験していると感じている人も多いことでしょう。
しかし、私の目から見ると、地球の人々は最もすばらしい愛をまだ経験していません。

最高の愛とは、人々が考えているよりはるかに素晴らしく(真の光悦感)、地球界で言われる「最高の愛」はそれに比べると色あせて見えます。

ここでヒントを出します。それによって、恋愛関係にあるとき、人がとる行動についての誤った思いこみを捨てる助けにしてください。

まず、自分が非の打ちどころのない完壁な恋人であると思っている(反省出来ない)人は、自分を変えようとは決してしません。

一方で、恋人に対して自分の思いやりの足りなさを率直に認める(内省する)ことの出来る人は、自分の行動を変えることをいといません。

自分のなかの思いやりのない部分に気づくということは、他人から学ぶという姿勢を持つことで、柔軟な思考を必要とします。

この姿勢は、大いなる自由―「人間界の幻影の鎖を解き放ち、無限の可能性に目覚めた状態」を得るために通らなくてはならない過程において重要な一歩です。

では、誰から学んだらよいのでしょうか。それは、学ぶ人がどんな人で、どんなタイプのものにその人が惹かれるかによります。

経験者の助けを借りるのが嫌いな個人主義者の場合は、ふつう自分自身の経験から学ぶことになるのですが、この方法はとても困難です。

本質(神我)と幻影(自我・偽我)を常に判別できるとは限らないし、時には、わき道にそれて、つまらない退屈な人生を送ったりしてしまいます。

最も簡単な方法は、すでにその道を切り開いた先駆者(知花先生)を見つけ、自分にあった方法でその先駆者から学ぶことです。

これには色々の方法があります。この先駆者は生きている師やグル(導師)でもかまいませんが、他にも先駆者はいます。

多くの先駆者はすでにこの世にいませんが、あゆんだ軌跡をはっきりと残しており、本を通してそれを知ることができます。

そうした本のリストから「これだ!」と感じるものを見つけてください。
そして※本物の愛、大いなる愛へ一歩でも近づけるよう、その先駆者の助けを借りてください。
(※、知花敏彦先生上江洲義秀先生  神我の記事は良い先駆者かも♪)

まず、あなた自身のなかで、どういった分野で愛情を持った行動がとれないのかを見つけ、それから、あなたの求める「大いなる愛(大愛・真の自己)」の状態を実現(神我顕現)し行動に移している師を探してください。

師は、必ずしも現在生きている人でなくてもかまいません。
肉体を持っていないからといって、その人の力強い生きた叡智を学び取れないということはありません。

人聞は個々別々の肉体を持つバラバラの存在だというのは地球界の幻影(自我・偽我)であって、高い意識の観点(普遍我・宇宙我・キリスト意識・全てに神を観る)ではないのだという事を理解してください。

では、肉体を失うと、その人の叡智はどこに行くのでしょうか。
叡智は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原(愛の光)の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。

偉大な真理や叡智(普遍不滅の大霊・真の自己)は死滅することはありません
真理や叡智そのもののなかに勢いや速度(全ては波動)というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)の中を動きまわっています。

真理を求めたり、求道の思いに導かれたりするのは、そのような真理が宇宙のエーテル体(宇宙生命・大愛)の中に存在するからなのです。

そのような叡智や真理を自分に引き寄せ、それを実感することは誰にでも可能です。

たとえば、自分にとっての真理の道はキリストまたはキリスト意識(神我)を体現化した道を歩むことだと決心したとします。
その場合、キリストの愛と叡智を今の時点でも受け取ることができます。

ここで私が言っているのは、二千年前に示された、神の真理を肉体を通して現したパワフルで創造的な叡智(真理・宇宙法則)であって、現在、キリストの言葉として信じられている単なる宗教上の解釈のことではありません。

キリストの没後、人間の言う「連続する時間」の流れの中のどの時代においても、キリストの道を歩む者なら誰でもこの真理に生き生きと触れることができました。

そして、これらの人々の存在が真理の勢いを今まで維持してきました。
すぐれた使徒はこのようにして偉大な師に仕えるのです。

つまり、使徒は学び、理解し、教えを身につけ、さらにその教えに心を注ぎ、行動し、自ら体験することによって教えを生かし、「後世に残して」いくのです。

ですから、使徒が教えを身につけ、それを実践することは、師に対して大きな貢献をしていることになります。
このような教えを地球界で実践することによって、教えの真髄をより実際的に理解することができるようになります。

ですから、宇宙の「大いなる叡知(宇宙真理)」と結びついた偉大な師(知花先生・上江洲先生)の誰とでも、今、交流することができるのです。

あなたが自分の進むべき「道」を選び、その道に従って生きようとするなら、まず、心を完全に開いて「大いなる叡智」が何らかの形で自分の前に現れるように謙虚に(神に)祈ることです。

(※神の御心(大愛)が我が中で行われますように貴神(きしん)の想い我が想いへとならせ給え・貴神の言葉我が言葉へとならせ給え・貴神の想い我が想いへとならせ給え、(by知花先生)等々♪

そうすると、あなたの人生にいろいろなことが起きはじめます
その起こり方もさまざまです。

たとえば、何年も前にもらって読まずに放っておいた本が急に読みたくなったり、前に読んだ事のある本がまた目に入り、今度読むと以前とは違った新しい事を発見するということがあったり、また、友達から何かもらったり、新しい考え方に巡りあったり、といった事が起こります

地球界の人々の感覚では、こんなことは日常的な取るに足らない事に思えるかもしれません。しかし、宇宙の叡智との結びつきを知ろうとするなら、こうした小さな出来事に心を留めることが必要です。

大いなる自由(解脱・覚醒・アセンション)」を求める心が真摯であれば、「広大無辺なもの」(宇宙の無限の存在)はあなたの探求を速める手伝いをしてくれる事がわかります。

今まで思いもかけなかったような人たちに出会うようになり(シンクロニシティ)、さらに、さまざまな事が起こりはじめますが、それが単なる偶然で起きているのではないという事を理解しなくてはなりません。

なぜなら、これらすべてはあなたという存在の「あり方」そのものが強力なメッセージを宇宙に送りだしているために起こっていることだからです。

助けてください。私にはこれが必要です」というあなたの求めの声が宇宙に流れたからなのです。
こうして求めるものが明確になり、それを自分という存在の「あり方」の中心にすえたときから、自分のまわりで何かが起こりはじめます。

このことが愛といったいどういう関係にあるのでしょう。
実はこれらすべてが愛と関わりを持っているのです。
愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。

自分の中や自分の周りにあって、自然に流れ動く(存在する)ものが愛なのです。そして、その人のあり方(裡なる神)そのものが「崇高なる愛」なのです。

しかし、このことに地球の人々はまだ気づいていません。
人々は、愛を非常に狭いあやまった見方で見ています。

ある肉体が別の肉体を好きになったり、自分のまわりの少数の肉体に好意を持つことが愛だと思っています。これは全くナンセンスです。

愛とは行為や行動をさすのではありません。
愛のただ中にいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方(愛のみが実在との気付き)そのものだという事実です。

人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。
愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。
あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。

それは「大いなる源(創造主)」(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられはじめから人間にそなわっているものです。
すべてのものはこの「大いなる愛(大愛)」から創りだされます。

ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。
どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。

とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心の中から沸き起こってきます。
これが「大いなる愛」です。

(感情・マインドで)誰を愛するか誰を愛さないかを、いつも自分で選んできた人々にとってこれは信じがたいことかもしれません。

あなたは一日のうちに何回も、自分の心の中から思いやりや、相手の気持ちを理解する心が自然にわき上がってくるのを経験するようになります。

このような感情は必ずしも誰かに向けられた情熱的な感情ではありません。
むしろ、日常のちょっとしたことから生まれる小さな心の動きです。

自分では意識しないような、日々の小さな出来事のなかに織りこまれている感情です。

他人とのいさかいなどから目を離して、このような感情の動きにもっと注意を払うようにすると、そうした感情が強くなり、もっとひんぱんにそれを経験するようになります。

愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したり出来るものではないという事を忘れないで下さい。あなたに出来る事とは、愛を体現していると思う道に従うことだけです。

真の自分とは何か(大愛・全一体感)、自分とは何でないか(自我・分離感)、という事が解ってくるにつれ、この愛の真理に気づくになります。

人生に対するこれまでの幻影(分離感)がはがれ落ちると、それに代わって入ってくるのが、「大いなる愛」という、ダイナミックなパワーです。
このパワーは「神なる源」の主なエネルギーのひとつです。

このエネルギーは、あなたの中を流れて外界に出ていき、そのたびに勢いを増していきます。この(愛の)エネルギーは観察することができます。

行動に現れた愛として見ることができます。
ただし、現在、地球界で見られるもののほとんどは個人対個人の愛の行動で、「大いなる愛」はほとんど見られません。

自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。

性的な魅力を感じていることや、友情や、親としての本能的感情などに見られる愛は、自分はますます愛情深い人間になりつつあると思わせるために、その人のエゴが使う手立てにすぎません。

では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。

自分の心をよぎる全ての人、自分の目の前に現れる人の全てに対して、温かい思いやりの心とその人達の気持ちを理解する心

(全てを許し愛する寛大な心)を持つことが出来た時、その人は本当に愛情深い人という事が出来ます。

殆どの人は、いい仕事を持ち、愛する人々に囲まれていれば、自分の人生はうまくいっていると考えます。

これもまた地球界の人々が抱いている幻影の一部です。今はまだ多くの人が、このような感情的な愛を本当の愛と勘ちがいしています。

自分の人生を誰かのために犠牲にしようとしている人は、もう一度考えてみてください。
相手がいつもひどい事ばかり言うような場合でも、あなたはその人に対して美しく、清らかな愛情を持ち続ける事が出来るでしょうか。

このような愛情関係においては、ふつう、それぞれがその関係から何を得ているかということが問題となります。
たとえ、自分にプラスになるものを得ていなくとも、その関係から何かを得ている限り、その人はその関係をつづけるでしょう。

けれども、その関係が変化して、自分が望むものが何ひとつ得られなくなったときに、「愛がさめた」とその人は言うのです。

恋におちいることができるということは、また、さめることもできるということです。
人間のエゴから生まれるこのような愛情関係のように、やって来たり去っていったりする愛情は本物ではないのです。

自分の感じている気持ちが「大いなる源」から生まれる本物の愛なのか、または、エゴの生みだした単なる幻影なのかを知るには、

自分がその瞬間抱いている感情や思いを見つめ、自分の周りでどんな事が起ころうとも、この気持ち(全ての全てを愛する心)を常に持ちつづけることが出来るだろうか」と自分に問いかけることです。

もしその気持ち(真の愛)を永遠に持ち続ける事が出来ないのでしたら、それは地球界における浮かんでは消える人間ドラマのひとつにすぎません。

「神なるもの」が生みだす本物の「創造劇(愛と調和)」ではありません。
こういう感情(表面意識)にいちいち心をわずらわせなくてもいいのです。

この自分への問いかけは人生のあらゆる出来事に応用できます。
ある特定の出来事を心に思い浮かべると、そのときの気持ちや考えが不変のものかどうか、自分でわかるはずです。

不変のもの(大愛・愛と調和の想念)であれば、その感情は「大いなるすべて」の一部であり、大切にすべき感情(想い)です。

ここで私が強調したいのは、努力や意思の力で愛を得ることはできないということです。あなた方ひとりひとりがすでに愛そのものだからです。

ただ、この愛の状態を実感するためにあなたに出来る事があります。
それは愛したいと心から望むことです。これは誰にでも出来る事です。

自分に対する見方を(大愛・全てに感謝に)変え、他人との関係を(愛と調和に)変え、世の中に対する自分の態度を(愛と調和に)変えるのです。

自分の可能性の全てを(神の愛をこの世に顕現したい)生かしたいと強く望めば、あらゆる面において自分の態度を(大愛に)変える事が出来ます

もしもそれが信じられないなら、今、自分の人生にどんな愛があるかよく考えてみてください。本物の愛は現れたり、消えたりしません。
それ(真の自己・神聖な愛・神我)は(ハートの中に)常にあるのです。それが本物の証(本物のあなた)です。

あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。
そして(全てを)愛したいと強く望むことです。
その(愛を顕現したいという)強い気持ちが正しい道へと導いてくれます

正しい道を歩んでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。
真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます

こうした道は、最初はどんなに険しくとも、最後には愛に巡り会います。最初は愛に偏った道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。

愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。
どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。

どんな道を選ぶかはそれぞれの責任です。愛と叡智を自分のものとしていない師や、グルを、※まちがって選ばないようにしてください。
(※知花敏彦先生上江洲義秀先生が地球最高級の先生です♪)

愛を生みだす公式のようなものはありません。
何度も言いますが、愛のエネルギー(無限宇宙の大愛)はすでにあなたの中を流れています
自分の中にある愛に注意を向けなければあってもなくても同じです。

愛があなたの人生に役に立つのでなければ、あってもしかたがないではありませんか。

「大いなる愛」とは、あなたの求めるものすべてに対して休むことなく流れる深い愛のエネルギーであり変わらぬ思いやりの心です。
それはこの宇宙のすべてを創りだした「大いなる源」の一部です。

そして「大いなる源」の一部であるあなたの一部でもあります。
人間はひとりひとり別々の肉体と別々の心を持つ「大いなる源」とは関係のない存在であるという考え(分離意識)は、誤りであり、錯覚(自我・偽我)です。

すべての人間は「大いなる愛」そのものであるということを真剣に考えてみてください。あなたは愛(神・無限大の愛)なのです。
あなたが愛なのですから当然あなたは愛を知る事が出来ます



この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー


質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。

霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、
宇宙が命(大愛)に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる(許し愛する)心を持つにいたった人です。

自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。

それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。

というのは、この方法を長い間続けていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。

もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。

自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。

こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。

頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。

自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか

自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。
そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。

同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。

「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。
私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。

理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。
誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。
どうしてそんなことがわかるのですか。

また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。
過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。

それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。
自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。

けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。
頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。
そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。

自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。
人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。

そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。

他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。

※本質的(神我)には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。(※神・大愛は完全であり絶対善です

人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れ(分離感・自我・偽我)から人を傷つけるのです。

自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。
誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。

こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。
理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。

いいですか、よく聞いてください。
頭で人生を理解することはできません。人生はそんなに単純ではありません。自分で思うほど、あなたは単純ではありません。
あなた(の本質)は途方もなく広大無辺な存在(無限宇宙・神そのもの)だと、私は何回もお話したでしょう?

人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。

「頭(表面意識・マインド・自我)で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在(神)であることを否定しているのです。

したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。
あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。
そして最後には、「私とはこういう私(宇宙意識・大愛・神そのもの)なのだ」ということを(ハートで)理解するのです。

求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。

「広大無辺性(無限大の宇宙)」に法則を当てはめることはできません。
広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。

それはまるで、海辺に立って両手を広げ、
「波よ止まれ。なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。だから私はここに立って命令する。波よ止まれ」というようなものです。
不可能なことです。

弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」という考えを持ちます。

そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。

仮にこれが本当だとしてみましょう。師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。

では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。
あなたですか、師ですか。師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。

師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。
師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。

あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。

そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。

私はそうは思いません。今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分(裡なる神)だと感じているとします。
カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。

どうやって探したらいいでしょうか。
今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。

もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。

ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。
つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。こんなことが意味をなしますか。
私にはそうは思えません。

このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。
問題は、あなたが何かを知らないということではありません。

問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。
あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。

このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。

あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。

エゴはいつも、「心配するな。悟りはすぐそこだ。もう少しがんばれ。
すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」とささやきつづけます。

誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。それでは求める人になってしまいます。
前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。

求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。

私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。
何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。
一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。

人生はもっとよくなってはいきません。
自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。どうかわかってください。

「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。
未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。

今日こそが毎日です。
今日こそがすべての日です。
今日こそがその日なのです。

求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。体をこれ以上きたえることもできない。できることはすべてやった。できる限りの努力はした」

と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。

求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。
この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。

エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。
本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。

エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。
このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。
何しろあなたは神を求めているのですから。

神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。

ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。

まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。

どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。

一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。もしも一定のやり方があるとすればの話です。しかし、そんなものはありません。

既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。

このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。

このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。

こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。

何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。
気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、※神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。

※「神は汝の内にあり」「神と人は常に一体」が神理であり、悟りそのものですから、そこに気付くことが解脱にとって最重要♪

高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。
非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。

長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。

しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在の証である」とも昔から言われてきています。
この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。

次のことをどうかおぼえていてください。
自分は歩むべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分は守れていると感じはじめることがあります。

そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。
自分の人生が道理にかなっているのは、頭(マインド・自我)を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか?

命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。そういうふうにはなっていないのです。

神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。

もしも神、すなわち、命(宇宙生命・大生命・大愛)が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。

大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。
「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。

「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。

ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。
葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。

これがパラドックスだということがわかりますか。
悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめた時だというわけです。

ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。
ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている(今即天・今即実在・宇宙即我)」と言っています。

それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。

でも、やはり信じていないのです。
マハリシはつづけます。
悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである
それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や
はり信じません。

マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。あなたが判断してください。

マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください

マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。
ただし、中途半端に信じるのはやめてください。
中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。

自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。
よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。

誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。
自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。

人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。

残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつ(色心不二・空即是色)なのです。地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。

無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ(愛して)、自分を完全にありのままに受け入れ(愛し)、
他人を完全にありのままに受け入れ(許し愛して)、自分自身を愛するように他人を愛することです。

自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。

では、どうやって愛すればいいのでしょうか。
自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。
今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。

この一瞬において(全てが)自分自身(全ては自分)であることです。
一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にも厳しくなくなります。

この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。

これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。
この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません

しかし、あなた方が、「神なるパワー(大愛)と呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。

この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。
人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。
こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。
それはとても単純なことから起きたのです。

あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。
「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。
人生、もう少し予測可能であるべきだ。いくつか規則を作ろう。
規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」

予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。
予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、当てにできないので、都合が悪い存在です。

そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。彼らは気が変わるので、不都合なのです。

彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。
そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。

そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。

人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。
何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。
どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。
何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。

何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。
しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。
「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。
すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。
けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。

教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。

私には悪は見えません。私は悪の存在を信じません(真実・実在に於いて、心の影・自我・闇は存在しません・神一元・愛のみが実在・光一元)。

私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れ(無知・分離感)が原因だと考えます。
心の中に「大いなる愛(神我キリスト)」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。

けれども、怖れ(自我・偽我)は「大いなる愛(大愛)」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。

傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。

心が痛むにまかせていてごらんなさい。誰かそれで死にましたか。
すべての人々は傷つけられた経験があります。何度も何度も傷つけられた経験があります。それでも、人々はちゃんと生きています。

そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。
あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。悲しみなくして喜びは、経験できません。
そのふたつは同じ世界の両面なのです。

ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです(全てを愛し全てを許し愛の光で抱擁してあげる)。どうでもいいことです。

傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。

どちらでもいいのです。そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。

堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。
真剣にやってください。
こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。
自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。

あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。

このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。
けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。

覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。

自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。
全ては自分・全ては神・大霊との一体感

喜びや慈しみの心や命(神)を感じることでしょうか。
※慈悲と愛が宇宙神理・全てに神(命)を観る

それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。

注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。

あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。
それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。
そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。
でも、きびしい修行をする必要はありません。
あなたは心を静めることが必要なだけです。
あなたがしなければならないのは、それだけです。

心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。
いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。

瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。

あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。

そして、その結果、困ったことになるかもしれません。
みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。

子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。

小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。
顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。
そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。

その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。

では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。

まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。
自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。

自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。

地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。

今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。私たちはあなた方に「今のままでいいのですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。

すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。だから、すべては今のままで、※そのまま(愛おしい)でいいのです。

※勘違いしやすい部分ですが、所謂、努力しなくていい[偽スピ系]というわけではありません。難行苦行悟りに非ず・全て善し・全てが愛おしい・全てに感謝・と解釈すると自然な気が致します

何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。

あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。

そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。必ずわかります。
この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。

あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。
「大いなる光(大生命・大愛)」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、育んでくれていることをあなた方は知っています。

それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。

人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。

しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。

あるがままですべて完壁(全て善し・全てに感謝)だということがわかり、その(神の)一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。

あなた方はみんなその無限の広がり(無限宇宙・宇宙生命・大生命)の一部であり、それは実に美しいのです。
どうか、そうした見方(神のみが実在・全てに神が宿り給う)をするよう心がけてみてください。


質問:
これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。

自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。

あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。

これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。

全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。
痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。
感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。

それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。
古いパターンの考えが現れなくなります。

それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。
そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。

こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。

そのための唯一の方法はとにかくやることです。
自分の考えを考えないようにすることはできません。

ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。
古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。

しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。
この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。

これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。
新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。

ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。

これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。
これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。
けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。
肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。
瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。

真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。

ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。
そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。
まさにそれだけです。それはすばらしい生き方です。

瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。

全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。
人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。
けれども、あなたは何も知ってはいないのです。

なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。
常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。

すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。
人生は決して古くなったり、終わったりはしません。
あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。



メタフィジックス通信様 (ラー文書が良く分かる良質記事♪)





性エネルギーという贈り物   から引用させて頂きました


 
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー



性の問題をきちんととらえるためには、過去に戻って考える必要があります。
ご存じのように、性にまつわる問題というのは何も現代に限ったことではなく、昔からいろいろあったことで、それは不可思議なものであり、人々をとまどわせるものです。

これをもっと広い見地から見るために、人間の性の持つ役割というものを考えてみたいと思います。

性行動に関する「ルール」を私がここで述べようなどというのではありません。性行動のルールを作るのはあなたの責任です。

それは、どういう社会的法律のもとで暮らすかを決めるのが、あなたの責任であるのと同じです。

では、過去にさかのぼってみましょう。魂がこの地球にやってきて、肉体を身につけ、これから何をすべきかを決定した時代に戻ります。

そのとき、人間たちは「パワー」を与えられました。
このときに与えられたパワーは七つのテャクラと関係したエネルギーでした。

現代の人は、エネルギーというものを、規則正しい法則にしたがって動くものだと思っていますが、ここでいうエネルギーは、人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーであり、それは特定の目的を持つものでした。
目的のひとつは考えることであり、もうひとつは感じることでした。

私がいう性エネルギーも、こうしたエネルギーの一種でした。
性エネルギーやパワーは、人間ひとりひとりが自分の意思で決めて使うようにと、与えられたのです。

はじめの頃は、性エネルギーはほかのエネルギーと分離してはいませんでした。
人を狩猟にかり立てる衝動と性衝動とのあいだに、たいしてちがいはありませんでした。その頃は、それぞれのエネルギーのあいだには、はっきりした区別がなかったのです。

はるかな過去世において、すべての人間の体のなかでエネルギーがスムーズに流れていた頃、それぞれの人間は、自分がどんな人間なのか、どんな人間になりたいのかということにもとづいて、人生におけるさまざまの選択をしていました。

あなたが地球界に転生してきたのは、今回がはじめてではないということをここで理解しておいてください。

あなた方は、この地球界にずっと長いあいだ、何回も転生してきています。
ですから、過去世からの性癖のようなものが各人のなかにあらかじめあって、それが、その人のありよう、意識などににじみでてきます。

このような過去からの性癖がひとりひとりの性に対する態度に影響し、その人となりの一部となります。

あなた方が何度も転生して、時間と空間のなかを移動するにつれ、性エネルギーは自己表現のひとつの方法となり、人は自分の意思にもとづいてそれを使いました。

ほかのエネルギーと同じように、性エネルギーも、ひとりひとりが自分に対してだけ責任を持つものとしであったのです。

性エネルギーは、「その人らしさ」の一部であり、ひとりひとりがしっかり意識すべきものとしてあったのです。
自分らしい感じ方、自分らしい行動をするためのものでした。

あなたは、自分の考え方しだいで人生が調和に満ちたものになったり、逆に不調和そのものになったりするということ、そしてその自分の考え方というのは、自分の責任であるということを経験から理解するようになりました。

それと同じように、自分の性エネルギーをどう使うかというのもあなたの責任なのです。

けれども、現代では、誰もそうした責任を認めようとはしません。
人はすべての行動に対するルールを作り、個人としての責任をとろうとはしません。

何をすべきかは法律や社会のおきてに決めてもらう、そうすれば自分の責任は関われないと思っています。

こういうやり方はうまくいっているでしょうか。
「暗黒の時代」の昔に決められた性道徳は人々に喜びを与えているでしょうか。(あなた方はまだそういう古い性道徳のなかで生きでいるのでしょう?)

もう、そろそろ自分自身の性に目覚めるときです。
他人のモノサシに左右されず、自分にとって、男であること、女であることはどういうことかを表現することです。

いつも生き生きして、元気いっぱいで、優しい気持ちに満ちて、クリエイティブでダイナミック、そして明るくエキサイティング・・・自分をそんな人間だと感じさせるようなことをしてください。
そうすることがあなたの責任なのです。

社会のおきてにしたがって行動しようとすると、自分の欲望との板ばさみになります。
神が、人間の性行動のすべてを、関心を持ってじっと見ていると信じている人も多いようですが、実のところ神はそんなことには全く関心がありません

セックスは人間ひとりひとりの問題です。
神はそんなことにちっともかまってはいないし、他人もそんなことに関心をはらうべきではないのです。

神が関心を持っていることはただひとつ――人間がどれほど真理に目覚めているか、その人の生きる力や愛情、他人への思いやりがどんなものか、ということです。

社会のおきてにしたがって生きてきて、その結果、怒ったり、恨んだり、人を批判したり、ネガティブになっているとしたら、神と調和しているとはとても言えません。

性や性行動の話になるといつも決まって同じ質問が出ます。
みんなが自分の好き勝手な性行動をとったら、世の中はメチャクチャになるのではないか、というものです。

規則をすべて取り除いたら、いったい、どうなるのだろうか、という質問も出てきます。

これに対する答えが、私と地球の人々との考え方のちがうところです。
人間から社会的な規則を取り去ったら、人々は自分自身の心のおきてを見いだし、もっと人間的で自然で、優しく親切になる、と私はかたく信じています。

私は人間を信じていますが、人間は自分たちを信じていません。
人間は、まるで自分たちは檻に入れられた動物だ、とでも思っているようです。

社会のおきてという檻がなくなれば、自分たちは性欲に狂った野獣のようになると信じているのでしょうね。そんなことにはなりません。
安心してください。

人間は「大いなる創造物」の一部であり、
その気になれば、何が一番よいかを知る能力をそなえています

しかし、自分自身の内に指針を求めるのではなく、社会のおきてに判断を求めると、問題の本質が不明確になります。

自分自身のなかにあるおきては完全に予測できるものです。
私は、人間を支配する「大宇宙の法則(宇宙神理)」を知っているので、そう断言できるのです。

人間が人間を創りだしたのではないということは、もうわかっていますね。
人間は(神に)創造されたものです。

あなたは、この「あなた」というすばらしきものを与えられたのです。
あなたのなかには「大宇宙の法則」が働いており、これはあなたが自分で創りだしたものではありません。

この「(宇宙)法則」は例外も全くなく、完全に信頼できるものです。
人間が作ったどんな法律よりも信頼できます。

自分の(裡なる)「存在(神我)」そのものを心から信頼しようと決心すると、他人への深い思いやり、人の心を理解する能力、調和、勇気、知恵など、これまで自分が求めていたものが、すぺて自分のなかにすでにあることがわかるようになります。

人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。
そうでなければ、人間が創られたときの「原材料」はいったいどこから来たと思いますか。

創造のその瞬間、人間はすばらしい贈り物を与えられました。
なかでも重要な贈り物が、男性女性という性別、セクシュアリティだったのです。

外の世界と関わろうとするときに、人はどうも混乱してしまうようです。
人は自分のなかのある種の感覚や感情を何とか他人の感情と調和させようと努力します。

また、人はそれぞれ性に関して異なる意見を持っています。
みんなちがうのですから当然です。

自分の性を理解しようとするときに、頭でわかろうとはしないでください。
人が性のパワーから何かを学ぶことができるのは、それが体のなかで動いているときです。

性エネルギーそのものは、ほかのどんなエネルギーとも同じように純粋です。たとえば、倒錯的行為について考えるとします。

すると、パワーが増加します。ここで、ただちに頭が働きだして「善」か「悪」かの判断を下してしまいます。

性というものを自分はどんな目的に使っているか考えてみてください。
他人を自分の思いのままにするために、性的パワーを使う人もいます。
セックスがとても「上手」になって、人をコントロールする目的にそれを使ったりします。

他人を罰するために性的パワーを使う人もいます。
とても「下手」になってそれで人をコントロールしたりします。
性的パワーを全く使わない人もいます。

何らかのパワーを手にすると人は自問します。
「このパワーをどう使おうか。誰と一緒に使おうか。
自分の人生にどう役立てようか」と考えます。

自分の性というものは見ることはできませんが、自分のなかにあるパワーとして感じることができます。

そこで、、同じような質問を自分にする必要があります。
「私は自分の性を何のために使いたいのか」
これは個人的な問題ですからひとりひとりが自分の心の奥深く、
自分の「あり方」そのものに問いかける質問です。

誰も性欲に狂った動物になったりはしませんから、こういう質問をすることを怖れないでください。

性について真剣に深く考えていくと、性エネルギーは肉体というものの偉大な味方だということがわかります。
もちろん「味方」はいわゆる霊界にもいて助けてくれますが、ここで話しているのは物質界にいる味方のことです。

性が人間の味方だというのは、自分らしく自然に生きることを通して、自分というものをよりいっそう知る機会を与えてくれるからです。
自分のなかの性を素直に見つめ、それについて考えるのは、非常に勇気がいることです。

年齢に関わらず、どんな人であろうと、性に対してゆがんだとらえ方をしていたり、自分の性欲を不快に思ったり、そのことで悩んだりしている人は、性こそが自分にとって解決すべき「未処理」の分野なのだ、ということに気づいてください。

現在、自分の人生に性を表現する相手がいない人は、自分でそうしたくないと決めたからです。
自分の人間観、人生観にしたがって性欲が表現されていれば、かならずその人に合う相手が見つかります。

醜いからとか、太っているからとか、年をとっているからとか、何らかの理由をつけて自分の性エネルギーを使っていない人は、自分のそういう考え方を外界に投射しているためにそうした現実を経験するのです。

性を全く無視して生きれば、面倒が起こらないと思いこんでいる人もいますが、そういう人は性の問題に何度も直面するはめになります。

性に心を悩まさなくてもいいようにと、手術までする人がいますが、性エネルギーは手術後も残っていて、自分の体のなかを動きまわっているのを発見することになります。

性エネルギーは肉体の一部なのですから、捨て去ることはできません。
性欲は肉体が持つ欲望のなかでも最強のもののひとつだからこそ、常に人間の味方になることができるのです。

現世でこの問題を解決するか、来世でするか、いつかはこの問題に直面しなければなりません。

性エネルギーという神からのすばらしい贈り物をどう使うのか、自分のなかではっきりさせることです。
そうすると、人生に変化が起きてきます。

今までとちがう経験をたくさんするようになります。
今までなかったものがその人の人生のなかに現れたり、今まであったものがなくなったりします。

大切なことは、自分に問いかけ、それに答えることです。
「この驚くべきパワーを自分は何のために使いたいのだろうか?」と。

いずれにせよちょっと乱暴ですが、神は性エネルギーを通して何を人間に望んでいたのか、ということを私が推理してみたいと思います。

たとえ話をしましょう。
ここにティーンエイジャーがいて、車を買うことになりました。
あこがれのポルシェです。

さて、いざ車のキーを渡すときになって、
親は「これはたいへんだ」とこわくなります。

強大なパワーは非常に危険なことに使われる可能性があるし、ティーンエイジャーの息子、または娘がまだ未熟な子供だということが、頭にひらめきます。

これと同じように、神が性エネルギーを人間に与えたときも、
「これはたいへんだ」という思いがありました。

神が望んだのはこのパワーが、深い意識をもって有益な目的に使われることでした。
そのひとつは、人間の喜びのためでした。
性の喜びとすばらしさ、そのもののためです。

もうひとつは、パワーというものがあるということ、それが存在し、動き、創造し、何かの形となり、ダイナミックで変化していくものである、ということを人間に教えるためでした。

人間の思考力のほかに、これほどの力を持ったパワーがほかにあるでしょうか。

そして最後に、この贈り物にはもっと高い目的もありました。
それは感謝の心です。肉体の喜びに対する感謝であり、命を実感できることに対する感謝、肉体以上のものになれることに対する感謝の心です。

性エネルギーが外からおとずれ、体を満たし、感動を与えると、人は喜びを感じ、生きていることを実感し、感覚のすばらしさを味わいます。

そういう経験をしたあとでは、今度はそのパワーが反対方向に流れることも可能なことを、理解できるのではないでしょうか。

ちょっと説明しましょう。
性エネルギーは外から自分のほうへやってくるもの、または、自分の内部からわきでてくるものだ、と人は感じています。

神が望んだのは、性エネルギーの流れは反対方向に行くこともできるのだということを知って、人間がそのエネルギーとともに、発生源である「大いなる源」へとさかのぼってくることでした。

エネルギーは両方向に流れます。
人間がエネルギーとともにさかのぼることができれば、エネルギーの根源である、「大いなる源」と合流できるわけです。

「大いなる源」と合流するには多くの方法があり、とくに、これと決まった正しいやり方というものはありません。

あなた方が、正しいやり方をしなければならないと思いこんでいるから、むずかしくなるのです。

あなた方はこれまで「読むべき」本をすべて読み、師につき、「正しい」道を歩んできました。

ところが、「大いなる源」へ戻っていく道を少しでもかいま見た人は、ここで壁にぶつかります。その理由はその人の思いこみにあります。

自分には「大いなる源」へ戻っていくだけの資格がないとか、そうするには何らかの犠牲をはらわなければならないなどと、信じているからです。

したがって、セックスの一瞬一瞬を通して、性エネルギーが教えようとしているレッスンにちっとも注意をはらいません。

セックスのただなかにありながら、それを感じようとしないので、意識が体験から離れてしまいます。

このように気が散るのには、いろいろな原因があります。
まず第一に罪悪感があります。
こんなことをしていてはいけないとか、神が見ているのではないかとか、師が見ているのではないか、と思ったりします。

こんなことを考えているので、セックスをなかば無意識的に行い、性の不思議な魅力も、性エネルギーの動きも感じることができません。

性エネルギーは人間の味方なのです。
けれども、どんなに力強い味方も、心ここにあらずの状態にいる人や、耳を傾けようとしない人を助けることはできません。

意識を集中させ、セックスの初めから終わりまですべてに注意をはらい、自分の反応や感情を見つめ、エネルギーがどんな動きをしているか、性エネルギーが自分をどのように解き放ってくれているか、

どこのところでエネルギーがとどこおっているか、その滞(とどこお)りをどうするか――このようなことに注意をはらう必要があります。

意識がそこになければ、人はそこにはいないわけで、何も学ぶことはできません。性生活が満足なものでない場合、パートナーの数を増やせばいい、と思っている人がたくさんいます。

それでもまだ体力があまっていると、自分がまだ満足していないだけでなく、パートナーの数が増えたぶん、自分に文句を言う相手も増えたわけで、悩みの種を増やしてしまったことに気づきます。

なかには、自分の問題は現在のパートナーが悪いのであって、もっと官能的な相手を見つければ、満足が得られると思っている人もいます。
そうして、ちがうパートナーを見つけてみても、まだ不満です。

性エネルギーから満足を得られるのは、それがすべてのレベルで賢明に使われたときだけです。そうでない限り、満足は得られません。
性エネルギーは、この喜びのレベルまで来たらストップする、などというようには創られていないからです。

では、もっと深い経験をするにはどうしたらいいのでしょうか。
瞑想をしている人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。

性エネルギーにも同じような働きがあって、あなたをより広大な意識へと誘う「引き金」となります。

自分がすべてのレベルで学び成長していく手段としてセックスを利用したければ、自分の内部やまわりで何が起こっているかに耳を傾け、注意をはらわなければなりません。静かにして意識をとぎすますのです。

性エネルギーの動きに気づき、それを感じ、動くさまを知るようにならなければなりません。生殖器部分は宇宙のパワーであるクンダリニーの発火点に非常に近いことも、観察していくとわかります。

意識を完全にとぎすましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから天項のチャクラまでエネルギーをかけのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分のなかにあることがわかります。

性エネルギーのすばらしさを感じない人は、そう感じないように、頭のなかで何かがスイッチを切っているからです。
このエネルギーは一方向に流れるだけではない、ということを思いだしてください。

エネルギーの筒の一方の端と、もう一方の端を分離するわけにはいきません。それらはつながっているのです。

性は神から人間への贈り物です。
神からの贈り物はすべて、ひとつの目的を持って与えられました。
将来、神のもとへ、「大いなる源」へ戻っていくために使われるようにです。

ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。

神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。
しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。

どの転生の人生でどんなふうに性エネルギーを使うかは、あなたの自由です。けれども、性エネルギーは、それを使って「家(神の御国)」に帰るようにと、神から与えられたものであることを忘れないでください。


何か質問がありますか。

質問:「クンダリニー」のパワーは非常に危険で、それを得るには師につくべきだと思っていました。ちがうのでしょうか。

長時間の瞑想や禁欲生活、プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法)などの精神的修行をしてこのクンダリニーのパワーを「獲得」し、自分の意思通りにそのパワーを使おうというのでしたら、確かに師につくべきでしょう。

私が人間として転生したときの経験から言いますと、私には師もいませんでしたし、私がしようとしていることを理解できる人も全くいませんでした。
私にあったものといえば、エネルギーの動き、それだけでした。

私が確信をもって言えるのは、エネルギーの動きというのは完全に信頼できるものだということです。

エネルギーはそれ独自のやり方で動き、独自のペースですすむのであって、私の能力以上のスピードですすんだり、能力以上のところへ私を連れていくこともありませんでした。

すべてがうまく行きました。エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。

まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。けれども、ダムの門を開けて、いっせいに水を放流すると、水の勢いが激しくて危険です。ですから、自然にマイペースでやってください。

何をするにも師が必要だなどと思いこまないでください。
あなた自身が教師なのです。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれがパワー制御装置のようなものを持っています。

エネルギーが動くにしたがって、道も開けてきます。
私の言うことをうのみにはしないでください。
もちろん、ほかの人の言うこともうのみにしないでください。
自分自身の内なる声に耳を傾けてください。

少しやってみると、自分も性エネルギーについて知っていることがある、ということがわかります。性や性エネルギーから、自分が切り離されていると感じる必要はありません。

セックスによる結びつきの目的は、すべてのレベルで人をはぐくみ、育てることにあります。

セックスへの理解を深めたいと思っているパートナーがいる人は、自分をはぐくみ、育てるものはどこから来るのかを知るために、次のようなことを実行してみてください。

欲しいと思う人はタントラ・ヨガの本を手に入れてもいいでしょう。
けれども、べつになくてもかまいません。

自分にとってセックスとは何かということについて、自分自身の本を書くつもりになってください。そのために自分が実験場となり、実験体となるのです。

では、あなたがパーティに出席しているとします。
誰かがあなたに近づいてきて、その結果、あなたは自分のなかで性欲がわき起こってくるのを感じます。

修行をしている人は、「性エネルギーを経験することは有益だろうか」と、ただちに自問します。

一番下のレベルにいる人にとっては、答えははっきりしています。快楽です。そこでそのための行動をとるか、またはとらないことを選びます。

もう少し高いレベルにいる人は(私は、この「レベル」という言い方をまるで信じません。でも、皆さんは大好きでしょう?)、

「ちょっと考えなくては。今このエネルギーを行動に移すと、私の人生に混乱が起きるだろう。それだけの価値があるかどうか」と考えます。

それだけの価値があると思えば行動に移し、ないと思えば行動しないでください。そして、いずれを選ぶにしても、自分の行動の責任をとる覚悟をしてください。

最も高いレベルにいる人は
「このような状況でこの人と性の表現をすることは、私にとって、神を理解するのに最もふさわしいかどうか」と自問します

これらの行動の結果、人は知りたくなかったことを知ることになります。
どんな場合も似たもの同士が互いを引き寄せますから、低いレベルにしかいない人が、自分より高いレベルの人に魅力を感じるということは、まず起こりません。

低いレベルの人にとって、自分より高いレベルの人は自然さに欠けるように見えるからです。その次のレベルは「かたく結ぼれているカップル」のレベルです。

彼らは必ずしも高い意識をめざすことを第一義にしているわけではなく、相手という人間とかたく結ぼれているのです。

一番高いレベルの人たちは、自分の人生のあらゆる出来事や経験を「神のもとへ帰る」覚醒のために使おうとします。


質問:性エネルギーはどのように動かせばいいのですか。

自分の体のなかのどの部分で性エネルギーを感じているか、まず見つけてください。
そして、その感覚とともにいることによって、その感覚をとぎすまします。
自分の想念が現実を創造するということを、あなたは理解しているのですから、意識的に自分の体のなかでエネルギーを上昇させようと決心するのです。
すると、エネルギーが上にあがりはじめます。
ほとんどの人は、人間の体には七つのチャクラがあると信じていますが、実際にはもっとあります。
体のいたるところにチャクラがあります。

エネルギーを動かしはじめると、これらのチャクラがまわりのチャクラのスイッチを入れていきます。
これは神経間のシナプス(ある神経の軸索とほかの神経の樹枝状突起との接触部分)の動きであり、非常に速いスピードで起こります。

いったん、始まったら、もうコントロールすることはできません。
あなたがするべきことは、エネルギーを感じ、エネルギーそのものと、それを上昇させたいという自分の願望に意識を集中することです。
そしてエネルギーが動くにまかせます。

エネルギーは、自分の意識が向いている体の部分に移動します。
まず、一番下のチャクラから始めて、順番に上のチャクラへと意識を集中させていきます。こうすると、エネルギーが天頂のクラウン・チャクラを通りぬけます。やってみてください。

性エネルギーは神から与えられた贈り物のなかでも、最高のもののひとつだということを忘れないでください。この贈り物には何のルールもついてきませんでした。ルールを作ったのは人間です。

自分が話す内容の質や自分の行動の質や人生に起きるあらゆることの質が、ひとりひとりの責任であるのと同じく、性行動の質もひとりひとりの責任です。あなたが決めることです。

「まちがった」こととか、「正しい」ことというのはありません。
あなたがどれを選ぶか、ただそれだけのことです。


質問:性に関する社会的ルールは、人間が「神のもとに帰る」のを怖れているから作られたのでしょうか。

性に関する社会的ルールを作ったのは、自分が性の表現を自由にできないと感じた人たちです。現代の人々のことを言っているのではなく、古代の聖職者たちのことをさしています。

彼らは、自分たちは一般の人とはちがうと思い、自分たちはセックスをすべきではないと決めました。
このおきてを作ると、ただちにそれをほかの人々にも強要しました。
それ以後、性は多くの社会的制限を課せられるものとなりました。

セックスを通じて多くの人々が完全なる悟りを開いたにも関わらず、このおきては守りつづけられてきました。聖職者たちは、自分たちのやり方で達成された悟り以外は本物でないと信じたのです。

ちょうど、医者が、西洋医学の治療法以外で治った病気に対し、当初の診断がまちがっていたにちがいないと信じるのと同じです。

古くからつづいている宗教のやり方にしたがっていれば、そこで起きた「悟り」の経験も信じてもらえます。あなたが守っている規則を作ったのは、神だなどと誤解しないでください。神は人間に何も強制しません

ここではっきり申し上げますが、あなた方の人生で起こっていることの大半は、いわば実験です。人生は、創造しつづけるダイナミックなアクションです。

神が、やるべきことをすべて示して、人間はただそれを実行するだけだったら、人生にどんな意味があるというのでしょうか。

人生は、不可思議に満ち満ちた、すばらしい創造の過程であり、
あなたもその創造の一部です。

あなたが考えたり、言ったり、したりすることはすべて、この創造的行為を構成する要素です。したがって、「あやまち」などというものは存在しませんし、「悪い」ことも存在しません。すべては「生きること」なのです。

はい、では説教はこれくらいで終わりにしましょう。
みなさん、今日はどうもありがとう。


自らの空虚感を人や物では埋められない


Q、 どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるのでしょうか?

 
そのためにはまず、なぜ自分はそれから自由になりたいのかを自分に聞くことです。
 「それが良いことだから」とか「それが必要なことだと言われているから」といった一般的なことではなく、それが自分にとって「必要なことだ」と心から信じられることが重要なことです。


 なぜならあなた方が特定の人や物、あるいは考え方や主義などに執着することに何らかの価値を見出している限り、本心から自由になりたいとは思わないはずだからです。つまり、まだ執着していたいものから、自分を引き離すことなどできないのです。

 ですからまず最初にやるべきことは、自分が執着しているのは何であるかという事実に直面することです。自分が強く執着しているものを見てください。


 それが夫や妻、あるいは恋人であったり、お金、権力、見栄、立場、セックス、あるいは酒や麻薬などであるかもしれず、そこにはもっと多くの可能性があります。そして、それらに執着することによって今まで自分が得ているものは何であるかのリストを作ってください。

 もしあなたの望みどおり、この執着しているものがなくなったら、あなたはどうなると思いますか? たとえば愛情関係を例にとってみましょう。多くの場合あなた方は、非常に強く執着して生きるのはよいことだと考えており、それを強い愛情だと錯覚して生きています。


 そのために多くの愛情関係が、実際には相手を失う「怖れ」に根ざしたものになっています。ですから自分の執着を知るためには、今の相手があなたの人生から去っていったらどうなるかを自分に聞いてみるとよいでしょう。

 こういう角度から自分と人との関係を見てみると、相手との関係が自分にとってどういう意味を持っているかが理解できます。この相手がいなくなったら、あなたはもう愛されるに値しない人間になるのでしょうか? あなたを愛してくれる人はもう現れないのでしょうか? あなたは一人ぼっちになるのでしょうか? 

 多くの場合、自分が非常に強い執着を持っていた相手を失った人は、自分はもう誰からも愛されないという思いに打ちのめされるものです。なぜそうなるかといえば、そういう人は自分の価値が何かという判断を、他人に依存することで相手に委ねてしまったからなのです。こうしたことは非常に愚かなことであり、とても非現実的なことなのです。

 自分の愛情関係を見て、自分がいかに相手に執着しているかがわかるとき、その関係が実は、自分を弱くて非力なものにする関係に自らを巻き込んでしまったことに気づくはずです。


 そしてその関係は自分の人生のプラスではなく、実はマイナスであることがわかるでしょう。そこのところまであなた方が気づいて理解するとき、初めてその執着から自由になりたいという自分の望みに、エネルギーを注ぐことができるのです。

 相手との愛情関係は続けても、執着や所有欲は捨て去ることです。
 執着から自由になり、無限の愛にもとずいた人生を歩むほうが、ずっと大きな満足感が得られるのです。

 車に執着している人を例にあげましょう。
 こうした物への執着は大した問題ではないように思えるかもしれませんが、そうでもないのです。それは、そうした物がその人にとってどのような意味があるかによるからです。非常に強い物欲に囚われている人にとっては、たとえば車は自分の所有物として自分の価値を判断するものになります。


 つまり「それ」が自分の価値の基準なのです。つまり執着しているものが車であろうと、人間であろうと問題ではないのです。何であれ自分以外のものに執着していると、その結果、それを失うことで自分の価値も減少してしまうと感じるのです。

 しかしながら自分の執着の強さが見えてきたからといって、それまでの愛情関係から抜け出したり、持っている物を全部手放すようにと言っているわけではありません。

 必要なことは、あなたの執着心の後ろには、隠れた空虚感や疎外感、空しさがあるということを認めることです。あなた方はそうした空しさを埋めるために、他人や物にしがみつくことでこれまで生きて来たのです。


 本来自分のものではない人間や物に執着してしがみつくのは、健全ではないばかりか自由な生き方ではありません。こうしたことを理解すると、物や人にこだわらない境地へ向かって、一歩を歩み始めたことになります。ですから「執着を捨てる」「執着しない」ことに価値を見出すことがその一歩なのです。

 ですから、ほかのことをすべて忘れてしまうほど、自分の恋愛などを深刻に捉えないことです。また自分が所有しているものにあまりにも価値を置くあまり、それを失うことなど考えられないほどに夢中になるべきではありません。これらの物や人があなたの人生に自然に入ってきたり、出て行ったりするのにまかせてください。


 そしてあなたも喜んで興味を持ってそれらの動きに参加することです。物や人にこだわらないという必要性があなたに理解できると、あなたの意思は「神の意思」と結ばれることになり、この段階をたやすく歩むことができます。

 次のステップは、「気づき」です。
 気づきとは自分の本質を思い出すことです。物や人にこだわらないのもそれを思い出す一つの方法であり、すべてをゆだねることもその方法の一つです。これらはあなた本来の姿ではないものの幻影から自分を解放することができるように、自分の本質を思い出させてくれます。

 つまり、物に対して自分はそれを所有するに値すると考えたり、特定の人に対して自分は関係をつくるに値すると思い、他人や物が自分のエネルギーを使うに値すると考えている限り、あなた方は「こだわり」というものを捨てることは決してできません。


 あなた方が強く望むことは現実になるので、あなたが「大いなる自由」を得たいという深い望みを心から持つようになるまでは、「自分と神との断絶、自分と他人、自分とまわりの世界との断絶」といったあなた方のエゴが生み出した世界観に翻弄されて生き続けるしかないでしょう。

 ある人との関係が、ほかの人との関係よりも大事である限り、すべては「大いなる一」であることをあなたは否定しているのです。あなた方のエゴは人間関係において特別な愛情関係を生み出して、「あなたは他の人とは違うので特別である」と思わせようとします。


 しかしながら実際には、あなた方は全て同じなのです。それは今までもずっとそうであったし、これからもそれは変わりません。つまりあなた方にとってもっと優れて高貴な人からもっとも堕落した人まで、すべての人間は同じなのです。

 あなた方が考えるちょっとした違いなどは幻影にしかすぎず、そういった判断は自分と人を比較して自分を縛るためにあるとも言えます。大切なことは今この瞬間にこそ、「大いなるすべて」の完全性が存在することであり、この完全性に触れることができるのは、今この瞬間でしかないのです。


 人が注意を払えるのは「今この瞬間」だけであり、それは実に単純なことです。一瞬一瞬を意識するとき、あなただけがそこにいてそれ以外のすべては存在しません。そうした瞬間には、自分とまわりの世界が切り離されていると感じることはありません。そこにあるのはあなたと、あなたのなかにあるものと、あなたのまわりにあるものだけのはずです。

 「すべてをゆだねる」というのは、人の「あり方」の問題であり、それは毎瞬毎瞬、「すべてを包む広大無辺なもの」につながっていることをいいます。「広大無辺なもの」につながるためには、「広大無辺なもの」の存在するところにいなくてはなりません。


 それはどこかと言えば、「未来」や「過去」などは存在しないのですから、それはここ、今しかありません。「広大無辺なもの」とともにいるには、「今というここ」にいなければならないのです。

 あなた方が他人や出来事をコントロールし、自分の感情などをコントロールしようとするとき、それは過去や未来に対する願いに動機づけられています。しかし私は言います、コントロールしないでください。


 「振り子」を一方だけに固定しようとしないでください。あるがままにさせておくのです。あるがままにさせることによって、その瞬間の心の平安や知恵や「大いなる自由」がやって来ます。

 今、あなたの前にあるものこそが、あなたが知ることのできる唯一のものなのです。
 そこには生があり、死があり、生と死のあいだのすべてのものがあります。「大いなるすべて」とは瞬間の連続であり、それこそがすべてなのです。


ケイシーリーディングで一番深い真理の言葉
   (神を愛する大事さを訴えておられます)

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


上江洲義秀先生・至高の名言    上江洲義秀先生の記事♪   
 
 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。

 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


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 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
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