上江洲義秀先生 ご光話
「神を演ずる」 2007,11
皆さん、こんばんは。
皆さんはこの大舞台という地球に、何を演じに肉体衣装をまとってきたのかと。それは人間を演ずるためではなく、我は神なり、神を演ずるために、我々は今肉体という衣装をまとっていることを知ってもらいたい。
皆さんは、この一転生という人生を通して、神を演じ終えてテストに合格し、解脱に至ってもらいたい。
つまり解脱とは、この現象という見える世界から、宇宙真理という本質の世界に卒業して帰りいくことを解脱と申します。
我々が神を見失って人間意識・肉体意識・個人意識という物質世界に踊り踊らされて、何万回でも輪廻転生を繰り返してきたことを知ってもらいたい。
皆さんに思い出して欲しいと、何万回輪廻転生すれば気が済むのかと。神は遊び疲れた者よ、我が元に来なさいと。
いつも、この肉体という衣装をまとうたびに、偽我意識を演じ、一向に合格して、神の御心に帰る者がいない。
ゆえに今生こそは神を演じ終えて、テストに合格し、今生こそは実相という本質の世界に帰って来いという意味ではないでしょうか。
遊び疲れた者よ我が元に来なさい。我が元で永遠の至福を味わい生きよと。神を演じ合格し終えた者は二度と再び苦しみを悩みを、この現象の世界で演じ生きることはありません。これこそ解脱ではないでしょうか、これこそが離脱ではないでしょうか。
解脱とは、離脱とは、ただ肉体を破壊することではありません、肉体を脱ぐことではありません。今肉体を持ちながら、皆さんが無限という宇宙意識の中に目覚め生きることを解脱と申します。
皆さんの幾転生という人生をかけての最高の希望ではなかったでしょうか。何か知りたい、何かつかみたい、何か得たい、ここまで皆さんが追い求めてきた何かは、無限という宇宙意識の中への融合そのものではなかったでしょうか。
つまり神は我なり、我は神なり、我と神とは常に一体なりという神との合一、神との融合、それ成さずして皆さんはこの世界を卒業し帰ることはできません。
神を我として愛を、仏を我として慈悲を、常に演じ生きてもらいたい。皆さんは何を演じにきたのかと、憎しみ怒りを演じるためではありません。神の無限の大愛そのものではないでしょうか。
だから愛美しく常に正しく生きよと、お釈迦様はそれを八正道の物差しと、我々に説いて教えたではないでしょうか。
八正道の物差しを中心にして生きることができるならば、泥沼に花咲く蓮の花よりも、神我という美しき花を開花させることができるだろう。
それで南無妙法蓮華経を説いたではないでしょうか。けして南無妙法蓮華経・南無阿弥陀仏は死んだ人間を成仏させるために説いたものではありません。
生きている我々に宇宙真理という法則を説いて、無限という大海の中に融合させること、それが南無妙法蓮華経であり、南無阿弥陀仏であることを知ってもらいたい。
だから人間意識・肉体意識・個人意識から神性意識・霊性意識・仏性意識へと、皆さんの目覚めを、神は常に待ちわびているではないでしょうか。
目覚めよ、目覚めよと、けしていつか虚しく朽ち果てていく、この偽我という小さな肉体が真のあなた方ではなく、宇宙そのものとして無限大のあなた方であると。
宇宙、即、我、宇宙即我 、父なる神と我とは一体なりと。それを皆さんが八正道の物差しを中心にして正しく生きることができるならば、誰しもが無限という合一ができると説いているではないでしょうか。
正しく見、正しく思い、正しく聞き、正しく仕事をし、正しく生活をと、一番最後に神との合一、仏との合一、定めに入ると言っているではないでしょうか。
人間意識・肉体意識・個人意識で、この現象の世界を卒業し帰れた者は一人もおりません。だからこそ六十何億の人間が輪廻転生という法に縛られて、ここに舞い戻ってきたではないでしょうか。
肉体を持つ方法は二通り、正しく神を演じ終えることができなかったゆえに、またやり直しのために輪廻転生で、この現象の世界に肉体を持って降りてきた者。
今生神を我として演じ終えて卒業し帰ることはできた、しかし自分だけ神の至福を味わい生きてはならぬと、愛おしい同じ兄弟姉妹のために、愛の手を差し伸べていきたい、
光の道を示してみたい光明路、天船に乗せるために光明路を印に肉体をまとってきた者。だから二通り肉体を持つ方法があると言います。
けして皆さんは輪廻転生という仮相の法則に縛られて肉体を持つのではなく、今生こそは兄弟姉妹のために愛の手を差し伸べに、光明路という光の路を示しにくるあなた方になってもらいたい。
あるいは今生卒業して帰った者は肉体持たずしても、一人一人の守護霊として、守護神として留まる方もいましょう。
皆さん一人一人には、目覚めるまで皆さんを守護している方が、常に見守っていることを知らねばなりません。
守護神・守護霊、意味するのは一つです。皆さんが目覚めるまで、常に皆さんを導き下さっているではないでしょうか。
なぜ見ることができぬのかと、なぜ語り合うことができぬのかと、それは余りにも我々が物質主義者で生きてきた結果ではないでしょうか。
だから物質主義者から霊的思考者へと、我々が変生変性を遂げぬ限り、皆さんを見守る守護神も、守護霊も、あるいは指導、導いている方々も、また内なる神の声さえも聞くことはできぬだろう。
守護神・守護霊とは、我々みたいに肉体という現象我を背負って、幾転生という人生の過程を、様々な試練を、すべて愛で乗り越えた方々が守護霊・守護神として、あなた方を導いていることを知ってもらいたい。
皆さんは私だけが生きているというならば大きな過ち、皆さんには守護霊が、無限の全知全能なる神が、皆さんの内にはちゃんと内在していることを知ってもらいたい。
皆さんは世界の果てに旅行に行ったところで、世界の果てどこまで行ったところで、皆さんは私一人ということはないことを知ってもらいたい。
常に皆さんには複数の指導霊・守護霊や全治全能なる内なる神が一時も離れずに、皆さんを見守っていることを知ってもらいたい。
人間意識・肉体意識・個人意識で、どうして物質思考者が、それを見ることができましょうか。
私が意識でもってヒマラヤを訪ねた時に迎えてくれた聖人が、私にこう言いました。なぜ同じ場所にいながら、我々の姿を見ることができぬのかと。なぜ同じ場所にいながら、我々の御言葉を聞くことができぬのかと。
それは余りにもあなた方が物質・物質に支配されて肉体を自分として、この物質世界がすべてだという錯覚が大きな雲で、自らの神我を覆って、その声さえも聞くことができぬではないのかと。
だから心から一切の執着を、すべての思い癖、悪習をすべてこぼし去った時、皆さんの心は美しく輝くだろう。
美しい心に無限の愛で満たした時に、皆さんはすべてのすべてを正しくものを見たり、感じたり、聞き取ることができるだろう。
すべては美しき天使たち、無限に飛び立つ美しき天使たち。すべてに本質である天の姿を、皆さん感じ取ることができるだろう。
皆さんの前に、ただ結果として花々が咲き誇っているではありません。結果として咲き誇っている花々の背後には、必ず原因という無限の愛が宇宙真理として、神の御姿を見せていることを知ってもらいたい。
私は一度に二通りを見ています、形として結果なる花々も美しいと見ると共に、その背後にはより一層命の輝きを神の御姿として、真の美しいものとして見ることができると言います。
ここに立ちながら見るあなた方は、いつか虚しく年老いて朽ち果ていくあなた方ではなく、不死不滅永遠の美しきあなた方を神我として、私は今感じ見ていることを知ってもらいたい。
単なる女性として、単なる男性として、皆さんはここに肉体をおいているではありません。その背後には永遠不滅の宇宙真理を、神の実在として宿していることを知ってもらいたい。神は皆さんから一瞬感だって分離したことがありましょうか。
皆さんがまず明想という手段を通して深く自らの内に潜って、そこに神を見い出した時に、ここに神がいたのかと皆さんが言うならば、私はあなた方から一度だって離れたことはないのだと、
過去において、今において、未来永劫に、あなた方の内にいるにもかかわらず、あなた方が訪ねて来なかっただけにしか過ぎぬではないのかと、かならず神は皆さんにそういうだろう。
その時皆さんは今まで至るところに神よ・神よと求めて梯子していた方々が、神は我が内に在り、手よりも足よりも、初めから身近な我が内にいたと、神との融合されていくだろうと。
何年か前に私はこういう体験をします、八十何歳かの方が神を知りたい、神を見たい、神を実感したいために、いろんな宗教を梯子しながら何千万という金を使ったと言います。
しかし今の宗教に神を見せる能力はありません。偶像崇拝・盲信・狂信の中に、どうして神を見ること、実感することができましょうか。汝盲信するなかれ、汝狂信するなかれ、汝偶像するなかれ、座して神を拝むことなかれ。
そのように何千万という金を使いながらも、神を見ることも、実感することもできなかった。今の宗教には神を見せる力がないのかで、神を宗教で求めるの止めて神社・仏閣・お寺・教会・宮を梯子したと言います。
そこでも見いだすことができなかった、とうとう探し疲れて探しあぐねて、我が内に帰りソファーに座りぼんやりしていると、神は内から答えたというではないでしようか。
神は我が内に在り、あなたの心はどこをさ迷っているのかと、それで初めて目が覚めたと言います。
だから私が断言して皆さんに言い切ることは、どんな方法で皆さんが神を見い出したにしても、地球の果ての果てまで行っても、神を誰かによって皆さんが与えられて見い出したにしても、
必ず皆さんがいうことは、神は我が内に在り、いまだかつて人手に渡ったことはなかったと。
あるいは神は手よりも足よりも、身近な初めから我が内にいたと、必ず言うでしょう。
なぜならば今私はすべてのすべて在って在るものの中に、今神を見、今神を感じ取っているからである。神のましまさぬところがどこにありましょうか、
針先一点空間なくそこに神は偏在し、遍満していることを知らねばなりません。
だからこそ神は無限なり、神は一元なり、神は愛として完全なりというのは-神ほかに何かがいるというならば、神は無限ではありません、神一元ではありません。
何を見ても形の背後には、形態・姿の背後には、本質神そのものが内在しているがゆえに、神はすべてのすべて、在って在るものを通して生きる宇宙真理・命と言えるではないでしょうか。
神ほかに何かが見れるというならば皆さんの目は盲です、目は曇っています、目を見開いた者はすべてのすべて在って在るものに神を見ることができるだろうと、神を感じ取ることができるだろうと。
花々は結果として単なる花々が、ここに咲き誇っているのではありません。その背後にはその花々を咲き誇らす力が、愛として神の実在として働いていることを知ってもらいたい。
だから人間・肉体・個人という己の働きなんてないと言います。肉体自らは無なり、肉体自らはゼロなり、肉体自らは一点の力も存在しているのではないのだと。
しかしあなた方が神、我として一体感の中に融合し自覚した時には、全知全能なる能力はあなた方が観自在・無碍自在・自由自在に示し生かすことができるだろうと。
けして皆さんはいと小さき、弱き存在があなた方ではありません。すべてのすべてを超越できる神として、皆さんは真実なる宇宙生命であることを知ってもらいたい。
真実を見る、真実を思い、真実を語るとは、真実はこの大宇宙ただ一つ、神のみが真実です。だから皆さんが神を語れなければ真実を語ってはおりません。すべてのすべて在って在るものから神の御言葉を、メッセージとして受け止めてなければ、真実を聞いてはおりません。
いつか虚しく朽ち果てていく五感という結果世界に、五感で振り回されて、あたかも本物のごとく見たり、感じたり、捉えたりで、なんてそれに振り回されて、真の正しい演技を見失っているのかと。愛として慈悲として神仏を演ずるために、今地球という大舞台に降りていることを知ってもらいたい。
何を演じにきたと言いましょうか。憎しみ、怒りと言いましょうか、戦争・闘争と言いましょうか、それほど愚かなる者はいません。
だから人間という愚かなる者は肉体まとう前には、正しく神を演じて今生こそは偽我の自分から神我の自分へと、低我の自分から高我の自分へと、今生こそは解脱に至って参りますと、
その約束で肉体を持ったのにもかかわらず、また歌を忘れたカナリヤのように、演技を演ずることを忘れて、また偽我そのものを演じて、憎しみ・怒り・嫉妬・裁き・戦争・闘争・対立となんて愚かなる者が、そのような結果を皆さんは見てはなりません。皆さんは美しき大愛を演ずる最高な大舞台に立っていることを知ってもらいたい。
何を演じましょうか、何を演じ終えて帰りましょうか。今生こそ一人一人が卒業し帰り行くことができるか、また輪廻転生という鎖に繋がれるか、今生は非常に大切な時。
イエス様は幕が二つに引き裂かれる時が来るだろうと、今の時代・今の流れを預言されています。
それは霊的思考者として目覚め、神を我として正しく演じ終えて卒業して帰れるか、また物質思考者として物質に振り回されて偽我そのものを演じて、また我々は演技し直すために、輪廻転生をくり返す愚かなる者となるのかと。
無知のままに、盲のままに、迷いのままに去るあなた方になってはなりません。無知・盲・迷いとは私私というけれど、本当の私が見えない者を盲というではないでしょうか。
私私言いながら、真の私を知らぬ者を無知というではないでしょうか。私私と言いながら、真の私を理解できぬ者を迷いというではないでしょうか。
だから無知のままに、盲のままに、迷いのままに一転生という人生を終えてはなりません。今生こそは皆さんに真実神を我として演技を終えて、真の自分が神であることに目覚めて、今生こそは解脱に至ってもらいたい。
そのためには偽物を一切皆さんは脱がねばなりません、肉体という現象我も、これは皆さんに破壊せよという意味ではありません。
粗末に扱えという意味ではありません。与え生かされている限りは、この肉体も常に大切にして神を演ずる道具として、大事に扱わねばなりません、粗末にせよという意味ではありません。
しかしそうある中にも皆さんの意識は、この肉体という束縛・制約・執着からは脱ぎ捨てていなければなりません、それが出家ではないでしょうか。
出家は皆さんの家庭・家族を捨てることが出家ではありません。肉体は命の住む家です、この肉体という家を与え生かされていながら、この肉体という家に捕らわれない自分、執着おかない自分、これが出家ではないでしょうか。
私は皆さんの前に立ってこの肉体を我として錯覚はしておりません。錯覚から覚めよ、肉体というその器が、肉体というその現象我が真のあなた方ではないのだと、真の私ではないのだと。
今私は命が私であることを自覚して皆さんの前に立ちます、だから肉体という重さも感じておりません、肉体そのものここに在るのかないのかさえも、私が意識しなければ、肉体を感じてもおりません。そ
の状態で常に肉体から意識を解き放つことができるではないでしょうか。
皆さんが肉体から意識を解き放って、無限という大海の中に、その意識を融合させることができたならば、この現象という見えるもろもろのものが、どうしてあなた方を支配することができましょうか。ど
んなものをもってしても皆さんを束縛・制約・限定することはできません。
だからこう言います、六十何億の人間が、私を縛ることができるのかと、私を混乱に追いやることができるのかと。
私とは万物一体の無限の意識そのものを、私は今私と表現しています。私という無限なる意識を誰が束縛しえましょうか。
誰が混乱に追いやることができましょうか。感自在・無碍自在・自由自在を味わい生きれる真のあなた方であることを知ってもらいたい。
我意識したところに我在り、我の思ったところに我いる。先ほども世界という世界の話を言葉に出した瞬間、無限に世界すべてを貫いて無限に広がっていく自分を体験しているではないでしょうか、なんて素晴らしいことか。
ここに立っていながらも無限に己を広げることができることを知ってもらいたい。
なぜそれほどの能力を、それだけの力を、それだけの無限の愛を与え生かされているにもかかわらず、私はいと小さき者よと、私はいと弱き者よと、なぜ自らを限定し束縛し自縛するのかと。自らの自縛を、神に対する理解力をもってすべてから解放されて欲しい。
そのために明想という正しい手段を用いて、汝すでに神なり、汝すでに仏なり、最高マントラと言えるではないでしょうか、
我は神なり。だからマントラとは訳のわからぬ言葉を唱えることがマントラではありません、神我から語る一言一言はマントラではないでしょうか。
なぜ神我そのものが言葉として降ろしたものがマントラであって、何をマントラと言いましょうか。神我から語る一言一言はマントラです。
それを文字にしたのが曼陀羅です。我々が訳のわからぬ文字や絵を見つめて曼陀羅と言いましょうけれど、自分が理解できぬものを見つめて、何の価値があるのかと、何の効果があるのかと。
皆さんは理解力を持つために本を読み、話を聞き、様々な知識を蓄えていることを知らねばなりません。
いつかはその知識を実感に変えて、皆さんが無限の大海の中に融合する、真実の糧として使えるあなた方に成ってもらいたい。
しかし知識で悟った、話を聞いただけで悟った、本や書物を読んで悟った、知識を蓄えて悟ったというならば、その知識はあなた方を殺すだろう、そこまで訴えている聖人方がいることを知らねばなりません。
知識によって殺されるという意味はどうなのか、知識そのものがすべてであるという錯覚が、真の自分を閉ざして、真の神を見失っていくことが、それが殺された表現ではないでしょうか。
皆さんを殺すという意味ではありません。真の自分を見失った者に何の価値もないこと。
だからこの世の中には四タイプの人間がいるというではないでしょうか。命に生かされていながら命を見失っている者、これを死人というではないでしょうか。
だからイエス様はたとえ片腕を失っても、命に入った方がいいと、これは神との融合を意味します、神との合一を意味します。
あるいは悟りに目が妨げるというならば、目を潰せと言ったのもその意味ではないでしょうか。
皆さんに目を潰し手を断ち切りなさいという意味ではありません。それほど皆さんが無限という宇宙真理に融合の価値があるという意味ではないでしょうか。
取るに足らないものに振り回されて、なんて真実の宝を見失っていく人間の多いことか。命そのものがすべてです。
だから命そのものに生かされていながら、命を見失っている者、これを死人と申します。死人がゴロゴロしているようなお墓のようなものであると、今の世の中は。
なぜならば私私というけれど、命を私として表現しているのは皆無にも等しいほど。ほとんど肉体という現象我をさして私、だから死人がゴロゴロしているようなお墓のようなものである、命に生かされていながら命を見失った命知らず、死人と言います。
あるいはただ悩み、苦しんでいる時のみ、神よ・仏よ、我を助けて下さいと祈る病人。
ここで話しを聞いている限りは、あなた方は命という本質に生かされずして誰が存在できるのかと、花々一輪咲き誇ることはできない、蟻一匹存在することはできない、一人だってここに存在することができるのかと、そ
う言えば、なるほどすべての本質は命であり、愛であり、神そのものと、そうは言うし、そう聞くけれど、
またここから一歩去れば人間だ、肉体だ、個人だという偽我そのものに皆さんが舞い戻っていくこと。これをボンヤリ者と言います。
あるいは健康な者とは今日与えられた一日が二十四時間ならば、常に二十四時間が神に酔いしれて生きている者。
神に酔うとは常に四六時中神を思う、神を意識し、我神なりという実感から離れぬ者、これが本当の健康な者と言います。
ほとんどの人間は死人か、病人か、ボンヤリ者か、ほとんど健康な人間なんていないではないでしょうか。我は神なり、神は我なり、我と神とは常に一体なりという境地に至って、本当の健康になってもらいたい。
ならばいかなる試練も、いかなる宿題も笑い・喜び・微笑みながら、すべてを愛という剣で、乗り越えることができるではないでしょうか。
人間意識・肉体意識・個人意識で、どうして偽りという偽りを我として錯覚し生きながら、どうして偽物が偽物をうち消すことができましょうか。
光くれば闇去ると言われるように、どうやって自我を消そうかとか、もがきあがく人間もいましょうけれど、偽我でもって偽我が消せるならば、とうに皆消しているだろう。怒りでもって怒りが克服できるならば、とうに皆怒りも消しているだろう。
これは私が一番体験者、怒りを消すのは愛です、戦争を癒すのは愛です、憎しみ、怒りをすべてを超越するのは愛ほかにないことを知ってもらいたい。だから皆さんに愛に生きよと、すべてを許し、すべてを愛し。
よくキリスト教においては洗礼を受けると言います。洗礼を受けるとは命そのものが神である自覚をし、命に捧げ、命をつまり神を演ずる者が本当の洗礼の意味であることを知ってもらいたい。
あの寒い中にプールの中に浸かって水をかぶって、寒い思いをするのが洗礼ではありません。神に無限の命を皆さんが捧げ、神との一体感で神の顕現体となっていくことが、これが本当の全託であり、本当の洗礼であることを知ってもらいたい。
皆さんが教会に行って、冬に寒い思いをして頭から水をかぶったところで、なんの効果があるのかと、寒い思いをしただけにしか過ぎぬではないでしょうか。
それでもって無限の智慧を得ることができるのかと、無限の力を持つことができるのかと。神を我として受け入れずして、無限の能力を得た人間は一人をおりません。
我は神なり、我神なるがゆえに無限の智慧、無限の力、無限の愛の泉の宝庫は我が内に在りという、その実感から現し示しいけることを知ってもらいたい。
だからこそ悟りとは家庭・家族を捨てて山や洞窟に隠もることではなく、今与えられている皆さんの家庭の中で、今与え生かされているこの社会で、真の自分が宇宙真理である正しさを見失うことなく、
我は真理なりという境地に至って生きることが、これが本当の洗礼であり、本当の全託であり、本当の神との融合。そのために皆さんは幾転生も幾転生も、この肉体という衣装をまといきたではないでしょうか。
今生も皆さんはただ泣き生まれて、泣き去るために皆さんの存在の目的ではありません。子供たちはなぜ泣きながら生まれ出てくるのかと、
また不自由であるこの肉体という鳥籠に閉じこもって、又一転生という人生を苦しみ、もがいて修行せねばならぬのかと、そのために泣いていることを知ってもらいたい。
泣きながら生まれ出てきたならば、せめて去る時は喜び、微笑み、笑いながら、神を正しく演じ終えて皆さんが解脱、この世を卒業して自信もってこの世を帰るあなた方であってもらいたい。
いつ神に肉体を脱げと言われても、常に皆さんがいつでも喜び・微笑み・笑いながら、我は神なりとして常に神を演じ終えることができたんだと、自信もってどこにでも立てる皆さんになってもらいたい。
あの時に後一歩努力していれば良かった、あの時に、あの場所で、もう少しは学べたのに。だから虎は死んでも美しい皮を残すけれど、人間は死んで後悔を残すと説いたではないでしょうか。死んで悔いを残すと言っているではないでしょうか。
皆さんがもし明想という手段を使えて、自在に皆さんが意識チャンネルを切り替えて、この現象世界から去った幽界の皆さんの身内の方を見て下さい。一人一人が誰一人この幽界で満足している者はいないだろうと。
一人一人が後悔を悔いを残しているだろう。私の一転生という人生はこんなはずではなかったと、今生こそ偽我の自分から真我の自分へ、低我の自分から高我の自分へと目覚めて参りますと、そう言ったのにもかかわらず迷い苦しんでいる人間のなんて多いことか。
これは私がハッキリということは、小学校からそれを私は理解できたからであると。だから私はにとってはその意味が非常にわかります。
皆さんは過ぎ去った時間は戻すことはできません、まだ来ぬ未来は時間は使えません、生かされているこの一瞬という、すべて時間・空間・壁・距離一切を超越した無限としての実在を、今皆さんが把握してもらいたい。
どんなに過去をこうすれば良かった、ああすれば良かった、誰が戻せましょうか。誰がまたそこに生きることが出来ましょうか。まだ来ぬ未来の時間一分、一秒使えた者がいるでしょうか。そこに生きることができた者がいるでしょうか。
だからこそ実在とは皆さんが我は神なりと実感しているこの瞬間こそが、無限として時間・空間・壁・距離を超えた無限の実在であることを知ってもらいたい。
この一瞬という実在を理解できるならば、皆さんは何ものからも縛られることはありません。我々はこの実在というこの瞬間を知らぬがゆえに、思い悩む未来に縛られ、また振り返って過去そのものに皆さんは執着をおいていることほかにありません。
過去、未来は今の一点なり。皆さんが今の一瞬というこの実在を知ることにおいて、どんなに幾転生という人生の過程において邪悪なカルマを背負ったにしても、すべてそれそのものを克服していることを知るでしょう。
これから先に皆さんがどんな邪悪な未来を描いていても、この一瞬という実在が大愛として皆さんが演ずることができるならば、神を我として演ずることができるならば、そのすべてが超越されることを知ってもらいたい。
だから私には過去・未来は実在ではないし、また輪廻転生・カルマは実在ではないのだと。実在するのは無限として完全意識のみが実在。私が無限として完全意識の中に融合した時には、今私は肉体もって何か表現をしようというその意識を持たぬ限り、肉体なるものは感じてもおりません。
なんてこの肉体が超越される喜び、肉体の重さも感じません、肉体なるものに苦しみを体験する必要もありません。
いまだかつてこの肉体背負いながら、一秒だって私は病み苦しんだことはありません、一秒だってこの肉体横に倒した体験もありません。肉体が我ではありません、肉体があなた方ではありません。
肉体は神の真実を演ずるために皆さんがまとった衣装にしか過ぎません。肉体は一転生という人生行路を旅するための単なる乗り船にしか過ぎぬ、乗り船があなた方ではなく、真に天船という神我こそが真のあなた方であることを知ってもらいたい。
天船に乗りし我、二度とこの世の荒波にのまれることはないと。誰があなた方を振り回せましょうか。誰があなた方を傷つけることができましょうか。この現象の世界がどう荒れ狂ったところで、皆さんの本質に指一本触れることはできません。
我この世の無知・闇・悪・迷いをすべてを越えた者であると。すべてのすべてを支配する無限の実在であると。我この世の闇を照らす光なり、我この大宇宙を照らす光なり、この世の無知・闇・悪・迷いが、我が内なる愛という光には指一本触れることはできなかった。
闇の中にいて闇の染まらない自分、悪の中にいて悪に影響を受けぬ自分、これが真の実体皆さんの神我そのものではないでしょうか。
だから神我はこの世の何ものによって傷つけられることもありません、病み苦しむこともありません。明日を明後日を心配不安がる神我なるものはどこにも存在しません。神我は過去において、今において、未来永劫に完全無欠、絶対実在と申します。
皆さんが今まで在る在ると見てきたもの、在る在ると皆さんが錯覚してきたもの、一つだってそこに実在があったでしょうか。実在ならば永遠であらねばなりません、変化することなく無限の不死不滅なるものであらねばなりません。それは皆さんの中に内在の宇宙真理、神我と申します。
これこそ皆さんがつかんだ時に、宇宙の法則の中に観自在・無碍自在・自由自在すべてのすべてを、皆さんが超越することができることを知るでしょう。
汝すでに神なり、汝すでに仏なり、最高マントラをもって無限という大海の中に融合できるあなた方になってもらいたい。明想という手段を正しく皆さんが使い生きることができるならば、今の今無限との合一が可能ではないでしょうか。
昔は家庭・家族を捨てて山に隠って一人の分は托鉢でもって食をしながら、食を得ながら、そこで明想という明想に明け暮れて修行したと言います。
しかし今の時代はどうなのかとちゃんと家庭もありながら、ちゃんと職をもちながら、明想という手段をもって我々は無限との合一が果たせることを知ってもらいたい。
だから神を悟るには一人でなければならぬとか、一人者ではなければならぬというのは、それは遠い遙か過ぎ去ったものであることを知ってもらいたい。
今は皆さんが寝る時間も、神と交わる時間に当て、無駄な時間を浪費する時間も正しく使い生きることができるならば、誰をも今生神との一体感が可能であることを知ってもらいたい。
八時間寝る時間があるにもかかわらず、明想する時間がないと言います、朝に昼に晩に取るに足らないものに明け暮れている時間はあるのに、世間話や人の噂話に明け暮れている時間はあるにもかかわらず、明想する時間はないという人間が多すぎるではないでしょうか。
私が小学校一年から神はなぜ昼と夜を与えたのかと、それを追求した時にその答えを得たではないでしょうか。
太陽のある昼は世のために、人のために、神のために、この伝導体である肉体を使って、道具を使って常に美しく神を生きよと、夜に閉ざされた闇の時はそこからが本当の皆さんが真実なる世界へと、神との交わる時間に皆さんが時間をとって欲しいと、神は夜という闇を作ったではないでしょうか。
今の人間のように夜にさえも電気をつけて残業で、取るに足らないものに振り回されている限り、どうして神との合一ができましょうか。だから今生は非常に厳しいです。
だから今生まれてくる赤ちゃんが誰もいないはずなのに、手足を空中にバタつかせながら誰かを見ているように、誰かと語りあっているように、微笑んだり、声をあげて笑ったりしているのは、あれは守護霊の方々や、天使方や、神との話をしていることを知ってもらいたい。
あなたは今生を選んで偽我なる自分から、神我なる自分へと解脱に至ってくるのだと、目覚めて参りますと、あなたは今生肉体という衣装をまとったけれど、今生の誘惑は厳しいよと、右を向いても左を向いても、前を向いても後ろを向いても、何百年・何千年前の昔とは違って、今は物質、物質に洗脳された今の世界で非常に厳しい時代。
それでもあなたはやる自信があるのかと、やれるのかとそう言えば、任せておけと、それで話し合って喜んだり、微笑んだり、笑っている姿を、皆さんは見たこともありましょう。
今生は非常に厳しい時代、どこを見ても誘惑・誘惑の今の時代、徹底してそれを克服して皆さんが神我一体という境地に至るには、昔の何十倍・何百倍の努力に努力を積み重ねばなりません。
イエス様が、お釈迦様が、愛の法則・慈悲の法則を説いた時代は、まだ今のような物質文明はなかった、それにしても神との融合は難しかったではないでしょうか。
プラス今はどこを見ても物質・物質の誘惑の中に徹底して皆さんは意志と、忍耐と、勇気と、努力を持たずして、それを乗り越えることができた者はおりません。
だからこそ皆さんには神は無限の意志・勇気・忍耐・努力を与えたではないでしょうか。
それはなんのために、それを通して私の中に入って来いと、無限なる私と一体感でありなさいと、そのために与えられたことであって、この世の物質を得るために意志、忍耐と、勇気と、努力が与えられているではありません。
非常にそれの使い方を誤ったではないでしょうか、と言って皆さんに私は仕事を捨てなさいではない、けして金・富を粗末に扱いなさいではない。
皆さんが世界の金を得たところで、この世を卒業して解脱に至ることができるのかと、神を演じずして皆さんが、この世を合格して帰ることができるのかと、そのようなものではないでしょうか。
だからこそ皆さんがすべての誘惑を退け、すべての執着を脱ぎ捨てて、一転生という人生の過程において、皆さんが詰め込んできた思い癖、悪習すべて一切をこぼし、無限という大愛の中に目覚め、今生こそは解脱・離脱に至ってもらいたい。
汝すでに神なり、汝すでに仏なり、正しいマントラで皆さんが無限という大海の中に錨を降ろしてもらいたい。大海に染み入る一粒の滴、一粒、一滴、この無限という大海から分離した者が我あなた方ではありません。
なぜ無限という大海からこのように個我なる者が創造されたのかと、無限という大愛を一人一人の肉体という衣装をまとった、その個性を通して、医者は医者の立場から、科学者は科学者の立場から、音楽は音楽家の立場から、
会社の社長は社長の立場から、学校の教育者であるならば、教育者の立場から、無限という神を美しく正しく愛そのものとして演じ生きよと、そのために与えられた演技ではないでしょうか。
だからこそ様々な演技を演ずる方々が、ここに出演しているではないでしょうか。例えばここに王という役を選びたい、六十何億の人間が王を望んで、家来を演ずる者がなければそのストーリーは成り立つことがありましょうか。
一人一人に与えられた役割は素晴らしいもの、一人一人に与えられた演技は大切です。だから誰彼よりも誰彼が特別ではありません。王を演じている者と家来を演じている者とは全く一つであることを知ってもらいたい。
なぜ王演じて家来を演ずる者がいなければ、けしてストーリーは成り立たない、その逆もその通り。一人一人が正しく己の持ち場を、正しく神を我として演じ、このストーリーを描いた時に本当の美しいユートピア世界の完成ではないでしょうか。
共に我々は誰の演技よりも演ずる場所よりも、誰彼のものが特別だ、誰彼のものが素晴らしいではなく、一人一人が素晴らしい、一人一人が美しいと言える我々になってもらいたい。
共に手を取り合い、助け合い、今生こそは神を演じ終えて、一人一人が無限という大海の中に解脱を遂げていきたいと思います。
共に無限という大海の中に今生こそは錨降ろせるように努力していきたいと思います。無限という大海の中にいつでも出入りできるあなた方であらんことを願います。
今日も皆さんと共に学べたことに感謝します。どうもありがとうございました。
覚者・知花敏彦先生のご光話
人間はなぜ神か 神と人間の関係
私達は自分自身の中に神を秘めています。
「キリストとは何か」と言われたら、皆さんは人格神のイエス・キリストを想像します。十字架にかけられたイエス・キリストの姿を想像しますが、そのキリストは皆さんの魂の中におられるのです。
ですから、この肉体というものはその魂の中におられるキリストを顕現する、この世でキリストの働きを現す媒体であり、そのキリストの住処(すみか)であり宮であるのです。
しかし、その宮なる肉体、その肉体に皆さん方は捉われています。皆さん方一人びとりが、自分の中にキリストを宿している事を忘れてはなりません。
世の中では、自分の浅はかな物差しで人格神を作って唯一の救い主と拝んでいます。神は皆さんを通してお働きになられます。
決して人間の手作りのお宮を通してお働きになるのではありません。
神は「あなた方は生ける神の宮なり。仏の宮なり」と申されています。
生きた神が皆さん一人びとりの中におられるという事です。
その生きた神の名前がキリストであり仏陀であるのです。それは宇宙意識の事です。私達の神性なる意識の事を「キリスト」といい「仏陀」というのです。
キリストを宿し仏陀を宿している魂そのものが、偉大なる存在である事をあなた方はみんな忘れてしまっています。
それでは「人間と神の関係」はどうなるのでしょうか。もうここまで話をすれば、個人個人でそれを理解していかなければなりません。
本当に「自分の肉体を通してキリストをこの世に顕現しているのだろうか」と言いたいのです。
〈顕現するのだ〉と、努力する事です。自我という肉に溺れない様にし、にくから出てくる欲望を禁制しコントロールする。
それを克服する事によって、神性なるキリストが私達を通して現れる様になります。これを成さずにして、何者もこの世の使命を果たした事にはならないのです。
私達と神とは切っても切れない関係です。「キリストより語る」。それは言霊となって、神の誓願となって、その力は偉大なものとなります。
私は以前、片方の耳が聞こえない人に会いました。その聞こえない耳は鼓膜喪失のため、医者は治療不能であると診断したものです。
私はキリストより聞こえない耳に命令しました。
『耳の意識よ、しっかりしなさい!』『神の使命を果たしなさい!』と。
その時、何が起こったと思いますか。鼓膜のない耳が聞こえる様になったのです。その人は「聞こえます!」と言うのです。小さな声で「もし…もし…」と言えば、大きな声で「ハイ!ハイ!」と言うのです。
なぜ、そのような奇跡が起きるのでしょう。内なる言霊より、キリストより、その肉は造られています。御霊は、キリストは主人です。
その主人が造った三次元的なバイブレーションは、命令的なものを与える事によって完全となったのです。
ですから、肉はあくまでも造られた物であって、造り主である御霊(みたま)がそれを支配して皆さんの中におられます。
神は皆さんの中におられます。肉を支配する神が皆さんの中におられるのです。それを自覚出来るようになりますと、もうこの世で悩む事はありません。もう皆さん方は病気になる事がないのです。
肉体が何であるか分からないから、神理が何であるか分からないから、今まで、迷い、苦しみ、肉に捉われて来たのです。
いくらでもあなた自身の御霊から、不調和を起こして悪くなっているその部分に命令することが出来るという事です。
『元の神から与えられた使命を果たしなさい』と命令しますと、胃は造られたものであり、造り主の御霊には逆らえませんから、お臍(へそ)の下まで落ちていた胃がグーッと上の方へ上がってきます。
胃だけが聞くのではなくて、全ての細胞は皆さんの言霊によってそれが支配できるという事を体験しなくてはなりません。
上江洲さんだけがそれが出来るのではありません。上江洲さんの持っている御霊もキリストも、皆さんが持っていて御霊もキリストも同一のものです。それをあなた方が信ずるか信じないかで、発揮する力が違うのです。
それを「信仰」と言います。「汝の信仰、汝を癒やせり」。それは信ずるか信じないかという事です。神を信じているかいないかはあなたの信念にかかります。信仰にかかります。
上江洲義さんは神が自分を通して働いて、その力が肉体を支配し、その胃を支配する事が理解出来ていますから命令する事が出来るのです。
なぜ、あなた方にはそれが出来ないのか、何処に差があると思いますか。それを信ずる心の強さ弱さによって違うのです。
あなた方は自分自身の肉体を、あなたの御霊によって支配しなければならないのです。世の人々は、多くの人々は、殆ど肉によって支配されています。
「この世で造られた物によって、なぜ私達はそれに支配される存在なのだろうか」という事を知らなくてはなりません。
今、肉に生きているのではないでしょうか。肉の支配下に置かされているのではないでしょうか。肉に操られ、肉が「何かをしなさい」といえば、あなたはその何かをするのです。
肉が酒を飲めといったら酒を飲む。肉が賭け事をしたいといったら賭け事をする。その様な不調和なものはみんな肉から出てきます。
私達は肉の奴隷ではないのです。肉というものは、肉体というものは、私達のキリストの支配下における部下なのです。
この世に現れているもの。その物質的三次元のものは、すべて御霊によって造られているもので、肉が作り主ではないのです。
その造り主である御霊が、皆さん方の中に、一人一人の中に宿っている事を知らなくてはならないのです。
イエス様はその事を悟っておられましたので、風を支配されました。海を支配されました。
台風が荒れ狂う大海原の小舟の中で、「風よ!海よ!静まれ!」と。
それは何処から支配されたと思いますか。何処からその声が出たと思いますか。それは自然界を創造した神のご意志であるキリストにより、言霊によって、風と海を支配されたのです。
この三次元の全てのものに御霊が存在しています。しかし、人間は万物の霊長です。神に似せてお造りになっています。この世に現れているものは何物も礼拝してはなりません。
私達が礼拝しなければならないものは、神であるキリストそのものだけです。尊敬はしていいのです。大事にしてもいいのです。
しかし、その支配下に置かれてはならないのです。そうなりますと人間は万物の霊長ではなくなります。
なぜ万物の霊長であるものが、山神様を拝み、海神様を拝み、火の神様を拝み、水の神様を拝まなくてはならないのでしょうか。
私達は山のために、海のために、水のために造られているのでしょうか。神は私達のために山をお造りになり、海をお造りになり、火も、水もお造りになったのです。
そして、神は私達にこの三次元のものを支配させる為に、私達をここに送って下さったのです。
しかし、今の世の中の人は、海神様だ、山神様だ、火の神様だ、水の神様だといって拝むのです。山はどうでしょうか。山はあなたの為にあるのか。
山のためにあなたが生きるのか。火はどうでしょうか。火はあなたのためにあるのか。火の為にあなたが生きるのか。それなのに、それを拝む人が一杯いるのです。
支配すべきで怖がる事ではないのです。それらは、あなた方の御霊によって支配すべきなのです。しかし、あなた方はそれを怖がっているのです。
だから、色々なこの世の三次元的な諸天善人を祀って、それを拝む習慣性というのが出て来ているのです。もうすでに万物の低調になっています。
万物を支配する万物の霊長たる人間が、万物の低調になって色々なものを拝む様になってしまったのです。
すでに、万物の低調になっているのではないでしょうか。万物の霊長たる人間が、石を始め木や銅や色々なものを拝んでいるのです。
それは愚かな話です。石像を拝み、木像を拝み、銅像を拝み、様々なものを拝みます。それは神を知らない、自分を知らない、「神と人間の関係」を知らない無知からそういう事が起こるのです。
どうでしょうか。皆さん方は世の支配者である事が、もうお分かりだと思います。世の支配者であり、山を支配し、海を支配し、全てのものを支配すべき私達が、肉たるそのちっぽけなものに支配されるのでしょうか。
その肉そのものは御霊の支配下であって、あなた方は肉に支配されてはならないのです。肉のために御霊があるのか。御霊のために肉があるのか。どちらだと思いますか。御霊のために肉があるのです。
神は御霊のために肉体をお造りになって、そのものは部下であって、三次元に現れるための一つの道具にしか過ぎないのです。皆さん方はその道具に支配されてはならないのです。
それをよく理解した時、皆さん方は、肉という自我意識を克服する事は簡単にできます。しかし、まだまだ自我に振り回されています。
肉の言うがままです。〈何処かに美味しいものを食べに行け〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と美味しいものを求め探します。
〈旨い酒が飲みたい〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と完全に肉の支配下に置かれている状況です。
肉に使われてはなりません。肉体を支配せねばなりません。肉体を自由に御霊によって支配し、コントロールして、このキリストをこの世に表現するためとするのです。決して肉の快楽に溺れてはなりません。
それに操られている間は、皆さん方はまだまだ神我という本性を、神を、キリストを観ておりません。信じておりません。だから、キリストを通さずにして何者も神の御国に入る事は出来ないのです。
皆さん方は内在のキリストを秘めております。(神我)キリストは全ての支配者であり、唯一なる神の子です。神の意志を受け継ぐ者です。
そうした時この三次元の目に見せるもの、物質界を支配したという事になります。その時初めて自然の法則を超越し、宇宙の法則に従ったという事になります。
自然の法則の支配下に置かれている者は敗北者です。皆さん方はその自然を克服するすべての力を持っております。それが皆さんに内在しているキリストです。
どうでしょうか。もう大丈夫でしょうか。肉体に操られる事はありませんか。肉体に負けてはなりません。イエス様は肉体の欲望を克服された時は、「サタンよ、退け!」と言われたのです。
肉体は皆さんを誘惑します。イエス様もその誘惑を何回も受けられたのです。
〈こんな神の伝道をするよりは、あなたは一国一城の王になった方がいいだろう〉という肉の意識が、黙想(瞑想)されていた時に、強烈にイエス様の心を誘惑したのでした。
その時、イエス様は《サタンよ、退け!》と言って、その肉の誘惑を、御霊より言霊の力によって、完全に支配されたのです。
皆さん方も肉から出て来る欲望を、「サタンよ、退け!」と一喝(いっかつ)して、それを追い払わなければなりません。
色々な名物を求め歩いて、何々名物だ、どこどこ名産だと、欲望と快楽に溺れてしまい、金を使い暇を潰しそれを求めるために肉に操られている人もいます。また、豪華な美食だといって食欲という悪魔に操られる人もいます。
そんなものに操られたりするために私達があるのではありません。そういう事を全てを支配し克服して、肉に属するものを、この地に属するものを克服してこそ、皆さん方は解脱出来るのです。
皆さん形を、この世に束縛している原因は何でしょうか。それはこの世に敗北しているからです。この世のものに、全てのものに打ち勝つ事なのです。
肉に打ち勝ち、物質に打ち勝ち、全てを支配する事によってのみ、皆さん方はこの世の束縛から解放されるのです。それを「解脱」と言います。
本当に「自分自身が何か」という真理の追求を、そして求道の精神を、生半可ではなくてそれをかたせなくてはならないのです。
イエス様は「この世の全てを克服した時、私はこの世を克服したのであると言われたのです。
その時、イエス様は三次元的な肉的な物質的な存在から霊的存在となられたのです。霊が勝利したからです。
まだまだ皆さん方の霊は物質に勝利していません。物質の奴隷下に置かれています。色々と造られたものに、その造られたものの概念で生きています。
あなた方の考えを支配しているのは、殆どが三次元的、その物的なものなのです。四六時中私達が神を思う事によって、物質、肉体に支配される事はありません。そういう欲望が出る時「サタンよ、退け!」と、それを克服する事が出来るのです。
この世で、どんなに地位や名誉や財産を持っていようとて、それは肉と共に葬り去られるものです。この世的なものです。
持ち帰れるものは一切ありません。それらのものを得た所で何になりますか。「自分が何であるか」を知らないから、それを欲望的に求めるのです。
それらの人達は、この世では大きい者の様に見えるかもしれませんが、あの世では小さな者でしかないのです。なぜならば、物質の支配下に置かれているからです。
その人達が物質の支配下に置かれていなければ、この世の財産や地位や名誉を得るという、自己顕示欲的な慾望などは求めようとはしないのです。
それは、三次元的です。物質的です。そして未熟です。幼稚です。
今、皆さん方は、三次元的なもの、物質的なものを一つ一つ克服しつつあります。
そうした時「我は神なり」「我は霊なり」「我は生命なり」「我は神理なり」と、言える程の強い信念、深い信仰を持たなければなりません。
その信仰があなたを救います。
しかし、今、あなた方は「自分が何であるか」を知りません。ですから、世の物質の誘惑に振り回されるのです。その物質による世の誘惑に振り回されていればいるほどこの世で苦しみを造っています。
これを克服した分だけ幸せを健康を得る事が出来るのです。この世の恐怖というものが一切なくなります。何故ならば、この世の全てを御霊が克服してしまうからです。
まだまだ皆さん方は、物質の少ない事を怖がり、地位や名誉や財産の少ない事を怖がり、色々なものを恐怖しています。物質を怖がっています。執着しています。それが皆さん方の苦悩となっているのです。
今、肉体について、その肉体が何であるのかをよく考えて下さい。そして、その肉に支配されてはならない事をよく理解して下さい。
肉体は、この世的な、一時的な住処にしか過ぎません。それを「人間」と呼んでいるのです。
皆さん方の中に神が住んでいるのです。あなた方が拒否さえしなければ、神はあなたの肉体を通してのみ働きます。
あなた方は御霊より、内在のキリストにより、色々な神理を伝える事が出来、正しい言葉遣いと、正しい想いと、正しい行為が出来るようになります。
今、皆さん方が正しい言葉遣いと、正しい思いと、正しい行為が出来ていないのは、この肉が邪魔しているからです。
肉は利己的です。魂は非利己的です。自分が三次元的なものを克服しているかしていないかは、自分の行いを反省してみれば分かります。
自我で肉の敗北者である人は必ず利己的です。しかし、その利己的である肉を克服した者は、非利己的になっています。
非利己的な総合的なものの見方です。ものの考え方です。
『自他一体』。一体観念の中に生きています。
聖書の中にこの様な事が書かれていると思います。ある街が大火事に遭いました。火事の災害を受けなかった金持ちの人達に、イエス様はこう言われました。「神から預かっているものを神にお返ししなさい」と。
その人の持ち物は神のものであって彼等のものではないのです。
「それを必要とする所のために、神から預かったものを神にお返ししなさい。それを必要とする困った人にあなたの財産を与えなさい」とイエス様は言われたのです。
ある人は全部与えました。ある人は半分与えました。ある人は何も与えませんでした。何も与えなかった人、その人は盗人です。
あなたの持っている財産や、そういうものは誰のものだと思いますか。神のものです。それを私のものと錯覚して執着しているのです。
あなたのものであれば、あなたがこの世を去る時それを持ち帰れるはずです。持ち帰る事は出来ません。預かりものです。
神からの預かりものを持っていながら、それでいて「これは私のものだ」と威張りくさる人がいます。そして何も持っていない者を罵る人がいます。これは非常な盗人であり、罪人です。災いなる者です。
自分のものがない事を皆さん方は知らなくてはなりません。その時が来れば全てはた叩いて皆さん方は困っている人に、貧しい人の為にお返ししなくてはなりません。
それが出来る人は真の勇者であり信仰者です。神を信じている者の信仰です。
それは、神理を通して眺めてみれば、自分のものがない事が分かります。それが理解出来ない人は、私の言葉を「おかしな事を言う」と思うでしょう。
しかし、事実はそうではないのです。自分のもの、私のものというのはないのです。全てが神の預かりものです。
この肉体でさえも神から預かっているものです。ですから、私達は死にたくないと思っても、寿命が来れば行かなくてはならないのです。
自分の肉体が自分のものだと思っていてもあなたの思う通りにならないのです。肉体が自分のものであるならば、自分の思い通りにする事が出来るはずです。
思い通りにする事は出来ません。言う事も聞きません。なぜならば、それは神のものだからです。自我ではどうする事も出来ません。
あなたの支配しているのは神ですから、私達は肉体でさえも神に捧げる事です。これが本当の「献身」というものです。
命を捧げる者。自分自身の外なる命と内なる命を神に捧げて人々のために捧げた時、皆さん方は「永遠の命」を得ます。
しかし肉我の自分に生きようとする者は、永遠の命を得る事は出来ません。神を知っていないからです。神理を知っていないのです。
だから「生命を得ようとする者は生命を失い、生命を捨てる者は生命を得る」という言葉があるのです。この事は非常に大事な事です。
神とは何でしょうか。神とは宇宙の摂理であり、法であり、エネルギーです。私達は宇宙の中の存在です。
私達一人びとりはその宇宙の中に、宇宙エネルギーの中にいるのです。そして私達一人びとりは、その宇宙エネルギーを持っているのです。
「私は神の中におり、神は私の中におられる」というのはその意味です。
エネルギーの中に私達はいるのです。私達の中にエネルギーがあるのです。
「神は内にいると同時に外にもいる。全ては神であり全体は神である」と、それが分かる様になります。
神と人間とは一つの存在、一体の存在です。なぜならば、神は無限であるからです。神から分離した人間は何処にも存在致しません。
神から分離した人間がいるならば神は無限ではなくなります。普遍でもなくなります。
あなた方は、今、即、神の中におり、神はあなた方の中におられます。それが分かりますと、唯一神のみの実在、神一元という悟りに到達致します。
神一元です。
しかし、人間の浅はかな感化(自我)が、色々なものを分離し、独立させて考えているのです。あなた方の肉の意識がそれを妨げているのです。
〈自分は神と分離しているのだ〉と思わせる様に誘惑するのです。
あなた方が中々神理に入って行けないのは、自分自身の肉による自我意識が、神から遠ざけているのです。
事実においては、神の中に私達はおり、神は私達の中におり、それは一元なるエネルギーの中におるのです。エネルギーは外でもなく内でもなく、また、外でもあり内でもあるといえるのです。
この事は、〈今、あなたは神の中にいる。それはあなたは神の中の存在であって、そしてあなたの中には神が存在している〉という事です。
「神の中に自分は存在し、自分の中に神は存在する。常に神と自分は一体である」と、この事の意味をよく理解して頂きたいのです。
そうした時「人間と神の存在というもいのは一つの存在である」という事が分かるのです。そこには、人間と神が独立し分離している存在ではなく、「人間と神は一体であった」という事です。
一体とは「一つの体」という意味です。
「人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事です。
その神が皆さんの中に、生命の中におられます。
ここで私が一番言いたい事は、「神の存在を、内在のキリストを、あなたの肉を通して完全にこの世に現す様にしなければならない」という事なのです。
何回も、何回も、私は同じ事を言っています。飽きる程そういう事を言っています。しかし皆さん方はまだ肉に敗北しています。ここから自分の家に帰りますとまた敗北するかも知れません
〈知花はなぜ毎日同じ事を繰り返すのだろう。なぜそう言うのだろう〉と。それを自ら追求する事によって、自ら自問自答して、内から答えを得る事によって神に至る事が出来るのです。
今、世の中では、色々な誤ったものの見方と、誤ったものの教え方をしています。それにはまず統合的な高い意識を高揚させてから、そこから全体を見る事です。一部だけを見てはならないのです。
しかし皆さん方の見方は、近眼になってしまって、一部しか見ていません。ですから全体と自分の関係を見失っているのです。厳しいようでもやらなければならないのです。
世の人々は、神に至るのに平坦な道を選びがちです。肉欲も、情欲も、飲み食いも、常平生それをやりながら神に至ろうとしています。
物質の支配下に完全に置かれて、霊的なものに遠ざかっているからです。平坦な神への道というのは何処にもありません。
道は厳しいのです。狭いのです。この世のもの全てを、あなた方が御霊によって克服しなければならないからです。
では、人間と神の関係はどうなのでしょう。本来は人間と神の関係さえもないという事です。
この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、関係さえもなく、一つの存在であるのです。
「人間と神は、即、一体の存在であり、我々も神の存在であり神そのものであった」という事が分かるのです。我は神なり。我は生命なり。我は神理なり。と。
「我は神であり、我はキリストである」という悟りに至らなくてはならないのです。
この世というものは、始めがあり終わりがあります。皆さん形には誕生があり死があります。
しかし、これはこの世的なものであって、もうひとりの真の自分には誕生もなければ死もない存在なのです。それがあなたの本質であり、生命であり、魂であるのです。それに早く気付く事です。
初めがあり、終わりのある存在ではありません。それを追求して、それを克服して、初めがあり終わりのあるものに捉われないように。
それは初めがなく終わりがないものによって造られたものであり、それを造ったものによって支配しなくてはならないのです。
その造り主である神の御意志が、内在のキリストとして皆さんの中に宿っています。早くそのキリストに気付く事です。
その支配者である全知全能であるその方(神我キリスト・宇宙生命)を、皆さん方は早く気付いて欲しいのです。
神棚を通して神は働くのではありません。生きた人間の肉体を通してのみ神は働き給うのです。
「神は人間を通して働き給う」と、その事を決して忘れないで下さい。
なぜならば、人間そのものが神であるからです。神棚そのものは神ではありません。それは三次元的な、物質的な存在であるのです。
私達は神である生命を頂いています。「我は生命なり」です。その生命が働き手であり、生きているわけです。どんな植物の中にでさえも神は生きて働いているのです。だから植物は成長し、花が咲き、身を付けるのです。
皆さん方の奥さんは「カミサン」といって神様です。本物の神様です。ですから大事にしなくてはならないのです。
皆さんの周囲には沢山の生きた神々がおられます。その生きた神々を私達は愛し合わなくてはなりません。真の神の愛です。
あなた自身の中に神がおられるなら、あなたの隣人の中にも神が宿っておられる事を知らなくてはなりません。そうなれば、その隣人を貶す事は神を貶す事になり、その隣人を罵る事は神を罵る事になるのです。
そうならないように、皆さん方は「隣人愛」をしなくてはならないのです。「自分を愛するが如く人々を愛する」と、それをしなくてはならないのです。これは神を愛している姿であり、神を賛美している姿なのです。
誰の悪口を言ってもなりません。神を知らない者が人の悪口を言います。神を知っている心の清い者が人の批判や悪口を言うでしょうか。
人の批判や悪口を言うならば、その者の心は曇っているのです。真の自分を知らない、神を知らない者です。
そのような迷い人の言葉や姿に迷わされないで、一生懸命、自分自身の神を観つめ、その「神と人間の関係」を追求し、求道され、実践されます事をお祈り致します。