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第1回目・知花敏彦先生の記事・総まとめ記事♪ 神は偉大なる許しの方であり 神の意志は許しです♪イエス様のヒーリング法☆光明思念で浄化☆普遍的生命と一体化☆宇宙即我の境地で神我到達♪生きとし生けるもの全てが一つの生命♪神は偉大なる許しの方であり、神の意志は許し♪神は自らを助くる者を助く。汝の救い汝自身なり♪人を赦す心、愛する心、これこそ皆さん方の完成を高める秘訣♪真実(全一体・全ては神)を知った時 『自分を愛するが如く人々を愛します』争いはなくなります♪




神は偉大なる許しの方であり
神の意志は許しです

 御国というのは愛です。
誰も憎まない。誰も謗(そし)らない、誰も怒らない。これが天国です。
 皆、短気が地獄であるということは、憎しみであり、怒りであり、謗(そし)りであり、嫉妬であり。これが地獄です。

 地獄というのは憎しみであり、天国というのは愛です。 
愛を持っていないのに、天国に還れる人は何処にもいないのです。

 天上界とは不安と恐怖のない存在。その心の状態のことを言うのです。
その者は肉を去っても何処に言っても天上界です。その者には憎しみも怒りも、不安も、恐怖も、なにもないのです。その状態を造らなくてはならないということです。

 一杯不安と恐怖と憎しみを持っていながら、「私達は毎週神を賛美しているから天上界に連れて行かれる」という夢を見ている盲信家がいかに多いかということです。

 残念です。残念ながら彼らの還るべき天上界は何処にもないのです。何処に行ってもその心の状態です。肉を離れても、憎しみや謗り(悪口を言うこと)や怒りしか持っていないのです。

 その意識の状態がそうですから、その意識の状態を私たちは知らなければならないのです。非常に強烈に人を憎み、許すことの出来ず裁く人がいます。

 あるいは、それらに捉(とら)われなくて許している人がいます。
 いつも不安の中にいる人がいます。あるいは、平安の中にいる人もいます。どういう状態意識なのかによって人は様々です。

 神は人を裁きません。
 神は偉大なる許しの方であり、神の意志は許しなのです。
 皆さん方は人を裁こうとする所に、苦しみを作り出しているのです。

 相手が間違ったことを言うとカッとなって噛みつく。もう許さない。
それは地獄を作るのです。神に反して愛の光を曇らせてしまう。
 それを許した瞬間に光となるのです。

 皆さん方は、全てを許していれば、愛の他に何がありますか。許さないことによって憎しみ、裁き、悪口を言っているのではありませんか。

 許しがあれば嫉妬するのですか。許さないことが嫉妬であり、怒りであり、憎しみであるはずです。
 許してみてください。自分が許さなければ、貴方は人から許されないのです。だから、自分を許さないのは自分であって他人ではないのです。

 どうでしょうか。あなた自身は、自分が全てのものから許されたいのならば、許してもらいたいならば、「全の人を許してあげればいい」のではないでしょうか。

 自分が自分を許していないだけです。貴方が掴んでいるのです。貴方はもう誰も掴まなければよいのです。
 そして、誰からも縛られたくなければ、あなたは誰も縛らなければよいのです。誰も謗らなければよいのです。怒らなければよいのです。

 許してあげればよいのです。
それは、この世の束縛(カルマ)から開放される秘儀なのです。


創造主様からのメッセージ♪から一部引用ですが……♬


 一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです。あなたが許さなければ、あなたも許されません。

 まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい。そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。

 あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。

全ての人の罪を、許してあげなさいそうすれば、

あなたは全てから、許されます。私、神から許されます

 罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
 人を愛さない者は、私も愛しません。

 私の元に来るためには、この世で一人だって好き嫌いがあってはなりません。なぜなら一人でも、私であるからです。私が創った者であり、その中に私が居るからです。

 神は全ての創り主、全てを創って、全てのものに、ご自身を宿しております。あなたが隣人を嫌うなら、私を嫌っているのです。私を嫌う者は、私から嫌われます。
 私を愛する者は、私から愛されます。全ては私なのですから

 神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。

 
 貴方が許さなければ人様は貴方を許すはずがありません。

 自分が人を許さないのに。「おお、主よ、我が罪を許し給え」と祈るのです。
 それは許されるものではありません。いくら神に「私の罪を許して下さい」と祈っても、自分が人を裁き、許さなかったのなら、これは許されるものではありません。

 私たちは行為でもって全ての人を、たとえ自分を迫害する者でも罵る者でも許してあげれば、その制約に縛られることはありません。自由なのです。
 とらわれてそれを受け入れることによって、束縛を受けているのではないでしょうか。

 例えば、旦那さんが浮気をしたとします。
「よくも私というものがありながら、これは絶対に許せない」と、嫉妬に燃えて怒り狂っている奥さんと、

「うちの旦那さんは私の愛が足らなかったから私の他に愛を求めたのだ」と反省して、(旦那さんに申し訳なかった、私の愛が足らなかったために)と思う奥さんと、どちらが偉いと思いますか。

 嫉妬に怒り狂う人と、自分を厳しくして反省して許してあげる人と、どちらが偉いのでしょうか。どちらが、本物の神の意志を受け継いでいると思いますか。

 皆さん方はどちらを選びますか。嫉妬に狂う女でしょうか。それとも許しを与える女でしょうか。
 どちらを偉いと思うのでしょうか。どちらを神はお喜びになると思いますか。

 許さないのは皆自分です。誰かがあなたを縛っていると思いますか。あなた方は誰からも縛られていないのです。あなたを束縛し、制約し、縛っているも者は誰でもないのです。自分自身です。

 そのことは、自分自身を戒めて、自分を苦しめている状態にも思えがちですが、その状態を自分自身が受け入れさえしなければ、何者にも束縛されることもなく、制約されることもないのです。

 私はそういうものを受け入れて生きておりませんから、非常に自由なのです。
こんなにも身軽で楽しい生き方があるのに、なぜ皆さん方がこれを行ってくれないのだろうかと、そう思うのが残念でたまらないのです。

 ですから、全国を回り回って、私はこういうことを訴え続けて歩いているのです。
 一人でも多くの人に、神の意志を受け継いで頂きたいと思うからです。

 しかし、それは自分でしか出来ません。他力本願であなた方の代わりに誰かがやってくれるものだと思わせることや、何処かに救いを求めさせようとすることが嫌いですから、私はそのようなことは決して致しません。

 なぜならば、人が貴方を縛っているのでもなく、人が貴方を救えるものでもないからです。ただ、自分が自分を救っていないだけなのです。

 イエス様は、「神は自らを助くる者を助く。汝の救い汝自身なり」
と、そのことをいっておられるのです。

 すでにあなた方は助けられているのです。自分は助けられているのに、自分自身を制約や、色々なものの捉らわれや悪に染まることによって、自分を苦しめているだけなのにです。
 貴方を苦しめている犯人は何処にもません。その犯人は自分自身です。

 自分を救うのは自分自身であって、どなた様でも無いのです。
誰かにすがれば救われると思っている人の、その他力依存の強いことが残念です。

 どうでしょうか。貴方の心を変えてくれる人がこの世の中にいると思いますか。

 自分の心は自分でしか変えられないのです。思いを変えるのも自分であって、他人が貴方の心を一々ほじくり出して、「こうしなさい、ああしなさい」と、貴方を救える人間が、世の中に一人でもいると思いますか。

 自分自身です。貴方が幸せになるも苦しむも、貴方の手中の中にあるのです。想い一つにあるのです。それは神の意志を受け継げば簡単ですが、その神の意志を誰もが受け継ごうとしないのです。

 憎しみ合い、怒り合いというものが、なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。それは利己的なものの考え方から、全部自己中心から来るのです。
 あなた方が自分と他人との関係を、まだまだ理解していないからです。

 他人様は神の現れです。この世の人間は、神というと非常に空想的なものを持っています。神が何処にいるかもわからない。自分が何であるかも分からない。だから、「神を知る前に先ず己を知りなさい」というのです。

 自分とは何でしょうか。
自分が何であり、何処から来たものであり、何処へ還るべきか。ということを知らねばなりません。

 皆さん方は神によって造られ、神に還らなくてはならないのです。

 銘々が生きていると思っています。一人びとりが生きていると思っているのです。あなたが生きているのではない、神が生きているのです。

 ただ、神より個別化された外観を見て「私が生きている。あの者は生きている。この者は死んだ」といっているのであって、生命は一つしかないのです。大宇宙という生命は一つしかないのです。
  
 あなた方は、別々に生きているのではないのです。
その肉体の死を「死」と見ている者は無知であり愚者です。本性を知らない、本質的なものをしらない、外観しか見ることの出来ない無知であり愚者なのです。 

 それは死に属する者で死人です。死を信ずるものは死人です。
私達は決して死にません。私達一人びとりや色々なものに死があるならば、神に死があるということです。

 生命は一つです。様々な人間がいるだけです。
 生命には分離も分割もありません。
 生きとし生けるもの全てが一つの生命です。

 小鳥の生命も、虫の命も、全て同じ一つの生命の中にいるのです。ただ形が違うだけ、その生命の入れ物が違うだけです。

 「貴方の生命」も、「私の生命」も「同一の生命」です。
一つの生命」です。全一の生命」でしかないのです。

しかし、人間は外観でものを捉えるため、分離で(あの人の生命、この人の生命)と思っているのですが、同一のものなのです。

 例えば、海水を色々な様々な入れ物に汲んで来たようものです。
入れ物の姿形が違うだけで、その中に入っている海水は同一のものであるのです。

 ここに知花という者がいます。今、私はこの肉体を持って三次元に現れているのです。これは知花という形体にしか過ぎません。
 
 「この世を去る」ということは、命は去ることなく形体が去るだけです。
命はそのまま永続、存続します。ですからこの世を去った方々も、同じ生命の中にいるわけです。 
何処か遠い彼方に離れているのではありません。形体が消えただけです。
 
 それは、私達の生命も、お釈迦様の生命も、イエス様の生命も、この世を去られた方々の生命も、みんな同じ一つの生命であるということです。
 
  皆さん方は「自他一体」です。自分も他人も一つであって。この言葉の意味がわかっている人は悟っています
 「なぜ自他一体というのだろうか」ということがわかっている人は悟っているのです。自分と他人というものはないのです。あなたしかないのです。

 あなたしかいないということは、神のみしかいないということです。
その大生命が神であるからです。まだまだ神の他に何かがあると錯覚しているのです。

 神は自分から遠ざかっていると思っています。遠い彼方にいると思っています。だから「我が神よ」と天を見つめる人達がいるのです。
  
 神と我は即一体であり、神から分離した人間というのは居ないのです。生命から分離して生きている人間が存在すると思いますか。命のない人間が存在するのでしょうか。
 
 この大宇宙は大生命です。その大生命の中に、その大宇宙の中に皆さん方は、今、いるのではありませんか。
 地球という惑星があり、その地球は大宇宙の中に存在しているのです。地球の生命も神の生命です。我々一人びとりの生命も神の生命です。



私たちは宇宙人です。皆さん方に「宇宙人を見たことがありますか」と聞けば、「いいえ、見たことがありません」と言います。
 それならば、「あなたは宇宙の他の何処かにいるのですか」と私はいいたいのです。

 大宇宙の中に地球という惑星があり、金星があり、土星があり、火星があるのです。  皆さん方一人びとりが宇宙人です。
 しかし、宇宙人は円盤か何かに乗ってくるものであって、地球人とはまったく違った姿をしているものだと錯覚しているのです。 
 
 この地球惑星は、宇宙の他と分離して存在しているのですか。 大宇宙の中にポッカリと浮いている一つの惑星です。
 その生きている惑星の上に、我々は生き物として存在しているのです。その生きもの全ては神の中にいるのです。 

 イエス様は「わたしは神の中にいると同時に神は私の中にいる」と言われたのです。  あなた方は、大宇宙という神の家の中にいるのです。 
 この大宇宙は神の家です。そして大宇宙である生命が、貴方の中にもいるのです。

 だから、皆さん方は神の中にいると同時に、神はあなたの中にましますのです。 そのことを、イエス様はお悟りになっておられましたので、「私は常に父と一体である、神と一体である」と言われたのです。

  そのことを、あなた方の理解力でもって、
「自分が生きているのではなくて、神が生きておられるのである」といわれたのです。  
 あなた方は自分で生きていると思うから、死の恐怖があるのです。

  あなたは自分で生きていると思いますか。あなたの生命というものは、あなたがどんなにもがいても一分一秒だって伸ばすことは出来ません。

 どんなに医学や科学が進もうが、人間の生命は一分一秒だって伸ばすことは出来ないのです。 

 今の医学者や科学者は、自分達が生命を伸ばしたと思って錯覚をしています。 その生命は神ですから、それを超越する医学や科学者は一人もいないのです。

   私達のこんな浅はかな小知が、偉大なる全知全能の神に逆らおうとしているのです それには逆らうことが出来ません。もし医学が人の命を伸ばしているのなら、この世で死ぬ者が一人でもいると思いますか。

 医者だって死んでゆくのです。伸ばせないから死ぬのです。しかし、医者は自分が伸ばしていると錯覚しているのです。

  あなた方の今までの五感の感化では、医者が命を伸ばしていると思っています。 もしそうであれば死ぬ患者は居ないはずです。死ぬ医者というものもいないはずです。  

 命は伸ばせません。しかし縮めることは出来ます。 毒を飲むとか、あるいは首をつ吊るとか。自殺でもすれば縮められるのです。しかし、命そのものは久遠常在ですから、永遠にですから変わりません。  

 自殺をして殺しているのは何かというと、その姓名を表している体系だけです。結果としてその肉体が見えなくなるだけです。命は永遠なのです。

  皆さんの肉体は生きていません。息しません。話しません。聞きません。 肉体ではなく、命が見たり、命が聴いたり、命が匂いを嗅いだり、命が話したりしているんです。

  しかし、世の中の人達は、肉体が見たり、肉体が着いたり、肉体が匂いを嗅いだり、肉体が歩いたりしていると思っています。  

 「命と肉体は一者でありながら独立した存在である」ということです。 特立した存在のために肉体から命が分離すると、その肉体は活動しなくなるのです。

  だから、死とは肉体の変化を言うのであって、肉体自らは初めから命によって行かされ、命によって働かされているものであり、決して肉体そのものが生きているのではありません。  ですから、肉体そのものには何の力も何の働きもありません。 

 肉体そのものが生きて働いているというならば、肉体から命が分離して、その肉体は死体となっても、なお生きて働いていなければなりません。  

 その死体が息しますか。働きますか。喋りますか。話を聞きますか。だから死体というものは何の意味も無いものであり、腐り果ててゆくものですから、日に焼いて灰にしてしまうか、土の中に深く埋めてしまうのです。  

 生きているのは命です。息をしているのは命です。 「息が切れた」といいます。息が切れたから肉体が変化をしてそれを死体というのです。ですが、世の中の人々が肉体が自分だと思い、その肉体の自分が生きていると思っているのです。  

 自分とか、私というものはないのです。「無私」です。「無我」です。 本来は私という存在は無いのです。あると思っていることを「自我」と言うのです。 自分で造っている「自我」。それは迷いです。  

 あなた方は自分があると思っています。あなたの存在はないのです。 神のみしかないのです。真我しかないのです。神我しか無いのです。「我れ神」しかないのです。これが悟りです。   

 自分がある。自分が生きている。自分が働いている。それをあなた方が為していると思うことが自我なのです。迷いなのです。働き手は神です。あなたの中で働いているのは神であって、あなたというものが働いているのではありません。   

  今こうして私がみなさんの前でお話をしているのは、神がお働きになり、神が活動してここでお話ができるのです。私という肉体に対しては無です。  

 肉体があっても何も出来ない。生きた神がそこにおられて、働き手である神がそこにおられてこそ、私は皆さんの前でお話が出来るのです。

 それを悟った時、自分といいうものがなくなります。 無我です。無私です。    自分が神の意志を、この肉体を通じて表現するのです。 私の中に生きていたもうものは神であった。命は神であった。と、そうしたとき、その肉体は神の意志を受け継ぐのです。  

 肉体は神の意志をこの世に現す媒体に過ぎず、自分の欲望を果たすためにあるのではないのです。 「自分がある」「自分が働いている」「自分が行きている」と思うことは、自我そのものであり、迷いそのものです。  

 「私の存在」「私のもの」「私が造った」という人が如何に多いかということです。まだまだ「私」というものに皆さん方は縛られています。 
 皆さん方を誰がお作りになったと思いますか。皆さん方の肉体は神の創造物なのです。

  神ご自身が私一人一人を創造し、その中に神自らが命を宿し、そこに働いてくださっているのです。  私達の中に、生きて働いておられるのは神なのです。
  そのことをイエス様は「人間は生ける神の宮なり」といわれたのです。

 「生きた神の宮なり」それ以外の何物でもありません。それ以外の何物かであると思うことが自我というのです。迷いというのです。  

 なぜ皆さん方は、その自分の本性を掴もうとしないのでしょうか。 それを掴んでしまえば皆さん方は幸いです。

本当に幸いなのです。もうこの世で苦しむことも、悩むことも、恐怖することもないのです。なぜならば、神のみが生きておられるからです。

 自由です。何の束縛も制限もない、観自在、無碍自在の自由を得るのです。  皆さん方は。今。苦しい事が多くあるはずです。 それは自我でものを考えているからです。

 私という個人的なものの考え、利己的主義の考え方をしているからです。 聖者方と言われる方々は、非利己的で自分というものがないのです。

  しかし、世の迷い人は利己的主義者です。自分というものがなければ、そこに欲望的な自分が存在すると思いますか。そこには愛しか存在しないことが分かるのです。  

 神の根源は愛です。神の意志は愛です。 その神の意志を受け継ぐ者でなければ,皆さん方は神の御国に入ることは出来ません。

 それをまだ無理解のままでいるということは、無知であり、迷いそのものであるということです。自分を知るということです。まだ皆さん方は自分を知りません。

  「あなたという存在が何であるか」と問われた時、皆さん方は説明できますか。 「人間とはこういうものである。私という者はこういうものである」と、それは自らが自らを知った状態で、悟った状態で答えられるのです。  「あなたは何ですか」と聞かれたら、皆さんの前で自分を説明できますか。

  今までの私の話を聞いて、理解できていればすぐ説明できます。 そうしますと、その自分の本性をこの世に現さなくてはならないのです。

 まだ現すことの出来る状態ではないのなら、まだまだ皆さんは分かってはおりません。自我に引っかかっています。まだ自分の他の何かがあると思っています。

 それが利己的主義、分離、対立、というものです。  皆さん方の銘々の中に宿っている生命。 全ての人が、その同じ一つの生命の中の一人びとりであるということが分かれば、皆さん方は分離のないことが分かっているはずです。  

 あなたと私と分離がありますか。 「私はあなたの中にいます。あなたは私の中にいます」と、私はいつも言っています。 

 (そんな馬鹿なことが)と、五感の感化に支配されている自我の人間はそう思います。 それは悪魔です。無知です。迷いです。闇です。これ程までに、皆さん方がその暗黒の世界に、無知の世界に、どっぷりと浸っていることを忘れてはなりません。  

 自分に対して何もわからない人が、威張っているから仕方ないのです。 「東大」という大学を出ていたとしても、何をやっても、何も分かっていないのです。 

 ただ、読み書きが人より優れ、人より集めた外の知識が人より多く、この世の欲望を果たすためにはいいというだけであって、神の目から見れば恐ろしいほどの無知であり、白痴のようなものです。 

 威張れるよううなものではないのです。  自分というものはなにもないのです。神のみしかいないのですから、威張る自分というものがあっては困るのです。    

 今、神というものを、神棚の中に神がいる、お寺の中にいる、というまやかしの指導をする者が如何に多いかということが残念なのです。

 神はあそこに見よ。ここに見よ。というものであったならば、神は無限ではなくなるのです。全能でもなくなるのです。

「神は全知全能で、無限で普遍である」といいながら、「神棚の中に神がいる、お宮の中に神がいる」というのです。

 そして、その人間に支えられている神が、灯明をあげられたり、ご馳走を上げられて有りする神がどうして必要なのでしょうか。口も利かない、眼も利かない、手も動かない、働きも出来ない仏像を、言葉も言えない、答えてもくれない、何もしてくれない神を、どうして必要とするのでしょうか。 

 何も行わず、座って霧で灯明を要求する神。供え物を要求する神。 こんな乞食神を、如何に世の中の人間が信じているかということです。これは信じているものが乞食だからです。

 偶像とは愚かな像と書きます。偶像と書いてその意味をわかっていないのです。 それを拝むものは愚者です。偶像という愚かな像を作ってそれを拝むということは、それを拝んでいる愚者ではないでしょうか。

 それを金儲けとして、神の名を語って企業化しているだけです。  真の神とは、そんなものではありません。 実際的で、活動的で、本当に現実的で生きているのです。 

 あなた一人びとりが現実的に生きている神ではないでしょうか。 真の神を知ったとき、「神は無限であり、普遍であり、全知全能なんだ」ということが分かるのです。

 神は虫の中にも、鳥の中にも、草花の中にも、至る所に実在している。神は、あそこに見よ、ここに見よと指せるものではなく、それは無限大のものである。ということが分かるようになるのです。そして「全知全能である」ということが分かるのです。

 神に対しての概念とか観念というものによって、如何に世の中が妄信、狂信していることを、皆さん方は知って頂きたいのです。  

 特別な神というものはありません。 なぜなら、一つの神しか実在していないからです。我々の宗教の神、仏教の神。キリスト教の神。というのはありません。 一つの神です。一なる神です。仏教もキリスト教も本来は一つなのです。

 神の根源は愛です。分離でも差別でも党派でもないのです。根源は一つの愛なのです。しかし、仏教徒はキリスト教徒を貶し、キリスト教徒は仏教徒を貶します。それを教えている指導者が、神を知らないのです。 神を知らないと同時に自分を知らない。

 自分と他人との関係を知らない。虫や小鳥と自分との関係を知らない。動物・好物・植物と自分の関係を知らない。その愛を知らないのです。 彼らは一欠片の愛もない状態を神だと思い込んでいるのです。恐ろしいことです。それは神の意志ではありません。  

 神の意志は一つの意志鹿存在しない。その一つの意志とは、一つの愛しか存在しないこと、一つの体しか存在しないことです。 お分かりでしょうか。その意味が分かっていれば、「自他一体」というその意味がわかるはずです。  

 この自他一体という意味が、辞典の中にも「自分と他人は一つの体」と書いてあります。大宇宙という一体の中に、神とあなたは一つの体であり、他人様も一つの体の中に存在するのです。 

 自分が人と争う時は、それは自分と争っていることです。 例えば、一つの身体の中で耳が鼻と争っているようなものです。耳と鼻は形も違うし役目も違いますが、眼と鼻が、独立して、分離して争ったらどうなると思いますか。  

 眼と鼻は繋がっています。繋がっているのですが繋がっていないと思っているのです。ただ形が違っているだけです。全部が繋がっているのです。 

 身体の何処か一箇所をつねれば全身に痛みを感じませんか。だから人をつねったら、その人全身が痛いと思ったらいいでしょう。自分も痛いのです。 

 皆さんは、誰かを貶したり、怪我したり出来るものだと思っています。 それが迷いというものです。誰かの悪口を言っているのは、自分の悪口を言っているのです。全体の悪口を行っているのです。

 全体に悪影響を与えているのです。   一人が悟って喜んでみて下さい。全体に善い影響を与えます。 一人が憎しみや怒りに燃えてみて下さい。全体に悪影響を与えるのです。 

 全体は分離ではなく、全体という一つの体しか存在していないからです。
 ですから、世の奉仕者になるためには、誰も傷付けないで愛し合うことが全体への奉仕であり、神への奉仕であり、神の意志なのです。  

 今、世の中の人達は、憎しみ合いと怒り合いの中で、迷妄の中に生きています。 如何に残念であるかということを、私は世の中の人々にそのことを伝えたいのです。  

「自分と他人の関係を早く知って下さい。そうしたとき、もう人を罵ることはありません。もう人を貶すことはありません」と、私はそういいたいのです。  

 学校で子供達の教育に携わっている方々も、子供達はあなたです。 全体というものの中の全一のあなたです。
 この子供は、あの子供はと、差別して見てはいけないのです。無差別で愛しなくてはならないのです。

 あなたの子供も学校に来ている子供も一緒です。全体というものの中に点々と何名もがいているのです。 このことは全体ということで、全一体ということなのです。  

 他即我(たそくわれ)。我即我(われそくた)。あなたは私です。私はあなたです。 あなた方一人びとりはすべて私です。それが分かったとき「宇宙は私である」と、そのことを知ることが出来ます。  

 お釈迦様は「私は宇宙であった」と、宇宙即我をお悟りになられたのです。 
宇宙はあなたです。宇宙が神ならば神の中にあなたがいることを知るべきです。

 神とあなたと分離した状態というものは何処にもありません。 神とあなたは独立しているものではありません。そうしますと、皆さん方は外に神を求めるようなことはしないのです。

 イエス様が「神の国は汝の内にあり」と言われた意味がわかるのです。 
そして「神を外に求むるなかれ」と言われた意味も分かるのです。 

 あなたの意志そのものが神の意志であるのか。迷いの意志であるのか。それによって決まるのです。 

 今、私たちは古い習慣性で分離概念を自分の中に持っていますが、その分離概念という悪魔を克服しない限り、皆さん方は一体感というものは出来ません。
  一体感が出来たとき、皆さん方は真の愛を、神の意志を受け継ぐ者となります。

 今、皆さん方は分離感でいます。皆さん方の意識は、ものの考え方はみんな分離です。それはサタンです。

 あなたを神から遠ざけている迷いそのものであり、肉から出て来ている欲望そのもののサタンです。悪魔そのものです。その誘惑に負けているのです。  

 それは肉の感化です。外なるものの感化です。それが皆さんを苦しめています。 それを克服しなければ、これからも分離の意識で生きなければなりません。

 これからもあの者はこの者はといって行くことになります。それが皆さん方の悩み、苦しみであり、病気になる原因です。 不安の気持ちと恐怖の気持ちは、そこから出て来るのです。

 本当に一体観念の宇宙即我という、自分と他人とは一体分離がないことを知らねばならないのです。

 人様に尽くすということは、自分に尽くしていると同時に神に尽くしているのです。そうではありませんか。あなたの目が尽くすことは、あなたの耳が尽くすことは、あなたの身体全体に尽くしていることになりませんか。

 見たり聞いたりすることは全体に響くのです。あなたの行うことは、一人びとりに尽くすことは、全体への奉仕なのです。  

 それが分かるようになりますと、地上階にユートピアが、神の国が、仏の国が誕生するのですが、今、悪魔のような生き方をしているために、神の意志に反する日常生活をしているために、そこには対立と憎しみが耐えないのです。

 もうやがて、それが分かるようになれば地上天国が訪れるのです。 この地上界は元々天上界です。心がけの地上界ではないのです。

 私はこの地上界にいながら、私の中に天界があることを知っています。 私は喜びと愛に満たされているのです。誰も憎まないのです。その原因と結果の関係を知っているのです。

 それを知っていますので私にとってここがユートピアです。 その意味をおわかり頂けますか。
 ですから「神の国は汝の内にあり」といい、それは心の持ち方だけであることが分かるのです。

 憎しみがあれば地獄です。愛があれば天国です。 あなたのハートが愛だけに満たされれた時、あなたにとってもここは地上天国です。 

 それを皆さん方に真剣に取り組んでいただき、自分の悩み苦しみの原因を早く分かって頂いて、追求していただかんことを常に私は祈ってやまないものです。

 皆さん方にこうして私がお話することは、自分に話していると同時に全体への影響を与えているのです。
 一人でもこの世から争う者、憎む者がいなくなったとき、その分だけこの地上界は光明化されて来るのです。

 黄金時代というものは、皆が「我れ神なり」「我れ生命なり」と、自他一体の意味が分かって、神の意志を受け継ぐようになったとき、この地球上に黄金時代が訪れるのです。

  今、ちょうど、その時期が周期的に来ているのです。 一人びとりに早くそれを知って頂いて、日々の生活の中で、憎しみもなく、怒りもなく、嫉妬もなく、

「ああ、私は今日も一日、真剣に愛の中に満たされて生きた」と、いえるようになって頂きたいのです。 

 愛の中に生きたということは、光の中に生きたということです。 愛は光ですから、あなた方は光に至りたいという想いはありますが、その光をあなた方ご自身が曇らすのです。

 憎しみは曇りであり、怒りも曇りであり、全てスモッグとなって、私達の本性である愛光を曇らせてしまうのです。  
 皆さん方が今日から愛の光の中に生きたいのならば、愛の想いだけを持つことです。 

 その愛の想いを持っているとき光そのものになれるのです。  そうしたとき、皆さんは神の意志を受け継いでいます。ですから、光になりたいなら、愛に反することは一切持たないことです。

 神の御心は愛であるからです。愛以外に光にはなれません。愛以外に幸せにもなれません。愛に反するものはみんな苦しみであった。みんな悩みであった。そして病気の原因でもあった。

 健康になりたい、幸せになりたいと、それは愛しかないのです。皆さん方が愛を通して健康になり、幸せになあっれることをオススメ致します。  あなたに憎い人がいますか。

 この世に悪い人がいるのなら、あなたは自分を憎んでいるのです。 人を憎んでいるとき、自分を憎んでいると思ったらいいのです。なぜなら、自分しか居ないからです。全一しかないからです。

 皆さん方が誰かを憎んでいるとするならば、その誰かを憎んでいるのではなく、それは自分を憎んでいることになるのです。

 大宇宙というのは一つの存在でしかないのです。 皆さんの身体の中にも七十兆あまりの生命があるのです。その細胞体が、お互いの細胞体の食いつぶしをやっているようなものです。

 今、大宇宙は病気の状態です。その病気の原因を起こしているのは、この地球に住んでいる人間という無知の細胞体です。

 私達は、神から観れば一人びとりは神の細胞体のようなものです。 だから、隣人の細胞を食いつぶし合っているのです。

 それは善なる細胞ではなく悪細胞、すなわち、癌細胞です。今、この世に癌という病気が表現されていますが、今の人間一人びとりが癌細胞のようなものです。

 隣人と憎しみ合う。貶し合う。食い潰し合う。殺し合う。 皆さんの一人びとりが(私は癌細胞ではないだろうか)と考えてみたらいいと思います。
 誰かと傷つけ合ったり、憎しみ合ったりしているならば、自分は癌細胞なのです。

 それを象徴として、世の中で「癌という細胞は恐ろしい細胞だ」と怖がっていますが、自分がそのお恐ろしい細胞であることが分からないのです。  

 地球において、皆さん方一人びとりが憎しみ合いをしていることは、大宇宙にとっては、癌細胞より恐ろしい細胞であるということなのです。

 その意味において、あなた方は大宇宙の癌細胞ではないでしょうか。 大丈夫ですか。助けあっていますか。
 大宇宙からすれば、皆さん方が助け合うことは善なる細胞です。食い潰し合う事は癌細胞です。

 今、大宇宙は癌にかかっています。人間が食い潰し合うからです。殺し合うからです。 破壊していきます。自己破壊していくのです。

 そのことをよく理解していただき、今、自分は正しい生き方をしているのだろうかと強く見つめ直していただき、そして「神の意志を受け継ぐ者」となっていただかんことを、常に私は祈ってやまないものです。 

 微生物と人間関係について 今まで、宇宙だとか、無限だとかという話としてきましたが、今日は皆さんがこんがらないように少し話を低くしまして、微生物の世界から話してみたいと思います。

 私たちは微生物と一口で語っていますが、この微生物とは一体何であるかを知ることであり、微生物なしでは、一切の物は存在できないことも知らねばなりません。

 この微生物とは小さな生き物のことをいいいますが、これらは皆、原子であり電子であるはずです。その微生物には好気性と嫌気性があることはご存知だと思います。

 即ち空気を好む菌と、空気を好まない菌があるということです。そして、その嫌気性の微生物は酸素を嫌う菌であり、水素を好みます。

 また、好気性は酸素を好みます。嫌気性の微生物は土壌菌であり、好気性の菌は空気中の菌ですから、空気中にはたくさんいる菌です。

 例えば、コップを机に置いて水を入れますと、入れなくてもいいのですが、置いておいておきますと、好気性の菌が降ってきます。水の中には水素を好む菌がいるわけです。

 空気中の菌は好気性ですし、土壌菌は嫌気性です。これは水素を酸素の関係ですが、この嫌気性という菌は女性菌でありマイナスの微生物です。
 そして、好気性というのは男性菌で、プラスの微生物をいいます。

 男の女の関係でもあり、天と地の関係でもあり、父と母の関係でもあります。この二つが結合することにより、この菌はまた子供を産むのです。  

 我々人間は微生物の塊です 我々という人間がなぜ空気を吸わないくなると死ぬかといいますと、好気性の菌を吸うという意味で、酸素を吸わなくなりますと人間は生きられません。

 体内には無数の嫌気性の菌がいますし、空気中には好気性の菌がいるわけです。また、常に私たちは息を吸って、この好気性の菌を鼻や口から取り入れて存在を保っているのです。

 では、生きものとしての微生物と、生き者としての人間は違うものでしょうか。これは同じ物の現れにしかすぎません。

 物は全て微生物でもって存在しますし、その微生物の集合体が物体となって、形となって現れているのです。

 そして、集合体が分散すると形がなくなります。我々の体は微生物の塊だと考えても結構ですが、そのような関係を我々は全く理解していません。
 これは、水の活性化から発見したものです。

 なぜ水は動かさないで器に入れておくと腐るかということです。
器に入れて少しでも動かさないでおくと、この器の中には空気中から好気性が入ってきませんから、この器は全部がマイナスの菌だけになるわけです。  
 水を動かせば好気性の菌が入って活性水になります 。

 皆さん方は微生物のこれらの菌を、悪玉だとか、善玉だとかいって、簡単に名前をつけていますが、悪玉とか、善玉は存在しておりません。

 完全なる菌のバランスは状態とは、好気性と嫌気性のバランスのことをいい、それは男と女の関係と同じでバランスが良ければ、引き寄せるわけです。

 ですから、水を動かすと水は腐りませんし、動かさない溜まり水は腐りやすく、それは好気性の菌が入っていないからです。

 また、船のタンカーの中にある水は非常に活性化された水と言えます。
 なぜかといいますと、船は波の上を動きますから、船が動くたびに常に空気中の菌を水の中に取り入れているからです。

 どんなに腐って水でも、船に一旦積めば一航海しますと活性水になるというわけです。  溶存酸素がお多い水は甘みのある水になります  私は水で、ある実験をしました。

 水をタンクに入れるタンクを作りまして、その水を吸い上げるモーターを付けて、水を吸い上げ、そこから水をわざと高くして、高いところから落とすようにしました。 

 空気中の菌を吸収してここに落ちるわけです。このように水を落としますと、その水が嫌気性と好気性とのバランスがとれますので、活性水となるのです。
 ただ落としただけでも活性水となります。

 この原理は、ダムの水が上から落ちてくるのと、雨水が落ちてくるのも同じことです。
 野菜にいくら水道水の水をかけてもなかなか伸びませんが、少し雨が降ったら植物が一気に伸びるというのは、たくさんの溶存酸素を含んでいるからです。

 その雨水は嫌気性と好気性のバランスがとれた活性水となって降ってくるからです。
雨水そのものは、時間をかけて距離が長くかかって落ちてくる間に空気中の酸素を吸収しますから、即ち溶存酸素が多いわけです。

 溶存酸素が多いと、少し甘みがあるのです。これをあまみず(甘水、雨水)と皆さん方は名づけています。
 酸素が多いか少ないかは一口飲めば分かります。雨水になりますのは甘みがあるからです。

「あま水、ああ、これは甘みがある水だ」といいますのは、バランスのとれた水というわけです。
 皆さんの水道の水は甘みがありますか、ないと思います。 
河川の水は周囲をコンクリートで固めたから酸欠状態です。

 今の河川はなぜ汚染されたのかといいますと、周囲をコンクリートで固めたからです。
 川の水は周囲にある色々な石にぶつかったり、あるいは障害物で跳ね上がったりしますが、コンクリートで固めますと、水はぶつかる所がなくなります。

 ぶつかる時に水は空気中の菌を取り入れるのですが、酸素を取り入れるわけです。それを好気性と菌といい、酸素菌のことです。即ち酸素です。  
 そして嫌気性というのは水素で、全ての物は水素と酸素で成り立っているのです。

 水素は女性菌ですしマイナスです。そして酸素は男性であってプラスです。 電気的にいいますと、
 そのような器の中に電極を入れますと、そこには必ずプラスとマイナスの電極が必要になります。

 そこに電気を流しますと、マイナス極からは水素が出てきますし、プラス極からは酸素が出てくるわけです。
 それに仕切りをしますと、その仕切ったマイナス極の方はアルカリ水になりますし、プラス極の方は酸性の水ができるのです。それを電気分解といいます。

 水の中には必ず好気性と嫌気性の菌がいるといえます。電極にしましても、マイナス極は水素に反応しやすい極です。そこで、

 酸化鉛というものを使って、水素に反応させていくのですが、その時にアルミとか普通の鉛とか、酸化していないものと、酸化しているものと、酸とアルカリの極を使えばよいわけです。

 そうしますとそこからは大変な電気が取れるのです。光とか、力が取れるわけです。  酸素は父なる神といい、水素は母なる神といいます  我々人間は、空気中の菌と、そしてl土壌菌が必要です。

 人間の体内にいる菌は普通には土壌菌と言われているものですが、それを母なる大地といい、空気のことを天の父というのです。一言でいいますと、酸素は父なる神といい、水素は母なる神です。

 そして、物は全てプラスとマイナスのバランスで存在しているといえますので、「神は愛なり」といい、また、「愛は神なり」といえるのです。  

 また、バランスなしでは物は存在出来ると思いますか。このアン・バランスのことを皆さん方は病気と呼んでいます。

 そして、バランスのことを健康と呼んでいます。では、その微生物と人間とは無関係でしょうか。 
 皆さん方は微生物と人間は異なるものだと考えている人がいかに多いかということです。これをアホとか、愚者といいます。

 ですから、人間はハッキリいいまして何も知らないといえるのです。私が今、一番気に入ったのはこの活性水です。

 これは、ただ水を循環させただけのもので、空気中の酸素を吸わせて落とすのですが、これが活性水になり、それを活水といいます。

 そして、おまけが付くのはこの活水を維持させたり、保存するためには、ここに石とか色々なものを入れると、なおかつ良いというわけです。

 土壌菌を育てるには餌が必要で、その餌はぬかと籾殻です  活性水がなぜ良いかといいますと、その微生物の住みかを作るからです。

 それは土壌菌といいまして、今から一週間前ですが、ある林に行って土壌菌をコップに一杯くらい拾ってきたことから始まりました。  

 土壌菌というのは腐食土といっても構いませんが、その中には農薬の撒いていない新鮮な無数の菌がいるのです。

 その土の中を顕微鏡で覗きますと土が見えますが、注意深く覗きますと土は存在していないことに気が付きます。

 そこには何があるかといいますと、微生物の塊があるだけでです。普通には土といいますが、微生物だとはっきりと言えるのではないかと思います。  

 その微生物を土壌菌というのです。皆さん方は一言で土といいますが、微生物の塊を土というのです。

 以前に、面白い実験をしました。それはある土壌菌の腐食土を一握りほどとってきまして、どの土壌菌は餌が必要ですから、この菌に糠と籾殻を入れてかき混ぜて、置いておいたのです。

 そうしますと、その微生物が糠を食べ物として食べてしまい、どんどん膨れ上がってしまいました。膨れ上がれば上がるほど菌は増えていくわけです。

 そこにまた糠と籾殻を入れていきますと、ますます増えていきます。 土の中の微生物が繁殖すれば作物はよくとれます 。

 土の中の微生物にまかせて、その状態のままにしておきますと、嫌気性と好気性とのバランスがとれますから、撹拌してバランスをとってあげるのです。

 籾殻をたくさん入れますと、籾殻の隙間から酸素が入り、好気性の菌がつきます。空気中の菌が入りやすい条件を作っておけば、嫌気性と好気性とが結婚してしますのです。

 嫌気性の菌と好気性の菌が引き合いますと、どこから子供が生まれます。その状態を活発にしますと子供が大きくなって、また子供が生まれるわけです。これを繰り返しますと、どんどん大きくなるわけです。

 これが微生物の繁殖というものです。  どんどん増やすことを繁殖させるといい、それには、肥料ではなく、土の中の微生物に餌を与えているのです。

 もしも、土が死んだというのならば、それは土壌菌に餌をあたえなかったがために、土壌菌が育ちませんでしたので死んでしまったのでしょう。  

 今の世の中は化学肥料を使い、微生物に餌を与えないから土がどんどん痩せて死んでしまうのです。

 化学肥料では微生物は死んでしまいます。今、皆さんという人間が食べている食物でも、その食物は体にいる微生物に餌を与えているだけです。

 その体内には無数の微生物がいますから、口から体内に微生物に餌を投げ込んでいるようなものですが、この意味がわかりますか。

 なぜ人間は物を食べないと死ぬかといいますと、体内にいる微生物に餌を与えなければ死ぬということと同じ意味になります。 今の時代は空気も、水も、食物も、人間も全て汚染されています。

 人間は物を食べなければ死んでしまいますし、空気を吸わねば生きることは出来ません。 我々はそのような食物の関係や、空気が汚染されますと健康ではおれません。

 今現在の条件では、人間がどんなに健康になるようにもがいても、健康になれないという理由にもなります。

 そして今から50年前の病気と、現在の病気の数は、皆さんの想像を絶する程に増えたと思います。空気は汚染されていますし、水は汚染されています。

 そして,土地は汚染されていますし、食物は皆汚染されていますから、それであなたが健康でありたいというのは虫が良すぎるとしかいいようがありません。
 これらは微生物のバランスを崩した結果ではないかと思うのです。

 ですから、空気汚染とは普通にはよくいいますが、人間汚染といえるのではありませんか。土が汚染されたといいますが、我々という人間は土と無関係でいられることが出来るのでしょうか。

 土壌でできたものを人間が吸収するのではありませんか。土壌が汚れているのは人間が汚れているのではありませんか。空気が汚れているのは人間が汚れているという意味です。

 人間の汚染は人類を滅ぼします  全ての汚れは人間の汚れであると考える人がいるのでしょうか。
 自分自身が汚れているから、空気が汚れているし、水が汚れているのだと。自分が汚れていることをいっこうに知りません。

 それでは、空気を吸わないで生きる人間はいるのでしょうか。空気が汚れているのは誰が汚れているからですか、自分が汚れているわけです。  

 そして、土や畑に農薬を撒いたという人はいますかが、人間に農薬を撒いたという人は一人もいいません。

 もしも、人間に農薬を飲ませたらすぐに警察行きか、監獄行きです。  土に農薬を巻くことは、撒いた農薬を植物が吸収しますし、その植物は誰が吸収するのでしょうか。
人間が吸収するはずです。それは間接的殺人になりませんか、なります。

 以前に松本でサリン事件がありましたが、あのように直接人間に被害を起こした者は罪に問いますが、毎日、農薬をたっぷりと畑に撒いている罪は誰も問いません。
こんなに農薬をたくさん撒くのを国が推奨するとは何たることかといいたいのです。

 国は人殺しを奨励していませんか。  事実そうなっていませんか。
その撒いた農薬はどこに行くのかといいますと、一部は植物が吸収して人間にいきますし、一部は地下水に行きます。
 そして一部は蒸発して雨になって降ってきます。全て悪影響ではありませんか。

 我々が今の状態でこのまま続けますと人類は滅亡します。これは言いすぎでしょうか。当たり前でしょうか。当たり前の法則です。これはバランスを崩しているからです。  

陰陽のバランス・色と空のバランスが今は最も大切です  大宇宙という大自然の中の物質の世界は母なる大地であり、物を生み出す。形を生み出す要素です。

そして、それらを生かしているのは空気です。  ですから、見える物は見えないものなしては存在出来ないのです。空気を吸わないで生きているものは一物もありません。

それが「色即是空」であり、「空即是色」です。 
色と空のバランスは、陰陽のバランスです。

色は女性原理であり、空は男性原理です。
この色と空のバランスでこの宇宙は存在していませんか、存在していいます。    

 世の中には、このようなことを知らない人間が大勢います。そして、菌の増やし方ですが、私の部屋の下の実験室で実際に作っていますが、これはもう増える一方です。

 このようなバランスのとれた好気性と嫌気性の土をつくりますと、そこに植えた植物はよく育ちます。これが活性化された土壌といいまして、即ち生きた土ということです。

 この土壌での植物は物凄く成長するのは当たり前です。今の農民は逆に土壌菌を農薬で殺しているわけです。
 土壌菌に餌を与えているどころか。殺しているのです。土壌菌には餌を与えるべきです。

 息は吐くことが大切で入るのは自然の法則です 皆さん方の多くは「ため息」をついています。そして、個人の命だと思っています。

「自分の命は独自の命である」と、個人的な命があると思っているなら、皆さん方がついているのは。

 ため息となります。ため息をついてはなりませんし、それは苦しいはずです。息はいくら吸っても減りません。エネルギーはいくら吸っても減りませんから、吸って、出して、吸って、出して、と循環の法則に反してはいけません。

 そうしますと、喘息の人は欲張となります。吸えば吸えるのに、吐かないで吸おうとするから、吸えなくなるのです。喘息の人がおりましたら御免なさい。でも息を得るためには吐かねばなりません。

 吐いたらすぐ入るという法則があるのです。空っぽにならないで、いっぱい入っているところに、どうして押し込めようとするのでしょうか。それでは息切れするだけです。

 いっぱい詰まっているところに息を入れようしたって入りません。入れるためには出さねばなりません。出したら空っぽになりますから、自ずと息は入ります。  

 今の喘息を治療する医者の間違い 本当に喘息の人は簡単に治ります。吸う訓練をさせては駄目で、吐く訓練をするのです。吐くことを教えますと、スムーズに息ができるようになります。

 腹の底から押さえてあげて、吐き出させますと、吸うのは簡単です。吸わせるのではなく、吐き出しますと、空っぽになりますから、自然に入ってきます。

喘息の方がおりましたら。まず吐く訓練をさせて下さい。そうしますと、喘息は非常に楽になります。

 今の医者は逆をやっています。蒸気を噴霧する器械を使って無理やりそれを吸わせようとするから、苦しむのです。本当は吸引器のような機械を持ってきて、吐き出させればいいのです。 

 そうしますと、バランスがとれますから、吸えるようになります。無理やり入っているものに吸わせようとしたら、これはとうてい入るはずがないことをよくご理解いただきたいのです。

 息はこの宇宙にたった一つしかありませんから、この息はエネルギーであるともいえます。 息が切れるとはエネルギーが切れるということですから、深呼吸をするとエネルギーが高まります。

 イライラしている時に邪気を吐き出し、呼吸をしますとエネルギーが入りますから体が暖かくなり、落ち着きます。

 東京あたりの高速道路に入った時、車が渋滞しますと運転している人はイライラしますが、こういう時は窓をちょっと開けて吐き出せばいいのです。吐き出せばスッとしますから、イライラが収まります。

 つまり、イライラは邪気が溜まっている状態で、その邪気を出せば収まるのです。その邪気を全部出してお腹を押しますと、新しい空気が入りまして邪気がなくなります。 昔の農民は愛が深かったのです。

 畑には手ぶらでは絶対に行かなかったものです。必ず堆肥や色々なものを持って行って、畑から得たものをお返しするという、畑に恩返しをしていました。手ぶらで行く者は農民ではないといわれたくらいのものです。

「土壌菌のお陰で収穫物が得られましたので」といって、畑に色々の堆肥にしたりして肥料をほどこしたのです。

 その肥料というの言葉も、土壌菌の餌ですから与えるという意味ですから。土の中の微生物は餌を与えられると、それを好んで食べて、元気になって子供をどんどん生むわけです。

 そして、微生物にも寿命がありますから、その微生物がなくなれば死骸となり、その死骸の事を皆さん方は、蛋白(タンパク)といっています。普通には蛋白といいますが、それは微生物の死骸のことです。

 そのタンパクを植物が吸収して地下水や雨水とともに植物が吸収して葉っぱの次元にきますと、光に当たりましてアミノ酸に変わるのです。タンパクがなければアミノ酸はできません。そのような循環の法則に基いて全ての万生万物は存在しています。 

 今ほど循環の法則が大事な時代はありません  我々人間や、植物や動物などは全てが循環しています。このことが循環の法則であるのに、これを悪循環に変えたのは誰でしょうか、その答えは人間だと思います。

 このままでは21世紀は望めないのではありませんか。これを危険性といい、この今の時代に危機感を感じるのです。

 今、殆どの人達はこの意味を知らないで、学ばないでいます。殆どの人間は無鉄砲であり、手探りで生きているのではありませんか。

あまりに無鉄砲すぎませんかといいたいのです。原理・原則を全く知っていないのではないかと思います。

 こんなことを知らないのに、私は偉いのだと威張ったりしていますが、このような者達に色々な権利があるのでしょうか。

 このことを知らない人間たが「ただ生きているから生きているのだ」というように、形だけでふらふらしているようなら、早く死んだ方がいいですよといいたいくらいです。そんな形はいりませんし、そんな者は必要としません。 

 宗教とは・原理に基づいた日常生活をすることです  私は原理・原則に基づいた日常生活をすることが宗教だと思っています。この原理・原則を守らない者が宗教家でありますと、きんきら菌の洋服を着てみても、何の意味がありますかといいたいのです。

 その原理・原則に基いて生きている人のことを神信者というのであって、法をさんざん犯しながら私はクリスチャンでありますとか、どこそこの仏教徒でありますという必要がありましょうか。それを偽物というのです。そんな宗教家や、そんな信仰は全く必要としません。

 微生物との関係でも、研究をすればするほど、理解しやすいものとなります。この電極にしましても、これは皆、微生物の電極ではないかと思うようになりました。

 酸を吸収しやすいものと、水素を吸収しやすいものが作られているわけですから、微生物も電極にしかすぎないといえるのです。全ては微生物ではないか、微生物なしでは物は存在できないといえます。

 今なら、嫌気性と好気性がはっきり分かったと思います。空気中の菌は好気性であり、土壌菌は嫌気性であると、そして、土壌菌は女性菌であり、空気中の菌は男性菌であると。

 そのバランスでもって全ての我々の体内は存在しているわけです。ハッキリ言いまして、我々の体は微生物の集合体であるといえます。 活性化された水は甘く、死水は辛い 

 まず、私達が飲んでいる水道水は活性化された水でしょうか、それとも死水でしょうか。  まさに、死水です。例えでいいますと、滝壺の水は甘いはずです。

滝から落ちてくる水の距離が高ければ高いほど、長ければ長いほど空気中の酸素を吸収しますから、それは好気性を吸収しますので、甘水となるのです。

 おいしい水となります。おいしい水とか、良い水とは、酸素と水素のバランスがとれた水と言う意味です。即ち好気性と嫌気性のバランスがとれているか、そのバランスがとれていないかの違いです。  

停滞している水はなぜ腐るのかといいますと、空気中の菌の酸素を取り入れていないからです。溜まった水ならポンプで汲み上げて高いところから落とすだけで酸素が入り活性水になります。  

 その装置は私の家の玄間の入り口に作ってありますので、見て頂ければ分かります。それはただ、水が循環するだけで、普通の水道の水が甘水に変わるのです。   

循環させるだけで、水を落とすだけで、そして酸素を吸収させて水に入れるだけで、水素と酸素のとれた生きた水になります。

 その水道の水には塩素が入っていますが、塩素は気化性ですから落ちる間とか、循環している間に飛んでいきますので、臭い匂いはなくなります。そのように循環するだけで飛んでいきます。   

 水が微生物であることを知っている研究者はいません  水に対しての研究家は大勢いますが、水が微生物であるという研究家はいません。水をH2Oといいますが、このOという文字はオゾンを意味します。

  それはすなわち酸素のことで、Hは水素ですから、水素と酸素の結合で水となるわけです。これは大まかにいっているだけで、そこには全てのミネラルが含んでいるはずですから、単にH2Oと言っては困るのです。  

世の中の皆さん方は、水不足の影響で水に対しての関心が少し高まったようですが、もう少し危機感を持ったほうがいいかなと思うくらいです。水の有り難みを知らない人が何と多いことかといいたいのです。  

水は無無銭だと思っていますが、あの水はまさに恵みなのです。「たかが水ぐらい」というのは「たかが私ぐらい」というのと同じだと思います。  

水と無関係で生きられる人間がおりますか。水は大切なモノです。それを「たかが水ぐらい」という人が大勢いるのです。また、「ただの水ではないか」という人もいますが、そんな言葉聞きますと身の毛がよだちます。  

それを聞いた時は、この者は水なしで生きられると思っているのだろうかと思うくらいです。水をいかに馬鹿にしている人が多いことか。

甚だしい者になりますと、いい水と、悪い水とをいくつか並べて「皆同じ」というのです。
相当に鈍感か、味覚が狂った者です。味覚のバランスが崩れた人間は、いい水と悪い水の識別さえもできません。  

本当に波動の狂った人間さえ出てきますし、波動悪い人間も出てきています。そのような状態ですから世の中がおかしくなったと思います。皆さん方は、常に敏速で敏感でなくてはなりません。 微生物とは精霊のことです。  

この知花は、父に良い名前をつけてもらいました。知花という名字は関係ありませんが、敏彦という名前です。この敏は何と読むのでしょうか。  

「山彦の如く敏感であれ」と書いてありますから、私はこの名前が大好きです。実際、敏感になっていますんで耳までこんなに大きくなったのかなと思うのです。私は敏感に何でも感じるようになりました。  

物は全ては波動であり、それらは微生物ではありませんか。形ある物は全てが微生物でないでしょうか。
そして、皆さん方と微生物とは無関係でしょうか、それとも微生物そのものでしょうか。人間そのものですか、微生物そのものですか。皆全てが微生物だといえます。  

そのような微生物のこと、神秘的な言い方ですが、「精霊」だというのです.この精霊は、もちろん姿・形はあります。  

私がこの清里に来ましてもう7年になります。1994年の10月が過ぎましたので、満7年目です。この清里に来たのは1988年の10月でした。

この地についてから3日目に雪が降り。2週間後には大雪となりました。1メートルくらい積もったかというほどの大雪でした。  

その時は雪が珍しいものですから、散歩して駅まで行ったものです。すると、ある松林の所で、雪の精霊達が踊っていたのです。精霊が踊っているのを見たのです。

「あれ、目の錯覚かな」と思っていますと、精霊たちが手招きをして、皆そろって、挨拶をしているではありませんか。  私は「ああ、あなた方は精霊か」と聞きました。「精霊だ」というのです。

そして、「一つお願いがあります」と、彼らはいいました。「我々は、本当は人間と共に住みたいのですが、人間が私達を嫌って、私たちはもう遠くに追い払われてしましました」と、言い出したのです。  

それは「何が原因だ」と尋ねてみましたら、「農薬」だといったのです。「私たちは人間に協力したいのですが、人間は協力させてくれません」と、いうわけです。 

 人間はその微生物という精霊たちを農薬でどんどん殺すという、かわいそうな事をしているのです。「我々の住みかを人間が奪いました」といいます。「我々の住み家を取り返して下さい」というのです

 私はその時に涙がバァーッと滝のように流れました。心が爆発したのではないかと思うくらいでした。あれくらい心の痛い思いをしたのは初めてでした。
「そうか、それを世の中に訴えて、農薬を使わせないようにします」と約束したのですが、誰も聴く耳を持ちません。 

問  よく地球の内部が空洞になっていて、そこにも人が住んでいるという噂を聞きます。
ヒマラヤから、底の地下帝国に入っていく入り口があるというような話を聞いたことがありますが、本当でしょうか?

 知花 それは事実です。シャンバラという、それはエーテル界であって、皆さん方の考えている物質的なものではなく、正に物質世界そのものを意味しているのではありません。

それは霊の世界です。物質的なものと捉えたら大変な勘違いです。
エーテルとしての存在であって、自分の肉体や物体としての存在ではそこに入ることは不可能です。 
自分の肉体をエーテル化して初めてその世界が体験出来るわけです。 

問 自分の肉体をエーテル化するというのは、具体的なノウハウはどのようなものでしょうか。 

知花 それはバイブレーションです。そのバイブレーションとは何かといいいますと意識です。  空の意識がすなわち高いバイブレーションですから、物質と非物質とは同じものです。

ただ、バイブレーションが高いか低いかの違いだけです。  それを釈迦は空即是色で、色の世界は空の仮の姿であって、現れにしか過ぎないといわれました。

実在するのは色ではなく空となります。ですから、色の本源は空であるとなり、空こそ絶対実在です。色もあって空もあるとは理にかないません。

色は即空であるし、空は即色である。そこに実際にあるのは空一元であって、空は永遠ですから、色は無常です。形あるものは崩れますが、本質は永遠です。 

 問 輪廻転生はあるのでしょうか。 

知花 あるという世界もありますが、それを乗り越えた者には、本質的なものは、全く輪廻を繰り返しません。

影として幻としての表現世界は存在しています。すなわち、上辺の世界です。その根拠と一体になりますとそこには全く輪廻がない世界です。 

 問 人間の生きる意味とか、この世に生まれてきた意味とか、死んでいく意味など、少し宗教的になりますが、それはどのようにお考えになっていますか。 

知花 我々は死にもしないし、生まれもしませんから、本来は意義そのものはありません。
ただ、我々は内なる現れを、表現として生まれてくるのですが、
その目的を失ってしまったり、誤った表現をしていいて、それを繰り返しているだけですから、意義としてとか、定義されたものは全く無いのです。

 問  オーラについてお伺いしたいのですが、生体エネルギーの一種なのでしょうか。 

知花 オーラを持たないものは一物もありません。その生命エネルギーという霊エネルギーそのものがオーラでありますから。そのオーラとは生命ですから。

みな宿していますから、オーラを宿していないものはありません。しかし、その生命の自覚に順応してオーラが強くなるとか、弱くなるとかはあります。 

問  色(いろ)によっては色々な意味があるのでしょうか。

 知花 あります。オーラの色は七色です。すなわち虹色です。その七色の世界が光の世界でで光エネルギーです。

そして、その光がどこに多く現れているかといいますと、人間には七つの光中枢がありまして、それは七色を示しているわです。


ですから、生命線というのは七色のチャクラです。そしてどの分野を多く意識して生きているか、どの分野を開発化されているかによって、そのオーラの色が強く出ます。
その七色の世界を七天というのです。七色の光の世界です。 

問  その七天という字は天という字ですか。 

知花 そのとおりです。 

問  色が持つそれぞれの意味はあるのですか。 知花 あります。それは色がそれぞれ、みな一つ一つの波長を持っているからです。 問  例えば赤い色にはどのような意味があるのでしょうか。 

知花 赤い色だと感情です。 

問  青はどんな意味があるのでしょうか。 知花 青は冷静を示します。

 問 緑はどんな意味ですか。 知花 緑はありません。紫の場合は知恵を象徴とします。黄色の場合は愛を象徴とします。ピンクは愛情とか、恋とか情愛を示します。 

問  後の二色は何色でしたでしょうか。 知花 本来その二色とか七色とかいいますが、本来は白色であって、無色なのです。その七つの色が一つになりますと、無色という白色にしかなりません。それを白光と読んでいる訳です。 

問  七色を全部重ね合わせて無色の白光となったのが一番パワーが強いのですか。 

知花 そうです。

 問  神の意識に通じるものがあるのでしょうか。

知花 全ての意識そのものが神意識です。神意識の他に意識はありません。
意識そのものが神であって、神は意識ですから、全てに意識が宿っているとは全てに神が宿っているとなります。意識とは物を生み出す力でもあります。 

問  根源的な意識は人間のような人格は持っていませんか。 知花 人間のような人格を全く持っていません。無形無双です。 

問 サイババさんたちが行っている物質化現象について、もっと詳しくお伺いしたいのですが

知花 それは正しい現象です。物は全ての原子と電子の集合体です。我々の肉体も原子と電子の集合体であって、全て宇宙には原子と電子が遍満しているわけです。

ですから、気体も液体も個体も皆、原子と電子となります。その原子と電子が集合すると物質という形を表す、それを分解すると非物質となります。 

 そうしますと、この宇宙には原子と電子が遍満していますから、それを、その分子と電子を結合させましてあるイメージと、ある振動を起こしますと、物質化現象が起こるわけです。

ですから、物質と非物質とはイコールと同じものであるであるといえます。  色と空は同じものですから、色にも原子と電子があって、空にも原子と電子が満ち満ちています。

ですから、ある一定の元素転換と言って、その原子と電子の結合する振動を起こせばそういう物質化現象が行われるわけです。

  物を非物質化する事も可能です。物の振動、原子と電子の振動を波動を低めると固体化しますし、波動を高めると非物質化するわけですから、振動のバイブレーションが高いか低いかだけです。

ですから、物質世界は波動の低い状態をいいまして、空という場合は波動の高い状態をいいます。  ですから、空は高次元、色は低次元となります。低次元とは低バイブレーションのことです。
 高次元とは高バイブレーションのことです。バイブレーションを上げると非物質化。下げると物質化になります。 

問 低次元にするか、高次元にするかも、人間の意識によってコントロールすることは出来るのですか。 

知花 出来ます。意識を低めるか、高めるか。意識が高まると空になるし、意識が低くなると、色になります。 

問 具体的な高め方はどうするのでしょうか。

 知花  あなたが固定概念という意識を捨てて、自分は1個の個体だというようなことではなくて、心を空にすること。その空とは高バイブレーションとい意味ですから、空にしますと、そのバイブレーションは高まりまして、

事実上、自分の肉体が気化されまして、霊化されまして、霊というのと気体は同一ですから、霊化された肉体は気化された肉体ですから、肉眼では見えなくなります。

すなわち非物質となります。 それはそらの意識であり、すなわち意識の意識であって、自分が空であるという、空に一心を集中することによって、
 そのバイブレーションを上げることは可能です。ですから、意識の高い状態であるか、低い状態であるかです。

 問  そのように意識を高めていくと、例えば自分の肉体だけではなく、手に持っているものも気化出来るのでしょうか 

知花 消すことが出来ます。これは電気的にも可能です。ハチソンという人が、ニコラス・ステラの理論に基いてテスラコイルを創り、その電気的現象でもって振動を上げると、ハチソン効果といって、者が透明化して、硬い鉄が柔らかくなりますが、

それをもっともっと上げていくと、今度は目の前から消えていきます。それはその振動波動の手掛かりとして、電圧の高さや低さでこれは可能となります。

ですから、それは非物質化も物質化も電気的現象であっての物であって、その他の何者でもありません。 

問 それは実用化される見込みはあるのでしょうか。

 知花 そうです。実用化されます。それも近々に出来るでしょう。その低い状態の実用化は、もう皆さん方が日常生活で使われている電子レンジです。

 あれは火で炊くものではなくて、電子レンジの中で原子と電子を振動を起こさせて、振動の摩擦熱でもって物を炊くわけです。

 ものすごい速さで振動を上げているわけですから、あれは外から熱くなるのではなくて、内から熱くなるのです。

あのようなものはメガヘルツといって高い周波数が起こるのです。 

問 先程から、お話を伺っていて考えられるのは、例えば電子レンジの出力を上げていきますと、物は完全になくなることが出来るわけですか。 

知花 それは可能です。電子レンジは非常に面白いもので、ある一定の時間までは柔らかくなりますが、長い間置いていきますと、その電子レンジの中にある肉でも石のように固くなります。

炭素化してしまうわけです。それは一つの元素ですから、肉のようなものでも、もう歯も立たないカチカチになっていきます。  その炭素化されたものをそのまま続けていきますと、炭素ですから、火が出ます。そして燃えてしまって無くなってしまうわけです。即ち物質が非物質化になってしまいます。

 問 この世には時間も空間も存在しないということについて、もう少し詳しくお伺いしますが。 知花 エネルギーも質料も永遠ですから、減りもしなければ、多くもなりません。エネルギーも質料で永遠であり、永遠ある存在ですから、そこに年月があるはずがありません。

  そして、そのエネルギーと質料は全宇宙に満ち満ちていますから、空間もありません。見えるものや見えざるものも全てはエネルギーにして質料ですから、エネルギーと質料の存在しない空間はこの宇宙にはありません。  

ですから、この宇宙は無量寿の世界であって、人間が考えている世界ではありません。みな形としいう物差しでものを計るから時空間を感じているわけです。

  エネルギーである空もエネルギーと質料も不可視であるエネルギーと質料は遍満していますし、それは、見える質料になっているか不可視の質料かだけの違いです。

そのエネルギーと質料の存在していない所は存在しません。色も空も全てはエネルギーと質料です。そこに永遠しかありません。 

眠れる魂と目覚める魂 
何の目的で私達は生まれてきたのだろうか 

 あなた方は真の自己に目覚めるために、この世に生まれてきました。魂は金儲けに来たのでしょうか。総理大臣になりに来たのでしょうか。

   大統領になりに来たのですか。十階建てのビルディングを十個持つためにきたのでしょうか。日本中で一番の大金持ちになりましても、そんなに価値のある物ではありません。朽ち果てた魂ではどうしようもありません。  

魂であることを目覚めずに、肉体の人間としての生涯を終わるとするならば、その人の人生は、盲目の人生です。虚しい人生です。幻をいっぱい持っているわけですから、幻です。夢の中です。  

 ですから、あなた方は毎日夢を見ているようなものです。今日も、そして毎日、起きていながら夢を見ていることになります。分かりますか。  貴方の外念で考えていることは、真昼の間から夢を見ているようなものですから、この地上界の人間は、みな夢物語で語り合っているわけです。 

  殆どの人は夢物語の人生である 私までが夢の世界に紛れ込んでいるようなものです。しかし、私は皆さんとともに、その夢の中でこそこそする事はありません。ここは夢の世界であることをはっきりと私自身が悟っているからです。 

 そこに振り回されたり、夢に振り回されたり、悲しい思いをしたり、苦しんだりする必要はありません。夢であることが分かるからで、例えばあなたが夢を見ている時に、ああ、これは夢だと思えたら何も苦しくないようなものです。 

 しかし、この昼時時の今、ここに存在している事自体が夢であることが分からない人が多いのです。起きていて夢を見ています。この意味が分かりますか。 

  そのように人生は夢物語であるといえます。人生はドラマであるといえますが、その夢は長いわけです。しかし、永遠の時間からすれば、皆さんの一生という時間や人生は一瞬の出来事です。  

本当に一瞬の出来事です。あなた方が勝手に長く感じているだけです。一瞬の間で見る夢も、長い時間を感じさせますが、それと同じようなものだと考えればいいと思います。ですから、結構私はこの夢の世界を楽しんでおります。皆さんの夢の中に入り込んで楽しんでいるのです。  

皆さんに目覚めよ、目覚めよといつも呼びかけているのが私です。あなた方は血や肉ではありませんよ、姿形が貴方ではありませんよ。貴方は寛大な魂であり、寛大な大霊であり、生命であると、貴方は無限大ですよ、普遍大ですよ、といつも呼びかけているのです。

貴方は個人ですか、普遍ですか。この意味をよく考えて見て下さい。  個人というのは形体の中には必ず普遍なるものが宿っています。中を見れば普遍ですが、外を見れば個人です。あなたは今、どこを見て生きていますか。外側ですか。内側ですか。  

皆さん方は内側を向いているのですか。殆どの方は外を見て生きています。そうであるならば、個人があり他人があるように感じるのです。内なるものを見ますと、個人もなければ他人もありません。  

内には唯一の生命しかありません。唯一の霊があるだけです。唯一の神があるだけです。普遍があるのみです。ですから、個人は実在できません。 生命を小さな個体に幽閉しているのは誰か 個人の実体は即普遍です。ここにあるの木の葉は独自の生命を持っていはいません。

この一枚の生命は宇宙全体の生命とつながっています。  では、あなたの生命は大生命ではありませんか。宇宙全体ではありませんか。生命は宇宙大ではありませんか。宇宙大のあなたが、あなたです。 

 なぜ、この宇宙大のあなたを個人的な、こんな小さな個体に幽閉するのでしょうか。誰が宇宙大のあなたを個人的なあなたにしているのでしょうか。

  本来のあなたは宇宙大です。宇宙我です。普遍我です。大我です。生命は即大我です。あなた方は外から見る形を見るから個人だという思いになるのです。この「個人」をいう思いが、あなたをがんじがらめに支配しているだけです。この外念をぶち破らなければなりません。  

種の殻をぶち破らない限り、本来の我が生まれてこないのと同じようなものです。あなた方の今の外念をぶち破らない限り、本来のあなたは生まれてきません。外念の殻をぶち破ることです。即ち自我意識という外念をぶち破ることです。  

「我は血や肉に属する者にあらず」、われは大霊なり、大生命なり、宇宙なり」、これが宇宙意識であり、普遍意識であり、神意識というものですが、分かりますか。  

今まで、皆さん方一人ひとりの意識は個人であると思っていたはずですが、個人の実体は即普遍ではありませんか。この実体を皆さん方は意識しなければなりません。  

実在意識とは、普遍意識があるのみです。この木の葉一枚は全体の意識です。全体意識があるだけです。しかし、あなた方は自分は個人意識だと思い込んでいます。個人意識そのものが、あなたを自縛しているわけです。この宇宙には個人的意識はどこにもありません。  

ないものをなぜ作り出していますか。このことを迷妄といいます。また、ドグマというのです。ドグマ的(独断的)です。観念的です。その観念や、外念やドグマを捨てなければなりません。これを自己放棄といいます。自己放棄とした時に、自分を捨てた時の真の自己が生まれてきます。  

今まであなた方は一体何のことを自分だと言ってきましたか。形のことですか。大生命のことですか。あなたは大生命そのものです。魂です。「我は魂なり、我は生命なり」です。形ではありません。  

形が自分だと思っている限りは、肉体が自分だと思っている限りは、あなたは自縛です。種が「私は種である」と思っている限り、りんごの種は気には成長しないのです。目を吹き出さないのと同じです。

 意識の拡大とは何か イエス様は「我は血や肉に属する者にあらず」「我は生命なり」「我は霊なり」と言われました。これが意識の拡大という意味です。すなわち視野の拡大という意味です。  

では、あなた方の意識は拡大されているといえますか。個人だと思っている人間に意識の高い人はいますか。では、この地上界に意識の高い人はおりますか。   

意識の高い人は肉体の制限を受けません。制約を受けません。束縛を受けません。無碍自在の状態になった意識です。即ち宇宙意識です。寛大な魂というわけです。寛大な意識と寛大な魂とは同じことです。 

問 かなりSF的になりますが、日本にもキリストが来たと言って話をする人もいますが本当でしょうか?

 知花 事実、来ています。それはなぜかといいますと、彼には時間も空間もありませんから、日本とか、アメリカという意識はありません。自在の意識ですから、テレポートの出来る人がどこには来なかったか、あそこには来なかったというものではありません。   

問 世界各地で災害の前触れ等に、聖母マリアの像が涙を流したとか、あるいは実際に聖母マリアが話をしかけて来たというような現象をあちこちで見られますが、それはどのようなことに基づくのでしょうか? 

知花 それは全く無いとはいえません。現象は何でも作り出しますから、それは、全く無いとはいいませんが、そのような事があったからといって、何の意味があるのかと逆に私が知りたいのです。

 問 エジプトのピラミッドとか中南米には結構多くの遺跡文化がありますが、あれは、現代物理学でどのように創造したらよいのでしょうか。まだ分からないのですが、どのようなものでしょうか。

 知花 それは霊能力といい、すなわち宇宙のエネルギーを駆使する力でもって作られたものであって、現代科学の色々なもので作られたものではないということです。現にものとは必要なときには無重力といって、エネルギーと質料には重さがありません。

物とは今、いいましたように、鉄の塊でも空中に浮かすことが出来る波動の持ち主であればどんな大きな体積の岩でも、無重力にしてしまうわけですから、現にサイババ先生でも壊れたブルドーザーを四人で無重力にしてしまって、四人では抱えるように抱えたわけですから。  

そういう科学を超えた力は、その宇宙力を持っていれば当たり前のことであって、特別なことではありません。ですから、今の科学の物差しで、あれをどうして作ったとか、これをどうして作っているのといっても、それは皆仮説です。全く真実に相反するものです。 

問 フランスのルルドという所に泉があって、その水を飲めば病気が治るという話を聞いたことがありますが、その水は中性水と何か関係がありますか。 

知花 まあ、その水の性質によっても違うと思いますが、ミネラル水であるか、ゲルマニウムを多く含んだ水であるか、そこでたまたまある人が病気が治って、その泉の水が病気に効果があると、それを信ずる心を持った人達が沢山信ずるようになれば、そこに力を与えます。

そこは効力を発揮するものだと思います。効力を発揮すると、その水そのものが効力があるようになります。それを買う人の信ずる心が効力を発しているのです。それも一つの意識の問題ですから、どこに効力があるということは一概に言える人はいないでしょう。  

あなた方の飲んでいるお薬と同じです。信じて飲めば治りますが、信じなければ、治りません。 効果が出るというのとは同じことです。 

問 サイババさんが開けられてないままの封筒を封を切らないままに読めるという話を聞いたのですが、それはどういうことに基づくのでしょうか。 

知花 その文字の波動を読み取っているわけです。敏感な人なら誰でも可能です。例えば本でも開いてみなくても、どういう内容のものか書いてある事は触らずとも見なくても、ここに置いておれば、内容が殆ど分かるくらいの敏感さがあれば、分かるようになります。

 問 波動について、今、あちこちでも注目されていますが、もっと詳しくお伺いしたいのですが、例えば、大勢の中で一人だけ波動の高い人がいると、その全体の波動が良くなるということについて、一般的には変な気がするのですが。 

知花 波動が高いというのはエネルギーが高いという意味ですから、そのエネルギーは高い所から低い所に流れるのは当たり前のことです。ですから、一人の影響は全体の影響といえますから、同じ悪いもの同士は、類は類を呼ぶということです。 

 ただ、波動が低い者が高い所にいて、いい気持ちかといいますと、これはとんでもないことです。波動の低い者と波動の高い者とは波長が合いませんから、そこにおれば、例えば、波動が低い者が波動の高い所に行ったって、波動の低い者にとっては、そこは悪い所にしかなりません。 

 ですから、そのような波動は自分と波長が合うか、合わないかによって拒否反応を起こすか、受けるれるかです。それが磁場です。ですから、磁場が高いからといって、磁場の低い者がそこへ来たら、吐き気をもよおしたり、嫌気をさしたりすることはあります。

そうしますと、その本人によれば、その場は悪魔の場だというわけです。彼にとっては悪魔にしかなりません。 

問 仮に清里に来て、気持ちが悪くなるという方は、本人自身がそうなっているわけですか。 

知花 そんな人が結構いますよ。ですから、ここは悪魔かもしれません。と言われても、ものの取り方いかんですから、結構ではないですかとしかいいようがありません。 

問 逆にへんなネオン街とかに行きますと、元気になる人がいますか。 知花 そこと波長が合っているのです。 問 例えば、講義録にはわら人形の例えが出ていたのですが、悪想念を相手に送れば、簡単に相手を倒す事が出来るのですか。 

知花 そうです。その念というのは良いにつけ、悪いにつけ全てに働きます。しかし、最終的には本人に帰ってきます。池の中に石を投げますと一瞬はぱっと広がりますが、投げた後は、また、。中心に跳ね返って来ます。それが作用と反作用の法則です。これは諸刃の剣となります。 

問 よく人がやることですが、お札とか水晶に念を込めるというのですが、水晶や御札などに念とか波動は、籠りやすい性質を持っているのでしょうか。 

知花 性質を持っているというよりも、そこに念を入れたとか入れなかったとか、それを信ずる人の心によって差が出て来るといえますから、信ずる人からすれば、年賀入っているといえば、入っているというし、入っていないという人からすれば、全く空っぽにしか過ぎないのです。打ち消すことも認めることも出来ます。

 問 世の中ではそのようなことをよく暗示効果といいますが、それは全く別なものと考えても宜しいのでしょうか。

 知花 暗示作用です。一つの暗示作用と同じです。ですから、形あるものでさえも、これはパワーがありますと信ずる人には効果がありますが、信じない人には効果がありません。その波長は常に打ち消し合いをしているから、否定論になりますと、打ち消し合いですから、効力を失います。

 完成を高めるには 調和こそが完成である 完成を高めるといったり、あるいは自己完成といいますが、その完成とは何でしょうか。完成とはすなわち完全という意味です。完全性とは完成をいいます。その完全とは愛をいいます。  

愛は完全です。不調和は不完全です。完全を高めるとは愛を高めることです。愛深い人を完成の高い人といい、不調和の人を未完成といいます。すなわち完成がないわけで、すべての原点は不調和の人を未熟の魂といい、調和の取れた人を熟した魂といいます。ですから、我々が不調和では完成は高まりません。

「神が完全であるが如く、そなたたちも完全であれ」
という意味 

この世の中では病気が多くありますが、病気は完成が高いから病気になるのでしょうか。それとも低いから病気になるのでしょうか。愛は完全ですし、調和は健康の元です。この世の中に病気が多いのは不調和な人が多いといえる訳です。病気とは不調和の結果ですし、健康とは愛の結果と言えます。 

 なぜ神は完全かといいますと、愛なるが故だからです。「神が完全であるが如く、そなたたちも完全であれ」とは、「神が愛であるが如く、そなたたちも愛であれ」という意味です。病気は食べ物から来るという人がいますが。それは非常に低い次元の話です。食べ物からではなく、病気は不調和から来ます。不調和な人はどんなに良い食べ物を食べさせても健康にはなりません。

皆さんの本性は愛であり、愛がもしも無かったら物の存在は出来ません。愛は完全性の本源ですし、霊エネルギーのエネルギーと質料の調和で万生万物は存在しています。ですから人間とは何かといえば愛の結果といえます。霊と水飲結果、すなわち質料とエネルギーの結果です。水である質料と霊であるエネルギーとの調和がなければ物は存在できません。 

 神は愛なり 

神を大愛といいますし、あるいは大調和ともいいます。愛が全てを創り、愛が全ての中に宿っています。皆さん方の全ての原点は何でしょうか、愛です。

その結果は愛の現れにしか過ぎません。愛が無ければ現れるものは何もありません。この世の見える世界は愛の具現にしか過ぎません。ですから愛が様々な形を取って現れているだけです。では、実際にあるのは形でしょうか。それとも大愛でしょうか。

愛が無くても物は存在出来ますか。存在は出来ません。それ故に愛こそ絶対実在といえます。原点に帰るとは愛に帰るという意味です。すべての原点は愛であり、全ての愛から派生しているわけです。愛が全てを生み出しているわけです。愛は全ての生みの親ですから、今のような不調和では神に帰れないと思います。

 プロフェクト・バランスとは何か 

愛と高めるという言葉と、完成と高めるという言葉は同じです。我々は父なる神と母なる神といいますが、なぜ母なる神なのかといえば、それは水を象徴としているからです。女性は水を象徴とするわけです。そして、霊は聖なる火といい、火を象徴しています。すなわち火と水です。

元を正せば、これらの調和の全ての物は実在しています。ですから、このエネルギーと質料の調和が無かったら物は存在できません。では、あなた方の本性は人間でしょうか、大愛でしょうか。大愛です。全ては愛です。これを全き(またき)愛といいます。

全ては愛であり、愛の他には何もありません。愛の他に何かがあるはずがありません。なぜかといいますと愛が全てを創り、愛が全ての中に宿っているからです。形は様々ですが、唯一不二の大愛しかありません。これを大調和といい、大愛と言っているわけです。「神は愛なり、神は大調和なり」といえます。プロフェクト・バランスとはこの意味です。 

 成就とは何か 

完成を成就といいます。完成とは我々が愛を高めることであり、調和を高めることです。なぜ神が完全かといいますと調和だからです。あなたも完全であるためには調和そのものでなければなりません。

調和は完全ですし、不調和は不完全です。では、誰があなたの完成を高めることが出来るのでしょうか。自分以外にはおりません。愛深い人とはすなわち完成の高い人です。不調和な人とは未熟な人です。不調和な人のことを未熟の魂ともいいますが、熟成の高い人は愛の深い人です。愛情であり、人情です。

  「愛情深くあれ」とは、利己的でなく、愛の深い人です。その愛の深い人のことや、愛の高い人を気高い人といいます。ですから、世の中になぜ病気が存在するかといえば、愛で生きてるからでしょうか。それとも不調和で生きているからですか。不調和であるからです。

 完成を高めるには 病気は薬で治るものではありません  この世の中では、不調和になればなるほど病気は多くなります。今からご十年ぐらい前と今の病人の数はどちらが多いと思いますか。

どんなに医者が多くなっても薬が出来ても、病気は多くなる一方です。それはお医者さんや、お薬が病気を直すからですか。医薬品が進歩したとか、医学が進んだとか、お医者さんが沢山出てくれば病気はどんどん少なるなるはずですが、無くなっていますが、多くなっていますが。多くなっています。

  その病気の原因は、何であるかが分かっていないし、掴んでもいません。病気の原因が、お薬や、お医者さんがいれば治るのならば、お薬やお医者さんを多く作れば病気はなくなります。病気の原因がお薬やお医者さんでは無いから減りません。

  お薬が沢山出来れば、お医者さんが沢山おれば、世の中から病気が無くなるという考え方を持っている人が如何に多いかといえます。そうではありません。

「病気とは何か」と、イエス・キリストに問われた時に、何と言われたと思いますか。「不調和の結果」と言われました。病気は愛の結果でしょうか。それとも不調和の結果でしょうか。 

 では、健康であるためにはどうしたらよいのでしょうか。調和しかありません。健康であるためには調和でなくてはなりません。愛でなくてはなりません。    愛は癒やしのエネルギーです 健康は自分自身が持っています。

健康を保持するなら、病気になるのも誰次第でしょうか。自分次第です。では、癒やし主は誰ですか。自分です。病気治療は他力本願ではありません。自力です。これを自己治癒力といいます。愛は癒やしのエネルギーですその愛のエネルギーの事を神性エネルギーと言います。

すなわち愛のエネルギーといいます。ですから、愛が強くなりますと、人を癒やす力まで出てきます。  不調和の人が誰かに手をかざしても、その人の病気は治りません。不調和の人からエネルギーは出ません。不調和だらけの人が、他社の病気を治すことは不可能です。

自分の病気も治せないわけですから、本当に自分を健康にして、そして人を健康にするくらいの愛の力と、愛のエネルギーすなわち神性エネルギーを持つことが完成を高める意味ではないかと思います。  あなたがいることによって周囲の人達の病気が治るというくらいの愛と、調和が必要です。

 自分が不調和になりますと
自分の体内で化学変化が起こります 

プラス・マイナスの電気は常に化学変化を起こしています。プラス極とマイナス極はイオン化現象といいまして、常にプラスからマイナスイオンを送って、常に電気現象を起こしています。そのプラスとマイナスのバランスが崩れますと、そこには光も出ませんし、力も出ません。  

あなたが光る者となるためには、愛が光でしょうか。それとも不調和が光でしょうか。愛が光です。なぜかといいますと、プラスとマイナスの極が調和すると光が出るからです。

 この世の電気は神をある程度具現化した状態を意味していますから、自分の光を高めるためには、愛でなくてはなりません。  

愛は光なり・愛は力なり 光ある所に愛があり、愛ある所に光があります。光人間になるためにはどうすればよいのでしょうか。愛のみが必要です。不調和な人間から後光が出るのでしょうか。出ないのでしょうか。なぜ、イエス・キリストやお釈迦様から光が出たのでしょうか。愛を実践されたからでしょうか。不調和であったからでしょうか。  

愛であったわけです。「愛は光なり、愛は力なり」です。
 ですから、愛に勝る力はありませんし、愛に勝る光はありません。皆さん方が力ある者であり、光ある者になるためには、日常生活での愛を実践せねばなりません。

 愛に生きなければなりません。誰とも不調和を起こしてはなりません。愛ある所に光があります。

 ハルマゲドンとは光と闇の戦いをいいます

 光と闇の戦いとは、愛と不調和の戦いのことです。不調和の世界を何と言いますか。闇の世界といいます。愛の世界は光の世界であり、光明世界といいます。 

 あなたが光の中に住むためには光を誰かが持ってこなければなりませんか。自分が持ってこなければなりません。ですから、天に住むには自らが天を持って来なければならない意味はそこにある訳です。

少しでも人から言葉を掛けられないと、感情的になり、怒りっぽくなり、妬みっぽくなり、嫉妬深くなる人間から光が出るのでしょうか。光は出ません。そんな人は健康でしょうか。それとも、病弱でしょうか。病弱です。  

では、あなたの健康を保持するにはどうすればよいのでしょうか。
愛というお薬を飲めばいいのです。この愛というお薬は一銭の金も掛かりません。
 金は要りません。 あなた方の病気を治すには金が必要だという人がいますが、本当でしょうか。

病気を治すのに金が必要ですか、何が必要ですか。愛だけが必要です。ですから常に健康で幸せであるためには常に愛の日常生活でなくてはなりません。愛の一日を送ることが非常に重要かと思います。 

 愛はすべての原点です 

 全ての原点は愛です。原点に帰るためには不調和では原点に帰れません。「神の国は愛の王国」といいます。「愛の王国は光明世界」です。 今の自分は熟成が高いか、感性が高いか、それとも低いかを誰が一番知っていますか。

自分の完成は誰が高めるのでしょうか。自分以外にはいません。  完成を高めると人はよく言いますが、その完成が何であるかを知っている人は非常に少ないのです。

不調和の人は未完成であり、調和の人は完成です。不調和の世界を闇の世界といいます。そして調和の世界は光明世界といいます。  

では、この地上界は愛の世界ですか。不調和の世界ですか。今は不調和だらけの人人間しかおりませんので、闇地獄というわけです。 愛の世界は光明世界です。ですから皆さんの原点は愛ですから、その原点である本性を現せばいいのです。 

みな愛を宿しているのではありませんか。その大愛が全てを創り、大愛が全てに宿っているわけですから、愛がなければ具現できないはずです。エネルギーと質料が不調和でしたら、物は存在出来るのでしょうか。 

霊は光なり  私達の肉体は水です。それを動かす力は霊的力です。肉体自らは無ですし、生きてはいません。 皆さん方は肉体を救おうとしますが、肉体は救えるものではありません。本来は「霊を救う」のですが、その魂も迷うものではありません。     

皆さん方は魂に対しての理解力が非常に乏しいのです。魂は一切の力であり、一切の光です。一切の光というのは、霊光といいます。 魂は光輝といいますが、魂は闇ですか、光ですか、光です。これを内なる光といいますが、内なる光とは霊光をいいます。

 皆さん方の肉体は受動体ですが、光である霊を受け入れたら、皆さんの受け身である肉体は闇となりますか、無明体となりますか。光体となります。  

皆さんの肉体が光である光子体になったら災いは入りますか。入れませんか。災いは闇ですか、光ですか、闇ですが皆さんが愛そのものになったら、愛という光の世界に闇は入れません。  

光という世界に闇が入り込めるはずがありません。類は類を呼ぶといいまして、闇は闇を呼びますし、光は光を呼びます。光を呼び入れるためにはあなたが光でなければなりません。
 闇人間は色々の災いをどんどん引き付けます。光はどんどん良いことを引き付けます。 不調和は闇人間です。  

この世は未完成の世界です。あなたが完成して、今ここに存在していると思いますか。未完成だから生まれ変わってきたのですか。  

未完成だから生まれてきました。未熟だから生まれてきたのです。それを未熟の魂といいます。未熟の魂とは不調和の人間です。熟した魂とは愛の人です。愛の人とは光の人間です。  

この世には光人間と、闇人間が言えるといえます。不調和だらけの人間は闇人間です。愛の深い人は光人間です。 光るものとなるか、闇となるかは、あなたの日常生活で決まります。毎日が不調和だらけの者や、誰かと喧嘩をしなければ気の済まない人もいます。 

ですから、だれとも争わない絶対なる愛は絶対調和ですから、我々が愛しか知らない人間になったとしか、調和しか知らない人間になった時に、皆さん方は完成となります。完成です。  

不調和で完成が出来ますか、出来ません。ですから、あなたの周囲のあなたの気に入らない人や嫌な人がいても、その人を憎むべきではありません。

 罵ったり、けなしたり、非難したり、批判すべきですか。それは得をしますか。人を憎んだり、そしったりすることによって、あなたは得をしますか。損をしますか。損をします。なぜでしょうか。それはあなたが闇になるからです。  

不調和な者は本人が気付くまで放っておくことです  あなたの周囲に嫌がらせをする人がいても、それにとらわれなければ良いのです。放っておけばよいのです。あなたがその人に愛を求めることが出来ますか、出来ませんか。その人をあなたが変えさせることが出来ますか、出来ません。  

人の悪口を言って、人を良くしようとする人がいますが、それは良くなりません。そのことに本人が気付くまでは絶対に良くなりません。 そのことを責め立てたら、悪は増幅するだけです。

一つでも責めたとするならば、怒ったり怒り狂います。怒り狂ったら闇は少なくなりますか、それとも増幅しますか。増幅するだけです。ですから放っておけばよいのです。  

皆さん方が自分の周囲を明るくするためには、皆さん方が明るくすればよいのです。
「人を変えよう」ではありません。 自分を変えようではありませんか。

 自分を変える事以外は周囲を変える方法はありません。特に夫婦間の問題はそのようです。 
旦那さんが悪いから私はこうなのだと、奥様が悪いから私はこうしてるといいますが、誰かに責任転嫁をした方が楽だと思って、そんなことをしているのです。  

「あの人のせいで私はこうなっている」とかいって、責任転嫁をする自己保存の心がいかに多いかといえます。会社においても同じ事です。 

 会社でお互いに責め合った時、そのことは無くなりますか。闇や闇で消すことが出来ません。悪は悪で打ち消すことが出来ないことを知らなければなりません。  

不調和の世界を悪の世界といいます。調和を善といいます。ですから、この世の悪を克服するとは、この世の不調和を克服するとい意味です。悪に打ち勝つとは不調和に打ち勝つという意味です。 

 
イエス様の病気の治療方法

 本当に自分が健康でありたいならば、皆さん方は、すぐにでも健康になれます。その方法をお教えしましょう。

 朝、目が覚めたら、座禅を組んで、心を落ち着けて、頭の先から足の先まで光に満たされて、1点の曇りもない自分をイメージすることです。

 これを「光明思念」といいます。
 それが強ければ強いほど、その人は光明思念になれるのです。

 座ると同時に、それが出来るようになります。
 一ヶ月も訓練すれば、それが出来るようになるでしょう。そうするともう、病気は存在しなくなります。

「病気を、自分は認めない」というように、決して病気を認めてはなりません。認めている間は意識しているわけですから、自分の意識で病気を引き留めて、可愛がっているのです。

 それを否定して、光のみを肯定していくことです。
 そして、自分の病気を完全に否定した時、病気が治るのです。

 イエス様の病気の治療は、その方法でした。
 病人がどこが悪いといっても、病気であることを観ない。認めもしない。光だけを認められたのです。

 例えば「病気だ」という人を、私は病気だと認めません。「ここが悪いのです」といっても聞かないのです。
 「そうですか。そこが悪いのですよ」と私が認めたならば、もう病気は治りません。
 その人の訴えを聞き流すのです。

 私は光だけをイメージし、私が完全に光明化されて、私の手からその人全体に光が入ってい行き、その人が全体的な光となり、全部が光りに包まれて、細胞体全てが光に輝くということになります。

 その思念が強ければ強いほど、病気の治療が強いということです。
 
 イエス様は、それを「光一元」に信じてこられたので、色々な奇跡を起こされたのです。

 光明思念が強いか強くないかで、病気治療が可能であるか、可能ではないかが分かります。

 (私がこんなことをやっても治るのだろうか?)と思えば治りません。すでにそこで破壊をしているわけです。
 そして、(私がやって治ったのだろうか?)と思ったら、そのエネルギーは断ち切れてしまいます。せっかくのものが治らないのです。

 しかし、今与えたから、今治るとは限りません。に2~3日後に治るか、一週間後に治るか。いま治らなかったからといって、そこで、せっかくの光明を破壊し、「ああ、やっぱり治らなかった」と闇に返る人がいます。

 行ったら、それを破壊してはなりません。信念をどこまでも信じ込むことです。
 これが「神を信ずる姿、光を信ずる姿」なのです。

 自分の子供でも、誰にでも光明化を与えるならば、「必ず良くなるのだ」という「信念一元」において、決して破壊的な信念を起こさないことです。

 皆さん方はよく祈ります。(神様、助けてください)と。神様は「そうか、助けてあげよう」と頷かれます。
 しかし、あなたは(もういいのです)と断る。(私の祈りは聞き入られなかったのだ)と思ってしまうのです。
 そこで、神様は「そう思っているのなら、それでいいのですよ」と言われるのです。

 あなた方は、祈ることは上手です。
 「神様、どうか私を助けて下さい」」と祈りますが、しかし,(私の祈りは聞き入れられないだろう)と思い始めるのです。

 せっかく祈っていながら、その祈りを取消し、払い下げをしてしまうのです。だから、祈りは聞き入れいれられなかったということがよくあるのです。

 祈られた結果は、神の御心だけが知っておられます。即、与えられるものと、もう少し経ってから与えた用が都合がよいという場合があるのです。それを知らないで、一週間経っても変わらないから(もう駄目だろう)と、その祈りを払い下げをするのです。

 (もう、いいのです)と神を疑ったのです。神を試したのです。だから「神を試すことなかれ」という言葉が出てくるのです。

 皆さん方は、神を試しているのです。神を試してはいけません。 
 とことん信ずるのです。祈ったならば、「その祈りは必ず聞き入れられる」と信念を持つことです.それが祈りのコツなのです。


第四話 八名の指導霊は語り給う
もう皆さんの目は開かれつつあります
本物が觀えつつあります
今まで偽物に取り憑かれていた、支配されていた皆さんの心が、
その本源を觀ることによって、全てを理解し、全てを知る者となるその機会を、
今ここに、皆さんに与えられています。

これを「久遠の富」と申し上げます
あなた方のこの世の富は、消え失せる富です。
永遠なるものを手にしなさい。
神のものを、全て受け継ぎなさい。

大きな愛を観じなさい
自分自身が、愛そのものであることを観じなさい
その愛には、区切りもない、障壁もない、離別もない。
ただ、全て、すべての大愛そのものの象徴であり、具現であることを観じなさい。

私を観じなさい。
私とは「愛」のことです。
私とは「大調和」のことです。
もう不調和を起こしてはなりません。
もう本質から離れてはなりません。

誰も憎んではなりません。
怒ってはなりません。
悪口を言ってはなりません。
嫉妬をしてはなりません。
それが、すべて、あなたの苦悩の原因となっております。

愛の中には苦しみはありません。
苦悩はありません。
平安と安らぎがあるのみです。
我が身元に還りなさい。
愛する者共よ、還りなさい。

いまこそ愛に還りなさい。
我が元に還りなさい。
道は開かれています。
歩みなさい。
掴みなさい。

このテープが、多くの人に行き渡りますように。
あなた方は、このテープを持って、多くの兄弟姉妹に広げなさい。
真実を伝導しなさい。

大丈夫です。
皆さんは還れます。
必ず還れます。
それを知ることができます。

軽く目を閉じてください。
自分が大愛そのものであることを観じなさい。
実感しなさい。

「自分は大愛の中におり、大愛は我が身にまします」
「神は全ての中にまします」
「万象万物は神の中におり、神は万象万物に留まり給う」

そのことを実感しなさい。
それは、全て愛であることを実感しなさい。

おお、主よ。
この者どもに貴神の愛が満たされますように。
心の扉が開かれますように。
全身に貴神が満たされますように。
ここにおる者どもは、貴神の愛を観じます。受け入れます。
今こそ、貴神をハート(胸)に着座させ給え。

大愛と一体になってください。
大愛そのものになることです。
それは無限です。普遍です。
その愛を観じなさい。
その愛、そのものがあなた自身です。

愛には区別がありません。
別離がありません。
分離がありません。そのものです。
空間がありません。
年月がありません。
時間がありません。

久遠常在です。久遠常在の愛を観じなさい。
それなくして、あなた方はここに存在する事は出来ません。
愛するものよ。それを受け取りなさい。

観じなさい。
今こそ、私を受け入れなさい。
愛を受け入れなさい。
愛を受け入れる者は、私を受け入れる者です。
その愛を、はっきりとハート(胸)に開きなさい。

私と一体になりなさい。
私そのものになりなさい。
そうした時、私はあなたを通じて語り、あなたを通じて働くでしょう。
今こそ、心の扉を私に開きなさい。

今まで考えてきた先入観、自己、全てを放棄しなさい。
あなた方の今まで考えてきたものに、何ひとつだって真実はありません。
古い自分を捨てなさい。
そうすることによって、
あなた方は、今、ここで生まれ変わります。

父よ。
この者に光を与えてください。
あなたの光で満たしてください。

細胞一粒一粒が、神の愛で満たされています。
愛そのものです。
調和そのものですl.
神そのものです。

ここにご協力してくださいました、大いなる方々に感謝申し上げます。お力添え頂きまして感謝致します。
貴方のご加護で、なおいっそうあなた方の心と結ばれんことをお祈り致します。

この第四話は、八人の指導霊が私に語って頂いたものです。 

イエス様の病気の治療方法

 本当に自分が健康でありたいならば、皆さん方は、すぐにでも健康になれます。その方法をお教えしましょう。

 朝、目が覚めたら、座禅を組んで、心を落ち着けて頭の先から足の先まで光に満たされて、1点の曇りもない自分をイメージすることです。

 これを「光明思念」といいます。
 それが強ければ強いほど、その人は光明思念になれるのです。

 座ると同時に、それが出来るようになります。
 一ヶ月も訓練すれば、それが出来るようになるでしょう。そうするともう、病気は存在しなくなります。

「病気を、自分は認めない」というように、決して病気を認めてはなりません。認めている間は意識しているわけですから、自分の意識で病気を引き留めて、可愛がっているのです。

 それを否定して、「光のみを肯定」していくことです。
 そして、「自分の病気を完全に否定した時、病気が治る」のです。

  イエス様の病気の治療は、その方法でした。
 病人がどこが悪いといっても、病気であることを観ない。認めもしない。光だけを認められたのです。

 例えば「病気だ」という人を、私は病気だと認めません。
「ここが悪いのです」といっても聞かないのです。

 「そうですか。そこが悪いのですよ」と私が認めたならば、
もう病気は治りません。その人の訴えを聞き流すのです。

 私は光だけをイメージし、私が完全に光明化されて、私の手からその人全体に光が入ってい行き、その人が全体的な光となり、全部が光りに包まれて、「細胞体全てが光に輝く」ということになります。

 その思念が強ければ強いほど、病気の治療が強いということです。
 
 イエス様は、それを「光一元」に信じてこられたので、
色々な奇跡を起こされたのです。

「光明思念」が強いか強くないかで、
病気治療が可能であるか、可能ではないかが分かります。

 (私がこんなことをやっても治るのだろうか?)と思えば治りません。すでにそこで破壊をしているわけです。

 そして、(私がやって治ったのだろうか?)と思ったら、そのエネルギーは断ち切れてしまいます。せっかくのものが治らないのです。

 しかし、今与えたから、今治るとは限りません。2~3日後に治るか、一週間後に治るか。いま治らなかったからといって、そこで、せっかくの光明を破壊し、「ああ、やっぱり治らなかった」と闇に返る人がいます。

 行ったら、それを破壊してはなりません。
信念をどこまでも信じ込む」ことです。
 これが「神を信ずる姿、光を信ずる姿」なのです。

 自分の子供でも、誰にでも光明化を与えるならば、「必ず良くなるのだ」という「信念一元」において、決して破壊的な信念を起こさないことです。

 皆さん方はよく祈ります。(神様、助けてください)と。
神様は「そうか、助けてあげよう」と頷かれます。

 しかし、あなたは(もういいのです)と断る。(私の祈りは聞き入られなかったのだ)と思ってしまうのです。
 そこで、神様は「そう思っているのなら、それでいいのですよ」と言われるのです。

 あなた方は、祈ることは上手です。
 「神様、どうか私を助けて下さい」」と祈りますが、
しかし,(私の祈りは聞き入れられないだろう)と思い始めるのです。

 せっかく祈っていながら、その祈りを取消し、払い下げをしてしまうのです。だから、祈りは聞き入れいれられなかったということがよくあるのです。

 祈られた結果は、神の御心だけが知っておられます。即、与えられるものと、もう少し経ってから与えた用が都合がよいという場合があるのです。

 それを知らないで、一週間経っても変わらないから(もう駄目だろう)と、その祈りを払い下げをするのです。

 (もう、いいのです)と神を疑ったのです。神を試したのです。
だから「神を試すことなかれ」という言葉が出てくるのです。

 皆さん方は、神を試しているのです。
神を試してはいけません。とことん信ずるのです。
祈ったならば、「その祈りは必ず聞き入れられる」と信念を持つことです.それが祈りのコツなのです。


心配して善いことはない

 「心配」「不安」「恐怖」は、破壊です。
 その破壊的思念を送っていながら、子供を愛している、夫を愛しているというのは「口先だけの愛」というものです。真実においては愛ではないのです。なぜならば、殺しているからです。

 私達は神理を学び、神理を知って、その通り神理を実行した時、真の愛が出てくるのです。それを「育愛」といいますが、皆さん方のいうのは「盲目の愛」で、物事を知らない愛が殺人を犯すわけです。
 そういう事にならないように、一生懸命気をつけなければなりません。

 あなた方の日々の生活で、この思念力が使われているのです。これは、あなた方の想像を超えるもので、五感で判断出来ない、想像の力があるのです。
 
 善なる建設的な想像の思念を送っているか、それとも破壊的思念を送っているかで、その子を殺すか、親を殺すかということになります。

 送っている方も、いい気持ちではありません。なぜならば、罪を犯しているからです。心配をして「いい気持ち」という人はいません。罪を犯しているからです。

 あなたの良心が(嫌、嫌)と言っているのです。(こんなことをしてはいけない)とあなたに警告をしているから、あなたは胸騒ぎがして胸がドキドキして心配するのです。

 恐怖を感じている時、心配している時、胸がスッキリしているという人は、一人もいないはずです。神の法則から外れているからです。
 法則に準じて生きているならば、常に胸がスッキリしているはずです。

 心配していて、爽やかであるはずがありません。
 なぜならば、殺人を犯しているからです。これは、あなたの「自我」なるものが犯しているのです。

 「神我」なるものは、(こんなことをしてはいけない、いけない)と、警告を与えるから胸苦しくなるのです。

 「心配すると、いつも胸が苦しくなる」といいます。よく心配する人は、神経性胃炎にかかります。これは、心配の人殺しが激しいからで、とうとう「反作用の法則」で、自分が殺されるのです。
 
 自分に跳ね返るのです。「常に胃が痛い、胃が重い。こちらに何か塊があるみたいだ」という人は、常に悪思念を人々に送っているからでしょう。

 心配して善いことが起きるのでしょうか。よく考えてみてください。
 「心配して善いことはないのだ」と、そう知りながらも心配する。

 そのことを「罪」として、「悪」として、自覚していないからです。
「どれほど相手に悪影響を与えているか」ということを知らないからなのです。


想念体の力を知ること

 私の場合は想念体の力というものを知っているので、それが恐ろしいのです。(世の中はみんな害虫なんだな)としか思えません。

 悪想念体の入り乱れた網の目のように、この地上界は想念体が入り乱れています。正しい光明思念というものが、今は本当に少ないのです。
 だから、世の中は混乱し、悩み苦しみます。病気というものも、みんなそれから作られてゆきます。

 想念体は、その本人一人だけに行くのではなく、永遠に、この地上界を回っているのです。
 みんながそれを持っていて消さないかぎり、一秒間に地球を七回半回るほどの速さで、悪想念は回ります。

 その中で、同じチャンネル、波長を持っている者がいれば、それにぶつかるのです。
 あの人にぶつかり、この人にぶつかり、それが何名殺したかということになります。その事を、皆さんは知らないのです。

 悪をばら撒き、闇をばら撒き、破壊的念を、思念を、想念体をばらまくのと一緒なのです。

 人間一人一人の悪想念が今度は何の罪になるか、何のカルマになるかということが、地球のカルマになります。そうなると、地球のカルマは悪想念に満ちていることになり、地球人間は、いい気持ちで住めるはずがありません。

 今こそ、その事が悟れないとか、悩み苦しみから開放されないということは、悪想念体が多いからです。
 光明思念が少なすぎるのです。その悪影響を付けて、その苦しみや、不安や、心配、恐怖から開放されないのです。

 その神理を知ったのなら、それらを受け取らないような受信機のようにならねばならないのです。


光明化をイメージする

 朝、起きて、五分でも良いのです。もっと時間が取れるならば、寝床の上に座って、光明思念をすることです。
 そして、まず、自分から光明化をはかります。

 大宇宙の中心より「神の光明」の、大きな光のカプセルを頂くのです。
 光のカプセルが自分の中に入り、自分が黄金の仏像のように、輝いていることをイメージします。
  
 自分だけが救われれば良いのではなく、これを徐々に広げてゆき、家の内外、全体が黄金に充たされることをイメージします。そして、家全体がイメージ出来たなら、次に屋敷全体が光に満たされているイメージをするのです。それを毎日やっていくと、偉大なる光明思念となります。
 
 自分の家族だけでなく、隣近所まで広げていくのです。
次には、町内中に広げていき、その光の広がりを拡大していくのです。
そして、ついには日本全体の光明化をはかるのです。

 しかし、これだけではすまないので、今度は、今度は、地球の上に自分が座って、そこで光明化をはかっているというイメージをして、上から宇宙からの光を仰ぐように、イメージしていくのです。

 これは地球の光明化です。全人類の光明化思念を送ることになるのです
 それを知らないので、光明化のイメージが出来ないのです。


光の治療で病気が治る

 光明化思念を日々の生活の中で活用していくことでは、肉体細胞が輝かしい光明なる思念を持った生命体となることです。そうすると、病気は存在しなくなります。

 それは。病気治療に大きな効果があります。
 例えば、病人がいたとします。
 しかし、その病人を認めてはいけません。病人だと認めたら、闇を認めたことになります。絶対に、病人だと認めないこと。1点だって認めてはいけないのです。

 そして、座って光明化を頂いて、その人が頭の先から足の先まで黄金に光っている。白光に光っているという強い思念を送り、その人の肉体が黄金に輝くイメージを作ります。

 完全に足の先まで光っていることをイメージ出来るまで行います。
 そうすると、肉体細胞の今までの黒い部分が押し出されて、その部分がなくなるのです。

 黒い部分、つまり闇の部分が病気なので、その闇が光に押し出されて無くなるのです。
 これを、「光明思念治療法」といいます。光明思念に対しては、誰にでもその能力があるのに、毎日の生活で使っていないだけなのです。

 不良化した子供さんがいたら、その子供さんを4~5分でも良いから座らせて、光明思念を送ることによって救うことも出来るのです。

 光明にされると、細胞体、意識、心までも黄金に輝くので、悪いことが出来なくなるわけです。

 皆さん方は、自分の病気を、完全に自分自身で断ち切る事ができます

 肉体は「想念体」なので、光明化を願って、頭の先から足の先まで光り輝いた、曇り気一つない、
神々しい輝かしい光のイメージを一日二~三分、あるいは四~五分、毎日できたとするならば、永遠に健康で過ごすことが出来るでしょう。

 あなた方の細胞を傷つけているのは、あなた方の思念力の誤用です。細胞体が汚れてくるのです。その思念力が闇であれば、闇が入ります。

 光であれば光が入ります
 「反作用の法則」なので、誰であっても傷つけてはなりません。

 あなたが人々に光明を送れば、光明思念はあなたに返る
闇思念を送れば、闇思念が返るのです。

 あなた方が人々に光を送るようになり、地球の地上界に送るようになった時、皆さん方の心はスッキリするでしょう。この心がどこから出てきたんだろう)という喜びを感じるでしょう。

 なぜかといえば、神に仕えているからです。神の御心の中に生かされているからです。神の光の中に生きているからなのです。

 これが、真の人間の生き方なのです。
 しかし、今、皆さん方は道を間違えています。
 悪に生きようとしているのです。闇に生きようとしているのです。

 それは、。あなた方の思念が間違っているからで、悪思念によって生きようとしているからなのです。
 悪思念から光明思念に返ることによって、毎日の生活環境全てが変わるのです。

 こういうことがよくあります。
 写真家が光明思念のビジョンを描いてシャッターを切った時、色々な写真に光が現れます。
 写真の中に光が写るでしょう。その光が出るという思念力でもって、写真をごまかすことが出来ます。

 写真を撮る時、(あそこに光がある)という念力が強ければ、いくらでも写真に光を映すことが出来るのです。
 それを「神様の写真だ」といって、売り物にしている人もいます。
 
 色々な所を撮って、「私が神様を呼んで写真を撮ったのだ」という。
 しかし、それは光明思念でもって光明を撮っただけで、神様の働きではありません。その人の、自分の念の力なのです。

 それを商売にするために、人を写す時、念力でもって光をイメージして写真を撮り、それを見せて「私は神の力があるのです」といって、それを売り物にしている人がいるのです。

 その光を写す事は、皆さんにも出来ます。
 光明思念を働かせることによって、誰にでも可能となるのです。
 念力を悪用して金儲けをしているだけで、何の力でもありません。

 真の幸せのために、その力が使われたのならば本物です。
 しかし、個人の金儲けのために、「あなたの守護神様を写してあげましょう」とかいって、その人の頭の上に光をイメージして写す。

 そうすると、「本当にこの人は神様なんだな。神様を呼んで写真を撮ってくれたんだな」という事になってしまうわけです。

 カメラ自体にトリックがあるのではありません。フィルムそのものにも、トリックがあるのでもありません。その人の思念力で光明を描いで、その念力によって、光明が写しだされるのです。

 それを悪用した写真をみせられて、みんなが信じ込む。これを「霊的悪用」といいいます。
 霊的悪用をする者が、この世の中にはワンサカといます。

 神様は、神の力である念力を、正しい方向に使うことを喜んでおられます。
ですから、自分個人の悪用方面に使わないようにして頂きたいと思います。


闇的思念は自己破壊を招く

 自己破壊とは思いです。思念力です。これをあなた方は日々、毎日の生活の中で行っています。
 あなた方は何を思っているのでしょうか。
 暗い思いをしているのでしょうか。明るい思いをしているのでしょうか。
 それで、その人の環境や肉体の状態のすべてが変わるのです。

 皆さん方が不健康であるということは、必ず、自己破壊をしているのです。
 例えば、女性の方が「乳房が少し痛い」と感じた時、小さな1点の痛みを自己破壊によって、
(大変なことになった。これは乳ガンではないだろうか)と思い始め(ひょっとしたら、乳房にグリグリが出てくるのではなかろうか)と、乳房にグリグリを想像するわけですから、そこにグリグリが出てくるのです。

 (これはきっと大きくなる)と、さらに自分で大きくするのです。(これはきっとガンかもしれない)と、今度はガンをイメージするのです。闇的、破壊的イメージをするのです。

 そうすると、そのグリグリが卵大の大きさになっていく。そして、とうとう私は癌になってしまった)と思い込み、病院の診断の結果、医者から「ガンです」と言われるのです。

 (ついに、私の思い通りになってしまった)と思うようになるのです。これは自分で作ったのです。

 あなた方は、実際に、超能力者なのです。自分の病気を、自分自身でどんどん作り出すのです。これを「闇的思念」といいます。

 皆さん方は「どれだけ自分の肉体を破壊しているか、どれだけ自己破壊しているか」ということを知らなければなりません。

 自己破壊しない人が病気であるはずがありません。
 「いいえ、私は自己破壊的なことを思わなかったのですが、病気になってしまったのです」という人がいます。それは、おそらく嘘でしょう。

 病気を気にして、破壊的イメージを持ったなら、その人は必ず病弱の状態です。なぜならば、悪思念を自分自身に送るからです。
 (私はこうであるから、こうなるんだ)というようなイメージをして、自己破壊をするのです。

 血圧の高い人は心臓がドキドキし始めたら、(ああ、首筋にきた)(ああ、頭にもきた)と、既にイメージして自分で動かすのです。

 全部、自分が作り出すのです。そして、病気を動かしているのです。
 その悪思念を動かして(もう私は倒れるのではないか)と思い、そして倒れる。

 倒れる状態を自分の悪思念でもって、そういう具合に作り出しているのです。そのことを知らないのです。

 血圧が上がっても、気にしない人がいます。平気で仕事をします。
 「私はこんなに血圧が上がっても平気ですよ」という人は平気です。あるいは、150でフラフラして倒れる人がいます。

 180でも倒れない人がいるのに、なぜかというと、それはその人の思念力によるもので、「私は150では駄目なんです」という人は倒れてしまうのです。


光一元をイメージする

「信念の強さは岩も押し通す」といいます。その信念の強さによって、皆さん方が「光一元」の光明思念を持つようになったなら、この世は光明化されるのです。自分自身が光明化であると同時に、世の中をいくらでも光明化することが出来るのです。

 朝、五分でもあれば、完全に光り輝くイメージをして、皆さん方のご先祖(肉体先祖)までも、その光のカプセルで被せることが出来るのです。
 
 そうすると、ご先祖(肉体先祖)は喜ばれるでしょう。高いお金を払って、お坊さんや拝み屋さんを頼んできて、お金と暇を費やす必要はないのです。

 光明思念は、どこにだって届くのです。それを、皆さん方は知らないのです。
 毎日の生活の中で、光明思念を使うようにしていただきたいと思います。

 友達に困っている人がいたならば、その友達の方へ年を向けて「光一元」をイメージして、その人の頭から足の先まで光り輝いていることをイメージすると、
その友達は、(今日はなぜか身体が軽い、気持ちがいい)と、即、思います。あなたが念じた瞬間、友達はそう思っているのです。

 念がそこに行っているのです。
 そして、数日後にその友達に会えば、友達はきっとあなたに声をかけるでしょう。
 あなたから光明思念がきたことを、潜在的に知っているからです。

 その逆で「憎い!」と思念を送ったならば、真っ黒いものが相手に行くのて、破壊的になります。後日、その人に会ったとしても、横を向いて知らん顔をして通りすぎてしまうでしょう。
 ですから、話をすれば影とやら、思いはどこまでも通じるということです。

 思念力というものを、皆さん方はまだ信じておられません。だから、「思念の悪用」ということになるのです。
 「自分の身内を者を殺していることを知らない」ということがいえるのです。

 身内の者が病人で、とくに重体であればあるほど、虫の人が看護してはなりません。少しでも悪くなると、破壊的思念を送るからです。
 
 しかし家政婦さんは身内ではありませんから、病人が痛かろうが何であろうが悪いイメージは作りません。彼女は仕事ですから、身内の者のようなイメージを作らないのです。

 心ある身内の者は思念を送るかもしれない。しかし、彼女にはその心がないのです。

 「思念の活用」ということを知らない無知なる人間には盲愛というものが働きます。従って盲愛が強ければ強いほど、その人を破壊するということを知らなくてはなりません。それは、真の愛ではなく、破壊的な愛です。

 それを「盲愛」といいます。「盲愛はどれほど破壊しているか」ということを知らなければなりません。
 
 皆さん方の真の愛は、光明思念の中にしか存在していません。闇なる、悪なる思念の中で行っているのは、盲目の愛、盲愛なのです。

 だから、それは「闇的愛」なのです。
 そういうことにならないように、その「光明思念」とは何か。「闇的思念」とはなにかを、ハッキリと知って頂きたいと思います。

 あなた方が、今日、この話を聞いて、闇的思念と光明思念との選別が完全に出来て、本当に光明思念のみに行きられるようになったならば、あなたは今日からでも幸せになります。

 今日から光明思念を送れば、今日、即、あなたの心が安らぐのです。

命としての細胞体

 「このミカンは、あなたになりますか」というと笑われるかもしれませんが、ミカンはあなたとなるのです。みかんを食べると、四~五分から十分後にはあなたの細胞となり、ミカンはあなたとなるのです。

 みかんを食べ、りんごを食べ、あなたの食する物があなたとなり、あなたの食べるご飯があなたとなり、米一粒一粒の命があなたの細胞となり、その粕だけが排便されるのです。
 
 食べた細胞体は全て、あなたの細胞体となります。
 ですから、命としての細胞体は、米の細胞体も、ミカンの細胞体も、リンゴの細胞体も、あなたの細胞体と同一であるということです。

 食べ物に対して「ミカン様、リンゴ様、あなたをいただきます。あなたは私となります」という思いで食べたならば、細胞は一粒だって殺すこともなく、やさしいミカンやリンゴの細胞体を頂くことが出来るでしょう。

 そうした時、新陳代謝が生まれるのです。今までの汚れて疲れきった細胞体が、リンゴの優しい細胞体によって生まれかわるのです。

 果物を多く摂ることは、健康的にも病人にも善いと教えるのもその一つです。なぜならば、果物の細胞体は、非常に細かい微妙な細胞体です。果物を多く食することによって、もちろん、私達の肉体細胞が新陳代謝を行なうのです。

 食べ物よっては、荒くもなるし、細かくもなる脂肪分の多い物を摂り過ぎると、肌荒れも出てきます。若さや美しさを長く保ちたいというならば、食べる思念力によっても、随分違います。
 
 食べる時、必ず、その食べ物を見ることです。(ああ、これが私となるのか)という思い、そして(これが私の細胞となるのか)という思いで頂くと、完全消化が行われるのです。

 イヤイヤながら食べると、いの中で腐敗が起こり、そして、下痢を起こしてそれを出さなくてはなりません。その食べ物を受け付けなかったからそうなるのです。

 だから、食事をする時に文句をいう人は、常に下痢気味です。細胞が良い方向に受け付けないからです。
 物に対して、命があるということを知らないからです。

 そのことに心から感謝し(これに命があり、全てが細胞体なんだな。私の血となり肉となるのだな)という思いで食し、心から一体化がはかれるようになれば、完全消化が行われるのです。

 そうなると、一日一食で平気でいられます。
 そのことを知らないので、3食食べる。肉欲で食べているので、食べても食べてもお腹が減って、一向に栄養にもならない人もいるのです。
 
 しかし、ほんとうに感謝の気持ちで、質素な食事でも完全消化が出来たのならば、皆さん方は一食で生きられます。

 私は、殆ど一食です。毎日一食ですが、健康の維持が出来ています。
 食べても食べても肥らないという人は、あまり物に対しての感謝、理解というものがなされていないのです。

 食べる時の心構えというのは、もちろん、物質は物質エネルギーで合成されていますので、その時に(我が食する物は母なる神にお返しします)という思いで、食事をすることです。


過ちを悔い改め魂を向上させる

過ちを犯す。これも一つの体験です。皆さん方は過ちを犯すという体験をして、初めていい方向に進展していくわけです。

 過ちを恐れていてはいけません。過ちがあるからこそ向上できるのです。「ああ、これは過ちだ」という時に学び、答えが出てくるのです。

 あなたが過ちを(このことは過ちであった、すまなかった)と認めた時、これが「悔い改め」です。
 そうした一つ一つの過ちを「悔い改める」ことによって、貴方の魂は無知から知恵のあるものに進展していくのです。これを「魂を向上」といいます。

 過ちを過ちと思わないで、そのまま抱きかかえて生涯を終える人もいます。
 私達の結果として表れている、その試練に乗り切る事ができず、過ちの泥沼の中で泣き言を言って、生涯を終える人もいるのです。

 しかし、「即座反省」といって、過ちは過ち、正しいことは正しい、即座反省を持って過ちを乗り切った時には、一段階、あなたの魂が向上するのです。

 過ちがなければ、学ぶことは出来ません。いかなる科学者にも過ちがあり、失敗があるので「何故失敗したのか」という原因を追求して成功があるのです。

 「失敗は成功のもと」という言葉があります。正にその通りです。
 今後も、あなた方に過ちがないとはいえません。しかし、過ちがあなたを高めます。失敗があなたを高めるのです。

 「こういうことがあると、こういうことになるのだな」ということを、あなたが学んでしまうのです。

 いかなる失敗も「失敗は成功のもと」です。その試練に泣き言を言うのではなくて、「ああ、これは私を高めるための前提なんだな。この答えを出して百をとってみよう」

という意気込みで過ちを反省して百点を取って、「こういう具合にしたら救われたのた」という答えを出すことが一番肝心なのです。

 皆さん方には毎日、宿題が与えられています。
 失敗します。そうして解けなくなると、「なぜ、自分だけが苦しまなくてはならないんだろう」と、「神様はいないんだろうか」というのです。

 答えは、自分で解かなくてはなりません。
 「その原因が結果として現れている」「何が原因で結果が現れたのか」
 原因が答えですから、原因が分かった時、その問題が解けるのです。それなのに皆さん方には、問題だけを捉えて泣いているのです。

 それを「泣き言」と言います。
 ですから、「このような結果になるのは何が原因しているのだろうか」と答えを出さなくてはならないのです。

 答えを出した時、救われます。即座に救われるのです。その積み重ねが皆さん方の毎日の修行です。

 もし、皆さん方が答えを出さなかったら、それは、来世に持ち越します。「輪廻」と共に「カルマ」は持ち越されるのです。答えが出されていない時には来世があります。この世にもう一度、落第せねばならないのです。

 学校でも同じことです。勉強もせず努力もしないで、ゼロ点ばかり取っていれば、落第です。それが出来るまで繰り返されます。

 この地上界で、「原因と結果の答え」が出しきれなかったら落第するのです。百点が取れるまで繰り返されるのです。

(※「原因と結果の答え」を見つける最短の道は「真理を徹底的に理解する」事です。真理自体が「正しい答え」だからです。

 「答え【真理】」を知らずして答えを解くのは難しいと言えましょう。
まず「正しい解答(宇宙法則)」を知る事が始めの一歩ですよね。

 カルマの消滅に一番の近道は「真理の理解」ですよ…とをいっている理由はそこにあります。ヒーリングをせずとも、真理を完全に理解して…正しく実践出来れば、カルマも消えますし、病気さえ治るかもしれません。

 「悟りとは理解」、「真理の理解」こそが「悟り」なのです。
覚者・上江洲義秀先生も
真理を理解した時に、皆さんは全ての全ての悩み、苦しみから開放される事において、真理は汝を自由ならしめん」と言います。】という風に仰っておられます。

 結果を見て、原因を追求し、これは何から出たものだと、すぐ「即座反省」で答えを出していく人と、一つの問題に泣き言を言って、何十年も苦んでいる人がいます。

 「答えが出せない出せないと泣き言を言って、その泣き言を取り上げない限り、答えを出さないかぎり、それはあなたに永久につきまとうということです。

 これを「カルマ」といいます。「業」ともいいます。
 それがつきまとっています。なぜならば、答えが出されていないからです。

 お分かりいただけるでしょうか。あなた方は、毎日が勉強であり、学びです。その学びが、あなた方の日常生活の中にあるのです。

 だから私はいつも、「あなた方の修行の場は神社や、教会や、仏閣の中にあるのではない。あなたの家庭の中に、職場の中に、社会の中にあるのだ」と、申し上げているのです。

 「こういう結果になるのは、何が原因しているのか」、その問題を解かなくてはなりません。「原因結果の法則」です。

 これが分かるようになると、「こんな問題か。これはこの原因からきているから、原因はこれだったのだ」と、すぐその過ちが見いだせるのです。

 それをとりなした時、答えはすぐ出るので、開放されるわけです。
 もうこれで、あなたを苦しめるものはありません。

 よく気を付けてください。
 あなたの目の前に問題があります。子供に対しての問題、旦那さんに対しての問題など、いっぱいあります。

 それなのに問題を解かないで、自分だけは「いい子になりたい」と思っているのです。

 「不調和である者は、何が原因で不調和なのか」、その答えを出した時に、子供は「いい子」になります。その答えを出した時は、旦那さんは「いい旦那さん」になるのです。

 答えが出ない間は、悪い子供であり、悪い旦那さんです。その意味がお分かりいただけるでしょうか。
 「原因と結果の法則」なので、日々の生活の中で、どんどん答えを出せるようになるとしめたものです。もう、百点満点です。

 特に申し上げたいのは、光明思念の訓練をして頂きたいということです。
 闇なる思念を送らないよう、破壊的な思いを起こさないようにして、毎日の訓練によって、本当に健康そのもの、光そのものの肉体を持つことが出来ます。

 それは。アナタ次第です。例え五分間でも目を閉じて、自分の頭の先から足の先まで、内臓もピカピカ光り、腸がピカピカ光っているような、黄金の自分をイメージする事によって黄金の自分になるのです。

 今までは、まったく逆だったのです。肉体的な自分をイメージして障害のある自分、病気のある自分をイメージしてきました。
 だから、幸せにならなかったのです。
 だから、健康にならなかったのです。

 皆さん方が幸せのイメージを持ち、光明思念が強くなればなるほど、世の光となることが出来ます。
 これを「世の光」あるいは「世の太陽」といいます。
 
 例えば、バスに乗った時でも、そのバスを浄める事もできます。自分の行く所、全てが清めとなります。

 私は、よくバスに乗ります。バスに乗り込んだ時、光溢れんばかりに、そのバスを清めていることをイメージします。そうして車内を見渡すと、乗客の皆さんがニッコリしているのです。光の波動に打たれているのです。

 バスに酔って吐き気をもよおしていた人も、ニッコリ微笑んでいます。その光でもって、そのバスが清められるからです。

 いかなる所へ行っても、あなたの光明思念が強くなれば、恐怖するものはありません。あなたに、闇なるものが存在していないからです。
 
 あなたの家屋敷の清めも、簡単にできます。光をイメージして、家屋敷の隅々までイメージして、一杯に光り輝く白光の中に自分の家屋敷を包み込む事が出来るのです。闇なるものが追い出されて、光明そのものの家屋敷になります。

 これは、真の家屋敷の清めです。真の自分の清めです。
 そういう光明思念を、皆さん方に持って頂きたいと思います。

 これが出来る様になると、困っている人がいれば、その人をイメージして、その人に光明を送ることが出来ます。その人をイメージして、ビジョンして、救うことも出来るのです。

 遠くにいようが、どこにいようが構いません。地球の裏、南米にいても出来るのです。
 それが皆さん方に、時間、空間、距離のないことを体験されるでしょう。



ディバイン(神性な)ヒーリングで
イエスご自身が語られた御教え
オーバシャドウ(真の神憑り)されたイエス様のお話

2、愛は全宇宙の中心です。そして、この中心から、途絶えることのない愛の流れがすべての魂を通じて、また、生きているもの全てを通して流れ出ています。

 花を通して、動物を通して、人間と天使を通して、この同じ愛が、中心の泉から絶え間なく流れ、愛の本質を永遠に現しています。

3.愛は鉱物における親和力です。愛は花における本質です。愛は動物の本性に現れています。
 
 人においては、愛は愛情として現れていますが、完全に自覚(全てに神を観る・真我覚醒)されるとその人の存在全体が愛に満たされ、体の中のすべての細胞が活性化されるのです。

4.世には、愛(宇宙エネルギー)以外の力はありません。愛は天と地における、唯一の真の力です。
 なぜなら、愛は永遠であり、どこにでも、常に存在しているから(神は全てに遍満する大愛・大生命)です。

 外なるものは消え去りますが、愛は永遠に存在します。なぜなら愛は神が偏在しておられるものだからです。

5.愛についての理論付けというのは、愛の精神面だけに過ぎません。愛とは何かということを理論づけすることは、愛の力をなくしてしまうことです。

 あなたがたは、「愛という無限の生命」によって造られているのです。このように理解し、認識する時、愛はその本質を現します。
(※魂の光輝・イルミネーション・光る者となります)


己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。
貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です

 愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、自分の中にも他人の中にもある愛の光(無限の生命・真我)を見つめる事にあります。


私の言葉は、天から来ます

43 あなた方について、私の語る言葉と私のハートの考えは父を喜ばせます。

44 つまり、あなたがたが、すべての命の間を次々と動き回っている私の父の最高の現れとなって、光を放ち、胸の奥にある平安を現し、それによって、無意識に神性を現すように、ということなのです。

45 この心の中の平安というのは、大いなる謙虚さだと分かることです。

 けれどもこの謙虚さは、崇高で、
私は自分では何も出来ません。なさるのは、私の中に留まっておられる父です。父が御業をなさっておられるのです」ということなのです。

46 このように、あなたがたは無意識に神性を現します。あなたがたがどこへ行き、何を言っても、何をしても、あなたがたは無意識に神性を現します。その結果、他の人があなたがたの言葉と行動で助けられるのです。


イエスご自身が語られた御教え
声が天から聞こえました

94 ハートを尽くし、精神を尽くし、心を尽くして、あなたの神なる主(大生命)を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい
これが、人類の礎を築く基となる法です。

95 放蕩息子のたとえ話の中に父の愛が示されています。息子が放蕩し、悔い改め、自分自身、すなわち真の”霊”的状態を取り戻します。

 まず、艱難辛苦を経験して、相続財産を使い果たします。そこで、雇い人の一人となるのをいとわず家に帰って来ますが、今までずっと息子だったので、やはり息子となります。

96 父の愛はあまりにも大きいので、息子がたとえどんなことをしたとしても、父の愛は全ての過ちを消し去ってしまいます。

 あらゆる人生において全くその通りです。あなたがたが様々な状態から立ち上がり、自分自身を理解していくことが出来る経験です。

 その時、誤ちは消えてなくなります。真理は当初のままの、何もとらわれていない状態です。

97 「悔い改め」が「赦し」の前に来ます。父の愛が分かった時、人のハートから悔い改めが生じ、赦されるのです。

 その時、人は本当の霊的状態、すなわち、自分が神の中にいるという自覚を取り戻し、「※全ての人の使用人」になるのといとわず、人にしてもらいたいと思うこと(奉仕)をするのです。


※全ての人の使用人」の真の意味について…♪
ケイシーリーディングからですが…♪

汝らの中で最も偉大ならんと欲する者は、全ての人の僕(しもべ)となるべし』と弟子たちに語られたキリストの最後の行為について、飾らぬ言葉で述べる教師たれ。

 ごちそうがあなたがたの前に置かれているのは、あなたがたが放蕩息子のようになった時なのです。

 中に入り、兄弟姉妹への愛をもって、今ごちそうにあずかりなさい。愛によってのみあなたがたは、父が用意して下さったごちそうにあずかることが出来るのです。

98 このことは、あなたがたも地上で学ばなければならないことです。あなたがたは、悪いことをした人だと勝手に決めつけて、愛を与えるのを差し控えたことが、どれほど頻繁にあったでしょうか。

 とにかく、そういうことは、あなた方には関係ないことです。それはすべて父と子の間のことなのです。もし、あなたがたがこの事を忘れないでいると、批判することを慎み、この武器をまず自分自身に向けるようになります。

99 先に自分の誤りを見つめれば、他の人をよりよく理解できるようになります。

100 あなたがたはよく人を責めたものです。
●人を責めてはいけません。あなた方も責められないためです。
●人を裁いてはいけません。あなた方も裁かれないためです。

 まず自分の目から厚板(分離意識)を取り除きなさい。そうすれば、ハッキリ見えるようになって、兄弟の目から木の破片を取り除くことができます。

103 あなた方のハートを、神と全人類とに対する愛で満たし続けなさい。そうすれば、私は多くのことを教えます。

104 私の言うことがすべては理解できなくても、持って、耳を傾け、私に波長を合わせなさい。
 私(真我・キリスト神我)は単純であり、私に到達するのは容易なことだからです。

 魂の光輝(イルミネーション) 霊は光であり、肉体は無明である

「魂の光輝」即ち、魂が光るものになるには、
どうすれば良いかという事を説明して見たいと思います。

 魂が光る。
これを、普通は「イルミネーション」といいます。
イルミネーションを受けるか、受けないか。
イルミネーションを受けている人か、受けていない人か。
という事を理解していかねばなりません。

 イルミネーションを受けますと、
どなたでも「白光」が差すようになります。
どなたでも「後光」が差すようになります。

 皆さん方は、
なぜ、イルミネーションを受けていないかといいますと、
「霊肉一体」をならしめていないからです。
自分のことを、肉体だとしか思っていないからです。

 肉体というものは、無明です。光ではないのです。
 
 肉体は、何で出来ているかといいますと、「水の質料」といいまして、
この水溶質、即ち、水の質料で人間という肉体は出来るのです。
肉体自らは質料ですから無明です。

 それが光るものになるには、何が必要かといいますと「霊」が必要です。
霊は何かといいますと「光」です。「霊光」といいまして、霊は光です。

 肉体が光を受け入れた時、肉体と霊が一体となった時、この者は光となるのです。これを「光明」といいます。

 私は人間だ・・・・・。 私は肉体だ・・・・・。と思っている人からは後光は出ないのです。無明のままです。

 ですから、この地上界の事を「無明界」といいます。物質主義です。
(霊なんかあるものか)と、肉体が霊を拒むという事は、光を拒んでいるのです。
 
 この霊肉のバランス。この霊肉一体がなされた時、この者は光となりますが、「私は人間だ・・・・・」「私は肉体だ・・・・・」といおって、
「霊なんかあるものか・・・・・」ということは、闇主義です。
 これを普通「自獄(地獄)」というのです。

 霊界のことを、光明世界というのです。霊は「光明世界」です。
その霊は、力であり、光です。

 あなた方が、本当に、大霊を受け入れた時、真に力ある者となります。
その光とは、智慧でもあるわけですから、「智慧光」といいます。

 この無明である質料自らは「無」です。智慧もないし、力もないし、何もないのです。質料はあくまでも受動原理です。

 この肉体という形態の事を、器の事を、皆さんは「魂」と言っているのです。器と魂は別でしょうか。

 肉体は魂です。幽体も魂です。器なのです。
その器が光るものとなるためには、肉体が光るものとなるという事です。
これを「魂の光線」といいます。

 イエスキリストが、
「我は霊なり、我は生命なり」と言われたように、
「生命は光である」として受け入れられたのです。
 
 この大生命を受け入れるという事は、無限生命を受け入れるという事です。
「無限光」を、自分の中に迎え入れるわけです。

 そうしますと、
貴方の肉体は、魂は、どうなると思いますか。
光るものとなります。
光るものとなった時、肉という闇の原子が、光の原子に変わるのです。

◯光のあるうちに歩め

 「霊光」
霊は光ですから、あなた方から霊が抜けますと真っ暗闇です。
だから「光あるうちに歩め」というのです。
光のあるうちに歩めというのですけれども・・・・・。

 皆さん方は、今、光を宿しているわけです。
霊を宿さないで、皆さん方は生きていられますか。生きていられませんか。
生きているのは、肉体ですか。霊ですか。
肉体というものは初めから生きていません。

 この肉体というものは、
霊の媒体にしか過ぎないのです。
この肉体というものは、
霊の操り人形にしか過ぎないのです。

 霊は能動原理
肉体は質料で出来ていますから、受動原理は自らは「無」です。
肉体自らは動きません。

その肉体という質料が生きて働くならば、
霊が抜けても働いていなければならないという事になります。
しかし、能動原理である霊が抜けますと、
もう、皆さん方は、言葉一つでないし、動くことも出来ないのです。

それなのに、
皆さん方は、なぜ、霊を嫌うのでしょうか。

「闇は光を嫌う」
なぜかといいますと、光現れると闇は存在出来なくなるからです。
貴方の肉体という無明が、光明である霊を受け入れたら、
貴方の肉体は無明となるのですか。光明化されるのですか。
「光が現れれば、闇は消える」の言葉のように、闇は消えてしまいます。

 例えば、
この部屋の電灯を、全部消しますと闇の原子が残ります。
原子そのものは、闇であろうが、光であろうが存在しています。
電灯をつけていようが、消していようが、初めから原子は存在しています。
電灯を付けますと、
闇の原子から、光の原子になります。

 あなた方の中で、
その聖なる火「法燈(全一体感・父なる神と一体の境地)」、
即ち、霊的光(全てに神を観る・我神なり)を自覚出来るようなりますと、

貴方の肉体の細胞は、
闇の原子から、光の原子に「変性・変容」を遂げるのです。
「変貌(愛の霊光そのものに変性変容)」を遂げると言う事です。
お分かり頂けますか。

 その時、皆さん方は、もうこの世の闇の影響は受けないのです。
光と闇や同居できません。
その意味は何かというと、あなたが光るものになりますと、
その光の世界に、外から闇は入れないのです。

◯霊光を浴びる事は、日の洗霊、光の洗霊となる

 この世の災いというものは、
光でしょうか。闇でしょうか。幸い簡単なのです。

 あなたが、
その肉体が「(我神なりの自覚を)容認」した時、受け入れた時、
あなたのその肉体は光姿態になりますので、
そうしますと、あなたはもう「病」に掛かる事はありません。

 病は光から来るのですか。闇から来るのですか。
「病は闇から」といいまして、
その闇は光が現れれば消える。即ち、病気は消える。消えてしまうわけです。
だから皆さん方が、今、病気になるという事は、
その霊的光を受け入れているからですか。受け入れていないからですか。

 光に闇は入って来れない。
電灯の点いている部屋に闇は入れますか。存在できますか。
「類は類を呼ぶの法則」なのです。
光は光を呼びますし、闇は闇を呼ぶのです。意味お分かりですか。

 あなたが、
あなたの肉体が「私だ(分離意識)」という時に、
あなたは光るものでしょうか。闇でしょうか。それは闇なのです。
これを「闇人間」といっているのです。
霊的人間(全一体・真我覚醒した人)の事を「光り人間」というのです。

 霊は光です。
質料は、物質は闇です。
だから、この地上界の物質世界の事を、光明世界とは言わないのです。
何というと思いますか。それを無明世界というのです。

 しかし、その無明である物質が光を受け入れたら、
その物質は何になると思いますか。それは光になります。
これを「地上天国」というのです。
即ち「如来」の事です。
光が「降臨」したという事です。

 だからあなた方が、
この霊と肉との一体感になった時、無明というものが存在するのでしょうか。
光が現れても、闇は存在できるのでしょうか。
あなた方は、一旦その霊光を引き受け、イルミネーションを受けたのなら、
再び闇になるのでしょうか。ならないのでしょうか。

 あなたが、一旦この霊光を浴びますと、
これを光のシャワーといいますけれど、
これを普通は「火の洗霊」といいます。
「光の洗霊」です。

 あなたの全身が、
その霊光に満たされた時、
あなたの細胞一粒一粒は「白光」を放つようになるのです。

 「白光」を放つようになりますと、
もうあなたには夜というものがありません。
なぜかといいますと、
あなたの細胞から放つ光ではないのです。
光明だけ、昼だけ、「昼・昼」といいまして昼だけ存在するわけです。
電灯を消しても躓く事はありません。見えるのです。

 あなたから放つ光が、
じゅうたんの色から模様から全部見えるようになります。
あなたが本当に、霊的自覚を持ち、
霊肉一体のバランスが取れていたとするならばです。

 大霊あるのみですから、
その大霊は「宇宙霊」ですから、
普遍ですから「普遍光」、無限大ですから「無限光」になるわけですから、
その時、本当にそれを受けているか、いないかは、嘘はつけないのです。

 その人からは、目も眩まんばかりの白光が放ちます。
大霊を受け入れたとするならば、無限光を受けるわけです。

◯燦然と光り輝く光明、その光人間となる

 宇宙に、光は幾つありますか。
無限光しかありませんので、大霊しかありませんので、
その大霊を受け入れる事によって、
皆さん方の一切の悩み、苦しみ、それから開放されるのです。

 悩み、苦しみは、
皆さんの「肉我」という無明の世界に生きるが故に「ナ・ヤ・ミ」です。
悩みは光でしょうか。闇でしょうか。
その時、あなたが光るものになった時、
一切の闇、悩み、病も消えますので完全となるわけです。

 イルミネーションを受けたら、
不完全になるのでですか。完全になるのですか。
完全と光り輝く光明となります。

 これは、光(真我に覚醒めた)人間となりますので、
一切の悩み、一切の病苦から開放されるのです。
その時、皆さん方は「完全人間(神との合一)」なるのです。
「光人間(神我顕現)」となるのです。
 
 これが「イルミネーション」
「魂の光輝」即ち、肉体から「白光」を放つという事です。
 釈迦しかり、イエスもそうです。

 霊光、大霊を受け入れる事によって、
その器が、
「外なるものが内なるもの(キリスト神我)を受け入れた時、
外なるものは内なるもののようになる」と。

 無明が光を受け入れた時、無明は光となるという事です。
光明なる魂となるという事です。

 これを「マイルーパー」と言いまして、
皆さん方の細胞一粒一粒が、光の細胞、即ち、粒子に変わのです。
そこで、元素転換が行われます。

組合せが、全く違った組合せのものになります。
分解したり、組み立てたり、自由自在のものが出来のです。

 「変身」といいまして、
自分の肉体を人の前から消して、普遍的なものに変換しまして、
そしてどこかで、
そのバイブレーションを下げまして、肉体を意識しますと、
その肉体、自分の行きたいと思う所で組み立てる事が出来ます。

 これを「テレポーテーション」即ち「テレポート」というのです。
しかし、あくまでも、霊肉一体が出来た人のみ可能です。


瞑想とは何か           
瞑想の意味は神秘に達すること    知花敏彦師の記事♪

 瞑想に興味を持っている人や実際瞑想をしている人は多いのですが、果たして瞑想って何なのでしょうか。また、何のために瞑想するのでしょうか。

 瞑想の意味を知らなければ、瞑想にはなりません。ただ目をつむっていればよいというものでもありません。

 瞑想しないで神の国、すなわち神我到達は出来ないと言われています。
 イエス様もパプテスマのヨハネも十年間、インドに渡って瞑想をしました。瞑想の達人になって神我到達の域に入ったのです。

 みなさんに「どういう瞑想をしますか?」と尋ねましたら、「自己を見つめる瞑想をしています」と答える人が多いようですが、確かに自己を見つめるのも一つの方法ですが、神我を見つめるのが本当の瞑想です。

 自分を自分と思い込んで瞑想するのならば、それは自我の瞑想であって、本来の瞑想ではありません。神我という、大霊との一体感を本当の瞑想というのです。
 自己の本性を見つめることは無限で普遍的な大宇宙と一体化することです。


深い瞑想状態に入った時、色即是空、空即是色が理解できる

 私達は今まで外側の姿、形の外観、つまり表面を見つめてきました。その肉の目と耳を閉ざして大霊(神・神我・大生命)へと心を集中する、これを瞑想状態といいます。

 今まで自分たちが考えている肉体という外念は存在しません。肉体という物質は存在しないのです。肉体は霊体であるといえます。

 「色即是空・空即是色」
 これは般若心経の言葉です。見えるものは見えないものであり、見えないものは見えるものであると、その見えないものと見えるものは同一であるという意味です。

 話を聞いたり、考えるだけでは何の意味もありません。話そのものや考えることは神理ではないからです。文字そのものは神理ではありません。

 ですから、いくら話を聞いてもいくら本を読んでも、瞑想を実践しなければ真の自己を実感することは出来ません。

 瞑想中は、大霊(神我・大生命)以外の事を見てもいけないし、思ってもいけません。大霊そのものへの一心集中を行います

ところが、一般にまかり通っている瞑想は、光が見えた、霊の次元から姿が見えた。景色が見えたといった状態を瞑想といっています。

 真実(根源・無限・内在する真我・裡なる神)との一体感、実在との一体感の我に帰ることが大切で、これを図ることが本当の瞑想です。


瞑想は教えてもらうものではなく、自分で実感するもの
 
 皆さんの中には、瞑想を教えて下さいという人がいます。ですが、瞑想はそう簡単に教えられるものではありません。自分自身で実感するしかないのです。

 聖者の方たちには「完全沈黙」をしています。完全沈黙というのは五感の沈黙、自我のない状態をいい、この世のものを全然感じなくなります。この完全に自我意識から開放された状態を完全沈黙といいます。

 私達の肉体は存在していないのですが、私達自身は肉体を感じています。肉体は霊体です。霊が肉という姿・形をしているだけであって、姿・形の実体は全て大霊といえます。


神の臨在感とは

 「無我の境地」というのは、何のないという意味ではありません。
 自我がないことです。
「神(遍満する大霊・大生命)あるのみ」という境地です。
 
 今まで私達は自己中心的な、自我の自分を感じていましたが、そのような自我がない状態を「無我の境地」というのです。そこには普遍的な自己、宇宙的な自分があります。
 自分が全宇宙そのものであり宇宙霊そのものである。宇宙意識そのものであるという状態に意識を統一することです

「汝の見るもの全てを受け継がん」
 つまり、大きいものを見れば大きい物を受け継ぎ、小さいものを見れば小さいものを受け継ぐことになります。

「想念は実現の母」 と言われています。自分を人間と思っているのか、大霊と思っているかで。自分自身が決まります。

 寝ても覚めても四六時中、神を思い、自分が神であり、大霊であり、大生命である、との思いが大切です。
 これを思い続けることを「連続的祈り」といいます。祈りは神との一体感です。即ち「神の臨在感」です。


瞑想こそが宇宙神のバイブレーションに合わす唯一の方法

 皆さん方が神と一体化した時、神の心臓と自分の心臓が一体となって鼓動するのです。

 神への到達というのは神そのものに成りきることです。世の中では「神になる」といえば特別な意味に捉えられますが、特別なものではありません。

 自己実現というのは、大霊、神我が自分自身だと自覚できる状態を把握することです。生命の把握を「自覚」ともいいます。あるいはまた「実感」ともいいます。
 
汝の意識するとき、汝はそこに居るのである」 という名言があります。
 外側を意識すれば、外側に留め置かれます。内側を意識すれば内側に留め置かれるのです。

 世の中で瞑想している人は沢山います。ところが瞑想が何であるかをはっきり理解できている人は案外少ないのです。瞑想が何であるかわからないのに瞑想することは出来ません。


瞑想は神への一心集中である

 瞑想とは皆さんが「こういうものか」と自分で見出すものであり、人から習って出来るものではないのです。

 皆さんの中には、瞑想中に色々考え事をする人がいます。考え事は全て雑念です。完全な深い瞑想状態というのは、この世的なものが1点の意識もない、大霊そのものに溶けこむようにして、大霊そのものになる。融合するという一体感です。
 
 それができるようになるまで、皆さん方は瞑想していかなければなりません。ただ何回か繰り返しているうちに、無意識のうちに軽く目をつむった瞬間、大霊を自覚できるようになります。

 「神理が神理を啓示する」という言葉があります。私達が神理へ一心集中をすればするほど、「天啓」というインスピレーションを受けることが出来ます。

 私達が、普段なぜ「天啓」というインスピレーションが受け取れないかといいますと、自分の意識が非常に低い状態だからです。低い意識状態というのは、外側を意識した状態のことをいいます。内側を見つめている時には高い意識状態といえます。


密教では、「欲望」「感情」「意思」を経て「覚者」に達する段階がある

 密教学では、イニシエーションという言葉を使います。第一イニシエーション、第二イニシエーション、第三イニシエーション、第四からは覚者といいます。

 イエスキリストがこの世で十字架にかけられた時は、第三イニシエーションだったのです。十字架にかかって、肉を十字架にかけられることによって、第四イニシエーションという覚者になり、第四が終わるとすぐに第五という位を授けられたのです。今は第七です。

 第一イニシエーションというのは、まず肉の欲望です。食欲、物欲です。美味しい物を食べたい、良い洋服を着たい、豪華な家に住みたい、豪華な車を乗り回したい、そういう欲望を克服した状態を、第一といいます。
 
 そして、それを欲しがっている間は、肉が強力に働いています。ご飯を出されても、美味しい物が出ないと「これが食えるか」という意識です。意識の高い者が「これが食えるか」とは言いません。
 食べ物への文句、それは一番、低い状態です。
 
 肉の自我がうんと働いている状態です。食べ物を文句無しに食べる、ありがたく感謝して食べる。美味しいとかまずいということは、無関係です。それが克服できますと、第一段階のイニシエーションです。

 第二イニシエーションというのは何かといいますと、感情のコントロールです。感情が出ない、何か人から言われて、かっかとして鬼みたいになる人や、すぐにかっと思う人など・・・・・。

 これは感情のコントロールが出来ていないのです。すぐ怒ったり憎む。そのような嫉妬深いというような感情はコントロールできなければなりません。

 それらは瞑想を通して全部が克服出来ます。食べ物の欲望が無くなります。人を許せるようになります

第三イニシエーションとは何かといいますと、意思のコントロールです。意思とは何でしょうか。これは想念のことをいいます。想念のコントロールのことです。意思の力をいうのは想念の力です。
 
 今まで悪想念だったのが、常に良い思いを持つような意思になります。皆さん方は自由意思を持っていますから、悪いことも出来、悪想念も持つことが出来ますし、また正しい想念を持つことも出来ます。

 欲望、感情、意思の3つが克服されるために、私達はぜひとも努力しなければなりません。すぐに妬みっぽい、怒りっぽいというようでは、まだまだ感情のコントロールが出来ていません。
 

気が高いとは、バイブレーションが高いことで、意識の高揚を意味している

 瞑想しないで、皆さん方のバイブレーションを上げることが出来ません。意識の高揚こそがバイブレーションです。意識は自我意識にいながら、バイブレーションの高い人がいるでしょうか。瞑想を通してのみ、バイブレーションを上げることが出来ます。

 意識の上がった状態を、バイブレーションの高い状態といい、意識の低い状態を、バイブレーションが低い状態と言います。

 バイブレーションの高低があるから、低周波数と高周波数があるわけです。バイブレーションの高い人というのは、どういうことなのでしょうか。
常に自分が大霊(神我キリスト・大愛)との一体感を感じていきますと、いつも皆さん方は、高我の自分、神我の自分、高い次元に自分を留め置いていることになります。

 我々が大霊との一体感を感じている時に、初めて私達は神のバイブレーションまで高めることが出来ます。神を意識している時は、神のバイブレーションです。肉体を意識しているときは、低我の、低次元のバイブレーション状態です。

 バイブレーションが上がった方のことを、どのようにいうかといいますと、気高い人といいます。

 バイブレーションの低い状態を気落ちをいいます。バイブレーションが高い状態というのは、エネルギーが高い状態であり、自我意識はエネルギーが低い状態です。


エネルギーが低い人が病気になる

 低次元意識で生きる限りはエネルギーが低いのですから、私達は病気になります。
 しかし、覚者の方々は病気にはなりません。なぜかといいますと、エネルギーを高めておりますので、病気にはならないのです。意識の低い人が病気になるのです。

 神我は、罪を知らず、病を知らず、死を知らずといい、我々は神我に到達しないかぎり、罪と病と死は無くなりません。肉体の破壊があるだけです。


白色同胞団 ホワイトイーグルの意味と、七という聖数の意味

 イエス・キリストの肉体は、十字架以後は完全な変成を遂げられていたわけです。その時に、オリーブの山の上に立っておられましたが、目の眩まんばかりの白光に輝いたのでした。

 真っ白姿で、雪のように輝いて見えます。白色同胞団といいまして、ホワイトイーグルともいいます。その神我は白光の世界です。皆さん方は、白い色といいますと、何を思うでしょうか。

 白色とは七つの色をミックスすると、白光になります。七色の虹の七つのチャクラの生命線が一つになった時には、白光として輝きます。

それをエルランティといいますが、全部含めてエルランティ(※高橋信次師と、普通は名づけているところもあります。

 あるいは七つの天門とか、七つの霊的中枢とか、あるいは七つの教会とも言われています。それが一つになった時、白色となります。

 自分は大霊であることが、はっきりと実感できるまで瞑想をして頂きたいと思います。たくさんの話を聞いたり本を呼んだりすることよりも、少しでも時間が有りましたならば、大霊との一体感の方が大切であります。

 皆さん方の瞑想状態を見せて頂きますと、到達されている方とされていない方とは、相当の格差があります。 
 到達している方からは、相当の光が出ています。

 今から何ヶ月前までは、大勢の大衆の中からようやく一人か二人、白色に輝く者がおりました。この頃は大半の人が、瞑想している時に輝いております。

 瞑想している時にあれやこれやと物事を考えながら目をつむっている人がいます。明日はどういう仕事をしようか。どうしようかと考えながら目をつむっている人、これは自我瞑想ですから、そのような人からは光が放つことはありません。

 それは目をつむって三次元的な事を考えているわけですから、神への到達ではありません。ですから瞑想でもありません。
 瞑想とは、神そのものに成りきる。大霊そのものに成り切るということです。


瞑想が如何に大切であるか、またどうすれば瞑想できるのだろうか

 瞑想しないで、神が探せるでしょうか。瞑想しないで、神の扉が開かれるでしょうか。もし瞑想なんか不要、という方がおりましたならば、その方は地獄が好きな方なようです。

 今はアクエリアスの時代、水瓶座の時代と言われています。この時代は、非常に大切な、霊的にも求めやすい時です。霊的な道案内人の現れるときでもあります。またこの時代は最後の振るい分けともいいます。最後の審判ともいいます。

 そして熟した魂と未熟な魂の収穫時にあたります。熟した者は天の蔵に納められ、未熟なものは再生されます。即ち、輪廻を繰り返すことになります。

 「時が来たら、あなた方は天の蔵に納められるであろう」という言葉があります。その時が今のこの時代です。

 皆さん方は今生で成し遂げられなかったとすると、また何万年この世をさまようか、再生されるまで、次のお迎えが来るまで、収穫時が来るまで皆さん方は何回もこの地上界をさまようことになります。

 それは聖者も予言されています。
 最初から瞑想が出来た人はいません。みんな瞑想の素人であったわけです。瞑想していると、いろんな雑音が浮かびます。

 今日は何をしようか、あれをしようか。夕飯は何を食べようか、今日の夕飯はまずかったとか、お酒でも飲もうかとか、何をしようか、遊びに行こうか、そんなことを考えます。

 そういう雑念は放っておいていいのです。いつの間にか瞑想しているうちに、雑念は減っていくものです。
 神の道は細く長いのです。「選ばれた者は多いけれども、招かれた者は少ない」という言葉があります。

 この意味は、本当に招かれるもの、神の国へ入れるものは数少ないという意味です。皆さん方は瞑想を通じて、色んな答えを出して頂きたいと思います。


瞑想とは四六時中、神を思うことである

「神にて語らせよ」という言葉があります。神にて語らせよ、という意味は、生命より語る、霊より語るということです。

 生命より語るためには、霊的な自覚、生命の自覚はなさねばならないということです。あなたは霊的自覚、生命の自覚がなくても、あなたを通して神が語っていることになります。
 
 ところで神は神棚をとおして語るのか、霊媒を通して語るのか、あなたを通して語るのか、どちらでしょうか。あなたを通して語るのです。

 四六時中神を思うというのは、どういう意味だと思いますか、あなたは四六時中大霊そのものであり、大生命そのものであるという思いが、四六時中神を思うということです。

 四六時中皆さん方は自分が、人間だ、肉体だと思っているのか、自分は四六時中その遍満する大霊そのものであり、大生命だとおもうのが瞑想です。

 瞑想とは何かと言われたならば、神を意識することです。神を思うことです。自分は人間だと思っている時は、瞑想状態ではありません。

 生命はいまだかつて、一度も争ったことはありません。生命はいまだかつて罪を犯したことがありません。汚れたこともありません。

 イエス様は偉大な言葉を残しています。
一番大事なものを人に与えなさい」という言葉です。

 その一番大事なものは何かといいますと、
命」です。その命とは、真理のことです。


(※必読♪瞑想の重要な注意点)
☆瞑想は絶対に現象を求めてはならない☆

瞑想が非常に危険であるという事は、
ややもすると、
幽界にチャンネルを合わすから危険だという事です。

ですから、
瞑想中に憑依霊を受けたり、
異常が起こったりするわけです。
その時、気が狂ってしまったりするわけです。
身体の調子が非常におかしくなったりするわけです。

瞑想が危険だという事は、
まず、現象(幻)を求めてしまうのです。
この物質界も現象界であり、
幽界も現象界ですから、
「実在」を求めなければならないのに、
瞑想中に、全て、現象だけを求めている人がいるのです。

なにか見えないかな・・・・・。
何か奇跡が起こらないかな・・・・・。
というものは、
どこに意識を向けていると思いますか。

それは、幽界に意識を向けていますから、
そのような間違った瞑想を多くやって、
気違いになった人は一杯いるという事です。


愛そのものに生きている者は
神に生きている者・天の住者です

 「神理とは何か」といえば、愛そのもののことであり、調和そのものの事です。愛そのものに生きている者、調和そのものに生きている者は、神に生きている者です。肉を持ちながらにして、天の住者です。
 
 あなた方が不調和であるかぎり、神理を知っていませんし、神を知っていません。神を知っている者に、不調和があり得ると思いますか。神を知らないから、不調和なのです。

 (神は愛である)と、どこのキリスト教でも看板は掲げていますが、その愛がどこに存在して、どのようにして働いているかということを知らないのです。

 ただ、空想的な、妄想的な夢物語で、「神は愛だ」と、言っているだけではありませんか。あなた方が愛をよく理解して、それこそ、神を、父を知った者、己を知った者となって頂きたいのです。

 その愛の、有り難みを知っている者のみが、自分のものとするでしょう。
 愛を知らぬ者は、神を知りません。

 愛そのものを知っている者が、神を知っているのです
 だから皆さん方は、今後は愛そのものとなり、調和そのものとなって、日々の生活をして頂きたいのです。

「何を見ても愛なんだ」と。「愛の他には何もないのだ」と。
「愛なくして物は存在しないのだ」と。「神なくして何も存在しないのだ」と。

 「なるほど!神こそが全ての父なんだ。全ての本源なんだ」
 「神を宿さぬ物は何もない。鉱物、植物、動物、全ては愛なんだ」

 「その霊と水との、父と母との愛がなければ物は存在しないのだ」と、そういうあなたになって頂きたいのです。
 父なる神様、母なる神様、ありがとう」と感謝できるあなた方になって頂きたいのです。
 
 神は一切の生みの親です。神なくして物は存在しない、生まれてこない、神は一切の生みの親なのです。

 「神こそが我々の父」と、はっきり断言、言明できるのではありませんか。全ての父です。すべての親です。そのものなのです。

 「神棚の中に神がおるのだ」「はるか天の彼方に神がおるのだ」というように、今まで聞かされていた神と、今、ここで言う神と、どちらが本物の神だと感じられるでしょうか。

 あなた方は、神そのものではありませんか。愛そのものではありませんか。あなたの全身に愛が満ち満ちていなければ、あなたはここに、今、生存しているでしょうか。

 今こそ、あなた方は全身に愛を感じてください。
 その愛に、区切りも、分離も、別離も、何もありません。
 全宇宙に遍満する、大愛あるのみです
 その大愛こそが、全ての父ではありませんか。

 「皆さんは大愛の中に留まり、大愛は皆さんの中に留まっております
 そのことを、よくよく自分に、心して、言い聞かせてください。

 それこそが、皆さんが知らねばならない「真の神」なのです
 その神を知らないでは。何も始まらないのです。

 私達は愛に生かされて、愛に生きていながら、いかに愛というものが、自分とかけ離れた存在であったかと気付かされます。この知花が、いかにあなた方を愛しているか。

 また、あなた方が、いかにこの知花を愛しているか、よく分かります。
 お互いが、愛そのものであるということなのです。

 私達の本性、鉱物、植物、人間、全ての万象万物の本性は愛です。
 全ての実態は愛です。調和です。


 鉱物も愛なくしては存在しない。

 植物も愛なくしては存在しない。

 動物も愛なくしては存在しない。

 人間も愛なくしては存在しない。


 愛の具現です。愛の象徴です。
 今こそ、皆さん方が、全てが愛だと、全てが神だという理解が出来ると思います。

 神の愛は、至る所にまします。空間というものはありません。
 永遠であると、無限であると、永遠なる愛の中に、無限なる愛の中に私たちは存在し、愛そのものの中で存在しているのではありませんか。

 それが、永遠なる自己、久遠なる自己、そのものをはっきり理解できるまで、自分の心に言い聞かせてください。
 それが、あなたのハートに定着するまで、着座するまで、これを自分に言い聞かせて頂きたいのです。

 これを知らないでは、何も始まらないのです。本源に返ることはないのです。だから「霊と水に生まれ変わらなければ、神を観たるにあらず」と、聖書にも示されているのです。

 この私の元を離れていく人のことを、私は如何に愛しているか。
 離れていけば何もわからなくなる「もったいない」と、皆さん方ならおわかりだと思います。

 なぜならば、彼らも私自身であるからです。あなた方自身でもあるからです。全てです。平等です。無差別です。無差別の愛というものが、今ならお分かり頂けると思います。

 今まで、あなた方の愛だと考えていたものが、いかに不純な愛であったか。愛というものをいかに理解していなかったか、ということがお分かりだと思います。

 「これは愛なんだ」とか、「これは愛ではないのだ」とか、そんなものがあるのでしょうか。「愛一元」です。愛そのものです。

 そこに、憎しみが入り込む余地がありますか。愛の中には、いかなる憎しみも、いかなる怒りも、入り込む余地がありません。

 どうですか。
 「どこを観ても、何を見ても愛なんだ。神なんだ。調和なんだ
 「それなくして、何も存在しない」
 動物を見ても「ああ、愛の現れなんだな、神の現れなんだな
 お花を見ても「霊と水との愛と調和の現れなんだな」

 子供を見ると「神の現れなんだな、愛そのものなんだな、愛がその子に無ければその子は存在しないんだな」ということが見られませんか。
 もう見られるはずだと思います。

 あなたが空気を吸っても、空気そのものは、愛そのものなのです。

 見えるもの、見えないもの、全てが愛です。

 水蒸気も、そして、形を取って地の水となっていても、全て愛なのです。

 今なら、「愛一元の世界」「調和一元の世界」「神一元の世界」ということが、お分かりいただけるでしょう。
 
 「これが神だ」「あれが神だ」という、戯言(たわごと)の時代はもう過ぎました。これでもう、皆さん方は「これが神だ、あれが神だ」ということは、一言も言わないと思います。

 この世の中に、神理でないものが一つだってあるでしょうか。
 全ては神理、全ては愛です

 神理の中に、神理でないものがあるはずがありません。
 大宇宙そのものが、大神理そのものであるからです
 
 大宇宙そのものが、大愛であるからです。
 大宇宙は、霊と水によって、愛され調和されて存在します。

 皆さん方は、今、即、大愛の中におり、大愛はあなたの中にまします。
 「我は神の中におり、神は我が中にまします
 その大愛を観じてください。

 この愛をあなたに訴えたくて、数々の言葉の中で、どう言ったら分かってくれるか、こういったら分かってくれるかと考えていました。
 
 皆さん方が、いかにその愛に目覚めてほしいかという一心なのです。
 しかし、皆さん方は、それを中々理解してくれないのです。

 この無知は、二千年前と今も変わりなく続いています。
 私は、二千年の間に確実に人間が進歩しているという確信を持ってこの世に参った者です。(※知花敏彦師はイエス様の予言を成就するため、宇宙神理を伝えるために天上界から派遣された地球最高の大覚者の方です
 
 一日も早く真の自己に目覚めて、神我の自分は愛そのもの、調和そのもの、普遍そのもの、無限そのもの、久遠そのもの、大宇宙そのもの、大愛そのものであるという、その本質のゴールに達して頂きたいのです。



 悟りの最重要キーワードとして、「神の一人子・神我キリスト」という言葉がございます。精神世界の追求者のお方でしたら、「神我」とか「神我キリスト」という言葉についてご存知だと思いますが、実際の意味合いを深く理解されているかと言いますならば、そこまでの方は多くないと思われます。

 お陰様で神理の理解が相当に深いレベルにまで到達しましたので、地球最高の覚者であられる、知花敏彦先生から学びました宇宙神理を一人でも理解できますよう、細かく噛み砕いて易しくご説明させて頂きたいと存じます。

 すべての表現には、神の細胞である「コスモ細胞・宇宙細胞・原子キリスト・原始細胞」が内蔵されていております。この神の細胞が、ヒマラヤ聖者の生活でも有名な「神我」と言われている存在でありまして、この神の細胞は宇宙創造主のお創りになられた全ての全てに宿っているのですね。
 
 ちなみに、「自我」は本来存在しないものですので、「偽我」といわれております。神の一人子は「神我」でありまして「自我」ではないそうです。

 続いて、「神の一人子」が何故「一人」というのかについて申し上げますと、宇宙創造神はお一方であられますので、原因は一つ、親はお一人ということですから、親である神は「お一方」であられるということになります。

 ということは子供である、この世界の見えるもの、見えないもの、ありとあらゆるもの、草花、岩、動物、人間様々、色々な島宇宙、等々も含めて全てが、神の表現であり、全ての原因者であられる、大神様(大霊・宇宙霊・御霊神霊)の大愛の現れですから、全ては「神の実の子」と言えるわけであります。

 内を見れば全ては一つが真理であり、現れである神の実の子ももちろん、内を見れば「お一人」ですから、神の一人子となるわけですね。内を見れば分離も区別もありませんから。

 親は一人、子は一人、父と子は一体、原因と結果は一体、全一体が真理、大いなる一しか存在しない、ということは、神我と自我は一体、原因も結果も全てが神、つまり目に見えるもの見えないもの全てが「神・大霊」であり、自分が神そのものであるという「大霊との一体感」が、いわゆる悟りを開くのに大切な宇宙神理なので御座います。

 この全てが神に見える目が「1つ目」、この目に覚めた状態がいわゆる第三の目に目覚めた状態とも言われるそうです。この「全てに神を観る状態」が内観・億念をしている状態ともいわれております。

 この「神我キリスト」は世間一般でいう所の、「深層意識」や「神意識」「全一の意識」と呼ばれているものでも表現されております。

 全ての知恵や英知・力は、大生命であられる宇宙創造神から来ているものでありまして、外側から見れば分離や別々のものと感じるのですが、内側(神我キリスト)から見れば、全ては神でありまして、普遍、無限、遍満する大霊あるのみということなるわけで御座います。
  
 「全ての原因=神・大霊=父・親・表現者」
 「全ての結果=子・表現体・肉体」となります。

 表現は多々様々ではありますが、原因も結果も含めて、色心不二・色即是空、つまり全てが神の現れでありまして、全ては神一様・神のみが独存するのが宇宙神理であり、神の表現を内(神我)から見れば「全ては一つ」でありますので、神我キリストは「神の一人子」といえるのでありますね。

 宇宙には一つの心・神の御心しか存在しませんので、表現も結果も「神我キリスト・宇宙神」の御心の中の表現ですから、宇宙世界は神の御神体・一つの生命体ということになりまして、全ては同一の根源から生まれた・表現された存在でありますから、全ては一つということになり、その表現の根源の全てが「神の一人子・神我キリスト」と称されているので御座います。
 
 全ては宇宙創造神の中に存在しており、見えるもの見えないもの表現の全ての中に、宇宙創造神であられる「神我キリスト」が内在して宿っていらっしゃるわけで御座いますね。

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神




 ガン発生のメカニズム

 食べ物はみな波動を持っています。野菜には野菜の波動が、肉には肉の波動があります。そして四つ足の動物になれば感情がありますので、人が叩こうとすると怒り狂います。

 殺されようとするなら恐怖を持ちます。その恐怖感は確かにその肉にインプットされますから、それらの波動の粗い物を食べますと、食べた人はその影響を受けます。

 しかし、我々はそれを超越していれば、そのような波動は問題ではありません。

 あなたが愛の波動を持っていれば、そのような波動は受けませんから、それを食べてみても影響はありません。悪い波動は愛で打ち消しますから、その悪い波動は存在しなくなります。波動の打ち消し合いです。

 これは電気的にも科学的にしても可能です。あるいは漢方薬でも可能となります。

 そして、ガンという細胞を打ち消すのも、一つの周波数を持ってくれば消えるわけです。この、一番よい周波数はなんだと思いますか。
 それは愛の波動です。

 ガンの波動は憎しみの波動です。では、それを打ち消すには何を持ってくれば良いと思いますか。愛です。愛の波動を持ってきますと、ガンの波動は打ち消されます。

 ガンの細胞は「憎しみの波動」です。「嫌だ」というような思いの塊が、肉体のどこかにその波動を摂取するわけです。

 その憎しみが燃えていけばいくほど、ガンは人体破壊というように拡大されていきます。肉体破壊まで追い込むわけですから、

そんな人間に心構えを教えないで、これを食べたらガンが治るとか、これを飲んだらがんが治るといっただけではインスタントの方法論です。


ガンという闇は、愛という光を持ってくれば癒える

 ガンは光ですか、闇ですか。ガンが闇ならば、光を持ってくれば、愛を持ってくれば消えます。そうすればお医者さんに行く必要もないし、金を払う必要もありません。

 皆さん方がみな持っているのですから、愛に勝る力はありません。愛が全ての解毒剤です。

 皆さん方が本当に愛という真理や、原理を知ってしまえば、病気になるとか、病気にならないとか、そんな心配事は必要ありません。




問 気功師自身が人を治療しながら、体を病んでいくケースを、今までたびたび取材を通して見聞きしていたのですが、それは自分の意識や、使い方が間違っているからですか?

知花 そうです。フリーエネルギーとか、宇宙エネルギーが実在だと知らないで、エネルギーを有限化した物の捉え方をしているからだといえます。

 彼らは植物からエネルギーを吸収して人に与えるとか、外部から吸収して与えるような、物の制約したエネルギーの使いからですから、それがエネルギーを使い果たした時、彼らは早死にするだろうと思います。

 この宇宙エネルギーと一体になっておれば、エネルギーを使えば使うほど、その治療する方は元気になります。疲れることがありません。

 意識に問題があります。個人意識では彼らがそれを使おうとするから、気功師は非常に危険だといえます。


問 霊能者や宗教家の場合も全くそれと同じ事が言えるわけですか。

知花 そうです。全く同じようなことです。 

愛はすべての原点です

 全ての原点は愛です。原点に帰るためには不調和では原点に帰れません。「神の国は愛の王国」といいます。「愛の王国は光明世界」です。

今の自分は熟成が高いか、感性が高いか、それとも低いかを誰が一番知っていますか。自分の完成は誰が高めるのでしょうか。自分以外にはいません。

 完成を高めると人はよく言いますが、その完成が何であるかを知っている人は非常に少ないのです。不調和の人は未完成であり、調和の人は完成です。不調和の世界を闇の世界といいます。そして調和の世界は光明世界といいます。

 では、この地上界は愛の世界ですか。不調和の世界ですか。今は不調和だらけの人間しかおりませんので、闇地獄というわけです。

愛の世界は光明世界です。ですから皆さんの原点は愛ですから、その原点である本性を現せばいいのです。

みな愛を宿しているのではありませんか。その大愛が全てを創り、大愛が全てに宿っているわけですから、愛がなければ具現できないはずです。エネルギーと質料が不調和でしたら、物は存在出来るのでしょうか。

霊は光なり

 私達の肉体は水です。それを動かす力は霊的力です。肉体自らは無ですし、生きてはいません。

 皆さん方は肉体を救おうとしますが、肉体は救えるものではありません。本来は「霊を救う」のですが、その魂も迷うものではありません。 
 
 皆さん方は魂に対しての理解力が非常に乏しいのです。魂は一切の力であり、一切の光です。一切の光というのは、霊光といいます。

「魂は光輝」といいますが、魂は闇ですか、光ですか、光です。これを内なる光といいますが、「内なる光とは霊光」をいいます。

 皆さん方の肉体は受動体ですが、光である霊を受け入れたら、皆さんの受け身である肉体は闇となりますか、無明体となりますか。光体となります。

 皆さんの肉体が光である光子体になったら災いは入りますか。入れませんか。
災いは闇ですか、光ですか、闇ですか。
「皆さんが愛そのもの」になったら、「愛という光」の世界に闇は入れません。

 光という世界に闇が入り込めるはずがありません。類は類を呼ぶといいまして、闇は闇を呼びますし、光は光を呼びます。

 光を呼び入れるためにはあなたが光でなければなりません。闇人間は色々の災いをどんどん引き付けます。光はどんどん良いことを引き付けます。

不調和は闇人間です

 この世は未完成の世界です。あなたが完成して、今ここに存在していると思いますか。未完成だから生まれ変わってきたのですか。

 未完成だから生まれてきました。未熟だから生まれてきたのです。
それを未熟の魂といいます。「未熟の魂とは不調和の人間」です。
「熟した魂とは愛の人」です。「愛の人とは光の人間」です。

 この世には「光人間」と、「闇人間」がいるといえます。
「不調和だらけの人間は闇人間」です。
「愛の深い人は光人間」です。

 光るものとなるか、闇となるかは、あなたの日常生活で決まります。毎日が不調和だらけの者や、誰かと喧嘩をしなければ気の済まない人もいます。

 ですから、だれとも争わない絶対なる愛は絶対調和ですから、我々が愛しか知らない人間になったとしか、調和しか知らない人間になった時に、皆さん方は完成となります。完成です。

 不調和で完成が出来ますか、出来ません。ですから、あなたの周囲のあなたの気に入らない人や嫌な人がいても、その人を憎むべきではありません。

 罵ったり、けなしたり、非難したり、批判すべきですか。それは得をしますか。人を憎んだり、そしったりすることによって、あなたは得をしますか。損をしますか。損をします。なぜでしょうか。それはあなたが闇になるからです。

不調和な者は本人が気付くまで放っておくことです

 あなたの周囲に嫌がらせをする人がいても、それにとらわれなければ良いのです。放っておけばよいのです。あなたがその人に愛を求めることが出来ますか、出来ませんか。その人をあなたが変えさせることが出来ますか、出来ません。

 人の悪口を言って、人を良くしようとする人がいますが、それは良くなりません。そのことに本人が気付くまでは絶対に良くなりません。

 そのことを責め立てたら、悪は増幅するだけです。一つでも責めたとするならば、余計に怒り狂います。怒り狂ったら闇は少なくなりますか、それとも増幅しますか。増幅するだけです。ですから放っておけばよいのです。

 皆さん方が自分の周囲を明るくするためには、皆さん方が明るくすればよいのです。「人を変えよう」ではありません。

 自分を変えようではありませんか。自分を変える事以外は周囲を変える方法はありません。特に夫婦間の問題はそのようです。

 旦那さんが悪いから私はこうなのだと、奥様が悪いから私はこうしてるといいますが、誰かに責任転嫁をした方が楽だと思って、そんなことをしているのです。

 「あの人のせいで私はこうなっている」とかいって、「責任転嫁をする自己保存の心」がいかに多いかといえます。会社においても同じ事です。

 会社でお互いに責め合った時、そのことは無くなりますか。闇や闇で消すことが出来ません。悪は悪で打ち消すことが出来ないことを知らなければなりません。

 不調和の世界を悪の世界といいます。調和を善といいます。ですから、この世の悪を克服するとは、この世の不調和を克服するとい意味です。
「悪に打ち勝つ」とは「不調和に打ち勝つ」という意味です。


私達の存在価値は愛です
この世を克服するための価値であり目的です

「我はこの世の無知と闇とを克服したものである」と、イエス様が言われました。なぜ克服出来たのでしょうか。愛の他はないと思います。愛でもって克服出来ないものが世の中に存在するのでしょうか。

 この世の悪はあなたの愛でもって克服されんがためにあります。あなたがこの世の悪をあなたの愛でもって克服した時に、あなたは克服者キリストになりませんか。我はこの世の悪に打ち勝った者だといえませんか。
 
 その時皆さん方は完成です。では、今の自分が完成に近いか、それとも完成が遠いかを誰が一番知っていますか。自分が一番知っています。不調和か調和かの意味も分かります。
 
不 調和の人や、妬みっぽい人や、怒りっぽい人や、そしりっぽい人や、嫉妬深い人間は完成に近いのでしょうか。未完成ですか。未完成ではありませんか。熟成が低いわけですし完成が低いのです。

毎日の生活の中で人を赦すことや
責めないことが不調和の克服となります。

 皆さん方が今、学ぶことによって、どんどん完成が高まったのではありませんか。今までの性格がころっと変わった人が大勢いるのではないですか。今までは人を赦さなかったのが、今では赦せるようになった人が大勢いるのではありませんか。

 私、知花の目の前でそんな話を聞く時がありますが、どうしてなんで赦し合いが出来ないのだろうと、悲しくなりますし、嫌になります。

 なぜ闇を増幅するのだろう、なぜお互いに赦しあって仲良く出来ないのだろう。それが愛であるためには赦しが先決です。その赦しを先行せねばなりません。

 人を裁くことによって良くなると思ったら、それは大間違いです。人を裁いて良くなった例はありません。

 人から欠点をいわれて良い気持ちになる人はいません。では、その欠点をつつかないことが重要ではありませんか。人の欠点を探りだして、あの人はここが悪いとか、あそこが悪いとかいえば本人は喜びますか、怒りますか、怒り狂います。

愛であるためには赦しを先行する以外は何もありません

 赦せる人になることです。愛であるためには赦しが先決です。「私は悪人になってもいいから、人をせめて良くするのだ」という人がおりますが、良くなりますか。人を責め立てて良くなりますか。良くなりません。

 その人を批判し、批判したら、その人は良くなりますか、悪くなりますか、悪くなる一方です。

 周囲を良くするためには、あなた自身が良くなればいいのです。あなたが良くなればあなたは世の光となります。

 世を照らす光になります。あなたの日常生活が赦しと愛であるならば世の光となります。光そのものです。これを今日から実行してみたらどうでしょうか。


毎日の生活の中で人を赦すことや
責めないことが不調和の克服となります。

 皆さん方が今、学ぶことによって、どんどん完成が高まったのではありませんか。今までの性格がころっと変わった人が大勢いるのではないですか。今までは人を赦さなかったのが、今では赦せるようになった人が大勢いるのではありませんか。

 私、知花の目の前でそんな話を聞く時がありますが、どうしてなんで赦し合いが出来ないのだろうと、悲しくなりますし、嫌になります。

 なぜ闇を増幅するのだろう、なぜお互いに赦しあって仲良く出来ないのだろう。それが愛であるためには赦しが先決です。その赦しを先行せねばなりません。

 人を裁くことによって良くなると思ったら、それは大間違いです。人を裁いて良くなった例はありません。

 人から欠点をいわれて良い気持ちになる人はいません。では、その欠点をつつかないことが重要ではありませんか。人の欠点を探りだして、あの人はここが悪いとか、あそこが悪いとかいえば本人は喜びますか、怒りますか、怒り狂います。


愛であるためには赦しを先行する以外は何もありません

 赦せる人になることです。愛であるためには赦しが先決です。「私は悪人になってもいいから、人をせめて良くするのだ」という人がおりますが、良くなりますか。人を責め立てて良くなりますか。良くなりません。

 その人を批判し、批判したら、その人は良くなりますか、悪くなりますか、悪くなる一方です。

 周囲を良くするためには、あなた自身が良くなればいいのです。あなたが良くなればあなたは世の光となります。

 世を照らす光になります。あなたの日常生活が赦しと愛であるならば世の光となります。光そのものです。これを今日から実行してみたらどうでしょうか。


 
愛に勝る薬はこの世にはありません

 完成を高めるとは愛を高めることだといえます。今日の一日をだれとも争わず、憎むこともなく、怒ることもなく、嫉妬をすることなく、一日一日を愛にて生きることが感性を高めることです。それを愛の一日といいます。

 それが病気治療の秘訣ですし、健康の秘訣です。これに勝るお薬がありましょうか。皆さん方に無銭でもらえるお薬を頂こうとしないで、お金のかかるお薬で健康を保持していこうとする人が如何に多いかといえます。

 私、知花がなぜ病気にならないか。その理由はどこにあるのでしょう。風邪も引かない。病気にもならない理由はどこにあるのですか。愛であるからです。

 私は小さい時から人を憎むことが嫌いでした。「あなたに感情がありますか」といわれたこともあります。それは一回だけではありません。人から罵られても、けなされても、けろっとしていることが出来る私でした。

 小さい時から性格的には「言いたいから言うのでしょう」としかいいませんでした。言いたいから言うのだと。それを赦せる自分だから病気にならなかったと思います。これは悪い性格ですか、良い性格ですか、人を赦せるとは悪い性格ですか、良い性格です。
 

徳を積むとは愛を積み重ねた者をいいます

 自分の悪口を言われて、すぐに怒り狂う人は性格的には良いのでしょうか。悪いのでしょうか。悪いのです。

 怒り狂ったら誰が損するのでしょうか。自分です。怒り狂って得する人はいますか。世の中に人の悪口をいって得する人がいるのでしょうか。

 あなたは人の悪口をいっている時には、損をしているのです。得してるのではありません。損するものは捨てなければなりません。

 徳を積むとは愛を積むことです。徳を積むとは愛を積み重ねることです。愛を積み重ねた人を徳を積んだ人といいます。徳の深い人とは愛の深い人をいいます。

 あなたが愛であれば、人の欠点までも消すことが出来ます。周囲の闇があなたの光で、打ち消されてしまうわけです。

 世の中を明るくするためには、世の中が愛でなければなりません。世の中が健康であるためには世の中が愛でなくてはならないといえます。

 50年前と私今とでは、病気の数知れず多く出ています。50年前と今とでは想像を絶するほどに病人が多く流行っています。

 今は25兆円が医療費に払われています。膨大なる金額です。毎年、毎年、恐ろしいお金ではありませんか。25兆円という金額は、国の予算は一年に70兆円であるのに、その金額の約三割が治療費に当てられています。

 そのお金は何の結果でしょうか、愛の結果でしょうか、それとも不調和の結果でしょうか。世の中の医療費が多くなればなるほど不調和になっているとみても、嘘ではありません。今、現にそうではありませんか。


魂を向上させる人を赦す心が愛の心です

 「人を赦す心、愛する心、これこそ皆さん方の完成を高める秘訣」ではありませんか。
 自分は完成の高い者か低い者かと誰が知っていますか。そして、完成を低めるも高めるも誰次第ですか。自分です。

健康になるも、病気になるも、誰次第ですか、自分次第です。
ですから、自己治癒力とは愛のエネルギーでもって、神性エネルギーでもって、我々は、「この世の無知と闇と悪を克服していくために努めねばなりません」。
 
 この清里の「安らぎの郷」が不調和の溜まり場だったら、この場所は闇の溜まり場になります。不調和の人が集まったら、ここは光になりますか。闇になりますか。

そして慈悲深い人が集まったらどうなりますか。光となります。これが正に磁場清めではありませんか。あなたが愛そのもの、光そのものになったら、あなたの行く所は全部が磁場を清めています。

愛の無い人が磁場清めが出来ますか。出来ませんか。真っ黒いものが真っ黒いものを消すことは出来ますか闇を被ったら磁場清めが出来ますか。

神官だといって何か白い服を着て、そんなもので家が清まりますか。土地が清まりますか。清まりません。その者が不調和であれば何の意味もありません。

愛は自力本願です

神は愛ですから、愛の人でなくてはなりません。すべての原点は愛ですから、天に帰るとは不調和の皆さん方が愛の皆さん方に帰ることです。神我は不調和ですか、愛ですか、大愛です。

 それには愛そのものになるわけです。真理の実践とは愛の実践です。不調和は神性でしょうか、非神理でしょうか。不調和は非神理です。愛の原理とか、愛の法則しかありませんから、あなたが不調和の時は愛の法則を犯しています

 では、不調和とは罪ですか、それとも罪ではないのでしょうか。罪人とは不調和の人を罪人というわけです。愛の人を罪人というのでしょうか、どちらですか。

 あなたが不調和を起こしている時は愛の法則を犯していませんか。能動と受動の法則を犯していませんか。犯しています。罪人・罪人といいますが不調和の人を罪人といいます。

 ですから、「病とは罪の結果である」といえるわけです。罪を多く犯せば犯すほど病に掛かります。苦しみます。愛になればなるほど、、健康になり、幸せになります。
「愛ある人は健康で幸せ」です。

 あなた以外にあなたを救える者はいません。他力本願ではありません。自力本願です。完成を高めるのは愛を高める以外にはないと思います。
 時々、私の目の前で争いごとを見る場合があります。

 争っている人は大人ですか。子供ですか。まだまだ未熟だなと、争っているのを見れば子供の争いを見るような目で見ることが出来るのではないでしょうか。大人になっても争うのでしょうか。

 子供は喧嘩します。それは未熟な者であるからです。大人が争っているのを見ますと、まだ未熟であるかと残念です。

 そのような場面が私の目の前でも見受けられます。それをやっている人は、また、それなりに気付いて頂かなければなりません。

 皆さん方は本当に自分から後光や、光や、力が出るためには不調和ではなく、調和の人になるように気付かねばなりません。


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するがごとく他人を愛します=全一体
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


完全とは『美』をいいますがなぜでしょうか

 あなたから不調和が無くなれば完成です。完成した時に皆さん方は祝福を受けます。未完成では神の祝福は受けられません。皆さん方が家を建築するのに未完成なのに祝宴を上げますか。完成祝いが出来ますか。出来ないはずです。

 では、あなたは今、神の祝福を受けてる者ですか、神の祝福を受けていない者ですか。それは調和だからですか。不調和だからでしょうか。

 あなたは不調和を美しいといますか、醜いといいますか。
不調和を、「これは不完全だ、美しいなあ」と言う人がいますか。

 完全になってはじめて皆さん方は、『美』という言葉が出るはずです。
ですから、皆さん方が自分を美しくするも、醜くするも自分次第です。

 全ては愛しか無いと思います。愛の他はありません。なぜかといえば宇宙には愛しか無いからです。愛のみが絶対実在となります。

 では、皆さん方の考えている不調和は実在するものでしょうか。実在しないものです。不調和とはなんでしょうか。実際にあるものでしょうか。無いものです。

 実在しているものは愛だけです。どこに不調和があるのでしょうか。どこから不調和が探せますか。無いはずです。
 
 ですから、皆さん方はその不調和を認めてはなりません。不調和は認めるべきですか。認めるべきではありません。認めるとその不調和にあなたが力を与えることになります。善悪の心とはその意味です。
 
 善なる心があるだけであって、悪なる心は本来ありません。
絶対善があるだけです。絶対愛があるだけです。

 善の心もあって、悪の心もあるというのは本当でしょうか、嘘でしょうか。悪なる心は実在するのでしょうか、実在しません。それは幻想であり、幻想です。悪とはすなわち幻です。実在しているのは愛の光だけです。


悪を認める者のみ悪があり、悪を認める心が悪に力を与えます

 あなたが本来知っているのは「神の愛のみです」。そのようにいえる皆さん方にならなければなりません。

 善悪を認めるが故に善悪の世界になってしまいました。絶対善しか認めない者にどうして悪が生まれてきましょうかといえます。

 善も認め、悪も認めたから、善悪の世界として、今この地上界が存在しているのではありませんか。善もあって、悪もあるのでしょうか。実在する悪はありません。絶対善があるのみです。絶対愛があるだけだと思います。

 その他の悪はあなた方の妄想にしか過ぎません。迷想にしか過ぎません。それらは信ずる心がそれらを生み出しただけですし、悪を認める心が悪に力を与えたわけです。


悪が熟してきますと善になります

 皆さん方は絶対なる愛でこの世の悪を克服していかねばなりません。愛こそ実在である境地です。絶対愛の境地です。ですから、皆さん方は悪を見たとするならば、まだまだ愛に目覚めていない状態です。

 この世の悪とは何かといいますと、まだ熟していない愛だと見て下さい。
どのようにしてこの世の悪を見ることが出来るかと言いますと、
熟成の低い善だと、まだまだ熟していない者たちだと見て結構です。

 悪が熟してきますと何になりますか。善になります。

 ですから、悪が多いのはまだまだ未熟だと言えます。
不調和が多いとはまだ未熟だといえるわけです。不調和の人間の事を未熟の魂といい、そして調和の人を熟した魂といいます。


真実(全一体・全ては神)を知った時
『自分を愛するが如く人々を愛します』争いはなくなります

 あなた方はまだ、外側で物を考えがちです。外観でものを考えがちです。真実を見ようとしないからです。この世で本当のことを、真実を知ってしまえば、争いません。

『自分を愛するが如く人々を愛します』し、調和します。

 あなた方が真実を知らない間は争いはこの世から無くなることはありません。非真実の中に生きている者のみに争いがあります。

 神理を知らない盲人や、無知の人のみに争いはあるのであって、真実を知っている人間に争いはありません。

 真実を知ってもなおかつ争うのでしょうか。誰かの悪口を言うのでしょうか。言えないはずです。誰かを憎むのでしょうか。憎めないはずです。嫉妬は出来ないはずです。

 この真実について、皆さん方は正しく見ることから初めて下さい。外側の結果で、あなたはこれをみかんだと見ているなら、あなたは正しくものを見ていません。

 ミカンは外側からみればミカンです。内側から観れば神です。全てに神が宿っています。

 あなた方は人間だと見ているなら、正しくものを見てるのでしょうか。一人一人の中に神を見なければなりません。

 内側を観れば神ではありませんか。内観すれば神ではありませんか。外側を観れば結果ですから、人間となるのです。

 しかし、その原因である神と結果である人間とは一体ではありませんか。一体です。人と神とは一体であり、人は神の中におり、神は人の中に留まりたもう。


正しく見るとは内側で心を開いて
ものを觀ることが正しく見るという意味です

 原因と結果は一つです。原因と結果が分離して存在できますか。原因のない所に結果が存在できますか。原因が一切の結果を生むのです。ですから、神は第一原因者だといえるわけです。

 神を観なさい。なぜ結果だけを見るのでしょうか。あなたの肉の目は結果だけしか見えません。真実は見えません。心の目を開きなさい。

 今日こそ開きなさい。真実を觀るようにしなさい。正しく見なさい。あなた方は今、正しくものを見てません。内側でものを觀ることが正しく見ることです。真実を觀ることが正しく見ることです。

 外を見れば非真実です。内側で心を開いてものを観なさい。私に心を開きなさいというのはこの意味です。

 あなた方の心の扉は閉ざされています。それ故に外側でものを見ています。
「内側を観れば全てが神である」ことを知ります。

 「全てに神を観る」であろう、『神が観たまうが如く、私は観たのである』という言葉を体験するであろう。


真実を知らない者がどうして神理が語れましょうか

 私、知花からみれば、皆さんの中に神が観えます。あなた方は全て人間だ、動物だ、鉱物だと見ていますが。

 私は全てのものに神を觀ます。それが内観です。正しくものを見るという意味です。真実を見るという意味です。

 真実が観えなければ、真実を語ることは不可能です。皆さん方は非真実を見て、非真実を語って生きています。

 それは全て偽りです。偽りの自分が、結果の自分が、真実を知らない者がどうして真実を語り得ましょうかと言いたいのです。

 真実を知っている者のみが真実を語ることが出来ます。真実が何であるか分からないで、真実をどうして語れましょうかということです。
 すなわち神理を知らぬ者がどうして神理を語れましょうかと言いたいのです。

 皆さん方も神理を知らないで神理を語る事が出来ますか。神理が何であるか分からない者が神理を説く事が出来ますか。

 神理は空想の産物ですか、それとも真実ですか。いかに神理を空想して、幽想しているか、推測しているかといえるのです。

私たちの心臓の鼓動や動悸が神のバイブレーションです

 我々は神から直接に、ご加護を頂いているのでしょうか。それとも間接でしょうか。直接にご加護を頂いています。

 「あなたの中に神はおられる」のであって、神棚の中から間接的に頂くのではありません。今、あなたを管理している神がおらなければ、即、あなたの肉体はストップします。

 あなたの心臓の鼓動の一つ一つが神の鼓動ですし、宇宙のバイブレーションですし、神の息です。

 我々の中で息をしているのは誰ですか、あなたですか、それとも神ですか、神があなたの中で息しているのであって、あなたが息しているのではありません。
「息は宇宙には一つ」しかありません。

 そして、命は一つしかないのに、命が3つも4つもあるはずがありません。我々の心臓の動悸も全ての動悸も同じ動悸でその一つ一つが宇宙のバイブレーションです。それが神との一体観です。

 そうした時に皆さん方のバイブレーションは宇宙の神のバイブレーションと同じ周波数を放射します。そうすることによって、皆さん方に変性変容が起こります。

「変性変容とは神との一体観」です。
「自分の心臓の動悸そのものが神の心臓の動悸」です。

 (神の)鼓動であることを自覚することによって、私たちのこの肉体の粗雑なバイブレーションが宇宙のバイブレーションと一体となって、
一秒間に一兆八千億という精妙な鼓動を体験いたします。

生命をキリストといいます

 迷っている人とは肉や血を己として生きている者です。真のあなたは血や肉でしょうか、それとも生命でしょうか。

『我、生命なり』と、我は血や肉ではないのだといえる己として、はっきりと生命の自覚ができた時に、皆さん方は一切の悩みや、苦しみから開放されるのです。

 自我(分離意識)で生きている限りは、自我は罪であり、病であり、死です。
神我は罪を知らず、病を知りません。生命である神我こそが唯一の救い主であって、唯一の道であるといえます。

 ですから、『キリスト』を受け入れよと、キリストを受け入れない者は、生命を受け入れない者です。その者に救いはありましょうか。

 「生命キリスト」が「唯一の救い主」であることを知らなければなりません。キリストとは今のキリスト教のいってるキリストのことを意味しているのではありません。

 あなた方の『真我のことをキリスト』と私は呼ばせて頂きます。
あなた方の『生命のことをキリスト』と呼ばせて頂きます。

 「生命」こそが「唯一のキリスト」ではないでしょうか。
唯一の神」ではないでしょうか。
唯一の神理」ではないでしょうか。その他に神や神理があった試しはありません。

 生命は非神理でしょうか。神理そのものでしょうか。
生命」を知ることが「神理」を知ることです。
生命」を知ることが「神を知ること」です。
それが「己を知ること」となります。

あなたは「生命」であるから『我は神理なり』と
あなた方はいつか言うであろうと、
我、神なり』というであろうと、
我、生命なり』と言うたらよかろうと。
そのように「真のあなた(真我)」であることに
目覚めていただきたいのです。

神は力であり、無限者であり、普遍者である

 ですから、神は力なりけりにまります。宇宙エネルギーそのものが神だと、判断できるわけです。
その宇宙エネルギーが全ての物を作り、その宇宙エネルギーが全ての中に生きていますから、神が一切のものを創り、「神が一切の中にいる」のです。

 ですから宇宙エネルギーがあそこにある、ここにあるというものではありません。神がここにいる、あそこにいるという存在ではありません。

 「宇宙エネルギーそのものが神そのもの」です。
宇宙エネルギーが全ての創り主」ですし、「全ての存在」です。

 神が無限者であり、普遍者である意味がハッキリ判りましたか、
その宇宙エネルギーは如何なる者の制限も制約も受けない、祭られることも無い。

 その神が人間の手で祭られる事がありますか。とんでもないママゴト遊びをしていることが判りましょう。
 ですから神は宇宙科学だといえましょう。科学そのものが電気化学だといえます。

 その電気状態にはプラス・マイナスであり、陰陽の法則であり、陰陽を多く含んだ物を影石と呼び、陽性を多く含んでいるのを陽石と、これを男の石と女の石ともいいます。

 植物にしても雄しべと雌しべとがあります。動物にも雄と雌があります。
そういう物で「宇宙は全部全て電気状態」だと言えます。

 「神は光」なり、「電気は光」です。「神は光なりき」、そのプラス・マイナスのエネルギーが光となります。この電気は神の具現だともいえます。神の現れです。

 ある程度の現象化されたもので、なるほど「神は光」なのだと判りましょう。
そしてこれがモーターとなって、力となって動きますとどんな大きな物でも、動かすわけですから、なるほど神は力なりきと、力は神なりき、そしてエネルギーと同時に光であると判りましょう。

 神が何故力なのか、神が何故光なのかという意味も、そのプラス・マイナスの電気で証明されています。ですから今までの人々が言っているような神様はどこにも存在しません。

 空想の神様はいないのです。現実の私達の日常生活の一分一秒の中で我々は神と共に生き、神は我々の中に生きているという意味です。
 我々は宇宙エネルギーの中におり、宇宙エネルギーは我々の中にいるのですから、神は我が中にましますとなります。
 
 即ち私達は宇宙エネルギーの中に今おるのであって、宇宙エネルギーは我々の中におるわけですから「人は神の中におる」といえます。

 即ち「私達は宇宙エネルギーの宮」であるという意味で、
「宇宙エネルギーの住み家」であるとなります。

この肉体は宇宙エネルギーによって創られた宇宙エネルギーの住み家ですから、宇宙エネルギーがなければ、「宇宙生命」がなければ、

 「宇宙霊」がなければ私は創られもしませんし、ここににも存在していません。であるが故に「神は存在の本源」です。

 肉体を持つ「人間の本性・本質は神」だということが判りましょう。
ですからイエス様は「全ては神」と言われました。神によらないでものは存在しません。
 宇宙エネルギー(神)が一切のものを造り、宇宙エネルギー(神)が一切の中に住んでいます。

全ては宇宙法則に支配されている

 今、地球上ではエントロピーの法則といいますが、科学的物質を使わねばなりません。私のいう科学とはこの科目ですが、今は化け学といいまして、分子状態を変化させてしまうのを化け学といいますが、この化け学が世の中を滅ぼすのです。

 私の言う科学とは科は理科といいまして、皆さん方は理科を知りません。科学を知りません。神そのものが科学です。宇宙そのものが科学です。宇宙科学とはその意味です。

 私は科学と言ったら神と言いたいのです。宇宙科学そのものが神だと言いたいのです。宇宙科学が神ではありませんか。

陰陽の法則(愛と調和)そのもの、原因・結果の法則そのものが神です。

 神や法則が神棚や神社・仏閣や教会におるものではないし、神は遥か彼方におるものでもありません。
 その法則(神)は全宇宙を抱擁し、全宇宙に遍満しています。
ですから、神の存在しない所は無いというのはその意味です。

 「私のいる所に神がいて神のいる所に私がいる」と言いたいのです。
皆さんもその通りです。皆さん方も宇宙法則(神)の中におり、
宇宙法則(神)は皆さんの身体の隅々にまで働いています。

 ですから神は唯一の働き手であり、偉大な下僕の方であられる。神は私の中で今、肉体を保持し、保全しているわけです。働いているのは神であり皆さん方に働いている働き手と何が違いますか。働いているのは別ではありません。一つです。

 ですから宇宙には一つの法則しかありません。一つ様の神、一つの神しかありませんが、我々の神というのは神を知らない言い方です。神に対して無知なるがゆえに宗教的な神を造ります。

 甚だしい者になるとイエスが神だと、釈迦が神だと、日蓮を神だと言います。神は個人ではありません。
 今はもう、現在の宗教に終止符を打つべきだと思うのです。あの姿を男と言うかといえば盲信・狂信というのです。盲目の信仰、迷の信仰です。


人間は、本当の自己を知らないから迷い、言葉に躓くのである

 このエネルギーがどこかに制限や束縛を受けたりしますか、
このエネルギーは自由自在・観自在・無碍自在です。

 あなたの本当の「自分という存在は宇宙エネルギーそのもの」である事が、
ハッキリ理解出来て初めて、いかなる者の制限も制約も受けない無碍自在となります。

 これを「観自在菩薩」といいます。皆さんは自由な存在ですが、不自由な存在ですか、あなたは元々自由自在なのに、あなたは妄想しています。妄信しているのです。

 自分は肉体的存在でもないのに肉体的存在だと妄信しています。ではあなたは肉体的存在ですか、「遍満するエネルギーの存在」ですか、「エネルギーそのもの」だと思います。

 あなたがもし自分を、我、肉体なりと思っているならば、妄信であると同時に妄想です。
その妄信・妄想があなたの自由を全て束縛しています。

 あなた実体は肉体的存在ですか。肉の正体は何でしょうか。
肉体は有るのでしょうか。勝手にあなたが肉体と思っているだけです。

 これは肉体形体なのかエネルギー形体ですか、エネルギー形体です。
肉体は無いのにどこから肉体形体という名前が出て来たのでしょうか。
エネルギー形体とはエネルギー体をいい、即ち「霊体、生命体」をいいます。

その「霊を霊エネルギー」といい、
「生命を生命エネルギー」と言うのです。

 ですから「唯一の霊・唯一の生命・唯一の神」しかありません。
エネルギーと、「生命と、霊と、神」と、何が違いますか、「同じ」です。
その言葉につまづくとは、その言葉を理解していないからです。

 言っている言葉の意味が判らない状態を躓くといいます。
生命という言葉を理解できないから、その生命という言葉に躓いているのです。
 あなたがその生命という言葉を理解しているならば、その生命という言葉には躓かないのはずです。

 霊とは誰でも言いますがその霊が判らない状態を、霊に躓いているといいます。
ですから幽霊や地獄霊だ水子霊だというのです。全部がエネルギーです。

 この世に霊(生命)でないものが何か一つでもありますか、あなたは霊形体ですか、肉体形体ですか、霊形体です。
 全ては霊(宇宙霊)です。霊(大愛)の他には何もありません。
エネルギー(宇宙生命)の他には何も無いのです。

 即ち神の他には何もありません。「神のみが独存する」というのはその意味です。
「エネルギーこそ絶対実在」、「神こそが絶対実在」、「全てが神」であり
「全てがエネルギー」である、「全てが霊」であるといえます。

 ですからイエスは「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」と言われたのです。


◯光のあるうちに歩め

 「霊光」
霊は光ですから、あなた方から霊が抜けますと真っ暗闇です。
だから「光あるうちに歩め」というのです。
光のあるうちに歩めというのですけれども・・・・・。

 皆さん方は、今、光を宿しているわけです。
霊を宿さないで、皆さん方は生きていられますか。生きていられませんか。
生きているのは、肉体ですか。霊ですか。
肉体というものは初めから生きていません。

 この肉体というものは、
霊の媒体にしか過ぎないのです。
この肉体というものは、
霊の操り人形にしか過ぎないのです。

 霊は能動原理
肉体は質料で出来ていますから、受動原理は自らは「無」です。
肉体自らは動きません。

その肉体という質料が生きて働くならば、
霊が抜けても働いていなければならないという事になります。
しかし、能動原理である霊が抜けますと、
もう、皆さん方は、言葉一つでないし、動くことも出来ないのです。

それなのに、
皆さん方は、なぜ、霊を嫌うのでしょうか。

「闇は光を嫌う」
なぜかといいますと、光現れると闇は存在出来なくなるからです。
貴方の肉体という無明が、光明である霊を受け入れたら、
貴方の肉体は無明となるのですか。光明化されるのですか。
「光が現れれば、闇は消える」の言葉のように、闇は消えてしまいます。

 例えば、
この部屋の電灯を、全部消しますと闇の原子が残ります。
原子そのものは、闇であろうが、光であろうが存在しています。
電灯をつけていようが、消していようが、初めから原子は存在しています。
電灯を付けますと、
闇の原子から、光の原子になります。

 あなた方の中で、
その聖なる火「法燈(全一体感・父なる神と一体の境地)」、
即ち、霊的光(全てに神を観る・我神なり)を自覚出来るようなりますと、

貴方の肉体の細胞は、
闇の原子から、光の原子に「変性・変容」を遂げるのです。
「変貌(愛の霊光そのものに変性変容)」を遂げると言う事です。
お分かり頂けますか。

 その時、皆さん方は、もうこの世の闇の影響は受けないのです。
光と闇や同居できません。
その意味は何かというと、あなたが光るものになりますと、
その光の世界に、外から闇は入れないのです。

◯霊光を浴びる事は、日の洗霊、光の洗霊となる

 この世の災いというものは、
光でしょうか。闇でしょうか。幸い簡単なのです。

 あなたが、
その肉体が「(我神なりの自覚を)容認」した時、受け入れた時、
あなたのその肉体は光姿態になりますので、
そうしますと、あなたはもう「病」に掛かる事はありません。

 病は光から来るのですか。闇から来るのですか。
「病は闇から」といいまして、
その闇は光が現れれば消える。即ち、病気は消える。消えてしまうわけです。
だから皆さん方が、今、病気になるという事は、
その霊的光を受け入れているからですか。受け入れていないからですか。

 光に闇は入って来れない。
電灯の点いている部屋に闇は入れますか。存在できますか。
「類は類を呼ぶの法則」なのです。
光は光を呼びますし、闇は闇を呼ぶのです。意味お分かりですか。

 あなたが、
あなたの肉体が「私だ(分離意識)」という時に、
あなたは光るものでしょうか。闇でしょうか。それは闇なのです。
これを「闇人間」といっているのです。
霊的人間(全一体・真我覚醒した人)の事を「光り人間」というのです。

 霊は光です。
質料は、物質は闇です。
だから、この地上界の物質世界の事を、光明世界とは言わないのです。
何というと思いますか。それを無明世界というのです。

 しかし、その無明である物質が光を受け入れたら、
その物質は何になると思いますか。それは光になります。
これを「地上天国」というのです。
即ち「如来」の事です。
光が「降臨」したという事です。

 だからあなた方が、
この霊と肉との一体感になった時、無明というものが存在するのでしょうか。
光が現れても、闇は存在できるのでしょうか。
あなた方は、一旦その霊光を引き受け、イルミネーションを受けたのなら、
再び闇になるのでしょうか。ならないのでしょうか。

 あなたが、一旦この霊光を浴びますと、
これを光のシャワーといいますけれど、
これを普通は「火の洗霊」といいます。
「光の洗霊」です。

 あなたの全身が、
その霊光に満たされた時、
あなたの細胞一粒一粒は「白光」を放つようになるのです。

 「白光」を放つようになりますと、
もうあなたには夜というものがありません。
なぜかといいますと、
あなたの細胞から放つ光ではないのです。
光明だけ、昼だけ、「昼・昼」といいまして昼だけ存在するわけです。
電灯を消しても躓く事はありません。見えるのです。

 あなたから放つ光が、
じゅうたんの色から模様から全部見えるようになります。
あなたが本当に、霊的自覚を持ち、
霊肉一体のバランスが取れていたとするならばです。

 大霊あるのみですから、
その大霊は「宇宙霊」ですから、
普遍ですから「普遍光」、無限大ですから「無限光」になるわけですから、
その時、
本当にそれを受けているか、いないかは、嘘はつけないのです。

 その人からは、目も眩まんばかりの白光が放ちます。
大霊を受け入れたとするならば、無限光を受けるわけです。

◯燦然と光り輝く光明、その光人間となる

 宇宙に、光は幾つありますか。
無限光しかありませんので、大霊しかありませんので、
その大霊を受け入れる事によって、
皆さん方の一切の悩み、苦しみ、それから開放されるのです。

 悩み、苦しみは、
皆さんの「肉我」という無明の世界に生きるが故に「ナ・ヤ・ミ」です。
悩みは光でしょうか。闇でしょうか。
その時、あなたが光るものになった時、
一切の闇、悩み、病も消えますので完全となるわけです。

 イルミネーションを受けたら、
不完全になるのでですか。完全になるのですか。
完全と光り輝く光明となります。

 これは、光(真我に覚醒めた)人間となりますので、
一切の悩み、一切の病苦から開放されるのです。
その時、皆さん方は「完全人間(神との合一)」なるのです。
「光人間(神我顕現)」となるのです。
 
 これが「イルミネーション」
「魂の光輝」即ち、肉体から「白光」を放つという事です。
 釈迦しかり、イエスもそうです。

 霊光、大霊を受け入れる事によって、
その器が、
「外なるものが内なるもの(キリスト神我)を受け入れた時、
外なるものは内なるもののようになる」と。

 無明が光を受け入れた時、無明は光となるという事です。
光明なる魂となるという事です。

 これを「マイルーパー」と言いまして、
皆さん方の細胞一粒一粒が、光の細胞、即ち、粒子に変わのです。
そこで、元素転換が行われます。

組合せが、全く違った組合せのものになります。
分解したり、組み立てたり、自由自在のものが出来のです。

 「変身」といいまして、
自分の肉体を人の前から消して、普遍的なものに変換しまして、
そしてどこかで、
そのバイブレーションを下げまして、肉体を意識しますと、
その肉体、自分の行きたいと思う所で組み立てる事が出来ます。

 これを「テレポーテーション」即ち「テレポート」というのです。
しかし、あくまでも、霊肉一体が出来た人のみ可能です。


知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


地球は魂を完成させる場である

 百点満点が取れるようになった時、神様はあなた方を選ばれます。
(もうこの者は大丈夫だ。もっと高度な勉強をさせてもよい)
とおっしゃって、高度な惑星に連れて帰るのです。

 しかし、向こうでもまた修行です。
 今、地球は中程にあります。下段でもなく、中段です。

 これよりももっと下に、霊の低級の次元があります。
 今、人間は、真中にあり、完全でも低級でもなければ、高級でもないのです。

 宇宙には太陽系惑星があり、高級の惑星が金星であり、水星であり、土星であり、地球惑星より優れた惑星であるのです。

 この地球で問題を解いてそこに帰る魂を、皆さん方は「成仏」と呼んだり「昇天」と呼んだりするわけです。

 問題は地球にあります。真の生き方(神我顕現)をここで学んで、その神理に基いて生きられるようになると、この地上界には生まれ変わりはしません。もっと高度な惑星に上がれます。

 これを「昇天」と言ったり、地球からの「解脱」といいます

 それを成し遂げないかぎり、地上界の浮き沈み(地球での輪廻転生)の世界で勉強させられます。

 体験ですから、まあ、それもよいでしょう。しかし、本当は「今世で卒業して、みんなで帰りましょう」と言いたいのです。

 高度の惑星に連れて帰るために私(知花先生)は、この地球に来ているので、皆さん方に高度な神理を説き、その神理に基づいて生きて、そして完成し、皆さん方を連れて帰りたいのです。

 高度の惑星に帰ると、皆さん方は向こうでは「天使」と呼ばれます。高度の惑星では、地球から卒業した人材のことを「天使」と読んだり、「ハイアラーキー」と呼んだりするわけです。

 高度な惑星から肉体を持って指導者として、地球の我々の魂の兄弟を救済しに天使が降りてくるわけです。

 地上の母なる肉体、お腹を借りて誕生して、普通の人間のように生まれてくる天使と、そのまま肉体を持って、ポツリとどこかに存在して導く天使と、二通りの天使がいます。

 皆さん方が、空想、妄想しているような天使ではありません。
 天使方は、宗教的、オカルト的、空想妄想的な、目に見えない存在ではありません。

 今、この地球上に別の惑星から何万という天使方が、人類救済のために降りてきていらっしゃいます。その方々を、皆さんは「宇宙人」と呼んでいますが、正に、宇宙人です。

「イエス様は宇宙人であった」とか、「お釈迦様は宇宙人であった」といいますが、その通りです。あなた方も宇宙人です。

 「一なる宇宙」の中に存在する。1個の惑星が地球であって、あなた方は宇宙人だからです。

 その理由がおわかりだと思います。ですから、「天使方は、正に高度な宇宙人である」というわけです。

 イエス様が「わたしは上から来た者である。あなた方は下から来た者である」といわれたことは聖書にも書いてあると思います。

「下から来た者」とは、低次元の惑星から徐々に進化してきた者のことで、私達は地球の中間の学びをしているわけです。


人間の目的は何でしょうか。

 魂の向上、「自己完成」が最大の目的です。自己完成、魂の完成のために地球があるのです。

 この地球上で学ぶものがなくなったならば、もう1段高度の惑星に移される。それを「甦る」といい、「昇天」していくわけです。

 この地上界で完成されていない者は落第なので、それが完成されるまで地上界で生まれ変わりをします。

 「輪廻」を繰り返すのです。

 昇天すると、輪廻する者。高い方に帰るか、また、落第してここに生まれるか。それは、あなた方の自由意志です。

 今世で本当に神理を理解し、正しい道、方に添った生き方をすることによって、あなた方が完成されるわけです。


 あなた方は、今、それを求めておられます。そうした時、世の中の幸せはあなた方が造りだします。

 あなた方が救われた時、あなた方は世の中の指導者になります。あなた方を通じて人々が救われていく。それだけ高度な指導が出来るのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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プロフィール

斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

 そのノウハウを全て無償で公開しておりますので、もし良かったら皆様も、小顔・高身長の翔平スタイルになって幸せで喜びに満ち溢れた人生を満喫して下さいね♪ 


 スピリチュアルと精神世界・悟り追求者の為になる、宇宙神理(真理)が学び放題な良質な情報を豊富にご用意しております。

 悟りの追求者の方々へ何かしらお役に立てましたならば光栄の極みでございます。修行中の創造主であられる貴方の素晴らしい人生に乾杯♪

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