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date :2019年07月

霊道(心の眼)を開く真の方法♪徳積みの原理♪徳によって祈りが叶うシステムのお話♪他人の目はなくても、天の目があることを知っておいたほうがいい♪正しい思いをもって調和した生き方をすると心の次元が上がります♪正真正銘の本物の天使の生まれ変わり井出章彦さん♪後光を出す秘訣は感謝と報恩♪父や母の愛の行為に感謝♪後光を出す秘訣は感謝と報恩 父母の愛に感謝して恩返しする大切さを説く素敵なお話♪反省する事によって魂を光り輝かせるお話♪高橋信次師♪霊能力者・呪詛・念の驚愕の裏事情♪行者の末路は哀れ♪四国霊能者の裏世界話♪

心の眼Ⅱ  四国の霊能者の世界
から引用させていただきました   

  

 地球最高級に濃厚な内容な日本の霊能力者の裏事情を詳細に教えて下さる、日本最高級☆超良質☆精神世界サイトをご紹介させて頂きます 

 有名な「人を呪わば穴二つ」という言葉がありますが、これは後に【掘れ】が抜けている言葉でありまして、要約すると、人を呪うのなら、相手と自分の分の墓穴を掘っておきなさいよ、という意味合いで御座います。

 人を呪うということは、実質的に自分を呪っているのと同じですから、たとえその時に呪いが成功したとしても、「行者の末路は哀れ」と言い伝えられている通り、死後は、その呪い殺した相手(多数の場合はその多数)から壮絶な仕返しをあの世でされてしまいます。

 魔の呪詛を使った行者は死後も、何十年、何百年も、真っ暗な世界でその償いをするハメになるそうですから、余計な霊術・超能力を求めたりせず、

平安で幸せな毎日を大神様、守護の神霊等々に感謝して、知花敏彦師や上江洲義秀先生、もしくは高橋信次師の神理をお手本にして、正しい神理を実践する人生を送る人が、真の意味での人生の勝者でありましょう。

 呪いを受けない簡単な秘訣は、全てを許し全てを愛する慈悲と愛の神我の想い、笑顔と感謝、人を責めない、愛と調和、の善想念の維持を日々実践していくことでしょうか。

 その境地まで到達できれば、もう呪いなんてホコリほど気にする必要はありませんよ♪…ちなみに私はもう大丈夫です(笑)

 もう一つ、高橋信次師のお弟子さんでもあられる、井出章彦さんは、心の窓(霊道)が開いており、大天使の方や高橋信次師とも普通に交流出来る素晴らしい偉大なる能力と、高潔なお人柄の持ち主の方であられます。

 元々、天上界の天使の方で、今回の地球のアセンションのために、使命を持って地球に肉体を持って生まれてきたという方ですから、正真正銘の本物の天使ですね。過去世が大物すぎてちょっと恐れ多い気分になります(笑)

 内容は大変素晴らしいのに、Amazon様での中古本が大変お安いので、ぜひお求めになって魂の覚醒のお役にご活用して下さいね。他では得られない内容も豊富ありましたし。私はしっかり同じ本を2冊買っちゃいました(笑)
 





四国の霊能者の世界から一部引用ですが・・・♬


はじめに

私の住んでいる四国には民間祈祷師(シャーマン)が大勢います。彼らは霊能を持った呪術師もいて、占い、まじない、加持祈祷などの儀礼的行為を行って相談者のさまざまな悩み事や現世利益的な願い事の支援を行う人々です。

神道系、仏教系、陰陽道系など宗教的背景はさまざまですが、昔ながらの呪術的、密教的伝統に根ざした儀礼を行い、降神、憑依などのトランス状態になって託宣をしたり、神霊や仏との交信を通じて相談者の環境の変容を試みたり、心身の「癒し」を試みるわけです。

人類学や民俗学の分野ではこうしたシャーマニズムをテーマに書かれた文献をたくさん見つけることができます。「癒し」の社会・文化的な規定性を検討する上で、こうした文献は有益な知識をわれわれに提供してくれます。

しかし、人類学者や民俗学者はあくまでもシャーマニズムの社会的な役割に焦点を当てて研究しているわけであり、シャーマンたちが霊術を駆使して本当に「癒し」を行っているのか、その真偽の程にまでは言及することは少ないといえます。

もちろん、彼らはフィールド・ワークの手法を採用し、シャーマンとそのコミュニティに一定期間とどまって生活をともにしながら「生の資料」を集めるわけですが、そうした参与的観察の中で手にしたデータをすべて公表しているわけではないでしょうし、これを論文や本にまとめる過程でふるい落としてしまうデータもあります。

それに加えて、研究の対象となっているシャーマンたちがどこまで実態をあるがままに見せてくれるか、語ってくれるかという問題もあるでしょう。

 シャーマンたちから見れば、学者はあくまでも部外者であり、建前的なことを語っておくのが無難な相手であるわけです。それに学者の頭では理解できない世界も繰り広げられていますし。

幸いなことに、私は四国に住むようになってから呪術師たちと接触する機会に恵まれ、彼らの生きざま、仕事ぶりについて詳細を知ることができるようになりました。

 私自身、密教や土着の宗教的習俗に関心を持っていましたので、同時にこうした儀礼について彼らに指導を請い、精神修養法として実践的知識を得ることもできました。

 そういうプロセスの中で、四国の「呪術師業界」(以下業界と略記する)の実態について次第に認識が深まっていったわけです。今では私も「業界人」の一員です。

このページでは、これまでに私が見聞した業界の裏話を差し支えのない範囲で語ってみようと思います。なお、個人名や団体名は一切公表することができませんし、連絡先に関する問い合わせにも応じることはできないことを、最初にお断りしておきます。

さて、祈祷師の間で日常茶飯的に「サイキック・ウォーズ」が繰り広げられているのは、この業界では公然の秘密のようなものです。簡単にいえば「念」のくれ合い、飛ばし合いです。

動機は色々ですが、1.団体間の勢力抗争、2.個人的な恨み・嫉妬、3.顧客からの依頼などが主です。何せ物的証拠が残らないやり方を使うので、市井の人にとっては理解を超えてしまう世界でもあります。

祈祷師の看板をあげている人には少なからず体を壊す、病床に伏せり、生死の境をさまようような経験をもっている人がいます。

1つには相談者たちの持ち込む邪気、邪念に長年被曝し続けることで肉体が変調を来しやすくなる。それ以上にえげつないのが同業者に呪詛をかけられて命を狙われる、という類の戦いです。

超心理学では生体PKという概念があります。これは生物の細胞を活性化したり、生体機能を回復させたりする「建設的な念力」という研究がもっぱらなのですが、現実的には呪殺という破壊的な生体PKの使い方の方が多いように思えてなりません。

 その昔、旧ソ連でニーナ・クラギーナという超能力者がカエルの心臓を念力で止める実験を行ったことはありますが。

ターゲットにした相手をサイキックな方法で攻撃するには、いろいろな手段がありますが、常套手段としては現象として病気の症状を起こさせ、体力を消耗させて、あわよくば死に至らしめる、というのがあります。

もちろん、念を飛ばす方と受ける側に歴然たる「力の差」がある場合には、一気に衰弱させ死に至らしめることになります。
 
 しかし、もし相手がこの攻撃に持ちこたえたならば、送った念が倍返しで戻ってきて、逆に加害者の生命が危うくなるというのもこの種の現象の特徴です。「やるかやられるか」の世界なのです。

出る杭は打たれるのが日本の社会の特質、いじめの構造なのですが、将来自分よりも「ランク」が上がり、自分の仕事上の脅威になると思うや否や、この業界の人間は相手を潰しにかかります。それで命を落としたり、再起不能になったり、というのが祈祷師・霊能者の世界ではないでしょうか。

このように述べるのも、アストラル次元(微細意識次元)の上位-下位問題にかかわる私の疑問に根ざしています。

 超能力や霊能力を操作できるようになるということは、必ずしも意識進化とは別次元の問題かもしれません。逆に意識の進化した人間はこういう力を愛他的な方向に利用することができるのかもしれません。

彼らの「暗闘」を知るにつれて、世間以上にドロドロしたものを感じざるを得ません。「必殺仕事人」のような世界です。シャーマンとは癒すだけじゃなくて、滅ぼす者でもあるという認識を私はもっています。

現代においても、奈良・平安時代と同じく呪術(日本古来のもの、その他仏教系、西洋系など)の伝統は脈々と息づいています。

 専属祈祷師を養成している団体も存在します。その団体では「殺られるまえに殺れ」という教えを説いています。ついでに言うと「裏切り者は消せ」というのもこの業界の常識です。

四国は特別な場所なのかもしれません。人口の割に祈祷師(霊媒含む)が多いので過当競争なのかもしれません。
 
 東京や大阪で仕事ができなくなった霊能者が四国で荒稼ぎをしたり、逆に四国で看板を出したりすると「潰される」ために東京や大阪まで出稼ぎに行っている業界人もいます。

 いずれにしても、「闇の世界」の出来事ですから、表沙汰になることはまずありません。こうしたサバイバル・ゲームに勝ち残った者がこの世界の有力者になっていくわけです。

また、この業界では相談に来た相手を故意に病気にさせるというのは常套手段です。それでお祓い(浄霊)に来ると、また別の症状を一定の潜伏期間をおいておこさせる。これで信者をつなぎ止めていくわけです。まるで麻薬の売人みたいですけど・・・。

最近はわりと気軽に霊的な修行の世界に入る人もいると聞いていますが、修行ごっこならいざ知らず、本格的にサイキックな修行の世界に入ろうと思うなら大きなリスクを背負っていることを自覚してほしいと思います。しかも、自己責任です。

命を投げ出して責任をとらなければならない事態も起こり得ます。誰も助けてくれませんし、誰かにすがろうと思っても、「大いなる計らい」によって一切の支援を断ち切られてしまうことだってあります。

適切な指導者に師事して適切な指導を受けることは、一般の学校教育と通じるところもありますが、その師匠の霊的レベルを超えた圧倒的な意志が介入し始めると、師匠でさえも手助けできなくなってしまう状況に追い込まれることもあります。


「ブラック霊能者」たちの末路

 「呪い専門の霊能者」の末路は哀れです。人を恨み,世間を憎んで生きることで,何を手にすることができるでしょうか?

 闇に生まれ,闇に生き,闇の中で葬られてしまうことで我が人生に悔いなしと「いまわの際」に胸を張って言えるでしょうか?しがらみや恩や義理があることはよくわかります。

でも,それによって失うものの方が手にする利益の何倍も大きいことに気づいてください。光を念じ,神仏の領域に接近し,自らの手で意識の解放をめざそうではありませんか?

では本題に入りましょう。私が見聞している限りで言えば,霊能者たちの多くは何らかの組織に所属しています。

 霊能者ハンターと呼ばれる人々が,各種の噂や情報を聞きつけてフリーの霊能者にアプローチをかけ,自らの所属する組織のメンバーとなるように勧誘するのです。

莫大な利益と生活の保障を約束する代わりに,一度契約を交わすと,自分の意志とは無関係にさまざまな「仕事」をこなさなくてはなりません。

 ノルマが課せられ,他者の利益というよりも,上層部からの指示を受けて呪詛などの手を汚す仕事をこなさなければなりません。

「念」を使い,「気」を使い,下位アストラル次元の「意識エネルギー」を駆使しながら,相手の心身にダメージを与える「任務」は過酷そのものです。

このうち,「念」を使うやり方がもっとも容易で,かつ呪詛をかける側の消耗度がもっとも激しいものです。ただし,人をねたんだり,憎んだりするのが一種の習慣的性格になっているような人物なら素人でも「念飛ばし」は可能です。

 相手の顔を思い浮かべながら一心不乱に感情を喚起させ続けると,誰でも「念」を飛ばすことはできるのです。情念を伴った意識エネルギー。

これがいわゆる「生霊」と呼ばれているものの正体だと私は考えています。一般の人間も自分で気がつかないうちに行っていることもあります。

プロの場合は,それに秘術とされるテクニックを加えて利用しますのでより効果的に念を飛ばすことができますが,「人を呪わば穴二つ」とも言うように相手が術を解くことに成功した場合,自分自身にも戻ってきて急激に消耗をきたすリスクも抱えています。

さらにレベルの高い霊能者は,無駄な「念」を使わずにより効率的な意識エネルギーの使い方を知っているため,より長期にわたって安定した呪力を発揮することが可能となります。

 こちら側の情報を相手に察知されることなく,相手からの反撃に備えて結界も張っているので,まず倒れることはありません。

このような域に達する人物は,生まれつきの霊媒体質で,若いときから呪術に関する専門的な教育を受けており,かつ実技を徹底的にたたき込まれている必要があります。

組織によっては子飼いの「専属祈祷師候補生」を養成しており,それぞれの霊媒体質の特質によって得意とする霊力を極限まで引き出す「英才教育」を行っているところもあるくらいです。まるで「虎の穴」のような霊媒道場が存在するのです。

若いときには体力に任せていれば,いくらでもそういう仕事を請けることができるのですが,人間業ですからいずれ限界がやってきます。年を取って精神をやんだり,体調を崩す拝み屋がほとんどです。

この業界にいる人間は臓器の1つや2つくらいカット&ペーストをするのが「勲章」のようなものであり,一人前になるプロセスにおいて遅かれ早かれ通過する試練の1つです。一般の人々に比べてみても,老化が早い段階から始まるような印象を持っています。

いずれにしても,組織から見れば彼ら専属祈祷師は「使い捨て」の部品にすぎません。金属疲労をきたした部品はいずれ廃棄処分になります。

 物質的経済的には申し分ない環境を約束されますが,年老いてから後悔と懺悔の日々になることが多いようです。

ところで,霊能者が所属する組織と言っても,実に様々なものがあります。上位下達の徹底した締め付けの厳しい組織もありますし,自由に活動させてくれる緩やかなつながりの組織もあります。

それに,フリーの拝み屋と言っても自分の師匠(指導者)が必ずついています。彼らの師弟関係は擬似的親子関係であり,「親」の言うことには絶対に服従の世界でもあります。

特に霊能者の看板をあげる人の場合,その「親」あるいは「親」の母胎となっている組織から占い,まじない,祈祷,教師などの「資格」や「免許」を発行してもらっています。

この資格があるのとないのとでは業界からの評価や対社会的評価も雲泥の差がつきます。四国では特に資格の有無にはうるさいです。

また,誰が「親」なのか,どこの組織で修行を行ったのかという点についても相談者はよく心得ていて,「この組織の出身の人なら信用できるだろう」といった品定めをしてから,仕事の依頼に入るわけです。

 たとえば「祈祷」の資格があれば,祈祷師として相談者の身体に触れる宗教儀礼的行為も許されます。しかし,祈祷の資格がないと身体的接触は法に触れる可能性もあると聞いています。

無資格だと「セクハラ」などの理由でトラブルになるケースも存在します。ただし通常の相談行為なら祈祷の資格がなくてもオーケーです。

いずれにしても,少なくとも四国では大っぴらに活動をする上で資格をまず取っておくことが必要不可欠です。

もちろん,闇で無資格の非公然霊能者は四国にはわんさかいるわけで,そういう人の中にはインチキな「有象無象」もいますが,営利目的ではなくボランティアでやっている人も大勢いて,よく当たると近所で評判の人もいます。

一般に四国の霊能者のサイキック覚醒度は高く,テクノロジーに長けた人物がいっぱいいます。すでに述べた「念」のくれ合い,飛ばし合いについてもきわめて高度で,芸術的な域に到達している人物もいます。

それを破壊的な方向に使用してしまうのが大問題なのですが。反面,良性の念を飛ばして「癒し」に利用できる人がいるのも確かです。
また,変則的認知(超感覚的知覚;透視,テレパシー,予知)についても名人芸を披露できる人もいます。

この点は相談者たちも目が肥えていて,少しでも曖昧であやふやな「霊視」をするとクレームを付けてきます。確かめようのない託宣を告げても,顧客たちは納得しません。

確実に結果を出すことが要求されているわけで,顧客たちの高い水準のニーズに応えていくことのできる拝み屋は評判が評判を呼んで繁盛しています。

逆に一度インチキの評判が立ってしまうと,もうこの業界では仕事ができなくなってしまいます。一気に噂が拡がり,信者や顧客が一斉に離れ,やがて廃業に追い込まれていくのです。四国の霊能者のレベルの高さはこうした目の肥えた顧客たちとの関係の中でもまれながら,培われているわけです。


呪詛にあった方の壮絶な体験記ブログです

ヘミシンクと瞑想と旅行のブログです(神秘体験話が盛り沢山♪)

呪詛を打つ事について                  会社の者に逆恨みによる呪詛を打たれました。横領を告発したのです。横領した金で高級腕時計をいくつも購入して自慢してました。会社や人をだましても 何も思はないのだろうか。                        続き⇛⇛呪詛をまた打たれ⇛⇛呪詛を打つ者の救助

⇛⇛呪詛について シリーズ1~13まで(呪詛を実際に体験した壮絶なお話)


井出章彦さんのご著書「心の眼Ⅱ」からの引用ですが・・・♬


心の章 ~霊道

 心の眼を開くとは・・・
霊道を開く、という言葉があります。これは心の窓を開く、とも言い換えられます。心には表面意識と潜在意識があります。この間にあるのが、想念体と言われているものです。
 
 この想念体に穴があきますと、潜在意識からの智恵が表面意識の方に湧き出てきますので、その結果、過去世(前世、自分が生きていた当時の場所)の言葉を話せたり、未来の出来事を予知したり、人の心が分かったり、人の過去世までも視えてしまう、などと言った霊能力が身に付くと言われています。

 仏教用語にあるような、読心術(テレパシー)、透視能力(クレアボヤンス)、千里眼などと称されているものだと言えましょう。

 私自身の場合で言いますと、霊道が開いた、とはニュアンスは違います。それは自らの過去世が分かっただとか、自分の智恵によって事象の意味が分かった、ということとはまた違ってきています。

 私自身のは、天使から教えていただいている、という形になります。
学校の宿題に問えるとしたならば、霊道を開いている人の場合だと、数学なら今までに勉強してきた方程式などを思い出し、色々と駆使しながらその問題を説く、と言えましょう。

 私の場合はと言いますと、隣の家庭教師の先生が座っていて、どの参考書の何ページに例題があるから、それに照らし合わせて問題を説くと良いよ、と教わっているようなものでしょう。

 但し、私自身に金銭欲だとか名誉欲などの邪(よこしま)な気持ち、想いが生じますと、このような感覚(能力)は失われてしまいます。このことにつきましては、霊能力の場合と同じです。

 今現在ですが、私と同じように大天使からの指導を、はっきりとした声で、あるいはまたインスピレーション(感覚)として受けられている人数というのは、日本に三千人から五千人くらいだそうです。

 アセンション(次元上昇)ということもあって、いつの時代と比較しても、とても多いとのことです。この数字は、これからも増えていく可能性はあるとのことです。

 アセンションは今世関わっている人に対しては、ミカエル様が指導をなさっています。ですからそのような人に対しての通信は、ミカエル様からのものである可能性があります。

 私自身一時、霊道を開いた状態にあったことがありました。
当時は何も気がついてはいませんでしたが、アセンションへの指導の一環として、天上界の作用により霊道が開いていた時期が、平成七年の1月から平成十年11月までの約四年ありました。

 私の場合は、妻の雅子と共に、アセンションの一大プロジェクトに大きく関与していたために、特に霊道を開くことは必要であったらしいのです。

 当時、私も雅子も崖っぷちギリギリの所で、アセンションの役目を担っているという状態でした。まさに、命懸けであったという表現が大袈裟ではなく出来る程にです。

 そのため、本来私は人に厳しいタイプではありませんので、このような時には、指導霊を担当して下さっているルカ様(七大天使であるウリエル)が厳しさを、そして優しさの面においては、ミカエル様が、私の霊道を通して発揮していました。

 そして私は、ダビデ、孔子、司馬遷、諸葛孔明、吉備真備、ミケランジェロ、新井白石、勝海舟などとして地上界に出ていた時、そして今現在もですが、私に厳しさを必要としている時には、ルカ様(ウリエル)が指導なさって下さるようです。

 霊道が開いていた時、常にではありませんがその時々において、「自分は何の努力もしないで相手を憎んだり恨んだりする」様な低次元な人が、私に敢えて入ったりあるいは、ただの一度だけですが、お釈迦様が私に入ったことがあったとのことです。

 当時、私は何も感じてはいませんでした。妻の雅子が当時を振り返り、この様に申しています。「あの頃の章彦さんは、言うこととか態度がたびたび変わっていましたよ」と。

 尚、これまでの事情が分かったのは、今原稿を書いている平成12年5月のことです。そして当然ながら、これは天使により教えて頂いた事柄です。

 このような事柄、出来事を振り返りますと、天上界からの指導の一環であったこととは言いましても、霊道が開くと大変であろう、とそのように感じられます。

 天上界からの指導を抜きにして考えた場合ですと、よほど自分の心をしっかりと持ち、そして正しくしていないと、自分が自分でなくなったりしてしまいます。俗に言うところの「憑依」です。

 私の以前知っていたある人は霊道が開いていました。過去世の言葉を語り、遠く離れた人の心の状態を知り、自分自身のあるいは人の未来を、そして過去(前世をも)を知り、眼に見えない世界の現象を感じ取ることの出来る能力~霊能力を持っていました。

 ところが金銭欲を始めとして、いくつかの欲が生じてしまいました。そのために一人、二人とその人の元から離れて行きました。彼女はそれでも自らを振り返ろうとはしません。

 私が彼女から離れてしばらくして、天使長であるミカエル様が、彼女の霊道を閉じることをしました。このままでは人に迷惑をかける、というのが主な理由です。

 彼女の場合は自我が強く、欲というものが強く生じており、他の人のことを中傷したり、非難するということも多々ありました。これでは霊道を閉ざされてしまっても仕方のないことです。つまり、本物ではなくなる、ということを意味します。

 大天使ミカエルは今世、アセンションの仕事に直に関わっており、天上界と地上界とを繋ぐ仕事を扱っている関係上、人の霊道のコントロールに携(たずさ)わっているとのことです。

 そのためミカエル様は彼女の霊道を閉じました。彼女が霊道を開いていることは、アセンションにとっての役に立たないばかりではなく、他の人にも、他の事柄にもマイナスの因となってしまう、ということからです。

 彼女は実は七次元の菩薩界から出てきている光の天使です。ところが全てを人のせいにしてしまい、自らを振り返ることは一切していないために、心の段階は7次元から4次元へと一気に落ちてしまっていました。

 今は「前はこんなはずではなかったのに…」と、自らを振り返ることをすることもあるため、心の段階の方も五次元(の下の段階)にまで、戻ってきたとのことです。

 霊道が開いた場合、今まで以上により自分自身に厳しくする必要があるということです。霊道に関してこの事柄をここまでミカエル様に尋ね、教えられたものとして、この場に記させていただきました。

 霊能力というものに憧れる人もいることと思いますが、自分の心が余程しっかりとしていませんと、上級霊ならばとにかく、地獄霊だとか動物霊などの低級霊にあなた自身、乗っ取られてしまい、心を蝕まれてしまうことも、なきにしもあらずです。

 ですから、むやみやたらにおかしな方向へ修行に心を向ける事は逆効果となりますので、十分に注意しなければなりません。それはあなた自身のためであるからです。

 また別にある本では、「天上界において天使と出会って様々な教えを受け、そして自らも天上界の様子を見て真実を知った」と記した内容のものが実は、高橋信次先生の本からそのままのものでした。

 この著者はそれでセミナーなどを行ない、生計を立てているといいます。(この著者のことをミカエル様に確かめた所、信者集めが80%で、本の内容については創作である、とのことでした)

 もしあなたの近くに霊現象の行える人がいた場合、まずその人を観察して下さい。その人の日常の言動だとか、生活の様子、人柄などを第三者の眼で見て下さい信じるのはそれからでも遅くはないのですから。

 むやみやたらに信じてしまって、そしてそれで1番損するのは、他ならぬあなた自身なのですから。
 

井出章彦さんの過去記事からの引用ですが・・・♬


祈り  (徳によって祈りが叶う原理)

 誰もが皆、お祈りをしたことがあると思います。それは心の中であったり、神社の前であったり、お寺の中であったり、あるいは夜寝る前の布団の中であったりしたかもしれません。

 そして多分皆さんは、神様が、天使が、ご先祖様が守ってくれる、導いてくれる、願い事を叶えてくれるとのことで、祈られているのではないかと思います。以下、心の眼の観点から感じたままに記していきます。

 ます、祈りは、徳の数によって成就されるということです。えっ、何のこと?、と思われることでしょうね。きっと。ここで、預金のことを思い浮かべてみてください。

 原理としては同じですから、把握しやすいと思いますので。
あなたが新車を欲しくても、それだけのお金がなければ購入する事は出来ません。(物を買うには)お金という貯えがこの場合、必要です
 
 では徳とはどういうものなのでしょうか。そして徳を積むとは一体どういうことなのでしょうか。人に親切にするとか、街に落ちているゴミを拾うという行為も、徳として換算されて、積まれていきます。

 たとえそこに貴方のその行為を見ている人が誰もいなくても、あるいはあなたの親切を相手の人が気づかないとしても、です

 私は時々、遠隔ヒーリングを行うことがあります。相手には「気を送ったよ」とか、「今からヒーリングをするからね」とかを、特に伝えたりはせず行う場合が殆どですが、心の眼で私自身の徳の数を教えてもらうと、それは増えていたのですね。「情は人のためにあらず」という言葉の意味は実は、このように自分のためとなっているのだ。ということなのです。

 拝めば救われる、という以前に、自分自身の今までに行ってきた善の行為によって、自分自身が助けられる、救われる、という事柄は実際にあり、それは事実なのであるということを、皆さん方には是非知っておいていただきたいと思うのです。

 今の日本人における徳の数の平均はいくつでしょうか。百を満点とした場合、その平均値というものは実は二十です。ちょっと少ないなあ、と感じられたのではありませんか。

 ではなぜ少ない数なのでしょうか。それは、自分本位の考え方で生きている人が多いことをそのまま顕しています。

 それだけ自分だけ良ければいいんだ、という考え方に基いて生きている人が多いということを顕しているのですね。ですが、面白いことに、そのような人というのは徳が少ないから、逆に幸せな人生は送りにくいのですけれども。


心の曇り、そして罰

怒り、愚痴、不平不満、謗(そし)り、誹謗、足ることを知らぬ欲望などが心の曇りです。そしてこれらは心の曇りとなります。そしてこれらは心の毒と称します。これらは、心に射してくる神からの光を遮ってしまいます。

 心に曇りが出来ますと、神からは光が当たらなくなり、すると数奇な人生を送る、言い換えると、正道から外れてします方向に、進んで行ってしまいます。(謗り=悪口を言うこと)

 ここで、日常生活の中でありがちな事柄を、怒り、愚痴、不平不満などが心に生じている例として、考えて挙げました。
 「自分から人が離れていった場合、離れていった人の方を悪い、と決めつけたり、周囲に言い触らしたりする」というケースです。

 このような、人が自分から離れていってしまった、という出来事に対して、自分自身を振り返ることはしないで、あれこれと理由をつけて自分自身を納得させることは、自分の非を認めたくはない、認めない人に多いでしょう。

 相手に怒り、愚痴、不平不満などの感情をぶつけるのではなくて、まず自分自身を振り返ることなのです。

 自分自身を振り返るということは、自分の心の状態・在り方が、出来事を作り出しているのですから、そのようになってしまった原因は、他人ではなくて自分自身にある、ということに気がつくことなのです。

 例えですが、もしあなたが、全てを人のせいにするようなタイプの人から、何かを言われたり、誇張されていわれたり、あるいはまた、無いことまでもをもひわれたとしても、誰に対しても言い返したり、事実を説明したり、証明したりすることは必要ありません。

 まずそのような事を言っている人というのは、天上界にある(閻魔帳)につけられてしまうのだそうです。

 加えて、そのような人から何を言われたとしても、「ここで言い返したり騒いでみても、周囲の人達を巻き添えにしたり、事が大きくなるから、ならば黙っていよう」としている人には、大きな徳が積まれるのだそうです。

 預金で言うと普通預金ではなく、定額預金に該当する程の大きな徳になるとのことです。

 自分自身を省みることをせず、他人のせいにしたりする人、このような人は心の段階が残念なことに、ガクンと落ちてしまっています。これはすべての人々にあてはまる事柄です。

 高橋信次先生からの、私がいつも胸の中に入れている最も好きな言葉を次に紹介します。
「己れに厳しく、人には寛容な態度を決して忘れてはならない。柔和な心は神の心であり、法の心であるのである」


私は井出章彦さんから徳を積む大切さを学びました


正しい思いをもって
調和した生き方をすると心の次元が上がる

 心の次元をレベルアップさせていくのを邪魔するのが、「心の曇り」です。心の曇りはエゴ、自我、自己保存などによって生まれます。
 私はこれを、「スモッグ」と呼んでいます。
 
 神からの光や天上界の天使からの光を受けるためには、自分の心が綺麗に磨かれていなければなりません。
 曇っているとひらめきを得られないのです。この状態は、窓ガラスが曇っていて外から光の量が十分に中に入ってこないのと同じです。

 心にスモッグがある人に守護霊や、指導霊、あるいは天使が メッセージを送っても、スモッグが邪魔をしてメッセージは受け取れません。心に差し込む高次元からの光が心の中まで入ってくるのを遮ってしまうからです。

 今の地球はスモッグが大気のように広がり、地上を覆っています。この地上に在る心を光で満たすには、怒り、恨み、妬み、憎しみ、愚痴、足ることを忘れ去った欲望、増上慢などの不調和な想念をなくし、

 愛の思いや努力、責任。博愛、勇気、向上、進歩など、善の調和ある想念を心に抱くことです。そうすることによって、スモッグは消え、心に光を受け取ることが出来ます。

 なぜ、心にスモッグが出来てしまうのかというと、先に述べたように人間は自分たちの心10パーセントしか知らずに生きているからです。三次元では10パーセントしか把握できないのです。

 心の次元が上がるということは、今より心が広く大きく豊かになることでもあります。
 天からの光が多く心にはいれば、過去生の事も、この世に生まれてきた役割も、宇宙真理も、人によっては分かったりします

 現世の人間は四次元より上を覗くことが出来ません。過去生がわからないのはもちろん、一寸先のことすら分かりません。そうした厳しい状況の中で、私達は魂を磨くため修行をしているのです。

 欲望=エゴに振り回されることなく、正しい心のあり方を知り、感謝の念とともに法に叶うかなう心で実践に移せば、心の次元は上がっていきます。

 思いと行いが正しければ、天は必ず私達に大きな力をくれます。不調和で邪な霊に支配されることもありません。

 素直な心、不調和のない綺麗な心で、正法にかなった生き方をしていると、天の指導や善導を受けやすくなります。

 逆に愚痴や怒り、自己保存などで心が揺れていると、心にスモッグが出来て、天の光が届かなくなります。そういった状態は様々な不幸な現象を呼び寄せますし、心の次元も下がってしまいます。
  
 毎日の生活が調和していると、誰にでもガイドが力を貸します。ガイドは日々、指導、善導を行いますから、人生が「ツク」方向に向かうようになります。生活の中の小さな部分から法にかなった思い、行動をすることにより、心の次元が上がっていくのです。


他人の目はなくても
天の目があることを知っておいたほうがいい

 大事なのは徳を積むことです。徳というのは、良い行為をすることです。相手が人間であるかどうかに関わらず、動植物や地球に対しても良い行為をしていくことです。
 
 お金がある人は寄付をする、お金はなくても物がある人は物を渡す、物がない人は知識を渡す、知識がない人は労力で渡すなどでいいのです。

 例えば目の前に体の具合が悪い人がいたら、お金のある人は治療費を出してあげる。
お金のない人は腕のいい医師、あるいは病院を教えてあげる。

 知識も何もない人は痛い所をさすってあげる・・・・・など、自分の置かれた境遇によって、出来る限りのことを出来る範囲ですればいいのです。
 
 人助けまでいかなくても、ゴミを拾ったり、優しい言葉をかけてあげてあげたり、簡単なことでいいのです。

しかしそのとき、「誰かが見ているからやる」などという気持ちが少しでもあると、徳は半減してしまいます。

 半減どころか、ゼロに近くなってしまう場合もあります。見返りを期待することなく、心から滲み出てくる善なる行為が”徳”なのです。
 
 そういう行為が自然に出来るように、自分の魂をレベルアップしていくことです。道にゴミが落ちていたり、自分の心の垢を一つ取り除く気持ちで拾ってゴミ箱に捨てればいいのです。これは、簡単な習慣付けでもあります。



井出章彦さんの心のお師匠さん
お釈迦様の生まれ変わり「高橋信次先生」が語る

感謝と報恩のお話   成年との問答    高橋信次師の記事♪

 T大学の四年生は、こんな質問をしました。

「私は、自分で望んで生まれてきたとは信じられない。両親が勝手に生んだのではないか。生んだ以上は育てるのが当然だ。

 現在のような社会の体制下の中で、人間の平和はあり得ないし、権力者に感謝した所で良くなるはずもないではないか。

 私達が月謝を払っているから当然教えているのであって、給料をもらっている以上、教える義務もあるだろう。

 また勉強、試験、試験と追いまくられていれば気分もイライラしてくる。といって学校を卒業しなくては、就職の時に問題になるし、

 誰だって良い生活はしたいだろう。学校さえ出ていれば、働いて地位を築いて行く事も出来るし生活も楽になるはずだ。

 この中で弱い者は敗れ、強い者が生き残るのは自然の法則ではないか。私は、感謝とか報恩とかいう言葉は、好きではないが答えて下さい」

 何だか、国会において野党の議員が文部大臣をつるし上げている様な質問ですね。これが大学生の質問かと思うと、私には哀れに思えたのでした。 

 彼が、心損失の代表のように思えたからです。彼は、私(高橋信次師 )の著書も観ていないし、講演も初めて聞いた者であります。

 この時の公演は、現在仏教徒古代仏教の相違について、一時間半話をしたものですが、質問はその後の事でした。私は聞いてみました。

「君は生きているという事に疑問を持ちますか」
「それは、自然だから疑問はないなあ」

「自然とは何ですか」
「自然は、自然だよ。別に意味はないよ」

「意味がないという事は」
「意味がないから無いと言っているんだ」

 話になりません。常に反撥する事に生きがいを感じているのでしょう。しかし、彼の心の中で、どうにでもなれというような捨て鉢になって、大きく感情が膨らんでいるのがよく見えます。

「なるほどね、君は自然という意味もあまり解っていないようだね。原因があるから結果が生まれるのでしょう。自然という原因があるから、結果として生きている事に疑問がないのだろうか。

 疑問がないという事は、先程の質問と大分違っているが、君は、理屈にはならないことを簡単に口走っているが、もっと筋を通して人と語る事が大事ではないか」 

学生「・・・・・・・・・」

「君は、親が勝手に生んだのだ、望んで生まれてのではないと言ったが、どのくらいの知識を持ってその様な事を言うのかね。

君の考えているのは、眼に見える世界だけなのだ。君を今日まで育ててくれた両親がいるから大学へも行けるのではないか。それを当然だと思っているのかな」

「それは当然だなあ」
「では、もし君の両親が君を生みっ放しにして、死んでしまったとしよう。それでも君は、今のような境遇にいられると思うか。

 両親も身内もなくて君は孤児になる。世の中にはこの様な人は一杯いるのだ。君だったらどうするね」

「それは、他人が何とか見てくれるだろうね。しかし今のような境遇になれるかどうかは想像は出来ないなあ」

「それなら、今の境遇は恵まれているという事になるだろう。
大学へ行けない青年も多いのだよ。君が、何不自由なく、学校に行けるという事は幸福だと言わねばなるまい」

「それはそうだよ」
ようやく、頑(かたく)なな屁理屈屋も同調したようです。

「幸福だという事は、両親の愛情によるし、経済的にも恵まれているからだろう。両親が病気とか貧乏としていたら君はどうする」
「僕は働いてでも学校へ行くし、親の面倒も見るだろうな」

「君は恵まれすぎているから、親の愛情が解らないのだ。苦しい両親を見ていたら、働いて両親を助けていただろう。それは、君が両親に愛情を持っているからだ。

親に対する感謝の心があるではないか。その感謝に見合う事をするのが報恩であり、親孝行というものだ」
学生「・・・・・・・・・・」

 まだ反撥心が消えていません。すきがあれば攻撃しようという様な心構えのようです。
「君は、両親の思っている事が解るか。また両親は、君の思っている事が解るか」
「それは解らないなあ・・・」

「なぜ解らないのか」
「考えている事が解ったら大変だ。親子であってもこれは別だよ・・・」

「親子であっても別だと言ったね、その通りだ。肉体を両親から戴いたはずだし、君の魂意識は別だからねえ・・・」

「魂なんていうものは、ないよ。そんな非科学的なものは論外だ」
(学生は)勝ち誇った気持ちになったらしいです。

「君は、悲しい時や感激したときなどどのような気持ちになるか」
「人間だから感情というものがあるだろう。だから泣く事もあるさ」

「その時は、涙が先に出てくるの?」
「胸からこみ上げてきて涙が出てくるよ」

「そうだろうな……君のことだから、先に涙が出て来ると思ったよ。胸にこみ上げて来るものは一体何だろうな、解るかね?」
「それは感情だろうな」

「その感情が心の現れだよ。心の中の一領域の作用というものだ。君は、思う事や考える所はどこからだと思う?」
「それは頭だよ。頭脳だよ」

「君は、眠っている時には、なぜ悲しい事も辛い事も嬉しい事も解らないの?耳の穴もちゃんとあいているのに、そばで悲しい問題が起こったり、話しかけられたり、匂いを嗅がされても、大きな刺激を与えない限り解らないのはどういう訳かね」

「眠ってしまえば、誰だってわからないよ、そんな事は愚問だ…」
一寸風向きが変わってきたようです。愚問だと言っています。

「君は解らない事は愚問だと言うが、非常に非科学的だね……。君は、舟に乗った事があるかね」
「夏はよく海で乗るなあ……」

「その舟に船頭さんが乗っていなかったら、目的地に着けるか」
「それは着けないよ。船頭がいなければ、舟は吹いているだけだなあ……」

「君も眠っている時は、自分の意志もなく、肉体舟は自由に動かないだろう。船頭さんである君自身が眼覚めて、初めて眠る前の喜びや悲しみや苦しみが蘇ってくるだろう。

この時の船頭さんを君の魂と言うんだよ。また、人はよく意識がなくなったというだろう。それはその意識の事だ」

「なるほどなあ……肉体以外で船頭さんがいるという事か、それが魂なのか」彼は遂(つい)に否定出来なくなってしまいました。

 頭が全てを記録しているのならば、眠っていても私達の五体は完全ですが、実は催眠中は記憶などはないものなのです。
「やはり船頭さんが記憶しているのだなあ……そう考える以外にはないなあ……」

 私は、最後にこう言いました。
「君が生かされているという事は、大自然の太陽を始めとして、万物万生があるため、肉体舟を保存する事が出来るのだ。太陽がなかったら、生きられるだろうか。しかも太陽は私達全てに平等に熱光りを与えているだろう。

 これこそ、慈悲であり愛であるという事だ。私達は、この慈悲と愛に対して、ただありがとうという感謝だけで良いのだろうか。
感謝だけでは一方通行である。そこで、報恩としての行為が必要だ。

 この行為は、太陽にするのではなく、人々のため、より良い幸福のために尽くすことが大事ではないだろうか。両親は、無償で育ててくれた。これも両親の慈悲であり、愛のはずだ。

これに対する感謝はやはり報いねばならないだろう。食物も私達のため一命を投げ出してくれる。だから私達の血や骨になるのである。感謝する心は、大事に無駄にしないようにする事が報恩の行為といえるだろう」

 学生は、初めて頭を下げたのでした。
「解りました。私は感謝の心が足りませんでした。学校の先生に対しても教えるのが当然だと思っていました心を入れ替えて頑張ります。無礼な質問ばかりしてすみませんでした。本当にありがとう」

 彼に、遂に本当の心(神我)が芽生えたのです。この時、彼の心の曇りは晴れ、※頭に薄い後光が出始めたのです。
(※ご自分の後光の光量の強さに応じた世界が、死後に行く世界になるそうです。感謝の心は天国に行く大きな秘訣といえましょう

 自らの間違いを認め、これはいけないと心に反省をしたのですね。この様に、私達の心の在り方が苦楽を造り出している事を知ったなら、毎日中道心と行いで過ごす事を忘れてはならないでしょう。

 学校の教育は、人間の教養を高め、正しい人間らしい立派な人格を造る為にあるのではないでしょうか。そして、より良い社会人として、社会人類の豊かな心と繁栄のため尽くさなくてはなりません。その時に、自らの心も磨かれてゆくのであります。

 学問によって広い知識を持つと共に、豊かな心を持つ事です。虚栄心やエリート意識は、人生において良い結果をもたらすものではありません。

実るほど頭を垂れる稲穂かな」ですね。謙虚な心で、自分の欠点を修正する為には、己に厳しく、人々に対しては寛容な心を持つ事が大事なのです。

 常に自らの心と行為を反省し、包容力があり、そして智慧があり、勇気があり実行力のある人々、こうした人々こそ、本当に立派な人格者といえるのです。

 先に質問した学生は、社会は弱肉強食であり、それが当然だという考えを持っていました。こうした考え方は、万物の霊長である神の子が取るべき道ではないのです。

 人間には、足る事を忘れ、欲望の尽きることを知らない人々もいます。むしろ動物以下の人間もいるでしょう。その動物達も万物の霊長に近づくための修行過程なのです。

 人間は、この地上階の万物万世を調和したユートピアを造る事が使命なのです。弱い者達に、愛の手を差し伸べて、共存共栄の社会を完成しなくてはならないという事であります。



お釈迦様の生まれ変わり「高橋信次先生」が語る

後光を出す秘訣は感謝と報恩
父母の愛に感謝して恩返しする大切さを説く素敵なお話


 年が進むにしたがって、ものに感謝する心が失われてきます。すべてが当たり前に動いており、感謝や、感動の心は湧いてこなくなります。

 しかし、ものに感謝できない心は、もともと、どの辺りから生じてきたのでしょう。誰しも子供の時代がありました。

 子供のときは両親から可愛がられます。両親は子供のいうことなら大抵のことは聴いてくれます。近頃は過保護となり、親は子供のこととなると夢中になってしまうようです。

 両親は大抵のことはいうことをきいてくれる。わがままを通してくれる。
ということから、子供の心は生長するにしたがい、次第に、ものに感謝する心を失ってゆきます。

 学業を終え、社会に出ても、仕事をするから給料をもらうのは当然だ、課長は係長より余計に給料を取っているから、それだけ働くのは当然だ、ということになってゆきます。

 こうして感謝の心は一向に芽生えてこない訳ですが、その元をたどると、子供の頃のわがままが、大人になっても続いているからです。これでは感謝の心がよみがえってきません。

 この地球上は、お互いに、助けたり、補い合うことによって成り立っているのですから、感謝の心というものは、人間にとって非常に大事なものになるのです。感謝は謙虚な心をつくり、やがて、愛の心をも育てるものです。

 正法の出発、そして終点は、ものに感謝することにあります。すべてが当たり前で、当然、という見方をしていては、「正しくものを見る」ことにはなりません。

 大事なことは感謝です感謝が基礎にないと、ものの見方は偏見を伴ってくるでしょう。

 このほか、親子の問題、夫婦の問題、社会生活の問題、いろいろその例題は尽きませんが、正しい見方というものは、具体的には現れている様々な事柄を深く掘り下げ、物事を正しく認識することから生まれてきます。

 公平な見方は、そうした認識から生まれ、正しい見解に至るわけです。
この地上界に事象(現れている様々な出来事)は、全て、人の想念、心の動きから生じており、現れの姿はそれの結果なのです。

 ですから、ものごとの原因は、人の心にあるのであって、現れているさまざまな現象は、原因ではなく結果なのです。従って、結果だけをとらえ、あれこれ判断すると、間違いの元となります。

 まず、現れている結果を見たならば、その原因について、掘り下げてゆくことが「正見」のポイントです。

 正見の目的は、物事の正確な判断であり、そうして、それにもとづく正しい見解を持つことです。


以上を要約すると、
 一、まず感謝の心を持つこと。  
   一、事象の一切の原因は人の想念、心にあって、現れの世界は結果である。
 一、既成観念を白紙にもどし、物事の真実を知るようにする

 一、正見の反対は邪見になります。常に第三者の立場に立って自我の思いを捨て、正しく見る努力をするということになります。


愛の原点  父母への反省と感謝

それでは皆さん、静かに呼吸を整えてください。
今から、私たちをこの世に送り出して下さった両親の事を静かに考えてみたいと思います。

あなた方は今、生きています。肉体があります。呼吸しています。
今、ここに自分というものがあることを誰も否定できません。なぜあなた方が今、ここにあるのでしょうか。

ご承知のように物事には、すべて原因と結果があります。
私たちの魂もこれから外れることが出来ないから、今ここにある訳です。
人間には転生輪廻があります。

何十回・何百回生まれ変わったか知れません。その繰り返しを重ねて、今ここにあなた方があります。それは丁度、数限りなく繰り返した輪廻という法の中にあります。

その法の端にいる今のあなたをこの世に送り出して下さったのは、他ならぬご両親です。ご両親を縁として、今のあなたがあります。

お父さんがいなければ、あなたは今ここに居ることはありませんでした。お母さんが居なければ、あなたは生まれることはありませんでした。

あなたの肉体は、ご両親によって与えられました。しかもビタ一文払うことなしに、この肉体を頂きました。ただで頂いたばかりでなく、ただで育てて頂きました。

全てが与えられたものばかりでした。よぅく考えてみて下さい。あなたはただで肉体を与えられ、ただで育てて頂いたのです。

今、もし仮に、あなたのご両親がその肉体を返して欲しいと言われたら、あなたはどうするでしょう。……… あなたは拒むことは出来ないはずです。

そうではありませんか。あなたの体は、すべてご両親から与えられたものだからです。自分のものは、何一つありはしないのです。

皆さんの中には様々な事情があって、ご両親に対して良からぬ想い出や感情を、お持ちの方がいらっしゃるかもしれません。しかし、それは狭い心に基づいた偏見だと申し上げましょう。

今ここにあなたがいる。そのために、両親がどれほど心を砕き、身を挺し、その結果としてあなた方が存在しているかを振り返って頂きたいと思うのです。

遠く昔に遡って見ましょう。……… 
今、あなたがお母さんのお腹の胎内(なか)にいる自分を想像してみて下さい。お母さんのお腹の胎内(なか)は暖かです。

ゆったりしています。何の不安もありません。
そのようにして十月十日(とつきとおか)の間、あなたはお母さんの体に守られて、ゆっくり育っていきました。

お母さんは大変でした。ある時はつわりで吐きそうになり、何日も苦しみました。体は重くなり、動くのさえ大儀になってきました。トイレに行くのも苦しいほどです。

肩で息をしました。でもその体でおむつを縫ったものです。夏の暑い日には、かんかん照りの日差しの中を、お腹を突き出してあえぎながら、毎日市場へ買い物にいったものです。お母さんも、たまには映画を見たいと思ったこともあったでしょう。

けれども人ごみの中へ出かけては、お腹の子に悪いと控えたのでした。胎教に悪いからと読みたい本を控えたこともありました。

いつも考えるのは、お腹の子のことばかりでした。丈夫な子が生まれるように、そればかり念じておりました。時には赤ん坊は、お腹の中で手足を動かしあばれました。「ああ、丈夫に育っている」とそれが何よりの喜びでした。

みなさん、よぉく考えてください。お腹の胎内(なか)にいた、僅か十月十日(とつきとおか)の間でさえお母さんは、これだけの犠牲をあなたに注がれたのです。

やがて出産の時が来ました。お母さんの陣痛は大変なものでした。骨の節々まで痛み、身体中から脂汗を流しながら痛みに耐えたのでした。 

この子が無事に生まれてさえくれればそれでいい。ただ、それでいいと、必死になって陣痛と戦ったのです。
命をかけてあなたをこの世に送り出そうとされたのです。

お父さんもそうでした。出産が近づくともう欲は言わない、ただ赤ん坊の手足の指が五本づつ揃っていれば、母と子が無事であれば、もうそれ以上何もいりませんと、ひたすら祈り続けました。

ひたすら祈りながら産室の前を歩き回ったものでした。それがあなたのお父さんの姿でした。あなたがこの世に生を受けるまでに、すでにご両親はこれだけの愛と犠牲を払われているのです。

思い出してください。こうしてあなたはこの世に生まれました。「おぎゃー」と呱々の声を上げた時も、両親の喜びはどんなに大きかったか

その声を聞いて母親は自分までが、初めてこの世に生まれたように喜びました。お父さんもまた、安堵の胸を撫で下ろし、涙さえ浮かべたのでした。

そして手を取り合って二人で喜び合ったものでした。それからは一切がお母さんの手によって育ちました。
 母の懐を寝床として、母のひざを遊び場として、母のお乳が唯一の食べ物として育ててくれました。母の手でなければ夜も昼も明け暮れません。

母の手がなければおむつはそのままです。夜中にむづかり、泣き出して母親を起こします。両親は昼間の疲れもいとわず、二人で飛び起きてあなたの世話をして下さいました

あなたがヨチヨチ歩きを始めると、両親の気遣いは大変なものでした。
お母さんは台所で水仕事をしていても、あるいはちょっとした買い物に出かけていても、気がかりでならないのです。

泣き声が聞こえてくると、縁側からでも落ちたのではないかと息せき切って走ってかけつけました。それがたとえ、空泣きであっても急いで抱き上げておっぱいを含ませました。

痛いほど乳房を噛まれても、母は吾が子があどけなくおっぱいを吸い、にっこり笑う笑顔を見さえすれば、母親は一切の苦しみを忘れるのです。それがあなたのお母さんでした。

赤ん坊のあなたは何もわかりません。父親が注意していなければ、ストーブの火が身体を焼くことを知りません。母親がいなければ、刃物が指を切ることを知らないのです。

両親がいなければ、毒で命を落とすことも知らず、何でも飲み込んでしまうのです。どれほどの心づかいや、目配りが赤ん坊のあなたに必要だったか、あなたはお分かりでしょうか。

熱を出して、お医者さんを呼びに走ったこともあるはずでした。夜も寝ずに、心配で胸をいっぱいにして看病してくださったのはご両親です。

大病をした子供に私の命に代えてもこの子を救ってくださいと、お百度参りをしてくださったのは、あなたのお母さんでなくて誰だったのでしょう。

ご両親がいなければ、あなたは、今ここに居なかったはずです。
自分一人で育ってきたと当然のような顔を出来るはずはありません。

両親がよその家にお客に招かれておいしいご馳走がでたときに、ああこのお菓子の一つでもあなたに食べさせてあげたいなぁと思うので多少格好が悪くても、わざと食べ残したものを紙に包んで持って帰ったこともあり、あなたはそれを喜んで食べた。

ご両親は自分が食べなくても、子供が喜んで食べるその姿を見てひもじい思いは消し飛んでしまいます。戦争直後は、ひどい食糧難でした。

その時に、子供にだけはひもじい思いをさせたくないと、自分は食べずに、自分の分まであなたに食べさせて下さったのは、お母さんでした。

お母さんはお釜の底や、しゃもじに残った一粒一粒のお米を食べて、さも充分食べているような素振りをしていたのです。それ程の愛を注いで下さったのがお母さんの外に誰があるでしょう。

……… やがてあなたは成長しました。学校に行くようになりました。洋服を整え、学用品を買い、世間並みの恥ずかしくない用意を整えて下さったのは誰でしょうか。毎日、ハンカチからチリ紙まで気を配って下さったのは誰でしょうか。

「車に気をつけなさいよ」・「道草をくわないで」毎日そう言って送り出して下さるのは誰でしたか。お母さんの心は愛で一杯です。
たとえお金をもらっていても、これだけの愛の行為が、誰に出来るでしょうか。

あなたが成長するにつれ、しだいに大きな洋服がいります。靴がいります。あなたのお父さんが、汗水たらして働いて得た収入があってこそ、必要なものが整えられていったのです。俗に男が家を外に出れば、七人の敵が居ると言われます。

会社に勤めたり、また独力で商売を営み、それにはどれ程の汗と涙が流されているのでしょう。上役の厳しい命令にも耐え、辛いことも忍んで父親は家族のために収入を得てきました。本当に苦労の連続です。

あなたはその苦労を知りませんでした。欲しい物が買えるお金が家にあるのは当然のように思っていたのです。いやお金の事なんか、全然考えもしなかったでしょう。

しかし実際は、限られた収入の中からやりくり算段して母親は、子供たちに必要なものを買い与えていたのです。

自分は流行りの着物を着なくても、あるいは、化粧品は、百円の安いクリームで我慢して、あなたに恥ずかしくない服装を用意したのです。

……… 冬がやってくればあの子はセーターがいるだろう、この子は手袋がいるだろうと心をくだいて、あなたの事ばかり考え配慮して下さったのはお母さんです。

思い出してください。何年も前の古ぼけたオーバーのままで、町を歩いていたお母さんの後姿。その後姿にあなたへの一杯の優しい愛が、母の心が溢れていたことを、いま知ってください。

こうした多くの両親の犠牲と愛によって、あなたは、いま、ここにある訳ですが、それに気付いたことがあるでしょうか。

正法(しょうほう)は愛に始まって、愛に終わるものです。」

愛の献身によって、人は生かされ生きています。

その愛は、両親の身を削るような犠牲の中に育み、今のあなたがあるのです。幼い時を反省し、父や母の愛の行為に感謝されたでしょうか

たとえされたとしても、両親の愛の心に対して、両親の愛の大きさ広さに見合う心は、容易に得られない事を知る事でしょう。現にあなたは、ご両親の心を痛め、苦しめることを、何度繰り返した事でしょうか。……… 

食事がうまくないと言って箸を投げ出し、口も聞かなかったことがなかったでしょうか。苦しい家計のやりくりの中から作った食事に、このおかずは嫌い、このおつゆは辛い、そう言っていささかの感謝もなく、心を不満で一杯にした事もあったでしょう。

犬猫でさえ、文句を言わずに食べるのに。あなたは好き勝手なことを言いました。洋服の柄が気に入らないと言ってぶつぶつ文句を言った事もあります。

親の愛が満ち溢れているその洋服を怒って、身につけて泣きわめき、我を通そうとしたこともあったでしょう。お母さんが忘れたと言って怒鳴った事もあると思います。

忙しい上に心配事の多いお母さんが、一度か二度忘れた事を、罵り(ののしり)返す権利が、いったいあなたのどこにあったと言うのでしょうか。
怒鳴っているあなたは、鬼です。己の事しか心にないエゴイスト、それがあなたではないですか。

受験勉強でお腹が空いただろうと、
一緒に夜遅くまで起きていて夜食を作って下さったお母さん。……… 

「しっかりやっているか」とのぞきに来て肩を叩いてくれたお父さん。努力が実って入学試験に合格したとき、お赤飯を炊いて顔中を涙でくしゃくしゃにして、喜んでくださったお母さん。

あなたが社会に出た時もそうでした。入社試験に受かって、これで一人前になったと励まして下さったお父さん。お祝いの料理を作り、お酒を買ってきて前途を祝って下さったお母さん。

どれ程の大きな愛が、生まれてから現在までのあなたに、注がれ続けてきた事か。あなたは、その愛の重さを感じ取る事が出来ますか。

あなたの身体は、両親の、父と母の愛が、一つ一つ集まって出来ているのです。
あなたの身体は、単なる肉体ではない事を知ってください。

そうした大きな愛を受けながら一人前になってしまうと、両親をなおざりにしがちになるのが人間です。まして結婚しますと両親の事を忘れてしまい、自分の家庭だけが心の関心事になってしまうのです。

「去る者は、日々にうとし」もはや、あなたは自分の妻や子供達だけで自分の世界を作ってしまい、両親の事は遠くへ押しやってしまいます。

故郷を離れ都会に出てきてしまうと、その繋がりはいよいよ薄くなり、親の年が幾つであるのかも忘れてしまい……… 

ご両親の年が幾つかを、正確に覚えていらっしゃる方がこの中に何人いますか。… お父さんは還暦じゃないかな… 七十七のお祝いの年じゃないかな、といつも心掛けている方が何人いるでしょう。

両親と言うものは、歳を取り仕事が衰えてくると頼りにするのは子供だけです。ですから、電話を掛けたり手紙を出してあげれば、両親が喜ぶことは、あなたは百も承知のはずです。

それでいて、滅多に電話も掛けなければ、葉書一枚書くのもおっくうがって、一日延ばしにしてしまうのはどう言うことでしょう。

でも、ご両親は、あなたを恨みません。愚痴もこぼしません。それどころか、夫婦仲は上手く行っているだろうか。… 病気はしていないだろうか。…会社ではうまくやっているだろうか。… 孫達は風邪をひいていないだろうか。… 

ご両親の愛の思いは尽きる事がありません。幾ら歳を取っても、親不孝であった子であればある程、気掛かりなのが親心です。

そうした両親が連れ合いに先立たれると淋しさは一段とつのります。丁度、独りぼっちで旅先の旅館で泊まっているようなものです。

話し合える人もなく、淋しさをまぎらわせる物は何もありません。独りぼっちの親も、頼みとする子供夫婦が、そして、孫が訪れる事もありません。

皆と笑いささめく楽しみもなく、夜は冷たい布団の中で身を横たえるのです。眠れない布団の中で思う事は、子供達と一緒に暮らした昔のことです。

その淋しさを、あなたは想像できるでしょうか。淋しくとも文句一つ言いません。その心の内を、あなたは思いやった事があるでしょうか。

夜中に目が覚めて、子供達夫婦はどうしているかを考えるのです。そのような母の心、父の心を思いやる時が、あなたにこれまで、何回あったでしょう。

たとえ同じ家庭に同居していても、夫婦が親をそっちのけで、ひそひそと楽しく語り合う事ばかりが中心で、独りぼっちの父や母と語り合う機会がどんなに少ないことでしょう。それがどんなに、父や母の心を傷つけていると思いますか。…

けれどお父さんやお母さんは恨みません。あの子は優しい子だった。… いろいろ忙しくて大変なんだ。… この頃は余り話も出来ないけれど、あの子は悪意がある訳じゃない。そう思って、自分をなぐさめるのです。

我が子が悪いとは、露程にも思いません。たまにちょっとした事があって、遠慮がちにお母さんがあなたに何か言えば、「そんな事じゃお母さん困るよ」と文句を言ったのは、あなたではないでしょうか。

いつも妻の肩を持って、「お母さんはそれだから」「お父さんはそれだから」、と逆に両親を責める事はなかったでしょうか。

そのようなあなたであれば、あなたの奥さんやご主人、あるいは子供達も、あなたのご両親に対して心よからぬ感情を持つでしょう。
ひどい時には「人間老いぼれて行き永らえるよりは、早く死んだ方がいいよ」と、鬼のような言葉を吐く人もいます。

そのような言葉を聞いた時に父母の悲しみはどれほどのものでしょうか。お腹を痛め、ひたすら育ててきた子に、裏切られる親の悲しみはどんなものでしょうか。

それ程の言葉でなくとも、それに類した親の心を刺す言葉を、あなたは口にした事はないでしょうか。

両親にこんな思いを抱かせる人があったならば、もはやその人の心は地獄の心、畜生の心、の心です。如何なる守護霊、指導霊も手をつけかねて、見守る以外ありません。

考えて下さい。今は年老いてしわだらけのお母さんの顔は、あなたを産み落とした頃は、花のように美しい顔でした。

あなたを育てていく苦労が深いしわを、その顔に一本一本と刻み、顔・かたちはすっかり消沈してしまったのです

じっ~と、あなたの心を見つめてください。
今、あなたがたの心の中に父母に対する本当の思いがあるはずです。お父さん、お母さん本当にすみませんでした。
そういう思いがよみがえっているはずです。

その思いこそが本来あなたが持っている愛の心、善の心です

その心をしっかり知ってください。さあ、その心を持ってあなた方は、
ご両親に感謝し、感謝する思いをご両親に愛の行為を返していって下さい

おいしい物があったら持って帰って「お父さん、お母さん、これ美味しいよ」とすすめて下さい。どんなに喜ばれる事でしょう。

その時また、愛の言葉が返ってくるでしょう。「私はいいよ。孫にあげようよ」… そのご両親の心をしっかりと胸に刻み込んで下さい。

ご両親が病気になったら、あなたが自分で看病しましょう。そして愛の言葉を掛けてください。便を取ってください。寝入っている時は、寝息を伺ってください。

これは皆かつて、ご両親があなたにして下さった事なのです。
それがあなたには出来ないはずはありません。

その時、あなたは初めてご両親の愛の深さを体験する事が出来るのです
初めて親の心と同じ心に成ることが出来るのです。

このように親に孝養を尽くす時、ご両親はあなたという子を得た喜びに胸を震わせるでしょう。良い子を持ったという、嬉しさで一杯になるでしょう。

その時、親と子の間に愛の交流が始まるでしょう。
その時ご両親の煩悩は菩提と替るでしょう。

中には頑(かたく)なな心を持ったお父さん、お母さんがいらっしゃるかも知れません。しかしそれは、長い苦しい人生の間に、あなた方を育てる苦しみのために、止むなく作り出した心の癖でもあるでしょう。

そうしたご両親でも、あなたの愛の行為の積み重ねによってご両親の内なる心(神我)は、広く人間性に目覚めてゆくでしょう
ご両親がそのように成られた時、本当の親孝行が成就されるでしょう。

なぜならご両親も修行のため、人間として、この世に出てこられたからです。人間が親子の縁を持って生まれたのも、豊な人間性を養うために、お互いを磨き合う目的を持って縁を結んだからです。

愛の行為を通して意識(魂・心の次元)を高め合ってこそ、本当の親孝行が完成するのです

あなた方の中には、既にご両親が他界された方がいらっしゃるでしょう。そういう方は、普通の形の地上界での親孝行は出来ません。

しかし父母に対して、今自分達がここにある事を感謝し、このように育てて下さった恩を感謝し、至らなかった不幸を詫び、自分自身を善なる者につくり変へ、暖かい調和ある家庭を作り上げて行くことが素晴らしい親孝行と言えましょう。そして、その姿を見て両親は天上界から喜んでいらっしゃるでしょう。

今、皆さんは生まれてから今まで、ご両親があなたに注がれた愛というものを振り返って来られました。そして、ご両親への数々の誤ったあなたの行いと行為に気がつきました。

その誤った自分中心の価値観を身につけて来た過程を、これからも毎日の生活で正していって頂きたいと思います。それは両親の愛の心に相応(ふさわ)しい、それに立ち戻ると言う事です。

その心で今から生きてまいりましょう。お父さんやお母さんに、その心で接して頂きましょう。その心とは愛の心です。思いやりの心です。

愛多ければ、成すこと多し」 もう一度申し上げます。 
愛多ければ、成すこと多し


宇宙創造の神がすすめる霊性を高める方法 天の理=洗心

いつももつべき正しい心(=常の心)
強く     明るく
正しく    我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ

心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)

憎しみ  不満
妬み   疑い
猜み   迷い
羨み   心配心
呪い   咎めの心
怒り   いらいらする心
不平   せかせかする心


■四句御箴言(しくごしんげん)

与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ

与えられたことを拒むこれ欲なり
与えられぬことを欲するこれ欲なり


FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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世界一美しい愛のスピリチュアリズム物語♪世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フランチェッツォの清い愛の物語♪スターシードの魂の戻る場所の違い♪「魂の法則」関連 「愛しいあの方」為に魂を成長させる愛の物語 あの世の魂の救出活動事情がよく分かる素敵なお話をご紹介♪

 

「魂の法則」関連
「愛しいあの方」為に魂を成長させる愛の物語
あの世の魂の救出活動事情がよく分かる素敵なお話をご紹介

 今回は、「魂の法則」でも魂の救出活動として、イザヤさんが具体例を示されていた、まさにそのままのお話ご紹介しちゃいます。下の「魂の法則」の部分を読破してから、今回のお話を読んで頂くと、より理解が進むでありましょう。

 何だかんだで、今回ご紹介する「フランチェッツォの清い愛の物語」が、スピリチュアリズムの中で一番好きなお話だったりします。

  恋愛を昇華させた、何とも言えない清らかな美しい愛が、感動を誘います。普通は、神様~って思うところを、フランチェッツォさんは「愛しいあの方」の為に頑張ろう…というスタンスで、成長してゆきます。この辺りが、普通のスピリチュアリズムと違うところではありますが…。

 ですが、それはそれとして、異性間の愛をこういう風に、善の方向へ、魂の霊性進化へと繋げられるという事を、このお話から学ぶのもアリかもしれませんね。

 ヘミシンクでも、こういう下層アストラル界への救出活動のお話は伺った事があります。悟りを開かない魂は、スターシードとかアセンションの奉仕の為に今生地球へ転生してきた魂等の、一部の例外を除いて、ほぼ自分の魂の波動に同調した世界へ否応なしに、磁石でひっつけられる様に行くそうです。

 ちなみに、コーリー・グッドさんによりますと、今回のアセンションの奉仕のために、地球に舞い降りたスターシード達は、愛の次元を高めて愛に生きている限りにおいては、死後に、元の高い次元の星に戻るらしいです。

(※スターシードとは高い次元の星にいた魂で、今回の地球の次元上昇の奉仕に来た魂です)

 スターシードの高次元な魂でも、転生中に、心を汚して、愛から離れてしまった場合は、地球の三次元の転生の渦に巻き込まれてしまい、元の高い次元の星には戻れなくなるそうです。

 私は愛に覚醒めたスターシードですので(笑)、自分は大丈夫かなぁ…とは思っておりますが、頑張って今生で解脱するのがベストなゴールですから、油断する事なく、「愛のキリストへの道」をしっかりと歩み続けます。

 今生では私も、魂を磨きに磨き抜いて、もうすっかり「聖人君子」の様な人間に変容していますし、仮に悟りを開けない場合でも、元の高次元な星に生まれ変わる事はできそうな気配であります。

 もう善人道を極めた天使みたいな人間になっていますから(笑)、私は何の心配もしておりません。後は悟りを開くだけ~、開くだけ~みたいな♪

 身内や他人様からもよく人間性を褒められますし、あながち過剰な自己評価という訳でも御座いません。
 自分で納得できるレベルにまで、自分の人間性・霊性・立ち振舞い・他人様に対する態度・等々磨き抜いて高めるというのは、人生において大事なことだ言えましょう。


「魂の法則」の記事から一部引用ですが……♪







世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フランチェッツォの清い愛の物語
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪希望の同胞団に入団♪
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪死後世界探索への旅が始まる
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フラ ンチェッツォ不幸な国へ行く
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フラ ンチェッツォ新しい姿に生まれかわる
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フラ ンチェッツォ地獄での救援活動に参加
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フラ ンチェッツォベネデットと出会う
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪さらに輝く国へと新たな旅が続く
世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フラ ンチェッツォついに敵を赦す

を一つにまとめてご紹介させていただきます。

ではでは、感動の涙なくしては見れない、スピリチュアリズムの感動の金字塔である「ベールの彼方の生活」に唯一匹敵する(と思っている…笑)、
美しい愛で綴られたこの素敵な物語をご堪能下さいませ。
……………………………………………………………………


一章 間違いなく死んだのに生きている!!

(◆)「はじめに」

≪死後の世界というまったく未知なる世界を旅し、その旅行記を詳細に著したイタリアの青年フランチェッツォ。彼がこの本の主人公である。死ぬ瞬間まで死後の世界の存在を否定していたが、死の扉を通り抜けて知ったこと、それは死後の世界が存在することだった。そして、その世界を冒険しながら地図のごとく描いた、歴史上まれに見る霊界探訪記がこれから始める≫

「人はどこから生まれ、どこへ還るのか?」

どれほど時が流れて、地球の上の地図が変わり、人の暮らしのスタイルが変っても、この素朴な疑問が人の心から忘れられることはありません。

私たちはふだん、いまの時代の、目に見える地図上の国に住み、あたかもそれだけがすべてのように目の前のことに一喜一憂しながら生きています。

もちろん、人として生まれたならば、何気ない日々の暮らしを生きることはとても大切なこと。けれど、そんないつまでも続くはずの日常が、時として断ち切られ、思いもよらぬ悲しみに見舞われたとき、人は目の前に見えるもの以外のことを、考えざるを得ないと思うのです。

大切な家族が、いとしい恋人が、心を分けあった友人が、「死」という扉の向こうに去り、目には見えない存在となったとき、それでも「彼らは見えないのだからもう存在しない」と言い切ることが、あなたにはできるでしょうか? 

そしてまた、この世界の人々と「死の扉」で隔てられた後も、「自分」という存在が変わらずに残っていたとき、ただ忘れ去られていいと本当に思えるでしょうか?

この本の主人公フランチェッツォは、一九世紀の後半に生まれ、二十世紀になる前に亡くなってしまったイタリア貴族の青年です。

『死がやってきたら堂々と向き合いますよ。「死とはすべての消滅を意味する」と信じている者ならば誰でもそうするように』

そう言い切っていた合理主義者の彼は、地上で生きている間は、宗教も死後の世界も何一つ信じてはいませんでした。しかし、ひとたび死の扉を越えたとき、そこに待っていたのは、それまで彼が想像することもできなかった世界だったのです。

フランチェッツォは、この世に縛(しば)り付けられた霊たちがいる地表の霊界から、霊体を癒す「希望の家」に移ります。

その後、利己的な霊たちが集う「たそがれの国」、「灰色の石の谷」、「不安の国」、「守銭奴(しゅせんど)の国」、「不幸な国」、「凍結の国」、麻薬中毒患者が横たわる「昏眠(こんみん)の洞窟」へと、死後の世界のさまざまな国々を放浪します。

そしてさらに、残酷な霊たちの巣窟(そうくつ)である「最下層の世界(いわゆる地獄)」を探索します。

それが終わると、自らの向上を願って訪れた「悔い改めの国」への巡礼の旅、喜ばしい勝利への道となる「あかつきの国」、「朝の国」、「日の国」への旅、と歩き続けます(その全体像を画いた図が本文中・57項にあります)。

この彼の果てしない冒険行きを支えていたのは、愛する「あの方」が地上から送ってくる熱く深い思いと、彼女とあちらの世界で再び巡り会い、今度こそ幸せになるのだという彼自身の強い一念でした。

「人は死んでも生きている。死が人から愛する思いや、やさしい願いを奪い去ることなどできない」

自らの経験からそう悟るようになったフランチェッツォは、あの世とこの世が交信する道をつくり出すために、A・ファーニス氏という優れた霊媒の力を借りて、一冊の本を著しました。それが一八九六年にロンドンで刊行された『A Wanderer The Spirit Lands』(邦題『スピリットランド』)です。

このフランチェッツォのまれにみる霊界冒険記には、時代や国籍、そして宗教を超えた、人としての生き方に対する真実が語られています。そして、未知なる世界の驚くような風景、不思議な生き物、愛と憎しみに繋がれたさまざまな人々の詳細な記録が生きいきと語られています。

地上の歴史には、マルコ・ポーロが残した『東方見聞録』のように、未知なる世界に足を踏み入れ冒険するなかで、自ら体験したことを詳細に後世に伝えた優れた文献が数多くあります。

それらを読んでいると、知らぬまに私たちも一緒にその世界を目の当たりにし、当地の人に会い、話し、触れ合っているように気持になります。

そして、本書もまた、死後世界という未知の世界を教えてくれる、歴史上まれなる探訪記といってまちがいありません。

『誰も書けなかった死後世界地図Ⅲ』完結編として著された本書は、フランチェッツォが『スピリットランド』に語った膨大な霊界リポートをダイジェスト版にしたものです。

彼が旅した足跡を忠実にたどりながら、とくに、死の扉を通過した直後の様子、霊としての成長、生まれ変わり、死後世界で訪ねたさまざまな国の様子、彼が霊界で出会った人々、地上人との交信、非常に具体的な霊界での生活のありさまなどがくわしく語られています。

そして何より、その旅路を支えた、“霊として向上したい”というフランチェッツォの熱い思いと、地上から彼を支え続けた愛する女性からのあまりに誠実な愛情、さらに高次の霊からの励ましなどが、この探訪記の全体を貫いています。

さあ、あなたもフランチェッツォといっしょに“あらゆる世界”をシュミレーションしてみてください。人はこの世界に生まれ、生き、そして死んで、またあちらの世界で人生という旅を続けるのです。その魂の終わりのない旅を充実したものにするために、彼が死後世界で歩いた地図を心の中で描いてみてください。そのことが、あなた自身がこれから生きていくための人生の地図をつくるのに、きっと役立つはずだと思います。


(1)愛する人との出会い

私、フランチェッツォはいまに至るまで、はるか彼方にある〝あの世界〟の放浪者でありました。地上にいるみなさまは、こうした世界については名前はおろか、その存在さえもよくご存じではないでしょう。

そこで、できるだけわかりやすく、私(すでに〝あの世界〟の住人になっています)の体験を述べることにします。それによって、いま地上を生きている方がやがて地上を去るとき、いかなる体験が待ちうけているかを知っていただきたいと思うのです。

そして私の体験が世に明かされることにより、みずから奈落に向かうような生き方を止める人々が出てくることを心から願っています。

私は、十九世紀半ばのイタリアに、貴族の息子として生まれました。

地上にいたときの私は、いまから思えば自己満足だけを求める傲慢(ごうまん)な人間でした。

精神的にも肉体的にも、能力と天分に恵まれていた私のことを、幼いときから人は素晴らしい、高貴だ、才能があるなどとほめそやしましたが、それをいいことに、人から愛と尊敬を得ることにのみ夢中になり、自分が純粋な気持ちで誰かを愛することなどほとんどありませんでした。

私が愛した(地上の男性は愛の名に値しない情欲もこう呼びますが)女性たちはみな、その魅力で私の気をひこうとしたものです。けれど私は、誰に対しても物足りなさを感じました。欲しいものは何としても手に入れたくなりましたが、いざ手に入れてみるとそれは苦い灰の味しかないのです。満たされない思いを心に抱えたまま、それが罪であるとも思わずに、私はどれだけ女性たちの心を傷つけたでしょう。

それにもかかわらず、私はたくさんの宴(うたげ)に招かれ、貴婦人方によって甘やかされ、社交界の寵児(ちょうじ)になったつもりでのぼせ上がっていたのです。

そんな心の隙が招いたのか、芸術家を志していたはずの私は、ある日仲間と思っていた男に裏切られ、決定的な過ちを犯してしまいました。自分と他人の名誉を傷つけ、前途あるはずのそれぞれの人生を台無しにしてしまったのです。

その過ちは、生きているときばかりか死んでからさえ、私にずっとついてまわりました。わがままで放蕩(ほうとう)に満ちた人生がもたらす結果は、まだ生きている間でさえ悲惨ですが、霊界においてはそれに倍して悲惨なのです。過去の過ちや失敗は、すべての過去をあがない精算するまで、ずっと私たちの翼の自由を奪い続けます。

傷心に沈む日々を過ごしていた私は、あるとき一人の女性と巡り会いました。ああ、それは何と素晴らしい出会いだったでしょう!
私にとって純粋可憐(かれん)な彼女は、ほとんど人間以上の存在に思えました。

そうして「私の善き天使」と名付けた彼女に、「高貴な愛」という次元から見れば貧相で自己中心的なものではありましたが、私のすべての愛を捧げました。その人生のなかで初めて、私は自分以外の人間のことを真剣に考えるようになったのです。

それまで私が誰かにやさしくしたり、愛する人に寛大であったりしたのは、相手がそのお返しをくれることを期待したからでした。

自分の愛情や好意は、他人からの愛や尊敬を買うための投資にすぎず、自分の幸せなど考えないで、ただ愛する人の幸福だけを願うような、そんな犠牲的な愛など想像したことすらありませんでした。

けれど、何かが私の中で変わり始めたのです。
彼女の輝くような精神の高みにまで、自分の心を純粋にすることはできませんでしたが、ありがたいことに彼女を自分の側に引きずり降ろそうとはしませんでした。

いつか時が経つにつれ、彼女の世界の明るい太陽に照らされて、自分にはもうないと思っていた至純(しじゅん)の思いをもつまでになったのです。

その一方で、誰かが彼女を私から奪っていくのではという恐怖に怯えていました。ああ、あのころの痛恨と苦悩に満ちた日々!

二人の間に見えない壁をつくったのは自分であると知ったのです。
俗世(ぞくせ)に汚れた自分は、彼女に触れることさえふさわしくないと感じていたのです。

私に対するあの方の深い思いやりとやさしさのなかに、彼女自身も気づいていない愛を読みとることはできても、この世にあるかぎり彼女が自分のものになることなどありえないと感じていたのです。

それで彼女と別れようとしましたが、できませんでした。彼女とともにある幸福、彼女の明るい世界に触れる喜びだけは私にも許されていると思い、それだけで満足しようとしたのです。そのわずかな願いさえ、やがてかなわなくなるとも知らずに。


(2)突然やってきた「死」

ところがやがて、何ということでしょう、あの予想だにせぬ恐ろしい日がやってきました。何の前触れもなく突然、私はこの世から取り去られ、すべての人間が避けることのできない「肉体の死」という深遠(しんえん)に投げ込まれてしまったのです。

初めは死んだということがよくわかりませんでした。
数時間苦しみもだえた後、夢のない深い眠りに落ちました。

やがて目覚めてみると、たった一人で真っ暗闇(くらやみ)の中にいたのです。起きて働くことはできましたので、その直前よりは確かに状態はよくなっているようでした。

だが、いったいこことはどこだろう?
立ち上がって、暗い部屋の中でやるように手探りしてみましたが、まったく光が見えないし、音も聞こえませんでした。ただ、死の静寂と暗黒だけがあたりを包んでいるばかりでした。

歩けば扉でも見つけられるだろうと思い、どれほどでしょう、力無くゆっくりと動き手探りし続けました。

数時間もそんなことを続けたでしょうか。私は、だんだん狼狽(ろうばい)し、恐怖さえ募ってきて、どこかに誰かいないのか、とにかくこの場所から抜け出せないか、と必死になりました。

残念なことに、扉も壁も何も見出すことはできませんでした。私のまわりには何も存在しないのです。ただ暗黒のみが私を包んでいたのです。

最後に、とうとう耐えきれなくなった私は大声で叫びました。しかし、いくら金切り声をあげても、誰も答える者はいません。何度も何度も叫びましたが、相変らず静かなままです。

牢獄にでも入れられたのだろうか?
いや牢獄には壁があるがここには何もない。

精神錯乱? それとも? 自覚ははっきりあるし、感触もある。以前と何も変わらない。本当にそうか? いや、やはり何か変だ。

そうです、はっきりとはわかりませんが、何か全身が縮こまって、いびつになってしまったような感じなのです。

自分の顔はどうか、手で触ってみると何だか大きくなっているようだし、がさつで歪んでいるような。いったいどうなっているんだ?

ああ。光を! どんなにひどい状態でも何でもいいから、とにかくどうなっているのか教えてくれ!
誰も来てくれないのか?まったく一人ぽっちなのか?

そして私の光の天使よ、彼女はどこに? 私が眠りに陥る前、彼女はたしかにそばにいてくれた。いまはどこに?

何かが頭と喉(のど)の中ではじけた感じがしたので、もう一度私の元に来てくれるようにと、彼女の名を大声で叫びました。

すると、ようやく私の声が響きだしました。そして私の声があの恐ろしい暗闇を通して、こだまとなって返ってきたのです。

はるか遠くに小さな星の光のような点が現われ、少しずつ近づいてきて大きくなり、とうとう私の目の前までやってきました。それは星の形をした大きな光の玉で、その中にあの「いとしい人」の姿を認めることができました。

彼女の目は眠っているように閉じられていましたが、両腕は私のほうに伸びており、やさしい声でこう言っているのがはっきり聞こえました。

「ああ、私の愛する人、あなたはどこにいらっしゃるの? 見えないわ、声しか聞こえないのです。私を呼ぶあなたの声だけが聞えるのです。それで私の心が答えるのです」

私は彼女のほうに駆け出そうと思いましたが、だめでした。見えない何かの力が私を引き戻すのです。また彼女の周囲には、私が突き抜けることのできない囲いのようなものがありました。苦しみの中で私は地面の上に崩れ落ち、一人にしないでくれと彼女に哀願(あいがん)しました。

しかし彼女は、気でも失ったように頭をがくりと前に垂れ、誰かの腕に抱かれるようにして、その場を去っていきました。

私は起き上がって彼女の後を追おうとしましたが、無駄でした。大きな鎖でしかっかり繋(つな)がれてでもいるかのように、先に進めないのです。さんざんもがいているうちに意識を失い、地面に倒れたのでした。

再び目覚めてみると、とてもうれしいことに彼女がそこに戻ってきていたのです。彼女は私の傍らに立っていました。地上にいるときのように見慣れた様子でしたが、青ざめた悲しげな表情で黒い衣装に身を包んでいました。

あの光っていた星は見えず、あたりは暗闇に包まれていますが真っ暗闇ではなく、彼女のまわりはぼんやりと青みがかった光に照らされています。

彼女は白い花を腕に抱いて、新しい土を盛った低い長めの塚の上にかがみ込むようにしていました。

さらに彼女に近づいてみると、その低く盛った塚の上に花を添えながら、声も出さずに涙を流しているのがわかりました。そして、彼女はそっとこうつぶやいたのです。

「ああ、いとしい人、もう戻ってきてはくださらないの? 本当に死んでしまわれたの? もう私の愛の届かないところへ行ってしまわれたの? 私の声さえもう聞くことのないようなところへ? ああ、私のいとしい人!」

彼女はひざまずきました。私はますます彼女に近づいてみました。とはいっても、彼女に触れることはできませんでしたが。

私もひざまずき、その土盛りを見ました。
そのときです。私の全身を言いしれぬ恐怖が駆け抜けました。私は、はじめて自分が死んだことを知りました。それは何と私自身の墓だったのですから。

(3)死は終わりではなかった。

「死んだんだ! 死んだんだ!」
私は、必死に叫びました。そして、
「まさか、そんなばかな! 

だって死んでしまったら何も感じないはずだろう? 

土くれになるんだろうが? 朽ち果て、腐り果て、それですべておしまい、何も残らない、死んだらもう何の意識もないはずだろう?」
と、くり返しくり返し自分に問いかけました。

たしかに自分の傲岸(ごうがん)な人生哲学がまちがっていなければ、つまり死人の魂が死体が朽ち果ててからも存在し続けるなどということがなければ、そのはずだったのです。

教会の司祭たちは、「死んでも人の魂は存在する」と言っていましたが、それを聞くたびに、愚かな者どもだ、奴らはまちがっている、と私はばかにしていました。奴らときたら、自分たちが“儲け”ようとしてこんなことを言ってのけるのです。

人は再び生き返るのだが、そのとき天国の門を通過するには、冥福を祈ってくれる司際たちがもつ鍵で、門を開けてもらわねばならない。

その天国の鍵は“金で廻る代物”で、司際の一存にかかっているというわけです。

そんな話は、司祭たちの秘められた生活の実態を知っている私には笑止千万でした。そして、できもしない免罪の約束に耳を傾けるかわりにこう言ってやりました。

「死がやってきたら堂々と向き合いますよ。『死とはすべての消滅を意味する』と信じる者ならば誰でもそうするに」と。

しかしいま、私はこの自分の墓の傍らに立って、いとしいあの方が私の名を呼び、花を投げかけるのを見つめているのです。
やがて私には、目の前の墓の固い土盛りが透けて、中が見えだしました。

下のほうに私の名と死亡した日付の刻まれている柩(ひつぎ)が見え、その柩の中に見慣れた私自身の、白く動かなくなっている遺骸(いがい)を見ることができました。

恐ろしいことにその遺骸はすでに腐り始めていて、顔を背けたくなるような代物になっていました。

私はそこに立って注意深く自分の死体を見つめましたが、今度はいまある自分の体に触れてみました。腕と脚とを確かめた後、なじみ深い自分の顔の作りを一つひとつ手でまさぐり確かめてみました。

私の肉体は死んだはずなのに、私はいまこうして生きているのです。
もしこれが死というものなら結局、あの司際たちは(魂は肉体的な死のあとも存続するという意味では)正しかったわけです。死んでも生きているのですから。

だがどこに? どんな状態で?
そもそもこの暗黒の場所は地獄なのだろうか?

あの司際たちなら、まさしく地獄以外、私を送り込む先はないと言うでしょう。私は、当時の腐敗しきった教会とは一切縁を切っていました。

ですから、もし教会が破門した者を地獄に送る力を本当にもっているなら、私などまずまちがいなくそこに送られる口です。
反対に、いとしいあの方などは、たとえ私を捜すためだとしても地獄に来ることは絶対にないだろうと思います。

彼女はまだ地上で生きているようでしたし、私の墓の傍らに彼女がひざまずくのを見たのですから、私もまた地上にいると思わざるを得ませんでした。


(4)肉体と自分を繋ぐ糸

いったい死人は、いつまでも地上で生活した場所のあたりをさまようものなのだろうか?

そんなことをあれこれ思いながら、私は愛する人の近くに寄ってその手に触れようとしましたが、かないませんでした。見えない壁のようなものが彼女を囲っているようで、ある距離以上には接近できないのです。どんなに試してみても無駄でした。

そこで私は彼女の名を呼んで言いました。自分がすぐそばにいること、意識もしっかりしているし、死んだけれど何も変っていないということを。

しかし、彼女には聞えないようで、私のほうを見ることもありませんでした。
彼女は、まだ悲しそうに泣いていました。そして、やさしく花に触れながら、私のことを花がとても好きな人だったと口にしていました。

あの花は、そのことを知っていて私のために供えてくれたものだったのです。たまらなくなった私は、できるかぎり大声を出して何度も名を呼びましたが、彼女にはどうしても聞えません。夢でも見ているように方手でさようならの合図をして、彼女はゆっくりと悲しそうに去っていきました。

私はすぐさま、彼女の後を追うとしましたがそれもできません。肉体の置かれている墓から数メートルまでしか離れられないのです。

そのわけはすぐわかりました。クモの糸ほどしかない、黒い絹のような糸が私の体にくっついていて、どんなに力を込めても切れないのです。ゴムひものように伸ばすことはできますが、必ず引き戻されてしまいます。

最悪なのは、肉体は腐って崩壊していきますが、それが私の精神をむしばむような感じがすることです。ちょうど毒に冒されたときのように、苦痛をともないながら、脚から全身へしびれが回っていくような感じなのです。

新たな恐怖に襲われかけたそのとき、威厳(いげん)に満ちた何者かの声が暗闇を通して私に語りかけてきました。

「汝(なんじ)は己の心よりも肉体をより大切にしてきた。さあいまこそ、汝が崇拝し、貴重に思い、執着してきた肉体なるものの正体を知るがよい。その肉体がちりに戻るのを見るがよい。そして肉体の享楽のために汝がどれほど魂をおろそかにし、痛めつけ衰えさせたかを見るがよい。汝の悪しき生き様が、どれほどみじめで無惨で酷いものであったかを知るがよい」

そこで私は、自分自身に目をやりました。そして目の前に掲げられた鏡の中を見たのです。ウォォ! 戦慄(せんりつ)が走りました! 

そいつはたしかに私自身の姿でしたが、ああ! 恐ろしいまでに変形した、おぞましくも醜悪(しゅうあく)な、下劣(げれつ)きわまりない姿をしているではありませんか。体のあらゆる部分が身の毛もよだつような形となってしまい、顔まで変形しているのです。

私は、あまりの自分の姿におののいて後ずさりし、いますぐにでも地面が口を開けて私を呑み込み、世の中のすべての視線から自分を永遠に隠してほしいと祈りました。その瞬間、私は思いました。絶対にもう二度と、あの方を呼ぶことはすまいと。

彼女にこの姿を見せることはできない。私は死んで、もう永久に彼女の元から去ったのだと思われたほうがよっぽどましだ。

ああ、何てことだ! 私の絶望、苦悶(くもん)は計り知れないものでした。すべての人から見て私は死んだ存在でありますが、何ということでしょう、いまや私は、死が終わりのない眠りでも、静かなる忘却(ぼうきゃく)でもないことを知ったのです。もし死がすべての終わりだったら、どれほどよかったことでしょう。

私は絶望のうちに、完全なる忘却が自分に与えられるようにと祈りました。しかし、祈りながらそれがかなわぬ望みであることを知らされました。

人間の本質は永遠の魂です。その魂は、善であれ悪であれ、幸か不幸か、とにかく永遠に生き続けます。人間の肉体は朽ちて塵(ちり)となりますが、本当の自分つまり精神は、朽ちることも忘却することもありません。

私の心が少しずつ目覚めるにしたがって、自分の人生におけるさまざまな出来事が目の前に映し出されていくのが、はっきりと見えるようになりました。

いまとなっては、そのうちのたった一つでさえやり直すことができない過去の過ちを目の当りにして、私はただ、がっくりと頭を垂れるしかありませんでした。
           
(5)彼女の部屋にたどり着く

どれほどの時間が経過したかわかりませんが、私にはとても長い時間のように思われました。絶望のなかに打ちひしがれ、しゃがみ込んでいましたが、ふと、特も言われぬやわらかな響きで私を呼ぶ声が、そう、あの方の声が聞えてきたのです。

その声をたどれば声の主にたどり着けそうだ、だからさあ起きて行かなければ、私は心の中でそう強く感じました。

それで私は声にひかれて進んでゆき、とうとうあの方の家にたどり着きました。彼女は小さなテーブルの横に腰掛け、一枚の紙を前にして鉛筆をもっていました。そして、私の名を呼びながらこう言っています。

「最愛の人よ、亡くなってからでも帰ってくることができるのなら、私の元に来てくださいませ。そして私の質問に答えて、イエスでもノーでも、あなたのほうから私に書かせることができるなら、何でもいいから書いてみてくださいませ」

私は死んでから初めて、悲しそうなあの方の口元に、かすかな微笑(ほほえみ)みを見ました。それから、ふと気づくと、彼女の傍らに誰か三人いるのが目に止まりました。彼らは霊人たちでしたが、私とはまったく姿が違います。三人とも光り輝いていて、その光で目が焼かれてしまいそうで、彼らを見つめることもできません。

一人は上背のある、物静かで威厳のある顔つきをしている霊で、ちょうど守護天使のように、あの方の上をおおって守っていました。あとの二人はとても美しい若者で、彼女の両脇に立っていました。

私はすぐに、その二人が誰なのかわかりました。以前、彼女がよく話してくれた、亡くなった彼女の兄弟たちでした。洋々たる人生を前に夭折(ようせつ)したこの二人の思い出を、あの方は胸の内にしっかりとしまっていたのです。

私は、はっとして後ずさりしました。彼らが、私に気づいてこちらを見たように思ったからです。それで私は見につけている黒いマントで、歪んでいる顔や姿を隠そうとしましたが、にわかに自尊心が頭をもたげるのを感じました。

あの方が、私を呼んでくださったのではなかった? ならば自分には、ここにいる権利があるはずだ。

「あなたがそこにいらして私の言葉が聞えていらっしゃるのなら、あなたが私のことを考えてくださっていることがわかるように、何か一言書いてくださいませ」

自分の思いを読みとったかのような彼女の言葉を聞いた私は、まるで心臓が喉まで飛び上ってきて窒息してしまうのではと思うほど、どきどきしました。いったい自分にあの方の手を動かせるものかどうか。


先ほどは、触れることさえできなかったのです。しかしとにかく試してみようとしたところ、あの背の高い霊人が二人の間に分け入ってきました。

「何か言いなさい。私があなたに代って、この人の手を動かして書きましょう。この人のために、この人のあなたへの愛ゆえにそうするのです」

彼のその言葉は、私の心を波のように喜びで揺さぶりました。
私のいとしい方がもう一度、「あなた、そこにいらっしゃるの? 私の最愛の人」と言ってくれたので、私が「はい」と答えると、その霊人は彼女の手に自分の手を添えて「はい」と書いたのです。

彼女は、私のために何かしてやれることはないか、私がしてほしいと願うことはないかとたずねてくれました。それで私は「いえ、いまは別に。もう行きます。私のことであなたを煩わしたくありません。私のことは忘れてください」と答えました。しかし、私の心は、そう言いながらも悲しさで張り裂けるようでした。

ところがああ、あの方の次の言葉が何といとおしく私の胸に響いたことでしょう。

「そんなことおっしゃらないで。私は、昔もいまもあなたの真実の友です。そうしてあなたがお亡くなりになってからというもの、考えてきたことはただ一つ。あなたを捜し出して、もう一度あなたとお話しすることでしたわ」

そこで私は叫ぶように「私もまたそのことのみを願っていました!」と答えました。
するとあの方は、また来てくれるかとたずねますので「はい」と答えました。

ここまで来てあの光り輝く霊人が「今夜は、これ以上続けてはならない」と言って、それを彼女の手を通して書き出しました。それが書き終えられたとたん、私は、再びあの薄暗い教会墓地にある自分の墓の中の肉体まで連れ戻されるのを感じました。

しかし、このときは少なくとも当初味わったような、絶望的で悲惨な気持ではありませんでした。現実そのものはいまも変わっていませんが、一条の希望の光が胸の奥から差し出すのを感じたからです。あの方にまた会えるし、話だってできるということが、いまではわかっているわけですから。

           
(6)彼女にすべてを告白する

ところで墓地には私一人だけではなく、あの二人の兄弟が同行してきました。彼らがそこで私に言ったことのポイントを言えば、次のようになります。

あの方と私の間には埋め尽くせぬ深淵が横たわり、それはあまりにも広大である。そして問題は、まだ若いあの方のこれからの人生を私の暗い影でおおいたいと、私自身が思っているのかどうか、ということです。

もしいま、あの方をそっと一人にしてやれば、いつかはあの方も私のことはあきらめ、かつてそういう最愛の友人がいたという記憶が残るだけである。私が本当にあの方のことを愛するのであれば、あの方の若い人生を孤独な寂しいものにしたいとは、当然願わないはずである、と。

私は、彼らに答えてこう言いました。あの方を愛している、あの方をあきらめることなどできない。いままでどおり彼女を愛し続けることしか私には考えられない、と。

すると二人は、私や私の過去について語り始めました。

私がいま希望を見出しているあのおぼつかない方法を使って、どうしてでも彼女の無垢(むく)な人生に関わりをもちたいと本気で考えているのか、とたずねてきました。また、あの方が死んだ場合、汚れた私などがどうやってあの方と会うことができようか、と言うのです。

私はそこで弱々しく、あの方は私のことを愛していると思うと言いました。

すると彼らは言いました。
「そのとおり。彼女は自分の心の中であなたを理想化し、無垢な心のままにあなたのイメージを描き、それを愛しているのです。

もしあなたの一切を知ったなら、それでもあなたを愛すると思いますか? 

彼女に自由な選択肢を与えるべきです。
本当に彼女を愛し、彼女のためを思うならば、何が彼女に真の幸福をもたらすのかを考えるべきです。自分のことだけを考えるべきではありません」

彼らの言葉で私の内なる希望は打ち砕かれ、悲嘆と恥ずかしさで、頭を垂れるしかありませんでした。

まさしく自分は下衆(げす)野郎であって、あの方にふさわしくないことは明白なのです。そして、私から解き放たれたあの方の人生がどのようなものになるか、鏡で見るようにはっきりとしていました。

人生において初めて、私は自分以外の人間の幸福を先に考えることになりました。私はあの方のことを心から愛していますし、彼女には本当に幸福になってほしいと思いましたから、彼らにこう言いました。

「そのようにいたしましょう。あの方に真実を告げてください。そして私にはお別れのやさしい言葉の一つでも言ってくだされば、彼女から去って、もう二度と私の暗い影をあの方の人生に投げかけることはいたしません」

私たちがあの方の部屋に戻ったところ、彼女は悲しみのあまり、すっかり疲れ切り、寝入っているようでした。

私は彼らに、最初で最後の接吻(せっぷん)をしたいので許してほしいと頼みました。しかし、彼らはそれはできないと言います。ひとたび私があの方に触れようものなら、彼女の生命の糸が永遠に切れてしまう、というのです。

それから兄弟たちは彼女を起こし、彼らの言葉を書き出していきました。

私は傍らに立って、その一つひとつの言葉を聞きました。それはまるで、私の最後の望みを埋葬(まいそう)するための、柩に打ち込まれる釘のように感じられました。あの方は夢を見ているように、私の恥辱(ちじょく)に満ちた人生のすべてを書き続けました。


そして最後に、今度は私自身が、これで二人の関係は永久に終わり、私の利己的な愛から彼女は解き放たれたことを告げねばなりませんでした。

私は最愛のあの方にお別れを告げました。それは、心臓から血を搾(しぼ)り取られるようなむごい痛みをともなう言葉でしたが、何とか告げることができたのです。それから私は、向きを変えて彼女の元から立ち去りました。

どころが、どうしてかはわかりませんが、そこから離れて進むうちに、私を墓場にある肉体に結びつけていた魂の糸が切れて、自由になっていることを知りました。

もう私は、どこへでも自由に行けるのです。
私はいま、こうして自分の言葉を書いていますが、(著者はいま、霊界からの自動書記で書いている――訳者)、次に起こったことを思いだすといまでも感謝で涙が目にあふれ出しそうになってしまいます。

そのとき、あれほど弱々しくやさしく思えたあの方が、突然、誰も抗うことのできないほど強い愛の力をこめて私を呼び出してくれたのです。

あの方は、私が彼女を愛するかぎり、決して私のことを忘れることはないと言ってくださいました。
さらに、こんなふうに語りかけてくれました。

「あなたの過去はどうでもいいの。たとえあなたが地獄の底まで落ち込んだとしても私はあなたを愛し続けます。あなたのことを捜し出し、あなたを愛する者として当然のことをさせていただきます。愛する私の当然の権利として、神が慈悲(じひ)をもってあなたの過去の過ちを許し、再びあなたが立ち直るまで、あなたを助け、慰め、大切にしてさしあげたいのです」

この言葉を聞いた瞬間、私は、その場で泣き崩れました。

締め付けられ、傷つけられ、かたくなになっていた私の心は、やわらかでやさしいあの方の愛の手に触れて、感謝の涙で癒(いや)されたのです。

私はあのいとしい方の元に急いで戻り、彼女の横にひざまずきました。もちろん、あの方に触れることは許されませんでしたが、あの物静かで美しい守護霊は、彼女の祈りが聞き入れられたこと、今後は私を光の元に導くように努めなさい、と彼女に告げたのです。

そうして私は、再びあの方が私を呼んでくださるのを待ちながら、この霊の世界を放浪する身となりました。

(7)地表の霊界をさまよう

このころ私は、何か暗闇の中をさまよい漂(ただよ)っている、私と似た存在が他にもあることに気づいていました。ただし、それが何であるかを見ることはまだほとんどできませんでしたが。

あるとき、あまりの孤独に耐えられなくなり、あの慣れ親しんだ墓地に戻ろうかと思いたちました。すると、その思いが私をそこに連れ戻したようで、まもなく私は墓地に来ていました。あの方が以前もってきてくれた花は、いまは枯れていました。

もう二日間、彼女はここに来ていません。それは、私と直接話ができることがわかったからで、地面の中に埋葬されている私の肉体のほうは忘れてしまったようです。死んだ私の肉体のことは忘れ、生きている霊に思いを向けてくれるほうがありがたいので、彼女をそのままにしておきたいと思いました。

墓の前方にある白い大理石の十字架のあるあたりに近寄ってみますと、そこにあの方の二人のご兄弟の名前が刻まれているのを発見しました。それで、あの方が私への愛ゆえに何をしてくださったかがわかりました。

この世で誰よりも大切にした二人のご兄弟の傍らに、この私の肉体を埋葬してくれたのです。私は、その彼女の心に打たれて、また涙があふれてきました。その涙のしずくは、私の心の辛い思いを癒してくれるようでした。

それでも、一人さまようことが寂しくてやりきれなくなった私は、とうとう墓地を出て、あの暗い影がふわふわしている中に入っていきました。

ほどなく一人の男と二人の女らしい黒い影が、いったん私の近くを通り過ぎたと思うと、振り返って近寄ってきました。男が私の腕に触って、

「どこへ行くんだい? あんたこの世界にゃ慣れてないようだな、そんなに忙しそうにしてよ。誰もここで急ぐ奴などいない。ずっとここで過ごすしかないってことを知ってるからな」

と言って笑いました。その笑い声があまりに冷たく、下品な響きなのに私はぞっとしました。もう一人の女は私の腕を取り、

「いっしょに来なよ。死んでからでも、まだ人生の楽しみは終わっちゃいないことを教えてあげるよ。肉体がないからって楽しめないわけじゃない、ちょっと地上の人間の体を借りりゃいいのさ。来なってば、楽しみはまだ尽きたわけじゃないってことを見せてあげるよ」

と言いました。

私は一人ぼっちだったので、誰でもいいから話し相手が現れたことはうれしかったのですが、この三人の姿はどれも顔を背けたくなるほどひどいものです。

とくに二人の女のほうは、男よりもっとすさまじい格好をしていました。それでも、これから何が始まるか見てみたくなり、彼らについて行こうとしました。すると、はるか遠くの真っ暗な空に、光で描かれた絵のように、あの方の姿が見えたのです。

彼女は目を閉じていましたが、以前と同じようにその腕は私に向かって伸びていて、天から彼女の声が響いてきました。

「だめ! 気をつけて! その者たちといっしょに行ってはなりません。彼らの道は、ただ破滅のみに通じているのです!」

それでヴィジョンは終わりました。私は夢から覚めたように三人を振りほどくと、暗闇の中に逃げ込みました。

それから、どれほどさまよい歩いたかわかりません。ただ私にまとわりつく忌(い)まわしい影から逃れようと、やみくもに歩きました。そのうちに疲れ切った私は、休むのによさそうな地面を見つけて、しゃがみ込んでしまいました。

しばらくそうして休んでいると、暗闇を通して光がかすかに瞬(まばた)くのが見えました。近づいてみると、それはある部屋から出ている光でした。その光があまりに明るくて、見続けることができず目を背けると、声がしました。

「お待ちなさい、疲れた放浪者よ! ここには親切で、あなたの助けとなる者たちだけがいます。もしあなたが、いとしいあの方に会いたいと思うならここにお入りなさい。彼女はここにいますよ。あなたとお話しすることもできますよ」

すると誰かの手が、私のマントで強い光を遮(さえぎ)り、部屋の中に通してくれて、大きな椅子(いす)に座らせてくれました。この部屋には平安が満ちていて、何か天国まで通じていそうな感じがしたものでした。

しばらくして見上げますと、天使のような印象を与える、おだやかで親切そうな女性がいて、その人の向こうに、何と、あのいとしい方が微笑みながら座っているではありませんか。

ただし、あの方は笑みを浮かべているものの、私を見ているわけではないことがすぐにわかりました。かわりにその天使のような女性が、低いおだやかな声で私のことをあの方に向かって話し始めたのです。

あの方はそれを聞きながら、以前出会ったことのあるスピリチュアリストが「あなたの愛は死の障壁さえ打ち破るほど強く、あなたこそ彼(フランチェッツォ)を愛し助ける最適の人物である」とアドバイスしてくれたことを思いだしているふうで、とても嬉しそうでした。

その天使のような女性が私に話してくれたところでは、本人はまだ生きていて、天使ではないということでした。まだ地上で肉体をもっているスピリチュアリストなので、あの方と話をすることができたというわけです。

しばらくすると、私にこの部屋に入るように勧めてくれた霊人の声が、あの方へのメッセージを書いてほしいかどうか、たずねてくれました。

私が「もちろんです、せひお願いします」と言って語り始めますと、スピリチュアリストの女性を通して筆記が始まりました。

私は愛するあの方に自分が生きていること、ずっと愛していること、私を忘れないでほしいこと、私のことを思い続けてほしいことなどを伝えました。あの方の愛と助けがあってこそ、私はがんばれるのですから。

いま自分は、はかなく頼りない存在となってしまい、彼女には見えなくなっていますが、それでも彼女に対する思いは以前と何ら変わることはありません。その思いを何とかして伝えたかったのです。

筆記を見たあの方は、とてもやさしい言葉を返してくれました。それをここに書き表すことは、二人の秘密なのでできませんが、あまりにも神聖で、永遠に私の心に残る言葉でした。

その後、部屋を出た私は、地べたに崩れ落ちるようにして眠ってしまいました。まわりにすべてが夜の闇に感じられる私にとって、どこで眠るかはどうでもいいことなのです。また、どれくらい眠っていたのかもわかりません。

すっかり疲れ果て、苦悩と惨めさにさいなまれていた私には、意識のない眠りは、救いにも似たものだったのです。

さて、深い眠りから覚めてみると私は大いに元気が戻っていて、それ以前と比べてすべての感覚が強くなっていました。早く動くことができるし、手足は力強くなり、ずっと自由になったのです。

それとともに、この世界に来てから感じたことのなかった空腹感を覚えました。空腹は強まるばかりなのでしかたなく食物を探しに出かけましたが、初めは何一つ見つけることができませんでした。

そのうちやっと、乾燥したパンのようなものを何片か見つけて食べました。それは食べ物ともいえないような粗末なものでしたが、腹の足しにはなりました。

そうです。霊といえども、地上の食物に相当するような霊的な食物を食べるのです。腹も減れば、喉も渇くのです。たとえ見えない体でも。地上のみなさんが感じるような食欲もちゃんとあるのです。

もちろん霊的な食べ物や飲み物は、霊を見ることのできない人には見えません。しかし、私たちは霊人にとっては、きわめてはっきりとした現実なのです。しかも、食べ物の好みは、地上にいたときの好みと関係があるようです。

もし私が地上にいたとき大酒飲みや大食漢(たいしょくかん)であったなら、この世界に来て、もっと早くに酒や食物に対する欲求を感じていたでしょう。幸いにも私はそういう種類の人間ではなかったので、少し食べただけですぐに満足することができました。

それでも最初は、そのパンきれみたいな食物を目の前にして「こんなもの食えるか」という思いもありました。何度となく招かれた宴で、美酒や美食を楽しんできた私です。大食漢ではなくても、食べ物の味くらいはわかります。

しかし、よくよく考えてみれば、いまの自分は、どこからも何も手に入れることのできない乞食(こじき)のような存在です。ならばとりあえず、乞食のような暮らしに満足するしかないじゃないか、と思い直したのでした。


(8)「希望の同胞団(どうほうだん)」に入団

再び私があの方のことを考えていると、その思いが私をあの方の元へと運んでくれたようでした。ベールのようなものを透かして見ると、そこには男性の霊人と地上の女性、それにあの方がいました。今回も、以前に私の言葉を筆記してくれた女性にメッセージを書いてもらうことができると知らされました。

私は、できるなら、あの方自身に私のメッセージを書いてもらいたかったので、それを許していただきたいと強く願いました。

ところが残念なことに、それはできない相談だとわかりました。あの方には私の言うことはまったく聞こえないのです。それならしかたないとあきらめ、以前のようにあの女性に書いてもらうことにしました。

メッセージを言ってからしばらくの間、かつて幸せな日々にそうしていたように、あの方のやさしい顔を見つめていました。
しかしその状況は、一人の男性の霊人によって遮られました。

この霊は、私の見るところ、若くて美しい、しかも威厳(いげん)のある方でしたが、静かなやさしい声でこう言うのです。

「フランチェッツォ。もしあなたが本当に、この女性に直接自分の言葉を書いてほしいと願うなら、霊界にある『希望の同胞団』に入団なさい。この同胞団の人々は、みな善の道を追求しています。

あなたがまだ知らない新しい事柄も、彼らとともに学べるでしょう。同胞団の人たちは、あなたが彼女の心に働きかけることができるくらい自分を高めるのを、きっと助けてくれるはずです。

そうしてあなたが自分を高め続ければ、やがては、地上にいる彼女がその生を終えて霊界にやってきたとき、ともに過ごせるようになるでしょう。けれど、そこに至る道は生やさしいものではありません。

むしろ大変な苦労と苦難をともなうものです。それでも、この道だけが、最後に美しい幸福な世界へ導くものであり、そこではいまは想像できないほどの幸福と安息を享受(きょうじゅ)できるとお約束しましょう」

この霊人はさらに、私のいびつな体も精神が向上するにつれて直っていき、最後には元の姿を取り戻すこともできるので、あの人が見て悲しむことはなくなると保証してくれました。

また、もし現在の状態のまま私が地表にとどまり続けていると、十中八九はいわゆる享受の巣窟(そうくつ)に引き寄せられてしまい、やがてそこの低劣な霊的環境に染められてしまうだろう、と心配してくれたのです。

ほんの少し前に、ふらふらと享受を求める霊たちについて行きそうになった自分としては、そう言われてもしかたないと恥ずかしく思いました。

そして、低劣な霊の仲間入りをすれば、あの方のそばにいることもできなくなってしまうはずだ、と警告してくれました。私の精神が向上しなければ、彼女を守護する者たちが私を締め出さざるを得なくなるというのです。

反対にもしこの同胞団に入れば、いろいろな援助を受け、力を授かり、新しく多くのことを学ぶので、やがて地表の霊界に戻るときがきても、そこで出会う誘惑を押しのけ克服することができるとも教えてくれました。

私は、この礼義正しく威厳に満ちた霊人の語る話に魅了されました。

同時に、希望の同胞団についてもっと知りたいという気持ちにかられ、ぜひ同胞団に連れて行ってほしいと願い出たのです。彼はそれを承知してくれ、いつでもここを去ることができると告げてくれました。

この男性の霊が言うには「霊界ではすべてが自由」なのだそうです。

「どの霊人も、おのれの願いや欲望が向かうところへ行くようになっています。もしあなたが、高尚な望みをもてば、望みを実現するための手段が示され、必要な援助や力も与えられるでしょう。それによって強くなることができるのです。

ところで、あなたは祈りの力について何も知りませんね。
いまからそれを学ばなければなりません。この世界のすべては、熱心な祈りの結果、現れるものだからです。

あなたの浴することは善であれ悪であれ、祈りと同じ意味をもち、その欲する内容に応じた力を呼び寄せることになるのです」

ここまで語ったところで、私が疲れて弱ってきたのを見たのでしょう、彼は、しばらくの間あの方に別れを告げるようにと言いました。

私はこれから同胞団に行ってもっと力をつけねばならないし、その間に彼女にも、同じく力をつけさせねばならないというのです。

彼女は今後三ヶ月間は自動書記をしないほうがいい、それはこのところ続いた招霊で、彼女の霊的な力が著しく弱まってしまったからだと言いました。もし休まないでいると、あの人自身が大きく損なわれてしまうそうなのです。

ああ、このように離別の約束をすることは、私たちにとって本当に辛いことでした。しかし、あの方が潔くそう決意するものですから、私も従わないわけにはまいりません。あの方がもっと強くなろうとしているかぎり、私もそれを見習うべきでしょう。

そこで、私は一つの誓いを立てました。すっかり神のことは忘れてきた自分ですが、それでも神が私のことを思いだしてくださり、赦(ゆる)してくださるのなら、私は全身全霊で自分が過去に犯してきた過ちを正すことに努めますと。

新しい案内役となったこの男性の霊人とともに部屋を去るとき、もう一度私は振り返り、いとしいあの方に手を振って別れの挨拶をしました。

そして、善の天使たちと神ご自身があの方を祝福し、ご加護を垂れてくださるようにと祈りました。

最後に見たものは、私が去っていくのを見送る、あの方の眼差しでした。
それは、その後私がたどる辛く厳しい日々を通じて、いつも支えとなってくれた、愛と希望に満ちた眼差しでした。


2章 死後世界探索への旅が始まる

(1)「希望の同胞団」で指導を受ける

案内役の霊人にともなわれた私がまず訪れたのは、「希望の家」でした。
ここは「希望の同胞団」によって運営されている、霊人の更正施設とでもいうべきところです。巨大な監獄(かんごく)とも、病院とも思えるこの建物は、大きな固い灰色の石でできています。内部には大きな広間や部屋もありますがほとんどは小部屋で、数え切れないほどたくさんあります。

私も含めて、小部屋に住む霊人たちは、地上で獲得したわずかな身の回りのものしかもっていません。私の部屋には、ベッドとテーブル、それに椅子(いす)だけがありました。なかには地上で痛めつけた霊体を横たえ、身悶(みもだ)えするための寝椅子しかもっていない者もいます。

私もまた最初のうちは、地上の放蕩(ほうとう)のせいで歪んでしまった霊体の苦痛がひどく、粗末なベッドに横たわり、ぼうっとしているしかない状態が続きました。

私たちは全員苦しみのなかにいました。そこは、悲しみの家だったのです。
それでもそこはやはり、希望の家でもあるのです。なぜなら、全員が光に向かって努力しているし、希望をもって歩んでいるからです。

ただ、向上につながる道は厳しく辛いとは聞かされていたものの、私が悩まされたのはこの場所の暗さでした。地表の霊界にいたときよりも、もっとわずかな光しか感じられないのです。

弱々しいろうそくの灯り一つがともる暗い部屋に、来る日も来る日も苦痛とともに閉じこめられている、そんな感じなのです。
もちろん、この暗さには理由があります。

「希望の家」の内部が暗いのは、住人である霊人たちが、精神性の高い、進歩した霊人たちが大気中に放つような明るさを一切もっていないからです。霊界では、その霊人のもつ霊的基準、つまり精神的なレベルによって周囲の明るさが決まります。

地上にいたとき放蕩を重ね、人への思いやりさえ示したことのないような人間は、当然ながら霊的な発達が遅れたままです。こうした精神性の低い、霊的基準も低い者たちは、それに見合った暗い世界にいるしかないのです。

また、霊的発達の遅れた者は、霊人でも地上人でも、自分と同じレベルの人々しか見えないし、接触することもできません。

私を介護してくれる同胞団のメンバーがやってきても、みずからの心のもつ暗さに閉ざされていた私には、彼らの姿も見えなければ声も聞こえませんでした。こうした霊的能力の低さは最初のうちだけでしたが、それでも暗黒の中に一人閉ざされる怖さは、いまでも思い出したくありません。

私が生まれ育ったのは、すべてが日の光で満ちあふれた国でした。色彩は鮮やかで、空は澄み渡り、まさに山紫水明(さんしすいめい)の国でした。

ところが死んでからというもの、どこもかしこも暗く寒くて陰気(いんき)です。夜のとばりのような陰鬱(いんうつ)さに包まれた私は、地下牢に繋がれた囚人のようなものでした。
ああ、地上にいたときの私は、なんて誇り高く傲慢(ごうまん)だったのでしょう。

母方の血筋には、王国を思うままに動かしたような先祖もいて、私の体には高慢で気位の高い血が流れていました。人に頭を下げることなど、一切知らずにいたのです。ところがいまや、私の故郷の通りにいる乞食(こじき)でさえ、この私よりは幸せです。

少なくとも彼には、あの太陽の温かい光と自由に吸える空気があるのですから。惨めな思いをかみしめながら、それでも地上のあの方を私の希望の星、光の天使と仰いで、苦痛を乗り越えていくための勇気をかきたてる日々がはじまったのでした。


(2)「希望の家」の癒しのシステム

ここで「希望の家」で行われている、惨めな霊人たちを癒す素晴らしいシステムについて説明しましょう。

病院としての機能もあるここには、人を癒す医師や治療師になれるほど進歩した霊人たちがやってきて、もっとも惨めで苦しんでいる者たち
――もとよりここでは全員が苦しんでいるのですが
――に対して治療を行ってくれるのです。

癒しの能力をもつ霊人は、霊的磁気の力を使って、傷ついた霊体の痛みを一時的に忘れさせることができます。しばらくすると再び苦痛が戻ってきますが、それまでの痛みのない時間に弱い霊人たちは力をつけ、忍耐力を身につけるのです。

そうして自分で苦痛をやわらげられるようになると、今度は、苦しんでいる同胞に対して霊的磁気を送る仕事に就くようになります。
私がまったく弱り果てていたのは、そんなに長い時間ではありませんでした。

少し働けるようになると、どんなにつつましいことでもいいから何か利益なことをさせてほしいと願い出ました。それは聞き入れられて、私もまた、ある不幸な青年を介護することになりました。

この青年はとても可哀想な人で、三十歳という若さで肉体の衣を脱いだのですが、短い人生のなかで放蕩をくり返し、とうとう命まで落としてしまいました。そうしていまは、まったく動けず、横になったままうめいたり、嘆いたりするばかりです。

私は手をかざして磁気治療を施してあげましたが、つたない私の治療でも、彼は少しは痛みから解放されたようです。とはいえ治療中、私自身の霊の体も、まだひどい痛みを感じていました。

じつは、低級の霊界層ほど、霊は体の苦痛を感じます。
霊が発達しますと、その霊は物質性が希薄(きはく)になり、その分物質的な苦痛の感覚から解放されます。苦しみは純粋に精神的なものになっていき、最終的には体の痛みなどまったく感じなくなるのです。

しかし、地上にいたときに自分の精力を自慢し、それを邪悪な目的に使用した私の体の苦痛は厳しいものでした。
みなさんは、運動選手が筋肉を過度に使用すると、後で引きつって拷問(ごうもん)のような痛みを感じることがあるのをご存じでしょうか。

これと同じで、地上生活で体力や精力を濫用(らんよう)しすぎた報いが、いま私の霊体にはかりしれない苦痛をもたらしているのです。
しかも、私の霊的な力がだんだん強くなると、今度は以前の欲望が甦(よみがえ)ってきて私を悩ませました。

私たち霊人にとって感覚の快楽は、いまだに大きな誘惑です。自分の体はもうないのに、地上人の体を通してそれを満足させようと、地表の霊界に戻りたくなるのです。このとき卑(いや)しく低劣な欲望をもつ地上人は、同じく低級な霊人たちに憑依されてしまい、快楽の媒介者となります。

「希望の家」にいる霊人たちでも、この誘惑に負けて地上に戻ってしまう者がたくさんいました。けれど、再びこちらに帰ってきたときにはすっかり弱り切り、以前よりはるかに退化した霊となってしまうのです。

私とて、もしあの方がくれた希望や純粋な愛、励ましがなかったら、そしてそれに応えようとする清純な思いがなかったら、誘惑に負けてしまっていたでしょう。ですから、地表の霊界に戻っては罪をくり返す哀れな霊人たちを責めることは、少なくとも私にはできません。

さて、治療に携わらないときの私は、大ホールで行われる講義に出席したりして時間を過ごしました。講義の内容は、私たちが地上の人生において、どこでどのような過ちを犯したのかを悟るためのもので、物語形式で語られます。

物語は公平な視点からできあがっていて、私たちの行為が他人に及ぼす影響や、地上では気づかなかった利己的な考えがわかるように工夫されています。たとえば、さっきお話したような、私の体に苦痛をもたらす原因となった精力の濫用がなぜいけないのかを例にとってみましょう。

この場合、男はみなそうするとか、男にはそうする権利があるとかいって、男性が行なった悪しき行為がまず示され、次には犠牲になった女性の視点から見てその行為がどんなものだったか、どう傷つけられたかが語られるのです。

こういった講義を通して、地上生活での“あらゆる見せかけ”の姿がはぎ取られ、私たちは自分自身の生(なま)の姿に直面させられます。そして、恥ずかしさと悲しみを覚えながら過去を反省し、将来必ずやそれらを償う努力をすると決心して部屋に戻るのでした。

この講義は、私にとっても大きな助けとなりました。そこでは、地上人生で犯したあらゆる過ちとその結果が明らかにされるだけでなく、私たちの内にある悪の欲望を支配し、矯正(きょうせい)するための道が示されるからです。

また私たちは、自分と同じような罪を犯そうとしている人々を救うことで、自分自身の罪をあがなうことができるし、それは次の進歩した段階に向けての準備にもなると教えられました。

講義のないときには、どこへでも行きたいところへ自由に行くことができます。地上に親しい人々を残してきた者は、そういうところを訪問します。といっても、彼らの姿は地上の人々には見えませんが、霊人たちの側からは地上のなつかしい人々を見ることができるのです。

そのまま地表の霊界に舞い戻るか、ここにとどまっているか、すべては本人の自由であり、いつでも行くことも帰ってくることもできると教わりました。

「希望の家」のドアは、いつでも誰に対しても、開かれています。感謝の足りない者や価値のない存在と思える者でも、同じように受け入れてくれる、無限に忍耐強いやさしさを備えた場所なのです。


(3)彼女との初めての接吻

私に関して言えば、かなり頻繁に地表の霊界へ行きましたが、それはもちろん私の愛する人が住むところを訪ねるためです。あの方の愛が、いつも私を彼女のそばに引きつけ、すべての悪の誘惑から離れた、あの方の家の清純な雰囲気が、私の心を癒してくれたからです。

相変わらず目に見えない壁のため、彼女に触れられるほどそばに寄ることはできませんでしたが、その壁の外に立って、あの人が座ったり、読書をしたり、眠ったりするのをそっと眺めていました。

彼女もまた、私がいることをうっすらと感じているようで、私の名を口にしたり、私のいるところを探ったりしました。
あの甘く切ない微笑(ほほえ)みを浮かべて。哀れでいとしいあの人は、とてもとても悲しそうで、青ざめていて弱々しく、その姿を眺めることは慰めになる一方で、心の痛むことでもありました。

彼女にはこの時期、私と交信できるようになるために、試してみたいことがたくさんあったようでした。けれども娘の奇妙な行為や、すでに死者となった者への愛情を、家族がこころよく思う訳もありません。

家族から心配され、いさめられるたびに、彼女自身も生者と死者が交信し合うことなど途方もない幻想にすぎず、結局は霊界にいる私と接触する方法などあり得ないのではないか、と失望や不安に襲われていました。

あの方は、忍耐強く勇気をもって、希望をもとうとはしているものの、その負担は大きすぎるように思えました。ある夜、彼女がさめざめと泣きながら寝入るのを見て、この悲しい運命に自分も泣きそうになりました。

そのとき、誰かに触れられて振り向くと、そこには最初にあの方に語りかけるのを手伝ってくれた、彼女の守護霊がいました。

守護霊は、私が冷静さを保ち、自己を抑制できるのなら、眠っているあの方に接吻するのを許そうと言います。この新しく与えられた喜びに私は興奮し、約束は必ず守ると伝えました。

その霊は私の手を取り、あの透明な壁をいっしょに通り抜けてくれました。そして、彼女の上におおいかぶさるようにして、何やら不思議なやり方で手を動かしていましたが、今度は私の手を取り、やさしく彼女に触れるように命じました。

彼女は静かに眠っていました。涙がまだまつげに残っていて、かわいらしい唇は、何か夢のなかで話しているようにほんの少しだけ開いていました。

その霊が笑みを含んだ顔で「さあ、接吻しなさい」と言いますので、私は身を寄せて彼女に触れ、初めての接吻をささげました。

ところが私が一度ならず何回も、それもあまりに熱烈に接吻するものですから、とうとう彼女は目を覚ましてしまいました。
すると、守護霊はあわてて私を彼女から引き離したのです。

彼女は、あたりを見渡して、やさしく「夢を見ていたのかしら? それとも本当に私のあの人だったのかしら?」と言いました。
私はそれを聞いて「そうですよ」と答えました。

彼女には、それが聞えたようでした。というのも、とてもうれしそうな微笑みを浮かべたからです。それは、とても可愛らしい笑みでした。そして、私の名を何度もくちずさんでくれました。

そんな彼女の姿を見ながら、いつの日か彼女を抱きしめ、私のことを本当に感じてもらえるようになると信じることで、私の心には勇気が与えられたのです。


(4)「たそがれの国」へ

とうとうこの「希望の家」を去るときがやってきました。
死んでからすでに、八カ月か九カ月が過ぎていました。私は再び強い力に満ちるようになり、霊界を自由に動き回れるようになりました。そしていま、視覚やその他の感覚はとても発達していて、しっかりと見たり聞いたり話したりすることができます。

「希望の家」から移った先は、ふつう霊界の第三層といわれるところで(註「希望の家」と同じ第一領域にある。57頁参照)、「たそがれの国」とも呼ばれています。

この国は、人生を利己主義と物欲に囚われて過ごしたために、魂がまったく発達しなかった霊たちがいるところです。それでも、私が一時期さまよっていたような地表の霊界に比べれば、二階層ほど上のクラスにあたります。

その名のとおり、あたりは淡い夕暮れどきのような、あるいは曙光(しょうこう)が射して夜が明けるときのような感じのほのかな光で照らされています。
はるか上の、明るさに満ちた国々にはとても及ばないとはいえ、長い長い間暗闇(くらやみ)に慣らされていた私の目には、この淡い光がとても幸いに感じました。

私は、この「たそがれの国」に来てようやく、本当の意味で自分の向上につながる仕事を始められるようになりました。

その仕事とは、地表の霊界まで降りてゆき、罪の誘惑に負けそうになっている地上人の心に働きかけることです。罪の誘惑に負けると、どれほど恐ろしい結果が待っているかを地上人に感じとってもらうようにするのです。

具体的には、地上人が夢を見ているときや夢想しているときに、私がかつて経験したような良心の呵責(かしゃく)からくる苦悩や恐怖、自己嫌悪(じこけんお)を感じさせるようにします。そして、彼の心が罪を犯す恐ろしさに目覚めるまで、ずっと働きかけ続けるのです。

それ以外は、地上人の指導霊として、地上を徘徊(はいかい)し誘惑する悪霊人から彼らを守る仕事をしています。

実際に起きていることですが、霊人が生きている男女の肉体に完全に憑依(註 人間の魂に霊がつくこと)できること、さらにしばらくの間ならば、その肉体が憑依している霊に完全に乗っ取られ、当人が思ってもみないような行動をすることもあるという事実を、ほとんどの地上人は知りません。

軽薄な好奇心から深い神秘を探ろうとしたり、恨みや欲望といった暗い心を育てたりすると、地上を徘徊する霊人か、それよりもっと低い霊界にいる霊人に憑依され、操り人形のように肉体を使われてしまう危険があります。

たとえば一時的に起こる精神異常は、とても低いレベルの悪霊人が、地上人に憑依することで起こります。このとき悪霊人は、地上人の霊と完全に一体となった関係をつくっています。

しかし、こうして悪霊人が地上人の肉体を利用すれば、恐るべき結果が彼ら自身にも待っています。自分で罪を犯したうえに、なおかつ“地上人の魂をも地獄に引きずり込む”という二重の罪を犯した彼らは、何年も、ときには何百年もの間、苦悶(くもん)の深淵(しんえん)から解放されることはありません。

私が所属する「希望の同胞団」は、地上であれ霊界であれ、助けを求めている人々に援助の手を差し伸べるために存在する無数の集団の一つです。同胞団のメンバーたちはもっとも低い霊界から、地球を取り囲む霊界、さらにはそれを突き抜けて太陽系の次元まで拡大した世界の中で活躍しています。

私のようにまだ霊性が低い霊は上級の霊に助けられ、どこまでも続く霊の鎖(くさり)をつくって、人々を守っているのです。苦しんでいる人を支援したり、不幸な霊を助けたりする救援要請が同胞団に寄せられると、たくさんの霊の中からその仕事にもっとも向いていると思われる霊人たちが派遣されます。

地上人生で同じような誘惑と遭遇(そうぐう)し、その誘惑に負けたおかげで大変な苦労をし、罪を後悔しているような霊人たちは、いま苦しんでいる人の気持ちが誰よりもわかり、不幸な霊をどう励ましたらいいかもわかるので、敵任なのです。

地上人の場合、自分でも知らないうちに祈る思いで助けを求めたり、誘惑に抵抗しようとしている男女がいると、その声が子供の泣き声のように同胞団に届きます。あるいは、ある霊人にとって大切な地上人が苦しんでいたりすると、その霊人が助けてあげてくれと、私たちに訴えてくる場合もあります。

私にとって他人を助けることは、それまでの傲慢(ごうまん)な自分を否定することと、自己犠牲について学ぶ手がかりになりました。

何回かにわたって地表の霊界に派遣され、そのつど成功をおさめて帰還しました。霊界に来た当時の状態を考えると、私の霊的な進歩は驚くほど遠いものでした。

それは、誘惑が襲いかかってきても、いつも私を助け、慰めてくれるあの方の変らない愛があったからです。災(わざわ)いが私に近づくたび、何度となくあの方の幻影が私の前に立ちはだかり、守ってくれたからです。

地上人を助ける仕事がないときは、地表の霊界をさまよう不幸な霊人たちを助けるために派遣されました。彼らは、私がかつて体験したような暗闇の中をいまだに徘徊(はいかい)しています。

けれど私の手には、以前とは違って「希望の同胞団」のシンボルである小さな星形の灯火がありました。
その光で闇を照らしてみると、惨めな姿をした霊人たちが二、三人いっしょにうずくまっていたり、隅のほうにひっそりと身を潜めていたりするのが見えました。

彼らには、私が教えてもらったように、あの「希望の家」に行って治療を受けられることや、自分よりもっと不幸な人たちを助けて少しでも感謝されるようになると、彼ら自身も救われることを伝えてあげました。それもまた大事な仕事なのです。


(5)「灰色の石の谷」「不安の国」「守銭奴の国」へ

地表の霊界での仕事を終えた私は、「たそがれの国」に戻ると、同胞団の大きな建物の中にある自分の部屋で休むのが常でした。今度の部屋はそれほど暗くはなく、気味悪くもありません。

いささか素っ気ない感じのする部屋ではありますが、そこには一つだけ大切な宝物があります。それは、あのいとしい方の絵です。それは絵というより、鏡に映し出された彼女の像といったほうがいいかもしれません。

鏡の中の像を一心に見つめていると、それに応えるように彼女が笑みを浮かべるのです。また、あの方が何をしているのか知りたいと強く願うと、それを見せてくれることもあります。

もう一つ、あの方からの贈り物があります。それは、まだつぼみの白い薔薇(ばら)です。短い時間だけですが、彼女を訪ねたとき、その方自身の手を通してメッセージを書いてもらうことができたのです。そして、私が彼女の絵を除いては何も見るべきものがないと言うと、「白い花をさしあげましょう」と言って渡してくださったのです。

この私の白い薔薇は、決してしおれたり枯れたりはしません。いつも新鮮で芳ばしい香りを放っていて、あの人の愛を伝えてくれます。
私は地上にいるときから、本当に花を愛していました。しかし、あの方が私の墓の上に供えてくれた花を見て以来、花というものを見ていません。

私がいるこの場所には花が存在しないのです。草の葉でさえ、あるいは干からびた灌木(かんぼく)さえも存在しません。利己主義が支配する乾いた不毛の土壌には、何の花も咲くことはないし、萌(も)えいずる縁の葉もないのです。

ああ、地上いるみなさんは、多くの花々に囲まれていながら、そのことの恵みに気づくことはあまりないでしょう。この白い薔薇が、いまの私にどんなに大きな喜びをもたらしてくれるか、どんな大切な宝物であるかはきっとわからないと思います。

ですから、一つの階層からより高次の階層へ移るようなときは、必ず彼女の絵とこの花を大切にもっていきました。そして、これからも永久に大切に扱うつもりです。

私は、この「たそがれの国」から、じつに多くの場所へ出かけて行きました。その目的は、希望の同胞団の一員として、助けを求める者には助けを与え、向上を求める者にはその方法を教えてあげることにありました。

奇妙な場所もたくさん見ましたが、共通していたのは、そこに住む住人の心を反映したかのように、冷たく寂しい場所ばかりだということです。
初めに訪れたのは、「灰色の石の谷」と呼ばれる場所でした。

ぼんやりとした寒い灰色の丘が周囲を囲み、たそがれ気味の空がその上をおおっているそこには、やはり草一本生えておらず、枯れた灌木さえもありませんでした。色めいたものもまったく目につきません。ただ、寂しい灰色の石があるのみです。

この谷に住む霊人たちは、どんなときも自分を中心とした感情で生活しています。自分のためだけの人生、自分だけの満足、自分の欲望の充足……。
それはどんなに、彩りの少ない、冷たい人生になることでしょう。

彼らは、無償の愛の美しさも、それが心にもたらしてくれるあたたかも、一度も経験したことがないのです。灰色一色の荒涼(こうりょう)とした風景は、そのまま彼ら自身の心の世界なのです。

おかしな話ですが、彼らの多くは自分以外のものを見ることもできない、グロテスクな生き物に姿を変えて、この谷をよたよたと飛び回っているありさまなのです。惨めな生き物に様変わりしてしまった彼らの心に、自分以外の者のために何かしてあげようという利他の気持ちが湧(わ)いてくるまでは、相手が見る力は戻ってこないようでした。

それは永遠に続くのでしょうか?
もしも他者への共感が芽生えてきて、相手の運命をよくしてあげようと努力するようになれば、そのときから彼ら自身の運命も改善し、萎縮(いしゅく)した心も広がるのだそうです。そして、自己中心の欲望が渦巻くこの谷の鎖から解き放たれるのです。

次には、丘を越えて、大きな乾いた砂漠のような感じの国へやってきました。
ここは「不安の国」と呼ばれるところです。
この国は、ほんのわずかながら植物が見られました。住人たちが、住まいの近くで菜園をつくろうとしていたからです。

彼らの住居はびっしりとひっつき合い、小さな町をつくっていましたが、その光景は住民の霊的な貧困さを表わすように、荒涼としていて酷いものでした。ここもまた自己中心と貪欲が支配する場所なのです。

住人のほとんどは、地上生活を終えたすぐ後に来た者たちでした。
みすぼらしく嫌らしい顔つきをしている彼らは、私の目にはまるで浮浪者か乞食のように映りました。

しかし地上では、贅沢(ぜいたく)な生活を思うままに享受(きょうじゅ)してきた富裕階層の人々であったり、流行の先端を追いかけるような派手な生活を送った著名人ばかりだったのです。そんな恵まれた環境にいた人たちが、どうしてこんなところに来てしまったのでしょう?

彼らは、富を自分の享楽のためには惜しみなく使いながらも、困っている他人にはほんのわずかしか与えません。
それは、テーブルいっぱいのごちそうの中から、パン屑(くず)程度しか人には食べさせないのに等しいことでした。だからここでは、今日食べるパンにも事欠くような、乞食のように(霊的に)貧しい者になってしまったのです。

魂の霊的な富は、最高に金持ちの王でも、もっとも貧乏な乞食でも、同じように地上生活で獲得できます。それは、人に(自己満足の利己愛ではなく利他)愛を与えること、見返りを求めずに奉仕することで、どんどん増えていくものなのです。

反対に何一つ人に与えようとせず、魂の富を蓄えなかった者たちは、地上でどんなに偉大な人物であったとしても、霊界では貧しい者たちが住むこの場所へ来て、生きていかねばならないのです。

ここの住人たちはよく口論したり、喧嘩(けんか)をしたり、不平を言ったりしています。自分のような富豪が、有名人が、こんな場所に連れてこられるなんてとんでもないというわけです。

言い訳や口実ばかりを並べ立て、自分は不当な待遇を受けているとまくしたてるのです。また、その国の同じ住人なのに、共感などはごこへやら、相手は自分よりずっとひどい人間どもが非難し合います。

地上でそうしていたように、この生活から完全に解放される方法を発見したと偽って相手を陥れようとする者もいます。相手を騙(だま)したり、相手の裏をかいたりすることが、この「不安の国」では際限なくくり返されているのです。

私の言葉に耳を傾ける気がある者たちには、希望的な言葉や考え方を伝え、この国から出る正しい方法を示してあげました。
次に私は、「守銭奴の国」へ行きました。この国は、まさしく守銭奴だけが住んでいるような場所でした。

ここには、黒いねじれた格好をした、鳥の爪のような指をもつ生き物たちがいて、金の粒を探すように黒い土を引っ掻(か)きまわしています。地面に埋まっているお宝を見つけようとするあまりに、そんな姿に変わってしまったのです。

彼らは何かよさそうな物を見つけると、持っている巾着(きんちゃく)に包み込み、それを懐(ふところ)に押し込みます。

そして、それがいちばん大切な物だと思い続けます。普通、彼らは一人きりでいます。大切な物を取られるくらいなら、お互いを避けて孤独に過ごしたほうがましだというわけです。

ここでは、私のできることは何もありませんでした。
一人の男が短い時間、私の言葉を聞いてくれましたが、次の瞬間にはもう地面の中の宝物探しに戻ってしまいました。

さらに、自分が何を掘り出したかを感づかれまいとして、私が去るのを盗み見している始末です。ましてや他の者たちは、あまりにも宝物探しに心を奪われていて、私の存在にさえ気づいていません。なすすべもなく、私はこの物寂しい国を立ち去りました。


(6)「不幸な国」へ

「守銭奴の国」から、さらに暗い霊界に向かって下りて行きました。あちこちにわずかばかりの小屋が散らばり、どこもかしこも見るからに不潔で汚れています。

どれ一つとして美しいもの、輝きをもったものはなく、殺伐(さつばつ)とした、退廃的な住人の雰囲気があたりをおおっているようでした。

点在する小屋の中をのぞくと、博打(ばくち)打ちや飲んだくれ、賭(か)け事をする者、カードのいかさま師、詐欺師、放浪者、スラム街のこそ泥から上流社会の泥棒まで、ありとあらゆる種類の盗人たちが集まり、激しい争いや喧嘩をくり返しています。

誰もが利己的で浪費癖の本能をもち、品格の劣化した物ばかりでした。当然ながら、よそよりもはるかに劣悪で退化した顔つきをしています。

ただなかには、地上にいたときはよい環境にいたにもかかわらず、悪に染まってしまい、そんな仲間との繋がりに引っ張られて、死んだときにここに来てしまった者もいるようでした。


こういう人の中にはまだ、善とか正しさを理解する心が残っているので、救済できる可能性があります。絶望の荒野にいても私の声を聞き、その勤めに従ってくれるなら、もっとましな世界に抜け出せるのです。

私は町の中を、「希望の同胞団」の星形の灯りをもって歩きました。とても小さな灯りですが、私が歩くのに応じて明るい火花がきらめき、暗闇を照らします。

そこで、汚れきった建物の入り口や壁のあたりや、みずほらしい部屋にうずくまっている者たちに出会いました。光に照らされている私を見上げると、この場所にうんざりした彼らは、私の語る言葉に耳を傾けてくれました。もっと上級の世界へ戻れる道があると知ると、それを求めるようになりました。

そんなふうに「不幸な国」を歩き回っていたある日、私は、荒れ放題になっている小さな部屋がいくつかかたまっている場所に来ました。

小屋の一つから喧嘩をしているような叫び声が聞こえてきたので、何か私にできることはないだろうかと思い、近づいてみました。


それは家というより納屋でした。中には大きくて粗末なテーブルと木製の腰掛けがあって、十人ほどの人とも呼べないような姿をした者が座っていました。彼らの荒れっぽく歪んだ風貌(ふうぼう)は、人間というよりオランウータンやブタ、オオカミといったほうが近い感じなのです。

時代遅れになった服装に身を包む者もいれば、いまどきの服装をしている者もいますが、みずほらしくて汚いのは同じです。

髪はぼさぼさ、目つきは荒々しく復讐(ふくしゅう)の悪意に満ちていて、絶望のどん底で、恐ろしいほどの怒りに燃えていました。

いま私の目の前で行なわれている喧嘩は、どうやらテーブルの上にある金のコインの入ったバッグが原因のようでした。


バッグはここにいる者の一人が見つけたものなのに、それぞれが「これはボクのだ」「何を言ってますんだ、ボクのものに決まってるじゃないのか」と言い張って、他人の権利など気にもかけないのです。

金のコインの発見者はまだ若く、二十代の終わりくらいに見えました。人間的な面影はまだ残っていて、放蕩の痕(あと)が顔に刻み込まれていなければ、まわりの退化した仲間たちとは不釣り合いに映ったでしょう。

その若い男は、「このコインは私のものだ。遊ぶためなら差し出すが、盗まれるのなんか承知できるもんか」と叫び、他の者たちの抗議と怒りを呼んでいました。

これでは自分のできることはなさそうだと思い、その場から離れることにしました。しばらく歩いていると、先ほどの小屋から、言い争いをしていた者たちが飛び出してきます。


互いに取っ組み合いながら、若い男のバッグを引ったくろうとしていました。一人がうまいことバッグを取り上げると、今度は全員がその男に襲いかかりました。

次の瞬間、その中から若い男が囲みを破って私のほうに走ってきました。

するとすぐさま、「こいつは詐欺師だ! だましたな」と激しく叫ぶ声が上がりました。バッグの中には金などなくて、石ころだけだったからです。金のコインは、おとぎ話のように、硬い石ころに変わってしまったのです。

哀れな若者は、私にしがみついてきて、あの悪鬼(あっき)たちから自分を譲ってほしいと泣き叫びました。私はすぐにこの青年を引っ張り、何とか非難所になりそうなあばら屋に飛び込むと、ドアをぴしゃりと閉めました。

ドアに背を当てて追っ手が入れないようにがんばりましたが、そのときはどうして多勢に無勢にもかかわらず、ドアが破られなかったのかわかりませんでした。


じつは私には見えないある力が、ドアをしっかり押さえてくれていたのです。ドアが破れなかった追っ手たちは、やがて捨てゼリフを残すとどこかへ去っていきました。


(7)ラウルとの出会い

助けた若者を何とか立ち上がらせると、暗い広々とした場所へ連れて行きました。それから私は、「希望の家」で習った痛みをやわらげる業を、全力で彼に施してあげました。

ようやく回復してくると、この哀れな若者は、自分がどうしてこの暗い世界に来るようになったのか、ぽつりぽつりと語り始めました。

どうも彼は、つい最近、地上生活を終えたばかりのようでした。それもある男が、自分の妻に彼が手を出していると思い込んで、彼を撃ち殺してしまったようでした。


しかし、射殺というショッキングな死に方以上に彼を傷つけ、自分の過ちに気づかせたものは、不倫とはいえ彼が真剣に愛した女性が本当はあまりに利己的で、自分の夫にもこの若者にも、愛情など感じていなかったことです。

「それを知ったときは……」とその若者、ラウルは続けました。
「自分が死んでしまったことを知ったときは、まだ地上に戻る力がありましたので、まず彼女のところへ飛んでいき、できることなら慰めてやりたいと思いました。死んでもなお彼女を思っているということを知らせたかったのです。

それなのに私が真実を知ったとき、どんな思いをしたと思いますか?

彼女が私のために泣いたり、悲しんだりしているか? 全然そうじゃありません。自分のことだけ考えていて、夫にも私にも会わなければよかったと思っているのです。自分の人生からさっさと私たちを消し去り、もっと社会的地位の高い誰かと新しい人生をやり直したいと願っていました。

『目からうろこが落ちる』とは、まさにこのことです。私は世間を知らない愚か者でした。そしてその代償を払ったのです。

私は、失望のあまり地上を逃げ出すように去りました。もうどんな善も真理も信じない、どうなってもかまうもんか、そんな乱暴な思いが私をこの暗い場所に引き寄せたのでしょう」

「いまからでも、悔い改めの道をたどるつもりはありませんか?」
「もう遅すぎます。この場所に希望などあるわけありません」

「希望がないですって? そんなこと言ってはいけませんよ。私も以前は、あなたに似た悲しみや辛さを味わったものです。しかし、ずっと希望をもち続けています。いっしょに来なさい、もっとましな世界へ案内しますから」

「あなたは、いったいどなたでいらっしゃるのでしょう! そんなにやさしい言葉で、そんなに親切な態度で接してくださって。それに、あなたは私の命の恩人です。しかし、ああ! ここでは死ぬことさえできないなんて! 

死ぬほど苦しんでも、すべての苦痛を味わっても死は与えられません。もう死そのものを超えてしまっているのですから。

教えてください。いったいあなたがどなたで、どうやってここへ来ることになったのか。助けに来た天使だろうかとも思いましたが、それにしては、私とそう違わないように見えますし?」

私は、自分はいまは上に昇っていくために働いているところであり、彼にもそうなってほしいと言いました。そして私には、確固たる希望があり、いつかは愛する方といっしょになれると信じていることを話しました。

「ではその方も、あなたのために持ち続けるつもりだとお考えですか? 生涯一人で地上で過ごして、死んでからは、あなたが天国へ昇れたらそこで初めていっしょになれるなんてことを? まさか! あなたも本当はそんなこと信じてはいないでしょう?

あなたは幻想を抱いているだけですよ。よっぽど年をとっているか、不器用な女性でもなければ、男のために生涯、一人身で生きようなどとは考えませんよ。

実際、彼女が天使でもないかぎり、だんだんと自分に言い聞かせるようにして、あなたのことを忘れていくでしょう。まちがいないです。むしろ私のほうは、あなたを哀れに思うくらいです」

告白すれば、彼のこの言葉に私はいくらか怒りを覚えました。自分でも拭いきれない疑惑を呼び覚まされたからです。甘い夢にしがみついていたところに、さっと冷たいシャワーを浴びせかけられたようでした。

「あなたを連れて地上に行き、彼女が私のために喪に服し、ずっと私のことを考えてくれているのを見たら、そのときは私が幻想を抱いているわけではないことを信じてくれますか?」

向きになって言う私に、彼は、「もし、私の不信感があなたを傷つけたのなら心からお詫(わ)びします。とにかく、その方のところへ連れて行ってください」と言いました。

ラウルの手をとり、あの方のところへ行きたいという意志を強くもつと、思考の速度であっという間に上に昇り、空間を突破して、気づくと私たちは地上のあの方の部屋に立っていました。

そこには例の守護霊がいて、あの方を見守っていました。私には部屋のぼんやりとした輪郭(りんかく)と家具が見えましたが、ラウルには椅子に座っているあの方しか見えないようでした。彼女の霊の輝きとやわらかな後光のために、彼には天使がそこにいるように見えたようです。

彼女を包んでいるオーラは、地上の人には見えない霊的な光です。霊界にいる者から見ると、(地上ではほんの僅かな霊的愛の)純粋な人生を送っている人のまわりにだけ見える美しい光です。

「素晴らしい!」ラウルは叫びました。そして彼女の足元にひざまずくと、

「この方は天使です。あなたは聖女のもとに連れてきてくださいました。女性ではありません。地上の人間ではありません」と言いました。

私は彼女の名を呼んでみました。すると私の声が聞えたようで、彼女の顔が輝き、悲しみの表情が消え去りました。

「大切な方、本当にそこにいらっしゃるの? また来てくださることを持ち遠しく思っておりました。あなたのこと以外何も考えたりできないのです。まだ私に触れることができるのでしょう?」

彼女が手を差し出したので、ほんの少しの間だけ私は自分の手を添えました。

「ねえ、聞いてください。私はいま不幸な友人を連れてきています。どうぞ彼のために祈ってやってください。そして、私たちがそれにふさわしければ、真実の愛によって祝福を受けることもできると知らせてやってほしいのです」

私の言ったことをすべて理解したわけではありませんが、霊的にその意味はつかんだようで、輝くような笑みを浮かべながら彼女はこう言いました。

「ええ、そうですとも。あなたに対してずっと真実を通してまいりましたもの。やさしい方、私のあなたですもの。ですから、いつか二人はそうなるのよ、とてもとても幸せに」

するとラウルは、彼女に向かって泣きながらこう言いました。

「あなたの心が、かくも愛と慈悲に満ちていらっしゃるならば、少しばかり、この私にも分けてくださいませんか。この自分はまったく惨めで、あなたの祈りを必要としています。


私もまた、助けられるようお祈りしてください。そうすれば、私の祈りは聞かれそうにありませんが、あなたのお祈りが聞かれて、自分も神様に赦(ゆる)されるかもしれないと希望をもつことができますから」

彼女は、この不幸な男の言葉を聞きとったようで、椅子の傍らにひざまずき、私たちを助け、慰めるような祈りをささげてくれました。

それを見たラウルがあまりにも感激し、打ち砕かれたように泣き崩れてしまったので、私は彼を抱え込み霊界に引き返さざるを得ませんでした。

しかし、今度は希望のない霊界に戻ったのではありません。そのとき以来ラウルと私は、もうそこには住んではいませんが、ときどきあの暗い国でいっしょに仕事をしています。

彼の希望は日に日に大きくなっています。もともと彼は陽気で快活な男であり、真のフランス人なので軽快で優雅(ゆうが)な心をもっています。


あの暗く恐ろしい環境の中でも、その性格を完全に消滅させることはなかったのです。私たち二人は大の親友となり、いっしょに仕事をやりだしてからは、働くことがずっと楽しくなりました。
    

(8)復讐への誘惑

私は、さまざまな国の探索を一時中止して、再び地表の霊界へ行くように、という使命を受けました。ところがそこに、恐ろしい誘惑が私を待ち受けていたのです。

使命を遂行する途中、まだ生きているある人物と出会いました。彼こそ、私を破滅させた張本人なのです。長い年月を経て再び、もっとも憎んだ人物と出会うことになったとき、私の中で苦悩の痕がうずき始め、新たな怒りが湧いてきました。

自分に落ち度がなかったとはいえませんが、それでも人生を台無しにされた恨みを忘れることはできませんでしたし、その後たどった不当な運命を思うたびに、怒りをどこかにぶつけたくなったのです。


長く眠っていた復讐(ふくしゅう)の思いが目覚めだし、それは地上にいたときよりも何倍も激しく私を揺さぶりました。

地表の霊界で放浪していたときに、私は憎い相手に災(わざわ)いをもたらす方法がいろいろあることを知りました。みなさんは実際に起こった事件で、どうしてもその理由がわからない不可解な殺人や不思議な犯罪の話を聞いたことはないでしょうか。


これらの犯罪は、地上の犯罪者の脳が、霊の働きで狂わされてしまったために起こったものです。彼らは憑依した悪霊の道具となってしまったのです。

霊の苦悩は肉体の殻で包まれている地上人よりはるかに強く、復讐の念にかられた霊がなし得ることは、地上人の想像を絶するものだとだけお伝えしましょう。

私の中に芽生えた復讐への欲望も、そうと望んだわけでもないのに、地獄でさまよう、真っ黒で恐ろしい形相をした悪霊たちを召還してしまいました。

こうした悪霊たちは、ふつう地表の霊界では生存できませんし、そこにとどまっていることもできません。ただし、彼らと同レベルの強い霊的磁力――地上人や霊人の強い悪の欲望――がある場合のみ、それに感応してはい上がってきて、地表にとどまることがあるのです。

私のまわりに集まってきた異形の者たちは、驚くほど悪辣(あくらつ)で恐ろしい、しかもすぐ簡単に実行できる復讐のやり方を私の耳元でささやきました。

ほかのときなら、こんな邪悪な声を聞けば、私は恐ろしさに震え上がったでしょう。しかしこのときばかりは狂った情熱にかられていたので、「よく来た。私の復讐をなし遂げるために支援せよ」と命じようとしたのです。

そのときでした、銀の鈴の音が私の耳に響いてきたのは。
それは、あの方の声でした。

彼女は私に向かい、二人の聖なる約束にかけて戻るようにと呼びかけてきました。二人の誓いにかけて、二人が大切にした希望の名において戻れと。

それでも私は、復讐をあきらめられなかったのです。必死で耳をふさぐと、今度はロープで引っ張られるようにして、彼女の部屋に引き戻されました。

そこには力に満ちた輝く二人の守護霊がいて、彼女の周囲には稲妻のように燃える銀の光がめぐっていました。私が彼女の呼ぶ声に応じると、その光の壁を通り抜けることができました。黒い悪霊ともは私の後を追うとついてきましたが、燃える光の壁によって遮(さえぎ)られました。

彼女は、すべての愛の力をこめて、

「お願いです。いとしいあなた、恐ろしい復讐への思いを捨ててください。卑しい考えになど負けないと約束してください。あなたの復讐への思いは、私への愛よりも強いものなのですか? もしもあなたがそちらを取るなら、私たちはもう二度と会えなくなるかもしれないのに?」と言いました。

なのに私は、懇願(こんがん)するいとしい人を前にしても、なかなか復讐への思いを捨てることができませんでした。ためらう私を見るうちに、彼女はとうとう泣きだしてしまいました。

「彼女への愛は、私にとってそんなに小さなものだったろうか? たかが復讐などと引き替えにしても惜しくないくらいに?」
ようやくそんな疑問が胸に湧き始め、彼女の涙が、あたたかな心臓から滴る血のように私の心に注がれると、固く凍りついた私の心も溶かされていきました。

私はあの方を泣かせてしまったことがとても辛くなり、彼女の足元にひざまずきました。そうして私を赦してくれるようにと必死で願いました。

このように愚かな自分ではあるけれど、いついかなるときも彼女が私の希望であり、すべてであり続けてくれるようにと祈ったのです。

すると、燃える銀の壁の中に入ろうと悪戦苦闘していた黒い悪霊たちは、まるで風が吹いて黒い霧が払われるように、元の場所へと沈んで行きました。

(9)「凍結の国」と「昏睡の洞窟」

地表での任務を終えた私は、次に霊界の中でも奇妙な国へ派遣されました。一面の雪と氷におおわれた「凍結の国」。そこには地上の人生で、冷たく打算的で利己的な生き方しかなかった人々が住んでいました。

本来ならば豊かな人生をもたらしてくれるはずの、あたたかくてやさしい心の触れ合いや愛情に心を閉ざし、自分の心を凍りつかせてしまった結果、彼らのいる場所には日の光は届かないなのです。その心が表わすままに、冷え冷えとした、氷におおわれた生活だけが残っているのです。

幸いにも、ここに住む人の数はそれほど多くありません。私が、幸いにも、と言ったのは、行きずぎた愛や情熱が引き起こす過ちよりも、人間的なやさしい感情を欠落させることのほうが、どれだけ改心をむずかしくするか、この経験によって知ったからです。

大きな氷の宮殿にそびえ立つ尖塔(せんとう)には、かつて偉大な政治家と呼ばれた人たちが住んでいます。

政治家たちは、国の運命をその手に握りながらも、本当は自分の国を愛してはいなかったし、心から国のためを思ったこともありませんでした。出世のみが彼らの目標だったのです。また、あらゆる宗教人や、さまざまな分野で秀でた人々もいました。

たとえば、カトリックの枢機卿(すうききょう)たち、ピューリタンの説教師、メソジストの牧師、長老教会の聖職者、英国教会の司祭や聖職者、宣教者、バラモン教の僧侶、ペルシャ人やエジプト人のイスラム教徒など、あらゆる宗教に属する人々が、この凍結の国にはいます。

厳格で信心深いけれど冷淡で利己的な彼らは誰一人として、自分のまわりの氷を少しでも溶かせるような、あたたかい感情をもちあわせていません。

もし、哀れな者を思って流す熱い涙が一滴でもあれば、この国の氷はたちまち溶けだし、哀れな霊人たちにも希望が見えてくるのですが。

固い氷の檻(おり)の中に、一人の男が閉じこめられているのが見えました。ベニスの異端審問所の大審問官だった男です。顔つきは冷淡かつ無表情で、いかにも残酷そうなタイプです。刺し通すような光がひさしのような眉から放たれ、冷たく無情にぎらぎらと、野獣のように輝いていました。

厳格で過酷なことで知られているこの男は、自分にも他人にも寛大であったためしがありません。冷血で無慈悲で、震えながら審問に応える犠牲者の姿を見ても、同情心のかけらも抱いたことがないのです。他人の痛み苦しみをまったく感じないこの男の犠牲になった霊人たちが、亡霊の行列のように前を通り過ぎていきました。

拷問でぶちのめされ、引き裂かれ、血を流し、恐怖に青ざめた亡霊たちは、みなアストラル体(アストラル界で魂のまとっている霊体)の影なのです。


彼らの魂は、とうの昔に霊界の他の領域に去ってしまっているのに、この男の霊的磁気が霊体の影を引きつけているというわけです。

ここの者の目には、亡霊が生きているように見えますが、殺害者がいつか良心の呵責を感じ、十分に悔い改めれば、両者を繋いでいたリンクが断ち切られ、亡霊はたちまち消滅することが私にはわかりました。

亡霊たちは、かつての圧政者をひっつかまえ、ばらばらに引き裂こうと必死です。しかし、この男にとっては牢獄(ろうごく)である氷の檻が、自分を守る防衛にもなっているのです。

檻の中の男は、氷の檻が強固で崩れないことを知っているので、亡霊たちの愚かな努力をあざ笑っています。いったいこの男が、氷の檻から解放されるときが来るのだろうか。そう思って見ていると、ある威厳(いげん)に満ちた霊から答えが与えられました。

「息子よ、ひととき、この男の考えなるものを見よ。自由になれたとして、彼が何をなそうとするか見てみよ」


すると鏡に映して見るように、この男の心が見えてきたのです。もしここから自由になれたなら、まず地表の霊界に戻ろうと考えていました。

そこで同じような野望をもつ地上人に憑依して、もっと過酷な暴政や無慈悲な審問を行なおうともくろんでいるのです。自分で計画する新たな圧政のアイディアを楽しんですらいました。

この男は地上にいたとき、哀れな者たちを虐(しいた)げることをこのうえなく好み、それによって自分の階級を高めていったのです。

こんな男が解放され、地表の霊界に戻ることにでもなかったら、どんなに恐ろしい獣を放つよりずっと危険なことでしょう。

ただ一つ、哀れなことには、彼は自分の行なった自慢の審問が、もはや過去の遺物となっていることを知らないのでした。

心まで冷えさせてしまう「凍結の国」から「たそがれの国」へ戻る途中、「昏睡の洞窟」と呼ばれる、いくつもの広大な洞窟を通り過ぎました。

そこには、無意識で無感覚なままの人々が横たわっていました。永遠の生を生きる霊人でありながら、死骸のように累々(るいるい)と横たわっているのは、阿片(アヘン)の吸いすぎでみずから命を落とした人々でした。

この霊たちの様子は、ただ生きている、それだけです。彼らの感覚は退化してしまい、知的なひらめきは何もありません。

まあ、洞窟に生えるカビよりは少しまし、といった程度です。こうした霊たちは何世紀にもわたって眠り続けますが、麻薬にそれほど溺れていなかった場合は、二十年か三十年、長くて百年ほど眠るようです。

「昏睡の洞窟」の中では、介護にあたる霊人たちが、死体の行列みたいに並べられ、昏睡状態にある霊人たちに生命力を注ぐ仕事をしていました。じつは、この介護の霊人たちも、地上にいたときは阿片中毒者だったのです。

昏睡状態の霊人は、麻薬中毒の程度に応じて少しずつ意識を覚ましていき、やがて中毒患者が薬を切らしたとき経験する、あの苦痛を覚えるようになります。

永い時間をかけて意識が戻り、感覚が甦(よみがえ)ると、ついにはか弱い子供のようになり、ここで初めて霊的な指導に耐えられるようになるのです。

目覚めた彼らは、地上の精神障害児を収容する施設のようなところに送られます。知力は訓練を受けるにしたがって発達し、地上生活で破壊された感覚や能力も、ごくゆっくりと回復していくのです。

私には、この「昏睡の洞窟」の状況は、言葉で言えないほど悲しいものでした。ここで眠る霊人たちは、いつ目覚めるともしれない眠りの中に停滞したまま、貴重な時間を浪費してしまうのです。

そして、ついに目覚めるときが来ても、大変な運命が待ち受けています。地上の人生で零落(れいらく)する前の地点に戻るだけでも、恐ろしく険(けわ)しい道を昇らなければならないのです。

もし、こうした霊界の事実を知れば、阿片を密売して富を増やすなど、どれほど罪深いことかわかるでしょう。麻薬は肉体を滅ぼすだけでなく、その犠牲者たちの魂をも決定的に破壊するのです。この洞窟で眠り続ける霊人たちの運命ほど恐ろしい運命がほかにあるでしょうか?


3章 「第二の死」を越えて新しい姿に生まれ変わる  

(1)「たそがれの国」での生活

霊界での生活を、地上のみなさんによく理解してもらえるかどうかわかりませんが、どのみち奇妙なものに思えることでしょう。それは、地上の生活に似ているとも、似ていないともいえるものだからです。

たとえば、私がいまいる「たそがれの国」では簡単な食事をしますが、空腹を感じると食べ物はたちどころに出てくるように見えます。以前、霊となって初めて空腹を感じたときは食べ物を探し回ったものですが、そんな苦労はいらないのです。

しかし、食事のことなど考えずにいると、一週間くらいも食事なしで過ごすことがあります。ただし、これは私の場合に限るかもしれません。地上にいたとき、たらふく食事をするのが好きだった霊人たちは食欲がずっと強く、それを満たすのが一苦労のように見えるからです。

私たちのまわりには、いつもたそがれどきの薄明かりがあり、それは暗い夜でも明るい日中でも変わることはありません。暗い世界からここへ来て、初めはものが見えるくらい明るいだけで満足していました。けれども、ここの生活が長くなるにつれて、一日中薄墓の中で暮らすことが、うっとおしく感じられるようになりました。

地球上で、花と太陽がいっぱいの土地に生まれた私は、光や太陽の輝きをとても愛したからです。その輝きは命を浴びるような感じを私に与えてくれました。ここにはその喜びはないからです。

さて、私たちは地上で散歩するときのように、希望の同胞団(どうほうだん)の建物のまわりをぶらつくことがあります。このとき、地上での生活と違うのは、私たちが意志の力で空中を漂うこともできる点です。


もちろん、より進歩した霊たちに比べれば、空中に浮くのはまだうまくありません。それでも急ぐ必要のあるときは、意識さえすればほとんど思考の速度でどこへでも行くことができます。

居眠りに関しては、長いこと眠りたいと感じないまま過ごすことができますし、反対に一週間でも横になって眠ることもできます。

その他にも地上生活から見て奇妙なことは、私たちが着ているものでしょう。いくら着ていても古くならず、不思議な方法で新しくなってしまうのです。


色々な国を探索している間や住居にいるときには、とても暗い青色の服を着て、黄色の帯を腰に締めていました。服の左袖には黄色の錨(いかり)が刺繍(ししゅう)してあり、その下には「希望は永遠」と書かれています。下着は肌にぴったりとしていて、やはり暗い色です。

礼服は丈が長く、地上の僧侶たちが着るような感じのものです。肩からフードが付いていて、人目を避けたいときに自分の頭や顔をおおうために使います。

たしかに顔を隠したくなることがときどきあります。落ち込んだ目やそげた頬(ほほ)、深いシワは、どれも地上の人生をあまりにも鮮やかに物語っています。ですから、そんな顔を、私たちの死を悲しみ嘆いてくれる人々の視線から隠したくなるのです。

生活はどちらかというと単調で、規則的な取り決めに従って、勉強や講義が正確に進められていきます。

それぞれの霊的、知的発達に応じた学習が終了すると、霊たちはもっと高い部門の学習に向かいます。ある霊人は、一つの教科に大変長い時間を要します。その場合、地上での学習のように時間が限られているわけではないので、決して急がされることはありません。この世界では誰もが、無限の時間を与えられているのです。

人にせき立てられることもありません。未発達の段階のまま生きていても誰も何も言いません。学習を強要されることはありませんし、学習することを妨げられることもありません。すべては志願制で、この場所を去ってもかまわないのです。

なかには数年で去っていく霊人もいます。聞くところによると、彼らにはレッスンが難しくて、理解するのに時間がかかるからと去って行ったそうです。

ある霊人は、ここを去って地表の霊界に戻り、その後、最下層の地獄にまで落ち込んでから、再び「希望の家」の浄化コースをたどりました。


それは一見後戻りに見えますが、実際にはその霊に必要なレッスンだったのです。地表の霊界で快楽を求める欲望から解放され、本当に癒(いや)されたのですから。

「たそがれの国」には、私のように進歩したいという強い動機をもっている霊人も、わずかながら存在します。そういう霊は進歩するのが早く、みずから進んでステップを上昇していきます。


それ以外の多くの霊人たちが上昇するには、悲しいことに助けを必要とします。試練のなかにいる彼らには、支えや慰めが必要なのです。不幸で恵みの少ない彼らに、希望の詰まった自分の倉庫からそれを分け与えられる私は、本当に運がいいのです。

地上にいるあの方から送られてくる愛と同情によって、私はいつも励まされ、必ず約束は果たされるという希望を胸にして新たな努力をすることができるのですから。



(2)聖者と死者の交信

これまでの任務を終了し、「たそがれの国」の部屋でしばらく休むことになった私には、地上であの方と少しの時間いっしょに過ごせるという、新たな楽しみが与えられました。彼女は、いま私が近くにいることがわかるし、私が手を触れればそれを感じることができます。


私の言葉をかすかに聞くことができますし、さらにぼんやりとですが私の姿も見えるのです。ああ、何と奇妙で切ない生者と死者の逢瀬(おうせ)でしょうか!

驚くべきことに、彼女自身も霊的能力を発達させていました。自分に長いこと眠っていた素晴らしい能力をどう使用したらいいか、学んでいたというのです。

そんなところに、またまた二人にとってうれしいことがありました。彼女が、ある霊媒の方を見つけだしたのです。この霊媒は自分のエクトプラズムを通して、霊人がもつ霊体に似た体を、地上に顕現(けんげん)させることができるといいます。

それは、その霊人が地上にいたときの体とそっくりで、地上人たちもそう認めているということです。私はこの霊媒を通して自分の手を物質化させることができ、その手で彼女に触れることができるのです。このことを二人はどんなに喜んだことでしょう。

全身を現わすことができればもっとうれしかったのですが、私の都合で見合わせました。全身を現わせば、苦悩が刻まれた私の顔も物質化せざるを得ないわけで、それを見れば彼女が苦しむだけだからです。ああ、どれほど多くの霊たちが、私たちの逢瀬についてきたことでしょう!

彼らは自分たちもまた、地上の人々に自分がまだ生きていることや、ときどきは地表に帰っていることを知らせるチャンスがあるかもしれないと期待していたのです。

霊界は孤独な霊人たちで満ちています。みな地上に残してきた人々のことを思い、自分たちがまだ生きていることを何とか知らせられないかともがいています。


私はこれまで、大量の霊人たちが、行こうと思えばもっと高い霊界に行けるにもかかわらず、地表の霊界に執着しているのを見てきました。その理由は、自分たちの死をあまりに深く嘆き悲しむ人が地上にいるからです。

また、自分が去った後も世の中の厳しい試練と闘い続ける、地上へ残してきた人たちへの愛情があるからです。


それで、霊人たちは地上の人々のまわりをうろつくようになります。そうすることで、地上の人々がいつか彼らの存在に気づき、彼らの変わらぬ愛に気づいてくれることを願っているのです。

私は一人の母親を知っています。悪の道に入ってしまった彼女の息子は、自分の母は、はるかな天国にいると信じています。


けれども実際は、その母親は何年も息子の後を追いながら、自分の存在を印象づけて息子に警告を与え、悪の道から救い出そうともがいていました。しかし、どうしてもうまくいきませんでした。

こんな一組の恋人たちも見ました。
ある誤解から彼らは別れたのですが、それからまもなくして男のほうが死んでしまいました。


霊界に来た男は地上に残してきた恋人のところに行って、あらゆる手段と力の限りを尽くして本当のことを知らせようとしました。自分たちは誤解のために別れたけれど、二人の心はずっといっしょだったことを知らせようとしたのです。

男は、恋人が自分の存在を感じてくれたか確かめてくて、彼女の顔の表情や思念にその証を見ようと必死でしたが、無駄でした。

結局、彼は悲しみと絶望の中に沈んでいきました。
みんさんには見えなくても、霊人たちは地上人の手でも服でも何にでも触ろうとしますし、声をかけようとしているのです。


でも残念なことに、手に触れることさえできませんし、声も聞いてもらえません。地上人の心の中には悲しみや、死んだ者に会いたいという思いはあるかもしれませんが、死んだと思っている者が、じつは自分たちのすぐそばに来ているとは思ってもみないのです。

これまでにも、霊界と地上界の障壁を取り壊し、二つの世界を繋(つな)ぐ扉を大きく開こうとする試みがいろいろとなされてきました。いままで私が述べてきた霊界の事実を知れば、それは素晴らしいことではないでしょうか。

もしあなたから見て、生者と死者を交流させる試みが、どんなにつまらないこと、くだらないこと、不器用で愚かしいことに見えたとしても、それは二つの世界の扉を開き、すべての悲しみを解き放そうとする、偉大な試みの一つかもしれないと思ってみてください。

まちがっても容易に笑い飛ばし、おとしめ、息の根を止めてやろうなどと思わず、あるがままを受けとめてみてください。それは、私たちの目から愛する者たちを隠すヴェールを取り除く、見えざる世界の努力の結果かもしれませんから。

     
(3)守護霊との出会い

先ほどお話した霊媒の方による物質化の会合には、威厳(いげん)に満ちたある霊人が同席しました。彼の名は「アーリンジマン」といい「東方の導き手」です。

この方は、私が地上にいたときの中心的な守護霊であったことを、後になって知りました。地上にいたとき私が抱いた多くの考えやひらめき、高貴な志などは彼からの影響だったのです。

≪(*)守護霊と呼ばれている霊的存在(神の専属的代理人)は一人だけのようです。ここでは「中心的な背後霊」という表現が適切かと思います。

(管理人)(*)≫

霊界に初めて入った私が、ひどくもがき苦しんでいるのを見て、警告を与えてくれた声も彼からのものでした。また、希望の家で暗黒に包まれていたところ、私の部屋にひらひらと出たり入ったりする彼らしき姿に、おぼろげながら気づいていました。


そのときアーリンジマン師は、痛んだ霊体に苦しんでいる私を見かねて、霊的磁気や素晴らしい知識や力で癒してくれていたのです。

ところで、守護霊になる霊人とはどういう人なのでしょう?
みなさんのために少し彼のことについて話してみたいと思います。

アーリンジマン師は背が高く、威厳(いげん)に満ちた顔つきをしていて、いつも長い優雅(ゆうが)な白い服を着て、黄色の帯を腰に締めています。彼の容貌(ようぼう)は東洋人のもので、皮膚はわずかに浅黒い色をしています。頬から顎(あご)にかけては短く黒い絹のような顎鬚(あごひげ)がたくわえられ、やわらかく波打つ髪はやや長めに両肩まで垂れています。

彫りの深い美しい顔は、アポロの彫像に見られるような顔つきですが、東方的な面影もあってギリシャ人とは異なる雰囲気をもっています。

彼の目は黒く大きく、柔和(にゅうわ)な雰囲気をたたえていますが、その目の奥には熱い情熱と炎が隠されていて、強い意志がそれを抑制しているのを感じさせます。


表情や物腰には、あたたかさと強さがにじんでいました。それは私には、彼が地上の人生で、愛の甘美な世界から激しく荒々しい情熱の世界や憎しみの世界まで、すべてを知り尽くしているからだと感じられました。

アーリンジマン師は何世紀も前に肉体を去ったのですが、彼のように、地上にいたときの民族性が霊人となってからも保たれているのを見ると、人種のタイプというのは人間にかなり深く刻印されていることがわかります。

さて、地上に生存中、アーリンジマン師はオカルト・サイエンスの熱心な学徒でした。霊界に来てからも、無限ともいえるほど知識を拡大してきました。私と同じように熱く情熱的な性格の持ち主ですが、霊界にいる間に自分の情熱を抑制し、克服する方法を学んだいまは、最高の知性と情熱を保持しています。

そして、もがき苦しんでいる私のような霊人たちを身をかがめて拾い上げ、その弱さを理解しようとする彼の心は、どんな霊にも信頼感を与えてくれます。

一度も墜落したことのない者が、私たちに語りかけてきたとしても、その言葉にはきっと説得力がないでしょう。けれどアーリンジマン師は違います。


弱い霊を思いやるやさしさに加えて、たくさんの場を切り抜けてきた強い意志の力をもっているので、誰も彼の説得に抵抗することができないほどです。

私も意志が強いと言われてきましたが、彼の前に立つと、ほんの子供のような未熟者に過ぎないと心から思えるのです。

ここでみなさんに、私の経験から言っておきたいことがあります。
それは、霊界ではすべてが自由だということです。

空気のようにどこへでも、自分の欲するところへ好きなように行くことができますし、たとえ守護霊からのものでも、差し出された助言を拒否する自由もあります。それだけではありません。霊界では働こうが怠けようが、善をなそうが悪をなそうが、祝福を得ようが人を呪おうが、自由なのです。

ただし、自分で選んだことは、そのまま環境に反映されますから、それぞれの霊人たちがいる場所は、彼らにとっていちばんふさわしいところになっています。さらに霊界では、発達段階の異なる霊人同士の間には、乗り越えられない障壁が築かれています。

進歩した段階の霊人は、望めばいつでも障壁を越えて下の世界を訪問し、援助することができますが、発達の遅れた霊人たちは、その障壁を越えることはできません。

地上の人々の心は、古い時代には幼子のように(霊的に)素朴だったので、それだけ明るい霊界に近かったのですが、素朴さを失ったいまは、そうではありません。それでも、アーリンジマン師のような霊界の親切な案内人たちは、地上の人々がみな輝く世界へ到達できるように、ありあまるほどの希望と光をもたらそうと努力しているのです。

     

(4)「第二の死」を抜けて

物質化の会合に参加するようになってから、三ヶ月ほど経ったところでしょうか。私は、アーリンジマン師から自分の身に起きようとしている大きな変化に対して、準備をしておくように言われました。

それは、私がより高次の霊界の領域に上昇するということでした。

霊界は、いくつもの領域に別れていると教えられましたが、それは霊の指導者によっても見方が異なっています。たとえば、ある指導者は、霊界には七つの領域があり、その七つ目の領域は聖書に書かれている天国でもあると言っています。

ところが他の指導者は、十二の領域があると言っていますし、なかにはもっとたくさんの領域があると言っている指導者もいます。さらに、それぞれの領域はいくつかのサークルに別れていて、通常は一つの領域に十二のサークルがあるといわれています。

私が見たとろこでは、地球の上方の七つの領域があり、下方にも七つの領域があるようです。上方とか下方とかいうのは、太陽に近い方が高く、遠い方向が低いということです。太陽の引力にもっとも近い地点が最高の霊界であり、もっとも遠い地点が最下層の霊界なのです。

各領域は十二のサークルに分割されていると言いましたが、各サークルは交じり合っているので、一つのサークルから他のサークルへ移動するときは、ほとんど意識しないでも移動できます。私がかつていた地表の霊界は、地球を取り巻く大きくて広いベルトのようなもので、大気中に浸透しています。

この地表の霊界は、領域的に見ると、地球の上層界の第一番目と下層界の第一番目の両方にまたがるようにして存在しています。この霊界はふつう、多少なりとも地上に縛(しば)られた霊人たちが存在する場所と見なされています。

それは、そこにいる霊人が地球の引力園の中心に沈むこともなければ、反対にその引力圏から抜け出すこともできないからです。私は、もうすでに地球の引力圏からは自由になっていますし、地上的な物欲も克服できていますし、すぐにも次の領域に移動することができると言われました。

下層の霊界の霊体から抜けて、上層の世界へ入ることは、多くの場合、眠りの中でなされます。それは地上で死亡して、肉体から霊が離れるとき体験する眠りにも似た、深い深い眠りなのです。


昆虫がいったんはさなぎになり、静かな時間を過ごしてから羽を生(は)やして飛び立つように、霊体の変化には時間が必要なのです。ただし、霊人が成長してもっと進歩すると、霊界内の階層の移動はずっと意識的な状態で行なわれます。

ある上層以上の世界になると、次の世界へ移動するのは、服を着替えるように霊的な殻を脱ぎ捨てて、より霊妙(れいみょう)な殻に変えることで行なわれるようになります。


こうした変化をいく度も通過しながら、地上的で物質的な性質を霊の殻から抜き去るようにして魂は進歩を続け、地表の霊界を脱して太陽系の霊界内へと入っていくのです。

私にこうした変化が起こったのは、いつものように地表の霊界への訪問を終えて、「たそがれの国」へ帰還したときでした。


奇妙で尋常ならざる感覚をともなう圧迫感を感じているうちに、まったく無気力になりました。それは、何か脳が麻痺したような感じで、ただ眠いというのとは違っていました。

そのためか、自分の小さな部屋へ戻って、ソファーに身を投げ出したと思ったら、瞬(またた)く間に意識がなくなり、夢も見ないで死んだように深い眠りに落ちていきました。この状態で、地上でいえば約二週間が過ぎました。

その間に、私はひずんだアストラル体を脱いで、ずっと純粋で明るい霊の殻をもった新生児みたいになったのです。

ただし、幼児として生まれたわけではなく、成熟した完全な成人として生まれ変わりました。それは、自分の中の悪を克服しようとする努力がつくり出したものです。


地上には、人生に対する知識が極めて狭く、何も学んでいない、性格も子供のような感じの人々がいます。こういう人たちは、どんなに長く地上の人生を送ったとしても、霊界には子供として入ってきます。しかし私の場合はそうではなく、責任ある成人として生まれ変わることができるのです。

完璧(かんぺき)な無意識の状態のなか、見守る介護の霊人たちの助けを借りながら、私の新しい魂は第二の霊界に誕生しました。「第二の死」ともいえるこの眠りを通過して、私はより高級な自己へと復活を遂げたのです。

            

(5)「あかつきの国」へ

眠りから覚めてみると、私のまわりの環境はずっと喜ばしいものに変わっていました。とうとう日の光を見ることができたのです。それは、曇り空から漏(も)れてくる日の光でしたが、それでも暗い夜と陰気(いんき)なたそがれ空に比べれば、何という明るい恵みでしょう!

私の新しい部屋には長い窓があり、そこからは、ゆるやかに広がっている丘と起状のある田舎の風景が見えます。シダや牧草が、「たそがれの国」の固い不毛な土地とは違って、みずみずしく地面をおおっていました。木や灌木(かんぼく)、花などはほとんどありませんが、それでも私の目には新鮮に映りました。

この地帯は「あかつきの国」と呼ばれています。

あたりの様子は、日が昇って空気をあたためる直前のようです。空は淡い青を含む灰色で、白い小さな雲が競い合うように流れていき、地平線に静かにとどまっている雲に流れ着こうとしています。

私のいる部屋は、それほど贅沢なものではありませんが、見たところかなり気持ちよさそうで、地上のどこか別荘の中にでもありそうな部屋です。白くやわらかなベッドが置かれ、私はそこに横たわっていました。気持ちを安楽にしてくれそうなものは、すべて揃(そろ)っているようです。

地上生活で私の好きだった絵もいくつかありました。それにああ、あの方の絵鏡が、薔薇(ばら)の花と手紙といっしょに置かれているではありませんか。

私はその絵鏡をのぞき、あの方がいま何をしているか見ました。彼女はやすらかに寝入っていました。夢の中でも、私の身によいことがあったのを知るように、その顔には笑みがこぼれていました。

それから、窓際の近くにふつうの鏡を見つけたので、自分がどれほど変わったのか、見てみようと中をのぞいてみました。瞬間、私はあまりの喜びと驚きで叫びながら、思わず後ろに飛び退きました。

これが私だろうか! いやいや、驚くほど若返っているではありませんか! 三十歳か三十五歳くらいの男に見えます。地上時代のもっとも盛りのころの自分が、そこに立っていたのです。


「たそがれの国」にいたころの私は、あまりにもやつれ果て、惨めな格好をしていたので、自分の姿を見るのが嫌でした。地上にいたときの二十倍は醜(みにく)かったし、まるで百年も生きていたような疲れた顔をしていました。

それがいま、こんなに若くなっているなんて!
手を見ると顔と同じように若々しくなっています。どこから見ても私は青年であり、活力に満ちています。

ただし、完全に以前の自分に戻ったわけではありませんでした。顔にはまだ悲しさが漂っていましたし、とりわけ瞳には、地上の人生で刻まれた、ある苦悩の色が現れていました。

私たちは決して過去の地上の人生をやり直すことはできず、復活しても罪の傷跡(きずあと)を霊魂から消し去ることはできないのです。


私よりはるかに進歩している霊人たちでさえ、過去に犯した罪の傷痕(しょうこん)と悲しみを残していて、それはじつにゆっくりと、永遠をかけてようやく消え去っていくものだと聞きました。

さて、私が自分の身に起きた大きな変化に思いをめぐらせていると、ドアが開き、同胞団の紋章をつけた一人の霊人が入ってきました。

新しく到着した私のような霊人たちのために晩餐会(ばんさんかい)が準備されていて、招待しにきてくれたのです。

「ここでは何でも簡素ですよ。お祝いの席でもね。しかし、あなた方を歓迎し元気づけるためのささやかな食事や、ぶどう酒くらいはあります。

今日は、あなたは私たちの名誉あるトです。私たち一同で、よき戦いをなし、価値ある勝利を得たあなたを歓迎し、ご招待申し上げます」

招待に来た彼は、たくさんの窓がついた長いホールに案内してくれました。そこには私のような新参者が五〇〇人から六〇〇人もいました。

それに加えて、一〇〇〇人ほどの同胞団のメンバーがすでに来ています。あちこちで古い友人や仲間、あるいは下層の世界で助けたり助けられたりした者同士がお互いを認め合い、挨拶をかわしています。

ほどなくホールの一方の端にある大きな扉が開いて、行列が入場してきました。最初に入ってきた方は、最も威厳に満ちた壮麗(そうれい)な霊人で、聖母マリアの肖像に見られるような鮮やかな青色の布地に、黄色の縁取りある礼服で身を包んでいました。

この人物の後ろには一〇〇人ばかりの青年たちが従っていましたが、彼らの手にはそれぞれ月桂冠が握られていました。ホールの上座には白、青、黄色の天蓋(てんがい)でおおわれた美しい席が設けられ、この人物は私たちに挨拶してからその席に座り、次のような言葉を語りました。

「兄弟たちよ、これら放浪する者たちを歓迎するために集わしめられた諸君、彼らがしばしの間、休息と平安、同情と愛を与えられることになっておることを伝えよう。また汝(なんじ)ら、放浪する我ら兄弟たちよ、利己主義と罪に対する戦いの勝利者として、汝らを歓迎し栄養を讃え、心からの挨拶を送る。

我らの同胞団は、天から地に至るまで途切れることのない膨大な連鎖を形成している。したがって汝ら一人ひとりは、一つひとつの鎖の輪であり、天使とともに働く仕事仲間であり、虐(しいた)げられし者たちの兄弟であるということを常に思い起こすように。

ここで私は、汝らがみずから獲得した栄誉の象徴(しょうちょう)として、枯れることを知らぬ月柱冠を受け取るよう願う。宇宙の最高統治者の何おいて、全天使と我ら希望の同胞団の何おいて、汝ら一人ひとりに名誉の王冠を与えよう」

私たち新しい霊人は大師の前にひざまずきました。すると、脇にいる青年の手渡す月桂冠を、大師はみずからの手で私たちの頭にかぶせてくれたのでした。そして最後の者が冠を受けると、大きな喜びに満ちた声が場内から沸き上がりました。

すべてが終了すると、それから晩餐会(ばんさんかい)が始まりました。

霊界での晩餐会とは驚きでしょう。ところでこんなときの地上人の楽しみは、食事を食べたりワインを飲んだりすることでしょうが、霊人の場合にはそういったものは必要ないのでしょうか? そうではありません。私たちは霊人にも食事が必要ですし、実際にいただきたいのです。

ただ、その食事は物質的ではないのです。ここには、動物の肉料理のようなものは一切ありません。


この第二領域(註 いまフランチェッツォがいる「あかつきの国」は第二領域に属する)でもっとも美味しい果物は、透明で食べるやいなやたちまち口の中でとろけてしまいます。ワインもありますが、地上の酒のように酔うことはありません。微妙な味のケーキとふっくらしたパンもあります。

こんなふうな食物とワインが、晩餐会の食事でした。
晩餐会の終了後、私は愛する方にこの喜ばしいニュースを知らせたくて、地上へ向かいました。彼女は物質化の会合に出席するところでした。私はうれしさに胸躍らさて、彼女を追ってその会合に向かいました。

彼女は、いままでずっとこのときが来るのを信じて忍耐強く待ってくれましたが、いまはもう私の顔が彼女にショックを与えるようなことはありません。


これ以上、自分の顔を隠す必要はないのです。何と幸せな夕べであったことでしょう。ついに、驚く彼女の前に自分を現わしたのです。彼女の両目は食い入るように私を見つめました。

でも、すぐには私とわからなかったようです。地上で最後に見たときの私を見つけようとしているようでした。注意深く眉をひそめながら、この若い男はあまり見覚えがないといった顔つきで。しかもまるっきりわからないわけでもなく、どうしてだろうといった不思議そうな面もちで、それでもにっこりとしました。

私の姿を保っている資料粒子はあとわずかで溶けてしまうので、その間にはっきり認知してもらいたかったのですが、ああ残念! 物質化した私の体がやわらかなロウのように溶けだしたので、消え去らねばなりませんでした。私が行くと彼女が、

「とても、とってもあの人の若いころを思わせる感じだったわ。あんな感じだったはずだわ。でもそうじゃない感じもするし。どう考えたらいいのかしら?」

とつぶやいています。
それで私は彼女の後ろにまわり、「あれは私で、他の誰でもありませんよ」と耳元でささやきました。

それを聞いた彼女は微笑(ほほえ)み、自分もそう思っていたと言うのです。こうして私の喜びも完全なものとなり、この日の祝賀も完了したのでした。            


(6)父との出会い

さて、私は死んでからいままで、私より先に死んだはずの親族や、友人の誰にも会ったことがありませんでした。ところがある日、いつものように愛するあの方のところに行くと、彼女は不思議なメッセージを受けていて、それを私に渡してくれました。

彼女が言うには、初めて訪ねてきた霊人がいて、それは私の父親であり、彼女に私宛のメッセージを渡してほしいと頼んだというのです。彼女からそう告げられたとき、私はびっくりして口もきけないほどでした。

私の母は、まだ私が幼いころに死んでしまいましたので、うっすらとやさしかった思い出が残っているだけです。そして、母は父のことをとても愛した女性でした。


幼くして母を失った私にとって、父はすべてでした。私の成功にとても誇りと喜びを感じてくれましたし、未来にとても希望をもってくれました。

そんな父をがっかりさせたことを知っています。私の過ちですべての希望や夢が破壊されてしまい、そのことが父の死を早めたようでした。


父が死んで以来、その苦い思い出を考えると、私の心はただ痛みと恥ずかしさだけを覚えました。ですから、父が死の壁を越えて、あの方のところへ来て、私のことを話したと聞いたとき、希望を打ち砕いた罰当たちな息子のことを、彼女に嘆いたのではないかと恐れました。

私は、父に会うことはできないと駄々をこねました。本当は父は何と言ったのか、この罪深い息子に対する赦(ゆる)しの言葉は一言もなかったのか、知りたかったのです。

父のメッセージがいかなるものだったか、何と言えばよいのでしょう? それを聞いて私がどのように感じたか、どう申し上げればよいでしょうか? 父の言葉は、まるで乾いた土地にしたたり落ちる露(つゆ)のようで、あまりにも貴(とうと)いものでした。

ああ! もう一度父に会いたいと、そして子供のころのように父の胸に抱かれたいと素直に思いました。

そう思って顔を上げると、何と父の霊がすぐそばに立っているではありませんか! 私が最後に見たあの格好のままで、ただ地上人がかつて見たこともない霊界の栄光に包まれて! 「お父さん」、「息子よ」と言う以外に言葉もありません。喜びに震える父と子は、ただ抱擁(ほうよう)し合うのみでした。

ようやく気持ちがおさまると、私たちはいろいろなことについて話をしました。
もちろん、私がこのように進歩の道を進むことを必死になって支えてくれた、あの方についてもです。

私は、父が二人を助け、見つめ、守っていてくれたことを初めて知りました。父は、私が地上と霊界を放浪している間、私を守り、あがいているときには慰めてくれていました。私には、そうした父の姿はまったく見えませんでしたが、ずっとそばにいて、絶えず愛を注いでくれたのです。

私が会いたくないなどとしり込みしていたあのときにも、彼はそこにいたのです。自分を示すことのできる機会を、辛抱強く待っていてくれました。そして、三人がいっしょに喜びの出会いを迎えられるように、私のことを思ってくれる彼女を通して、父は私の元にまって来てくれたのです。


(7)最下層の霊界の探索隊に加わる

再会を喜び合った彼女の部屋から霊界へ戻ったとき、父も付いてきてくれましたので、長い時間をともに過ごすことができました。父は、私のいる第二領域から、最下層の霊界で救済者としての仕事を遂行するために探索隊が派遣されるところである、と言いました。

最下層の霊界とは、地上で信じられている地獄のことで、かつて私が行ったことのある霊界よりもさらに下層にあります。


これまでどれほどの間、探索がなされてこなかったかは知りませんが、いまは何らかの仕事がなされるべきときで、この探索隊に参加すれば、その仕事がすべて遂行されるまでここに帰ってくることはできません。

守護霊のアーリンジマン師は、私にこの探索隊に加わってみないかと提案しました。

父もまた、真理と光と希望の大儀のために、私が探索隊に加わって悪の力と戦うことを願いました。それで私は、参加してみようと決心したのです。

霊界において、悪と戦って勝利するためには、さまざまな誘惑に打ち勝つ力が必要となります。また、不幸な霊たちを助けるためには、彼らが私たちを見て、触れることができなければなりません。

ところが、上層の霊界にいる霊人、たとえばここより上の第三領域の霊人になると、その姿は不幸な霊たちには見えないし、声も聞こえないのです。


むろん、高次の霊人たちも探索隊に同行して私たちを守り、支援してくれますが、救援する当の相手には見えません。

探索隊によって救援された霊人たちは、私が初めて地上から霊界に来たときに行った「希望の家」のような場所へ連れて行かれます。そこには多くの霊的な団体があり、そのどれかが、惨めな霊人たちに対応するのです。

団体を指導している霊人やその働き手たちは、地獄の王国から救出された経験をもつ霊たちのなかで、救出されたばかりの霊人たちに対応しやすいのです。

いよいよ出発のときがきて、何人かの友人は途中まで私たちに同行してくれました。私の東方の教師は、下層の霊界へ行くと見ることになる、アストラル界のさまざまな不思議な現象を私に見せながら、それについて説明することのできる、彼の生徒を一人同行させてくれました。彼の名はハイセンといって、霊界における不思議な現象について研究していました。

ハイセンは、地上ではペルシャ人で、アーリンジマン師と同じゾロアスター教の信者でした。彼ら師弟は、いまでも霊界でゾロアスターの学派に属しています。

探索隊が出発する前に、アーリンジマン師がこんなことを私に教えてくれたことがあります。そのとき彼は「霊界では」と語り始めました。

「非常に多くの学派が存在している。すべての学派では、自然についての根本的な真理は認識されているが、細かいところではその認識に差違が見られる。またこれらの真理を、どう魂の向上に役立てるかという点でも意見が分かれる。

だから、霊界に来れば何か絶対的な知識があり、なぜ、何のために我々は存在するのか、かくも多くの邪悪なるものが善なるものと共存しているのはなぜか、魂とは何なのか、またそれはどのように神から生まれたのかなどという、創造にまつわるどんな大神秘もすべて解明されている、と考えるのはまちがっているわけだ。

真理の波動は、宇宙の大思念センターから継続して流れ出している。それは霊的知性体の連鎖を通して地球に伝達されることになる。

しかし、それぞれの霊人は、おのれの発達に応じて理解し得る真理のみ伝達するにすぎず、また地上の人間も、自分の知性で理解できる知識のみ、受け取ることができるのである。霊人も地上の人間も、すべてを知ることなど不可能である。

絶対に確実なものなどは、霊界にも地上界にもない。
いったい誰が、果てのないものの終わりを語ることができよう? あるいは無限の理念のもつ大いなる深さについて知らせることができようか? 


理念も生命と同様に、永遠で計り知れないものなのである。霊は無制限であり、どこにでも存在できる。
神はすべてのものの中に存在し、かつすべてを超えて存在する。

高慢で大胆な者が、一度にすべてを把握(はあく)することなど、とうていできない。人はおのれの小ささにおののき、真理探究の入り口に立ち止まるべきであろう。

なし得ることといえば、謙虚に学び、注意深く知ることであり、そうしてこそ次の段階へ進まんとする歩みを確かなものにすることができるのである」

アーリンジマン師が私に同行させてくれた友人ハセインは、地上の言い方からすると、二十五歳から三十歳の間くらいに見えました。しかし彼によれば、地上では六十歳以上まで生きていたそうです。

彼の容貌は、現在の霊的発達の度合いを示しています。それだけが霊的年齢を形成するのです。霊人の知性がより高い段階に成長すると、それにつれて容貌も成熟したものになり、ついには聖者の容貌をもつようになります。

しわとか容貌の衰えなど、地上で見られるものはありません。ただその聖者の威厳の力、経験などが容貌に現れてくるのです。

ある霊人が地球(他の惑星の場合もある)の霊界で到達可能なレベルにまで進歩すると、長老の容貌をもつようになります。

次に、その太陽系内のより拡大した領域へ入っていくと、そこで再び青年として出発するようになります。新たに入った領域のさらに進歩した霊人たちに比べれば、彼は青年の段階にあるからです。

ハセインは現在、さまざまな自然の力や、魂より下等の段階の形態について研究しているといいます。そして、これから私が目撃することになる、たくさんの不思議なものについて説明してくれました。

「霊人たちの多くは、周囲の物事を全体的に理解できるほど、感覚器官が発達していません。ですから、まわりにある幽霊的存在に気づかないまま、アストラル界を過ぎています。ちょうど地上の生活でも、霊媒は完璧に霊を見ることができるが、他の者はまったく見ることができない、ということがあります。

地上には人間の霊だけでなく、アストラル体やエレメンタルを見ることができる人もいますが、アストラル体やエレメンタルは本当の意味では霊ではありません。霊というのは、その中に魂の胚珠(はいしゅ)をもっているものだからです。

魂をもっている霊魂と、魂をもたないアストラル体を見分けるには、霊視とか透視力といわれる眼力を身に付けなければなりません。

不完全な霊視能力でもアストラル体やエレメンタルを見ることはできますが、霊魂という形態を見分けることはできません。そのために、霊的存在の性質や属性に関して、多くの混乱と誤った理解が不完全な霊視能力者の間に起きているのです。

地上の人間には、七段階の霊視能力があります。

七段階のうち、最初の三段階までの能力をもつ者は頻繁(ひんぱん)に見つけることができますが、四段階、五段階となると、ずっと少なくなってきます。六段階や七段階の能力をもつ者となると、ほとんど出会うことはありません。各段階の霊視能力は、その段階に相当する領域まで見ることができますが、おもしろいことには、霊視能力をもつ者たちの多くは、同時にいくつかの段階の霊視能力を備えているのです。

たとえば三段階の霊視能力をもつ者が、四段階の霊視能力も不完全ながらもっていることもあって、その結果、見たものを混同してしまいます。このため、彼らの言うことは信頼できないと思われてしまうのです。


片目で見ると、両目で見るのとはかなり違った、不完全な映像を見ることになるのと同じです。地上にもっと広い霊的知識があれば、退化した下等な霊的存在と、高次元の進歩した霊人とを見分けるのに必要な霊的能力が授けられ、混乱も減っていくでしょう」

私は、この新しい友人の教えと支援に心から感謝しました。そして、いよいよ探索のときが迫ったので、地表の霊界に行き、愛するあの方にしばしのお別れを告げました。帰還してみると、すでに探索の準備は整っていました。

父や友人たちに別れの挨拶をするため、また大師の祝福を受けるため大ホールに行きました。その後、私たち探索隊は集まった同胞全員の喝采(かっさい)や激励を受けて、最下層の霊界へと出発したのでした。


4章 地獄での救援活動に参加する

(1)地獄へ接近する

探索隊は次から次へと下層の世界を通って、驚くほどの速度で下降していきました。やがて、はるか彼方に、墨を流したように真っ黒な巨大な煙が見えるところまで来ました。


煙は、私たちがこれから行こうとしている国の上を、黒布が柩(ひつぎ)をおおうようにして広がっています。空気は圧迫されていて、ほとんど呼吸もできません。

私たちは黒々とした山の頂上に降り立ちました。その山は黒い湖に向かって突きだしており、そこからは地平線に広がる、恐ろしくも不気味な国が見渡せました。

探索隊は、二人ないし三人のグループになるよう分けられています。目の前に広がる暗い国に散らばって入り、まるで宣教師のように、私たちの差し出す援助を進んで受け入れる者たちを助け、救う活動をするのです。

私の連れである霊人の名前は「律儀な友」といいます。これは彼の献身的な友情を裏切った友が、皮肉って付けた呼び名でした。その裏切り者が後に、恥ずかしさと良心の呵責(かしゃく)にさいなまされたとき、「律儀な友」は彼を赦(ゆる)してやりました。

しかし、このじつに気高い精神の持ち主である霊人も、地上に生きているときには、決して完璧(かんぺき)な道徳的人間ではありませんでした。それで、死んだときは地表の霊界に近い下層の霊界に行ったのです。

ところがそこで彼の霊的な進歩は早く、私が会ったときには、すでに第二領域の同胞団(どうほうだん)のメンバーとなっていました。彼は以前にも一度、任務でこの地獄の王国に来たことがあります。

さて、私たち二人は、巨大な火山の噴火口のようなところに近づいていきました。その噴火口はベスビオ山を一万も合わせたようなものです。そこに見えるものすごい煙と火のかたまりに近づくにつれて、私は、それが妙に物質的なものであると感じました。

地上の想像では、霊界は空気のように実態がないものと思われがちですが、本当はとてもリアルで堅固(けんご)な実体として存在するのです。私はそのことを十分承知していましたが、それでも目の前に見える厚い雲のような煙や、跳(は)ね上がる舌のようにめらめらと燃える炎は、私が想像してきた地獄の感じとはまるで違っていました。

これまでも霊界を放浪するなかで、暗くて陰気な国々と、そこで徘徊(はいかい)する哀れな霊たちを見てきましたが、炎とか火といったものは見たことがありませんでした。

ですから、地獄の火というのも精神的な状態を表わす言葉なのだと考えていました。地獄の苦しみとは、精神的なものであり主観的なもので、客観的なものではまったくないと。

このことを私の連れに聞きますと、律儀な友はこう答えました。

「どちらの考えもある面では正しいのです。これらの炎や煙は、あの火の壁の内側に住んでいる哀れな者たちが霊的に発散するものによってつくられているからです。あなたのように霊的なものを見る視覚が開かれた者には物質的に見えますが、そうでないかぎりは不可視なのです」

大きな火のかたまりにさらに近づいて見ると、それは、入国するために誰もが通らなければならない、この国を取り巻く火の壁であることがわかりました。

「いいですか、フランチェッツォ」と、彼が言いました。

「いまからこの火の壁を通り抜けますよ。恐れないように、勇気と意志の力でもってこの火の粒子を跳ね返すようにすれば、体に触れることはありません。

ちょうどモーセのとき紅海の水が両側に別れたように、無傷でそこを通り抜けられます。しかし、意志の弱い者や臆病(おくびょう)な精神の持ち主が通り抜けようとすれば、この炎の力によって押し戻されるでしょう」

彼と私はしっかりと相手の手をつかみ、火の壁を通過することを「意志」しました。じつを言えば、この炎の中に進入し始めたとき、ほんの少し怖いという思いが脳裏をかすめました。

それでも、私たちはそうする運命にあると思い、あらゆる力を振り絞って思いを集中しました。すると間もなく、炎を通り抜けることができました。地上の長さでいえば、四百メートルから八百メートルほどの厚さだったはずです。

火の壁を通り抜けると、そこは荒涼(こうりょう)とした底なしの世界のようで、夜の国へ来たようでした。ところどころに大きな黒い岩肌の山があり、黒い霧のような重たい空気があたり一面にたゆたっています。

暗く物寂しい荒野が広がるところには、やせた化け者や巨大なコウモリみたいな気味悪い生物がうろうろしている、黒い沼地もありました。

うっそうとした黒い森の木々は、薄気味悪い形をしていて、まるで人間のように動きながら、この森に足を踏み入れた者たちを捕らえて虜(とりこ)にしていました。

前方の黒い平地の向こうには、霊人たちによって踏まれてできた大きな道が見えました。私たちも、この道をたどることにしました。

そこを少し行くと、黒い石が乱暴に積まれてできた大きなアーケードに着きました。そのアーケードの前には黒い紐(ひも)でできたカーテンのようなものが垂れ下がっています。

近づいてみてびっくり仰天したのですが、それは霊人の髪の毛からつくられていて、ところどころに目玉がビーズのようにくくりつけられていたのです。しかも恐ろしいことには、その目は生きていて私たちのことを哀願するように見つめているのです。

「これらの目は生きているのですが?」と私は聞きました。

「魂としての命はありませんが、アストラルとしての命はあります。これらの目の本体である霊体の中に魂が存在し続けていれば、目も生き続けることができるのです。これは地獄の門の一つです。この国の支配者は、彼の道楽で犠牲者になった人々の目をこのように飾っているのです。

この場所には、地上においてもっとも残虐な罪を犯した者たちだけが来ます。ここは残酷の都なのです。彼らは、自分たちの残虐な欲望を満足させる新しい方法を見つけるのに一生懸命ですが、自分より残虐で、意志や知性の力が勝っている者が現われると、今度はその犠牲者になってしまいます」

こうして私たちが話し合っていると、生きた目のカーテンが左右に分かれ、二つの奇妙な生き物が顔をのぞかせました。その霊たちは半ば人間で半ば獣といった姿ですが、門の中から出てきたので、そのすきを逃さず、門の守衛に気づかれないようにして私たちも中に入りました。

ところで、地獄の門の守衛というのは、とても巨大な生き物で、その手足は醜く歪んでいます。地上のみなさんに人食い鬼の物語を想像してもらっても、まだとうてい伝えられないほど、ものすごい姿なのです。

この守衛は、奇妙な声で笑いながら、出てきた二つの半人半獣の霊たちに恐ろしい言葉を投げつけました。

「こういった者たちには魂があるのですか?」と、二つの霊を指しながら、私は律儀な友にたずねました。「かつて地上にいた者たちなのですか?」

「ええ、おそらくは。地上では非常に低い段階の原始人だったようです。ほとんど獣と変わらないほど残酷で、それでこんなところに来ているのでしょう。彼らが進歩できる方法としては、地上でいまよりほんの少しだけ霊的に高い段階の人間として生まれ変わることだと思います」

「するとあなたは、生まれ変わりという教義を支持するのですか?」

「そうです。ただし、すべての霊がたどる絶対的な法則としてではありません。多くの霊たちにとって、生まれ変わりは進歩の法則だと思います。

地球や他の惑星の生命体として生まれた魂は、必ず守護霊をもちます。守護霊たちは自分の担当する魂を、地上においても霊界においても、彼らの知性にもっとも合った方法で導き、教育します。

守護霊は、幼い魂が自我の光を見たときから、体験と進歩をくり返してついに彼と同じレベルに成長するまで、ずっと見守り続けます。そうして見守られ、成長した魂は、今度は新しく誕生する他の魂の守護霊となるのです。

魂は、その本質において不死で不滅ですが、それは不死で不滅の神から発出したものだからです。種が地上の暗闇(くらやみ)の中に蒔(ま)かれるように、魂は物質という下等な存在の中に蒔かれ、それから芽をふいてより高い段階へと上がっていくのです。動物も魂の種はもっていますが、やはり人間のものが最高です。

守護霊たちが幼い魂を指導する方法や考え方には、それぞれ違いがあります。

ある学派では、魂が物質的生命に何度も新しく生まれ変われば、以前やり残したことをやり遂げたり、前世で誤った行為の贖罪(しょくざい)をすることができるので、魂はより早く成長できると教えられています。

しかし、生まれ変わりの道をすべての霊人がたどるわけではありません。他の学派は、霊界には魂の教育を素早く効果的に行なう手段が存在すると主張しています。

そこでは、地上ではなく下層の霊界へ魂を送るという、まったく異なる方法がとられるのです。この場合は、記憶の中にある過去の地上人生を生きることによって、霊のままで過ちを償うわけです。

魂は、それぞれに性格や個性が違いますから、一人ひとりに合った導きを受けるべきなのです。したがって自分が知っている霊の世界での経験を、すべての霊人に適用することは避けるようにと教えられてきました。

いま訪れている地獄の領域にしても、あくまでも悪霊どもの膨大な世界の“一部”、ほんの“断片”を見るにすぎないのです。自分の見たものだけが、この世界のすべてではないと認識しておいたほうがよいでしょう。

霊界では、似た者同士は近づき、反対の性質をもつ者同士は反発し合います。

性質の異なる者が混ざり合うことは決してないし、異なる領域同士が触れ合うこともありません。私たちの霊界探索においても、国籍とか気質とか、何か自分と共通したものをもつ相手だけをたずねることになるのです」
    

(2)「地獄の帝国」へ

私たちは、黒い大理石でできた広い道路を進んでいきました。

すると、この都の建物が、暗く濃い霧を通してその姿を現わしてきました。石で敷き詰められた道路やどっしりとした柱廊(ちゅうろう)を備えた建物、それから重たい鉄の首輪がくくりつけられた奴隷の霊人たち。そこに見える光景は、まるでローマ帝国の要寒都市に入ってきたような印象でした。

とはいえ、見事なほど壮大な建築物があるにもかかわらず、ここはすべてのものが邪悪で恐ろしい感じを与えます。

「じきにわかると思いますが」と律儀な友が言いました。

「このような都市は、かつて地上にあったもので、その霊的反映がこの都なのです。ここにはこの都市が地上でもっとも権力が強かったときと変わらない生活があります。


霊人たちのほとんどは、いまだに地上の都市にいるものとばかり思っていて、なぜすべてがこんなに暗く、邪悪で、黒ずんでいるのかわからずにいます。じつは、この都市の霊的反映は高次の階層にもあって、そこに美しく高貴なものがすべて集まり、善良で徳の高い霊人たちが行って住むようになっています。

この地獄の都の住人たちがいつか進歩を遂げ、すべて高次の階層の住人となれば、いま見ているこの場所は崩壊し、塵(ちり)となってこの世界から消えてなくなるでしょう」

しばらく行くと、壮麗(そうれい)な宮殿に囲まれた大きな広場に出ました。すべてが豪壮なのですが、飛び散った血のりで汚されたうえに、ぬるぬるしたカビにおおわれていて、せっかくの壮麗さも台無しです。


ヘビのとぐろのような形をした花の編み飾りが、建物のすべての柱にかけられているのも気味悪さを感じさせます。地面からは悪臭を放つ湯気が沸き上がり、恐ろしげな煙の渦となってあたりに漂っていました。

強そうな霊人たちのムチや槍に追い立てられた真っ黒な霊人たちが、大きな広場を這(は)い回り、宮殿の中や外を行き来していました。ときどき怒号(どごう)と悲鳴が起こり、何とも恐ろしげなののしり声や呪いの叫びも聞えてきます。

ここはまさしく、失われし魂の大魔堂でした。

そびえ立つ入り口を通って宮殿の広い階段を昇り、いくつかのホールを行き過ぎて、謁見室(えっけんしつ)の扉のところまで来ました。すると、律儀な友が口を開いてこう言いました。

「私は、ここでしばらくあなたと別れねばなりません。自分の仕事がありますから。しばらくすれば、また会うことになります。


揺るぎない精神と強い意志をもち続け、与えられた警告を忘れずにいれば、何もあなたを害するものはありません。私だって全力で集中してやらないといけないのですよ。それでは、あなたの成功を祈ります」

こうして律儀な友と別れた私は、一人で謁見室へ入って行きました。

謁見室の壁には血湖が飛び散り、床は暗い血の海のように見えます。そして、垂れ布は邪悪な思いを発散しています。貴族たちは豪華に見えるが虫の食った、腐ったような長衣を身にまとっていました。しかもよく見ると、それは腐敗した体から出る膿(うみ)でぐしょぐしょになっていました。

大きな玉座には、皇帝その人が座っています。彼は、ここにいるすべての霊人たちのなかでも、もっとも恐ろしい知性の持ち主でした。彼の容貌(ようぼう)には底知れぬ残虐性と邪悪性が満ちていて、取り巻き連中など比べものになりません。

しかも彼らは、自分たちのそうした姿には気づいていないようです。といっても、全員が気づいていないわけではありませんでした。


隅に身をかがめて小さくなっている男が見えました。彼は自分の卑劣(ひれつ)さをよくわかっているし、まわりにいる者たちの醜悪(しゅうあく)さもわかっているようでした。

この男の心に、いまよりはましになりたいという願いがあるのがわかりました。何か、それがどんなに辛い道であっても、地獄の闇から彼を導き出し、この恐怖の場所から解放される希望を与えてくれる道を求めていたのでした。

私が遣わされたのは、この男のためであるとわかりました。

あたりを見渡しているうちに、黒い霊どもや彼らの支配者が、私の存在に気づきました。そして支配者のほうが、しわがれた声で私は何者かと誰何(すいか)し、よくもこの宮殿にのこのこと入って来たものだと、ののしりました。

「この世界に最近やって来た者でございます。このような場所に出くわしまして驚いているところでございます」と、私は答えてやりました。

すると、荒々しく恐ろしい笑い声が支配者の口から響き渡り、ここのことなら何でも教えてやると叫びました。


そして、「だが、いまは我々の習わしにしたがって丁重に歓迎することにしよう。祝宴に招待するから席につき参加せよ」と言うと、自分の前にあるテーブルの空いている席を指しました。そのテーブルには大祝宴のために豪華な食事が準備されていました。

並べられた食物はどれも本物らしく見えるのですが、こういうものはすべて幻想だと、私は事前に警告を受けていました。いくら食べても満腹せず、飢餓(きが)感が募(つの)るばかりなのです。

ワインもありましたが、これは燃えるような液体で、飲めば飲むほど喉(のど)を焼いてしまいます。それで、この世界で出される食べ物や飲み物は一切口にしてはいけないし、招待されてもいい気分になってはいけないと教えられました。

そこで、私はこう答えました。
「ご招待してくださるお心遣いには心より感謝いたしますが、何分にもいまは食欲がありませんので、遠慮させていただきたく存じます」

これを聞くと彼の目はぎらっと輝き、深い怒りが額をよぎりましたが、なお冷静さを保ったまま、もう少しそばに寄るよう私を促しました。

その間、私が助けに来た例の男は、しょげたような物思いからすっかり目覚めて、私の大胆な行為の成り行きを心配し始めました。その思いが私たちの間をつないだので、私は彼を導き出すことができるようになったのです。

私が皇帝の玉座に数歩近づくと、この男が寄ってきてささやきました。
「だまされちゃダメだよ。いまならまだ大丈夫だから、とっとと逃げな。ボクが奴らの気をひいていてやるからさ」

私は、この男に感謝しながら、こう言いました。
「誰からであろうと逃げるような真似はしません。それに罠(わな)にかからぬよう注意していますから」

私たちは、この会話を素早く交わしたので、皇帝には気づかれませんでした。
「早うこんかい、新参者! 皇帝陛下を待たせるとは、礼義をわきまえぬ奴め。ここに座ってみよ、皇帝の座を占めることがどんなものか味わってみよ」

その玉座は壮麗でしかも天蓋(てんがい)におおわれていましたが、そのような場所に座る気はありませんでした。しかし、好奇心から座ってみようかと思ったことも事実でした。ところが、ある光景を見て止めたのです。


この椅子(いす)が突然変貌し、まるで命をもったもののようになり、その恐るべき腕に捕らわれて叩きのめされ、ずたずたに切り裂かれて身悶(みもだ)えする霊たちの姿が見えたのです。すべてを悟った私は、皇帝に向かって深々と頭を下げてから、こう言いました。

「陛下の位にみずからの身を置こうとは夢にも思いません。したがいまして、この光栄も辞退しないわけには参りません」

そこで彼の怒りは爆発し、衛兵たちに私を捕らえ、あの椅子に押し込み、食物やワインを私の喉に流し込んで窒息させよ、と叫んだのです。

すぐさま衛兵たちが私に殺到しました。すると、私が助けに来たあの霊が、私を守ろうと身を投げ出したものですから、二人はとうとう野獣のような群れに囲まれることになったのです。

正直言って狼狽(ろうばい)しましたが、弱気になったのはほんの少しの間だけで、私はすぐ、もてるかぎりの戦闘能力を奮い立たせて、野獣どもを追い払いました。その間、私を助けようとした惨めな霊は、私をしっかりつかんでいました。

私たちがドアのほうへ一歩一歩近づこうとすると、黒い霊たちはいきり立ち、脅迫しながら迫ってきますが、あくまで彼らを寄せ付けないという強固な意志をもち続けていると、私たちに触れることはできませんでした。

ようやくドアのところまで来たので通り抜けると、その後ドアは固く閉まり、追っ手を中に閉じ込めてしまいました。

次の瞬間、私たちは何か強い腕によって引き上げられ、暗い平地の安全な場所まで運ばれていきました。そこに着いたとき、私が救出した霊は意識を失ったままでしたが、高次の世界から来た四人の威厳(いげん)ある霊人たちが、霊的磁気力をこの疲れ果てた霊に与えていました。それは、いままで見たこともない素晴らしい光景でした。

死んだようになって横たわる黒い歪んだ体から、霧のような気体が立ち上がって、どんどん濃くなっていき、最後に霊の形となったのです。そして、私が救い出した霊の魂は純化され、黒い霊体から解放されました。

天使のような四人の霊人たちは、まだ意識の戻らないこの霊を、赤子を抱くように腕に取り上げ、そのまま上昇して視界から消えていきました。ふと気づくと、私の横にはもう一人の輝く天使が立っていて、こう言いました。

「賞讃いたします。希望の国の子よ、この暗き国でさらに多くの者を助けるように。悔い改める霊たちが復活するとき、天界の天使の喜びがいかに大きいものか知るように」

こう語り終えるやいなや、彼は消えました。そこで私は、再びこの吹きさらしの地獄の荒野に一人取り残されることになったのでした。
     

(3)圧政者を焼き尽くす炎

はるか前方に狭い道が見えました。どこへ行けるのか、とにかくその道をたどって行きますと、黒い山並みの裾野(すその)にたどりつきました。


そこには、驚くほど大きな洞窟が口を開けていて、中には恐ろしげな爬虫類(はちゅうるい)が這い回り、天井には大きなキノコや化け物のようなシダやコケが、ぼろぼろになった死に装束(しょうぞく)のようにぶら下がっていて、地面は黒い水たまりでおおわれています。

思わず逃げ出したくなりましたが、どこからか声が聞えてきて、そのまま進むように命じます。それで岩の中の小道を進み、ある角を曲がると、巨大な丸天井のある地下牢のような場所が見えました。その天井の半分は、洞窟の中ほどで燃えている巨大な火の、ものすごい煙と炎のせいで見えませんでした。

その火のまわりでは、黒い悪鬼(あっき)の一団が踊り狂っています。地獄の悪鬼とは、このようなものかと思わされました。

隅のほうには惨めな黒い霊たちが十人以上かたまっています。悪鬼たちがときおり、いまにも彼らをつかみ上げ、火の中に投げ入れるような脅しをかけますが、結局は、うなり声をあげて引き下がります。

まもなく、ここにいる者たちには私の姿が見えないことがわかったので、勇気を出して近くに寄ってみました。

目にした光景はぞっとするものでした。
あの火は何と、生きた男や女たちが燃料となって燃えていたのです。その霊体は、あの悪鬼どもの槍で突き上げられ、火の中でひねり潰(つぶ)されていました。

目の前の光景のあまりの恐ろしさに、これが本当のことなのか、単に恐ろしい幻影なのか知りたいと思っていると、よく私の質問に答えてくれたあの神秘的な低い声が、このように教えてくれました。

「息子よ、あの者たちはたしかに生きている霊である。地上にいたときその権力を濫用(らんよう)し、何百人となく人々を焼死に追いやった者たちである。何の憐憫(れんびん)の情もなく人を焼き尽くした残酷さによって、犠牲者の恨みと怒りの炎はさらに大きくなっているのである。

霊界では怒りの炎は、圧政者を焼き尽くす巨大な炎にまで成長する。この大きな炎の燃料は、燃えている者たちの中にある残酷さなのだ。

この火によって味わう苦痛を通して、自分の圧政の犠牲になった人々が負った苦痛を理解できるのだ。そうなって初めて彼らの魂は向上する手段を与えられるのである。

このような因果応報の原理が存在することに、恐れても驚いてもいけない。こうした霊たちの魂は、あまりに頑(かたく)なで残酷であるがゆえに、みずからも同じ苦痛を経験しなければ、相手の苦痛を理解できないのである。

彼らのうち誰か一人の後を追っていくだけでも、残酷そうに見える正義の法則も、じつは形を変えた“慈悲深い施し”であることを知るであろう」

声が消えていくにつれて、炎も鎮火し始め、燐(りん)の燃えるような薄く青みがかった光を除けば、暗闇があたりを包み始めました。

すると、火の燃えかすりの中から焼かれたはずの霊たちが起き上がり、洞窟を出ていきだしました。彼らを追って私も出て行きますと、一人が群れから離れて、近くの町へ行く道をたどり始めます。この霊を追いかけて傍らに立ちますと、彼の人生がパノラマとなって目の前に展開し始めました。

彼は、かつてイエズス会の頭で、ある植民地の町で、連行されてきたインディオや異教徒らを前に裁判官として座っていました。

自分の論しを受け入れない何百人もの人々に、平然と拷問や火あぶりの刑を宣告しているところが見えました。

しかも、刑死した人々がもっていた莫大な宝石や金を、彼自身やイエズス会への貢(みつ)ぎ物として強奪しています。彼の信仰は見せかけであり、金をむしり取り、権力欲を満足させるための口実でしかなかったのです。

それから次に見たのは、彼の臨終の場面でした。みなが彼の魂が天界へ召されるようにと祈っていますが、反対にこの男の魂は下へ下へと沈んでいきました。

やげて地獄に着くと、犠牲となった大群衆がいまや遅しと彼を待ち受け、炎による復讐(ふくしゅう)を開始したのです。ただその苦しみは彼にとって無意味ではなかったようです。

地獄へ堕(お)ちて永い永い時間が経つうちに、少しずつ悔い改めの思いに目覚めていくのが見えたからです。彼は、これから地表の霊界に戻され、霊として地上人に慈悲と哀れみを教えるために働くことになると知らされました。

しかしその前に、彼はまず、この暗い場所で動かねばなりません。彼の罪業の共犯者だった者たちの魂を解放しなければならないのです。私は町へ行こうとする彼から離れ、また一人歩き出し


(4)大いなる泥の海

再び荒涼とした平原を歩き始めると、ぼろぼろの黒いマントをはおった、獣のような顔つきをした者たちに追いつかれました。警戒しましたが、ありがたいことには、この霊たちには私がよく見えないようでした。

同じような格好をした他の黒い霊人たちが通りかかり、宝物の入ったバッグをもっているのを見つけると、彼らはいっせいに襲いかかりました。そう、追い剥(は)ぎの集団だったのです。

どちらも武器はもっていませんでしたが、野獣のように相手に噛(か)みつき、爪で引き裂き合う彼らの闘いは、なかなか悲惨なものでした。たちまちのうちに半数ほどが動けなくなって地面の上に転がされ、残った連中は宝石を手にして行ってしまいました。

私は、敵味方どちらかわかりませんが、ケガをしてうめいている霊たちに、何かしてあげられることはないかと思って近づいてみました。

しかし、これは無駄なようでした。彼らは気配で振り向くと、私を八つ裂きにしようと身構える始末です。ただその中に一人だけ、私のことが見えるのか、足元に這ってきた者がいました。

「水、水を! 生きた火で焼き尽くされちまう! とにかく水をお願いします!」
私は水などもっていません。それで私は「あかつきの国」から持参した自分用のエッセンスを数滴与えました。その効果は何と魔法のようでした。

彼は、その場に座り、私を見つめて話し始めました。

「あんたは魔法使いにちげえねえ。いっぺんに冷えて長年わいを焦がしてきた火が消えしちゃった。地獄に堕ちてからってもの、渇きにずっと苦しめられてきたもんだが」

私は、痛んだ彼の体に磁気療法を施してあげました。すると苦しみがやわらいだのか、ほっとした表情を浮かべました。

何か話してみようか、それともこのまま彼を置いていくべきかと迷っていますと、彼は私の手をとり熱烈に接吻し始めたのです。

「ああ旦那さま、お礼のしようもありゃしませんです。なげー苦しみから救ってくださいやして、旦那さま?」

「そんなにうれしかったのなら、どうです、今度は自分が他の人を助けてあげて、喜ばせてやりませんか? やり方を教えますよ」

「へっ、そりゃもう喜。連れてってくださるんなら、大将」
「いいでしょう。手を貸してあげるから、とにかく早くこの場から離れましょう」

この男は、自分が海賊だったこと、奴隷売買をしていたことを話してくれました。ある日闘いがあり、航海士だった彼は仲間といっしょに殺され、気がついてみるとこの暗い場所に来ていたのだと言います。それ以来、仲間といっしょにあたりをうろついては、いつも争いごとを起こしていました。

ここでは燃えるような渇きが彼らを苦しめますが、その渇きを癒(いや)してくれるものは、何一つとして手に入れることはできませんでした。

「どんなに苦しくても死ぬこともできねえなんて、こんなひどい話はありゃしません。死を超えちゃったなんてなあ。自殺しようとしても、人から殺してもらおうとしてもだめだし。苦しみから逃れるなんて、とうていできない相談なんてさあ」

さらに彼が言うには。

「ボクたちゃ腹を空かしたオオカミみたいなものでさあ。誰もボクたちに闘いを挑む者がいないと、退屈しちゃって、自分たち同士で争いごとを始めちまうのさ。傷つけ合って弱るまで闘って、その後は苦しんでのたうちまわって、傷が治ると、またあたりをうろついて誰かを襲うって寸法さあ。そんな生活から何とか抜け出したいと願うようになって、最後にはお祈りなんぞもしようと思ったほどで。

だもんだから、旦那さまがそばに立っているのを見たときは、ボクっちのために遣わされた天使じゃないかと思いましたでさ。

絵によくあるような翼とかそんなものがないだけでね。だけんど、ここみたいな地獄に関する絵は見たこともなかったし、絵描きたちがそれも描けやしないんなら、天使の翼だって怪しいもんさね」

私は、その言葉を聞いて笑ってしまいました。自分が、この男に頼られているのがうれしかったのです。そこで私は、自分が何者で、どういうわけでここにいるのかを話して聞かせました。

すると彼は、気味の悪い沼地に大勢の哀れな霊たちが繋がれていると教えてくれました。そして、私がその者たちを助けたいというのなら、彼が案内して手助けをしてくれると言いました。

ここは暗いうえに厚い霧がとりまいていて、遠くを見通すこともできません。喜んで彼の案内にしたがうことにしました。

さて、私たちの目の前に姿を現したのは大いなる泥の沼ともいうべきもので、ただの沼とは違い、ねっとりと黒くよどみ悪臭を放っていました。

沼の表面は、重油のような黒い油でおおわれていて、そこかしこにふくれ上がった腹と飛び出した目をもつ、巨大な爬虫類がのたくっていました。

さらにはその上を、吸血鬼のような顔をした大きなコウモリが飛び交っています。沼から吹き上がる瘴気(しょうき)は、幽霊や怪物のような形をとってはもやもやと漂っています。

その光景に身震いし、いったいこの腐ったような汚い沼のどこに失われた魂がいるのだろうかと思い始めたそのときです、目の前の暗闇から助けを求める声が私の耳に届いたのは。その絶望的な、悲しみに沈んだ声は私の心をとらえました。そして、たちこめる霧に慣れてくると、沼のあちこちに人の形をしたものが沈み、もがいているのが見えてきました。

今度は私のすぐ近くで叫び声が聞えたので、思わず沼に飛び込み、溺れている哀れな霊を引き上げてあげようとしました。が、あまりにもひどい沼地なので恐ろしくなり、体が止まってしまいました。

すると再びあの絶望的な叫び声が私の鼓膜(こまく)に響いてきたので、ええいっ、行ってやらねばと、思い切って飛び込みました。声をあげたのは男の霊で、首まで泥水に浸り、いまにも沈んでしまいそうでした。

私一人ではとうてい引き上げられそうになかったので、海賊だった男に助けを求めて呼んでみましたが、どこにもいません。

意を決してもう一度力を込めると、おぼれそうな霊の足を捉えていた水底の藻がはずれ、彼を動かすことができました。ようやく岸までたどりついたところで、この哀れな霊はそのまま気絶してしまいました。私も相当疲れていたので、座って休息をとりました。

あの海賊の男はどうしているのだろうと探しますと、沼の中に少し入ったところでもがきながら、どうも誰かを引っ張り上げようとしているらしいのです。その姿は、不思議にこっけいな感じなのですが、彼自身はひどく興奮していて、めちゃくちゃな勢いで哀れな霊を引っ張ろうとしています。

その霊のほうは、彼に向かって、もう少し穏やかにやってくれと哀願しています。私は、それを見てもっともなことだと思いながら、岸近くまで来たその霊を沼から引き上げ、もう一人の霊の横に休ませました。

海賊の男は、ことがうまくいってえらくご満悦のようで、そんな自分を誇り高く感じているようでした。私もさらに二人の霊を助けました。後で知ったことですが、この泥沼は地上人が抱く不潔な欲望や邪悪な考えによってつくり出されているものだったのです。

そこでもがいていた霊たちは、地上では嫌悪(けんお)すべき人生に身を委ね、死んでからも地上人たちを利用して同じ事を続けた者たちだったのです。

救出作業をしている間に、私は泥だらけになってしまい、どうしようかと考えていたところ、すぐそばに、きれいな水があふれる小さな泉があるのが目にとまりました。

泉で泥の汚れをすべて洗い流した私は、救い出した者たちに対して、今度は彼らが沼の中の哀れな霊たちを助けるようにとアドバイスをして、さらなる探索の旅に出ることにしました。

私が地獄で行なった救出劇について、そのすべてをお話することは控えたいと思います。地上の時間でいえば数週間にもわたって行なわれた救出を逐一お話ししていたら、何冊もの本になってしまいますし、みなさんもきっと飽きるでしょう。それで次は、私が自分の先祖に出会ったときのことをお話ししようと思います。

(5)わが先祖の醜い宮殿

私は、ある荘厳な宮殿にやってきました。まだ地上にいて若かったときは、この美しい宮殿をよく眺めたものです。そして、かつてこの宮殿と広大な敷地の持ち主であった先祖たちの血族として生まれたことを誇りに思ったものでした。

しかし、いまここに見える宮殿は美しさをすっかり失い、大理石はカビでおおわれ、テラスや彫像は傷づけられ、建物の前面は黒い蜘蛛(クモ)の巣で汚なくおおわれています。素敵だった庭園は、もの侘(わ)しく黒ずんだ荒れ野となっていました。

沈痛な思いで中に入り、どっしりとした広い階段を昇りますと、そこには小奇麗なドアが開いていて、入ると黒い霊人たちがあちこちに漂っていました。

霊人たちは私の訪問を持っていたようで、客人として扱ってくれました。最後のドアを開けると、大きな炎が赤くきらめくのが目に入りました。本当に燃えているのかと思いましたが、しばらくすると炎は鎮まり、変わって灰色の霧が広間を吹き抜けます。

その凍り付くような冷気は、私の体に染み込みました。じつは、この熱気と冷気の奇妙な波は、ここを支配している君主の燃えるような激しい情熱と、きわめて利己的な冷たさから生じているものなのです。

中に入ると、この恐ろしい場所の主は彼の玉座から立ち上がり、歓迎の言葉をかけてきました。その瞬間私は、恐怖に襲われながらも、この男が私たち一族が先祖として誇りにしている人物であることを知りました。

私は、地上にいたころ、この男によく似ていると言われていましたが、彼はひどく好色で、哀れみや赦(ゆる)しのない残忍な男としても、その名を知られていました。尊大で整った顔立ちは肖像画で見たのと同じで、まさしくこの男にちがいありません。

しかしああ、これほどまでに陰険で恐ろしい顔に変化しているとは。

そのとき私は、何にせよ彼と似たものが私の中にも存在していたのだという考えに圧倒されてしまいました。血族という繋がりのために、彼は、いつも私の人生に密着し、影響を与えていたのです。

私が野望を抱いたり、出世を望んだりすると、この男は地獄から浮かび上がってきて私の自尊心を刺激し、尊大な気持ちを煽(あお)っていたのです。

私がいま恥ずかしく思い、命懸けで償いをしようとしている悪なる行為を、私に促したのもやはりこの男だったのです。

彼は私を通して、もう一度人々を支配してみたいと願っていました。

「わしらが力を合わせれば地上の住人どもを恐れさすこと、いや少なくとも従わせることはできるようになるかもしらん。おぬしにはさんざん失望させられたものじゃ、高貴なわが血族の息子よ。

しかしいまやおぬしは、わしに与(くみ)するために来たのじゃ。見るがよい、おぬしのために準備した楽しみがどれほど見事なものかを」

眼前に大きな黒い魔法の鏡が現われ、地上での生活らしきものが映されました。そこには、私がつくりだした音楽の燃えるような魅力で、何千人もの人々が惑わされ、下劣な情欲をかきたてられ、ついには自分を見失っていく様子が映し出されていました。

次に、彼の野望を満たしている国とその軍隊が映し出されました。私の先祖の男は地上の暴君を通して、この国の独裁者として支配していました。そして、私は彼とともに権力を分かち合うのだと言うのです。

それから、知と文芸の力を示す映像が映し出されました。私の霊的な働きかけで、地上の知性ある人々は、官能的な欲情に訴える文献を著述するようになり、そのようにして地上の人々が神を冒涜(ぼうとく)する、おぞましい考えを是認するまでに至らせるというのです。

彼は、地上の人々がどれほど霊人に操られているかを示そうとしました。

たしかに悪霊たちの働きは、地上に不幸と荒廃(こうはい)を広げ、歴史に汚点を残しますが、いまや天に感謝すべきは、天界の教えによって地上と霊界はともに清められつつあり、これらのことはだんだん少なくなってきているのです。

最後に、私たちの目の前に、一人の女性が出現しました。彼女の容姿があまりに愛らしく、その声が蠱惑(こわく)的だったので、私は立ち上がって近寄り、現実の女性の霊人かどうか近づいて見極めようとしました。

その瞬間、あの方の顔をした霧のような天使が現われ、その女性や先祖の男の前に立ちはだかりました。つかの間の幻影は吹き払われ、私は女性が何者かわかりました。

この女性は、男を惑わし破滅させるサイレン(註 ギリシャ神話に登録する、美しい声で船乗りを引き寄せ殺す妖魔)の一人で、実際には魂の欠けた存在なのです。

幻影から目覚めた私に向かってあの男は、もし私が彼といっしょになるならば、これらすべての愉悦(ゆえつ)を楽しむことができるとまくしたてました。しかし、私は彼の元から自由になることだけを強く望んでいました。

私は立ち上がり、彼に背を向けて立ち去ろうとしました。ところが、不思議なことに一歩も動けないのです。見えない鎖が私を強く捉えているのです。

「行くがよい。おぬしはわしの好意も約束も必要ないようじゃからの。行って何がおぬしを待ち受けているか知るがよい」

次の瞬間、奇妙に胸騒ぎがしたかと思うと、四肢や脳髄がしびれるような感じがしました。霧が私を取り囲むように集まってきて、その冷気で私を包み込みました。そして、何か恐ろしげで巨大なものが徐々に私に近づいてきたのです。

おお何と! それは私が過去に犯した過ちや邪悪な思いや欲望が、この男によって喚起(かんき)されたものだったのです。

次には、私の足元が開いて地下の墓場が現われ、そこに、ざわめきもがいている群衆が見えました。恐ろしいことに、男は荒々しい怒りに身を震わせながら、私をその暗い穴に投げ入れろと命じたのです!

そのとき突然、私の頭上で星がきらめき、一筋の光がまるでロープのように流れ込んできました。私がそれをつかむと、光は束になって私のまわりに広がり、私を引き上げてくれました。気がつくと、私は田舎の広々とした場所に律儀な友といっしょにいました。

そして他でもない、あの東洋人の指導者がみずから私に磁気療法を施してくれていました。私の指導者は、とても親切でやさしい物腰で、この試練を私に許したのは、いま別れたばかりのあの男の正体を知っておくことが、将来彼が私を虜(とりこ)にして悪巧を謀(はか)ったとき最良の防衛になるからだと説明してくれました。

「汝(なんじ)がこの男を先祖として何らかの繋がりがあると考え、尊敬したり誇りに思ったりするかぎり、彼は汝に影響を及ぼし続けるのである。

十分注意するように。これからも汝は、この男の領域にとどまるのであるから、自分自身を支配する力を失わぬように。汝が動揺して何者かの侵入を許さないかぎり、自分を支配する力は誰にも奪われることはない。

さて、息子よ、わしは再び汝の元を去ることになる。去って汝の遍歴(へんれき)を見守ることになる。
それでも勇気をもち続けるように。汝の愛する、また汝を愛し、もっともやさしい思いを送ってくれるあの人からの報いが待っておるのだからの」


(6)ベネデットとの出会い

律儀な友は、この奇妙な国のもう一つの都を訪れようと私に提案してきました。あの方の愛と不変の支援がなかったならば、私も陥ったかもしれないような運命に直面している一人の男の姿を見せてくれるというのです。

短い時間ですがとても速い速度で飛行すると、私たちは暗くて広大な湖沼に浮かぶ大きな都の上空にやってきました。

水面からは塔や宮殿が浮かび上がっていて、その姿が暗い水面に映し出されています。都の中には運河が流れていますが、水の色はまるで屠殺(たさつ)場から流れてくる血のような深紅でした。運河の上には、幽霊船のようなゴンドラが浮かんでいます。

この都を眺めているうちに、これは地上のヴェニスが低級霊界に反映してできている都だとわかりました。

市中に入り、中央の広場を過ぎていくと、ここが美しかったはずの水の都の劣悪な部分だけを集めた都市であることがよくわかりました。深紅色の運河の底には、数え切れないほどたくさんの骸骨が沈んでいるのが見え、石畳の道の下からは亡霊の腕が伸びています。


そこを行き交う市の行政長官や取り巻きたち、従者を引き連れた貴族、商人や司祭、ふつうの市民や漁師たち、誰もがみな墜落した、嫌悪すべき顔つきをしています。

小さな橋の欄干に一人で腰掛けているとき、暗い灰色のガウンを身にまとった男を見つけました。私は、この男こそ私たちが探している人物だと直感しました。

彼はヴェニスの有名な画家で、何と私が青年時代に会ったことのある人物でした。正直言いますと、こんなところで彼を見たことに少なからずショックを受けました。

私が若く、まだ芸術家の見習いだったころ、彼の人生はあらゆる希望に満ちているように見えました。それがなぜ、こんな場所に来てしまったのかと残念に思わずにいられなかったのです。

律儀な友がやってきて、この男について話したいので、少しだけ彼から離れ、後からいっしょに声をかけようと言います。

話によると、この男(霊界での名前であるベネデットと呼ぶことにします)は地上にいたとき、大変美しい容姿をもち、男性の心を虜(とりこ)にするような若い女性と出会って、恋に落ちました。

彼女は、たしかに激しい愛を求める情熱的な女性でしたが、同時に、冷淡でとても計算高い野心家だったのです。

彼女は、ハンサムで芸術の才能に恵まれたベネデットの心を虜にしたことを自慢しましたが、彼のために自分が犠牲になるなどという考えは、一切もっていませんでした。彼に対してやさしく魅力的に振る舞いながら、その裏では、あらゆる手を使ってヴェニスの中年貴族の妻となろうと画策していたのです。

しかも、この公爵(こうしゃく)に対しても、富と地位を手に入れる相手として利用するだけで、内心では嫌悪しか感じていませんでした。

当然のように、ベネデットの恋の終わりはやってきました。

傷心の彼は、ヴェニスを去ってパリへ行き、そこで数年間、放蕩(ほうとう)に身をやつしました。その後、彼は画家として有名になり、付け値で自分の絵が売れるまでになりましたが、運命は再びベネデットをヴェニスに引き寄せたのです。

帰ってきたベネデットは、あの女性が滞りなく例の公爵と結婚し、社交界の美しい女王として君臨していることを知りました。彼は、もしどこかで彼女と出会うようなことがあっても、冷淡で無関心でいようと心に決めていました。

しかし、彼女はそれを許しません。一度でも自分の恋の奴隷になった者は、彼女のほうからその相手を見捨てないかぎり鎖を断ち切れるはずはないと信じ、もう一度彼の心を虜にすべく全力を注いだのです。

ベネデットは秘密の情夫となり、彼女との二度目の恋に酔いしれるようになりました。しかし、それが続いたのはほんのしばらくの間だけでした。飽きっぽい彼女は、すぐに新しい恋の奴隷を見つけたのです。

若くて金持ちでハンサムな男が現われ、彼女の美貌を誉めたたえると、ベネデットに再び暇を出したのです。誇りを傷つけられた彼は激しく怒り、嫉妬(しっと)の感情も手伝って彼女を非難したので、公爵夫人のほうはますます嫌気がさし、彼をぞんざいに扱いました。

ある日、二人は激しく言い争ってから別れましたが、その翌日、彼女の屋敷に侍従を遣わすと、もう二度と会いたくない、手紙も侍従もお断りだという、本当に無礼なメッセージが彼女から返ってきました。

二度までも彼女にもてあそばれたという苦い恥辱(ちじょく)と、古びた手袋のように捨てられたという屈辱は、燃えるような激しさをもつ彼にはあまりにもきついものでした。ベネデットはアトリエに戻ると、自分の頭蓋骨(ずがいこつ)をピストルで吹き飛ばし、自殺してしまったのです。

気がついてみると、彼は恐ろしいことに自分が柩(ひつぎ)の中に閉じこめられているのを知りました。彼は自分の肉体を破壊しましたが、墓の中でその肉体が腐り、完全に崩壊するまで、魂は自由になれなかったのです。

腐敗する肉体の分子は、まだ霊魂を包んでいますので、肉体と霊魂の絆(きずな)はすぐには切れません。

その状態は、どれほど恐ろしいことでしょうか?
こんなひどい話を聞いたことのある人がいますか?

自分の霊魂が陥れられている辛い状況に、愕然(がくぜん)としない人がいるでしょうか? どんな犠牲を払っても何とかして解放されたいという欲望をもつようになるのです。もし地上のみなさんが自殺した者に慈悲深くあろうとするなら、その肉体を火葬にすべきで埋葬するべきではありません。

火葬は肉体の分子の速やかな分散をもたらし、霊魂はより速く肉体の牢獄(ろうごく)から解放されるわけですから。

自殺した霊魂は、肉体を離脱する準備ができていません。ちょうど未熟な果実のようなもので、まだその木から落ちるようになってはいないのです。ですから、自殺者はふつうの死者より長い期間、腐敗する肉体につきまとわれます。肉体と魂の連結のリンクが萎(しぼ)んで消え果てるまで、解放されることはないのです。

思わぬ事故や急病で突然に肉体が破壊されると、霊魂は急激な痛みを伴うショックを受けますが、少なくともゆっくり崩壊するときのような、緩慢(かんまん)な拷問にあうことはありません。ベネデットが経験した、長い長い苦悩を味わうことはないのです。

彼は、肉体がゆるやかに崩壊するまでの間、すべての痛みを感じて苦しまねばなりませんでした。ときには意識をなくしましたが、目覚めるたびに霊魂を束縛する肉体の力が少しずつ失われていくのがわかりました。

ベネデットの肉体が完全に崩壊すると、魂はようやく解放されましたが、それでも墓場の上を漂っていました。もはや肉体に閉じこめられてはいませんが、その場には繋がっていたからです。その繋がりも切れると、彼はやっと自由になり、地表の霊界にさまよい出てゆきました。

初めは、彼が見たり聞いたり感じたりする感覚の力は、とても小さなものでした。徐々にその力が回復し始めると、彼は周囲のことがわかるようになり、地上生活のときの情熱や欲望も戻ってきました。その欲望を満足させるための知識も戻ってきたのです。

彼は地上で送った放蕩生活のように、官能的な税楽を得て、悲しみと苦悩を忘れ去ろうとしましたが、無駄なことでした。過去の記憶のほうがそれ以上に彼を捕らえて苦しめたからです。彼の魂には復讐への激しい思いがありましたし、意識を集中すると、地上の彼女の元へ戻ることができたのです。

彼女は年を取っていましたが、それでもなお、何人かの取り巻きに囲まれていました。もちろん、ベネデットが引き受けた運命にもまったく無関心なままでした。その様子を見た彼は、自分がこの女性を愛したことによって、どれほど大きな苦悩を背負わされたかを思い、激怒したのです。

どうすれば彼女をいまの地位から引きずり降ろせるか、犠牲にした者たちの命や愛や名誉よりも大切にしているものを、彼女からはぎ取るにはどうしたらいいか、彼は取り憑(つ)かれたように考えました。

そして彼は、考えつくかぎりのことをやり遂げました。霊は人間が考えるよりずっと強い力をもっています。

彼女は、初めは富を失い、次に名誉を失い、ついには、人を破滅させても意に介さぬ卑劣(ひれつ)な女であることを世間に知られました。

こうして彼女を引きずり降ろし、その見せかけの美しい顔に隠された仮面を引き裂いているのが自分であることに、ベネデットは慰めを感じていたのです。

一方、彼女は、あまりに多くの不幸な出来事が続き、すべてが破滅に向かっていることが不思議でなりませんでした。まるで見えざる何者かの力が働き、彼女を逃れることのできない破滅に追いやっているように感じたのです。

そのとき彼女は、ベネデットが最後に残した脅迫の言葉を思い出していました。
「もしあなたが私を絶望の淵に追いやったら、あなたを道連れにしていっしょに地獄に堕ちてやる」、そう彼は言ったのです。

彼女はベネデットが自分を殺しにくるのではないかと恐れましたが、自殺したと聞いたとき、これですべては済んだと安心し、彼のことはすっかり忘れていたのです。

しかし、いまや彼女は、常に彼のことを考え、気にせずにはおられません。そして彼が墓場から出てきて、彼女のところに現れるのではないかという恐怖に脅えていました。事実、彼女の目には見えないだけで、ベネデットはそうしていたのですが。

そのうちに彼女にも、彼がつきまとっているのが、うっすらと感じられるようになりました。彼の気配は徐々に現実的になり、とうとうある日の夕方、たそがれの灰色の薄もやの中に、彼女はベネデットを見ることになったのです。

彼の恐ろしく燃えるような憎悪(ぞうお)のすべてが、脅すような目つきや顔つきに表れていました。そのショックは擦(す)り切れた彼女の神経にはあまりにも強すぎ、そのまま床に倒れて死んでしまいました。

いまや復讐は成ったのです。喜んでもいいはずなのに、やがてベネデットは猛烈な自己嫌悪に襲われました。
自分のなしたことが恐ろしくなったのです。彼はこのとき以来、嫉妬のあまり人殺しとなったカインの印が自分の額に刻まれたことを知りました。

初め彼は、彼女を殺害し、やがて彼女の霊魂が肉体から離脱したあかつきには、その霊魂を引っ張って行って永遠に苦しめ、責めてやろうと考えていました。しかし、いまや彼の唯一の願いは、自分自身から逃れること、なし遂げてしまった恐ろしい悪行から逃げることでした。


それは、この男の内にある善良な性質がすべて死に耐えたわけではないからです。そして、公爵夫人を死に追いやったときのショックで、復讐というものの真の正体に目覚めたからです。

「その後彼は、地表の霊界から逃れ下へ下へと堕ちてきて、彼のような者に似つかわしいこの地獄の都まで堕ちてきたわけです。もう十年以上、彼はここで過ごしています。私は以前、この場所で彼を見つけました」

律儀な友はこう言うと、さらに言葉を続けました。

「今回ここへ来たのは、こうして後悔している男に対して、どうすれば自分の悪行を償うことができるか教えてあげるためです。いま彼は、あれほど愛し、かつ憎んだあの女が来るのを待っています。

彼女に会って、まず自分を赦(ゆる)してもらい、それから彼女を赦すためです。彼女もその人生が罪深いものでしたから、やはりこの領域に堕ちてきています。彼は彼女との逢瀬(おうせ)に使用したこの橋で、彼女の来るのを待っているのです」

「それで、彼女はまもなくやって来るのでしょうか?」
「はい、すぐにやって来ます。そしてそのとき、この場所における彼の滞在も終わるでしょう。彼は、より高い領域へ自由に行けるのです」

「彼女もまた、彼といっしょにここを去ることになるのでしょうか?」

「いや、そうはなりません。彼女も進歩するために助けを得るでしょうが、彼らの道は全然異なるものとなるはずです。彼らの間には真の(霊的ないし魂の)共通性はありませんから、ここで別れればもう会うことはないでしょう」

私たちはベネデットに近づきました。

彼は、初めは私のことが誰かわからなかったようです。それで自己紹介をしてから、二人してより高い霊界へ行くことができて、そこで再会して、地上にいたときと同じように友として付き合えるならば、どれほどうれしいことでしょうかと言いました。

また、自分も罪深いもので、ずいぶん苦しみましたが、いまは人格を高めるために懸命に歩んでいるところなのだということを簡単に説明しました。

彼は私に会ってうれしかったようです。別れるときには私の手を、気持ちを込めて強く握りしめたからです。それから私たちは、彼を橋の上に残し立ち去りました。
            

(7)地獄の戦争、そして暗黒の王国との別れ

私たちはいま、広大でゆるやかに起伏する平原を前にしています。そこを見渡しますと、二つの強大な霊の軍隊が戦場にて対峙(たいじ)すべく集まり始めていました。

対峙している軍隊の前衛には、ミルトンのルシファーのモデルとなったかもしれないような堂々とした二人の霊がいます。彼らの姿には、ある種の美しさと荘厳さが漂っていて、墜落した地獄においてさえ王としての威厳を保っています。

二人が乗っている戦車を引いているのは、馬ではなく劣化した人間の霊です。
呪われた霊魂の叫び声のように音が轟(とどろ)き、雷鳴(らいめい)のような強大な雄叫びが沸き上がったかと思うやいなや、一挙に闘いの火蓋(ひぶた)が切って落とされました。

彼らは突進して相手にぶち当たり、空中に飛んだり、相手を地面に引きずったりしました。人間のようにではなく、悪鬼のように取っ組み合いながら戦うのです。二人の王が群衆をけしかけるたびに、戦いの形勢は右に左にと揺れ動きます。

すべてに抜きんでている二人の王は、いまや兵士たちが戦うだけでは満足できず、みずからの手で相手を殲滅(せんめつ)しようと考え始めていました。

そして二人の王は戦う軍勢の上に舞い上がり、激しい憎悪をあらわにしてお互いを見据えました。そして黒いガウンを羽のように背中に広げて空中を飛び回りながら、つかみ合い取っ組み合いをくり返し、覇権(はけん)をかけて猛烈な戦いを始めました。


この二つの霊はまったく言葉も叫び声も発しません。それでも絶対に相手を放すまいと必死につかみ合いながら、この死闘に臨んでいました。

そして、ついに一方が負けそうになりました。一方が相手の力のもとに沈み込むと、押さえつけたほうは相手をそのまま運んで行きました。戦場の周囲に広がっている岩山の割れ目には深淵(しんえん)が口をあけていて、そこに敵の王を放り込んでやろうというのです。

目的の場所に着くと、上にいる王は身をよじってしがみつく敵から体を放し、負けたほうをこの恐ろしい深淵に投げ入れてしまいました。

その様子に身震いしながら、再び戦場のほうに目を向けますと、そこではこの死闘の結果を知らない兵士たちがまだ激しい戦いを続けていました。

しかし、じきに勝利した王の軍隊は、敗北した王の軍勢をうち負かしてしまいました。負けたほうの兵士たちは、負傷して動けなくなった仲間を戦場に残して、あらゆる方向に散っていきました。

あまりの残忍さに気持ちが悪くなり、嫌気がして、この場所を去りたくなりました。そのとき、律儀な友が私の肩に触れてこう言ったのです。

「さあ、いまからが私たちの仕事の時間です。あそこに降りて行って、誰か助ける者がいないか探してみましょう。負かされたほうには、こんなことをくり返すのが嫌になっている者もいるでしょうから。私たちの助けを喜んで受け入れるでしょう」

先ほどまで戦場だったところを見てまわりますと、たしかにそこには、打ちのめされ傷ついたまま、とり残された兵士たちがいました。

身悶(みもだ)えしながらうめいている兵士たちの中に立った私は、その数のものすごさに、どこの誰から助けたらよいかわからないほどでした。
積もった落ち葉のように横たわっている者たちを見ていると、私の心はひどく痛んで悲しくなったものでした。

地上でならば、少なくとも苦悩をやわらげてくれる死の静寂と眠りは与えられますし、まだ生きている者には、これから人生をやりなおす希望もあります。

しかし、ここでは、この恐ろしい地獄では、苦しむ者たちを解放するどんな必死も、どんな希望も決して訪れることはありません。絶望的な状態に光をもたらす夜明けがやって来ることはないのです。

彼らに残されているのは、ただこの恐ろしい戦いと苦痛をくり返す生活だけなのです。私は身をかがめ、足元でうめいていた哀れな霊の頭をもちあげようとしました。
その霊体はほとんど形のないほどに粉砕(ふんさい)されていました。私が彼を起こそうとすると、あの神秘的な声が耳の中で響きました。

「地獄にさえ希望はあるのである。でなければ汝は何のためにここに来たのか? 夜明け前は、もっとも暗いのである。そして、このうち負かされた者たちに変化の時が訪れたのである。

彼らが、このようにうち倒され踏みつけられる原因となったものが、今度はこの者たちを引き上げることになるのである。
善に対する憧憬(しょうけい)、および悪から遠ざかりたいと願う心が、彼らを邪悪な業の前で弱くしたのである。

その結果、彼らは負かされた邪悪な権力は失ったが、そのことでより高次の世界へのドアが開かれることになったのである。

だから彼らのために嘆(なげ)くことはやめ、彼らの苦痛をやわらげるように努めよ。そうすれば、彼らは、この領域での死を得ることができ、次に目覚めるときは新しい命をもって、より高次の領域に目覚めることになるであろう」

「それでは、あの暗い深淵に投げ込まれた強大な霊はどうなるのでしょうか?」
彼もまた時が来れば助けられる。しかし、彼の魂はまだその助けを受けるほど十分には成長していない。そのときまでは何をしても無駄である」

こう言ってから声は消えていきました。

横に控えていた規律な友が、疲れた者たちをどのようになだめることができるかを示してくれました。それから、地獄の平原の上にたくさん集まっている星のような光を指して、我々の同胞団の者たちによって灯されたものだと言いました。

私たちと同じように、愛と慈悲の使命をもってこの場所に下ってきた仲間たちが照らす星明りの中で、私と規律な友は懸命に兵士たちを救助したのです。

しばらくすると、無意識の眠りに落ち、静かに横たわっていた兵士たちの上方に、おぼろげな霧が漂い始めました。霧は、しだいに形を取り始め、固くなり、ついには解放された霊魂の形態をとりました。

それから一人ひとり、上方に集まっていた明るく精妙(せいみょう)な霊人たちの腕に抱かれ、救済の待つ上の世界へと連れて行かれました。見上げるうちに最後の一人も連れて行かれ、ここでの仕事も終了したのでした。


5章 さらに輝く国へと新たな旅が続く

(1)探索隊の記録DVDを見る

「あかつきの国」への途上、私たち最下層への探索隊は、「希望の同胞団(どうほうだん)」の正式な歓迎を受け、名誉を讃える祝宴に参加しました。祝宴に参加する前、小さな部屋に入ると新しいガウンが私を持っていました。

それは白に近い灰色で、黄金色の帯と同胞団の紋章がついています。霊界では服の色で進歩の度合いがわかります。

以前より明るい色の服が大変気に入りました。さっそく着替えて大広間に入ると、私の父と探索隊の友人たちが待ってくれています。お互いに熱烈な挨拶を交わし合い、晩餐会(ばんさんかい)を楽しみました。

全員で広間の末席のほうに集まり、何が始めるのか期待して待っていますと、やわらかな響きのメロディが風に乗って流れてきました。

カーテンが滑るように左右に開き、磨かれた黒い大理石の大きな鏡が現われました。静かに明かりが消えて周囲が暗くなり、黒く磨かれた巨大な鏡の表面だけが見えるようになりました。

そこには探索隊のメンバーが映し出されていて、周囲の光景もしだいにはっきり見えてきました。それは、私たちがいましがた去ってきた地獄の光景でした。

目の前に映し出されるドラマを見ているうちに、自分がいまどこにいるのかも忘れてしまい、再び暗い地獄のどん底を放浪しているような感覚になりました。

映像は次から次へと変わっていきます。各グループのメンバーそれぞれの経験が、順番に映し出されました。

最後の光景は、探索隊全員が岩の上に集合して、司令官の別れの講話を聞いている場面でした。眼下に広大な地獄のパノラマが見えるところで、司令官が厳かな調子で語った言葉の一部をご紹介しましょう。

「いま我々が見ている光景は、この大いなる領域、人々が地獄と称する領域の小さな、まことに小さな部分でしかない。大量の罪深い魂を吸い込んでいるこの広大な領域には、それぞれの霊のレベルに応じた数多くの住居と都市が形成されているのである。

しかも、まったく同じ場所は二つとないのである。したがって、ある領域を描写する場合、君らは自分で見て来た場所を表現することはできるが、同じ領域でも他の場所を見てきた者は異なった報告をするであろう。

ところが、何事にも限られた見方しかしない人々は、同じ領域のことなのに、内容が異なるのはおかしい、その報告はまちがっていると言うであろう。

彼らはローマもミラノもヴェニスも、それぞれ異なった都市だが、どれもイタリアに存在する都市であることを忘れている。地球上には人口も民族性も異なる都市が数多くあるが、人間が住む場所であるという点では共通しているのである。

私は君たちに、これまでの探索で見たきた、いかに不幸な者たちにも、人間の胚珠(はいしゅ)が存在していることを注目してもらいたのである。君たちが学んだように、どんなに魂の修業の時間が長くなるとも、すべての者に奪うことのできない希望が与えられている。

どんな者にも必ず、最後には覚醒(かくせい)の時が訪れるのである。振り子が片方に揺れて、いちばん高い地点まで到達すると、今度は戻ってきて反対側の同じ高さに至るように、もっとも低い深みに落ちた者も、やがては上昇するようになるのである。

死んだ後でさえ、地獄の門の内部においてさえ、すべての者には慈悲(じひ)と赦(ゆる)しが備えられているし、希望と愛が確保されている。

また、人の中の不死の精髄は、そのわずか一粒でさえ失われることはないし、(何千年・何万年もの歳月を腐敗生活に明け暮れても無限の時間の中で)永遠に悲惨な状況に置かれることもない。

君たちが地表の霊界に戻るときは、この探索で学んだ真理を公表することを願う。すべての人が希望をもつことができるように、さらにはまだ間に合うのであるから、地上人たちが自分の道を注意深く進もうという意識をもつことができるよう、啓蒙(けいもう)に努力することを願うものである。

地上にいるときに自分の過ちを正すことのほうが、死んだ後よりずっと(何十倍も)やさしいのである」

鏡の中のドラマに応じて音楽は変化しました。悲しい旋律になったり、勝利や休息を現わす旋律になったり、激しい旋律になったりします。そして最後の光景になると、とても優雅で甘い、しかし悲しげな旋律になり消えていきました。

音楽が止むと、すべての映像は終わり、黒い鏡にカーテンが引かれました。私たちはほっとため息をついて、あの暗黒の国を探索する旅がこれで終了したことを実感し、お互いにおめでとうと言葉をかけ合いました。

私は同席していた父に、この音響効果がどのようにできているのか、幻想なのか、とたずねてみました。

「息子よ、いま見たものは科学的な知識の応用だよ。それ以外の何物でもない。この鏡は、薄い金属でできた薄片の束から送られてくる情報を映像として受け取り、映し出すように調整されている。この金属の薄片はとても高感度にできていて、何というかレコードプレーヤー(あなたが地上で見たような)が音波を受け止め保存するように、映像を受け取り保存することができるのだよ。

あなたがあの領域を放浪していたとき、この装置と磁気的に交信するようになっていたのさ。それぞれの冒険の様子は、この薄片の一つに送られていたんだよ。

また各自の感情のありさまは、音楽と文学の領域に通じる音波をつくりだし、同じ音調で振動するのだよ。あなたはこの霊界では、地上人たちがまだ知らない多くのものを見ることができるだろう。

ここでの発明されたものの多くは、時が経てば地上に送られ発明物となって現われる。さてと、あなたはシュロの枝を受け取ることになっているはずだ。あなたたち勝利した者たちに褒美(ほうび)として贈られるのだよ」

このとき広間の大きな扉が開いて、前と同じように我々の大師が入場してきました。大師が天蓋(てんがい)の下の席に座ると、我々一人ひとりは彼の前に召喚され、シェロの枝を受け取り、それが終了すると、歓喜に満ちた聖歌が全員で歌われました。
          

(2)「悔い改めの国」へ

探索から帰った私は、長い休息をとった後、再び地表の霊界での仕事に戻りました。しかし、そのうちにより高く進歩したいという欲求を感じるようになったのです。

ああ、肉体から分離した瞬間に、人の性格や欲望が変貌してしまうと考えるのは、死の向こうにあるもう一つの世界についてあまりにも無知だからです。そしてまた、地上生活でつちかってきた考え方を変えるのがどんなに大変で、霊界に行ってからも長いことつきまとうものかをあまりに理解していないからです。

実際、霊界に来てからの私の性格は、地上にいたときとほとんど同じでした。(霊的に)まちがった考えや(霊的に)偏見に満ちていたので、それを正すために多くのことを学ばねばなりませんでした。

それでもなお、地上の人生で疑うことや不信することを覚えてしまった私は、その習性を簡単に捨てることはできなかったのです。

はっきり言いましょう。あれほどの愛の証があるにもかかわらず、彼女がいつか私から離れてしまうのではないか、地上の男と結ばれてしまうのではないかといった疑念を、捨て去ることができなかったのです。

このことに気づいて私が自虐的になっていたとき、アーリンジマン師が会いに来てくれました。彼は、こんな話をしてくれました。

「この近くに、悔い改めの国と呼ばれるところがある。そこへ行けばきっと得ることが多くあるはずだ。しかしそこでは、自分の過去の過ちがすべてあからさまに示されるし、より高度の知性の目で見ると、その行為がどのようなものだったか知ることになるので、苦痛と悲しみに満ちたものとなろう。

地上からやってきた者たちが、自分の行為の“真の動機”を理解していることはほとんどない。多くの場合は何年も、ときには何世紀もの時を経てようやく知るようになる。悔い改めの国には自分の生涯が映像として蓄えられていて、多くの失敗の原因が、霊的な大気に映し出される。

また、それぞれの生涯を形作る性向も示される。君のように強い心をもち勇気に満ちていれば、自分の魂を拘束している心の性向を見抜き、理解することにより、魂を改善し上昇することができるであろう」

私は、この言葉に応じて、「どこにあるのでしょう、そこに行きます」と答えました。

するとアーリンジマン師は、小さな部屋の窓からはるか向こうに見えていた丘の頂に私を連れて行き、そこからさらに遠くにある広い平地を横切って、その先の丘陵の向こう側にあるという不思議な国へと導いてくれました。

「この路程は長くかかるのでしょうか?」

「いや、長くはかからず短い期間となろう。地上の時間で二週間ないし三週間ほどである。見てみなさい。君がこの路程を早く終えて戻ってくるイメージが見える。霊界では時の流れは、日や週や時間で計られるのではなく、ある出来事が完結するのに要する長さで計られている。

たとえば、ある出来事が起こるとき、その投げかける影が地上にすでに到達したか、まだ距離があるかどうかで、それがすぐに起こるか、あるいはまだ時間があるのかを計るのである。

我々は、地上の基準で計った時間とできるだけ近くなるように、霊界での時の流れも見ようとするのだが、我々のなかのもっとも賢い者でさえ、これを常に正しくは行なえないのである。

このことはまた、地上の人々と交信するとき、予知する出来事の正確な日時をあえて教えないこととも関係している」

私はアーリンジマン師のアドバイスに感謝して別れ、すぐにこの新しい放浪の旅に出発しました。遠くにかすんで見えた丘陵地帯をようやく越えると、眼前には砂漠が広がっていました。木も草も灌木(かんぼく)も、見渡すかぎり緑色のものは何もなく、水もありません。

私は巡礼者のような粗末な灰色の服に身を包んで、もの侘(わ)びしい砂漠を進み、向こうの丘陵まで続くように見える狭い道を進んで行きました。
歩くと熱い砂が私の足に火傷を負わせるので、一歩前へ進むものも辛くて大変でした。

それでもゆっくり進むと、目の前には私の過去に関する映像が現われました。

映像は、地上の旅人が砂漠で見る蜃気楼(しんきろう)みたいに空中に浮き上がって見えました。映像の場面は次から次へと現われては消え去りました。そこには、私が地上の人生で出会い、知り合った人たちが出来てきました。私が彼らに、どんな打撃より強く鋭く堪(た)えがたい、冷酷な言葉をぶつけている場面も示されました。

私は、こうして周囲の人々を傷つけてきたのです。過去の私の何千というくだらない考えや利己的な行動、あるいは長いこと気にも留めず忘れていたこと、正当化していたことがすべて、私の目の前に現われました。

私は圧倒され、ついに泣き出してしまいました。自分の誇りを投げ出し、塵(ちり)の中に頭を垂れ、恥と悲しみの混じった苦い涙を流したのです。

その涙が熱い砂の上に落ちると、小さな花が星のように現われました。

どの花もみな小さくてやわらかく、その中には一滴の露がありました。こうして私が流した涙は、うんざりするような砂漠の中に美しい花を咲かせ、小さなオアシスをつくったのです。

私は小さな花をいくつか摘み取り、記念として胸に飾りました。

そして、また前へと進んで行きました。
しばらく進むと、目の前を歩いている、小さな子供を抱いた一人の女が見えました。

その女の力では子供は重すぎるようで、子供のほうも不安と疲れから泣いていました。私は彼らのところへ急いで近寄り、その子を抱いてあげましょうと申し出しました。

母親はしばらく私の顔を見つめていましたが、やがてその子を私の胸に預けました。可哀想な子供は、私の腕の中ですぐ静かな眠りに落ちていきました。

この子は彼女の子でしたが、地上にいるとき彼女は、あまり愛情を感じなかったと言うのです。そして「本当は」と続けました。

「自分は子供など全然欲しくはなかったのです。子供などどうでもよかったのです。ですから、この子ができたとき、私はとてもとまどい、無視しようとしました。


しかも、大きくなってくるとやんちゃで厄介な子になったので、よく叩いたり暗い部屋に入れたりして黙らせました。
ですから私は、母としてはいつも厳しくやさしくなかったのです。そしてとうとう、この子は五歳のとき熱病で死んでしまいました。

しばらくして、今度は私も同じ熱病で死ぬことになりました。私が霊界に来ると、この子は私につきまとい始めました。

それで、この旅程を取るように指導されたわけです。この子とは離れられないことになっているので、抱いてきたのです」

「それで、この可哀想な坊やに、まだ愛情を感じないのですか?」

「ええ、まだです。愛することができるようになれたとはまだ言えません。たぶん誰か他のお母さんがするように、この子を愛することはできないでしょう。きっと私は、母親になってはいけない女の一人なのです。

母親としての本能に欠けるのでしょう。ただ、子供を愛することはないのですが、あの子にもう少しやさしくしてあげていたらと後悔しています。

子供の過ちを正して適切に育てるよう私を駆り立てるものは、義務感だと思っていましたが、本当は子育てが引き起こす苛立ちの正当化に過ぎなかったのです。

いまは、自分がまちがっていたこと、何がその原因だったのかを理解することができます。でも、この子にいっぱい愛情を感じているとはいえません」

「この子といっしょに、ずっと旅を続けるつもりですか?」

私はそう聞いてから、母から愛されなかったこの子を不憫(ふびん)に思い、キスをしますと、目頭が熱くなり、涙でその子がかすんで見えました。

そのとき私は、地上にいるあの方のことを思っていました。もし彼女がこのような子をもったなら、宝物として、どれほど大切に扱うだろうかと考えたからです。

私がキスをすると、その子は小さな手を私の首に巻き付け、半ば眠りから笑みを浮かべました。その様子に、母親のほうも何か感じるものがあったようで、彼女の顔に安らぎの色が現われ、いままでよりずっと感謝のこもった感じでこう言いました。

「きっとあと少しの間だけ、この子を連れていくことになると思います。その後は母が面倒を見ない子供たちがたくさん集められている、子供好きで世話好きな霊たちがいるところに、この子は連れていかれるでしょう」

「そうなれば、うれしいことです」と私は言いました。

それからしばらく、私と母子はいっしょにとぼとぼ歩き続け、水の溜まっている小さな岩場にたどり着いたところで、座って休みました。ほどなく私は眠りに落ち、気がついてみるとその母と子はいませんでした。

私は再び自分の道を進むことにしました。しばらくすると山の麓(ふもと)に着きました。この高い山は、人間の利己的な誇りや野望が築いたものです。

山を越える道は岩だらけの断崖絶壁の道で、越えていくのが無理ではと思えるほど険しいものでした。歩いているうちに、この山を築くのに、地上にいたときの自分がどれほど精力を注いだのかがわかってきました。

私は恥ずかしい思いで過去を見つめました。真の芸術という名の下に、私よりレベルが低いと思える人たちに躓(つまづ)きの石を仕掛けました。それを霊的に表象しているのが、このたくさんの大きな岩だったのです。

私は、自分にはかなり厳しいほうでした。友人たちの賞讃する声が耳に鳴り響いても、コンクールで最高の賞をとったとしても、つねに最高のレベルに到達せんと必死でした。

いくら努力しても決して満足しませんでした。私は、芸術分野では、自分こそ最高の地位を獲得することが許されている者だと、うぬぼれていたのです。

自分は天才であると思い込んでいた私の目から見れば、ほとんど子供程度の平凡な才能しかもたない、貧相な競争相手でしかありませんでした。

そんな彼らがいくら努力しても、大した意味はないと決めつけ、一切手を貸そうとはしませんでした。

そのときの私は、そういう人たちはちょうど種(たね)のようなもので、今生(こんじょう)では世の中の役に立つほど上達しそうになくても、偉大なる来世では素晴らしい芽を出して、完全な花を咲かせるようになることを知りませんでした。

ところがいま、私の傲慢(ごうまん)な姿を象徴するような高い岩山がそそり立っているのを目にして、私しにはいかに同情という気持ちが欠如していたかが理解できたのです。

私はひどく悲しくなり、激しい自責の念にかられ、私の助けを必要としている弱い者がいたら、いまからでもすぐに援助してあげようと思いたち、誰か近くにいないだろうかと見渡しました。

するとこの険しい道の前方に、岩山を登ろうとして疲れ切り、へとへとになっている若者を見つけました。

彼は、高貴な家柄や裕福な階級を手にする野望のために、大切な人々を犠牲にしてきたのです。彼は岩の飛び出している部分を乗り越えようとしていましたが、すっかり消耗して落ちそうになっていました。

私は彼に向かって声をかけ、すぐ助けに行きました。少し苦労しましたが、彼を引き上げることができました。

私たちが頂上に着き休もうと座ったとき、途中で躓(つまづ)き、鋭い石で体中にひっかき傷ができているのに気がつきました。と同時に、彼といっしょに登ろうと興奮していた私の心から、利己的で傲慢な思いが消え去っていることがわかりました。


どんな才能も、それよりさらに進歩した人物から見れば、小さく些細な存在に過ぎないからです。私は、こうしたことを考えながら長い間山の上にいました。私の助けたあの若者は、すでに私を残して先に降りて行きました。

     
(3)「安息の家」へ

山を降りると、壊れた橋がかけられている峡谷をゆっくり進み、大きな門のあるところにたどり着きました。そこでは多くの霊たちが、さまざまな方法で門を開けて中に入ろうとしていました。


その門は一枚の鉄でできていて、表面はなめらかそうですが、実際はかなり固そうでした。それを登ることも打ち破ることもむずかしそうでした。しかも、扉はしっかりと閉められています。

門の前に立って絶望的になり、ひどく泣いている哀れな女を見たとき、私はさてどうしたものかと迷いました。彼女は、だいぶ前からそこにいて、門を開けようとしたけれどもうまくいかなかったようです。

私は、この女を慰めようとあらゆる努力をし、またあらゆる方法で希望を与えようとしました。
そうするうちに、あれほど固く閉ざしているかに見えた扉がなぜか消え去ってしまい、私たちはそこを通り抜けることができたのです。

すぐに、扉は私の背後で元に戻ってしまいました。その間に、女も消え去ってしまったのです。私が門のことで不思議がっていますと、声が響いてきました。

「あの門は親切な思いと行為の門である。あの門の向こう側にいる者たちは、他に対する親切な思いが、あの扉を押し開けるほど高まるまで待たねばならないのである」

はっとして橋のたもとを見ると、弱々しい老人が体を二つに折り曲げるようにして、立っています。老人は、杖をもってあちこちつつきながら、自分の行く道を探していますが、どうしても見つからずにうめいていました。

私は、老人が橋の壊れた部分が見えずに、そこから落ちてしまうのではないかと心配でたまらなくなりました。

思わず走り寄ると、「無事にそこを渡れるように助けてあげましょう」と申し出ていました。ところが、彼は頭を振りました。

「いやいや、お若いの、橋はまるっきり腐っておるんじゃから、二人の重さには耐えられんのじゃ。構わんで行きなされ、わしは一人で何とかやるから」

「いや、だめです。あなたは弱々しくお年も召されていて、私の爺さまみたいなので、放っておけないのです」

彼がそれ以上何か言う前に、私は彼の手を取って、背中におぶって橋を渡り始めました。驚いたのは、この老人の体重です。シンドバットの老人も問題にならないほどです。私は手でその重たい老人を支えながら、きしむ橋を四つん這(ば)いになって懸命に進み、ようやく真ん中あたりにたどり着きました。

ところが、そこはいちばん危険な場所で、大きな穴が空いていて、二つの折れかかった橋桁(はしげた)をつかむしかありませんでした。そのとき、私の中に、彼を置いて行ったほうがいいのでは? という思いが浮かびました。

それを読んだように、「結局お主は、わしを置いて行ったほうがいいのじゃよ。ここを通過することができるとも思えんし、これ以上わしを助けようとしたら、お主自身のチャンスもなくしてしまうぞ。わしを置いて一人で行きなされ」と老人が言うのです。

けれどそう言いながらも、彼はひどく落胆していて、悲愴(ひそう)な感じさえありました。そんな人を置いてゆくことなど私にはとうていできません。どんな危険を冒してでも、二人でいっしょに渡ろうと考え直しました。

しっかりつかまっているように背中の老人に告げてから、壊れかけた橋桁を片方の手でつかみ、思い切って飛ぶと、向こう側にうまい具合に届きました。

ほっとして振り返った私は、思わず驚きの声を上げてしまいました。この橋には壊れた部分などまったくなかったのです。

しかも私の横にはあの弱々しい老人ではなくアーリンジマン師が立っていて、驚いている私を見ながら笑っているではありませんか。

「フランチェッツォ、これはあの重そうな老人を引き受けるだけ、君が他者を愛することができるかを見る小さなテストだったのである。君はこれから、これまで心に抱いてきた疑念や猜疑心(さいぎしん)を正しく分析し、判断しなければならない。さらばじゃ成功を祈る」

私は、いま眼前に迫る、もう一つの深い谷に向かいました。二つの険しい山の間にあるその谷は、「幽霊の谷」と呼ばれていました。

灰色の蒸気の渦が、丘の斜面を這うようにあちこちに漂っていて、幽霊のような神秘的な形になり、私が歩くとまとわりつきます。

さらに峡谷を通って進んで行くと、この霧の幽霊がますます厚くなりはっきりしてきて、まるで生きているような感じがしてきました。

じつは、これは私の地上人生での下劣(げれつ)な想念――疑念、猜疑心(さいぎしん)、不親切な思いや淫(みだ)らな思いなど――がつくりだしたものだったのです。

私は善というものに信頼を置きませんでしたし、仲間も信頼してはいませんでした。

それは、私があまりに非常な仕方で裏切られたことがあるからですが、それ以来私は、どうせ人はみな嘘つきなんだ、弱い者たちや愚かな者たちだって信頼なんかできない、この世には悲嘆(ひたん)と失望しか見出すことはできない、そんなふうに思うようになっていました。

いまや私は、自分自身によってつくりだされ、成長してできた亡霊たちと戦うことになったのです。かくも恐ろしげで歪められた、嫌悪すべき面貌の妖怪度ども!

彼らは亡霊の群れとなって、黒い大きな波のように私を包み込み、圧倒し、窒息させようとしました。私は何とか自由になろうと身をよじり、うち負かそうと必死に戦いましたが無駄でした。

深く暗い裂け目が私の前に現われ、幽霊どもが追い立てるので、そこへ落ち込むことはもはや避けがたいように思えました。私は最後の力を振り絞って、狂ったようにもがき、彼らと取っ組み合いながら命懸けで戦いました。

しかし、大きさで勝る彼らは私を抑え込み、引きずりながらあの暗い裂け目に突き落とそうとします。私はついに悲痛な叫び声をあげて救援を求めながら、夢中で腕を投げ出しました。

そのとき、私の手が最善列にいた幽霊をつかんだので、そいつを裂け目にふるい落としました。すると強大な亡霊どもは動揺し始めて、風に吹き散らされるように消散してしまったのです。

私は力尽きて地面に崩れ落ちました。そして無意識のまま夢を見ていました。それは短いものでしたが、とても美しい夢でした。

あの方が私のところへ来て、私の下劣な想念を追い払い、母が子供にするように私の頭を胸に抱いてくれたのです。そのとき私は、本当にあの方が私を腕に抱いて守ってくれていると感じていました。

目覚めてみると、まだあの谷にいましたが、幽霊たちは消え去っていました。

目の前にはのどかに流れる川があって、その清らかな透明の水が草地を潤(うるお)しています。起き上がり、その川筋をたどると、木立の向こうに湖が見えてきました。

湖の中ほどには美しい泉があって、そこでは水煙がダイヤモンドのシャワーのように吹き上がり、透明な水面に舞い散っていました。

私が泉に近づくと、縁の薄物を身にまとい、睡蓮(すいれん)の花の冠を頭にした一人の妖精(ようせい)がそばに寄ってきたのです。

彼女は、この泉を守る妖精でした。彼女の努めは、私のような疲れた放浪者を助け、疲れを癒(いや)すことでした。

「地上にいたときは森に住んでいました。そして、ここ霊界で私はとても好きな森に囲まれた場所に住処を見つけたのです」

こう言いながら、彼女は私に食物と飲み物をくれました。そこでしばらく休んでいると、木々の間に道があり、その道は「休息の家」という場所に通じていると教えられました。

感謝の思いを込めてこの妖精にありがとうと言ってからその道をたどりますと、まもなくスイカズラの蔦(つた)でおおわれた大きな建物の前に着きました。

大きな鉄でできた門があり、私が行くとまるで魔法のようにその門が開きました。中に入ると、白い服に身を包んだ霊人たちが出てきて、私を美しい部屋に案内してくれ、そこで休息を取るように言われました。窓からは緑したたる芝生や美しい木々を見ることができ、とても心安らぐ部屋でした。

休息から目覚めると、私は多くの霊人たちがいる明るい部屋に案内されました。砂漠で会った、子供をおぶった婦人もいるのを見つけて、とてもうれしくなりました。

彼女は、以前よりずっとやさしい感じで子供に向かって微笑(ほほえ)んでいて、私を見つけると、あのとき私が助けたことを感謝してくれました。

やがて会食が始まり、霊界の果物やケーキ、シャンペンなど、たくさんの食事が与えられました。すっかり元気を回復した私は、神の慈悲に深く感謝したのです。


(4)敵を赦すという課題

巡礼行きから戻った私は、「あかつきの国」にとどまるようにはなっていませんでした。私の住処はいまは、「朝の国」の領域にあります。そこへは友人たちに付き添われて行きました。

ここ「朝の国」で私は、小さな家をもてることを知りました。二部屋だけのじつに簡素な家ですが、とても大切なものとなりました。緑の丘が小屋の周囲をめぐり、前方には黄金色の牧草地帯が広がる、本当に平和な場所でした。ただ、家のまわりには木も灌木もありませんし、花もありません。

私の努力がまだ花を咲かせるところまで至っていないからです。

それでも玄関には甘いスイカズラの蔦がからまり、その愛らしい香りを部屋中に漂わせています。これは、あの方から私への贈り物で、彼女の変わらぬ愛と真実をよい香りにのせてささやいてくれています。

青く晴れ渡った空からは美しい光が差し込んできましたが、私の目はその光を飽きることなく見つめていました。やわらかな緑の草や甘い香りのするスイカズラも、長いこと暗い場所で放浪していた私には、とても新鮮に感じられ、こみあげる感謝で私の心はいっぱいでした。

愛い満ちた声が聞えてきてそちらを向くと、私の父が来ていました。

何という歓びでしょう! 何という幸福でしょう! 父は、私は地上へ連れて行って、あの方に私の家のビジョンを見せてくれたのです。

何と感謝すべきでしょう! 現在の私の家は、さらに立派なものになっていますが、「朝の国」で初めて自分の家が与えられたときに感じた幸福に勝るものはありません。

霊界でも地上と同様に時間は過ぎていきますし、それにともなって新しい変化や進歩ももたらされます。そこには私の学ぶべきことがたくさんありましたが、その一つでも本当に自分のものにするのは大変難しいことでした。

たとえば、敵を完全に赦すという課題です。それはただ敵を赦すだけでなく、もはや相手を傷つけようとする思いは一切もたず、かえって彼らに善を施してやりたいという気持ちにならねばなりません。

復讐の思いを克服すること、自分をひどく傷つけた者に何か罰が与えられることを願う心を克服することは、私には大変むずかしいことでした。
ましてや、そういう相手に心から善を施すことは、同じくらい、いやもっとむずかしいことでした。

再び地表の霊界で働いていたある日、私はかの憎しみを感じ、復讐を考えた人物のところへ行ってみました。彼の傍らに立つと、二人の間の憎しみはなくなっていないことに気づきました。

すると私たちの生涯の出来事が映像となって次から次へと見えてきたのです。燃えるような憎悪が、夏空をおおう嵐の雲のように映像をかすめさせますが、私は霊的な明るい光に照らされて、自分の過ちがどこにあったかを、相手の過ち以上に、はっきりと見ることができました。

それからしばらくして、再びこの人物の横に立つと、今度は新しい感情が湧(わ)いてくるのを感じました。それは、この人物に対する哀れみの気持ちでした。彼も魂の中では、追いつめられていることを知ったのです。

私との過去を思って、彼もまた後悔の念に駆られていたのです。彼の心に変化が生じ、私に対して以前とは違う気持ちをもつようになったようでした。

二人の間に、これまでになかったやわらかい思いが醸され、自分の怒りを克服する努力が実り始めているのを感じました。憎しみによってできた固い壁が溶けだしたころ、彼を助け、益を与えられる機会が訪れました。私はこの機会を捉え、彼に対する復讐の思いをやっと克服することができたのです。

彼は私の存在にも、私が助けたことにも気づいてはいません。しかし、どういうわけか二人の間の憎しみがなくなってしまったことは感じていました。

こうして生まれた赦しの思いが、二人を長いこと結びつけていたリンクを切断したのです。彼が地上にいる間は、私たちが交わることはもうありません。

しかし、彼の地上人生が終わるとき、私たちの霊魂は相手から赦しを得るために、再び出会うようになります。

そのときまで私たちのリンクが完全に切断されることはありませんが、そこで憎しみのリンクが完全に切断されれば、その後はそれぞれの霊界に向かっていきます。愛と憎しみが魂に及ぼす影響こそ、かぎりなく甚大で永続するものであり、地上の生涯が終わった後もずっと長いことつきまとうのです。

(5)輝く「日の国」へ

私は、空に浮かぶ雲が流れて、さまざまな形になるのを眺めるのが好きでしたが、ようやく入ることのできた霊界の第二領域で、久し振りにその楽しみを思い出しました。ここでは、空にはいつもふわふわした雲が流れていて、ときには虹色になったり、まばゆい白色になったりして美しく輝いています。

友人たちから、彼らの見る空はただ美しく晴れあがるばかりで、雲は全然見えないと聞きました。たしかに彼らの国ではそうなのです。

霊界では、私たちの想念や願いが環境をつくりだします。
私は雲を見るのが好きなので、私の見る空には雲があるのです。その雲は、ときには雲のお城をつくってくれて、私を楽しませてくれることもあります。

「朝の国」で小さな家をもった後、しばらくしてからその雲の間に、あるヴィジョンが現われるのを見ました。

それはとても美しい黄金の門のヴィジョンで、どこか素晴らしい国の入り口のように見え、地平線の上にはっきりと浮かんでいました。

ある日、また空に現われた門のヴィジョンを見つめていますと、父が知らない間に近づいてきて、そばに立ち、私の肩に触れながら、こう言いました。

「フランチェッツォ、あの門はこの領域にある最高のサークルの入り口だ。そして、あの入り口の中で新しい家が、あなたのことを待っているのだよ。さあ、いま行ってあの新しい国が気に入るかどうか見て来るがよい。

私は、あなたも知っているように第三領域に住んでいる。そこは、あなたが行く新しいサークルのもう一段階上のところなのだ。
あなたが近くに来てくれれば、私も訪ねやすくなるのだが。あなたが新しい家に移れば、いつでも会えるようになるだろう」

あこがれをこめて見上げていたあの門を、そんなに早くくぐれるようになると、思いもよらないことでした。私は、父の勤めに従って、それまで住んだ小さな家に、後ろ髪を引かれながらもお別れをしました。

長くいると、どこであれその場所になついてしまうからです。
そして、新しい国へ出立ちました。黄金の門は消えてしまうこともなく、前方でずっと輝いていました。

霊界は、惑星である地球と違って表面が丸くないので、地平線にある物が見えなくなることはありませんし、地と空が最後に出会うようなこともありません。そのかわり、空は頭上にかかる大きな天蓋としてあり、一段階上のサークルは、地平線にある山々の頂にかかる高原のように見えます。

山の頂に到達すると目の前に新しい国が広がり、そこにはさらに新しい地平線と山があります。これが果てしなく続いていくのです。

新しい国に移ってくると、その前にいた場所は下に見えることになります。高台の連続したものがずっと下まである、といえばいいでしょうか。大地の美しさは下にいくほど減少し、最後には地表の霊界(暗黒)が地球を取り囲んでいるのが見えます。

霊界のサークルは別のサークルに、領域は別の領域に溶け込んでいますが、それらの間に磁気バリアーが存在します。

これは、前にも言いましたが、まだ準備ができていない者たちが下の領域から上の領域に侵入しようとするのを、彼らの時が来るまで押し返すためにあるのです。新しい国への旅を続ける私は、ようやく最後の山脈の頂に到達しました。

すると眼前には、美しい「日の国」が広がっているのが見えました。

足元には輝く川が流れ、その向こうにあの黄金の門がありました。湧き上がる歓びを抑えきれず、私は目の前にある美しい川に飛び込んで泳ぎました。

着ている服のことは全然気にしませんでしたが、向こう岸についてから見てみますと、私の灰色の服は消え、かわりに、縁取りのある白い黄金の帯をしめた姿になっていたのです。

私は自分の姿が信じられず、何度も何度も眺めてみました。ちなみに、白は霊界では純潔と幸福を象徴しますが、黒はその逆を象徴します。

私は、感動に震えながらあの美しい門に近づきました。
軽く触れただけでその門が開いたので、たくさんの木が植えられている広い通りに入りました。

そこには花を咲かせる灌木、美しい色合いの植物などが、地上の花よりもずっと愛らしく、薫(かお)り高く咲いていて、言葉では伝えられないほどの美しさです。

私が進んでいくと、熱烈に歓迎してくれるように木々の枝が揺れ、私の上にかぶさりました。私の好きな花々も、挨拶でもするように私のほうを振り向きます。

頭上には澄み切った美しい空が輝き、光が木々の間から差し込んでいます。それは、地上の日光とはまるで違った感じでした。広い道を進んでいくと、父、母、兄弟たちが青春時代の愛する友人たちといっしょにいるのが見えました。

彼らはイタリアの色である赤と白と緑色のスカーフを振りながら、私が進む道の前にたくさんの美しい花をまいてくれました。

また、この国の美しい歌を歌ってくれて、その歌声がやさしいそよ風に乗って流れてきました。私は、あまりの感激に圧倒されそうでした。私のような者には、それは過ぎた、身に余る恵みだったのです。

そして私の思いは、そんな華やかな光景から地上に向けられました。

「ああ、この勝利の歓びの瞬間をともにするこの場所にあの方がいないとは。いまの私の勝利は何物にもまして彼女の愛に負っているのに」

私がこう思うや否や、突然彼女の霊を横に感じました。
彼女は半ば眠り、半ば起きているような状態で、彼女の守護霊に抱かれてやってきたのです。着ているものは霊界のもので花嫁衣装のように白く、水滴のようにきらめく宝石で輝いていました。

私は向き直り、彼女を胸に抱きとめ触れてみますと、彼女は目覚めて微笑みながら私を見つめました。

友人たちに彼女のことを婚約者として紹介しますと、彼女はにっこりと微笑んでいましたが、私がもう一度彼女を自分の腕に抱くと、疲れた子供のように眠りに落ちていってしまいました。

彼女はその肉体を出て私の歓びの瞬間を祝い、ともに分かち合うために、ほんのわずかな間ですが私の元に来てくれたのです。
霊界のこの領域まで来るのは、どれほど大変だったことでしょう! 
守護霊は疲れた彼女を抱き上げ、再び地上の肉体にまで運んで行きました。

愛するあの方が去ってしまい、寂しさを覚えた私のまわりに、友人たちが集まってやさしく包んでくれました。

それから、子供のとき以来見たことのなかった母は、私の髪をなでながら、まるで私がいまだに小さな子供であるように顔中にキスをしてくれました。

この母は、ずっと前に私を地上に残して死んでしまいましたので、私の母に関する記憶は、ぼんやりしたものでした。それでも父が母親の役割も努めてくれましたので、私の母の思い出はそんな父を通して残っていました。

彼らはみんなで、私を素晴らしい館に案内してくれました。
館の壁や、回廊の白くて細い柱には薔薇(ばら)とジャスミンがからまっていました。何と美しい家なのでしょう! 

家の中には広い部屋が七つもあり、それぞれの部屋は私の性格のある面を象徴していました。すべてが私にはもったいないほど贅沢(ぜいたく)なものでした。

この家は、湖を見下ろす丘の上に建っています。湖の水は静かなさざなみをたてさまざまな色の服に身を包んだ幸福そうな霊人たちがボートに乗って楽しんでいます。

湖の向こうには、美しい青と紫の丘や広い谷が見えました。私は新しい家の中から、私がこれまで通過してきた低級領域と、そのサークルのパノラマを見てみました。遠くかすかに地表の霊界が見え、さらにその下には地球そのものも見えます。

あの地球には愛するあの方がいまなお住んでいるし、私の霊界での仕事場でもあります。私は何回も感慨(かんがい)をこめて、その地球を眺めたものでした。

     
(6)新しい同居人

はるか遠くにある地球を見ることができるのは、音楽の部屋からです。その部屋にはさまざまな楽器が用意され、いつでも好きなときに演奏することができます。

また、あの暗黒の日々に集めた宝物、彼女の絵や薔薇の花や手紙もこの部屋にあります。やわらかく愛らしい霊の花でいっぱいの、香しい部屋でした。

その隣は美術の部屋で、美しい絵画と愛らしい彫刻がたくさんあり、熱帯植物でいっぱいの温室のようでした。

この部屋の窓からは、音楽の部屋とは違ったものが見えます。
それは、私がいまいる場所より、もっと高次の国々の景色です。明るいもやを通して塔や山が輝き、それらは紅色から金色、青色、白色などへと変化して見えます。

別の広間は友人たちの娯楽用にとってあります。ここにはテーブルがあり、簡単なものですが美味しいごちそうが準備されています。

果物、ケーキ類、その他にも地上の食べ物に似ていますが少し物質性に欠けるもの、それに以前お話ししたあの美味しい霊界のシャンパンもあります。

さらに別の部屋は、私の生涯を記録したものや私が愛した人物の記録を書いた本や、さまざまなテーマの本で埋まっています。

変わった点といえば、文字が印刷されているかわりに絵がふんだんに使われていて、読むと著者の思想が言葉で理解するよりもずっと簡単に理解できるようになっています。

歓迎の祝宴の後、父と母だけが残り、私を二階の部屋に連れていきました。二階には三部屋あり、そのうち二部屋はここに来て滞在する友人たちのためのもので、もう一つの部屋が私自身の休息用の部屋でした。

その私の部屋に入ったとき、何よりも私の気をひき、かつてないほど驚かされたのは、そこにある寝椅子(いす)でした。

雪のような白い薄物でおおわれ、薄紫色と金色で縁取りされています。椅子の脚にはたったいま天界から降りてきたような二つの大きな天使像が、まぶしいくらい白いアラバスターで彫られていました。

私は父のほうに向き直り、これほど美しいものがなぜ私の部屋に置いてあるのか、また、天使たちがなぜ翼をもっているのかと聞きました。天使は、本当は体から生(は)える翼などもっていないと聞いていたからです。

「息子よ」と、父は話し始めました。
「この美しい像は、私とお母さんからの贈り物だよ。あなたが、あの天使たちの翼の陰で休んでくれたらと考えたのだよ。

つまり翼は、私とお母さんがいつもあなたを保護していることを目に見える形として表したものなのだ。それは天使界の象徴なのだよ。

男性天使は力と保護を表現し、女性天使は純潔と愛を表現している。一方だけでは完全にはならないのだ。

また彼らは、あなたの魂の双子の守護天使を表象していて、翼が広げられているのは霊的にあなたを守っていることを表しているのだよ」

この美しく、愛のこもった贈り物に、私が感激したのは言うまでもありません。正直に言いますと、この美しい家にいても孤独な思いに駆られることがあります。

私は自分の力でこの家を手に入れることができましたが、まだそれを分かち合える相手がいません。
誰にもまして私が必要とするパートナーは、いまだに地上にいますし、悲しいかな彼女が来るには、まだまだ多くの年月が必要です。律儀な友は私より上級の領域にある自分の家にいますし、ハイセンはさらにはるか上方にいます。

私は自分の素敵な部屋に座ってはため息をつき、「ああ、もし誰か話し相手がいたら、誰か同じような魂をもつ者がいれば、自分の心に留まっている思いをすっかりぶちまけることができるのだが」と思いました。

ですから律儀な友の訪問を受け、彼の示唆(しさ)を受けたことはとてもうれしいことでした。彼はこう言い始めました。

「私はこの領域のサークルに、たったいま来たばかりの友人のかわりに、あなたのところに来ました。彼はまだ自分の家をもっていません。


彼は自分よりもっと才能に恵まれた者といっしょに住みたいと願っています。そこで私は、きっとあなたなら彼の仲間になってくれるのではと考えたのです」

「そのとおりです。喜んであなたの友人に部屋を提供したいと思います」
律儀な友は笑って言いました。

「あなたもその人をきっと友人と呼びますよ。あなたも知っている人ですから。ベネデットですよ」

「ベネデット!」私は歓びで思わず叫び声を上げてしまいました。
「あー、それならますます歓迎しますとも。できるだけ早く連れてきてください」

「彼はもうここにいますよ。ドアの前で待っています。彼はあなたが本当に自分を歓迎してくれるかどうかわかるまで、私といっしょに入ってくる気はなかったのです」

「誰も彼以上に歓迎される人はいませんから。すぐ行って連れてきましょう」と私は言いました。

私たちがドアを開けると彼はそこに立っていましたが、その様子は私が最後にあの恐ろしい都で見たときとはずいぶん違っていました。


いまは非常に明るい表情をしていて、着ているものも私と同じで真っ白です。顔にはまだ少し悲しみが残っていますが、それでも表情にはやすらぎがあり、目には希望がありました。

私は、南のほうの国で愛する相手や敬意をもつ相手にそうするように、彼を抱擁(ほうよう)して歓迎しました。

こういうわけで、私の家も孤独なところではなくなりました。一人が仕事から戻れば一方がそこで待っていて迎えてくれますし、仕事上の成功や失敗について話し合うこともできました。


(7)高次の霊領域へ

それは、私が自分の部屋の寝椅子に横になっていて、長い睡眠から目覚めた後のことです。

私の東洋の指導者アーリンジマン師が、はるか高次の領域で、私と交信したがっていました。そこで、アーリンジマン師からの通信を受ける準備を整えると、まもなくまばゆいほどの白い光が私を囲むのを感じました。

すべてのものが私から閉め出されていき、私の魂が霊体から抜け出して浮き上がって行きました。下を見ると、私の霊の衣がそのまま寝椅子の上に残されています。

私は上へ上へと上昇しましたが、私の指導者の強力な意志がぐんぐんと私を引き寄せているのを感じました。霊になってから、これほど自分の体が軽くなったのは初めての経験です。

しばらくすると、高い山の頂上に降り立ちました。ふと気づくと、私の横にはアーリンジマン師が立っていて、彼の声が夢の中のように語りかけてきました。

「見よ、息子よ、ここに君の歩むべきもう一つの苦労の路程がある。地球とその霊領域のパノラマを見てみよ。この地球が進歩するために、君に従事してもらいたい仕事がどれほど重要か見てみよ。

地獄の王国での路程を通して獲得した。君の能力の価値を知るように。その力をもって君は日夜、地獄の攻撃から地上人を守るようになるのである。その仕事で、どれほど多くの地上人を助けることができるか知るがよい」

彼が示す場所に目を向けると、そこに地球を取り巻く霊領域があるのが見えました。気流は、まるで大洋の潮の千満のように波打っていて、その上に何百何千万という無数の霊が漂っていました。

地球に縛(しば)られた男女の霊も見えました。彼らは粗雑な歓楽に身を委ね、罪深い生活を送っています。自分の下劣な欲望を満足させるために、地上人の人体器官を利用している霊もたくさんいます。

そのとき低級の霊領域から、真っ黒な恐ろしい生き物が怒濤(どとう)のように地球に襲いかかるのが見えました。彼らは地表の霊界にいる悪霊の何十倍もの影響力をもつ恐ろしい者たちです。

彼らが群がる地上では真理の光は締め出され、殺人や強盗、残虐、圧政などが発生し、その後には死と悲しみだけが残ります。人は良心の手綱を捨て去り、貪欲と利己主義、傲慢と野望に身を委ねるようになります。

多くの地上人が、彼らの愛する人々を失って悲嘆にくれていました。もう二度と会えないという思いに縛られて、彼らはひどく悲しみ嘆くのです。

しかし、亡くなった当の霊人は、彼らのそばで漂っていて、自分たちがまだ生きていること、死が人から愛する思いや、やさしい願いを奪い去ることなどできないということを必死に示そうとしています。

霊人たちの必死の努力は無駄なようでした。
生きている者は、彼らの姿を見ることもその声を聞くこともできませんし、哀(あわ)れな霊人たちは明るい霊領域に入ることもできません。

地上に残してきた者たちが、あまりに切々と嘆き悲しむので、その愛の絆(きずな)のために、霊人たちは地表の霊界に縛りつけられ、彼らの霊の灯火(ともしび)が陰り消えていきます。その結果、救いようのない悲しみのなかで、彼らは地球の大気中を漂うことになるのです。

アーリンジマン師は、その光景を眺めながら言いました。

「これら二つのグループ、つまり生きている者たちといわゆる死んだ者たちとの間に交信の手段があれば、彼らの悲しみは慰められるのではないだろうか? 

まだどんなに罪深く利己的な者たちであっても、彼らを地獄に引きずり込もうとしている黒い生き物が彼らのまわりにいることは知らされるべきではないだろうか?」

彼が話し終えると、太陽の光のような壮麗(そうれい)でまばゆい光が輝き出しました。それは、地上人たちがそれまで見たことがないほど輝いていました。その光線が黒い雲を散らすやいなや、壮麗な音楽が天界から響いてくるのが聞えてきました。

私は、地上人たちがこの音楽を聞き、この光を見たら、誰でもまちがいなく慰めされるだろうと思いました。しかし、そうではありませんでした。

彼らの目や耳は誤った概念で閉じられていて、この壮麗な光を見ることも、この壮麗な音楽を聞くこともできませんでした。それでも、地上人のなかには霊眼が部分的に開かれ、霊的な耳が完全にはふさがれていない者たちもいます。

彼らが霊界の存在や、その世界の美しさについて話すのを見ました。なかには、それらを地上の言葉でしっかり表現できる者もいました。

霊界の音楽を聞いて、それを何とか表現しようとする者、霊界の美しい光景を見てそれを描こうとする者もいました。
こうした地上人たちは天才と呼ばれる人たちでした。彼らの言葉や音楽、絵画はどれもみな、人の魂を向上させ、その魂を与えた神に近づくのに、とても有益なものでした。

しかしこうした文学や音楽、絵画をもってしても、あるいはどんな宗教的情熱をもってしても、冥土と呼んでいる世界へ行ってしまった愛する人たちと地上人が霊的交流を保つ道は開かれていません。

ですから地上人にとって霊界とは、その境界から誰も戻ってきたことのない、あいまでおぼろげな世界としか映らないのです。

このことは霊人たちにとっても同じで、彼らが地上人をより高次の純粋な真理に導こうとしても、彼らと直接的に交信できる手段は何もありません。

そのうえ、世界がまだ霊的に幼い時代に考え出された誤った理論や考えが、霊界に対する地上人の理解を相変わらず複雑にし、曇らせ歪めているのです。

じつは地球には天使が守っている多くの扉があり、それらをいつも開け放していて、地上人と霊人との交信を可能にしています。

ところが、悲しいかな、多くの地上人は時間が経つにつれて誠実さを失い、地上の歓楽に魅せられてみずから扉を閉めてしまいました。

なかには扉を開けている者もいますが、半開きなので、霊界からの真理の光はその半開きの扉を通過するうちに薄れて見えなくなってしまいます。

さらにもっと悲しいことには、その扉を通して低級領域の黒い邪悪な霊の不純な光線が入ってくるので、天使が仕方なく、その扉を閉めてしまうのです。

アーリンジマン師が、地上人の女性が立っている扉を指してこう言いました。

「見よ、地上を守る霊の鎖が一つ欠けている。行って、その鎖をつくりなさい。そうすれば君の強さが、彼女を強くするであろう。彼女の傍らで隙をうかがっている悪霊どもから彼女を守り、彼女の扉が開いたまま閉じないように導きなさい。次に、地上を囲む戦いを見てみよ」

彼がそう言うので見てみますと、黒い雷雲が地上をおおって夜のようになり、地獄の暗黒の領域から嵐のような轟(とどろ)きが沸き起こってきました。すると、黒い悪霊の群れが明るい霊人たちの群れに向かって襲いかかりました。

悪霊の群れが明るい霊人の群れを押し返しながら地上を席巻(せっけん)し、地表面から真理の光をおおい隠し、光の扉を一つひとつ襲って占領しようとしていました。

不思議なことに、この霊界での戦いが地上での戦いもまた引き起こし、地上では覇権(はけん)を求めて国と国が戦うようになりました。この戦争は世界的なもので、あらゆる国と国民が、富と世界支配に対する恐ろしいほど貪欲な欲望に飲み込まれていきました。

それで私は、誰か光の領域から救いに来る者はいないのか、黒い悪霊どもから地上の支配権を取り戻す者はいないのかと見ていますと、明けの明星のような一つの光が、きらきらとまぶしく輝きながら下へ下へと降りてきて、だんだん大きくなりました。

天界から降りてきた巨大な天使の軍勢でした。天使の軍勢はとても強く、地上になだれ込んで、その壮麗な光の帯で悪霊どもを取り囲み、木端微塵(こっぱみじん)にしてしまいました。
また炎の剣のような光線が、悪霊によって張りめぐらされていた壁を切り裂き、四方八方に散らしてしまいました。

こうして悪霊たちは、天の軍勢によって突き破られ、彼らのいた暗黒の霊界にまで追い返されてしまいました。私は聞きました。

「この輝く天使たちは、いったい何者なのでしょう?」

「彼らは地球の霊領域にある天界の天使たちである。一度は人間であった者たちなので、罪深い人間の苦労や奮闘に同情し得るのである。

彼らもまた、あの最低の霊界において罪の償いを果たした者たちである。はるかなる昔に、罪で汚れた服を悔い改めの泉で洗い清めた者たちであり、みずからの努力によって奴隷の死の灰の中から甦(よみがえ)り、高次の世界へ昇った者たちである。そうであればこそ、罪を犯した者たちが同じ償いの道を歩めるよう支援できるのである」

ここまで見たところで、地球を取り巻く霊領域に関するヴィジョンは消えていきました。そのかわりに星が一つ、私の頭上できらきら輝いているのが見えました。その光線が銀の細い糸となって、地球のあの方が住んでいるところに降り注いでいるのが見えました。

アーリンジマン師は、こう言いました。

「彼女の地球的は運命の星を見てみよ。かくも清掃で純粋に輝いていることか。知るがよい。愛する弟子よ、地上に生まれたそれぞれの魂には、生まれながらにして、その行くべき道が明示されている。


地上の生の糸を自殺行為によって断ち切り、かくして自然の摂理(せつり)を損ない、みずから大いなる悲しみと苦痛の中に身を投げ込むことがないかぎり、その道は全うされねばならない」

「あなたは、すべての魂の運命は決まっていて、我々は運命のなかに漂う麦藁(むぎわら)でしかないとおっしゃりたいのですか?」

「いや、そうではない。大いなる地球の出来事は決まっている。それらは不可避的に、ある時期に生じるようになっている。それは、賢明な守護天使が人間の魂を育成し発達させるために適していると見なしていることである。

しかし、これらの出来事が人間の魂の生涯に影響を与えるか、それらが善と悪の、あるいは幸福と悲しみの分岐点となるかどうかは、魂それ自身によるのである。そしてそれこそ、我々の“自由意志”のもつ特権といえるのである。

この自由意志がなければ、我々は単なる操り人形と成り果てるのであり、我々自身の行為に対しても無責任となる。またその行為に対して、賛されることも罰せられることも、意味をなさなくなるのである。

さて、あの星の話に戻れば、人が宿命の道を最大の努力と善をもって精進し、その魂が純粋で、その思いが無欲であれば、あの星は清掃な汚れのない光線で輝き、魂の道筋を照らし出すのである。さらばじゃ、君が新しい聖業の分野で最高の実りをあげることのできるように」

ここで、彼の話は終わりました。

私の魂は沈み始め、寝椅子の上に残してきた霊体のところまで下降し続けました。自分の霊体に再び入り込むまでのわずかの間、私は意識を失いました。

次に気がついてみると、私は部屋にいて、頭上には、父が言った永遠の保護と愛を象徴するあの美しい二人の天使が浮かんでいるのが見えました。


    
(8)愛する人を持ちながら……

私の務めは果たされました。私の話は、これで終わりです。

ただ、ここまで読んでくださったみなさん、ぜひ言い残したいことがあります。それは、みなさんが、ここに語られた内容をそのごとく受け入れてくださることです。

私のように地上の人間としては一度死んだ霊人が、この地上を再訪する可能性について、みなさんがみずからに尋ねてみてほしいと思います。

私はこの本を通して、教会が「失われし魂」と定めてしまった者が、本当はどんな体験をしたかを示そうとしました。私はいかなる宗教ももたないまま、わずかにおぼろげな神への信仰だけをもって死んでしまいました。

私は霊界での放浪の旅を通して、たしかに神聖で全能である宇宙の支配者が存在することは学びましたが、その方が一人の人間としての形をもっていて、私たち人間がその特質を論議したり決めたりできるような存在であるとは習いませんでした。

また、何らかの信仰形態をもつことより、あらゆる信条の束縛から心を自由にすることが大切であると学びました。どんな(地上的ないし人智的)信仰も、それだけでは魂の成長を助けたり、遅らせたりすることはできないからです。

ある信条が心を束縛し、その洞察力を鈍らし、善悪に対する考え方を歪めてしまうと、思考の自由を失い、偏見をもつことがあります。そして、魂の高身に昇るのに必要な心の条件まで失ってしまうことがあるのです。

いまや、地上の人々も、無限の宇宙が存在し、その宇宙に囲まれて人間は存在していることを自覚し始めました。さらに、この宇宙には多くの神秘が隠されていて、理性だけではとうてい説明できないと自覚し始めています。

人間はもう一度(霊的)信仰の世界へ戻りつつあり、かつその信仰と理性を一体化し、お互いが支え合うことができるようにしようとしています。

信仰と理性は、霊界の二つの異なった思想領域の中心的思考原理なのです。

この二つの思考原理は、当初はお互いに敵対するものとして現われましたが、しだいに一つの人格の中で心を発展させるために協力し合えることがわかってきたのです。

二つが平等に働くとき、心は均衡のとれた状態で存在できるのです。偉大なる発見をした地上の人物たちは、みな道徳的な力と知性の力の両方を均等にもっています。完成した人間や天使と言われる存在は、あらゆる特質が最高度に発達した魂の持ち主なのです。

魂がもっている精神的特質は、それぞれの色の光線をもっています。それらが混ざり合って美しい虹の色合いを形成し、完全な調和をつくりだしています。魂によっては、その知性と道徳性が眠ったままで、その徴候(ちょうこう)すら見えない場合もあります。

しかしそれでも、魂のなかには知性と道徳性が残っているのです。それらは地上あるいは霊界において、いつか必ず完成して花開くようになっているのです。たとえ地球の最低の霊領域で苦労する墜落した魂であっても、罪にもがく極度に退化した魂であっても、再び上昇する道から締め出されているわけではありません。

神の前ではすべての魂は平等です。
一人でも到達できた世界ならば、熱心に努力さえすれば他の誰でも到達できるのです。そういうことを私は知ったのです。それは地上人生を去ってから、私が獲得した信念です。


また、大切な人々を失った方々には、たとえ亡くなった人が地上人生で善と真実の道を生きた後に死んでいったのではなくても、あるいは罪を犯して死んでいったとしても、またみずからの手で命を絶って死んでいったとしても、それでも完全に希望がなくなったわけではないと言いたいのです。

私はいま、地上での生まれ故郷のように明るい国である「輝く国」にある私の家から地表の霊界へ行き、不幸な人々のために働いています。

また、地上で生きている人たちと、いわゆる死者と呼ばれる霊人たちの間で行なわれる霊的交わりを促進するための援助をしています。私は毎日、何時間かは愛するあの方と過ごしています。いろいろな方法で、私はあの方を守ることができます。

ときには、霊界の自分の家でたくさんの友人や放浪時の仲間たちの訪問を受け、楽しい時を過ごすこともあります。多くの愛と友情に満ち、たくさんの思い出に囲まれたこの輝く国で、私は感謝の心で過ごしています。

そして、あの方の地上における巡礼の旅が終わりを告げ、彼女の命の灯火が燃え尽きるとき、ここよりもっと明るい家で彼女を迎え、そこで希望と愛の双子の星として永遠に輝きたいと願い、そんな時がくるのを待っているのです。


知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目

知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

私の表現力の源泉について 真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪天啓・インスピレーションを頂く秘訣 「精妙な感覚」の磨き方のお話♪人類のお悩み「性欲・情欲」の正しい理解 性エネルギーという贈り物の正しい解釈のお話♪聖フランチェスコの得た偉大なる悟り話♪神を愛する方法♪バーソロミュー朗読♪解脱・覚醒♪バーソロミュー・バシャールが語る「全ては神」の真理♪真理への気付きでカルが解消♪悟り・解脱♪バーソロミューが語る真実の愛とは♪全ての人間は大いなる愛そのもの♪バーソロミューが語る真の霊性の高い人♪全てが神という本質的真理の理解度♪バーソロミューが語る性欲の真の意味♪ラー文書が良く分かるお話♪遺伝子組み換え果物判別法♪悟り・全ては一つ♪どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるか♪今を生きる悟りのお話♪私の表現力の源泉について♪真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話♪



私の表現力の源泉について
真理の表現力を大幅にアップする秘訣のお話

 海外のチャネリング系スピリチュアルの中でも、ひときわユニークな内容となっているバーソロミューさんですが、チャネリングの時期はかなり古い時代に行われていたようです。

 それなのに最新のスピリチュアルと比べても、全く相違ない…新鮮な内容と観じられるのは、それが「永遠に変わらない真理」だからだと言えましょう。

 私の解釈ですが、バーソロミューとは、宇宙に遍満する大霊となられた、覚者方・聖者方ではないかという風に感じました。
 
 一回目拝見した時は、あまりそこまで思わなかったのですが、知花敏彦先生の説かれる宇宙真理をかなり深く理解している状態の、二回目に拝見した時に、…これは真理の教えで間違いないっ!!と確信するに至りました。

 知花先生の真理の解釈で読みほぐすと、バーソロミューの伝えたい事を深く理解することが出来まして、それからバーソロミューさんが大好きになりました。

 ちょうどその頃、上江洲先生のご光話を浴びるほど聴いていまして、上江洲先生の教えを理解出来て消化した後ぐらいの時期に、You Tubeの青空永音さんのバーソロミューの朗読に気づいて、それから、青空永音さんの朗読に猛烈にハマって、一日中聴いておりました。

 その青空永音さんの、魅力的で可愛いボイスの朗読を聴きまくっている内に、知花先生と上江洲先生の説かれる奥深い真理が、私の中で、融合・昇華してゆき、色々な奥深い言葉の意味の理解が予想以上に深まりまして、自分でもうまく説明できる様になった気がします。

 実は…真理の説明って、皆様が思っているより難しいものでして、昔、2016年頃、文章で自分の言葉で真理の説明の記事を書こうとした時に、予想以上に難しくて、頭が少し混乱した事が思い出されます。普通の文章よりも三倍難しい印象でした。

 それ以降、知花先生・エドガーケイシー・上江洲先生やバーソロミュー・五井先生・関英男博士、長尾弘先生、高橋信次先生…等々、素晴らしい真理を学び、

ハートの奥底にストンと落ちる理解を何段階も繰り返す事によって、私の真理の表現力も大幅にアップしたように感じております。

 一人だけしか学ばなかったりしますと、語彙が貧弱になりやすい傾向があるように思われます。表現力を上げるためにも、色々な覚者方から学ぶのも一興かもしれません。

ちなみに、私の耳から聞く真理の学習は、こんな感じだったりします。

知花先生のご光話……10ヶ月
上江洲先生のご光話……4ヶ月
バーソロミューの朗読……3ヶ月

の間は、プライベートの時間を全力で聴いておりました。


 今の私に深い表現力が出来るのも、それだけの努力をした上に、人類の魂の覚醒のために…と、根性を出して本を書き出して頑張った努力の賜物だという風に捉えております。
「努力を続けた栄光(果実)」がついに実ったという感じでしょうか。

 長年のボランティア精神の努力が実って、並の人には書けないような、奥深い表現が自然とできるようになった…、と言いましょうか、いつの間にか「なっていた」という表現が正解かもしれません。

 自分でも自分の言葉で書いた記事を読み返して、何と…分かりやすく真理を説明しているんだろう…って(笑)、思うことがしばしばあります♪超絶☆説明上手な人みたいな♪

 私の文章は、色々な教えの表現を幅広く駆使して、惜しげもなく使用してますし、色々な真理を正しく理解した上で、融合して使用してるつもりでおります。

 真理の説明上手になりたい方は、ぜひこのブログを見て頂いて、色々研究しながら、言葉の意味の深い理解を熟考しながら、追求しながら、拝読して頂くと、きっと、口言葉でも、文章でも、素敵で奥深い…分かりやすい表現が出来るようになれる事でありましょう。


天啓・インスピレーションを頂く秘訣
「精妙な感覚」の磨き方のお話

 神様は、対処している問題を真剣に真摯に考えていると、その答えを実生活の中で与えて下さるんですね。守護の神霊の皆様も、教えるために、色々な気づきの事象を見せて下さいます。

 私は、自分が間違った想念を持ってしまった時などに、内在の神、守護霊様、守護神様、等の方々から頭をガツン!と叩かれたような感覚を受けた事もあります(笑)

 昔からそういう部分がありましたが、最近では「精妙な感覚」と言ってもいいぐらいに、脳内に情報がダウンロードされるが如く、守護の方々の有り難いアドバイスをダイレクトに感じる事が出来るようになりました。

 その「精妙な感覚」の磨き方についてですが、基本は、肉食を止めたり、徹底的「洗心」したりと、霊的な正しい努力をして、アストラル体をクリア&クリーンにする事です。

 そうすれば自ずと、高次の存在からのアドバイスが、自然と気付きとして、直感として、天啓・インスピレーションとして、感じる事が出来るようになります。

 止めておいた方がいいのは肉食です。肉食をすると、食べた肉の獣性によってアストラル体が汚れてしまう上、獣肉からの影響で、自我が強くなってしまうそうです。そういう意味でも、真理の追求者は「肉食」だけは止めておく必要があるように思います。

 精妙な感覚は、自分のアストラル体を綺麗にして、波動を上げて自分自身を精妙な高い波動状態にしておかないと、出てこないものですから、まずどうしても「肉食絶ち」だけしておいた方がいいかなと。

 とりあえず、徹底的に「洗心」するのと、肉食を止める事は、
確実に効果を感じて頂ける事は実体験から確信しております。

 私の体験ですが、肉食をやめるだけでもかなり精神が穏やかになります。特に感情の制御が楽にできるようになりました。どうも…肉食によって感情が暴れやすくなるようです。

 ですから、肉食を止めるだけでも、感情の制御が苦手で、暴れ馬のように暴れるような人でも、かなりマシになるのではないでしょうか。

 イライラを抑えきれないような方がいらっしゃいましたら、ご参考にして下さいませ。超オススメです♪


人類のお悩み「性欲・情欲」の正しい理解
性エネルギーという贈り物の正しい解釈のお話

 真理の追求者の方々の、特に男性の方の一つのお悩みとして、情欲、いわゆる性エネルギーの問題があげられます。私自身も、どう扱えばいいのか、試行錯誤したり、悩んだ時期もございます。

 ですが私も、このバーソロミューさんの「性エネルギーという贈り物」を50回ぐらい拝聴して、完全にそのお悩みも解消する事が出来ました。

 私の結論は「性エネルギーは、尊い素晴らしいポジティブエネルギー」というものであります。

 単に、その使い方が問題なだけであって、その「性エネルギー」自体には何の罪もありませんし、ネガティブな要素など微塵もないという事は、自分の実体験の色々な気付きからも確信しております。

 魂の法則でも、「性関係を自制すれば神に近づいたりより純血になれる」とイエスが公言した事は一度もない。と論破されておりますし、また、「進歩した魂にとっては、親密な愛の表現方法だ」とも仰っておられます。

 という意味でも、「性エネルギー」自体は何の問題もなく、高次元な宇宙人さん達でも、普通に清らかに「性関係」を行使されているという事でしょう。

 要するに、その「使い方・想念の在り方」が大事なのであって、「性欲・情欲」自体には、なんのネガティブな要素はない…というのが私の結論であります。

 覚者・知花敏彦先生も、情欲は、プラスがマイナスを求める働きであって、神我一体の境地になれば、「+と-」が完全に中庸のバランスになって、自然と情欲がなくなるんだから、

「+と-」のバランスが出来ないうちに、無理して禁欲をして、精液を(ためて)ぶちまける事はしなくていい…みたいなお話があったように記憶しております。
(詳細な部分が違ったらごめんなさい)

 覚者・上江洲義秀先生も、「あの人は美しい、綺麗」は、別にいいけど、「あの女性と寝たい」とかは良くないと仰っておられました。まさにその通りでありまして、大事なのは、その「想念の在り方」であり、「性エネルギーの使用方法」だと思うのです。

 私も、その想念の在り方で、色々体験・経験したのですが、その中で学ばせて頂いたのが、その美しいと想う相手の女性に対して、何かをしたいとか、不倫でもしようかとか、

実際に影響を与えて、迷惑をかけるアクションを起こそうとする想いは、いわゆる「カルマの上塗り」的な感覚になるという事です。

 これは、守護の神霊の方々の叱咤(汗)や、そういう想いになった時に、自分の周りの波動が曇った感覚に陥ってしまった体験から、ほぼ間違いないと認識した次第です。

 お恥ずかしい話ですが、人間は多少の間違いをおかしながら、成長していくものですから、それはそれで、申し訳ないと反省しつつも、それは魂の成長の一つの過程として、前向きに捉えて、いい経験をさせてもらえたなぁ…と、そんな感じで捉えております。

 誰だって、「情欲・性欲・性エネルギー」は持っておりますが、それを一人で行使する時も、美しい愛に満ち溢れた境地で使えば、それは何の問題もないどころか、

その行為が、心が清らかになる「美しい愛情行為」になって、疲労もあまり感じず、心も清々しい生きてる喜びに満ち溢れた爽快感だけが残る…そういう高い愛の表現方法に変わってまいります。
 これは実体験から観じた事柄であります。疲労感が殆どない感じになります。

 心を磨けば磨くほど、「性エネルギー」の行使が、喜びと爽快感だけが残る、幸せの局地のような、神様が望まれている、美しい清らかな「愛の表現方法」として完成していく様であります。

 私は、「性エネルギー」を使用することを、「罪」「カルマ」「ネガティブな行為」と受け取る事は間違いであり、その考え方自体が、神様に対する間違った考え方だと認識しております。

 もし「性エネルギー・性欲」というものが、「罪」なのだったら、この宇宙全体のあらゆる生物が罪の行為から生まれたものであり、愛の行為自体が罪であり、

虫さんから動物さんまで、全ての存在が、「罪」というものを背負っている、という、もう創造主に対して、失礼極まりない考え方になると思うからです。

 どうして創造主である神が、「愛情表現」「性エネルギー」自体を、「罪」とみなしましょうか。そんなおかしな話はありません。あくまでも使い方が問題なのですね。

 性エネルギーを「本能」といって、まるで「愛情表現」自体を良くない行いのように、語る方もおられます。

 大変申し訳ないのですが、「宇宙の法則である神」がお創りになられた、偉大な繁殖システムの何がいけないのでしょうか。

 その「本能」で生きてる動植物たちの何が問題なのでしょうか。「本能」が「間違った行い」や「罪」とでも言いたいのでしょうか。非常に疑問です。

 私はその動植物たちの「愛の行為」を「愛おしい」としか思いませんし、「本能」で生きている動植物たちを、「神の愛の具現」で「尊い存在」と認識しております。
「本能」だから間違いとか罪とか、などホコリ程も思いません。

 神様が創造された偉大なシステムを否定して何が真理なのでしょうか(笑)、と私は言いたいのです。

 「性エネルギー」自体は、「完全なる神の愛」であり、「神の愛の贈り物」、「ポジティブエネルギー」そのものではないでしょうか。

 もし霊性進化と「性欲を悪者にする思考」をセットにする教えが、仮に真理ならば、人類が真理に目覚めた瞬間に、人類が愛情行為をしなくなり、人類が滅亡してしまいます。

「魂の法則」で語られている通り、こんなおかしな話はありません。ですから、これは真理ではありません。

 全智全能の創造主であられる神が、ネガティブなエネルギーなどをお創りになるなど、もちろんありませんから、情欲・性欲自体は、「ポジティブエネルギーで聖なるもの」です。

 例えば、包丁を使っている職人さんがいるとします。「包丁・刃物」自体には何の罪もありませんよね。
 ですが、使い方次第で、最高の芸術作品にもなり、最高の芸術性のあるお料理にもなります。それはポジティブエネルギーとして使われたという解釈になります。

 その一方で、使い方を誤れば、人を殺めたり、傷つけたりしてしまう事もあります。それはネガティブなエネルギーとして使われたという解釈になります。
 
 その様に「性エネルギー」自体は何の罪もありませんし、その元の本来の状態は、「神からの祝福のプレゼント」であり、ポジティブエネルギーそのものだとも言えましょう。
 バーソロミューさんはその様に仰っておられました。

 ですから「性エネルギー」を使うこと自体が悪いという事は決してないのですね。
私はもう、その「性エネルギー」について、全てのお悩みが解決しておりまして、

バランスの取れた中庸の思考で、神様から与えられた素晴らしい「性エネルギーという贈り物」を、神様に感謝の気持ちを持って、ありがたく使用させて頂いております。

 もう「性エネルギー」に対する罪悪感など微塵もありません(笑)。性欲を抑制する事と、悟りとは、何の関係もないことを熟知して深く理解しているからです。

 ここ辺りは、賛否両論があるとは思いますが、それは無意識のうちに、キリスト教的な禁欲的な価値観である、間違った古い考え方に支配されている方が多いからだと推測されます。

 日本人は本来、性に開放的な民族でしたし、正しい最先端の解釈で捉えれば、私の結論が正しいとご理解して頂けると確信しております。

 あの有名な、「小林健さん」も、高い精神性と素晴らしい超能力をお持ちの方ですが、普通に奥様と愛の行為を堪能されていると、ご著書で伺ったことありますし、韓国随一の霊能者でもあられる、安東民先生も、普通に奥様と「愛の行為」をされているとの記載がありました。

 もし「性エネルギーの行使」と「超能力」が反比例するものでしたら、そのお二人の超能力は、消えてなくなってしまうのではないでしょうか。ですが、実際には何の影響もない事は明らかです。

 そういう意味でも、「性エネルギーを行使する」事と、「魂の成長の影響」は、何の影響もないと結論付ける事が出来ると思うのです。

 身口意を正したり、洗心したり、真理を深く理解したり、愛を高めて高い霊性に磨き上げる事が大事なのであって、「性エネルギー」を抑制する事は特に意味はないという事ですね。

 また、アミ小さな宇宙人でも、性行為はもっと自然で自由なものだと書いていた記憶があります。高度に進化した宇宙人でも、性行為は、「親密な愛情行為」だという訳です。

 私自身、性エネルギーについて悩んで、性欲を抑制しすぎて、自分を縛る事で、うつ状態になりかけた事も御座います。
 そういった経験を経て、抑制すればいいもんじゃないんだなぁ‥って学びましたし、色々試行錯誤の繰り返しで、この究極の結論にまで到達する事が出来ました。

 ただ、誤解しないように付け加えますと、「性エネルギーを行使する」とは言っても、今日はあの人と、明日は別の女性と…みたいな、そういうモラルハザードな事は絶対にしてはいけません。
 二人でするというのは、カルマ的にはあまりお気軽にするのは止めておくべきでありましょう。

 あくまでも、「一人で」中庸のバランスの取れる範囲で、程々に「性エネルギー」を、心の中の妄想中でも、好きな人の幸せを願い、心から愛してる、という感じで、美しい愛の…愛おしさを感じながらする…のが問題がない、という事で御座います。

 その「一人で」「性エネルギーを行使する」時に、清らかな愛おしさを感じる愛で、愛おしい愛で行使する時は、その「性エネルギー」というものは、

それはそれは、何とも言えない「最高のエクスタシー」と感じまして、それがある意味「神の祝福」なのかしら…と、いう風に感じた事も御座います。

 その「性エネルギーに対しての罪悪感」というものを払拭して、真の意味で「性エネルギー」というものを理解できた時に、貴方も、その神の祝福としての「性エネルギー」を縦横無尽に発揮出来るようになり、

 優雅に綺羅びやかに、スマートに、清らかに爽やかに、一瞬一瞬を喜びに満ち溢れた、生きている喜びの実感の最高のエクスタシーとして、疲労感もなく、愛で満たされた至福の境地として、「性エネルギー」は「神の祝福」なんだなぁ…って、観じて頂けるでありましょう。

最後に、分かりやすく簡易比較で表してみますと、


性エネルギー自体は神の贈り物 愛のエネルギー 正解 ○
性エネルギー・情欲・性欲自体がネガティブなもの 間違い ☓

高次元な宇宙人も普通に愛情表現をしています 正解 ○
性欲を自制しないと高次元な宇宙人になれない 間違い ☓

進歩した魂にとっては、性関係は親愛な表現方法 正解 ○
性関係を否定しないと進歩した魂になれない 間違い ☓

愛情表現をしながらでも普通に高い次元に行けます 正解 ○
愛情表現自体を否定するという人類が滅亡する教え 間違い ☓

性欲自体は神からの贈り物で神の愛 正解 ○
性欲自体が罪であり存在してはいけない 間違い ☓

動植物が神の本質である愛を自由自在に表現している 正解○
動植物を本能で生きている下等生物だと見下す 間違い ☓

愛情表現は美しい愛で正しく使えば、それは神の祝福 正解○
性欲自体全部が本能で罪だから、全て克服するべき 間違い ☓

 
「魂の法則」から、性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも純血で高潔だと信じるのは誤りだ、からの引用ですが……


※性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも清潔で高潔だと信じるのは誤りだ、とも言われましたよね。

 その通りだ。司祭であろうと僧侶や修道士であろうと、宗教家に貞潔を誓わせたその様な概念を、どこから引き出して来たのか知りたいものだ。

※イエスが示してた手本によるものだと思いますが。

 君たちはイエスに性関係がなかったと断言できるほど、イエスの私生活を知らないではないか!
 性関係を自制すれば神に近づいたりより純潔になれるなどと、イエスが公言した事は一度もない

 例え本当であっても、全人類が生涯にわたって性関係を控える決意をしたら、120年以内に地球から人間の命は途絶えてしまうであろう!

「生めよ増やせよ」という事と矛盾してしまう、と思わんかね?もし君たちが、性関係以外の増殖法を知っているとしたら、お教え願いたいものだ。過去の時代には、試験管で受精させるなど不可能だったのだよ!

※あなたのお話から、性関係はいつも増殖のためでなければならないと理解するべきでしょうか。

 もちろん違う。もうそれについては十分話しただろうに。進歩した魂にとっては、性関係は親愛な表現方法だ

 それと全く異なるのは、性欲を満たすために、あらゆる手段を用いて自由意志が侵害される場合だ。

 特に女性や子供と言った最も弱い者が性商売(売春や小児童性犯罪の事だ)に従事させられたり、君たちの世界ではよくあることだが、
実際には愛してもいないのに愛していると言ったりして、セックスのために、あらゆる方法で人を操り嘘を付く場合だ。

 イエスはこのような事を全て、告発したのだ。その時代には女性は、性も含めた全ての面において、奴隷に毛が生えた程度に見なされ、実質的には何の権利も持っていなかったのだよ。

 男どもは、誰にも文句を言われずに好き放題で、女性は、男性の権力の乱用を、宗教の加護にすがって耐えねばならなかった。
 たとえば、離婚され、他に生き延びる手段がないために、売春を強いられた。

 イエスは女性の権利を守るために、大いに闘った。女性を性奴隷と見なすことを止めさせ、彼女たちを咎める者を叱咤し、その惨めな状況は男性のせいなのだと分からせようとした。
 しかし、教会がそれら全てを、性を卑しむ詭弁にすり替えてしまったのだ。

※教会は、イエスの母親の聖母マリアを例に挙げて、純血と貞潔を揚げてきたのではないですか。

 イエスの受胎については一旦置いておくが、マリアは大半の女性がそうであるように、伴侶であるヨセフと性関係を持ち始めるまでが処女であった。ヨセフとは複数の息子と娘を得たのだが、彼らはイエスの兄弟に当たる。

 特筆すべきなのは、それがキリスト教徒の福音書に記載されており、筆者達がイエスに兄弟がいたことを隠そうともしなかった点だ。
 
 マリアに他にも子供がいて、彼らに名と性があった事は、福音書の様々な説に反映されている。いくつか例を示してみよう。

 イエスがまだ群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、
「ごらんなさい、貴方の母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」

「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、シモンとユダの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私達と一緒にいるではないか」

 他の者は言った。「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」

 福音書の著者が、イエスに兄弟がいたことを何の問題とせず、恥ずかしがらずにそれを記載しているのに、なぜその後継者たちが問題視するのだろうか?

 
 後は、この記事の下の方にある「性エネルギーという贈り物」をご拝読して頂ければ、もう完璧に理解して頂けるでありましょう。
 もうこれから貴方も「性エネルギーという贈り物」を正しく喜びを持って、ご活用していけるはずです。

 真理の追求者の皆様の「性エネルギー」に対するお悩みの解消に役立てて頂ければ、私にとって至上の喜びであります。



関連記事での追記ですが…♪

正真正銘の本物のイエス様が語る
性エネルギー・結婚の正しい解釈秘話をご紹介

 今回は、あの世界一有名な「イエス・キリスト」、すなわちイエス様ご本人が直々にご講釈をして下さっている、素敵なお話をご紹介させて頂きます。

 怪しいチャネラーが交信したのではなく、天上界から派遣された12人のキリストのお一人であられる「助安由吉さん」という方が、明想中に、光一元の意識状態の中で、イエス様から受けたメッセージという形になります。

 天上界から派遣された12人の中には、知花敏彦先生や、上江洲義秀先生もおられます。
 な~るほどぉ♪そういった一番信頼できる系統の方なのね♡♪…という認識をして頂ければ幸いであります。

 私自身、こちらの内容から本物ならではの高貴な波動を観じまして、100%信頼できる情報と言って差し支えないでしょう…と判断させて頂きました。

 それでどうしても、この最高に素晴らしい内容を、人類の皆様にお披露目したいと…そう思った次第なのです。

 「この記事」と完全にリンクしており、その内容の正しさを裏付ける内容となっております。…ですので、追記させて頂いたという次第であります。

 私の性エネルギーに対する新解釈が、全くもって正しいと分かり、大変感激・大歓喜しております。
「イエス様の真実の性解釈」は私の結論と全く同じものでしたので。

 今回のお話は、知花先生や上江洲先生をご存知の霊性の高い方々でしたら、何の違和感もなくすんなりとハートにストンと落ちて、深い真理の理解にして頂けると確信しております。

初めにイエス様の内容を軽くまとめてみました♪

世間から離れての修行は、逃避の修行で間違い

●「思っただけでも淫乱なり」と言ったのは誤り。真実は全く逆
性を持った人で異性に興味を示さないことなど、全く不可能

●教会の「異性を感じるものはすべて罪」は誤り

性を閉ざしての修行は、かえって悪い方向に進んでしまう

●性を無理に抑える事は、魂の修行としては失敗に終わります

●性は抑える事は、出来るものではありません

●愛情表現(性行為等)を制限する方が大きな問題であり
●それを薦める人々はもっての外・とんでもない事・間違い

●生の交わり(性行為)も罪な事ではありません
●もちろん一人での性行為も罪な事ではありません

●男女の両性の調和、これこそが地球人類の調和
●性を抑えれば抑える程、頭をもたげてくる

●ひとり一人の内にこそ神がおられます
自分が神であると自覚する人が本物の伝道者



結婚について (イエス・インマヌエルより)

 この地球という天体においては、魂の修行が生きる目的であります。俗世間から離れての修行は逃避の修行になり、大きな成果を上げることが出来ません。

 私の時代は大変な時代でしたので、私と12人の仲間は妻帯をせずに真理の電動に力を入れてきました。

 しかし、あれから二千年も経とうとしています。状況は全く変わってしまいます。伝道者は必要ですが、教会堂中心の聖職者は全く必要がありません。

 いない方が地上人類の平和に寄与する事が出来ます。それと神父と言われる人、修道女と言われる人の結婚をすすめます。

 現在のように性を閉ざしてのものは、本当の修行にもならず、かえって悪い方向に進んでしまうからです。人間の本能の中でも、食欲についで大きなものです。

 これを抑える事は、出来るものではありません。もしこれを抑えたとすると、魂の修行から言いますと、アンバランスのものになります。

 本来円満な修行でなければならないのに、いびつな円になり魂の修行としては失敗に終わります。

 世の中には男性と女性しかいません。この2つの性のバランスを欠いているものは、全て失敗の人生となります。

 性を抑えれば抑える程、頭をもたげてくるのものです。また教会では異性を感じるものはすべて罪であるとしています。

 また私が思っただけでも淫乱なり」と言ったとされていますが、真実は全く逆です。

性を持った人で異性に興味を示さないことなど、全く不可能です。

 男女の両性の調和、これこそが地球人類の調和になります。神父さんが妻帯し、修道女が結婚して良き伴侶と共に仲良く生きてこそ、素晴らしき魂の修行が出来るのです。

 一日も早くこのような日が来ることを、私は願っています。結婚は悪いことではなく、生の交わりも罪な事ではありません。

 地上に肉体を持ったなら、(愛情表現は)当然の成り行きなのです。
(愛情表現を)制限する方が大きな問題であり、それを薦める人々はもっての外という事になります。

 神に仕える神父というのも、全く不思議なものです。神に仕えると言っても外には神はいません。

 ひとり一人の内にこそ神がおられます。そうしますと、ひとり一人が神父であって特別な人は必要ではなくなります。

 だから神父も修道女も必要がないのであります。必要なのは、自分が神の子であり、自分が神であると自覚する人であります。

 この様な方は、教会や指導者と言われる人から、言われなくても自分の内側からの導きで自然に動きます。

 これが本物の伝道者であり、神の子としての生き方なのであります。

(1991・12・15・11時20分、アルベル山にて)

セックスについて

この世の中に
男と女がいる限り
セックスという行為がある
これは善でも悪でもなく
自然現象としてある

人間の五官は
人間が作ったり
人間が削ったり
人間が勝手にすることはできない

セックス行為も
大きなウエイトを占める五官の中の
触覚である
この触覚に対して
偏見を持つ人が多い

また過去からの習慣で
あるいは言い伝えで
罪意識を持つ人が多い

これは大きな間違いである
セックスは大いなる神が
子孫の繁栄と
相互の愛の増進のために
与えられた大切なものである

視覚が悪でないように
聴覚が悪でないように
臭覚が悪でないように
味覚が悪でないように
触覚もまた悪ではない

ところが触覚の代表的なセックスのみが
悪としてとらへ
陰でコソコソというのは
大きな間違いである

人間はどんな人でも
セックスを超越して生きることはできない

このエネルギーが
活動エネルギーの根本だからである
抑えることができるが
それは抑圧されて
ストレスがたまるばかりである

人間が人間らしく生きるには
この抑圧があってはならない
性は明るくとらえ
自由にとらえ
自然現象としてとらえなければならない

異性を見てセックスを感じたならば
罪だということはない
このように言うと世の中に
罪人ばかりになってしまう

思うことはエネルギーとなり
その人の環境を作るのであるから
この思い方は人生にとってマイナスとなる

セックスに対して規制してはならない
規制すればするほど
マイナス現象がはたらき
折角与えられた人生が
取り返しがつかなくなる

規制を取り除き
明るく自由な振る舞いができる時
人間の本性が自然に現われて
不調和な状態に陥らない
マイナスの想念を持つから
悪い現象として起きるだけである

セックスは罪な行為ではなく
大いなる神が与え給うた
喜びごとなのである

男性の陽と
女性の陰が共に合体した時
喜びが倍加する

これがセックスの本質なのである
ただし愛される調和が
その背景にあることが条件としてある
性とは聖であり
神聖なる神の行為のことである


セックスは大切

人間生活において
セックスはとても大切なものである
これ抜きの生活は
魂の修行とはいえず
修行の落第生となる

この地上に肉体を持った以上
特別な人はいない
イエスもブッタもモーセも
特別な人ではなく
魂の修行の成果を上げた人なのだ

修行を専門にやっている
聖者と言われている人は
セックスを堕落と考え
世俗的な楽しみと考え
セックス抜きの修行法を考えたりする

これは全くナンセンスだ
全ての人類もその人達と同じように
魂の修行者だ
大いなる神はこの地上に
特別な人など作りはしない
これからも作ることはない

すべての人類は
魂の修行者としてこの地上に生まれている
その人達がセックスを堕落と考え
セックス抜きに生活したならば
どうなるだろうか
子孫はその時点でストップしてしまう

そして何より
セックスとは大いなる神が
人間に与えて下さった大切なものだ
セックスとは性エネルギーを活性化させ
あらゆるものを作り出していく力の源泉なのだ

陽である男性と
陰である女性の愛の表現でもあり
さらにそれを拡大していくためのものでもある

理想としては「ゼロのセックス」があり
これを目標にしていくことが大切だ
セックスに罪悪感は禁物
セックスは喜びごとなのだ
それを情欲とか堕落とか
誘惑とか世俗的な楽しみであるとか
否定的にとらえるものではない

かといって他に迷惑を及ぼすようなセックスは
当然不調和をきたすため
真のセックスとはなり得ない
男女の本当の愛が結び合うものであれば
セックスほどすばらしいものもまたない
神が人間に与えて下さった
愛の極地がセックスである

魂の修行者であるわれわれは
修行を専門にやっているセックス堕落論に
決して耳を傾けてはならない

もし耳を傾けて
そのような考え方を持ってしまうと
これからの魂の修行に大きな重しとなり
成果の上がらない修行となってしまう

その人達の修業はその人達の修業にすぎない
セックスを堕落だと考えたり
セックスを否定したり
セックスを罪悪視するならば
大いなる神に対して否定しているわけで
神などいないと言っているのと同じなのだ
それで神を求めて修行しているのだから
とても変な感じがする

しかしその人達を非難すべきものでもない
その人達はセックスを抜いての修行中なのだ
修行は自由でなければならない
それなりの学びがある
修行は今生限りではなく
これから永遠に転生を繰り返して
学び続けていくものである

われわれ魂の修行者としては
真実を見極めながら
自分の修行に必要なものだけを取り入れて
不必要なものは取り入れない
此のようにしていくことが大切だ
何より選択する力が必要なのだ

……………………………………………………
ここからがバーソロミューのまとめ記事になります♪


聖フランチェスコの偉大なる悟りのお話 

 そこで彼の心にはジレンマが生まれたのです。貴方の心にも同じようなジレンマが生まれる事を望みます。いつも親切で、心優しき人間でいる事は出来ないし、かといって欲望のままでは幸せはもたらさない……。

 では、自分の求める心の平安や喜びをどこで見つけられるのだろうか…彼は有意義な道を選びました。これを別に貴方達に勧めているわけではありません。単にデートしてあげているだけです。

 フランチェスコは深い意識のレベルで、死の現実と対決する事を決心しました。その事を私は確信しています。彼は重い病気を選び、その病気で殆ど死にかけました。

 その病状で心の中の境界線が崩れ始め、ついに高熱にうなされた状態の中で、ある悟りを得ます。
 それまでの彼は、善である事と…神への愛、が同じであると思いこんでいました。けれども、その2つは同じ事ではないと分かったのです。

 善人でなくても、神を愛する事は出来ます。非常に良い人でも、神への愛を全く持たない人もいます。

 フランチェスコがはっきりと理解したのは、神への愛は、神を愛したい…と思う気持ちによって決定されるという事です。それまでの自分の考えの過ちに気づいたこの瞬間は、この上もなく重要な事でした。
 
 神を愛するのは神を愛することによってであり、それ以外の何ものでもありません。
 それが分かったら、高熱の中で、ある問いが繰り返し彼の頭の中で浮かびました。どうしたら神を愛することが出来るのだろうか……どうやって。

 忘れてはならないのは、この人は中世ヨーロッパの教会制度の中で育っており、また同時に、宗教が形式的な意味しか持たない社会で育っている事です。
 彼の友人たちもあまり信心深くありませんでした。母親は神を愛する必要を示してくれましたが、神への愛を実践してはいませんでした。
 
 フランチェスコは、神を愛する道が見つけられなかったならば、自分は死を望む…とまで思いつめました。神を愛する事なくして生きていく事は出来ないと思うのに、どうしたら愛せるのか分かりませんでした。

 愛したいけれども、どうして愛したらいいのか分からない……というジレンマをはっきり自覚する、これは非常に望ましい意識の状態だと言えます。 
 何日も苦しみが続きました。熱が上がり不安が増し、イライラと絶望が募りました。
 
 ついにある朝、まだあたりが静かで物音もせず、もうすぐ夜が明ける頃、窓の向こうで、一羽の鳥が鳴きました。そして、その鳴き声を…フランチェスコは今までとは全く違うように聴いたのです。
 
 そしてその鳥の、鳥の奏でる歌声のパワーによって彼は悟ったのです。
 彼が悟ったのは…、神を愛する方法
唯一の方法は…神の声を全ての中に聴く…という事だという事です。

 鳥の歌声に、死にゆく者の泣き声の中に、狂人の叫びの中に、癩病患者の絶望の中に、恋人たちの抱擁の中に……それこそが神を愛する道なのです。

 これらの音と…神の声を分かつもの何もない…まったくない、これらの音こそが、神の声そのものだ…という事をフランチェスコは悟りました。

 それまでの彼は、神を創造の世界の外にあるもの、人生の奏でる音の外にあるもの、自分自身の外にあるもの…という誤った考えをしていました。
 彼はこの後、二度とこの事を忘れることはありませんでした。

 フランチェスコを覚醒めた者…と呼ぶなら、その覚醒めは、彼がごく普通の人間だったということ、そして…そこからまったく普通でない人間になったという事実に根ざしています。

 その瞬間から、フランチェスコは助けを求める声と、大いなる源とを別のものと考える事が出来なくなりました。大いなる源の実在を知ったからです。

 フランチェスコについて誤った見解がいくつかあり、その一つは父親との関係に対して関するものです。フランチェスコと父親とは非常に仲が悪かったと言われています。

 けれども、フランチェスコが新しく覚醒めた後では、すべての音は神の声だと知っていましたから、父親が出て行けと言った時も、父親の声の音を拒否する事は出来ませんでした。
 
 フランチェスコは分かりました……次に進む道を示して下さってありがとうございました、と言いました。 ”何だと!" ではなく、"分かりました” だったのです。そして出ていったのです。


「全てに神を聴く」で覚醒した聖サン・フランチェスコさんですが、こちらは「全てに神を観る」での大村さんの覚醒話です♪⇓⇓リンク先は⇓⇓

バーソロミューの朗読動画が見たい方はこちらの記事でみてね♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-3.html



バーソロミュー3     

今のまま歩きつづけてください。あなたは必ず覚醒します。
大いなる自己(真我・全一体・自他一体・父なる神と常に一体の境地」とともにいると、すべてがうまくいきます。
大好評『バーソロミュー』の3冊目の本の復刊! 

私たちの人生の目的とは何か?悟りを開くにはどうするべきか?
「大いなる一」と繋がるためにどうしたら良いか?本質的な恋愛関係とは?
戦争をどう捉えるべきか?世界が平和になるにはどうしたら良いのか?
現実を創造していくにはどうしたら良いのか?など、
スピリチュアルであると同時に、とても現実的な内容が語られています。

ワークも掲載していますので、今すぐ実践できるようになっています。
バーソロミューの言葉は、とても優しく温かく、かつ現実的です。
押し付けるようなエネルギーではなく、そっと寄り添いながら、
宇宙の真理や、人生の意義、「大いなる自己(真我)」について解いてくれます。

エゴから送られる無意識のメッセージに気づき、真の悟り(宇宙即我・我神なりの自覚)を開くことができます。
人生の目的、自分の現実を創造するための鍵が分かり、不安や恐怖などの強烈な感情に悩まされなくなります。

人生の目的とは、悟りを開くため

悟りを開くことこそが、私たちの仕事(生まれてきた目的)です。
その上で、事業を経営したり、 子育てをしたり、カウンセリングなどをすればいいのです。
悟りこそが一番大事な仕事なのだとわかるまでは、他の目標は達成できないでしょう。

○それが何であれ、すべては神(宇宙生命・真我・神一元)なのです

どんな出来事が起きようと、エゴ(偽我)がうるさく言っていたとしても、
イライラさせられたとしても、家も仕事も失ったとしても、このマントラを唱えること。
そして心を開き、自分の感情や思考を静かにやさしく眺める。
それにより、自分の内部に存在している、信じられないほどの豊かな人生に気づくことができるでしょう。

○「大いなる一(神のみが実在・全一体・全てが神が真理)」のみが在る

もし今、孤独や不完全さを感じている、望みが叶わないと思っているのであれば、
それは神から切り離されてしまっていると感じているからです。
お金も神がいなければ存在しません。
すべてが神である、つまり「大いなる一(無限大の愛)」しかないのです




神の子としての目覚めを探究している者へ

バーソロミューの教えを学びながら、覚醒意識を目指している人は、『心身の神癒』(霞ケ関書房)と『光の書』(ナチュラルスピリット)で、イエス様の真の教えとイエス様から直接メッセージを受け取りながら、真摯に霊的な向上に努め、神とイエスと天を信じるならば、天の恵みにより、高次の光(波動)を受け取るようになり、内なるキリスト意識(神我キリスト)が目覚め始め、変容が起こり始めるようです。そうすることによって、神の子として目覚めることも可能になるのではないでしょうか。

このシリーズは、神の子として目覚めるための準備と訓練をするのに、大変重要な役割を果たす書です。これらの本の教えを信じて学びながら、その教えを実践して行くならば、純粋な光となったり、「空(神あるのみの境地)」のような状態になると、波動(波長)や性質の異なる様々な高次の光を受け取ることができ、白い天幕の中で、彼らと共に行動することが出来るようになるようです。信じて実践することが、真実を証明することになるのではないでしょうか。

新シリーズの『バーソロミュー』の教えを完了した人は、『キリストのヨーガ』に挑戦して見てください。実践の書としては、最高峰の部類に入ると思います。特にこの本の「はしがき」は、圧巻です。真理や実在への把握には、圧倒されるとされると思います。

インターネットで、「耳から学ぶ バーソロミュー」で検索すると、『バーソロミュー』シリーズの本からの抜粋を聞くことが出来ます。興味深く聞くことが出来て、とても有益です。

『チャネリング・ガイド』(ダイヤモンド社)によると、体が光で満たされると、愛を世の中へ送り出す人となり、素晴らしい光の存在へと進化し、自分の目的を実現できる。スピリットが光の存在として高次の波動となるためには、光(愛)を集めることが不可欠である。人は、創造的で不滅の光になることを学ぶために、ここに存在している。自分で神性を選ぶと、天の力が我々のために働き始める。賢明な使者として人に仕えるには、高い波動への移行が必要となるという。

魂が自己実現(悟り)を求めるのは、それが最も高次な目的だからです。その高次の目的は、神に栄光をたたえ、地上での光の使者として使えることである。聖なる波動と繋がることは、人に大きな影響を与え、変化をもたらす。心を開いて天のサポートを受けながら、より高次の波動に移動することが、健やかな未来を手にする唯一の方法であるという。

『バーソロミュー3』の内容を理解してもらえるように、一部抜粋(第一部チャレンジより)を載せておきます。参考にしてください。

最高の魔法とは、神の意識がこの地球により多く具現されるようになること(神我顕現)です。もっと高い周波数にチャネルを合わせてください。あなたの希望を増し、理解を深め、心を拡げてくれるような波動のエネルギーに耳を傾けてください。神意識の一部としての自分を完全に認識する可能性を、人は持っています。

考えと呼ばれるものが、生まれたり消えてりするのを眺めている<あなた>というエネルギーの場が存在することを認識してください。そうすることによって、完全性に目覚めつつある自分の部分に近づいていきます。考えや感情が生まれたり消えてりするのを眺めているのは、あなたの「真我」または「真の自己」なのです。

エゴ(偽我)は、神は全知全能であらゆるところにら存在する、ということを理解すれば、それ以上何も追求する必要はないと考えます。考えを理解することは、考えるという行為を<感じ取る>ことによってなされます。

思考というのは、肉体のなかを通り抜けていく巨大なエネルギーの場です。全体のプロセスを眺めるという態度を選ぶなら、深い洞察力のある態度へと変化が起きています。

人間が神と呼ぶ「大いなる光」は、広大無辺で、躍動するいのちに満ち溢れ、無条件の愛と無条件の慈悲を持つエネルギー源であり、あらゆるところに存在します。

外にある「大いなる光」と、内にある「大いなる光」とは、まったく同じものです。けれどもそこには膜があるように見えるので、この真理があなた方には見えないのです。

この二つのパワー源が意識の中で合流すると、膜は消え去ります。すると、雑音を生むエゴという自己は、実在しないのだということが見えてきます。肉体はいつかはなくなってしまう非常にはかない容器にすぎず、それを自分の意識の焦点からはずすことはいつでもできるのだ、ということをここで人は悟ります。

すると、自分の意識を個々の部分に向けるのではなく、「なる自己(全ては神ご自身であり愛しい私という意識)」に向けることができるようになります。つまりその人は覚醒するわけです。そして自分の本質(真我・根源)を知るのです。

人生の目的(悟り・解脱)とは、これらのパワーが一つ(分離は幻想であり・全ては愛しい私・神のみが実在という意識)になるのを体験することです。

二つのエネルギーの場のあいだに立ちはだかっている薄い膜だけに意識が向けられているときには、分離意識がうまれます。「神なるパワー」が外側から攻勢をかけ、自身の内なる神も声を大にして叫んでいるというのに、このカーテンに心を奪われてしまった人々は、それから目を離せないでいるわけです。

カーテンはそれ自体の法則にしたがって運動しており、それはエゴの運動の法則なのです。エゴのカーテンは、エゴのエネルギーでよって動いているのです。

神のエネルギー(神我キリスト)は、心の扉がわずかでも開くのを待っています。内側からあなたを満たそうと待ち受けている神のエネルギーが存在するのだということを信じてください。

 あなたがエゴのカーテンから意識を離し、「大いなる光」について考えるたびに、新しい扉が作られて行きます。瞑想するたびに、自動的にカーテンから意識が離れます。二つの分かれている神のエネルギーの場を一つにするのだという意図を持って、何らかの瞑想をしてみてください。やがて、内なるパワーと外なるパワーの感覚がだんだん実体を持つようになっていきます。

問題を見つめることでは、イメージ法のパワーは生まれてきません。問題に対する完璧な答えだと思えるものを、全幅の信頼をもって見つめることから、そのパワーは生まれます。潜在意識は、受け取ったイメージをあなたの人生に具現して見せてくれます。この方法で、人生の古いパターンを変えることができます。崇高な考えだけを抱き続けるのには、固い決意が必要です。最後までがんばる意志の強さと忍耐力も必要です。

人は、出来事をあるがままに体験するのではなく、異なった考え方や行動をとるように習慣づけられています。こうした考えは、絶え間なく生まれたり消えたりするばかりで、これらは分離意識を生むタイプの思考です。

区別や決めつけこそが、私達がなくしていかなければならないものです。出来事のなかに存在する神に意識を向けるようにしてください。
それが何であれ、すべては神(神一元・愛一元・光一元)なのです。

創造とは、何か物を作り出すことではありません。それは大いなる創造者自身の持つ感覚です。すべてはもう完了されているのであり、かつて何かがなされたということもありません。

自分に関する嘘(これまでまわりの世界があなたについてきた嘘)を信じているとエネルギーを奪われ、ムダな努力にエネルギーを浪費してしまいます。そうした固定観念を打ち破ってください。嘘が破壊されたあとに、真理が残るからです。
<心の中心(潜在意識の奥底))>には、「神意識」のあらゆる面が存在しています。そこは、神の叡知を確実に反映してくれる唯一の場所です。

<神を体験している>と言うと、嘘になります。体験と神とが存在するわけではありません。ただ体験だけです。そして体験のなかに神が存在します。自分はすでに悟りの体験をしているのだとわかると、自分のなかの<求める人>の部分が、求めることをやめるようになります。

言葉のゲーム(よりすばらしい言葉、より感動的な言葉を考え出すという無意味なゲーム)があなたを永遠の<求める人>にしてしまわないように、内なる静寂に心を落ち着ける必要があり、それで瞑想という方法を使います。(具体的な瞑想方法は、73ページ参照)
そのパワーは、常に一定の率で機能しています。人によって神を体験する方法は違うかもしれませんが、神のパワーには違いはありません。

意識の深いレベルでは、人は、自分が誰であり何であるかを正確に知っています。何も考えないで、自分自身の中心を感じ取るようにしながら心を静めていくと、自分の中のエネルギーが増えるというか、高まっていくのを感じることが出来ます。

自分がすでに悟りを開いた存在であることを自覚するという目標に対して、これらの嘘(反復を通して教え込まれた固定概念・偽我)が、悟りを体験できないような方向に絶えず人を押しやっています。心の奥に潜む固定概念の力を過小評価してはいけません。霊性を高める努力をいつまでも続けなくてはならなくなるのは、これらの嘘によって創り出された葛藤のせいです。
自分に関する嘘を、自分の本質に関する真実で置き換える作業を始まることです。

考えることをしないでただ体験しているとき、自分という存在の神秘のパワーとすばらしさを人は体験します。神は無条件にすばらしい感覚を与えてくれます。それが神かどうかを知る方法です。

<神を求める>努力をしつづけるには、自分と神との間にはどんな分離も存在しない(父なる神と私は常に一体である)のだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決心が必要です。人は自分が「大いなる源」から出て、「大いなる源」をあとにし、今の人生に入ってきたと信じていますが、人は一度も「大いなる源」を離れたことがないということです。それは人というものの「本質(真我)」なのです。

瞑想の時に広大な広がりを見せるのは、不変の意識の中の「私(神性意識)」です。「大いなる光(神我キリスト)」を見ることが出来るのはこの「私(真我)」であり、「大いなる光」であるのもこの「私」です。それは目撃者であり観察者です。それは決して変わらぬものであり、すべてを眺めるものです。

第4部(帰還)よりの一部抜粋です。

永遠に存在するエネルギーの波には、何十億何百億という点状の光源が含まれています。この波が純粋な覚醒のなかを通っているわけですが、純粋な覚醒は波ではありません。純粋な目覚めた意識が波なのです。純粋な覚醒には形がありません。それは虚空です。輪郭も形もないので虚空と呼ばれています。また、無とか潜在的可能性とも呼ばれています。
この虚空の真ん中にはすばらしい広大無辺の波があります。それは外へ拡がっており、この形のない虚空に支えられています。あなたもこの波の一部です。
(私がこの宇宙の外に出たとき、そこには何もありませんでした。そこにあったのは、虚無でした。)

人々は、神は無形ではないと信じています。神とは形のないものを人格化したものです。そのように人格化されたものが、いわゆる「ハイアーセルフ」と呼ばれるものです。人格化された神にもエネルギーの波にも形がありますから、両方とも純粋な目覚めた意識だということになります。一方、純粋な覚醒というのは、あらゆるものが完璧に調和しており、したがって完全に静止している(あらゆる潜在的な可能性を含んでいる)状態です。

意識のそれぞれの断片が、今では自分自身の可能性を生み出し、自分の人生や現実を創造し、「自分とは何なのか」という自己感覚を生み出す能力を持っています。
人間は、自分たちで作った時間と空間の連続性という概念にとらわれているので、あらゆる瞬間に自分は目の前にあるものを創造しているのだ、という内なる知識を失ってしまいました。
祈りや瞑想や内観に効果があるのは、小さな自己から意図的に意識をはずして、意識のもっと広大な部分に目を向けたです。その結果、その意識のなかにあるものや、「自分の本質」の広大無辺を体験するということが起きたのです。最高の意識としては、潜在的可能性の中心にある純粋な覚醒に入ることもできます。
人が能力の限界を感じる主な原因は、時間と空間です。

さまざまなものを創造するのに、人はそれぞれ違ったエネルギーの部分を使います。二元性の世界を越えた、もっと大きなものを創造したいと願うならば、無限のエネルギーが存在する波動に自分を合わせる必要があります。肉体や精神や感情が生み出す雑音を消したときに、もうひとつの創造的なエネルギー、つまり純粋な覚醒の存在に気付くことができます。そのなかに入ると、ただちに純粋な覚醒を感じ始めます。そこには思考も識別も形もありません。心を静めて、純粋な覚醒のなかに入り、それを感じてることです。
(私の場合、キリスト意識の一部が表面に浮上すると高波動に包まれ、時空を越えたり、多次元に行くこともあります)
 私の体験と本の内容がほとんど合致しているので、バーソロミューの話は本当だと思います。(捉え方の違いはあると思いますが)

マザーテレサが祈りを捧げているそのあいだほとんど、小さな自己の感覚もなければ、肉体や精神や感情の存在すらなくなっています。ただそこには覚醒意識があるだけです。
彼女が純粋な覚醒になりきっている祈りの時間に、彼女の肉体は純粋な覚醒の創造的なエネルギーで満たされます。彼女の考えていることは実現するのです。マザーテレサが「創造するエネルギー」の実行体になったからです。彼女は意識の焦点を自分自身からからはずし、彼女の言う「神の愛の心」、そして私の言う「純粋な覚醒」に向けます。それから自分の全存在をそれで満たします。

絶対的可能性の静寂のなかから生まれて、形のある創造界に突入してきた光の粒子、それがあなたの本質です。あなたの細胞の粒子の一つひとつに、「覚醒」が組み込まれています。

「大いなる光」をあらゆるもののなかに見、自分が「大いなる光」であることをいつも覚えていると、内なる安心感が築き上げられていきます。そうすると、やがて真理が見えてきます。

悩みや苦しみを生む考えや感情から自分を完全に切り離したいのなら、より高い波動へ移ることです。最も高い波動は神の波動であり、それは愛の波動です。

あらゆるものの本質は愛です。「大いなる光」以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やがて来ては去っていく、つかの間のはかない障害物にすぎないのだということがわかってきます。愛の波動こそが人を安全に守ってくれるものです。

覚者というのは、最も深いレベルで、安心して自分の本質になりきっていますひとはそれを<すべてを神にゆだねた状態>と表現します。それは捨てることの最終的な究極の姿です。今起きていることのすべてに意識を向けてください。それから、自分の感情や緊張や周囲からのプレッシャーについて考えたり理解しようとしたりせず、それを解き放つのです。このプレッシャーを創り出したのは自分自身なのですから、それを捨てることも自分でできます。

自分が今この瞬間持っている意識のレベルから出発してください。瞑想を続けてください。読書を続け、無限ということを理解できるようにと祈るのです。そうすれば、意識に関する真理がおのずから明らかになるでしょう。
意識の拡張は可能であるばかりか、必然なのです。意識の拡張が必然なのは、それがあなたの本質の一部だからです。人間としての現実生活にとらわえていない広大無辺の部分があって、それが常にあなたのなかを流れ、前進するよう、促しています。

小さな自己から無限の自己へと飛躍する力を身につけると、多くの可能性が開けてきます。肉体をリラックスさせ、肉体そのものになると、変容の過程が加速します。深い呼吸をし、肉体を感じてください。
意識を拡張する練習を始めて、体の外に出ていく体験(狭い自己の概念から解放された状態)をするようになると、自分の意識を操作する喜びを知るようになります。自分が完全にここにいて、しかも同時に拡張しているのだということがわかるという、すばらし体験をすることができるようになります。

自分は拡張された覚醒意識と無限の創造力を持つ、幸せな人間になると決心すると、その決心と潜在的可能性とが混じり合いはじめます。こうした自分になりたいと宣言すると、それを助けてくれる宇宙意識のパワーを自動的に呼び寄せるのです。この宇宙意識は、人間界、そしていわゆる「高次元」の両方からやって来ます。それはとても膨大ですばらしく、有益な溢れるエネルギーの場です。

「ハイアーセルフ」は、潜在的可能性に満ちた別の創造物で、それがまた、別のもっと広大無辺な球形の意識を創造します。そうした創造物を使う能力に限りがあるとすれば、それは、自分は一つの現実から別の現実へと移動することはできないという、その人の思い込みだけです。

あなたは数兆個の光とパワーの点からなる、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。あなたという存在を構成するパターンの脈動は、無限大に異なる運動を通して、他のすべての物質や創造界のパターンとつながっており、そこには複雑で美しい「ネットワーク」が作られています。

意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外に出たと感じます。「自分」と「他者」が存在します。人が実際に「死んだ」とき、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされたとき、「その人」は「自分」のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となっていきます。このパターンは、自分を基本的パターンを構成しているものと同じ霊的実在なので、それと融合できます。

覚醒意識は意識的に手に入れるものです。覚醒意識のパワーをこのすばらしい肉体のシステムに応用しなければ、脈動するパワーを発射したり、そこから生まれるいのちを感じたりすることもありません。

瞑想をするとき、「あなた」のエネルギーの場と「神」のエネルギーの場とがいっしゃになって、一つのパターンを持つパワーとして脈動することが可能です。その場を離れたあとも、古いパターンは変化してしまい、もっと広大で深い波動を持つ、新しいパターンが代わりにできます。

大いなるいのち」は、体のあらゆる細胞のなかに感じることができる脈動のパターンです。この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸です。

脈動するパターンは、その体験に神秘と感動、そして目的と完全なる喜びを与えてくれます。脈動するパワーの無限の叡知が、人生のあらゆる瞬間を流れています。この電磁的な脈動にはいのちがあります。あらゆる瞬間に、それが自分の肉体や感情体や精神体をかけ巡るのを感じるようになります。それは、体が感じることのできる最高の感覚です。
(私の場合、呼吸法を使ってブロックをはずし、内なるエネルギーを全身に回すことで波動を上げていくと、キリスト意識の一部が浮上して全身が高波動に包まれることがあります。この時のエネルギーは体の中を流れいて、それでその波動の持つ性質を感じ取ることができます。感覚的なことですが、エネルギーが内から湧いてくると感じる場合と外から降りてくると感じる場合があります。両方の時も)

121、122ページと130から132ページの瞑想を使ったエネルギーを感じる練習は、とても役に立つ重要なものです。
瞑想やワークやセッションに参加して、エネルギーを体感(愛・喜び・慈悲・感謝など)することによって、教えが実感できるのではないかと思います。エネルギーが体の中を通ることによって、感情が湧いてくるようです。


知花敏彦 ✵ まなびの会様からの一部引用ですが……♬

生命には大きい、小さいは無いということです。普遍生命ですから、区切られていませんから。。。これが、『宇宙即吾』という境地です。宇宙我です、普遍我です。これを宇宙意識・普遍意識・神意識といいます。
                      知花敏彦師の記事♪

zeraniumの掲示板様のバシャールのメッセージですが……♬

Q、 我々が神様とか仏様とか呼んでいるものの正体は何ですか? また実際に地球にいたといわれるキリストや仏陀の正体は何ですか? 

エササニ星人・バシャールさんの回答   
バシャールの記事♪
 
 今、言ってくださったすべては、実は深いところでは全部「みんな(神は全ての全て在りとあらゆるもの」なのです。
 特に、神と呼ばれる部分は全部「みんな(大いなる一)」です。神というのは、そこにあるすべてのもののことです。すべては神で創られています

 一つのものは、一つであると同時にすべてのものでもあります。簡単にいうと、キリスト意識、仏意識というのは、今言ったものを小さくしたものです。
 キリスト意識、仏意識、また社会意識というものは、地球上のすべての意識でもあり、同時に集合的な意識でもあります。すべての世界がそういった観念を持っています。

 私たちの世界では、非常に古代ですがそうした意識はシャカーナと呼ばれていました。私たちのシャカーナ、あなた方のキリスト意識、仏意識、そしてほかのすべての物が一緒になって神の意識を創っています。

 私たちにとってそれは自分から離れた別の存在ではなく、本来自分の中にあるものであり、自分自身がそうであると思っています。椅子も神、部屋も神、空気も神、すべてが神です。

なぜならすべてが光のエネルギー(光一元)で出来ているからです。
 神が宇宙を創ったというよりも、もっと正確に言うと、神そのものが宇宙(宇宙は一つの生命体・神一元・愛一元・光一元)だということです。


ここからは過去記事からの引用ですが……♬

2012年アセンション最後の真実―マヤ予言の秘密とクラリオン星人の啓示…魂の5次元上昇が今、始まる!!から引用させて頂きました……♬

カルマの解消の仕方  

 カルマという言葉を聞いたことがある人の多くが、それを「罪と罰」というニュアンスで捉えています。しかし浅川氏の話を聞くと、それは正しい理解ではないようです。

 繰り返しになりますが、カルマの法則とは因果の法則です。原因があって結果が現れるという仕組みになっているので、その結果(果)が出た段階で原因(因)は解消されてしまいます。

 これがカルマの法則です。ところが人間は愚かにも、そこからまた新たなカルマを生み出してしまうことが多いのです。

 例えば、Aという人がBという人を殴ったとしましょう。こうしてAが負ったカルマは次の生ではBに殴られることで解消されます。ところが、その時にもしAがBを傷つける言葉を発したら、Aは新たにカルマを作ってしまうことになり、それを解消するために来世で再びカルマの刈り取りが必要になって来るわけでです。

 このような事が起きうるために、カルマの解消には「目には目を歯には歯を」といったシンプルな方法だけでなく、次のような3つのパターンがあるのです。ここで整理してみましょう。

1.相応の報い

これは「目には目を歯には歯を」式に、自分が相手に与えた苦痛などを逆の立場で体験する事によるカルマの解消法であり、いうならば一番原始的な方法です。前世療法を研究しているカナダのトロント大学帷幕部教授ジョエル・L・ホイットン博士によると、こういった方法でカルマの解消を行う人は心が十分に成熟していない事が多いそうです。

2.償いの法則

これはマイナスの行為がプラスの行為によって帳消しになるという、償いの法則に則った解消法です。つまり、悪因は全員によって償われて消えていくのです。私は本書の中で徳積みの大切さを説いているのも、それこそが、徳のカルマを解消する特効薬となるからなのです。

3.大いなる真理への気付き

魂や宇宙の本質に気づいた時にもカルマは解消されます
なぜ、自分はそのカルマを負っているのか?なぜ輪廻転生の繰り返しの中で何度も同じ苦しみにそぐうしてしまうのか?この世にカルマの法則が厳然として存在しているのはなぜなのか?魂の成長とは何か
・・・・・そういった事を正しく理解して生き方を改めた時、もはやそのカルマの必要は無くなり消えていくことになるのです。

 カルマの法則とは魂の成長のための機会であり、「罪」に対する「罰」だけではありません。だからこそ、魂の成長が為された時点で、それに関係していたカルマは解消されます。これはもっと高度なカルマ解消法だと言えるでしょう。

 カルマの発動とは単純にマイナスの行為の裏返しを体験するだけでなく、そこから多くの学びを得ることにも繋がる(全て善し)という事を理解するのに、役立ちそうな事例を紹介しましょう。

 それは、『黎明』に掲載されたもので、試薬の瓶を運んでいる最中に手を誤って手を滑られて割っていしまい、劇薬に硝酸が目に入って失明しかかったある男性の体験談です。

 彼はローマ時代の戦士だった前世があり、その転生時において問題になる事件があったのです。その時両親は既に亡くなっていて、当時は17歳だった妹と二人暮らしでした。友人の戦士と妹が恋仲になり、やがて妹の結婚が迫った時、彼は妹を手放したくない一心から、彼女が不具になれば友人も結婚を諦めてくれるだろうと考えて、妹の目を刃物で突いて失明させてしまったのです。
 
 結局、彼の友人は寛大な心の持ち主であったために失明した妹と結婚して彼女を幸せにするのですが、その時のカルマによって、今世において、彼の目に劇薬が入るという事故が起こったというわけです。
  
 彼はその事故が起きた段階で、ある程度覚醒が進んでいたため、幸いにも適切な処理方法を指導霊から教えられて失明を免れ、しばらくして視力は全快する事になったのです。

 魂の目的は、精神的に何かを学ぶかという点に有るわけですから、カルマの法則も、他の人に対して行った事が単純に自分に跳ね返ってくるというだけではなく、その本人の意識が高まって、自分の身に起きた出来事から学ぶべき教訓をきちんと身につけた場合には、カルマは和らげられ、また消滅することもあるという事実がこのケースから見て取れます。

 なお、この事例に登場する彼は今世ではヒーラー(治療家)となり、ローマ時代の妹の生まれ変わりにあたる女性を自分の患者としてずっと治療にあたっています。

 実は彼女は生まれつき視力が不完全だったのですが、彼の事件の時を同じくして全快したそうです。

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


宇宙の法則 から引用させていただきました(**)すべての記事

お釈迦様がこの方式で転生をして、火星をかなり平和な星になされたという話をネットで見たことがあります。(※過去記事から発見したので追加しました)

転生の法則

「魂が作られると、学習と成長の全パターンが魂のために設けられ、そして、その記録が刻まれるのである。」

 このパターンでは、それほど厳密に設定されているのではなく、かなり柔軟なものです。魂はその成長のレベルを自由に加速出来るし、またある場合には、その生を試行錯誤しながら切り抜けたり、(予定されていた)達成レベルに届かないままにしておいても構いません。

 また、1つの転生と次の転生の間には、明確に定められ限られた時間が、魂のためにとってあります。それも進化の中で魂が成長するにつれ、転生と転生との間は長くなります。

 魂のパターンの中に残っている転生予定が3~4回になった時、その魂は、何百年間も新たに転生しない事を選ぶ事が出来るのです。進化が初級あるいは中級程度の時は、ある一定の時間の感覚をもって転生が行われます。

魂がある星に、唯一1回のみの転生を選べる時は、神への奉仕のために生を受ける時だけである。」

 どの星にも固有の波動があり、その星での転生パターンがほぼどれくらいの回数に及ぶか決まっています。例えば、惑星地球に最初に転生した魂は、いわゆる神との「契約」で、48回から72回の転生を経験する事になっています。

 進化の遅れている魂には、遅れを取り戻すために、早い成長と進化が望めるような転生をする事も出来るのです。

 このような形で転生を行うのは、星の波動と社会の波動に調和を保つためなのです。普通、魂は自分より低い波動の文明には、自ら進んで転生しようとは思いません。

 特別な魂のみが、即ち神への奉仕の任に耐える魂のみが、ある特定の星の波動を上げるのを助ける目的で、意識的に霊的な師として、あるいは教師として自分より低い波動の星での奉仕を選びます。

 この特別の魂はいわゆる「エイリアンソウル(宇宙からの魂)」と呼ばれ、それに値する能力を持って活躍します。通常の進化のコースでは、このような低い波動への降下は、降下したその魂とその星に住む人々との調和と均衡を乱してしまいがちです。

「もしも、エイリアンソウルが、その奉仕の選定を低い波動の中で行い、その生を予定されていたように成就するのが困難になり、自殺とか、狂気とかの異常な方法でその人生を去る時、その魂は、神への奉仕のパターンの責任から開放されて、奉仕が始まる前にその魂が本来属していた領域に戻る事が許される。」

 この理由はいたってシンプルです。神は魂に罰を与えたいのでもなく、また、魂の波動を痛めるような事を望まないからです。

 このような事態に至れば、この魂は、前のような低い波動の世界に、スムーズに再び入っていくための、広範囲な再教育をけることが必要になるからです。


金星、地球、火星 - スピリチュアルな日記 - Gooブログ

金星、地球、火星

2006-11-01 22:23:06 | spiritual

シュタイナーによれば、金星、地球、火星はとても関係の深い姉妹星だと言われています。
生まれた順番は、火星>地球>金星の順、でも霊的な進化の具合は金星が一番進んでいるらしい。太陽と一番長い間、一体だったからです。それ故金星には霊的な進化した人々が住んでいるといいます。
一方、一番早く生まれた火星は霊的には地球より未発達で、火星の人には地球人のような自我が存在しない為、感情の抑制ができず争いが絶えなかった。マーズが戦神と呼ばれるのはそのためだとシュタイナーは語っています。

仏陀は地球に釈迦(ゴータマ・シッダルダ)として生まれる以前、実は金星で輪廻転生を繰り返した。そして最後の転生を地球で行い、そこで如来となり地球の人々に真理を伝えたのだといいます。
その後仏陀はイエスを守護し、キリスト降臨の支援をしました。キリストは仏教で言う毘盧遮那仏です。また大日如来とも言います。宗教の世界ではキリストと仏教は対立的に語られていますが、霊的実像としては元々同じ存在なのだとシュタイナーは主張していました。

キリストがイエスの身を借りて地球に降立った後、仏陀は火星の進化を助けるため、17世紀頃に火星においてイエスの行ったような活動を実施したと言われます。
その結果、争いの星だった火星は進化を遂げ、地球に対しても悪影響を及ぼさなくなったということです。

これらの話を臨死体験前の私が聞いたとすれば、おそらく何かの寓話だと思ったでしょう。現代の常識からすれば恐ろしく突飛な話です。

一方最近気になる話で、京都の鞍馬山の伝説があります。
鞍馬山には650万年前、護法魔王尊が地球救済の為に、金星から降立ったと言う伝承があります。日本の伝説が大抵「昔々、天の方から・・・のミコトが」という抽象的な表現なのに、鞍馬山の伝承はやけに具体的で年、場所がはっきりしています。
金星人は物質的肉体こそ持っていないでしょうが、極めてリアルに存在する気がしています。


この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー


真の愛とは何か 愛ではないものとは

地球の人々の最も深い関山事のひとつは愛であり、愛とは何かということだと思います。

愛とは、本当は非常に単純なことなのですが、地球界では、多くの錯覚や誤解に満ちた概会になっています。そこで、「愛ではないものは何か」ということについて考えてみたいと思います。

自分には愛し愛される相手がいると感じている人たちは、自分たちの愛を非常に強くて深い、決して変わることのない感情であると思っています。
ここで問題になるのは「決して変わらない」という言葉です。

一見すると永遠につづくと思われる強い愛も、よく観察してみると、決してそれが永久に続くものではないことに気づきます。

ここに深くて変わらぬ愛を抱きあっていると思っている二人がいるとします。このふたりが人生を共に歩むにしたがって、ある日、奇妙な事が起こります。

ふたりにとって重要な問題に関して、大きな意見の食い違いが生まれたのです。このような状況にどう対処するかは人によって違ってきます。

ふたりがインテリの場合は、それぞれが自分の立場を正当化して議論をするでしょう。
ふたりが、怒るのは良くない事だと考える「いい人」であれば、自分の不満をそれとなく間接的に表現するでしょう。

また、感情的な人たちの場合には、怒鳴ったり、わめいたりする事になります。いずれにしても、これらの言動はどれも怒りや恨みの表現であって、愛情表現ではありません。(感情の愛・盲愛)

こうした状況においては誰も愛を感じることはできません。
自分の夫婦関係や恋愛関係を注意深く観察すると、このような摩擦が何度も起きていることに気がつくはずです。

一般に愛と思われているのは、実は、引力のように惹きつけられる「魅惑」という感情の動きです。
そして、この引力には反発という感情がついてきます。
この相反するふたつの感情は常に共存しています。

現在、深い愛情関係にありながら、この魅惑と反発の感情が共存していることを認めるだけの正直さを持ちあわせない人に対しては、私から何も言うことはありません。

誰かに心を動かされているからといって、その感情を愛だと思いこむのは単純すぎます。
自分の心のなかをよく見つめてみると、非常に意地悪で否定的な感情や恨み、利己的な考えもあるのに気がつくはずです。

それは、とても人間的なことです。
ではここで、愛とは何でないか、という点について考えてみましょう。

愛は自然についたり消えたりするものではありません
ある日あったものが、次の日にはなくなっている、というようなものでもありません。それは愛ではなく、感情です

愛とはワクワクするような華やかなものである、というイメージを捨ててほしいと思います。
愛とは魅惑的なものであるという考えが誤りであることに気づき、自分の人生において大切な人々に対して抱いている本当の感情を理解した時に、やっと愛とは何かを理解できるのです。

愛とは何かということが、なぜそんなに大事なことなのでしょうか。
自分は最高の愛を経験していると感じている人も多いことでしょう。
しかし、私の目から見ると、地球の人々は最もすばらしい愛をまだ経験していません。

最高の愛とは、人々が考えているよりはるかに素晴らしく(真の光悦感)、地球界で言われる「最高の愛」はそれに比べると色あせて見えます。

ここでヒントを出します。それによって、恋愛関係にあるとき、人がとる行動についての誤った思いこみを捨てる助けにしてください。

まず、自分が非の打ちどころのない完壁な恋人であると思っている(反省出来ない)人は、自分を変えようとは決してしません。

一方で、恋人に対して自分の思いやりの足りなさを率直に認める(内省する)ことの出来る人は、自分の行動を変えることをいといません。

自分のなかの思いやりのない部分に気づくということは、他人から学ぶという姿勢を持つことで、柔軟な思考を必要とします。

この姿勢は、大いなる自由―「人間界の幻影の鎖を解き放ち、無限の可能性に目覚めた状態」を得るために通らなくてはならない過程において重要な一歩です。

では、誰から学んだらよいのでしょうか。それは、学ぶ人がどんな人で、どんなタイプのものにその人が惹かれるかによります。

経験者の助けを借りるのが嫌いな個人主義者の場合は、ふつう自分自身の経験から学ぶことになるのですが、この方法はとても困難です。

本質(神我)と幻影(自我・偽我)を常に判別できるとは限らないし、時には、わき道にそれて、つまらない退屈な人生を送ったりしてしまいます。

最も簡単な方法は、すでにその道を切り開いた先駆者(知花先生)を見つけ、自分にあった方法でその先駆者から学ぶことです。

これには色々の方法があります。この先駆者は生きている師やグル(導師)でもかまいませんが、他にも先駆者はいます。

多くの先駆者はすでにこの世にいませんが、あゆんだ軌跡をはっきりと残しており、本を通してそれを知ることができます。

そうした本のリストから「これだ!」と感じるものを見つけてください。
そして※本物の愛、大いなる愛へ一歩でも近づけるよう、その先駆者の助けを借りてください。
(※、知花敏彦先生上江洲義秀先生  神我の記事は良い先駆者かも♪)

まず、あなた自身のなかで、どういった分野で愛情を持った行動がとれないのかを見つけ、それから、あなたの求める「大いなる愛(大愛・真の自己)」の状態を実現(神我顕現)し行動に移している師を探してください。

師は、必ずしも現在生きている人でなくてもかまいません。
肉体を持っていないからといって、その人の力強い生きた叡智を学び取れないということはありません。

人聞は個々別々の肉体を持つバラバラの存在だというのは地球界の幻影(自我・偽我)であって、高い意識の観点(普遍我・宇宙我・キリスト意識・全てに神を観る)ではないのだという事を理解してください。

では、肉体を失うと、その人の叡智はどこに行くのでしょうか。
叡智は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原(愛の光)の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。

偉大な真理や叡智(普遍不滅の大霊・真の自己)は死滅することはありません
真理や叡智そのもののなかに勢いや速度(全ては波動)というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)の中を動きまわっています。

真理を求めたり、求道の思いに導かれたりするのは、そのような真理が宇宙のエーテル体(宇宙生命・大愛)の中に存在するからなのです。

そのような叡智や真理を自分に引き寄せ、それを実感することは誰にでも可能です。

たとえば、自分にとっての真理の道はキリストまたはキリスト意識(神我)を体現化した道を歩むことだと決心したとします。
その場合、キリストの愛と叡智を今の時点でも受け取ることができます。

ここで私が言っているのは、二千年前に示された、神の真理を肉体を通して現したパワフルで創造的な叡智(真理・宇宙法則)であって、現在、キリストの言葉として信じられている単なる宗教上の解釈のことではありません。

キリストの没後、人間の言う「連続する時間」の流れの中のどの時代においても、キリストの道を歩む者なら誰でもこの真理に生き生きと触れることができました。

そして、これらの人々の存在が真理の勢いを今まで維持してきました。
すぐれた使徒はこのようにして偉大な師に仕えるのです。

つまり、使徒は学び、理解し、教えを身につけ、さらにその教えに心を注ぎ、行動し、自ら体験することによって教えを生かし、「後世に残して」いくのです。

ですから、使徒が教えを身につけ、それを実践することは、師に対して大きな貢献をしていることになります。
このような教えを地球界で実践することによって、教えの真髄をより実際的に理解することができるようになります。

ですから、宇宙の「大いなる叡知(宇宙真理)」と結びついた偉大な師(知花先生・上江洲先生)の誰とでも、今、交流することができるのです。

あなたが自分の進むべき「道」を選び、その道に従って生きようとするなら、まず、心を完全に開いて「大いなる叡智」が何らかの形で自分の前に現れるように謙虚に(神に)祈ることです。

(※神の御心(大愛)が我が中で行われますように貴神(きしん)の想い我が想いへとならせ給え・貴神の言葉我が言葉へとならせ給え・貴神の想い我が想いへとならせ給え、(by知花先生)等々♪

そうすると、あなたの人生にいろいろなことが起きはじめます
その起こり方もさまざまです。

たとえば、何年も前にもらって読まずに放っておいた本が急に読みたくなったり、前に読んだ事のある本がまた目に入り、今度読むと以前とは違った新しい事を発見するということがあったり、また、友達から何かもらったり、新しい考え方に巡りあったり、といった事が起こります

地球界の人々の感覚では、こんなことは日常的な取るに足らない事に思えるかもしれません。しかし、宇宙の叡智との結びつきを知ろうとするなら、こうした小さな出来事に心を留めることが必要です。

大いなる自由(解脱・覚醒・アセンション)」を求める心が真摯であれば、「広大無辺なもの」(宇宙の無限の存在)はあなたの探求を速める手伝いをしてくれる事がわかります。

今まで思いもかけなかったような人たちに出会うようになり(シンクロニシティ)、さらに、さまざまな事が起こりはじめますが、それが単なる偶然で起きているのではないという事を理解しなくてはなりません。

なぜなら、これらすべてはあなたという存在の「あり方」そのものが強力なメッセージを宇宙に送りだしているために起こっていることだからです。

助けてください。私にはこれが必要です」というあなたの求めの声が宇宙に流れたからなのです。
こうして求めるものが明確になり、それを自分という存在の「あり方」の中心にすえたときから、自分のまわりで何かが起こりはじめます。

このことが愛といったいどういう関係にあるのでしょう。
実はこれらすべてが愛と関わりを持っているのです。
愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。

自分の中や自分の周りにあって、自然に流れ動く(存在する)ものが愛なのです。そして、その人のあり方(裡なる神)そのものが「崇高なる愛」なのです。

しかし、このことに地球の人々はまだ気づいていません。
人々は、愛を非常に狭いあやまった見方で見ています。

ある肉体が別の肉体を好きになったり、自分のまわりの少数の肉体に好意を持つことが愛だと思っています。これは全くナンセンスです。

愛とは行為や行動をさすのではありません。
愛のただ中にいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方(愛のみが実在との気付き)そのものだという事実です。

人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。
愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。
あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。

それは「大いなる源(創造主)」(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられはじめから人間にそなわっているものです。
すべてのものはこの「大いなる愛(大愛)」から創りだされます。

ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。
どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。

とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心の中から沸き起こってきます。
これが「大いなる愛」です。

(感情・マインドで)誰を愛するか誰を愛さないかを、いつも自分で選んできた人々にとってこれは信じがたいことかもしれません。

あなたは一日のうちに何回も、自分の心の中から思いやりや、相手の気持ちを理解する心が自然にわき上がってくるのを経験するようになります。

このような感情は必ずしも誰かに向けられた情熱的な感情ではありません。
むしろ、日常のちょっとしたことから生まれる小さな心の動きです。

自分では意識しないような、日々の小さな出来事のなかに織りこまれている感情です。

他人とのいさかいなどから目を離して、このような感情の動きにもっと注意を払うようにすると、そうした感情が強くなり、もっとひんぱんにそれを経験するようになります。

愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したり出来るものではないという事を忘れないで下さい。あなたに出来る事とは、愛を体現していると思う道に従うことだけです。

真の自分とは何か(大愛・全一体感)、自分とは何でないか(自我・分離感)、という事が解ってくるにつれ、この愛の真理に気づくになります。

人生に対するこれまでの幻影(分離感)がはがれ落ちると、それに代わって入ってくるのが、「大いなる愛」という、ダイナミックなパワーです。
このパワーは「神なる源」の主なエネルギーのひとつです。

このエネルギーは、あなたの中を流れて外界に出ていき、そのたびに勢いを増していきます。この(愛の)エネルギーは観察することができます。

行動に現れた愛として見ることができます。
ただし、現在、地球界で見られるもののほとんどは個人対個人の愛の行動で、「大いなる愛」はほとんど見られません。

自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。

性的な魅力を感じていることや、友情や、親としての本能的感情などに見られる愛は、自分はますます愛情深い人間になりつつあると思わせるために、その人のエゴが使う手立てにすぎません。

では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。

自分の心をよぎる全ての人、自分の目の前に現れる人の全てに対して、温かい思いやりの心とその人達の気持ちを理解する心

(全てを許し愛する寛大な心)を持つことが出来た時、その人は本当に愛情深い人という事が出来ます。

殆どの人は、いい仕事を持ち、愛する人々に囲まれていれば、自分の人生はうまくいっていると考えます。

これもまた地球界の人々が抱いている幻影の一部です。今はまだ多くの人が、このような感情的な愛を本当の愛と勘ちがいしています。

自分の人生を誰かのために犠牲にしようとしている人は、もう一度考えてみてください。
相手がいつもひどい事ばかり言うような場合でも、あなたはその人に対して美しく、清らかな愛情を持ち続ける事が出来るでしょうか。

このような愛情関係においては、ふつう、それぞれがその関係から何を得ているかということが問題となります。
たとえ、自分にプラスになるものを得ていなくとも、その関係から何かを得ている限り、その人はその関係をつづけるでしょう。

けれども、その関係が変化して、自分が望むものが何ひとつ得られなくなったときに、「愛がさめた」とその人は言うのです。

恋におちいることができるということは、また、さめることもできるということです。
人間のエゴから生まれるこのような愛情関係のように、やって来たり去っていったりする愛情は本物ではないのです。

自分の感じている気持ちが「大いなる源」から生まれる本物の愛なのか、または、エゴの生みだした単なる幻影なのかを知るには、

自分がその瞬間抱いている感情や思いを見つめ、自分の周りでどんな事が起ころうとも、この気持ち(全ての全てを愛する心)を常に持ちつづけることが出来るだろうか」と自分に問いかけることです。

もしその気持ち(真の愛)を永遠に持ち続ける事が出来ないのでしたら、それは地球界における浮かんでは消える人間ドラマのひとつにすぎません。

「神なるもの」が生みだす本物の「創造劇(愛と調和)」ではありません。
こういう感情(表面意識)にいちいち心をわずらわせなくてもいいのです。

この自分への問いかけは人生のあらゆる出来事に応用できます。
ある特定の出来事を心に思い浮かべると、そのときの気持ちや考えが不変のものかどうか、自分でわかるはずです。

不変のもの(大愛・愛と調和の想念)であれば、その感情は「大いなるすべて」の一部であり、大切にすべき感情(想い)です。

ここで私が強調したいのは、努力や意思の力で愛を得ることはできないということです。あなた方ひとりひとりがすでに愛そのものだからです。

ただ、この愛の状態を実感するためにあなたに出来る事があります。
それは愛したいと心から望むことです。これは誰にでも出来る事です。

自分に対する見方を(大愛・全てに感謝に)変え、他人との関係を(愛と調和に)変え、世の中に対する自分の態度を(愛と調和に)変えるのです。

自分の可能性の全てを(神の愛をこの世に顕現したい)生かしたいと強く望めば、あらゆる面において自分の態度を(大愛に)変える事が出来ます

もしもそれが信じられないなら、今、自分の人生にどんな愛があるかよく考えてみてください。本物の愛は現れたり、消えたりしません。
それ(真の自己・神聖な愛・神我)は(ハートの中に)常にあるのです。それが本物の証(本物のあなた)です。

あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。
そして(全てを)愛したいと強く望むことです。
その(愛を顕現したいという)強い気持ちが正しい道へと導いてくれます

正しい道を歩んでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。
真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます

こうした道は、最初はどんなに険しくとも、最後には愛に巡り会います。最初は愛に偏った道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。

愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。
どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。

どんな道を選ぶかはそれぞれの責任です。愛と叡智を自分のものとしていない師や、グルを、※まちがって選ばないようにしてください。
(※知花敏彦先生上江洲義秀先生が地球最高級の先生です♪)

愛を生みだす公式のようなものはありません。
何度も言いますが、愛のエネルギー(無限宇宙の大愛)はすでにあなたの中を流れています
自分の中にある愛に注意を向けなければあってもなくても同じです。

愛があなたの人生に役に立つのでなければ、あってもしかたがないではありませんか。

「大いなる愛」とは、あなたの求めるものすべてに対して休むことなく流れる深い愛のエネルギーであり変わらぬ思いやりの心です。
それはこの宇宙のすべてを創りだした「大いなる源」の一部です。

そして「大いなる源」の一部であるあなたの一部でもあります。
人間はひとりひとり別々の肉体と別々の心を持つ「大いなる源」とは関係のない存在であるという考え(分離意識)は、誤りであり、錯覚(自我・偽我)です。

すべての人間は「大いなる愛」そのものであるということを真剣に考えてみてください。あなたは愛(神・無限大の愛)なのです。
あなたが愛なのですから当然あなたは愛を知る事が出来ます



この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー


質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。

霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、
宇宙が命(大愛)に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる(許し愛する)心を持つにいたった人です。

自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。

それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。

というのは、この方法を長い間続けていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。

もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。

自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。

こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。

頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。

自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか

自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。
そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。

同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。

「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。
私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。

理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。
誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。
どうしてそんなことがわかるのですか。

また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。
過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。

それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。
自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。

けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。
頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。
そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。

自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。
人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。

そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。

他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。

※本質的(神我)には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。(※神・大愛は完全であり絶対善です

人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れ(分離感・自我・偽我)から人を傷つけるのです。

自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。
誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。

こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。
理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。

いいですか、よく聞いてください。
頭で人生を理解することはできません。人生はそんなに単純ではありません。自分で思うほど、あなたは単純ではありません。
あなた(の本質)は途方もなく広大無辺な存在(無限宇宙・神そのもの)だと、私は何回もお話したでしょう?

人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。

「頭(表面意識・マインド・自我)で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在(神)であることを否定しているのです。

したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。
あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。
そして最後には、「私とはこういう私(宇宙意識・大愛・神そのもの)なのだ」ということを(ハートで)理解するのです。

求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。

「広大無辺性(無限大の宇宙)」に法則を当てはめることはできません。
広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。

それはまるで、海辺に立って両手を広げ、
「波よ止まれ。なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。だから私はここに立って命令する。波よ止まれ」というようなものです。
不可能なことです。

弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」という考えを持ちます。

そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。

仮にこれが本当だとしてみましょう。師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。

では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。
あなたですか、師ですか。師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。

師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。
師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。

あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。

そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。

私はそうは思いません。今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分(裡なる神)だと感じているとします。
カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。

どうやって探したらいいでしょうか。
今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。

もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。

ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。
つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。こんなことが意味をなしますか。
私にはそうは思えません。

このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。
問題は、あなたが何かを知らないということではありません。

問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。
あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。

このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。

あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。

エゴはいつも、「心配するな。悟りはすぐそこだ。もう少しがんばれ。
すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」とささやきつづけます。

誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。それでは求める人になってしまいます。
前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。

求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。

私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。
何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。
一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。

人生はもっとよくなってはいきません。
自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。どうかわかってください。

「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。
未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。

今日こそが毎日です。
今日こそがすべての日です。
今日こそがその日なのです。

求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。体をこれ以上きたえることもできない。できることはすべてやった。できる限りの努力はした」

と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。

求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。
この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。

エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。
本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。

エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。
このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。
何しろあなたは神を求めているのですから。

神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。

ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。

まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。

どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。

一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。もしも一定のやり方があるとすればの話です。しかし、そんなものはありません。

既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。

このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。

このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。

こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。

何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。
気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、※神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。

※「神は汝の内にあり」「神と人は常に一体」が神理であり、悟りそのものですから、そこに気付くことが解脱にとって最重要♪

高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。
非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。

長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。

しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在の証である」とも昔から言われてきています。
この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。

次のことをどうかおぼえていてください。
自分は歩むべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分は守れていると感じはじめることがあります。

そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。
自分の人生が道理にかなっているのは、頭(マインド・自我)を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか?

命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。そういうふうにはなっていないのです。

神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。

もしも神、すなわち、命(宇宙生命・大生命・大愛)が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。

大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。
「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。

「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。

ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。
葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。

これがパラドックスだということがわかりますか。
悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめた時だというわけです。

ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。
ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている(今即天・今即実在・宇宙即我)」と言っています。

それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。

でも、やはり信じていないのです。
マハリシはつづけます。
悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである
それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や
はり信じません。

マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。あなたが判断してください。

マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください

マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。
ただし、中途半端に信じるのはやめてください。
中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。

自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。
よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。

誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。
自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。

人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。

残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつ(色心不二・空即是色)なのです。地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。

無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ(愛して)、自分を完全にありのままに受け入れ(愛し)、
他人を完全にありのままに受け入れ(許し愛して)、自分自身を愛するように他人を愛することです。

自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。

では、どうやって愛すればいいのでしょうか。
自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。
今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。

この一瞬において(全てが)自分自身(全ては自分)であることです。
一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にも厳しくなくなります。

この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。

これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。
この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません

しかし、あなた方が、「神なるパワー(大愛)と呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。

この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。
人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。
こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。
それはとても単純なことから起きたのです。

あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。
「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。
人生、もう少し予測可能であるべきだ。いくつか規則を作ろう。
規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」

予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。
予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、当てにできないので、都合が悪い存在です。

そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。彼らは気が変わるので、不都合なのです。

彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。
そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。

そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。

人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。
何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。
どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。
何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。

何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。
しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。
「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。
すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。
けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。

教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。

私には悪は見えません。私は悪の存在を信じません(真実・実在に於いて、心の影・自我・闇は存在しません・神一元・愛のみが実在・光一元)。

私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れ(無知・分離感)が原因だと考えます。
心の中に「大いなる愛(神我キリスト)」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。

けれども、怖れ(自我・偽我)は「大いなる愛(大愛)」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。

傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。

心が痛むにまかせていてごらんなさい。誰かそれで死にましたか。
すべての人々は傷つけられた経験があります。何度も何度も傷つけられた経験があります。それでも、人々はちゃんと生きています。

そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。
あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。悲しみなくして喜びは、経験できません。
そのふたつは同じ世界の両面なのです。

ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです(全てを愛し全てを許し愛の光で抱擁してあげる)。どうでもいいことです。

傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。

どちらでもいいのです。そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。

堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。
真剣にやってください。
こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。
自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。

あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。

このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。
けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。

覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。

自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。
全ては自分・全ては神・大霊との一体感

喜びや慈しみの心や命(神)を感じることでしょうか。
※慈悲と愛が宇宙神理・全てに神(命)を観る

それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。

注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。

あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。
それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。
そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。
でも、きびしい修行をする必要はありません。
あなたは心を静めることが必要なだけです。
あなたがしなければならないのは、それだけです。

心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。
いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。

瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。

あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。

そして、その結果、困ったことになるかもしれません。
みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。

子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。

小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。
顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。
そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。

その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。

では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。

まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。
自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。

自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。

地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。

今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。私たちはあなた方に「今のままでいいのですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。

すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。だから、すべては今のままで、※そのまま(愛おしい)でいいのです。

※勘違いしやすい部分ですが、所謂、努力しなくていい[偽スピ系]というわけではありません。難行苦行悟りに非ず・全て善し・全てが愛おしい・全てに感謝・と解釈すると自然な気が致します

何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。

あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。

そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。必ずわかります。
この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。

あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。
「大いなる光(大生命・大愛)」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、育んでくれていることをあなた方は知っています。

それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。

人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。

しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。

あるがままですべて完壁(全て善し・全てに感謝)だということがわかり、その(神の)一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。

あなた方はみんなその無限の広がり(無限宇宙・宇宙生命・大生命)の一部であり、それは実に美しいのです。
どうか、そうした見方(神のみが実在・全てに神が宿り給う)をするよう心がけてみてください。


質問:
これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。

自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。

あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。

これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。

全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。
痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。
感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。

それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。
古いパターンの考えが現れなくなります。

それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。
そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。

こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。

そのための唯一の方法はとにかくやることです。
自分の考えを考えないようにすることはできません。

ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。
古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。

しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。
この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。

これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。
新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。

ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。

これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。
これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。
けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。
肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。
瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。

真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。

ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。
そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。
まさにそれだけです。それはすばらしい生き方です。

瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。

全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。
人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。
けれども、あなたは何も知ってはいないのです。

なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。
常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。

すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。
人生は決して古くなったり、終わったりはしません。
あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。



メタフィジックス通信様 (ラー文書が良く分かる良質記事♪)





性エネルギーという贈り物   から引用させて頂きました


 
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。

自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
                                                    バーソロミュー



性の問題をきちんととらえるためには、過去に戻って考える必要があります。
ご存じのように、性にまつわる問題というのは何も現代に限ったことではなく、昔からいろいろあったことで、それは不可思議なものであり、人々をとまどわせるものです。

これをもっと広い見地から見るために、人間の性の持つ役割というものを考えてみたいと思います。

性行動に関する「ルール」を私がここで述べようなどというのではありません。性行動のルールを作るのはあなたの責任です。

それは、どういう社会的法律のもとで暮らすかを決めるのが、あなたの責任であるのと同じです。

では、過去にさかのぼってみましょう。魂がこの地球にやってきて、肉体を身につけ、これから何をすべきかを決定した時代に戻ります。

そのとき、人間たちは「パワー」を与えられました。
このときに与えられたパワーは七つのテャクラと関係したエネルギーでした。

現代の人は、エネルギーというものを、規則正しい法則にしたがって動くものだと思っていますが、ここでいうエネルギーは、人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーであり、それは特定の目的を持つものでした。
目的のひとつは考えることであり、もうひとつは感じることでした。

私がいう性エネルギーも、こうしたエネルギーの一種でした。
性エネルギーやパワーは、人間ひとりひとりが自分の意思で決めて使うようにと、与えられたのです。

はじめの頃は、性エネルギーはほかのエネルギーと分離してはいませんでした。
人を狩猟にかり立てる衝動と性衝動とのあいだに、たいしてちがいはありませんでした。その頃は、それぞれのエネルギーのあいだには、はっきりした区別がなかったのです。

はるかな過去世において、すべての人間の体のなかでエネルギーがスムーズに流れていた頃、それぞれの人間は、自分がどんな人間なのか、どんな人間になりたいのかということにもとづいて、人生におけるさまざまの選択をしていました。

あなたが地球界に転生してきたのは、今回がはじめてではないということをここで理解しておいてください。

あなた方は、この地球界にずっと長いあいだ、何回も転生してきています。
ですから、過去世からの性癖のようなものが各人のなかにあらかじめあって、それが、その人のありよう、意識などににじみでてきます。

このような過去からの性癖がひとりひとりの性に対する態度に影響し、その人となりの一部となります。

あなた方が何度も転生して、時間と空間のなかを移動するにつれ、性エネルギーは自己表現のひとつの方法となり、人は自分の意思にもとづいてそれを使いました。

ほかのエネルギーと同じように、性エネルギーも、ひとりひとりが自分に対してだけ責任を持つものとしであったのです。

性エネルギーは、「その人らしさ」の一部であり、ひとりひとりがしっかり意識すべきものとしてあったのです。
自分らしい感じ方、自分らしい行動をするためのものでした。

あなたは、自分の考え方しだいで人生が調和に満ちたものになったり、逆に不調和そのものになったりするということ、そしてその自分の考え方というのは、自分の責任であるということを経験から理解するようになりました。

それと同じように、自分の性エネルギーをどう使うかというのもあなたの責任なのです。

けれども、現代では、誰もそうした責任を認めようとはしません。
人はすべての行動に対するルールを作り、個人としての責任をとろうとはしません。

何をすべきかは法律や社会のおきてに決めてもらう、そうすれば自分の責任は関われないと思っています。

こういうやり方はうまくいっているでしょうか。
「暗黒の時代」の昔に決められた性道徳は人々に喜びを与えているでしょうか。(あなた方はまだそういう古い性道徳のなかで生きでいるのでしょう?)

もう、そろそろ自分自身の性に目覚めるときです。
他人のモノサシに左右されず、自分にとって、男であること、女であることはどういうことかを表現することです。

いつも生き生きして、元気いっぱいで、優しい気持ちに満ちて、クリエイティブでダイナミック、そして明るくエキサイティング・・・自分をそんな人間だと感じさせるようなことをしてください。
そうすることがあなたの責任なのです。

社会のおきてにしたがって行動しようとすると、自分の欲望との板ばさみになります。
神が、人間の性行動のすべてを、関心を持ってじっと見ていると信じている人も多いようですが、実のところ神はそんなことには全く関心がありません

セックスは人間ひとりひとりの問題です。
神はそんなことにちっともかまってはいないし、他人もそんなことに関心をはらうべきではないのです。

神が関心を持っていることはただひとつ――人間がどれほど真理に目覚めているか、その人の生きる力や愛情、他人への思いやりがどんなものか、ということです。

社会のおきてにしたがって生きてきて、その結果、怒ったり、恨んだり、人を批判したり、ネガティブになっているとしたら、神と調和しているとはとても言えません。

性や性行動の話になるといつも決まって同じ質問が出ます。
みんなが自分の好き勝手な性行動をとったら、世の中はメチャクチャになるのではないか、というものです。

規則をすべて取り除いたら、いったい、どうなるのだろうか、という質問も出てきます。

これに対する答えが、私と地球の人々との考え方のちがうところです。
人間から社会的な規則を取り去ったら、人々は自分自身の心のおきてを見いだし、もっと人間的で自然で、優しく親切になる、と私はかたく信じています。

私は人間を信じていますが、人間は自分たちを信じていません。
人間は、まるで自分たちは檻に入れられた動物だ、とでも思っているようです。

社会のおきてという檻がなくなれば、自分たちは性欲に狂った野獣のようになると信じているのでしょうね。そんなことにはなりません。
安心してください。

人間は「大いなる創造物」の一部であり、
その気になれば、何が一番よいかを知る能力をそなえています

しかし、自分自身の内に指針を求めるのではなく、社会のおきてに判断を求めると、問題の本質が不明確になります。

自分自身のなかにあるおきては完全に予測できるものです。
私は、人間を支配する「大宇宙の法則(宇宙神理)」を知っているので、そう断言できるのです。

人間が人間を創りだしたのではないということは、もうわかっていますね。
人間は(神に)創造されたものです。

あなたは、この「あなた」というすばらしきものを与えられたのです。
あなたのなかには「大宇宙の法則」が働いており、これはあなたが自分で創りだしたものではありません。

この「(宇宙)法則」は例外も全くなく、完全に信頼できるものです。
人間が作ったどんな法律よりも信頼できます。

自分の(裡なる)「存在(神我)」そのものを心から信頼しようと決心すると、他人への深い思いやり、人の心を理解する能力、調和、勇気、知恵など、これまで自分が求めていたものが、すぺて自分のなかにすでにあることがわかるようになります。

人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。
そうでなければ、人間が創られたときの「原材料」はいったいどこから来たと思いますか。

創造のその瞬間、人間はすばらしい贈り物を与えられました。
なかでも重要な贈り物が、男性女性という性別、セクシュアリティだったのです。

外の世界と関わろうとするときに、人はどうも混乱してしまうようです。
人は自分のなかのある種の感覚や感情を何とか他人の感情と調和させようと努力します。

また、人はそれぞれ性に関して異なる意見を持っています。
みんなちがうのですから当然です。

自分の性を理解しようとするときに、頭でわかろうとはしないでください。
人が性のパワーから何かを学ぶことができるのは、それが体のなかで動いているときです。

性エネルギーそのものは、ほかのどんなエネルギーとも同じように純粋です。たとえば、倒錯的行為について考えるとします。

すると、パワーが増加します。ここで、ただちに頭が働きだして「善」か「悪」かの判断を下してしまいます。

性というものを自分はどんな目的に使っているか考えてみてください。
他人を自分の思いのままにするために、性的パワーを使う人もいます。
セックスがとても「上手」になって、人をコントロールする目的にそれを使ったりします。

他人を罰するために性的パワーを使う人もいます。
とても「下手」になってそれで人をコントロールしたりします。
性的パワーを全く使わない人もいます。

何らかのパワーを手にすると人は自問します。
「このパワーをどう使おうか。誰と一緒に使おうか。
自分の人生にどう役立てようか」と考えます。

自分の性というものは見ることはできませんが、自分のなかにあるパワーとして感じることができます。

そこで、、同じような質問を自分にする必要があります。
「私は自分の性を何のために使いたいのか」
これは個人的な問題ですからひとりひとりが自分の心の奥深く、
自分の「あり方」そのものに問いかける質問です。

誰も性欲に狂った動物になったりはしませんから、こういう質問をすることを怖れないでください。

性について真剣に深く考えていくと、性エネルギーは肉体というものの偉大な味方だということがわかります。
もちろん「味方」はいわゆる霊界にもいて助けてくれますが、ここで話しているのは物質界にいる味方のことです。

性が人間の味方だというのは、自分らしく自然に生きることを通して、自分というものをよりいっそう知る機会を与えてくれるからです。
自分のなかの性を素直に見つめ、それについて考えるのは、非常に勇気がいることです。

年齢に関わらず、どんな人であろうと、性に対してゆがんだとらえ方をしていたり、自分の性欲を不快に思ったり、そのことで悩んだりしている人は、性こそが自分にとって解決すべき「未処理」の分野なのだ、ということに気づいてください。

現在、自分の人生に性を表現する相手がいない人は、自分でそうしたくないと決めたからです。
自分の人間観、人生観にしたがって性欲が表現されていれば、かならずその人に合う相手が見つかります。

醜いからとか、太っているからとか、年をとっているからとか、何らかの理由をつけて自分の性エネルギーを使っていない人は、自分のそういう考え方を外界に投射しているためにそうした現実を経験するのです。

性を全く無視して生きれば、面倒が起こらないと思いこんでいる人もいますが、そういう人は性の問題に何度も直面するはめになります。

性に心を悩まさなくてもいいようにと、手術までする人がいますが、性エネルギーは手術後も残っていて、自分の体のなかを動きまわっているのを発見することになります。

性エネルギーは肉体の一部なのですから、捨て去ることはできません。
性欲は肉体が持つ欲望のなかでも最強のもののひとつだからこそ、常に人間の味方になることができるのです。

現世でこの問題を解決するか、来世でするか、いつかはこの問題に直面しなければなりません。

性エネルギーという神からのすばらしい贈り物をどう使うのか、自分のなかではっきりさせることです。
そうすると、人生に変化が起きてきます。

今までとちがう経験をたくさんするようになります。
今までなかったものがその人の人生のなかに現れたり、今まであったものがなくなったりします。

大切なことは、自分に問いかけ、それに答えることです。
「この驚くべきパワーを自分は何のために使いたいのだろうか?」と。

いずれにせよちょっと乱暴ですが、神は性エネルギーを通して何を人間に望んでいたのか、ということを私が推理してみたいと思います。

たとえ話をしましょう。
ここにティーンエイジャーがいて、車を買うことになりました。
あこがれのポルシェです。

さて、いざ車のキーを渡すときになって、
親は「これはたいへんだ」とこわくなります。

強大なパワーは非常に危険なことに使われる可能性があるし、ティーンエイジャーの息子、または娘がまだ未熟な子供だということが、頭にひらめきます。

これと同じように、神が性エネルギーを人間に与えたときも、
「これはたいへんだ」という思いがありました。

神が望んだのはこのパワーが、深い意識をもって有益な目的に使われることでした。
そのひとつは、人間の喜びのためでした。
性の喜びとすばらしさ、そのもののためです。

もうひとつは、パワーというものがあるということ、それが存在し、動き、創造し、何かの形となり、ダイナミックで変化していくものである、ということを人間に教えるためでした。

人間の思考力のほかに、これほどの力を持ったパワーがほかにあるでしょうか。

そして最後に、この贈り物にはもっと高い目的もありました。
それは感謝の心です。肉体の喜びに対する感謝であり、命を実感できることに対する感謝、肉体以上のものになれることに対する感謝の心です。

性エネルギーが外からおとずれ、体を満たし、感動を与えると、人は喜びを感じ、生きていることを実感し、感覚のすばらしさを味わいます。

そういう経験をしたあとでは、今度はそのパワーが反対方向に流れることも可能なことを、理解できるのではないでしょうか。

ちょっと説明しましょう。
性エネルギーは外から自分のほうへやってくるもの、または、自分の内部からわきでてくるものだ、と人は感じています。

神が望んだのは、性エネルギーの流れは反対方向に行くこともできるのだということを知って、人間がそのエネルギーとともに、発生源である「大いなる源」へとさかのぼってくることでした。

エネルギーは両方向に流れます。
人間がエネルギーとともにさかのぼることができれば、エネルギーの根源である、「大いなる源」と合流できるわけです。

「大いなる源」と合流するには多くの方法があり、とくに、これと決まった正しいやり方というものはありません。

あなた方が、正しいやり方をしなければならないと思いこんでいるから、むずかしくなるのです。

あなた方はこれまで「読むべき」本をすべて読み、師につき、「正しい」道を歩んできました。

ところが、「大いなる源」へ戻っていく道を少しでもかいま見た人は、ここで壁にぶつかります。その理由はその人の思いこみにあります。

自分には「大いなる源」へ戻っていくだけの資格がないとか、そうするには何らかの犠牲をはらわなければならないなどと、信じているからです。

したがって、セックスの一瞬一瞬を通して、性エネルギーが教えようとしているレッスンにちっとも注意をはらいません。

セックスのただなかにありながら、それを感じようとしないので、意識が体験から離れてしまいます。

このように気が散るのには、いろいろな原因があります。
まず第一に罪悪感があります。
こんなことをしていてはいけないとか、神が見ているのではないかとか、師が見ているのではないか、と思ったりします。

こんなことを考えているので、セックスをなかば無意識的に行い、性の不思議な魅力も、性エネルギーの動きも感じることができません。

性エネルギーは人間の味方なのです。
けれども、どんなに力強い味方も、心ここにあらずの状態にいる人や、耳を傾けようとしない人を助けることはできません。

意識を集中させ、セックスの初めから終わりまですべてに注意をはらい、自分の反応や感情を見つめ、エネルギーがどんな動きをしているか、性エネルギーが自分をどのように解き放ってくれているか、

どこのところでエネルギーがとどこおっているか、その滞(とどこお)りをどうするか――このようなことに注意をはらう必要があります。

意識がそこになければ、人はそこにはいないわけで、何も学ぶことはできません。性生活が満足なものでない場合、パートナーの数を増やせばいい、と思っている人がたくさんいます。

それでもまだ体力があまっていると、自分がまだ満足していないだけでなく、パートナーの数が増えたぶん、自分に文句を言う相手も増えたわけで、悩みの種を増やしてしまったことに気づきます。

なかには、自分の問題は現在のパートナーが悪いのであって、もっと官能的な相手を見つければ、満足が得られると思っている人もいます。
そうして、ちがうパートナーを見つけてみても、まだ不満です。

性エネルギーから満足を得られるのは、それがすべてのレベルで賢明に使われたときだけです。そうでない限り、満足は得られません。
性エネルギーは、この喜びのレベルまで来たらストップする、などというようには創られていないからです。

では、もっと深い経験をするにはどうしたらいいのでしょうか。
瞑想をしている人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。

性エネルギーにも同じような働きがあって、あなたをより広大な意識へと誘う「引き金」となります。

自分がすべてのレベルで学び成長していく手段としてセックスを利用したければ、自分の内部やまわりで何が起こっているかに耳を傾け、注意をはらわなければなりません。静かにして意識をとぎすますのです。

性エネルギーの動きに気づき、それを感じ、動くさまを知るようにならなければなりません。生殖器部分は宇宙のパワーであるクンダリニーの発火点に非常に近いことも、観察していくとわかります。

意識を完全にとぎすましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから天項のチャクラまでエネルギーをかけのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分のなかにあることがわかります。

性エネルギーのすばらしさを感じない人は、そう感じないように、頭のなかで何かがスイッチを切っているからです。
このエネルギーは一方向に流れるだけではない、ということを思いだしてください。

エネルギーの筒の一方の端と、もう一方の端を分離するわけにはいきません。それらはつながっているのです。

性は神から人間への贈り物です。
神からの贈り物はすべて、ひとつの目的を持って与えられました。
将来、神のもとへ、「大いなる源」へ戻っていくために使われるようにです。

ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。

神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。
しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。

どの転生の人生でどんなふうに性エネルギーを使うかは、あなたの自由です。けれども、性エネルギーは、それを使って「家(神の御国)」に帰るようにと、神から与えられたものであることを忘れないでください。


何か質問がありますか。

質問:「クンダリニー」のパワーは非常に危険で、それを得るには師につくべきだと思っていました。ちがうのでしょうか。

長時間の瞑想や禁欲生活、プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法)などの精神的修行をしてこのクンダリニーのパワーを「獲得」し、自分の意思通りにそのパワーを使おうというのでしたら、確かに師につくべきでしょう。

私が人間として転生したときの経験から言いますと、私には師もいませんでしたし、私がしようとしていることを理解できる人も全くいませんでした。
私にあったものといえば、エネルギーの動き、それだけでした。

私が確信をもって言えるのは、エネルギーの動きというのは完全に信頼できるものだということです。

エネルギーはそれ独自のやり方で動き、独自のペースですすむのであって、私の能力以上のスピードですすんだり、能力以上のところへ私を連れていくこともありませんでした。

すべてがうまく行きました。エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。

まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。けれども、ダムの門を開けて、いっせいに水を放流すると、水の勢いが激しくて危険です。ですから、自然にマイペースでやってください。

何をするにも師が必要だなどと思いこまないでください。
あなた自身が教師なのです。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれがパワー制御装置のようなものを持っています。

エネルギーが動くにしたがって、道も開けてきます。
私の言うことをうのみにはしないでください。
もちろん、ほかの人の言うこともうのみにしないでください。
自分自身の内なる声に耳を傾けてください。

少しやってみると、自分も性エネルギーについて知っていることがある、ということがわかります。性や性エネルギーから、自分が切り離されていると感じる必要はありません。

セックスによる結びつきの目的は、すべてのレベルで人をはぐくみ、育てることにあります。

セックスへの理解を深めたいと思っているパートナーがいる人は、自分をはぐくみ、育てるものはどこから来るのかを知るために、次のようなことを実行してみてください。

欲しいと思う人はタントラ・ヨガの本を手に入れてもいいでしょう。
けれども、べつになくてもかまいません。

自分にとってセックスとは何かということについて、自分自身の本を書くつもりになってください。そのために自分が実験場となり、実験体となるのです。

では、あなたがパーティに出席しているとします。
誰かがあなたに近づいてきて、その結果、あなたは自分のなかで性欲がわき起こってくるのを感じます。

修行をしている人は、「性エネルギーを経験することは有益だろうか」と、ただちに自問します。

一番下のレベルにいる人にとっては、答えははっきりしています。快楽です。そこでそのための行動をとるか、またはとらないことを選びます。

もう少し高いレベルにいる人は(私は、この「レベル」という言い方をまるで信じません。でも、皆さんは大好きでしょう?)、

「ちょっと考えなくては。今このエネルギーを行動に移すと、私の人生に混乱が起きるだろう。それだけの価値があるかどうか」と考えます。

それだけの価値があると思えば行動に移し、ないと思えば行動しないでください。そして、いずれを選ぶにしても、自分の行動の責任をとる覚悟をしてください。

最も高いレベルにいる人は
「このような状況でこの人と性の表現をすることは、私にとって、神を理解するのに最もふさわしいかどうか」と自問します

これらの行動の結果、人は知りたくなかったことを知ることになります。
どんな場合も似たもの同士が互いを引き寄せますから、低いレベルにしかいない人が、自分より高いレベルの人に魅力を感じるということは、まず起こりません。

低いレベルの人にとって、自分より高いレベルの人は自然さに欠けるように見えるからです。その次のレベルは「かたく結ぼれているカップル」のレベルです。

彼らは必ずしも高い意識をめざすことを第一義にしているわけではなく、相手という人間とかたく結ぼれているのです。

一番高いレベルの人たちは、自分の人生のあらゆる出来事や経験を「神のもとへ帰る」覚醒のために使おうとします。


質問:性エネルギーはどのように動かせばいいのですか。

自分の体のなかのどの部分で性エネルギーを感じているか、まず見つけてください。
そして、その感覚とともにいることによって、その感覚をとぎすまします。
自分の想念が現実を創造するということを、あなたは理解しているのですから、意識的に自分の体のなかでエネルギーを上昇させようと決心するのです。
すると、エネルギーが上にあがりはじめます。
ほとんどの人は、人間の体には七つのチャクラがあると信じていますが、実際にはもっとあります。
体のいたるところにチャクラがあります。

エネルギーを動かしはじめると、これらのチャクラがまわりのチャクラのスイッチを入れていきます。
これは神経間のシナプス(ある神経の軸索とほかの神経の樹枝状突起との接触部分)の動きであり、非常に速いスピードで起こります。

いったん、始まったら、もうコントロールすることはできません。
あなたがするべきことは、エネルギーを感じ、エネルギーそのものと、それを上昇させたいという自分の願望に意識を集中することです。
そしてエネルギーが動くにまかせます。

エネルギーは、自分の意識が向いている体の部分に移動します。
まず、一番下のチャクラから始めて、順番に上のチャクラへと意識を集中させていきます。こうすると、エネルギーが天頂のクラウン・チャクラを通りぬけます。やってみてください。

性エネルギーは神から与えられた贈り物のなかでも、最高のもののひとつだということを忘れないでください。この贈り物には何のルールもついてきませんでした。ルールを作ったのは人間です。

自分が話す内容の質や自分の行動の質や人生に起きるあらゆることの質が、ひとりひとりの責任であるのと同じく、性行動の質もひとりひとりの責任です。あなたが決めることです。

「まちがった」こととか、「正しい」ことというのはありません。
あなたがどれを選ぶか、ただそれだけのことです。


質問:性に関する社会的ルールは、人間が「神のもとに帰る」のを怖れているから作られたのでしょうか。

性に関する社会的ルールを作ったのは、自分が性の表現を自由にできないと感じた人たちです。現代の人々のことを言っているのではなく、古代の聖職者たちのことをさしています。

彼らは、自分たちは一般の人とはちがうと思い、自分たちはセックスをすべきではないと決めました。
このおきてを作ると、ただちにそれをほかの人々にも強要しました。
それ以後、性は多くの社会的制限を課せられるものとなりました。

セックスを通じて多くの人々が完全なる悟りを開いたにも関わらず、このおきては守りつづけられてきました。聖職者たちは、自分たちのやり方で達成された悟り以外は本物でないと信じたのです。

ちょうど、医者が、西洋医学の治療法以外で治った病気に対し、当初の診断がまちがっていたにちがいないと信じるのと同じです。

古くからつづいている宗教のやり方にしたがっていれば、そこで起きた「悟り」の経験も信じてもらえます。あなたが守っている規則を作ったのは、神だなどと誤解しないでください。神は人間に何も強制しません

ここではっきり申し上げますが、あなた方の人生で起こっていることの大半は、いわば実験です。人生は、創造しつづけるダイナミックなアクションです。

神が、やるべきことをすべて示して、人間はただそれを実行するだけだったら、人生にどんな意味があるというのでしょうか。

人生は、不可思議に満ち満ちた、すばらしい創造の過程であり、
あなたもその創造の一部です。

あなたが考えたり、言ったり、したりすることはすべて、この創造的行為を構成する要素です。したがって、「あやまち」などというものは存在しませんし、「悪い」ことも存在しません。すべては「生きること」なのです。

はい、では説教はこれくらいで終わりにしましょう。
みなさん、今日はどうもありがとう。


自らの空虚感を人や物では埋められない


Q、 どうすれば物や欲望などに対する執着から自由になれるのでしょうか?

 
そのためにはまず、なぜ自分はそれから自由になりたいのかを自分に聞くことです。
 「それが良いことだから」とか「それが必要なことだと言われているから」といった一般的なことではなく、それが自分にとって「必要なことだ」と心から信じられることが重要なことです。


 なぜならあなた方が特定の人や物、あるいは考え方や主義などに執着することに何らかの価値を見出している限り、本心から自由になりたいとは思わないはずだからです。つまり、まだ執着していたいものから、自分を引き離すことなどできないのです。

 ですからまず最初にやるべきことは、自分が執着しているのは何であるかという事実に直面することです。自分が強く執着しているものを見てください。


 それが夫や妻、あるいは恋人であったり、お金、権力、見栄、立場、セックス、あるいは酒や麻薬などであるかもしれず、そこにはもっと多くの可能性があります。そして、それらに執着することによって今まで自分が得ているものは何であるかのリストを作ってください。

 もしあなたの望みどおり、この執着しているものがなくなったら、あなたはどうなると思いますか? たとえば愛情関係を例にとってみましょう。多くの場合あなた方は、非常に強く執着して生きるのはよいことだと考えており、それを強い愛情だと錯覚して生きています。


 そのために多くの愛情関係が、実際には相手を失う「怖れ」に根ざしたものになっています。ですから自分の執着を知るためには、今の相手があなたの人生から去っていったらどうなるかを自分に聞いてみるとよいでしょう。

 こういう角度から自分と人との関係を見てみると、相手との関係が自分にとってどういう意味を持っているかが理解できます。この相手がいなくなったら、あなたはもう愛されるに値しない人間になるのでしょうか? あなたを愛してくれる人はもう現れないのでしょうか? あなたは一人ぼっちになるのでしょうか? 

 多くの場合、自分が非常に強い執着を持っていた相手を失った人は、自分はもう誰からも愛されないという思いに打ちのめされるものです。なぜそうなるかといえば、そういう人は自分の価値が何かという判断を、他人に依存することで相手に委ねてしまったからなのです。こうしたことは非常に愚かなことであり、とても非現実的なことなのです。

 自分の愛情関係を見て、自分がいかに相手に執着しているかがわかるとき、その関係が実は、自分を弱くて非力なものにする関係に自らを巻き込んでしまったことに気づくはずです。


 そしてその関係は自分の人生のプラスではなく、実はマイナスであることがわかるでしょう。そこのところまであなた方が気づいて理解するとき、初めてその執着から自由になりたいという自分の望みに、エネルギーを注ぐことができるのです。

 相手との愛情関係は続けても、執着や所有欲は捨て去ることです。
 執着から自由になり、無限の愛にもとずいた人生を歩むほうが、ずっと大きな満足感が得られるのです。

 車に執着している人を例にあげましょう。
 こうした物への執着は大した問題ではないように思えるかもしれませんが、そうでもないのです。それは、そうした物がその人にとってどのような意味があるかによるからです。非常に強い物欲に囚われている人にとっては、たとえば車は自分の所有物として自分の価値を判断するものになります。


 つまり「それ」が自分の価値の基準なのです。つまり執着しているものが車であろうと、人間であろうと問題ではないのです。何であれ自分以外のものに執着していると、その結果、それを失うことで自分の価値も減少してしまうと感じるのです。

 しかしながら自分の執着の強さが見えてきたからといって、それまでの愛情関係から抜け出したり、持っている物を全部手放すようにと言っているわけではありません。

 必要なことは、あなたの執着心の後ろには、隠れた空虚感や疎外感、空しさがあるということを認めることです。あなた方はそうした空しさを埋めるために、他人や物にしがみつくことでこれまで生きて来たのです。


 本来自分のものではない人間や物に執着してしがみつくのは、健全ではないばかりか自由な生き方ではありません。こうしたことを理解すると、物や人にこだわらない境地へ向かって、一歩を歩み始めたことになります。ですから「執着を捨てる」「執着しない」ことに価値を見出すことがその一歩なのです。

 ですから、ほかのことをすべて忘れてしまうほど、自分の恋愛などを深刻に捉えないことです。また自分が所有しているものにあまりにも価値を置くあまり、それを失うことなど考えられないほどに夢中になるべきではありません。これらの物や人があなたの人生に自然に入ってきたり、出て行ったりするのにまかせてください。


 そしてあなたも喜んで興味を持ってそれらの動きに参加することです。物や人にこだわらないという必要性があなたに理解できると、あなたの意思は「神の意思」と結ばれることになり、この段階をたやすく歩むことができます。

 次のステップは、「気づき」です。
 気づきとは自分の本質を思い出すことです。物や人にこだわらないのもそれを思い出す一つの方法であり、すべてをゆだねることもその方法の一つです。これらはあなた本来の姿ではないものの幻影から自分を解放することができるように、自分の本質を思い出させてくれます。

 つまり、物に対して自分はそれを所有するに値すると考えたり、特定の人に対して自分は関係をつくるに値すると思い、他人や物が自分のエネルギーを使うに値すると考えている限り、あなた方は「こだわり」というものを捨てることは決してできません。


 あなた方が強く望むことは現実になるので、あなたが「大いなる自由」を得たいという深い望みを心から持つようになるまでは、「自分と神との断絶、自分と他人、自分とまわりの世界との断絶」といったあなた方のエゴが生み出した世界観に翻弄されて生き続けるしかないでしょう。

 ある人との関係が、ほかの人との関係よりも大事である限り、すべては「大いなる一」であることをあなたは否定しているのです。あなた方のエゴは人間関係において特別な愛情関係を生み出して、「あなたは他の人とは違うので特別である」と思わせようとします。


 しかしながら実際には、あなた方は全て同じなのです。それは今までもずっとそうであったし、これからもそれは変わりません。つまりあなた方にとってもっと優れて高貴な人からもっとも堕落した人まで、すべての人間は同じなのです。

 あなた方が考えるちょっとした違いなどは幻影にしかすぎず、そういった判断は自分と人を比較して自分を縛るためにあるとも言えます。大切なことは今この瞬間にこそ、「大いなるすべて」の完全性が存在することであり、この完全性に触れることができるのは、今この瞬間でしかないのです。


 人が注意を払えるのは「今この瞬間」だけであり、それは実に単純なことです。一瞬一瞬を意識するとき、あなただけがそこにいてそれ以外のすべては存在しません。そうした瞬間には、自分とまわりの世界が切り離されていると感じることはありません。そこにあるのはあなたと、あなたのなかにあるものと、あなたのまわりにあるものだけのはずです。

 「すべてをゆだねる」というのは、人の「あり方」の問題であり、それは毎瞬毎瞬、「すべてを包む広大無辺なもの」につながっていることをいいます。「広大無辺なもの」につながるためには、「広大無辺なもの」の存在するところにいなくてはなりません。


 それはどこかと言えば、「未来」や「過去」などは存在しないのですから、それはここ、今しかありません。「広大無辺なもの」とともにいるには、「今というここ」にいなければならないのです。

 あなた方が他人や出来事をコントロールし、自分の感情などをコントロールしようとするとき、それは過去や未来に対する願いに動機づけられています。しかし私は言います、コントロールしないでください。


 「振り子」を一方だけに固定しようとしないでください。あるがままにさせておくのです。あるがままにさせることによって、その瞬間の心の平安や知恵や「大いなる自由」がやって来ます。

 今、あなたの前にあるものこそが、あなたが知ることのできる唯一のものなのです。
 そこには生があり、死があり、生と死のあいだのすべてのものがあります。「大いなるすべて」とは瞬間の連続であり、それこそがすべてなのです。


ケイシーリーディングで一番深い真理の言葉
   (神を愛する大事さを訴えておられます)

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


上江洲義秀先生・至高の名言    上江洲義秀先生の記事♪   
 
 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。

 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目

知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪



オススメスピリチュアルサイトをご紹介♪

(注・Wi-Fiスポット必須・激重記事です)真理の追求者・光の求道者の方々必見かも♪自分の魂のレベルや成長の度合いが判断できる「魂の成長度のリトマス紙」お話♪私の怒りの抑制の動機の成長話をご紹介♪悟り・魂の法則♪21世紀型最新シルバーバーチの霊訓♪永遠に消える事のない本物の黄金を貴方へ♪魂の法則をこのサイトで全文ご紹介♪宇宙シルバーバーチの霊訓♪人生を愛に光り輝く至福と安らぎに導く真理の情報♪


魂の法則

このブログは、スペイン語原題 "LAS LEYES ESPIRITUALES" の邦訳『魂の法則』をできるだけ多くの方々に読んでいただけるように作成されました。 著者、VI 様の記事になります♪

 上記の「魂の法則」のサイト様から引用させて頂きました。
元のサイトに、この内容の抜粋が、分かりやすく整理されて表示されております。かなり見やすい作りで、観覧にピッタリな素晴らしいレイアウトでした。

私自身…正直、ここまで見やすいサイトは近年稀に見るレベルだと思った次第です。
 
 今回の元情報の「魂の法則」様のサイトは、私の長年のネットサーフィンの経験からしましても、ネット界で最高レベルの見やすさなサイトだと、自信を持って申し上げます。

 ぜひ、ネットのヘビーユーザーな私をもうならせた(笑)、見やすさ満点なレイアウトを、リンク先で、一度体験されてみてはいかがでしょうか?
 とびっきりに…ミラクルに、おすすめしちゃいま~す(*´∀`*)ゞ♪☆彡

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「魂の法則」様のリンク先はこちらで~す♪
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お話に入る前に、「魂の法則」に関連した、私の小話をご紹介させて頂きます。

 よく知花先生や、上江洲先生のお話でも仰られておられますが、
悟りの境地とは、「全てが私」「宇宙即我」「全てを愛する我」「普遍我」「全一の意識」「慈悲と愛」等々、色々表現されております。

 ですが、その悟りの境地に到達するまでに、魂の進化過程において、何段階も、レベルの段階がある事は、皆様も何となくご存知だと思います。ですが結構、その魂のレベルって、どんな風に評価するのかなぁ?…って、思ったことはありませんか。

 結論から申し上げますと、「他者と自分をどれだけ同一に見れるか分離意識の克服具合」「物事の動機の高貴さ美しさの度合い」の二種類になります

 また魂の法則では、愛を「愛とは他人のことを自分のことのように感じることのできる能力」とも表現されておられます。

 これは今回気づいたのですが、「他者と自分を同一に観る全一体感・分離意識の克服が悟り・全てが私・宇宙即我」ですから、知花先生と上江洲先生の説かれる真理と完全にリンクしておりますね。

 私は今回の「魂の法則」を読破して、その謎に気づくことが出来まして、昔、記事にした事が御座います。その記事も今回の記事との関連性が高いと判断いたしまして、一緒に掲載させて頂く事に相成りました。

 過去記事で「許しの動機」を、レベル①から~レベル⑤まで、細かく記載してみたのですが、
 現在では、ありがたい事に、下の「レベル⑤」よりも、もっと高い「レベル⑥」以上の境地に到達しております。愛の光に満ち溢れた至福の境地であります。

そのレベル⑥の状態を詳細に記載してみますと、
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 この世界のすべてのすべてが、愛する神様ご自身なのだから、どんな悪のような現れに対しても、「本質・根源・大愛・神の光・キリスト」を観て、神にしか見えない自分、

どんな現れに対しても、愛おしさしか慈悲と愛しか、出てこない自分でありたい、ひたすら神様を愛したい、全ての全てが神様であり、神の他には何も存在しないのだから、

どんな間違った存在に対しても、慈悲と愛で許して、愛の光を、幸せを願う祝福の愛の念を送ってあげたい…、

 上江洲義秀先生がいつも仰っておられる様に、「全ては美しき天使たち」だと思って、全てを美しい存在…「神の愛」という美しい実在を観て、「内を観れば」大愛そのもの…美しい天使(神の愛)そのものなんだ…と、

自分もその「神の愛」そのものであって、どんな存在でさえ「神の愛」そのものなのだから、とどのつまり、全てが自分そのものであり、

未来永劫実在する、「神の愛」という一つの存在だから、この「神の愛」という一つの生命を、全身全霊で愛したい、例えこの見を滅ぼそうとする存在に対しても……、

この見えるもの見えないもの全てが、神の御心の中にあり、その神の御心を汚す事は絶対にしたくない…、

 自分の心は神の御心の中にあり、神そのものなのだから、その神の御心を…愛の光を…神の表現体として100%顕現したい…、全てであられる神様をただひたすら愛したい……

だから、この命をかけて許しつくそう…愛し尽くそう…、慈悲と愛…神の御心そのままの愛で一瞬一瞬を愛一元で過ごしたい……という意識状態。
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 ずいぶん長い表現になってしまいましたが(笑)、手短に申し上げますと、
「ただただ神様を愛したいから、一瞬一瞬を神様への愛で心を満たしたいから」…という理由になりましょう。
 
 現状では、そういった悟りに近い境地に到達しております。常に自分の周りが光に満ち溢れている様な、半覚醒しているような…嬉しい感覚も御座います。
 私の体験を、皆様の魂のリトマス紙としてご活用して頂けれ、ば至上の光栄で御座います。

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ここから過去記事ですが……
「自分の魂のレベルや成長の度合いが判断できるお話♪
私の怒りの抑制の動機の成長話をご紹介♪悟り・魂の法則♪」の内容になります♪
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 「魂の法則によりますと、愛の進化の度合いは、
他者と自分をどれだけ同一に見れるか】が基準なのだそうです。

 高次元な存在も、”すべては一つ” と言われていますから、あ~なるほど!と思いまして、ワンネスが重要な鍵になるということを再認識するとともに「全てが自分である」という高次元な悟りを追求していこうと思いました。

 それともう一つ、非常に興味深かったのが、魂の進化の度合いを自分である程度測ることが出来る方法についてです。これは皆様のお役に立てそうですので、詳しく書いてみたいと思います。

 魂の進化というのは、「物事の動機が、高貴で人間として美しく高尚」になればなるほど、それだけ魂が進化したと判断して良いそうです。
 少し分かりにくいと思いますので、私の経験で例えてみましょう


◆◆不快なことがあって腹が立ちそうになった時の、抑制の動機の一例◆◆
………………………………………………………………
レベル①
怒ったり、憎んだりすると、悪想念の毒素が発生して、肩が痛くなるから怒るのはやめておこう。(※実際に肩がこるので昔からの抑制の動機でした)

怒ったら、テストステロンが大量に出るらしいし、顔が大きくなりたくないから、怒ったりするのはやめておこう。(※小顔になりたい時の昔の動機)

………………………………………………………………
レベル②
顔が小顔になりたいのもあるけど、いつも愛の心でいたいからイライラしたり、怒るのはやめておこう。
心安らかに過ごしたいから、腹を立たせたり、怒るのはやめておこう。

………………………………………………………………
レベル③
高次元な存在も、無条件の愛と許しが大事と言っているから、どんなことでも許すように心がけよう。
知花敏彦先生♪も愛と調和が一番大事といっているから、許すようにしようっと。

………………………………………………………………
レベル④
でも神様が、全てを愛し、全てを許す事が、神に至る唯一の道だと言っているから、きっとそうなんだろうな・・だからどんな非常識な不快なことをされても、全てを愛し、全てを許しつくそう。



 一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです。あなたが許さなければ、あなたも許されません。

 まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい。そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。

 あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。全ての人の罪を、許してあげなさい

そうすれば、あなたは全てから、許されます。私、神から許されます

 罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
 人を愛さない者は、私も愛しません。

 神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。


 ここまでで、かなり動機が高尚になってまいりましたが、それでも、様々なパターンの幾つかの出来事に対して、まだ完全に許しきれていない自分がおりました。

 それで、もっと成長しなくては、と反省しきりでしたが、最近、やっとこさ、自分でも納得できるレベルの許しが見えてきたというのが、ここ最近の状況だったりします♪
 それから、昨日に進化した最近の私が、下の「レベル⑤」となります。

………………………………………………………………
レベル⑤
どんな状況でも、たとえこの身体が滅びようとも、どんな状況にあろうとも、愛と調和第一♡、怒りなんて全て放棄♬、全てがただただ感謝あるのみさ~♪
 自分のすべてを大神様に全託して、自分の防御などの恐れは全部捨てて、大愛そのものになっちゃおう♪

 いつも全てが愛おしいという想い、生きとし生けるものの幸せを願っていられる自分であろう、常に、宇宙無限の大生命(※神様の事)に感謝の想いを忘れない自分でありたい。
 神我を顕現するためにも、世の光となるためにも、常に愛と調和の想念でありたいな♪・・・だから全てを許すようにしよう~っと


 ・・・と言った感じで、私自身の経験を元に書いてみました
 怒りを制御する動機の一例でしたが、、こんな風に動機が魂の成長の度合いを測るバロメーターになっていることが、何となくお分かりいただけたと思います。

 これは誰でも簡単に、実践できるバロメーターでもあり、非常に分かりやすくて、ご自分の魂のレベルを客観的に参考にできる良い基準ではないでしょうか。

 シルバーバーチも、「物事の動機が一番大事」と言っていましたし、同じ物事をするのにも、動機(心の初めの想い)が、魂の成長のバロメーターというのも、すんなり頷ける話ですね。

 これからいろんな物事をする際に、動機というものについて、「自分の心の初期の思い」はどうだったのか、を参考にすれば、自分の魂のレベルや成長の度合いが判断できる大変いい「リトマス試験紙」なるのではないでしょうか。
 「魂の成長の客観的判断のリトマス紙」としてご活用下さいませ。


ではでは、内容が濃くて、光の求道者必見な「魂の法則」ぜひ一度ご一読してみてね~♪

続編・愛の法則2・総まとめ記事♪はこちらへ♪








ケイシーリーディングで一番深い真理の言葉
     (私が一番感動して泣いている部分です……笑)

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


上江洲義秀先生・至高の名言    上江洲義秀先生の記事♪   
 
 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。

 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。
                                                  明想の記事♪


自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神


愛は天と地の架け橋 

イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。

愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

 【おまけ】私も効能を実感している使えるお祈り言葉です♪
 
神の御心である愛が、私を通して顕現なさいますように

「貴神(きしん)の想い、我が想いへとならせ給え」
「貴神(きしん)の言葉、我が言葉へとならせ給え」
「貴神(きしん)の行動、我が行動へとならせ給え」……


イエス様の感動の御言葉
「汝の敵を愛しなさい・汝の敵の為に泣きなさい・汝の敵の為に祈りなさい」

「我は汝らに告げる。汝の隣人を愛せよ。の仇(かたき)を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。これ天(内・潜在意識の最奥)にいます汝らの父(キリスト)の子とならんため(※神我キリストへの覚醒めの為)なり。


ケイシー・リーディングの「己の生命が神」というお話♪

己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。
貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です

知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目

知花敏彦先生の記事・総まとめ2/3♪

上江洲先生の質疑応答や、ケルビンさんや、まりこさんの体験談等、
良質な覚醒へ役立つお話がご観覧頂けます♪

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

知花敏彦先生の記事・総まとめ♪第2回目♪ 真の超能力♪自分は全体という神と一体である♪という境地に達した時に宇宙力が顕現します♪真の超能力が目覚める秘訣♪一切のものと調和♪純粋なる愛♪愛は天と地の架け橋♪謙虚な心の極意♪全ては神の御業♪母の愛は神の愛♪全て感謝の念で生皆さん方を最高の神に到達する神理♪無我の境地とは何か♪神の意志を受け継ぐ・波長を合わす秘訣♪私達の根源は愛♪その愛は何かというと神です♪知花敏彦さん直伝♪神の癒しが行われる祈り♪創造主なる神に全託するのが秘訣♪如何なる病気からも解放♪メンタルヘルス・健康・悟りに活用♪ピラミッドパワーとは中性パワー♪愛のエネルギーを意味する♪神は宇宙の愛の法則♪健康に活用♪酸素はエネルギーであり光です♪人間は水素と酸素だと言っても過言ではありません♪感覚治療を可能にする究極奥義♪神意識・普遍意識になる方法も♪心の波動が良ければバイ菌も無力に♪愛の波動は光のドームのオーラが出てバイ菌が入れなくなります♪解脱・昇天したら永遠の喜びが始まる♪知花先生は土星から来た方♪世を清めるのは自分を清めることで、この世を祝福する者です♪あなたの努力は全体の努力に♪朗報♪老化現象を防ぐ方法♪高血圧と心臓負担とは一つで同じもの♪健康・波動上昇・老化防止に活用♪

覚者☆知花敏彦先生の記事をまとめてみました。 
皆様の悟り☆覚醒のお役に立てて頂ければ幸いで御座います。
この記事は、第4回目になります♪




人生の最高目的とは何か
自分が何者なのかを知る

 皆さんは人生の目的とは何かを、お考えになった事がありますでしょうか。なぜ自分は生きているのか、人生とは何なのかをまず知らなければなりません。

 それには自分とは一体全体何なのかを知るべきなのです。自分を知ることによって、すべてが何なのかを知る事が出来るのです。

 自分が何なのかを知らなければ、自分の人生の目的も解りません。そうなると、迷いの人生を歩む事になってしまいます。

 自分が何者なのか、何なのかを知ることが、実は最高の悟りなのです。あなたはなぜ生きているのでしょうか。現にあなたは生きており、あなただけではなく、すべてのものが生きています。

 それは私たちが生命によって生かされているからであり、知らないのは迷いであり、無智といいます。

 その生命はあなた個人の小さな生命なのでしょうか。それとも宇宙大の生命なのでしょうか。個別の生命があるのでしょうか。それとも宇宙生命そのもの、一つの生命があるのみでしょうか。

 この宇宙万象万物は、創造主が創られたものです。その創造主は万象万物を創り、そして御自身を万象万物の内に留ておられるのです。創造主はすべてのものの親であり、唯一の宇宙生命そのものなのです。

 この創造主である宇宙生命を、我々は神と呼んでいるのです。私達が生きているのは、唯一不二の神の生命のみが生きているのであり、すべての生きものは神の生命の内に留まっているから生きているのです。

 この宇宙にあるのは、宇宙生命が全てであり、あなた個人という独自の生命は存在していないのです。
 あなたの内に生きているのは、神の生命のみなのです。

 すべてのものの創り主である宇宙の創造主がすべてのものの親であり、一つの生命の内に生きとし生けるものが存在し、人間も、金魚も、花も同一の生命を宿しているのです。

 創られたものの内に神の生命が宿っているのです。
ですから自分を知るということは、自分の肉体を創ったのは神の生命であり、自分の本源本質は神そのもの、宇宙生命そのものである、すなわち自分は神そのものであり、この宇宙に実在するものは神あるのみ、宇宙生命あるのみということを知ることになります。

 すべては宇宙生命、神であって、それ以外に何も存在しないことを知ることが最高の悟りなのです。

 神とは何か、自分とは何か、私達はたくさんの宗教の教えにより、色々な神があると考え、様々な概念を植え付けられています。

 2500年前に釈迦は「宇宙即我」と説かれました。2000年前にナザレのイエスは愛を説かれ、自ら十字架にかけられた後に、三日目に復活され蘇られました。

 そして人々に、死がないことを身をもって示されました。私達は釈迦とイエスの説かれたことの原点を、正しく理解する必要があります。
 
 釈迦は悟られて、「不滅の仏陀」になられたのです。
 イエスは「キリスト」になられたのです。

 仏陀とは東洋の言葉で永遠の生命、宇宙生命のことを意味し、キリストとは西洋の言霊で宇宙生命、無限生命そのものの意味なのです。

 つまり仏陀とキリストは同じ意味の事を言っており、その表現が違うだけなのです。お二人とも人間の本質は肉体という姿・形にあるのではなく、永遠の生命が人間の本質であると説かれたのです。

 仏陀とキリストは永遠の生命のことですから、これは固有名詞ではありません。永遠の生命に目覚めた人は、すべて仏陀でありキリストなのです。
 本書ではイエスの説かれた内容を、皆さん方とともに、原点に立ち戻って考えて見ていきたいと思います。


釈迦とイエスが説いたことは

 私達は、この世で死ぬものは何もないことを知らねばなりません。生命は始めも終わりもない、永遠不滅の存在なのです。肉体に終わりがあるのではないのです。その姿・形に終わりがあるのであって、肉体は別のものに変換されてゆくのです。

 生きているから毎日変化してゆきます。肉体の死は、肉体が原子と電子に帰ってゆくことです。原子と電子は永遠不滅の存在で、死はないのです。

 死んだ肉体が永遠に残るなら、死はあることになりますが、死体は三日後には変化してゆきます。そして朽ち果ててゆきますが、それは肉体が物質から、その物質を構成している本源要素である原子と電子に戻ってゆくだけなのです。

 葬式を荼毘(だび)と言いますが、インドでは火葬の意味です。荼毘は火で焼いて急激な変化をとげさせる事になります。目に見えていた形が、目に見えないものに変化しただけです。肉体は水蒸気や気体に変化したのですが、質料やエネルギーはなくならずに残っているのです。

 肉体が固体から気体に変化しただけなのです。その肉体は生命の宿る衣装ですか、肉体から生命が離れた状態が肉体の死であって、生命は永遠ですから、生命という魂は死ぬことはないのです。

 釈迦は、生命が脱ぎ捨てた肉体という死体には何の価値もありませんから、「死体は火で焼いて、その灰はガンジス川に流しなさい」と言われたのです。

 私、知花の心は、固体が気体になっただけで、死ぬことは無いと知っていますから、私の心は平安で平和、宇宙大そのものなのです。
 人間には七十兆の細胞があると言われていますが、その一つ一つの細胞は全体の代表なのです。

 人間は宇宙全体の一つの細胞にすぎないのです。その一つが宇宙を代表しているのです。全体は宇宙生命そのものなのです。今あなたは、宇宙生命という神の内にいるのです。あなたが肉体を去ってから、神の国にはいるのではないのです。

 多くの人は自分のいる場所を知らないのです。現代の宗教は、肉体が死んでから、み国に帰ると教えています。
 このことをイエスは、「盲の者が盲を導く」と言っているのです。人間が言っているところの死とは、一つの形の変換にしか過ぎないのです。
 
 宗教家は死があると思っていますが、その姿・形に死があるだけで、その生命、魂には死は存在しないのです。その生命は宇宙生命で、無限生命ですから、そのことを悟ると、あなたとわたしの区別はなく、全一体、唯一の生命があるのみなのです。

 これは神を象徴したものです。本源は一つとして我れは一にして多なるもの。生命、光は一つなのですが、その表現である姿・形は違って、無数にあります。

 神が万象万物に宿っている現象を表現したものが千手観音像なのです。
 千本の手は、生命が様々な姿・形に宿っている様を現しているのです。

 人間には無限の表現があります。しかし、人間は神から分離して、自ら個別の存在があると誤解するようになってしまっったのです。このことをイエスは、放蕩息子と言ったのです。

 人は神と一体であり、神そのものなのですが、人間はそのことを理解していませんから、自分は人間なりと思っています。その人間が神と人間の関係を理解したレベルでしか、人間を表現出来ないのです。

 人間は自ら自分の存在を理解していないのです。人間が神を創ったのではなく、神が人間を創ったのです。人間が神を創ったとすれば、空想の産物にすぎません。

 悟りのない者は、救われることはないのです。自分がなぜ生きて、この肉体は誰が創ったかも解らない。自分が生かされていることも解らない。

 この人は迷い人です。迷いの内には、安らぎ、平安がありません。自分は地獄に行きはしないか、病にかかりはしないか、死にはしないかと不安と恐怖の内にいます。

 それは自分が勝手に生命、神から分離したことで、人間の無智がこの迷いを創ったのです。自分の理解力を高め、自分の意識を高揚させることが一番大切です。

 あなたは今、即天にいるのです。天とは、あなたが初めからいた所なのです。悟りとは理解力のことです。釈迦とイエスの説く言葉をよく理解して下さい。
 あなたが働いているのではなく、神があなたの内で働いていることを認めるだけで良いのです。神を認めると、神が創造し、語り、働いてくれるのです。

 このことを皆さん方に気づいてもらうために、イエスも釈迦も、そして私もノックしているだけなのです。
 イエスは「天より下るパンを食せよ」と言われているではありませんか。

 天の神があなたの内に働いていることを認めることだけが大切なのです。外側に救いや、エネルギーを求めるものではないのです。
 内から生かされている存在なのです。

 このことを釈迦は「四六時中内観せよ」「外を意識するな、内を観よ」と言われているのです。

 イエスは「私はあなたの内に永遠にあなたとともにおるもの」と言われたのです。イエスが「汝の見るものをすべて受け継がん」と言われたのは、あなたが外を観れば偽ものを受け継ぎ、内を観れば神を受け継ぐからです。

 これがキリストであり、神であり、生命であり、み魂であり、愛なのです。我が内なる生命は、神は、外にいるのではなく、内に在るのです。

「私を受け入れる者は、神そのものをすべて彼、彼女に受け継がれるだろう」、これが「無限の富を受け入れる」ことなのです。

 I am' 私は、 I am God であり、我れは神なりなのです。
 
 この悟りを得るために何万回も生まれ変わる必要などないのです。
 今、即生まれ変わる事が出来るのです。それは、今の今しかないのです。

 まさに、「過去に生きず、未来に生きず」なのです。
 釈迦は「我即宇宙」「今即天」と言われたのです。

「仏性汝の内におわず」と言われたのです。すべてのものは、一からスタートしています。二からは始まらないのです。
 一つは全体であり、帰るべき所へたどり着いたら、一に帰ったことになり、これが神へ到達した事になるのです。

 これが昇天であり、成仏なのです。
 人生の最高目的とは、天という原点に帰ることにあります。
 そのことを釈迦とイエスは色々な言葉を尽くして説かれたのです。



釈迦は「宇宙即我」と言った

 宇宙生命があるのみであり、すべてが宇宙生命に基づいて生存していますので、あなた自身が宇宙生命そのものなのです。だから釈迦は「宇宙即我」と言われたのです。

 宇宙即我というのは、自分自身が宇宙生命であり、宇宙霊そのものであることを示されたのです。
 皆さんが大生命そのもの、大霊そのものになっった時、あなた方の我がなくなります。そして何が残るのかと言うと、大我、大きい我、あるいは全我、すべては我、これが皆さんの実体です。

 真の自己です。
 その他にあなたはありません。大生命なくして、あなたはありません。小さなあなたではなく、大きいあなたしかないのです。

 小我、低我、自我は存在せず、神我一元、キリスト一元です。
 一元です。
 神が全ての創り主であり、すべての生命です。
 あなた方は誰によって創られ、誰によって存在し、今生きているのでしょうか。

 あなたと神とは、一度だって別離したことはありません。今、すでにみなさんは宇宙生命の内に留まり、宇宙生命はみなさんの内に留まっているのです。

「汝いずこにおるぞや」と私がいつも言うのはその意味です。
 皆さんは今から神の内に入るのでしょうか。
 今、即そうです。初めから神だったのです。

 お経をあげたり、賛美歌を歌わないと神になれないのでしょうか。ある特定の修行をしないと神にはなれないのでしょうか。

 初めから神だったのであり、今から神になるのではないのです。何の宗教がなくても神なのです。

 ただ神ではないと思っていることが、誤っている状態です。
あなたは初めから光の存在であり、今からなるのではないことを自分で追求して下さい。自己を追求して、追求することが、神を追求している姿なのです。

 そして自己確立が出来てきます。そこには何のコントロールするものもありません。本来あなたの迷いが、偽物の概念が、真実の自分を曇らせているだけです。

 例えば、曇っていても、太陽自身は曇ることがありません。あなたがたは、今日は曇りだから太陽はないとは思いませんね。太陽は天気の日も、曇っている日も、同じように輝いています。

 あなたがたの神我の光が、自分が迷っているから、その光がないと思ったら大間違いです。信仰、神の光は燦然と永遠に輝き通しであることを忘れないで下さい。

 あなたがたの概念から開放することを、奴隷解放といいます。あなたがたの罪、穢れ、自我の束縛、自我の奴隷になっていることから開放することを、モーゼの奴隷解放と言うのです。

 奴隷解放に来た羊飼いの声を聞くか、それとも疑って、あなたはそのまま闇に生きるか。自我に生きる者は闇の従者で、光を嫌います。

 自我は光を嫌い、闇は光を嫌います。あなたが闇を愛する者なら、自我で生きて下さい。光に目覚めた者なら、光について下さい。

 私、知花は聖書の成就をするために出てきた者です。

 今あなたがたがは、何をすべきか、もうこの世の三次元的な時間はあなたを待ちません。永遠の流れですから、その時間があなたがの悟りを待つということはありません。

 努力するか、世の波に飲み込まれて、無智の人生で終わってしまうか。皆さんは、今一番何が大切であるかということの選択に迫られています。

 この世的物欲、肉欲をむさぼることが大切か、真理の達成が大切か、それは皆さんの自由意志ですから、私は強制しません。
 どうか、自己実現という本当の自分を見出す日が早く来るように努力していただきたいのです。

 それを神我顕現、キリストの再来と言います。地上天国とも言います。
「天のなせるが如く、この地にもならせ賜え」という祈りの成就でもあります。

 神のみ心があなたがたを通じて、この地に行われることを切望しています。「宇宙即大生命」という真の自己に、皆さんが到達して、受け入れて頂きたいものです。それを受け入れることによって、皆さん方に救いがあるのです。

 偽物は神を拒み、父(創造主)を拒むものです。
 イエスが「私を拒む者は、私を遣わしている父を拒む者である」と聖書が示していることをよく考えて下さい。
 
 宇宙生命を拒む者は、その生命、キリスト、父を拒む者となります。
 生命に生きるか、肉に生きるか、この2つのいずれかの選択しかないのです。我れ即宇宙生命に生きていただきたいと思います。



「悟りとは神の愛を受け、神の愛を現す能力」です

 ある、有名な言葉に次のようなものがあります。
『悟りとは神の愛を受け、神の愛を現す能力である』と。

 まず最初には、皆さん方は愛そのものであることが大切です。
『神への霊拝』とは、神そのものになる、愛そのものであることが肝心です。実感することであって、それ以上に必要はありませんという意味です。

 あなたが悟ったなら、愛そのものです。そうなりますと愛そのものとは、光そのものですから、あなたの全細胞から光が放流・放射されます。

 そうなりますと、あなたが電車に乗っていても清めて歩いていることになります。光を放射していますから、電車の中も明るくなります。

 その電車はエネルギーに満たされます。光はエネルギーですから、エネルギーに満たされます。これを無言の奉仕というのです。ものをいう必要がありません。何かをする必要もありません。


肉体は愛を外に顕現する媒体であり道具です

 愛の光を放射するならば、その人の行くところは全部愛が放射されますので、皆が喜ぶわけです。電車に乗っても光が放射されますし、飛行機で旅をしている時も、どこに行っても光を置いていきますので、

皆から「また、是非来て下さい、今お待ちしています」と言われるわけです。

 皆さんがどこかに行ったら「お待ちしています」と言うと思いますか。
「もう来ないで下さい」と言われるかもしれません。

 それは人間意識の肉体を持って行ったとするならば、口先だけは「どうぞまたいらっしゃい」と言われるかもしれませんが、本心はもう二度と来てほしくないと思うかもしれません。

 私達は姿・形ではなく内なる愛を外に顕現する媒体であり道具ですから、思う存分に使わねばなりません。

内なる愛を外なる肉を通して外に顕現する、神我顕現の為の目的』であって、そのために肉体は存在しています。その内なる愛を受けて、放射体とならねばなりません。

 この愛を受け入れた時、その人間は光体となりまます。本当に光となります。これは光の世界で、光の放射体となるのです。

 これを皆さん方はオーラとか、後光というのです。愛に満たされることと、光に満たされることとは同じ意味です。

 では、「私は人間です」とか、「私は肉体です」といって愛が出ますか、光が出ますか。出ません。それは光エネルギーといって、光を放射することとは同じことです。


人間はなぜ愛か  神の意志について

 神の意志というのは「愛」の事です。
 
 本来、私たちは神の愛を受け継ぐものですが、なかなかその愛というものを受け継いでおりません。神の意志とは何かと問われた時「愛だ」と答えればいいのです。神の愛です。そして愛は光です。

 本来は私達も光ですが、その本性である意志である愛を自らが曇らせているのです。愛に反するものは闇です。怒りとか、憎しみとか、そしりとか、嫉妬というのは闇で、その本性である光を曇らせているのです。

 常に光の中にいるならば、神の意志の中にいるならば、私たちは愛でなくてはならないのですが、愛に反するものの中に生きることによって、悩み、苦しみ、そして病気というものを造っているのです。
 
 それは本性ではありません。神の意志に反することを行っているからです。それは罪、汚れです。あるいは業(ごう)というわけです。

 ですから、私達が常に神と共にいたいのなら、神の意志を行わなければならないのです。神の御心の如く生きなくてはならないのです。

 神の御心とはすべてを愛することです。この世に存在するものは愛しかないのです。その愛に反するものを私たちは行っているのです。それは神に逆らっている状態、自分の本性を曇らせている状態です。だから、神に近づくということは、その愛を通してしか神に近づくことは出来ないのです。

 皆さん方はよく「天上界に帰りたい」とか、「成仏したい」とかいいますが、天上界に還るのも、成仏するのも、愛を通さずして、神の意志を通さずして、何者も御国に入ることは出来ないのです。

 常に私達が愛に満たされる。朝起きて愛に始まり、そして一日を愛で過ごし、その一日が愛で終わる日常生活であったなら、あなたは光の中の住者となるのです。
 悩みも苦しみもないのです。そこは光そのものであり、自分の本性であると同時に神の意志を行っているからです。

 イエス様はこう言われたのです。「我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と。これが『神の意志、明らかなる愛の御心』です。

 これに相反するのは私達の悩み苦しみです。人間は愛でなければならないのです。
 私達の根源は愛であるからです。その愛は何かというと神であるからです。
 神の御国に入るには、愛を通さずにして何者も御国に入れないのです。

 なぜ、そんなにまで愛が実行できないのでしょうか。
 以前私は非常に疑問を持ったことがありました。〈なぜ人を憎んだり、謗(そし)ったり、裁いたり、中傷したり、色々なものがあるのだろうか〉と。

 自分の正体が、自分の実態が何であるか分からなかったからです。自分が何処から出てきた者で、何処に還るべきかを知らないから、人々が色々な妬みや、謗りや、怒りや、そういうものを行っているのです。

 自分は何から誕生して何に還るべきか、何処から出てきて何処に還るべきか。ということを知っていたならば、自分の本性、実態を知ったわけですから、自分の根源は愛であった。自分は神の意志そのものを受け継ぐ者であった。と、そのことが分かってくるのです。

 そして、その神の意志を受け継ぐ者が、神の息子となって神の娘となるのです。神の跡継ぎ者となるのです。

 その時皆さん方は「神のものは私のもの、私のものは神のもの」といえるような状態となるのです。

 今の私、この知花の心の状態がそうなのです。
「神のものは私のもの、私のものは神のもの」と、実感としてそう想っているのです。

 そして、神の意志というものは愛であった。この世で何者も憎んではならない。憎むということは神への反逆であり、神から遠ざかることであり、罪であり、汚れであり、それが苦しみの原因であることを私は知っているからです。
 常に皆さん方の心の中に本当に愛が満たされているならば、皆さん方も神の意志を受け継ぐ者となるのです。

 神の意志を受け継ぎたいのなら、愛に反するものを想わないこと、語らないことです。皆さん方が人を裁くことは神は決してお喜びにはなられない。人を怒ることもお喜びにはなられない。しかし、その神の望まれないものを私達は平気で行っているのです。神が一番お望みになっていることは愛し合うことです。

 お互いにこの世に存在するのはみんな神の子であり、神の創造物であるのです。
 神がお造りになったのです。造り主は神であるのです。その造られた全ての物は、神ご自身がお造りになりましたので、神の意志はこの世に現れている一人びとりを、ありとあらゆる生きとし生けるものを、万象万物を愛してくださっているのです。

 そうであるならば私達も万象万物を愛さなくてはならない。これが神の意志です。
そして私達が万象万物を愛し、人々を愛し、分かち合うことが、神の意志を受け継ぐものとなるのです。

 それ以外、この愛を通さずにして、何人も御国に入ることは出来ないのです。それなのに、今までは偽りの指導者によって騙されてきたのです。

 「主よ、主よ」と主の名を唱えれば天上界行きだとか、お経を何万回あげれば極楽行きだとか、神の御国に入れると言われてきたのです。しかし、彼等は現実的には愛し合ってもいない。同胞愛をなしてはいないのです。

 神は善人にも悪人にも、平等に愛を注いで下さっているのです。その神の愛は無差別の愛です。無所得の愛です。
 ですから、神の御国に入るには、神のような愛でなくてはならないのです。本当に自分という我を忘れて、愛だけに満たされるという状態になることです。

 皆さん方は、まず今日一日、明日からでもよろしいから愛だけに満たして下さい。そうすれば、あなたにどんなことが起きるのでしょうか。

 あなたのこころにこれっぽっちも憎しみがない。怒りがない。嫉妬がない。本当に何処を見ても愛おしく全てに愛を満たしている。それは人間だけではなく動物、植物、鉱物全てにです。

 そうなっているとき、もう皆さん方は神に波長が合っているのです。
 神に波長を合わすということは、すべてが愛でなければならないのです。

 神の愛に満たされているとき、私たちは光明人間になるのです。だから、イエス様は愛に満たされているとき「我は世の光なり」といわれたのです。

 光明人間。すなわち世の光です。愛は光です。愛に満たされている時は光明人間です。曇りがないのです。だから愛は光なり。光は愛であるということが分かるのです。

 皆さん方は本来光です。皆さん方一人びとりはみんな光なのですが、その光に相反することを、愛に相反することを行うことによってその光を曇らせているのです。
 
 憎しみの多い人は真っ黒くしているのです。怒りの多い人は真っ黒くしているのです。憎しみも、怒りも闇ですから、自分の本性である光を曇らせているのです。これは自らが曇らせているのです。

 本来、人間は光そのものです。霊体というものは光体です。光姿体です。
私達の魂というものは光そのものです。神の意志そのままなのです。
神の意志を引き継いで、私達はこの世に存在しているのです。
 これを真の我「神我」といっているのです。



無我の境地とは何か

人を苦しめていることは自分を苦しめているようなものなんです。
この細胞がこの細胞を苦しめれば自分を苦しめておりますね。
それと同じようなものなんです。

それを皆さん方は一体観念という、
一体、全一体が神理でございます。
分離は非真実、迷いそのものなんです。

あなた方が神理の中に生きて、神理を知っていたならば、
誰を憎みましょう。誰も憎まないはずですよ。
そこには愛しかないはずです。

ね、ひとつの存在ですから、対立するものがないはずですから、
迷いの中にこそ、対立はあるんですよ。
今まで個人と思っていた自分がなくなって、全我という一体感。

あ~あ、な~るほど、
一つの宇宙生命の中に、みんな一つの体の中にいるんだな、
一つの生命をみんな宿しているんだな。
そして同一の神々のみ中にいらっしゃるんだな。

という事が分かれば、そしたら、あなたは誰をけなしましょうか。
そこにはもう調和と愛しかしか無いと思います。
であるがゆえに神は愛なんです。
私達はまだ、悟りという神理の中の境地に入っておりません。

無我の境地というものは、今まで迷っていた自分がなくなって、
全我という全一体感の中に神の中に入ることが、無我の境地でございます。

そこには無限なる自分、全体なる自分しか無い。今まで個人だと思っていた自分はなくなっています。

迷っていた自分がなくなって、
悟りの自分、全一体なる大いなる無限なる自分しか残らない。
それが、無我の境地でございます。

そういった時、みなさんがどのようなことが起こるといいますと、
あなたが個人、分離でいる間は、迷い苦しまなくちゃならない。

分離でいる間は、迷いなんです、苦悩なんです。
自分の無知で自分を傷つけます、
しかし、悟りという境地、無我の境地に到達したならば、
傷つけるものがありませんから、傷つくことがないのです。

人を苦しめませんので、苦しむことがないのです。
そこにはもう平安と安らぎしか無いのです、
これが神の境地なんです。光悦感といいます。

あなた方が一番この世に生きてる間に、その一番克服しなくちゃならないことは、分離感で御座います。

どこにも分離はございません。分離というのは皆さん方の無智の中に、迷いの中にのみ存在致します。これは実在ではありません。非実在なんです。

勝手に人間が分離してはないけれども、
分離して勝手に争っているだけ、勝手に対立しているだけなんです。
どこにも分離はありません。

それがなくなって対立するものがなくなれば、あなた方は苦しむでしょうか。
悲しむでしょうか。恐怖するでしょうか。

今日の話は、皆さん方を最高の神に到達する神理でございます。

それをあなた方は観念でとらえて、自力でとらえては何にもなりません。
あなた方が意識的にその全一体感になることを無我の境地というので御座います。

意識的にその全一体感に自分が到達。
そして皆さん方が、その無限と一体であることによって、皆さん方は無限の智恵と力と愛をあなたのものとすることが出来ます。

なぜなら、あなたは今、分離している間は、一滴の海水のようなものなんです。
一滴の海水を海から持ってくると、使い道がない、無力、ね、何の価値もないけれども、その一滴の海水を全体に大海に返してみて下さい。

その一滴の海水も全一体となったから、全体の知恵と力をその一滴の海水を、我がものとすることが出来る。

あなた方の今、分離の中に、対立の中に、いくら神の知恵と力をあなたが得ようと思っても、得ることはありません。

ね、無限宇宙とあなたが一体となって、全一体、どこにも分離のない状態、宇宙即我という境地にあなたは無限宇宙の中に今いますよね、皆さんがね。

そうすると、無限宇宙があなたでなくてなんでしょうか。
あなたから無限宇宙から分離することが出来ますか。

あなたそのものなんです。だから、あなたは無限者なんです。
その自分が、無限の中に留まり、無限者があなたの中に留まり、あなたは無限者と一体となる。そのことの境地に到達した時、あなた方は無限の知恵と力と愛をあなたのものとする事が出来る。

あなたを通して無限を表現することが出来る。
これが釈迦の偉大な力、宇宙力、天と地を支配する力を得た秘訣。

イエスが天にある言葉を語られた秘訣、彼を通して無限の知恵と力が、言葉を通して現れたのでございます。



おまけです

 一つのものの中に生きているからです。
心は一つの心、神の心の中で生きているからです。

人を苦しめていることは自分を苦しめているのと一緒。
一体ですから、神から見れば1個の細胞体です。分離はございません。

悟りとは何かというと、全一体。全ては一つの体ということを悟る。

無限宇宙からすれば全一体なる大いなる自分。全一体が真理。そこには愛しか無い。
そこには愛と調和しか無い。

迷いの中にしか対立はない。 



輪廻転生とは不成仏を繰り返している者たちをいいます

 皆さん方が輪廻転生をなぜ繰り返すかご存知でしょうか。あなたが無限に帰らないからであって、無限に帰らない限りは不成仏として輪廻転生せねばなりません。

 あなたが無限に帰るまでに、個人としてならば何万回もこの地上界に生まれ変わらねばなりません。

 個人意識を克服しないかぎりは、個人という社会に何回でも生まれ変わるのです。では、皆さん方が過去世において、無限に帰っていたら、現在この世に生まれていますか。

 では、今生も帰りませんか。今生も帰らなかったら、また来世がありますよといえます。人間だと、肉体だと思ったままこの世を去りますと、再び肉の世界に生まれなければなりません。

 完全に肉体もなく、個人でもない、人間でもなく無限だと思えば、その無限という天国に帰った暁には、個人として再びこの地に舞い戻ることはありません。


イエス・キリストは輪廻転生を否定されました。

 イエス・キリストは輪廻転生を頭ごなしに否定されました。
『汝、再び生まれてはならない』という名言を言われました。ですから、あまり輪廻転生のことを説き過ぎますと、これは神理ではなくなります。

 迷った人が輪廻を繰り返すのであって、解脱している人は繰り返しません。これを輪廻の克服といいます。

輪廻の克服をするためには自我を克服せねばなりません』。個人意識を克服せねばなりません。あなた方のいう自我とは個人のことを言うのであって、神我は無限をいいます。

 神我の我に帰るとは、無限の我に帰るという意味です。それ故に、まだ皆さん方が個人という思い、即ち自我があるならば、それは神が創った自分ではなく、自らが作ったとなります。これを自我といいます。

 そして、神我は神なる我(われ)と書きまして、神我(しんが)といいます。

 自我という個人は皆さんが作ります。これを自らが作った獄壁といいます。ですから、皆さん方はあまり、過去世にとらわれてはなりません。

「私は誰の生まれ変わりだ」とか、「あなたは誰の生まれ変わりですか」と話すのではありません。

『皆さんは神の生まれ変わり』であり、『神の化身』です。



宇宙に愛は1つしかありません

 人間は実在していないから、全く存在していない事を知らねばなりません。実在しているのは愛であって、これを大愛、または愛とも言いますし、神ともいっているものです。

 それを神は愛なりといいます。なぜ神は愛なのかといいますと、エネルギーと質量のバランスを大調和といいまして、このエネルギーと質量の調和でもって人間が創り出されているからです。

 あなたは人間ではありません。人間とは何かといいますと、愛の仮の姿です。即ちエネルギーと質量の仮の姿です。

 ですから、形という世界は仮相の世界といいます。影の世界です。エネルギーと質量が様々な形を写し出しています。エネルギーと質量のバランスがなくて物が存在すると思いますか。存在しません。

 大愛が人を創り、大愛が人の中に必ず宿っているといえます。人の中に愛は宿っていますか、宿っていませんか。あなたは人間ですか、愛ですか。愛です。

 ではどこに人間がいますか、あなたはその愛の仮の姿を見て、それに人間という名前を付けているだけです。あなたの本性は愛です。この世に愛を宿さないものは一物もありません。

 そして、この愛は宇宙にいくつあるといいますと、1つしかありません。これは無限大の愛であり、限りなき愛です。この愛には初めがないし、終わりもありません。空間がありません。時間がありません。永遠です。

 あなたの形は崩れても、愛は崩れません。愛は永遠になくなる事はありません。これが『不老不死の原理』です。あるいは健康になる秘訣です。

 しかし、皆さん方はまだまだ、自分の姿・形が何であるかや、自分の本性を見ていません。この大愛を皆さん方は神性といいます。

 そして、エネルギーと質量のバランスの事を意味します。そこで、神のことを中性というわけです。中性と神性は同じでありますし、愛というのも同じです。

 では、あなたは人間でしょうか、大愛でしょうか、愛はいくつありますか。愛には所得がありません。私の愛とか、誰彼の愛という愛は存在していません。



自分が霊覚者であるか肉覚者であるかで、天と地の差がでます

 自分が霊であることに目覚めた人のことを霊覚者といいます。肉覚者ではありません。あくまでも『我は霊なり』と言わねばなりません。

 肉には一点の知恵も、一点の力もありません。この肉体は霊の動く場であり、働く道具、媒体にしかすぎません。これを霊媒ともいいますが、霊媒体質は霊のエネルギーを受けやすい人のことを言います。

 エネルギーを受けやすい体質のことであり、この知花は生まれながらの霊媒体質でした。小さい時から自分が霊であることを私は知っていたのです。

 なぜかというと、身内の者が亡くなった時に、もう一人の霊的彼がいる事を、観ていたからです。その霊は、この知花を観ていましたから分かっていました。

 肉体は霊が着る衣装にしかすぎないことを、7歳の頃から全部分かっていたのです。ですから、生まれながらの霊媒体質なのです。

 自分が霊であって肉体ではないことも生まれながらに知っていましが。皆さん方がまだ肉体を吾として見るなら、皆さん方は盲人です。

 霊眼が開かれているのではありません。真の自己は霊的我ですから、吾は霊なりと言わねばなりません。

 吾は肉体ではないと、自分は人間でもなく、個人でもなく、大霊そのものだと言わねばなりません。皆さんは宇宙霊です。

 唯一の大霊が全てに宿っているのです。すべての形体は大霊の中に存在して、大霊は全てに宿っています。このことを今、ここでご理解いただきたいのです。


克服者というのは何を克服したのでしょうか

 死ぬ間際の人間は影が薄くなります。影が薄くなったといいます。それは影が薄いということで光に近づいたのです。霊に近づいたことを意味しています。

 その光とは何でしょうか。霊です。霊界は霊光ですから光明世界のことを意味しています。

 我々の霊体とは光体という意味です。皆さん方は我は霊なりという霊的自覚に順応して、皆さんの闇の肉は光体へと、霊体へと変容を遂げます。

 これをイルミネーションといいます。それは闇の肉に霊的な我が打ち勝った時で、『外なる闇は我が内なる光には勝てなかった』となります。

 これが克服者という意味です。自我の克服とは闇の克服です。
 神我は光です。神我と自我の戦いを光と闇との戦いといい、霊と肉との戦いといいます。



無限世界から觀ますとすべてが丸見えです

 私、知花は無限の我から、実在の我から、非実在の仮相の世界をいつも眺めているわけです。

 あの人はどうしているのだろうかと、この人はどうしているのだろうかと、無限から觀るのですから、上の世界から下を見下ろしているわけですから、実相世界から仮相を見下ろすわけですから、丸見えです。

 それは面白いものです。面白いと言いますと御幣があるかもしれませんが、例えば、その神我という無限の世界から、形という世界をも下ろすことが出来ますから、すべてが丸見えです。誰が何をしているか、見えると思いますか、見えないとおもますか。

 なぜ、皆さんには見えないのでしょうか。私の悪口を言っているのも、何もかもが丸見えです。隠れて話していても、私には隠れるものは1つもありません。

 神我に隠し通せるものが1つでもありましょうか。ありません。このやすらぎの郷で、こんな話を聞きながらでも、私の悪口をいう人はいっぱいいますが、「あの知花先生は何とかかんとかといって」という人たちは私は分かっていないと思いますか。残念ながら分かります。

 どこに隠れていてもどこにいても分かります。なぜならばあなたと私は本質に繋がっているからです。本質的には1つですから、家族ぐるみで知花の悪口を言ったって、全部が筒抜けです。

 仮相の世界にいる限りは分かりませんが、この本質という全一体の世界にいるならば、全一体ではありませんか。あなたは私であり、私はあなたですから。全一体の世界ですからわからないはずがありません。

 そんなところを皆さん方も知るためにはどうすればいいかといいますと、この実相に生きることです。実相においてはすべては1つですから、全ては一つになります。


あなたは宇宙そのもの

 無限宇宙そのものが、一つなる神の御神体です。
そして、私たちは無限宇宙の中の1個、即ち、一つなる神の一部です。

 あなた方の肉体には、約70兆余りの生命体が存在しています。
その生命体とは、神という生命が、1個1個に個別化されている細胞のことを言います。

 その1個1個が総計されたものが、あなた方の肉体です。

 だから、あなた方の肉体は神の御神体であって、そのあなたという細胞1個1個1個が、宇宙全体を構成する役割を果たしているのです。
 
 あなた方は神と一体、即ち、神と一つの体であって、決して、2つの体というものはなく、無限宇宙という神の御神体一つしか存在しないのです。

 だから、あなた方は、今の今、神と一体であって、神の中に生きているということです。

 そのことを、イエス様は「私は常に宇宙なる神と一体である」と、
お釈迦様は「宇宙即我」即ち「宇宙は私である」と言われたのです。

 そのように、あなた方という個別化された1個の存在も、イエス様や、お釈迦様と同じように、宇宙なる神の中に存在しているのです。

 宇宙は無限であって、そこに、あなた方を含む1個1個が存在し、その全ての1個1個が全体を構成している。即ち、無限宇宙全体という、神なる一体を構成しているのです。

 だから、神とあなた方は一体、即ち、同じ一つの体である、即ち、あなた方は無限宇宙という、神の御神体を構成しているということです。

 人間というもの。それは細胞70兆あまりを総計したものを言います。細胞の寄り集まりと言って、その70兆余りの細胞、その1個1個の全に、神という生命が、意識が宿っているのです。

 その細胞の総決という、人間一人びとりの分霊を総決したものが、分生命を総決したものが『宇宙という神』なのです。

 ですから、あなた方は、今、そのままにして神の存在です。
あなたは神の一部です。全体の一部です。無限宇宙の一部を構成しているのです。

 言い換えれば、『あなたという1個の存在があって、無限宇宙が構成されている』ということになるのです。

 無限宇宙の中で、あなたの1個では、何も成し得ることは出来ません。
1個というものには何の力もないからです。それは、あなたの肉体の一個の細胞には、何の力もないことと同じです。

 その全細胞が一つとなる---。
あなたという肉体の中の、70兆余りの細胞が総決されることによって、大きな力となって、働く力となるのです。

 その小さな寄り集まりがなければ、あなた方という肉体は動けないはずです。一体であるが故に、小さな細胞という神の力の寄り集まりが、あなた方という肉体を通して、大きな神の力となって現れるのです。

 だから、神と人は一体であると、一つの体の存在であるというのです。そのことを、イエス様は「わたしは神と一体であることによって、私は神の力を成し得るのである」と言われたのです。
 
 その神の力とは、宇宙全体の力のことです。
あなた方の一人びとり、全て生きとし生けるものの、寄せ集めた、総決した力が、神の力です。

 その力を全部集めることを「全力」と言います。
それは、全ての力ということです。その全ての総決したものを神の力、即ち「宇宙力」というのです。
 
 そのことを、イエス様は知っておられました。
だから、イエス様は「わたし自らは無である」と言われたのです。

 あなたがたも「1個の個人としては無であるが、自分は全体という神と一体である」と、その『一つ』という悟りの境地に入った時に、あなた方は宇宙力を得る、その宇宙力を、我がものとすることが出来るのです

 イエス様は「信仰が深くなれば山をも動かす事が出来る」と言われました。そのように全力を尽くせば、無限宇宙の力が働けば、山も動くのは当たり前のことです。

 あなた方も、その同じ力を得ることが出来ることを、ここで知らねばなりません。

 あなた方の1個1個の生命が、総決されたものを『大生命』というのです。それらの、全ての生きとし生けるものの総決された生命が、無限宇宙なる大生命を存在させているのです。 





普遍を認知するとは何か

 もう理解できる日が近いですね。この絶対なるものを皆さんが受け入れなければなりません。普遍こそ絶対実在です。

 皆さん方は自分が普遍であって、何ものでもないのだとはっきりと直知し、認知した時に普遍的な知恵と力が現れます。すなわち叡智・仏知が現れるのです。これは精霊が下ったという意味です。即ち神の臨在観です。

 神我が内にましますという意味は、神の臨在観です。自分自身の内に神を受け入れるということは、自分自身の内に神がおらねばなりません。この肉体をお作りになったものも神であり、この肉の内に生きているも神です。
 
 素直に受け入れ、この肉体の作り主である神にお返しする、全託するのですが、そうしますと、全部を神に委ねましたので、そこには不安や恐怖はもうありません。

 あなた方になぜ、不安や恐怖があるのかといいますと、自分というものがあるからです。自分がない人間に不安と恐怖の自分はありません。そこには平安があるのみです。

 イエス様は「神が平安であるが如く、そなた達も平安であれ」と言われました。神は不安ですか。平安ですか。平安です。安らぎです。ですから、皆さんの神我は安らぎです。自分があるかぎり不安です。


「私のもとに来るものは安泰である」の意味

 私達がまだまだ自分に不安や恐怖があるのならば、肉を自分だと思い込んでいるのだと、自分に言い聞かせたらよかろうと思います。

 イエス様は「私のもとに来るものは安泰である」と言われました。安全であると言われたわけです。そこには何の不安も恐怖もありません。極楽です。楽な局面です。肉の自分を意識する、このところは難儀な側面です。

 ですから、難儀する必要はありません。楽そのものです。ここに入ったら気楽そのものです。そうなりますと、毎日が本当に楽しい、嬉しいという平安、平気にならなければなりません。今なら平気という意味が分かりますね。平気は極楽です。

 ですから、あなたは平気で生きることです。あなたは人の目を、人の口を気にするから平気でおれないのです。気にするから苦しむのです。
気にしなかったら苦しみはありません。平気です。


 心の勇者とは何か

 平気でおれるのは極楽です。平安です。平気でおれるようにしないといけません。これが気楽でもあるし、極楽でもあるのです。ですから、我々は極楽に住むのも地獄に住むのも自分次第です。誰でもありません。

 ですから、あなたを今まで苦しめていた自分に打ち勝つ事が大切であると思います。そのためには自分がないことを知っていなければなりません。

分かりますか。自分はありません。大霊こそが、神こそが絶対実在であって、神が全てを作って、全てに神が宿っているわけですから、神の他には絶対に何もないわけです。

 それがはっきり理解できて、それを受け入れることが出来たならば、皆さん方はもう平安です。

 そうした時に皆さんはもう真の勇者であり、真の克服者になるわけです。その克服とは自分に打ち勝つことです。

 あなたは幸せや健康であるためには、あなた自身に打ち勝たなければなりません。自分に負けている限り、私達は、この世の苦しみから開放されることはありません。


 真の自己とは普遍的な大霊です。外側の自分は偽物の我ではありませんか。神我が偽我に打ち勝つことを勝利といいます。

 今まではあなた方は偽我の味方になっていました。本物の方には力を貸さないでいたのではありませんか。

 ですから、今からはそうではなく、本物の自分を認める事によって、外なるものが内なるものを認める事によって、「外なるものが内なるものとなる」となります。

 小さなものが大きなものを認めた時、小さなものは大きなものとなります。個人的なものが普遍的なものを認めた時、個人は普遍となるという意味です。個人は実在していません。

 なさんも、外側で見ると個人ですが、内側には個人はありません。
 生命には個人生命や、個人的霊や、個人的神はありません。

 そこは全体者があるだけです。全我なる普遍なる、宇宙我なる我があるだけです。

 ですから、偽我に打ち勝つためには、本物を持ってこなければなりません。あなた方は偽物で偽物を負かそうとしていますから、絶対に負かすことは出来ません。

 即ち、自我で自我をなくそうとしてもなくなりません。
 自我をなくすことは、神我を持ってこれば良いのです。
 神我が現れたら、自我はなくなります。



「洗礼」といいますが、この字は聖書の間違いです

 この字を普通には、皆さん方は洗礼といっていますが、今の聖書は間違っています。この「洗礼」という文字を使っていますが、「洗礼」ではありません。これは☓(バツ)です。これは「霊」だと言わねばなりません。

 光のシャワーを浴びることを『洗霊』といいます。「せんれい」とは、お礼の「礼」だと思いますか。『霊』だと思いますか、霊で闇を洗い清めることを洗霊というのです。

 その時は、この霊という光で肉体という闇を洗い清めた時に、この者は霊体となります。すなわち光体となります。

 その霊体のことを皆さん方は「霊服」といいます。この霊を聖書では「礼」と書いているのです。「霊服」というのを、お礼の「礼」と書いて礼服と書いているのです。これは間違いです。誤字となっています。

 この霊服が正しいと思いますか。光の服装を着る光子体となることです。お礼の礼ではありません。これを聖書にはお礼の礼を書いています。

 洗礼の礼もこの文字を書いていますが、どちらが正しいと思いますか。お礼の礼ですか。洗霊でしょうか。この霊でしょうか。光のシャワーを浴びるという意味です。

 あなた方は、我は霊なりと、我は血や肉・姿・形に属する者に非ずと、どのように洗霊を受けるかといいますと、霊的自覚によります。我は霊なりといった時に、皆さんは、『我は霊なり』というのと同じことです。

 その時に、内なる霊に油を注いでいますので、『我は霊なり』『我は霊なり』というたびに油を注いでいますので、その火である、霊的な火が燃えます。これを油注ぎというのです。これを『瞑想』といいます

我は霊なりという瞑想をしなければなりません』。

瞑想をしている人は内なる霊に油を注いで、意識しますので、霊的なものを意識すればするほど、それに油を注ぎますので、どんどん内なる火が燃え盛って、とうとう闇の肉が光体となるのです。

  これを洗霊といいます。光体になったときに、闇はすべて消えます。

 では、光体になった時には、霊的自覚がなくても、この闇である無明である肉体が、光になりますか。これを霊性の進化とも言いまして、五分間でもいいから霊性でありなさい、というのはその意味です。霊性は光です。

 我は肉なり、我は光なり。我は霊なりとは我は光なりということで、我は肉なりというのは我は闇なりということになります。

 この肉という闇の中に光の自分を閉じ込める状態を闇地獄といいます。闇地獄です。

 皆さん方はこの霊がすべての一切の知恵であり、一切の力であるのに、肉にあまりにも執着しすぎて、とらわれ過ぎました。ですから、この闇の中に蒔かれた光の種に飛びさだなければなりません。




人間は初めから愛そのものです

 人間は努力して愛になるのでしょうか。生まれながらにして大愛でしょうか。元々、私達は大愛ですし、今も大愛です。未来永劫に大愛です。

 愛の他には絶対に何もありません。ですから、愛に勝る力はありません。愛は。全存在の本源にして本質です。愛がなかったとしますと、皆さん方は存在できません。これを神性とも言いますし、仏性ともいうわけです。

 では、神性や仏性は愛とは違うものでしょうか、同じものです。それを中性といいすなわち愛です。これを全き愛といいまして大愛というのです。

 大愛の他には何もないのに、あなた方は形という世界に完全に目隠しされて、実在しないもので、実在を見失わされているのだと言えます。この形あるものを実在だと見てはなりませんし、人間を実在だと見てはならないのです。

 自分の事を神だと觀るか、人として見るか。神だと観ている人のことを神眼の開かれた人といいます。人間だと見ている人のことを盲目といいます。
あるいは無知というのです。

 無知な人は自分を神だとは觀ませんし、思いませんし、語りません。偽物に生きて、本物には死んでいます。ですから、人間のことを偽我というのです。

 愛には時間もないし、空間もないし、距離もないし、無限しかありません。全き愛の世界には時空間が存在しません。愛の存在しないところはありません。

 形あるものだけが愛ではなく色も空も皆愛です。では、色と空は違うものでしょうか、同じものでしょうか。同じものです。

 愛は空ですし、そして色も愛となります。ですから、愛即人、人即愛となるわけです。それは大愛ですし、宇宙には小さなものは存在しません。

 無限一元であるといえます。無限の他には何もありません。あなたは個人的でしょうか。無限でしょうか。無限大の愛が人を創り、無限大の愛が人の中に宿っているわけです。では、この宇宙に小さな愛があるのでしょうか。

 皆さん方の考えている、肉我で考えている愛を盲愛といいます。真の愛は無所得です。無差別です。無所得の愛であり。無差別の愛です。

 ですから、善人にも、悪人にも平等に神の愛は注がれています。
 愛の世界に善悪があるのでしょうか。ありません。

 すべてが愛ですし、愛そのものです。その迷妄から皆さん、解き放たれなければなりません。人間だという先入観や、人間という固定概念を捨てなければなりません。

 愛は馴染みのないものだと思っていますが、もう、あなた方は人間に馴染んでしまっています。

 人間だと見ることに慣れてしまって、自分を愛だと見ることに慣れていません。偽物を見て、本物を見失っているのです。即ち自分を見失っています。



『私は愛以外に何も知りません』と答えなければなりません

 形をとっているものも愛で、形をとってないものも愛です。ですから、色と空は同じものといえます。この愛は見えるものではありません。

 この見えるものと見えないものとは違うものでしょうか。同じものでしょうか。色も空もすべてが愛です。これを愛一元といいますし、神一元ともいいます。愛の他には絶対に何もありません。

 あなたから愛を抜いたら、何も残りません。人間もいません。あなたが愛以外に何かを知っているなら、あなたは迷っていますし、あなたが愛以外に何かが見えるのならば、あなたは盲目です。

 愛以外に何も見てはならないし、愛以外に何も知ってもならないのです。
 愛も不調和もありますよ、というのは嘘です。私は愛以外に何も知りませんという人にならなければなりません。

 ですから、愛を知るのが悟りとなります。不調和とは迷いとなります。ですから、悟っているか、迷っているかは簡単に分かります。

 悟っているなら、必ず愛になります。その愛は限りなき愛ですし、久遠常在の愛となります。これは永遠なる愛です。

 また、人間は形という世界に目が眩んでしまって、自分の実態や本質が愛であることを忘れていただけです。

 自分が大愛であることを見ない人は自分を見失った人といいます。愛の自分と人間の自分とどちらでしょうか。愛の自分です。

 ですから、人間のことを偽我としかいわないのです。偽我というのは偽物の我です。大愛は真我ですから、真の自己となります。愛は真我ですが、愛に生きるべきでしょうか。人間として生きるべきでしょうか。

 正しく生きるには、愛としていきなければなりません。正しく思うとは自分は人だと思うべきでしょうか。愛だと思うべきでしょうか。愛に生きるべきです。

 しかし、皆さん方はどうしても、形というものに執念や執着を燃やしています。ですから、形という世界を、非実在界としかいいません。

 愛は実在界といいます。この実在界は愛の王国です。これを天といいます。大愛と大天とは同じものです。

 ですから、『天は汝の内にあり』です。
大愛は大神様ですから、『神は汝の内にあり』となります

 これを内在の神とか、愛とかと言っているわけです

 皆さん方はいつになったら、この偽物から開放されるのでしょうか。あなたが人間だと自分を見ている限りは、絶対に神を見ることは不可能です。ですから、己を観たときに神を観ます

 この大愛と大神様とは同じものです。大調和でもいいのです。ですから、神眼を開くというのは本物と偽物の識別をしなければなりません。

 大愛を見ている人は神眼が開けた人です。私は人間ですと見ている人を盲目の者というのです。
 自分を生涯、人間だと生きる人は、盲目の人生です。

 ですから、いかに皆さん方は正しく思っていないかといえます。大愛が実在なのに、人間だと思っている人がいかに多いかということです。


見えるもの、見えざるもの、すべてが愛です

 お釈迦様の八正道というのは悟りの物差しです。正しく見ることが出来なければ、正しく思うことも、語ることも、生きることも、生活することも出来ません。

 八正道とは愛の王国と言いまして、それは天国のことです。愛の王国と天国とは同じものですから、『天は汝の内にあり』となります。

『神は汝の内にあり』となります。この世で朝の露一滴でも、神の愛を表しています。

 見えるもの、見えざるもの、すべてが愛です。愛の他には絶対に何もありません。愛のみが実在です。

 大愛がすべての形体を創り、大愛がすべての形体に宿っていますので、そうなりますと見えるもの、見えざるものすべてが愛です。

 これが色即是空・空即是色といいます。色即大愛です。大愛即色になっています。

 これを全き愛といいます。全き愛と、全き神とは同じものです。
  全き愛とはすべては愛だという意味です。

 愛なくして物が存在することはありません。愛そのものが創造の原理ですし、物を表す原理です。まだまだ、皆さん方は正しく物を見てはいません。人間がおるというのは本当でしょうか。

 人間とは何かと問われた時に、何と答えるべきでしょうか。大愛だと答えなければなりません。
ですから、己を観た時に、神を観るのです。己を知った時神を知るのです

 無知とは自分を知らないという意味です。自分を見失っているという意味です。あなた方の一番の最大の敵は肉体という形です。

 偽物が本物を目隠しするわけです。その形に人間という名前をつけて、それで目隠ししているわけです。

 自分は人間ではないと、自分は愛であるといえる人はもう神眼が開かれています。自分に私はあなたが見えますといえるならば、愛のキリスト、慈悲の仏陀となるわけです。愛そのものとなります。



何が本物で、何が偽物でしょうか

 本物と偽物の識別をしてみたいと思います。私達は偽物に目隠しされて、なかなか本物を見分ける事が出来ません。それゆえに偽物の生涯で終わってしまいます。実際にあるものと実際にないものとの識別が出来ないからです。

 実際にないものをあるものだと見て生涯を終わります。これを盲目の人生といいますが、識別が出来ないままで世を去る人が多いのです。

 ですから、まずは自分とは何であるか、本物の自分とは何であろうかを識別してみたいと思います。

 私達は今、誰でも自分の事を人間だと見ていますし、人間だと思っています。
 人間は実在しませんよといっても、「今、現にあるではないか」と、普通の人はいいますが、人間がいると思っている人は全くの盲目です、無知でもあります。人間は全く存在していません。


人間は霊と水でしかありません

 まず、人間とは何であるかを考えるべきです。人間の実態は霊と水でしかありません。霊と水なくして、人間は存在しません。

 では、実在しているのは人なのか、それとも霊と水なのかとなりますが、人間は実際にあるのでしょうか。人間と、そして霊と水とは違うものでしょうか。

 これを大愛といいます。愛しかありません。湖の霊と水との調和を大調和といい、大愛ともいっています。人間とは人間の形をとった愛です。

 愛は実在していますが、人は実在していません。人間から霊と水を差し引いたら何も残りません。すべては愛です。

 ですから、愛の他に何も見てはいけません。あなたが人間がいるといえば、もう既に嘘をついたことになります

 大愛が人を創り、大愛が人の中に宿っているなら、これは人でしょうか。大愛でしょうか。人間の実態は愛となります。

 皆さんは、まだまだ妄信的ですから、自分とか、私とか、人間とか、肉体とかというようにものを見ます。

 自分を人間だと見ている人のことを、盲目というのです。自分は愛だと見ている人は目明きといいます。すなわち神眼が開かれているわけです。

 神は愛なり、我も愛なりです。愛が形をとったら、愛以外のものになるのでしょうか。見えるもの、見えざるものすべてが愛であり、この世に現れているものすべてが愛です。

 ですから、すべてに愛を見よとなり、そしてすべてに愛を感じなさいといえます。

 皆さん方はどうして自分を人間と見るのでしょうか。形としてものを見るからです。本質を見れば愛ですが、形を見ると人となります。これを外観といいます。

 本質を見ることを内観といいます。本質を見るべきでしょうか。形を見るべきでしょうか。本質を見るべきです。肉体はもうどこにもいません。人間は全く存在していません。




生命をキリストといいます

 迷っている人とは肉や血を己として生きている者です。真のあなたは血や肉でしょうか、それとも生命でしょうか。

『我、生命なり』と、我は血や肉ではないのだといえる己として、はっきりと生命の自覚ができた時に、皆さん方は一切の悩みや、苦しみから開放されるのです。

 自我で生きている限りは、自我は罪であり、病であり、死です。

 神我は罪を知らず、病を知りません。生命である神我こそが唯一の救い主であって、唯一の道であるといえます。

 ですから、『キリスト』を受け入れよと、キリストを受け入れない者は、生命を受け入れない者です。その者に救いはありましょうか。

 生命キリストが唯一の救い主であることを知らなければなりません。キリストとは今のキリスト教のいってるキリストのことを意味しているのではありません。

 あなた方の『真我のことをキリスト』と私は呼ばせて頂きます。あなた方の『生命のことをキリスト』と呼ばせて頂きます。

 生命こそが唯一のキリストではないでしょうか。唯一の神ではないでしょうか。唯一の神理ではないでしょうか。その他に神や神理があった試しはありません。

 生命は非神理でしょうか。神理そのものでしょうか。生命を知ることが神理を知ることです。生命を知ることが神を知ることです。それが己を知ることとなります。

あなたは生命であるから『我は神理なり』とあなた方はいつか言うであろうと、『我、神なり』というであろうと、『我、生命なり』と言うたらよかろうと。そのように真のあなたであることに目覚めていただきたいのです。



私たちの心臓の鼓動や動悸が神のバイブレーションです

 我々は神から直接に、ご加護を頂いているのでしょうか。それとも間接でしょうか。直接にご加護を頂いています。

 あなたの中に神はおられるのであって、神棚の中から間接的に頂くのではありません。今、あなたを管理している神がおらなければ、即、あなたの肉体はストップします。

 あなたの心臓の鼓動の一つ一つが神の鼓動ですし、宇宙のバイブレーションですし、神の息です。

 我々の中で息をしているのは誰ですか、あなたですか、それとも神ですか、神があなたの中で息しているのであって、あなたが息しているのではありません。息は宇宙には一つしかありません

 そして、命は一つしかないのに、命が3つも4つもあるはずがありません。我々の心臓の動悸も全ての動悸も同じ動悸でその一つ一つが宇宙のバイブレーションです。それが神との一体観です。

 そうした時に皆さん方のバイブレーションは宇宙の神のバイブレーションと同じ周波数を放射します。そうすることによって、皆さん方に変性変容が起こります。

 変性変容とは神との一体観です。
自分の心臓の動悸そのものが神の心臓の動悸です。

 (神の)鼓動であることを自覚することによって、私たちのこの肉体の粗雑なバイブレーションが宇宙のバイブレーションと一体となって、
一秒間に一兆八千億という精妙な鼓動を体験いたします。



憑依現象が起きるわけ

憑依現象を受けている人に対して、「この者から出て行け」とその霊を叱りつけますと、「どうしてですか。この者が私を呼んだのに」といいます。必ずそんな風に言います。

 「この者がと友達になりたいといったから私は来たのであって、勝手にこの者の中に私がいるのではない」といいます。憑依現象を受けている一つの現象です。

 「どうして私をこの者から出すのか。私はこの者と波長が合うのだ」と言います。

ですから、いつでもいかなるときも憎んだり怒ったりしている人の場合は、そういう憎しみや怒りの幽霊の霊がその人を支配します。

 彼らが我々をどういう風に支配する事が出来るかと言いますと、私達の肉体は低分子ですから彼らは我々よりは少し精妙な分子を持っています。

粗雑な分子の中に精妙な分子が入り込む事ができます。彼らのものよりも、この肉体が精妙体を持っていますと、粗雑なものは精妙なものには絶対入れませんから、憑依霊は入れません憑依現象も起こりません。

 心の清い人は、体が精妙体になりますから、悪い粗雑な霊を真に受けることはありません。そのような憑依は絶対にありません。

ですから、低分子状態の場合は入ります。彼ら憑依霊はコンクリートのようなものを抜けるのは簡単です。このコンクリートの分子より、彼らの肉体分子をいうのは幽体分子が細かいのですから、抜けるのは簡単なことです。 

 しかしながら、このコンクリートが彼らの幽体よりも精妙であれば、絶対に入れません。
 ですから、私達の心の状態が悪いと、憑依霊を受けやすくなるから要注意です。

憑霊現象と神懸かりは違う

何を言っているのか分からないような気の狂っているような事をべちゃくちゃしゃべりながら、あたかも神懸かりと思っている人もいます。

神懸かりだと思っているのです。しかし当の神懸かりというのは、この無限大と繋がることです。この人とこちらの人が繋がることが神懸かりではありません。

 個人的意識と個人的意識のぶつかり合いは憑依霊です。そして、必ず死んだ人間だけが憑依するのではありません。生霊と言いまして、生きた人間同士の念の力で災を及ぼしています。

「死霊だけがあなたにかかってくるのではありません。念の力とは意識ですから、生霊も死霊も同じことです。そのことをよく注意していなければなりません。

 皆さん方は神という言葉を聞いたら、即無限大と考えて下さい。今私に紫式部がかかっていますとか、日蓮がかかっていますとか、そういうのは神懸かりですか。憑依霊ですか。それは憑依霊です。

普遍意識が支配しているのではなくて、個人意識が支配しているのですから、絶対者である神がその人の意識を支配しているときのみが神懸かりです。


世を清めるのは自分を清めることで、この世を祝福する者です

 今の世の中の混乱を乗り切るためには、一人ひとりが高い波動にならないかぎり、混乱期は収まりません。

 今の悪い波動に負けるか、善い波動が勝つか、皆さん方が人類を救済し、地球を救済したいならば、今までのような妬みや、怒りや、そしりや、嫉妬という悪い波動を出していてはなりません。この世の中で貢献できません。

 世の中を清める為には、あなた方一人ひとりの清めが必要です。あなたが清まらないで世の中を清める事が出来るのでしょうか。あなたが清まることは全体が清まることです。

 例えば、今この木に多くの葉がありますが、その木の葉が清まりますと、この木の全体に幸をもたらします。これを祝福と言います。
世を祝福する者となりなさい』というのです。

 世を祝福するためにはあなたが祝福されたものでなくてはなりません。あなたが汚れていて、世を祝福することが出来るのでしょうか。汚れた者が世を清くする事は出来ません。世を清めるためには、自分を清めねばなりません。

 なぜかといいますと、世は自分であるからです。全体は我であるからです。全体が我であるならばそれは全一体観であり、その全体が一つであることが分かったならば、あなたの努力は全体の努力になります。今のみなさんがこの意識状態でいきますと、世は救われます。



生きながらにして他人を守護できる

生きながらにして人を守護することが出来るという意味を、一つ申し上げましょう。
 例えば、この知花が誰かさんを「かわいそうだな、救ってあげたいな」と思った瞬間、私は誰かさんのところにいるのです。ですから、意識したあなた方は自分が意識した所にいるのであるということです。

 この知花が誰かさんを意識したときには、私は誰かさんの中におります。繋がっているのです。そこで誰かさんを指導することが出来るのです。これが守護霊、守護神というものです。

 必ず死んでから出ないと人を守護出来ないと限定的に考えないでください。あなたは意識的にテレパシーを送ればいいのです。



人間はなぜ愛か

 私は皆さん方に道を示します。
道は示されますが、歩むのは皆さん方一人びとりです。
あなた方が歩まなくてはならないのです。あなた方が実行しなくてはならないのです。

 イエス様も「我は道を示す者である」と言われているのです。
皆さん方が本当に真剣に取り組んでいただいて、真の道が示されたならば、それを実行し日常生活に生かして行くことです。
 これが如何に大切であるか、ということが言えるのです。

 私たちは決して死ぬ存在ではありません。
なぜ死なないかという理由はご存知だと思います。神のみが生きていて、この大宇宙、大生命というものが一つの生命の存在、その中に私達が個別化されたものとして存在し、それは分離の存在でもなく、差別の存在でもなく、

離れた存在でもなく、私たちは今、神と一体であり、神の生命を宿しており、そして神の御霊そのもの、あなたの本質は御霊そのものであって、迷いの人間の存在ではないことをよく知ることです。

 今、もし皆さん方が父の御声が聞こえるならば、父はきっとこう申されるでしょう。
『あなたが自分のことを「私」といっているのは、あなたは個別化したわたしのことを「私」といっているのです。

 わたしとあなたは「わたしという一つのもの」です。だからあなたとわたしとは一体なのです』と。
 そして『わたしは地上にいるあなたの母の中で、あなたをわたしに似せて造りその中にわたしがいるのです。そのわたしをあなた方は「私」といっているのです』と。

 神は自ら肉体というお宮をお造りになり、自らがそこに住み給うておられるのです。そのことを「人間は生きた神の宮なり、仏の宮なり」と、「神を外に求むるなかれ」と、「神は汝の手や足より近きにあり」と、イエス様も、お釈迦様もそのことをお説きになられたのです。
  
 しかし、この世の人間はそのお二人を遠い彼方に祭り上げて、偽の指導をするようになってしまいました。
「神は遠い彼方におられるのだ。神に賛美しなくては救われない。仏にお経をあげなくては救われない」というように、宗教は神仏を人間から遠ざけてしまったのです。分離させてしまったのです。

 そのために人間は混乱してしまったのです。宗教によって人間は迷わされてしまったのです。宗教の指導者達は真面目にやっている方もいて、彼等は真面目にやっているつもりでしょうが、間違った神を教えてしまったのです。間違った指導をしてしまったのです。

 そのことをイエス様は二千年前にとうに知っておられました。
イエス様は「盲の者が盲の者を導く」と聖書に予言しておられるのです。
「あなた方はわたしの言葉に躓くであろう」と聖書に訴えておられるのです。

 イエス様の言葉の意味が理解できなかったために、その言葉に躓いてしまい、イエス様を神の一人子として遠い彼方に祭り上げて拝むようになったのです。
 それは偶像崇拝です。現象我と言って現象を拝んでいる偶像なのです。決して皆さん方は偶像してはなりません。

 イエス様もいっておられますように、皆さん方ご自身の中に
汝の主は、汝の神として、生命として、汝らの中に生きているその神が存在しているのである」ということをよくよく理解して頂くことです。      
 そして、その神に皆さん方は委ね全託することです

 神がお造りになったその神秘の宮を、私達の小智が何を食い、何を飲み、何をしなくてはならないという詮索をなぜ加えるのでしょうか。

 そこからは〈何々が必要だ、何を食べなさい、何を飲みなさい〉と皆さん方にお伝えされており、それをいただければよいのです。

 しかし、今の世の中は色々な物が商売としてエゴで出回り、「あれを飲まなくてはならない」とか「これを食べなくてはならない」とか、みんな自我という魔の働きの中に没入しています。

 私はいつもこう祈ります。
我が中にまします神よ。我が知り給うのはあなた(神)だけです。あなたが私のその全神経を、その全肉体細胞を、その肉体頭脳を、全てを支配し給わんことを。そして我を健康であらせ給え」と。

 そうしたとき、サーッと胸元が暖かくなり全身にエネルギーの満ち満ちて来るのを体験します。そうしたとき、即、そう想った瞬間に全ての癒しが行われています。もう何の心配もありません。

 皆さん方は病気がどうしたら治るのか、こうしたら治るのかと、我々の小智でいくらもがいてももがき切れるものではありません。それは我々が肉体を造ったのではないからです。

 科学が造ったものでもなく、お母さんが造ったものでもなく、造り主は全て神であられることを知らなくてはならないのです。神が唯一の創造主であられることを、唯一無二の生ける実在であられることを、皆さん方は知らなくてはならないのです。

 その創造主なる神に全託することです
そうしたとき皆さん方は神に素直ですので、謙虚ですので、神はあなたの中に即働いて下さいます。それが皆さん方への神の癒しといわれているものです。

 その神の癒しというものを本当に悟っていただければ、如何なる病気も開放されることをわたしは信じています。

 それをその人が信ずるか信じないか、神に素直になれるかなれないか、謙虚な気持ちになれるかなれないかということです。何故なら、私達の肉体で働いておられるのは、働き手である神であられるからです。

 あなたが林檎を頂いて、その林檎を血に換え、肉に換え、細胞に換え、あるいは骨に換えて、そのエネルギーを分析しているのはあなたでしょうか。
 
 あなたがいただく林檎をすべての要素に分解し、その位置に位置づけて下さっている偉大な智恵と力は、私達の内在心にあるのですが、それが皆さん方の中に四六時中働いていることを忘れてはなりません。

 その偉大なる智恵の御方があなたの中におられるのに、その神を皆さん方は忘れているのではないでしょうか。神はあなたの手や足より近きところのご自身の中におられ、あなたを愛し、今まで生かし尽くし、働かせ、活動させて下さっているのです。
 そのことをイエス様は「神の国は汝の内にあり。外に求むるなかれ」と、はっきり断言しておられるのです。

 お釈迦様は「自灯明法灯明を汝の師にしなさい」といわれたのです。
決して「お経を上げて外に救いを求めなさい」といわれたのではありません。

 そして「汝の内に仏はおわれる。その仏こそが汝自身であり偉大なる救い主である」といわれたにも係わらず、今の宗教は仏像を作り、お寺を作り、お経を上げることが救われる道であると錯覚しています。



不動明王になるには

神は絶対善そのものである

 私達が不動心になるということは、不動明王になるということです。日本人は大変、不動明王が好きです。人間は、善悪の心で揺れ動いています。悪の心というものは、人間が創り出したもので、本来は存在しないものです。

 神というのは絶対善そのものなのです。人間は、本心と偽心とがあると思っていますが、人間には本心があるのみなのです。

 偽我という自分が勝手に創り出した個人意識と、本当の我である真我が一つになると、偽心があるはずがないのです。

 人間は善悪の木を食べています。善い心もあって、悪い心もあると考えているからです。「心を一つにしなさい」ということは、悪い心をなくして、善い心だけにして、一心集中、絶対善の心で生きるということです。

 そうすると不動心となり、これが本心、良心と言っているものなのです。
 善なる心のみ、本心のみがあるのであって、悪いことをすると良心が咎めるのです。

 悪い心があると思っている人は、時計の振り子のように善悪に心が揺れます。憎しみ、怒り、嫉妬のような悪い心を持ってはいけないのです。

 不動心は不動明王のことです。闇がない光一元の状態を、明王と言い、それが不動不変の状態にあることを意味します。悪いことをしている時は闇です。人間の心は善悪に揺れますから、晴れたり、曇ったりしています。

 太陽は曇ったことがないのです。心に本来曇りはないのです。これを清き心と言います。心清きと言い、「心清き者は幸なれ」。その人は不動心であり、光明であるからです。

 人の悪口を言う時の人の心は曇っています。心のスモッグがかかっていますから、明るくないのです。
 スモッグを創る、創らないは、自分の心次第です。

 一心集中、絶対善の心にすることです。これが日常生活に必要なことです。善なる心だけにしなさいという意味なのです。

 どんな迫害を受けても、罵られても、心を平穏にして、憎んでも、そしってもならない、怒ってもならない。怒り狂っている時、皆さんの心は曇っています。

 誰かに命令されているのではない。悪しき心で、大欠損をして、平気でいるのです。心よりお金を大切にしているから、お金のために心を売り飛ばすことが多いのです。心はお金では買えないものです。お金を一万円貸して、その人が返さないと、怒り狂う人がいます。

 私は人にお金を騙されても、怒ることはしません。人から馬鹿だと言われましたが、お金で怒る人は不動明王になれないのです。

 人を憎んでいる時、嫌な気持ちのはずです。自分の心が曇りますから損です。不動心、絶対善の心でいたいものです。
 お寺にある、剣を持ち、怒りの炎を燃やす不動明王の姿ではないはずです。本来は仏の姿で、怒りの姿に造り間違えているのです。

 愛光が燦然とする姿です。顔に現れているのは心です。心の状態を映し出すのが顔、怒りは怖い顔です。嬉しい、楽しい時、ニコニコと仏の顔となります。


心清き者は幸いなり

 心が安らいでいる時は、自ずと緊張感がとけて、肉体がリラックスします。心が緊張していると、肉体はリラックスしません。

 悪の心がない状態となると、肉体はリラックスするのです。精神統一はリラックス状態で平安の心です。そのためには、人に何を言われても平気でいなければならない。

 外なるものの影響を受けないで、常に清い心。安らぐ心でいられることが不動心です。不動心なら心の修行が終わった状態です。
  
 心がいくつあるかを知るべきです。み心、真心しかありません。これが神の心で、実在の心なのです。偽我は、偽りの心となり、上辺の心です。これは実在していません。

 あなたが、個人意識で、勝手に創り出したものにすぎません。肉を己として生きる限り、偽心です。心を一つにすると悪の心は生まれてこないのです。

 心のことを心霊(または神霊)と言います。大霊は寛大な心、神の心です。心は光で、闇ではありません。心の光を霊光と言います。これを曇らしてはなりません。
 イエスは「心清き者よ幸いなり、その者は神の国を見るであろう」と言われているのは、この意味です。

 善悪の心に、揺れ動いている所に、神が映るでしょうか。波打っている水面には、お月さまは綺麗に映りません。鏡のように揺れ動かないものに神は映るのです。

 今のあなた方の心では、とうてい神は映らないのです。
 神を見るためには、平坦な心でなければなりません。
 これを静寂な心と言います。


悪霊は自らが創る

 外側からの誘惑がサタンの誘惑なのです。サタンは悪、悪の誘惑に負ける。本来サタンという悪はないのです。悪がないと解れば、サタンの誘惑に負けることはないのです。悪が来ても、あなたの光をもって打ち消す。あなたが光そのものであったら、誘惑は入って来ません。

 その時あなたは、この世の悪に打ち勝った者となる、誘惑に打ち勝った者となるのです。サタンとは自我意識のことです。
 悪い心と悪霊は同じもの。良い心を善霊と言います。神霊ですから、悟った人は善霊となります。

 この悟った人には悪霊はありません。悪霊は本来実在しないからです。善悪の木の実を食べている人のみに悪霊があり、その影響を受けるのです。

 悪霊は幻、1つ目になっていない人にのみあるもので、絶対実在は神しかありません。アダムとイブの初めに戻り、善悪の木の実を食べていることと同じです。

 この時以来、人間はまだ、善悪の木の実を食べ、善悪があるのだと信じ込んでいるのです。心の悪い人のことを善霊と言わずに、悪霊と言います。皆さんは、悪霊が怖い、悪霊に取りつかれていると言います。

 あなたが誰かを憎んでいるときには、悪霊に取りつかれている状態、悪い心に取りつかれています。

 では、憑依霊は誰が受けるのでしょうか。誰がもって来るのでしょうか。その悪い心に支配された状態を憑依霊と言うし、悪霊に支配されていると言います。

 良い心に支配されている時は、神懸かりです。世の中は、悪霊の意味が解っていないのです。その心の悪い状態を悪霊と言うのです。本来はないのですが、その本人が悪を望んで創るわけですから、悪霊が存在することになります。

 創らなければよいのです。あなたの悪、憎しみは、あなたが創るからあるのであって、創らなければ、ないのです。悪を創らない人間に、悪は存在出来ないのです。

 では、あなたを善人にするも、悪人にするも誰次第でしょか。あなた次第です。誰かがあなたを良い人、善霊に、あるいは悪霊にできるのでしょうか。

 あなた自身以外に誰も出来ないのです。だから、良い人間になるも、悪人になるも、他の本題ではなく、自力本願、その人の自由意志、自由選択なのです。
 
 絶対善にあなたがなれば、あなたは絶対善になるのです。それが不動心、善霊です。もう憎しみを感じない、怒りを憶えない、嫉妬しない、悪がない人間にならねばなりません。
 そうなる、そうならないは、皆さんの日常生活次第です。

 どこかに篭って座ることでしょうか。皆さんの日常生活が、信仰そのものなのです。精神統一は、日常生活の内で行わなくてはならないのです。

今日一日愛の1日であった。
絶対善の一日だった。
誰の悪口も言わなかった。
誰も憎まなった。

 これは1日、精神統一をしたことになります。調和の1日だった、愛の1日、調和の1日だった。そこに何の悪もなかった。それの積み重ねです。

 みなさんんは不動心になって初めて、不動明王という光輝くものとなるのです。多くの人を憎み、多くのトラブルを起こす人は、病気になりやすいのです。
 病気は愛から来るのではなく、不調和から来るものなのです。憎しみや、怒りやそしりが病気の原因になっています。

 あなたが絶対善となり、光となったら、世の中に病という闇は存在しないのです。闇から病(やまい)や、悩み(なやみ)は来ます。

 天国に住むも、地獄に住むも、あなた次第です。絶対善の心が、神の心、み心です。その悪の心は、あなたの自由意志で創ったものであり、本来は実在していません。
 
 だから、実在する絶対善の心で生きてこそ、私たちは不動心となり、不動明王となります。それは、毎日の日常生活が修業の場であるということです。誰もあなたの心を変えてくれる人はいません。

 あなたが、自分の心を善に使うか、悪に使うかは、あなた次第です。あなた方は各々、神の心を持たされているのです。世の中には、神の心を悪い方向に使う人もいます。

その心はエネルギー、力ですから、宇宙にはエネルギーは一つしかありません。神聖エネルギーです。
 ある人はこのエネルギーを悪に使い、ある人は善に使うだけなのです。エネルギーには善悪はないのです。

 戦争と平和のエネルギーの区別はないのです。その人が戦争に使うか、平和に使うかだけなのです。エネルギーには、善いエネルギー、悪いエネルギー、マイナスのエネルギーもあって、プラスのエネルギーもあるのではないのです。

 神聖エネルギーしかないのです。愛のエネルギーしかないのです。これを人間の自由意志で、悪に使うか、善に使うか、建設に使うか、破壊に使うかだけなのです。

 皆さんの病気のエネルギーと健康のエネルギーは別々のものではなく、同じエネルギーなのです。その本人が病気という破壊的な方向にエネルギーを使っただけです。


日々、心を正しく使うこと

 宇宙にはエネルギーは一つしかないのです。病気に使うか、健康に使うかは、その人間の自由意志です。自由選択です。
 病気にするも健康にするも、その使い方次第。正しく使えば健康、誤って使えば病気になります。

 宇宙には、たった一つの無限大の神聖エネルギーしかないのです。このエネルギーを、皆さんの心次第で使い方を決めているのです。
 悪い心となっている時は、悪いエネルギーに転じており、善い心で正しく使えば、健康になります。

 心を正しく使う日常生活を歩まねばなりません。皆さんは今日まで、平気で人の悪口を言い、憎しみを持ってきたと思います。それは得したのでしょうか。損したのでしょうか。

 よく考えて下さい。人を憎んで、得をする人はいません。人の悪口を言って得することはなく、損するだけです。みなさんと私が、日常生活であまり会って話をしないのは、皆さんは三次元的、五感的外側の話しかしないので、私にとっては、気に入らないのです。

 みなさんは、実在の話をしないで、この仮相界の話しかしませんから、私には気に入らないのです。
 消えてゆく仮相の話に対して、聞く耳を持っていません。話を聞いても得にならないのです。気に入らないから黙っていたほうがよい。
 これを沈黙というのです。

 三次元的なうわさ話、どこどこで誰々さんはね・・・、とかの話は損しているのです。あなた方はせっかく食べたエネルギーを、こんなものに消費せねばならないのですか・・・。

 あなた方は、そういう無駄なものにエネルギーを浪費するから、腹も減るのです。おしゃべりしなかったら、腹も減らないのです。意味のないおしゃべりをして、無駄なエネルギーを浪費するから病気になるのです。

 不動心になると、もっともっと、ひもじさを感じなくなります。みなさんが不動明王になるためには、絶対善という、今日も1日善の1日であると、決め込んでかかって下さい。

 悪いものに負けるものか、サタンの誘惑に負けるものかという強い決意をして下さい。人の悪口を言う時は、あなたはサタンの誘惑に負けている時です。

 それは許しと愛で打ち勝たねばなりません。許すことによって勝つことになります。喧嘩は両成敗が当たり前です。両方罪を犯します。両方損をするのです。

 両方悪いから、両方を裁かねばなりません。双方とも自己主張しているだけです。これは、自己保存の心と言って、一番汚い心です。曇りです。

 私はこう思う、私はこう見るという自我意識でものを見たり、考えたりしている時は、そこには善は存在しません。
 常に真の我れ、絶対善の心からものを見なくてはなりません。

 いい顔であるためには、いい心でなければなりません。
顔は心の映しですから、心以上のものを映すことは出来ないのです。

 良い心は良いものを映します。
 悪い心は悪いものを映します。
 良いものを映し出すか、悪いものを映し出すか、それはあなたの心次第です。

 良い心は、神のみを映し出して見るだろうということです。そうすると、この世は波立たなくなります。これが静寂な心と言って、そこに映ったものは、綺麗に見えます。

 波の荒い時は、月は綺麗に映らないのですが、心が不動になって、善悪の心に揺れなかったら、そこに映ったものは、綺麗に見えます。

 善悪の心というのは、善悪の木の実とも言います。
 人間が善悪の心に揺れているということを、動揺といいます。

 みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
 神は中心です。その中心から振り子が会って、善と悪があると思い込んでいます。

 本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。

 人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。

 不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
 太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。


誰でも不動明王になれる

 みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
 神は中心です。その中心から振り子があって、善と悪があると思い込んでいます。

 本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。

 人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。

 不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
 太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。

 あなたがスモッグを造っているのです。あなたは太陽を見ないで、曇った部分を見るから曇っているのです。
 ちょうとこの世も同じで、太陽は燦然と、曇りの日も、雨の日も輝き続けています。

 あなたは、そのスモッグを見ているだけで、太陽そのものになれば、燦然と輝く自分を見ることが可能です。

 神のこと、霊のことを霊太陽と言って、霊は太陽なのです。これが宇宙の中心太陽なのです。この霊太陽が全世界、全宇宙を照らしているわけです。太陽はなぜ光り輝き続けているのかと言いますと、放出するからです。

 太陽がケチって光を出し続けなかったら、その光は曇ってなくなります。与えるから、与えられるのです。循環の法則を守っているのです。

 放出しなかったら、太陽は光を得ることはないのです。出すこと、入れることは、循環の法則、バランスを守っているから、太陽は光っているのです。

 あなたも世の太陽となるには、与えきりなさい。
「与えよ、さらば与えられん」の意味は何かと言いますと

「空」は光の粒子ですから、その光を放射することによって、常に空(くう)の光の粒子と入れ替わり、私たちはこの世の太陽となります。

 太陽は与えきりですから、次から次に出しても、その光は減ることがない、それは霊太陽から光を与えられるからです。

 皆さん方も、世の太陽となるためには、多くの人々に宇宙エネルギー、神聖エネルギーを放流、放射してゆくことが大切です。

 得ようとする者は失うということは、その意味です。あなた方は出すことは嫌いで、得よう得ようとしています。
「命を得ようとする者は光を失い、光を放つ者は命を得る」という意味です。

 与える者は、その与えた人が輝くのです。もらおう、もらおうとする人は、自分が光でないと思っているからです。

 与えて光るのか、もらって光るのか、もらおうとすることは破滅です。
与えることは得ることです。
 これは循環の法則ですから、与えて、与えてゆきなさいということです。

 水車も水の流れをせき止めないで、流れに任せているから、力が出るのです。
あなた方も、この肉体という意味を、神の媒体となって、与え切ってゆけば、その偉大なる力、偉大なる輝きを出してくると思います。

「先生、エネルギーを下さい」と言う人は、感心しません。
 あなたは、乞食になりたいのか、与える者になりたいのか、どちらでしょうか。欲しい、欲しいは乞食です。貧乏です。金持ちは与えます。

 与える者になりなさい。与えるものは、物ではないのです。
あなたの善意なる心です。エネルギーです
私には、何も与えるものはありませんと言いますが、エネルギーはあるはずです。

 あなたが善意な心になれば、光そのものを放射します。その光を世の人々に注ぎ続けることです。 
このことが、イエスの言われた、「我れは世の光なり」ということです。

 太陽は与え続けているがゆえに、みなさんは太陽が照り続けると、カンカン照りで熱いと文句を言いますが、曇ると曇っていると文句を言います。

 しかし太陽は一切文句は言いません。太陽はいくら文句を言われ続けても、光を与え続けています。あなたがたも、この世の人間同士も同じことだと思います。与えられても、文句を言う人もいっぱいいます。

 この知花の話を聞いて、知花に敵対する人も多いのですから。
人から盛られた毒は食べてはいけません。夫婦でも毒の盛合いをしています。サタンの誘惑です。憎しみ、怒り、嫉妬とかと行います。親子でも、夫婦でも、お互いの毒を食べないことです。

 サタンの誘惑に負けるということは、人から盛られた毒を食べてしまい、あなたも怒ることです。

 悪の心は、あなたが勝手に創らない限り、存在していないのです。この世にあるのは、実在しているのは、絶対善のみなのです。悪の心は人のものです。悪という心は、神というその本心を知らない人にのみあるのです
 
 心を一つにしなさい、ということは、善なる心のみにしなさいという意味です。心が一つになったら、みなさんには不幸というものはなくなります。
 不幸になったり、幸せになったりするのは、善悪の心で生きるからです。

 善なる心であるなら、毎日が幸せです。神は幸せそのものです。本当は、不幸な人間を、神は創り出していないのですが,あなたの自由意志でもって、あなたが自分を不幸にしているだけなのです。 
 
誰があなたが自分を不幸にしているでしょうか。
他人ではなく、自分です。

 ですから、最大の敵は、自分です。その善悪の自分に徹底して打ち勝つことが大切かと思います。誰もあなたを苦しめていないのです。
 あなたの心があなたを苦しめているのです。自分との闘いということに、気づいてほしいと思います。

 平気で人を憎む自分、悪口を言う自分に打ち勝って克って下さい。悪の心を自分に住みつかせてはなりません。清い心とするためには、憎しみの心、怒りの心、嫉妬の心をあなたの心から追い払わなければなりません。

 これがキリストの帯でムチを造り、神殿を汚す者を追い払ったという象徴的なものです。あなたの心が神殿そのものなのです
「心を神のみに与えなさい」ということです。

 あなたの心を、善悪の住処にするのですか。清き心にして下さい。神のみの住処にしなさい。これが「心を一つにしなさい」という意味なのです。

 一時でも、サタンをあなたの心に住まわせてはならないのです。あなたは、あなたの造ったムチで、心のサタンを追い払わねばなりません。

 そのまま平気で、怒りの心、嫉妬の心を住まわせてはならないということです。私知花も、心に住み着くサタンを、ムチで追い払おうと努力している一人です。

 たまにはサタンが心に入ります。そのサタンが心に入りこんだ時、みなさんはサタンにやられてしまいます。悪に取り憑かれていることになります。それを憑依霊とも言います。みなさんはよくやられています。

 あなたが誰かの悪口を言っている時は、神懸かりではなく、憑依霊を受けているのです。それは自分で呼び込んでいるのです。その憑依霊を追い払う時、必ず憑依霊は、この者が私を呼んだのであると言います。

 あの人を憎みたいと、憎しみの心をもったわけですから、憑依霊を招待した事になりますから、入ります。心を一つにしなさいということは、善悪の心で生きることではなく、絶対善の心を統一してゆくことです。

 これが精神集中、一心集中です。
善なる心のみにしなさいということです。
それが出来たら、あなたは不動明王になっていることになります


波動とは何か
心の波動が良ければ、バイ菌も無力になる

 自分の肉体的な病気は、心の波動が生み出しているのを忘れてはなりません。
 例えば外部からバイ菌が侵入してきても、元々体に愛の波動を持っているならば、バイ菌とは絶対に波長が合いませんから、肉体に入ってくることが出来ません。同じものを食べましても、中毒になる人とならない人がいるのです。

 低い波動を持っていますと、病原菌、ビールス菌などが入ってきます。皆さん方のバイブレーションが高ければ、低い波動のバイ菌はどうしても入ることが出来ません。そのような人を防御能力が強い人と言いますが、その人間はオーラがあるのです。

 愛の波動を出しますと、光のドームができます。オーラが出来るのです。それらはみな光を放っています。その光がピンと張った状態になりますと、バイ菌が入ろうとしても絶対に受け付けてくれません。

 ところが、愛の光線が弱くて、自分から出ている波動が弱く、しおれているのではすぐに入ってしまいます。外部から入ってくる病原菌と波長が合わなければ入りようがないのです。

 私達の日常生活は全て波動だといえます。心の悪い人は悪い波動が出ます。憎しみの心は憎しみの波動しか出ません。愛の心は愛の波動しか出ないのです。

 では、みなさんが人を憎んでいる時はこのオーラは力強く光っていると思いますか、弱いと思いますか。それは弱いのです。

 オーラが強くなりますと、それはもうものすごいオーラになり、ドームで包みます。そうなりますと、いかなるものも外部から影響を受けません。



真実を知った時『自分を愛するが如く人々を愛します』
争いはなくなります

 あなた方はまだ、外側で物を考えがちです。外観でものを考えがちです。真実を見ようとしないからです。この世で本当のことを、真実を知ってしまえば、争いません。『自分を愛するが如く人々を愛します』し、調和します。

 あなた方が真実を知らない間は争いはこの世から無くなることはありません。非真実の中に生きている者のみに争いがあります。

 神理を知らない盲人や、無知の人のみに争いはあるのであって、真実を知っている人間に争いはありません。

 真実を知ってもなおかつ争うのでしょうか。誰かの悪口を言うのでしょうか。言えないはずです。誰かを憎むのでしょうか。憎めないはずです。嫉妬は出来ないはずです。

 この真実について、皆さん方は正しく見ることから初めて下さい。外側の結果で、あなたはこれをみかんだと見ているなら、あなたは正しくものを見ていません。

 ミカンは外側からみればミカンです。内側から観れば神です。全てに神が宿っています。

 あなた方は人間だと見ているなら、正しくものを見てるのでしょうか。一人一人の中に神を見なければなりません。

 内側を観れば神ではありませんか。内観すれば神ではありませんか。外側を観れば結果ですから、人間となるのです。

 しかし、その原因である神と結果である人間とは一体ではありませんか。一体です。人と神とは一体であり、人は神の中におり、神は人の中に留まりたもう。


正しく見るとは内側で心を開いて
ものを觀ることが正しく見るという意味です

 原因と結果は一つです。原因と結果が分離して存在できますか。原因のない所に結果が存在できますか。原因が一切の結果を生むのです。ですから、神は第一原因者だといえるわけです。

 神を観なさい。なぜ結果だけを見るのでしょうか。あなたの肉の目は結果だけしか見えません。真実は見えません。心の目を開きなさい。

 今日こそ開きなさい。真実を觀るようにしなさい。正しく見なさい。あなた方は今、正しくものを見てません。内側でものを觀ることが正しく見ることです。真実を觀ることが正しく見ることです。

 外を見れば非真実です。内側で心を開いてものを観なさい。私に心を開きなさいというのはこの意味です。

 あなた方の心の扉は閉ざされています。それ故に外側でものを見ています。内側を観れば全てが神であることを知ります

 全てに神を観るであろう、『神が観たまうが如く、私は観たのである』という言葉を体験するであろう。


真実を知らない者がどうして神理が語れましょうか

 私、知花からみれば、皆さんの中に神が観えます。あなた方は全て人間だ、動物だ、鉱物だと見ていますが。

 私は全てのものに神を觀ます。それが内観です。正しくものを見るという意味です。真実を見るという意味です。

 真実が観えなければ、真実を語ることは不可能です。皆さん方は非真実を見て、非真実を語って生きています。

 それは全て偽りです。偽りの自分が、結果の自分が、真実を知らない者がどうして真実を語り得ましょうかと言いたいのです。

 真実を知っている者のみが真実を語ることが出来ます。真実が何であるか分からないで、真実をどうして語れましょうかということです。すなわち神理を知らぬ者がどうして神理を語れましょうかと言いたいのです。

 皆さん方も神理を知らないで神理を語る事が出来ますか。神理が何であるか分からない者が神理を説く事が出来ますか。

 神理は空想の産物ですか、それとも真実ですか。いかに神理を空想して、幽想しているか、推測しているかといえるのです。


陰陽の法則

神がすべてを愛したように、わたしたちも全てを愛そう

 多くを愛する者は多く愛されます。愛は出せば出すほど多くなるものです。あなたは無限なる愛を持っていながら、どうしてけちくさいことをしますか。なぜこの無限大の愛をあなたがたは表現しないのですかと言いたいのです。

 愛は使ったら減っていくのですか。多くなりますか。どちらですか。
「多く愛する者は多く愛される」という原理があります。多く与えるものは多く得ます。与えない者は得る事が出来ません。

 あなた方の愛の範囲は狭すぎます。夫婦愛、親子愛などの範囲内で終わってしまうのです。それも大切ですけれども、こんな小さな存在でとめてもいいのでしょうか。私たちは無限の愛ですから、無限の愛を表現しましょう。

 夫婦だけ、親子だけを愛しなさいと限っているのは、愛に限界があるのだとみなしている事になります。愛には限界がありません。無限大の愛ですから、無限大の愛を放出しましょう。そうしますと、私たちは無限大の愛を得ます。

 あなたがすべてを愛することが出来なくても、全ての愛をあなたが得ることができますか。
 有限的な個人的な小さな愛しか表現できない人間に、無限大の愛を得ることは可能でしょうか。多く愛するほうが多く愛される。これは当たり前の法則です。

 自分は愛を少ししか出さないのに、出すものより多く得るのですか。夫婦だけが仲良くしていればよい。親子だけが仲良くしていればよい。
 こんな汚い小さな愛は存在しません。
 
 神が全てを愛したように、私たちも全てを愛して初めて神の愛といえるのです。本当の神の愛をよく理解して下さい。

 多くを愛するものは多くの人から愛されます。愛を得るためには、愛するしかないのです。自分はいっこうに誰も愛さないのに、誰かから愛されたいと思いますか。

 あなたが多くの人から好かれる人間になるためには、どうすればよいのですか。多くの人を好きになればよいのです。嫌いな人がいなければ、嫌いな人もいなくなります。

 ですから多くの人々を私たちは愛していきたいと思います。愛の法則そのものが、陰陽の法則そのものではありませんか。その法則を守った時に、皆さん方は光となります。


完全とは『美』をいいますがなぜでしょうか

 あなたから不調和が無くなれば完成です。完成した時に皆さん方は祝福を受けます。未完成では神の祝福は受けられません。皆さん方が家を建築するのに未完成なのに祝宴を上げますか。完成祝いが出来ますか。出来ないはずです。

 では、あなたは今、神の祝福を受けてる者ですか、神の祝福を受けていない者ですか。それは調和だからですか。不調和だからでしょうか。

 あなたは不調和を美しいといますか、醜いといいますか。
不調和を、「これは不完全だ、美しいなあ」と言う人がいますか。

 完全になってはじめて皆さん方は、『美』という言葉が出るはずです。
ですから、皆さん方が自分を美しくするも、醜くするも自分次第です。

 全ては愛しか無いと思います。愛の他はありません。なぜかといえば宇宙には愛しか無いからです。愛のみが絶対実在となります。

 では、皆さん方の考えている不調和は実在するものでしょうか。実在しないものです。不調和とはなんでしょうか。実際にあるものでしょうか。無いものです。

 実在しているものは愛だけです。どこに不調和があるのでしょうか。どこから不調和が探せますか。無いはずです。
 
 ですから、皆さん方はその不調和を認めてはなりません。不調和は認めるべきですか。認めるべきではありません。認めるとその不調和にあなたが力を与えることになります。善悪の心とはその意味です。
 
 善なる心があるだけであって、悪なる心は本来ありません。
絶対善があるだけです。絶対愛があるだけです。

 善の心もあって、悪の心もあるというのは本当でしょうか、嘘でしょうか。悪なる心は実在するのでしょうか、実在しません。それは幻想であり、幻想です。悪とはすなわち幻です。実在しているのは愛の光だけです。


悪を認める者のみ悪があり、悪を認める心が悪に力を与えます

 あなたが本来知っているのは「神の愛のみです」。そのようにいえる皆さん方にならなければなりません。

 善悪を認めるが故に善悪の世界になってしまいました。絶対善しか認めない者にどうして悪が生まれてきましょうかといえます。

 善も認め、悪も認めたから、善悪の世界として、今この地上界が存在しているのではありませんか。善もあって、悪もあるのでしょうか。実在する悪はありません。絶対善があるのみです。絶対愛があるだけだと思います。

 その他の悪はあなた方の妄想にしか過ぎません。迷想にしか過ぎません。それらは信ずる心がそれらを生み出しただけですし、悪を認める心が悪に力を与えたわけです。


悪が熟してきますと善になります

 皆さん方は絶対なる愛でこの世の悪を克服していかねばなりません。愛こそ実在である境地です。絶対愛の境地です。ですから、皆さん方は悪を見たとするならば、まだまだ愛に目覚めていない状態です。

 この世の悪とは何かといいますと、まだ熟していない愛だと見て下さい。どのようにしてこの世の悪を見ることが出来るかと言いますと、
熟成の低い善だと、まだまだ熟していない者たちだと見て結構です

 悪が熟してきますと何になりますか。善になります。

 ですから、悪が多いのはまだまだ未熟だと言えます。
不調和が多いとはまだ未熟だといえるわけです。不調和の人間の事を未熟の魂といい、そして調和の人を熟した魂といいます



愛はすべての原点です

 全ての原点は愛です。原点に帰るためには不調和では原点に帰れません。「神の国は愛の王国」といいます。「愛の王国は光明世界」です。

今の自分は熟成が高いか、感性が高いか、それとも低いかを誰が一番知っていますか。自分の完成は誰が高めるのでしょうか。自分以外にはいません。

 完成を高めると人はよく言いますが、その完成が何であるかを知っている人は非常に少ないのです。不調和の人は未完成であり、調和の人は完成です。不調和の世界を闇の世界といいます。そして調和の世界は光明世界といいます。

 では、この地上界は愛の世界ですか。不調和の世界ですか。今は不調和だらけの人間しかおりませんので、闇地獄というわけです。

愛の世界は光明世界です。ですから皆さんの原点は愛ですから、その原点である本性を現せばいいのです。

みな愛を宿しているのではありませんか。その大愛が全てを創り、大愛が全てに宿っているわけですから、愛がなければ具現できないはずです。エネルギーと質料が不調和でしたら、物は存在出来るのでしょうか。


霊は光なり

 私達の肉体は水です。それを動かす力は霊的力です。肉体自らは無ですし、生きてはいません。

 皆さん方は肉体を救おうとしますが、肉体は救えるものではありません。本来は「霊を救う」のですが、その魂も迷うものではありません。 
 
 皆さん方は魂に対しての理解力が非常に乏しいのです。魂は一切の力であり、一切の光です。一切の光というのは、霊光といいます。

魂 は光輝といいますが、魂は闇ですか、光ですか、光です。これを内なる光といいますが、内なる光とは霊光をいいます。

 皆さん方の肉体は受動体ですが、光である霊を受け入れたら、皆さんの受け身である肉体は闇となりますか、無明体となりますか。光体となります。

 皆さんの肉体が光である光子体になったら災いは入りますか。入れませんか。災いは闇ですか、光ですか、闇ですが皆さんが愛そのものになったら、愛という光の世界に闇は入れません。

 光という世界に闇が入り込めるはずがありません。類は類を呼ぶといいまして、闇は闇を呼びますし、光は光を呼びます。

 光を呼び入れるためにはあなたが光でなければなりません。闇人間は色々の災いをどんどん引き付けます。光はどんどん良いことを引き付けます。


不調和は闇人間です

 この世は未完成の世界です。あなたが完成して、今ここに存在していると思いますか。未完成だから生まれ変わってきたのですか。

 未完成だから生まれてきました。未熟だから生まれてきたのです。それを未熟の魂といいます。未熟の魂とは不調和の人間です。熟した魂とは愛の人です。愛の人とは光の人間です。

 この世には光人間と、闇人間がいるといえます。不調和だらけの人間は闇人間です。愛の深い人は光人間です。

 光るものとなるか、闇となるかは、あなたの日常生活で決まります。毎日が不調和だらけの者や、誰かと喧嘩をしなければ気の済まない人もいます。

 ですから、だれとも争わない絶対なる愛は絶対調和ですから、我々が愛しか知らない人間になったとしか、調和しか知らない人間になった時に、皆さん方は完成となります。完成です。

 不調和で完成が出来ますか、出来ません。ですから、あなたの周囲のあなたの気に入らない人や嫌な人がいても、その人を憎むべきではありません。

 罵ったり、けなしたり、非難したり、批判すべきですか。それは得をしますか。人を憎んだり、そしったりすることによって、あなたは得をしますか。損をしますか。損をします。なぜでしょうか。それはあなたが闇になるからです。


不調和な者は本人が気付くまで放っておくことです

 あなたの周囲に嫌がらせをする人がいても、それにとらわれなければ良いのです。放っておけばよいのです。あなたがその人に愛を求めることが出来ますか、出来ませんか。その人をあなたが変えさせることが出来ますか、出来ません。

 人の悪口を言って、人を良くしようとする人がいますが、それは良くなりません。そのことに本人が気付くまでは絶対に良くなりません。

 そのことを責め立てたら、悪は増幅するだけです。一つでも責めたとするならば、余計に怒り狂います。怒り狂ったら闇は少なくなりますか、それとも増幅しますか。増幅するだけです。ですから放っておけばよいのです。

 皆さん方が自分の周囲を明るくするためには、皆さん方が明るくすればよいのです。「人を変えよう」ではありません。

 自分を変えようではありませんか。自分を変える事以外は周囲を変える方法はありません。特に夫婦間の問題はそのようです。

 旦那さんが悪いから私はこうなのだと、奥様が悪いから私はこうしてるといいますが、誰かに責任転嫁をした方が楽だと思って、そんなことをしているのです。

 「あの人のせいで私はこうなっている」とかいって、責任転嫁をする自己保存の心がいかに多いかといえます。会社においても同じ事です。

 会社でお互いに責め合った時、そのことは無くなりますか。闇や闇で消すことが出来ません。悪は悪で打ち消すことが出来ないことを知らなければなりません。

 不調和の世界を悪の世界といいます。調和を善といいます。ですから、この世の悪を克服するとは、この世の不調和を克服するとい意味です。悪に打ち勝つとは不調和に打ち勝つという意味です。


私達の存在価値は愛です
この世を克服するための価値であり目的です

「我はこの世の無知と闇とを克服したものである」と、イエス様が言われました。なぜ克服出来たのでしょうか。愛の他はないと思います。愛でもって克服出来ないものが世の中に存在するのでしょうか。

 この世の悪はあなたの愛でもって克服されんがためにあります。あなたがこの世の悪をあなたの愛でもって克服した時に、あなたは克服者キリストになりませんか。我はこの世の悪に打ち勝った者だといえませんか。
 
 その時皆さん方は完成です。では、今の自分が完成に近いか、それとも完成が遠いかを誰が一番知っていますか。自分が一番知っています。不調和か調和かの意味も分かります。
 
不 調和の人や、妬みっぽい人や、怒りっぽい人や、そしりっぽい人や、嫉妬深い人間は完成に近いのでしょうか。未完成ですか。未完成ではありませんか。熟成が低いわけですし完成が低いのです。


毎日の生活の中で人を赦すことや
責めないことが不調和の克服となります。

 皆さん方が今、学ぶことによって、どんどん完成が高まったのではありませんか。今までの性格がころっと変わった人が大勢いるのではないですか。今までは人を赦さなかったのが、今では赦せるようになった人が大勢いるのではありませんか。

 私、知花の目の前でそんな話を聞く時がありますが、どうしてなんで赦し合いが出来ないのだろうと、悲しくなりますし、嫌になります。

 なぜ闇を増幅するのだろう、なぜお互いに赦しあって仲良く出来ないのだろう。それが愛であるためには赦しが先決です。その赦しを先行せねばなりません。

 人を裁くことによって良くなると思ったら、それは大間違いです。人を裁いて良くなった例はありません。

 人から欠点をいわれて良い気持ちになる人はいません。では、その欠点をつつかないことが重要ではありませんか。人の欠点を探りだして、あの人はここが悪いとか、あそこが悪いとかいえば本人は喜びますか、怒りますか、怒り狂います。


愛であるためには赦しを先行する以外は何もありません

 赦せる人になることです。愛であるためには赦しが先決です。「私は悪人になってもいいから、人をせめて良くするのだ」という人がおりますが、良くなりますか。人を責め立てて良くなりますか。良くなりません。

 その人を批判し、批判したら、その人は良くなりますか、悪くなりますか、悪くなる一方です。

 周囲を良くするためには、あなた自身が良くなればいいのです。あなたが良くなればあなたは世の光となります。

 世を照らす光になります。あなたの日常生活が赦しと愛であるならば世の光となります。光そのものです。これを今日から実行してみたらどうでしょうか。
 
愛に勝る薬はこの世にはありません

 完成を高めるとは愛を高めることだといえます。今日の一日をだれとも争わず、憎むこともなく、怒ることもなく、嫉妬をすることなく、一日一日を愛にて生きることが感性を高めることです。それを愛の一日といいます。

 それが病気治療の秘訣ですし、健康の秘訣です。これに勝るお薬がありましょうか。皆さん方に無銭でもらえるお薬を頂こうとしないで、お金のかかるお薬で健康を保持していこうとする人が如何に多いかといえます。

 私、知花がなぜ病気にならないか。その理由はどこにあるのでしょう。風邪も引かない。病気にもならない理由はどこにあるのですか。愛であるからです。

 私は小さい時から人を憎むことが嫌いでした。「あなたに感情がありますか」といわれたこともあります。それは一回だけではありません。人から罵られても、けなされても、けろっとしていることが出来る私でした。

 小さい時から性格的には「言いたいから言うのでしょう」としかいいませんでした。言いたいから言うのだと。それを赦せる自分だから病気にならなかったと思います。これは悪い性格ですか、良い性格ですか、人を赦せるとは悪い性格ですか、良い性格です。
 

徳を積むとは愛を積み重ねた者をいいます

 自分の悪口を言われて、すぐに怒り狂う人は性格的には良いのでしょうか。悪いのでしょうか。悪いのです。

 怒り狂ったら誰が損するのでしょうか。自分です。怒り狂って得する人はいますか。世の中に人の悪口をいって得する人がいるのでしょうか。

 あなたは人の悪口をいっている時には、損をしているのです。得してるのではありません。損するものは捨てなければなりません。

 徳を積むとは愛を積むことです。徳を積むとは愛を積み重ねることです。愛を積み重ねた人を徳を積んだ人といいます。徳の深い人とは愛の深い人をいいます。

 あなたが愛であれば、人の欠点までも消すことが出来ます。周囲の闇があなたの光で、打ち消されてしまうわけです。

 世の中を明るくするためには、世の中が愛でなければなりません。世の中が健康であるためには世の中が愛でなくてはならないといえます。

 50年前と私今とでは、病気の数知れず多く出ています。50年前と今とでは想像を絶するほどに病人が多く流行っています。

 今は25兆円が医療費に払われています。膨大なる金額です。毎年、毎年、恐ろしいお金ではありませんか。25兆円という金額は、国の予算は一年に70兆円であるのに、その金額の約三割が治療費に当てられています。

 そのお金は何の結果でしょうか、愛の結果でしょうか、それとも不調和の結果でしょうか。世の中の医療費が多くなればなるほど不調和になっているとみても、嘘ではありません。今、現にそうではありませんか。


人を赦す心が愛の心です

人を赦す心、愛する心、これこそ皆さん方の完成を高める秘訣ではありませんか。自分は完成の高い者か低い者かと誰が知っていますか。そして、完成を低めるも高めるも誰次第ですか。自分です。

健康になるも、病気になるも、誰次第ですか、自分次第です。ですから、自己治癒力とは愛のエネルギーでもって、神性エネルギーでもって、我々は、「この世の無知と闇と悪を克服していくために努めねばなりません」。
 
 この清里の「安らぎの郷」が不調和の溜まり場だったら、この場所は闇の溜まり場になります。不調和の人が集まったら、ここは光になりますか。闇になりますか。

そして慈悲深い人が集まったらどうなりますか。光となります。これが正に磁場清めではありませんか。あなたが愛そのもの、光そのものになったら、あなたの行く所は全部が磁場を清めています。

愛の無い人が磁場清めが出来ますか。出来ませんか。真っ黒いものが真っ黒いものを消すことは出来ますか闇を被ったら磁場清めが出来ますか。

神官だといって何か白い服を着て、そんなもので家が清まりますか。土地が清まりますか。清まりません。その者が不調和であれば何の意味もありません。

愛は自力本願です

神は愛ですから、愛の人でなくてはなりません。すべての原点は愛ですから、天に帰るとは不調和の皆さん方が愛の皆さん方に帰ることです。神我は不調和ですか、愛ですか、大愛です。

 それには愛そのものになるわけです。真理の実践とは愛の実践です。不調和は神性でしょうか、非神理でしょうか。不調和は非神理です。愛の原理とか、愛の法則しかありませんから、あなたが不調和の時は愛の法則を犯しています。

 では、不調和とは罪ですか、それとも罪ではないのでしょうか。罪人とは不調和の人を罪人というわけです。愛の人を罪人というのでしょうか、どちらですか。

 あなたが不調和を起こしている時は愛の法則を犯していませんか。能動と受動の法則を犯していませんか。犯しています。罪人・罪人といいますが不調和の人を罪人といいます。

 ですから、「病とは罪の結果である」といえるわけです。罪を多く犯せば犯すほど病に掛かります。苦しみます。愛になればなるほど、、健康になり、幸せになります。愛ある人は健康で幸せです。

 あなた以外にあなたを救える者はいません。他力本願ではありません。自力本願です。完成を高めるのは愛を高める以外にはないと思います。
 時々、私の目の前で争いごとを見る場合があります。

 争っている人は大人ですか。子供ですか。まだまだ未熟だなと、争っているのを見れば子供の争いを見るような目で見ることが出来るのではないでしょうか。大人になっても争うのでしょうか。

 子供は喧嘩します。それは未熟な者であるからです。大人が争っているのを見ますと、まだ未熟であるかと残念です。

 そのような場面が私の目の前でも見受けられます。それをやっている人は、また、それなりに気付いて頂かなければなりません。

 皆さん方は本当に自分から後光や、光や、力が出るためには不調和ではなく、調和の人になるように気付かねばなりません。




神理・真理は科学である

 体に「電気毛布が悪い」と言われているのは、交流型だから悪いのであって、その逆に電気毛布が直流型になってアルファ波を出す電気毛布を作れば、これはまた瞑想以上のものだと思います。

 電気製品として、もし電気毛布を作るならばアルファ波の出る電気毛布を作れば、非常に良いといえます。電気じゅうたんも同じことです。普通の交流型の電気じゅうたのでは、波形が粗く、体も悪くなります。

 ここにいれば落ち着く、というような直流型の電気じゅうたんを作れば、その1つが解決できれば、商品としても幅広く出来ていくと思います。インバーターを1つ作ればいいのですから。

 その交流をインバーターで直流に変えて、人体に良い、全てに良い環境作りを電気的に行っていけばよいと思います。

 写真機やビデオの波形を変えていきますと、見えないものが撮れるのです。これは今は発表しません。作り方まで教わり、知っているのですが、その波形を変えていきますと、見えない世界の幽界の映画がこれから見られる時代が、近い将来に必ず来ます。

 全部が波形ですから、なぜ見られるかといえば、高分子と低分子の時代に入ってきますけれども、精妙な動きをとらえるレンズを作れるからです。

 そうなると幽霊が写真でどんどん撮れるようになります。幽界をどんどん三次元的に見えることが出来るのです。霊眼が開かれていない人の為に、それを映して見せることが出来ます。その時代は21世紀には必ず来ます。

 皆さんの部屋の蛍光灯を、全部インバーターをつけて直流型にしてください。ここで瞑想している方々には、全部が良い影響を及ぼします。電気製品に全部インバーターをつけて直流型にして、波動の良い場所にしましたら、もっと良い場が出来ます。

 交流型を直流型に変える、アルファ波に変える、直流型はアルファ波と読んでもいいのです。
 
 交流型はベータ波、パルス型はガンマ波です。これをよく理解していただければ、治療室にもなります。そのまま電気的な治療室にも変わります。

 インバーターを作れば、消費電力が今の電力の五分の一ぐらいの省力になります。今の電気量の五分の一にすることの出来る計算になります。

何もなくても幸せになる方法

 物があなた方を幸せにするのではありません。心が幸せにするのです。あなたの心に妬みやそしりがある限りにおいては、また地位の名誉や財産を沢山持っていても幸せにはなりません。

 地位や名誉や財産がなくても幸せになる方法があります。

それは真理を学んで、争わなくなった時です。真の喜び、真の幸せは真理の中においてのみあるのであって、自我の中にはありません。

 自我の世界は苦海ですから、苦しい世界ですから幸せにはなりません。何故自我の世界は苦界ですか。それは争うからです。

 なぜ生命の世界は極楽でしょうか。それは争わないからです。争わない状態を極楽状態と言うのです。

 争わなくなくなれば、どなたでも幸せになれます。金がなくても名誉がなくても幸せです。人の悪口を散々言いながら、憎しみながら幸せであることは絶対出来ません。

 皆さん方が本当に幸せになるのは、誰に責任があると思いますか。
誰でもなく自分に責任があるのです。

 貴方の幸せはあなたがもってこなくてはなりません。
貴方だけしか気付きません。誰も貴方に幸せを与える事は出来ません。

 その幸せをつかむのに金はかかるのでしょうか。幸せになるためにはカネがかかりますか。名誉が必要ですか。地位が必要ですか。

 幸せになるためには地位も名誉も財産も必要ではありません。地位や名誉や財産があなたがたを幸せにするのではなくて、あなたの心の状態が貴方を幸せにします。



問 気功師自身が人を治療しながら、体を病んでいくケースを、今までたびたび取材を通して見聞きしていたのですが、それは自分の意識や、使い方が間違っているからですか?

知花 そうです。フリーエネルギーとか、宇宙エネルギーが実在だと知らないで、エネルギーを有限化した物の捉え方をしているからだといえます。

 彼らは植物からエネルギーを吸収して人に与えるとか、外部から吸収して与えるような、物の制約したエネルギーの使いからですから、それがエネルギーを使い果たした時、彼らは早死にするだろうと思います。

 この宇宙エネルギーと一体になっておれば、エネルギーを使えば使うほど、その治療する方は元気になります。疲れることがありません。

 意識に問題があります。個人意識では彼らがそれを使おうとするから、気功師は非常に危険だといえます。


問 霊能者や宗教家の場合も全くそれと同じ事が言えるわけですか。

知花 そうです。全く同じようなことです。


問  よく地球の内部が空洞になっていて、そこにも人が住んでいるという噂を聞きます。

ヒマラヤから、底の地下帝国に入っていく入り口があるというような話を聞いたことがありますが、本当でしょうか?

知花 それは事実です。シャンバラという、それはエーテル界であって、皆さん方の考えている物質的なものではなく、正に物質世界そのものを意味しているのではありません。それは霊の世界です。

物質的なものと捉えたら大変な勘違いです。エーテルとしての存在であって、自分の肉体や物体としての存在ではそこに入ることは不可能です。

 自分の肉体をエーテル化して初めてその世界が体験出来るわけです。



 問 自分の肉体をエーテル化するというのは、具体的なノウハウはどのようなものでしょうか。

知花 それはバイブレーションです。そのバイブレーションとは何かといいいますと意識です。
 空の意識がすなわち高いバイブレーションですから、物質と非物質とは同じものです。ただ、バイブレーションが高いか低いかの違いだけです。

 それを釈迦は空即是色で、色の世界は空の仮の姿であって、現れにしか過ぎないといわれました。実在するのは色ではなく空となります。で

すから、色の本源は空であるとなり、空こそ絶対実在です。色もあって空もあるとは理にかないません。

色は即空であるし、空は即色である。そこに実際にあるのは空一元であって、空は永遠ですから、色は無常です。形あるものは崩れますが、本質は永遠です。



問 輪廻転生はあるのでしょうか。

知花 あるという世界もありますが、それを乗り越えた者には、本質的なものは、全く輪廻を繰り返しません。

影として幻としての表現世界は存在しています。すなわち、上辺の世界です。その根拠と一体になりますとそこには全く輪廻がない世界です。


問 人間の生きる意味とか、この世に生まれてきた意味とか、死んでいく意味など、少し宗教的になりますが、それはどのようにお考えになっていますか。

知花 我々は死にもしないし、生まれもしませんから、本来は意義そのものはありません。ただ、我々は内なる現れを、表現として生まれてくるのですが、その目的を失ってしまったり、誤った表現をしていいて、それを繰り返しているだけですから、意義としてとか、定義されたものは全く無いのです。



問  オーラについてお伺いしたいのですが、生体エネルギーの一種なのでしょうか。

知花 オーラを持たないものは一物もありません。その生命エネルギーという霊エネルギーそのものがオーラでありますから。そのオーラとは生命ですから。みな宿していますから、オーラを宿していないものはありません。

しかし、その生命の自覚に順応してオーラが強くなるとか、弱くなるとかはあります。



問  色(いろ)によっては色々な意味があるのでしょうか。

知花 あります。オーラの色は七色です。すなわち虹色です。その七色の世界が光の世界でで光エネルギーです。

そして、その光がどこに多く現れているかといいますと、人間には七つの光中枢がありまして、それは七色を示しているわです。

ですから、生命線というのは七色のチャクラです。そしてどの分野を多く意識して生きているか、どの分野を開発化されているかによって、そのオーラの色が強く出ます。その七色の世界を七天というのです。七色の光の世界です。


問  その七天という字は天という字ですか。
知花 そのとおりです。

問  色が持つそれぞれの意味はあるのですか。
知花 あります。それは色がそれぞれ、みな一つ一つの波長を持っているからです。

問  例えば赤い色にはどのような意味があるのでしょうか。
知花 赤い色だと感情です。

問  青はどんな意味があるのでしょうか。
知花 青は冷静を示します。

問 緑はどんな意味ですか。
知花 緑はありません。紫の場合は知恵を象徴とします。黄色の場合は愛を象徴とします。ピンクは愛情とか、恋とか情愛を示します。

問  後の二色は何色でしたでしょうか。
知花 本来その二色とか七色とかいいますが、本来は白色であって、無色なのです。その七つの色が一つになりますと、無色という白色にしかなりません。それを白光と読んでいる訳です。

問  七色を全部重ね合わせて無色の白光となったのが一番パワーが強いのですか。
知花 そうです。

問  神の意識に通じるものがあるのでしょうか。
知花 全ての意識そのものが神意識です。神意識の他に意識はありません。

意識そのものが神であって、神は意識ですから、全てに意識が宿っているとは全てに神が宿っているとなります。意識とは物を生み出す力でもあります。

問  根源的な意識は人間のような人格は持っていませんか。
知花 人間のような人格を全く持っていません。無形無双です。




問 かなりSF的になりますが、日本にもキリストが来たと言って話をする人もいますが本当でしょうか?

知花 事実、来ています。それはなぜかといいますと、彼には時間も空間もありませんから、日本とか、アメリカという意識はありません。

自在の意識ですから、テレポートの出来る人がどこには来なかったか、あそこには来なかったというものではありません。
 

問 世界各地で災害の前触れ等に、聖母マリアの像が涙を流したとか、あるいは実際に聖母マリアが話をしかけて来たというような現象をあちこちで見られますが、それはどのようなことに基づくのでしょうか?

知花 それは全く無いとはいえません。現象は何でも作り出しますから、それは、全く無いとはいいませんが、そのような事があったからといって、何の意味があるのかと逆に私が知りたいのです。


問 エジプトのピラミッドとか中南米には結構多くの遺跡文化がありますが、あれは、現代物理学でどのように創造したらよいのでしょうか。まだ分からないのですが、どのようなものでしょうか。

知花 それは霊能力といい、すなわち宇宙のエネルギーを駆使する力でもって作られたものであって、現代科学の色々なもので作られたものではないということです。

現にものとは必要なときには無重力といって、エネルギーと質料には重さがありません。

物とは今、いいましたように、鉄の塊でも空中に浮かすことが出来る波動の持ち主であればどんな大きな体積の岩でも、無重力にしてしまうわけですから、現にサイババ先生でも壊れたブルドーザーを四人で無重力にしてしまって、四人では抱えるように抱えたわけですから。

 そういう科学を超えた力は、その宇宙力を持っていれば当たり前のことであって、特別なことではありません。

ですから、今の科学の物差しで、あれをどうして作ったとか、これをどうして作っているのといっても、それは皆仮説です。全く真実に相反するものです。



問 フランスのルルドという所に泉があって、その水を飲めば病気が治るという話を聞いたことがありますが、その水は中性水と何か関係がありますか。

知花 まあ、その水の性質によっても違うと思いますが、ミネラル水であるか、ゲルマニウムを多く含んだ水であるか、そこでたまたまある人が病気が治って、その泉の水が病気に効果があると、

それを信ずる心を持った人達が沢山信ずるようになれば、そこに力を与えます。そこは効力を発揮するものだと思います。

効力を発揮すると、その水そのものが効力があるようになります。それを買う人の信ずる心が効力を発しているのです。それも一つの意識の問題ですから、どこに効力があるということは一概に言える人はいないでしょう。

 あなた方の飲んでいるお薬と同じです。信じて飲めば治りますが、信じなければ、治りません。
効果が出るというのとは同じことです。



問 サイババさんが開けられてないままの封筒を封を切らないままに読めるという話を聞いたのですが、それはどういうことに基づくのでしょうか。

知花 その文字の波動を読み取っているわけです。敏感な人なら誰でも可能です。

例えば本でも開いてみなくても、どういう内容のものか書いてある事は触らずとも見なくても、ここに置いておれば、内容が殆ど分かるくらいの敏感さがあれば、分かるようになります。


問 波動について、今、あちこちでも注目されていますが、もっと詳しくお伺いしたいのですが、例えば、大勢の中で一人だけ波動の高い人がいると、その全体の波動が良くなるということについて、一般的には変な気がするのですが。

知花 波動が高いというのはエネルギーが高いという意味ですから、そのエネルギーは高い所から低い所に流れるのは当たり前のことです。ですから、一人の影響は全体の影響といえますから、同じ悪いもの同士は、類は類を呼ぶということです。

 ただ、波動が低い者が高い所にいて、いい気持ちかといいますと、これはとんでもないことです。波動の低い者と波動の高い者とは波長が合いませんから、そこにおれば、例えば、波動が低い者が波動の高い所に行ったって、波動の低い者にとっては、そこは悪い所にしかなりません。

 ですから、そのような波動は自分と波長が合うか、合わないかによって拒否反応を起こすか、受けるれるかです。

それが磁場です。ですから、磁場が高いからといって、磁場の低い者がそこへ来たら、吐き気をもよおしたり、嫌気をさしたりすることはあります。

そうしますと、その本人によれば、その場は悪魔の場だというわけです。彼にとっては悪魔にしかなりません。



問 仮に清里に来て、気持ちが悪くなるという方は、本人自身がそうなっているわけですか。

知花 そんな人が結構いますよ。ですから、ここは悪魔かもしれません。と言われても、ものの取り方いかんですから、結構ではないですかとしかいいようがありません。


問 逆にへんなネオン街とかに行きますと、元気になる人がいますか。
知花 そこと波長が合っているのです。


問 例えば、講義録にはわら人形の例えが出ていたのですが、悪想念を相手に送れば、簡単に相手を倒す事が出来るのですか。

知花 そうです。その念というのは良いにつけ、悪いにつけ全てに働きます。しかし、最終的には本人に帰ってきます。

池の中に石を投げますと一瞬はぱっと広がりますが、投げた後は、また、中心に跳ね返って来ます。それが作用と反作用の法則です。これは諸刃の剣となります。


問 よく人がやることですが、お札とか水晶に念を込めるというのですが、水晶や御札などに念とか波動は、籠りやすい性質を持っているのでしょうか。

知花 性質を持っているというよりも、そこに念を入れたとか入れなかったとか、それを信ずる人の心によって差が出て来るといえますから、

信ずる人からすれば、念が入っているといえば、入っているというし、入っていないという人からすれば、全く空っぽにしか過ぎないのです。打ち消すことも認めることも出来ます。



問 世の中ではそのようなことをよく暗示効果といいますが、それは全く別なものと考えても宜しいのでしょうか。

知花 暗示作用です。一つの暗示作用と同じです。ですから、形あるものでさえも、これはパワーがありますと信ずる人には効果がありますが、信じない人には効果がありません。

その波長は常に打ち消し合いをしているから、否定論になりますと、打ち消し合いですから、効力を失います。


人を憎む者は自分を憎んでいる者である

 この世の日常生活の中で、一人でも憎い者がいたら、あなたは外側でものを見ている事になります。一人を憎むことは全体を憎むことです。
 
 この世に一人も憎む者がいなくなって、初めて皆さんは完全になります。

 ですから、内観をしながら、人の悪口や愚痴をこぼしているようならば、内観道場ではなくて、外観道場です。

 内観を見れば生命に区切りがありません。そうして全体が自分であるのが分かりますので、全体を愛するようになります。

 誰も憎みませんし、自分を愛すると同様に人を愛するようになります。

 あなたの中に神の全てがあります。
わたしのものは神のもの、神のものはわたしのもの」です。

 つまり、あなたの中に神の全てがあり、
全知全能の全てが、--------智慧も力も全てあります。

 この宇宙の中にある全てはあなたの中にあるのです
これを無限の富といっています。霊的な富は永遠に失うことはありません。


ガン発生のメカニズム

 食べ物はみな波動を持っています。野菜には野菜の波動が、肉には肉の波動があります。そして四つ足の動物になれば感情がありますので、人が叩こうとすると怒り狂います。

 殺されようとするなら恐怖を持ちます。その恐怖感は確かにその肉にインプットされますから、それらの波動の粗い物を食べますと、食べた人はその影響を受けます。

 しかし、我々はそれを超越していれば、そのような波動は問題ではありません。

 あなたが愛の波動を持っていれば、そのような波動は受けませんから、それを食べてみても影響はありません。悪い波動は愛で打ち消しますから、その悪い波動は存在しなくなります。波動の打ち消し合いです。

 これは電気的にも科学的にしても可能です。あるいは漢方薬でも可能となります。

 そして、ガンという細胞を打ち消すのも、一つの周波数を持ってくれば消えるわけです。この、一番よい周波数はなんだと思いますか。
 それは愛の波動です。

 ガンの波動は憎しみの波動です。では、それを打ち消すには何を持ってくれば良いと思いますか。愛です。愛の波動を持ってきますと、ガンの波動は打ち消されます。

 ガンの細胞は「憎しみの波動」です。「嫌だ」というような思いの塊が、肉体のどこかにその波動を摂取するわけです。

 その憎しみが燃えていけばいくほど、ガンは人体破壊というように拡大されていきます。肉体破壊まで追い込むわけですから、

そんな人間に心構えを教えないで、これを食べたらガンが治るとか、これを飲んだらがんが治るといっただけではインスタントの方法論です。


ガンという闇は、愛という光を持ってくれば癒える

 ガンは光ですか、闇ですか。ガンが闇ならば、光を持ってくれば、愛を持ってくれば消えます。そうすればお医者さんに行く必要もないし、金を払う必要もありません。

 皆さん方がみな持っているのですから、愛に勝る力はありません。愛が全ての解毒剤です。

 皆さん方が本当に愛という真理や、原理を知ってしまえば、病気になるとか、病気にならないとか、そんな心配事は必要ありません。


波動とは何か

遠隔治療はどうすれば可能になるか

 例えばこの知花が、地球の裏の誰かを愛したとしますと、即その効果が現れます。そこは時空間が存在していませんから、隠れていようが地球の裏側であろうが問題はありません。

 これを治療に使いますのを、普通には遠隔治療などといいます。光を送って下さいと念を送って下さいなどといいますが、時間はかかりません。

 ですから私は電話で「先生、よろしくお願いします。今、誰それが奇特ですから」などと受けることがあります。その時に「ああ、そうですか」と思った瞬間、わたしは電話を切りまして、自分の意識を送るわけです。

 その時の私は普遍意識を送るのです。みなさんが自我意識状態で
「ああ、そうですか。では意識を送ります」と言ったところで、何もなりません。
 その時はどうしても皆さん方は、普遍意識にならなければならないはずです。普遍意識こそが時空間を超えた意識ですから、自我意識は独立した、分離した意識になっていますから届きません。

 彼と自分とは別々だと思っている限りは届きません。そのような意識状態は絶対に届かないのです。個人意識や自我意識では遠隔治療は不可能です。

 遠隔治療をするにはどうすればいいかといいますと、一体感になるのです。全一体感という宇宙との一体感になって、時空間を超えた意識状態になってこそ出来るのです皆さん方もその能力を持ち合わせているのです。

 ただ、現していないだけです。使わないだけです。皆さん方が本当に普遍意識状態になりますと、時空間を超えて色々な力を発揮できるのです。

 世の中の人々やここにくるお客さんは、病気を治したいと思って来るのですが、病気を治しても、病気を作る人ならば病気は減りません。自分の心の波動が悪いから、また病気を作るのです。


病気は薬が治すのではなく、本人の信じる心が治す

 薬に人を治す力はありません。薬はただの媒体にすぎません。薬を飲めば病気が治ると信じる心が癒しになるのです。何々の病気にはこの薬がよく効くのですという、信じる心がなければ、薬の効能はゼロとなります。

 薬を飲むならば、信じて飲みなさいといいます。信じなければ自らの念を送り、自らの力を薬に与えますので、あたかも効果があるように皆さん方を癒します。

 薬を信じる心が一番に大切ですから、「私はこの薬を絶対に信じない」という人ならば、何の効果も出てきません。ですからいわしの頭も信じれば神になると言いますが、信じれば神となります。


波動とは何か

良い波動とは何か

 波動とは何かについて説明してみたいと思います。
 最近は波動という言葉が、色んな商品説明その他にも使われていますが、波動が何であるかを知っている人は非常に少ないのです。

 波動が悪いとか、よいとか、波動が高い、低いなど皆さん方は言いますが、波動という言葉や文字は、ただ言葉の上で書いたり読んだり言ったりするだけでは何の意味もありません。

 波動とは何かといいますと、まずは心であると言っても構いません。心が悪いと悪い波動が出ますし、心が良いと良い波動が出ます。

 波動というのは字のごとく振動です。振動ですから波動のことを外国語に直訳しますと、バイブレーションといいます。波動を高めるのをバイブレーションを高めるといいます。

 私達の言葉の一つ一つが全て振動していますし、波動です。振動しているのを形にしますと波形となりまして、形として現れてきます。波形は色々な振動によって変わります。


悪い波動とは何か

 波形は波動といい、振動ともいいますが、波動にも波の立たない状態と波立つ状態とがあります。波立つ状態をパルス型といい、上下の高い波形が存在しています。

 冷静な心の持ち主は、高低の少ない状態を表しています。電気的なものでも、直流型、交流型、パルス型などという言葉で説明できます。

 破壊的な想念の持ち主ですと、波動はパルス型になります。皆さん方が怒り狂っている時には、体内でどのような波動が出ているかといいますと、極端なパルス型が出ています。ですから破壊的振動が出ているわけです。

 冷静であるときは、直流形の波形が出ています。穏やかな波形は直流型で、次は交流型、パルス型は極端な波形が出ていますが、これらは全部が振動です。


波動は色んな作用をする

 冷静な気持ちでいますと、常に直流型の波形を保つことが出来ます。健康にはどの波形がいいかと言いますと、穏やかな波形である直流型です。破壊的なパルス型は健康にはよくありません。溶接あるいは機材の切断など、破壊する作業にはパルス型を使います。

 更に申し上げますと、パルス型をもっと周波数を高めまして振動を変えます。すなわち高周波数にしますと、物が消滅するのです。物が消えてなくなります。極端なパルス型にしますと、破壊されます。つないでいる分子が全部分離してしまいますから、切断されます。

 極端に言いますと、分子が破壊されるのです。分子構造が破壊されますと、すなわちDNAが破壊されることにもなります。大体において、癌になる人はパルス型です。分子構造が破壊されまして、そこに体内の異変を感じるのです。

 私達の日常生活での心の状態そのものが波動となります。憎しみの心を持っているときには、皆さん方はどうなっていると思いますか。よい波動が出ていると思いますか。

 貴方の体内には憎しみというバイブレーションが起こります。そのとき皆さん方の体調は良くなりますか、悪くなりますか悪くなります。

 穏やかになって、愛の波動を持っている時はどうなりますか。落ち着きます。同様に、波動も落ち着いてきます。いらだつという言葉がありますが、私達の心がいらだっている時には、細胞もいらだっています。

 いらだちの波動を出しますと、同じようなバイブレーションが出ますから、私達が健康である為には常に冷静であるよう、心の管理が必要になってきます。

 これを心のコントロール、想念のコントロール、想念波動といいまして、想念そのものが波動となります。憎しみの想念は憎しみの波動が出ますし、愛の想念は愛の波動を出します。


不調和を罪と言いますし神への反逆です

 皆さん方は、まだまだ無法であるといえます。なぜかといえば、愛の法則を犯しますから、トラブルを起こしたり不調和を起こすことは神への反逆というわけです。無法者です。

 不調和の人間のことを何びとと言いますか、罪びとというのです。愛の人を罪のない人といいます。罪を自分で犯していながら、罪を許し給えといいますが、その罪は誰が許せるのでしょうか、あなた以外にないと思います。

 犯した罪は報われなければなりません。犯した罪は必ず報わなければなりません。自分で蒔いた種を自分で刈り取っているだけです。そのあなたが不調和になった時には、愛の法則を犯した者といえるのです。

 宇宙には愛の法則という絶対の法則があります。これを宇宙法則といいます。ですから、我は法則なりというのは、我は愛なりというのと同じです。

 ですから、不調和とは愛という神への反逆であるといえます。反逆行為であるといえます。裏切り行為であるといえます。ですから、不調和の人間を裏切り者というのです。自分の本性を裏切ったわけです。


人間から愛を引いたら何も残りません

 この大愛を知らなかったとしますと、自分自身を知らない、すなわち自分を見失っているといえます。自分は人間だと見ている限りは愛を知りません。 皆さんは愛の現れに過ぎないのです

 すべては愛の現れであり、愛の表現です。皆さん方はこの世に不調和を表現しに来たのでしょうか。愛の表現をしにきたのでしょうか。

 砂浜の砂一粒とて大愛を現しています。この大愛には大きい小さいがありません。形の制約を受けません。

 愛に内・外がありますか、ありません。内も愛で、外も愛です。ですから、愛には内・外がないのです。その愛はいかなるものの制限も制約もうけるものでしょうか、受けないものでしょうか。

 無制限ですし、自在ですし、無碍ですし、久遠ですし、常在です。これを久遠世界といいます。

 皆さん方は様々なものがあると見ている限りは盲目です。幻影です。この形という世界は影だといえます。愛が様々な形を映し出しているだけです。

 すなわち人間は実在しません。人間といえば幻です。愛を差し引いたら何が残りますか。何も残りません。あなたから霊と水を差し引いたら、何も残らないわけですから、人間が実在であるはずがありません。

 実在しない幻を、皆さん方は絶対なるものとして盲信・狂信していませんか。

 自分は人間ですとか、肉体ですとか、個人ですとかいいますが、人間が存在した試しはありません。まだまだ盲信と狂信に明け暮れているといえます。


己を知ることが悟りであり、己を観ることが神を観ることです

 己を知ることが悟りであり、己を観ることが神を観るとなります。本物のあなたを観た時、あなたは何を観たとなりますか。神を観たとなります。

 また、己を知った時、何を知ったとなりますか。神を知るとなります。でですから、神を知る前に己を知りなさいといいます。神を観る前に己を観なさいというのです。その神は大調和です。

 この大調和のことを大バランスといいます。不調和のことをアン・バランスといいます。

 バランスであれば健康ですが、アン・バランスであれば病気になります。では、誰があなたのバランスを崩すのでしょうか。病気の作り主は誰でしょうか。自分です。そうであるならば、本来は自分で癒やさねばなりません。


自己治癒力を愛といいます

 自己治癒力というのは愛のことをいい、その愛が全ての癒しのエネルギーです。一切を癒やす力ですし、一切を癒やす知恵です。これが愛です。

 あなたが病気になりたくなかったら、不調和を起こさないことです。不調和でありながら健康でありたいというのは虫がよすぎると言いたいのです。

 不調和の人間はうんと病気になって苦しみなさいと言いたいのです。そうではありませんか、不調和から健康が生まれますか。アン・バランスを完全とでも言うのでしょうか。バランスを崩しますと不完全になります。

 完成の高い人とは愛の人をいいます。調和の人をいいます。完成を高めるとは調和になるといいます。世の中には、ずうずうしい方が多いのです。

 不調和でありながら健康でありたいと虫のいい事を考えている人がなんと多いことでしょう。

『不調和は病気の結果』であり、それが原因ですから、病気は不調和の結果としてあるのです。その病気にお医者さんは原因対処をしていますか、それとも結果対処でしょうか。結果対処です。

 お医者さんはそれぞれの病気の原因を知っていますか。全ての病気の原因は不明であり分かっていません。その病気の原因を知ったお医者さんはいません。どんな病気でも皆、原因不明の病気ではありませんか。

 病気の原因とは何かといいますと不調和です。答えは1つしかないのです。

 「病気とは何かといえば不調和である」といえます。
『健康とはなにかといえば調和である』としかいえません。


問 それでは、オーム讃唱はかなり、パワーが出るのでしょうか。それとも言魂というのでしょうか。
知花 それはもう創造の波動ですから、ものすごい波動です。

問 それも信じずに讃唱するのと、信じて讃唱するのとでは差がでますか。
知花 ハッキリ差が出ます。

問 実際に病気が治るのですか。
知花 治ります。しかし、治るといっても、受ける入れる側と発する側とタイミングが合った時の話です。こっちは治したいと発しても、相手がこんなもので治るかという反発作用を起こせば、打ち消しになります。そのパワーを受け入れたことにはなりません。それは放り出したことになりますから、効き目はありません。

問 病気の治療だけではなく、潜在能力開発という意味でも活用出来るのでしょうか。
知花 出来ます。

問 オームというのは宇宙語なのでしょうか。
知花 そうです.宇宙の響きです。

問 なぜそのように、病気癒やしや潜在能力の開発に応用できるのかメカニズムについて、もう少し詳しくお伺いしたいのですが。

知花 それは宇宙の響きですから、正しい波動になりますから、悪い波長が消えますと、その状態は良い影響を受けやすくなるからです。
 ちょうど、あなたが良い人間の中におると、あなたが良い人間になりやすいのと同じことです。悪い人間の中にいて、良い人間になろうとすると相当に努力をしなければなれないのと同じことです。


問 生物で何百度とか、何千度の温度でも生きていられる生物があるというような、あの記述にはとても驚いたのですが、人間の概念を想像するものが存在しているということですか。

知花 そうです。ただ、人間の想像を絶することが宇宙であり、当たり前の様に存在していますが、人間が理解できないから否定しているだけに過ぎません。

問 生物についての記述も大変興味深く読ませて頂きました。それで、人間が植物をとることは微生物に餌をやっているようなものだということですが、今までそんな話聞いたことが無かったものですから、すごく新鮮に思いました。

知花 微生物とは、本当は小さな生命たちといっているものです。

問 妖精というふうにでしょうか。
知花 そうです。

問 それを昔の人は微生物を擬人化して捉えていたのでしょうか。
知花 そのように捉えていたと思います。ですから、それほどの全てとの一体感で親密感を持っていたといえるのです。


問 色々な国の神話を見てみますと、ある程度は共通した部分があるのですが、超古代の人達は直感的にやはり、エネルギーとか、自分のパワーとかをある程度は認識していたのでしょうか。

知花 今の人間以上に認識していた時代がありました。なぜかといいますと、昔の人間は神を抜きにして生活した人間はいなかったからです。今は神を否定して生きている人間が大半ですから、神なんておるものかということをいいます。それだけの違いです。

問 それと古代の人達は神と同時に魔物というのでしょうか。そのことについても認識していたと、実際に捉えていたというように、最近ある本で読みましたが、魔の世界はほんとうにあるのでしょうか。

知花 魔の世界は人間の心の状態であって、魔の世界がどこかに存在するものではありません。

問 人間の意識がそうさせているのでしょうか。
知花 意識の状態でも魔になるし、神にもなります。ですから、人間は悪魔にもなり、神にもなるといえます。意識の状態だけです。自分が悪魔になるのも神になるのも可能です。

問 西洋の魔術の儀式を見ますと、かなりグロテスクな現場があるのですが、そういう儀式をすることによって自分の魔力が出来ますか。

知花 信念で作りだして、その魔の力を生み出しています。信ずることはその力を悪にも使えますし、善にも使える力です。善悪に左右するだけです。

問 チャクラについてお伺いしたいのですが、よくチャクラを開くと超能力的なことを発揮する事が出来ると聞いた
ことがありますが、それと意識の世界とはなにか関連性があるのでしょうか。

知花 チャクラを開くというのは一つの観念的に書いてるものは沢山ありますが、実際にチャクラを開いている人はそう沢山いるものではありません。
 
あれは、彼らが勝手にそういう観念を生み出しているだけです。ですから、それらの本に書いてあるものがそのまま真実だと受け取っては非常に困ります。

チャクラというのは外部からの刺激で開くものではありません。宇宙意識そのものになって初めて、大霊と一体になって始めて、自ら開くものであって、

意識が低いのに、人間意識とか、肉意識とか、個人意識なのに、チャクラが開くということは絶対に無いといえます。
 光のない所からどうして光が出ましょうかと言いたいのです。

 それを観念的に「ああであるとか、こうである」と書いてある。偽物の本が世の中にいかに出回っているかといえます。それはドグマ的ですし、そんな真実は全くありません。

 また、そんな理屈にかなわないことも、あり得ないことです。確かに現れているよな現象は起こせますが、彼らが勝手に作るわけです。

 それは一つの自念症ですから、それを弄んでいる人は最終的には殆ど精神異常になります。意識は正さないで、現象だけ望んだり、いたずら心でやったら、非常に危険なことです。チャクラを弄ぶことは絶対にしないようにすることです。

愛は天と地の架け橋Ⅱ

愛は天と地の架け橋Ⅲ

から引用させて頂きました♪

私がヒーリング能力が開花したのも、純粋な人類愛の想いで、
神様に「どうか世のため人のために役立つ能力をお与え下さい」と真摯にお祈りしていたからかもしれません・

 このお話以上に、真の超能力についての真実を語ってくださっているお話はこの地球上に存在しないと言っても過言ではないかも♬ 

 無条件の愛と許し、一切との愛と調和を体得して、自我を捨てて神我に目覚めて、人類への奉仕に生きるという決意を持った人になれば、神我顕現して、神様から神の御力を授けて頂けるかもしれませんね♪そんな気が致します。


愛は天と地の架け橋Ⅱ 

どうか、あなた方は、愛も無いのに神の知恵を得たい、神の力を得たい、と言うような愚かな考えは捨てなさい。

あなたが愛になって、初めて一切のものと調和して、
初めてあなたがたは私の知恵と力とを授かるものであることを知りなさい。
誰かと不調和を起こしながら、私は神の知恵を得たい、カを得たい、
と思いましても、それは得られるものではありません。

私の知恵と力を得たいなら、あくまでも、皆さん方が愛でなくてはならないのです。
一切のものと調和されていなくてはならないのです。

私が全ての被造物を創って、その被造物を愛しているが如く、
皆さん方も私の愛を実感して、全てのものを愛するものになつて、
初めて皆さん方は天上、地上の全ての知恵とカを我がものとすることが出来るのです。

私に波長を合わせなさい。常に私をあなたの中に留めなさい。
この知花は言っています。
何十年間もこの知花は同じことを祈って参りました。

「貴神の言葉は、我が言葉と成らせ給え」
「貴神の思いは、我が思いと成らせ給え」
「貴神の行動は、我が行動と成らせ給え」

何十年も、何十年も、それが成就するまで、祈り続けたのです。
あなた方も、そのような神の願いが叶えられる迄、
コップを手から下ろしてはなりません。

これが充たされる迄、神を信じて待ちなさい直今結果が出ないからと言って、あなたが如何に欲張りであるか、私は知っています。

ここで僅か学んだから、今すぐ神の知恵と力と愛が私の許にあるんだ。そして、それが成就出来なかったら焦りが出て私を疑う。
そして嫌になる。

「神様は嘘付きだ。私がこんなに信じても、私には何も現してくれない」
と云って又不信感を抱く何不調和の心を起こす。
そのような者が大半です。
私は、そのような不調和と波長が合うものではありません。
一切の焦りを捨てなさい。

あなたの「我」ではどうすることも出来ないのです。
私が波長が含う者のみ。

あなたに原因があるのであって、
私に原因があるのじゃない回私は常に与えているものなのです但唯、
受け取り方に原因があるのであって、与える方に原因があるのじゃないのです。

皆さん方は、神を罵ってはなりません。神をけなしてはなりません。
あなた方の受け入れる能力に原因があるのであって、
与える方に原因があるのじゃありません。

常に与えられているのじゃないでしょうか。唯、受け入れる能力が自分に無いのにも拘わらず、「私はこんなに神を信じて来たのに、
私には何も下さらない竈何もやって下さらない」

と言うような泣き言は止めなさい。そのような自分の利益の為に、欲望達成の為に、私があるのでは無いのです。

私は純粋なる愛そのものであるからです。
全ては愛するものであるから、私に似ることが大切です。

私に似る事が出来なければ、
どうして私のものをあなたに授ける事が出来ましようか。


一向に私に似る事も出来ないのに、
神の私のものを一切合切を受け継ぎたいと云うような欲望は止めなさい。

あなたは私のものを得る秘訣は、先ず私に似ることなのです。
私のみこころ(御心)をこの世に顕す事なのです。

顕(あらわ)さなければ、どうして私のものを、
あなたに与えることが出来ましよう。

あなた方は、先ず、寝ても覚めても常に私を意識し、
私の愛を四六時中あなた方のハートに掲げなさい。
そして世に示しなさい。

それがあなた方の唯一の私に至る道なのです。
愛のない者は、私に至ることはありません。

私との伴が、懸け橋が、出来ているものでもありません。
世の偽善者のような真似事を止めなさい。

あなた方は、真実なる私の真の信者と成りなさい竈真の信者とは、私の愛を行う者のみです。
あなた方は偽者でしょうか。

口先だけで神を信じ、神を愛すると云う者にならないように、
私の愛を現実にこの肉と魂を通じて現す者と成りなさい。

この世の見本となりなさい。
そうした時、私はあなたが祈らずとも、
私のものは全てあなた方に与えられるものなのです。

あなた方はまだ、私の実態を理解しておりません。
この知花を通して学びなさい。

その受け取り方を知花は知ったからです。
だから、皆さん方が今の自分の考えている愚かさを捨てなさい。

一切の先入観を捨てなさい。
今迄、神、神と聞かされたその神の話を全て捨てなさい。

私は真実なるものです。
現実的なものです。
実際的なものです。
活動的です。

私が遥か遠い雲の彼方におるのだと云う指導者から離れなさい。
私は今即あなたの中に、あなたは即私の中に居ることを知りなさい。
そのことによって、あなた方は私を知るように成るでしょう。

それを常に意識しなさい。
私と「父」とは一体である。

私は一度だって、「父」から離れたことがない。
我々は「父」の中におり、「父」は我が中におる。
全一体となって、そこにおることを知りなさい。

決して、この世の盲の指導者のように、
雲の遠い彼方に私がおるという事を聞いてはなりません。
偽りです。

彼等は、我を観たことも、感じたことも無いのに、
人に偽りを伝えているだけです。
私はここにおります。あなたの中におります。

私はここに見よ、あそこに見よ、と云う如くにいるのでは無くて、
至る所におるものであることを知りなさい。

私は、その無限空間に満ち満ちている、偉大なる「生命」である事を知りなさい。

宇宙を支配している「大霊」であることを知りなさい。
宇宙を支配している「愛」であることを知りなさい。

あなた方は、如何なる神も信じてはなりません。
今世の中には、様々な神々を人間の無智で創って、
私から、彼あなた方の兄弟・姉妹を遠ざけているのではないでしょうか。

その遠ざけられている兄弟の救済の為にも、
あなた方が、その世の光となって愛の私の見本を示す事です。

それが世の救済です。

今のままでは、兄弟・姉妹は邪悪なる盲目の信奉者によって、食い潰されてしまいます。
どうか皆さん方は、真の我、真の神を実践体験し、
その見本を皆さん方ここで造って貰いたいのです。

どうか皆さん方が、偽者と戦い、
そして、それを皆さん方が本物を示す以外に無いのです。
口先だけでもう納得の行く時代ではありません。
行為で示しなさい。

その行為で示して、初めて皆さん方は世の信頼を受け、
そして、本物と偽者との識別の出来る状態をこの地上界で作らねばならないのです。

どうか皆さん方がその一役を買って戴き、
自分事で悩み言を云うのでは無くて、人様の奉仕に全身を投入し、私に捧げなさい。

そして初めて、皆さん方は世に見本を示す私の良き娘となり、
息子となるでありましよう。

その為にのみ、皆さんは創られました。
今使命を思い出して下さい。


から引用させて頂きました。心から感謝申し上げます。

霊性進化より・・・幽界のこと、瞑想=迷想?、物質化現象

ここの話はあまりに高い話だから、みなさんなかなか理解できない。特に宗教を生噛りしていた者は、そこの先入観があるので時間がかかります。

 しかし、無信仰でそこに向いてなかったものは、神霊の次元に入りやすいですね。

感情的な人はですね、神霊に入るのも簡単ですよ。ちょっとの努力なんです。幽界で留めたら最後です。だいたい中間のものは感情的になるんです。

この世で、ある程度いいところまで先生方が行くけれど、途中で崩れるのは、みんな幽界で崩れてるんです。ここから上にいけないのですよ、感情的になって。

そういう処も、皆さん方は通る必要がない。幽界に意識を向ける必要がないわけですから。

瞑想して、幽界に意識を向けてパルス型になった人もおります。だから、瞑想は危険ですよ。幽界に意識を向けて瞑想したら、感情的になったり、一人笑いをしたり、一人泣きをする人がいるわけですよ。

ここは感情界ですから、感情が高ぶりますから。この感情の波を治めるのは、神霊しかないのですよ。鎮めることができるのは。

だから、「静まれ!」と命令する者がなければ、いつもこういう状態で高ぶった状態で人生を送ってしまう。

だから、瞑想は危険だと言える。それは、高い神霊に意識を向けないで、低い幽界に意識を向けた時です。あなた方が瞑想中に、いろいろの現象に意識が向いてる時、どこに意識が向いてます?幽界に向いてますね。そうすると、気違いになったりするんですね。

もう一つ言いたいのは、神霊に意識が向いてる時に、たたりとか憑依霊の本が書ける? 幽界のことは幽界に繋がっている時にしか書けないのですよ。

神に繋がっている人は、神のことしか書けないのですよ。幽界に繋がっていて、神の世界のこと書ける?

あなたは憑依霊現象の本を読んでる時、どこに意識は向いてます?幽界に、神に? その本の影響と言うのは大きいですよ。

書く人も幽界に意識を合わせて、読む人も幽界に意識を合わさねば読めないわけですから。

だから、書物によって非常に人間に有害なものと、利益になるものがあると、ご理解いただきたいですね。幽界の本を読んで、神界につながる?

みなさん神界に意識を向けますと、この世の本は不要となるんですよ。必要としないのですよ、それ以上のものはないわけですから。

聖書とか仏書とか、天啓を受けたとか神に目覚めた人が書いたものは、神のバイブレーションを持っています。バイブルと言って、バイブレーションなんです。
だから、いまだかつて聖書に打ち勝つ書物は存在しないのです。

ベストセラーなんです。なぜかと言うと、真実を述べているから高いのですよ。また、そこと理解があるものが、神とつながったものが書いてるわけですから。その本がバイブレーションが低いはずはないですね。

だから、皆さんのバイブレーションは自由意思で、外を見ている時はバイブレーション低いし、神という高次元に意識が向いている時は、みなさんの波動は高波動となると。

「われ神なり」という想いを起こしている時、みなさん肉体バイブレーションですか、神のバイブレーションですか?そうすることによって、いかなる病も悩みも解決できますよ。

再び病気にならない人は、常に高いものに意識を向けていれば、病気にならないですよ。自己治癒力と言いまして、自分のバイブレーションを上げておれば、いかなる病も癒せます。

どこに意識を向けるかで決まるんですよ。そのことを、考えればいいのですよ。3チャンネルしかありませんので、どこに合わせるか。まあ1チャンネルに合わせますか、神という原点に合わせたいと思いますね。

簡単なんですけれど、難しいのですね。それが、難しいという考えが難しくしてるんですよ。神を想うのが何で難しいのかと。

神を想えば神が現れ、そこに意識を向ける人が、1人でも多くなれば、地球上のバイブレーションは高くなりますね。これが、人類救済なんですよ。地球の救済なんですよ。

今、全部物質に向いたから地球のバイブレーション下がって、地球は死ぬか生きるの病にかかっているんですよ。それは、物質に無我夢中だったからじゃありませんか。どうです?

だから、高度の物質文明が栄えた時、地球はバイブレーションが低くなりますので、地球は何回も滅びたわけですよ。誰が滅ぼしたのですか?人間がですよ。そこにいる人間がバロメータを、波動を落としたから、ダメになったのですよ。

今、地球のバイブレーションは上がりつつありますよ。その日をいかに待ち望んでいたか。苦しい時の神頼みと言って、物質に頼れなくなると、みんな霊性に向いてきますので、その日を待っているんですよ。

もっと厳しくなってほしいなと思うんですけれど。物が豊かな時は、どんどん物へ向いていくんですよ。内側のこと考えません。表だけに生きて。そうすると、陰陽の法則が狂いますので、コロッと天変地異をおこさねばならない。

だから、今からの時代は物質文明は終わって、精神文明が始まると言いたい。その先駆者としてのみなさんだと思うんですね・だから1日も早く世の救済というのは、物理的救済じゃなくて、無言の奉仕と、無言の救済が本当の救済だったということにお気づき頂きたい。

今その段階に入っていますので、1人でも多くの人が霊性に目覚めていくように努力して行きたいと思います。ありがとうございました。

おまけ(講話後)
※チャンネルを合わすというのは、想えばいいのですよ。
神を愛するとは、神を意識することなんです。
あなた方、子供を愛するとは子供を意識することなんでしょ。

神を愛するとは、想えばいいのですよ。意識すればいいのですよ。
だから、多く愛する者は愛されるというのはその意味です。

今、知花は1日中思っていますよ。だから、3次元的な外の話に入ってこないというのはその意味なんですよ。

その世界に私がいることによって、わたしからその波動を出すことによって、全てのもののためになるんです。低い意識状態でジタバタして人類救済ができる?そのことをご理解いただきたい。

だから、聖者方が走り回って奉仕するということはないと。
常に高い波動を全世界に向けて放射すると。
だから皆さん方も少しでもお手伝いができる、放射できる皆さんになっていただきたい。神の媒体になってもらいたいと思うんですね。それ以外に目的はないと。

そうすると物理的にも霊的にも恵まれますよ。そこに入ると、必要な時に必要なものが使えますよ。みんなから信頼と、いいあれを受けますのでね。食いはぐれるということは全くないですね。

もう1つ具体的になりますと、見える世界と言うのは、見えない世界の具現ですから、その原質は全て不可視の世界にありますから、後は自分の必要なもの具現すればいいのですよ。でその時代までもう来ますよ。

人工的に、ここで物質を固めて造るんじゃなくて、不可視の質料からすぐに可視の質料としての原質ですね。これを物質化現象と言いまして、家も勝手に自分で創り、食べ物もスーパーも何もないのです。

欲しいと思ったら即時に現れますから。見えるものの原質は不可視の原質として存在します。そこから具現されるわけです。

見えるものがなくなるというのは、その不可視の原点に返還されるだけなんですよ。全て不可視の質料からここに現れてるわけですからね。普遍的原質ですよ。それは、全宇宙に満ち満ちているわけです。


から引用させていただきました。心から感謝申し上げます。

♄・このマークの意味

♄は、土星の絵を出そうとして、変換したら出てきた記号です。

イエスが、「わたしと12の弟子は上から来たものである」という意味は、

地球以上の進化した星から訪れているということです。

高い意識世界から、降りてきているという意味です。

その弟子たちも、みな役割で使命で降りてきています。

地球人類を指導・救済するために・・

ユダもその役割で、裏切り者という役を演じました。

それは、生まれる前から承知で、約束のもとだったのです。

だから、イエス・キリストの一番の協力者はユダだったのです。

なぜかというと、裏切り者がいないとキリストにはなりませんでしたから。

そういうことを知らず、形だけを見ると、ただ悪いとか言いますが。

サイババさんの車いすもそうですが、みな演技、役目なのです。

人間を演じる必要はありませんが、その役割はあります。

そういうことで、土星の意味ですが、智慧の象徴です。

知恵の土星と言って。叡智・知恵の輪があります。

知花先生は、土星から来た方です。これを、アバターと言います。

本来は全ての出身は神ですが、魂のルーツとしては土星という意味です。

地球の管理者なので、地球アバターと言います。

だから、大犠牲と言って「上」から来る方々は、犠牲を払って、愛のもとにおりてきます。

しかし、本当は犠牲ではなく、「正義」だともおっしゃいました。

知花先生と一緒に、今生降りてこられた方12名のうち、8名しか意識的に連絡が取れないと言ってた講話もありました。その他は行方不明と・・それだけ、人間界の物欲色欲は厳しいという意味です。地とは、宇宙で一番低い波動ですから。それが、天使とて地に落ちると・・・

ちなみに、一人はアメリカの主婦で、もう一人はイタリアのナポリに住むチベット人だそうです。


ユダとは自我のことです。神我という内在のキリストを裏切っています。この世の物欲のために・・神我である「愛」、キリストを無視し、裏切り、金銀のために、物質のために、本物を裏切り、ウソをついています。

人間と言うウソをついています。それは、我々のことです。みんな、神我を殺しています。無視しています。この世の者は、耳を貸しません。そんなバカな話が・・というでしょう。

それは、完全に目がつぶされ、耳がつぶされているからです。神我である「愛」、キリストを十字架にかけ殺そうとしますが、しかし、肉は死にましても、神は死にませんので永遠の命であるので、復活します!!甦ります。

復活と言うより、もともと生命であった、命であったということに気付くことです。それは、象徴的なことです。我々の肉体と言う自我=十字架にかけても、神は永遠ですので、必ず復活します。目覚めます。

知花先生は今生、知花敏彦と言う肉体でもって誕生していますが、昔はお釈迦様の弟子だった時代もあるし、またイエスの弟子だった時代もあります。

イエスの時は側にいた3名のうち一人だと言われました。しかし、真の知花先生の実態は神・永遠無限の本質なので、その時々のパーソナリティーに捉われる必要はありません。

過去に、陶芸家だろうが、音楽家だろうが、建築家だろうが、どういう職業体験をしても、経験は残っても、その本人は変わらないのと一緒で、その方がどういうパーソナリティーをまとおうが、その本質は永遠無限の神、実態です。しかし、その経験と記憶という個性は残ります。

肉は無くなっても、魂と言う、その方の表現をしている器は残ります。それが、個性です。魂の履歴と言うか、経験値?のようなものです。それが、転生を生み、また昇天しても継続するわけです。しかし、安心してください。

昇天・解脱したらもう終わりだと、やっと解放されるんだと想っていた方。苦しみが続くのではなく、今度は永遠の喜びが始まるわけですから、生存する存在する意味が違ってきます。

今度は、奉仕する喜び、愛の喜びが始まりますから、地球のような苦界で、地国を這いずりまわるような経験は致しません。それは、魂の自由選択で決まります。地に行くか、天に行くかは、知花先生の場合、トートの時に地球の管理者・指導者・教師になることを選んだようです。(エメラルド・タブレットによる)

逆に、イエスを指導していた時もありましたし、お釈迦様を指導していた時もありました。モーセであった時もあるようです。その時々で、守護霊になったり、守護神になったり入れ替わるのです。だいたい3人で三位一体で、グループを持つようです。
あなたの右と左に、いつか守護神・守護霊が見えて、語り合うときが来るだろう」―知花敏彦。

知花先生の実態・正体が神であるように、我々の実態も神・仏です。それは、同じ本質、エネルギーと質料でできているからです。同じものです。本質は一つです。ただその実感の度合いが違うだけなのです。

確かに、本質は同じですが、「明日からおい、知花」と言わないで下さいよと言われました。実感の度合いが、自覚の深さが違うからです。

あなたは、神だと聴いてああそうですか、という浅い知識実感で終わってはなりません。深く深く、井戸を掘るように、深く実感を求めて行かねばなりません。私も含めてそうです。

何を言いたかったかと言いますと、みんな神から出てきて神に帰る神の子だと。また、本質においては、神そのものだと。今の今神だと。誰でも神我を実感し、体験することができるんだということを言いたかったのです。

それを、今生、知花先生は示してくれました。道を示してくれました。それは、神が知花敏彦と言う肉体を通して「はたらいた」からです。

みなさんもそうですよ。神を受け入れ、愛すれば、それがあなたを通してはたらくようになるのです。それが、今生の目的です。知識や金儲けのための人生ではありません。今生、目覚めのための人生です

それは、守護者です。知花先生が、我々の「守護神」となります。
(分離の)知識は悟りに非ずです。

逆に、知識(偽我・分離の間違った知識)を落として、空っぽに、身軽になってください、
知識(偽我・自分がやったという意識)は悟りの妨げですから。

悟りとは知恵。叡智そのものなんです。
あなたは叡智、智慧の守護者。化身です。
叡智の化身です。それを忘れないように。
・・・あなたそのものが神そのものです。 by.知花敏彦

人間の皆さん、こんにちは。
私達、気の元素であるシルフ(Sylph)が、今日、皆さんにお話しをしに来ました。

人間の耳に私達の声を届けることができて、光栄に思います。
私達は、皆さんが気がつかなくても、いつも皆さんを通り過ぎて来ました。

耳元で囁きかけることも、よくあります。
中には、私達の声聞いたことのある人もいますが、残念なことに、何を聞いたのか理解できる人はほとんどいませんでした。

この何千年もの間に私達が言って来たことは、私達は皆さんの呼吸を空で感じるということです。

悲しみの息を吐く時には、私達も悲しくなり心配します。
ビクビクしたり、怒ったりする時は、その感情を感じて、楽にして上げたいと思います。
素晴らしくも幸せの息をする時は、私達も喜びを感じて、一緒に喜びを感じたくなります。

しかし、私達の命の周波数は違うので、私達にできることは、皆さんの呼吸する時の思いや意図を表わすことです。
皆さんの歌で燃え、皆さんの涙で萎(しお)れます。

呼吸する時、考える時、笑顔になる時、悲しむ都度、皆さんのエッセンスが空中に解き放たれるのを知っていますか?

元素としての私達は、皆さんの呼吸に合わせて創造しなければなりません。
私達は、哺乳類に酸素を、植物に光を供給するので、私達シルフは、生きとし生けるものにとって決して欠くことはできません。

友人の植物は、私達のしていることをよく知っており、私達の動きに合わせて体を揺すってくれます。
動物達は、私達の存在を認めており知っています。

人間は、私達を妖精とか菌、ウイルスなどと呼んで来ました。
私達を打ちのめして来た人がいる一方、特に子供のように私達と遊びたい人達もいます。

私達については、色々なことが書かれています。
それを見て、とても嬉しくなります。
しかし、私達がマザー・ガイアの大気を綺麗にし、いつでも周波数を上げることで役に立っていることを知る人はほとんどいません。

私達には、大都市の空気は本当に耐えがたいので、人気(ひとけ)のない所で働くのが好きです。
私達の多くが、実際に大気汚染で追われて来たので、都市部については交替で働いています。

かつては、人間が私達を尊重して、綺麗な空気にしておこうとしていた時代がありました。
しかし、それから、そういうことをしなくなりました。
その時、それが、私達の過(あやま)ちなのか、それとも、人間自らの私利私欲で、我を忘れた結果なのだろうかと思っていました。

私達の求めることは、単純です。
空気にもっと多くの愛の呼吸が広がって、汚染した空が変わる手助けをして欲しいのです。

一時、機械によって私達の電離層が酷く破壊され、崩れた時がありました。
私達の上司である精霊は、人間はそのようなことを止めつつあると言いますが、そうであれば嬉しい限りです。

私達の友人の多くが、そのような恐ろしい機械によって失われました。
私達シルフは、実際のところどんな機械もあまり気にしていませんが、人間がもっと機械の音を静かにして、空を埋め尽くす巨大な母船のようにクリーンにしておくことができないものかと思っています。

宇宙船の存在達は、私達を見ることができ、コミュニケーションもできます。
宇宙船にいる存在は、もっとよくなるので、もう少し辛抱して下さいと言って来ました。

多くの人が、実際にガイアの美しい場所を守ろうとしています。
それで、空は綺麗になり、植物や動物達の調和した思いで一杯になります。
その時に、私達は、ガイアの大気を最高の状態にする計画を進めることができます。

私達の好きなところは、海や森です。
水や木々が、彼らの命の素を私達に提供してくれるので、そこにいるとゆったりできます。
ただ、公平を期して、私達の空を見上げて、その透明さや美しさに感謝をしている人達もいるということを言っておきたいと思います。

その人達の感謝の気持ちを感じる時は、私達のエネルギーは生き返り仕事を続けられます。

そういう人達は、私達の友人です。
私達のしていることを知っており、たくさん手助けしてくれます。

汚染されるのをコントルールすることはできないかも知れませんが、その人達は、私達に無条件の愛とバイオレットフレームを送ることはできます。
私達は、そういうことに本当に感謝します。

人間にはこちらが見えなくても、私達には、皆さんがはっきり見えます。
また、直ぐに皆さんの意図を感じることもでき、“沈黙しながらも、知っている”もの達と、皆さんを知ることができます。

私達はどこにでも存在し、情報が空全体に反響するので、感知することができます。

私達は、ガイアの様々な生命達から、多くの思いや考えを吸収します。
ガイアにいる存在は、思考するのです!

動物も、考えます。
鳥も、考えます。
植物も、考えます。

動物も植物も、それぞれが感じ、振動しながら考えるのです。

人間以外は、波動で考えます。
ほとんどの人間は、その波動を読むことはできませんが、私達シルフは直ぐ分かります。

空にある思考パターンで、鳥が渡って行くことや、動物が水辺を探したり、お互いを探すことも分かります。

空にある思考パターンが天候にも影響します。
人間には、それが空の波動に影響することは分かりません。
しかし、子供達の多くは感じることができます。

残念なことに、大人になると、その力を忘れてしまいます。

原始、または古代社会では、もっとよく陸を歩き、海を渡れるように天候を判断し、「今の全体」から情報を得る為に、このパターンを読むことは極めて当たり前のことでした。

空の話すことを聞くと、たくさんのことが学べます。
また、私達を呼んでくれれば、エネルギーパターンを読み解くお手伝いをします。

しかし、空にあるケムトレイルによって、かつてのように読むことができません。

この白い筋は自然にできたものではないと、人間に分かってもらおうとして来ました。
事実、その筋状のものは、人間や植物、動物、私達シルフにとって有害な化学物質なのです。

空を傷つけたい人間がいますか?

私達に話しかけられる人は、その問題を食い止めようとしていると言いますが、私達よりも“破壊的な物質”をコントロールできません。

幸い、新しくて、非常に高い波動が空に進入しています。
私達にはそのパターンが分かり、その中で休むことが好きです。
それは、愛と喜びが溢れているのです。

宇宙船にいる友人や上司達は、段々この新しい光の周波数が大気に広がって行と言っています。
それにはワクワクし、それで変化に備えようと思います。

不満を言うつもりはありませんが、高い空で生きようと思います。
高い空とは、新しい光のある空です。
何千年もこの光を待ちに待って来て、そうなることを熱く望んでいます。

新しい空を見ることができる人も、いるかも知れません。
その時は、私達がいることが分かるでしょう。
私達を見ることができたら、どんなに素晴らしいかと思います。

でも、私達には、とても理解できない人間がいます。
その一方で、親友である人達もいます。
その人達は私達に語りかけ、私達の話すことに耳を傾けます。

そのような人達が、これから直ぐに増えていくと思いますか?

本当に、そう願っています。
そうすれば、私達は手助けができます。

怯(おび)えた人間というのは、自分達の機械から手当り次第に空に廃棄物を捨てて植物を窒息させ、鳥や動物達、昆虫達を病気に陥れます。

私達の手助けをしたい人がいれば、心から感謝します。
頻繁(ひんぱん)に私達の空を見上げて、「ありがとう、シルフ。素晴らしいことをしていますね。愛と感謝の気持ちを送ります」と言って下さい。

嫌なケムトレイルを綺麗にする手助けができれば大変結構ですが、皆さんの考えることや感情が空に抜けて、私達を助けるということも忘れないで下さい。
だから、無条件の愛とバイオレットフレームを送ってくれませんか。

私達の為に、そのことを覚えていて下さい。


アセンション研究所から引用させて頂きました。
心から感謝申し上げます。有難うございます。


全ては神 何ぜ5 をご紹介させていただきます♪

 そういえば五井先生の前世が『親鸞聖人』なのは有名な話ですが、その前にもう一回お坊さんの前世があったそうですので、その前ということになるのでしょうか?
 五井先生のご著書ではその点について、言及はなかったように記憶しておりますので以外と知らなかったのかもしれませんね♪

 あの聖書で有名な『洗礼者ヨハネ』が、五井先生でついに解脱したという悠久で壮大な輪廻転生ストーリーがまた明らかになりましたね♪
 知花敏彦さんのお話の奥深さは、他のスピリチュアル話と比べて飛び抜けていると思います♪ 本当に素晴らしい内容ですからぜひ一読してみてね~♬


一部抜粋ですが・・・全文はリンク先で見てちょ~♪

外なるものが内なるものを認めた時、外なるものは内なるもののようになる。即ち『人格神』となるわけです。人格神とは何かと言うと、人間の姿・形をとった神となるという意味なんです。それを、皆さん方が為さねばならない。

だから、理解力が必要なだけであって、その野菜を食べないと悟れないよとかね、神になれないよと言うのは、これは真実ではない。

その為に、バプテスマのヨハネは禁欲主義者だった。ね、肉を食っちゃいけない、牛乳を飲んじゃいけない。何を食っちゃいけない、非常な禁欲主義者。女をまとってはいけない、
ということに非常に禁欲主義で、非常に知識的に優れた方だったのですね、
バプテスマのヨハネは。

で、禁欲者の禁欲、禁欲で、本当の、禁欲してる者も、しない者もそのままにして神であるという真実を悟らなかった。だから、彼は再び生まれたのです
から引用させて頂きました♪

酸素と水素


たくさん酸素の入っている水と、少なく入っている水と、どちらがいい水ですか?
溶存酸素の多い水と、溶存酸素のない水と、どちらがいいのですか?
「酸素」が多いってことは、何が多い?―エネルギーが多い。

だから、酸素の少ない水には、魚は生きられません。
なぜ? ―魚も酸素を吸って生きている。
我々も酸素を吸って生きているんです。

その酸素は水の中にも、固形の中にも、空気中にもあるってことなんです。
すなわち、気体であり、個体であり、液体なんです。
いたる所に酸素はましますからです。

だから我々は、どこに行っても酸素を吸うことができる。
息を吸うことができる。

だからあなたの酸素、私の酸素というのはない。
わたしが吸っている息と、あなたが吸っている息と同じ息なんです。
それを、一息といいます。

じゃ命はいくつあります? 一つしかない。
一命を取り止めるといいますけれども、その酸素が生かしている。
だから物が腐らないためには、酸欠を起こしてはならない。

酸素が物を腐らすよというのは大ウソつきなんです。
あなたの肉体に酸素がなくなったら、ウジがわきます。

死体には、何ぜウジがわくかというのは、そこには酸素がないからです。
酸素を吸ってないからですよ。あなたの首を絞めたらなぜ死ぬか?
窒息と言いますけど。酸素が切れるからなんですね。

酸素が切れることを、皆さん死と言ってます。
じゃ肉体という物体が生きているなら、酸素が切れても生きているんじゃないですか?

生きてます?
じゃ肉体という物体は、酸素の住処じゃないですか?

酸素というのはエネルギーなんです。で、光なんです。ね
だから皆さん方は、いい水と悪い水の識別は、この水に
酸素の多い水か、酸素の少ない水か。

酸素の多い水に魚を入れると、ぴんぴん泳ぎます。
酸素の少ないものに魚を入れたら、死んでしまいます。
あなたも同じことだと思う。

息切れしないように、酸欠を起こさないように、気を付けていただきたいと
思いますね。

人間とは、人間の形をした、水素と酸素だと言っても過言ではない


【関連する記事】

神は宇宙の愛の法則である


 陰陽のバランスを神というのですから、今までの宗教家の説く神はどこにも存在していないといえます。

「われわれの神」の宗教家は唱えますが、元来「われわれの神」はありません。全体の神があるだけです。陰陽の法則は全てに存在しているのですから、神は至る所に存在しています。

 どんな微細な一粒子も陰陽の法則に基いて存在しています。これを「宇宙法則」といいます。神は宇宙の愛の法則でもあります。

 宇宙には愛の法則が絶対に実在しています。陰と陽の愛の法則によって、全ての万世万物が生かされていることをよく理解して頂きたいと思います。

 陰と陽の法則を宿していない人間がいるのでしょうか?偶然この世に出てきた人間がおりましょうか。エネルギーという、プラスとマイナスの質量で、陰と陽で私達の肉体形体は存在しています。

 そのバランスで存在しています。バランスが崩れると病気になります。バランスが破壊されれば死に至ります。

 ですから、病気は不調の結果となるのです。何の不調和の結果と言いますと、陰と陽の不調和です。陰陽の法則を犯さないことです。

 罪なき者は中性でなければなりません。みなさんがたの肉体の一つと考えてみると、エネルギーと質量との調和で肉体は調和しています。生命エネルギーと質量のバランスを崩さなければ、どなたでも健康でいる事が出来ます。

 
真のピラミッドパワーはすべての病気を癒す

 世の中にはなぜ病気があるか、人間はなぜ死ぬかと追求する人はいません。病名は数多く存在していますが、何が原因で人間が病気になるかわからないのです。

 病気の原因は、不調和が病気の原因ではないでしょうか。では、健康であるためには何が必要ですか?調和と合いが必要です。愛は全ての癒し主といえます。癒しのエネルギーといわれているわけです。

 今まで不調和な生活をしていた人は、心を改めなければなりません。不調和な人が、調和を取り戻すと、どなたでもエネルギーが上昇します。

 これが私の言いたいピラミッドパワーです。
ピラミッドパワーとは中性パワー、愛のエネルギーを意味するものです。


ピラミッドパワーは物を腐らせない

 ピラミッドの中に物を入れると腐らないのはなぜでしょうか。それは、中性であるため腐らないのです。不調和だから物が腐るのです。

 酸化によって物は腐ります。それと同じく、腸の内部が酸化状態になりますと、お腹が痛くなりますし、ガスが溜まって大変なことになります。

 皆さん方は今まで自分のエゴでさんざん色んな不調和を起こしてきたと思います。不調和である限り、病気がなくなることはありません。

 この世が不調和になればなるほど、沢山の病気が出てきます。世の中が調和されればされるほど、病気がなくなるのです。

 今の状態のままでいますと、いくらおおぜい医者を養成しても間に合いません。医者も根本的に人の病気を治しているのではありません。
 
 結果対処療法と言いまして、原因がわからないから結果だけを取り除けばよいという考えで治療しているのです。この方法では中々埒が明きません。

 医者が結果を取り除いても、病気になる原因が残っているので、また新しい病気が出てきます。病気の根を摘み取っていないのですから、次から次へと病気は芽を吹き出してきます。

 これではお金の無駄遣いというものです。お金の無駄遣いをしないためにも、まず心を調和させなければなりません。

 心が原因で病気になったことを知らなければなりません。心のバランスが崩れると、肉体もまたバランスを崩すわけです。これが病気の原因であると知るべきです。


全知全能の智恵「コスモ細胞」

宇宙にはエネルギーが一つだけ、
それが無限大に存在しているのです。
宇宙生命は宇宙に一つしかないのです。
すべての万象万物は唯一の宇宙生命によって生かされているのです。
心は宇宙に一つしかないのです。

人間が勝手に自分は宇宙生命ではないと
分離感を持っているだけなのです。
創造主が唯一神であり、人間の命は創造主の命なのです。
人は初めから神であり、今も神、未来永劫に神なのです。
こんな簡単なことを現代人は理解していないのです。

誰もが全知全能の智恵「コスモ細胞」を持って生まれます。
創造主はその人が父親に選んだ人の精子の一つに、コスモ細胞を植え付けるのです。
コスモ細胞は創造主の全知全能の智恵を完全遺伝子として持つ細胞です。

コスモ細胞は心臓に位置します。
出産のプロセスは、初めに創造主の分身、全知全能のコスモ細胞ありきです。
次に退治に宿る赤ちゃんの個別魂があります。

そしてコスモ細胞と魂と肉体の複合体が人間となるのです。
創造主の分身コスモ細胞は創造主そのものです。
自分の心臓の後にあるコスモ細胞が無限の宇宙生命そのもの、
これが神というもの、神を我として生きることが悟りなのです。

想念波動DVD (知花敏彦 1993.2.3 清里講話)


深い瞑想状態―― (想念波動より)

えーいちばん深い瞑想状態に入るという意味は、これを深い沈黙といいますけれど、そこに一点の形も見えたり考えたりしてるなら深い沈黙じゃないのですよ。

神は無形にして無双ですから、何の形もないのですよ。無限の広がりなんですね。無形無双の宇宙を体験いたします。

あなたが瞑想している五感という肉体を感じてるなら、深い瞑想状態ではありません。
もう肉体を感じなくなって普遍的な大気に融合しますと、そこには無限の広がり、広大な宇宙が存在しています。

そこにはこの小さな偽我というのは存在していません。神一元・神我一元と言う広大な普遍的な自分を体験するんですね。

その時、この三次元という世界から全く解放されているので、この世の思いというのも一点も、頭にも心にもありません。これが深い沈黙なんですね。
この世の思いというのも全く切り離されるんですね。この地球でさえも消え失せますよ。

その時もう、自分も全くきえてなくなって、地球でさえも消えてなくなって、全ての形態がが消えてなくなって、そこには不可視の広大な宇宙が存在してますね。

これを沈黙の力と言いまして・・・その時、七つの霊的中枢から愛光と言って、太陽の何百倍と言う光を放ちます

その時、この世の太陽がお月様みたいに曇って見えます。なぜかと言うとあなたの霊的・宇宙太陽の方が光源を増しているからなんですね・・・

これが中心☉・霊太陽ですから。
霊と言うことは、太陽と言うことなんですよ。太陽神といって・・・
われは世の光りなりと言って・・・その時想像を絶する光が出ますよ。

私はその太陽の世界にいる時は、この世におりません。私は今朝ここに降りてきたようなものなんですよ。ここにくる5分前まで私はその光の世界にいたのです。


そして、肉という形の世界を意識した時、私のバイブレーションが下がってここに降りてきたようなものなんです。
外を意識している時は、外におるし、内を意識してる時は内におるのです。

これはどなたでも可能です。ぜひ体験してください。
光りが現れれば、ニセモノは消える。この形と言う偽物はすべて消えてなくなります。ぜひ体得して体感してください。ありがとうございました。
  


覚者・知花先生による
水の非常に為になるお話

 宇宙に遍満している生命、即ち、電気はその水を通して現れるのです。

「若い人は瑞々しい」といいますが、その電気が溌剌として生きていますから瑞々しいのです。特に、子供の身体には水が80%以上ありますから、子供は電気そのもの、エネルギーそのものです。

 子供は電気人間です。
「子供は光の子」というのはその意味なのです。
故に、水はできるだけ良い水を多く飲むことです。

 人間の1日の水の消費量は2.5Lです。
その、2.5Lはどうしても必要なのです。
しかし、2.5Lの水を飲めという意味ではありません。

 あなた方から出る、大小便、汗、息からでる水分を含めて、1日にこれだけの水があなたの体内から放出されるのです。
 放出されていますから、それだけを補わなければならないのです。

 その補うという事は、あなた方の食事から補わなくてはなりません。だが、食べ物に関するものだけで、2.5Lを補っているかという事が問題です。しかし、それを補っていなければ、毎日毎日、水分が少しずつ体内からなくなっていくのです。

 これが、老化現象を起こしている原因であるのです。
あなた方が、生まれた時から最後まで、2.5Lの水を欠かすことなく補っているならば、老化現象を起こすことはありません。

 水を取ってきますと、夜、小便が近くなるから嫌だと言って、水を飲むのを控えます。そうすれば、余計に水分がなくなって老化現象を早めるのです。

 その水が、細胞の合間を洗い、血液を洗い、
          血管の中を洗い、腸の中を洗います。

 細胞の中を洗った水は、汗として出てきます。
 血管の中を洗った水は、小便として出てきます。
 腸の中を洗った水は、大便として出てきます。

 小便が濁っている時は、小便の量が少ないのです。
水が少ないということです。
多くの水で、血液、血管を洗えば、小便は濁る事はありません。

 それ故に検尿すれば病気がわかります。血液が汚れているか、汚れていないかすぐ分かるのです。
 
 あなた方の体内の、
それらの浄化作用を起こしているのが、それが水なのです。

 細胞と細胞の合間を洗い清め、血液と血管を洗い清め、小腸と大腸を洗い清め、水が浄化作用を行っているのです。

〈あなた方の水分が欠乏しているか、欠乏していないか〉
それを知るのには、朝起きた時の小便を見れば分かります。

 透明で綺麗な小便ならば、水分が満ち足りています。
茶色く濁っているならば、水分が欠如しているのです。
水分が少ない人の小便は、必ず濁るのです。

 このの濁り方が濃くなると、膀胱炎となり小便は出なくなります。
濁った小便をいつも流していますと、膀胱腺という非常に細い腺に胆石が溜まるのです。
 それは、水が少ないからその現象を起こすのです。
 水を多く飲んでいれば、膀胱炎を起こす事はないのです。

〈あなた方の血液が綺麗であるか、綺麗でないか〉
血液が弱アルカリ性であるか、酸性であるかという事は、水をあまり飲まない人は黒い血液となり、酸性血液となるのです。

 水が嫌いであまり飲まない人は、血液が濁って高血圧となるのです。
そうなりますと、心臓に負担が掛かってくるのです。
 血液の濃度が濃くなっているがゆえに、物凄い力で押さないと流れないために、高血圧となるのです。

 高血圧と心臓負担とは、一つで同じものです。
それは、水をあまり飲まないから、それが原因となっているのです。
 それに合わせて、水の質が良くないことが、その原因にもつながっているのです。

 悪い水で体内を洗浄したとしても、それはいいはずがありません。
良い水で体内を洗浄すれば、健康は保たれるのです。 
故に「水が大切だ」と、私がいつもあなた方にいうのはその意味なのです。

 

おまけ情報ですが・・・♬



の記事から引用させていただきました
エイブラハムやセント・ジャーメインの良質チャネリング情報が満載なのでぜひリンク先を見てね~♪

一部引用ですが・・・♪


「大量の水を飲みなさい。
あなたの体の全ての細胞は
ほとんどが水でできていて
水を飲むことは
体のエネルギー伝達に影響を与えるから
全ての細胞に有益に働く。

水を飲めば飲むほど
エネルギーがもっと容易に
流れるようになる!」

バシャールは水を飲まないと、新しいステージへと
急速に移行しているこの時代を生きている私達は

この変革の時代の高いエネルギーによって
燃え尽きてしまうと言っていました。



ある女性はアトピー性皮膚炎がとてもひどかったけれども
ある日から毎回水を飲む前に
「肌をきれいにしてくれて有難うございます。」と
水に対して言ったそうです。
 
水だけではなくて
お茶やコーヒーやお味噌汁など
何でも水分を摂る前にはそう言ったそうです。
 
そうしたら数カ月後に
皮膚の表面にかさぶたがいっぱいできてきて
最後にそのかさぶたが全部とれて

すっかりきれいな皮膚になったそうです。
 
小林正観さんはその話を聞いて、自分もやってみようと思い
毎回水分を摂る前に
「若返らせてくれて有難うございます。」
と言ったそうです。
 
そうしたら50歳過ぎのときに半分白髪頭だったのが

なんと!1ヶ月で真っ黒になったそうです。
これってすごいよね!


これはいいことを聞きました
私も早速、毎回水分を摂る前に、
「波動を上げてくれて有難うございます」と言いながら飲んでま~す♪
…………………………………

スピリチュアルな視点から見た☆地球人に最適なベジタリアンレベルのお話

肉とお魚の違いについて少しお役に立てそうなお話をしちゃいます♪


 実は高次元な宇宙人の方々も、魚はたくさん食べているそうでありまして、お魚や魚介類は全然食べてもよいのでは・・・と私は思うのです。

 プレアデス星人も、水星人も、金星人も、魚は食べてますし、地球人がお肉を摂るような感じで食べているとUFO研究の第一人者である久保田八郎さんの本でも書いておりました。

 しかも、あまり過激な菜食家はオーラが逆に弱くなったりするそうですから、魚介類を摂取するベジタリアンくらいが、一番、健康的にも、オーラの輝き的にも妥当なところではないでしょうか。

 地球人より遥かに波動が高い高次元な宇宙人も魚を食べているのに、地球人が無理をして魚まで我慢するというようなマゾな事をしなくても(笑)
・・・なんて思っちゃったりしたものです♬

 魚は痛覚というものがないそうでして、死ぬ時もマイナスの感情をもたないそうですから、動物のように波動が下がるということもないそうですし、きっと食べても問題ないでしょう♪

 結構ベジタリアンの基準として、肉と魚を一緒くたにする方がいらっしゃいますが、それは厳密に言いましてかなり違うものでありまして、肉は動物の死ぬ時の苦しみの波動がありますが、お魚はマイナスの波動は特に無いそうです。

 ですので、魚を食べると特に波動が下がるということもありませんから、クジラのような大型魚は除いて、鮭やサバなどの小型のお魚に関しては潔く、楽しく、全く気にする必要もなく、食べて頂いて問題無いといえます。
 
 私なんて、肉を食べないようになってから、逆にお魚は今まで生きてきた以上によく食べるようになりましたからね♬

 ここ最近、母親が作ってくれたイカのゲゾ、エビ、しめじ、ツナ缶、などのダシの取れたカレーがあまりにも美味で、シーフードカレーってここまで美味しく出来るんだ~♬と感動して食して頂いたりもしました♪
ベジタリアンの基準についてのご参考になれば幸いです♪

「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

プロフィール

斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

 そのノウハウを全て無償で公開しておりますので、もし良かったら皆様も、小顔・高身長の翔平スタイルになって幸せで喜びに満ち溢れた人生を満喫して下さいね♪ 


 スピリチュアルと精神世界・悟り追求者の為になる、宇宙神理(真理)が学び放題な良質な情報を豊富にご用意しております。

 悟りの追求者の方々へ何かしらお役に立てましたならば光栄の極みでございます。修行中の創造主であられる貴方の素晴らしい人生に乾杯♪

究極の美顔法・小顔法「広瀬すずちゃんの横顔の秘密の記事」はこちらになります♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-3947.html

「大豆から納豆を作る記事をテンコ盛り盛り…盛沢山な記事」はこちらになります♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-4144.html

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