- No
- 3899
- Date
- 2019.03.14 Thu
神意識に近づく究極のマントラをご紹介♪悟り・解脱・覚醒・神との合一・神我顕現♪知花敏彦先生・上江洲義秀先生
知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目
知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目
全一体感を観じるマントラ(真言)に出会えたお話
真理と悟りについての思考中に、一番使い勝手がいいマントラって何かな~って考えていたある時…、ふと何となく思い浮かんだマントラが、非常に効能があると感じましたのでご紹介させて頂きます。
心の中で唱えると、全一体感を観じる…といいますか、スーッと心が全一体感…神の御心の中に入っていける……意識が高まっていく…高い波動に変容していく、といったかなり高い効果を観じることが出来ました。
今まで色々なマントラを心の中で唱えてきましたが、その中で一番効能がある気がしたのです。お恥ずかしい話ですが、今まで、マントラによる意識の変化というのを、そんなに如実に観じる事はあまりありませんでした。
しいて言えば、一瞬でも人を責めるような想いが出そうになった時に…、「サタン(偽我)よ退(しりぞ)け~」という一括するマントラはかなり効果がありました。
このマントラはお釈迦様やイエス様も唱えられていたようで、この真言でサタン(偽我)を追い出していたそうです。(by知花先生☆上江洲先生)
波動に敏感な私でも、「我神なり」だけでは、あまり変化を如実に感じる事はなかったのですが、今回、気づかせて頂いたマントラでは心の中で呪文のように唱えた途端(笑)、意識が神意識に近づく意識の変化を観じる事が出来ました。
前置きが長くなってしまいましたが^^;、ついに!!……ドキドキ………そのマントラをご紹介申し上げますと、下に記したマントラとなります。
●我神なり、すべては神なり
●我キリストなり、全てはキリストなり
●我本質なり、すべては本質なり
●我生命(いのち)なり、全ては生命(いのち)なり
●我愛なり、すべては愛なり
●我真理なり、全ては真理なり
●我光なり、すべては光なり
●我無限なり、すべては無限なり
●我大霊なり、すべては大霊なり
●我宇宙エネルギーなり、全ては宇宙エネルギーなり
「神の自覚」と「全てに神を観る」という内観の最重要な2つの視点を、しっかり言葉の中に内包しているという、中々、一粒で二度美味しい、いいとこ取りで、シンプルで使い勝手がいいマントラの様に感じました。
そのマントラを唱えた後では、自然に全てに神を観じれるフィーリングを感じやすくなっている自分に気づいた事がありました。ここまで短期間での意識の変化を感じたのは初めてでしたので、これは素晴らしいな…と思った次第なのです。
「全てが神」に見えた時…1つ目という悟りの目が開眼すると…、覚者☆知花敏彦先生は仰っておられますが、その1つ目が悟りだと定義しますならば、このマントラを唱える事自体が、ある意味「悟りへの内観」をしているとも言えるでありましょう。
このマントラに自分の想いを乗せてしまう……、マントラと自分の思いを一体化させてしまうイメージで、自分の心がこのマントラそのもの……その想いが自分の思いなんだぁ……という感覚で唱えると効果がより高まるかもしれませんよ♪ちなみに私は、そんな感覚で唱えております。
私はこのマントラに抜群の霊的パワーを感じましたので、ぜひお見知りおきを頂ければ幸いであります。効果を感じる一種の神秘体験が出来ちゃうかもしれませんし……なんてったってお金もかかりませんからね(笑)。
知花敏彦師の記事♪の過去の名作記事からの引用ですが……♪
神 「今即久遠」「今即永遠」「今即実在」「今即霊」「今即神」です。 今から神になる者は一人もおりません。初めから神しかおりませんのにどうして今から神になれましょうか。自分が神になることは自分が神であったことを知ることが必要なのです。 自分が神であった、全体が神であった、全てが神であった、ということを理解することです。それを知らないのを無知というのです。 自己を見つめるということは神を見つめるということになります。 自己を知ることは神を知ることです。自己を知らないで神を知ることは不可欠です。自分は神ではないといったならば、もう絶対に神を探すことはできないのです。私達が神で無かったなら神を探すことはできません。 我れ神なり、我れ生命なり、であって神は全ての全てであり、ありとあらゆるもの、神以外何もないのです。神一元という意味です。 神一元とは神以外はない、神が全てだという唯一不二の神というのです。無限者・普遍者なのです。その中に神以外は存在できません。 それに対し、神を知らない心の状態を引き起こしたのが、この世の悪といわれているものです。神を知らないから悪とか悪魔とかいうのです。 神を知っているものには悪とか悪魔は存在しません。神を知らない心の状態が悪というのです。神を知れば悪は存在しません。絶対善があるだけです。絶対神があるだけです。絶対愛があるだけです。絶対調和があるだけです。 だから神を知らない者のみに悪魔・悪霊があるのであって、神を知ってしまえば、私達の今いるところが天なのです。いま即天とは実在という意味です。 地獄とは非実在という意味です。非実在とは天しかないのに、天一元しかないのに、天以外に何かあると思う心が引き起こした幻想なのです。その中に自らの獄壁を作り、自らを閉じ込めているものです。 私達が全てを神とみなしたならば、全てが神だと観たとするならば、神こそ絶対実在で絶対に神しかいないとなったならば、私たちは一つ目になったということです。 神もいるが悪魔もいるというならば二つ目です。目が開かれているのではありません。心眼が開かれているのではありません。その悪とは何なのかを考えれば判りましょう。悪は神を知らない人間の状態なのです。 私達が真理を知り神を知れば悪を行えません。悪魔もいるが神もいるという指導者は神を知らない指導者であって失格者なのです。悪霊とは自分が死んでも神の霊であることを知らない、その霊的力を誤用している、誤って使っている状態の事を悪霊というのです。 全体が一つであるのを全一体感といい、自他一体感といいます。霊には区切りがなく別離がないとはっきり理解したならば自他がありません。他人がありませんので、即自分ですし全体も自分であるのです。 これを全我といい、全我の自分というのです。普遍的自分です。宇宙意識・普遍意識・神意識というのです。私達の生命には区切りがありません。区切りがあれば無限生命ではありません。 生命が区切られていないと判れば、私達の生命は区切りがなく様々な形態を現しているのです。ひとつ様しかいません。一つの命しかありません。ですから全体は我ということ、全我ということになります。 例えばここに一本の木があるとします。この木の葉も一つの命で全体の木の葉が生きているのです。個人個人の木の葉の命はありません。一本の木の個々の葉は外側から見れば一枚一枚ですが、内側から観れば一つの生命であるのが判ります。 ですから「生命の木を把握しなさい」とイエスは言われましたが、生命の次元から観れば同一だという意味が判りましょう。 外側から見れば個々ですが内側から観れば全体です。 この全体が我だと判りますと誰を憎めますか。一本の木の個々の葉一枚一枚が憎みあったら、誰を憎んだことになりますか。 自分自身を憎んでいることになります。 外から見れば私達一人一人で個人個人ですが、内から観れば全体になるのです。外から見れば小さな私達ですが、内からみれば大きな我になるのです。内側を観れば大我であり、外側から見れば小我で、外側は小我で内側は全我です。 外側の外観から見るから小さなものとしてこの木の葉を見ますが、木の葉の生命は小さいものではなく大きな生命です。 私達の個人の命も同じように大きな生命です。この形態を見れば小さな小生命と思っていますが、小生命と大生命は一体だということで霊と大霊は一つであり離別していません。 「神は汝の手よりも足よりも近し」といわれる所以(ゆえん)です。 「天は近し、神は近し」と言われ、神の中にいて神そのものであるのに神を探している。そして今から神になろうとしています。 今の今、神の中におり、神なのに入ろうとしています。 「いま即実在であり」「いま即天であり」「いま即神である」修行して神になるのではなく初めから私達神なのです。神には修行は必要ありません。 「難行苦行、悟りにあらず」の言葉通り、自分が神であることを自覚する、自己を知るということが如何に大事であるかと言えます。自分の中に神がおれば全体の中にも神がいることが判ります。全てに神がいると言えるのです。 イエス・キリストは「神の実子になられた」ということは、自分は神の実子であるのを悟られたという意味です。あなた方とイエス・キリストの違いはあなた方は神の実子ではないと思っているという違いなのです。 あなた方を創られた方は神以外に誰がおりましょうか。見えるもの全て神のもの神以外の誰があなた方の創り主なのでしょうか。神こそわれわれの父なのです。 「何者もこの世で神以外に、父と呼んではならない」といわれる意味がわかりましょう。あなた方が神の実子であることがはっきりわかりましょう。あなた方の生みの親はまさに神なのです。 このことを知ったならば万物の中に神がおられ、万物は神の子であるということになります。何を見ても如何なる形態でも、神を宿せぬものはないと判れば、神の他には絶対になにもないということ、神のみがまします、神のみが独存するということが判ります。 あなた方はあちらに神を求め、こちらに神を求めていましたが、神の中において神は自分であり、同時に全体が神であります。であるが故に神は無限者であられる。 この世の中で神でないものが一つでもあったならば神は無限者でもなく全体者でもないし、全知全能でもあり得ないのです。 我を知ることは神を知ることの名言であるのです。 「神を知る前に自己を知りなさい。自己を知った時、神を知るのである」という意味です。 生命・大霊には区切られた生命、区切られた霊はありません。ですから私達一人びとりは個我であると同時に大我であるのです。ですから私達一人一人は個我であると同時に大我であるのです。 形を見れば小我の小さいものですが、原因は大原因そのものですから大霊・大生命そのものであるのです。区切られた生命や如何なる形の形態の制限設けないのが生命であり、神なのです。神が形態の自由を奪われたり制限されたりはしません。 だから神はいたる所にまします。神のましまさぬ所とてなく、空の世界にも色の世界にも偏在したまい、鉱物・植物・動物・人間とて神を宿さなければ存在しないのです。 「神は自らの住み家を自ら創り給うて、自ら留めたもうた」。 そして、「形態をお創りになり形態に自らの生命を宿しておられる」。私達の肉体は神の働く焦点、神を表現せんがために存在しているのです。 「生ける神の宮なり仏の宮なり」という意味です。神のみが生きているのです。神の他には生きているものはありません。生物は全て神です。 無限の中においてこれが神だ、あれは神ではないと区別しているのは真理ではありません。もしそのようにいう人がおれば、その人達は妄信であり狂信家です。 無限者の神の中において神以外の者が存在できましょうか。神は無限者であられ、大宇宙そのものが神であられるといいながら、ここに神はいて、あそこに神はいないと、どうしていえましょうか。 今の宗教家達は間違いを語っています。何かの修行や何かの宗教をやらないと、神の中に入れないと思ってはいないでしょうか。 今、神の中におるのです。お釈迦さまは「今即天」といわれ、イエスは 「私は初めから久遠の中にいた」といわれました。私たちは初めから久遠の中にいるのです。 人々は誰でも神を探し、神がどこにおられるかと一生懸命に探し続けてきました。しかし神を探した人はほんの微々たる少人数に過ぎません。 何故ならば自分が神であること、「我れ神なり」という事実を知らないからです。その自分が神であるのに神をしているのですから探すことはできません。神が神の中においては神を知るということです。 神が何なのか、神がどこにいるかを知っている人が非常に少ないのです。一生懸命に神を求めている人はが非常に多いのです。神がどこかに存在するといって探していたのでは何時までたっても探すことは出来ません。 自分が神であり万象万物が神であること、全てが神である自覚、神を自覚するということは自分自身が神であることを知るのが一番大切です。 神がどこかにいるのではなく神は全てに偏在したまい、全てに帯座されている。神はここやあそこにいるのではないのです。他に神を見出そうとしても、見つかることはありえないのです。 神の中に今いるのです。そして自分自身が神なのです。神はありとあらゆるもの、全ての全てです。神の他には何もないのです。大宇宙そのものが神なのです。 何年も何十年も神を探しても神は見つけることは出来ません。そこで、人間は神を造ったり、遠い彼方に神がいると想像して新興宗教を造っているのです。 イエス・キリストは、「神のいるところに私がいて、私のいる所に神がいる」と言われ、お釈迦様は「我が内に仏(神)がいる」と言われました。 この言葉を徹底して知り学び理解すべきです。自分自身が神であることを自覚できない人が神を知ることは絶対にできません。 「我れ神なり、我れ生命なりと」。何故、全てが神なりといえるのか。神は万物の親、万物の創り主であり万物の生命でもあります。大生命そのもの、大霊そのものが神そのものです。 大生命・大霊・神のほかには何も存在しないのです。神のみが実在する。神こそが絶対実在であり、その他には何も無いのを知るべきです。神は空の世界でも色の世界にでも全宇宙に遍満している神一元です。 神のほかには絶対に何もないということを知ることです。 知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪ では、人間と神の関係はどうなのでしょう。 本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、 関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。 「人間と神」は、「即、一体」の存在であり、 「我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。 「我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。 「我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。 エドガー・ケイシーが語る解脱の真理♪から名場面の引用ですが……♬ エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)を悟ることに集約される事を訴えています。 ケイシーは、神の栄光は全創造物の中に現されている(全ての全ては神の現れ・神の他には何も存在しない)のだと繰り返し語っています。 人間性の全体、体と心とが神の現れであるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。 「汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。 あなたの知る善の全て、神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。 「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の主なる神(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。このキリストの与えた言葉が法則の全てである。それに優るものは存在しない。 主が約束されたように、あなた方は来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、主(なる神)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る(神我が中にまします・父と子は常に一体)。 あなた方はこの目的のために、主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。 永久保存版♬知花敏彦さんの神我に目覚める♫瞑想の極意♪白色同胞団♪神我と自我の詳しい説明♪悟りとは何か♪ から一部抜粋ですが……♪●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心 ●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神 FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪ 身長を伸ばす記事も追記してみました♪ |
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