date :2019年05月
- No
- 3909
- Date
- 2019.05.26 Sun
無我の境地とは何か♪神は全ての全てありてあらゆるもの♪霊道が開かれた人♪あなたは宇宙に遍満する普遍的大霊♪万生万物を神が作って万生万物の中に神が宿っています♪知花敏彦先生♪
無我の境地とは何か
無我とは何かについて語りたいと思います。無我とは自分がないという意味です。本来の自分は存在していないのですが、私達は自分が存在していると感じて生きてるわけです。
しかし、本来の自分はありません。自分があるならば、自分に負けていますので、自負となります。自負とは自らに負けているという意味です。本来の自分はありません。
悟った方である、覚者の方々は自分は存在していないことを知っていますから、無我の境地になれます。では、自分がなくて何であるかといいますと、神がおわします。即ち、神一元です。大霊という神が、大生命という神が、全ての形体を作って全ての中に宿っています。
我々は形体は大霊が創って、大霊が宿っています。ですから自分は即大霊ですから、自分があるのではありません。
その大霊とは神です。「人間即大霊」「人間即神」です。人間とは人間の姿を取った神です。人間と神とは一つです。
そうなりますと、神のみが独存するということで、神の他には絶対に何もないことが分かります。これを何かといいますと、全(また)き神といいます。またき神とは全ては神という意味です。
「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」
イエス様は、「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」とい言われました。我々の肉の目で見ているすべての形体の実体はみな神でありまして、草花の中にも神が宿っているし、砂浜の砂一粒にも神が宿っています。
そして、神のものであるとは、神の他には絶対に何もないということです。
私にもいて神もいるとはいえません。そのようにいう人ならば、その人は迷いの真っ最中です。
大霊のみが実在しています。神のみが実在しています。大霊のことを皆さん方は大神様といいます。大霊と大神様はイコールです。即ち神霊です。大霊即大神様です。
我は神なりの意味
自分即神です。ですから「我は神なり」であって、「我は人間なり」ではありません。人間の実体は神です。私達は仮相に目がくらんで、その見えるものの実相・実体を見ていません。全ては神によってなれりです。
その神がすべての形体をお作りになり、すべての形体に神が宿っていますので、神の他には絶対に何もありません。ですから神が絶対者であり、絶対神です。
神一元という意味は、神の他には何もないといえます。これが理解出来た時に、神の自覚となります。神の自覚とは、自らが神だと悟ったという意味です。迷った人のみに人間はあるのであって、悟った時には人間は存在しません。
人間は実在ではありません。神のみが実在です。あなたの肉体はあなたがお作りになったのです。あなたは神です。
目隠しされていたものが落ちることを、目から鱗が落ちたという
神の他には何もないのに、私達は形に目がくらまされているのです。目隠しされてしまって、本質的なものを見失わされていました。形で目隠しされていました。
その見えるもので目隠しされていたものが、落ちること目から鱗が落ちたと言います。それを真実を観たといいまして、実相を観たという意味です。宇宙に遍満する大霊が、普遍的なものが、その個人、個人の全部の中に普遍が宿っているわけです。
大霊の中に人間がいて、人間の中に大霊が宿っています。全ての万生万物は大霊の中にどとまり、大霊は万物の中にとどまっています。
その大霊の中においての個人の存在ですから、私達は大霊の中におり、大霊は私達の中にいることになります。形の実体はみな大霊であり、神であるといえるわけです
霊道が開かれた人
霊一元・神一元とは、神の他に絶対に何もないという悟りを得た者、自分、自らが神であることを悟った者は、神の自覚の出来た人といえます。人間は形の世界で生きていますので、どうしても自分を神だと認めるわけにはいかないようです。
あなた方は神信者を見たことがありますか。世の中には沢山の神信者がおりますが、ほとんどの方々は神信者ではありません。
神信者とは神を受け入れた人のことで、入信状態とは、自分は神の中におり、神は自分の中にいるという状態をいいます。
自らが神であることを悟られた人間は入信状態です。霊道の開かれた状態です。自分と大霊とが一体であるという境地になった人は霊道の開かれた人です。
ですから、あなた方は今から大霊になるのではなく、初めから神であったし、今も神であるし、未来永劫神です。その他の何者でもありません。その他の何者であるか、考えることを迷妄というわけです。
「神がおわすが故に私はおわすのである」
イエス様は、「神おわすが故に私がおわすのである」と言われました。神がいなかったら、あなたはおりますか。かみはまたき神ということですから、神は全ての全て、ありとあらゆるものです。
ですから、我々がこの肉で見ているものは、神の化身です。すなわち、人間一人一人はみな神の化身であって、他の何者でもありません。
ですから、「人間は何か」と言われた時は、「人間の形をとった神」と言って下さい。
動物とは、動物の形をとった神です。動物をお作りになったのも大霊で、動物の中に生きて働いているのです。唯一不二の大霊、唯一不二の神しかおりません。
宇宙に霊はいくつありますか。ひとつしかありません。神霊・大霊・神の他は何もありません。この肉体をつくったのも神であり、肉の中に神が宿っていることを知っていて、大霊が肉体を作って、大霊が肉の中に宿っていると自覚の出来た人は精霊の下った人です。
あなたは宇宙に遍満する普遍的大霊である
仏教から言えば、霊道の開かれた人という意味で、霊との繋がりの出来た人です。すなわち神との繋がりが出来た人という意味です。それをあなたが認めた時、神が皆さんを通して働きたもうのです。
なぜ、神が皆さんを通して動かないかといいますと、あなたが神と自分は別だと分離感を持っているからです。
あなた方は宇宙に遍満する普遍的大霊です。「我は普遍にして無限」です。無限は宇宙大ですから、宇宙我です。そして普遍ですから普遍我です。大霊は普遍的大霊ですから普遍我となるわけです。
あなたは大きい存在です。普遍的存在です。自分が普遍であるという自覚の出来ている人を、普遍意識といいます。大霊は宇宙霊ですから宇宙大です。宇宙我になります。
そうなりますと、宇宙我、宇宙即我、我即宇宙となるわけです。ですからお釈迦様は宇宙即我という境地に到達されまして、全てが大霊であることを悟られて、不滅の仏陀、不滅の霊となられました。
神は一様(ひとさま)です。神々が様々な表現をしているだけです。我々は表現を見て、表現者を見なかったのです。即ち神理を見なかったと、神を見なかったことになります。
この、神理を見なくて現象にとりつかれている人間を、盲目の指導者といいます。
「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」
イエス様は「神は全ての全て、ありとあらゆるもの」と言われました。神は万物の親、万物の作り主です。
万生万物を神が作って、万生万物の中に神が宿っているわけですから、世の中に神の他に何があるのでしょうか。この世の中に神を宿していないものが一物としてあるのかと言いたいのです。
ですから、神こそ我々の父といえます。この肉体は作られたものであり、大霊は作り主です。作られたものの中に、必ず作り主である大霊が生きて働いておられます。
神のみが生きています。「神生きるがゆえに私は生きるのである」。ではあなたが働いているのですか、神が働いているのか、どちらですか。
神のみが働いています。ですから、私が働いた、私がやったといって嘘をつかないで下さい。「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」です。
人間が人間を産むことはありません。神が人間の生みの親です。霊によらないで、神によらないでこの世に人間が生まれる事はありません。神は万物の親です。万物の作り主です。全存在の本源です。
皆さん方働いている。それを自分が働いていると思ったら大きな間違いです。働いているのは、あなたの中の神がお働きになっておられるのです。
だから「神は偉大なる僕の方である。神は偉大なる働き手である。神は偉大なる農夫である」と聖書に訴えられているのです。
働いておられるのは、活動しておられるのは神であって私達ではないのです。
皆さん方の中に命という、あるいは御霊(みたま)という力が存在しなければ、皆さんはここに集まることは出来ないのです。
ここに足を運んでこられたのも神のお蔭であって、あなた方のお蔭ではないのです。神がいなかったならば皆さん方はここに来る事が出来ないのです。
こうして皆さん方がいろいろと学びを得るために、ここに集まりましたのも神のお陰なのです。ですから全て感謝の念の中に私達は生きなくてはならないのです。
そのことがわかりますと何をやっても無所得です。自らは無である(無我)ということが、自分の御業が無いということが分かって、働き手は全て神であられると分かった時、
〈神が私の中に生きておられるのだ。そして神が生きていればこそ御業が為し得るのだ。これは神の働きで神の御業なのだ〉
と悟ることが出来た時、皆さん方は無所得(無我の境地)となるのです。
皆さん方がそういう気持ちを、本当に謙虚というものが何であるかということが分かるようになりますと、偉大な悟りに到達しているのです。
あなた方の為している御業は、常に神が為している御業であるということが自覚できるようになりますと、そしてそこに自己限定がなくなりますと、
偉大なる知恵と力があなたを通して、無限大の人間の想像を超えるような知恵と力が、皆さん方の肉体を通して働くようになるのです。
これが「神我に生きる」ということです。あるいは「神我顕現」ということなのです。
神我というのは「神の我」あるいは「真の我」ということで、
「私達は実相に於(おい)て神であった。命であった」ということが分かるのです。
知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目
知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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- No
- 3908
- Date
- 2019.05.20 Mon
ジュリアン・シャルムワさんの「ワンネスの扉」会場での摩訶不思議話♪最新の悟り「神様を愛する」の理解で常時至福の境地に♪神様と繋がりを観じるマントラをご紹介♪
ジュリアン・シャルムワさんの
「ワンネスの扉」発売記念イベントの摩訶不思議なお話
私の体験ではないのですが、5月14日に「ワンネスの扉」の出版記念パーティに行かれたとある素敵な女性の体験談が実に不思議で面白かったので、ご紹介させて頂きます。
私も大ファンである、本山よろずや本舗 様の最新記事でもご紹介して頂いていますが、「ワンネスの扉」は大変内容が素晴らしいと評判な様です。
私も本山よろずや本舗 様の記事のおかげで、内容を深く知ることが出来てとても感謝しております。
ワンネスの境地をかなり上手に表現されていて、私の真理の理解からしましても、これは真実のポジティブな、人類の魂の覚醒を促進する素晴らしい体験だと感じました。
ジュリアンさんが、ワンネスの体験だけ心が読めたりするのか、もしくは、知花敏彦先生や上江洲義秀先生、または五井昌久先生のように、
通常時でも、「宇宙即我、我神なり、神我権限、神との合一」を維持されていて、いわゆる‥覚者としての能力を常時発揮されているのかは不明ですが、そこが知りたい所でもあります。
ですが、本の説明文等を観る限りにおいて、「覚者になった」とか、「悟りを開いた」等の記載がありませんので、まだ「ワンネスの体験」をしただけという事みたいですね。覚者になったというわけではなさそうです。
ワンネス(宇宙即我)の体験をして、神との対面をして、悟りを開いて、解脱をされたお釈迦様、知花先生、上江洲義秀先生、五井昌久先生は、覚者になられました。
覚者になられた知花先生や上江洲義秀先生、五井昌久先生と、「ワンネスの扉」のジュリアン・シャルムワさんとの違いは何なのか考えてみたのです。
そこの違いといえば、やはり色々ありますが、絞って一番の要因を突き詰めてみますと、「真理の理解」に起因すると思うのです。
⇓⇓⇓ 真理の理解が悟りだと説かれているご光話です♪ ⇓⇓⇓
ジュリアンさんの体験は、宇宙人との出会いがあったそうですが、どうも体験が先行して、真理の理解という点でまだまだ浅い印象を受けました。
ジュリアンさんが、知花先生や上江洲義秀先生の教えを学んで、深く真理を理解できるようになったら、きっと悟りを開いて覚者として覚醒されるのではないかと思った次第です。
幸いにして日本語が達者な方だそうですし、誰か教えてあげてはいかがでしょうか。ジュリアンさんの霊的進化に多大な貢献が出来るかもしれませんよ♪
では、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入っていくとしましょう。今回ご紹介するお話は、最近縁がありまして、知り合いになった素敵なヒーラーの女性の方の体験談になります。
非常に霊性の高い、神秘体験も私よりも遥かに沢山体験されているお方で、知花先生のCDも50話ぐらい所持されていて、真理の理解もかなり高いレベルにまで到達されている女性でした。
Aさんは神秘体験を多数体験されている霊性の高い方であります。
個人情報を特定されそうな部分は○○と伏せ字にしております。女性はAさん、不思議な人物はBさん、私はS(シンチョウ・グッド)さん、でご紹介してゆきます。
Aさんとのやり取りから抜粋開始……♪
Aさん
本日、東京より帰って来ました。○の○○あり、○○さんの○○参加、そして「ワンネスの扉」出版記念パーティ参加、○○で○○に触るなど楽しんで来ました。
「ワンネスの扉」では、90名近くいたと思います。ジュリアンさんは、とても素直な嘘のつけない、何故か日本人の感性とも会うような感じの方に思えました。残念ながら、マイクの調子や場所(お店)の環境が悪く、ほとんど声が割れて聞こえなかったのです。
UFOで有名という秋山さんという方もいらしていました。その方のお話しは、声も大きく説得力がありました。あっ、やっぱりUFO存在するのねと思えました。
「ワンネスの扉」では、ステージの段階が5まであると述べられていて、そこまで書かれているのは珍しいと私の隣の男性(Bさん)が言われていました。
その方を少し紹介させて下さいね。不思議な方(Bさん)に会ったという思いです。ご自分(Bさん)は、ステージ1まで行っており、
その状態がずっと続いている状態で、企業向けにコンサルタントをしており、的確なアドバイスが降りてくるそうです。
もう1人の自分が自分を観ている感覚でずっといるそうです。
話を聞くうちに、とうとう聞いちゃいました。おいくらで?と。月額○○円で毎月との事。自分が開けてから、自分の能力は経営向けだと分かったそうです。
ワンネスに入って、出てという人はいるけれど、それでおしまいで、その状態でどうするかというところまでは行けてない人が殆どであると。
パーティに集まった人もステージ1以上の人(ジュリアンさんとご本人以外)はいないようだと。
「こうして隣になったのは意味があるんです。こう言っては失礼なんですが、僕にとっては、貴方とあったのは意味は無いけれど(率直だ)貴方にとっては、意味のある事でしょう。」とのこと。
私はお話しを聞きながら、私に意味があったのか、もしかして、私を通してS様(私)と繋がっているのかなどなど考えてしまいました。
ご本人さんが、お名前お伝えしていいと言われましたらお伝えしますね。では、長くなりました。お休みなさい。
私(Sさん)
長旅お疲れ様でした。素敵な長旅を堪能されたご様子で何よりです。不思議なご経験もなされたようですね。
秋山眞人さんはUFO第一人者の方です。ブログで秋山眞人さんの記事を多数作成しております。ちなみに 秋山眞人さんのご著書はほぼ全部見たことがあります。
Bさんのお話、めちゃめちゃ素晴らしい意味のある体験でしたね。○○で有名な方のようですね。私は知りませんでした。○○の平和を望んでいるそうです。やはりスピリチュアルな感覚をお持ちの方みたいです。
私が関係あるのかは分かりませんが、A様がBさんに私のブログを教えてあげて、その方を通して真理が普及するなんらかの流れがあったり、
Bさん自身も、知花先生や上江洲義秀先生を知るいい機会になって、ワンネスのステージ5まで到達できるその一つの橋渡しの可能性も考えられます。
ビジネスをされていて人脈がある方ですから、真理を世界に広めるきっかけだったり、深い天上界の計画の一つなのかもしれませんね。A様はもしかすると、今まさに大役を引き受けているなんて…ことも♪
素敵で面白い長文本当に有難うございました。心から感謝申し上げます。ではおやすみなさい。
Aさん
BさんにS様のブログご紹介させていただきました。ご覧になるかはご本人次第になりますね。
S様は、ジュリアンさんの言うステージの表現が当てはまるのでしょうか?ステージで言いますとどの段階なのですか?景色が違って見えるのでしょうか、不思議です。
私(Sさん)
Bさんにブログを伝えてくださって本当に有難うございました。大変光栄で嬉しいです。ご覧になって頂ければ、本物の方ですから、きっと内容から波動の高さを感じて下さると確信しております。多分大丈夫でしょう^_^
私はどのステージかというお話ですが、自分で言うのもあれなのですが、私は直感力が抜群に良いのです。大事な時に大事な情報が脳裏にパッと閃くという感じでしょうか。守護の神霊の導きが淀みなく心に伝わるレベルには到達しているようです。ステージ0.8くらいかもしれませんね。
波動感知能力はワンちゃん並みに敏感です。一応ヒーリング能力が開花しております。アナハタチャクラがそこそこ開いている感覚はあります。レイキとはまた違うかも。
最新の記事で不思議な話が満載の長尾弘先生のまとめ記事を作成させて頂きました。長尾弘先生は多分レベル3位到達されていると思います。エピソードの不思議度が飛び抜けているので是非一読下さいませ。
~中略~
真理を理解すれば理解するほど、チャクラが開いていくというのが私の見解です。真理の理解は来世へ持ち越し出来ます。愛と調和の不動心になるために、洗心したり、明想をしたり、すべてを愛し全てを許すを徹底的に体得する、とかが一番の修行ではないでしょうか。
私も特に特別な修行などしなくても、真理を理解するように務める、洗心を習得して、すべてを愛し全てを許す、神を愛する等を徹底的に身に付ける、という修行で十分な気は致します。
超能力開発の方法としても、知花先生と上江洲義秀先生が一番効率的で、一番確実で良いと思います。愛はフォースです。
すべてを愛し全てを許す境地がその愛です。神との一体感、全てに神を観る、全てが私(全一体・ワンネス)が愛です。
あくまでも私の見解でありまして、それが正しいかはA様のご判断に委ねます。ご参考に慣れば幸いであります。
~~~ここまで♪
こういったやり取りをAさんとさせて頂いたのですが、いかがだったでしょうか。Bさんのお話が不思議度満点で面白かったですね♪
真理の理解が深まったお蔭で
常時、愛の光に包まれる感覚の境地に到達したお話
現在の私は、愛と調和の不動心のレベルがより一層高い境地になりまして、お陰様で、常に自分の周りが愛という霊光で満ち溢れているのを実感しております。
最近のある時、とある真理の理解で魂のレベルが進歩がしたのですが、それを境に、体が霊的な熱さでポカポカするようになりました。
三次元的な熱さではなく、霊的な心地よい暖かさです。アナハタチャクラ辺りが特にポカポカしているようです。
やはり、真理の理解が、チャクラの覚醒に繋がるという私の理解は正しかったんだなぁ…と思った次第です。
最近の悟りで、神様を心から愛した時に、神様から愛の波動が、自分に跳ね返ってくるという経験を何回もさせて頂きました。神様から「打てば響く」が跳ね返ってきたのでしょうね。
下の文章は、エドガー・ケイシーさんの言葉ですが、実はイエス様の御言葉でもあります。
「神様を全身全霊で愛する、隣人を自分の様に愛する」それに優るものは存在しない、とイエス様は仰っておられます。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の神なる主
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。
このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
私の最新の悟り…それは、神様を命がけの燃えるような愛、全身全霊で愛する事、実体験から、これは正しい悟りだと理解できました。
神様を観じたければ、神様を全身全霊で愛する…シンプルですが、真理のかなり深い理解ではないかと、そんな気がするのです。
私は恥ずかしげもなく堂々と、「神様を愛しています」と宣言します。
現在の私は、思い浮かぶときは、心の中で「神様、愛しています、有難うございます」と常時、心から思うように心がけております。
その理解繋がりで、神様との繋がりと強く観じれる素敵なマントラが完成しましたので、ご紹介させて頂きますね。
それは‥…「神様、愛してます、有難うございます」で御座います。
全身全霊をかけて神様を愛して、神様の愛によって生かされている事を自覚して、愛と感謝の気持ちを捧げる…そういった心境で唱えられますと、
きっと驚くぐらい神様を身近に、実感して頂けると、自身の体験から確信しております。ぜひ一度実践してみて下さいね。
神岡健先生の「光の祈り」と併用して実践して頂くと、更に効果を感じて頂けます。私も併用で実践しております。
「光の祈り」
神の光につながります
真理の光につながります
神と私は一つになり
神の光に包まれます
神に全てを委ねます
(七回唱えます)
そして、「全ての全ての存在に神を観ます」、何を見ても「神様、神様」なんです。そして、全ての存在に対して、「神様愛してます、有難うございます」と思います。
そうしますと、心がなんとも言えない至福感と幸せに包まれます。
愛するものは愛されます。全ての全てであられる神様を愛する者は、神様から愛されます。全てが神です。すべてが神が真理です。
すべてを神様と思って、神様を愛する事は真理に適っているのではないでしょうか。
私は、神様を命がけで愛した時に、神様の愛を身近に感じられるようになりました。自分の周りが愛の光で輝いている感覚さえあります。常時、神様と繋がっているような嬉しい感覚もあります。
もう一つ、これは私が一番お祈りとして使っている言葉なのですが、ご紹介させて頂きますね。
それは「神の御心である愛が、私を通して顕現なさいますように」で御座います。
こちらの祈りの言葉は、知花敏彦先生の……
「貴神(きしん)の想い、我が想いへとならせ給え」
「貴神(きしん)の言葉、我が言葉へとならせ給え」
「貴神(きしん)の行動、我が行動へとならせ給え」……
のマントラを、私好みに(笑)変更してみたものであります。言葉として神への真摯な想いが含まれている、美しい雰囲気が好きだったりします。
宜しければ、こちらもお祈りの言葉してご活用くださいませ。
神の御心の中に、この物質宇宙をお創りになられました…という事は、この宇宙は、愛の光であられる神の御心そのものではないでしょうか。
私は最近、無限の白光(神様)の中に、物質宇宙があるイメージを作り、「全てが神の中に存在する」とイメージし、常に「神あるのみ、全てが神の現れ」なんだと意識するようにしております。
そういった最新の真理の理解のお陰で有り難いことに、もともと良かった直感力や閃きの力がよりパワーアップしたみたいです。
こういった文章を書いている時も、文章が脳裏に浮かび上がってきますから(笑)実に不思議であります、滞る事なく文章が書き出せます♪
「神の想い、我が想いとなり、我が想い、神の想いとなる」神の御心と一つになっている状態といいましょうか……、
自然にいい文章が「操られて書いている」じゃなく、「自分の意識が神の想いと一つになって自然に書いている」という感覚でしょうか。
私が文章を書いているのではなく、私を通して神がお働きになられているだけなのだと…偉大なのは働き手であられる神であって、私は神の媒体にしか過ぎないのだと…そう理解していますから、自我が出る慢心に陥らずに済んでおります。ただただ神様への愛と感謝の想念状態です♪
もう一つの悟りとして、偉くなった自分があるのではなく、命の限りない現れである、神のみが存在するという悟りであります。
真理を理解して立派になった自分が存在するのではなくて、元々永遠に実在する完全なる愛そのもの、調和そのもの、絶対調和そのものであられる、神意識のみが実在する、真理を理解すればするほど、自我は存在しない、神のみが実在と分かっていきますから、自分は存在しないんだ…と、
神の表れとしての自分、神としての自分があるのみ、自分が神の現れなら、全てが神の現れなんだ…と、
全ては一つの命の限りない現われに過ぎないんだ…と、努力して立派になった自分などは存在しないんだ…と。
自分が命の限りない現れである神そのものであって、全ての存在がその命の限りない現れである神そのもので、その神との対面があるだけなのだと気づかせて頂きました。
分離意識を克服していきますと、知花先生の仰る所の「光の海の大海」ですね。一滴の水の状態(分離意識)を克服して、全一体という「光の海の大海」に入ることが許されただけなんだと、
元々あった「完全なる愛」の「光の大海」に入っているだけなんだなぁ…って、そういう理解が出来るようになって、より魂の輝きが増したように観じました。
その「光の大海」に入っている状態が、一切の闇の影響を受けない状態であり、生きながらにして天の住者であり、全一体であり、神様と相思相愛の至福の境地であり、「ワンネスの境地」なのだと……。
この「偉くなった自分は存在しない」に気づくまで、二回ほど、知らぬ間に自分が偉くなった…立派になったんだ…と勘違いした時に、絶好調で調和そのものだった意識状態が、何故かイライラしそうになったり、変な調子になってしまった事がありました。
この二回の経験を何とか、「立派になった自分は存在しない」と気付いて分離意識を克服したら、真の自己である、神そのものである完全なる愛が現れているだけなんだと…理解した瞬間(笑)、その変な調子が治ってしまった体験があります。
その二回目のより深い理解の時に、魂の輝きに大きな変化がありまして、それから強固な愛の不動心に変容したのを実感いたしました。
私のブログを通じて、Bさんがより深い霊的覚醒に目覚めて頂いて「ワンネスのステージ5」まで到達出来ることを心からお祈り申し上げます。
ブログを見て頂けてるといいのですが……あっ、身長を伸ばす方法もありますよ(笑)、それと広瀬すずちゃんの横顔になる方法もありま~す♪
皆様の霊的覚醒の一助になれれば幸いで御座います。ぜひ神様を愛して神様を観じて頂ければ幸いです。長文のご拝読有難うございましたm(_ _)m♪
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 3907
- Date
- 2019.05.13 Mon
長尾弘先生の仰天の福の神エピソード♪正法の光で商売繁盛♪親孝行は幸せの基礎♪念力と超能力♪痴呆と憑依現象♪光に満たされると病が消滅♪スムーズに極楽に行く為の心の準備♪正しい供養の心構え♪成仏して極楽へ行く秘訣♪悔い改めの大切さ♪あの世で父親に会った幽界話♪幸せの法則・償いの法則♪生き様・行ないが人の尊さ♪イエス様の偉大さ♪人を咎めない責めない事が自分を愛する近道♪人を褒めて幸せに♪長尾弘先生のとある霊との対話♪神理の光の前にボロを出した霊達♪摩訶不思議面白☆大爆笑秘話♪長尾弘先生の無我の境地♪反省会場に起きた数々の奇跡♪反省の功徳・恩返し・病の治癒♪長尾弘先生の神我覚醒☆宇宙即我・神秘体験話♪神の御姿・御心♪両親の親に反省する大切さ♪心行の解説♪目が何万ワットで光っている長尾弘先生の正法学びで綺麗な顔に♪神の御心は完全なる愛・完全な許し♪
偉大なるヒーラー☆長尾弘先生について
高橋信次師のお弟子さんで、長尾弘先生という方がいらっしゃいます。高橋信次師のお弟子さんの中では、園頭広周師と双璧をなす偉大なる覚醒をされた偉大なるヒーラーの方で御座います。
長尾弘先生は、自分の身を呈して、命を燃え尽くすぐらいの気迫でヒーラーとしてご活躍なされた方で、まさに高橋信次師と同様に命を神様にお捧げした、大変崇高で高貴な精神をお持ちの覚者級の聖人の方だと感じました♪
病状が回復する奇跡神秘話エピソード話が盛りだくさんあって、この手のお話が大好きな私にとっては、読み応え満点で面白かったです。
(命を燃え尽くす…つながりで…追記♪)
最近知った方なのですが、命を萌え尽くして、相談者として沢山の方々の命を救った佐藤初女さんという方がいらっしゃる事を知る機会を頂けました。
佐藤初女さんともご面識のある、とある優れたレイキヒーラーの女性の方に、初女さんの素敵な体験談を教えて頂いたのですが、もしご許可が頂けたら、その初女さんの知られざる神秘エピソードをご紹介させて頂けるかもしれません。続報にご期待くださいませ♪
(追記)佐藤初女さんの極秘エピソードの件なのですが、ネット上にも一切知られていない裏スピリチュアルな方が絡んでいる関係で、公開する事は控えてほしいとの事でした。期待してくださった皆様申し訳ございません。お許しくださいませm(_ _)m
ただ、少しだけお話しますと、佐藤初女さんは皆様のイメージを遥かに上回る、霊的覚醒をされている方だという事です。色々と摩訶不思議エピソードを教えて頂きました。
世の中のまさに…知られざる、スピリチュアル裏社会の一端を垣間見た…そんなお話を教えて頂いたのですが、お話だけで宝石のような価値があるなぁ‥って、そんなお話で御座いました。
もうね…、中丸薫さんの裏具合が可愛く見えるレベルです(笑)
FC2のブログは文字数制限がありませんので、長尾弘先生の記事を全部入れちゃいました。
文字数が半端ないのでちょっと重いですが、真理への気付きで、皆様の魂がより輝き…極楽浄土へ行く手助けになれれば幸いで御座います。
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
反省の体験
私は十年前、山の中で四日間程坐って反省させてもらいました。
「お母さんと自分」について反省させてもらいました。ずっと幼い時から振り返ってみますと、お母さんには色んな恩恵を頂いております。
しかしそれに対して私がそれだけのお返しをしてきたか、頂いたお母さんの無償の愛に対して、その万分の一もお返しも出来ていません。
それどころか、心配をかけたり、嘘を言ったり、怪我をしてお世話をかけたり、病気の時にはずっと我が子に付き添ってくれた、
そういうお母さんに対して自分が幼い時からしてきた事を振り返ってみますと、もう、申し訳なくて、羽があれば今すぐ飛んで帰ってでもすぐにお詫びをしたい、という心に目覚めてきたのです。
親から頂いた御恩というのはどれほどお返ししてもお返ししきれないものですね。しかしそれを当たり前の様に思っていました。
感謝する事も知りません。
そのお母さんに対してせめて万分の一のお返しでもさせて頂かなくてはという心に目覚めてきたのです。これが反省の功徳ですね。
そして山から降りてたまらなくなりまして、お母さんに電話をかけました。私もその時はこどもが大きくなっておりましたから、おばあちゃんと呼んでいましたが、幼い時の記憶に戻って反省させてもらいますと、自分の心がふっと幼い子の様になっていました。
電話をしますと、幸いおばあちゃんが出てきてくれたのですが、幼い頃私達は「おかちゃん」と呼んでいましたので、それでおばあちゃんの声が電話で聞こえてきますと、
「おかちゃん堪忍してや、堪忍してや、とても申し訳ないことでした」と、泣いてお詫びをしたのです。
自分では、そういう反省をさせてもらうまでは全く気付かないでいたのです。反省を通してお母さんだけではないですね。夫婦の場合もそうです。
子供に対してもそうです。その至らない、できていない自分に目覚めるのです。そして今度はその償いの為に善を行っていけば、それは必ず幸せにつながっていきます。
「家内と私」についても反省させてもらって、目覚めました時は、もう二時間ぐらい泣き続けました。ちょうど3月頃で、パッチ二枚とジャージのズボンを穿いておりましたが、目が開きますと、目に最初に入った2本のものがあり、
これは何だろうかと思いますと、鼻水が切れないで繋がって垂れていたのです。涙と、その鼻水とズボンもパッチ二枚も濡れて、座布団までボトボトになっておりました。
反省というのは、深く入りますと、自分の過ちの深さに目覚めた時に、涙と鼻水でグチャグチャになってしまうものです。そのような反省の涙は、自分の魂の汚れを流してくれる法の雨です。常に反省させてもらうのです。
反省の一例
道場の方に「反省させて下さい」といって次々に訪ねて来られます。最初はどなたも皆「私は何も間違いをしていませんが、なぜこんな苦しい目にあるのでしょうか」と言われます。
「幼い時から一度振り返ってみて下さい」と言って、反省をしてもらいます。1日や2日では中々出てきません。
ずっと続けて反省されますと、あるお方の場合は小学校低学年の頃に、お母さんの財布から十円盗んで、それでお菓子を買った事を思い出されたのですね。こんな事は反省しなかったなら、全くの記憶の底に沈んでいるのです。
そうしますと、お母さんはわが子の事はどんな事でも知って下さいます。子どもは隠してした事であってもお見通しです。お母さんが、我が子の十円盗んだ行為について思う事は、
「今ここで注意をすべきか、或いはお父さんに話すべきか、このまま放っておいたら又繰り返すのではないだろうか、家でお金をきちんと片付けたら、今度はよそのお金に手を付けはしないだろうか」ということです。
ましてや終戦後まもない頃で、お母さんは買い出しをしておられたそうですが、その買い出しの大事な十円だという事にこの方は気付かれたのですね。
反省しておられる部屋に私が入ろうとしましたら、その方は大きな声をあげて泣き叫んでおられたのです。その泣き方は幼い子の泣き叫び方をしておられました。それでもう少し泣いてもらおうと思ってそのままにして、
私は部屋の外に出まして、その後、もうこれくらいで自分の過ちに気付かれたのだからと思って、「どうかこの方の罪をお許し下さい。この方は自分の心に目覚められました。この方の過去をお許し下さい」と祈りますと、泣き声はピタッと止まりました。
私が部屋の中に入って行きますと、「お母ちゃん堪忍してや、堪忍してや」と全く幼い子の様に繰り返していました。自然にこういう文句が出てしまうのです。
この方は15.6年来、腰から下が筋無力症で全く動けなくて、松葉杖で歩いていても足を交互に降り出す様にして歩いておられました。その足が動き出して、全く健常者とはいきませんが歩ける様になったのですね。
反省をさせて頂くことによって、現代医学ではどうする事もできなかった下半身不随の無筋力症の病気が治ってしまったのです。
自分の中にそんな心の原因が遭ったとは、まさかその方も思いもかけなかったでしょう。しかし「反省」によってこんな不思議な例も見せて頂けます。
私も幼い頃を反省して泣き泣き懺悔させてもらいましたが、本当に反省をさせてもらいますと、涙が滝のようになって出てきます。そして鼻水も出てきますけど、鼻水も涙を拭う間もありませんね。
私達の心の中に知らずに曇ってしまったスモッグを、反省する事によって晴らすことが出来るのです。反省は、お釈迦様が私達の心の苦しみから救うためにお説き下さった心を磨く一つの方法ですね。
心が主で肉体は従
ある方から相談を受けました。
「私は元来、餅肌の様に白く綺麗な肌をしていましたが、こんな蟇蛙(ヒキガエル)の様にブツブツいぼのある体になっています。
O大学の皮膚科の偉い先生に診てもらいましたら、これは目に見えない霊に取り憑かれているのだから、医者では治らないと言われました」
と言うのです。
私もその背中を見せてもらいましたが、何とも言えない不気味な感じです。そこで色々と心の持ち方について話しさせてもらいました。
その方は「心を入れ変えます」と言われるので、
「では神さまにお願いしてみましょう」と祈らせてもらいました所、
見ている前ですっかり綺麗になったのです。
こんな事を言いましても、「瞬間に消えたなんて、そんな馬鹿な」と言って信じてもらえないでしょうが、私もわざわざ嘘をつきにここに来ているわけではありません。
また、こういう事もありました。24.5歳の耳の聞こえない女性の方が来られました。生まれつきの難聴なのですが、電話などとてもかけられなかったその方が、やはり心の持ち方を変えて治療をさせてもらいますと、その場で電話で話が出来るようになったという不思議な現象も現実に現してもらいます。
それは心の在り方を変えた時に、奇跡が現れるのです。今まで痛い痛いと言っていたのが消えるのは、心というものがいかに大切かという事を示しています。
心の持ち方や、自分の思うことぐらいでまさかと思われるでしょうが、私達の肉体を支配している心が変な方向に向かっていたら、肉体も又変な方向に向かうのです。心が主で肉体が従です。
皆さんにこの会場に来て頂いたのも、大阪からこういう人が来ると聞いて、心が納得押してその日を待って下さったからこそ、おいで頂けたわけです。
心で決めて集まって下さったからこそ、今こうしてご縁が頂けたのですが、もし「私はそんな話は聞きくない」と心で決定を下したとしたら、この場には来られません。
「思い」の力と「言霊」の力
想念、思いはものを造り出すのです。まさに、「思いはものを造る」といって、人間の思いはものを造る力を持っています。
悪い事を思ったら必ず悪いことが起こってきますし、良い事を思えば良い事が起きる。思いはエネルギーです。常に建設的な安らかな思いに心を満たしていく事が大事ですね。
心配はしだしたら切りがないものです。できるだけ正しく、できるだけ過ちのない思いを常に描くようにする事です。
私の幼い頃の友達で、恵まれた人だったから神も仏もないという考え方の人がいました。ところが、肝硬変になって寝たり起きたりの生活をしておられました。
この人がお医者さんから肝臓が悪いと言われて、お医者さんに病状を色々と尋ねるけれど、余りはっきり教えてもらえない。
そこで心配して医学書を読み漁り、更にお医者さんの勉強する本を借りてきて、肝硬変について勉強を始めたのです。
初期、中期を経て末期症状になると、手に持った箸がポトッと落ちると書いてある。恐ろしいなあと思っている内に、食事の時に、箸がポトッと落ちた。それを「ああ私は末期だ、いよいよあかん」と思って、
お医者さんに箸が落ちたと話した所、「そんなことはない、あなたはそんなに悪くないですよ」と言われて、その途端に病気が治ったというのです。
そんなもので、余計な心配で悪いように思っていくと、実際に悪くなっていくもので、非常に恐ろしい事です。
しかも、もっと恐ろしいのは人の言葉です。言葉は「言霊」といって物凄い力を持っています。ましてや信じた人の言葉は余計に強いものです。
私を信頼してくれていた或る方が、私よりも偉い方があると聞いて、その先生の所へ掛かって行かれました。私は全く自然のままに生きさせてもらっていますから、私の方に来て頂きましたら、どなたが来て下さっても平等にお迎えします。しかし去って行く人は後を追って行きません。
やがてその人のお母さんが半年も経たない内にリューマチが進んで悪くなって、再度私の所に来られて、実は母のリューマチについてその偉い先生のご指導を受けたという事でした。
その偉い先生は「私が天上界へ行って聞いて来てあげましょう」と言って、この話から今は数年前の10月の出来事ですが、
「来年の2月25日になったら最後だから精一杯尽くしなさい。これは私が神のご託として聞いて来たから間違いない」と言われたというのです。
これは大変な事、10月から2月までならと四ヶ月の命かと思って、家に帰って来てお母さんを含めて皆が信じたわけですね。
信じたものだから1月の末頃になると、完全に顔が死相を表してきて、もう死の寸前になっていたのです。そして死ぬ前にもう一度渡しに会いたいので顔を見せて欲しいという事で本人が来られたのです。
その後重ねて頼みに来られたので、私が行きました所、
「2月25日に死ぬという事なので、その前に先生に一度お会いしたかったのです」と言われますから、
「そんな馬鹿な事は信じなさんな。神さまがそんな無慈悲な事をどうしておっしゃいますか。信じたらあなたは本当に死にますよ。
人の命がいつまでなどと神さまはそんなことは絶対におっしゃいません。神は黙々としてその日までちゃんと私達を見守って下さいます。本当の神様の御心は慈悲にあふれています」
そこで「私が神様にお願いしましょう」と言って、その人に光を与えて頂きましたら、今まで明らかに死相が出ていたものが、瞬間にハッと生き返って来られました。
それから二年半経ちますけれど、段々元気になって来ておられます。言葉によっては人は自分の命さえ落とす場合があります。
次の話は私の先生である高橋信次先生がよくおっしゃっていたものです。人間は思う事ぐらい自由にさせて欲しいという事になるのですが、その点についての一例です。
電車の中で一人の紳士が自分の前に座っている美しい女性に目をやっている。その紳士の心の内をこちらから見ていると、初めはああ美しい人がいるなあと思っているが、その心が段々エスカレートして、この女の人を裸にしたらどんなだろうと思うようになり、裸にするだけならまだいいのですけど、
自分の思いの中でみだらな事を思っている。自由に思っている紳士の心の内が丸見えなのですが、いくら形、姿、恰好が良くても、その思いが出来ていなかったら、何にもならないという事です。卑しい思いを退ける事ですね。
今日は私は良い服を着させてもらっていますが、いつもはボロを纏(まと)っています。私が日頃あまり身を構わない面白い風をしているので、
「先生、これを着てください」と言って、頂いたのです。
頂けば着させて頂かないわけにはいかないと思い、今日は来て参りましたけれども、実は窮屈でしようがないのです。いつも本当に着の身着のままの姿で生活させてもらっています。
毎日の反省会
私は今日のように外に出ました時はおやすみですけれど、家におります時は、夕方6時15分から約一時間、今で五年になるのですが、この1時間は反省と祈りの時間として持っているのです。
最初は今助手をしてくれている二人の人達に「あなたたちの心の掃除をしましょう」と言って、二人の人を相手に初めたのです。
毎晩一時間半坐りましょう、これは私の心に問いかけますからあなた達も自分の心に問いかけて下さい、過ちがあれば明日の生活に正して下さい、という事で始めました。
○今日一日、腹を立てる事はなかったか
○愚痴を言う事はなかったか
○両親の恩を感じ、その恩に対して万分の1でもお返しができたか
○人々に心から慈悲を、愛を与えたか
○人の命は明日の保証のある者は一人もいない、その時が来て後悔のないような今日一日を過ごしたか
このように項目を作りまして、言わせてもらうのです。その後静かに安らぎの時間を持っております。
だんだんと人が増えてきまして、この頃では多い時で40名近く来られますが、大抵は20人ぐらい毎晩おいでになっております。
しかし来て頂く方は用事があれば休まれますし、今日はちょっと行って坐ってこようという方は来てくださいますね。
私は一日も休みがありません。特に辛いのは、心の中に良くない思いを持ったり、過ちを犯した時、自分が言わせてもらうのですから、これは針のむしろの上に坐るっているよりも、もっと辛(つら)いです。
今日はしたくないなあ、止めたいなと思っても、人が来て下さったら止めるわけにはいきません。私も凡夫ですから、「今日これがなければ楽だろうなあ」と思うこともあります。でも私のような者でも求めて毎晩来て頂くのだから勿体無い事だと思います。
見方を変えたら、私は大変怠け者で常に過ちを犯しやすい、皆さんよりも沢山過ちを犯して来た、そんな私でもこうして毎晩自分の過去の過ちを悔い改めれば、神はお許し下さるし、また未来の喜びを与えて頂く事ができます。そんな事を繰り返しながら、もう5年が過ぎました。
反省会場に起こった現証
先日来、とても不思議な事が起こっています。反省の後に禅定、感謝を安らぎの時間を持たせてもらっています。その時、その場にいた皆さんは聞いておられるのですが、何もない空間から声が聞こえてくるのです。
しかも地球上の言葉とは違う男の方の厳かな声で話されるのです。勿論日本語とは違います。英語ならばこれは英語やなあとか、これは中国語やなあ、インド語やなあぐらいは私も分かります。
しかし全然耳に馴染みのない言葉がずっと響くのです。そういう事がこの間から3回程ありました。
そして一昨日(おととい)の晩でしたか、禅定の一番最後に
「神よ、どうぞこの場に集う方に光をお与え下さい、全ての方々に調和と安らぎをお与え下さい」
と言って祈る言葉を唱えました時、テレビでUFOが飛んできた時にああいう音を流しますけど、突然ギィーという音が鳴り響いてきました。
そして一瞬、不思議な事ですがそういう音が響いてきますと、私の合掌していた手の形が自然に開いたり、ものを受ける形になったりして、それについて音の響きが自然に変わるのです。
皆さんの頭の中が一瞬しびれる程の大きな音が鳴り響いて、その後、
「ありがとうございました」と言いましたら、音はパッと止まりました。
こんな不思議な現象もちょいちょい起きております。
現証・理証・文証
なぜそんな事が起こるのかと言いますと、法に従って生活し、感謝を安らぎの中にいますと、この世の学問とか常識を超えた世界が現実に現れて来るのです。
これは正しい生活、安らぎの中に現れて来る現証で、その場に坐っておられた皆さん共に体験されておりますね。自分一人だけではないのです。
おとなしい方は身震いしたと言われ、又或る方は私の胸の中から鳴ってきたと言われ、人によっては、絶えず頭痛のしている方は痛い所に響いて、それ以後頭痛が消えてしまったなど、色々とおっしゃっています。
この様な現証は別にとらわれる事はないのですけど、正しい教えと言いますのは、それを行じた時、必ず現証が自然とついて回るのだそうです。
正しい生活の副産物ですね。そしてそれは理論的に証明できます。正しい教えには、現証・理証・文証(もんしょう)がついて回るそうです。
私は字を書く事は下手で、文証はとても駄目であろうと思っておりますと、このお話会のテープもちゃんと文字に起こして、今日までの分のコピーを送って頂きました。皆さんも非常に喜んでおられます。
この間も或る方が、このコピーしたものを読まれて「何か知らないけど泣けて泣けて、涙を流して読ませて頂きました」と喜んでおられました。
そのように文証も、私は十分書けなくても又録をもってこうして文字にして頂けるのですね。
喜びの現証
小学五年生の男の子ですが、牛乳瓶の底の様な物凄い強い眼鏡をかけているのです。視力は検査表の一番上のあの大きなのが0.1ですが、その字が見えないのです。
ですから自分の履き物さえ眼鏡がなかったら履けないのですね。勿論階段などあったら大変です。眼鏡がなかったらお尻で這って下りて来なければならない、そういう子が来られまして、「どうか安らぎをお与え下さい」
と祈りますと、瞬間に眼鏡が要らなくなりました。帰り際にお母さんが泣いて喜んでおられましたけれど、その子は元気にその子は遊びに行っておりました。これも一つの現証です。
全部そんなにうまい事はいきませんよ。その縁によって、そういう奇跡を現してもらう事があります。
四国の方で、24歳のものが言えない方が突然に耳が聞こえてものを言われるようになりました。これも現証だと思います。ものが言えませんし、耳も聞こえませんから聾唖学校に通っていたのですが、
全く聞こえなかったその方に、私の前に坐ってもらって「どうか光をお与え下さい」と祈りました所、突然聞こえてきたのです。
「聞こえます、聞こえます」と言われたので、皆さんびっくりして頂きましてね。こういう事も絶えず見せて頂きます。
今私の所に来てくれているSさんのお父さんが下半身筋無力症というのか、全身動かなくて、指一本動かす事が出来なかったのですが、祈りますと、
その晩から足が動くようになり、3日目には松葉杖も持たずに歩いて来られて「先生歩けるようになりました」と言われました。これなども奇跡と思います。
これらは見えない世界からのものであって、私の力ではありません。私以外の神の力が働いて下さって、信じられない様な奇跡を現して頂けるのです。
無我の境地、神の使徒
このようにお話させて頂いて、あちこち寄らせて頂くのですが、もう一睡もせず走り回っている時があります。それでも何ら疲れないですね。仏の常識で考えましたら、とてもたまらないだろうなと思われるでしょうが、
しかし疲れも知らないこのエネルギーは自分が自らを、自分の思いを全て捨てて、待って頂いている方に、たとえ一人でも二人でも安らいで頂けたら、喜んで頂けたらというその思いが、私のエネルギーになります。
仏教でよく「無我の境地」と言います。お坊さんが坐禅をされて無我の境地に到達されたとか、私は悟ったとか言います。
それも一つの無我ですけど、「自らの自我をなくした日々の生活」これが無我で、私には私の自我は何もありません。
他の方から私の自我について質問受けた時、私は次のように答えます。
「私のすべては神のもの、私のすべては人々のもの、私の時間は神のもの、そして私の時間は人々のもの、このように祈らせてもらい、このように実践させてもらっています」と。
自分という我を無くしてしまったら、その生活の実践は神の御心のままに為したことです。
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
東京・沖縄の旅にことを寄せて 幸せになる為には
東京・沖縄では、それぞれに偉い先生が難しい話をして下さいました。
私は難しいことは何一つお話できませんが、皆さんが聞いて下さってわかり易いと言われます。難しくて理解できない事を教えて頂いても中々学びにくいものです。
この間沖縄でも懺悔させて頂いた後でお話させて頂いておりますと、皆さんはお腹を抱えてひっくり返って笑っておられましたね。
『大笑いしながらも、ちゃんとその中に全てこの真理は含まれております』
と言って褒めて頂いたのです。
※或る先生は悟るというのか、自分の過去世を紐解いて、
神様から「あなたは法を説きなさい」と言われて、ボリビアから日本へ帰ってきてきたとの事です。 (※おそらく知花敏彦師の事でしょう)
まだ日本語もおぼつかない時に、「この日本で法を説きなさい」という神のご指示があり、「私にはとてもそんな事は出来ません。分かりません」と言って、何回もお断りになったのですけど、「天上界から協力しますから、あなたが法を説きなさい」という、神のご宣託があったそうです。
みな天上界から学ばれるそうですね。素晴らしい事です。しかし私はそんな事は一切できません。この間も沖縄で「先生の過去世の意識をもって話して下さい」と言って頂いたのですが、。そんな意識は出てきません。
出てこなくても、本当の神様の御心を述べ伝えますと、皆様が号泣されていました。なぜそういう短い言葉の中に感動を受けられるのかというと、ほんとうの神の御心だからです。
私が帰りました後、昼からのスケジュールは、別の先生の講演の登板になっていたそうです。昼食を食べて頂いている時に、その先生の奥さんが呼びに来られたのですね。
「実は主人がお腹が痛くて動けなくなっているのです。昼からの講演が出来ないので困っています」という事で、
「なぜ早く言ってくれなかったのですか。そんなのはすぐに治ります」と言って、その先生の所へ生きますと、ベッドに休んでおられました。
「お腹痛(いた)は治りなさい」と言いましたら、パッと治りました。すぐに治ったのです。「偉大な御業ですね」とびっくりしておられました。
昨日来の癒しは百五十人以上、仮に一人当たり三分要したとしても百人で三百分、三百分なら五時間はゆうにかかります。中には身動き出来ない方も沢山お見えになっていました。
お気の毒に三歳の男子の子で脳性小児麻痺を患って両足とも曲がって伸びず、手も曲がって生きながらのミイラの様な子でして、一生懸命に祈りました。
すると足が伸びまして、翌日になりますと、もう可愛い綺麗なお顔に変わっていました。手も普通に動く様になって、お母さんの喜びは大変なものでした。
東京でお会いした世にも不思議な超能力の先生が沖縄にもおいでになっていたのですが、皆で手分けして一生懸命汗を流して治療しておられました。
その方達が一人にかかっておられる間に、私は、5、6人終わっているのです。私の場合はただ「治りなさい」と言えば、皆治っていって下さるのです。
「どうですか」と聞くと、「いや、もう治りました」と、ご本人がそう言ってくれるのですから、これは間違いないですね。
「あの先生に診てもらったのですけど、またここが痛いのです」と言って、その先生に一生懸命治療してもらったのに、又私の方へ来る方もあるのですね。
その方もうまく治って下さって良かったのですけど、最後には治療を申し込んだ人は全部私の所へ来てしまいました。そういう喜びというのは得難い事です。
人様に治って頂く、苦しみから開放される時の喜びは何ものにも代える事の出来ない喜びです。人様に喜んで頂く事です。
助けてもらう、救ってもらうよりも、助ける側、救わせてもらう側に常に自分を立たせてもらう事です。愛の無償のご奉仕をさせてもらった時、不思議な奇跡を見せて頂く事が出来ます。
神様から沢山のものを与えて頂きながら、それをよう貰わないのが私達です。なぜ貰えないかというと、自分の心を曇らせて神の光を遮っているから、神様が下さるものをもらう事ができないのです。
神は無限の供給をなさいます。
毎月のお話会で500円ずつ頂戴するのを、私が着服してけしからんと怒っている方があるそうですが、これは事実無根のことで、現実に私の所には一円玉一個も入っておりません。
これは会計さんがちゃんと監督して下さり、年末の助け合い運動や、又役に立つ所に回させて頂いております。500円を私の所に入れても何の足しにもなりませし、またそんなさもしい心は持っておりません。ちゃんと神様が与えて下さいます。出しておけば、神様が入れて下さいます。
出すのを異様に惜しがる人がありますね。あれは出せば、一旦自分の前から消えますから損したと思うのが並の人間、普通の凡夫の思いです。
確かに現実には消えるのです。ところが、真理は出せば入る様になっています。どんどん出させてもらうと又、どんどん入る様になっているこの真理を知らないから、人はケチケチします。
「出すのは嫌、舌を出すのも勿体無い。貰うのだったら、人の葬式でも貰ってこようか」という人があります。現実にあるのですよ。
大阪のK市で20歳過ぎのちょっと精神薄弱の方がおられました。この両親が亡くなって、親がこの本員に大きい保険を掛けていたのですが、立派な親戚がありながらこの子の世話をするという人が一人もいないのです。
仕方がないので、大阪の平野にある施設に入れたそうです。
ところが、この子が交通事故でポコッと死んでしまうと、親戚中が「うちに呉れ」「うちに呉れ」と言って、その死体の奪い合いをしたというのです。
親戚中が「うちで葬式を出させてくれ」と言うので、町会長さんが「何と不思議な事があるものだ、なぜこんな事を言うのだろうか」と思ったら、その子に大きい保険が掛かっていたのですね。
葬式を一つ済ませたら、何千万円の保険金が入るのですから、死体でも欲しいのです。こんなさもしい方も現実にはあり、しかも親戚一同が揃ってそうだったのです。街中で一時は評判になっていたそうです。
人の心は様々です。同じお父さんお母さんからこの肉体を頂いても、その兄弟中で一人は心豊かであり、同じ兄弟でありながら心貧しい方があります。出すのは嫌い、貰うのは好きで厚かましい事この上ないという人ですね。
かと思うと、同じ兄弟でも遠慮深く謙虚でどんどん人のために尽くす方もあるのは、親は子に肉体を与えても、魂は与える事はできないという事の証拠です。
親は子に肉体は与えても、魂は与える事ができないという事の証拠です。親は肉体を与えてオギャーと生み出す事はできますが、魂まで生み出す事はできないのですね。いくら幼い子でも一人の人格者として、神様から
「あなたにこの子を委ねます。この子の修業に協力してやって下さい」と頼まれて授かったのが、私達の子供です。幼き子供は心に何の曇もありません。その証(あかし)として幼い子ほどどの子を見せてもらいましても皆可愛い顔をされています。
段々と成長する過程で心にスモッグを出していきます。そのスモッグがきれいな心の周りを全部覆ってしまいます。
自己保身・自我我欲などの思いによって、魂の表面がだんだん曇り、私達の心の曇った分だけ顔の相が曇ってきます。
だから、肉体は魂の表現体、この顔は魂の看板です。心が知りたければ、その人の目の中を覗いてみなさい。その人の内部がみな分かります。
そんな阿呆なとお思いでしょうけど、こうして見たらみな見えます。
いくら奥の方におられても同じ事です。意識を向けたらパッと分かります。これは何故かといいますと、心は全部底で繋がっていますから、そのほうに意識を向けましたら、全部分かるようになっているのです。
意識には、潜在意識、表面意識、超潜在意識とあります。海の上に島が沢山ありますが、それらの島は海底で全部繋がっているように、私達の表面意識は、各島々が海面に出て全く別であるのと同じで、各個性を持っていますが、超潜在意識は底でずっと皆繋がっていますね。
超潜在意識からいえば、皆の心が繋がっている事が分かります。ですから、皆の心の奥底が見えます。
そして皆が繋がっていますから、皆が愛おしくなります。
皆、兄弟、親子という感じが湧いてきまして、すべてのものが愛おしく、犬ころにしても小島や猫にしても、愛おしく感じます。
神の子として全部兄弟だからです。動物も植物も鉱物もみな神の御姿であり、私達自身も神の御姿です。
神を遠くに求めても、姿を見る事はできないものです。どこにおられるか分からない神様を教会に行って賛美しなさいとか、或いは見えない神に懺悔しなさいとか言いますけれど、この一人一人見える皆様こそ神の御子です。
また自然界のすべては神の御姿です。神を賛美するのだったら、人々を賛美して良き所を褒め称えることです。しかも自分の隣人の良きところを褒め称えることです。
「あの人はこんな素晴らしい所を持っておられます」
と言って、褒めて下さい。ところが、私達は人の素晴らしい麺を見落として汚い面を見ようとします。見落とすのではなく、人の素晴らしい所を貶(けな)しにかかる人が多いのです。
立派な行いをされる方がありますと、「いや、あんなのはだめだ」と言って、その方の素晴らしい所を消しにかかるのですね。まさに凡夫の浅はかさです。それは神様の徳をその人が消しているのです。
神社仏閣にお参りして、「神よ、神よ、どうぞ福を与えて下さい」と言って祈っても、神様が福を下さるはずがありません。自分は神を冒涜しているのですから。家の中で喧嘩し合いましたら、これも又神への冒涜です。
或いは人と喧嘩し、人と争い事をしても神を冒涜しています。又、人の陰口を言ったり悪く言ったりするのも、それは人様の事を思うから言えるのです。神様だと思いましたら、私達は恐ろしくてとても言えません。
その証拠に悪口、陰口を言ってご覧なさい、即、自分に返ってきます。中には、こんなことを言えば喧嘩になるだろうなあと楽しんで、告げ口をする人があります。
自分が言いながら、相手の方がうっかり相槌を打つと、「あの人はこの間この様に言っていましたよ」と、言いふらす人もありますからね。
争いを起させる心は悪魔の心です。そして神への冒涜であり、神への挑戦をしているのですから、そんな人は幸せになれるはずがありません。
簡単なことです。(幸せになる為には)人様を褒めたらいいのです。
その人の良い所を見つけて褒めればいいのです。良いところ以外は一切見ない様にすれば今度は自分が褒められます。
幸せを求めていない人は、この世に一人もありません。「いや、私は不幸でいいのです」という人は大分おへそが曲がっております。
もう十年前のことですが、四国へお話に行きますと、へそ曲がりの人が、「こりゃ一体何の話や」とおっしゃるのです。しかも見ると、サントリーのボトルを持ってきまして、酒を飲みながら私に質問しますので、
「この場所は酒を飲んで集まる場所ではありません。あなたはどうぞ酒を飲んでいない時に来て下さい」と言ったのですが、聞かないのです。
「ここ、何する場所や」と言うので、「幸せになる場所です。人は全て幸せを求めております」と答えると、「いや、わしゃ幸せなんて要らんのや」と言っています。
「では、あなたのおヘソはだいぶ曲がっています」と言いました。
その人はウィスキーを飲みながら法の話を肴(さかな)にしているわけです。誰も追い出しなさいとも、外に出なさいとも言わないのに、私が話していますと、その人の周りにおられた方が5,6人寄ってこられて、その人の手や足を掴んでサーッと表に放り出されました。
誰か知らないけど寄って皆で抱えて放ってきたのです(笑い)。お釈迦様がお説法なさった時は、聴衆の中で咳払い一つしても周りの者が制したという程真剣なものであったのです。
かつて、15、6年前ですが、本当の教えを説く所はないものかと宗教遍歴をしていた事があります。その時、S教に「入会はようしませんが、その修業に参加させて頂けますか」と伺うと、
「どうぞ来て下さい」という事で、何ヶ月か通った事があります。
そこへ通っていた時に、K大学の体育館でT先生の講演会があり、券を買って出かけたのです。大きな会場ですし、集まった人も多いのですが、お話の間中、皆がワイワイワイと大声で喋っているものですから、全然公演を聴くことが出来ないのです。いや、これは法ではないと思いました。
法話の時は咳払い一つしてもならないとお釈迦様の仏典の中に載っております。ところが、前の公演で大きなマイクを通して話しておられるのですけれど、話の内容は全然聞くことが出来ませんでした。
だから講演も、それは知識として話されるから人の心の中に入ることなく、皆がワイワイ話したり、居眠りしたりする事になるのです。ただ、人の集まりだけの事になってしまうわけですね
体験ほど強いものはありません。体験を通して自分が実際に掴んだものは間違い無しに人の心に入っていきます。
あちらこちらの講演会に行きますと、居眠りをしている人や、皆がワイワイお喋りしている場合があります。
立派な先生でいい話をしておられるのですけど、頭で学んで知識として得たものを口で語られるから居眠りが出るのです。
一生懸命皆が聞いておられる場合のお話は、講師の先生が自分の体験を語っておられます。「私はこの様な事をして、この様な事がありました」というお話は、全部の者が耳をそばだてて聞くものです。
聴衆の態度ですぐ分かります「あ、この方は知識を話しておられる」
「この方は智恵を説いておられる」と、実体験、実践によってお話に差が出てきます。
神理の光の前にボロを出した霊との対話
これは或る先生が講演の中で話しておられた事です。氏神様などの神様の事ですが、「自分の家もよう建てない者、自分の腹を自分でよう満たさない者、自分の生活の保障が自分でできない者が、どうして人の為に家を建て、人の腹を満たす事が出来ますか。そのような者は偽物です」と。
しかし神社仏閣の中には本当の諸天善神が下(お)りてこられる場所もあるのです。すべてを悪と決めたら間違いですね。
しかし人の身体に移ってくる神は、もう全て※100%偽物と思って間違いありません。拝み屋さんに拝んでもらって神が入って喋っているのはあれは偽ものです。(※正確にはオーバーシャドウ(真の神憑り)以外は…です♪)
もしこの中にそういう方がありましたら、私が皆さんの前で暴いてみせましょう。正しい法の前には騙し切る事は出来ないのです。最初は騙しますが、神理の光の前にはやがてボロが出てくるのですね。
ある時、60歳ぐらいの女の方に三輪大神が憑(かか)ってこられました。
「三輪、三輪の山じゃ」と言って入ってこられました。
「へえー三輪さんでございますか。あんな大きな三輪の山は人の身体にははいりません」と言うと、「そうかのう」と返事されます。
「なぜこの方に憑いておられますか」と尋ねますと、
「この者を助けるためじゃ」
「ではこの方が足が痛くて難儀しておられますのに、あなたはなぜこの方を助けられないのですか」と言うと、突然、
「20kg痩せろ、20kg痩せろ、痩せたら足が治る」と言われます。
「神様が痩せさせてあげたらいかがですか」と聞きますと、「勝手にせい」と言われました。無茶苦茶な話です。
また「伏見の山じゃ」と言って、入ってきたのがあるのですよ。
「どうして山が人間の体に入るのですか」と聞くと、「それもそうじゃ」と言います。
そのうちに「何が何だか分からない様になった」と言い出しました。
そんな分からなくなるような神様はありません。
「南無観世音菩薩!」と言って、素晴らしい声を出して入ってくるのもあります。
「へえー観世音菩薩でございますか」と言うと、「さよう!」と、高い声で言います。いかにも有難そうに言うので、あれで騙されます。
「お名前は何とおっしゃる菩薩様でございますか」と聞くと、ここでもう答えられないのです。
「南無」と上に付けたらそれは偽もの、南無とは帰依する事ですから、観音さんが観音さんに帰依してどうしますか。
そんな事が分からない人が、「南無観世音菩薩」と言って入ってくるのです。すると皆「へえーっ」と有難がってご宣託を聞くわけです。
私が見ますと、そんなものは観音様どころか、成仏出来ていない迷える霊が付いているのです。私は先に見通してますから、向こうの方が騙されるのです。
「なぜ憑いておられるのですか」と尋ねると、「この者を救うためじゃ」と言います。
「へえーこの身を救う為でございますか」と念を押すと、「さよう!」
「ではなぜこの身を救う為なのに、この身があそこが痛い、ここが痛いというのは、これいかた」と言いますと、「この者の修行が足らん為、力が出ないのじゃ」と、人のせいにしています。
「嘘おっしゃい。あなたは観世音菩薩などといい加減な事を言って人を騙しているのです。しかし一般の人の前では通りますが、私の前でその様な事を言っては通りません。
私は先程からちゃんとあなたを見通しております。正直に言いなさい」
と言うと、「エッエッエッ」と怒りだしました。
「観世音菩薩がそのような愚かな真似をされますか」と決めつけると、
「お許し下さい」と謝ります。
「あなたも本当は助けて欲しいが為にこの人に縋(すが)ってきているのです。正直に言いなさい」というと、
「私は祀ってくれる者がいない。子孫が死に絶えて放ったらかしにされて、なんとかお経の一つでも欲しい。
この人は信心深くて無縁仏さんによく参ってくれるから、この人に憑いたらよく拝んでくれるだろうと思って憑きました」と白状しました。
「観世音菩薩などと言うて、何も見えない人間をたぶらかしてはいけません。そのような事は許しません」と言うと、
「お許し下さい、お許し下さい」と、謝ります。
そこで、「あなたも助けてほしいのでしょう」と言うと、
「助けて下さい」と助けを求めてきました。
これは、自分が供養を受けたい、自分をお祀りしてほしいという強い思いを持っておりまして、自分を祀ってくえる人がおりますと、その人に神や仏を騙(かた)って肉体を支配するのです。ところが、普通私達はその事が分かりません。
また、霊的現象で心の綺麗な方には天上界からの光の天使が入ってくれます。そして習った事もない外国の言葉でお話をなさいます。気を付けないと恐いのは、人は常に心の安定を保つ事は難しいです。
都合の悪い時には心が揺れ動きます。もっと都合が悪ければ腹が立ってきますし、恨んだり謗ったりします。色々とその時の人生の過程で出会いが始まり、その出会いによって出来事が起きます。
出来事の都合がいい時は心が安定していますが、都合の悪い時は心が波立ちます。こん波立った時が恐いのです。
例えば素晴らしい霊能力者の先生が亡くなられて間もない頃の事です。先生の長女のA様に光の天使長が入ってこられて講演された時、何千人というその場に集まっていた人達は、ワンワンと大声を出して感激して泣きました。
まさに神の言葉が出来たのです。しかし、先生が亡くなられた後十ヶ月ぐらい経ってから、ボチボチと何やらおっしゃる事が正法から外(はず)れてきました。
二十歳そこそこの若いお嬢ちゃんに光の天使長という天使が入られて、もう周りも「天使様、天使様」と言って持ち上げ、ご本人もご自分の名前を使わずに、天使の名を名乗っておられました。
今もその当時の月刊誌が残っておりますが、そのうちに増長慢になれば恐ろしいことです。同じように「私は天使○○でございます」と言って入ってきても、それは悪魔とちゃんとすり替わっている事があるのです。
しかし、これを見破る事が出来ないのですね。本人も分からないし、周りも分からないのです。サタンというのは絶対にバレないように近付いてきます。そして人の心を誘惑します。
ばれる様な事をしたら「ああ、サタンだ」と、すぐ分かります。しかも本人も周囲も気付かない間にサッと入れ替わるのですから、そこが霊的現象の最も恐ろしい所です。
霊的に神の啓示を受ける場合、突然その人の心の状態によって、神と悪魔が入れ替わる場合が起きるのですね。
受信機のチャンネルを怒りの世界に向けたら、怒りの世界から入りますし、増長慢になれば増長慢の世界から入ります。
喜び・安らぎ・愛の方へ向けたら、光の天使が入ってくるのです。安らぎ、喜び、愛の心の侍読という事は、我々にとって難しい事です。しかし無償の愛の実践を通してのみ、安らぎと喜びが持続できます。
過去世を開いたからといって、調和されている方は殆どありません。腹の立つ時は腹を立てておられますから、その時に悪魔がちゃんと入っています。
このB先生の本の中にもその事が書いてあります。「過去世を開いた為に自分が偉いという増長慢となり、その為に遠くへ去っていってしまった」と。
私にもそういう体験があります。心の窓を私の縁によって開きながら、私を非難、誹謗した人がありました。
私はその人を開かせておきながら、私が自分自身開いていない事にしていますから、開いた人は自分の方が偉いと思ってしまって、それでこういう事が起きます。増長慢はまさに魔の餌食となってしまいます。
今日ここに来て頂いてますMちゃんとお姉ちゃんと僕の三人はおばあちゃんが高石におられるのですけど、お孫さんたちは千葉に住んでおられます。
去年高石でお話をさせてもらいました時も、この子らが来ていたのです。お話の後、金がいっぱい出てきましてね。こうしてこの子達が手を振りますと、キラキラになるのです。
「もう一回振って」「もう一回振って」と、大の大人が周りに寄って言っていました。この子供さんが手を開くと、金がパアッと出まして、家に帰られてからもずっと出ていたそうです。
この子供さんも神様のご用をしてもらうように、また人様を救うてもらうように、大きくなったら頑張ってください(笑い)。
こういうお子さんは心に曇りが少ないのです。ですから、素直に私の様な者にも「のの様、のの様」と慕って頂きますと、その様な奇跡を現します。信じる者は救われます。そして神ご加護を頂けます。
沖縄に行かせてもらった時、あわよくばUFOの写真を撮ってきますと約束しましたが、あまりに忙しくてUFOにお会いする事が出来ませんでした。
私はタバコを一服、水一滴頂く暇がありませんでした。東京でも汗を拭き拭きでしたが、沖縄はもっときつかったです。
部屋に帰りますと、近くの部屋の方が来てくれまして、休ませてもらったのは二時半から三時頃、朝は早く起きなくてはいけないし、ちょっとしか寝ていない上に前日多くの方々の治療をしましたので、朝起きると瞼がこんなにたるんでいました(笑い)。
鏡を見てびっくりしまして、「しっかりしなさい」と言いましたら、スーッと消えてくれました。
「こんなことでは人の前には出られません。調和して下さい」と言いますと、普通の顔になってくれました。
しかし嬉しいことがあったのです。帰りに水族館で海底の魚の見える所に連れて行ってもらいました。自然というのは有り難いもので、行く先々で学ばせてもらう事が出来ますね。
海はあんなに広いと思いますけど、サンゴ礁の肴は、そこで生まれて底で死ぬそうです。よそへ行かず一生をそこで終わるそうです。
こんな大きい鯛がいます。餌のふを投げると、魚が取り合いをして食いついてきます。餌や細長い魚や透き通った肴などが良く見えました。
こんな所で漁師がその魚を全部取ってしまったら後、魚が育たないそうです。「もう時間がありません」と言われて、パーッと走って運動会のような旅でした。
しかし、人様の喜びを頂いて数え切れない程の沢山の方が喜び、そして感激して下さいましたが、特に沖縄では自分が分からない程抱きついてワンワンと泣いておられて、それは大分長い間でした。
何人も何人も抱きついてワンワン泣いておられて、それは大分長い間でした。何人も何人も抱きついて泣いておられました。魂の触れ合いに恥も外聞もありません。男同士が抱き合って泣いたり喜んだりしましたね。
一般の社会で男同士が抱き合って泣いていたら、気が狂っていると思われるでしょうけれど。
かつて、今から十年程前、私は山の中で反省させてもらったのですけど、その時背の高い髭の濃い方が心を開かれました。その時私も心を開かせていもらったのですけど、帰りの別れの際にその大きい方が私を抱いてくれます。
私もくらいついてその髭の濃い方とハハハハ、頬ずりして喜びあった事があります。後になって考えると、少しおかしかったのと違うかな、そんな変な趣味はないはずなのになあと思った事がありましたね。
それは魂の触れ合いです。肉を超えた魂の触れ合いの感動が起きるのです。女の方も、男の方も関係ありません。どうにもならない感動ですね。
こんな事は内緒にしておかなくてはいけませんが(笑)。
しかしそういう感動に包まれるのです。
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
人は生まれより、その行ないによって尊さが出る
-----イエスの誕生-----
イエス様の誕生についてよく質問を受けます。
「聖書には処女懐妊と説かれていますが、現実はどうだったのでしょうか。母マリアはヨセフと婚約をしていたが、まだ一緒にならない前に聖霊によって身重になった、と書かれています。先生はどう思われますか」と。
信じる信じないはその人その人の自由です。皆様もよくご存知の事を思いますけれど、聖書について、ちょっとお話をしましょう。
その時代のエルサレム統治者ヘロデ王の代にユダヤのベツレヘムでイエスがお生まれになりました。当方から博士たちがエルサレムに来て、
「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私達は東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました」
と聞いて回ったので、人々の噂がヘロデ王の耳にも入ったのです。
王も人々も不安を感じずにはおれません。自分が今、王として君臨しているのに、預言書の書にベツレヘムにユダヤの王が生まれると書いてある事を知り、自分の地位が危うくなると思ったのでしょう。
何とかしてその子を見つけ出して殺してしまおうと思ったのです。そこで、東方の博士達を呼んでその子を上手く探し出す様に命じます。
博士たちは星に導かれて、ある家に入りました。そこで母マリアとそばにいる幼子(おさなご)に会い、ひれ伏してその御子(みこ)を拝み、贈り物を捧げて、そのまま他の道を通って自分の国へ帰ってしまいました。
マリアの夫ヨセフは見の危険を感じ、マリアと幼子を連れてエジプトへ逃げてしまいました。
ヘロデ王はその子が見つからないので、ベツレヘムとその地方の二歳以下の男の子を全部殺してしまえば、王と言われる子もると思い、実行してしまったのです。これは、自己保存の恐ろしい心の現れといえます。
自分を守ろうとして幼い男の子を全部殺したとしても、時が来れば人は死ななくてはなりません。
ヘロデ王が死んだ後は、ヨセフは家族でイスラエルへ帰って来ますが、王の息子アラチオがユダヤを治めている事が分かり、イスラエルから離れたガラリア地方のナザレに住み着く事になります。この話の中で、何度か神の使いが導いています。
しかし現実の人間社会の中で、ヨルダン川でヨハネよりパプテスマ(洗礼)を受けるまでのイエスを、神の御子を誰が信じたでしょうか。
結婚前に身重になって出来た子は「神のみぞ知る」であって、普通の人々は何と言ったでしょう。恐らく父なし子不倫呼ばわりをしたはずです。
婚約者ヨセフは貧しい大工の左官の職人だったそうです。イエスは世の嘲(あざけ)りとさけずみの中で成長されたのだと思います。
逃避と苦難の成長期に間違いありません。後にイエスは言われました。
「私は世の人々の全ての苦しみを理解する事ができる。
それは、私はその全てを体験してきたからである」と。
人間イエスは生まれた時から、普通の我々の味わい得ない悲しみの十字架も背負っておられました。生まれは貧しく、非難中傷を受け易い環境を選ばれ、その中であらゆる苦しみ悲しみを体験して、愛を学んでいかれたのです。
自然界の法則では、天と地と、プラスとマイナスと、陰と陽、雄と雌、男と女が縁に触れて和合し、初めて種の保存が成立する様になっています。
尤(もっと)も最下等の動物では雌雄両性を持つものもあり、雌雄どちらにも変成するものもあり、細胞が分裂して種の保存をするものもありますが、自然の法則では、人間は男女の縁によって子供を授かるのが当然です。
ゴータマ・ブッダ釈迦がマヤ夫人の腋の下からお生まれになって、その場で七歩歩かれて、片手を天井に挙げてられ片手は地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと仏典に書かれています。
これも普通の常識では考えられない事です。では、なぜこんな非常識な事が仏典や聖典に書かれているのでしょう。
洋の東西を問わず遠い昔から、人間離れした偉大なるお方は普通の人間の様な生まれ方はされないという言い伝えがあり、偉大な方を神格化する思想がありました。人々はみなそのように思っていたのです。
そこで、その思想のままに書き残されたものだと思います。信じる信じないは人それぞれの自由です。しかし自然が神の御姿であり、自然が神ご自身であれば、自然に背いて神のお使いが現れるはずがありません。
このようにしてイエスは、人間社会において最も厳しい環境を自ら選んでお生まれになりましたが、その生涯を通して、思いにおいて、言葉において、行為において、神ご自身の愛をお示しになりました。
人は生まれによって尊いものではなく、その生き様によって尊いのである事がよく分かります。私達人間は生まれによって尊いのではありません。
その人の行いによって尊さが出てくるのですね。だから、たとえ総理大臣であろうと、この世のどんな素晴らしい家柄に生まれた方であろうと、その人の行為、想念、言葉が正しくなかったら、その人は何の尊さもありません。
逆にどんな貧しい家柄に生まれても、処女懐妊でも非処女懐妊でも関係なく、その方が神の愛を行なった時、その行為がその人を尊くします。
「法は実践の中に生命が宿る事を知れ」です。
無償の行為とそれに伴う現象
そこで間違ってはならない事は、人様のために尽くさせて頂いて、一生懸命の底から尽くした時に、人から裏切られた場合です。この時、私達は自分の心を傷つけます。
「ホントに何という憎い人だ。あれだけしてやったのに、あの恩知らず、ようあんな恩知らずの人があったものだ」と言って、自分が尽くした人の裏切りによって、夜も寝ないで苦しんでいるのですね。
この苦しみが、せっかく良い行いをしながら自分を不幸に陥れている一つの大きな原因となっています。
「あの人は神か仏のような方で、あんないい人がなぜあんな不幸な一生を送ったのか、あんないい方がなぜあんなえらい病気になったのだろうか」
と思うような方が沢山おられます。
それは全部、自分の心を苦しめたという原因が、苦しみという不幸な結果として現れているのですが、案外この事に気が付いていません。
「裏切った人が悪い、私は一生懸命尽くしたのに、あの裏切り者が悪い」と言って、人を恨みます。しかし苦しんでいるのは自分の心です。恩を忘れて裏切った人の心は苦しんでいません。
裏切られた人は夜も寝られないで腹を立てて怒っていますが、裏切った当人は、そんな事に関係なくぐうぐう寝ています。
今、皆様の心に「ああ、私は幸せだ、私には何の苦しみもない、本当に幸せだ」という方がおられますと、その幸せは結果として現れていますから、過去に喜びの原因をお作りになっていて、今がその喜びの中にあるのです。
では、不幸にして今、「苦しい、なぜ私は苦しいのだろう」という人が御座いましたら、それは苦しみの原因を過去において積んだから、今、結果として苦しいのです。原因があるから、結果が現れております。
ただ、させて頂くのみ、一切の報酬を求めないで、ただ、させて頂く事です。世の中に偉いと言われる人は数多くおられますが、自らを捨てて他を生かそうと実践されている本当に偉い人は、砂の中からダイヤモンドを捜す様なもので、中々お見かけできません。
神理、正法を口にはしましても、思いにおいて、言葉において、行いにおいて、何とかして会員を増やそう、会員が減らない様にしよう、或いはお金に困っているから寄付をしてもらいたい、長生きしたい、などと言ったり思ったりしておりますと、これはもう正法、神理とは違います。
「私こそ法の後継者、正法を伝えるのは私一人だ」と自分のことを自分で先生、先生と言ったり、はっきりと嘘とわかっていて、知らない会員を騙したり、自らを正当化する為に人様を誹謗中傷しながら、「私は人の悪口は言った事はない」などと言っておれば、これはもう帳消しですね。
教えの中にも誤りが出てきます。行いが間違っておりますと、正しい教えは説けません。自分を捨てた、自己を犠牲にした、他の人への奉仕、その行為の中に正しい教えが沸き上がってきます。
世の中には天からの啓示、又は霊示を受けて、次から次へと無限に言霊が出てくる方もあります。又霊が乗り移って話す人もあります。
私は、そういうものは一切ないのでございます。全くの凡夫でございますので、私の場合は天からも教えてくれませんし、違う世界からも教えを受ける事ができません。又声を聞く事もできません。
自分のこの肉体を使って、求める心なしに、この肉体を最大限に使わせて頂いて、人様の為に生きさせてもらった時、その実践を通して色々なことを学ばせて頂けます。
人との出会い、そこに起こる出来事の中から学ばせて頂く、これが実践を通して学ぶという事ですね。自分の体を動かして良き行いをする事です。私は一円感にはたった一日のお休みもございません。
しかも、昼夜一睡もしないで飛び回る事もあります。
これが又不思議でございまして、私と一緒に行って頂きますと、その方々も疲れが出ないのですね、2.3年前、私の所にK先生と一緒に岐阜・愛知と回らせて頂きました。
土曜日の朝から出まして岐阜に先に行かせてもらい、それから愛知の犬山に行きましてお話をしました。その夜中に変な迷える霊の方が出てきまして、そういう方を救わせてもらっていますと、もう夜中の二時頃です。
さあ、これから帰りましょうかといって、車に乗って帰ってきました。
ちょうど栗東(りっとう)あたりで夜が明けて、岸和田へ7時頃に帰り着いたのですね。
同行の方は一睡もされていないのですが、その足で奈良の当麻(たいま)に牡丹を見に車で走られました。私はお人が見えましたから、少し遅くなってお昼前から出かけまして、当麻でお話会をさせてもらいました。
こうして全く一睡もしないで飛び回っているのです。ところが眠くもなければしんどくもなりません。
ひどい時は三日間で三時間ぐらいしか寝ない時もありましたね。あちらこちら飛び回っていますと、寝ている間がないのですね。
それでも次に向けてに来て下さる方が「先生の目は爛々と光っていますね」と言われます。一睡もしていないのに目が爛々と光ってくるのです。
それはみな、その行動、行為に対して見えない世界からご協力を頂くからです。それがエネルギーとなって私体を運んで下さいます。
だからよく新幹線で山口や広島に行かせてもらうのですけど、その道中、自分一人で静かに列車の中で瞑想をしておりますと、本当に自分というこの肉体が、今、神様のご指示によって、その目的地に運ばれているのだなあという事がはっきりと分かります。
私の意志ではなしに、神の御意志によって私の肉体を運んで頂いている、これは、至らない私ですけど、その私の想念行為によって、神様が私を使って下さっているのです。そして、行く先々で信じられない現象を現して頂きます。
講演の時に会場一面に金が降ってきたり、ある会場がピカピカになったり、あるいは生けて下さったお花が全部、突然にしてパアーッと一度に開いてくれたりという現象が起こります。
これは私にできる事とは違います。神様がして下さるのです。その法の正しさ、その教えの正しさの証明として、信じられないようなそういう現象を現して下さいます。
過去世の名称にとらわれて、今生(こんじょう)の自分を見失っている方がありますけど、その方に、ある人が私のことを尋ねたら、
「ああ、あれは霊的な事ばかりやっているから駄目です」と言われた、といって私に話してくれました。
過去世の名称にとらわれる事が霊的である、と気が付いていないでいるのです。しかし私はお話の中で、霊的なことに囚われてはなりませんといつも言っております。
この世の中で私ほどあの世の世界の方との体験を豊富にさせてもらった者も数少ないと思うほど、色々と体験させてもらっています。
迷っている霊の方をこの世の方の中に入って頂いて、その方と皆様の前でお話をして救い上げます。しかしそんなものに囚われてはなりません。
又、よく金が現象として出てきますね。昭和52年7月に泉大津の市民会館でお話させて頂きましたら、その会場一面に金が降りました。私の体などはキラキラになりまして、その時見えた方は、皆合掌してひれ伏しておられました。その会場にいた一人が、自称偉いお方の所に迷い込んだのです。
そこで「大阪の長尾先生という人からこんな金が出ます」と言いますと、偉いお方は、「いや、それは動物霊です」と言ったのです。
そして、その人が又私の所に、「いやあんな金が出るのは動物霊の仕業だと言われましたよ」と告げに来るのです。
だから私はその人に言ったのです。
「そうです。動物霊もそれぐらいの事はできます。しかし私を見て下さい。私が動物のような生活をしておりますか。もし私が動物のような生活をしておって、こういう現象が起きたのなら、それは動物霊の仕業です。
私がもし、見て頂いて間違いが少なく、良き行いを積んでおりましたら、私に現れる現象は神の力です。私の行いを見て判断して下さい。
私の生活はいかがですか」と、その人に聞きましたらね、
「それはそうですな」と言って帰られました。
このように、その人の行いを見て、その人に現れる霊的現象が正しいか、間違いかを判断したらいいのですね。そうすれば、はっきりと分かります。
他の地方でも正法を説いている先生がおられまして、その方は私を非難されます。「あれは現象ばっかりだから駄目だ」と。
しかし現象が現れるのは、正しい行いを行ったから現証が現れるのです。
だからこれは理論的に証明する事が出来ます。また、私は書いたものをまだ本に著しておりません(※この公演後に「愚か者の独り言」を刊行)
そうしますと、「正しい教えとは、文証・理証・現証がなくては駄目、あれは文証がないから駄目です」と、私の事を私のいない所で人様の前で注意してくれます。
しかし自分が書かなくとも、縁があれば人様に書いて頂けます。現に山口県でお話させてもらいますと、このお話させて頂いたものを全部そのままテープから文字に移して清書し、全国に送ってもらって頂いております。
本当に有り難いことです。またそのコピーを読まれた方が泣けて泣けて、そして病気が癒やされたと言って、喜んで下さる方もいっぱいおられます。
現証はその行いによって現れますから、行いがあれば理論的に証明できます。文証も自分がしなくとも、周りがして下さいます。文証・理証・現証、これは正しい教えについて回るものです。
得難い法のご縁
見えない世界にいる苦しい方も、正しい教えによって即、救い上げます。見えない世界の方はこの世に生きる人間よりもなお、悟りが早いです。
なぜ霊の方は悟りが早いかといいますと、それは肉体、つまり目・鼻・耳・口・皮膚の五官がないから、悟り・目覚めが早いのですね。
しかし不幸にして法にご縁がございませんと、永遠といってよいほどの長い時間を苦しんでおられます。それは気付く事が出来ず、目覚めを与えられないからです。
昨夕も、本当に有り難いことで、わざわざ富山県から、そして新潟県からおいでになって頂きました。今日お集まりの皆様は関東の皆様でございますね。本当によく来て頂きました。ありがとうございました。
ご縁というのは誠に得難いもので、この私のご近所にあっても縁のない者は近づく事もできません。しかしご縁のある方はご近所からもこうして熱心に来て頂けますし、遠い県外からも集うて頂けます。
「正しい教えに縁を得る事は、片目の亀にあの大洋の真ん中で1片の流木に巡り合うよりもなお難しい」、つまり太平洋の真ん中に流れてくる1片の板切れは、見つけようとしても、中々どうして見つかりません。
そして二つ目の持つ亀が片目というのは、世界が半分しか見えないという事です。その亀が流木に巡り合うよりもなお難しいという程に、本当の教えに巡り合う事は難しいそうです。
しかし、こうしてご縁を頂いて巡り会えるというのは、それほど尊いご縁によっているのであり、誠に得難いご縁です。
今、来て頂いている或るお方は、以前にただ一度お会いしましてね、忽然と素晴らしい方に変わって頂きました。それはもう周りのお方がびっくりされてしまうほどに変わられました。これは本当に奇跡ですね。自分の心に目覚められた後、忽(たちま)ちにしてその人間性が変わります。
昨日見えておられたTさんの息子さんの場合も、一度青いしてお話させてもらいました後、素晴らしい変貌をしてくれました。
大学の四回生ですけど、体が弱くて半年ほど入院されたりして、長男さんですから可愛い可愛いと大きくされたために、すごくわがままになりまして、自分のお母さんに対する要求が大変なんです。
思い通りにしてもらえないとひどい事をするのでほとほと困られまして、
「先生、何とか一回お話を聞かせてやって下さい」と言って連れて見えました。
僅か30分か40分ぐらいしかお話出来なかったのですが、もうこの玄関を出る時から態度が変わり、帰りの電車の中、夕食への感謝と、お母さんは腰が抜けるほどびっくりして電話を下さったのです。
「あれからずっと、それを守ってくれています。いや、うちの子はほんまもんですわ」と。
この守るべき事というのは、怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配や取越苦労・不安・恐怖・嘘・貪欲を無くす事だと言って話しました。
その息子さんは学生手帳の中にこの項目を書き込みましてね、持って歩いているのです。そしてそれを実践して素晴らしい変貌をしてくれました。
この間訪ねてきまして、大学でのテストの話をしてくれたのです。すごくよく出来る子です。テストでは鉛筆と消しゴム以外は出してはいけないそうですね。ですが、学生手帳と私の写真を持っていったそうです。
数学の問題を見ましたら、全部ハッキリ覚えているものだったのに、その時に限って油断して私の写真を出し忘れたそうです。それで四問とも全部正解したのですが、0点になったのです。
問題をよく読むと、「この中から二問選択して解きなさい」と書いてあるのを、出来すぎて四問全部解答したので、0点になってしまったそうです。
「先生の写真を持っていなかったら、えらい事になりました」と言って笑っておりましたけど、すごい心の支えになるものですね。
この息子さんの場合のように、本当に短い間、ちょっとお会いしただけでしたが、そのようにさっと素晴らしく変わってしまった方もあります。
心や肉体が地獄お底の様な生活をなさっていた方で、ここにお見えになった時は全く恐ろしい鬼婆のような顔をしておられましても、帰る時には仏様のような顔になって変えられる方もあり、それは不思議な事です。 肉体が癒され心が癒され心が安らぎますと、たちまちお顔の相が変わってしまいます。
人間は皆、自己が最も愛おしい
人間といいますのは、今地球上に50億人の人口がありますけど、この世の中で誰が1番愛おしいかをよく考えてみますと、自分ほど愛おしいものはないのです。
「いや、私はあの人が好きで愛おしくて……」といっても、それは嘘です。
「うまいことして、その人と結婚できたら、その人はちゃんと食べさせてくれる」という様に、心の底ではまず自分の事を第一に思っています。
「私はこの子供が可愛くて可愛くて」と言っても、その子が苦労かけてくれたらどうもならんと思いますし、掘り起こしてみると、全部自分の事に帰着します。
「私は主人を命の限り愛しています」と言っても、主人がよそへ言ってお金を持ってきてくれなくなったりすると、主人を憎むようになります。
主人の方も「私は家内を愛しています。愛おしくてたまりません」と言いましても、心の底を掘り起こしてみると、「この人がいないと選択もしてくれない、飯も炊いてくれない」という具合に結局は全部自分の為です。
お釈迦様は「自己が愛おしい様に、人様も各自、自己が愛おしい、だから自分を愛おしむが如く、他を愛おしみなさい」と教えておられます。
これは蚊一匹、蟻一匹といえども自らを愛おしんでいます。だから私達は自分を愛おしむように、他の全ての命あるものをいとおしまなくてはならないのですね。
「自らを愛し、自らを愛するが如く他を愛しなさい」
まず自分を愛さなくてはいけません。その自らを愛するといっても、「ああ、可愛い可愛い」といって自分を甘やかしたり、自分の身体をなでさするのは愛ではありません。これは肉体を愛しているのです。
自らを愛するとは「自分の心を苦しめないこと」です。自分の心を苦しめないというその苦しみとは何かといいますと、これはいつも言います怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配・不安・恐怖、これらの苦しみを、自分の心の中に入れないこと、これが自己を愛することです。
そして、人様に対しても腹を立てさせたり、愚痴を言わせる様な事をしたり、不安・恐怖を与えたりしてはならないのです。他を愛すれば愛する程、今度は他から自分が愛されます。
「汝の隣人を愛せよ」の隣人とは自分の身近な隣人です。自分の隣にいてくれる身近な人達を愛した時、つまりその人達に一生懸命尽くした時、その身近な方から自分が愛されるのです。
他という対象を通して自己を愛する事になるのです。他という対象を通して自己を愛することになるのです。他の方、隣人を大事にする事によって自分が大事にされ、愛し、尽くす事によって、自分が愛され、尽くされます。
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
出せば入る法則 --原因結果の法則
「他を愛せば自分が愛される」というのは、「出せば入る法則」によるのです。出さなかったら入りません。自然はそのようになっております。
どんなに大きなダムをこしらえても、大雨が降った後出すのを嫌と言っていたら、忽(たちま)ちにして決壊しますね。水門を開けてダァーッと排水するから、又入ってきます。
この肉体を見ましたらもっと明らかですね。お尻と前の汗の穴を全部セメントで固めてしまったらえらい事です。3日も経たずに死んでしまいます。
前と後を縫ってしまって出ないようにしますと、もう生きられません。
「私は、もう一週間も便秘でうんちが出ません」という方がありますが、しかしちゃんとおしっこは出ています。神様は本当に上手いこと造って下さっています。
一週間、10日、或いは20日間、大便が出なくても、大便というのは90%以上は水分ですから、その水分を腸が吸収してしまうのです。
そして水分の抜け殻になったカチンコチンのうんちは、極く小さいものになってしまうので、一週間も、10日も、長い人は一ヶ月も持つのです。そして、水分がみな抜けてコロコロとした硬い石みたいなのが出てきます。
私の所にひどい便秘の方がお見えになって、すぐ治る方もありますし、
治らない方もあります。「お宅、ケチですか」と聞きますと、
「いや、私はそれほどケチとは違いますけど」
「それじゃ、そんなケチケチせず出して下さい」というのですけど(笑い)
それは不思議なものですね。うんちというのは一度にたくさん出るものなのに、10日も出なくて一体どうなっているのかなあと思いますが、ちゃんと乾燥して水分はみな吸収されて滓(かす)がたまるので、量としては少なくて済むようになっているのですね。
大便が出なくても水分として汗なり或いは小便なりとして出してもらうから体がもつのです。出させてもらうから入るという事を知る事です。
私はこの正法にご縁を頂く前から、色々不思議な体験をさせて頂きましたが、商売の上でも自分が儲けようとしてはいけないという事を知っております。人様に儲けてもらう、かと言って自分が損をしたら商売にはなりません。人様にご奉仕させて頂く事をモットーにさせてもらいました。
関東のある所に本社のある貸し布団の大手会社にご縁を頂きました。毛布業界では最低四ヶ月の手形、長くて六ヶ月、或いはお産手形といいまして十ヶ月の手形もあります。そんな時代に、そのお得意さんが現金で取引してやると言ってもらったのですね。
こんな有り難い事はありません。業界では絶対と言っていいような大手のお得意さんが、ひょいと舞い込んできて下さったのです。
まさに天上界から与えられたご縁です。その時私はこれを全部儲けたら申し訳ないと思いました。
その後たった一度だけ東京の本社に行きました。受付の方に「大阪から参りました」と言いますと、「どうぞ」と案内して下さいました。
オフィスの机が並んでいるそのずっと奥の、社長の部屋までの途中、事務を取っている方達が立って礼をして迎えて下さるのです。
「へえー、私のような者が来てもおじぎをしてくれるのだなあ」と思って社長室に入りました。案内してくれた人が社長さんだったのですね。
私に頭を下げてくれたのではなくて、社長さんにおじぎをしていたのです。よく考えてみると、私に頭を下げてくれるはずがありません(笑い)。
社長さん、会長さんとお見えになりまして、色々世話話をしました後、では商売の話をしましょうかという事で、「条件はどういうことですか」と聞かれたのですね。
私は、「地元の問屋さんに入れさせて頂いている相場で買って頂いたら結構です。一銭も余計には要りません。しかし送料、荷造り料はお宅さんで持って下さい。それ以外は要りません」と、話させてもらいました。
「分かりました、では取引して下さい」と、お話は何と2、3分ほどで済んでしまいました。
その後25、6年お付き合いさせてもらいました間、ずっと現金で買って頂きました。私は何とか会社にご奉仕させてもらわなくてはいけないと思ったのですけど、受け取って頂けないのです。
で、仕入れ部長さんんが私の所に来て下さるので、
「うちは、これで儲けさせてもらっています。私だけが儲けては申し訳ないですから、仕入れ部長さんに私の感謝の気持ちとして、売上金額の二%を還元させて頂きます」と申し出たのです。
これは一億円としますと、その二%はいい小遣いになります。盆と正月に分けまして、その半期の売上の二%を仕入れ部長さんんい送っていたのです。
その会社に大きなメーカーから売りに来ますね、ところが絶対に買わない。「いや、うちはもう専属の製造所がありますから結構です」といって、
私の所より歩(ぶ)のいいお話を持っていこうが、どんな大きなメーカーから行こうが、よそからは絶対に買わないで、そして他に必要なものまで、私の所に注文があるのですね。
私は注文を頂いたらよそでそれを買ってきて送る、それで又何%かも受けさせて頂くという具合で、相手に儲けて喜んでもらう事によって、
自分を守ってもらうという事と、必要以上に儲けさせて頂く事を、身をもって体験させてもらいました。
今日、こうして結構に生きさせてもらいますのも、商売を通して
「こんなにぎょうさん儲けさせてもらっていいのかなあ」という程儲けさせてもらったお陰です。とはいっても、何億と儲けたわけではありません。
足ることを知っただけです(笑い)。
それはさせて頂くから、して頂けたのです。しなければ、もし良い条件で他の大手から売りに行かれたら忽ち得意先を取られてしまうはずですね。
なんと東京のお店に私から出向いたのはたった一回、しかも商売の話は一分間で済みました。そして25年間、こういう今の人助けの生活に変わるまで、ずっとお取引して頂きました。これは、出す事によって入る事の一つの良い例だと思います。
商売において、同じ商品を買っていただくにしましても、「これ一つ売ったら500円の口銭(こうせん)がある、何とかこれを売って儲けてやろう」と思いますと、相手の心にはもう入らないのです。
「この商品によってこの人が便利になり、幸せになってもらえるのだ、喜んで頂けるのだ、儲けて頂けるのだ」という一念でお勧めしますと、買う方の心にシャッターが下りません。
金儲け主義となっては相手に通じないのですが、買う側の幸せを思い、その方のお役に立ちたいのだという一心でお勧めした時は、相手の方にそのままストレートに入っていきます。
商売というのは、品物を売っているのだと思っていますけど、本当は自分という人間の心を買ってもらっているのです。信用ですね。
「あの人なら信用できる、あの人の言う物なら買っても間違いない」というように、全部心を買ってもらっているのですね。品物は動いています。
そして欲が絡んで取引しますと、「ああこれを買ってえらい目に遭った」という事になってしまいます。
この自然界といいますのは、すべて調和を目的として運営されていますから、私達もそのように生きさせてもらえば、その時苦しみの少ない安らかな人生を過ごす事が出来ます。
私の所のご近所で、この人は商売がきつくて、えげつなくてね、
ま、商売の上手な人がおられました。私達よりも年輩ですでに引退されていますけど、この人はこちらで千円の品物を何万枚も契約するとします。
ところがこちらよりも十円か二十円高かったら、契約違反をしてでもそちらに売るのです。その人は「何千万円の不渡手形を掴まされた」とか「何千万やられた」と、私が知っているだけで何回もやられています。
私は自分のことを話して申し訳ないのですけど、三十年近く商売させてもらった間、一回も不渡手形を受け取った事はありませんでした。
ただし一回だけあったのです。昭和45,46年当時、六百万円引っかかったのですが、しかしその95%は返ってきました。
「やあ、あの人が恐いよう、運が悪いのか、よく不渡り食うなあ」というのは本当はやはりその人の心の不幸な原因が結果として現れてくるのですね。
ですから、日々の生活で、出来るだけ間違った苦しみの原因を作らないことです。不幸になっていく原因を日々作らない事、これが精進です。
そして幸せの種をしっかり播くこと、幸せの種、つまり良き結果が現れる原因を常に積み重ねることです。その時播いた種は必ず生えますし、また成長して実ってくれます。
胡瓜(きゅうり)が幸せで、なすびが不幸とします。自分の不幸の種のなずびを播いておいて、実ってきた時「私は胡瓜が欲しかった、なすびは要らない」と怒るのでは遅いのです。自分がなすびを巻いたのです。
幸せ不幸せとは、それと同じ様なことが言えます。
ただ、正しい正法を知らない間は、その種が幸せの種か、不幸せの種かが分からないのです。盗みをしたり、人を泣かせたりすれば、これが悪い種という事は分かりますが、自分の心の作用の種には気付かないのです。
その種は、自分の心を苦しめた時に必ず苦しみの実りが現れるという事です。悪い行為はもちろんいけません。今笑っていた人が瞬間に激怒するとか腹を立てて、「怒らな損損」といって、怒っている人がありますが、あれは毎日毎日怒るたびに不幸の種を播いているのです。
又、愚痴ばかり言っている人がありますね。あれなども愚痴を言ったぐらいで不幸にはならないと思っているのですが、それが不幸になっていきます。まさかと思う人の悪口についても、
「悪口を言うのは相手が悪いからいっているのだ。そんな事で不幸になるものか」と思いますが、しかしいけません。悪口を言う時「ここだけの話ですよ」と言うと、もうすぐ向こうに聞こえています。
悪口ほど早く通じるものもありません。「内緒やで……」と言えば言うほど、余計に人は喋りたいのです。その結果、自分の心の中に大きな荷物を背負う事になります。又、そしりですね。もちろん恨んでもいけません。
もっといけないのは人を呪うことです。夜中にカーンカーンと釘を打つ、あれは最も罪深いことです。人を不幸にして自分が幸せになれるはずがありません。
それが分からないから、「憎いから心臓に釘を打ってやろう」と呪うのですが、これは遠い昔の物語かと思いましたら、そうではなくて、今日お見えになっていませんけど、神戸の方の現実のお話です。
恐い生き神様の話
また、とんでもない神様があります。話すと、正法らしい事を言うのです。そして素晴らしい事を言うので、信者さん達がそこへ行っていますと、妙なことが起こっています。
あるお宅のお父さんが教育熱心でスパルタ教育をするので、上のお姉ちゃんがすねて、いわゆる翔(と)んでるお嬢ちゃんになって、親の言う事を聞かなくなったのです。
上は手がつけられないというので、今度は小学四年生の下のお嬢ちゃんにお父さんのスパルタ教育が向かってきました。
その下のお嬢ちゃんというのは身体が弱いのですね。その神と称する人の所に行きますと、「この子はもうあと二年したら死ぬ」と言うのです。
お姉ちゃんとお母さんが「何とか助けてください。なぜ死ぬのですか」と聞くと「お父さんが厳しい教育をするから、この子は耐えられない、この状態でいくと、この子は二年以内に死んでしまいます」と言うのです。
「それで何とか助かる方法はありませんか」と言うと、「お父さんが原因でこの子が死ぬのだから、この子を助けたかったら、お父さんに死んでもらいなさい。そうすればこの子が助かる。お父さんが死ぬか、どちらかが死ななくては解決しない」と、うまい事を言うのですね。
そこでお姉ちゃんとお母さんとが相談をして、こんなに小さなRちゃんが死ぬのは可哀想だ、お父さんはもう50年程生きているのだから、お父さんに死んでもらおうかという事になったのです。
神様が「それじゃお金がちょっと高くつきますけど、私がちゃんとしてあげます」とおっしゃってね。
「写真を持ってきなさい」との事で、写真を持っていったのです。
ところで、そのお宅の奥さんのお姉絵さんの家族もそこで信仰していたのです。その姉さんのご主人は、もう退職していますが、三十五年間も刑事を務めている人なのに、そんな恐い刑事さんでも、ころっとその神さんにやられているのですね。
そして悪魔払いをしてやるから何万円持って来いとか、やれこの家に又悪魔が入っているから、今度は何十万円で取ってあげるなどといって、次々とお金を巻き上げられています。
そして変なものが憑いているといって、これは結局憑けられてしまったのですが、その方が初めて私の所へ見えられた時は、二人とも地獄の底の住民みたいな顔をしていました。
自分の周りが全然見えないで、遥か高い所にボコッと穴があいて空が見えている様な、生きながら自分の意識が地獄に行っているような有様でした。
そのお姉さんの大学四回生の子供さんも、そこに行っていたのですが、ある日、帰ってきて言ったそうです。「お母さん恐いで。どこの人か知らんけど、神棚で男の人の写真が心臓に釘を打たれて、先生が殺してやるのだと言って一生懸命拝んでいる、こわいで」と。
そこで今度そこにいって写真をよく見たら、なんと自分の妹の婿さんだったので、もう地獄の底にいる心地がして、自分ながら頭がおかしくなって、妹さんと二人で私の所にこられたのですね。そして、今話したいきさつを聞かせてもらいました。
「あなた方は、そんな優しい顔をして何と恐ろしい方達だ、私だったら、あなた達のように恐ろしい人は嫁さんになってもらわない、殺されてしまう」と、私は言いました。
そして、「早く写真を返してもらいなさい。そんな事をしていると、その念はものを作ります。想念はものを作って形として現れるから、そんな事をされたら、ご主人は必ず体が悪くなりますよ、だから早く写真を返してもらいなさい」と言ったのです。
しかし何と言っても返してくれない。「いったん神さんにお願いしたものを中止する事はできない。お金が惜しくなったのか」と言うのだそうです。
「それでは私が、返してもらえるように、ちょっとおまじないを書いてあげますから、これを胸のポケットに入れていってみなさい。必ず返してくれますから」と、いつも書かせてもらっている「明かりが来れば闇が去る」と、名刺の裏に書いて差し上げたのです。
私はそのご主人とその時はまだご縁がなかったのですが、奥さんは「お父さん、これを持っていけば返してくれるそうです」と渡し、ご主人はおまじないの私の名刺を胸の内ポケットへ入れていったのですね。
その生き神様と称する方は母子家庭で、中学生のお嬢ちゃんと小学五年ぐらいのお嬢ちゃんとその神さんであるお母さんとの家庭です。
親がああいう事をしていますと、子供にも移るのです。親が間違った信仰をして霊的に通じますと、必ず子供に、孫にと、遺伝のように伝わっていきます。これは避けられません。そこの下のお嬢ちゃんは特にそういう霊感が強いのだそうです。
そして今の話のMさんがその家の表に立たれますとね。家の中で、「表に恐ろしい奴が来た、恐ろしい奴が来た」と泣き叫んでいる。「恐ろしい奴が来た、眩しい奴が来た」と泣き叫んでいるのです。
すると、お母さんの生き神様が出てきて、「ああ、Mさんですか、まあ入って下さい」と言って、Mさんが中に入りますとね、その小さな女の子が恐ろしい顔をして男の声で、「眩しくて見えない、早く帰れ」と言って逃げて行くそうです。
Mさんが、いつもはおじいちゃんと言って膝に乗ってきてひどくなついていた子が、その日に限って逃げ歩くので、
「なぜこの子はこんな事を言うのですか」と聞くと、「今日は天で神さんが暴れているからこんなにしますのや」とそのお母さんが言ったそうです。
それで、「実は写真を返して欲しいのです」と言いますと、「はい」と素直に取ってきて返してくれたのです。
Mさんは私の所にその写真を持ってこられたのですが、可哀想に心臓の所に穴が開けてあるのですね。五寸釘を打った穴がね。私は、「あんばいにしてあげましょう」と言って、その穴を元通りにしておきました。
このような、人を呪い殺すということは、もう昔の物語だと思っていましたが、今でもあるのですね。不思議な事には、名刺に僅か四文字「明来闇去」と書かせて頂きましたものが、霊的な世界から見ますと、眩しくて見えないのです。
ただ胸の内ポケットに入れてあるだけで、その人の姿さえ光で見えなくなってしまって、そして絶対に返さないと言っていた写真をハイと素直に返してくれたのです。
正しく生きる者には光があります。これは天から守って頂くのです。Mさんはその当時の自分の出来事を詳しく書いてここへ持ってきてくれました。
四国の霊的事故多発地域を解消する旅路の奇跡
黄金の光と暗い想念
度々お話しますが、一切の自分の欲得を捨てて、何の求める心なしに苦しいお方の為に、或いは悩んでいる方の為に、又見えない世界の苦しむ方の為に、ただその人達の幸せを願って自分の行動を起こした時、私達は光の天使です。どなたでも皆、光の天使です。
そういいう光の天使が行動を起こされますと、もしどんな地獄の底まで行かれても、迷える霊は近づく事さえ出来ません。
なぜかと言いますと、これは光ですから、自分のしがみつく場所さえ分からない光というのは、そういうものなのです。
これは、四国にお話に行った時のことです。そこは見晴らしのいい十字路ですのに、次から次へと交通事故による死人が出るのです。そこでお地蔵さんを建てて、拝み専門の人に拝んでもらったり、ご祈祷をしてもらったりするのにその信号のたった一か所で、もう何十人と死んでいるのですね。
四国のS町という所です。この場所で事故が起きないようにして下さいと頼まれて行ったのです。
それで、その地で亡くなられた方々でその地に意識を残して迷っている方々にお話させて頂いて、そして天上界にみな上げさせて頂きました。そうしますと、それ以後、一回も事故は起きていないそうです。
最初四国に行きました時は、そういう場所ばかりを「何とかして下さい」と言われて回ってきました。その帰りに車の運転をして一緒に行ってくれた方が、
「先生、あんな恐ろしい所ばっかり行くと、霊がいっぱい先生にすがってくるのと違いますか」と車の中で言うのですね。
私は、今お話したように、
「私達が一切の求める心なしに、たださせて頂き、救われて欲しいという思いだけで行動を起こしますと、私も光、こうして共に来てもらったあなた達も光です。だからもし迷える霊が沢山いる場所を私達が通りましても、
その迷える霊たちは私達を理解する事さえできない。ただ光の塊が通っていくなあとしか理解できないので、すがってくるなどとんでもないことです」と話したのです。
そして、香川県から徳島県へと、あの大きな大坂峠を越えて入っていきました。峠に差し掛かった夕方、また暗くはなっていなかったのですけど、
左側は山肌で、中に道が通っており、右側は谷でやはり切り立った崖で、ガードレールがつけてあって谷へ落ちないようになっています。
山を切り開いた峠を車が登っていき、私は助手席に乗せてもらって左側を見ますと、山肌がちょうど車の黄色いヘッドライトでパァーッと照らしたように黄金色で、ずっと光っているのです。山肌が全部光っています。
それで、「ああ、ひょっとしたら後からバスかトラックが来て、黄色いライトを付けて追いかけてくるのかなあ」と思って後を何回も見たのですけど、何も来ません。その峠を越えるまでずっとものすごく光っていたのです。
私も凡夫の浅はかさというやつで、「後からバスが来ていないのなら、この車の横にランプが付いているのだろうなあ、それで山が光って見えるのだなあ」と思いながら走っていたのですね。
四国の旅から帰って何日か経って、一緒に行ってくれた方々と又お会いした時、運転してくれた方が、
「先生、あの峠を越える時、気が付きましたか」と言うのです。
「あ、お宅も気付かれましたか」と言うと、「私、運転していましたら、前の方がパァーッと光って、ちょうど黄金の光ですから、あの黄色いライトで照らしたような光なので、バスが来たのだと思って、何回もバックミラーで後を見ました」と、やっぱり同じことを言っているのですね。
「そんなこと言ったら頭がおかしいのかと言われると思ってね、よう言いませんでした」「ああ、気付かれましたか」と私が言いますと、
後ろの咳に乗っていた方も、「私も右側のガードレールがずっと光っていたのを見ていました。大阪のガードレールは確か白だったと思うのに、四国へ来たら黄金が塗ってあるのかなあと思った」と言うのです。
「私達は光です」と言いました時、忽ちその車の周りがものすごい黄金の光に包まれていたのです。現実に何人かおられても、皆に肉の目で見る事の出来る光です。本当の愛ゆえに行動を起こしますと、どなたでも全部、光になります。光に包まれるのです。
愛は光なり、神は愛、光こそ神、そういう自然界の中にも厳然としてはっきりとこの肉体の目をもって光を見せて頂けます。
地元の方は何回も聞かれた話ですが、今日はわざわざ遠方から来て頂いて、初めてお見えになって頂いた方たちの為に説明させてもらうお話だと思って、辛抱して聞いて下さい。
初めての方は、「ああ、ほんとにそんな事があるのかなあ」と理解してもらえると思います。
「たださせていただく行為」の時は、天から光がさあっと射してきます。
徳島に行きますと、頂上に沢山アンテナの立っている眉山(びざん)という山がありますが、徳島から船に乗って、港を離れて後を振り返りますと、私達の行った場所、通った場所に、雲間から数条の光が下りています。
その時運転をしてくれた方が、「先生、あれが眉山、あちらが三本松、あそこは途中で下りてもらった所、雲間からさあっと光が下りております」と言うのです。
見ると、本当に雲間から光が下りています。その時、突然海面が全部黄金に変わりました。もう例えようのない黄金の海になってしまったのです。
船に乗っておられた大勢の皆様も「ウフー、なんと美しい海、こんなきれいな海は見たことがない」と皆わいわい言っていますけど、私達は、
「ああ、これは神様が私達の行為に対して、その祝福の光を与えて下さっているのだ」ということが分かっていますから、「ああ、有り難いなあ」と言い合って帰ってきたのです。
暗い想念、誤った想念、誤った行動によってこの世を過ごし、そしてこの世を去った時、暗い世界に私達がもし執着しておりますと、その光と反対の現象が出てきます。
よそのお宅に行きました時、真っ暗な感じを受ける家というのがあります。表に立つと奥が見えないような暗い家、或いはお仏壇を見ましても、その中が真っ黒のお宅がよくありますね。仏壇の奥が見えません。
正面の阿弥陀さんなども墨を塗ったように消えてしまって、真っ黒で見えない。お墓もそうです。仏壇は本来あんなに暗くはならないものです。
ですから、真っ黒の仏壇でも、ご縁がありまして、その中におられるご先祖様を天上界へ送りますと、忽ち光ってきます。
これはどのお宅のお仏壇でも同じように暗い所がみな光ります。いわば私は、仏壇の洗濯屋さんみたいなものです。光るのです。
ではなぜ暗いのかと言いますと、仏壇の中に迷える諸霊の方がおられるから真っ黒になっているのです。線香の煙で曇っているのとは違うのです。
「私が一生懸命拝みましたから、線香とろうそくの煤(すす)で仏壇が真っ黒になっているのです」というのは嘘です。
「では、見ていなさい」と言ってお祈りをして、迷える霊が成仏されますと、パァーッと光ります。特に仏壇の正面の上などは彫刻ですから、もう真っ黒になったら磨きようがないのですけど、それが光ってきます。
私が地番上の姉が泉大津に嫁いでいるのですが、そのお仏壇が又黒いのなんのまっ黒けだったのです。私が二十代の時、そこでお世話になっていまして、そこの仏さんの前を通る時、「まあ、ここの仏さんはなんと暗いなあ、なぜこんなに黒いのかなあ」と思いました。
阿弥陀さんも横に書いてある南無不可思議光如来も南無無量寿光如来の字も何も分からないほどまっ黒けでした。
この法にご縁を頂きましてから後、一回はおじいちゃんが亡くなられた時、二回目はおばあちゃんが亡くなられた時、その後3回に参ってお祈りしました。
今度家を建てまして、その新築の家に、もう何十年も前の真っ黒けだったお仏壇を入れますと、その新築の家よりも仏壇の方が光っています。奥の方から煌々(こうこう)と光っています。
私が二十代ですから、もう三十年前に真っ黒けだったお仏壇です。それが今は新品みたいで、新しく家を建てた家よりもなお光っています。新しい家に古い家具を入れても調和しないものですね。
それだけが古く目立って、ついもうこのタンスも替えようか、これも新しいのに替えようかという事になって、そうしないと合わないものです。
ましてや真っ黒けの仏壇を入れたら似合うはずがないのですが、家よりも仏壇の方が光るぐらいになりました。仏壇の中に不幸にして成仏する事のできないご先祖様がおられますと、仏壇はだんだん暗くなります。
家もそうです。ものすごく陰気臭い家で、その中に入ると暗い感じを受けるお宅というのは、その家の中に執着している何者かがあるから暗いのです。墓地全体が暗いのもそうです。
長尾弘先生の教えは、スムーズに極楽へ行くための最高の神理で御座いますから、ネット環境の無い方(ご年配の方)などに印刷してお渡しするなどして、一人でも多くの方々の魂の救いの為にご活用下さいませ♪







奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
この世への執着や心の重さが成仏を妨げる
私たちは死んだらおしまい、ではありません。死んだら、素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。その世界は魂のふるさとです。ふるさとに帰って初めて、本当に成仏します。この世に、この地球上に思いを残しますと、その思いが執着になり、その思いの場所に自分が留まるのです。
だから、一切の思いを捨てなくてはいけません。そして全ての思いを離すと、自分のふるさとに向かって旅立つ事が出来ます。しかし旅立つ時、自分の心に重荷を背負っていますと、重くて走れません。
50kg背負う能力のある人に100kgの荷物をいっぱい背負っていますと、重くて走れません。これはもうえらい事です。もし150kg載せられたら、ペシャンコに押しつぶされて動けません。
これと同じように、自分で作った心のお荷物によって、自分自身が荷物に押さえつけられて、たとえ帰る世界を知ってこの世から執着を離したとしても、その重さによって動く事ができません。
この心の重さを持たない為には、これまで何回も言っておりますが、腹を立てない様に、愚痴を言わない様に、人様を憎まない様に恨まない様に、要らない心配をしない様に、嘘は絶対に言わない様にしなくてはなりません。
これらはみなお荷物です。そのお荷物を少しでも軽くして、もし今までにためた荷物がありましたら、一つ一つ、時間があれば本当の神様に対して心の底から
「お許し下さい。私はあの時あんな過ちを犯しました。もう繰り返す事は致しませんからどうぞ許してください」
と、悔い改めた時、それは一つ一つ許されます。
若い時、好きな方とデートでもしますと、「早く帰らなくてはいけないよ」と言われていても気付いたら、「あら、もうこんな時間」と、知らない間に時間が過ぎているのです。
楽しい時間というのは早く過ぎ、嫌な時間は長いもので、私達の一日も同じ事です。ものすごくい心配な事があったり、恐怖に襲われたりしておりますと、一日が無限に長く思われます。
早く夜が来ないかな、寝てしまうと忘れられるのにと、夜の来るのを待ち望みます。ところが夜になったら寝られないでああ長い夜だなあと言って朝まで待たなくてはいけません。
しかし幸せで楽しい時間というのは、一日があっという間です。
私などは「夜が明けたと思ったらもう寝なくてはいけないなあ、休ませてもらったらもう起きなくてはいけないなあ」と言って、楽しみいっぱいの日々でございます。
それは喜びと安らぎとそして感謝に満たされており、又人々の喜びと、その人々の喜びを頂いてそれを我が喜びとする毎日だからです。
こんな事をしていましたら、私の寿命が限られているのに、もうあっという間に私のこの世での生命(いのち)は過ぎるのではないかと冷や冷やしているぐらい、一日一日が知らない間に過ぎていきますね。
それは常に喜びに満たされていますから、心は天上界です。
私は禅定の時、よく言わせてもらっています。
「身はこの世にあり、心は天上界にあります」と。
自分の思い方、生き方によって私達の心は天上界にいつもあるのです。苦しみが少なく、常に感謝に満たされ、安らぎと喜びの中にあります。
この世に生きさせて頂きます時に、日々の生活の中で常に「有り難いなあ、私は幸せだなあ、何と幸せ者なんだろう」という思いに満たされた生活をし、人生を過ごしますと、死んだ時に硬くならないのですね。
いくら表面上はいい格好をして、きれいな着物を着て人様に対して偉そうにしていましても、心の中で苦しみ、つまり誤った行いや思いによって苦しみを自分の中に溜めていますと、あの世に帰る時に必ずその決算が出てきます。
心の中で苦しみを溜めている方は、あの世に帰る時に苦しみを持って現れますし、いよいよ息が切れてしまいますと、肉体は硬直を始めます。
見ている間に冷たく、悲しく、硬くなり、もう石みたいなものです。顔は見るのも恐ろしい嫌な顔になります。成仏なさった方のお顔は惚れ惚れ(ほれぼれ)と見とれる様な綺麗なお顔になります。
私は幼い頃に、親戚の者やその他亡くなったお方に、何回か最後のお別れの手向け(たむけ)の水を捧げさせてもらいました。
人間が死ぬと、なぜあんな嫌な顔になってしまうのだろうかと、よく思ったものです。そして幼い頃、母に聞きました。
「お母ちゃん、死んだらなぜあんな怖い顔になるんやろ、あんないやらしい顔になるのはなぜやろう」と。
「あれはな、長いこと親しくてもらっていた人が死んだ時、愛おしい人が死んだ時、別れる事はできない、その人を捨てる事はできないという思いが、
もう見るも恐ろしい顔になって、ああ恐い、恐い、早(はよ)うこんなもの
どないかしてもらわなあかん、という顔にならないと、別れられない。それで神様があんな顔にして下さるのや」
と教えてくれたのです。ああそんなものかと思っておりました。
その後、歳を段々積み重ねていきまして、この正法にご縁があるまで、何人かのお葬式に最後の手向けをさせてもらいましたけど、もう皆、嫌な顔をしておられます。ああ恐ろしいなという顔ですね。
ところが、この正法にご縁を頂き、心というものが分かってきまして、亡くなった方に対して法をお伝えさせて頂きましたら、硬直しているお方が即、硬直が解けて、ふわふわになって綺麗なお顔になっていきます。
唇などは、上等の口紅を塗ったようになり、頬は頬紅を塗ったようになりますね。それは、私のような人間にそのような力があるはずはないのです。
これは、正しい法を伝えさせて頂く事によって、そのお方が自分の心に目覚めて下さったから即、成仏する事が出来るのです。
私の事を「霊に囚われている」と人は言いますが、亡くなったお方に対して成仏して頂いて、その方が忽(たちま)ち百人が百人、千人が千人見て、
「まあ何と綺麗なお顔になられた」と言って認められたなれば、それは霊的現象であり、且つ科学です。体験をして、自分が実際に神の力を見せて頂いて、その話を人々にお伝えさせて頂く、この体験こそ、この自分の実践こそが尊いものであり、それを通して神の力が示されるのです。
そして肉体を持ったまま、真の神を証明する事が出来るのです。行わない者に誰か力を現してくれるでしょうか。法に背いている者に誰が力を注いでくれるでしょうか。法に従ってこそ、神の力は働いてくれます。正しい教えを自分が行(ぎょう)じてこそ、法の力というものは現されます。
「私は天上界において、神とコンタクトしてきます」と言われる自称の偉い先生があります。そんなもの、天上界にお伴(とも)して行って見てきた人は一人もいません。ただ自分でかってに言っているのですから信用できません。
高橋信次先生の意識が入ってこられて先生の霊の言葉を話す人達もおられますが、誰一人証明する人はありません。証明のないものを信じるのは盲心狂信となります。
誰も見ていない事で、そんなものは証明者がいなかったら駄目だと思います。そんな事をわざわざ言わなくても、自分が神の子として、神の御使いとして、神の心を我が心として恥ずかしくない様に日々の生活で自分が実践したらいいのです。
よく、誤った神様や観世音菩薩や何々の大神と称する者が、人の口を使って出て来られる事があります。こういう事がありました。東京のお稲荷さんはすごい力を持っていて、東京のあるお宅で超自然現象を起こすのですね。
そこのお宅の床の間や将棋盤やお膳の上から水がフワーッと湧いて出てくるのです。最初は、水道屋さんが工事ミスをして、天井の水道パイプから水が漏っていないと天井も全部見たそうです。
しかし原因もないのに水が湧くので、その家の者が恐怖に襲われて、怖がって、私の所に相談に見えたのです。
その東京のお宅ではお稲荷さんを祀っています。
「では、水の出てくるのを止めてあげましょう。私がおまじないを書くから、これを、水の出て来る部屋に貼りなさい。そうすればもう水は出ません。もし水が出たら私が止めに行きましょう」と言いますと、
「東京まで来てくれるのですか」と驚かれておられます。
「私はどこへでも生きます」と言って、紙に書かせてもらいました。それを東京に持って帰って部屋に貼りますと、ピタッと止まったのです。
ところが、その家のお嫁さんのお母さんがこの近所にいるのですが、ここに来ましてね。そのおばあちゃんに霊が入ってきたのです。
「どなたですか」と言うと、「東京の稲荷、水が怖い怖いと言うてるやろ、あれは私が出しているのだ」と言うのです。
「あなたは自然に逆らってそういう超自然現象を現す力があるのだったら、この家庭の調和の為にしっかり頑張りなさい」と言いますと、
「わしは気に入らんのだ」と、言い返します。
「何が気に入らないのですか。もし正しい事であれば私が聞き入れてあげましょう。間違っていれば、それはあなたが正しなさい」と言いますと
「あんなにャャ言うのは気に入らん」
つまり、その家の中で夫婦が絶えず喧嘩をするのが、お稲荷さんが気に入らないと言います。
「それは結構です。私が夫婦に指導致しましょう。その時はもう水を出しませんか」と聞くと、
「もう出さない。そのようにしてくれたらもう水は出さない」
「それでは約束しましたよ」と言って、その人達を呼んで
「あなた達は仲良くしなさい。お稲荷さんは怒って水を出すのだと言っていますよ」と、東京の夫婦に注意をさせて頂きました。ご夫婦はびっくりして、今後仲良くする事を誓ってくれました。
この様に自然に逆らった超自然現象を現す力があっても、それは霊の力で自分の心を悟る事が出来ないのです。だから何回も出てきては私に叱られ、「許してくれ、許してくれ」と稲荷さんが泣いています。
しかしこの件以後はもう水は出なくなりました。私の心の友の方々は、みな目の当たり一緒に見てよく知っています。1番気持ちが悪かったのは、「先生の所に祀って欲しいのや、祀って欲しいのや」と、神様が言う事です。
「いや、私は祀りません。私はそういう偶像は祀りません」と断りますと、「先生の所ならどこでもいいから祀ってくれ。便所の端でもいい」
「そんな汚い所に祀ってもらってどうしますか。まことの神の使いをさせて頂くこの私でさえ、祀れとか拝めなどとは言った事がない。あなたは自らを知りなさい」と強く言いますと、
「祀ってくれなかったら、先生の肩に乗せて欲しい」と言ってきます。
「神と祀られながら、こんな愚かな私の肩に乗ってどうするのですか。あなたはこの私の肩に乗る力がありますか」と私が言いますと、
「先生が駄目ならここにいる誰でもいいから肩に乗せてほしい」と指差して探しかけた時、冷たい風がピューッと吹いてきました。
すると、たまたま泉大津から見えていた方がキャーッと飛び上がって逃げ出してしまいました。それ以来再びその人はここに来てくれません。
誰でもいいと言って探しかけて指をさされましたら、皆びっくりします。そんな神様が、肩に乗せてほしいと言ってきたら、誰でもいい気はしません。なるほど神と祀られて、一般の低級な拝み屋さんなどが見ますと、威圧的に神の恐ろしさを見せるのです。
そして言う事は立派な事ですので、つい神様として祀ってしまうのですが、その本質は違います。よく人間の体に神憑りしていますが、ああいうのは、自らの心を悟っていない(※迷い)霊が乗り移っているのです。
真の神の御心を知らない者、神の御心を日々の生活に実践出来ない者に、どうして真の神が憑られますか。
死んだ後に、強い思いを残してこの世に出る幽霊は、絶対に歓迎を受けません。誰も皆、お金は大事だと思いますが、そのお金さえ幽霊が出てきて言えば、もう要らないと言います。
これはこの近所の方の話です。そのおばあちゃんは、「ちょっと三千円貸してくれるか」「ちょっと五千円貸してくれるか」と言って、あちこちで沢山の借金をしたままよそへ引越しされました。借金の持ち逃げです。
「まあ、しようがないわ」と皆諦めていたのです。
するとある晩、そのおばあちゃんが、「こんばんは、皆のとこで借りたお金をまだよう返さないでいる。もうちょっと待っといてや」と言って、一軒一軒借りた家を回って歩いたのです。
それで近所の人が、「あんなに長い間何も言わないでいて、急に来てあんな事を言って、もうちょっと待って言うてる。あんたとこにも来たのかいなあ」という話になっていたのですね。
その後、何日かして、その家の若い息子さんと、近所の人が会った時に、
「えらい遠い所に行ったと言うけど、この間おばあちゃんがこちらに来て何軒も尋ねて歩いた」と言うと、「ええ?それはいつの事です」と、びっくりされたそうです。
そこで、何月何日だと言うと、その日はおばあちゃんはもう死んだ後だと言うのです。それでびっくりした皆さんが、「もう銭は要らんから、おばあさんに二度と出てこないように言うといて」と、家族の人にお願いしたそうです。
-----死んで出てきたら、金も要らん、物もいらん、愛もいらん、どうぞ二度と出てこないようにと言われるほど嫌われていたのです。
ですから、私たちは死んだ後、嫌われる様な所には出ないようにしましょう。死んだら生き残った人への執着を離して水臭くし、私達も死んだ人への思いを捨てて水臭くしたらいいのです。
私が「死んだら思いを残してはいけません。どれ程愛おしい方でも、どれ程大事な物でも、どんな大きな財産、地位、名誉であっても、そんなものは一切捨てなくてはいけません。死んだらもう心を離さなくてはいけません。後に残った者も死んだ人の後を追ったらいけません」と言いましたら、
「先生は水臭い。自分の大事な人を失ったことがないからそんな事が言えるのだ」と言って怒られました。
「いや、私も大事な人を亡くしました。しかし、生きている者は死んだ方から思いを離してあげて、極楽の世界に旅立ってもらうように仕向けなくてはいけません」そう言うと、
「水臭い水臭い」と言って怒りますから、
「では、あなたは死んだ人が出てきたら喜びますか」と聞くと、
「いや、やっぱり気持ちが悪い、恐ろしくて嫌です」と言われます。
この世を去った時、私たちは素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。その素晴らしい世界に帰るためには、先程から言っております様に、この世の一切のものから思いを離す事、そして自分の心の荷物を少しでも軽くする事、それと自分の行く世界をはっきりと知っている事です。
そうすればもう迷うことはありません。私にご縁のあった方は、亡くなったら皆綺麗な顔をしてくれます。それは皆迷っておられないから、綺麗なお顔をしているのです。
ご縁のある方は皆、「安らかな綺麗なお顔で極楽往生してくれました」といって連絡して下さいます。それは、その方が(※正法を知り)自らの心に目覚めて、光に満たされるから、安楽往生が出来るのですね。
その人の長所を見つけて礼拝する
指導者が人を中傷し、嘘をつく、そんな方の教を信じて散々悪口を言って、嘘をついて歩いていたなら、間違いなく地獄行きです。指導者が人の悪口を言い、嘘をついているのだから、学んでいる人達は又同じように人の悪口を言い、嘘をつきます。
嘘を言って多くの方を騙したり、人をけなしたり、人の悪口を言ったりしていて、死んだ時に極楽に行けるはずがありません。熱心な弟子ほど教えを守りますから、その指導者の様に生きるはずです。人をけなしたり、自分が地獄に行くという事を覚悟して、人をけなしたらいいのです。
人を褒めなさい。そして感謝しなさい。褒めてもらって怒る人はありません。その方の素晴らしい所を見つけて下さい。
まあ「観自在菩薩---アバロキティーシュバラー」ですね。観自在菩薩の、「観」は見る、「自在」は自由自在です。灰皿一つ見ましても、上から横から底から見ますと、それぞれ形が違いますように、人間もその方を見た時、長所もあれば短所もあって、それでこそ人間です。
完成された方は一人もおられません。欠点の無い方はこの世に生まれる必要がありません。欠点があるから、生まれてきているのです。
この欠点を取り上げて、「あの人はああだこうだ」と貶している人の方がおかしいのですね。皆、欠点はあるのですから、それよりもその人の持っている素晴らしいものを見付けて褒め称えたらいいのです。
自分の身近な方を褒め称え、信頼し、そして礼拝(らいはい)したらいいのです。それでこそ本当の神の信仰につながります。
家庭の中で、或いは職場の中で人様を礼拝させてもらえばいいのです。
私の所に来て頂きましたら、「有難うございました」と合掌して迎え、治療させてもらっても、「ああ、有難うございました」と合掌してお礼を言わせてもらいます。その方の仏性に礼拝するわけですね。
その方もみな神の心、仏の心を持っておられ、素晴らしい面を持っておられます。「あの人にはあんな素晴らしい所がある」「この人にはこんな素晴らしい所がある」と見付けて、それを褒め称えるのです。
それを、いい所を見ないで、悪い所ばかり見付け出して、文句を言って喧嘩をしています。新しい畳でも叩けば埃(ほこり)が出る様に、過ちのない人間は一人もありません。
過去を振り返ってみましたら、どんな方でも「私は未だかつて過ちを犯した事はありません」と言える人は、一人もいないはずです。今は犯していなくても、過去において犯しているかも分かりません。
ですから、人の過ちを掘り下げるのだったら、自分の過ちをせいぜい探すといいのです。人の過ちを探している暇があったら、自分の過ちをしっかり探して、自分の間違いを掘り起こせばいいのです。これは反省です。
自ら法の後継者と称しながら、「私は一度も過ちを起こしていないから、今まで一度も反省をした事がない」と講演をして威張っている指導者もあります。
今日来て頂いている若い方は、この間から一週間、奈良のY先生の内観道場に行き、その帰りにここへ寄ってくれたのです。一週間よう頑張ってくれました。本当にご苦労様でした。
私たちは自分自身の心を見つめ、内観或いは反省する事なしには、自分の過ちに目覚める事が出来ないのです。反省、内観は神の与え給うた大きな慈愛です。私も反省させて頂くまでは、全て自分が正しく、人が間違っていると思っていました。
自分がどうであったか、果たして過ちを犯していなかったかと追求していきますと、もう、あるわあるわ、過ちの塊(かたまり)みたいなものです。
よくまあ、こんな自分が今日まで生きさせてもらったことだ、皆さんの許し、神様の許し、そんな大きな愛の中に許して頂いて初めて、今生きさせて頂いているのだなあという事が分かります。反省なしにそんな事に気付く事は出来ません。
反省もした事もない指導者が、どうして人に反省の指導ができますか、できません。そして反省の中で己自身の哀れな姿も見せて頂けます。本当に哀れな可哀想な自分も見せてもらう事が出来ます。人はみな可哀想な存在です。
この世に生まれた以上、愛しき者と別れなくてはいけない、又巡り会った方と別れなくてはいけない、そしていつの日かこの世を去っていかなければいけない、そう宿命を背負ってこの世に生きているのです。
又人生というのは自分の思う様にはなりません。「ああしたいなあ」「こうしたいなあ」と思っても、どうする事もできないしがらみの中に自ら縛らせている自分の姿も、反省する事によってはっきり拝めます。
そして自分が許して頂いているのだから、人様を責めるような資格が自分にあるのだろうかと思いました時、そんな資格は一つも自分にはない事が分かりますね。何の過ちもなければ、人を責める資格があります。
しかし、そんな方は一人もありません。過ちを繰り返し、本当に正しい道を知らないが為に、愚かにも過ち犯し罪を作り、やがて地獄に落ちるのです。私達は過ちに目覚めなければ本当に地獄に行きます。生きながら地獄の毎日です。
愚かにも悪行重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国
となります。
しかし己の罪を悔い改め、日々の生活を通じて正しい教え、神理の中に己の行ないを行じていきますと、やがて光に満たされます。
日日(にちにち)に神のみ胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ
地獄の底に真っ逆さまに落ちないように、毎日の生活の中に神の御胸(みむね)に抱かれて、そして光の国に住まわせてもらっている喜びですね。
愚かな過ちの多い私でも、こんな幸せを毎日送らせてもらっています。そして数限りない多くの方から愛してもらえます。
なぜ私が、多くの方から愛して頂けるのでしょう。それが私が人を愛するから、人は私を愛して下さるのです。愛するが故に愛され、与えるが故に与えられます。これは法則ですね。
だから幸せになりたければ、人様を幸せにしたらいいのです。その時、必ず自分が幸せになります。不幸になりたかったら、周りの人をいじめて不幸にしてやれば、必ず不幸になります。簡単に幸せにも不幸にもなります。
山彦は山に向かって声を発しますと、そのまま山に当たって返ってきます。「オーイ」と言えば「オーイ」と、「アホー」と言えば「アホー」と、返ってきますね。狂いはありません。過ちの行為をすれば、それは過ちとなって自分に返ってきます。
償いの法則
善悪の行為が自分に返ってくる場合、時間に関係があります。縁によって、つまりその相手との縁、或いは出来事の縁などの縁上(えんじょう)によります。
二十日(はつか)大根は種を播いて二十日経過すればもう収穫がありますね。豌豆(えんどう)や野菜は三ヶ月から五ヶ月ぐらい経てば収穫できます。桃栗三年、柿八年といいます。檜(ひのき)は四十年、五十年しなければ伐採できません。
そのように早く現れる場合と、長い時間経って播いた種が返ってくる場合と、色々あります。
播いてしまった悪い種は、必ず成長して収穫されて自分の許(もと)に返ってきますから、これを何とか自分の許に返らない様にしなくてはいけません。その為には、善い行いをもってするしか、消すことが出来ないのです。
「償いの法則」ですね。一つの悪にたいして、必ずその善の償いが要ります。山林業をされる場合でも、山の木を伐採して放っておくと、のちに雑林の山になります。伐採の償いとして次の苗木を植えておかねばいけません。
過ちに一つ気付いたら、それに代える罪の償いをして、何か一つ善い行いを積んでいくのです。一つの悪を犯して、「ああ私は悪い、私はもう罪人だ」といって自分を苦しめては、神のご意志に背きます。悪に目覚めた時に、その悪を土台として、良き行いを積めばいいのです。
あのジャン・バルジャンは、路頭に倒れて、のたれ死になりかけていた所を神父さんに助けてもらい、下男として働かせてもらいます。
恩を知っていれば、そこで恩返しをしなくてはいけませんのに、ジャン・バルジャンは教会にあるお盆や燭台、その他色々な金の装飾品をみな袋に入れ、それをかかえて逃げてしまいます。
それらを元手に大きい商売をして大富豪になりました。しかし自分の犯した罪が、自分の良心を責めます。そしてその償いとして、盗んだ燭台や道具以上の物を返し、又多くの方々の救済に当たりました。
数限りない人々を、その償いとして救われたのですね。この場合、たとえ神様の物を盗んでも、それによって目覚めて、今度は大勢の人を救いました時は、神様は必ず喜んで下さいます。
「あなたは目覚めました。よくそのような気持ちになってくれました。私の燭台を盗んだ事は許しましょう」と言って許されるはずです。神様が1番喜んで下さるのは、神様の意志に沿った行為をした時です。いくらお金を供えても、神様には必要が無いのですから駄目です。神様はお喜びになりません。
全財産あげても神は喜ばれない
ある方はT教を信仰されて亡くなりました。ものすごく素朴な信仰をされましたね。現在は違うそうですが、昔は「家も屋敷も上げてしまえ」と言って、みな上げてしまえという時代があったようです。
その頃、その人は家も屋敷も田も畑もみな上げてしまったのです。その息子さんが、お父さんの亡くなった後、法にご縁があって、自分の意識を開いてあの世を見てこられるようになられたのです。
その息子さんはT教団の子として分教会の中で貧しい貧しい生活をして成長されました。その息子さんが、
「お父さんはあんなに熱心な信者であったから、さぞいい所に行っているだろうなあ」と思って、光の世界をずうっと探し求めてこられたそうです。
ところが、上の方にはどこにもおられないのです。「まあ、あんなに物を上げても高い所には行かれないのだなあ」と思って、天上界の低い段階を次々探していってもそこにもおられません。
「おかしいなあ、どこかにおられるはずだ」と思って、今度は幽界からもっと下の世界、薄暗い世界へと探していきますと、地獄の薄暗い所で、向こうからお父さんが荷車を引いて廃材を荷車いっぱいに積んでやって来ました。
明治時代の人ですから荷車を引いているのです。お父さんは自分の息子さんが、自分よりも歳がいっているので、もう分からないのですね。
「死んだ後でお父さん、何をしているのですか。そんな所で」と声をかけると、「アンタは、誰かいな」と、逆にお父さんが尋ねます。
「僕や、○○や」と言うと、「ああ、そうかいな。ワシわな、家も畑も田んぼもみな上げてしもうて、子供を育てるのに本当に申し訳ない事をした。
こんな事だったら、子どもはちゃんと自分の家で育てて大きくすべきだった。家がないという事はこんなに辛い事だ。何とか自分の家を建てようと思って、今こうして一生懸命働いているのだ」と、このお父さんは地獄で材木を運んで家を建てようと思っているのです。
全財産を上げても極楽へは行けません。神様は財産をお受け取りになっていないのです。仮に神様に文句を言ってみなさい。
神様は「私は何ももらっていません」と言われます。
上げたものは教会、或いは教会の中におられる人間が掠(かす)め取って使われたのであって、神様の許(もと)にはいっていません。
神様は、私達よりもなお恵まれない不幸な方に、たとえ僅かでもいい、無駄遣いを少なくして、その人達に役立てて下さいとご喜捨させて頂いた時、
「あなたはよくしてくれます。あなたの行為は私が頂きます」と言って下さいます。
それは何故かと言うと、神様は
「私は人を救いたい、人々を幸せにしたい。しかし私はその行為を現す事ができない。愛ゆえに身を滅(めつ)した者である」と言われ、助けてあげたいと思われても、それを現す事ができないのです。
神の御心は愛の思いでいっぱいです。その神の御心を私達が行った時、神様は「よくやってくれました。私の思いはあなたが果たしてくれて、ありがとうございました」と喜んで下さいます。受け取って下さいます。
そんな事があるだろうかと思いますが、河内の国分でこのお話をした時の事です。固い蕾(つぼみ)のチューリップを何十本か生けて下さっていましたが、みな首を曲げていた蕾が、その途端に立ち上がって、パーッっと一斉に花が咲きました。
ワーッとその場で開いたのです。二部屋向こうの鏡台の上に一輪挿しで生けてあったチューリップも一緒に開きました。見ておられた皆さんが歓声をあげて驚かれました。
自然現象であったとしたら、蕾は必ず時間をおいて次々開いてくるはずです。「ああこれが開いたなあ、ああ次はこれが開くなあ」という様に開くのが普通ですが、同時に全部揃って開くのです。
これは、私が話させて頂きました事を、神様が「その通りだ」といって証明して下さったのです。私の話は間違いないと神様が認めて下さったから、こういう不思議な現証を見せて頂けたのです。
もし間違っておれば、そんな事は起きません。チューリップの蕾が一斉に開いても、その中の1本だけが開く前はこうだったのですよと教えるように首を曲げて、元の姿の証として残っていました。
正しい神理は、話す言葉の中に神の力が宿ります。言霊です。その言霊によって植物も動物もすべて反応してくれます。神が証をして下さるのですね。私にはそんな力はありません。ただの凡夫ですが、しかし日々の生活で心の調和とその実践が神様に通じます。
過去7年毎晩坐って反省禅定をしました。今年から坐らせて頂くのは月・水・金になりましたけど、最初は二、三人の方と始めたのが、今では三十人、四十人集まってこられるのです。
そいういう風な心の調和、そして行いですね。行ないなくして神の道に入る事はできません。正しい神理に叶った「祈り心」の生活です。
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
死を迎え、死を送る心の準備
人は遅いか早いか必ず死ななくてはならない存在です。生まれるという事は、死を約束してこの世に生まれているのです。私たちは、別れを約束してめぐり合っております。死は避ける事の出来ないものであれば、その時の心の準備が大事です。
この世にオギャーと生命を頂きますと、その時から死への旅路が始まります。若くて元気な時は、永久に生きるが如く錯覚を起こして生活しています。しかし、間違い無しに一日一日、或いは一分一分、一秒一秒と死に近づく旅路をしております。
そして死んだ時、死とはあの世へ帰ることですね。それは何ら恐ろしいものではありません。知らないから恐いのです。
人はこの世に生きていると思っていますが、心はあの世の世界のものです。あの世の世界の心が物質と化した肉体の中に宿っているだけです。
死とは、着ている服がボロボロになったから脱ぎ捨てて、生まれたままの裸になるだけの事で、肉体とは服のようなものです。
わが師、高橋信次先生は魂の乗り舟とおっしゃいましたね。この肉体とはこの世からあの世へ魂が乗っていく舟だとおっしゃいます。
肉体舟、この肉体という舟がボロボロになったからといって、舟に乗っている人が傷つくかというと、そんな事はないのです。
或いは着ている服が傷んだから私の肉体がボロボロになったのかというと、それは関係のない事で、脱げば同じことです。
しかし、肉体と自分とが同じだと思っているから、恐れ苦しまなくてはならないのです。私たちは皆いつの日か、あの世に帰っていかなくてはなりません。これは避けることが出来ないのですね。
もしこの地上に思いを残しますと、その思いが執着となってあの世に帰る事ができず、迷える霊となってしまいます。
自分は死んだらお墓の中に入れて頂こう、仏壇の中に祀って頂こうと思いますと、その思いの場所に自分の心は完全に留まります。
私たちは、死んで肉体を去りますと、「思い」だけの世界に入ります。「思いの世界」は、自分が思えばその場所に意識が行くようになっているのです。死んだらお仏壇の中に入ると思ったり、或いはお墓にお参りして、
「早くお迎えに来て下さい」と祈っているお年寄りがよくありますが、そのように願えば、お墓とかお仏壇に入ってしまいます。そこに入ると思っておれば入るのです。
絶対にお墓やお仏壇に入ってはいけません。この地上界の何ものにも思いを残してはなりません。お仏壇、お墓、財産、名誉、愛しい方など、この地上の一切から思いを放して初めて、極楽の世界、素晴らしい魂の世界に帰る事が出来るのです。
このお話をしますと、皆さんから「水くさい」と言われます。しかしこの世を去って、愛しい者や心配のある方の所へ現れますと、決して歓迎は受けません。死後、お葬式も済んだ後に、「私はあんたらの事が気になるのだ」と言って出てきてご覧なさい、誰が歓迎してくれますか。
幽霊は若いお母さんが多いです。子どもを抱いたお母さんはその情の故に、愛の情けの故に迷うのです。肉体を持った私達もそうです。
情けに流されたら迷い、そして、苦しみの中にはまります。死を境として歓迎してもらえないのがこの世の定めですから、もう一目散に走っていくことですね。
命が終わりました時、自分が死んだと気づかせてもらったら、振り返る事無く、この地上界のすべてから思いを離してふるさとへ帰ることです。
正しい生活、正しい法の中に生きた時、私達は苦しみから解脱する事が出来ます。死んでも迷いません。そして自分の帰っていく世界がちゃんと分かります。自分はこの世を去った時、あの辺りの世界に帰るのだという事が分かって、心が安らぎます。
私はあの世に帰る時は、このようにして帰ろうと思っています。
たとえどんなに苦痛に襲われても、近くにいてくれる方に
「有難うございました。本当にお世話になりました。どうぞしっかり法を実践して幸せになって下さい」と、この世にある限りの力を振り絞ってお礼を申し上げたいと思います。
そして「今この場におられない方々にも、もしお会いになったら、どうぞよろしくと、私からのお礼を伝えてください」と、これだけは言わせてもらわなくてはいけないと常に思っております。
また、肉体を頂いて今なお死のチャンスを頂かずに生き残った私達が、亡くなった方に対して、「どうぞ私について下さい、私を守って下さい、私と一緒にいて下さい」という思いを祈りますと、その思いが亡くなった方の行く手を遮(さえぎ)り、自分の方へ引き戻す事になります。
これは供養の反対になるのですね。亡くなった人に対して、「生前は色々ありがとうございました。お陰様で私もこの世の喜びを頂きました。
お亡くなりになれば、この世とあの世とは世界が違いますから、私たちは精一杯生きて参ります。どうぞご安心なさって極楽の世界にお上がりになって下さい」と言って送り出すのが、後に生き残った者の定めであり、義務です。
いつの日か、あの世のふる里に帰らねばならないのが私達の定めですから、その時の事を今からいつも練習しておくといいと思いますね。
その時に慌てなくて済みます。
或るお年寄りとの対話
先週の日曜日、Fの地に招いて頂きました。三階の広間が会場になっていましたが、エレベーターがありませんでした。或るおじいちゃんが両側から抱えてもらってやっと部屋に入って来たのですけど、入るなり机の前に倒れてしまって息絶え絶えだったのです。
ちょっと息を整えてから私の前の机に坐られましたが、ひどい喘息の発作で苦しそうでしたので、「喘息を止めましょう」と言って光を与えますと、忽(たちま)ち発作は止まりました。
半時間ほどそのまま話をさせてもらってから、「おじいちゃん、発作は止まりましたね」と声を掛けますと、「いや、わしはじっとしてたら、喘息は出ないのや」と言うのですね(笑い)。
「じっとしてたら出ないと言うけど、今まで出てましたよ」と言いますと、「家でじっとしてたら出ないのや」、こうして階段を上がって来て動いたから出たのや」とおっしゃるのです。
「まあ、それは結構でしたね」と言ったのですが、その方は家にいても喘息が出て苦しくてたまらないから会場に来ておられるのです。
以前から苦しいので助けてあげて下さいという事で、名刺に書いたものを渡してあったのですが、いつもその名刺にお祈りをして、「長尾先生助けて下さい」と言い続けておられたというのです。それが、私に「あんたなあ、喘息が止まったのはあんたに関係ない」と言われるのですよ。
「今私が、どうぞこのおじいちゃんに光をお与え下さいと言って神様に祈ったのを見たでしょう」と言っても、
「そんな事で治るはずがない」と言い張っていますから、
「では、おじいちゃん一度階段を下りて、走って上がってきて下さい」と言いますと、「そんな事をして苦しゅうなったら叶わんから、そんな事はしない」と、しぶっています。
「でも、しなくては分からないから、行ってきて下さい」と言うと、おじいちゃんはしぶしぶ出て行かれたのです。
ところがおじいちゃんは、「不思議だなあ、わしが走って上がってきたのにどうもないわ」という事で、それからそのおじいちゃんと私との愉快な対話が始まりましてね。もう皆さん、大笑いされましたね。
「わしは朝1時間と晩1時間ずっと毎日神さんと仏さんを拝んでいる。あんたも拝んでいるのかい」と言われるから、
「私は拝んだ事はありません。私が祈るのは、朝の祈りはトイレの中です。
夜の祈りはお風呂です」と言いますと、
「まあ勿体無い。あんたようそんな事するなあ」と、びっくりされます。
「しかし、私はお尻を出して神様にお祈りをしても神様は聞いて下さいます。生まれたままの姿でも神様は聞き入れて下さいます。おじいちゃんは、神様を拝もうと思ったら、歯を磨き、手を綺麗にして拝んでいるでしょう。でも神様は聞いてくれないでしょう」と言うと、
「その通りや。どうしてこんなに差があるのか、一度聞かしてくれえ」と、まるで叱られているみたいなものでした。
本来心は清浄なるもの
なぜ、私は拝まないのに神様はあなたの病気を癒やして下さったのか、おじいちゃんは一生懸命拝んで自分の病気さえなぜ治して頂けなかったのか。
私達の心は本来清浄なるものです。オギャーと生まれた時は何の曇りもありません。全部素晴らしい清らかな心を頂いて生まれさせてもらいました。その証拠に、どんな赤ちゃんの顔を見ても全部可愛いです。どんな赤ちゃんの顔も全部安らかです。
なぜ、そのように安らかであるか、そして可愛いのかと言いますと、それは心が曇っていないから、あのように素晴らしい顔になるのです。
それが段々とこの世の風に当たりまして、人様との出会いがあり、出会いによって体験する出来事があり、この出来事の中で清浄な心を次第に曇らせていくのです。
私達の心は自分にとって都合のいい時は安らかでいられるのですが、自分にとって悪い都合の出来事が起こった時、必ず苦しみます。
腹を立てたり、愚痴を言ったり、相手を恨んだり、憎んだりして、その都度自分の清らかな魂を曇らせて汚していきます。
本来は丸く豊かな心を頂いて生まれました。怒り、妬み、謗り、愚痴、不要な心配、取り越し苦労、不安、恐怖などによって自分の心を曇らせた時に、その清らかな魂からモクモクとスモッグが出てきます。
その吐き出したスモッグによって自分の魂の周りを包(くる)んでしまうと、スモッグが私達の肉体や顔に形となって現われてきます。
苦しんでいる方のお顔を見たら、苦しい顔をしておられる。喜びに満たされた方のお顔を見たら、喜びに満たされております。しかも顔だけではなく、肉体そのものも喜びに跳動しております。
悲しみに打ちひしがれている時は、必ずそういう顔になっています。肉体そのものが表現しており、これは避けることができません。赤ちゃんは何の曇りもありませんから、あのように安らかで清らかです。
苦しみの原因を断つこと、その方法
私たちは、まっくろけにスモッグを出しても魂そのものは汚れていないのです。その周りが曇っているだけの事です。
常に反省させてもらって、自分の過ちを正す事によって自分が出したスモッグを薄くしていく事ですね。スモッグを打ち消す方法として1番大事な事は、今後の生活で心のスモッグを出さない事です。
後から後からスモッグを出したら、いくら反省して消そうと思っても、尻から出せば同じことです。
先日も或る地方にいって。「皆さんおならを落とした経験がありますか」と言うと、皆へへへと笑われます。おならと言えば上品、屁をたれると言えば、先生はえらい下品な事をおっしゃると言われますが、しかし現実に屁をたれない人はありません。
しかもこのおならには、頂いた食物という原因によって臭いという結果が色々に変わります。これは原因・結果の法則です。
ニンニクを頂いておならをすると、これはとても叶いません。お豆腐などのあっさりした蛋白質のものを頂いたら、おならもあっさりしています。これはなぜそうなるかと言うと、原因があれば必ず結果が現れるという法則に従っているだけです。
「この臭いは叶わないから、神様どうか臭いを取って下さい」と祈っても、自分が臭い原因を作っておきながら、滝に打たれたり、護摩を焚いたりしても取れるわけがありません。
あと出さなかったらいいのですが、お参りをしながら尻から又おならを出す、すると又臭いがします。他力信仰というのは、これとよく似ているのです。一生懸命に、
「福を下さい、健康にして下さい、幸せにして下さい」とお祈りをしましても、不幸になる原因、悲しみの原因、苦しみの原因である屁を自分がたれていたら、いくら拝んでも同じことで、臭いはプンプンとしてきます。まず、お尻をちゃんと締めて屁を出さないことです。
有り難い事に、神様は自然浄化作用、自然治癒能力という愛をこの地上界に与え給うております。一度臭いにおいを出したとしても、あと出さなかったら、何も拝まなくても、臭いは自然に消えていきます。
自分が臭いの原因、苦しみの原因を続けますと、永遠に救われる事はありません。一度で止めれば消えるものも、何回も出したのでは繰り返しになります。
こういう話をしますと、先生は不謹慎だ、神様の話をしながら屁の話をしたと怒られますが、これは神理です。
どれほど熱心に信仰しても、どれほど素晴らしい教えを受けても、どれほど素晴らしい加持祈祷をしましても、自分がその原因を断たない限り、その結果は消えません。
私の信仰とは「行ない」であり、信仰とは屁をこかない事です。屁をこくという事は、苦しみの原因を作る事です。苦しみの原因を作らない事によって自分が苦しむ事が無くなってくるのです。
屁たれ虫という虫がおります。
2センチぐらいのチョコチョコ走る虫で、棒でお尻を抑えるとブーっと煙が出てきます。私ら幼い時に、あれを「へったれ虫」と言いました。
拝んでばかりで、その端から苦しみの原因を出し続けている方の信仰を、「お宅様の信仰は屁ったれ虫信仰と言います」と、私は言うのです。いくら拝みましても、朝から晩まで拝んでも、幸せにはなれません。
Y先生が、石川県にいる教え子で、もう40代の方ですが、その方にお話のテープを送られたのです。そしたら、護摩も駄目、お経を上げても駄目、拝んでもらっても駄目だったのが、そのテープを聞いた時ものすごくショックを受けられたそうです。
「自分は今日まで数々の過ちを犯してきた、一体この過ちをどうしたら救われる事が出来るか、話が筋立っているので、救われる道が無くなったら、一体私はどうしたらいいのか」
と思って、三十数回もテープを聞き直し聞き直しして、救われる方法をどこかに話しておられないかと思って探されたそうです。
ようやく最後の方で「悪をとどめて善を積みなさい。その事によって罪は許されるであろう」という言葉を見付けて、「初めて分かった」と言われたそうです。
同じことをしゃべっているのに、一度も直接お会いせず、テープを聞いただけでものすごくショックを受けて、こえはえらい事だと思って下さる方もあれば、直接話を聞いても、ははは面白かったなあと、少しもショックを受けないで済んでしまう方もあります。
1番大事な事は、スモッグを出さない事ですね。観念、行為、言葉のおならを落とさない事です。おならを出せば臭いですからね。しかし心から出してしまったスモッグは、これは払わなくてはいけません。
それでは、払うのにどうしたらいいかと言いますと、反省をさせてもらうのです。常に自己反省をする事です。
つまり幼い時から今日まで一体どういう生き方をして来ただろうか、過ちはなかったか、人様に見られて恥ずかしい事はしなかったか、あの時にあれさえしなければ良かったと思うような出来事を作ってはいなかったか、
誰も見ていない、誰も知らないからといって、もし見られたら恥ずかしい行ないをしなかったか、或いは心の中の思いはどうであったか、これらが全部スモッグとなっておりますから、反省させて頂いて、そしてその過ちを一つ一つ悔い改めた時に、スモッグは薄くなっていきます。
仮にスモッグで心の中を真っ黒にしましても、その外側も内側も何ら変わりはありません。地球の周りがスモッグで取り囲まれても、その外には太陽の光が燦々(さんさん)と注がれております。
スモッグの層が厚くなりますと、太陽の光は遮られ、地球には届きません。そのスモッグは太陽の熱、光と化学反応を起こして、光化学スモッグとなり、目がチカチカしたり、皮膚が痒くなったりします。
そこへ硫酸の雨が降って、森林が全部枯れた場所というのが地球上にいっぱいあるそうですね。テレビで映していました。
あれは人間が出したスモッグによって、化学反応を起こして酸化した雨が降ってくるから、樹がみな枯れてしまうのです。
それと同じ事が心の中で起こります。神様の光が燦々と注がれる中にあって、自分の心から出したスモッグによって、その神の光を遮って、通らなくしています。スモッグによって完全に光は遮られます。
しかも化学反応と同じように自分の心を腐敗させるような作用も起きますから、このスモッグを出さないことが大事です。
次に、今度は法を学ぶことと、反省をすること、そして自分が過ちを認めた時にこれに代わる償いの善き行いを積み重ねていくことです。
そのことによって魂が清められてきます。スモッグが薄くなっていきます。雲間からサーッと太陽の光が射している光景も見られた事があると思いますが、あれと同じ状態が私達の心の中に起こります。
その時、内なる神と外なる神が一体となって繋がります。私たちは皆神の御子です。
「私は神」と「私は神の分け御霊」
或る人が私の所に見えて、「私は神であるという事を悟り気付かせて頂きました。私は神です」と言うので、神のごとく生活していないのに恐れ多い事を言うなあと思っておりました。この人は肉体の痛い所が多く不調和な方でした。
例えば太平洋が神様としますと、この一滴は海ですよ、太平洋ですよ、と言えば笑われます。太平洋の水ではありますが、即ち太平洋ではありません。しかし汲み上げた一滴の水が太平洋に帰った時、私は太平洋の一部ですと言えます。
それと同じことで、私たちは神の分け御霊です。尊い大生命の中から分かれさせてもらった神様と同質同根の生命です。しかし、私たちは神ではありません。神の分け御霊です。
そのように思わせてもらったら間違いないのではないかと思いますね。神の如く生きないで、私は神だ、私こそ神だとは言えません。神様の如く生きてこそ神と言えると思います。
沖縄にイエス様の話を翻訳なさったN(仲里)先生という方がおられます。その先生の名刺を頂きますと、「いと小さき神理のメッセンジャー」と肩書に書いておられます。
私は「いと小さき神の御使い」、つまり私たちは皆いと小さき神の御使いとして生きさしてもらっているのです。それを自覚したらいいですね。
「私は神の使者として生きさせて頂く事に目覚めました」と言って、その会場でお話させてもらったのです。スモッグを払った時、燦々として光が注がれます。その時、望むことなしに現証はあらわれます。このようにFの会場で説明させて頂きました。
お年寄りの対話の続き
先のおじいちゃんがこの様におっしゃいました。
「私は今日まで色んな宗教を渡り歩いてきたが、納得がいかないから、その都度疑問に思うことを色々質問させてもらった。ところがあんたは生意気だから後ろへ行けと言っていつも追い払われた」と。
あまりしつこく聞かれて説明が出来なくなり、ひどいところではもう出て行けと言われたそうです。
ところが、こうして納得のいくまで教えてもらいましたと話されているうちに、先程まで「あんたあんた」と呼んでいたのが、急に「先生」に変わりましたので、先生なんて言わないで下さいといったのですが、
「大体、先生は姿や形が貧弱だからいかん、先生だったらもっと偉そうにしておれ」と言うのです。
そして終わりになりましたら頭を机に擦り付けて、「先生、わしはもう80何歳になったが、こんなありがたい先生にめぐり合わせてもらって、あの世に帰る時のおみやげを頂いた。年に一度か二度しか会えないけど、どうか私を導いて下さい」と言って、ひれ伏して拝んでくれました。
それで、私が「寄せてもらっても、一切の求める気持ちはありません。ただ縁のある方が幸せになってくれたらいい、不幸な方が救われてくれたらいい、その思いだけで日本国中回らせてもらっています」と言いますと、
「それでは何をして食うてるのや」と尋ねます。
「私は一生懸命働きます。自分の食べる分ぐらいは自分で稼ぎます。そして余ったお金を旅費にして、会場を借りて頂いた場合は、私も負担して全国を回っています」と言うと、
「あんたよっぽどボロイ仕事をしてるのやなあ」(笑い)
「いやいや、私は普通ですけど、神様が与えてくださったのです。私はもう結構ですから、これ以上頂きませんようにと言いましても、神様の方がいやいやあなたにはもっとしてあげなくては気が済まないと言って下さいます」と言うと、「あんた得な人やのう」(笑い)
まず自分が出しますと、普通は損をすると思いますが、しかし出すと必ず入ってきます。出させて頂くと入る、出すと又入ってきます。
これが自然の法則ですね。だから、常に出させて頂く事を日々の生活に隠れて行っております。
これは、喋りますと損します。喋りますと、それはみな赤字になります。しかし私は敢えて天の蔵から皆さんの為に放出して損をさせてもらいます。
火事の時も神から守られる
この前の金曜日でしたか、夜、皆さんがおいでになってここで禅定をさせて頂いていました。皆さんと坐っておりましたら、静かにそこを開けて小声で「萌えてますよ、燃えてますよ」と言われるので、何を仰るのかと思って、静かに目を開けて「ああ燃えてますか」と外に出てみますと、一軒おいた家がボウボウ燃えているのです。
火の粉が飛んできて、しかも台風の夜で、風がこちらに向いていますから、これは危ないなあと思いました時に、急に風向きが変わって反対に吹き出しました。
それで「もう皆さん心配ありません。どうぞ安心して下さい」と言って、私は燃えている火の元を消しに行っておりました。一軒おいて隣から十軒燃えたそうです。
大火事で、そこへ台風でしたが、さすがに皆さんは私の心の友で、心ができておられます。二階に上がって火事を見物なさっています。
普通だったら荷物を担いで出る所ですのに、燃えている隣の家の屋根に上がって火事見物をしておられるのです。
私は火を止めるのに必死の思いで走り回っているのに、二人のお客様は火事見物をしておられました(大笑い)。心を学んでいても、各自その人その人の心の段階があります。
しかし本当に有り難いことで、瞬時にして風の向きを変えて頂いて、二階から見ておられた方は、火がこちらに来ても、途中で炎は向こうの方へいったと話しておられました。その御蔭で焼けずに助かりました。
もし燃えてしまったら、皆さんが集まる場所が無い所でした。神様のお陰だと思って心から感謝しました。
皆さんの「心のふるさと」が燃えたらえらい事でしたが、ほんとうに神様のお陰ですね。こうして守られている、守って頂いているという事が、ひしひしと感じられます。
光に満たされると病(やまい)が消える
先日F市で質問の時間を頂きました時、或る50代の男の方が手を挙げられました。「どうぞ」と言いますと、「質問はないのですけど、先生に御礼を申し上げたいのです。私はぎっくり腰で今日はタクシーに乗ってこの会場まで
来て、人の手を借りてやっと部屋まで来たのですが、今は全然何ともありません。お話を聞かせてもらっている間に腰痛が治り、何とも無くなりました」と言って、前で体操をしておられるのです。
すると、肩の痛かった方が何人も、「そういえば、私も何ともありません。治った治った」とおっしゃいました。
それは何故かと云いますと、その会場が光に満たされるのですね。光に満たされますと、あそこが痛い、ここが痛いという闇が消え去られてしまうのです。肉体の不調和、つまり痛い苦しいというのは全部闇です。
その闇は法の光で照らされた時、光に逆らう事は出来ませんから、痛みが消えてしまうのです。こういう事はよく御座います。
お医者さんから見放された肝硬変の方が、お話を聞いて頂いている途中で、完全に治ったという例があります。そのお医者さんはなぜ治ったのか分からないとおっしゃっていますね。まさに奇跡です。
一般的には全く考えられない事ですから、奇跡が起きたと仰るのです。しかしそれは光によって闇が払われただけの事です。そのように寄せて頂く先々で、信じられないような奇跡を見せて頂きます。
病気の原因は肉体を支配する「心」
すべてがそうだともいえませんが、病気というのは、心の不調和が集まり集まって、肉体の上に形として現れたものです。現象化した私達の肉体を支配している支配者とは、それは私達の「心」です。
心は肉体の目では見る事が出来ません。しかし、今日お話会がある、では寄せていただこうかと皆様は心に決定を下されたはずです。
そして、肉体がそれに従ってこの場所に集われました。もし、「ああ、私はもう止めておきます」と、心に決めますと、この場に肉体は絶対に来ません。心はそのように、決定権を持っております。心が支配するのであれば、病気も同じように心の支配を受けます。
奇跡の人 天に愛された福の神 長尾弘先生
念力と超能力
或る先生は素晴らしいお話を毎月しておられるそうです。
その先生がこられた時の話ですが、日本の防衛庁にも、遅ればせながら超能力をもって相手のスパイ行為を探知するとか、
或いはミサイルを人間の念力によって破砕(はさい)するとかいう研究を進める期間ができて、その国家予算がこの程おりたそうです。
科学先進国の米・ソなどでは、国の研究として進められているそうです。ミサイルでも水爆でも、みなコンピューターで動いています。そのコンピューターを壊してしまえば爆発しないわけですが、それを上手いこと研究する機関が日本にも出来たのですね。
そこへ、その先生が教官として招かれたそうです。最初はそれと知らずに、一度来て下さいと招かれて東京に行かれたそうです。
すると、「コンピューターを念力で破壊する事が出来るのですか」と聞かれたので、「出来るでしょう」と言って、コンピューターというのはどんなものか見せてもらうと、3台あったそうです。
「A、B、Cのコンピューターを破壊させる箇所それぞれ別の場所を指定して潰しましょう」と言って、離れた別の部屋から意識を送られたら、3つともその箇所が潰れたとおっしゃっていました。
目の中に指を突っ込んで掃除をされるBさん、この方も超能力の持ち主ですね。念力で直径三十センチ程の水晶の原石に穴を開けられたという事ですが、私はこんな真似はとてもできません。世の中には不思議な人もあるものです。
すべてを生かす力は「仏の心」
たまたま、私は潰れたコンピューターを直させてもらう体験をしました。Uさんは近くの大きな生コン会社の社長をしておられます。
そこのコンピューターが潰れて動かなくなり、専門家が何日も泊りがけで悪いところを調べて修理してくれたけど、コンピューターが動いてくれないのです。
そこで社員が相談して、専門家が来ても駄目だったら、長尾先生に頼まなければしょうがないという事になって、そこの社長から電話があり、一度お願い出来ませんかと言うのですね。
私はコンピューターは見たこともありませんから、「専門家に頼んで下さい」と言ったのですが、「専門家が駄目だから、先生にお願いしているのです」と言われます。
行きますと、事務所にコンピューターが据えてあって、現場の方にその指示をする機械が置いてあるのです。
私はコンピューターに話をする前に、どうぞこのコンピューターに調和の光をお与え下さいと祈ってから、コンピューターに、
「あなたもこの世にコンピューターとして生命を持たされたのですから、精妙なる働きをしなくて引けません。それをこのように不調和を起こすとは何事ですか。この世に現れた限り、みな使命があるのです。あなたはその使命を果たしなさい」と話しますと、コンピューターがパッと直ったのです。その後、一度も故障していないという事です。
ただ行かせて頂いて、コンピューターに話をさせてもらっただけです。そこで私にも壊す力が与えられていたら、良かったのにと思うのですが、私には、ただ生かすだけの力、ただ癒すだけの力しか与えられていないのです。
破壊する力は私にはありません。すべてを生かさなくてはいけない。その心こそ仏の心です。
もう私は羨ましがるのは止めよう、その人その人に与えられた使命でなさっているのだから、そういう力を欲しがってはいけないと、その時思わせて頂いたのです。
この話を福井でさせて頂きますと、或るおじいちゃんが「それはおかしい、そんな事はあるはずがない」とおっしゃるのです。
もしそうなら、機械が潰れた時はみな私が「直れ」と言えば直るのかと言われるのです。
それで、「そんな事を言っても、機械を直す為に専門家がいるのだから、故障すれば専門家が直せばいい、専門家がよう直さなかったら、私が直させて頂くのです」とお答えしたのですが、その後も随分逆らっておられました。
それで、「百聞は一見に如かずです。もしお疑いなら、私がその会社にご案内します。会社の方からあなたの納得いくように説明して頂けると思います」と言ったのです。
その時面白かったのは、コンピューターが直った後、二階でお茶を御馳走になったのですが、「先生、ついでにこの株をちょっと上げておくなはれ」と言われたのです。株券というのは今まで見たこともありませんでしたが、たくさん持っておられました。
私は「はい、はい」と言って、光を入れておきました。そうしますと、その年、何千万円かの赤字だったのが、株で儲かったお金を全部返して、まだ何千万円か残ったということです。
(会場に来ておられるご本人に「ほんとですねえー」と先生が声を掛けられて大笑い)
何千万円も儲かったのなら、その内少しでも私にくれてもいいのになあと思ったほどで(笑い)。しかし、光を入れると現実にそうなるのです。
喜びがその場所を清める
先日福井に招かれて、Fさんという大きな履物屋さんのお宅でお話させてもらいました。その町は静かな町であまりお客さんの動きもなく商売も成り立たないので、もういつ止めようか、止めようかと思っておられたそうです。
ところが、私が寄せてもらってから毎日入れ変わり立ち変わりお客様が見えて、思わぬ売上げがあったそうで、その場所が清められるのです。
なぜ清められるのかと言いますと、皆さんの「喜び」が、その場所を清めるのです。そして光に満たされます。光に満たされると、物事が上手くいくのです。それはそれは、「福の神様」を迎えた様に喜んで頂きました。
何年か前に岐阜に寄せてもらいまして、その後犬山の方へ行く途中で、或る大きなレストランに入り、美味しいフランス料理をご馳走になった事があります。ところが見渡しますと、お客さんが少ないのです。
「先生、どうかお客さんが多くなるようにして頂けますか」と仰るから、私は「はい、はい」と言って外に出て、駐車場の所で、「どうぞ光をお与え下さい」と祈りましたら、忽ちにお客さんがどっと入ってこられて、私達の坐る場所もないくらいになりました。私自身が信じられない事ばかりです。
その後1、2年して行きますと、「先生、もう一回前に立ってお客さんを呼んで下さい」と言われましたが、まあ、こんな事は絶えず起きます。
今日は犬山から、Mさんの妹さんもお越し頂いています。庭の○の木に何十年間実がついたことがなかったという事ですが、去年は実がいっぱいなったそうです。数え切れない程の小鳥たちが集まってくるそうです。
ですから植物も喜んでくれます。人間だけではありません。植物も光を頂いたら、実をたわわにつけてくれますね。すべてが調和されるのです。
調和は幸せの根源---紙屋さんの話
I島に行きました時に、紙を漉(す)いておられるお宅へ初めて伺いますと、ジャンパーを着て貧乏髭を生やしていかにも貧乏たらしく見えるご主人が、私を見てうさん臭そうにしておられました。
そこのお仏壇にお参りさせて頂きますと、たくさんの金が出てきました。おばあちゃんはその金を持ってご近所に店に回っておられました。
お仏壇の真っ黒けの位牌を拝みますと、忽ちに文字が浮かんできて、金箔を塗ったうるしの位牌が綺麗になりました。
ご主人が小学五年の時、修学旅行で奈良へ行き、金箔を塗った大仏様の小さいのを自分の小遣いを全部はたいて買ったというのが、お仏壇の奥から出てきました。これも真っ黒です。
お仏壇には、お仏壇の作法がございます。まず宗旨によって、正面の中央には御本尊様、右側には祖師様---その宗教を興(おこ)された方、左側には中興の祖---一旦滅びかけたのを再び興して下さった方をお祀りするのが普通のしきたりです。
真言宗の場合、中央の本尊は大日如来様、右に弘法大師、左に不動明王を祀ってあります。そこのお宅にはそういうものが何もないので、
やはり作法に従った方が宜しいと言いまして、その奈良の大仏さんの模型は毘慮遮○仏ですから、大日如来様をこしらえましょうと言って、光を入れて大日如来様をこしらえまして、真ん中に置きました。
次に、弘法大師の色紙がありましたから、それで弘法大師さんをこしらえて置き、不動明王の代わりには観音様の首の落ちかけたのがありましたから、
これで不動明王様をつくり、三体揃えて光を入れますと、忽ち真っ黒だった大仏様が光り輝いてきて、お位牌も真新しいようになりました。古いものは古いなりに光ります。
その方がおっしゃるのですね。働いても働いてもお金は溜まりません。その辺りにA教という宗教があるのですが、それを信仰したらお金が溜まると聞いたので、そこへ入ろうかと思っていたと言われるので、
「いやいや、そんなところに入ったら、余計貧乏になります。何故かと言うと、信仰したら必ずお金をあげなくてはいけないから、出した分だけ貧乏になります」と言ったのです。
「これ(※長尾先生の光・法の功徳)でお金が溜まりますか」と聞かれるので、「お金がいっぱいに溜まります」と言って帰ってきました。
その後、一年経ってから再びそこへ行きますと、きちんと背広を着てネクタイを締めてパリッとした方が迎えに来てくれました。
「あなたは初めてですか」と尋ねると、「いやあの貧乏の紙屋です」と言われるので、びっくりしました。
あれから紙が売れて、二千枚綴じた半紙を庭の土間から座敷まで山のように積んであったのが忽ちに売れて、注文に追いつかず、もう一年先までの注文が来ているという事です。
あの時、紙を安くたくさん買っておけば良かったと思うぐらい、それほど売れっ放しになっているのですね。主人いわく、「今度は紙の値段を高くして下さい」と。私は「知りません」と答えました。
この前の時、ご近所に金を見せに行かれたおばあちゃんが。「先生は本当に福の神様ですのう、不思議な方です」とおっしゃいます。
これは、ご先祖様が救われ、家中が調和するからです。光を頂いて調和しますと、身体は健康になり、商売は繁盛し、家の中が明るくなって、幸せが訪れます。
神の心を人間が具現する
人間は全部神の御子、神の御使いです。神様はなぜ人間をおつくりになったのか。神は自分の姿に似せて人をおつくりになったと聞いております。
では、人間に何をさせる為に姿を神自らに似せてつくられたのかと言いますと、それは、神の御心を人間が現してくれるようにい神様の模型をつくられたのです。
神はその愛の故に滅せられました。そして姿あるものを人間としてつくられて、この肉体を頂いた私達が、神の御心を、つまり神ご自身を具現---具体的に示し現す為に、人をおつくりになったのです。
だから、私たちは、神が何を望んでおられるか、まずそれを知らなくてはなりません。それを知るのが「法」です。そして法を知ったら、自分でよく考え、よく思い、今度はそれを行動に移していく事ですね。
神の心を、この肉体をもって現して神の心を現した事に対して、
「あなたは神の心をよく現してくれました。私は満足です」と、喜んで下さるはずです。その時、私達は一人一人がみな神の御使いと変わります。
救われる側から救う側に
縁なき方々に救いの手を差し伸べて頂くこと、これが神様に対するご奉公です。救われる側がいつまで経っても救われる側であっては、神の使命を果たす事はできません。
全部神の御子としてこのように肉体を頂いているのですから、せめてこの事が分かった私たちは、肉体をもってこれを示し現していくべきです。望む事なしに、その御業は示されます。
以前お話した、手が動いて止まらなくなったお子さんとか、物が言えない方とかを、私は治す力も自信もありませんし、こうしたら治るという事は全く分かりません。
ただ救われて欲しい、こんなわけの分からない病から救われて欲しい、何とか幸せになって欲しいという私の思いが、神様を動かしたのです。愛ですね。その愛は誰でも皆現すことができます。
「苦しい方を幸せにしてほしい」こんな思いは、ただ行えばいいのです。力のないのは皆同じ、肉体を持てば同じ人間です。ただ、要は行うか行わないかの実践にかかっています。
為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり
何事も為せば成るのです。私にこのような不思議な力を与えて頂いても、「相手が喜びもしないのにそんな事アホ臭くて、ただで出来るか、しんどいのにできるか」といって、私がしなかったら、神の御業は現れません。
それと同じ事で、皆様もして頂いたら現れます。神様は平等で、えこひいきは一切なさいません。私も皆さまも同じ事です。
では、私だけがどうしてこういう事が出来るのかと言いますと、私が行うからです。皆様も行って頂いたら、大なり小なり差はあるかも知れませんが、必ず現れます。それが神の御意志です。
救われる側から救う側に立ちたいと思いますね。これが仏に目覚める事です。菩薩はすべてを生かそうとなさいます。
大自然の力は念力を越える
先程のコンピューターの話のように、生かそうという思いは壊れたコンピューターを動かしてくれます。その力は人間の持っている超能力、念力をはるかに超えております。
あの水晶に穴を開ける能力を持っている方に向かって、
「あなたの持っている念力と、私の頂いている自然の力と、どちらが偉大か、どちらが強いか試してみましょう。あなたは自分の胃が絶対に動いてはいけないと念じてみて下さい」
と言いますと、その方は強力な念力で念じておられましたが、私が「胃よ、その位置を変えなさい」と言いますと、胃はパッと位置を変えておりました。
皆様も既にご存知のように、胃は上から押さえますと、胃のある場所は痛いですね。
前もって胃のある位置を押さえておきましてこの場所からですと、確認して頂き、この場所から絶対に動いてはならないと念じて下さいと言い、その方が念じてられたのですが、私が言えば、胃は上に下にと位置を変えます。
大自然のエネルギーは小さい人間の念力などをはるかに超えているのです。もう関係なしに超えますね。自分にはそんな力は無いくせに、
どちらが強いか試してみましょうと、つい口をついて言ってしまったのですが、私が胃に対して上に来なさい、下に来なさいと言いますと即、変わりました。大いなる神の御業です。
訓練や鍛錬によって、火のない所に火をつけたり、念の力で物質に穴を開けたり、物を破壊したり、大きい声を出して岩を破壊したり、今でもチベットの山奥に行きますと、そういう行者さんがおられるそうです。
目の当たりに見てきた人もあります。色んな人の出会いによって学ばせてもらいます。
神はただお一人である
インドのサイババさんという聖者は、偶像崇拝を否定しておられて、神はただお一人であると言っておられます。
私の所にもお釈迦様、イエス様、お地蔵様と色々のお像が置いてありますけど、これは祀っているのではなくて、ただ置いてあるだけで、私は手を合わせて拝んだことはないのです。
困るのは、誰か知らないけれどそれらの前に銭を置いていかれることです。そうしますと、崇拝する事になりますから、どうか感謝、御礼だけを言うようにして下さい。物を供える必要はありません。
では、なぜ置いているのかと言いますと、こういう人類の尊いお師匠様、地球人類の大お師匠の前で、日々の生活が恥ずかしくない様に、自分自身を監視して頂くように置かせて頂いているのです。自分を常に監視して頂いても、見えない所でついちょっと過ちを犯す私のような者もおります。
悪口を止めると心が楽になる
「人の事を悪く言わない、悪く思わない」と心に決めますと、とても心が楽になります。
他の宗教に関係ある話は、一つの分かりやすい例にはなりますが、人の悪口を言うことは、自分の心を苦しめる一つの大きな原因になりますから、そういう話は一切言わないと誓いました。
すると、心がものすごく安らぎます。たとえそれが真実であっても、人の欠点、過ちを人様の前で喋ってしまいますと、言われた人はつらいと思います。
本当の愛に目覚めたら、そういう事も恥ずかしくなってきますね。私は今何年生きさせて頂くか分かりませんけど、他の宗教、宗教に関係のある方、或いはお医者さん、先生と言われる方達の過ちを指摘しない様に頑張っていきたいと思います。そういう話を一切しないと決めましたら、すごく楽です。
笑い話みたいなものですけど、胃下垂で何も食べられず、もうガリガリに痩せておられる方が、偉い大学病院で診てもらったら、お医者さんが仰るには、「あなたは肥えなさい、肥えたら胃下垂が治ります」と。
胃下垂で痩せて食べられず、肥えられるはずがないのにと思いますが、これはまあ笑い話みたいなものですね。こんな笑い話でも、お医者さんが聞かれたら、何を抜かすか、と嫌な思いをされますから、今度は一切言いません。
「言わない」という事は、本当に楽なものです。
人の悪い事は知っていても見ない。そして思わない。そして言わないようにすると、素晴らしい人生に変わります。
これは決心をして行った時、これほど楽なものかなあと分かりますから、皆さんも一つ私の真似をして頂いて、どなたの事も悪く思わないようにして下さい。いかに功徳(くどく)が大きいかが分かります。人を悪く言い、悪く思う事は、自分を苦しめる原因となっております。
「己の心を苦しめてはならない。己を大切にせよ」という神の御心に従って、私たちは自分自身を大切にしていきたいと思います。
自分を苦しめたら可哀想です。自分の心を苦しめて、どうして幸せになる事ができるでしょうか。そんなことはできません。
しかもそれを知らなければ、平気で私たちは自分の心を苦しめます。怒り、妬み、愚痴、これはもう法に縁がなかったら、日常茶飯事の様に繰り返しております。怒った結果として頂くものは、心の傷であり心の苦しみです。
わが子を救いたい親の愛
まだ一ヶ月も経っていませんが、先日或る方がご相談に見えました。足が痛くて引きつって歩けないのですね。
話を聞きますと、夜中二時頃に起きまして、藁人形を持って氏神様の森へ行き、一生懸命呪いの釘を打っていられるのです。こんな事は昔の物語かと思いましたら、今でもあるのですね。
鼈甲(べっこう)の櫛(くし)を口にくわえて、鏡を胸に吊り下げ、頭に三徳をのせてロウソクを三本立てて白衣を着ておられます。
鼈甲の櫛で口が裂けた様に見えるのです。そして人を呪い殺す様な心ですから、その人の心は正に鬼、夜叉ですね。姿までそのようになって人を呪い殺すのです。
これは人間の想念、行為の中で最も恐ろしい思いと行ないです。これをやりますと、相手を倒すだけでなくて、自分も倒します。鬼の心にならないとそういう事は出来ないのです。その方に言いました。
「あなたはどうかそれだけは止めて下さい。色んな事情はあると思います。しかし、それをやりますと、やがてあなたご自身がやられます。これは間違いありません。だから、その恐ろしさに目覚めなさい」と。
足の痛い原因について、何か思い当たる事があるでしょうと尋ねますと、実は丑の刻参りをしていますと告白されたのです。普通ならお参りしている所を他の人に見られても人に知られても、願いが成就しないのです。
そして自分の命が無くなるともいいます。それを、その人は告白されました。そこで、その恐ろしさを話させてもらいますと、「もう今日から止めます」と言われました。
では、あなたの足、腰の痛みを治しましょうと言って光を入れますと、ポッと治ってしまいました。あれほど跛(びっこ)を引いて痛んでいたのに、もう何ともありませんとのこと。その鬼の思いに、鬼が食らい付いてくるのです。
これも話を聞けば無理がないのですが、その方はお嬢ちゃんの事で心を痛めていたのですね。お嬢ちゃんというのは、勉強はよくできる、孝行、大学と一度も親に心配をかけず、良い大学を出られたそうです。
それが卒業して就職されると同時に、悪い男の人に引っかかったのですね。それは暴力団の人だという事です。フィリピンから女の人を連れてきては売っている様な男に引っかかってしまって、歳は20も上で奥さんもある人なのですね。
こういう悪い人からどうしても離れられないでいた所、結婚の話が持ち上がって結納も頂いたのに、そのお嬢ちゃんは嫌だと言うので、なぜ嫌なのかと問い詰めますと、実はこういう人と付き合いがあると告白されたのです。
何とかしてそんな人と分かれさせなくてはいけないと、両親は娘さんをきつく責めたのですね。そんなことをするのなら、私たちは死んで世間にお詫びするとまで言われたのですが、あまり厳しく言われたものですから、
お嬢ちゃんが家出してしまって、一つ先の駅の所にあるアパートに住んで生活しておられたそうです。それは男から逃れる為ですか、と尋ねますと、荷物はヤクザさんが運んできたもので、男の為のものなのです。
お嬢ちゃんのお兄さんが、あちこち探し回って居場所を突き止めて、アパートを尋ねた時に、そのヤクザと会ったそうです。そこで辛抱できなくなって、お兄さんがその男を殴ったのですね。
すると、逆ねじを食って二百万円も巻き上げられてしまったのです。親にしてみれば、娘は取られるわ、銭は取られるわで、居ても立ってもいられず、何とかしようと思って、こういう呪い事をしてしまったようです。
親は子への愛情の故に、鬼になってでも子を救おうとします。たとえ地獄に落ちるとも、その子に代わる事を思うのです。大きな親の愛だったのですね。それでお母さんを責める事は出来ませんから、
「そういう事をしても、お嬢ちゃんは絶対に帰ってこられません。今日から止めて下さい」と話しますと、「よく分かりました。来て良かったです。助けて頂きました」と言って帰られました。
親の愛というのは、自分を地獄に落としてでも子を救おうとします。自分を犠牲にしてでも子を救いたいという親の愛ですね。お母さんの大きい愛を頂いて、現在の私達の存在があります。
親はどのような親であっても、その親から頂いた恩を忘れないようにしていきたいと思います。全ての始まりは親孝行からです。親に安心して頂かなくて、親に喜んでいただかなくて、自分の幸せは絶対に訪れません。
そう言いながら私は、おばあちゃんに心配をかけます。お客さんが来られて夜の10時11時になると、「弘、もう早う寝な、そんな事してたら、身体が悪うなってしまうで」と言われ、又土曜から日曜にかけて留守にしますと、帰って顔を見せるまで心配をかけます。
この年になってもまだ親に心配をかけ続けているのですけど、本当に申し訳ない親不孝者でございます。心の中では少しでも母親に心安らいで頂きたいと、常に思っております。
親に心配をかけない様に生きること、これが人生の基礎ですね。その道が分からないから、自分が勝手に生まれて、勝手に生きてきたような顔をして、気に入らなかったら、「誰が私を産んでくれと言ったんや」と、親に向かってこんな事を言う人がいますが、これほどの罰当たりはありません。
しかし、平気でこれを言う人が案外多いのです。本当の親の有り難さを知らないからですね。
「お陰様で」
私たちは「お陰様で」という感謝の心を忘れております。あって当たり前、してもらって当たり前、すべてが当たり前と、思い違いをしております。
お陰様で、お陰様で、どんなことでもお陰があって今があるのです。そのお陰を忘れ去って当たり前になっていくのですね。当たり前という思いの中から感謝を忘れます。
「私には感謝するような幸せなどありません」とよく言われます。
考えてみますと、こうして生きさせて頂くのも、目に見る事は出来ませんけれど、現実に空気を与えられているからです。もし空気が無く、空気中の酸素が無かったら、三分以上生きられる人はありません。
全部の人の息は止まります。この与えられた空気に対して、「有り難いなあ、この様に目で見ることのできない酸素や窒素など、空気中に色んなものがあって、私たちは苦しみなしに生きさせて頂ける、有り難いなあ」と心から感謝できた方は一度手を挙げてみて下さい(笑い)。
また、あのお日様の熱や光に対して、心から感謝できましたか。これも、中々私たちにはできません。私達の目を楽しませてくれる花、こうして花を生けて下さる方の私達への思いやり、全てはお陰様の中で生きさせて頂いております。当たり前のように思っているので、有り難さが分かりません。
お日様も照って当たり前、しかし無かったらどうしますか。常に「もし無かったら」と思わせて頂いた時、有り難さが身にしみてきます。
夫婦の間もそうです。健全に守って頂いている間は喧嘩ばかりして、亡くなった時、ああ、えらいことをしたと言って、相手が死んでから一生懸命お墓にお参りして、お父ちゃんお父ちゃんと言っておられる方があります。
生きていた間はさんざん意地悪をして---。しかし十分に尽くさせて頂いた時にはお墓にお参りしなくてもいいのです。生きている時に満足を与えていたなら、お墓へもお仏壇へもお参りしなくても、うらめしやと出てこられることはありません。
本当に尽くし抜いた時は、絶対に夢に出てこられる事はありません。夢ばかり見るのは、自分の良心が、尽くしていない分だけ自分を責めて、夢を見せるのです。
死んだ人が夢の中に出てきて、こわい夢でうなされたというのは、完全に自分の良心が自分を責めているのです。そういうことがないように、生きている間によく尽くす事ですね。
そして、死んでしまってからも何の悔いも無いように、死なれた時も思いを残さないように、又後に残されたものも思いを残さないように、日々に十分、お互いに尽くし合っていく事ですね。そうすれば悔いは残りません。
尽くすことによって、尽くされた相手の方が救われます。そして自分自身も救われます。こんな年寄りは早く死んでしまったらいいのにと思ったら、よけい長生きされます。そうなっているのです。
ついには、呆けて何も分からなくなっても、まだ生きていられます。だから、尽くさせてもらったら、その時が来てサッと引き取ってもらえます。
年寄りに物を惜しんだらいけません。人間は、食べるだけ食べなくては死にません。もし呆けてもきますと、六人分、八人分のご飯はいっぺんに食べてしまいます。
おかずでも、じゃがいもの煮っころがしを家族七人分を大鍋に作っていても、おじいさん一人でいっぺんに食べてしまって、知らん顔しておられるのですね。現実にはそんなに食べられるはずがないのに、食べられるのです。
老人の呆(ぼ)けと憑依現象
何人かの老人呆けが治った例があります。これは統計的に見まして、一種の憑依現象が起きているのです。だから、憑依している方を救わせてもらったら、呆けが治る場合がよくあります。
呆けると、自分の家が分からなくなって、夜中に飛び出したまま迷子になるのですね。外に出ていくのはいいのですが、帰り道が分からなくなる。それで家族中で探さねばならなくなるのです。そういう状態の方が何人も治っておられます。
それはどういうことかと言いますと、この世とあの世との間に境界線があります。生と死の境界線です。人間は健康な時、幼い時など生命力が溢れている時は、この死の境界線が遠のいているのです。
若くても病気をしてだんだん信仰して生命力が弱まってくると、死の境界線が近付いてきます。病気が最悪の状態になると、死の境界線の中に入っていくわけです。そうしますと、死が訪れます。
また年をとって次第に生命力が弱まりますと、やはり死の境界線に近付いていきます。若い時は神も仏もあるものかと思っている仏心の無い人が、年をとったら、しきりにお寺詣りをするのです。そして、やがては死の境界に入ります。もう全部入ります。
だんだん年をとって70代、早い人は60代半ばで呆けている人があります。70代を越えて死に近付いていき、死んだ事を知らないでこの地上に思いや執着を残した人が、肉体は無いのに意識となって境界線をうろうろしています。
その境界線をうろついている人がたまたま近付いてきた人と心の通じた場合、その人に取り憑いてしまいます。すると、他の人格が出来上がります。
死後の世界、つまりこの境界線を越えた時は、いつも言うのですが、もう尻を向けたら一目散に走って行くことです。境界線から一時(いっとき)も早く遠のくことです。
この世への執着の思いを持てば、境界線の辺りをうろついてしまいます。これが、迷える霊です。いつまで経ってもこの世から離れないで、生命力の弱い人、或いは自分の思いと一致した人の中にポッと憑依するわけです。
取り憑かれたという事になります。老人にはそういう場合が多いように思います。こんなことを言うと、お医者さんに叱られますが、現実にはそういう事ですね。ですから、医者では治りません。
老人呆けを、医学上は老人性脳軟化症と言っていますが、呆けが進みますと、最終的には毒を食べても病気にはなりません。それは、自分に意識がないからです。
私達が食べ物に当たったり病気をしたりするのは、「ああ、これを食べたら恐い、それは毒と違うか、あれが悪かったのかなあ」などと思うからです。呆けたら、そういう事が分からなくなりますから、いくら食べても腹痛は起こらないし、腐った水を飲んでも大丈夫です。
現実は、衛生をやかましくいう時代ですから、ボウフラの湧いた水を飲んだら、皆腹痛を起こします。普通だったら、六人分七人分のご飯を食べたらお腹がパンクしますが、それも起きません。
不思議な憑霊現象の例があります。これは泉大津の方の話ですが、お嬢ちゃんが四国の松山の方と結婚されるので、両親が四国へ行かれて道後温泉で一泊され、又お婿さんの家でも泊めてもらって2,3日して帰ってこられました。
それから、そのお父さんは食べるわ食べるわ、お茶碗に八杯食べてもまだお腹がいっぱいにならないので、お寿司を三人前買ってきて、家族にも恥ずかしいからお茶だけ持って自分の部屋で食べるというのですね。
お菓子を一箱もらったら、誰にもやらないで一人で食べる。その方が私の所に来てそんな話をされるから、「それはおかしい、もう食べないようにしてあげましょう」と言って、ちょっとお祈りをして、「今晩食事されたら電話して下さい」とお願いしておきました。
夜八時頃電話がありまして、「先生、今食事をしましたら一膳のご飯がやっとでした。どういう事でしょうか」と言われるので、「あなたに大きな伊予狸が憑いていましたよ」と言うと、びっくりしておられました。
あれは狸が食べていたのですね。そういう事もあるのです。泉大津駅の前にジャンボどら焼きといって大きいのを売っています。
私はあんな大きいのは一個もよう食べませんが、それを4つも5つも食べていたというのです。考えられないことが起きますが、そういうのは簡単に取れます。
憑依現象の中にはこういうのもあります。そこら辺りに坐っていた方に「来なさい」と言いますと、ビューンと六メートル程飛んで来たので、
憑いていたものを取り除きますと、「いったい僕、何してますのや」と仰るから、「あなた、あそこから飛んできました」と言うと、「ほんまですかー」とびっくりされました。
オリンピックの選手でもそんなに飛べませんね。そして、悪かった肝臓もいっぺんに治ってしまって、これから帰って野球がしたいと言っておられました。
まあ、こういう不思議な事が色々ありますので、私たちは日々の生活の中でいかに心を正しく生きていくかという事が大事なことです。
誤った想念、行為に陥りますと、目に見えない世界の闇のエネルギーの支配を受ける危険が常にあるのです。だから常に心を光に満たしていきたいと思います。長い間ご静聴いただき、どうも有難うございました(拍手)。
自然が見せてくれた実相
与え頂いた環境に感謝で神秘力が開花
以前の私は、ご多分に漏れず、皆様と同じように、他力の信仰を求めていました。ところが、信仰の話を聞かせてもらったり、本を読ませて貰ったりすると、間違っている、正しくないとすぐに分かるものですから、
こんなものは駄目だということで、あらゆる宗教を探し求め、どの組織にも入ることはなかったのです。
ある時S教の修行が素晴らしいと聞いて、電話帳で探すと、岸和田にあったので、電話をして「入会はようしませんけど、修行だけさせてもらえますか」と頼むと、どうぞという事だったので、朝6時から行われている業に何ヶ月か通いました。
そんな或る朝、いつも通っている国道のポプラ並木が光っています。後光がさして、その国道が何とも言えず美しく、とてもこの世のものとは思えないほどで、普段見慣れている道が大層綺麗に見えたのです。何と不思議な感じがするものだなあと思っていました。
心が本当に静まり返った時は、万世万物が、覆われたものを取り外して、実相を現してくれるのですね。心が調和された時には、本当のものが見えてくるのです。普段気づかなかった美しいものが見えてくるのです。
さらに与えて頂いた環境に感謝することによって、自然の声を聞くことが出来るようになります或る時は地球の回る音を聞く事も出来ます。眼に見えない世界の方々との対話も出来ます。これは誰にでも可能な事です。
”八正道” について
お釈迦様は正しく見なさいとおっしゃいます。
人間が幸せになる方法の一つとして、まず物事を
「正しく見なさい」「正しく思いなさい」
「正しく語りなさい」「正しく仕事をしなさい」
「正しく生きなさい」「正しく道に精進しなさい」
「正しく念じなさい」「正しく定(じょう)に入りなさい」
この8つの正しい生き方を説かれました。「八正道」ですね。
これを日々の生活に生かせたら、私達は幸せになれるのです。
●正しく見る
正しくとはどういうことか、中々分かりません。自分を中心としてものを見ると、自己保護と、自我自欲の色眼鏡に振り回されますから、常に相手の立場に立って、自分中心の見方をしないこと、これが正しい見方です。
●正しく思う
常に他を生かす愛の思い、これこそ正しい思い方です。
●正しく語る
相手を思いやり、相手にやすらぎと喜びを与える言葉や、その方が幸せになるよう、生きる勇気を与える言葉を語ることです。
●正しく仕事する
私達は一人では生きられません。この社会の数え切れない多くの人々の恩恵を受けて、生きさせてもらっています。この頂いた恩恵のご恩返しの行為こそ正しい仕事で、金儲けが正しい仕事とは違うのです。
●正しく生きる
常に自分を厳しく見つめて生きていくことです。
●正しく道に精進する
これはまず家庭の調和を気づかなくてはいけません。両親から頂いた無条件の愛に対して感謝し、ご恩返しを行うことです。
これを忘れては、幸せになれません。夫婦が喧嘩ばかりして、神様に夫婦仲良くさせて下さいといくら拝んでも駄目です。家庭の調和のためには、子供に偏った愛情を持ってはいけません。
子は我が物ではなく、神様から預からせて頂いたものです。肉体を分け与えたと思ったら間違いです。魂は皆独立した立派な人格者ですから、神様から預かった子と思って豊かな愛情をもって育ててほしいですね。
そして自分が幸せになったら又他の人にもその幸せを分け与えていく、これが正しく道に精進するということです。
●正しく念じる
常にしっかりした目的を持って、そこに心を向けることが正しく念ずる事です。
●正しく定に入る
「定に入る」とは死ぬことではなくて、常に反省して安らぎと感謝のひとときを持たせてもらうことです。
今日一日を反省し、間違ったことがあったら悔い改めて二度と再び繰り返さないことを誓って、その後で感謝と安らぎの一時(ひととき)をもたせてもらうことです。このようにすれば必ず幸せが来ます。
無我の境地 神の使徒
このようにお話させて頂いて、あちこちによらせて頂くのですが、もう一睡もせず走り回っている時があります。それでも何ら疲れないですね。
普通の常識で考えましたら、とてもたまらないだろうなと思われるでしょうが、しかし疲れも知らないこのエネルギーは自分が自らを、自分の思いを
全て捨てて、待って頂いている方に、たとえ一人でも二人でも安らいで頂けたら、喜んで頂けたらというその思いが、私のエネルギーになります。
「しんどいなあ」とか「もうあかん」という状態になることはありません。
仏教でよく「無我の境地」と言います。お坊さんが座禅をされて無我の境地に到達されたとか、私は悟ったとか言います。
それも一つの無我ですけど、「自らの自我をなくした日々の生活」これが無我で、私には私の自我は何もありません。
他の方から私の自我について質問を受けた時、私は次のように答えます。
「私の全ては神のもの、私の全ては人々のもの、私の時間は神のもの、そして私の時間は人々のもの、このように祈らせてもらい、このように実践させてもらっています」と。
自分という我を無くしてしまったら、その生活の実践は神の御心(みこころ)のままに為したことです。
与えるが故に与えられる法則
出せば入る法則というのがあり、この法則に従って「私は与えるが故に与えられる」と言う言葉がありますね。愛するから愛されるのです。
自分が愛さないのに一体誰が愛してくれますか。自分が与えないのに誰が与えてくれますか。もし不幸になりたかったら、人を不幸にしてやったらいいのです。すると必ず不幸にしてくれます。
相手から憎んでほしかったら相手を憎んだらいいのですね。必ず憎んでくれます。これは法則です。しかも避けることはできません。自分が幸せになりたかったら、まず身の回りの人を幸せにすることです。
都合が良いとは誠心誠意尽くすこと
では、都合の良い自分とはどういうことかと言いますと、私達は自分の為に良くしてもらったら都合が良いのですから、相手の為によく尽くすこと、尽くさせてもらうことです。
相手にどう思われようと、どうされようと、とにかく精一杯心から尽くすこと、その時相手の為には都合が良いから、必ず相手は「この人は必要な人だ、大事な人だ」と思うようになっていきます。
イエスはこのことを「汝の隣人を愛せよ」とおっしゃいました。
隣人と隣家とは意味が違います。隣人とは自分の最も近くの隣にいてくれる人、つまり夫婦であり、親子であり、或いは兄弟、これこそ最も近くの隣人であり、この隣人の為に尽くしなさいと言っているのです。
職場にあっては職場の同僚の方、上司または部下の方、商売をされる方は売って下さる方、買って下さる方にとって、都合の良い自分になることです。誠心誠意尽くすことです。その時必ず自分が尽くされます。
心の曇りと何か
幸せになれないのは心の曇りによるのです。私たちが知らず知らずに出している心の曇りによって、幸せの光を自ら遮断していたのですね。その曇りとは何か。これはいつも何回も申し上げています。
〔怒り、妬み、憎しみ、謗り、人さまの悪口、愚痴、恨み、憎しみ、取越苦労、不安、恐怖、己を守る為の嘘、盗み、貪欲〕
このようなものが、本来は神と変わらぬ、神の分け御霊を頂いている私たちの表面を包み、神様と私たちとを遠く離していたのです。
人間はどうしても自分本位になっていき、その時、人に尽くすことを忘れます。そして「何でもあって当たり前」と思う心から、感謝を忘れ、幸せを失っていたのです。
自分に都合良い人は好き
では、好きになるにはどうしたらいいかと言いますと、これは簡単な理論で割り切れるのです。人間の心というのは、地球上の全人類が共通して持っている思いがあるのです。それは「自分にとって都合の良い方は全部好きで、自分にとって都合の悪い方は皆嫌い」という思いです。
これはもう地球人類すべて、世界の国々の人種に関係なく共通した思いです。皆さんの中で自分にとって都合の悪い人が好きだという方がありますか。そんな人はありませんね。
都合の悪い人は嫌いという自分の心の行動からしていけば、自分が相手にとって都合の良い人間になればいいのです。出会う人すべてにとって都合の良い自分になっていくのです。
その時必ず、相手の方から好きになってもらえます。これはまず自分から先にせねばなりません。夫婦の間で、親子の仲で、兄弟の仲で、都合の良い自分になることです。
「死のとき」
生命力の強い時は死の世界から遠く離れています。これが生と死の境とします。こちらからは向こうはあの世の世界、こちらは私達の生きている世界とします。
健康に生きている時は、死の世界からずっと遠いのです。
ものすごい病気をしたり、あるいはだんだん年を取って肉体的に衰えてきましたら、だんだん死の世界に近づいていくのですね。
ものすごい病気をしたり、あるいはだんだん年を取って肉体的に衰えてきましたら、だんだん死の世界に近づいていくのですね。
生と死の境界線に近づいていきます。
で、心悟った方はここからさっと遠い方へ遠い方へ離れて行かれます。
極楽の世界に離れて行かれるのですね。
極楽の世界に離れて行かれるのですね。
そして、「ああ、死にとうない、わしゃ、まだ後、心残りいっぱいあるし、死にとうないんや」と、生への執着、あるいは物とか、財産とか、名誉とか、そんなものに思いを強くもっていましたら、肉体は死んで無いのですけれど、その心は生と死の境をさまよっているのです。
だんだん境に近づいてきましたら、ここをウロウロしている人が、この人と近いものですから寄って来るのです。
だから、死ぬ前になると、心のきれいな方は、「ああ、きれいな人が迎えに来てくれはる」と言って、
心の汚い人は「ああ、怖い奴じゃあ。もう来なー(来るな)、もう来なー」と言いながら虚空を掻きむしって、死ぬ人があります。
あれはその人の心に応じたものが迎えに来るのです。「おとろしよー。怖い奴が来たー。怖い奴が来たー」と、掻きむしって死ぬとよく言うでしょう。あれは皆、その人の心に応じた人が、迎えに近寄って来ているのですね。だから、怖い。
心の綺麗な方の中には、ここから離れた世界から紫の雲に乗って迎えに来て下さったと言って、亡くなる方もあります。
こういう方はだんだん死の世界に近づいてポッといきましたら、これはもうあちらの世界にサッと行かれるのですね。
言葉について
言葉は他とのコミュニケーションの道具の一つでありますが、別名「両刃の剣」とも言われています。
同じ口から出る言葉であっても他を「無上の喜び」にさせる事も可能であり、また、その逆に同じ口から出る言葉で「死よりも辛い」想いを与える事も可能だからです。
私達は毎日この言葉を簡単に使っていますが常に相手の気持ちを思いやり、出来るだけ相手の心に傷を付けない様に配慮して使うべきであると私は思います。
語る際は常に聞き手に希望や安らぎを与え喜びに導く言葉以外は出来れば使わない様にするほうが自分にとっても無難であると思います。
何故なら「売り言葉に買い言葉」なる諺もあり、まかり間違えば喧嘩にエスカレートして殺人にまで発展しないとも限らないからです。
「口は災いのもと」と言う古い諺がありますが正にその通りであると思います。特に御自身の子供達に対しては愛情溢れる言葉で語ってやって頂きたいと思います。
時々我が子は自分の所有物の一つであるかの様に思われている親御さんもおられますが、子供は子供としての「人格」もあり「魂」も持っておられるのですから・・
確かに御両親の御縁により子供を授かるのは間違いない事実ですが御両親は子供に肉体は与えても「魂」までも与えていないと私は思っています。
もっと言えば肉体にしても母体に10月10日存在する時に神の御手によって人間として形造られる事を私たちは知るべきであると思います。
もし「魂」も両親が与えたのであれば何故両親と意思疎通が出来ないお子さんが出来たり、両親の希望した様に御自分のお子さんが育たないのでしょうか?
肉体のDNA鑑定は出来ても魂のDNA鑑定は特殊相対性理論を提唱したアインシュタインの様な優秀な方が何人も集まり、現在の科学、物理、医学の粋をもって鑑定しても不可能な事だと思います。
何故なら魂を肉眼で見たり肉の手で触われないのですから。社会生活の中では誰ともコミュニケーションをとらずに生活していくことは不可能ですか
ら、「人として語るべき事は語り、語ってならない事は語ってはならない」
これは理の当然であり、言うまでもない事でしょう。
言葉使いにおいて誰かから何かを依頼された際、二通りの答え方があると思います。
一つは何々「して上げる」、何々「してやる」・・・と言う答え方と、
今一つは何々「させて頂きます」、何々「させて下さい」・・・の二通りの答え方です。
先の答え方は「上げる」、「やる」・・と言っている訳ですから折角の「行為の功徳」を相手の方に上げてしまうことになり、損得の見地からすれば「損」な言い方であると思います。
後の答え方は「させて頂きます」、「させて下さい」と言っているのですからその「行為の功徳」を戴いている訳ですから損得の見地からすれば「得」な言い方だと思います。
言うまでもなく損をするより得をした方が利口ですから、誰かから何かを頼まれた際は、「させて頂きます」、「させて下さい」といった方が何か儲けた様な感じになりますし、双方にとって心地よい言葉の余韻を残し、清々しい気分になるのではないでしょうか。
素直に告白させて頂きますが上述した内容はこの歳まで生きさせて頂いて実際に体験させて頂いた私の反省自戒の辞です。
苦しみを喜びとして受け取る
では、この苦しみの海の中で、人が幸せに生きていくには、どうしたらいいのか、簡単に言いますと「囚われ」を捨てていけば一番良いのです。しかし、これはなかなか難しくてできません。
そこで、苦しみはあって当然ですから、その苦しみを苦しみとして受け取るか、これを喜び・感謝として受け取るか、その受け取り方にかかってきます。
神の御心に合った生き方とは
自分が日々の生活で、どれだけ神を体験するか、慈悲と愛を他に与え、自分を犠牲にしてでも他を生かす生活をしているか、またすべての方を差別せず、求める心を持たない生活をしているかです。求める心は神の御心に背きます。
心行
心行は 宇宙の神理 人間の心を言霊によって表現したものである
それゆえ心行は拝むものでも暗記するものでもなくこれを理解し
行うものである正法は実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ
われいま見聞し 正法に帰依することを得たり
広大なる宇宙体は 万生万物の根元にして
万生万物相互の作用により 転生輪廻の法に従う
大宇宙大自然界に意識あり 意識は大宇宙体を支配し
万生万物をして調和の姿を示さん
万生万物は広大無辺な大慈悲なり 大宇宙体は意識の当体にして
意識の中心は心なり
心は慈悲と愛の塊にして 当体・意識は不二なることを悟るべし
この大意識こそ 大宇宙大神霊・仏なるべし
神仏なるがゆえに 当体は大神体なり
この現象界における太陽系は
大宇宙体の 小さな諸器官のひとつにすぎず
地球は 小さな細胞体なることを知るべし
当体の細胞なるがゆえに 細胞に意識あり
かくのごとく 万物すべて生命にしてエネルギーの塊りなることを悟るべし
大宇宙体は大神体なるがゆえにこの現象界の地球も神体なり
神体なるがゆえに 大神殿なるべし 大神殿は 万生 魂の修行所なり
諸々の諸霊 みなここに集まれり 諸霊の輪廻は三世の流転
この現象界で己の魂を磨き 神意に添った仏国土・ユートピアを
建設せんがためなり
さらに 宇宙体万生が 神意にかなう 調和のとれた世界を建設せんがため
己の魂を修行せることを悟るべし 過去世 現世 来世の三世は
生命流転の過程にして 永久に不変なることを知るべし
過去世は 己が修行せし前世 すなわち 過ぎ去りし実在界と現象界の世界なり 現世は生命・物質不二の現象界 この世界のことなり
熱 光 環境 いっさいを含めて エネルギーの塊にして われら生命意識の修行所なり 神仏より与えられし 慈悲と愛の環境なることを感謝すべし
来世は次元の異なる世界にして 現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり
意識の調和度により 段階あり
この段階は 神仏の心と己の心の調和度による 光の量の区域なり
神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち 実在の世界にあって
諸々の諸霊を善導する光の天使なり
光の天使 すなわち 諸如来 諸菩薩のことなり
この現象界は 神仏よりいっさいの権限を 光の天使に委ねしところなり
光の天使は慈悲と愛の塊りにして あの世 この世の諸霊を導かん
さらに 諸天善神あり 諸々の諸霊を
いっさいの魔より守り 正しき衆生を擁護せん
肉体を有する現世の天使は 諸々の衆生に正法神理を説き 調和の光明へ導かん この現象界におけるわれらは 過去世において 己が望み 両親より与えられし 肉体という舟に乗り 人生航路の海原へ 己の意識・魂を磨き
神意の仏国土を造らんがため 生まれ出でたることを悟るべし
肉体の支配者は 己の意識なり 己の意識の中心は心なり 心は実在の世界に通じ 己の守護・指導霊が 常に善導せることを忘れるべからず
善導せるがために 己の心は 己自身に忠実なることを知るべし
しかるに 諸々の衆生は 己の肉体に 意識・心が支配され 己が前世の約束を忘れ 自己保存 自我我欲に明け暮れて 己の心の魔に支配され 神意に反し この現象界を過ぎ行かん
また 生老病死の苦しみを受け 己の本性も忘れ去るものなり
その原因は煩悩なり
煩悩は 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり
六根の調和は 常に中道を根本として 己の正しい心に問うことなり
己の正しい心に問うことは反省にして 反省の心は 己の魂が浄化されることを悟るべし 己自身は孤独に非ず
意識のなかに己に関連せし 守護・指導霊の存在を知るべし
守護・指導霊に感謝し さらに反省は 己の守護・指導霊の 導きを受けることを知るべし 六根あるがゆえに 己が悟れば 菩提と化すことを悟るべし
神仏の大慈悲に感謝し 万生相互の調和の心が神意なることを悟るべし
肉体先祖に報恩供養の心を忘れず 両親に対しては 孝養を尽くすべし
心身を調和し 常に健全な生活をし 平和な環境を造るべし 肉体保存のエネルギー源は 万生を含め 動物・植物・鉱物なり このエネルギー源に感謝の心を忘れず 日々の生活のなかにおいて 己の魂を修行すべし
己の心・意識のエネルギー源は 調和のとれた日々の生活のなかに 神仏より与えられることを悟るべし 己の肉体が苦しめば 心悩乱し わが身楽なれば情欲に愛着す 苦楽はともに正道成就の根本に非ず
苦楽の両極を捨て 中道に入り 自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし
いっさいの諸現象に対し 正しく見 正しく思い 正しく語り 正しく仕事をなし 正しく生き 正しく道に精進し 正しく念じ 正しく定に入るべし
かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得
迷いの岸より 悟りの彼岸に到達するものなり
このときに 神仏の心と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入り 三昧の境涯に到達せん
(この諸説は 末法万年の神理なることを悟り日々の生活の師とすべし)
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年1月22日
さらに 諸天善神あり 諸々の諸霊を
いっさいの魔より守り正しき衆生を擁護せん 長尾弘先生の記事♪
諸天善神と呼ばれる方々は、本来はお釈迦様の当時、お釈迦様をはじめお弟子たちも含めて仏教教団の外郭を擁護しておられた方々のことです。
仏教教団を守りながらお釈迦様の弟子として、また信者として仏法を学んでおられました。
「正しき衆生」とは仏弟子であり、正法を実践する人々をいいます。正しき道を歩み、正方を実践しておれば、頼まなくとも擁護されています。
「正直者の頭(こうべ)に神宿る」と言われている通りです。正法を学び実践する人々、また法にご縁がなくとも人間として正しく生きる人々を「正しき衆生(しゅじょう)」といいます。
「諸々の諸霊をいっさいの魔より守り」というのは、この世を去って成仏できないでいる人々の霊、つまり、自分が本来神の子であることを自覚できないでいる人々を、色々な魔の意識が襲ってきた時に、諸天善神はこれらのいっさいの魔から諸々の諸霊を守って下さるのです。
ですから、正法に背き、正方を標榜し妨害する者には厳しく接して、正法に近づけないようにする役目を持っております。
それを形として現しているのが、大きなお寺の門に経っておられるあの仁王様で、これは、仏教教団を守る諸天善神の姿です。勧善懲悪の神が諸天善神ですから、決して害を及ぼされることはありません。
仏教教団を守る姿としては、他にも、例えば大阪の四天王寺にある阿弥陀如来像の周りを警護しておられる四天王とか、ならの新薬師寺で薬師如来の周りを警護している十二神将とかにそれを見る事が出来ます。
お釈迦様の生存時、クシャトリヤといって、王侯貴族の方々で仏の教えに帰依し、仏陀サンガの外側を守られた方々のことを神将とか諸天善神とか言いました。
また、当時は財閥の方々が精舎を寄進したり、色々経済的に援助をなさいましたが、この方々は諸天善神の大黒天と呼ばれています。
諸天善神はお釈迦様の弟子、或いは信者さんですから、仏が「こうしなさい」と言われれば、それに従われます。
私も今日までに何回か体験させて頂きましたが、蛇(みい)さんとか動物霊とかを祭りこめた恐ろしい場所がありまして、その霊を上げました時に、
「実在界の八大竜王はこの場所に来なさい」と言いますと、八大竜王はすぐに来られます。「この者を正しく指導しなさい」「この者を連れていきなさい」といいますと「はい」と言って連れて行かれます。
或いは「実在界の稲荷大明神、この場所に来なさい」と言いますと、すぐに来られます。これは仏よりも一段下の段階におられるからです。
次に日本の八百万の神々と諸天善神とは全く異質の神々であることについて、補足説明させて頂きます。
日本の八百万の神々の中には善神も悪神も含まれています。
高橋信次先生の言われる神、「まことの神様、上と書く、人の上にあった上(かみ)様、ペーパーに神の名前を書いた紙(かみ)様、」、
この神・上・紙をどれも示す偏に申すと書く「神」という字を使うから、すべて神様だと思ってしまいます。
八百萬の神の中にも諸天善神と呼ばれる方々もおられます。それは社会のために尽くしてくださった方、地域のために尽くされた方、貧しい農民のために自分の命をかけて、時の権力者と戦って犠牲になられた方、
大勢の人々を救い助けて下さった方、これらの方々を感謝の気持ちをこめて、神社を建てて神として祀られた場合は、八百万の神の中で諸天善神と呼んでよいと思います。善行を積んで神と祀られた方々です。お岩様は八百万の神の神の中の神として祀られていますが諸天善神ではありません。
また、八百万の神の中に天照大神を祀る伊勢神宮、神武天皇を祀る橿原神宮など皇室の御霊を祀った神社もあり、これは国家権力を神としたものです。
朝鮮半島や中国から文化を伝えてくれた一族の長(おさ)を、神社を建てて神として祀ったものもあります。これらの神社は主に帰化人の同族の人達が建てたもので、このように善行を積んで神と祀られた方は、人の上(かみ)であった方で、仏教徒は関係なく善神と呼ばれます。
八百万の神の中で最も新しい神社は、飛行機を神として祀った航空神社ですが、時代を遡ると、戦争で亡くなった方々の霊を祀った靖国神社、乃木将軍の乃木神社、東郷元帥の東郷神社、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の日光東照宮、また織田信長をお祭りした神社ももちろんあります。
数えていけばきりがありません。飛行機は別として、これらの神社の祭神は時の権力者、或いは有力者、また時代の犠牲者でもあり、諸天善神とは呼び難いと思います。
また、自然を崇拝する信仰としては、富士山、愛宕山、三輪山など数多くの山々を神体として信仰の対象にしています。その他、木や石や岩などにしめ縄を張って神として信仰する習慣もあります。
恐ろしいのは、怨み憎しみのために死んでから人々や社会や自然に災いを起こす怨霊、悪霊、地縛霊、幽霊たちです。
それらの霊に「どうぞ災いを起こさないように、幽霊となって出てこないように、静かに収まって下さい。その代わりにあなた方に、神社を建てて神として祀ります」といって、その霊を鎮魂した神々が日本には大変多くあります。
ですから神社の木を切ったり、石を動かしたり、境内で小便をしたりするとバチが当たったり、害を受けたりします。また、犬・猫・狐・狸・蛇などの動物を神社に祀っています。さらには男女の性器を御祭神として祀ってある神社もあります。
八百万の神とは、ありとあらゆる神々の事を言い、数え切れない神を言います。善神も悪神もまた動物や性器も含めて八百万の神と言っています。
神という名が付いているから何神様もみな神様だと思ってしまいます。しかし、善神、悪神、動物神、自然神など数え切れない中から選択するのは私達自身です。
八百万の神の中の諸天善神と、本来、仏教教団を守る方々で諸天善神と言われる方とは異質だと思います。
八百万の神は日本古代の神話の神々から始まったもので、もちろん仏教伝来以前からあります。権力争いによって相手を倒し、倒された人々の祟りを恐れて神社を建立し、神として祀った神が日本には沢山ありますが、権力者ですから立派な社を建てる事が出来ます。
相手を殺しておいてその祟りが恐ろしくて、神として祀り祈るのは人間の良心の呵責(かしゃく)に対するエゴの現れでもあります。
以前に読んだ祝詞ですが、神前では宝のお経と言われる祝詞の中の一説に、母が子を犯し、子が母を犯すというのがあって大変驚いた事がありました。古代社会における近親相姦の風習がうかがえる所で、これは正法とは全く違った信仰であったはずです。
「肉体を有する現世の天使は」
今度は、この世に肉体を持たれておられて、そして天使の勤めをして頂くお方ですね。こういうお方も沢山この世に出ておられます。この方々は「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」と書いて頂いています。
この地上界の者が心を失って、人として正しく生きる道がわからなくなった時、あの天上界から偉大なる光の大指導霊がこの地上界の人々を救うために現れて下さいます。
その方達は神と表裏一体ですから、地球人類が不調和なことになりますと、人類の滅亡にも関係していきますので、調和を目的として偉大な光の大指導霊が天下(あまくだ)られます。そして正しい生き方、この正法を人々に説き明かして下さるのです。
「正法」はお釈迦様がお生まれになる以前から厳然として在るものです。しかし人間の自我や我欲によって正しい法が判らなくしてしまったのです。
ぶっ許由知恵う像法を経て末法の時代になりいますと、人々はどのように生きたら良いのか、どのように子供を躾ければ良いのか、人と人とはどのようにお付き合いしたら良いかという道が分からなくなるのです。
人は相互依存してお互いに助け合わなければならないという事さえわからなくなって、「自分さえ良ければいい、人はどうでもいい」という様になっていきます。
この思いは神様の思いから最も離れていますから苦しみが大きくなっていくのですね。道がわからず、光が分からなくなりますと、人類に危機が訪れます。今の時代は正にそうです。
自己保存と自我我欲に満ちています。社会主義社会も資本主義社会もどちらも人間の欲望が形を分けて現れた世界です。欲望のために争っています。
大きな自然から言えば、小さな人間の思想によって地球の取り合いをしているのですね。その地球の奪い合いも、一つ間違ってボタンを押せば地球に人類の存在が許されない様な危険な状態になる所まで来ています。
あのノストラダムスは、1999年に地球が滅びるようなことを予言しています。しかし「人類が何か一つの道、一つのものを掴んだ時に、それは乗り越えるであろう」とも予言しています。
人々が自らの心に目覚め、真の人類愛に目覚めた時に、地球は滅亡から救われるはずです。人々は正しい法に早く目覚める事ですね。
法に目覚めるとは、小さく言えば自分の心の中が安らぎ幸せであることです。大きく言えば地球を今の危機から救う使命に目覚める事です。
有り難い事に今年はドイツの方から「心というものについて話をして欲しい」と、お招きを頂いております。本当に正しいものであれば、自分から言わなくても求める方は必ず「来て下さい」と呼んで下さいます。
国籍も肌の色も言葉も関係はありません。魂、心は人間すべて同じだからです。心について話す時は、どんなお方にでも通じるはずです。
手を切れば皆赤い血が出ます。切った時は痛いというのも同じです。同じ人間として造って頂いております。それは全人類は全て神の愛子だという事ですね。
しかしごみが溜まってしまってどうしたら良いか分からなくなった時に、天上界から光の天使が天下されてそのごみを払って下さるのです。積もったごみを払っていただいたらまた元の光が現れてくるわけですね。
これを正法の流天、正法の輪廻ともいいます。正法も自然も同じことで曇ったり腫れたり輪廻しています。しかし、これはあくまでも人間の貪欲・自己保存のエゴが造り出すものです。
私達の使命はせっかくごみを払って頂いたこの法の黄金の玉にごみを溜めないように、常にごみ払いをして生きることです。法を曇らさない様に努める事ですね。
高橋信次先生がごみを払って下さいました。そして法とはこういうものだ。この様に生きるべきだと導いて下さいました。お陰で、私自身は本当に救って頂きました。もしこの教えにご縁を頂かなかったら、今の私の存在はありません。今も凡夫ですが、以前はもっともっとしょうもない凡夫でした。
欲に捉われて無我夢中で生きていた私に「足ることを知りなさい」と言われ、その一言で救って頂きました。あのまま商売に必死になって金儲けに追い回されていましたら、今の私は絶対にありません。
或いはもっと大きく会社をのばしていたかもしれませんし、不景気で潰れて夜逃げをしていたかも分かりません。しかし私は、幸い事業を縮めていくだけの力にも恵まれていまして、当時、毛布業界は難儀していたのに、
「こんなに儲けさせてもらっていいのかな」と心の中で思ったほど儲けさせて頂きました。そして今日の私を動かして頂く為に天はその用意をして下さいました。お陰様で心の活動をさせて頂く蓄えを頂いて、今、全国を回らせて頂いております。
どこへ行かせて頂きましても交通費や講演料を下さいとは言わなくてもいいのです。ただでさせて頂くのみです。会場によっては百人も二百人も治療させてもらう場合があります。
難病奇病が治っても「ああ、それは良かったでですね、神様に感謝して下さい。あなたが神様と巡り合ったのですから、そのように奇跡を頂いたのです」と言います。
「後の私の心の管理はどのようにしたら良いのですか」と尋ねられますから
「せめて朝五分、夜休む前に五分、心を静めて本当の神様に感謝して下さい。ありがとうございましたと感謝の祈りを三分でも五分でも続けてみて下さい。必ず神の光は注がれます。私偏感謝は一切要りません」と言うのですね。
それは私が治しているのではなく、私という肉体を通して、神がその御業をなし給うから病気が治るのです。
一昨日、「先生はなぜそんな力が頂けるのですか」と質問を受けました。その方は車のドアを締めた時に、お嬢ちゃんの手を挟んで、その指の先がちぎれて得しまったそうです。これは痛いです。
ぐちゃぐちゃになってちぎれてししまった肉をくっつけたのですけど、お医者さんはもう腐って駄目かも分からないとおっしゃったそうです。
そのお母さんが、お嬢ちゃんとそのお兄さんの、お子さん二人と一緒に私のテープをずっと聞いていますと指先がちぎれているのに全然痛くなくなったのです。ここへ連れてきて、また光を頂いた後、お医者さんへ行きますと「あっ、先が出てきた」と言われたそうです。
もう切ってしまわなくてはいけないとお医者さんが言われたのにちゃんと肉が出てきたのです。それで早速お礼に行かなくてはといって、ご夫婦とお子さんとで見えました。
お父さんが「なぜ先生はそういう事が出来るのですか、指がちぎれているのに痛くなくなり、ここへ寄せてもらったらすぐに肉が出来上がってきたのはなぜですか、先生はいくつの頃からそのような事が出来ましたか」と言って、色々質問を受けたのです。
人は皆そのような力を神様から頂いているはずです。ところがその力の出し方を知らないでいます。なぜ出し方が分からないかというと正しい法を知らなかったからです。
私は幼い頃から不思議なことはいっぱい体験させて頂きましたけれども、小学校へ行くようになったり、だんだん自分の心を曇らせてきますと、もうただの凡夫になってしまいます。そして40半ばまで凡夫のままで来たのです。
40半ばになりまして、高橋信次先生のご縁を頂く一年前くらいから色々と不思議な事が起きました。自分では全く予期しないのに、私の所へ来て下さったおばあちゃんの足が一遍に治ってしまったのです。
腰が痛くて動けず、お医者さんに行きますと「骨がぐちゃぐちゃになってしまってこれは治しようがない」と言われて、お医者さんの帰りに寄ってくれたのです。
「それは気の毒な、どこが痛いのですか」と言って、足をさすりますと一遍に治ってしまったのですね。今度はお医者さんに行くと骨がちゃんとできてしまっていたのです。
「おかしいな」と言ってレントゲンを撮りましたら骨は元通りになっています。これは不思議な事がと言っておばあちゃんが一生懸命宣伝してくれまして、それが人の口から口へ伝わり、今は日本全国に伝わっています。
外国にまで伝わっています。まあ私の所の電話も国際的でございまして、フランスから、イギリスから、香港から、アメリカからといって各地からの電話を頂きますね。光はそこまでみな届いているのです。
電話でお祈りさせて頂いたら、「本当に助けて頂きました」という喜びが頂けます。そのように自分がこうしようと思っていないのに全く予期しない事が次々に起こり出して、なぜこのような事が起きるのかと、あらゆる宗門を叩きましたが分かりません。
その約二年後の昭和49年11月に高橋信次先生の教えにご縁を頂きました。先生は妹さんに常におっしゃっていたそうですね。
「大阪から私と全く同じ教えを説いてくれる方が必ず出てくれるはず、その方がまだ姿を見せてくれないから僕はあの世に帰るのがもう一年遅れているんだよ」と。
全く同じ教えを説いてくれる方-----まあ私などは、どんな大それた事は夢にも思ったことは御座いませんし、ただ先生の教えを、光の天使の教えを曲げないように、曇らせないように一生懸命塵払いをしていこうと思っただけですけれども、先生のお話とよく似ているそうです。
ちょうど一昨年になりますね。それまで私達は5.60人或いは7.80人集まりましてこの場所で十年余り勉強会をしておったのです。
まあ招いて頂きますと遠い所で四国、山口、丹後の宮津、京都、岐阜辺りは回っていたのですね。その後横浜にご縁を頂き、そのご縁で東京のある先生が「私の所で一度話をして下さい」と言って招いて下さり、そこでお話をさせてもらいました。
その時のお話のテープをその先生が会の読者の皆さんに送って下さって、それで一遍に日本国中に広がってしまいました。問い合わせやら何やら頂いて、自分ではしょうもない話しかできないし、そんな大それた思いなど持っておりませんが、大勢の方がすごく喜んでくださり、
「私の所にも是非話しに来て下さい」「どうぞ私の方にも来て下さい」と言って全国からお招きを頂くようになりました。自分で想像もしていないことですね。
私はこのようにして法をお伝えしていきたいとか、人々に広めたいとかおいう思いはこれっぽっちもなかったのです。
ただ「縁ある方たちでこの法を守っていきましょう、法を曇らさないようにしていきましょう」と言って学んでいた勉強会だったのです。
しかし、これは天上界ではちゃんと計画して頂いたことだと思います。ある時期が来るまで-----そしてその時期が来た時、忽然としてご縁によりまして全国へ広げて頂きました。
しかもこんな拙い話で申し訳ないと思っているのですけれども、そのテープを聞いて病気が治ったり、首の骨がずれていたのが治ってしまったり、腰痛が治ったり、30年来動かなかった腕がその場で治ってしまったり、そういうお便りをいっぱい頂いています。
テープを聞いて頂くだけで、心臓や肝臓が治ったと聞きますと、
私は「それは本当ですか」と言うのです。
「本当に治ったのですか」「それは有り難いですね」。
私のこんな話を聞いて病気が治ったり、家庭が調和されたり、ノイローゼが治ったりするのなら、私も一生懸命しゃべらなくてはいけないなあと思っています。
この間、1月の東京公演に行きましたが、相変わらず忙しゅう御座いまして、公演直前まで治療をしていて、「ここが痛いのです」
「ああそうですか、---治りましたか」「あっ、治りました」と、こんなことばかり言って癒しをしておりますから、前もってお話の段取りができればいいのですけど、もう全くそんな時間は与えられないですね。
そしてすぐ壇上に上がりましてお話をさせて頂くのですが、一時間、二時間はあっという間に過ぎてしまいます。その時間に何を喋ったのかなあと思うような事で、「みなさん、1月早々からつまらない話で、どうぞ許してください、何を喋ったのか、知らない間に時間が過ぎてしまったのです」と、
控室に入るなりお詫びをしたのですね。すると「いや良かったですよ」と言って頂きました。その時、今日もお見えになっていますが、
Kさんのご主人が入ってこられて「先生、今日のお話は良かったですなぁ」と言ってくださり
「本当ですか、今お詫びをしていた所です」「いやいや今日のお話は筋立ってすごく良かったです」と褒めて頂きました。
不勉強の上に、勉強する時間も頂けませんので、聞いて下さる方に申し訳ないのですが、そんな申し訳ないテープでも病気が治ってもらえるのです。
先程の指の千切れたお嬢ちゃんのご両親が見えた時の話です。子供さんは二人はいつも二階で休んでおられて、お父さんはめったに上がらない二階の子供の様子をそっと見に行ったそうです。
するとその部屋で私のテープをかけているのですね。それが日本語で話を一言しますとその後外国の言葉で話しているそうです。また日本語で話して声は同じなのに次は外国語で話、そういうテープがずっと流れていたそうです。
そして二階から下りようとすると、奥さんが飛んで上がってこられて、
「お父さん、来て、来て、こんな不思議な事がある、このテープは全部先生のお話ばかりだったのに外国の言葉で説明がついている」
と言われて、お父さんはまたびっくりされまして、「なぜそういう力を頂けたのか」と尋ねられたのです
神の御心とは愛です。太陽の光がさんさんと注がれているのも神の御心と同じですね。慈悲と愛をまんべんなく与えて頂いています。
この太陽の光に当たって「熱い!」と言ってめったに火傷はしませんが、綺麗なレンズを持ってきて焦点を合わせましたら、たちまち燃えてしまいます。手の上に焦点を合わせたら火傷してしまいますね。
たちまち燃えてきます。手の上に焦点を合わせたら火傷してしまいますね。神の愛は燦々と注がれています。肉体を持った者が心の曇りを一生懸命磨いて綺麗にしますとレンズ上になるのです。
普段は丸いのですが、愛の思いをさっと集中しますと綺麗なレンズの様になるのですね。平均に注がれた愛が、或る一つの円レンズのような状態をもって一つに集中されますと、そこに愛の奇跡が起きるのです。
平均して頂いている愛を一つの場所に集める役割をするのですね。これはどなたにでも出来るはずです。私達は皆、そのレンズも頂いております。
ただそのレンズの表面に、あまりにも曇りを作ってしまったのですね。その曇りを一生懸命磨いて拭き取ればいいのです。つまりこれは反省することです。
自分が知らなかったために、過去において数々の過ちを犯しています。その過ちを一つ一つ悔い改めていったらいいのですね。その時、神の光を集めるレンズの作用を神から許されるわけです。許されるというより、自分がそうなれるのです。
一つの場所に集める方法は、ただレンズを磨くだけの事ですね。レンズを最も曇らせるのは自己保存と自我我欲です。言葉を変えますと、この事故保存と自我我欲こそ悪魔の正体で、綺麗なレンズを曇らせてくれます。
この心の曇りだけ取れば、誰でも自動的にレンズの働きが頂けるのです。
しかしいくら綺麗にしましても、自分の心を『愛』に向けないと、レンズにはなりません。
ピカピカの綺麗な玉になりましても、透明なだけでは光は集まってきません。これを愛の力でレンズ状にする事が出来るのです。そうしますと光は即愛、愛は即現象化して一つの場所に現す事ができます。
こう言ってその父さんに説明しますと、「なるほど、よく判りました。それなら私にも出来ますね」「ああ、どなた様にでも出来ます」
これは簡単でしかも正確な理論です。私達はそのような心の方法を学びましたら、まず自分が神の愛を一つに現すレンズの役目を果たさなくてはいけません。相手の方に愛の心を向けたらいいのです。
そうしますと、この肉体は元々神様から頂いたものですから、しかも60何兆という細胞が集まって形造られており、その一つ一つは全部神のお造りになった命の塊(かたまり)です。
神の御心を頂いて、自分の霊で焦点を合わせたら、これは病気が治って当たり前です。ですから、「はい、治りなさい」と言えば治ってくれます。
このように肉体を有する現世の天使といいますのは、色々な方便を使って、神様と人間との関係とか、神様の心をこのようにして現しなさいとか、救われる側から救う側に立ちなさいとかいう事を、分かりやすく誰にでも出来る方法で人に伝えてくれるのですね。
「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」
諸々の諸衆とは多くの私達という事です。正法神理とは、お釈迦様であり、イエス様の教えです。この尊い方たちのお説き下さいました教えをできるだけ分かり易く、どなたが聞いても理解できるように、「それなら私にも出来ます、私はやっていきます」と受け取れるように導いていくべきですね。
私達の魂のグループは六人で一人を構成しているそうですね。その本体と五人の分身のお方の六人でもって私たち一人を構成しています。光の大指導霊が天下られる時はその本体の方が優先してお供をして出られる権利を与えられるそうです。
天上の世界は「光の量の区域なり」と説かれていますように、偉大な如来・菩薩というお方は慈悲と愛の光で輝いておられ、実在界ではとても眩しくて、そのお姿を拝むことが出来ないのです。光だけなのです。
光の塊ですから拝めないのですが、地上に出られますと、どんな偉大な光の大天使も私達と何ら変わらない肉体の中にお入りになりますからその如来の姿を拝まんがために、私達の魂の兄弟の本体がお供をしてこの世に出てくる権利を与えられているみたいです。
今、高橋信次先生の教えにご縁を頂きました者は全部、魂の本体のお方です。今こうして集われる皆さんは分身ではなくて、その本体です。
如来の姿を拝むためだそうです。なるほどそのように思わせて頂きますと、偉大な魂の方は眩しくて拝むことができません。しかし同じ肉体の中に入ってもらったら、五感を通して拝むことができます。
こういうお方を「肉体を有する現世の天使」と呼ぶそうですね。そして人々を調和・喜びの中へ導いていきます。
「正月三日間はええものじゃ」と言いますが、私は今年の正月は3日から寒い東北の岩手県の方に寄らせて頂きました。朝は、飛行機で言ったのですけれど、帰りは切符がなくて、新幹線に乗せてもらいましたら、何とここへ帰るまで8時間半もかかりました。
8時間半も同じイスに座っていたら、お尻が痛いものですね。やっと帰って、翌朝は早く起きて今度は九州の大分へ寄らせて頂きました。
大分では同じ正法というのを学んでおられたのですが、その中に色々と苦しみがありまして、悩んでおられた方々にご縁を頂きまして、そこへ寄せて頂きますと今までとは全く違った驚きと喜びとで、
最初に「心行」を読ませて頂いておりますと、もう前に座っているお方は皆涙を拭きながら聞いて下さるのです。
2日目の最後に「父母恩思経」を読ませて頂きますと、ある方などはハンカチで顔を覆って大声を上げて泣いておられ、皆さんも私も泣きながら読ませて頂きました。そしてその後は喜びの渦に変わりました。
自分の過ちに目覚めて流した涙、同じ正法という名前であっても、誤った中で苦しい思いをなさっていた、その苦しみから救われたという喜びですね。今日も大分から何人か来て頂いております。
四国の高知から舟で11時間かけて来て頂いた方、また島根からも、北陸からもご縁に寄ってこうして巡り合えますのは、初めてのご縁ではなくて、私達の過去世において何百年か或いは何千年か前に全部共に学んだ仲間だからです。
その縁と条件によって、今こうしてこの場所に巡り合っております。話を聞いて、皆さんが「ああそうだ」「そうだった」という風に受け取って頂くのは、以前にちゃんと学んでいた魂の持ち主だからです。
過去世において法に縁のなかった方は、こういう話を聞いても分からないそうです。私の様に分かりやすく話しているのですけれども、それでも分からないとおっしゃりますね。それは縁がないのです。
この正しい法に縁をいただくのは両目を潰した亀が大洋の真ん中に流れてくる木と巡り合って、その流木にあいていた穴の中へ首を突っ込むよりも、正しい教えに巡り合うのはさらに難しいそうです。
私のお話は全国へ伝わって全国で聞いて頂いているようですが、それでも法に縁のつながったお方は日本の人口からしますとごく僅かなもので、数にしたら一億何千万人の中の何十万人という所でしょうから、これは知れたものです。
それだけしか縁を頂くことは出来ないのです。この世で法に縁を頂くということは本当に難しい事ですね。しかも縁と条件とによって、この場に集えるということは、どれ程有り難い事かと思います。
光の天使は常に正法神理を説いて、人々を調和と安らぎと喜びの世界へ導きます。この世は形として現れた現象世界です。
この現象界はあくまでも実体が無く、形として現れているわけで、そのようなものでも、ある時間が来ますと消えていきます。ただ時間が早く消えるか、時間がちょっと長く経ってから消えるかの違いです。
正法にご縁を頂いて間もない頃の事です。ボーリングが大変流行していた当時ですね。この旧26号線を通りますと助松の駅下りの所に松ノ浜ドライブインというのが出来ています。あの辺りにボーリング場が出来ました。
私は商売をしていましたから、いつも飛び回っていまして、工事をしている時から大きな工事だなあとおもって見ていたのです。
何と壁の厚さは30cmからあるのです。使っている中の鉄筋の太さもものすごいものでした。その鉄筋を網の様に組んで厚いコンクリートの壁の何階建てかの大きなボーリング場が出来ました。その時思ったのです。
「実体のないものは必ずいつかは消えるけれど、こんなにごっつい事をしたら、これは200年や300年ではめったに消えないだろうなあ」と。あのまま置いていたら消えるものではないと思っておったのです。
それから半年もしない内にボーリングが不景気になったのです。或る時通りますと、大きなクレーン車が来て、大きな鉄の玉を振り動かして建物にボーンと当てているのです。
出来たと思ったら潰しているのを見て、その時つくづく思いました。
「本当に、鉄と石をもって作った建物でさえ、縁と条件に触れたらたちまちにして消えていくのがこの世の定めだなあ、本当にその通りだなあ」と。
その後一ヶ月経ってそこを通りますと、もう跡形もないのです。石も何も全部片付けて広い原っぱになっていました。私達の肉体もそうです。肉体も今、あると思っているのですね。これは現実に見ればあるのです。
肉体は現実にありますから実在しているかのように思っています。しかしいつの日か、これは消えていくものです。そしてまた人は現れ、現れては消えしているのです。
その時間の中に、私達は自分にとって都合の悪い出来事が起きました時に自分の心を曇らすのですね。幼い時の綺麗な魂が年と共に曇って、その曇りがだんだんと積もってきます。
しかしこれは反省を繰り返し、自分の幼い頃まで反省していきますと、元の幼子の清らかな魂に返るのですね。神のみどり子に返る事が出来ます。
それは反省以外にはありません。反省が出来ていなかったら、善悪の基準が分からない間に犯した過ちによって、その苦しみを一生背負っていくのです。そしてあの世まで持っていかなくてはなりません。
常に反省させて頂いて、人様の前で聞いて頂いて、もう何とも思えないようになった場合は、あの世に帰っても何ともないのです。この世で反省を知らず、悪事を隠しておくと、あの世で恐ろしい思いをします。
この世に肉体を持たれて、そして正しい道を述べ伝え、人々に調和と安らぎと喜びを与える仕事をして下さるお方が光の天使であると、そのように書かれております。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年2月26日
「心行」には「末法万年の神理なることを悟り、日々の生活の師とすべし」と説いて頂いております。
永遠に変わることのない神理なることを私達は自覚して「心行」を日々の生活のお師匠様として学ばせて頂いたら結構かと思います。
この「心行」はただ読むだけ、聞くだけでは、言葉に馴染めない方々もあると思いますので、理解させて頂くために一行ずつ追って、説明させて頂いております。
「心行」の内容は意味が深く、私のような者が解説出来る程やさしいものではないのですが、私の知らせて頂いた範囲内で説明させて頂いております。
話はあちこちに飛びますのでいっこうに前に進まないのですが、いつの日にか終わるかと思います。
「肉体を有する現世の天使は」
この世に肉体を持って現れた天使様というのは、本当に位の高い方で、光り輝く神の意識を自らお悟りになった方です。そういうお方が、この地上に肉体を持って頂く時があります。
それはイエス様であり、今生において私達が縁を頂きました高橋信次先生であり、これらの方々は肉体を持たれた光の天使様ですね。
「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」
肉体を持たれて、この世に現れた天使は諸々の諸衆、あらゆる方に正法神理を説き、「正しい教えとはこのようなものである、神理とはこのようなものである」と、どなたにでも理解できるように説いて下さいます。
その話を聞いて今までの思いや行いが間違っていた事に目覚めますと、いやでも「ああ、これを正さなければ」と思います。
「毎日の生活が今までは正しいと思って生きてきたけれども、とんでもない間違いであった、これを正す事によって心に安らぎが頂ける」という事が分かってきます。
「調和の光明」というのは、私達の心の平安と喜びですね。その喜びとは光です。また反対の苦しみとは闇です。光明とは喜びであり安らぎであり、そして愛に目覚めることです。
人々の心を平安と調和と愛に目覚めさせて下さるのが、肉体を持たれた光の天使ですね。この方は諸々の諸衆に、人としての正しい生きるべき道をお説き下さいます。
「この現象界におけるわれらは」
現象界とは、現れた象(かたち)の世界と書いてあります。象として現れた世界とは、この世のことです。仏教では「色」といいます。
目に見えるものは全て色が着いているから確認出来ますが、全くの無色透明であれば確認出来ないのですね。そのためにこの世の現象世界のことを「色の世界」とも呼んでいます。また、私達の肉体も色で表現されます。
現象世界とは反対に、実在界という世界があり、これは目に見えない世界です。私達がこの世を去ってから帰っていく世界を実在界と言っております。
言葉を変えていいますと、私達が見える事の出来るこの世の全て、自分から外にある世界を「外なる世界」または「外界・物質化現象世界」といいます。
反対に、見えない世界こそ「内なる世界・実在界」です。「私達の意識の中心は心なり」と説いて頂いておりますが、その心の奥底は魂であり霊であり、私達の意識を操っているもので、その霊魂に私達が目覚めることです。
その魂の最奥の世界こそ「内なる世界・実在界」ですから、外にとらわれる心をよく反省し、禅定・瞑想することが必要です。
瞑想の方法には色々とあって、例えば阿字(あんじ)を見つめて、そこへ心を統一する阿字観とか、お月様を思い描いて、意識をお月様に留めて統一する月想感とか、水を想って観じる水想観とか、
或いは自分の肉体が朽ち果て、徐々に腐りかけていく姿を観じながら深く心の中へ入って行く不浄観という汚いものを観るものなどがあります。
この中で「不浄観」というのは素晴らしいものです。自分がどこか人里離れた山の中を旅している姿を思い出します。そして寿命が尽きて野垂れ死んでしまいます。倒れて、自らの命が絶えた姿を観つめていきます。
だんだんと腐っていき、時間と共に朽ち果てていく姿を観ます。腐ってきますと、ハエが飛んできて卵を産み付け、肉体にウジがうじゃうじゃと動いている姿を観ます。
その内、鳥とか犬とかが近寄って自分を食い散らかしている姿、やがて骨だけになった自分を観ます。その内鳥とか犬とかが皆寄って自分を食い散らかしている姿、やがて骨だけになった自分を観ます。
ある時、親切な方が通りかかってその骨になってしまった自分を見つけ、まとめて火に燃やして下さる、その燃えていく姿を静かに観じます。
一握りの廃になってしまいます。その時、一陣の風が吹いてきて、灰は空中に飛び散ってしまいます。このように、自分が消えて無になってしまうのですね。
自らの心を宇宙の中へ遍満させてしまう瞑想法が不浄観ですが、これをやってみますと、自分の死の姿から腐っていく姿、蛆(ウジ)がいっぱい湧いて肉体の中を這いずり回る姿は何とも気持ちが悪くて、本当にそういう感じがわかるのです。そして、やがては消えてしまう自分を観じる事が出来ます。
このような色々な瞑想法がありますが、これは全て外に求めて自然と一体となる方法です。内に求める方法は、自らの心の奥底の魂の中に自らの心を向ける訓練をしたらいいのですね。
心を外に向けますと、かつて組織の中でよく聞きましたように「禅定しては危険です。禅定・瞑想をしてはいけません。という事になります。
今のある宗教組織もそのように言っておられると思います。高橋信次先生のご存命の当時も禅定・瞑想しては危険があるから止めておきなさいと言っておられました。
しかし、私達はもう十年も禅定と反省を続け、その内七年間は毎日坐りました。けれども、危険は一切ありません。憑依するものがありましても、正しい反省と禅定を行いますと、その当人も、とっついている方も共に清まって救われていかれますね。これは正しい反省と禅定だからです。
世の中の偉大と言われる政治家であっても、芸術家であっても、音楽家であっても、世に功績を残された方は皆、静かに瞑想・禅定をなさっているそうです。
知らないのは我々凡夫だけで、知らないから偉大な功績が残せないのですね。私達も幸いにしてこの教えに縁を頂きまして、約一時間、反省・禅定のために坐らせて頂いております。
ある時、ノイローゼのひどい状態で、自分さえも分からなくなっておられた四十半ばの働き盛りの男性で、もちろん仕事にも行けない方がありまして、お話会に何回か連れられて見えていました。
「一度、禅定の時一緒に坐ってみませんか」と言いましたら、ご夫婦で来られたのですね。ちょうど私の前に坐っておられて、私からその方の胸の中へ光を入れましたら、すごい光がサーッと入ったそうです。
するとその人の肉体の中が、火がついて燃えるように熱くなり、「熱い熱い」と思っている間に、精神分裂、強度のノイローゼがたちまち治ってしまったのです。今では健全な生活をなさっています。正しい方法によって禅定をさせてもらえば、絶対に害はありません。
今まで十年余り禅定させて頂いた間には、憑依された方も見えました。そうしますと、その方の身体が動いてくるのです。何ともいいようのない声を出しながらどんどん自分の胸を叩いて霊が乗りかかってきます。
もちろん私も目を閉じて禅定中ですが、その方の方に光を送りまして、「今この方に憑依する霊よ、後ほどあなたを救います。しばらく待ちなさい」と言いますと、ポッと止まります。
「今、あなたはこの場所に出てきてはなりません。静まりなさい」といえば全部止まるのです。本当に正しい法の生活を実践させて頂きますと、私ではなく、私の内なる神が、その威力を示して下さるのですね。常に心を内に向ける習慣が大事だと思います。
外なる世界には色々な出来事があります。自分の内なる世界には平安と愛と安らぎがあります。もし、静かに坐って安らぎの時間を持つとすれば、常に自分の心の奥底へ奥底へと心を向けていって下さい。
その心の奥底には本当の神様がちゃんと在られます。私達の心の奥底の神我こそ、大宇宙大神霊とそのまま繋がっているのであり、この事が「宇宙即我を体験する」事なのです。
「過去において 己が望み 両親より与えられし
肉体という舟に乗り 人生航路の海原(うなばら)へ」
私達は肉体を頂いて、この現象の世界へ生まれ出るのですが、生まれる前まではあの世の世界におりました。私達の両親もまた生まれる前の世界におられました。これを天上界といっていますね。
私達は全部天上界からこの地上界へ来ている魂の修行者であって、地獄からこの世に生まれでた方は誰一人としてありません。全部天上界に帰ってからでなくては、この世に生まれ出る事が出来ないのです。
あの世では魂の光の量の区域というものがあって、同じ量の光を持つ者同士が一区域におり、それぞれが光の量をさらに高めるためにこの世に修行に出てきているのです。
10ワットの者は15 ワットに、15ワットの者は20ワットに光の量を高めるという目的を持って、この世に生まれてきています。そのワット数がものすごく高くなりますと神様の御胸(みむね)の中に通じていくわけです。
この世に生まれる前の実在界において、私達は一人一人、私達の両親の元に「どうぞお父さんになって下さい。お母さんになって下さい」と、お願いに行っております。
その時には、詳しく現象世界のことも説明を受けて、「あの世に出ますと、その世界の環境たるや相当に厳しいものです。それでもいいですか」と念を押してもらっています。
私達は「それでも結構でございます。どうかお父さん、お母さんになって下さい」とお願いをして、了解を頂いてからこの世に縁を頂くのです。
もし今生で、余り心配をかけ親不孝をしておきますと、「この子はかなわんな、あんなに心配をかける子はもうかないません」と言って、
今度生まれ変わる時にお願いにいっても「もうあなたの事でえらい目に会うのはかなわんから、今回は親子の縁は組めません」と断られてしまうのです。この世の親を大事にしておかないと、来世の縁が頂きにくくなりますね。
両親と親子の縁を頂きますと、次に夫婦の縁を頂きます。
「どうか夫婦となって共に修行させて下さい」と、お互いに約束をするのです。天上界は精妙そのものに計画がなされていて、何かの事情で夫婦の片一方が欠ける場合は、ちゃんと第二、第三候補まで天上界において約束されているそうです。
仮に片方が欠けても縁によって第2候補が現れます。天上界で夫婦としての約束が出来ていましても、その二人は環境も場所も教育も思想も全く違う世界へ生まれてきて、別々の習慣の中で自らを造っているのですが、約束の時が来ましたら縁に繋がれて巡り合うようになっているのです。
何歳の時に、ある方は仲人さんの縁によって、或いは恋愛によって、ある方は職場の縁によってというような事まで、ちゃんと計画がなされていて、その時期が来ますと巡り合い結ばれるというように、この世の全ては計画通りに事が運ぶようになっております。
天上界で夫婦の縁が出来ますと、今度はその子供達が「どうぞお父さんになって下さい。お母さんになって下さい」と頼みに来てくれるのです。
「それではあなたは私の子供となって、共に学んで下さい」と了解して、まず両親がこの地上に出られ、夫婦の約束の時期が来て結婚なさいます。すると、親子の縁を頂いていた者が子供として、そのお母さんに魂が宿るのですね。
肉体はお父さんとお母さんがこしらえてくれたと思いますが、しかし一個の卵子と一個の精子が結ばれて出来た、たった1つの細胞がわずか数ヶ月の間にどんどん細胞分裂を起こし、お母さんのお腹の中で人間の形を造り上げていくのですね。この力こそ神の御業以外の何ものでもありません。
母なる方の体内において、父なる神がその御業をもって人をお造りになるのです。人はみな神の御子です。この親子の縁というものは、自分が望んで両親から頂いたということ、そして神が造り給うた肉体という船に、私達の魂が船頭として乗りくんでいる事を知らねばなりません。
こうして私達は人生行路の海原へ航海の旅に出るのですね。その人生行路の中には切りの日もあれば嵐の日、凪(なぎ)の日もあります。
風はなく、安心して櫓(ろ)を漕いでおりますと、海の底から突き出た暗礁の上にガーンと乗ってしまって船底が破れたりする場合も起きます。
全く自然界と同じことです。この厳しい現象の世界に何のために生まれてきたのかというと、己の意識を、魂を磨くためだったのです。
「己の意識・魂を磨き」
「魂を磨く」という表現をして頂いておりますが、私達の魂そのものは本当は磨く必要はないのです。何故かと言うと、神様の生命、神の御意志がそのまま私達の中に入って下さっているからです。
では、磨くとはどういう事かというと、魂の表面意識(自我)と内なる神の意識(神我)との間を遮(さえぎ)っている五官煩悩を取り除く事です。
こちら側は私達の肉体の意識であり、向こう側は内なる神の意識で、この間を遮っている曇ったもの、スモッグやカーテンのようなものを取り払うために私達はこの世に生まれてきています。
この曇を取った時、内なる光輝く神の意識に通じていくように造って頂いているのです。父なる神は自らを何とかして表現しよう、自らを示し、表へ表そうとするご意志によって人間を造って下さいました。
私達一人一人はみな神様そのものの意識を魂の奥底に頂いているのです。私達を造って下さった父なる神の御意志が、子供である私達の中にそのまま生きていて下さるという事を、まず知らねばなりません。
そうしますとお一人お一人はみな神様ですから、もし喧嘩をして人を責めたり、謗(そし)ったり恨んだり憎んだりしますと、それは取りも直さず神様を謗り、神様を侮(あなど)った行為に繋がっていきます。
お一人お一人はみな神様なのだと思わせて頂いたら間違いありません。
ただ問題なのは、このスモッグやカーテンによって、神の意識と人間の意識を遮っているという事です。これを取り払う修行をするために私達は生まれてきております。
カーテンを取り払った向こう側の世界は、永遠にして不滅、永久に滅びる事のない生命そのものが、私達の魂の奥底に脈々として生き続けております。何故かと言うと、神のご意志が私達の中にそのまま与えられているからです。
「死」というのは、ただ傷んでしまった肉体の船から私達の船頭さんが下りるだけの事です。船は傷んで使い物にならなくなり、朽ち果ててしまいます。
しかし、傷を受けて滅んだのは肉体だけで、その肉体を動かしてくれていた船頭さんは健康にして傷むことなしに、全く肉体とは別なもので健康体で生き続けているのです。
この神理を知らないで、肉体が痛い痛い、苦しい苦しいと言って死んでしまいますと、死んだ後までその苦しみが続いていきます。あの世もこの世も、生きている時も死んだ後も「想いの世界」に生き続けるのです。
人は環境の中に生きていると錯覚を起こしますが、本当は想いの中に生きており、自分の想いのままの人生を送ります。悪いことを想えば必ず悪くなっていき、良いことを想えば良いことが起きてきます。
現在、たとえ環境に恵まれず苦しい立場にあっても、その中にあって自らの想いを光に向けて、暗い方に向けることなく「大難・小難の想い」を持って生活した時は、必ず環境は光に満たされてきます。
どんなに不調和な環境の中にあっても、その人の想い方によって必ず調和されていきますから、このことを知った時、私達は何も恐れるものはなくなります。
大地に種を播いても土もかぶせずに放置した時は、根も芽も出てきません。しかし、種を土の中に埋めた時は、適当な水分と太陽の熱・光さえあれば必ず根を出して芽を出します。
このように穴を掘って土に埋められた時、私達は真っ暗になって苦しく辛いのですが、しかしこの暗闇を与えられて初めて芽が光を求めて伸びていくのですね。苦しみは闇です。
今の私達が体験する色々な苦しみ悲しみや辛い事とは、私達の魂の芽を出させるために神が与え給うた大きな愛なのです。この苦しみあってこそ根も出せるし芽も出す事が出来ます。
私達の人生で、今は土の中に埋められたような光を失って苦しい辛い環境にありましても、それは神が私達を目覚めさせるための大きな愛なのだと思わせて頂いた時、また希望も出てくるはずです。自然はそのように造られております。
大変苦しい体験をなさっている方はこの世の中にはいっぱいおられますね。しかし一般の宗教、信仰はそれに対して「あなたは前世で悪いことをしたから、今その裁きを受けているのです。だから辛抱しなさい」とか、
「前世の因縁が今生に現れているのです」とか、こういう教え方をしています。しかしそれではその方は救われません。
夜が来ればそれは必ず朝が近づいているという事であり、闇が来れば必ず光が近づいてくるのです。この事を知って、私達は生活の上で勇気を持っていかなる暗闇の中にあっても、
「自然は夜が来れば朝が来るようになっているのだから、私の人生も必ず夜明けがやって来るはずだ」と、強く確信を持つ事です。
私達は何か苦しい暗い体験を一つしますと、「ああ、また同じことが起きるのと違うだろうか、またこんな辛いことが起きるのではないだろうか」という想念を持ちやすいのですが、その想念が次の苦しみを形造るのです。
良くない事が二度続くという事がありますのは、その人の想念が悪い事態を呼び寄せてきたのです。しかし「必ず良くなるのだ」という強い信念を持った時は、災難は一度で収まるはずです。全ては自分の想いによって作っているのだと知ることが大事かと思います。
「神意の仏国土を造らんがため 生れ出たることを悟るべし」
神意、つまり神様のご意志である争いのない平和な世界、それをこの地球上に造らんがために私達は生まれてきました。別の言い方をすれば、一人一人自らが神の表現体であるという事を自覚して、神のご意志を現していった時、この地球上は仏国土ユートピアが建設されるという事です。
争いのない、お互いに生かし合い、お互いに愛し合う幸せな地球が誕生します。一人一人が神様の意識に目覚めるだけでいいのです。
「宇宙即我」も、自ら目覚めることによって「自らが宇宙である」という事が理解できるという事です。
「今、日本国中で火の手が上がりました。やがて地球上に教えは広まる」と、高橋信次先生が予言されていました。「この正しい法は日本を拠点として世界中に広がるでしょう」とおっしゃられました。
予言されたときとは差がありますけれども、現実に今、私のような者がしゃべっておりまして、このお話が世界各国に広まっております。
私がそういう事を望む、望まないに関係なく、見えない世界ではこの教えを広げなければならないという必要をもって日本中に、また世界各地へと広げて頂いているようですね。これは正に天の計らいです。
今学んでいる私達の数は知れていますが、お一人お一人が知った方にこの教えを伝えて頂き、またその方が他に伝えて頂いた時、縁のある方が核となって広がっていくのです。
「自分だけが聞いておけばいい、自分だけが安らいだらいい」というのでは法の実践にはなりません。まず自分が幸せになり、その幸せを人に伝えるべきです。
そのようにして一人から一人へ、またその方から縁を持って広がった時、私達の想像以上の早さでこの地球上に神の国が建設されるはずですね。
「肉体の支配者は 己の意識なり 己の意識の中心は心なり」
私達の意識が肉体を支配して動かしていますが、その意識の中心に心があり心の奥底に魂があります。自らの神なる魂に目覚める事です。意識を操るのは心です。
「心は実在の世界に通じ 己の守護・指導霊が
常に善導せることを忘れべからず」
心は実在の世界に通じているということですね。実在とは内なる世界の事で、心が魂を通して内なる世界に直通になっているということです。
「心行」にはこのように深い意味が全部説かれています。ただ私達が理解できなくて分からなかっただけです。
私達の守護・指導霊といわれるお方も、常に私達をいい方へ、いい方へ導こうと努力して下さっているということを知る事ですね。良き方へ導いてあげようと努力して下さっている事を知り、いつも感謝の心を持って忘れない事です。
ここで、守護・指導霊の説明をちょっとさせて頂きます。守護・指導霊という言葉はよく聞きますが、しかし目に見る事はできません。
私達は誰も、普通の者は見ることはできません。しかし間違いなしに守護・指導霊は私達をちゃんと守って下さり、その導きを受けておりますね。これは実在界のお方です。
「守護霊」といいますのは、私達が両親の縁を頂いてお母さんのお腹の中に宿りますと即、守護霊が付いて下さいます。そしてこの世の人生行路を終えて死の世界に帰るまでずっと共に見守って下さっています。
この方は他の方と交代することなしに、ずっと付いて下さるのですね。私達の魂の兄弟は六人をもって構成されていますが、その内の一人が守護霊として付いて下さるのです。
そして私達を守護すると同時に、この地球の環境をあらかじめ予習していられるわけです。というのは、時代が変わり環境も年月と共に変わっていますから、その中に突然入ってきますと慌てなくてはなりません。
ですから守護しながら自害や環境の変化をちゃんと学んでおられるのですね。そして私達が無事あの世へ帰った時、肉体の生命というバトンをその守護霊さんに渡すわけです。
そうしますと、バトンを受けて、私達の代わりとして、オギャーと人生行路の旅に発ってくれるわけです。この方が出た時、次に生まれる方が守護霊として付いて下さるようになっています。このようにちゃんとうまくして頂いています。
次に「指導霊」とはどんなお方かと言いますと、読んで字の如く、私たちに色々と教えて下さりご指導下さるお方です。この指導霊というのは、常に代わって下さっています。私達の魂が幼稚園に入るまで成長しますと、ちゃんと幼稚園程度の指導霊が付いて下さるのですね。
そして小学校に進む程度に魂が進化しますと、小学校の先生のように指導して下さる方が代わってくれるのです。中学校に行けば中学校程度の先生が代わってくれます。
このようにして私達の魂が進化しますと指導霊がちゃんと入れ替わって付いて下さるわけですね。大変素晴らしく造って頂いております。守護霊に守られ、指導霊に導かれて私達は日々の生活をしております。
「善導させるがために」
良い方に導こう導こうと常にして頂いているために、己の心は己自身に忠実なる事を知らねばならないとは、他人に嘘をつく事は出来ても、自分の心には絶対に嘘を付く事はできない、いかに上手に人を騙しても、自分では「ああ、今嘘をついているな」と、知っているという事です。
自分自身を欺く事は出来ないのです。自分を騙す事が出来ないのは、守護・指導霊が常にいい方へ、いい方へと導いてくれており、守護・指導霊がそれを知っているから、自分の心には嘘がつけないのです。
どんなに大天才の詐欺師でも「私は今この人を騙しているのだ」という事をちゃんと知っています。知っていながら人を騙しますと必ず苦しみが結果として現れるように造られています。
山に向かって人を騙しますと必ず苦しみが結果として現れるように造られています。山に向かって叫べば必ずそのまま自分の声が返ってくるのと同じで、山彦現象が起きます。
「アホー」と言えば必ず「アホー」と返ってきますし、「ヤッホー」と叫べば「ヤッホー」と返ってきます。山彦の場合は、音波が向こうの山に当たって返ってくるだけですが、これは私達の想い、行いの場合も同じで、
私達の想い、行ないからは波動が出ていますから、神の子として恥ずかしい愛の実践をしますと、この場合は精妙なる波動が出ますし、人を騙したり、
貪欲に捉われたり、怒ったり、恨んだり、憎んだりしますと、必ず荒い波動が出てきて、それは見えない次元の違った世界に突き当たって自らにそのまま返ってくるようになっているのです。原因結果の法則ですね。
これは何者も絶対に逃れる事は出来ません。そういう中で私達は修行をしているのです。自分の想い・行い・言葉が間違った事をしたら、間違いの分だけ自分に返ってくるという事を知った時、日々の行・想・言がどれ程大事であるかという事が分かってきますね。
この原因結果の法則さえ分からないで道を説いている方々もあります。人の悪口を言えば必ずそのまま自分に返ってくるのです。これは恐ろしいです。私達はできるだけ法則の中に生きたいと思います。
「しかるに 諸々の諸衆は 己の肉体に 意識・心が支配され」
これほど完璧に守護・指導霊から愛をもって守られ導かれておりますのに、己の肉体に意識・心が支配されています。
見えない世界では神の意識をそのまま頂いているのに、肉体というものに自分の意識・心が完全に支配されて、肉体の持っている意識、つまり五官から受ける感じが私達の内に坐(ま)す神なる意識(神我)を遮(さえぎ)ってしまうのです。
神様が自分を表現するために人間の肉体をお造りになり、しかも神ご自身が一人一人の中に坐しましながら、肉体の五官というサタンの化粧をなさっているのです。
五官に捉われるとなぜ悪魔の餌食になるかというと、五官には自己保存と自我我欲というもんが与えられているからです。
この自己保存と自我我欲こそ、キリスト教でいう所の「原罪」であり、人間が生まれつきに持っているエゴです。
このために、学者は性善説・性悪説という二つの両極端の研究をなさっています。人間は本来善か、本来悪か、また両方を唱える方もあります。
しかし私達は神の子であり、人間は本来善なるものだと思います。その証拠がここにあります。これは生まれてわずか十ヶ月の幼子が合唱している写真ですが、こんな調和されたお顔とポーズをされています。
その性が悪であればこのような姿が出来るはずがありません。善悪の判断の基準も分からない幼な子に光を入れてもらいますと、このように自らの仏性・神性を現して合掌されます。
「人間は本来神の子なり」というのは間違いないと思います。知らないから性は善か悪かと色々な議論されるのですね。
私達の魂の奥底に与えられているものは神の意識であり、そして、善なる永遠不滅の生命が私達一人一人の中に与えられている事を知って下さい。
その時私達は今まで知らなかった世界を知り、人間として生まれ人間であるという想いから、本当は神のいとし子であったという事に目覚める事が出来るはずですね。本来人間は善です。本来悪などという事はありえません。
しかし、神の意識の中には元々禅も悪も無いのです。善悪は肉体を持った人間が作っただけのものであって、神の意識の中は善悪を超えた愛によって満たされています。このように幼な子のお顔を見せて頂いた時、これは正に人は神の子であることの証ではないかと思います。
「心行」は深く理解させて頂きますと、私達は神様のいとし子であったという事までちゃんと書いて頂いているのです。
「文底の秘文」、つまり、文字の底に沈められた秘密の教えを自分の魂の進化によって次々と頂く事が出来るのです。
私達は肉体の外なる世界に支配されてしまいます。この肉体とは外なる世界のもの、そして心・魂は内なる世界です。
一日の内のせめて五分でも十分でも結構ですから静かに坐って、今日話させて頂きました事をずっと思い出しながら、自分の心の内に入っていく練習をして頂けたら結構かと思います。肉体という外なる世界に意識が支配されてしまいますと、自分が生まれる前にした約束を全く忘れてしまうのです。
「己が前世の約束を忘れ 自己保存 自我我欲に明け暮れて
己の心の魔に支配され 神意に反し この現象界を過ぎ行かん」
私達は生まれる前に自分が約束させて頂いた事をなぜ忘れるのかというと、肉体によって意識・心が支配されるからです。そのために自分が前世において結んだ約束を完全に忘れていきます。
忘れる原因は自己保存・自我我欲に翻弄されてしまうからです。その時、神の御意志に完全に背いております。自己保存・自我我欲というのは外なる世界に与えられたものであり、この肉体に与えられたものです。そして内なるものは神そのものの意識です。
私達はこのように完全なる愛の中に生きさせてもらいながら、自分の肉体に意識・心が支配され、自分の前世の約束さえ忘れ去って、自己保存・自我我欲に明け暮れています。己の心の魔に支配されて神のご意志に背き、この現象会を過ごしています。
この姿は法に縁の無かった方たちのこの世の最後の姿です。しかし、私達は今、法に縁を頂きましたから、あの世に帰る時は神との約束を果たして帰りたいと思います。
「心行」の解説、今日は大変良く進みまして、この辺りで終わらせてもらいます。どうも長い間、ご清聴ありがとうございました。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年3月27日
「心行」の解説は、前回「自己保存・自我我欲に明け暮れてこの現象界を過ぎゆく」という所まで学びました。自我我欲といいますのはキリスト教でいっている所の「原罪」ではないかと思います。
肉体を頂いている限り避ける事の出来ない罪が自己保存と自我我欲です。肉体を持つ限り、縁に触れますと次から次へと自己保存と自我我欲の思いが盛り上がってきます。自己保存と自我我欲こそ私達の心の中に巣を作って住みついている悪魔の正体です。
私達の内なる世界の、心の奥底のもっと奥底の世界は、本当の神なる我の世界であり、これこそキリスト教でいう所の「キリスト意識」です。
私達の一人一人の中に、真の神の御霊(みたま)がちゃんと与えられています。これを知る事に最も大きな妨げをするのが自己保存と自我我欲、そして後に出てきます所の五官です。
他の人はどうでも構わない、自分さえ良ければいいと思ったり、自分にとって都合が悪かったら嘘を言っても相手を陥れようとしたりします。
自分を正当化するために、ありもしない事実をでっち上げてでも、自分に都合の悪い人を落とそうとかかるのは、ありもしない事実をでっち上げても、自分に都合の悪い人を落とそうとかかるのは、正に悪魔の仕業であり、そのような思い、行いは本当の神様のご意志に最も背いた行為です。
何故かといいますと、神は大いなる愛であり、全てのものがお互いに幸せに暮らすように努力する事が神のご意志に添うことだからです。
もし、自分と相手を分離させたり、差別してしまいますと、これはもう神のご意志に背きます。神のご意志に背く者は全部偽物であり、悪魔であると見るべきです。
自分の心を自分の心の魔に支配されてしまって、神の御心に背いて、この現象世界を去ってしまうのが、法に縁をいただけなかった時の私達の姿です。
もし縁を頂けなかったとしたら、今頃私はどうなっていたか分かりません。欲望に振り回され、他を恨み憎み、非難攻撃して自分の心を鬼のようにして生きていた事と思います。この姿は全く神のご意志に背いた生き方です。
「また 生老病死の苦しみを受け 己の本性も忘れ去るものなり」
私達は肉体を頂きますと、生老病死の苦しみを受け、自分自身の本性を忘れ去ってしまいます。日々の生活を生き抜いていく事も大変です。
年を取ることも大変です。姿が醜くなるなる事を避けることは出来ませんし、病気にならないという保証は誰一人頂いておりませんから何時病気にかかるかもしれません。
というのは、人間の肉体は四百四病の病の姿であるといわれて、その病が縁に触れていつ噴き出すかも分からないのです。
また死は誰一人として避ける事は出来ません。どれほど善いことをしようが、悪いことをしようが、大空の彼方に逃れても、水の底に逃れても、山の奥の洞窟に逃れたとしても、死から逃れられる所はなく、死は必ず訪れます。
この世に生を頂きますと、必ず乗り越えなければならないのは死という現実です。しかし、どうしてもそれに対する恐怖が伴うのですね。ですから「死ぬのは怖い」と皆さんがおっしゃっています。この誰もが避けることが出来ない死を、いかに迎えるかという事ですね。
それは常に自分の心を軽くすることです。この現象世界は私達の魂を修行させて頂く所の仮の宿であるということを常に自覚することです。
父母に仮に呼ばれて客に来てまた立ち帰るもとのふるさと
もとの故郷に立ち帰るとは、この世を卒業した時のことです。この事を普段から心の中へよく入れておく事です。
そうしますと死というものは別に怖い問題ではなく、この世は魂の修行をするためにお父さんお母さんの縁を頂いてお客様に呼んで頂いているだけで、帰るべき時が来たら本当の自分の故郷に帰るのだという事が分かると、死を怖いと思わなくなります。
私は二十代に、この言葉に巡り合いまして、死の恐怖から逃れました。ですから死というものには、一切恐怖はなく、いつお迎えを頂いても喜んで帰らせて頂く用意があります。
というのは、今日までの間に私がさせて頂いた事をあの世に帰りまして、「これだけのことをさせて頂きました」と言って報告できるお土産を作っております。
故郷に帰る時に、日頃、私達が神様の愛をこの肉体を通してどれだけ日々の生活の中で現せたか、本当の神様の御心をどれだけの方にお伝えできたか、これが大きなお土産になるのではないかと思います。
善き行いを積み、人々の心にどれだけ安らぎを与えてきたかがあの世に帰る時のお土産になります。幸い私は少しお土産を作りましたので、もう何時死んでも満足でございます。
先々月の『道』の中に
満開や春の風に散る桜我も散りたし朽ち果てぬ間に
この歌を載せて頂いて、お叱りを受けました。
「先生は死ぬというような事を言ったらあきませんよ」と叱られてしまったのですが、まあ今朝も朝食も頂かずに飛んで出まして、先程やっと家に着きお茶漬けを少し頂き、満腹になるとしゃべるのがしんどいですから、食事を控えてここへ駆けつけました。
帰ってくる時、近鉄線に乗って私の肉体の故郷である国分を通過しました。特急ですから国分駅には止まってくれません。
「ああ、お母さんが国分にいてくれるのに、ちょっと挨拶ぐらいできたらなあ」と思いながら実家の側を通りました。自分の時間があれば自分の母親の顔も見に行きたいでしょうし、また私の顔を見て頂いたら喜んでも頂けます。
しかしそれさえ許されない今の自分に与えられた環境を思いました時、ああ辛いことだなぁと思います。
またしんどい目をしてフラフラになりながら、体の悪い方の癒しをさせてもらい、その数があまりにも多くなってきますと、エネルギーがなくなりまして、お尻を持ち上げる事もできないから、今度は私が皆さんの周りを這いずり回って直さなくてはいけない事になります。
エネルギーの限界、命の限界まで挑戦しまして、
「もうこんなにしんどいことがずっと続くのだったら、朽ち果ててしまわない間に、いい加減卒業できるといいのになあ」と思うのです。
今はお陰様でこうして元気で飛び回っておりますが、やがて腰が曲がり杖をついて歩くようになった姿を皆様に見て頂くのでしたら、今、花と惜しまれる間に散りたいと思うのも人情かと思います。
「先生、死んだらあきません。長生きして下さい。先生が死んだら私ら難儀ですから、いつまでも生きて下さい。
もし無理だったら私が死ぬまで待って下さい。私を天上界へ上げてくれたら、もうしつ死んでもよろしいから……」
こんな事をおっしゃるのですね。死にたいと言っているのに死んだらあかんとおっしゃるし、それも自分のために言われるのです。私達は生死を超えなくてはなりません。
この話も時々するのですが、この世に現実に自分があるのです。ところがその自分が全く違う次元で話しているのが分かる時があるのですね。この世にありながら、あの世にも同時に生きているという事がはっきりかるのです。
今この地上にこうして肉体を頂いておりますが、私の心はあの世この世共に生き通しているという事が自分で自覚出来るのです。
ですから死の恐怖というものは一切関係ないのです。人はみなこの世に生きていると錯覚を起こしていますが、本当はあの世この世を通して生きているのが私達の実相です。
どういうことかと言いますと、肉体はこの三次元世界の現象世界のものであり、心は四次元以降の実相界のもので、実在界と現象界が一つとなって、この世というものが現れているという事ですね。
己の意識(霊)が肉体という衣を着て、自分の持っている悪い癖、欠点を修正する為にこの地上に生まれ出ております。人は無くて七癖、あって四十八癖ともいう程沢山の癖を持っていて、その癖を修正することがこの世に生まれ出た大きな目的の一つですね。
次にどれだけ悪を犯さないか、過ちを少なくしていくか、またどれだけ善き行いを積み重ねるか、愛の実践が出来たかという事がこの世に生まれた目的と使命です。
「人々と手を取り合ってそして調和を目的として」をもっと噛み砕いて説明しますと、「正法」とはどれだけ自分の癖、欠点を正せるか、どれだけ過ちを少なく生きるか、どれだけ善い行いを積めるかという事に尽きると思います。
また、「正法」の学びの中で大事な事は、本当の神様を知るという事です。神様はいっぱい在られまして、本当の神でない神があまりにも多いですから、私は「まことの神」「ほんとうの神」と呼ばせてもらっています。
キリスト教的には「父なる神」「天に坐します我らの父」、或いは「私達を造り給うた父なる神」といっているこの神こそまことの神様ですね。
示す偏に申すと書くまことの神は宇宙の中でただお一人方であり、それは自らの姿をこの大自然の中に現し、私達に「このように生きなさい。このように生きてはならない」と示し申されるのがほんとうの神様です。
真の神は「形あって形なし、形あって天地自然に現せし姿これなり、形なくて汝らを生かさん力これなり」というお方です。
そのお姿を見たければ私達一人一人が神の御子であり、神の愛(いと)し子であると知る事です。
つまり神様がご自身を示し現す為に人間を造られたのですから、人の悪口を言ったとしたら、これは神様の悪口を言った事と同じです。どなたに対しても、もし謗(そし)る事があれば、神を謗った事であり、人を殴ってしまったら、神様を殴った事になります。
これほんとうの神を知ってこそ私達は日々の生活にやすらぎを頂けます。
マクドナルド・ベインさんという方に、イエス様がお入りになりまして、お話されたものを書き留めたご著書があります。その原書を沖縄の仲里誠吉先生が翻訳された「心身の神癒」という本が出版されております。
この本を読ませて頂くと、本当に神と人間との関係について分かりやすく書いて頂いておりますね。
「神は大生命なり、神はこの大宇宙の中に隈(くま)なく偏在される巨大にして偉大なるエネルギーであり、力であり、全てを調和させて下さる愛そのものである」
とありますように全てを生かして育て上げようとして下さる永遠にして変わることのない巨大な愛が本当の神様です。
そして私達は神様の中に包まれて日々を生かさせてもらっています。私達の心の奥底にも、ほんとうの神様の御霊(みたま)が一人一人に注がれているのを知ることによって、完全無欠なる神が私達の中に在られるという理解が深まれば、現実の病気は消えていくはずです。
こういう事を「心身の神癒」という本の中に書いて頂いております。ですから私達は「内なる神、神なる我」を理解させて頂き、その理解度が深まれば深まるほど病気が治るようになっている事を知らねばなりません。
ある宗教では、「病気は本来ないものである」と教えています。本来ないのではなくて、「神の中には病はない」という事です。そして神は私達の中にいて下さるという事を知るだけでいいのです。
そのことを強く理解したらいいのです。その時、この世から病は消え去っていきます。消えて当然ですからみなさまが一人一人
「ああ、成る程そうか」と、掴んで頂きましたら、私はしんどい目をして病気治療をしなくてもいいのです。
私の代わりに各自自分で治して頂けるようになるのですから、これがほんとうの神様で厳しい行をしなくても誰でも幸せになれる法です。
護摩を焚かなくても、滝に打たれなくてもいい、ただ真の神理を知って日々の生活に自分が行えばそのようになっていきます。
もし護摩を焚いて自分の持っている悪いカルマが消えてしまうものであれば、自分の持っている良いものまでも共に燃えてしまうはずですね。
また滝に打たれて自分の悪因縁が流れるものであれば、悪因縁も流れる代わりに良い因縁も流れてしまいます。
そのような事よりも、毎回私のテープを聞いておられる方はすでに耳にたこが出来ていると思いますが、日々の生活において、高橋信次先生の
「神を知りたければ、あの太陽を見なさい」と言われた教えをしっかりと実践して下さい。
太陽は自らの身を燃え上がらせ、自らの身を犠牲にして、その結果として現れる熱と光、この熱と光こそ神の慈悲であり、これを他に与え給います。
太陽は正に神の御姿であり、私達がいかにいきるべきかを教えて下さっております。私達は自分を犠牲にして、その行動を通して人々に喜びを与える事です。
まず家庭の中においてイエス様の「汝の隣人を愛せよ」を、実践する事ですね。自分の時間を犠牲にして、自らの命を燃焼させ、自分のエネルギーを燃え上がらせて、その行動によって隣人に愛を注ぐことです。
その時、どこに行きましても、自分の隣人から愛されます。
太陽の熱・光は、現象界での社会的地位の高い方も低い方も、お金持ちの方も貧しい方も、病気の方も健康の方も、全て平等に与えて頂いています。
神の慈愛はこのようなものですから、私達も人を差別する事があれば、もう神の心に背いた事になります。どなた、こなたに関係なく平等の思いを持って他を差別すること無く接し、全ての方を愛すべきです。
また、あの太陽の熱・光を頂き、その光の中にありながら悪を犯す人はいっぱいあります。私達もそうでした。しかし未だかつて太陽から裁きを受けた方は一人もおりません。
「この者は悪いことをしたから罰を当ててやろう」とか、「あなたは善い事をしたから熱と光を沢山あげましょう」とかそんな差別は一切ありません。
神様の慈愛もこのようなものです。私達がどのような過ちを犯そうが悪いことをしようが、神様の慈愛もこのようなものです。
私達がどのような過ちを犯そうが悪いことをしようが、ほんとうの神様はだた「目覚めなさい。気付きなさい。そして幸せになりなさい」という慈愛を垂れ給います。
人を裁くという事は、神のご意志に背いているのですね。神の御意志に背くことは自然の法則に背く事です。そして自然の法則に背いた時、神が私達を罰せられるのではなくて、自分で自分を裁くのです。
これは自然の掟であり、そして神の御心です。もし人が過ちを犯しても、それを私達が裁く必要はありません。それは過ちを犯した人と神様との関係です。神の御心に背いた行為をした場合は、その方と神様との間において、その方自身が自らを裁くようになっております。
世の中には「わしほど偉い者はない」という増長慢の人があります。増長慢になりますと、急な坂道を登るのと同じで、常に上がっていかないと止まったらコロコロと転げ落ちるように、必ず下に落ちる宿命がついているのです。
それを知らないから、少し自分に何かが出来るとか、人よりちょっと勝れているとかいう場合、「わしは偉いんや」と偉ぶるのですが、それは肉体の悪魔の仕業によるのです。
増長慢の反対は謙虚ですから、謙虚は悪魔から自分を守る鎧という事が出来ます。謙虚であることによって増長慢という悪魔が入り込めなくなります。
お釈迦様は「ただ3つの実践をしなさい」と言われました。
「常に謙虚であること、礼儀正しくあること、柔和であること」の3つをいつも実践していましたら、どこへ行きましても人様から愛されるはずです。
たったこの3つでいいのですから、これなら誰にでも実践できます。来月までにこの3つを実践して頂きまして、「私はしてきました」と言って手を挙げて下さい。難しいことは勉強しても中々出来ませんが、こんなやさしい事でしたら誰にでも出来るはずです。
私はいつも阿呆みたいに笑っておりますから、「先生は腹の立つ事はないのですか」とよく聞かれます。
「いやいや、私も肉体を頂いた普通の人間です。都合の悪い時には腹が立ってきます。しかし一時(いっとき)も早く捨ててしまうように努力しているだけです」。腹立つ心をいつまでも持っていない事です。
持っておれば苦しみの時間が長いのです。最初は腹の立つのを止めるのに何日も必要でしたが、訓練しておりますとだんだん短い時間でも止められるようになり、最初3日かかったものが一日ぐらいで
「ああ、腹を立ててもしょうがない」と、捨てるようになりました。
それを積み重ねますと、一時間ぐらいで思い変えが出来るようになり、もっと上手になりますと一瞬の内に捨ててしまいます。そうすると苦しみが自分の心に入ってきません。これもやはり練習で、何事も練習しないと上手にはなりません。
肉体を頂いている限り都合が悪ければ必ず嫌だと思うもので、これは避けられません。もちろん、お釈迦様もイエス様も都合の悪い時は嫌な思いをなさったと思います。しかし早く捨てられたから悟りの持続が出来たのです。
法を実践する事によって、いかに早くその苦しみや嫌なものを心から捨て去る事が出来るかを身に付けていきます。これを心の草引き、心の雑草の引き抜きとも言います。
いくら綺麗に耕し、草1本無い畑を作っても、何ヶ月か放って置きますと、草はぼうぼうに生えています。これから春夏にかけては、畑を一ヶ月も二ヶ月も放置しますと草引きが大変です。根も大きくなり葉もはびこります。これを双葉の間に少しずつ摘んでおけば楽に除草出来ます。
「心の雑草」とは怒りであり、妬みであり、愚痴であり、恨み憎しみの事で、それが常に心から芽生えてきます。
「私はもう悟ったから、一切雑草は出ない」という方はないのです。だから、あの偉大なるお釈迦様にしましても「常に草引きをしなさい」とおっしゃったのですね。
雑草を引き、そして適当な水をやり、肥やしを与えて心を豊かにしていく事です。心の灌漑、施肥とは、こういうお話を聞き、話から得た知識を整地し、綺麗に耕し、そこへ良き種を播きましても、雑草をそのまま放っておきますと、たちまち種は雑草の勢いにやられてしまいます。
心の中の雑草は常に芽生えようとしますから、日々に精進して抜き取ることが私達の修行の一つです。生きる限りこの雑草を避ける事は出来ないのですから、「私は悟った。そんな思いは一切ない」というのは真っ赤な偽りです。そして次には、悟りの持続をする事に価値があります。
「その原因は煩悩なり 煩悩は眼(げん)・耳(にい)・
鼻(び)・舌(ぜつ)・身・意の六根が根元なり」
自分自身、神との約束を忘れ去り、神様の御意志に背いてこの世を去っていくのですが、その原因として生老病死の苦しみとこの苦しみを作る五官の煩悩があるのですね。
五官の煩悩と言いますのは、人間の持っている眼・耳・鼻・舌そして体です。神様は上手に造って下さって、私達の魂の修行が出来やすいようにこの五官を与えてくださっているのです。目について言えば、もし目がなかったらこれは便利が悪い事この上ありません。
耳が付いてなかったらこれも具合が悪いですね。この世には身体に障害を受けたお方もおられますが、ほんとうに不自由なことと思います。
あのヘレン・ケラーさんは見えない、話せない、聞こえないという三重苦を乗り越えて人々の為に尽くされましたが、ああいうお方は正に光の天使です。
「このような不自由な肉体を持っていても、このようになれるのですよ」と、その肉体を持って教えて下さっているのです。
しかしどんなにか不自由で大変なことだったかと思います。見えないだけでも辛いし、聞こえないだけでも辛い、またものが言えないだけでも辛いものですのに、3つの苦しみを同時に持って生まれたお方もあるのですね。
もっとも、ヘレンケラーの場合は途中で病気になって、目・耳・口が不自由になられたのですが、付いていた先生の愛によって、世界的に有名な素晴らしい「心の先生」になられました。
眼・耳・舌・身・意を六根といいます。この五官・六根がなぜ私達に与えられているかと言いますと、それは自己保存の道具としてです。
早い話が口がなければ御飯が食べられないから生存が成り立たなくなりますし、言葉が通じなかったら生きる上で具合が悪いです。自分を生かす為に与えられた道具がこの五官です。
そしてこの五官が「意識」を持っていて心の中へ連絡をしてくれるのですね。例えば前方から危ないものが来ましたらパッと避けたり、横から音を鳴らしたら飛び退いたりします。
鼻は、良い匂いとか悪い臭いとかを嗅ぎ分ける道具ですがこれも肉体を守るためのものです。この五官を通してものを見た場合には、すべて自分を中心とする見方となってしまって、それは、全部間違っているという事です。
五官を通しますと煩悩の悪魔が自己保存と自我我欲という色眼鏡が全部にかけられてしまうのです。つまり五官を通しますと、
煩悩の悪魔が常に全体を覆ってしまうのであり、神が肉体という悪魔の装いをなさって人間として現れておられるという事です。自己中心または利己的に見る思いこそ、悪魔の正体といえます。
では、この悪魔から開放され、悪魔に囚われない方法は何かというと、まず自分という立場を離れて相手の立場に立って自分と相手の出来事を観察してみる事です。
次に相手の立場に立つだけでしたら、相手に片寄りますから、今度は善意なる第三者の立場でどちらにも付かないで、自分と相手の出来事を見るのです。或いは神様の立場に立って自分と相手を見ますと、自分を離れた見方をする事が出来ます。
自分の五官から離れるには相手の立場に立ち、そして次に天の立場に立って二人を見ます。するとどちらかが無理を言っているか、どちらが正しいかという答が出てきます。私達には五官が与えられており、この五官に囚われた小さな己、偽りの己が煩悩であり、煩悩とは、即ち悪魔です。
「六根の調和は 常に中道を根本として
己の正しい心に問うことなり」
私達の肉体と心を調和するには、常に中道を根本とせよという事で、この中道とは、相手にも自分にも片寄らない善意なる第三者の目で見る見方をすることです。
「己の正しい心に問うことは反省にして」
中道を根本として己の正しい心に問うにはどうすれば良いかというと、自己反省をする事ですね。反省する事によって片寄りのない中道の生活が出来るのです。物事を正しく見る方法として「八正道」の中に8つの正しい生き方が説かれています。
まず第一に「正しく見なさい」と政見を説かれています。見方が間違いますと、思い方が間違うのです。思い方が間違うと言葉が間違います。
言葉が間違いますと行い(仕事)が間違います。このように八つの正しい生き方の内の根本になっておりますのが、正しく見る事で、全てはここから始まります。それには常に反省を繰り返すことで、反省なくして自己の心を知る事はできません。
「反省の心は 己の魂が浄化されることを悟るべし」
反省しなかったら何時まで経っても自分の心は清まりません。反省の方法には、自分が生まれて今日までを徹底して集中的に反省する仕方と、今日一日どうであったかを反省する方法があります。
今日一日の己自身の生活はどうであったか、行いの上で、言葉の上で、思いの上で間違いを犯さなかったかという点を調べてみる事です。
もし過ちがあれば「これは悪かった、どうぞお許し下さい。明日の生活に再びこの過ちは犯さないように致します」と、誓うことです。それをしないと何時まで経っても過ちを繰り返してしまいます。
過ちを重ねてだんだん心の中が真っ黒になります。真っ黒になると同時に重くなっていきます。真っ黒であれば迷う以外にありません。暗闇の中は迷いの世界です。そして重くなればどこかへ落ちていきます。
落ちる先は地獄です。地獄に落ちますと私達の魂のふる里には中々帰れません。この世では「人のふり見て我が身を直す」という教えを行う事が出来ます。他を見て自らを正すように仕組んで頂いております。
過ちがあればその人の過ちを見て自分を正せさせてもらい、素晴らしいお方に学んでいく事ができます。しかしあの世に帰りますと、全て同じ段階の方ばかりの集まりですから、比べるものがなく、悪い人は悪い人ばかりが集
まっており、またいい人はいい人ばかりという世界で、自分と同じ段階の者ばかり寄り集まっていますから、他と比べて自分を正す事が出来なくて、それが当たり前になるのですね。
ですから肉体を与えて頂いている今こそ、魂の修行をさせて頂くもっとも大事な一瞬一瞬として神から与えられている事を知りたいと思います。過ぎた時は再び返りませんから、「今」の一瞬一瞬を真剣に生きていきたいと思います。長時間ご清聴頂きましてありがとうございました。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年4月23日
前回は、生老病死の苦しみによって自分自身の本性も忘れ去ってしまうのは、人間の持っている煩悩によって曇るからだというお話をしました。
この煩悩の元は、私達の眼・耳・鼻・口・体の五官ですから、人間は元々煩悩の塊なのですね。煩悩の塊であると思って間違いありません。何故かといいますと、この五官というものは全部苦しみの原因として造られている道具だからです。
元々この五官は全部私達の身を守るために与えられたものですから、自己を中心としてものを見、聞き、触れ、舌で味わって、都合の悪いものはみな避ける様に造られているのです。
嫌なものは見たくない、嫌な言葉は聞きたくない、口に含んで嫌なものは吐き出してしまうのは、すべて自己保存のために与えられた道具の働きによるのです。
ですから五官を通してものを見たり聞いたりしているという事は、「私は絶対に間違っていない」と思ってみましても、すでに間違っているという事です。すでに自己保存と自我我欲という色眼鏡がかけられている訳で、この自己を中心として見ることが煩悩になってくるのです。
煩悩から私達が逃れる方法、煩悩に振り回されないものの見方、聞き方、話し方とは、常に自分という立場を離れて相手の立場に立って物事を見聞きする訓練をすることです。
奥様はご主人の立場に立ち、ご主人は奥様の立場に立って常に相手の立場からものを判断させて頂くようにしますと、自分から離れた見方が出来ます。
今日も九州の熊本から来て頂いていますが、この方はすでに十回以上内観といいますか、内省の研修に参加なさったそうです。
しかしどうしても心が救われることもなく、ついに落ち込んでしまうという苦しみを持っておられたそうですね。
一昨日の朝早く着かれて、一時間ほどお話のチャンスがありまして、反省の方法についてお話させて頂きました。それは相手の立場に立ってみるという事ですね。これが今まで全く分からなかったとおっしゃっていました。
相手の立場に立たないと、反省しましても絶対に救われないのです。というのは自己を中心として反省しますと、
「自分が悪い、申し訳なかった、自分が至らなかった、悪い悪い」と、自分ばかり責めるようになってくるからです。
自分自身の心が苦しくなりだんだん小さく萎縮してきます。その時、相手の方がどのような思いをなさったかと相手の立場に立って反省させてもらい、
相手の方に迷惑をかけたのであれば、その時迷惑をかけられた方がどのような思いをなさったか、どのような思いで私という人間を見られたかと、自分が相手の立場に立って自分を見るのです。
その時、出来ていない自分というものが見えてくるのですね。
常に謙虚であって、人様の言葉を素直な心で聞かせてもらい、もし自分に間違った面があれば素直な心で自分を見詰めますと、
「ああ、私のこういう点がいけなかったなあ、これを何とか悔い改めていこう」というように思えるはずです。
私は過去も今もですけど、全くできの悪い人間でございまして、まだ今の方が少しはましにならせてもらいましたが、過去は取り柄のない人間でしたね。
何でも都合の悪い事は全部人のせいにして、都合のいい事があれば全部自分のせいにします。人間の持っている最も深い業で、この宿業をそのまま現しておりました。
しかし法にご縁を頂きまして、自分の愚かさ、自分の至らなさを学ばせて頂きますと、人様を責めたり人様を裁いたりするような資格は無い事が分かってきました。そうしますと人様の事は気にならなくなります。
人様よりもまず自分を正さなくてはいけない、自分の悪い癖、欠点を直さなくてはいけないという事に目覚めてきます。
そこでこの煩悩ですが、眼・耳・鼻・舌・身の五感の感覚が原因になっておりますから、この五官を調和する事です。そのためには常に中道を根本として、つまり前になる第三者の立場に立って自分と相手を見ていく事です。
「中道の立場を根本として己の正しい心に問うこと」の正しい心とは反省させてもらう事です。常に反省させて頂くことが、自分の正しい心に問いかけていく事になります。
ですから私達は常に自分を見つめて、己自身に間違いがないか、欠点を造らなかったか、悪い癖を出さなかったか、自分の姿を厳しく見ていく事が大事です。これが反省です。
そして反省させてもらうという事は自分自身の魂が清められていくという事です。清められるという事は汚れが取れていくという事ですね。
「今日一日腹を立てなかったか 愚痴を言わなかったか 人の悪口を言わなかったか 人様を謗らなかったか 恨んだり憎んだりする事はなかったか」
と、各項目に分けてその日一日をずっと調べていきます。もし犯した過ちがありましたら、すぐに
「しまった、今日は腹を立ててしまった」「ああ自慢してしまった」
「心の中に恨み心が残っていたなあ」と、明瞭に浮かび上がってきます。
そして「明日の生活の中にこの過ちを再び犯さないように努力します」と誓って、反省をするのですね。毎日毎日休むことなしに今日一日の反省をさせて頂きますと、私のような鈍な人間でも阿呆の一つ覚えという言葉のようにだんだんと心の運転が上手になって慣れてくるのですね。
「今日一日増長慢にならなかったか 自信過剰にならなかったか」
「今日一日卑屈になってはいなかったか 今日一日謙虚で生きられたか
礼儀正しく生きられたか 柔和であったか」
「今日一日相手の立場に立ってものを考えられたか 心から相手の立場に立てたか 人々に対して差別の思いは無かったか 人様を心から許させて頂いたか」「何か一つぐらい善いことを行ったか」
と、この様に自分自身を毎日調べてみますと、いかに出来ていないかという事が分かります。出来ていない事が分かりましたら、次は実践し、行えばいいのです。出来ていない分を行うことです。これを行いますと知らない間に魂が浄化していきます。
ですから私の所に禅定に来られる皆さんのお顔はすごく安らいでおりまして、綺麗なお顔です。皆さんが安らいだお顔に代わっていかれるのは魂が浄化していくからです。
魂と顔とは比例して、魂が浄化されると顔も浄化されます。この肉体は私達の魂の表現体、お顔は魂の看板、眼は魂の窓です。
ですから窓の中をちょっと覗きますと、その人その人の心の中は丸見えで御座います。立派な窓を付けているのですから、何も不思議な事と違います。私達は反省する事によって、魂が浄化されていきます。この事を悟りなさいと、「心行」に書いて頂いております。
「己自身は孤独に非(あら)ず」
私達は、自分は一人ぼっちである。自分はたった独りであるという錯覚を起こしておりますが、たとえ山奥で一人迷ったとしましても、私達の魂の奥底にはちゃんと父なる神が共にいて下さいます。
これは「インマニエル、我、神と共にあり」であって、絶対に孤独ではありません。仮に孤独に漂流しましても、その場所にはちゃんと神様があられて私達と共にいて下さいますし、守護・指導霊様もついてくれるのですね。
しかしこの事が中々分からないのです。地球上のどこへ行きましても一つの神様があられて、そこは慈悲と愛に満たされております。東京であろうが、或いは地球の裏側であろうが、真の神様は慈愛に包まれているという事を知ることですね。
「意識のなかに己に関連し 守護・指導霊の存在を知るべし」
そういう大きな神様の慈愛に包まれており、そして意識の中には私たちに関連した守護・指導霊がちゃんとついて下さっています。この守護・指導霊の説明もすでに何回かさせてもらいましたね。
守護霊というのは私達を守って下さる霊で、指導霊とは私達を何かと導いて下さる見えない世界のお方です。一生懸命に私達が何か一つの事について追求している時に、突然パッと閃く事があります。
「ああ私は頭がいいなあ、いい智恵が閃いたなあ」と思うのはとんでもない事で、これは指導霊が教えて下さっているのです。
守護霊の働きについては、この臨海で一つの例が御座います。臨海には外国から入ってきた大きな材木がいっぱい浮かしてあります。
この材木をトラックに積んて走っていた所、横を走っていた乗車用の上へ何十トンという大きな丸太が荷こぼれして、その車がペチャンコになって30センチぐらいに潰れてしまいました。
その時、車に乗っていた人はかすり傷一つなかったのですが、こういう事は、普通では考えられない出来事ですね。車が潰れているのに、中に乗っていた人がかすり傷もないというのは、これは正しく守護霊の働きだと思います。
また、絶壁から車が飛び込んだのに、途中の木に引っかかって助かったという場合に働きをして下さったのも守護霊様です。私達の心の中に住んで下さっていますから、どんな所へ行っても安心して生きる事が出来ます。
「守護・指導霊に感謝し さらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし」
私達は常に守られ指導を受けている事を自覚する事ですね。自覚する事によってまた力を与えてもらえます。常に守護・指導霊に感謝し、常に反省をさせて頂きますと、守護霊・指導霊がお願いしなくとも導きをして下さるのです。頼まなくとも反省の功徳が頂けます。
反省の功徳は計り知れないものがあります。高橋信次先生にご縁を頂きまして、私達は反省の大切さを学びました。しかし、さて反省させてもらおうと思いますと、中々出来ないのです。どうしたらいいかそのやり方はハッキリ分かりません。
そこで私がさせて頂いた反省の方法を、自分が実際に体験した事に基づいて皆様にお伝えしております。
以前、私の幼い頃の反省をして、自分の悪さの限りを告白懺悔させていただきましたね。
あのようにして自分の幼い頃の「あれさえしなければよかった、あの時あれをしなければ私は心がもっと楽だっただろうのに」という思いはどなたもあるはずですから、それを反省するのです。
この間、高校生のあるお嬢さんが悪いことをして捕えられて、大変恥ずかしい思いをした事を話されていました。お友達が天王寺の駅で定期券の期限が切れているのにそのまま乗車したのですね。
「あんた、そんな事をして見つかったら怒られるよ」と言っているのに
「こんなの分からへんよ」と言って期限切れの定期券を持って出た所捕まったそうです。
「こんなもの見つかったらぱっと逃げたらいいんや」と言って、まあいたずらの気持ちだったのでしょう。ところが逃げようと思ったら、腕を掴まれたそうです。そして、大勢の人が見ている前で叱られたそうですね。
この話を聞きまして「ああ可哀想に、人生の大きなお荷物をその子は背負われた、正しい法にご縁を頂いて反省を自分の魂の浄化をしない限り、そのこは二十代になっても三十代になっても、或いは九十、百になっても一生心のお荷物として生きていくはずだ」と思いました。
人間には良心があります。そして恥というものを良心が知っております。女の子ですから駅で捕まって、大勢の人に周りから見られた時には必ず恥じらいがあるはずです。その恥ずかしさがお荷物となって、その子は生涯背負っていく事になります。
私達はこれに似たような事をいくつも繰り返しており、それらが全部心のお荷物になっております。その行いが私達の心の中に一つ詰まり二つ詰まって大きな砂袋と化していきます。
砂袋は私達の心の中に常に錘(おも)りとなってぶら下がっているわけで、これを軽くしない限り、次に犯せばまた重くなり、この世を去る時に肉体の命の糸が切れてしまいますと、たちまちにして深い所へ落ちていきます。
落ちていく先は、仏教では地獄と言っていますね。宗教ではない私達のこの学びの世界では、心の暗闇の世界へと落ちるという事です。
心の中で常に荷物がなく、明るくて軽ければ浮き上がります。そういう方が亡くなりますと、間違い無しに上へ上へと上がっていきます。それが自然の法則ですね。重いものは落ちます。軽いものは上がります。
その砂の材料は何かというと、怒りであり妬みであり、謗りであり愚痴であり、恨みや憎しみ、不要の取り越し苦労、これらが全部砂の材料になっております。
神の御心の中には罪も過ちも汚れもありません。無いものであるから改めた時には消えてしまうのですね。本当に有り難いことです。自分が間違っていたという事を正面から知ることによって私達も即、その苦しみから救われるのです。
自分が正しいと思っている限りは絶対救われる事はありません。
「自分は正しい、間違いない」と言うのは地獄の霊です。成仏できないで暗い恐怖の世界におられる方の霊が出てこられますと、全部共通して
「私は何も悪い事をしていないのに、なぜこんな苦しい思いをしなければいけませんか」と言います。自分が悪いという事が分からないから地獄にいるのです。
ところが天上界から来られた霊は
「私はこの地上にあった時は色々な失敗やら過ちを犯しました。本当に未熟な人生を送ってしまいました」と言われます。
そして地獄の世界にいる人は今でも「私は悪いことをしていないのに、罪も犯していないのに、一生懸命人の為に尽くしたのに、なぜこんなに苦しまなくてはいけないのですか」と言って苦しんでいるのですね。
それには色々な原因があります。いくら善い事をしましても、どれだけ人様の為に尽くしましても、どれだけ人を救わせてもらいましても、その結果として自らを苦しめているからです。自分を苦しめる事なかれ、自らを愛せよ、自らを愛するが如く他を愛せよ」と言われます。
これは神様の至上命令です。私達のお母さんお父さんは、子供の幸せを願って下さいます。その親以上の愛を持って私達の幸せを常に念じ願って下さっているのがほんとうの神様、父なる神ですね。私達は神の愛し子です。
そして父はただこの幸せを願われます。神の偉大なる愛は常に私たちに注がれております。この事を知った時、私達はいかに幸せであるかという事が分かりますね。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年5月28日
「六根あるがゆえに 己が悟れば 菩提と化すことを悟るべし」
私達は五官によって感じ、「意」によって喜び、苦しみ、悲しみます。五官に「意」を含めて六根です。つまり「眼・耳・鼻・舌・身・意」これで六根です。肉体には眼、耳、鼻、口があり、そしてこの体をいれて五官が与えられています。
この五官によって魂の修行をさせて頂くのです。五官が無ければ肉体が保存できませんが、どうしてもこの五官を通して目で見、肌で感じ、舌で味わって、都合の悪いものは避けて自分を守ろうとします。
苦いものや毒などは吐き出しますし、火に手が触れると熱いから避けますし、針で突いたら痛いので避けるというように造られています。五官を通して見る時は、どうしても自己保存になりますが、それが当たり前なのです。
そして自我我欲に捉われて当然なのです。自己保存のために与えられた道具ですから、そうなって当たり前のこの肉体の中に、神の子の私たちの内なる魂が宿って修行させてもらうのですね。
私達一人一人の中に、神様が自らを表現するために入っておられます。その神様が肉体の五官という悪魔の装いをなさっています。
ですから表面に捉われますと、悪魔の働きが出てきて、それが自己保存・自我我欲となります。
しかし悪魔の仮面を剥がせば、その中は神ご自身であるはずです。
私達は一人一人魂の修行にこの世に生まれ出ているのですが、ついつい五官に翻弄されてしまいます。五官による翻弄を煩悩ともいっています。
人間は肉体を頂いた限り、避けることの出来ない自己保存と自我我欲の煩悩を持ちます。キリスト教では「人間は罪の子である」と説かれますが、
本質は罪の子ではなくて、肉体そのものが持っている自己保存と自我我欲こそが罪そのものだったわけです。イエス様が「人間が罪の子だ」とおっしゃったのはその事をさしています。
六根という煩悩を頂いておりますが、自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。自らが仏となります。
魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、理性的になったり、つまり「知性・理性・本能・感情」の4つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。その想念の働きによって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。
心が丸い状態で、4つの思いが想念によって調和されていますと、あばたはあばたに見えます。逆に知性ばかりが大きくなりましたら「頭でっかち」になり、これは危険です。
想念の働きによって、私達の意識の状態が色々と変化します。私達の心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、呪ったり、またある時は飛び跳ねるほど喜んだりします。
一人一人が持っている魂の器の底から少し離れた場所に、五官の感覚というカーテンが下りています。この感覚が表面と内とを遮ってしまうので、神様が私達の表面に出ていただけないのです。
幼な子の魂には遮るカーテンが下りておらず曇りがありませんから、神そのものの意識が表面に出ておられるのですが、もう三歳になりましたら立派にカーテンがかかってしまいます。
しかし神様と人間とが切り離されるのではなく、心の曇りによって遮断されているだけであって、表面に振り回され、五官に翻弄された人間になっているという事です。
よく悪霊とか地獄霊とかいいますが、たとえサタンといえども、表面が曇っただけで、内は神の御子です。自ら遮っているだけで、この遮るカーテンを払えば、どなたも皆菩薩と化す事が出来ます。すごく簡単な事です。
このカーテンを取り除くのにはどうしたらいいか。まずこの曇りはなぜ出来たかというと、五官に翻弄されて怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、盗み、取り越し苦労、不安、恐怖、貪欲などによって生じたのです。
五官の求めるままに翻弄され、怒りや妬みになるのですから、この邪魔ものを取ってしまえばいいのです。
取る方法は「徹底した自己反省」をさせて頂く事です。
生まれてから今日までの間を振り返り、「あの時あのような過ちを犯した」「あの時はこんな事をして人を恨んでしまった」と、一つ一つ神様にお詫びさせてもらい、これを改めていく事です。
そしてその悪の償いとして善き行いを積み重ねた時にだんだんと心の曇りが薄れます。反省を通して心の壁、カーテンを打ち破った時、自らが光であるという事が体験できます。
五官の感覚は全く消えて光だけになるという体験を、私はさせてもらいましたので、間違いございません。妙な霊能力がつくとかというものとは違って、全く異質なものです。
お釈迦様は誰にでも出来る道をお説きになったはずですし、イエス様も誰でもが救われる道をお説きになりました。仏も昔は凡夫だったのですから、私達も悟った時は仏と化す事が出来ます。
これを「やがて死ぬから仏になる」と思えば大きな間違いです。死んだら仏になるのではありません。悟られた方が仏になるのです。
死んだ者は亡くなった者、つまり「亡者」と書きます。亡くなった方のお宅へ行って「亡者さんにお悔やみさせて下さい」と言うと無礼だと叱られますから、いっそ死んでしまったのだから仏にしてしまえといって
「仏さんにちょっとご冥福を祈らせて下さい」と言うようになったのです。
本当は悟りもせずに死んでしまったら皆亡者です。死んで硬直を起こしたり、怖い顔をしたりしている方は気の毒ですけど皆亡者さんです。
この世を去った時、その方の人生の全てが、肉体に現れます。昔から「人の価値は死んだ時に分かる」といったものです。
それは、死に様と、亡くなった時の姿を言うのです。この世でのお付き合いが多く、顔の広かった方や何とか議員という方のお葬式で花輪がいっぱい並び、この世的にはお葬式の送り人が多かったので値打ちがあるという風に
一般は思いますが、本当はそういうものではなく、自らの心を悟り、神の子として生き、この世を去る時に成仏された方こそ値打ちがあります。
こういう方は死後硬直は起きないという形でその方の価値は肉体の上に現れます。今まで人が亡くなれば死後硬直は起き、必ず冷たくなるものと思い、それが常識となっておりましたが、硬くなるようでは成仏出来ていないのです。
その数からいいますと、いかに成仏できないお方が多いかという事が分かります。しかし硬くなったお方にも、私達が本当に愛の心をもって法をお伝えさせて頂きますと即、硬直がとけます。
今冷たくなって見るも無残な姿をなさっていても、ご本人が自分の過ちに気付き、死というものを認識し、そしてこの肉体から魂がうまく離れる事が出来た瞬間に肉体はふわふわと柔らかくなります。
こういう事は沢山体験させてもらってますから、これは自ら菩提と化す事を悟られたから、そうなったのです。
私達の本質は神そのものであり、神が私達の内に入って下さっている事を知るだけで、また、「ああなるほどそうか」と思わせて頂くだけで、もう皆さんの魂のワット数は何ワットか上がります。
このことが分かれば今度は実践する事ですね。
じっくりと反省しますと自分の数々の過ちが浮かび上がりますから、自分の罪に対する償いとして、どなたに対しても構いませんから「あの罪の償いをこの方に善をさせて頂こう」と思って実践する事によって罪は消えていきます。
しかし次々と罪を繰り返しますと、何時まで経ってもカーテンは上がってくれません。曇りの原因をまず作らないこと、
「今後は一切腹を立てまい」「今度は一切愚痴は言うまい」「全てのものに足るを知る生活をしよう、貪欲を捨てさせてもらおう」これでいいのです。
お釈迦様の教えの「悟り」についてみますと、悟りとはニルバーナ、つまり火が燃え尽きてしまった状態という意味です。この言葉が中国に伝わりまして涅槃(ねはん)という言葉になっております。
「涅槃」そのものが「悟り」です。
あるお弟子がお釈迦様に質問されたのですね。
「ニルバーナ(涅槃)とは一体どういう所ですか」。
そうしますとお釈迦様は次のようにお答えになったそうです。「ニルバーナとは私達の心の中の怒りの壊滅、愚痴の壊滅、そして貪欲の壊滅である」
と。
この状態がニルバーナであるとおっしゃっていますから、これなら私達も悟りの心境に至る事が出来るはずです。この教えが理解できましたら、私達は自信を持って、勇気を持って挑戦する事が出来ます。
滝に打たれたり、断食をしたりという事はちょっと真似ができませんが、この3つでしたら日々の生活の中で実践出来るはずですね。誰にでも出来る事です。それが悟りであったのです。この状態になった事を菩提とも言えるわけです。
日常の具体例で、怒りの壊滅の方法を言いますと、これは思い方をうまく帰る方法しかないのです。一番手っ取り早い方法は常に大難を小難と思う事です。何事が起きても、もっとひどい目に会う事を思えば幸いだと、考える事です。
ある方が奥さんからいつも怒られて逃げ回っていると、また追いかけてきて言われるので「うちの嫁さんにはかないません。どうしたらいいですか」
と相談に見えたのです。
「本物の狂人よりはましだと思って喜びなさい。文句を言われるぐらい結構な事です」と言いますと、「そう思いましたら、えらい楽になりました」と言って、いつもそう思う事にされたそうです。
私達は思い方一つによって不幸になったり、幸せになったりしますね。男性は嫁さんにえらい目に会わされてかなわんな、えらい嫁さんで苦労するなと思うのですが、本当の心の持ち方でああましな嫁さんだと思えるのです。
奥さんの側に立って見ても同じことです。うちの主人はうるさくて嫌だな、どうしようもなくかなわないと思う主人を
「ああ結構だ、この人がいるから私は生活させてもらえる、もう嫌な所は目をつぶろう」と思いかえましたらたちまち楽になります。
嫌な面ばかり見るから嫌になるのです。私達は環境の中に生きていると錯覚を起こしていますが、本当は心の中に生きているのであり、思い方一つ変えるだけですごく救われる場合がありますね。
自由自在に良い面も悪い面も見分けて、良い方へ心を変えるのが「観自在菩薩」で、良い面に素早く切り替えの出来る方は観自在です。仏を目指して修行する方をボサターといいます。
私達は、アポロキティーシュバラーといって過去、現在、未来の三世を見通す能力を持つような偉大な者にはなれませんが、観自在菩薩でしたら、誰にでもなれます。
私達は確かに三世を見通す能力があれば素晴らしいなあと思いますが、こんな能力がつきますと、魂の修行が出来ないのです。みな分かってしまうから生まれる必要はなくなってきます。
前もって全ての筋道が分かっていて、こちらへ行ったら駄目、こう行ってこのようにすれば良いというのでしたら、何も生まれてくる必要はありません。
ですからいくら失敗しても「ああ私は駄目人間だ」と思わなくてもいいのです。二度と繰り返さないという修行法でしたら私達は自信を持って修行できます。失敗しても当たり前、それを学びとして次に繰り返さなければいいのですね。
「私はもう再び人の悪口は言いません」と言いながら、言うはしから次々と悪口を言っている人があります。これでは何もなりません。間違いと気づけば「過ちを悔い改めるのに憚ることなかれ」で、遠慮せず勇気を持って改めたらいいのです。
イエス様がおっしゃるように「悔改めよ、汝の罪は許されん」です。悔い改めたらもう罪は許されます。しかし改め放しではいけません。今度は善き償いをする事ですね。
例えば、よその人をひどい目に会わせて、殴って泣かせます。今度悔い改めましたと言って相手に謝らないでいると「こら」と殴られます。相手からどついてもらうのが償いです。
どついてもらって「はい、有難うございました」と言って受けるのが償いの行為です。どんな事でも「ああ悪い事をした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、反省すればするほど自分が嫌になるとよくおっしゃいますが、それはその後の実践をしていないから苦しいのです。ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
反省をして償いのために善き行いをしますと「ああ人として生まれて良かった」という喜びが必ず与えられます。反省をして自分の過ちに目覚め、次に償いの為に善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。
「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、そこで悔い改める事が出来て償いをさせてもらえて良かったなあ」という喜びが頂けるはずですね。頭で反省するだけで実践がありません。だんだん落ち込んでいきます。
道教の教えに「友の憂いに我は泣き、吾が喜びに友が舞う」というのがありますが、友の憂いに我が泣いてはいけません。一緒に不幸になります。
喜びは、我が喜びも友の喜びもともに踊って喜べばいいのですが、憂いを共にして泣くというのはいけません。泣くよりも励まし勇気づけて、友の憂いを除く助けをするのが、良き友のお付き合いですね。
このように心の在り方によって人は不幸にも幸せにもなります。菩提とは、内在された偉大な神の意識と、表面の意識とが遮られている事を知る事であり、一つの悟りです。
この事が把握できますと人間全てが兄弟である事が理解できます。
このコップが沢山ありますが、どのコップの中もみな同じ空気が入っているはずです。このように人間は全部同根、コップが何十万個ありましても、全部同じ空気が入っているように、私達一人一人の中に父なる神のご意志がそのまま入って下さっています。私達は全部同質同根です。
これを知った時、「自分を愛するが如く他を愛さなければいけない」というイエス様の言葉が理解できます。お互いに愛しなさいというのは、それは内在の世界において、皆自分がこの方であり、この方が自分であるからです。
菩提とは菩提と化す事、つまり内なる意識に通じることです。これは六根があるがためにこの心境を掴む事ができます。というのはこちら側があるからそちらに達する事が出来るのです。
カーテンがあり壁があって、壁の外側は私達の表面意識、内側は内在された神の意識が通じているという事を知ればいいのです。つまり悟る事ですね。六根があるが故に菩提と化す事が出来ます。
お釈迦様はこの肉体を「不浄なるものを詰め込んだ皮袋のようなものである」とおっしゃいました。人体を何か尊い清らかなものの様に錯覚を起こしていますがよく考えてみますとこの肉体からは「くそ」ばっかり出てきます。
歯くそ、耳くそ、目くそ、もうくそだらけでございます。しかしこの汚い物が出て来る袋があってこそ、私達は悟らせてもらう事が出来るのです。
汚れ多き五官が無かったら悟る事は出来ません。お釈迦様がおっしゃっている様に不浄なるものを詰め込んだこの皮袋があってこそ菩提と化す事が出来ます。蓮の花は汚い泥がないと咲かないのと同じ事です。
天上界にいたら悟れません。何故かと言うと、自分と全く同じ光の量の区域におりますから、十㍗の者は十㍗の者ばかり、百ワットの者は百ワットの者ばかりで外の人はいませんから、他の方を見て学ぶ事が出来ないのです。
このくそ袋に魂が入りますと、偉大な光の大天使も、地獄からちょっと上へ上がった程度の方も全部同じ肉体の中に入りますから見たところ皆人間ですが、魂の次元の高い良き方は、やはり過ち少なく善き行いをなさいます。
その方その方の霊格、霊の高さ、魂の段階の高さを知る方法は、その方がどれだけ善き行いをなさっているか、どれだけ過ち少ない生活をなさっているかによって判断出来ます。
一時、目を細くして相手を見たら光が出てきて、光が大きいか小さいかを見るというのを習った事がありましたが、そんな事をしなくても、善い事はようしないで悪い事ばっかりしている過ちの多い人はもう霊格が低いと判断して間違いありません。魂の次元の問題です。
高い方は人の為に仏の技をなされているはずです。言われる事に嘘や惑わしい言葉は一切使われません。ですからその方の行ない、言葉を見て霊格を判断する事が出来ます。
この肉体とは、言ってみれば泥沼みたいなものです。しかし蓮の花は泥沼がなければ絶対に咲きません。蓮の花はあの泥沼の汚いものを吸収して、それを栄養として、その泥を汚さない美しい花を咲かせています。
蓮の花でも葉でも、泥水をかけても決して汚れることはなく、水をみな弾いてしまいます。悪や汚れを寄せ付けない蓮の花は一体どこから育ってきたかというと、泥の中からです。
それと全く同じ事で、六根がなかったら魂の進化、悟りはありません。私達人間は、肉体の五官をもって、五官を栄養として、汚れを寄せ付けない心の蓮の花を咲かせる事が、この世に生まれた目的でした。
今、この社会を見ましても、リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、自分も内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。
「私達がいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、世間の奴は悪い事ばかりしているから何にもならない。ましてや政治家が悪い事をしている世では修行する意味がありません」などと言う人がありますが、
しかし、悪い事をし、間違いを犯す方々は、私達「法」を学ぶ者から見ますと、これは泥沼と同じです。その人達の姿を私達の栄養として「あのような事はしないように、ああいう間違いは犯さない様にしよう。せめて自分だけでも間違いのない様に生きよう」と思って、そこから学び取っていく事ですね。
そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。過ちも人の悪も私達が裁く必要はありません。これは私達と神様の問題です。
私達はそれを学びとして、せめて自分は過ちを犯さない様にしようと、自分の栄養にしていけばいいのです。
ですから社会の悪も全て私達の学びの材料として受け取らせてもらった時には、腹も立ちませんし、人を悪く思うこともありません。ましてや恨み憎しみは関係のない事です。
その方を神様の関係だと思わせてもらえればいいのですね。身近な親しい人が正しくない事をされる場合も同じ事です。
腹が立ったり嫌な思いをしたり、ひどい時にはカッかときて、他人の愚かな行為の為に自分の心の楽しみを失います。
自分は間違っていないのに、人が間違ったからといって自分自身の心を苦しめる方が多いのですが、この時、私達は次のように思う事です。
「人の愚かな行為をもって、我が心の楽しみを失うことなかれ」と。
人が愚かな事をした場合、大半の人はその事で自分の心を苦しめます。例えば電車に乗っていてすごくマナーの悪い人に対して、
「ほんとに、ようあんな事が出来るものだ」と怒っています。
起こるのは自分ですね。マナーの悪い人は他の人なのに、それを見て怒って自分の心が苦しんでいます。
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなり」。
他の愚かな行為で、夫婦の間でも友達の間でも心を苦しめる事は多いです。
「ほんまにうちの嫁さん、もう何をやっているのやな!」と、自分がしていないのに自分の奥さんの事で怒っていますと、嫁さんよりも婿さんの方が愚かになります。
逆の場合も同じ事ですね。「うちのお父さん、しょうがないなあ」と言って主人に腹を立てていますと奥さんの方が愚かです(笑い)。
自分が愚かな事をしたら、これは悔い改めなければいけませんが、人が愚かな事をして、それで自分が怒っていたら、その愚かな人よりも自分の方がなおアホという事です。
人の事で自分が腹を立てない事、ましてや相手が間違っている場合に原を立てたら、丸損でございます。これを専門の様にして、人の悪い事ばかりを言ったり書いたりして怒っている人がありますね(笑い)。
あれは丸損です。自分の心の休まる暇がありません。他人の悪い所ばかり目につく人は、常に心が苛立って、腹を立てていますから、心の中にやすらぎがあるはずがありません。こんな人は死んだら必ず硬くなります。これは絶対間違いありませんから、そういう人を一度見ておくといいですね。
私達は天上界の世界におりますと、自分の魂の光の量をさらに上げる事が出来ないために、この厳しい現象界で肉体の中に入って魂の修行をします。
現象界というのは天上界から見ますとものすごく危険極まりない場所です。いつ転がり落ちるか分からない様な断崖絶壁で旅している世界ですね。一歩踏み外すとたちまち奈落の底に落ちます。
仲良く幸せに暮らしていた家庭で、奥さんが亡くなられた後、息子さん夫婦に揉め事が起きてお嫁さんが子供を残して家を出てしまい、私達が知り合った当時の幸せな調和された家庭が二年もしない内に完全に破壊したのを知っていますが、この様な崖っぷちを私達は旅をしているという事です。
一つ何か縁に触れましたら、突然奈落の底へ落ちるという方がいっぱいありますね。会社の場合も同じです。この間まで景気良く盛大にやっておられた方が、ある日会社の前を通りますと、破産のため会社は潰れ、家族は分散していました。これも危険なこの世の旅で一歩踏み外した姿です。
自然界の海原の航海にも譬(たと)えられます。海原はある時は波一つなく静かに凪(な)いでいますし、また暴風に荒れ狂う時もあります。
海原は凪いでいても切りに閉じ込められて航海不能な状態もあり、凪いでいるから「やれ嬉しや」と航海していると暗礁が出ていて船底を突き破ってしまう事もあります。それと全く同じ事です。
私達の人生も油断していたら港の人口で船の底を割ったという例になりますね。私達は肉体という船に乗りまして人生の海原を旅しているわけですから、余程うまく羅針盤を動かさないといけません。
この羅針盤は、何事をするにも自分の心で一度判断してみる事です。あちらへ行った方がいいか、こちらへ行った方がいいか、と考えてみます。
この時、良心が嘆く法に行けば必ずひどい目に遭います。喜んでくれる方を選んでいけば必ず上手くいきます。なぜ上手くいくかと言いますと、私達の両親こそ、神が私達に与え給うたお方だからです。
「その父と母との導きに従う事は父なる神の導きに従う事である事を知りなさい。父母を敬い父母の導きに従う者は、神なる私を敬い、神なる私の導きに従う事である事を知りなさい」と、この様に神は言われます。
両親が喜んで下さる道は、神が喜んで下さる道ですから、狂いはないのです。両親の悲しまれる道を選んだら神が悲しまれるから、失敗の道を辿ります。
私の人生の羅針盤は二十歳の時に頂きました。そして少しでも安心して頂く様に、親には心配をかけたくないと思っていますのにこれも試練で、心配をかけなければならない様な事も起きますね。それは必ずひどい目に遭います。心配をかけただけまた自分が苦しみを味わいます。
仮にお亡くなりになっていても、親に安心して頂くようにすれば両親はあの世で喜んで下さいます。私達は神の御意志に背いて、絶対に幸せになる事は出来ません。
神様と全く同じ生命を頂いている私達が、その意味さえ分からなくなって自ら苦しんでいると、その痛みはそのままこちら側の神様に通じるはずですから、自分を苦しめてはなりません。
この世の中で、たとえ宇宙の果まで行こうとも、どこへ行こうとも自分以上に愛しい者はいないのです。
自分たち夫婦の仲が悪いために、主人のいない所でお父さんの悪口を子供に言って、お父さんへの尊敬をお母さんが奪っていますと、やがてこういう子どもは十代の中頃を過ぎましたらその復讐をお母さんに向けてきます。
これが家庭内暴力の正体です。お母さんの頭の毛を持って引きずり回し、或いはバットで殴ったり、遂にはお父さんまで殺してしまいます。
あれは全部母親の罪です。子どもの心を自分の方に向けたい為にお父さんの悪口を子どもに教えるからです。その一番いい例が私でございます。
「あんたら大きくなって、お母ちゃんの様になったら駄目だよ、お父さんの言う事を一つも聞いてくれない、あんなお嫁さんになったら結婚する相手の人が可哀想だから」と言って、私は一生懸命教えました。
家内もまた教えます。「あんなお父さんみたいな人と一緒になったら駄目よ。余計な事ばかりして家を放ったらかしにしているから」。
親のこういうやり方は、子どもに悪くなれ悪くなれと教えている様なものです。私はずっと幼い頃まで遡って反省させて頂きましたが、三歳まではお父さんお母さんは神様だと思っております。皆さんもそうです。
三歳まで反省してみて下さい。おしめを替えて頂き、おっぱいを頂き、抱っこして頂き、両親は神様以上の存在だと思っています。
そのお父さんお母さん、つまり男神と女神がお互いに子供に向かって値打ちの落とし合いをしているのです。私の両親の場合は仲が良かったので幸せでしたが、私の子供は気の毒です。
私は本当に両親を神様以上に、天皇陛下以上に思っておりました。昔は天皇陛下と言いますと、もう生き神様、現人神でして、その天皇陛下よりもお父さんお母さんの方がなお尊い方だと思っておりました。これは事実です。
両親の縁があってこそ自分があり、もし両親に縁が頂けなかったら、私自身の存在は絶対にないはずですから、誰よりも尊いのが両親ですね。
その両親がお互いに貶し合い、神様の値打ちを落とし合っていたら子供を駄目にしてしまいます。子供を素直な神の心で大きくするのも、駄目にするのも親の教育の中にあり、それは親の責任です。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年6月25日
世の中には数々の宗教があります。その宗教によりまして先祖供養、或いは浄霊、除霊などの特色を持って法・道を説いておりますが、本当の正しい教えはお釈迦様のお説き下さいました正法であり、イエス様がお説き下さいました愛の正しい教えです。
高橋信次先生は、釈迦・イエスの教えの原点に還れとおっしゃいました。現在の仏教もキリスト教もお釈迦様・イエス様のお説き下さった教えとは遠く離れております。
お釈迦様は亡くなった方のために拝んで祀りなさい、そして物をお供えなさい、ローソクを立てなさいとはおっしゃっておられません。この様な事がなぜ日本の仏教の中に習慣になってしまったかについて少しお話させて頂きます。
仏教はインドの地において2500年有余年の昔、ゴーダマ・シッダルダ(お釈迦様)がお説き下さった教えです。元々ゴーダマという王子様だったのです。
釈迦族というのは、アメリカのインディアンにコマンチ族とかアパッチ族とかがあります様に、インドのシャキャ族という一つの部族で、その王子様だったのですね。このお釈迦様が、人は何故苦しむのかと疑問を持たれたのです。
生後間もなくお母様が亡くなられて、お母様の妹さんが義母となって育てられました。お釈迦様は、人間として生を享(う)けた全ての者がなぜ悲し
まなければならないのか、なぜ苦しまなければならないのか、なぜ病気をしなければならないのか、なぜ死んでいくのであろうかと、そういう生死の問題について深く疑問を持たれたのです。
そしてその苦しみから何とかして救われる方法はないものかと、徹底的に追求していかれました。
高橋信次先生の「人間釈迦」を読んで頂きますとその中に詳しく書かれてありますが、やがてお釈迦様は自らに目覚められて教えを説かれました。
その教えがインドからチベット、そしてあのシルクロードを通って中国の地へと伝わってきました。その伝わる道中でその土地と土地の信仰と仏教がミックスされながら伝わってきたのです。
中国には道教と儒教という教えがあり、それを混ざり合ったものが朝鮮半島に伝わり、またさらにその国の思想とか土地にある宗教などと混ざり合いながら今度は日本に伝わってきました。この時すでにお釈迦様のお説き下さいました御(み)教えとはかなり遠く離れたものになっているのですね。
色々な儀式の中に一つの例を取りましても、現在の日本の仏教ではお灯明をつけ、録音を立てるのが普通の仕来(しきた)りになっていますが、しかしお釈迦様の当時はそんな事はしていませんでした。
ローソクはなぜつけるようになったのか。お釈迦様は八正道の中で常に正しく仕事をしなさいと生業に就く事を説かれました。
その正しい仕事とは主に昼間行われなくてはいけません。その頃は電気もありませんから夜は真っ暗です。当初、お釈迦様の説法は夜の方が多かったのですね。夜、真っ暗の場所で説法を聞かせて頂いてもお顔が見えないので、
「何とかお釈迦様のお姿を拝みたい」という人々の願いからお釈迦様の前でかがり火を焚いたのですね。今で言えば照明と同じ事です。それがいつの間にかお灯明になりました。
では線香はなぜ立てるようになったのか。インドの地は暑い所でございますから、色々な毒虫がおります。人の血を吸う虫、或いは毒蛇などもおりますから、そのままでは噛まれて仕事にならないので、毒草の汁を絞って、それを体に塗りつけ虫除けにしたのです。
今で言う殺虫剤の代わりで、虫が寄り付かない為のものです。ところがこれがものすごく臭いのです。これを体に塗って仕事をしますと汗と薬草の臭いでもう臭くてたまらなかったそうです。
お釈迦様の場へ人々が集まりますと我慢できない程の臭気ですから、頭の良いブルナニヤにプトラという方が栴檀(せんだん)の木をくすべた所、
大変良い匂いがして悪臭が消されましたので、それで皆さんが集合の時には必ず栴檀の木を持ってきて各自がくすべたのです。
それがいつの日にか線香やお香へと変わりました。
では、花を供えるのはどういう事なのでしょうか。
お釈迦様のみ教えの中に「福徳を求める人々は、時々如来に花を捧げよ」というのがあるのです。幸せを求めて、人々はお釈迦様に花を捧げたのです。その捧げられた花をお釈迦様の前にずっと飾られたのですね。私も小さい献花をここに置かせて頂いております。
しかしこの花は私の方を向いておりません。私から見ますと花の背中が見えて綺麗さがよく分かりません。お釈迦様もその通りで御座いまして、
お釈迦様は偉大でございますから身の周りいっぱいを花で飾られておりましたが、お釈迦様から見られたらみな花の後ばかりで、皆さんの方に向けて花を飾られたのですね。これが供花の始まりです。
お釈迦様ご存命当時はその仕切りと今の仏教の仕切りではとんでもない間違いになっています。
本当に仏様にお花を供えるのであれば、自分たちが背中を見て、仏様に花を見てもらうのが礼儀ですが、供えている花は仏様にお尻を向けて、花を供えた者達の方に花の表が向いています。
しかしこれは仕切りとなって行っているだけです。
キリスト教にしましても、イエス様がご存命法をお説きになりました時と今とでは、大変かけ離れたものになっています。イエス様は着の身着のままです。私は今日は良い服を着させて頂いていますが、イエス様はこんな格好はなさいませんでした。
皆さんと同じ服を着て日々の生活のままの姿をもって法をお説きになりました。ローマ法王が頭にかぶられる王冠は七、八千万円もするものだと聞いています。ビロードのガウンを着て金の錫杖をついておられます。
イエス様がいつそんな姿をなさいましたか。イエス様は
「私の肉を食べなさい。私の血を飲みなさい」とおっしゃったはずです。
肉を食べるといってもイエス様を殺して食べたら大変です。あれはイエス様のみ教えを素直に私達の肉体の中に、心の中に入れなさい、そしてイエス様の如くイエス様と一体となって生きなさい、一人一人がイエス様になる事を望んでこの様に言われたのですね。
お師匠様であるイエス様がそのようにいい恰好をなさっていないのに、何百年何千年も経った後の弟子が、贅沢三昧のものを身にまとっている事自体が、イエス様とは遠く離れています。原点と現在とでは全く違っている事を高橋信次先生はお説き下さいました。
正しい法を学ぶという事は、この世で何を為し、何をなさないか、また何を語って何を語ってはならないかを学ぶ事です。そしていよいよあの世へ帰る時は迷う事なく私達の魂の故郷である極楽に帰らねばなりません。
「神仏の大慈悲に感謝し
万生相互の調和の心が 神意なることを悟るべし」
私達は日々の生活でこの神仏の大慈悲に感謝する事を忘れてはいけません。私達は神仏のお陰で生きさせて頂いています。
神仏といいましても肉体を持たれて、そこらを歩いておられる様な神様とは違うのですね。神様とは、大宇宙の隅々までもその愛を持って支配し、小さく言えばこの地球界の万生万物を育む大自然の力です。
この力こそほんとうの神であり、また法の体の仏です。法そのものが仏の体なのです。神という言葉は全てを生かし全てを育む事を表わし、神ご自身がその大宇宙の中に、また自然の中にご自身の姿を示されております。
それはお互いに持ちつ持たれつという姿です。万生相互の調和の心です。
「私は自分の家の神さんにだけ感謝します」と言う人がありますが、こういう神様はほんとうの神様ではありません。真(まこと)の神様とは宇宙の隅々までもその愛をもって支配なさる計り知る事の出来ない巨大なエネルギーであって、この神様であれば素直に受け入れる事が出来ますね。
私達が毎日の生活でこうして生きさせて頂くには、動物・植物・鉱物を頂いています。そして感謝した事もなく、その有り難さを味わった事もない空気というものを私たちに与えて頂いています。
しかもその空気の中には私達が生きさせて頂くのにちょうど都合の良い量の酸素を入れて頂いているのですね。もし酸素がなかったら、私達は三分か四分の内に全部窒息します。それにもかかわらず空気に対して私達は感謝する事さえ知りませんでした。
またあのお日様から私達の最も生き易い熱と光を頂いておりながら、お日様に対しても感謝を知りませんでした。もし光が無かったら大変ですし、熱が無かったら地球はたちまち凍ってしまいます。
この熱と光をカロリーに計算しますと、一秒間に石炭二百万トンも燃焼させるだけのものになり、それをこの地球だけが頂いているそうです。
一秒間で二脚万トンもの石炭は十秒間で二千万トンですから、一日経ちましたらもう計算することもできません。
これをお金に換算しましても、もし請求書が来ましたらこれはもう大変な事です。地球の全財産を持っていっても足りません。これほど巨大な熱・光を頂いており、しかも一銭の請求もなさいませんから私達はあって当たり前と思っています。
日々の生活の中でもそうですね。両親にいて頂き、夫婦がお互いに生きさせて頂き、子供さんにいて頂き、しかもそれで当たり前と思ってしまいます。当たり前と思う中から感謝を忘れていきます。もしいなければどれほど淋しいか、どれほど不自由であるか、その事が分からないのです。
ですから、神様への感謝という事が、法の生活をする上ではいちばん大切な要素です。見るもの触れるもの全てに感謝の心を持たせてもらう事です。
「神仏の大慈悲に感謝し」と書いて頂いておりますが、自然界に現れた全てのものが神様の現れです。全てのものに感謝するという事が神様への感謝に繋がります。
この水もそうですね。有り難い事に蛇口をちょっとひねりますと、ジャーと水を出して頂けます。しかしこの水が無かったら生物の生存は絶対に許されないのです。人間の肉体は七十数%が水分で出来ていると聞いています。
円心分離機にかけますと七割は水になって出ていってしまいます。人間のこの肉体そのものも自然界の中の一物質としてこの世に生存を許されています。水そのものも七十%はH2Oの原子に帰ります。
もちろん脂肪とか蛋白質とか色々な他の物質もありますが、これらも全部原子に帰ります。人間は死ぬと燃やして灰にしてしまって何も無くなってしまったなあと思うのですけれども、人間の肉体は、焼場で燃やしてもらうと熱の作用によって七十%の水は全部炎と煙と一緒になって蒸発するのですね。
自然の中に帰るのです。土の中に埋めますと時間はかかりますが、やはり水となって土に帰っていきます。しかし物質そのものは変わることなく、水は水として現実に残っているのですね。
私の住んでいる近くに火葬場がございます。
一昔前まで、低気圧の時などはむくむくと煙が出て地を這って流れますから、皆「気味悪いな、いやだなあ」とおっしゃいます。
しかし人間が自然界へ帰った時はあの煙と一緒に空気中に水蒸気となって上がっていき、それが満遍なく広がりますと、私達はその空気を呼吸しますし、またその水分が天となって大地に降りてきますと、その水を頂いて生きてもいきます。
いってみれば人間の共喰いをやっているわけです。そんな事はないと言いましてもこれは事実です。燃やせば必ず空気中に帰りますし、それが水として大地に帰ってくるという様に、循環の法に従っています。
相互依存というのはお互いに持ちつ持たれつという事ですが、人間という字が持ちつ持たれつを表し、その「間」に生きる事を表しています。
自然界の太陽系を考えてみますと、太陽を中心として9つの惑星、つまり火星・木星・金星・地球などの星があり、それが一秒の狂いもなく循環しています。遠く離れているから関係はないと思うのですがお互いに作用し合って動いています。
昔の時計を分解しますとゼンマイが入っていますね。ネジを巻きますとゼンマイの力によってギヤが回ってきます。また無数の歯車が入っていて、その歯車はゼンマイのばねのエネルギーを元にして周ります。回ることによって次の歯車を回し、さらに次が回される事によってその次を動かしています。
これと全く同じ事で、太陽というエネルギーによって各惑星が回されているのですが、これが各惑星ごとに独立して回っているのではなくて、目に見えない歯車、つまり引力の作用によって自分が働き、動くことによって他を動かして他を動かしています。太陽系はこのように調和されています。
引力は目に見えませんが、ちょうど歯車のギアの様なつとめをしております。銀河系にはこの太陽系の様な星の塊が二十億個もあるそうです。
太陽系の中で地球という生物の存在を許された星が一個あるという事は、十分の一の確率ですね。十分の一に生存可能な環境を与えられていますから、別の太陽系にもやはり同じ様な確率で地球のようなものがありますと、
この銀河系だけで生物の生きている星は約二千億個あるという事になります。その中には地球よりももっと古い歴史をもった星もありますし、また地球より若い星もあります。
古い歴史を持った星はそれだけ科学も進んでいるでしょうからUFOという未確認飛行物体は、その様な天体から地球へ時たま訪れる姿なのでしょう。
テレビでよくUFOの話をしていますが、ああいうものが来ても別に不思議ではないのです。しかし分からないからびっくりします。
空から円盤の様なものが飛んで来たら「ウワァー恐ろしい」「お椀が飛んできた」と言いますけど、そういうものの存在はあって当たり前の事です。
銀河系の中を見ましても、太陽系そのものの力によって他の太陽系〈惑星系〉を運行させているのです。これが大宇宙の果に至るまで全く同じ力をもって動かされており、その作用は相互依存で、お互いに持ちつ持たれつという法則の中に、大宇宙の隅々までもその力をもって示されています。
この教えは今、磯ノ上の浄心庵でお話をさせて頂いていますが、しかし宇宙の果てへ行ってこの同じお話をしましても「ああなるほどそうか、その通りだ」と、通じる話です。こういう教えこそ本当の正法であり真理です。
ですから「教え」が、日本でしたら日本だけ、或いは韓国なら韓国にだけしか通らない様な教えであれば、それは正法・神理ではないわけですね。
日本にだけおられる神様で、外国におられない神様は、これは正しくない神様です。地球そのものは神の御神体であり、地球そのものが神様の御姿(みすがた)の現れの一つですから方角が悪いとか良いとか言いますが、神様の御神体の中に悪い場所のあるはずがありません。
これらの事は全て人間が考えたものであり、しかも人間が自分の都合により、また国を治めた権力者の都合によって色々と定められたものが、場所や方角の迷信となって世に広まっていったものです。
地球は神のご身体であり、地球上どこへ行きましても大いなる神の愛に満たされています。ここだけは神様の手の届かない場所という、そんな所はどこにもありません。トイレの中でもお風呂の中でも山の上に登っても海の中に潜っても全部神様の中にあるわけです。
私達は常に神様の中にどっぷりと漬けていただいており、寝ても起きても神様の慈愛の中に包まれています。言ってみれば神様漬けになっている様なものですね。どぶ漬けというのがありますが、私達は有り難い事に神様漬けです。
それをハッキリと自覚させて頂くだけでも私達はどれ程有り難い事か知れません。神様の中にいるのですから不安とか恐怖とかいったものは本来は無いものです。それを知らないから不安や恐怖に襲われるのです。
私はいつも神様の御胸(みむね)の中に抱(いだ)かれているという事を知っています。そのために大安心です。全く恐怖はありません。しかしそれを知りましても、日々の生活でもしも思うこと、行うこと、語ることが間違っておりますと恐怖が襲ってきます。
嘘がばれないかともうその思いが恐怖です。また、悪事や間違った事をしますと、私達の心の中にやはり神の心である良心、神我なる我がちゃんと居て下さって、その神が自分を裁きます。
そして表面の意識が恐怖に襲われます。夜休みますとすごく怖い夢を見ます。逃げても逃げても追いかけられる夢を見たり、崖っぷちから落ちそうになって「ああ怖い」としがみつくと、
しがみついた所からまた崩れてきて、底知れない所へ落ちそうになり必死に逃げようとしている夢などを見たりします。
私は悪ガキの頃、そのような夢をいつも見ました。しかし今は一切見なくなりました。意識の中に恐怖を持った生活をしていますと、夜休んだ時に恐怖に襲われる夢を見るわけです。
夢はただ寝ている間に起こるものと思っておりますが、これは私達の昼の生活が夜の意識の中に現れているという事です。生活を正した時には、そのような夢は一切消えるはずです。
そして夜休む前、或いは朝のトイレの中ででも神様に対して心から
「お父さん、お父様」と呼べる様な自分を作る事です。
神様を「お父様」と呼ぼうと思いますと、神様の御心(みこころ)から少し離れても恥ずかしくて呼べませんからこれは厳しいものです。
完全に神の子としての一日を過ごした時、胸を張って「お父さんありがとう御座います」と父なる神に感謝できるはずです。その時父なる神と自分とは本当に親子であったと思う事が出来ます。
神様のみ心を私達がこの肉体をもって実践する事です。神様の御心の実践とは相互依存、お互いに持ちつ持たれつの助け合いで生きる事です。
もう少し細かく砕いていきますと、私達は自分に都合の悪い方はすぐ差別をします。「あの人は嫌な人」、ひどくなりますと「あんな嫌な人とものも言いたくない」とか「あの人の方を向いて小便もしたくない」とか言います。
嫌いな人の方を向いて小便するのももったいないというのですが、それほど嫌う事自体、差別をしているのです。
あの太陽の熱・光の様に、一切差別なく平等に生きる思いを持たせて頂く様に、神の子であればこれを実践するのは当然の事です。私達は自分の悪口をちょっと言われると、たちまち三倍五倍にして返そうとします。
「私は何も言っていないのに、あの人は私の事をこんなに悪く言った、もう許せない」と、今度はその人の悪口を一生懸命言うのですね。しかしお日様を見て下さい。どれほどお日様を侮辱しても、どれほど悪口を言っても怒鳴っても一切関係なしに、ただ熱と光を燦々(さんさん)と与え給います。
私達も自分にとって都合の悪い方、自分に良くしてくれない方、或いは悪口を言ってくれる方に対しても、難しい事ですけれども、どんな風に言われようがされようが、なお燦々と与え続ける太陽の御姿をお手本にして生きたいと思います。あの太陽の御姿そのものが神ご自身の御姿です。
私達も神の子としてその様に努力して生きるべきです。私達はよく人を裁きます。気に入らない人に対してはすぐ言い返したり、こきおろしたりしてその人を裁き、復讐し、仕返しをしようとしますね。
これも神の心に背いております。お日様から仕返しは受けません。頭の上におられるお日様に向かって唾を吐きかけてみなさい。その唾は必ず自分に返ってきますが、これはお日様と関係のない事、神様に関係の無い事です。
天に唾した行為が自分に返っただけです。これを天罰覿面(てきめん)といいます。自分で自分に罰を当てているのであって天はそんなものは知らん顔なさっています。
間違った信仰では、会を脱会しようとしますと必ず罰が当たると言って脅します。えらい目に合うとか祟りがあるとか言いますがあんなものは全部嘘です。これは組織というエゴがその様に言わせているだけでほんとうの神様とは全く無縁の事です。
神様はそんな事は一切関係なしに、ただ幸せになって欲しい、幸せな人生を過ごして欲しいと、その愛を私たちに注がれています。どれほど罪を犯した人間であっても、いかに国が違ってもそれらには一切関係なしに
「すべてが愛おしい、幸せに生きよ、健やかに生きよ」と言われています。
もしその苦しみがたとえ他の方から与えられたものであったとしても、私達が自分の心を自分で苦しめた時、父なる神はご自身の苦しみの様に辛い思いをして下さるのです。
何が最も罪深いかといいますと、それは自分の心を苦しめる事です。自分を苦しめる原因は腹を立てる事です。私達は平気で腹を立てて、もう堪らなくなるとカッカッカと頭から湯気を上げますが、これは自分を苦しめているのですね。
怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、貪欲、取り越し苦労が苦しみの原因です。また過去の苦しみをいつまでも話さない事も苦しみです。過ぎ去った出来事はすでに死んだ出来事です。絶対に帰ってきません。
その帰ってこないものに対していつまでも自分の心を苦しめる事は神の御意志に背く行為です。自分の心を苦しめる事は全部神様に背いているのだというこの真理を知る事です。その時私達の心から怒りが消えます。
怒りが消え去った時どれほど心が安らかであるか知れません。嘘を言わなかった時、恨み憎む方が一人もなかった時どれほど心が安らかであるか、
---私は世界一の幸せ者ではないかと思います。集うて下さる方々は皆素晴らしいお方ばかりが集まって下さいます。世の中にはすばら生くないお方もおられるはずですが、そんなお方は私の側へは来て下さいません。そしてどこへ行っても愛されて重宝して頂けます。
なぜ私のようなも者をこんなに大事にしてもら、皆様の愛をそのまま頂けるのか、それは私がただでさせて頂くから、愛の実践をさせて頂くから、皆様から大事にして頂けるのですね。
ですから日々の生活で、まず家庭の中で心から愛の実践をする事です。たださせて頂いただく時、自分がして頂けます。
イエス様はこの様におっしゃっています。
「自分のして欲しいと思う事を人様のためにしなさい」と。
「あなた達はお互いに愛し合いなさい」ともおっしゃいました。
愛するという原因を作りますと、愛されるという結果が出てくるからです。原因結果の法則の中にすべてのものが含まれており、この法則から誰も逃げ出す事は出来ないのです。その事をよく理解しますと、愛することによって愛され、せさて頂く事によってして頂けるという事がよく分かります。
あらゆる宗教は「感謝をしなさい」と教えますが、なぜ感謝しなければならないのかという本当の意味は教えて頂けません。
これも原因結果の法則から見ますとはっきり分かります。
「有難うございます」と感謝しておりますと、その感謝の思いの中には怒りも愚痴も恨みも憎しみも入る事が出来ませんから、万生万物すべてが神の御姿であれば全てのものに
「有難うございます」「有難うございます」と感謝の時間を長く持てば持つほど私達の心の苦しみの原因が入って来る事がないからです。
私達の心は「一念三千」といって一瞬にして三千の方向に動き回りますが、どんな器用な方でも同時に二つの事を思う事はできません。一つ一つしか思えない様に心は作られていますから、感謝の心を向けておりますと、外の事を思えないのです。
感謝とは心を苦しめる悪しき想念から自分自身を守る武器であったのです。この様に思わせて頂いて、
お日様を見ては「有難うございます」、
熱・光を頂いては「ああ有難うございます」、
お水を頂いては「ああ有難うございます」、
花を見て人様を見ては常に、「有難うございます」
と思う時間が長ければ長いほど平安に過ごせます。
今日一日がそのような感謝の心で過ごせましたら、平均寿命が八十年としましても三百六十五日を掛けてみて下さい。三万日もありません。
しかもその一日一日は再び帰ってこないのです。
もし取り返しが出来るのでしたら、私の髪の毛はすぐ真っ黒になるのですが、時間の取り返しはできません。
しかしこれは自然現象で、髪が薄くなる方、白くなる方は定めであり、いずれにしてもやがて必ず皆この世から消えていきます。
いつまでも生きたいと思う方がありますけど、人は適当な時に死なせてもらうのが1番いいのです。もっと良いのは惜しまれる内に桜の花の様に散らせてもらえたら最高です。朽ち果ててから散ったのでは愛想を尽かされます。
桜という花は大変綺麗で人の心を引きます。
春の嵐に「もうちょっと咲いていてほしいなあ」と思う時にハラハラと散ってしまうから「もったいなあ、惜しいなあ」と思うのですね。
私の様な者が何も望む事もなく、自分の思い一切なしに、こうして日本国中から招いて頂いて、そしてこんな拙い話を聞いて頂き
「お陰様で救われました」
「お陰様で病気が治りました」
「心の苦しみから救われました」
と、数え切れない方々が幸せになって頂いております。
これは人として生を頂いて、人間として今の私は最も花の満開した時ではないかと思わせて頂いております。私は高橋信次先生よりも、もう十年長生きさせて頂きました。
出来ることなら日本のあちらこちらから、私の代わりにこうしてお話をして下さるお方が目覚めて頂けます様に、そして次の人々を救って頂けますように-----そうなりましたら私はもう安心して散っていけます。
私が散りましても、私の咲かせた花はまた皆さんが実らせてくれたらいいのです。散った後に「あの人はこんな事をいったなあ」と言って、実らせて下さったら私の努めは終わるのですね。
そのように惜しまれる間に散らせてほしいのが私の心境です。
不思議なもので、心から私の事を思って頂く方から、「自分の胸の中にいつも長尾先生が坐っていて下さいます。ほっと思えば先生の顔がここに浮かんできます」と言って頂けます。
それは常に私の話を思い出して頂き、私と接した時の思いを心の中に抱いて下さるからですね。私はそういう方の心の中に常に生きていられます。
ですから一人でも多くの方の為に善き行いをもって一人でも多くの方の魂の中に自らを生きさせてもらう事です。自分を捨てた愛の実践、これは必ず人の心の中に入ってきます。
もし望むものをもって「こうしてあげるから、こうしてほしい」、或いは「こうしたから、あんな風にしてもらわなくてはならない」という思いを持って行為しましたら、これは自らを苦しめる事になります。
徹底した無償の愛の実践をすることです。この時は心に苦しみが残りません。相手に笑顔を求めても、感謝の心を求めてもいけません。
ましてや物や金を求めてはいけません。
一切無償、そして自分は何をさせて頂いたとか、どなたにさせて頂いたという思いも全て捨て去ることです。その時は、心に苦しみが湧き上がる事はありません。あたかも池の鯉にエサをやる如くさせて頂くことです。
餌をやりながら、鯉に「この餌を返してね」と言う人はいないと思います。この心がけが大切ではないかと思います。しかし餌をやるからといって、その餌に針と糸をつけて投げてはいけません。
求めて得られない様になっているのがこの世の実相です。求めて全てが得られるのでしたら、人は苦しむ事などないのです。与えられないから皆苦しんでいます。だから求めない事です。たださせて頂くのが、幸せへの道です。
私達はどのような事があっても心を苦しめないようにと話しましたが、これはそう簡単にはできません。腹を立てまいと言っているはしから腹の立つ事が起きるようになっています。
そして見えない世界からテストを受けるのですね。「私は一生懸命頑張ったから、この頃腹を立てない様になった」と思っている所へカッカッカと怒る事が起きてくるのは守護霊さんがテストをしてくれるのです。
心の修行は言うに易しく行うに難しいと思います。しかし私達は訓練する事です。絶えず休み無しに練習訓練をしていきますと、やがて上手になってきます。その様にして頑張っていきたいと思います。
編集語記
地球の歴史を変えた長尾弘先生の祈り
ソ連邦がロシアに代わった驚異の真実とは
この度「心行」の解説下巻が出来上がり、ここに上・下二冊が揃い完成しました。平成5年1月「心行」の解説上巻の上梓(じょうじ)直後から、お忙しい先生にお願いして、引き続き同下巻の原稿(ご講演のテープを起こしたもの)
に目を通して頂けますようにご無理を申し上げ、もうこれ以上の催促は控えなくてはと思うほどの作業だったと思われますが、約束の期限に合わせて原稿を仕上げて下さいました。
解説の補足、文字の修正など細々(こまごま)と手を入れて頂きましたが、先生が一言(ひとこと)加筆されると意味が分かり易くなり、たちまち文章が生き生きと活気を帯びるのはまさに画竜点睛の趣が御座いました。
お陰様で先生の教えの原点であり、核とも言える「心行」の全行について上・下通して学べる幸せを頂き、皆様と共に喜び、感謝したいと思います。
今や、長尾弘先生の電動の旅の足跡はここ数年地球全土に亙り、正しい法と先生の大きな愛は日本国内はもとより、
ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・フランス・イギリス・香港・韓国・台湾・ブラジル・アメリカ・イスラエル・インド・中国・オーストラリア・ポーランドへ、そしてロシアにまで及ぼうとしています。
故高橋信次先生がかつて「正法は世界中に広まるであろう」と予言された通りでございます。
ことに、ドイツへ行かれて帰国後間もなく、世界中の人が予想もしなかった、まさかと思うあの堅固なベルリンの壁があっという間に崩壊しました。
また、イスラエルへ行かれた直後には、積年の複雑な事情による混乱で解決の糸口さえ掴めない状態だったパレスチナとの和解のきっかけが生じ、現在少しずつ争いを止める方向を模索しつつあります。
さらには、先生がソ連の上空を飛んでおられた時、機中から
「どうぞこの国に安らぎをお与え下さい」と祈られました。
下の方がパッパッと目も眩むほど光りましたそうで、そうすると、ソ連邦は終焉し、ロシアの誕生という、これまた思いがけない出来事に世界中がびっくりしました。
これを単なる偶然と思う人、また先生とは縁なく関知せぬ人も多いことでしょうが、知る人ぞ知る、間違いなく長尾弘先生の比類を超えたパワーの発露によって世界中が大きな調和に向けて確実に始動し始めている事を認めないわけにはまいりません。
イスラエルで、聖母マリア様の前に立たれた先生が掌を合わせて語りかけられると、大理石の象はまるで生きた人のようになり、眉が動き御目から涙が出て、眼の中の血管まで見える不思議なマリア様のお姿がビデオに写されております。
インドの仏陀の涅槃像の前で祈られました時は、日本の五百円硬貨よりも大きな金箔がまるで花びらの様に無数に舞い降りて同行の方々が驚かれました。
また、生まれつき聾唖(ろうあ)の方が先生の愛を頂いて、当然知るはずもない言葉を出し抜けに発せられたという事実も。驚異というほか言い表しようもございません。
インドでは、マザーテレサ女史と親しくお会いになり、インド大統領に招かれて官邸での歓迎を受けられ、イタリアのミラノでは市の名誉市民章も受けられております。
先生は、「人間はみな等しく内に神を宿しており、私たち一人ひとりは神の具現者である」と教えて下さいます。
長尾先生ほどの、神そのもののお姿にまで達することは至難であるとしても、せめて、先生の足許に近寄る事が出来ますように、日々地道に善を積んで悪を止め、常に心の曇りを払う実践に努めて、魂を向上させていきたいと思います。
ここに、長尾弘先生のお導きに対し心から尽きない感謝を捧げて、御著書編集の後記とさせて頂きます。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年9月23日
「心行」の解説を私なりに、ここ二年に亙(わた)ってさせてもらいました。今日をもって「心行」の解説を終わらせて頂きます。
いよいよ最終回でございます。神仏の光明を得る事は、正法の生活の実践の中にあります。正法の生活とは、調和された日々の生活ですね。この生活実践の中に神仏の光明を頂く事が出来ます。
迷いの岸である此岸(しがん)から、迷いのない川の向こうの岸、彼岸へ到達することを悟りの世界へ至るといっています。
向こう岸へ至るためには何も厳しい行をしたりお経を唱えたり特定の修行をしなくても、調和された正法の生活をすれば到達出来るのです。神仏の光明が与えられます。
正法の生活とはどういう事か、と追求させてもらいますと、やはり、自分の心を波立たせない事、貪欲によって心を曇らせない事、愚痴から離れる事です。愚痴によって正しいものを間違いと思う愚かな智恵から離れる事です。
ぐちぐちと嫌なことを言うのが愚痴だと思いますが、本当の意味は「愚かな智恵」という事です。この愚痴から離れない限り「本物」を知る事が出来ません。間違ったものを間違っていると認識しない限り、本当の正しいものには巡り合えないという事です。
この日本には二十万という沢山の宗教があり、みな人が幸せになるための良い事を教えています。しかし教えている事と実践面が逆になっている事が多いのですね。
お釈迦様は「幸せになりたい人、福徳を求めるバラモンは時々如来といわれる方に献花の供養をしなさい」と教えられました。
時々花を捧げる事によって心が広く豊かになるからで、心が大きくなれば徳が入ってくる、法施・財施(ざいせ)という教えを説いておられます。
出家なさった方は、在家の者に法を施して下さる、だから在家の者は出家された方に対して財を施すという、「法施・財施の教え」を説いておられます。
今の宗教はその点、「あげなさい」と言い、また、物を売っています。百貨店ほど物を売っている宗教があります。家も屋敷も全部供えなさいという宗教もありますし、お賽銭は硬貨でなく音のならないお札をあげなさいという宗教もあり、少しでも供えたら徳があると教えています。
ひどいのになると、「男は腹が小さいから、主人に内緒で借りてあげなさい」という、ひどいのが現実にあります。それを信じて主人に内緒で一生懸命あげたのがばれて離婚された方も沢山あります。
家の中で内緒事をしたら絶対にいけません。不調和に繋がります。主人に逆らったら幸せになれないのです。
その事を人間の肉体が教えてくれています。まぶたは上から下へ下がった時、目の前は真っ暗になります。家庭の中で奥さんが主人の言う事を聞かないでいたら、目の前が真っ暗になってしまいます。
女は陰の存在、男は陽の存在で、陽は上に陰は下にあります。私達の顎も下から上に合わせる様になっていて、上の顎は絶対に動きません。
それで私達の肉体は保存ができる様になっています。下が上に合わせる様になっており、そうすれば家庭も調和します。女は下から上の男の人に合わせていくものであって、逆らったら口が開いたまま飯が入らない様になっているのです。
瞼(まぶた)が上から下へ下がると真っ暗になるように下(女)が上(男)を下げさせると家庭が真っ暗になってしまいます。
今の宗教の中には、教える事が素晴らしくても、その実践において家庭の破壊や親不孝を実践させる教えもあります。そういう信仰をしてると、いつの日か必ず苦しみとなって具現化してくるのです。
ある宗教では、一つのものに三万円、五万円、十万円とあって、同じ買うなら十万円が有り難いと言って皆一番高いものを買うそうです。それに向かって毎日拝んでいたら救われていない霊が出て来るので、難儀なことだと思って本部へ行って供養のお願いをするのです。
すると一霊ご供養してもらうと十万円要るのです。五人の霊が出てきたら五十万円供えなければならない、こうして拝んでもらっている内にまた三人出てきて、さらに三十万円持っていかなくてはならなくなるのですね。
全国的組織を持つ宗教ですから、信者さんがいっぱいいて、大広間には「毎日供養します」といって受け付けますが、その教祖様は生神様の様に偉い人ですから出てきません。
係の人が「誰々さん、ただ今ご供養が終わりました。ご霊様何名様終わりました」と報告すると、その大広間にいる皆さんが゚゚パチパチと手を叩いて拍手をするのです。
そして次にまた、「誰それさん、ご先祖様何名のご供養終わりました」と言うと、手を叩いて、朝から晩まで拍手が鳴りっぱなし、こうして拍手のたびに何十万円と入るのです。これは現実です。
この宗教を信仰しているおじいちゃんとおばあちゃんがあって、おじいちゃんに、「あなたの亡くなった先妻さんと、お母さんが憑いている」と言ってその宗教で二人分二十万円をあげてご供養してもらわれたのです。
「分からなかったら何にもなりません。どうして憑いているという事が分かったのですか」と聞くと、おじいちゃんは年をとってヨボヨボしていますから、おばあちゃんとその娘さんとが、「何をぐずぐずしているの」と聞くと、
「ああ、お母ちゃんがいてくれたらこんな目には遭わないのに」と言って泣くから憑いていると思ったと言うのです。
「では先妻さんが憑いているのは、どうして分かったのですか」と聞くと、
おじいちゃんがコンコンと咳をする、先妻さんは胸を患って死んだので常に
咳をしていたから、それがおじいちゃんに憑いて咳をさせているのだと決めたそうです。そこで二十万円供えてご供養をしてもらって、結果は何も良くなっていないの言うので、私は言ったのです。
「そんな供養をしてもらって、おじいちゃんの病気が治ってああ良かった、良いことが起きて良かったという証明がなかったら、供養されているのかされていないのか分かりません。私なら供養代は一銭も要らなくて証明してみるから、おじいちゃんを連れてきなさい」、
そこでおじいちゃんを連れて来ましたから、「おじいちゃんどうですか」と声をかけると、「わあ、わあ、ああ」とものを言うのも通じないのです。
おばあちゃんに通訳してもらって、「おじいちゃんにお母さんや先の奥さんが憑いたら叶わないから、私が今日お救いしましょう」と言って、憑いておられる方をお救いしてあがってもらったのですね。
そうすると、おじいちゃんがいっぺんに治ってしまって、今までグニャグニャと言って死にかけていた様になっていたおじいちゃんが、
「ここは結構なとこです。まあ、どうぞお上がり下さい」と言って、来られたお客さんの受付をしてくれました。見えていた方々がびっくりして、
「今死にかけていたおじいちゃんが受付してますよ」と知らせてくれたのですが、そういう事が起きます。
この様にはっきりといっぺんに治るという現象として現れた場合は、
「ああ本物だなあ。救われてくれたなあ」と分かりますが、何の証明もなかったら信ずる事は出来ませんね。
そういう宗教に限って何も証明ができません。何故かと言うと、嘘か本当か分からないものに何十万円、何百万円と取って、不当なるお金を集めている様なものに、神が力をお与えになるはずがないからです。
神はただでさせて頂く時にのみ、神の御業を現されます。欲の曇りで神の光は遮られるのです。欲を持たず、ただ救われてくれたらいいと思って尽くす時には何の曇りもありませんので、神様の光がすーっと通っていくのです。
そんな法外なお大きなお金を取っている様な所は欲の曇りで光が止まってしまうのです。
一回見てもらって二十万円という様な宗教もあります。そこへ行って治ったというお方はごく稀です。治らなかったからといって後から苦情を言われない様に、前もってちゃんと契約書を書かされるそうです。
「もし治らなくても、お金を返してくれとは言いません」そして、判を押すのです。「やっぱりだめです」と言って、よく私の所へ来られます。
これらの宗教を偽物だと見抜けない限り、本物に巡り合う事はできません。そして本当に巡り会えるご縁というのは、どれほど難しいものかという事ですね。
私達は今、本当に正しいご縁を頂きました。本当に正しい教えとは、高橋信次先生を縁としての正法だったのです。先生は講演の時、大きな縦長の垂れ幕(たれまく)を垂らして、「釈迦・イエスの原点に還れ」と書かれていましたが、釈迦・イエスの教えの原点こそ正法だったのですね。
今の数え切れないほどの多くの宗教は、お釈迦様がお説きになった教えとは似ても似つかないものに変わっております。
今の仏教とは、まず京都のお寺など見られる様な、お客がお金を払って入る観光寺院と、もう一つ、私たちに切っても切れないお葬式です。御坊様といえば葬式、葬式といえばお坊様が必要不可欠の存在になっています。
まず人が死ねば枕経、葬式のお経、火葬場でのお経、お骨をあげに行った時のお経、お骨をあげてお寺へ帰ってきてからのお経、死後七日ごとに四十九日までのお経、むかわりのお経、そして、あくる年がまわってきて三年のお経、七年のお経と続きます。
「一人死んだらわしゃうれしい、七日七日に米五合、むかわり三年、また七年」と言われています。一人死ぬと次々とお布施が入るわけで、昔はお布施は米五合を供えたのですね。
四国へ行かせてもらった時、そこの主人はお坊さんとよくカラオケに行くそうです。そのお坊さんが、「どうも不作でいかん。もう少し○○でくれないかなあ」といつも言っているというのです。
○○でくれないと収入がないのです。お釈迦様の当時はこんな事は絶対になかったのです。お葬式に出家された方がお参りするという事は絶対にありません。お坊さんはお葬式とは全く関係がない存在だったのですね。
お釈迦様の死が近づいた時、側に仕えて世話された阿難さんが、「仏陀が亡くなられた後の亡骸はどのようにしたらいいでしょうか」と尋ねると、
「そんなものはそこらに放っておきなさい。肉体は在家の者が適当に処置するであろう。肉体にかまうよりも、しっかりと法を精進しなさい」とお釈迦様はおっしゃったのです。今お坊さんのする葬式というのを、当時は在家の方がしたのですね。それが仏教の原点だったのです。
今の仏教というと、お線香をあげて、難しいお経をあげるものと思っていますが、本当の仏教というのは、今は無いのです。形の変わったものが仏教だと思っているだけです。
高橋信次先生は、「仏教の原点を学びなさい」と言われました。学ばせて頂くと「なるほどそうか、お釈迦様がお説きなったものと今の仏教とはそれ程までに変わっているのか」という事がよく分かります。
キリスト教についても同じ事が言えますね。今はローマ法王の姿がキリスト教の偉い方だと信じていますが、イエス様はああいう豪華な姿をいつされたでしょうか。その生涯にあっても一回もそういう事はありませんでした。
一般の我々と全く変わらない同じ姿をされ、生活も同じようにふるまわれて多くの人を救われたのですね。あらゆる病を癒やされたと書かれています。
以前、山口で話をさせて頂いた時、お話のテープを起こしてそのプリントを沢山送って頂きました。それを熱心なクリスチャンのご夫婦が、ヨーロッパへ行く飛行機の中で読まれて、
「ああ聖書の中に書かれている事をそのまま話していられる、ひょっとしたら、イエス様が日本にお生まれになったのと違うだろうか、日本に帰ったら早速お訪ねしたい」と思われ、奥様が何をおいても、ここへ来てくれたのです。
ご主人の聖書を見せてもらうと、どのページも全部赤線が引いてある程、熱心に信仰なさっている方です。凄くハイカラな方でモダンなスタイルで来られましたが、私はランニングシャツとステテコ姿でいたのです。
「先生おられますか」と言われるので、「先生みたいなものはおりません」と言うと、「山口で講演された長尾弘先生です」。
そこで「それは私です」と言うと、びっくりなさっていました。立派な方が奥からしずしずとお出ましになられると思っておられたそうです。
その時の「ヘエー」と言って驚かれた顔が今も目の前に浮かぶようです。あまりびっくりなさって居たので、今のお話をさせて頂いたのです。
「あなた達が最も尊敬なさっているローマ法王の様な恰好を、イエス様はご存命中に一回でもなさったと思いますか。
弟子は先生のように生きるのが、弟子としての姿です。先生が着たこともない様な立派な衣を着るのは弟子の取るべき態度ではないはずです」
「それもそうですね」と、色々お話して、よく理解して頂いたのです。
二回目、三回目と来られた時、「主人も子供達もぜひ先生にお目にかからせて欲しいと言っています」とおっしゃるから「あなたが想像された様な立派な格好をした人間ではないと、ちゃんと伝えて下さいよ」とお願いしました。
「それは間違いない様に言うておきます」。次の時「どんな風に言うてくれましたか」と聞きますと、「お百姓のようなおじいちゃんが、いま肥(こえ)たごをおろして入ってきた様な人だと言っております」
「それなら間違いないでしょう」と言った事がありますが、キリスト教でも、イエス様がご苦労なさって、命懸けで人の命を救われた姿と、今の教会の奥におられる牧師さんとか神父さんとかは、とてもかけ離れた方が多いです。
イエス様の様な方は一人もおられませんと言えば怒られますが、そういう方は砂の中からダイヤモンドを探し出すほどしかおられません。お坊様も同じです。お釈迦様のように生きておられる方はごく稀で、殆どありません。
これは、長い時間の内に、人間の知識と思いが、時の権力者の欲望も入り混じって、正しい教えを間違ったものに変えてしまったのです。
ですから仏法を学ぶのであれば、その原点を学ぶ事であり、キリスト教を学ぶのであれば、イエス様がどのようにして生きられたのか、どのような事をおっしゃられたのか、それを求めて聖書のほんとうの意味を学ぶ事です。
イエス様が教えられた事は、表面の言葉としての意味と、文字の底に沈められている深い意味とがあります。分底の秘文といって、文の底に沈められている意味を学ばなくてはいけません。
例えば、「汝、人の血を我が内に受け入れることなかれ」と聖書に書かれています。「血」と書いてあって、「血液」とは書いてありません。
「血」とは、その人間が持っている癖、欠点、業(カルマ)のことです。
それを血液と間違えて受け取って輸血すれば助かるものを、教えに背くと自分の愛し子を殺してしまった方があるのですね。また、自ら輸血を否定して死んだ人の事も新聞に載っていました。
こんな事をして、本当の神様がお喜びになるでしょうか。誤った教えの為に我が子を死なせてしまった時、父なる神は絶対にお喜びにならないと思います。しかしこの事について、誤った信仰の方たちは「これは殉教である、素晴らしい行為である」と称えております。
愛し子の命を救うてこそ神は喜んで下さるはずなのに、可愛い我が子の命を奪って、一体誰が褒めてくれますか。教えによって、本当の真実が曲げられている事は沢山あります。
「心行」のお話は先月で終わっているのですが、日々の生活において、法を常に実践した時、神仏の光が頂け、迷いから抜け出る事が出来るという事を各自銘記して下さい。
「この教えは世の果てるまで変わることのない神理である」と、書いて頂いております。日々の生活の師として、何かあった時には読み返して、「そうだなあ」と噛み締めて下さい。
「反省しなさい」と書いてあるから反省してみようかと思って頂いた時には、守護霊さんがご協力ご指導して下さると書いてあります。
また、宇宙の存在とか、太陽系の存在についても、何回も何回も読ませて頂いたら分かり易く書いてあります。私も「心行」から学ばせて頂きました。常に日々の生活の中でこの「心行」をお師匠さんとして学んでいきたいと思っています。
正しい法とは、どれほど時代が変遷(へんせん)しても、人の心が変わっても、同じように変わることのないものです。この「心行」に説かれている神理はいかに時代を経ても、社会の環境が変化しても変わることのないという事です。ですから大事に学んでいきたいと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年7月23日
今日は真夏の厳しい暑さの中をこうして沢山の方に集うて頂きまして、誠に有難うございます。お互いに「心」について学べます事は、人間として生まれて最も尊い事でございます。私達の本質は心であり、肉体は仮のもので御座いまして、この世を去る時は置いていかねばならないものです。
数多くある宗教は、現世利益を主としております。お参りをして、病気を治して下さい、金持ちにして下さい、商売繁盛させて下さい、家の中が上手くいくようにして下さいといってお祈りをします。
こういうお祈りをさせるのが宗教ですが、これらは全部消え去るべきもので、あの世に帰る時に持って帰れないものに対しての欲望であり、本当の幸せに繋がりません。本当の幸せとは心の安らぎです。
心に安らぎがなければ、この世の生命が終わって見えない世界へ帰っていく時、心のあり方が分からないから、迷わざるをえません。
日頃から心を重くして自分の心を苦しめていますと、この世を去った時、必ずその続きの世界へ帰っていく事になります。この世で苦しめば、あの世へ行っても苦しみの世界が続くのです。
今の生活が心満たされたものであり、感謝の生活であり、またご奉仕によって他の方々を生かす愛の実践をしておりましたなら、「ああ良かったなあ」という思いを持ってあの世へ帰りますから、その思いと同じ世界へ帰っていくわけです。
「心」の勉強をしますと、だんだんと心が深くなり理解が深まっていき、過去は過ぎ去ったもので、絶対に戻らないという事がよく理解できます。
また未来はまだ来ておらないのですから、今の一瞬一瞬の心のあり方がいかに大事か、この一瞬の積み重ねが、未来の自分の姿である事もよく分かってきます。今の一瞬を自ら苦しめない様に生きる事が大切ではないかと思います。
「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」
私達の肉体が在らせて頂きますのは、ご先祖様があってこそで、ご先祖さまがなかったら私達の存在はありえないはずですね。自分の存在は、ご先祖様のお陰であるという事を忘れてはなりません。
ご先祖様を放ったらかしにしている方がよくあります。仏壇は締め切って、お供物をした事もなく、正しい教えを知らなければ、仏壇はあっても、その中に成仏できないお方が入っておられるという事も分からないでいます。
しかし正しい教えに触れますと、未成仏霊が間違い無しにおられるという事が分かります。お墓も同じ事ですね。
お墓の中にも、私達の肉の目では見る事ができませんが、間違いなく天上界の世界へ帰る事ができない先祖がおられるので
なぜこういう事がはっきり言えるかと言うと、お仏壇に私がお参りさせて頂きますと、阿弥陀様のお姿も、書いてある文字も読めないほど暗いお仏壇がありますが、その中に執着しておられるご先祖様にお話させてもらって成仏して頂きますと、お仏壇がたちまちにして光ってくるのです。
「何々家先祖代々の諸霊の皆様、このような仏壇の中におられますと、成仏ができません。私達は極楽に帰ってこそ本当の成仏ができるのです。
この仏壇の中は極楽の世界とは違いますから、この中におられては成仏できません。この仏壇から思いを離して下さい。仏壇の中や、お墓の中、愛しいお方に心を残しますと、必ずその場所に自分の心が残り、これは執着となって縛られます」と言って、お話させてももらうのです。
仏飯をお供えして、「ご先祖様どうぞ召し上がって下さい」と言ってはいけません。ご先祖様には感謝と喜びをお供えするのです。
ご先祖様にどうぞと言ってお供えしますと
「ここにおったら供え物をしてくれるから安心だなあ。朝晩供えてくれるし、お経もあげてくれる、この仏壇の中におれば、子孫は私達の事をよくしてくれるから安心だ。他へ行く必要はない」
といって、極楽へ行く事を忘れてしまうのです。そして仏壇の中へ居ついてしまわれますから仏壇は古くなると黒くなってきます。
「私の家は一生懸命お勤めをするから、ローソクの煤(すす)と、線香の煙とで真っ黒になっています」と、自慢をなさっていますが、それは、拝めば拝むほど執着を残させる事になるのです。
私がお参りさせて頂きますと、「先生、ローソクとお線香を焚かなくてもいいのですか」と、言われますから、「そんなものは関係ありません。立てたければ立てて下さい。しかし、そういうものは要らないのです」と言って、ご先祖の諸霊にお話させてもらうのです。
ご先祖様が成仏される前の暗いお仏壇と、成仏された後の輝いたお仏壇の写真がそちらに幾組か置かれてありますが、本当にたちまちにして光ってくるのです。
これは仏壇の中におられた方の霊を天上界の世界へ送らせて頂いたら、お仏壇の中が光ってくる様に出来ているのです。毎月、命日にお寺さんに参って頂いて、それがだんだん暗くなってくるのはおかしい事です。
成仏された後は、いくら黒くなっておりましても、古いお仏壇は古いなりに燦々と輝いてきます。
「まず執着を離して下さい。仏壇と極楽とは違う場所です」という事をお伝えするのです。極楽へ行かないと成仏できませんから、仏壇にいてはいけない事をお伝えしまして、
次に、行く先が分かりましても、心にお荷物を沢山背負っておりますと重くて上がれませんから、心の荷物を下ろす方法をお伝えしたらいいのですね。心の荷物は、何によって荷物になっているかをお話させてもらいます。
「心の荷物は、腹を立てること、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、不安、恐怖、取越苦労です。また過去の苦しみを話さないでいる事、貪欲、嘘、これらが心の荷物になっています。
この世に生活した時をよく振り返って、自分の過ちに気付けば、心素直にしてその一つ一つをまことの神にお詫びしなさい。その時、皆様の心は安らぎます。そして、あの天上の光の世界に救われる事が出来ます」
といって、反省させてあげたらいいのです。見えない世界の方に、自分の人生を振り返って反省して頂くのです。
「私達は心の教えを知らないために、自分の心を苦しめてきました。腹を立てましたし、人も恨みました。どうぞ許してください。あんな憎い人はないと思って憎しみを持った事もあります。どうぞ許してください」と、
一つ一つの反省、懺悔(ざんげ)、悔い改めをしていきますと、見ている内に諸霊の方の心の曇りが晴れていきます。そこで、
「神よ、光をお与え下さい。諸霊の皆さんは今、自らの反省に入っておられます。どうぞ神の光をお与え下さい。反省を正しく導いてあげて下さい」と言えばいいのです。
私達は、このように人間として生まれさせて頂きますと、必ず過ちを犯します。それは、過ちを犯す様に肉体を与えて頂いているのですから、過ちを犯していない人はこの世に一人もおられないのです。
見えない世界の方にお話させて頂きますが、肉体を持っている者も、すでにこの世を去った方も全く同じ事です。
見えない世界の霊の方に私は話しかけますが、これはこの世を去った霊だけでなく、その場にいる者も一緒に聞かなくてはいけないのです。
聞こえているのですから、その子孫の方も「私もそうであった、私にも過ちがあった」と、目覚めることです。
人間の習性といいますか、慣れるという事は恐ろしい事です。
かつて、昭和54年~56年頃は、迷える方が今生きている方の中に入って救いを求めてこられますと、その都度天上界へ送らせて頂きました。
最初の頃は、私の側におられる方も珍しいから、テープを持って用意してくれていました。
「なんと有り難いことだなあ、見えない世界の方が即、救われるとは、有り難い事だ」と最初は感激されて、涙を流して見ていた方が、一年、三年と経ちますと、私が一生懸命霊の方に諭していても、ワイワイそちらで喋っているのですね。
見えない世界の方に話しかけている時は、見える世界の方も一緒に、自分に言われていると思って聞けば救われるのです。見える方にそのように厳しい事を言いましたら、「あの人は生意気だ」と言ってきます。
見えない方にこそ、本当に私の権限をもて法を伝える事が出来ます。見えない世界からは怒ってきませんが、見える世界の方はすぐ怒ります。
こうして話をさせて頂く時と、見えない世界の方にお話させて頂く時とは、私は全く変わっているはずです。
光の天使は、「慈悲と愛の塊にして、あの世この世の諸霊を導かん、神より、この地上階の権限を委ねられしもの」と、「心行」に書いてあります。
すべての権限とは、財政界のトップに立ったりする事とは違って、心の世界における光の天使の権限をさしています。私達は心のあり方によって、どなた様でも光の天使になる事が出来ます。
元々お一人お一人は全部、光の天使としてこの地上に降りてこられたのですから、それに目覚める事です。愛を実践し、神様の御心を行った方は全部、光の天使になる事が出来るのです。
そして、地上の全ての人が、自分の行いによって神様の御心を示した時、この地上は仏国土、ユートピアの神の国が現れるはずです。
神様の御心を表すにはどうしたらいいか、それは今日まで何回もお話し、テープでも聞いて頂いています様に、「神様を知りたければ、あの太陽を見なさい」、お日様の御姿こそ、ほんとうの神様と思えばいいのですね。
そして、ほんとうの神様を知った時、私達はその真似をしたらいいのです。自分の生活の中で少しでも神様の真似をさせて頂いたらいいのです。お日様の様に自分を犠牲にして自分を燃え上がらせたらいいのです。
つまり、自分の肉体を使って、人様のために働かせてもらうのです。
「ああした、こうしたい」という時間をちょっと横に置いて、人様の喜びの為に肉体を動かす、これでいいのです。そして「あの人は好き、この人は嫌い」と言わないで、どの人も好きになることです。
嫌いな人を一人作りますと、一つ、二人嫌いな人を作りますと、二つ苦しいのです。世の中の人が皆好きになれば、神様の御心を行うことになります。
また、自分にとって都合の悪い事をされた時、「よくもやったな」と腹を立てて、一つの不都合に対して3つお返しをしてやろうかと思うのが私達ですが、これは絶対にしてはなりません。
お日様がなさらない事、つまり神様がなさらない事を、私達は決してしてはならないのです。ひとは自分の悪口陰口を言ってくれても、自分の持っているものを盗んだとしても、これを許させてもらい、責め裁かない事ですね。
イエス様は「自分が裁かれない為に、人を裁いてはならない」と、おっしゃっています。お日様が裁く事を一切なさらないのですから、私達も裁いてはなりません。またせめてはならないのです。
と言いましても、肉体を持っていますと、都合の悪い時にはむくむくと怒りが起きてきますが、この思いを早く捨て去る事です。そういう思いが起きて、「これはいけない」と思えば、早く捨てて、正常な心に切り替える事です。
しかし、私達は、自分の身に都合の悪い事がふりかかってきますと、心の曇りの中から悪魔が首を出してきます。悪魔(サタン)のままに実践しますと、それは自分の魂を悪魔に売り渡した事になります。
「ああこれはいけない、私はまだこんな未熟な人間である」と思って悪魔を追い払った時、正常を保つ事が出来ます。イエス様は「サタンよ去れ」と、おっしゃったのですね。サタンとは、心の中の悪魔です。
私達は油断をしますと、肉体のサタン(自我)がどこかに隙はないか、隙があれば襲ってやろうと狙っていますから、サタンにやられてしまいます。
サタンの正体は、自己保存と自我我欲です。これは私達の肉体の悪魔で、キリスト教では原罪といい、「人は罪の子である」と教えています。
しかし、人の内なる意識は神の子です。肉体が持っている意識が罪の子であり、この肉体の罪は、無理はないのです。自己保存、自我我欲から離れては生きていく事は出来ないように作られているからです。
自己保存しなければ破滅するから、保存するように作られています。ただ思いに心が翻弄されてしまいますと、罪の子として生きる事になります。
「自分を愛しなさい」と言いますと、「では、仕事をしないで寝ていよう」と言う人がありますが、これは、自分を傷めているのであり、サタンを愛している事です。
インドの言葉で、悪魔の事をマーラーといいます。日本に伝わりまして、男性のシンボルをマラといいます。
悪魔に注意しなさい、特に男性は大きなマーラーを持っていますから、その悪魔に翻弄されると色々な問題が起きるという事です。肉体の事をマーラーといい、己の肉体の中に潜んでいる悪魔、これが私達を誘惑してきます。
例えば何かしんどい事をしなくてはいけない時に、
「止めておけ、そんなしんどい事して何になるのか」と、誘いかけます。
私はいつも悪魔に狙われています。
「こんな暑い時に日本国中歩き回って何をしているのか、それよりもっとゆっくりして、少し楽にしたらどうか」と言って誘ってきます。
特に「ああしんどいなあ」と思う時は余計に誘いかけてきます。
隙を狙っているのですね。
その時、「いやいや、私はそれどころではないのだ、私がゆっくり遊ぶ事をせず、ある場所へ行けば、何十人、何百人の人が救われてくれるのだ。
私の様な者がいくのを多くの方が待って下さっている、楽をするよりも、こちらの方が大事だ」と思って、遊ぶ方を振り切るのですね。
ですからおよそ遊びという事をしません。若い時から、遊びを知りません。人様に少しでも喜んで頂くように生きたいと、これは若い時からの私の理想でございまして、二十歳ぐらいの時から人様のお役に立たせてもらい、少しでも喜んで頂けるような行いをしようと思って生きてきました。
それがいつの間にか、このように望む事なしに与えられているのですね。私から、どこそこへお話に行きたいとか、或いは人様の前でこの様にお話したいとかは、爪の先ほども思った事はありませんが、必要とあれば縁ができます。
ご縁が出来ますと招いて頂きます。これは「神様が私をその場所に呼んで頂いているのだから、何を置いても寄せて頂かなければいけない」と思います。
もちろん、私には求める心は何一つありません。電車賃がほしい、私の日当(にっとう)を出してほしいなどとは爪の垢ほど思った事はありません。
ただでさせて頂きたいと思うだけです。言葉の唯(ただ)と無料(ただ)を間違う人がよくあります。
「ただでさせて頂くのだったら、電車賃を出せ」と言う人があります。私は皆さんの電車賃を出すほど大金持ちではないのです。私は貰っていないから、電車賃を出せと言われてもどうする事もできません。
本当に心は人それぞれで、意味をどう受け取るかも人それぞれですが、人はどのように言っても構いません。
「ただただと言うのだったら、電車賃を出せ」と言う人は、神の御心を知らないのです。
神はただ与え給うのみ、私も、たださせて頂くのみです。それに対して、もし異議があるのならば、神様に文句を言って下さい。神様に電車賃を出せと言ってみなさい。神様は「ばかなことを」と言われます。
私に対して、もし背く様な批判、中傷をしますと、それは神様に対してしているのと同じ事になります。なぜかと言うと、私は神の御心を行っているからです。
その行いに対して、その言葉・神理に対して屁理屈をこねますと、それは神様の悪口を言っているのと同じ事になります。世の中にはそういう屁理屈を言うお方もおられるのです。
お一人お一人が、たださせて頂くようになった時、この地上界は理想の都です。この時大事な事は、どなたにさせて頂いたか、何をさせて頂いたかを即、心から捨ててしまう事です。
なぜ、そうしなければいけないかと言うと、すぐ捨ててしまえば相手に負担がかからないからです。負担がかからないから、相手の方も素直に喜んでくれるのです。
どれほど良い事をしましても、「私はあの人にこんな事をしてあげた」と言いますと、相手も恩着せがましく迷惑な思いがして「そんなに言うのなら、してくれなければいいのに」と、いう事になります。
これではいくら良い事をしても何にもなりません。善き行いが、悪しき行いに代わってしまいます。
たださせて頂き、その相手がどなたであったか、どういう事をさせて頂いたのかも、自分の心から即、捨ててしまいますと自分の心には、
「ああ良かったなあ」という喜びだけが残ります。喜びは最初の内は残りますが、これも慣れてきます。
こういう私達の日々の喜びが、先祖供養に繋がるのです。ご先祖様への供養とは、喜んで頂く事です。
ご先祖様にできなかった善き行為を、子孫の私達が行う事によって、「ああすばらしい子孫を与えて頂いて、私ができなかった事をしてくれる。なんと有り難いなあ」とご先祖様に喜んで頂く事ができます。
先祖供養で間違ってならない事は、巷(ちまた)の宗教で言うように、何代前の何兵衛さんが出てきたとか、熊やんの供養を一生懸命したけれども良くならない、それでその前の八兵衛さんが出てきたと、次から次に言って眠っている先祖様を起こす事です。これでは死ぬまでやっても、終わる事はありません。
私達のご先祖様の数は、わずか三十代測りましただけで、何十億という膨大な数になるのです。もう無限に多いのですから、そのお一人お一人を掘り起こしていたら私達が生きている間に終わる事はありません。
有り難い事は、まず私達救われる事です。私という存在は、何十億というご先祖様の癖、欠点、業(ごう)を背負っており、それらが集まったのが自分の姿ですから、沢山の悪い癖、欠点を持っているはずです。
無限のご先祖様の寄り集まった塊が自分であるならば、自分自身が救われ、成仏した時に、無限のご先祖様の業(カルマ)が解けるのです。
成仏は、生きながらに出来ます。
成仏は死んでするものとは違います。自分という存在が、ご先祖様の無限の諸々(もろもろ)の業(カルマ)の集まりであるならば、その集まったものが解ければ、ご先祖様が救われるわけですから、私達は自分が救われるという事がいかに大事であるかを知らねばなりません。
救われるという事は、苦しみがないという事です。
自分の苦しみとは、何回も言いますように、怒り、謗り、愚痴、貪欲、取り越し苦労、これらが苦しみの材料です。
そして、悟りといえば大変難しいようですが、お釈迦様は
「人の心から、怒り、愚痴、貪欲が壊滅した時、その心の状態をニルバーナーという」と言われました。
ニルバーナーとは、中国に伝わって「涅槃(ねはん)」と訳されましたが、その涅槃が悟りの心境です。
そこで問題なのは、悟りの心境をいかに持続していくかという事です。悟ったらもう怒りも愚痴も貪欲も出ない、と思ったらとんでもない間違いで、お釈迦様もイエス様も生きている限り、その思いは湧いてきたのです。
その湧いてきた思いをいかに早く捨てられたかが問題であってそれによって素晴らしいのです。その事は聖書の中にも、仏典の中にも書き残されています。
「悪魔物語」の中に、このように書かれています。ある時、お釈迦様が托鉢(たくはつ)に出かけられました。
鉢を持って、一軒一軒回ってその日頂く食事を鉢に入れてもらうのです。これは、日本の私達が知っている乞食さんとはちょっと違います。
同じ「乞食」といっても、人の家の表に立たれて、「私達の行いに価値ありと認めたならば、余食を鉢に投じ給え」と言って家々を回るのです。
余食を受けるのが礼儀作法ですね。
ある時、托鉢に回られたのですが、町は祭りでごった返しており、誰一人、お釈迦様の鉢に食べ物を入れてくれなかったのです。ただ鉢を持って貰い歩くのだから、楽なことだと思いますが、これはまことの真剣勝負の一つです。
価値あると認めてもらわなくては、鉢に食べ物は入れてもらえないのです。日本の乞食さんというのは、家の表に立って、「恵んで下さい」といって、食べ物をもらっていたのですが、あれとは意味が違います。
お釈迦様が一日足を棒にして回っても一粒の米さえももらえず、空っぽの鉢を持って精舎に帰ってこられた時、悪魔がささやきかけてきたのです。
「今一度町に行ってみよ。私がその鉢に食べ物を山と盛ってあげよう」。
すると、お釈迦様はこの様におっしゃいました。
「私は食にだけによって生きているのではない。私は喜びを食として生きよう」と。その時悪魔は、「仏陀は私を見通した」と言った、と書かれています。
この悪魔とは何かというと、いかに偉大なお釈迦様でも、一日中歩いて一粒のお米も貰えなかった時は「腹がへるなあ、困ったなあ」と思います。
この心が悪魔ですが、しかしそう思いになって当然です。そして、
「今なら祭りも終わっているから、もう一度家を回ったら、食べ物を入れてくれるかも知れないなあ」
という悪魔のささやきがお釈迦様の心の中に湧いてきたのですね。
その時、お釈迦様は
「今日は命懸けの托鉢をしたが何もなかった、私はするだけの事が出来て満足である。私はその喜びの方を取ろう」と思われて、自分の精舎へお帰りになったのです。誘いに来る悪魔とは、自分の肉体の持っている自己保存の欲望です。
悪魔といえば、口が裂け、角(つの)が生えた怖い生物だと思いますが、実は私達の自己保存、自我我欲こそが、私達を苦しみの中へ誘い込もうとするのであり、これが悪魔の正体です。
私達は常に自分の心を神の心に合わせて生活し、満ち足りた心を一瞬一瞬を過ごすよう努めねばなりません。この事が、先祖供養に繋がります。感謝と安らぎと調和に満たされた心境になれた時、ご先祖様に話しかけて下さい。
「ご先祖様、お陰様で私は人にこんなに喜んでもらっています。とても幸せでございます。もし暗い世界におられるご先祖様がございましたら、私の様に幸せでしたでしょうか」と尋ねてみて下さい。
そうしますと「幸せではなかった、あなたのようには生きなかった」と、おっしゃいます。これは具体的に生きる姿を見せるのですから、すぐ気付いて下さいます。私の様に幸せでしたかと言われたら、幸せだったと言えないですね。
これとは逆に、毎日喧嘩をして腹を立てていて、お仏壇の前だけで「ご先祖様‥‥」と言いますと、「何を抜かすか」と言って、お灸を据えられます。
ご仏壇にはどれほどもものを供えても、ご先祖様に食べて頂く事は出来ませんし、どれほどお経を唱えても、お経の意味を理解される事はありません。
お経の意味が理解できる様な方は迷っておられません。理解できないから迷っておられるのです。理解できない方にお経を百万回あげても成仏は出来ないのです。戒名も同じ事です。
お坊様がおられましたら商売の邪魔をしてごめんなさい。戒名、院号をつけると、お寺にとって何百万円の収入になります。
「大院殿居士」とつけると三百万円から入るのですね。何々院だけでも何十万円です。あんなものはいくらつけても、これは後に残った者がいかにいい格好をするだけの事で、儲けはお寺さんのものです。
「いくら上級の戒名をつけても何の意味もない」と、あの世から出てきたお方がおっしゃっています。戒名というのは、それを商売をするお寺さんが生活する為に出来た制度です。
元来はお釈迦様の当時、生きている時にお釈迦様の弟子になる為に反省を重ねて。過去の自分を捨てる意味において、名前を変えて付けたのが戒名です。
名前を変えて弟子になったのであり、死んで戒名をつけるものではなかったのです。こんな話がお寺さんの耳に入ると叱られますが、これは真理ですから避ける事はできません。
偉いお坊さんで本当に力のある方は、あの世の人に聞いてみて下さい。同じ答を霊の方は言われます。
「戒名は何にもならない。いくら供物をしてくれても食べられない」と。
間違った宗教教育によって私達は思想を作っていき、そのように思ってしまいますそして、間違った習慣をつくった環境において私達は人格を形成していきます。間違ったものでも正しいと錯覚して、人生を過ごすのです。
正しい法は「本当の神理とはこのようなものである」と説くものです。この様に生きなくてないけない、良い言葉を使わなくてはいけないと説きます。
言葉はやさしく分かりやすく、相手の方が喜んでくれるように理解できる様に語る事ですね。これが正しい法の日々の実践かと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年9月24日
「肉体先祖に報恩供養を忘れず」
今、自分が存在するのは、無限のご先祖様から代々受け継いて頂いたからです。そうして初めてこの世に自分が在らせて頂きます。ご先祖の無い方は一人もありません。無限の数のご先祖様の縁生(えんしょう)を頂きまして、今の自分が与えられています。
有り難い事に、無限のご先祖様を寄せ集め凝縮させたものが自分であるならば、自分自身が悪い癖、欠点を修正して、自分が救われた時には、ご先祖様も救われるのです。
自分の塊(かたまり)がとけた時同時に先祖代々の悪い癖、欠点を自分が解かせて頂く事が出来るのです。
これはご先祖様に対するご恩返し、報恩になりますね。
「供養の心を忘れず」とは、人としてなすべき事で、忘れてはいけません。
高橋信次先生にご縁を頂いた方が、早とちりなさって、「もう仏壇入りません。お墓もいりません」と言って、仏壇を閉じてしまったり、中には壊してしまった人もあったそうです。
神はただお一人、この全宇宙の中にただおひと柱ですから、色々な神を祀る事は要りませんが、ご先祖様はそんな訳にはいきません。
昭和五十三年当時の事です。ある所で、息子さんがノイローゼになって困っておられたお宅へ寄らせて頂きますと、仏壇が締め切ってあるのです。
「高橋信次先生の教えを学んでから、もう仏壇は要らないので、締め切ったままにしています」と、おっしゃっていました。先生はそういう事はおっしゃっておられなかったはずです。
「心行」にも「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」と、ちゃんと書いて頂いているのに、仏壇を閉じたり、ないがしろにしたりしてはいけません。「心行」を真に理解しますと、そういう事は出来ないですね。そこで、仏壇の扉を開けて、よくお詫びしますと、息子さんのノイローゼはいっぺんに治りました。
仏壇の中には、本当に不思議な事が起きます。成仏されていないご先祖様がおられて、仏壇の中が自分の住む場所であると思っておられます。無礼な事をした時とか不遜な事をしました時には、必ず良くない事が起きます。
あるおばあちゃんが、いわゆる老人痴呆症で、ひっきりなしに自分が幼い頃のお父さんお母さんの事をおっしゃるそうです。そして「家に帰ってくる」と、常に言われるので、息子さんのお嫁さんになる奥さんが、そのおばあちゃんのお里へ行かれて、「お仏壇の前でこのテープをかけさせて下さい」
と言って、私の救霊のテープをかけて頂いたそうです。そうしますと、おばあちゃんがいっぺんに里の家の事を言わなくなったのですね。
もうずっと幼い頃の故郷(ふるさと)の事を言い続けておられたのがいっぺんに止まったとおっしゃっていました。これはやはりそのお仏壇の中におばあちゃんの心をひく何かの作用があったのです。それが消えたのですね。
なぜこういう事が起きるかと言うと、肉体を去った目に見えない私達の先祖が、現実に確かにおられるという事ですね。仏壇の中にご先祖様の霊が留まっている限り、成仏は出来ないのです。
「仏壇から思いを離して下さい。そして自分が生きていた間の事をよく反省してみなさい」とお話させて頂きますと、見えない世界のお方でも、いえば通じますから、天上界へ上がっていかれます。
素晴らしいリズムのある声で「ホー」と言いますと、声の響きに乗って天上界へ上がっていかれます。すると真っ黒だったお仏壇の曇りが晴れて、新品の様にピカピカになるのが、私達のこの肉眼でもはっきりと確認できます。
どなたにでも、「ああ、なるほど」と、分かります。見えない世界の霊が、言霊によって悟っていかれて、その霊を天上の世界へと送らせて頂いた時に、仏壇が新品同様にピカピカになります。
これは理屈では割り切れませんが、仏壇の中におられた方が救われてくれたというはきりとした証(あかし)であると、私は思っております。
「法」には、そのような力が秘められております。どなたにでも出来る事ですが、実践がない場合にはちょっとむずかしいですから、私のテープを仏壇の前でかけて頂きましたら、私が直接お参りしたのと同じ効果が出ます。
九州の方も、富山の方も、東北の方も仏壇の前でずっとテープをかけていたら、いつの間にか仏壇が光ってきて、新品の様になりましたとご報告を頂きました。
テープの声は、機械によって再生されたものですけど、本当の正しい言霊であれば、テープであっても、私の代わりをしてくれます。
講演会の時のテープをかけるだけで、病気が治ったりするのは、言霊によって心が癒やされるからだと思います。心が癒やされますと、主従関係の従に当たる肉体も癒やされてきます。
本当に不思議だなあと思ったのは、ドイツに行きまして、私は日本語しか知りませんし、言葉は通じないのですが、日本語で、「治りなさい」と言うと、治るのです。
「おなかは小さくなりなさい」と言えば、大きいお腹がすーっとへこむのですね。向こうの方はびっくりなさいまして、「生き神様だ」「ゴッドだ」とおっしゃっていました。
私は神様ではありませんが、言葉を超えた何かがあるのではないかと、学ばせて頂きました。
この見えない世界の、特にご先祖様に常に感謝させて頂き、常に良き世界へ帰って下さいと供養する心を忘れない事、これが大事かと思います。
「両親に対しては 孝養を尽くすべし」
私達は、お父さんお母さんのご縁を頂かなかったら、この世の存在は許されませんが、両親は生まれた時からずっと側にいて下さり、あまりにも親しすぎて、親の有り難さが認識できないのです。
親というものは、自分を捨ててでも子を守ろうとし、自分は食べなくても子に食べさせようとし、自己を犠牲にしても子を育てようとして下さいます。これこそ「神の心」です。
「あなたの両親は、神様が私たちに与えて下さったお父さん、お母さんですから、その父と母を敬い、尊び、父母の言葉に従う事は、神を敬い、尊び、神の言葉に従う事だ」と、神様はおっしゃるそうです。
「両親に対して孝養を尽くすべし」とは、両親の言葉に従ったら良いという事です。親に逆らう事は、神に逆らうという事になりますから、それはうまくいきません。常に両親は神様であると思わせて頂いたらいいのですね。
私が反省させて頂き、幼い頃の事を思い出しました時、三歳以前の私にとってお父さんは男の神様、お母さんは女の神様でした。
これは皆さんもそうです。反省して三歳頃まで遡(さかのぼ)りますと、みな分かりますが、幼い心でそれを知っています。
だんだん成長してきますと、自我が働き、親の言う事を聞かなくなります。親に背いて幸せになった人には、あまりお目にかかれません。
ある時期は幸せの様に見えても、必ず心や環境に苦しみを味わっておられるのは、神様に背いてきたからです。
たとえ親が「カラスは白い」と、黒いものを白いと言っても、「ああ白いですねえ」と、子は受けるべきです。無茶苦茶を言っている親を子が受け入れた時、親は必ず反省して下さいます。親に背くから親子の喧嘩が起きます。
両親は神様だと思わせて頂いたら、間違いないと思います。「ああ、そうですか」と、受け入れた時に親は改めてくれますから、親の値打ちを上げるのも、とことん下げるのも子供達の想念、行為、生き方の中にあります。
高橋信次先生についても同じ事が言えますね。やはり師を称え、値打ちを上げる様に弟子は行うべきだと思います。
親に喜んでもらう様に生きた時、親は大変嬉しく、「親ばか」という言葉が昔からありますが、もう自分の事の様に喜んでくれますね。
何をするにつけても、親が喜んでくれ、その喜びがより大きい方を取っていきますと、人生は間違いなく進む事が出来ます。長い人生の間には、右から左と迷う時が必ずあります。その時に、親の喜ぶ道を選ぶという羅針盤を持っていない方は、人を頼ります。
つまり拝み屋さんに見てもらったり、自分の信じている人に頼ったり、宗教に頼っていくのですね。何もそんなものに頼らなくても、両親の喜んで下さる道を進めば間違いはありませんし、不幸に陥る事はありません。
何故かと言いますと、父母は常にこの幸せを思って下さり、その後ろには神があられるからです。
私の亡くなった父親は「八人の子の中で弘の所に来た時が1番心が安らぐ」と、よく言ってくれたものです。それは何回同じ事を話しても、耳にたこが出来るほど聞き飽きた話でも、今初めて聞くような顔をして聞かせてもらって、そのまま受け入れたから、お父さんにしたら居やすかったのですね。
何回でも聞いてもらえるから、心が休まるのです。何回同じ事を聞いても損はしませんから、逆らわない様にさせてもらうと、親にすごく喜んでもらえます。朝までしゃべってくれて、私は寝ながら「さようか」と、聞かせてもらった事がありました。
「そうですか」と受けるはずのおばあちゃん(母)が、私に「よう、あれほど話し合ったものだ」と言いましたが、まあ、親に対してはそのぐらいにしておけば、間違いないと思います。
親の言う事には、無茶な事でも従順になって下さい。その時、親は、「私は無理な事を言ったのに子はそれを受け入れてくれた、これは正さなくてはいけない」といって即、改めて下さいます。
「心身を調和し 常に健全な生活をし 平和な環境を造るべし」
これは日々の生活で、まずご先祖様を大事にし、報恩供養の心を忘れず、両親に対しては孝養を尽くし、自分の肉体を常に調和して健全な生活をし、平和な環境を造っていかねばならないという事です。
自分の心、体が病んでいますと、幸せにはなれませんから、まず自分自身を調和する事ですね。そのためには自分の心を苦しめない事です。
この「心を苦しめる」という事に、案外他の宗教指導者の方は気付いていないようです。私もこれを理解させて頂くのに、「一体、自分を調和するにはどうすれば良いのか」と、徹底的に疑問追求しました。
そして自分の心を苦しめては調和出来るはずがないと分かりまして、心を苦しめない努力を始めました。言い換えると自分を愛するです。愛するとは、仕事もしないで毎日遊んで暮らす実践ではありません。
怒り、妬み、謗り、愚痴などを、自分の心の中に持たない事が、自分を愛する事であり、自己を大事にする事です。これに気づかせて頂くのに長い時間がかかりましたが、これだけ掴めば、これを実践させて頂いたらいいのですね。
そして間違いの少ない善き行いを積む健全な生活をし、平和な環境を造れば、もう幸せいなれるのです。「心行」には、僅か三行の間に、幸せになる方法をちゃんと書いて頂いております。
「肉体保存のエネルギー源は 万生を含め 動物・植物・
鉱物なり このエネルギー源に感謝の心を忘れず」
生きていく限り、肉体を保存しなくてはいけません。そのためにはあらゆる動物の命、つまり、お肉とかお魚とか生き物の命を頂きます。更に植物の命を頂き、水などの鉱物を頂いて、そのお陰で生きさせて頂いているのですね。
ですから常にこのエネルギー源に感謝の心を忘れてはならないのです。
ところがあって当たり前と思う中から、感謝の心を忘れていきます。常に「もし無かったら」と思って感謝を忘れなければ、自分の心が喜びに満たされます。ですから感謝したら得です。
「私はこんな辛い環境の中で、何も喜べません」とおっしゃる方がありますが、お日様の熱、光に感謝しなさい、空気中の酸素に感謝しなさい、水に感謝してみなさい、喜びはいっぱい与えられます。
そうしますと、今の苦しい環境はだんだんと消えていきます。
金や物は沢山持っていましても火事に遭えばなくなります。しかし心の喜びはどんな事があっても誰も盗む事は出来ません。お金を大事にして箪笥の奥にしまっているとしたら、お金の使命を私達が果たせない状態にしているのです。
お金は生きものですから、箪笥の中で泣いています。どんどん使わなくてはいけません。しかし自分の贅沢の為に使いますと、これはお金に侮辱を与えた事になり、ひどい目に遭わせた事になります。
お金にも意識がありますから、無駄遣いをしてお金に悲しい思いを与えない様にしなくてはいけません。贅沢なご馳走を食べるのは、死に金を使う事でそのお金は再び返ってきません。お金は生きて使った時に必ず返ってきます。
ここに十万円のお金があるとして「はい、どうぞ」と差し上げたら、お金は手許からなくなって、ひどく損した様に思いますが、出ていったらまた入ってくるのです。その事をよく知っていましたから、私は若い頃から出すのは思い切りよく出していました。
ちょうど弟が大学へ行って一年経った頃、今行っている大学よりも京都の方に良い先生がおられるから、そちらに替わりたいと言ったのです。
昭和二十年代で、お金が五万円ほどいると言うのです。私の給料が六千円の時です。その当時にしたら大金ですね。それまではずっと働いて貰ったお金を、封も切らずに親元へ送っていたのですね。そのお金で姉たちの結婚の道具を買って頂いたそうです。
「弘からお金を入れてもらうと全部使ってしまうから、これからは自分で管理しなさい。働いたお金は、自分で貯めるようにしてくれ」と、親から言われたのでそれ以後は家に送らず、自分で預金をしだしたのです。
六千円の給料で、やっと十万円出来た時に、弟が相談に来まして、「実家の兄に言うとそんな金はないと相手にしてくれないので、兄ちゃん、何とかしてくれないか」と言いますから、
「よしよし、十万円出来たから、これをみなあげよう」と言って、六千円の給料の中からお小遣いの千円をあげて、毎月五千円ずつ貯金したのが十万円ほど貯まっていたので、弟は五万円でいいと言ったのですが、十万円あげたのです。
全財産がなくなった時、スカーッとした寂しさと、良かったなあという喜びとがありました。「私は学校へよう行かなかったから、私の代わりにしっかり勉強してくれよ」と言って、もう一銭も残さず全部弟にやったのです。
ちょっぴりさびしいですが、心が豊かになりますね。まあ二十歳そこそこの若い時から、そういう体験をしております。とにかくあれば全部やってしまいますが、また入ってくるのです。
出せば入るという事を二十歳の頃から知っておりましたから、常に出させて頂く様にしていました。いくら出させて頂いても、食べるのには困りません。どこからか与えられます。そのように生きれば、神様が与えて下さるのです。
世の中には出すのは大嫌い、ポケットのゴミを出すのも、舌を出すのも惜しいというドケチの代表の様な方があります。これが肉体を頂いた人間の姿ですね。肉体の欲に翻弄されているから、そういう事になるのです。
翻弄される度合いが大きい人ほどお出すのは嫌い、貰うのは大好きです。逆に肉体の求めよりも内なる心の強い人程貰うのは嫌い、出すのは好きで、
「そういうお気遣いはしないで下さい。もう持ってこないようにして下さい」と言いましたら、今まで以上に持ってきて下さる様になります。
「私の所に下さい」と言えば、誰もくれません。昔から「くれ、くれ坊主にやりともない」という言葉がありまして、くれと言うと、やりたくなくなるし、もう結構でございます、これ以上ご迷惑かけたらいけませんと言うと、これはもっとあげなくてはいけないという事になるのです。
人様とのお付き合いは飽きられない様にするためには、なるだけご迷惑を掛けないように、人様に負担をかけないようにする事です。そうしますと、長いお付き合いが出来ます。
厚かましい人がありますね。法事などがありましたら、自分はもう吐くほど飲んで、食べた上に、さらに残ったご馳走を紙に包んで持って帰るのですが、ああいうのは本当に嫌なものです。しかし現実におられます。
私の母親は、「大きくなったら、ああいう真似だけはしないでおくれ」と、私たちに躾けてくれました。みっともないからああいう卑しい事はしないでくれと言われた記憶があります。
まあ嫌な人だと思いますけど、これは私にとって尊いお師匠さんです。私達に、そんな事はしてはいけないと、お母さんを通して身を以て教えて頂いた先生ですね。
自分以外の人はどんなお方でも、自分に教えて下さるお師匠さんだと思って、悪い面を見た時には、このようにしてはいけないと思い、
良い面を見せて頂いたら、少しでも近づかせて頂こう、少しでも真似をさせて頂こうと努力すべきです。私の所へ来て下さるお一人お一人がお師匠様であり、私もその中で学ばせて頂きます。
万生を含め、動物も植物も鉱物も私達を生きさせてくれているもの、つまりエネルギーとして与えられたものですから、常に感謝の心を忘れてはなりません。食事を頂きます時に、お茶碗に盛られたご飯の一粒一粒の命を頂く有り難さを静かに思ってみて下さい。
有り難いもったいない気持ちで涙が止めどなく流れます。有り難いなあと思える喜びは、自分の喜びです。
何を見ても涙が出るほど、有り難いなあという感謝の念に包まれた時、私達は必ず幸せであり、これは自分自身が喜びを掴む一つの方法でもあるのです。
「日々の生活の中において 己の魂を修行すべし」
日々の生活でしか、魂を修行をする事はできません。寝ている間に魂の修行は出来ないのですから、よく夢の事ばかり言う人があり、
「夢の中に高橋信次先生が出てきました」「お大師様が夢の中に出てきてこんな事を言いました」とおっしゃいますが、これはあくまでも寝ていた時の出来事です。
「心行」の中に、夢の中で日々の生活の修行をすべしとは書いてありません。私達は起きている日々の生活の中で魂の修行をしております。日々の生活の中で愛の実践をして頂きたいのです。
昨夜9時ごろ、アメリカンフットボールをして、鎖骨を骨折された大学生の方が、大きな三角巾で腕を吊り下げてお見えになりました。
皆さんとお話していましたが、ちょっと待ってもらって、「骨はくっつきなさい、あなたは折れてはいけません、元の位置に帰りなさい」と、光を入れて祈りますと、腕を吊っていた三角巾を取っても、
「あれ、もう痛いことありません」と言って、治ってしまったのです。
その後レントゲンで見ると完全に元通りになっていたそうです。あれはマッサージとは違います。手も触れずに治る愛の祈りです。治るまでに二、三分もかかっていないですね。あっという間の出来事です。
これは神様の癒やしであり、愛の祈りによて、神が働き給うた出来事です。来られた方は痛くて痛くて片手で支えなくてはいられないし、服を着るどころではありません。上からジャンパーをかけて来られたのですが、帰りには知らない間に服を着て帰らえたのです。
昨夜は沢山の皆さんと一緒に髪の癒やしを見せて頂きました。信じられない出来事でしたけど、こういう事は今までにも沢山ありました。
複雑骨折を起して、元に戻すのは不可能と言われた膝の骨折が、祈りによって手術もしないで、今、完全に元通りの正常な骨に戻っているという方もおられます。また3つに折れてバラバラになった仙骨が、たちまちにしてくっついて、レントゲンで撮ると、何の傷もないという方もありました。
それは全部神の御業(みわざ)です。肉体を頂いた私達が、愛を実践しました時、神がその御業をなし給います。
愛の実践ほど強いものはありません。日々の生活の中で魂の修行をし、愛の実践をして頂きたいと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年10月29日
「己の心・意識のエネルギー源は調和の取れた生活のなかに
神仏より与えられることを悟るべし」
私達の肉体保存のエネルギーは、食物によって与えられますが、では心のエネルギーはどこから頂くのかというと、それは調和の取れた生活をした時神仏より与えられます。
日々の生活が不調和でしたら、心のエネルギーを頂く事はできません。生活が不調和とは常に、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、取り越し苦労、不安、恐怖、人の悪口、貪欲、或いは足ることを知らない欲望、このような思いに心が捉われ心を苦しめる事によって調和を欠いてしまう事です。
私達はこの教えにご縁を頂きますまでは、平気で自分の心を苦しめてきました。そして日々の生活を不調和にしていたのです。
このように聞きますと、ごく簡単でございます。この簡単な教えを私達は日々の生活において、一つでも二つでもいいから、行う事です。
ただ実践と聞きますと、何か行動を起こす事だと思いますが、高橋信次先生にご縁を頂きまして、心の面での反省という実践が大事である事を教えて頂きました。
私の場合、行動の面では、よくお話しておりますトイレのスリッパを揃える事から始め、心の面では腹を立てない様にしようと、毎日の生活の中でこの実践に努力しました。
そして怒り、妬みという十項目余りが、努力によって自分の心から消えていった時、調和されて心が安らかになっていきます。そうなりますと、別に神様にお願いしなくとも、心にエネルギーが注がれます。逆に怒り、妬みの思いを持つと、心のエネルギーが消耗され失われていきます。
「私も心が安らかになった、これなら心を苦しめる事はもうない」と日頃は思っておりましても、何かの縁に触れた時に、たちまちにして自分の持っている悪い癖、欠点がむくむくと頭をもたげてきます。
しかし、欠点が出てきても肉体を持っておればこそで、これは致し方のない事です。ただその時、いかに早く捉われの思いを捨てるかが、私達の修行であります。
高知から出来て頂いているおばあちゃんは、ある信仰をなさっていて、ご縁の信者さんが沢山あるそうです。しかし信者さんの事で色々と心を苦しめ、このまま死んだら地獄へ行くかもしれないから、何とか地獄へ落ちない方法を教えて下さいとの事で、お話させてもらていたのです。
その宗教では、前世の因縁によって、あなたは今こうしてこういう苦しみを受けているとか、過去世のカルマによって今この様な裁きを受けているのかという「前世論」という教えを説いています。
しかし前世論では人は救われません。私達は前世で何をしたのか今の自分には分からないです。どれほど前世で悪いことをしたのか、善いことをしたのか私達自身、分かりません。
その分からないものによって、今生が苦しいのだとしたら、苦しむ方があまりにも可哀想です。苦しんでいる方を諦めさせるしかない事になります。
前世のカルマというのは、私達が何世でも過ちを犯しますと、その過ちの世界へ必ず落ちます。そして長い間、この世的三次元的にいいますと地獄という刑務所の様な所に居るわけです。
そこで何年も何年も罪の償いとして苦しみを受けます。長い時間が経ってのち、自然治癒力、自然浄化作用という神の愛を受けて、自然に浄化されて天上界へいったん帰ってから、また両親の縁を頂いてこの地上に生まれてきます。
前世で失敗した方は、再び失敗は繰り返したくない、何とかあの時の失敗を修正しようと、この世の厳しい環境に生まれてきます。
この世で善い行いをして心安らかに徳を積んだ方は、亡くなりますと天上界へ帰ります。そしてまたこの地上に生まれてきます。地上での修行が終われば、そのまま天上界に直行してこそ、本当の浄化が出来るのです。
五百年、千年、もっと長い間、暗闇の世界で苦しむ方がありますが、いつか時が経てば必ず天上界に帰りますから、前世の因縁というのは、それほど大きくはうけないはずです。
もちろん因縁を少しは持ってこの世に出てきます。そしてこの世に生まれてから、その上にさらに過ちを積んでいき、苦しみを作っていきます。
素晴らしい天上界の世界から、私達は魂の修行に生まれさせて頂き、修行が終わればまた、あの光の世界に帰らなければならない事を常に信ずる事ですね。絶対なる信心を持つことですね。
まあ死んだ後の事は皆あまり分かりません。しかし亡くなった時のあの安らかな姿、硬直も起きず、今お化粧をした様な綺麗なお顔で、生きている時よりも素晴らしい姿となってこの世を去られた時は、確かに光の世界というのはあるのだなあという事が分かります。
私達の仲間の方、或いは直接私にご縁が得なかった方でも、私のテープを聞いたり、「名来闇去」の名刺とか光を入れたハンカチなどを与えてもらうだけで、その方々が極楽往生をなさったという報告を沢山聞いております。
私達の魂のふるさとを心に描いで下さい。今、目を閉じて、私達がこの世に生まれる前に住んでいた、調和されていて光に満たされた緑したたる素晴らしい世界に帰りたいと思います。
そのふるさとへ上手く旅立ったか、そうではないかは、死んだ時の姿によって分かります。もし不幸にして死後の体が硬くなっておられたり、冷たくなっておられたり、気の毒ですが天上界にはかえっておられないという事がはっきりと分かります。
先日、ある方がお礼に見えました。
「母が亡くなってドライアイスをいっぱい入れました。普通なら冷たくなって当たり前ですが、それが全く冷たくなっていませんでした。またその顔の美しさは言葉では表現できませんでした」と。
ドライアイス漬けにしてあっても温かいという信じられない様な現象を、成仏された形として見せて頂けるのです。正しい法とは、学ぶことによってそのような功徳(くどく)を頂く事ができます。
昔から、「金儲けと死病(しにやまい)とはおろそかにできない」といいます。金儲けは辛いもので、苦労しなくては出来ないものですし、死ぬのもちょっと苦労しなくても死ねません。これだ大体の相場らしいですね。
しかし、この法にご縁を頂いて、常に自分の心を苦しめない様にして、もし苦しむ様な事が起きても一瞬の内にこれを捨て去る努力をする事によって安定した心の状態で生活し、常に感謝と平安に心を満たしておりましたら、俗に言われるような死病もそれほど苦しむ事はないと思います。
その証拠に、悟られた偉大なお方は、坐ったまま極楽往生をなさっておられます。こうしてお話をしながらすーっとこの世を去られる方もあるそうです。そういうお方は、心に苦しみが少なかったと思いますね。
私達が忘れていた心の持ち方について高橋信次先生は「心行」に書き残して下さいました。本当に小さな冊子ですけれども偉大な光が秘められており、この世を卒業された方に読んで聞かせてあげますと、その方が救われる場合が多いです。
こんなものを読んだだけで大丈夫かなという思いでは駄目です。心から信じて、今、姿を見る事は出来なくても必ず救われるという強い信念をもって読んであげて下さい。必ず現証を見せて頂けます。
肉の目では見る事はできませんが、心の目をもって見ますと、ものすごい光が出ているそうで、その光をご覧になった方は何人もおられます。
また私の「愚か者の独り言」も、置いてあればものすごい光が出ているそうです。何が光っているのかと思って側に行きますと、あの本が光っていたという報告を沢山頂いております。「歌集」も同じことですね。
手に持てば自分の本の宣伝をしておりますと笑われますが、本当の正しい真理であれば、それは当然の事です。
心を苦しめ自分を不調和にしておりますと、心のエネルギーを失い、消耗していきます。その上、神仏から与えられないのですから、だんだんと肉体の支配者がエネルギー不足になって、いくら美味しいものを口に頂いても身につきません。
家庭の中では「ああ、有り難いなあ」と、心満たされて、家族の皆が心配する事もなく、仲良く暮らす事です。高橋信次先生はよくおっしゃいました。
「家庭の中に、ハ、ハハ、ホ、ホホといって笑いの絶えない様な、そういう環境を作りなさい」と。これが調和の取れた日々の生活のはずです。
家の中で揉め事や争いごとがあっては、絶対に幸せにはなれません。一番安らぐ場所である家庭に安らぎがなかったら、幸せになる道理はありません。
また、満たされた環境を頂いておりながら愚痴や不足ばかり言っておられる方もあります。あまりにも結構すぎて、それが当たり前だと思ってしまうのですね。
私達が最も注意しなくてはいけないのは、「当たり前と思ってはならない」ということです。当たり前と思うと、感謝を失っていきます。
調和の取れた生活の日々の生活であるためには「3つの幸せの根源」といえるものがあります。
一,健康
二,足ることを知った経済の力
三,心の安らぎ
つまり肉体の調和と、調和した経済と、心の調和です。この中のどれが欠けても本当の幸せは掴めません。これらが調和された時は心が穏やかですからエネルギーが失われる事もありません。
神仏からは心のエネルギーが与えられ、心が安らかで何の心配事もなく、腹を立てる事もなく、恨む人もいない、憎む人もいない、こういう時はとても楽に生きられます。
その楽な状態にあるから心に活力があり、また次の喜びを得て、この喜びを人様に頒(わか)かたなくてはいけない、お伝えしなくてはいけないという気持ちも湧いてくるはずです。それにはまず自分自身が救われる事が先決です。
「己の肉体が苦しめば 心脳乱し わが身楽なれば 情欲に愛着す
苦楽はともに正法(しょうどう)成就の根本に非(あら)ず」
私達の肉体が苦しめば心は乱れます。痛いところがあると、ああ痛い、苦しいと、肉体の支配者である心が乱れます。肉体の健康は、幸せに欠くことはできません。
また、あまり肉体が楽で、美味しい物を食べ、時間もある、お金もあるちおう場合は、まともな事を考えないものです。情欲にとらわれたりします。
ところがそのような苦しみや快楽は、正道成就の根本ではないのです。お釈迦様は両親、妃、子供、お城のすべてを捨てて出家され、厳しい肉体行をお求めになりました。
お城の中では栄蘭栄華を極めた思いのままの生活をなさり、これは「楽」に相当しますが、その中で心を悟る事はできませんでした。
何とか心を悟らなくてはと、道をお求めになり、厳しい肉体行の先生について修行されましたがやはり悟る事はできなくて、今度はご自分で厳しい肉体の行をなさったのです。
飲むのも食べるものを何日も断ったり、焼け付くような岩の上で何日も耐える修行をなさったのです。それほどの苦行を通しても自分を悟る事はできなかったのですね。これは、肉体を苦しめては心が乱れるという事です。
例えば氷を割った中に漬かってお経をあげていましても、冷たいという感覚があり、肉体が痛みますから悟る事は出来ないのです。また護摩といって火を焚いて汗を流してエイヤーとやっていますが、火の側へ行けば熱いのは当たり前で、「ああ熱い」と思っていては心が乱れて悟れません。
あまり楽な生活に走ってもいけないし、またあまり肉体を厳しく痛めても、正しい道を成就できないと、お釈迦様ご自身の事を言っておられます。
お釈迦様は今まさに自分の命の灯(ひ)が消えようとしていた時に、川上の方から聞こえてきた少女の歌声によって「調和・中道」という事を悟られたのですが、日頃から聞いておられた民謡の今まで気付かなかった意味を、「なるほど」と悟られたのですね。
お城での栄蘭栄華の生活は、歌の言葉でいえば弦がゆる過ぎたのであり、今の苦行の状態はあまりにも弦を強く締めていたために、命の切れる寸前まで来ていたのだとお悟りになって、一切の苦行を放棄されました。
快楽も苦行も共に捨ててしまわれて、あの菩提樹の元に吉祥草を刈ってきて、それを厚く敷いて心地よい場所を作られ、ご自分のうまれて以来今日までの反省に入られたのです。
反省・禅定に入られた時、色々と悪魔が攻め襲ってきた。仏典には書かれています。悪魔は外部から襲ってきたのではなく、自分の心の中から湧き上がってくるのです。静かに反省していると、国に置いてきた妃の事が思い浮かぶのです。
今風に言えば「家内はどうしているだろうか」、という事です。信次先生のご著書の中には、「妃がその春を売る様なポーズをしてきたので、悪魔といって追い払われた」と書いてあります。自分の心の中に現れるのです。
静かに過去を振り返った時、「妻は今、何をしているだろうか、城で共に暮らした時はこのような事もあったなあ」という思いが湧いて、元の生活に自分の心が向きそうになるのですが、これは思って当然です。
しかしお釈迦様は「悪魔よ去れ」と、自分の心の中の魔を追い払われたのです。そして、あの偉大な悟りをお開きになりました時、
「私の悟った教えは、世の常に逆らうものである。逆らうのが真理であった」とおっしゃっています。
世の常とは、人のこの世的な常識です。「出すのは嫌い、買うのは大好き」というのは世の常です。しかし出さなければ入ってこないという事をお釈迦様は気付かれたのですね。
原因、結果の法則をお悟りになったのですが、普通の我々凡夫は、腹が立つ時には怒らなくてはしょうがない、愚痴が言いたい時は愚痴を言ったらいいと思うわけです。
この前、三十過ぎの女性の方が、ふとしたご縁で訪ねてこられて、この方はああ言えばこう言うし、こう言えばああ言うという方で、絶対にうんとは言われません。お顔を見れば苦しみをいっぱい背負った顔をしています。
「あなたは幸せにならなくてはいけません」と言うと、
「いや、私は幸せです」「しかし、あなたの顔は幸せとは違います。心の中にいっぱい苦しみを持っています」
「そんな事、あなたに分かるはずはありません」「いや、よく分かります」
こういう具合で、何を言っても受け入れません。この方はヨガの有名な先生についておられて、二十代の頃、高橋信次先生のご講演を何回も聞いているのです。その後ヨガの先生に質問したそうです。
「腹が立ったり、愚痴を言ったり、貪欲になったりしてはいけないと、高橋信次先生に学びましたが、そのように思ってはいけないのですか」
そうすると、ヨガの先生が「○かやろうー」と怒鳴ったそうです。「人間だったら腹を立て、愚痴も言え、貪欲になれ」と言ったのですね。
そして「大勢の前で○かやろうと怒鳴られて、わしの言う事が気に入らなかったら、わしを恨め、憎め」と言ったそうです。
まあ、えらい先生があったものだと思います。その方はもう亡くなっておられますが、有名なヨガの先生です。お釈迦様の教えに反した事を教えておられます。私達はいわば荒れ果てた山と同じことです。
大きな木もあれば石ころもある原野、つまり愚痴もあれば怒りもある荒れ山を良き畑にするには、怒りの根を切り、愚痴の石ころを取り出し、貪欲の根っこを掘り返し開墾して、ものの出来る畑になります。
畑が出来て初めて良い種がまけるのです。それを「腹の立つ時は腹を立てろ、貪欲を離すな」と言えば、苦しみの木をどんどん成長させている様なものです。これでは幸せになる事は難しいと思います。
私達の学びは、聖なる学びであり、聖なる実践です。お釈迦様のお説き下さった心の安定を追求するものです。怒り、愚痴、貪欲を持っておれば、心は絶対に安らぐ事はありません。
つまり不調和な生活が現れてきますから、イライラした不安定な生活をする様になります。人間の幸せは心の安らぎです。安らぎを得るために私達はそれなりの努力をしなければなりません。
心の安らぎとは、他に喜びを与え、その時の他の喜びによって、「ああ良かった」という喜びを持つ事で、それが、大いなる安らぎに繋がるのです。奉仕です。無償の奉仕、愛の実践によって、初めて大いなる安らぎが頂けます。
京都から電話がありまして、「私はある法華宗の僧侶でございます。私なりの修行をしてきました所、突然クンダリニが開いてしまいました。
今日も朝から法事を二つさせてもらったのですが、その法要中にも、その現象が出てくるのです。今のこういう状態から解脱する方法について是非教えて頂きたい」と言うのです。
自分の心について、生まれて以来今日までについて徹底的に追求する事なく、精神統一したり、瞑想したり、禅定に入りますと、そういう現象が起きます。そして自分で自分がコントロールできなくなるのです。
徹底的に反省して自分はどういう人間なのか、今日までどれほど過ちや罪を作っていたかに目覚めて、その上で許されている事を知り、人を許す事を実践して、心が安らかな状態になったのであれば、これは本物ですが、
心が不安定で、心にやすらぎがないまま霊的現象が起きれば大変危険です。その方にお会いして、そのようにお話させてもらったのです。
よく霊道が開くといいまして、過去のことを話される方があります。この前、神戸から来られた十五、六人の中には、何人もの方が過去世を語られるという事でした。
「あなたは自分の心に問いかけてみなさい。あなたの心は綺麗ですか」と、聞きますと、「いや駄目です。自分の心は汚い」と言われます。
汚いままで、そういう霊道が開きますと、光の世界からも来て頂けますし、また一つ間違えば、闇からも入ってくるわけです。光も来れば闇も来ます。心の状態によって異なります。
ものすごく素晴らしい光の天使がお入りになって正しい法をお説きになったとします。しかし、肉体を通して語っておられたお方が、その時もし増長慢になったり、また怒りや貪欲に捉われたりした時は、たちまちにして闇の世界のものが、その方に入ってきます。
最も危険な事は、例えば「私はミカエルでございます」と言ったとしても、この場合、本当の光の世界のミカエル様がお入りになった場合も、闇の世界から入ってきた場合も、全く同じように、「私・は・ミ・カ・エ・ル・で・ご・ざ・い・ま・す」と言われることです。
ご本人の心の状態によって入れ替わっていても分かりません。しかし質(たち)が悪いのは、同じ名前を使い言葉を使うという事です。ですから霊的に捉われますといかに危険かという事を自覚したいと思いますね。
見えない世界は、何重にも重なっていて、はっきりした確証を掴む事は大変難しいものです。過去世が誰であったとか、今、何々様が私の身体を通して語りますとかいいましても、それにははっきりとした証明がありません。
ただそのようにしゃべっているだけで、証明のないものは、いってみれば幻のようなものです。幻の様なものは、あると思えても消えてしまいます。そういう幻を信じては間違いの元になるという事ですね。
私達は今頂いている肉体をもって、例えば私でしたら、長尾弘という人間を通して、日々の生活に神の子として恥ずかしい生活を努力する事です。
神の御使いとして間違いのない様な生活をする事です。過去世の様なものは関係ありません。自分の言葉と行いをもって「これは神の御使いだなあ、神のごとき現象を出されるのは、まさに神の心を実践されているからだなあ」と、人様から言われる様に、身をもって証明したらいいのです。
お一人お一人がそうです。常に神様に恥じない様な言葉を使わせて頂き、神様の御心を実践し、この体験を多く積みますと、自分の心の中にまことの神が働いて下さっているという事が分かります。
私達を生きさせて下さっている生命そのものが、現実に私達のこの心臓を通して命となって与えられています。死は肉体という衣を脱ぐだけで、衣を脱ぎましても生命そのものはちゃんとあります。この生命を霊といっております。
私達は悟る、悟らないとは関係なく全てのものは生命であり、霊なのです。肉体という衣を脱いだ時、霊は元のふるさとへ帰らなくてはいけません。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年11月26日
「苦楽の両極を捨て 中道に入(はい)り」
お釈迦様は「不放逸」というお言葉をお使いになられました。この言葉は日本の仏教では馴染みの少ないものです。放逸とはつまり遊び惚(ほう)ける、パチンコをし惚(ほう)けることです。人は惚けてはいけないのです。
怒りは放っておくと、すごく腹が立ってきて相手を殺してやろうかという所までいきます。そこまでいってはなりません。怒り惚けない、愚痴惚けない事で、これは「中道」を行きなさいということですね。
人は余り極端に怒ってしまうと、何をするか分からないし、また我慢し辛抱するといって腹の立つのを押さえて心に詰め込んでいましたら、これは苦しみになります。腹の立つ事が起きて当然ですが、放逸にならないように、一時(いっとき)も早く怒りを捨てるのが正法を修行です。
あまり苦しみの中にはまっても、またあまり楽な目をしても中道にはずれてしまいます。中道とはどちらへも片寄らず、バランスが取れている事です。
「和」というのも「中道」というのも、バランスの事ですね。毎日の生活で常にその中ほどを実践することです。
「自己保存・自我我欲の煩悩を捨てるべし」
これがまた難しいですね。繰り返しお話しますが自己保存と自我我欲は肉体に付いているものですから、これがなかったら人は生存できません。
自分を守ろうとする心がなかったら、もし水の中に落ちた場合、放っておけば死んでしまいます。火の中に入った場合も、構わず放っておけば焼け死んでしまいます。
また自我我欲とは、自分さえよければいいという自我の欲で、なるほど人間は自分さえよければいいのです。人のことは放っておけばいいのだし、自分の事だけ考えていれば楽でいいですね。
人間は楽な方へ楽な方へと行こうとして、それが昂(こう)じますと、いいものを食べたい、いいものを食べたい、いい家に住みたいという様に欲望はどんどん広がっていきます。
この世というものは物質に限りある世界ですから、際限なく欲望が広がりますと、求めても与えられない仕組みになっています。
皆が「私は地球がほしい」と言いましても一個しかありませんから、一人がとがってしまえば他の人には当たりません。取り合いをして喧嘩するのが戦争です。
9月には西ドイツへ寄せて頂きまして、色々と奇跡を見せて頂きました。ちょうど私が行かせて頂いている時に、あの頑固な東西ベルリンの壁が取り払われました。不思議なことだなあと思います。
ある人は偶然というかもしれませんが、しかし聖書には「東方より光が来たりて、世を照らすであろう」と書かれています。
まさに日本は東方の国であり、東から西へ光が伝わり、世を照らすであろうと、聖書に書かれている様な全く同じ様な出来事が起きております。
正しい法を地球の裏へお伝えさせて頂きますと、多くの方が東から神様が来てくれたと言って下さり、またにドクター、神様だと何人もの方から言って頂きました。
思い方はその人その人の自由ですが、ドイツも訪れた結果、平和が訪れてくれますと、やはり私は神様を信じたいと思います。寄せてもらった国が、神の光に満たされましたら、こんなに嬉しいことはございません。
年が明けましたら、韓国の方へ是非来て下さいと招待されております。香港、オーストリア、ドイツ、フランスと、これまたまたえらく忙しくなりますし、身体は一つしかないのにどうしようかと思っています。
しかし肉体の続く限り一人でも多くの方が幸せになって下さったら、私に与えて頂いた使命が果たせると思っています。本当に不思議な事で、想像もできない様な事を現実に見せて頂くのですね。
先々月もお話しましたが腕を骨折して三角巾で吊った大学生の側へ行ってほんの一分足らず祈らせて頂いたのです。
「どうぞ骨に光をお与え下さい。骨の細胞集団は不調和を起こしてはいけません。あなたは約束を果たしなさい」と、祈りまして、「腕を動かしなさい」と言いますと、その場で治ってしまったのですね。
それをビデオに綺麗に撮って頂いているそうです。そのビデオをお母さんが見て下さったのですけど、お父さんは「そんな馬鹿なことはない」と、現実に映っていても、それが信じられないのですね。
ビデオに映っており、現実に目をもって見ても、普通の者は信じられないのです。しかしイエス様はおっしゃいました。
「見て信ずる者は幸いなり。されども見ずして信ずる者はなお幸いなり。目を見てもなお信じない者は幸いうすき者なり」と。
神様がせっかくこうして見せて下さり、今は有り難い事にビデオに残して頂けますから、この場にいる方だけでなく、遠くへ持っていってもそのまま見て頂けるはずですが、それを信ずる事ができないのです。
以前、腰が痛くて身動きも出来なかった方に、あまりお気の毒なので光を入れさせて頂くとたちまち治ったのです。するとその方は自分が治っているのに「あら、おかしい、こんな事があるはずがない」とおっしゃるのです。
今まで痛くて身動きができなかったのが治って自由に動ける様になっていても「こんなあほな事はない」と怒り、
帰り際に「こんなもの、信じなさいというのは無理です」と捨て台詞を残して行かれました。本当にその通りでして、普通は信じる事は出来ません。
しかしイエス様はあらゆる病を癒され、人に道を教えられました。しかも二千年昔の物語ではなく、現実に今こうして目の当たりに見せて頂いているのです。至らない未熟な存在ですが、私という肉体を通して、目に見えない力つまり神ご自身がお働き下さるから、信じられない事が起きるのです。
神様は私達の肉体をとしてご自身を現そうとして、常に待ち構えておられます。神様と人間との媒体、パイプの様なものをどなたも持つ事が出来ます。
イエス様はどなたにもなれる法をお説きになりました。
「キリスト意識(神我)に目覚めなさい。キリストに自身の肉体を預け、委ねなさい。その時、キリストがその業をなされるであろう」と。
キリスト意識とは、私達一人ひとりが持っている心の内なる神我のことです。一人一人がキリストに目覚めた時、神はその人を通して神の御業を示されます。己という自我があったら、神はお働きにならないのです。
近頃はだんだんと強いパワーを頂きまして、昨夜は10時を過ぎてから八人もお見えになり、残業させて頂きました。
八人が皆、足が痛い、お腹が痛いとおっしゃっていましたが
「治りなさい」と言えばみなすぐに治ってくれましたね。
時間外手当を貰わなくてはいけません(笑い)。まだ痛みのしつこい方から、名刺に光を入れて下さいと入れましたら、「あれ、治った」とおっしゃって、信じられない事が起きるのです。
実践の数が多くなればなるほど、そのパワーが強くなってきます。私も当初は一人の方に治ってもらうのに、三十分、一時間もかかった時期がありました。今でしたら「治りなさい」とひとこと言えばすぐ治ってくれます。
しかし、皆が皆は治りません。全部治ったら、私は神様です。
人間ですから受けてくれる方の気根にもよります。また信ずる信じないの度合いにもよります。
先程お話した方は、腰痛がパッと治ったのですが、よそへ行って、
「こんなあほな事はない」と言ったとたんに痛い痛いと戻ってしまって、
「これは不思議だ」と、おっしゃったそうです。
「汝の信仰、汝を癒やせり」といって、信ずる力が、神の徳を頂くのです。疑う方は中々治りません。癒やされても、そんな事はないと否定しましたら、また痛みます。
どこへ行かせて頂いても皆様が大歓迎して下さると思っておりました。
たださせて頂くだけで、皆さんに一切ご負担をかけない様に心がけておりますから、相手にとっては都合がいいし、嫌われるはずがないと思っておりま
したが、この前、鹿児島で講演内容や沿った方の追跡調査をアンケートにまとめて本にして下さいました中に、「来年も来てほしいか」という質問に一人だけ、来てほしくないというがあったそうです。
これは他宗教の支部長とか、役員とかをしている方が約15人来ていたそうで、正しい法を阻害する妨害者が入っていたのですね。
追跡調査の回答では90%は癒やされているという事でしたが、これはお医者さんよりもすごいです。
お医者さんであっても90%癒される方は少ないと思います。
いかに正しい法をお伝えし、全く己を滅して神ご自身の御心を実践させて頂いても、神に逆らう心を持つのも、やはりいるという事です。
これは誤った信仰がいかに恐ろしいかという事です。正しい神の教えさえ否定しようとかかります。神の御心とは、自らを犠牲にして他を生かす無限の愛です。
本当の神様とは、ただ与え給うのみの存在である事を私が自分の心の中にはっきりと掴ませて頂いた時から、私の運命、人生が変わりました。
例えば、車の運転をしていて、横から人が飛び出したり、車に追い越されたりして冷や汗の出る様な事は一切なくなりました。
だんだん神様へ理解が深くなりましたら、私が車のハンドルを握りますと、車の前方がみな空きます。赤信号にかかる事は殆どありません。これはほんとうの神様は私達を守って下さっているという事です。
神様と一緒におらせて頂いているのに妙な事が起きるわけがないと、そのように思えて来るのです。
「インマニエル・イエス・キリスト 我 神とともにあり」
インマニエルとは「我 神と共にあり」という意味です。イエスさんだけの名前とは違うのです。イエスこそイエス様の固有名詞です。
キリストとは代名詞で、どなたでもキリストさんです。そのようにキリストのごとく生きたら、皆さんがキリストになる事が出来ます。
田中さんでしたら「インマニエル・田中・キリスト様」です。どなたでも内なる神我に目覚めた生活をなさる方は、キリストです。
「癒しの油の注がれし者」として生活した時、必ず癒しの力が与えられます。その中には一切の自我を持ってはなりません。自我の中にカルマを背負いますから、私が私という偽我を一切捨てて、たださせて頂く事です。
イエス様の教えを真剣に話させて頂いた時、イエス様はこの場所に即、お見えになります。お釈迦様のお話を真剣にさせて頂きますと、お釈迦様の意識がその場所へ来られるのです。
「私はイエスである」と言わなくても、ちゃんと肉体を通してその方が語り給うのです。実践しないものにそのような事は起きません。
高橋信次先生は、この世において、この歳までの間にお会いした方の中で、私の最も尊敬し、お慕いしている方です。まさに、男が男に惚れたというに値する、本当に素晴らしい方で大好きです。
私は先生が亡くなられた時、実践をもってどなたよりも先生の身近な弟子にさせて頂こうと決心しました。ただ行えば良いのですからこれなら誰にも邪魔されません。
先生と私達との間に何段階の組織の壁などは問題ではありません。遠く離れていても日々の生活の中で実践した時に先生の最も身近な弟子になれます。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年12月24日
先月は「苦楽の両極を捨て、中道に入ること」について学びました。苦しみに片寄っても、楽に片寄ってもいけません。中道をいくのが法の根本であり、調和がとれている事が何より肝要です。
お釈迦様はお城の中で、王子として酒池肉林の栄華を極め、楽に片寄った生活の中では悟る事が出来ず、やがて出家し、自分の生命の限界まで厳しい肉体行をされ、その苦に片寄った中でもなお悟る事が出来ませんでした。
その生命が絶える寸前に、たまたま川上から聞こえてきた「弦の強弱」を歌った少女の歌声によって、中道の道を教えられたのですが、その少女を訪ねていかれた時、お釈迦様のお身からは後光が出ていたのです。
少女がその光輪を見て、神様が来られたと思ってひれ伏して挨拶をした時、「いい歌を聞かせてもらってありがとう、あなたのお陰で道が開けました」と、お礼を言われたお釈迦様に、少女は今しぼったばかりの牛の乳を差し上げたのです。
お釈迦様は、まず元の健康な肉体に戻らなくてはいけないと気付かれて、少女の差し出した乳を「ありがとうございます」と押して頂いて召し上がられました。
お城の王様の言いつけによって、お釈迦様の護衛に当たっていた五人の剣の達人など豪傑ばかりの従者たちは、お釈迦様が乳を飲まれるのを見て、
「ああ、ゴーダマは修行に耐えかねて、行を捨ててしまった。もう共に修行はできない」と、見切りをつけて去っていきました。
この後、お釈迦様はただ一人になられて、大きな菩提樹の元に吉祥(きっしょう)草を敷いてお尻が痛くない様に座して、生まれて以来今日までの徹底的な反省に入られたのです。そして偉大なる悟りを開かれたのですね。
私達は反省するのに、姿勢などは関係がないと思うかもしれませんが、背骨を丸くしますと、重りがかかって長時間坐っているのは困難です。
専門のお坊さんは座禅の時、必ずお尻に円座といって座布団を入れます。お尻を高くして結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐をしますと、背骨が真っ直になりますが、お尻を高くしないと背骨が曲がります。
以前、NHKでやっておりましたが、起きている時も寝ている時も脳波は出ているのです。ところが普段は出てこない脳波が座禅をすると出てきます。
また催眠術をかけても、その脳波が出てくるそうです。アルファー波といって、座禅をしていてもお尻の座布団をのけたら出てこないそうですから、座禅をする時は必ずお尻を高くしないと効果が出ないのですね。
正座しますと、踵(かかと)の上にお尻が乗りますから、真っ直になります。しかしこの形は踵も膝も痛いです。慣れない者は長時間坐っていると痛くなってきます。お話し会の場所によっては四時間、五時間坐っていても痛いと感じないのは、慣れる事によるのです。
心がある状態になりますと、科学的に脳波を調べた時、アルファー波が出て来るのですが、それは一つの姿勢によるのですね。
ですから、凭(もた)れて丸っこい背中をしていましたら、長時間坐る事はできません。座禅の時は結跏趺坐でも半跏趺坐でも、背骨を真っ直にする事です。
その証拠にお釈迦様の仏像は、背骨を真っ直にしておられます。お釈迦様は修行の時も、自分の坐る場所は長く坐っていても痛くない様に草を敷き、菩提樹の木に沿って真っ直ぐに半跏趺坐の恰好でお坐りになりました。
反省するというのは、私達の心の奥底のもっと奥底のその奥底に、素晴らしい宝物がしまわれていて、その宝物を掘り起こす事で、その時反省の功徳が与えられます。
「自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし」
私達はこの世に生きてきた人間、人様に対して恥ずかしい事もしてきています。あれさえしなければよかったのになあという出来事で、
人に知られたくないという事を、心の奥底の宝物の上に、ビニールの袋の中に入れて、しっかり口を閉じて、しかも1番恥ずかしい事は奥底に入れ、次に恥ずかしい事をその上に詰めて、心のごみ箱にいっぱいしまいこんでいます。
人に知られない様に、上から蓋をして、大きな重しの石を載せて出てこないようにしていますが、この汚いやつを全部放り出さない限り、底に埋まっている宝物が出てこないのです。この汚い、恥ずかしいものを一つずつ放り出していくのが、反省の事業です。
以前、ある方がお嬢さんの荷物を立派にこしらえてお嫁に出されたのですが、ご縁がなかったのか、何ヶ月もしない内に帰って来られたのです。
お嫁に行く前は、「荷物を見てやって下さい」と、近所の皆さんに来てもらって門出を祝ってもらいましたが、荷物を引き取る時は夜中で、皆に分からない様に家に入られたのですね。
人に知られたくないという思いがあって、それをお母さんは夢に見られたのです。娘が戻ってきたという出来事を、ごついビニール袋の中に詰め、口をしっかり縛って表のごみ箱の底へ詰め込み、上から蓋をして石を載せたという夢です。
それほど人に知られたくない出来事です。反省する事によって自分で掘り起こすのです。反省するぐらい、何が苦しいものかと思います。
かつて反省の場で「さあ皆さん、苦しみのたまって下さい」と言われた時、私はなぜのたうつのかと思いましたが、自分で自分の嫌なものを放り出しなさいという事なのです。
誰にも言っていない事、誰にも知られたくない事を自分で放り出して告白するのですから、苦しみのたまなければなりません。
反省をして、自分の心の中に詰まった諸々の罪穢れを掘り起こして、捨ててしまうのです。これが反省の一つの行為です。
私達は自己保存・自我我欲の為に、自分は正しく、人が間違っていると思いやすく、自分が無理を言っているから、聞いてくれない相手が悪いと思って、腹を立て相手を謗り恨み憎むという苦しみが湧き上がってきます。
人間は肉体を頂いた限り、肉体についている五官の煩悩、つまり目、鼻、口、身体の中に、自分を保存しなくてはならない欲望というものが、否でも応でも与えられています。
これから離れる事が出来ないために自己中心にものを見ようとして、心を苦しめていきます。ですから心の状態は常に平常心を保ち、心に苦しみを入れない状態でものを見るようにしなくては、正しく見る事はできません。
腹を立てていて正しく見る事は出来ません。それは心が煮えたぎっているからです。心が白紙でなくて既成概念を持って見た時も、また貪欲の思いに捉われて見た時も、自己中心に片寄ってしまって、正しく見る事は出来なくなります。
まず煩悩を捨て去る事です。自分から離れて客観的に自分と相手を見る訓練をする事が 大切ではないかと思います。
錆(さび)は鉄自身から出てきて、出てきた錆によって鉄自身を滅する様になっています。鍛えて鍛え抜いたあの日本刀でさえ、堅くて一番良く切れる刃先から錆びてきて、ボロボロになってしまいます。
私達の心も同じ事で、自分の心の錆によって、自分を滅してしまうのであり、この錆の種類が怒り、妬み、恨み、謗りなどの思いです。この私達自身から出る錆によって、肉体にも影響が出るようになっています。
自己保存・自我我欲は私達の肉体に付いているもので、それを捨てるのですから捨てきれるものではないのですね。ただ、いかに短い時間に思いを切り替えて喜びにするかという事です。
よく、腹を立てたらいけませんと言いますと、「腹を立てない様にと思っていると、その思いがいっぱい溜まって、終いには普段の十倍ぐらいになって爆発する」と言われますが、
これは怒りを内に入れて溜めているからで、腹の立つ出来事をその都度消してしまう想念の転換をして、切り替えなくてはいけません。
車がペチャンコに潰れても、「自分が無事でよかった」と思いを切り替えるのです。「車が潰れて、なんて運が悪いんだろう、相手が悪いからだ」と怒りを内に取り込んでは自分が苦しいです。
私はいつも、どんな時でも笑っています。心の状態によって顔は即、表情が変わります。心がどこか病気をしていると、肉体のどこかに曇りが出てくるようなものです。
私達は環境の中に生きているのではなくて、思いの中に生きていますから、どのような環境の中にあっても幸せそうな方もおられますし、あんな結構なと思う方が不幸せそうな顔をしている場合もあります。
何億円というお金を持っていて、人に取られないかと苦しんでいる人もあります。この様な苦しみの原因なら持たなければいいのに、お金に捉われて家の周りに赤外線の防犯装置をしています。
しかしあの世には一銭も持って帰れません。財産に執着すると天国には帰れません。思いだけ、自分の心だけしか持って行けないのだと、心がける事が肝要かと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年1月28日
「いっさいの諸現象に対し 正しく見 正しく思い」
今日から「八正道」の教えに入ります。私達が生きているという事は、色々の出来事の中にいるという事です。起こる出来事に自己保存という欲がある場合、自分にとって都合の悪い人には腹が立ってきます。
腹が立つ時、もし自分の方が正しいと思えば、すでに間違いで、正しく見た事にはなりません。自分という立場からいったん離れて、相手の立場に立ってみる事です。身体をつねると痛いし、人から悪く言われると辛いですから、何か出来事があった時は相手の人はどうだろうかと思い遣ってみるのです。
しかし、相手の話千葉にばかり立つとこれまた片寄りますから、善意なる第三者の立場に立って、相手と自分とどちらが無理を言っているか無茶をしているかと、第三者つまり神の立場に立って見ることです。
ものを正しく見ようと思いますと、平静でなくては見ることはできません。水の入ったかめでも土鍋でも、上から見ますと綺麗に顔が映りますが、煮え立ってくると映りません。これと同じで、怒りに煮えたぎっていると心が乱れて正しく見る事ができません。
「疑問」は持っていいけれど、「猜疑心」は持ってはならないといわれます。疑いを懐に入れた猜疑心を持ってはなりません。
綺麗な水を放っておくと、藻が生えてきて顔が綺麗に映らない様に、貪欲に振り回されると全く映らなくなりますし、不調和の時は映らない様にできています。怒り、妬み、謗り、愚痴、不安、貪欲の心を持つと、正しくものを見る事ができないようになっています。
「八正道」は、まず最初に正しく見る事が説かれています。心に苦しみの原因を持っていては正しく見る事ができません。
現れてくる一切の諸現象に対して、まず正しく見る事ができなかったら、正しく思う事もできず、正しく語る事もできません。だから「正見」という事を八正道の第一項目に説いておられるのです。
世の中には色々な宗教があります。高橋信次先生が説かれたものでも、これは本物か偽者かと、常に正しく見ていかなくてはいけません。
商売も同じです。「あの人は運が悪いせいか、いつも商売不振に陥る」というのは、本人が正しく見ていない事が原因しております。
正法は商法に通ずと言われる様に、取引先を正しく見てこの取引を危ないと思えば、近づかない様にすれば不渡りを食う事はないのです。
また普通世の中では、儲かったら自分の懐へ入れようとします。そして栄蘭栄華に暮らそうとしますが、そうするとやがてお金が入らなくなるのです。
貪欲の心を少なくした時は、気持ちよく儲けたものを出させて頂く事ができます。物事を正しく見るという事はこういう事で、腹を立て、愚痴を言えば苦しいはずですし、心配をしてよくなるものは一つもありません。
想念は思いを作り、私達の思った通りの形となって現れます。草も花も木も神の想念によって現れたものです。自然界は神の思いが形となったもので、全部神様の思いの結晶です。私達も、神ご自身が現れて下さったものです。
また人間の手をもって作られたものは全て人の思いによって作られたものです。自然界は神の思いによって現れており、人が作ったものは家もビルも、飛行機もロケットも人工衛星も、みんな人の思いによって現れたものです。
思いなくして現れたものは何一つありません。今生きておれば、その人の思いがこの場所に現れるのです。家を建てたいと思えば、設計士や大工さんと相談して思いが形になって家として現れます。
最初、このお話会は私の所の本宅の座敷でしていました。そして公民館でお話する様になりましたが、工場が空いているのだから内装してもられば公民館を借りる経費も要らないと思って、またこちらでお話会をする様になりました。
その内狭くなったので広く増築してもらいました。マイクにしても建具にしても想念が形となって現れるのですから、これを忘れると思い方が間違ってきます。
まず正しく見、そして正しく思うことです。想念の中に不調和な思いをしない事です。例えば取越苦労をすると不幸な結果を呼ぶことになります。
常に幸せな環境を作るためには、思いの中で全てのものを生かそうとする事が大切です。他を幸せにする思いがそのまま自分の幸せに繋がります。
疑心暗鬼の思いを持っている人は、その目を見たら疑い深そうな目をしています。いつも安らいで人の幸せを思っている人の目は安らいでいます。
何かしら暖かい光に包まれており、そういう人の側にいると、腹の立つ思いは起こりません。想念は形となって現れ、心は表情となって表れます。安らかな顔はにこやかで穏やかです。心の動きによって笑う時、怒る時、泣く時に働く筋肉はすべて表情となって表れます。
心の形が表情となって顔に現象化しているだけです。
「笑う門には福来る」と言いますが、和やかに過ごしたいと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年2月25日
今日は雨の中、こんなに多くの方に集まって頂きまして心からお礼申し上げます。私達が「心」を求め、心を学ばせて頂く事は本当に尊い事です。
私達はこの肉体があって自分がある、つまり肉体が自分であると思っておりますが、この肉体を動かしている見えない力があります。その力が肉体の中のどこかに間違いなくあって、その力を「こころ」と言っております。
私達は常に「心というものはある」と思い、「心の友」とか「心の学び」とかいっておりますが、そのもっと奥に形もなく触れる事もできない霊、霊魂が私達の中にちゃんとあるのです。この霊は永遠にして不滅です。絶対に死なないものです。人類の悲願は死んでも死なない命を得ることです。
これこそ全人類の悲願です。その「死んでも死なない命」を現実に私達は与えられていますが、この事実を知らないでいました。この肉体が全てであると思い、肉体が死んでしまった時に私達は終わってしまうと思っておりました。
しかし私達はこの「死んでも死なない命」に目覚めなくてはなりませんね。
法を学ぶと「そういう事なら安心してこの世を卒業できる」という事がはっきり分かってきます。心からその事が理解できますと、死の恐怖はなくなるのですね。安心してこの世を卒業する事ができます。
何か死後の世界の事ばかりの様に聞こえるかもしれませんが、この世界は、今生きている私達の生活が死後そのまま続いていくのですから、要は今をいかに生きるかという問題です。今の一瞬に、私達が果たさなくてはいけない使命を大事にする事です。
「私は小さい時は一つも過ちがありませんでした」とおっしゃる方がありましたが、過ちがあればこそ苦しいのです。幼い頃、過ちがなかったのならば成長して過ちが起きる事はありません。
私達は過去世において勉強をやり残した分を、今人生学んでいるわけで、過ちを犯して当然、過ちがあってもこれを悔い改めていく所に人生の意義があります。過ちを繰り返したら何にもならず、また来世へ持ち越してしまいます。
だから今生で一つでも二つでも正していくべきで、これが人生の学びです。今生で勉強をやり残した分は、また今度生まれ変わった時にその残りを学習させられます。それを全て卒業したら、来世はもう学ぶ事からはずれ、この世に転生する事はありません。
私達はだんだん魂を進化向上させていって、最終的には神の御胸(みむね)の中に到達するのです。仏の御胸の中に返るために私達は生まれてきております。
何回も何回も生まれ変わる事を仏教では輪廻転生と説かれていますが、そのようにして自分の魂を向上させているのです。自分の持っている悪い癖、欠点を少なくして、「これだけ少なくしてきました」と天上界へ帰った時にご報告させて頂ける様なこの世の生活を送りたいと思います。
「正しく見 正しく思い 正しく語り」
まず正しく見ること、正しく見ることができなかったら、正しく思えない、そして正しく思う事ができなかったら正しく語れなくなります。しかしどのような思いが正しいのか、中々その基準がつかめません。
そこでいつもお話する「太陽の心」を我が心の思いとして実践すればいいのではないかと思います。これは永遠の真理です。
自分を犠牲にして慈愛を他に与える、一切の差別をせず他に与える、人の過ちを責めたり裁いたり罰を与えたりしない、この様なお日様の思いを持たせて頂いて、他の方の幸せのために働かせて頂く事です。
私達の思いは自由です。一念三千といって、一瞬の内に三千の思いが出来るという程、心は動き回ります。「心」は昔「ころころ」と言ったそうです。
それほど心はころころと転げ回るものです。「ころころ」がいつの間にか「こころ」になったそうです。
今いいことを思っているかと思うと、次の瞬間にはもう悪いことを思ったりして、現れてくる出来事によってころころと動き回るものです。
しかし、常にお日様の心を忘れない様にして、お日様の姿を思いの中にとどめますと正しく思えると思います。他を生かす愛の思いも、太陽の中にはちゃんと与えられています。
悪い思いをしておりますと、必ず悪い事ばかりが日常生活の中に出てくるはずです。悪い言葉を出しておりますと、悪い行いが始まってきます。
心の毒は数々ありますが、もっともいけないのは呪いです。「呪う」という思いそのものは、相手を倒すというよりもまず自分が苦しむ事になります。
「何とか相手をやっつけたい」という苦しい思いが、呪いとなって行動に移るわけです。呪えば必ず相手と自分とは共倒れになります。
現実に、「私は丑の刻参りをしました」というお方に、何人もお会いしました。「それだけは止めなさい。必ず自分の肉体、或いは心がずたずたになってきます」とお話させて頂いた事がありました。
現実にその人は、体ががたがたになっておりました。思いの中には、そのような恐ろしい思いもあります。
思いが楽しければ言葉も正しく語れるはずです。「正しく見る」について、言葉というものは、ただものを言えば言えるのですから、
私達は何とも思わないで色んな事を口走っていますが、言葉は「諸刃の剣」とも言われる様に、相手の方に死ぬよりも辛い思いを与えますし、また、一方相手に無常の喜びを与える事もできます。
私が十四、五年前の自分の悪い癖を正すのに、まず怒りっぽいのと愚痴っぽい事をどのように直したらいいか、正す方法を守護霊さんにお尋ねしたときの
お話はよくしますが、私の話し方が下手であるために相手に理解してもらえず、言った事を行なってもらえないから腹を立てているという点を守護霊さんに指摘して頂いたのです。
「これをこのようにしておいて下さい」とお願いした事が相手によく分かってもらえればちゃんとしてくれるはずですが、言う事を聞いてくれないから、「本当にいくら言えば分かるのか、仕様のない奴だ」と言って、カッカと腹を立てていたのです。
私は自分が話下手なのはよく知っていますが、それが怒りと愚痴に繋がっているとは知りませんでした。
その時、守護霊さんから、「この同じく力出る言葉によって相手を無常の喜びに導く事も出来るし、まだ死よりも辛い思いを与える事もできる。だからあなたは口を開けば、人々に安らぎ、希望、喜びを与えなさい、それ以外の事を口に出してはいけない」と注意されたのです。
言葉の持つ力など考えもせず使っていましたが、それがやがて自分に苦しみとなって返ってきた事が沢山あったという事も学ばせて頂きました。
言葉は生きています。人を傷つける事も出来れば、その傷を癒やす事も出来るのです。言葉には力があるのです。言葉に力があるという教えを頂くまで、私は気付きませんでした。
言葉の持つ力については相手を信じる度合いが強ければ強いほどその人の言葉が偉大な力を現します。
「あれほど偉い人が言われるのだから間違いない、あの人がおっしゃった事だから-----」と、聞いた言葉が力になり、一種の啓示を受ける事もあります。
ある偉い先生は、相手の死ぬ日を、天上界の神から聞いてきたと言って話されます。そんな事は人に言うべき事ではありません。ほんとうの神の使いであれば人に恐怖を与えるはずはありません。
ある方は偉い先生がおっしゃったのだから間違いないと信じてしまい、その日が近づいた頃には完全に死相が現れていました。しかしその方は、「そんな馬鹿な事はありません」という私の「言葉」によって生き返ったのです。
その人は「その日になったら死ぬのだ」と、不安と恐怖の迷いの中ではまってしまいます。たまたまご縁があってその方に光を入れますと、いっぺんに生き返ってくれて、その後もう七、八年になります。これは「言葉」によって死が近づいたのであり、また逆に「言葉」によって生き返ったのです。
「正しく仕事をなし」
先生と言われる方たち、宗教に関して教えの道を説く方たち、また、その教えそのものに殊に大事な事は、実践面です。「正しく仕事をなす」事が伴わなくてはならないという事です。
この間、山口の方からツアーで十六人訪ねて下さり、皆泊まって楽しいひと時を過ごして帰って頂きました。各人が色々な信仰を持っておられるのですね。
ある宗教にお金ばかり入れて何千万円という借金をしてしまった方は、鉄工所をなさっているのですが、息子さんが、「こんな大きな借金を作って、私は後を継げない、協力もできない」と、ものも言ってくれないそうです。
せっかく信仰しても借金をこしらえて、しかも家庭の中は親子の対話もなくなってしまったのですが、一体なぜそういう事が起きるのかという事です。
嬉しいことに去年の11月に、同じ信仰をなさっていたある方が見えて、「もう止めます。二十何年間も頑張ってきましたけど、先生にご縁を頂いてその間違いがはっきり分かりました」とおっしゃったのですね。
この方はガソリンスタンドを経営なさっているのですが、ちゃんと止めると報告を済ませますと、暮からお正月にかけてタンクが空っぽになるほどガソリンが売れたそうです。営業をはじめて以来というほどです。
お正月に一千万円貯金したとおっしゃっています。「よう儲けましたなあ」と言うと、「先生は本当に福の神です」とおっしゃっていました。
ガソリンスタンドといえば直接お客さんと接触しますから、喧嘩しながら家の者がうっとうしい顔をしてガソリンを売っていましたら、人は寄り付きません。
それを、「ああ良かった、本当に有り難い」と言って、家の者がニコニコしてお客さんに接していたら、「あそこへ行ってみようか」と、よそへ行っていた人まで来てくれる様になりますね。
そして思わぬ売上と利益を上げる事が出来るのです。そうであれば、何もそんな信仰をしなくても、家の中で皆が仲良くして、気持ちよくお客さんと接していれば商売は繁盛するのです。
1番いけない間違いは、「この神様にお参りしたら金儲けができる」といって拝む事です。「六根清浄、六根清浄」といって山に登ったら儲かるといって行くのです。そのようにすれば上手くいくと思っている所が間違いです。
滝に打たれて、大変寒い時に苦行をされるのですが、ある旦那さんは二号さんと一緒に滝に打たれているのです。
「あなた、それは止めなさい。そんな事をするよりもまず日々の生活を正す方が大事だと思います。生活を正さずして、百万遍滝に打たれても出て来る結果は同じことです。まず自らを正さなければいけません」と話したのです。
また、神仏にお参りすれば幸せになれる、と他力信仰では思うのですが、自分の行いを正さないままにいくらお参りしても何の効き目もありません。
とてもいい話をされる女の先生を知っています。「まあ、素晴らしいなあ」と思うような話をされるのですが、その方の日常生活を親しい方から聞きますと、出すのは嫌い、もらうのは大好きで、貰ったものは腐っても出さないという生活ぶりだそうです。
そういう人が法を説いておられるのです。法を説く者の実践面がいかに命であるかという事を感じます。
ある場所へ招かれて、普通のお宅でお話させて頂きました。二、三十人も集まってくれたらいいと思っていたのですが、百数十人も来て下さったので家に入れなくて、階段も廊下もいっぱいとなり、雨縁の外に立って聞いて頂いた方もあったのです。
その時、一生懸命勉強なさっているご夫婦の方が来られたのですね。外で聞いて頂いているのですが,休憩時間にちょっとお話させてもらいました。
その後手紙を下さったのですが、
「今まで実践という言葉を耳にたこが出来るほど聞いてきました。いろんな先生から実践が大事であると聞いて、なるほどそうか、実践しなくてはいけないのだなという程度に受け取り、こちらの耳から入ってこちらへ抜けていきました。
ところが長尾先生の口から実践という言葉を聞いた時に、胸の中にぐさっと突き刺さりました。同じ言葉がなぜこんなにも違うのか大変疑問に思って、自分なりに一生懸命追求して、その謎が解けました。
それは先生が実践されているから、実践という言葉が重い力を持って響いてくるのだという事が分かりました」と書かれていました。
実践をしない者がいくら実践、実践といいましても、それは聞く者の耳を素通りします。
「私はこの様に行いました」と、行った者が実践という言葉を使った時は、人の心の中に入り込んでいくのですね。こういう面から見ましても行う事がいかに大事かという事が分かります。
「心行」の中では「正しく仕事をなす」と書かれています。これは、「正しく行う」事で、お釈迦様は八正道では「正業」と説かれています。
仕事ではなく、行いを正しくしなさいという事です。「行ない」とは実践する事です。正しい実践をしなくてはいけません。間違った実践をしたら間違った結果が出ますから、法に従ったお日様の心を自分が行う事です。
太陽の御心(みこころ)を行ないに現した時、正に私達は神を体験させて頂けるのです。太陽こそ神ご自身のお姿ですから、太陽の思いを常に抱くことは、神様の思いを常に持たせてもらっている事です。
神を体験するといいましても、中々出来るものではないと思いになるでしょうが常に精進努力をしますと、神はその人を通して、つまりその人の言葉や行動を通して神ご自身がお働きになるのです。
神が人間を造られたのは、ご自身をこの地上に表現したいがために、その道具として造られたのです。その神様が何を望んでおられるかは、私達は普通では知る事は出来ませんが、あの太陽を見せて頂いた時、神様はあの太陽の思いを、行いをして下さっています。
また、イエス様は常に「あなたの隣人を愛しなさい」と言われます。そういう言葉が沢山書かれています。なぜくどいほど「愛」をお説きになったかと言うと、他を愛するが故に自分が愛されるからです。
隣人という対象を通して愛されるという事は幸せな事だからです。世界中どこへ行っても隣人はいてくれます。その隣人を愛することによって、私達は地球上どこへ行っても愛されます。愛するが故に愛される様になり、自分が裁かれない為に人を裁いてはいけないのです。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年3月25日
私達が必ず体験しなければならない「死」とは何であるか。その死が訪れた時、どのような心がけが必要か、私達はどこへ行かなくてはならないか、死が訪れる前に何を為すべきか、これらの事を学ぶのが私達の勉強の目的の一つです。
生まれるという事は死が約束されています。この世を去るという一つの現実はどなたも避ける事はできません。
お釈迦様はこの事を「たとえ山奥の洞窟に逃れても、空の彼方へ逃れても、海の彼方へ隠れても、死より逃れる所はどこにもない」とおっしゃっておられます。巡り合い、ご縁があるという事は、やがて別れるという事であって、これは避けられない事です。
病気についても同じ事です。あなたは病気をしませんという約束はどなたも頂いておりません。いつどんな病気が起こるか分からないのです。
人間の体は、四百四病の詰まっている袋であるとも言われております。いつどんな病気が起こってくるか分からないのです。今、健康な時に何をなさなければならないかというと、これはごく簡単な事です。
「過ちをできるだけ少なくして、そして善き行いを多くする事」です。
これが人として生きる上での修行です。やさしそうなことであっても誠に難しい事です。
あるバイオリンの先生が十分な練習をされた上で演奏会へ臨まれたそうですが、その結果が良くなくて自信を失われたそうです。音楽というのはハーモニーであり、音階の調和が命です。
どれ程素晴らしい技術を身に付けましても、演奏する方の心が不調和であれば人の心には伝わっていきません。演奏会の失敗はご兄弟の間で色々と揉め事があって、調和されていなかった事が原因だったのです。
やはり兄弟仲良くして親孝行する事ですね。素晴らしい音楽というのは調和された心から生まれるものです。
私達の日常生活も同じことで、喧嘩していたら仕事も上手くいきません。車に乗っていて何回もムチ打ちの目に遭うのは、ただ運が悪いからではなく、原因をその人が持っているからです。
私達の心がすべてを表し、全てを形づくっているという事に気付くべきです。病気についても同じ事で、不可抗力で内蔵が悪くなったり、怪我をするのではなく、不注意であったり、たくさん食べて内蔵に負担をかけているから、それが病となって現れるのです。
足ることを忘れた結果として現れるのです。もちろん、先天的な病気もありますが、殆どの病気は自分が作ったものです。
どうかこの世にいる間に苦しみの原因を作らないように、私達は素晴らしい世界から生まれてきている事を自覚して、また素晴らしい世界へ帰るのだという事に心を思い描いて下さい。
「正しく仕事をなし 正しく生き」
今日の「心行」の解説は仕事についてお話させて頂きます。
世の中の殆どの方は仕事をしていらっしゃいます。
なぜ仕事をしなければいけないかというと、私達は人様の労働のお陰で生きさせてもらっていますから、そのご恩返しをするために仕事をするわけです。仕事の目的はお金儲けとは違います。
私達は、人様が一生懸命汗水を流し物を作ったり販売して下さったりするお陰で生きさせてもらっているのですね。例えば鉛筆1本をとってみましても、外側の木は大きな材木を切らなくてはなりません。
中の芯は鉱物ですから、まず掘り起こし次に加工します。そして色を塗ったり印刷したりして、一本の鉛筆のためにどれだけ多くの方が労力を使って下さるか分かりません。食べるものについても同じです。
お米一粒に八十八回の労力がかかるそうで、それだけ手をかけないと出来ないお米は私達は三度三度頂いております。まさに人の労力を頂いているという事です。
魚についてみますと、漁をされる方が海に出られるのは命懸けです。その魚を私達は頂いております。野菜にしても牛肉にしても、それぞれ大変な努力のお陰で私達の口に届いております。
着る服もそうですね。布地が出来るまでは、まず羊を飼い、羊が成長するまでが大変で、その毛を刈り取って大量にまとまったものが輸出輸入の労力を通して日本に入ってきます。
輸入された羊毛はお尻の辺りには便がいっぱいついていますし、バーといってくるくる巻いた棘の生えた植物の実の様なものが沢山ついていて、それを一つの工程を通して燃やしてしまいます。
次に整毛してやっと紡績へ運ばれて糸になります。いろいろな色に染め、織り上げたものを仕立て一着の服になるのです。どれほど大勢の方たちの労力を頂いているか計り知れません。住まわせて頂く家もまた労働を通して多くの方々の恩恵を頂いております。まさに血と汗の塊です。
そうであれば、私達もどんな仕事でも、仕事に貴い賎しいの差はありませんから、自分の肉体を動かして、生きさせて頂いているご恩報じをさせてもらうのです。これが仕事の意義です。
仕事についての目的を尋ねますと、その方その方によって答が違います。「私はご馳走を食べるために働いています」と言われる方があります。
昨日寄せてもらった香港、中国の地はそれはそれは食べるのが好きな所です。二時間も三時間もかけて、ご馳走が次から次から出てきます。私は日頃少食で通していますが、次々と出して頂いたら自分でもようこれだけ入るなあと思うほど入るのですね。
食べるために働いている、家を建てたいから働いている、車のローンを支払わなくてはいけないから働いている、家族を養うために働いているという具合に、各自目的を持っておられます。しかし本当の目的とはそんなものではないのです。
正しい仕事の意味は、どんな仕事でもいいから、自分の肉体を使って自分が生きさせてもらっていることへのご恩返しをする事です。仕事をしないで食べさせて頂くような生活をしますと、人様の血と汗を吸う「吸血鬼」と同じ事になります。
肉体を動かしてご恩返しをさせて頂くという心がけで仕事をさせてもらいますと、給料の多い少ないという不足の思いは減少します。
仕事というのは給料をもらうためだけにするものではなくて、ご恩返しをさせて頂いて、しかも貰おうと思わなくてもお給料として報酬が頂けます。
「ありがたいなあ」と思って仕事をしますと、不足も出ません。
「私はこの仕事を通してご恩返しをさせて頂いている」と思えば不足の出るはずはないのです。
世の中は不足の出る方が非常に多いです。そんな中にあって、一生懸命ご恩返しさせて頂くと思えば、陰日向なく働けるはずで、人が見ていようが見ていまいが精一杯協力させて頂いたなら、おのずと人の目につきます。
ある所で、仕事についてお話をさせてもらいましたら、ある方が
「このせちがらい世の中で、そんな事を言っていては生きていけません」とおっしゃったのです。
しかしそんな事はありません。会社や企業にサラリーマンとして勤めたとします。企業というのは大きくならなければいけないというカルマ(業)を持っていて、潰してはならず、利益を上げなくてはならず、そうでなければ企業として成り立ちません。
また企業というのは人材をもって成り立っています。いくらコンピューターが発達しても、それを使う優秀な人材が必要です。企業の上の方は社員をずっと見ています。
下から上を見てもよく見えませんが、上から下を見るとよく見えます。そして陰日向なく一生懸命働いている人は会社のためになる、あれなら大丈夫だと上のポストに引き上げます。
素晴らしい人材というのは、どこにでも必要なものです。主婦は家族のために「生きさせて頂いているご恩返しをさせてもらうのだ」と思って、ご馳走を作り洗濯をさせて頂くのです。仕事というのは、お金儲けのためだけにするものではないという事をはっきりと知りたいと思います。
いくら時代が変わり環境が変わっても、本当の真理というものは変わらないものです。お日様が西の方から上がってこられる事はありませんし、水は低い所から高いところへは流れません。人間は必ず年をとっていきます。
花開く前は一番美しい時であり、今、花の盛りの十七、八は男も女も美しいです。しかし五十年、六十年も過ぎますと、顔を見るのも恐ろしいなあという顔に変わっていく場合もあります。
正法を勉強なさっている方は、いくら年をとっても素晴らしく綺麗な顔をなさっていますのは、心に安らぎがあるからです。法に縁なく年をとっていきますと、終わりにはお化けのような顔になっていく方もあります。
何故かと言うと、年と共に過ちを繰り返し、罪を積んでいくからです。幼い赤ちゃんはいくら見ていても飽きのこない何とも言えない安らかな良い顔をしています。心が曇っていないから顔が綺麗なのです。
目は心の窓といいますが、心が曇ってくると目もどんよりしてきます。私の目は寝不足でございますけど、目がだんだん汚くなってきます。
世の中には不思議な事があって、人間に、霊が取り憑いている場合、目の玉が死んだ魚の様になっている人がいます。
目に鱗(うろこ)がついた様になっていますが、不思議なもので、ついている霊をお救いした途端にその方の目は綺麗になります。
去年の暮の事ですが、静岡である赤ちゃんがこのままいけば半身不随で一生下の世話をしなくてはいけない、大手術をしても治るかどうか分からないという事で、何とか治して下さいという連絡があって、寄せて頂きました。
生まれて一ヶ月の赤ちゃんが手を出されて合掌されたのです。
おばあちゃんもお母さんも泣いて「こんな赤ちゃんが合掌して……」と言って感激されました。
生後一ヶ月の赤ちゃんが抱かれて、小さな手で合掌される姿を見せて頂くと、人は神の子であり、人の心の中には仏性、神の心が宿って下さっている事を目の当たりにさせて頂く思いがしました。
それがだんだん成長して、手足が自由に動くようになっていたずらをし始めますと、大人の目で見ていけない事は「いけません」と叱られます。
その度に子供さんにとっては都合が悪いのです。自分のしたい事を止められますからだんだん心に曇りを作ります。三歳ぐらいになりますと、ものの見事に心の中は真っ黒になります。
神の心と人間の心との間にカーテンを下ろしてしまいます。こうして幼い頃、善悪の判断もつかない時に犯した罪の上に、成長と共に苦しみの原因を積み重ねてその苦しみを背負いながら生きていますから、殆どの方が亡くなった時うまく成仏できないで、硬直を起こしてしまいます。
私達は硬くなるのが当たり前と思っていますが、これはうまく成仏していない証拠です。死後の体が柔らかくて温かく、皺も消えて綺麗なお顔になっている方は間違い無しに迷ってはおられません。
人間はこの世だけが全てではありません。それを死ぬのは嫌だ、死にたくないと思いながら死んでいきますと、生き続けたいという正への執着の為に迷ってしまいます。
あの世に帰っても魂は生き続け、そしてまたやがてこの世へ転生してくるのであり、今は修行の過程であるという事が理解できた時、死への恐怖は自然となくなります。
私達の学びの仲間は、死ぬという事は少しも怖いと思わなくなりましたとおっしゃっています。
怖くないからといって自殺してはいけません。これはいい所へ行けないのです。自殺は自然の法則に背く事で神の御心に背く行為ですから、自分の良心が自分を責めてきて、救われ難いのですね。
自殺された方に縁がありましたら、
「あなたの自殺という行為は、ほんとうの神様の御心に背いた行為です。その事に目覚めなさい。神様に背いて人は幸せにはなれません。自然に従った生活こそ神に従う生活です」と、よくお話させて頂くのですね。
神様は「汝らは我が愛し子であることに目覚めよ、愛ゆえに汝らをこの厳しい現象界に旅立たせしものなり」と言われています。
可愛いから私達をこの世界に生まれさせて、私達の魂を進化させ、神の様な心にさせるために転生輪廻させて下さっているのです。
私達の学びの友、ご縁のあった方たちはみな綺麗なお顔でこの世を去っておられます。そういう嬉しいお便りを次々と頂いております。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年4月22日
日々の生活を振り返って、「私の今までの考えは間違っていたなあ」と気付いたら心が軽くなります。心を軽くしておきますと、やがて全ての方に訪れる死の時に、苦しみ少なく、軽いが故に素晴らしい世界へ上がっていく事が出来ます。
死ねば終わりであるとか、燃やしてしまえばなくなるとおっしゃる方もありますが、死後の世界は確かにあるようでございます。
あるおばあちゃんは、自分のお兄さんが亡くなられたあと身体が悪くなりまして、今朝もここで横になって死にかけているほど具合が悪かったのですが、お兄さんに天上界へ上がって頂いたら、たちまち身体が良くなられた様です。
見えない世界はないものと思っておりますが、形として見えない世界があるという証拠として、私達の肉体を通して、つまり物質を通して不思議な現象を見る事が出来ます。
先月香港でフェリーに乗る時、乗り場まで歩いた後の大地がキラキラと光っているのがビデオに映っています。歩いた後に金がいっぱい出ているのです。私の立っていた所には丼一杯ほどの金粉が出てきました。
常識では考えられない不思議な事を、形として現して頂いています。理屈では考えつかない事がなぜ起こるのかというと、
神様の御心に近づけさせてほしい、この肉体をもって実践させてほしいと願って、行いを積み重ねていきますと、目に見えない神様の全く次元の違う世界からの証として、普通では考えられない、人智では計り知れない事が働きかけられるのです。
私達がやがて帰っていく世界からの働きかけです。私達は暗い嫌な世界ではなく、喜びと安らぎと調和に満たされた素晴らしい世界へ帰らなくてはいけないのです。
数え切れないほど多くの宗教がありますが、死後まで救われる宗教というのは余り聞きません。
念仏を唱えたら極楽へ行けるとか、一生懸命拝んだら極楽へ行けるとか教えていますが、殆どの人は死後硬直のために醜い姿に変わっています。
私達の学びは、自分の過ちに気付いて神様にお詫びをして悔い改め自ら目覚める学びをしています。その時神様から許して頂けます。
拝まなくても、お参りをしなくてもいい、ただ「ああそうか、私は間違っていた」と気付かせてもらえばいいのです。正しい法には偉大な力が秘められていますから、大往生なさった方の報告はたくさん届いております。
「南無妙法蓮華経」と唱えれば素晴らしい世界に救われるという信仰をなさったあるご婦人の方と縁があってお会いした時、私の目が何万ワットという光で光ったのを見たそうです。
生きた人から「こんなにすごい光が出ているのを見た事がない。これは正宗より上だと思った」とおっしゃっていました。
その方が今まで信仰していた宗教の偉い方が亡くなった時、
「綺麗なお顔で極楽往生させて頂きました。どうぞ見てあげて下さい」
と言われて、顔を覆ってあった布をはずして見ましたら、それはそれは恐ろしい顔で、目は落ち込んで暗い山間(やまあい)の日の射い陰気な池が二つあるようで、まるで牙を向いた様な相になっていたそうです。
死後そのような醜い姿になったら、いくらこの世で偉い方でありましても、いい世界へ行く事はできません。
他の宗教の批判をいう事はないのですが、間違った宗教からは目覚めて、幸せにならなくてはいけません。ある宗教では選挙闘争、折伏闘争、題目闘争という事を教えております。これでは決して安らぎは得られないのです。
闘争の中に安らぎがあるはずがないからです。闘争を教える様な宗教も全て同じで、本当の神様から離れた教えです。
神は争い戦いなさいとは言われません。神は完全なる愛、完全なる許しであり、その愛の行ないこそ神の御心です。
「私の宗教は正しい。他の信仰をしていたら地獄へ行く」と、他を非難中傷するのは、神の御心から離れます。
常に自然を愛し、人間を愛し、完全なる許しを教える事こそ本当の教えではないかと思います。他を裁く時間があれば自分自身を裁く時間を持つ方が大事ではないかと思います。
全く無償の、何のものも求めないご奉仕をさせて頂く事です。午前中三十人ほどの癒しをさせて頂きました。間違ってもおらっては困るのは、私達の学びはあくまでも自力であって、病気治しではないという事です。
病気治しはただ方便であるという事を理解する事です。癒しというのは神様がいて下さり、私達は皆同じように五官、肉体を持ち、その肉体を通して人を救う事が出来るという一つの証であり、心が救われていくためのただの方便だという事をわかって下さい。
あそこへ行けば病気が治る、歩けるようになったというだけでは何にもならないのであって、日々の生活の中で、心の正しいあり方を実践すれば、健康が頂けて病気も癒され幸せになれるのだという事を理解して下さい。
心に目覚めないでいて、痛み苦しみが救われたとしても、原因が心にあるものなら、その原因がとれていなければ結果を消したとしても、また原因が出て病気は後戻りします。まず心を自分で綺麗にして愛の実践をして頂くのが、健康になり幸せになる秘訣ではないかと思います。
心が綺麗になった時、死後の世界もまた素晴らしい世界である事が約束されます。「心行」の解説は今、「八正道」についての勉強を進めています。
お釈迦様は「苦しみを滅し、解脱する道」が正なる八支(はっし)とお説き下さいました。その苦しみとは、まず欲望です。欲望がなければ生きていけませんが、必要以上の欲、つまり「貪欲」を持ってはいけません。
お腹が空けば適当な食事を適当な量だけ食べ身を養う事は善ですが、美味しいからといってお腹いっぱい食べて腹痛を起こしたら、これは悪です。
「欲望」というのは行ないを起こす前は善でも悪でもないのですが、捉われた時は悪になり、その行ない次第によって善にもなり、悪にもなります。
お腹が空いたといってよそのものを盗んだら悪ですが、適当に頂いて心身の健康を養った時は善き行いです。
自分の欲望をどう使うかが問題であって、欲望に捉われると際限がないものです。のどが渇いて水が欲しいと求める欲望を仏教では「無記(むき)」という言葉で説いています。
「無記」というのは善でも悪でもなく本来人間にあるものです。欲望の使い方によって、咽の乾いた人が水を求めて止まない様なのを「渇愛(かつあい)」という言葉で説かれております。
「求めて止まない」のをインドの言葉ではタンハーといいます。
「欲望」の中には3つの欲があって、
その一つは欲愛(性の欲望)、
その二は有愛(美味しいものを食べたい、人より良い家に住みたい)、
その三は無有愛〈名誉、権力、名声を持ちたい)
です。生きるための欲望、渇愛という求めて止まない欲望が私達を大きく苦しめています。その求めて止まない思いを大きく滅するのが「八正道」だといわれています。
その教えの中に、「比丘(びく)たちよ、これが区の滅尽の聖諦(せいたい)である。渇愛を余すところなく滅し捨て去り、もはや執着するもののなき状態に至る。求めて止まない欲望を心から離し、苦しみを滅してしまう方法が正なる八支の道である」と説かれています。
「正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ること、正しく行じること、正しく生きること、正しく精進すること、正しく念じ、正しく定に入る(反しする)こと」と、正しい八つの道を説いて頂いています。
人間は欲愛とか、生きるための自己保存や自我我欲の欲望とか、求めて止まない地位名誉権勢欲とか、いわば渇愛の塊のようなものです。
政治家の話を聞いていると恥ずかしいです。色々な政党の偉い人が話しているのを聞くと、皆「自分が正しくて、人が悪い」と言い合いをしていますが、自らを正す事が正しい道であって、人の間違いを正す道ではないはずです。
「八正道」には八つの正しい生き方が示してあります。この世には苦しみがあるというのは真理であり、苦しみは生まれ起きるというのも真理であり、生まれ起きるものであれば、これを滅し尽くす事も真理であり、滅尽に至る道も真理である。
苦の滅尽に至る道こそ「八正道」であると、説かれています。
正しい「ものの見方」をするのには、心が平静でなくてはなりません。腹が立っていたり愚痴に捉われている時、また他を憎んでいる時は正しく見る事はできません。また疑心暗鬼でいても正しく見えません。
そのような思いを一切持たず、平静な心で物事を見た時は正しく見えます。人の話を考え事をしながら聞く時は、耳はあいていても聞こえないものです。心が他の事に集中していると、五官が働いてくれません。
私達は自分の心のあり方によって幸せになったり不幸せになったりします。喜びいっぱいの幸せの中にありながら、その心を横に向けたために幸せを失ってしまう方が多いです。 聖書の中に、
「賢い女はその手で幸せを築き、愚かな女はその手で幸せを破壊する」と書かれています。どうぞ愚かな女にならないようにして下さい。
男の人も同じ事ですが、女性の方に多いのです特に注意して頂きます様に。これは私が言っているのではなくて、神様が言っておられるのです。
「正しく見る」には、しっかりと心を据えて見なくては見えません。いっぱい花が咲いている中にあって他の事に心が集中していたら、綺麗な花さえ見えないのであって、そういう心では、ものが正しく見えるはずがありません。
正しくものが見えなかった時、私達の心は正しく思えないのです。間違った見方をすると、間違った思い方をするようになり、間違った思いをすると、間違った言葉が出てきます。正しく見た時、正しく思えるはずで、正しい言葉が出てきて、正しい行ないが出来るのです。
「正見」は、3つに分ける事ができます。
一は、「妄(もうぼ)」を離れ、間違った見方をしない事です。明晰でない、如実でない、真実に即さないそういう明確に話さない言葉は間違いです。
正法を学ぶ者は「八正道」を実践してこそ苦しみから救われるとお釈迦様は説いておられます。事実無根の事を確認もしないで言ったり書いたりしたら、お釈迦様の教えから失格とい事です。
真実に即していない言葉は使ってはいけません。真実に即さない明確でない言葉を使う事は一般的な言い方をすれば「嘘つき」であり、悪い事です。
第二は、「転倒」を離れる事です。人間は「常転倒」していますが、この世にあるもので常にあるものは何ものもなく、全ては移(うつ)ろい変わっているという事です。
赤ちゃんは何年か経てば成長し、一人前になり、年老いてやがて死んでいきます。花も、種を播き芽が出て成長して花が咲きますが、時間が経てば消えていきます。移ろい変わりゆくものが、いつまでもあると錯覚を起こしていますが、その先には必ず死がやって来ます。
これは厳粛なる事実です。自分はいつまでも生きられるのだと錯覚を起こして、よその方が亡くなられると、「気の毒にねえ、まだ若いのに」と、他人事のように言っていますが、これはやがて必ず来る自分の事です。
常にあると思ってはいけません。「移ろい変わりゆくもの」と、自覚する事です。これを常にあるものと転倒するのが私達です。
本来この世というものは苦しみの海であるのに、楽な世であると錯覚を起こしています。自分の思う様にならない苦しみがあって当然なのに、楽な世である様な錯覚を起しているのです。これを「楽転倒」といいます。
本来は不浄なる存在であるべき人間を、浄なるものと錯覚を起こしています。
お釈迦様は人間の肉体は目くそ、鼻くそ、歯くそ、耳くそ、便尿など不浄なるものを詰め込んだ皮袋の様なものと言われましたが、それを浄なるものと錯覚を起こしているのです。
お釈迦様のおっしゃっている不浄なる存在を、浄なる存在と「浄転倒」しています。
まず転倒を離れ、錯覚した見方をしない事です。この事をはっきりと知る事です。常に無きものをあると錯覚し、本来苦しみである人生を楽なものであると錯覚して、ちょっと苦しいとすぐ私は不幸だと泣き叫びます。
親子の関係も夫婦の関係も同じことで、いつまでもあるものと思っています。「我転倒」は自分自身さえやがて消えてなくなる無我なる存在を「我、有り」と転倒します。
先日もご主人に先立たれて毎日泣いてお墓参りをしている六十代半ばの女性の方が来られて、生きていた時は、ガラスを粉にして食べさせたけど、亡くなったら毎日お墓に参って泣いていると言われます。
ひどい人もあったものです。女の人は怖いから男性の方は注意しないとガラスを食べさせられます。逆に、奥さんがあまりご馳走を食べさせるとご主人は必ず病気になって早く死にます。
ご馳走を食べると寿命を縮めてしまいます。腹八分目か、六分目ぐらいが1番いいのです。それを十二分目ぐらい食べ過ぎるから身体に良くないのです。
死ぬと、泣いてお墓へ参っていますが、これが二十年、三十年寿命が延びたらどうなると思いますか。
わずか二十年、二十五年の差で毎日泣いていた人も、もし夫が病気になり八十過ぎて看病疲れしてしまいますと、
「おじいちゃん、もういい加減死んで下さいよ」と、頼むようになります。人間の心というものはいつか移ろい変わっていくものです。
人は極端を喜ぶ性質を持っていて、すごい苦行をするとか、快楽主義に走るとか、好き勝手放題にすればいいのだという思いに向かいがちですが、両極端の生き方を避けて、中道の道を生きるべきです。
以上の3つ、「妄」「転倒」「極端」を離れ、心は常に平静を心がけて日々の生活で実践した時に、「八正道」を行じる事ができます。
これをお釈迦様は「苦しみを解脱する道」とおっしゃっています。皆様にはどうぞ心のあり方に目覚めて頂いて、お幸せになって頂きたいと思います。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年5月27日
「心」を学ぶという事がなぜ有り難いのか、尊いのかといいますと、
「心」は私達の肉体を支配している目に見る事のできない力であり、
その心に目覚める事によって幸せにもなり、心の在り方によっては不幸にもなり、色々と人生の行き先が変わってくるからです。正しい心の在り方を私達は学んでいます。
自分が幸せになれたなあ、良かったなあと心の中に喜びた頂けた時、苦しむ方や、縁ある方に、「心の持ち方によって私はこんなに楽になりました。あなたもそのように心がけられたらいかがでしょう」と言って、自分の喜びを他に伝えていく事ができます。
これには時間がかかると思いますが、人類全てが感謝や思いやりの心に目覚めた時、この地球上は仏国土、ユートピアになります。
まず私達一人一人が正しい心の在り方を学び、そして幸せになり、その幸せを縁ある方々に広めていく事、これが地球の幸せな惑星、調和された惑星になっていく事に繋がります。
高橋信次先生は講演の中で、「私達は、この地球を調和しさらに次の天体を調和させる為に、若い星へ移っていくものである」とおっしゃいました。
そういう大きな使命、目的を頂いて生まれてきております。
昨夜も、高橋信次先生のお姉様から電話を頂きまして、どうぞ頑張って下さいと励ましの言葉を頂戴しました。本当に有り難い事です。
「一人でも多くの方を救って下さい。信次先生の亡き後も、どうぞ法を曲げない様に頑張って下さい。そして学びの場にお集まりになった皆様にどうかよろしくお伝え下さい」という事で御座いました。
「心行」の勉強は、今特に大切な「八正道」の部分について学んでいます。
「正しく仕事をなし 正しく生き」
私達は生まれた限り、肉体を動かして仕事をしなくてはいけません。この世に生まれて、何一つ仕事もせずにのらりくらりと一生を過ごした場合は、これは人様の血と汗による労働力に生かされてもらいながら、何のお返しもできないで、ただの人のご苦労を担って生きている事になります。
こういう生き方は吸血鬼と同じです。人の血を吸って生きるのは、正しい生き方とはいえません。仕事というものは他への恩返しだと考えて頂いて、精一杯努力すれば不足の思いは出ません。必ず道は開けてくるはずです。
正しく仕事をなすとは。「正行」つまり、正しく行ずる事ですね。仕事ではなくても日々の生活の中で人間として正しい行いをする事にも繋がります。が、さらに仕事を通して魂の進化をはからなくてはなりません。
大学を出てお勤めをされる方の場合、学生の間はこちらからお金を持っていって教えてもらいますが、職場へ入ったら、向こうからお金をもらうのですから、そんなに気楽にはできません。
「やあ、仕事はしんどいです」と言いますけど、「それは当たり前、今まではお金を出して勉強していたけど、今度はお金を頂いて勉強するのだから、それはきつくて当たり前ですよ」とよく話します。
今月の「道」に有名なキリスト教学者のヒルティーの言葉を書いて頂いているのですね。「およそ神経病患者というのは多少の差はあれ、全て病める魂の持ち主である。まずこの魂から治してかからねばならない」と。
病気というものは大体において耐え難いものですが、もしその人の精神生活が疲れ病み、挙句の果てに死んでしまう様な場合には、病気は人間を台無しにしてしまう災いです。
精神生活さえそのような状態でなければ、内的生命つまり私達の霊ですね、この内的生命を損なわずに、辛い肉体的苦悩を堪え忍ぶばかりか、それによってさらに価値を加えていくような人々も珍しくはありません。
人は魂の力を持たなければいけません。この力によって苦痛を耐え抜くばかりでなく、次第に肉体を強くして行くことも出来るのです。
「健全な魂は健全な肉体に宿る」のではなくて、「健全な魂が肉体を健康にし、健康を維持していく事ができる」のであって、病める魂は間違いなく肉体を弱めます。正しく行じる事が出来ない場合、精神的に不安となります。
精神的に健全であれば、肉体もまた健全に働いてくれます。精神とは何かというと、私達が見ることの出来ない心の奥底の作用です。
私達は子供の頃、まず健康な肉体があり、その健全な肉体に健全な魂が宿ると教育を受けました。しかし本当はその逆で、健全な魂に健全な肉体が従ってくるのですから、健康になるという事は、まず魂です。
「正しく道に精進し 正しく念じ」
神様の御心をもって生きる事が、正しく道に精進する事です。精進するのですが、私達にとってはこの正しい生き方そのものが厳しいのです。許せない人を許さなくてはなりません。そして全く無償の愛を実践するというのは、人間にとって大変難しい事です。
神様の心を人間が行うのですから、難しくて当然です。それを一つ一つ努力して日々の生活に生かす事が正しく精進する事だと思います。正精進ですね。精進に励む正しい生き方が分かったら、今度はそれを実践する事です。
次に、「正しく念じ」と説かれています。
「思い」と「念じ」となぜ二つ別にして書かれているのでしょうか。それは「念ずる」のと「思う」のとは違うからです。
思いというのは、ころころと飛び回って一時としてじっとしていないその人の心をいいます。静かに心を一か所に止めようと禅定、瞑想しましても、思いは次から次と走り回ります。まるで野の猿のようにじっとしていません。一か所へ思いを集中しようとするのはそれほど大変な事です。
「念ずる」とは、あの人は憎いなあ、憎いと、そこへ止まっていくものです。正しく念じないで、誤った念じ方をしますと、それは自分に返ってきます。
愛知県のある女性の方で、今日もお見えになっていますが、今はもう素晴らしい方に変わってくれたのですけど、その方はホテルの仲居さんをなさっているのです。
仲居さん頭(かしら)やお姉さんがいて、性根の悪い人からいけずをされ「私はこんなに苦しんでいるのによくもあんな事を言ったものだ、今に見ておれ、ひどい目に遭わせてやる」と、帰ってきてこの様に念じるのです。
今に見ておれ、えらい目に遭わせてやるといって何時間も念じている内に、その方自身頭が痛くて辛くなり、相手の方もこの人の念によって悪くなっていきます。
「今日は頭が痛くて辛いのです」と言うと、「そんな頭が痛いくらい何ですか、やりなさい。誰でも頭が痛いんだ」と言われるのですね。
そこで帰って、また念じると、その人は頭が痛くなり、膝も痛くて動けなくなったのですが、しかしお膳は運ばなくてはいけないし、
その上に「あなた、何してるの」と言って叱られるし、今に見ておれ、とやったら相手が念じた通りになり、同時にその人自身も痛くなったのです。
「私には超能力があります。私が思ったら、思った通りになるのです」と言われますが、
「それはいけません。そんな思いをしていますと、あなた自身が苦しいはずです。もう今日のご縁で再びそういう思いをしないで下さい。さもないとあなた自身が幸せになれません」と、お話させて頂いたのです。
不思議なことに、この方がよそへ遊びに行ってお土産を買って知り合いの所へ送りますね。すると包みを開けるとみな腐っているのです。
不思議な現象です。「あの人は腐ったものばかりくれる」と言われるのですが、当人は新鮮なものを発送しているのです。ある時も北陸の方からエビの生きのいいのばかり詰めて人に送ってあげた所、着いた荷物を明けたら髭(ひげ)が1本だけ出てきたといいます。
まあ作り話の様な話ですが、誤った念じ方をする人は生活が不調和で、ものを腐らせてしまうのです。
しかし今はこの方が送られても腐りません。この間私の所へわかめを送って下さいましたが、それは新鮮な美味しいわかめが届きました。
人を苦しめるのには色々な事情はありますが、自分にとって都合が悪いからといって「今に見ておれ」と、強い念を集中して発しますと、それは悪念で、そういう悪い念は他を毒していきます。
その人の持っている闇の想念が、その方の送るものを腐らせていたのです。
「相手を悪くする様な思いは一切持たないようにして下さい」とお話させて頂きまして、今は素晴らしいお方になっておられます。そうしますと腐りません。
「念ずる」とは、他の幸せを念ずることです。決して他の不幸を念じてはなりません。念ずることは「正念」が大事かと思います。
「一念岩をも通す」という言葉もあります。念の強い人は大きな水晶の原石に年力だけで穴を開けてしまいます。その石を私も実際に見せてもらった事がありますが、それぐらい強い念が出ているのです。
今でもヒマラヤの山奥に行くと、念力で大きな岩を「ウォー」と言って割ってしまう人があるそうですから、念というのはものすごいエネルギーですね。そのエネルギーを闇に使おうと、光に使おうと同じ力が出て来るのです。
悪い方へ使えば力が弱く、良い方へ使えば良く出るという事はなくて、同じだけのエネルギーが出るのです。
昔、悪い人の藁人形をこしらえて夜中の丑三つ時に、相手を呪い念じて釘をカンカンと打ちますと、そうすると相手殺されたりする事がよくありますね。これは悪念です。
念は常に人様が幸せになるように、良かれと念ずる事ですね。そのようにしますと、それは光です。
神様がいらっしゃるのなら、悪念には力をなくし、良念にだけ力を与えて下さったらいいのにと思いますが、同じ力を与えられている事、つまり、どちらに使ってもよいという能力を与えられている事が、私達の魂の修行において大事な事です。
結果は悪に使えば悪として自分に返ります。善に使えば善として返ってきます。自由に使ったあと、原因・結果の法則で自由に返ってきます。ただし、その刈り取りは自分自身であり、決して他人は刈り取ってくれません。
地中に種を播いて、丹精込めて育てた綺麗な花を、「ああ綺麗な花が咲いているなあ、一枝欲しいなあ」と、切り取って帰る人もありますし、せっかく実らせた果物も心無い方が盗んでいく場合もあります。
しかし心の中に播いた種を育てて咲かせた花は、どれほど綺麗な花であっても誰も盗む事はできません。収穫は自分以外の人は誰も出来ないのです。
心の収穫は自分自身であるという事が分かってきますと、悪い種は播かない様に努力する事ですね。良くない種を播けば良くない芽が出て、良くない花が咲き、良くない実がなります。良い種を播けばその逆です。
どちらを播いても人は刈り取ってくれませんから、収穫は自分だけのものとなる事を知らねばなりません。
今まで、そういう事には一切気が付きませんでした。
「好き放題にしたらいい、まさかそんなにきっちり返ってくる事もないだろう、ちょっとぐらい悪い事をしてもどうもないだろう」
と思っておりましたが、それが私達の苦しみの原因になっていたのです。
苦しみの原因をできるだけ作らない事です。
「正しく定(じょう)に入るべし」
「定」とは禅定三昧の定で、反省させて頂く事です。「正しく定に入る」とは、反省の後で、安らぎの一時を持つ事です。
反省の後、五分でも十分でも「ああ有り難いなあ」という感謝、安らぎの時間を持つ事が正しく定に入る事です。
定に入るというと、入定されたと受け取って、死ぬことかなと思いますが、そうではありません。反省をして、自分の過ちを悔い改め、明日の生活に再び過ちを犯しませんと誓って、そのあと感謝と安らぎの時を持つ事です。
この「八正道」を行じ実践した時、私達は諸々の煩悩から離れる事が出来るのです。人間は煩悩にくるまれ、煩悩に包まれて生きている様なものです。煩悩とは肉体の五官からくる自己保存と自我我欲です。
この煩悩から離れる方法として、自己中心の見方を一旦捨てて相手の立場に立って見る事を今日まで度々話してきましたが、さらに自分が部外者の立場になって、自他のいずれにもつかない見地から、自分と相手とどちらが正しいか間違っているかを見た時に、煩悩から離れた正しい見方ができます。
すべては原因によって結果が出る、そして結果が現れたら必ずそれには原因があります。その原因は反省する事によって知る事が出来ます。私達は悪い原因を作らないために、八つの正しい生活をすることです。
私達は知らず知らずに過ちを犯す場合も沢山あります。過ちだと知って犯す場合も、知らないで犯す場合もありますから、私達は禅定で反省する時に、
「知って犯す罪、知らないで犯す罪をお許し下さい」と言ってお詫びすることです。知って犯す罪は悔い改め、知らずに犯す罪は自ら見出すことです。 この時心は必ず安らぎます。
そのどちらが罪深いかというと、普通この世的な常識で考えますと、知って犯す罪の方が罪深いと思うのですが、実は知らないで犯す罪の方が罪深いのです。何故かと言うと、知らないで犯す罪は罪の意識がありませんから、
それが罪深い事だと目覚める事が出来ないのです。ですから次の罪を積み重ねます。知って犯す罪は、「ああ、えらい事をしたなあ、あんな事はしなければ良かった、しまったなあ」と思います。
罪だと知らなかったら、そのようには思えませんから、知らないで犯す罪の方が重いと、教えられているのです。知って犯す罪は悔い改める事が出来ます。知らなければ改める事ができないから、罪が深くなります。
このように八つの正しい生き方をさせて頂く事は、幸せになるいちばん大切な根源であると説かれています。正法というものと反省とは切り離す事はできません。常に己を見つめる練習をすることです。
他を見つめなくていいのです。反省する時、自分を見ないで他を見つめ、「あの人はあそこが悪いな」と他を見る事は、反省とは違います。
これは人を裁いているのです。
私達は己を見つめなくてはいけません。今日まで過去において私達は人に知られたくない事、誰にも言いたくない事、そういう罪を色々と背負っているはずです。失敗、過ち、それらを覆い隠して生きているのが我々凡夫の姿です。
「反省」とは、それらを一つ一つ掘り出していくのです。
そして、1番知られたくない、1番嫌な自分自身を引き出すことです。
「かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得
迷いの岸より 悟りの彼岸(ひがん)に到達するものなり」
「八正道」の生活を実践した時に、私達は求める事なしに「神仏の光明」が与えられます。私達の生きるこの世は迷いの岸です。そして向こうの岸というのが悟りの彼岸です。
私達はこちらの岸で迷っていますが、「八正道」を実践する事によって向こう側の悟りの岸へ到達する事ができます。
お釈迦様の当時のインドは、ガンジス川(ガンガ)は川幅も広くて、こちらに住んでいる者にとって対岸は、素晴らしい世界に思われ、向こう岸はいいあなと思っていたのです。それを仏教では「悟りの世界」と説かれたのです。
その向こう岸が彼岸です。春と秋に「お彼岸」がありますが、あれは向こうの岸の事で、それは苦しみのない安らかな悟りの世界です。その世界へ渡るためには「八正道」を実践しなさいと説かれてます。
「この時に 神仏と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん」
心に神仏の光明を頂いた時に、神仏の心と己の心が調和され、一体となる事ができます。調和とはバランスであってハーモニーのことです。
大変難しいことですが、神様の御心を人間が行いをもって現した時、神の心と調和されるはずです。ですから日々の生活において、自分が可愛いという自分を甘やかす生活をある程度犠牲にして、他へ開いの実践をする事です。
神の御心(神我)で、差別をすることなく、どなたでも平等にお付き合いをし、人を責め裁く事をせず、どなたもみな許させて頂くことです。そして無償であること、他から一切のものを求めず、ただでさせて頂く事です。
太陽は私たちに幸せになる方法をちゃんと教えて下さっています。太陽の心(神の大愛・慈悲と愛)を実践した時、必ず幸せが約束されます。
何故かと言うと、自分の心が苦しまないからです。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年8月26日
この世の中は、苦しみ、悲しみ、辛いことを体験する様に作られております。しかしよく考えてみますと、全部自分がその苦しみの原因を作っているのです。
「周りの人はみな嫌な人です。私に意地悪をされます。対人関係がうまくいきません」と言われる方がよくありますが、ご自身が心を変えていかれた時、周りの方が良くなってくれます。
自分が良くなった時、周りの方も変わってくれるのです。悪いのは相手ではなくて自分自身が気付かない内に苦しみの原因を作っている場合が殆どです。
その事に目覚めて過ちを正した時、周りが皆いい方に変わって頂けます。
その事を知らないから「相手が悪い、良いのは自分である」と、錯覚を起こしているのです。
私も高橋信次先生にご縁を頂くまでは、迷える人生を送ってきました。先生のおかげで、「ああそうであった、どうしてこんな苦しい辛い思いをしなくてはいけないのかと思ったけど、それは全部自分自身に原因があった」と、はっきり掴ませて頂きました。
そして自分が変わった時に、周りも変わってくれる事を、身をもって掴ませてもらいました。
私の所へ来て下さる方は、皆さん素晴らしい方ばかりです。入れ墨を彫り込んで、町では恐ろしくて震え上がるような方でも、私の所へ来られたら、皆幼な子の様になって頂けます。
自分が変わった時、どんな方でも皆素晴らしい方に変わって頂けるのです。今まで、背中からお尻まで入れ墨を入れた方がよく来られました。
治療すると、「痛い、痛い」と、そんな方に限って悲鳴をあげますから、「身体中に傷つける事を思えば、私は身体に傷をつけないのだから辛抱しなさい」と言って、痛い目に遭わせます。
もう十年以上前のことですが、頭のある組で揉め事が起きてもその人が顔を出したら治める力をもっていたという、八十何歳かのおじいちゃんが見えたのです。この人は背中全部に入れ墨を入れていましたね。
木崎という有名な外科医の執刀のもとに麻酔なしでお腹の手術をしたそうで、「私はあなたに命を委せたので、好きにして下さい」と言ったのだそうです。
ところが、その時よりも私が触った時のほうがもっと痛いと言われるのです。「えげつなく痛いですなあ」と、悲鳴を上げる事があって、このご縁で、子分の方達が次々と私の所に見えたのです。
親分の命令だから来なくては仕方がないし、私も普通ならひどい目に遭わせるのは怖いけど、親分の命令なら怖い事もないので、かなりひどい目に遭わせて治療しましたが、皆さんはにんげんてきにはとてもいい人ばかりでした。
こんな事も経験してきましたが、入れ墨というのは、親から頂いた満足な肉体をわざわざ針で傷つけ、この世的な凡夫の自己顕示欲を示そうとする一つの現われだと思います。
人に対していい格好をしたいという心の働きによって、色々な人生を送っていかれますが、ほんとうの神を知らず、道を知らないから、その様になっていくのですね。
お釈迦様が説かれた幸せへの道、「八正道」を行じる事が、人間として最も魂が完成される道筋です。自分を大事にして、自分の心を苦しめない様にして下さい。
大変なお人好しのおじいちゃんがいて、この人は他人のために一生懸命尽くし、「ちょっとお金を貸してほしい」と言われたら、自分に持ち合わせがない時は人から借りてでも貸すのです。
人が好いから請求する事を知らず、貸しっ放しにしています。
ところが、返してくれないとおばあちゃんが集金に行くのです。
「借りるときのえびす顔、還すときの閻魔顔」とは凡夫誰もが同じことで、借りる時はニコニコ顔で頼みに来ますが、お金を返す時は閻魔様の様に怖い顔です。
ましてや返してくれない時はもっと怖い顔ですから、ばあちゃんは腹を立てます。おじいちゃんはいつもご機嫌ですが、おばあちゃんは内職をして借りたお金を返さなくてはいけません。
この世的に見ると、おじいちゃんは罪が深く、おばあちゃんは一生懸命苦労を重ねて可哀想です。人の好いおじいちゃんと、借金を返すために苦労して腹を立てているおばあちゃんとはそれぞれ死後どんな所へ行ったかといいますと、
おじいちゃんの方は、綺麗な方が紫の雲の上に乗ってお迎えに来てくれて、「有り難いなあ、結構だなあ」と言って死んでいかれたのですが、
おばあちゃんは「わあ、恐ろしいのがいっぱい来る」と言って虚空をかきむしって死んだのです。
この実際にあった話を通して、なぜ苦労させられたおばちゃんが地獄へ行き、苦労させたおじいちゃんが極楽へ行ったのかと、この世的な矛盾があります。その理由はおじいちゃんは自分の心を苦しめる事はなくおばあちゃんは自分の心を苦しめたから、こういう結果になってしまったのです。
自分の心を苦しめるという事はこの世だけでなく。あの世まで続くという事です。思い方を変える事、つまり大難を小難に切り替えていく思い方を身につける事です。
現在、どんなに苦しくても、もっともっと苦しい方も沢山おられるという様に思い方を変えた時、自分の心が苦しまないはずです。心を苦しめない生活を日々に行ないますと、常に心が軽く、光明を頂く事ができます。
「かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得」
心を苦しめないから、神仏の光明を頂く事が出来るのです。自分の心を苦しめた状態の時に神仏の光が入ってくる事は絶対にありません。常に心を穏やかに安らかに保つことによって、神仏の光明を得る事ができます。
「迷いの岸より、悟りの彼岸に到達するものなり」
「迷い」とは、この世に生きて色々な錯覚を起こすという事です。今ある命はいつまでもあるように思いますが、この錯覚が迷いです。
「いつまでもあると思うな親と金」と言いますが、これだけではなく、自分の命もいつまでもありません。また、この世には苦しみがあって当然であるのに、この世は楽な世界と錯覚しています。
お釈迦様が諭された様に、「常に苦しみがあって当たり前の世の中」と、悟る事ができたら、少々の苦しみがあっても当然だと思うことが出来、心は楽になるはずです。さらに、不浄なるもおのを浄なるものと錯覚を起こし転倒してしまうのです。
このように錯覚を起こしている事が迷いです。仏教ではこの苦しみ迷う世界を此岸(しがん)といい、悟った向こうの岸を彼岸(ひがん)といいます。彼岸に到達するには、正しい生活の実践をしなければなりません。
「このときに 神仏の心と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入(い)り 三昧の境涯に到達せん」
先日、九州の方からの電話で「三昧(さんまい)」の意味について質問がありました。「三昧」といは煩悩の炎が消えてしまった涅槃静寂という心境をいっております。
「三昧」とは元来サンスクリット語のサマーディの音訳で、仏教では「心を一つの対象に集中して乱れない精神状態」の事をいっております。
何も念じず、何も思わず、自我を滅した心境、こうした心で私達は生活する事ができます。
昨夜、京都からある奥さんが電話をかけてこられました。その方のご主人は、癒しの能力を持っておられて、一日に五十人も六十人も患者さんが見えるそうです。とても不思議な事をされるので生き神様の様に有り難がられて
いるのですが、ご本人は相手の苦しみを受けてしまってそこから逃れるために夜になると酒を飲みに出かける始末で、外に女性の方もいて一時の安らぎを求めるそうです。そのために生活がガタガタになっているのです。
いくら不思議な癒しの力を頂いても、自分でコントロール出来なかったラ何にもならないです。人も救われ、自分も救われるのが正しい治療のはずです。
私の場合は、お陰様でいくら多くの方を癒させて頂いても、相手の苦しみを受ける事はないのですが、なぜ受けないのかというと、無我の心で、自分という我を捨てきった心で癒させてもらうからです。この心を持っておれば、相手から病や苦しみを受ける事はないのです。
これは治療に携わる者だけでなく、日々の生活においても同じことで、
「自分がしてあげた」という思いを持たない事です。
これは難しい考え方ですけど、「神様が私を使って他のために働いて下さるのである、私がしたのではない」と、思わせて頂いたら、その時は相手から苦しみを受ける事はありません。
これは原因結果の法則から何ものも逃れる事は出来ないという事です。今、苦しみがあればその苦しみは何か知らないけど、過去に原因があったから、今結果として苦しんでいるのです。
自分さえ良ければ人はどうでもよい、人に尽くす事もなく、人に親切にする事もない、こういう人は裏切られる事はないから案外心を苦しめる事もなく、却(かえ)って幸せのように思えます。
しかし、こういう生き方をすれば何らかの形でその家庭は破壊していきます。他に冷たくて思いやりもなく、人に後ろ指をさされながら隆盛にいっていたとしても、親子三代続いたという家は一軒もないはずです。
何故かと言うと、人々と互いに手を取り合って助け合い、調和を目的として生まれてきた者が、目的を果たさずに、神仏との約束を果たしていないからです。
だから、そんな生き方をする者はいつまでも続かない様になっているのです。「親の因果が子に報い」というようになっています。
そこで、良い事をして不幸にならない方法は、徹底して善い行いを積ませてもらって、「これを私を通して神様がして下さっているのだ」と思う事です。そうすれば、腹の立つ部分も少なくなります。
もしも、善き行いをしながら自分の心を苦しめた方は、その苦しみの結果を必ず自分が受けます。しかし、神様が自分を通して相手を助けて下さったと思わせてもらった時は、たとえ相手が裏ったとしても、その裏切り行為は神様に対して通じていくわけです。
途中で腹を立てたら、神様の所へ行かないで、自分が苦しみを受けるから不幸になってしまいます。一切の望む心を持たないことですね。相手のお礼の言葉、喜びの笑顔を求めても得られない時は自分が苦しいです。
一切求めず、自分の善き行いは他(神)に委ねる事、つまり、神様が私を通して善き行いをさせて頂いたのだと思えばいいのですね。その時、人は案外裏切らないそうです。それは、神の愛を受けるから裏切らないのです。
人間には、「私がしてやった」と、恩に着せたがる心があります。これも凡夫の心です。恩にきせられたら、どんなにいいものを貰ったとしても
有難くないものですが、ましてや小指の先ほどの苺や出荷した後の小さいヘタ芋を人にやって、「あそこの家へやった」と言いふらしているのは、そんなものでさえ恩に着せたがる凡夫の心を見る思いがします。
「させていただく」と、「してやった」という心では、全く天と地ほどの違いが出てきます。私達は数え切れない方々の働いて下さったお陰を受けて、生きさせて頂いています。
米一粒、住む家一つを見ても、どれほど多くの方々の汗と労力を頂いているか分かりません。私達が死ぬまで精一杯人様のために働かせて頂いても、
なお返しきれない程の恩恵を受けているのですから、「してやる」のではなく、その万分の一でもお返しさせて頂くという気持ちで、人様のために尽くさせて頂く時、恩に着せる事はなくなると思います。
恩着せる心こそ私達を苦しめる大きな原因となっています。してやった、してやった、といい格好をして自己保存・自我我欲に捉われている煩悩を捨てる事が大事かと思います。
日々の生活において煩悩から離れた思いを学び、精進努力していきたいと思います。
長い年月をかけて「心行」の解説をさせて頂きましたが、私ごとき未熟者がとても解説しきれるものではありません。
「心行」解釈の一端として皆様のご参考にして頂ければ幸せでございます。縁生の友の皆様がしあわせになって頂くことが私の幸せであり、皆様の苦しみは私の苦しみです。日々に精進努力して共に幸せになっていきましょう。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年4月22日
「正しく定にはいるべし」
正しく定に入るとは、自分の心をよく見つめて「反省」をした後、一時の安らぎの時の時間を持つ事です。今日は「反省」について学びたいと思います。
反省とは、自分が生まれてから今日までの間にどれだけの過ちを犯してきたか、それは、思いの中で、また行いの上でどうであったかと徹底的に自分を見つめ自己反省することです。
幼いころの反省に入りますと、必ずお母さんが出てきます。もし友達と喧嘩して、友達を傷つけたり友達を泣かしたりした時、お母さんはわんぱく坊主に代わってお詫びに行って下さいます。
また何か悪い事をして見つかった場合や他の物を盗んだ時には、やはりお母さんが謝りに行って下さいます。
私が幼い頃を反省した時の話をもう一度今日させて頂こうと思います。
私が小学生一年生の時ですから、七歳ぐらいの頃の事です。友達は百姓の子供の子もあればサラリーマンの子もあり、お店をしている家の子もいました。
そういう子供たちは全部遊んでいます。私の場合は水呑百姓ですから学校から帰って鞄を置くなり、「今日はどこの畑へ来なさい」と言われて、すぐ鎌か鍬(くわ)を持って畑へ行くのです。
そして畑の側で遊んでいる友だちを見ては、「ああ僕も一緒に遊びたいなあ、羨ましいなあ」と、常に友達と自分を見比べて、皆は遊んでいるのにどうして僕だけ畑へ行かなくてはいけないのかと、自分の運命を思ったものでした。
たまには遊びたいという思いが昂(こう)じて、ある時、嘘をついて畑を行くのをさぼったのです。
「今日は友達とどうしても勉強しなくてはいけないから」と、親に嘘をつき鉈(なた)を持って、竹とんぼを作る竹を取りによその竹藪へ行ったのです。
そこにはすごい急斜面の竹藪で、小学校に入って間もない頃ですから私にとってはちょっとした冒険です。
竹藪の中に入って手頃な竹を見つけ片足をその斜面にあげて落ちないようにしてから鉈を振り下ろした時、自分の足をスパッと切ってしまったのです。
足の外踝(そとくるぶし)の上十センチ辺りに鉈が当たってしまいました。ここは案外血管も少なく骨が近い所ですからパカンと割れて真っ白な身と中の骨が見えています。さあ、これはえらい事をしたと思いました。
もし畑とか仕事をしていて怪我をしたのなら、「お母ちゃん、えらい事をした、何とかして」と言えるのですが、嘘をついて隠れて悪いことをしたのだから言う事も出来ません。
まず血が出ない様にしなくてはいけないと考えたのです。
私は田舎で育ったので薬草や血止めの草の事をよく知っていましたから、血止めの草を取って、ぐっと縛って傷につけて、その上から血止めの薬で押さえ、
ここを何とか括(くく)らなくてはいけないと思って、やっと道まで出てきて、道の端に落ちていたボロ布で足を縛ったのです。
「えらい事をしたなあ、何と言って言い訳をしようかなあ」と、七歳の幼い頭で一生懸命考えたのですが、いい考えが出てきません。
家の近くまで帰って、私の家と隣の家との間が一メートル近く空いている所へ、冬の間は田の稲を干す長い木が使わないで囲ってあるのですが、
その隙間へ入って、「どうしようか、どう言って親に言い訳をしようか」と思いあぐねていました。
他の山へ木を切りに行って、自分の足を切ったと言えば怒られますから、何とか逃れる方法はないものかと考えている内に外が暗くなり、もう仕方がないから勇気をふるって家の横の入口から「ただいま」と言って入ったのです。
「遅かったなあ、今まで何してたのや」と母が聞くので、「友達の所で遊んでいて怪我をした」と言ったのです。
その時、母は「見せてごらん」と言って「こんな汚い布で。どうして向こうのおばちゃんに言って安配してもらわなかったのや、こんなえらいことになっているのに、痛かったやろう」と薬を塗り、新しい包帯をしてくれたのです。
その時、私は大きな嘘をついているのですが、親はそんな事は関係なしに、「ああ痛かやろうなあ、可哀想になあ、辛かったやろう」
「友達のお母ちゃんはなんで按配してくれんじゃったろう」と言ってくれたその事を、ずっと反省させて頂きました。
不思議なもので、3日、4日、5日と坐って一つの事をずっと追求しますと、その時の場面が本当にそのまま出てくるのです。私が足をパアッと切ったときの感覚がはっきりと出てきます。
あの時の肉の裂けたあの感覚がはっきり再現されるのです。だから本当に反省に取り組むと、その時の状況が詳しく思い起こされます。
この時、親に友達の名前を告げたはずです。そこで、友達の立場に立って考えた時、自分の所へ遊びに来ていないのに、来て怪我をしたと言われたら、その友達はどんな思いをしただろうか、またどんな思いで私という人間を見たであろうか。
相手の立場に立って自分を見た時、「ああ、申し訳なかったなあ」と思います。私は幼い頃から、想いの中では何と悪い奴、悪知恵ばかり働いて、嘘をつく事ばかり思って、何と嫌な人間だという事がよく分かります。
次に母の立場に立って考えてみました。母は足の怪我を見てびっくりしましたが、これは友達の家で怪我をしたのではない事ぐらい分かっているはずです。
血止めの薬をすりつけてボロ布で巻いているのですから、これはおかしいなと思ったはずです。その事よりも、「ああ痛かったやろうなあ、可哀想になあ」という母の愛の方が大きいのです。
その母に対して、小さい七歳の私が嘘をついている、その己というものを見つめた時に、
「何と申し訳ない、お母さんの愛に対して幼い頃から嘘をついていた私、どうか許してください」と泣いて、泣いてお詫びさせてもらったものです。
その時、もし羽があれば飛んで帰っても土下座をしても母にお詫びがしたいという気持ちが湧き上がってきました。しかし羽はありませんし、帰れないので、すぐ電話をさせてもらったのです。
電話の向こうで「もしもし」という母の声を聞いた途端に、心は幼な子に返っていました。私は子供の頃、母を「おかあちゃん」と呼んでいたのです。
電話でその声を聞いた途端に、「おかあちゃん、堪忍してや、堪忍してや」と言ったまま電話器を持ってワンワン泣いてお詫びしていました。
母親の愛というのは有り難いものです。突然電話に出て、幼い頃の呼び方で、「おかあちゃん堪忍して、おかあちゃん堪忍して」と泣いていたら、
「弘、大丈夫か、頭がどうかなったのと違うか」と気遣ってくれます。
「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。どうぞ許してください」と言いますと、「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。
「私の言っている事は頭がおかしい様に聞こえますか」と聞くと、
「いや別におかしゅうないけどな、いい年をしてそんなに泣くから」
親というものは何を知っても心配して下さいます。
次には、どうしようもない罪深い己自身の姿ですね。
今反省させてもらっている自分の意識でもって、幼い時の悪ガキの己に対して、「優しい提言」を与えなさいと教えられました。
優しい提言といいますと、これは難しいことです。つまり自分に、慰めと励ましを与えなさいという事です。
「あなたは幼い頃から、これをしてはいけない、これはしてよいという事をよく知っていました。それなのに親に嘘をつき、他人の山へ竹を盗みに入って、自分の大事な肉体に傷をつけて、あなたは本当にいけない子です」
というように、自分を責める事しか思えないのですが、
「今後は頑張りなさい」と励ますのです。私達の思いにおいて、
「人様には寛大に、己には厳しく」という生き方が基本にある事です。
これが法の姿だと学んできました。私は幼い頃から、そのように生きてきました。その思いが基本にあって、自分を許す事は、自分に甘くなる事だと思い込んでいましたから、自分には厳しくして、人を許してもいいけれど自分を許してはいけないと思っていたのです。
だから何万回見方を変えてみても、出て来る答は自分自身を責める思いしか出てきません。自分を許す事は出来ないものと思っておりました。
皆様も、過去にあった間違いに対して完全に心から許している方は極稀だと思います。自分を許せないのが、自分の良心です。自分は悪いことをしたと、その良心が自分責めるのです。
反省させてもらって、自分というものを見てきた時、許せないものだから、「草1本、木の枝一つにしても人様のものを取ってはならない事を知っていながら、どうしてそのような事をしたのか、これはいけない事だ」といって、自分を責め立てるので、どう見ても反省が出来ないのですね。
何百回繰り返しても同じ答しか出ません。そこで、私のような者が法灯を頂くのは無理だと諦めました。集中的な反省は、自分の心の法灯を頂くためにするそうです。
例えば、夜の真っ暗な部屋に机や物が置いてあり、皆さんがその中にいたとします。真っ暗だからどこに誰がおられるのか全く分かりません。
小さいローソクの灯が1本でもあれば、ああここに居るなあという事が分かります。私達の心の中は反省が出来ていなかったら真っ暗な部屋と同じ事だそうです。
真っ暗な心の中を反省して、ある一つを超えた時に、心に小さい法の灯が点(とも)るそうです。その法灯を頂くために反省するのですね。
ローソクが2本になったらまた余計に明るくなります。よく反省して法の灯が心の中に何本も点ったら、小さいごみが落ちているのまで見えるはずです。
私はいくらやっても出来ないから、もう諦めたのです。
諦めてごろんと転がって、「私のような者が法灯と頂くというような大それた事はありえない事だ。それは心の綺麗な尊い方だけが出来る事である」と、完全に心から捨てました。
捨てるまではもう嫌という程、己を見つめたのですが、どうしても出来ないのです。
そして天を見ると、木陰の葉こぼれの光彩がずっと入ってきて、その何とも言えない光を見ていると、「あんなふうに光を頂けたらいいのになあ」と、また欲が湧いてきて、もう一回起き上がったのです。
しかし自分ではどうしようもない、もしも守護霊様が私について下さるのならと思って、「守護霊様、私はどうしても出来ません。どうぞ正しい反省の仕方というものを私に教えてください」と言って、一生懸命お祈りしたのです。
その時、本当に不思議なことに右前方の手の届く辺りに、私の幼い頃から四十半ばまでの間の自分の姿が写し出されて、みんな見せて頂いたのです。
それこそ立体的で、その当時のありのままの姿・行動・出来事などが見えました。どのぐらいの時間が過ぎたか分かりませんが、あまり長い時間はかからなかったと思います。
まさに意識の世界は時間、空間、距離というものとは一切関係がないという事をはっきりと分からせてもらったのです。その自分の姿は何とも言えない哀れなものでした。
自分に与えられた環境の中で、「ああしたい」「こうしたい」と思いながらどうする事もできない柵(しがらみ)にがんじがらめになりながら、必死に生きている姿を、まざまざと見せられました。
この話もよくしますが、小学校一年生の秋のことです。秋の取り入れで稲刈りをして干し、乾燥すると田園の真ん中にござを敷いて脱穀するのです。
干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、父が足踏み機でギコギコ脱穀しては済んだ藁を後ろに放っていくのですが、その時、積んでる束を父に渡すのが私の役目でした。
この稲束を一つずつ父が最も受け良いように渡しますと、父はザァーッと脱穀してパッと後ろに放ります。
すると、次の束を渡さなくてはいけないのですが、父の手許の受け取りやすい所へ持っていかないと、「何をしているのか」と怒られます。
父のしやすいように次々と渡していくのです。こうすれば一つ一つの取る時間が節約できるわけで、父の体も少しは楽になります。
その田園のすぐ近くは堤防でその上は平地になっており、友だちが来てワイワイ遊んでいるのです。私はちょっとおませでして、もう好きな女の子がいたのですね。
「あの子、可愛いなあ」と、まあ、私の初恋でございます。その子も一緒に遊んでいるので、私は生きたくてたまりません。「男女の愛は苦しみである」と、よくいったものです。
神の愛、アガペの愛に苦しみはないのです。けれども男女の愛には必ず苦しみがつきます。
その女の子の側へ行きたいと思っているのに行けない、友達は楽しそうに遊んでいるのに私は稲束を渡さなくてはいけない、その時の辛かったこと。
その内にだんだん日が暮れてきて、友達は皆帰ってしまいます。その子も帰ってしまいました。私は涙をポロポロこぼしながら稲束を渡していたのです。
父が、「弘、泣いているのか」と、私の気持ちも知らないで言うのです。もし私の心を知ったら、お父さんは腰を抜かしたかもしれません。小学1年生で好きな子がいるなんて、まあ、私は泣きながら叱られながら稲束を渡したものでした。
行きたい、行きたいと思うのです。ところが、そこへどうしても行けない。稲束を渡す役目をしなかったら怒られますから、その場から逃げる事ができないのです。
これと同じようにどうする事もできない事が十代であれば十代においてあり、或いは二十代であれば二十代で、同じように柵(しがらみ)の中で涙を流しながら精一杯生きている己の姿この目に見せられました。
その時、あまりにも哀れな自分の姿を、短い間に全部見せて頂いたのです。私はこんな可哀そうな環境の中で柵に括(くく)られた中で必死になって生き
ている己の姿を見て、思わず「可哀そうだったなあ」と、自分に対してもう涙が止めどもなく流れてきて、こういう厳しい中でよく生きてきたなあという思いが溢れてきました。
「反省みたいなもの、出来ても出来なくてもいい、心に法灯みたいなもの、頂いても頂かなくてもいい、そんなものは関係ない。とにかく私自身を許してあげよう。これほど精一杯生き続けた己自身に対して許しを与えよう。
己に優しく、人に厳しくという生き方ならば法に背くけどそうではなかったのだ。もう法も何もない、とにかく私は私自身を許すことだ」
と思って、自分を許そうと決めた時、心がふわっと軽くなったのです。
本当に心がふわっと広くなり、光り輝いた己をそのまま自覚しました。自分を許した時、どれ程自分が楽かあるかという事を悟らせて頂いたのです。
自らを許させて頂いた時、この肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。意識ははっきりしていますが、頭・手・足・胴はどこにもなく何も感じないのです。
こういう事は生まれて初めての体験ですから、
「あら、私の体が無くなってしまった」と思ったのです。
身が軽いという様なものとは全く違います。完全に肉体の感覚が消えます。私は自分がどこかへ行ってしまったらえらい事だと思いましたから、顔・頭・胸・手足をしっかり掴んで確認しました。
するとやっぱり感じがあるなと思い、自分の全身を探したぐらいです。そして「ああ、やっぱりついていた」と思ったのです。
私達の心の中には想念体という心の曇りの場所があるそうです。それは私達の肉体の五官によって出来ているのですね。想念体が破れた時に、この五官の感覚が全くなくなってしまいます。その事が後になってから分かって、その時の心の状態はこういう風になったのだなと知る事が出来ました。
その時の心境は、もう見るもの見るものが全部愛おしくて愛おしくてたまりませんでした。そこらに生えている草、林の中の樹々を見ると、ああ良かったなあと草に頬ずりをし、樹に抱きついて喜んだものでした。何とも言えない喜びに満たされるものです。
ちょうどその頃、私が反省のために山に入らせて頂く直前に、東京から偉大な方と言われていた人が来られたのです。その方の公演を聞かせてもらいました。「坐って反省する事は要りません。反省する時期は過ぎました」と、
その先生が話されるのを聞いて、
「これはえらい事になったなあ、私は何のために山に入っていくのかなあ、何のために坐りにいくのかなあ」と、すごく疑問を持ったのです。
しかし、行く日も決まっているし、荷物もまとめていましたが、そのまま反省をしに行って坐らせて頂きました。その結果、私は素晴らしい喜びを頂きました。正に心に法灯を頂いたと思います。
口は言葉ではとても言い尽くすことのできない喜びです。法の喜びですね。この時私は、「あの東京の先生は間違った事を言われた、坐って反省は要らないとおっしゃった。しかし私は坐ってこの喜びを得た、
坐る事なしにこの喜びは絶対にいただけないはずである。だから坐ってする反省の実践をして掴んだこの喜びは、誰が何と言おうと、どんな偉い人がどう言われようとそれは関係のない私の心です。
そして間違いのない事実です。だから頭や口でそういう事をおっしゃっても、それは間違いであるという事をはっきりと言い切る事が出来ます。
そういう体験をさせてもらって、反省とは有り難いものだなあ、こんなにも自分が楽になれるものなのだと分からせてもらいました。
私達は成長の過程において、自分のお母さんに数え切れない迷惑をかけているのは事実ですね。しかも母はすべてを許して下さっています。私達全てがそうです。親に心配をかけていない者は皆無なはずです。
また、この世に生まれて一度も過ちを犯していないという人も皆無のはずです。自然に背いた思いや言葉もそうです。思いはすでに心の中で行動が始まっているという事です。
思うから、それが言葉となって発せられ、また、肉体の動きとなります。思うだけならば人に迷惑はかけないと思うのですが、そうではありません。
私が教えを習いたての頃に、こういう話を同業の人にしたのです。すると、ある人が、「長尾さん、殺生な事を言うな、思うことぐらい自分にさせておいてほしい。私は友達の嫁さんが好きで好きで、晩になったらその人の事を思うのが楽しみだ。思うぐらいなら構わないだろう」と言うのです。
それで、私は「いや、思ってはいけないそうです。心の中でもしもその人の事が好きだと思ったとしたら、それはすでに姦淫を犯しているそうです」
と言うと、「何もしていないのだから構わないだろう、なぜいけないのか教えてくれ」と言われるから、
「まず、奥さんを裏切ります。心の中で裏切っています。あなたを信じ、あなたを立派なお父さんと思っている子供さん達をすでに裏切っているのです。また、友達に対してあなたは盗みを働きました。
そのお嫁さんを思う事は、もう盗みを働いた事です。最も危険な事は、もし何かの縁によってあなたをその奥さんが二人きりになる様な機会が訪れた時、
あなたが何とも思っていない場合は間違いは起きませんが、しかし好きだと思っていて二人きりになったら、これはただではすみません。だから、その思いは正しくないのです。思いを正さなくてはならないそうです。」
と、教えてもらった通りに話しました所、なるほどそうだな、私もあまり思わんようにしよう」と、言って頂いた事がありました。
思いは円に触れたら、それが行動となって現れる場合が起きるから、正さねばならないのです。もし現実にそうなった時、今度は苦しみが生まれますから、思いはできるだけ正す事です。それは必ず形となって現れるからです。
思う事で、他に迷惑をかける場合は沢山あります。憎い人があって、
「ほんとに憎いなあ、あんな○は○○でしまえ」と思った時、すでに心の中で殺人を犯した事になります。
たとて相手に聞こえなかったとしても、これは言葉として口に出さなくても、思いとして立派な殺人を犯した事です。言葉についても同様で、常に正しく語らなくてはいけません。
口を開けば、必ず相手に喜びと安らぎと希望を与える言葉を使うように心掛け、それ以外の言葉は一切不要です。その時、言葉の災いから自分を守る事ができます。
「正しく定に入るべし」が、とんだ寄り道になりましたが、これも定にはいる一つの反省の例でございます。皆様も参考にして頂けたら結構かと思います。
「心行」も大詰めとなりました。長い間、本当によく聞いて頂きました。
神の御姿
我は姿あって姿なし
姿あって天地自然・万生万物の中に我が姿を見よ
姿なくして生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証せん
神の御心
いとしき我が子よ いとしき我が子よ
そなた達は幸せに生きよ 健やかに生きよ
己自身を苦しむことなかれ
己を愛し 己を愛するが如く他を愛せよ
汝らの喜びは我が喜びなり
汝らの苦しみは我が苦しみなり
いとし子よ、自らを苦しむことなかれ
汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
自らの神我に目覚めよ
我は愛故(ゆえ)にそなた達を
形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり
いとおしきが故に度に出させし者なり
いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち
旅立ち日より今日までをよく振り返り見よ
我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
もし我が心と離れし箇所に気付かば
それを悔改めよ
その時、汝らの魂は清まれり
我が与えし、その肉の身を持ち
我が思いをこの地上に示し現わせよ
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- No
- 3906
- Date
- 2019.05.03 Fri
宇宙意識に到達した覚者級・最高の超能力者☆ブルーシャ西村様をご紹介♪生霊を除霊する方法♪結婚のカルマとは♪面白神秘話満載♪韓国最高の超能力者・安東民先生総まとめ・輪廻転生・面白秘話♪悟り・解脱・宇宙意識に到達し真の超能力を得る方法♪
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今回ご紹介します「ブルーシャ西村」様は、間違いなく真実において「宇宙意識に到達された」本物の覚者の方だと、心から確信するに至りました。
ブルーシャ西村様も、上江洲義秀先生の様に、テレポーテーションを何回も体験したことがあるそうです。このエピソードで、もう間違いなく…本物の方だと再確認した次第であります。
リンク先のブログは、かなり高レベルの霊的知識をお持ちの方々でも、また新たなる気づきを得られる大変有意義で素晴らしい内容になっております。
私も西村様のブログのお陰で、宇宙意識に到達するとはどういう事か…非常に良く理解出来まして、深い気づきを得られました♪
………悟りへの道が急速に早まった様です♪☆彡(>ω<)☆彡……(≧∇≦)b………ヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪…( ´∀`)b!ヤッタネッ♬♫~♪
ぜひ皆様も熟読して頂いて、悟りへの道を急速に加速して頂ければ幸いで御座います。
ブルーシャ西村様のブログ
まとめて見たい方はこちらへ♪
不幸の予防方法(ここで上記記事が見れます♪)
人間の霊体の読み取り方(超能力神秘話が満載です♪)
宇宙霊とのチャネリング(宇宙意識に到達したお話も♪)
韓国心霊治療・第一人者の安東民先生について
高橋信次先生つながり偉大なる霊性を持つ方をいろいろ調べていたのですが、その中で、中野裕道先生 ⇛ 日本神学 ⇛ 関英男博士 ⇛ 安東民先生という流れで、この偉大なる霊能者の方にたどり着くことが出来ました。
日本サイ科学会の会長をされていた、私も心から尊敬している関英男博士も認めている阿羅漢級の本物の霊能者の方であられます。
原因不明の病気を霊を諭して除霊して解決したり、地縛霊の諭し、等々を色んな技を駆使して問題を解決していく様子が、リアルGS三神さんみたいでカッコよくて、前世因縁話系ではダントツで面白いと思いました♪
日本の古神道研究の第一人者である、中野裕道先生のご著書の推薦者序文まで任されたり各方面から信用されている数少ない本物の霊能力を所持されている方で御座います。心霊治療の韓国第一人者みたいですね。
安東民先生によると、中野裕道師は、非命で行かれた日本の天皇様達の複合霊であること、また万葉集の歌人でもあった柿本人麻呂の霊その他大勢の人々の複合霊であるとのことです。どうも、大きなお役目を果たされる偉大なる魂の方々は偉人達の複合霊であることが多い様であります。
エドガーケイシーさんに似ている感じですが、安東民先生は、写真だけで前世が分かったり、霊を諭すことが出来たり、AOUM振動水で体質改善する方法を発案したりと、マルチな才能を駆使する霊覚者に近い霊能者であられます。
元々、小説家、編集者、兼社長等をされていただけあって、お話の構成がお上手で、話にグイグイ惹きこまれました。魅せるストーリーテーラー能力がある筋立ての巧みな作家だと感じました。本当に面白かったです、輪廻転生話が大好きな私にとっても、買って大満足な書籍でありました。
あまりにも、安東民先生のご著書が面白かったので、とりあえず日本で発売されている本は、「エロヒム何とか」以外は全部買っちゃいました(笑)
これは人類への啓蒙になると深く感じましたので、安東民先生のお話をご紹介させて頂く所存で御座います。
めっちゃんこ面白い
ので、これから乞うご期待下さいませ~☆彡

ので、これから乞うご期待下さいませ~☆彡

心霊治療 安東民 からの引用ですが・・・♬
霊査で分かる過去
豚に生まれ変わった金持ちの成れの果てのお話
私の中学時代の友達に金○○という人がいる。幼い中学時代にも、彼は非常に大人びていたので”親父”という別名があった友である。
平素、考えるのと行動するのが非常に慎重かつ端正なので、普通言われる”法なしにも生きられる人”という評判があり、悪という面は全く見当たらない、そのような友であった。
ところがこの友が、人知れぬ苦しみを持っているという事を最近になって分かるようになったのである。彼の末娘が幼い時、急に原因不明の高熱を出してひきつけを起こし、すぐ隣の病院に行って注射を打ってもらった所、それ以来、ひどい脳性麻痺にかかったということであった。
私が「体質改善研究院」を開いているという事をどこかで聞き、彼ら夫婦が問題の末娘を連れて訪ねてきた。
「私たち夫婦はこれまで生きてきた間、誰にも目立つような悪いことをした覚えがないのに、前の世にどのような罪を犯してこんな娘を持つようになったのでしょうか?」
婦人は涙を流さんばかりの顔でこう言われた。その時やっと9歳であるという、肥満症のために身体だけは大人並みの巨大な体格をもっている少女の目の前において、私は霊査してみた。その結果、次のような事実が明らかにされたのである。
-----いつの時代やら時は詳(つまみ)らかでないが、数十年あるいは何百年も昔のことであった。ある深い山の中に小さなお寺があった。年老いた坊さんとともに、幼い沙弥僧だけのお寺というよりは、庵というのが適当な、そんなお寺であった。
まだ幼い時に、お母さんがお坊さんにあずけて大きくなった沙弥僧は、いつも俗世である娑婆の世界が恋しかった。何となく物寂しい顔をしている沙弥僧を見ると、いつも年老いた坊さんはこう言われるのであった。
「娑婆の世界がどんな苦しい所であるのか、汝は分からないのだ。娑婆の世界は罪を犯さずに暮らすのが難しいのだよ。汝を私に預けたお母さんは汝のために、そうされたのだよ」
「おっしゃらなくてもよく分かっているつもりです。しかし人が恋しいのは、私もどうすることも出来ないのです」
「そのような心がけでは悟りを開くのは難しいよ。次の世にはまた人間として生まれ変わり、ひどい人間苦を経験するようになるだろうね」
このような坊さんのお言葉も、幼い沙弥僧には全然理解できないのだった。昨夜のご飯を炊く煙が細々と上がる山の下の村を眺める沙弥僧の両眼には、いつしか何かを恋い慕う表情がありありと浮かぶのであった。
時たま村に住んでいる信徒の家を坊様のお使いで訪ねるのが、幼い沙弥僧にはまたとない楽しみであった。
沙弥僧がよく訪ねて行く村の信徒の家には、大きな豚小屋があった。沙弥僧はその豚小屋にいる沢山の豚の中でも、特に白く大きな豚が実に好きであった。
豚小屋の前を過ぎ去る時には、いつも決まって道端に生えている草を引き抜いては、白い豚に投げ与えるのが人知れぬ楽しみであった。いつも美味しい草を投げてくれる沙弥僧の顔を、いつの間にか白豚も覚えたらしく、彼が近づくのを見ると鼻を鳴らしながら知ったかぶりをするのであった。
そこで沙弥僧がいった。
「御坊様のお話によると、人間として深い罪を犯すと、次の世に豚に生まれ変わるといわれる。そなたはどのような罪を犯して豚になり変わったのかな?」
白豚は鼻を鳴らしながら草を食べていたが、この言葉を聞くと急にしおれた顔をして、耳をバタバタ鳴らしながら、豚小屋の隅に行き、這いつくばるのであった。その様子は不思議なことであった。
「そうか!そなたはやはり前の世では人間であったのだな」
白豚は前足で土を掘り起こす仕草を始めた。その様子は早く死んでしまいたいと言わんばかりの態度で会った。
「よく分かったぞ。私が立派に修行して神通力が身に付けば、そなたを人間に生まれ変われるようにしてやるぞ。そんなにしおれないで、早く草を食べなさい」
すると白い豚はやおら身を起こして、沙弥僧の前に走り寄るのだった。沙弥僧を見上げる白い豚の目には、心なしか涙が光っているようであった。
「その時の白豚は、前の世の宋朝時代に生きたある金持ちの成れの果てだったのですよ。彼は非常に女色を好んで、人妻でも自分の気にいりさえいれば、どのような手段を使ってでも手篭めにするような人間でした。
その後、彼は死んで前世に犯した数多くの罪のため豚になったのでした。人間が動物に生まれ変わると、前の世の記憶を持つわけです。
万一そうじゃなければ、その人は※永久に動物として生活するようになるのです。(※またいつか魂が進化して人間に生まれ変わるまで)
彼は白豚に生まれ変わった後、後悔をしたけれども、それは何の足しにもなりませんでした。豚として生き、人間たちの食卓に上ることによって罪滅ぼししたけれども、人間として生まれ変わるには、彼の罪はあまりにも重かった。
この次には間違いなく人間として生まれ変わるだろうと希望を持つけれども、気がつけばやっぱり彼は豚の身を持て余しているのでした。その豚が、先の沙弥僧が会った白い豚だったのです。
少なくとも600回は豚として生きなければならない運命であったが、この沙弥僧の所望のために、人間として生まれ変わることが出来ました」-------
私はそのご夫人に話した。
「それじゃ、その沙弥僧が私というわけですね」
「そうですよ、これから600回は豚として生きなければならなかった罪人が、あなたの所望のために人間として生まれたために、今日の娘さんになったのです。娘さんは人間としては脳性麻痺の低能児ですけれども、豚としては正常な知能を持っているわけです」
「それじゃ私の主人は、誰の生まれ変わりでしょうか?」
「その時のお寺の住職であられたのが間違いないでしょう。お二人は末娘のために、多くの心の苦痛を経験した後、大きく悟る様になっているのです。
お二人に大きな人間苦を抱きかかえさせる事によって、前の世に得られなかった悟りの境地に到達するその日、娘さんは正常になるか、または今の苦しみから解放されることになるでしょう」
「死ぬと言われるのですか?」
「多分、そうなる可能性が高いと思いますね。苦しみを通じて、お二人をより高い心境に至らしめた功徳によって、彼が前の世で犯した罪は全部消されるのです。二度と豚として生まれ変わることはないでしょうし、とにかくどのような形であろうと、今の苦しみからは解放されるでしょう」
夫人はよく分かったという表情でうなずくのであった。その後、この少女は体質改善の施術を受け、手に負えない肥満症からは、ある程度開放された模様である。
霊能者と超能力者と
霊覚者(解脱・悟りを開いた・覚醒した人)の違いについて
霊能力と超能力者は同じ人間なのでしょうか?
また違うとすれば、何処が違うのか?この疑問に対して筆者(安東民先生)なりの見解を述べてみたいと思います。
霊能力者とは、保護霊または憑依霊の助けを受けて、霊言・霊聴・霊視する事が出来る能力を持っている人々を意味するのであります。
これと反対に超能力者とは、生まれた時から、または後天的な修練によって体の構造、その中でも頭脳の機能が並優れた発達を遂げた人達で、普通の人よりもずっと高い次元に属する宇宙力を発揮する事が出来る人間を言うのです。
大部分の霊能者が、初期には種々の神通力を発揮するけれども、本人が自己自身に備わった能力であると錯覚を起こして、
驕(おご)り高ぶり、金欲・色欲を追求するようになれば、それまで霊能力を供給していた保護霊・または憑依霊は去ってしまうのであります。
そのようになれば、ある日突然、霊能力は無くなってしまうのです。その様な場合、或る意味では霊能力を行使する前よりも、もっと困難な立場に置かれるわけです。
霊能力者であると有名になった人々の中には、本物と偽物があるわけで、ニセモノの霊能力者とは、前には確かにあったけれども、現在は普通の平凡人に変わった人間がいかにも霊能力者らしく振る舞っているという人達です。
これと反対に、超能力者とは体の機能自体が特異で、宇宙力を行使する事ができる人間なので、途中で超能力が無くなるわけがないのです。
この世の中に霊能力者は非常に多いけれども、真正なる意味での超能力者は、全世界を通じてごく少数に過ぎないのではないかと思われます。
ところで霊覚者(覚者・覚醒・真の自己(神我)に覚醒めた人)とは、霊能力者がもっと精進をして到達する境地を意味するのです。
霊覚者とは、深い修養と、多くの人々に対する絶え間ない奉仕をする事によって、ついに霊界(潜在意識の奥底)に存在する〈真我(真の自己である神我・宇宙意識)〉と完全に一つとなった境地に立つようになった人をいうのではないかと思われます。
創造主の意志(神我キリスト・宇宙意識)がすなわち自分の心であり、
自分の意思がすなわち創造主の心の中にある(神は汝の内にあり・父なる神と常に一体)
と言われたイエス・キリストは、このような霊覚者であるわけであります。
霊覚者は、霊言・霊聴・霊視能力が全然必要ありません。彼等はいつも創造主の意識(宇宙意識・神我キリスト)と一つに溶け合っているが故に、
自分でない対象が即ち、(全てが)自己自身(全一体感・自他一体感・全てが私・全ては一つの悟り)であるというその様な状態に置かれているためであります。
霊覚者は直感の中であらゆる物事を知る事が出来るだけでなく、想念が創造能力を持ったその様な境地の中で住んでいるのですね。
仏陀が言われた "八大神通力” の中で、ただ一つの正心正覚だけが真正なる神通力であるとおっしゃられたその様な境地に置かれた人こそ、霊覚者(覚者・宇宙即我・全てが神・全てが一つの悟りを得た人)言えるのであります。
他人に接する時であろうが、動物に接する時であろうが、
鶏を恐れる少年
善徳を積んでムカデから人間にカムバックした感動秘話♪
ある高等学校の学生である息子の奇妙なノイローゼ症状のために、その母が息子を連れて尋ねてきた。六尺に近い堂々とした体格を持った学生であったが、彼のノイローゼ症状は非常に特異な点が見られた。
「この子は自分の身長があまりにも大きいといい、また自分の顔が醜悪この上ないと言って苦しんでいるのです」
「ずっと前からその様な症状があったのですか?」
「いや、そうではないのです。前にはそんな事を言った覚えがないのに、数ヶ月前から急にその様な不平を並べながら性格が非常に荒々しくなったのです」
話を聞いてみると、この学生の父は有名な児童文学者であった。
「この様な症状が起きる前に、ひょっとしたら雪獄山の様な山にキャンプした事はなかったでしょうか?」
「ハイ、ありました。今にして想えばその時、非常にやつれた顔をしており、何日間も理由不明の高熱を出して伏せっていた事がありました」
「高麗王朝末期であったかと思います。高力士という別名を持っていた修道僧が、雪獄山の山中で修道をしている内に死んだことがありましたが、彼が死んで地縛霊になっていたのが、息子さんに取り憑いたらしいのです。
私が見た所でも、息子さんの今の顔は本来の息子さんの顔ではないという印象です。高力士の顔に変貌したのではないかと思うのです。それがありありと見えます」
「それじゃ、私の息子の内心の苦しみが、全然拠り所がないものではないというお話なんですね」
「そうですよ。息子さんの手相を拝見しますと、霊能力者になれるような特殊体質であるのは確かです。
だからこそ、前世に山で修道した末に地縛霊になった高力士が取り憑いたのだし、また息子さんの目には自分の顔が、憑依した魂の生前の顔に見えるため苦しむようになったのですよ」
私は仔細(しさい ※物事の詳しい事情)な説明を聞いて、この学生のお母さんは半信半疑ながらある程度納得された模様であった。
この様な場合、いつもそのようにする如く、一定期間の間「オウム振動水」を飲ませた後、3日に渡って体質改善の施術を受けさせて、四日目になる朝には空腹の状態で「除霊」をしてあげたのであった。
取り憑いていた霊魂が離脱すると同時に、学生の顔の印象はがらりと変わり、たちまち温和になったのであった。
荒々しく猛々しかった顔の印象は、朝日の前に切りの如く消え去ったのであった。鏡を見せてあげた所、学生は初めて安堵のため息を吐いたのだ。
「これで私は顔を取り戻しました」
こうしてノイローゼの症状は、完全になくなったわけである。
「ところでこの子は、体格はこんなに大きいのに、不思議にも鶏を非常に恐れるのです。私としてはその理由がわかりませんが、あるいはこの子の前世となにか深い関係があるのではないでしょうか?」
これはお母さんの言葉であった。私は学生に対して仔細に霊査をしてみた結果、実に驚くべき事実を発見したのであった。
はるかなる昔、国と時代は確かでなかった。
朝廷で権勢を握った奸悪(かんあく)な臣下が悪巧みをして、忠実は臣下達をワナに掛け、大いなる獄事を起こした事があった。
このために多くの忠臣達が謀殺されたのであるが、この時の彼等の罪名は、”逆賊陰謀” であった。
しかし真実は全然根拠のない事であったのは勿論の事であった。
獄事を起こした首謀者は、功臣として認められ、生前は富貴(ふうき)の限りを尽くしたけれども、死んで再生する過程で大きなムカデになったのであった。
過ぎたるは前世には人間であったという記憶を持って生まれたムカデであった。ムカデとして石の間に隠れ住まなければならない生活は悲惨そのものであったのは勿論の事である。
漢薬材としてムカデを採取する山人達の目につく日には、彼の命はなくなるのである。しかし体はムカデでも、心は人間としての記憶を持っているムカデは、死ぬのが少しも怖くなかったのであった。
死ぬ事で再生の道をたどれるという事実を知っているためであった。
自分の過ぎた世に犯した罪を贖罪するためにも、汚れた虫の体が薬剤の一部として使われるのならば、これ以上の幸せはないと考えたのであった。
それでムカデは自分から進んで山人達が行き交う道端に出て、自ら命を投げ出したのであった。
何百年にも渡って、同じ様な再生(輪廻転生)が繰り返されたのであろうか?今度は間違いなく人として生まれ変われるだろうと思い、気が付いてみると昔に変わらないムカデの体を持っているのであった。
今ではかつて、人間であったという記憶も霞のようにはるかな夢物語になった気分であった。
はるかな昔から自分はムカデであったのであり、ただ人間であったという夢を見ていたのではないか…という考えが、時たま頭の中をかすめるのであった。
(思いの狭間の葛藤で)ムカデは身悶(もだ)えしながら苦しんだのであった。ムカデであるという意識と、かつて人間であったという意識が一つに溶け込んだムカデの生活は、それ自体が地獄に落ちた苦しみであったわけである。
むしろ人間であったという意識を完全に拭(ぬぐ)い去った方が心が休まるのじゃないかと思われた。どうせ、人の世に帰ることが不可能であるならば、純粋なムカデとして生きたいとさえ思ったのであった。
そうしたある晩、月が明るい夜であった。岩の棲み家から這い出て来たムカデは、道端に立っている大きな枝の看板が掲げられているのを見たのである。
この群の代官様が原因不明の重病を患っているという事、名医が曰く---一尺を越える大きなムカデを材料にした漢薬材が必要であるという事、
この様な大きなムカデを捉えて差し出す人には、賞として十両のお金を下さるという内容の看板であった。
ムカデは自分が有に一尺を超えているのを確認して、今度こそは(罪滅ぼし・贖罪の)絶好の機会であると考えた。
ムカデは村に向かって一晩中夜道を這って山を降りたのであった。
村の入口に到達したときには、すでに、夜は白々と明け始めていた。ムカデは一番近くに見える農家に向かって這い進んだ。
ところが、人々の目に付く前に、鶏がムカデを見つけたのであった。
「駄目だ。今は食べられるわけにはいかないのだ。私は代官様のお命を救わなければならないのだ」
と声の限りに叫んだけれども、それは無駄な事であった。
鶏の鋭いクチバシについばまれて一尺を越えるムカデの体は3つにちぎれたのであった。真に耐え難い苦しみであった。
意識が朦朧(もうろう)とする中で、大きなムカデは自分の方に向かって走り来る人の足音を聞いたのであった。
自分の家の鶏がけたたましく鳴くのを聞きつけて、何の事かと外に走り出て来た農夫は、一尺を越えるムカデを一息に飲み込む事が出来ずに苦しんでいる鶏を発見した。
立て札を読んでいた農夫は、鶏を絞め殺してムカデを吐かせたのである。農夫が捧げたムカデのためか、代官は無事に死境を超えて生き返った。
その次、ムカデが気が付いてみると、彼は赤ちゃんの体を持っていたのである!彼の喜びがどのようなものであったかは、今さら説明するまでもないと思う。
今度はどんな事があっても、虫になるような行動をしてはならないと固く決心したのは勿論の事であった。
※幼い赤ちゃんが、声も立てずにしきりに涙を流すのを見て、母親は不思議に思ったという。(※真実の可能性を裏付けている気が致します)
「それじゃ、私の息子が前の世ではムカデだったという話ですか?」
「必ずそうであるというのではありません。ただそのような場面が、息子さんと関連されて浮かんだだけであり、この幻想が間違いない事実であったと証明するのは勿論、出来ないわけです。
息子さんが鶏を恐れるのは、鶏に食べられる事によって、善行をする機会を失って、再びムカデとして生まれ変わるのではないかと恐れた前世での記憶が、無意識の中に刻み込まれていた為ではないでしょうか?」
「全く童話みたいなお話ですね。とにかく、この子がノイローゼから解放されたのは確からしいから、感謝致します」とお母さんは言われた。
その後、しばらくして、この学生が完全に健康になり学校に通うようになったという話を、私は快(こころよ)く聞いたのであった。
この宇宙を支配する因果律(因果応報・善因善果・悪因悪果)がどんなに厳格なものであるかを知らせてくれる好例ではないかと思います。
人間と動物の因果
ダルマ・インコに転生した南国の兄弟
筆者は、非常に幼い時から動植物が好きであった。今も筆者の研究院には種々な熱帯さんのインコ類と、患者の待合室には二つの大きな水槽に多くの熱帯魚が飼ってある。時々他人から訪ねられる事がある。
「院長さんはなぜ? このような小動物を飼っておられるのですか?随分手間がかかるでしょうに?」
筆者の答えは、いつも同じである。
「他の人達があまりにも動植物をいじめているので、私が人類の代表として償いをしているのですよ。それからもう一つの理由は、”オウム振動水”に関する動物実験をしているわけですね」
二年前のことであったと記憶している。筆者は行きつけの鳥屋で、ダルマ・インコを二羽買ってきた。鳥屋の主人の話では、ずいぶん長生きする鳥だという。ところでこのダルマ・インコは、鳥屋のオヤジの話とは違い、二羽とも牡鳥であり、非常に仲が良くなかったのである。
ある日のこと--------庭にある鳥小屋の前にたたずんでいたお客さんが、筆者に尋ねたのであった。
「安先生が書かれた本を読みますと、人間の魂が、動物の体に乗り移って生まれると聞きましたが、この鳥にも果たして前生があるのでしょうか?」
質問を受けて筆者は思わず、いつもの通り、放心状態になってダルマインコをじっと見つめたのであった。その瞬間である!あら不思議!筆者の目の前に、熱帯のある島の風景が鮮やかに繰り広げられるではないか?
二人の原住民が大きなきときの間に鳥網を張って、ダルマ・インコを生け捕っている場面であった。彼等は兄弟であり、名前は兄はパクンタ・弟はヨクンタであった。
彼等は生け捕ったダルマ・インコを殺して燻製にして、この島を訪れる観光客に土産品として売っていたのである。彼等が生涯を通して生け捕って燻製にしたインコの数は、三万羽を超えたのであった。
時が来て、彼ら兄弟も死んで幽界に行かなければならなかった。イタズラに多くの生命を殺めた罪を問われ、彼等の兄弟は再生の過程でダルマ・インコの体の中に閉じ込められた。
筆者は思う。人間の魂が動物として再生するのではなく、一種の憑依する形式で動物の魂とは別に、動物の体の中に閉じ込められるのであると…。
そのパクンタ、ヨクンタ兄弟が即ち、すぐ目の前にいる二羽のダルマ・インコなのであった。
筆者がその時見た幻想をそのまま患者さんに話してあげたのは、もちろんであった。筆者が話をする間、ダルマ・インコは非常に恨めしい表情で筆者を見つめた。そればかりかなぜか悲しい様子をしたのであった。
その後、何度か筆者は患者さんに向かって、人間が前生にて罪を犯した結果として、動物の体の中にその魂が閉じ込められた実際の生きた例として、このダルマ・インコのケースを話してあげたのであった。
ところがこのようなことがあって数日後から、どうしたことか、ダルマ・インコは二羽とも元気がなくなり、終始うなだれている様になり、挙げ句の果てに全然、餌を食べないようになったのであった。
ある日の朝、一羽のダルマ・インコは鳥小屋の中で死んでいた。それから何日も経たない内に、残り一羽も飢え死んだのであった。彼等は間違いなく、自分たちの境遇をはかなんだ挙句、自殺したのであったと思う。
前生での罪を痛く後悔したあまり、自分たちが殺したダルマ・インコとして生まれ変わり、鳥小屋の中で飼われる身の上を悲観して自殺したらしいのである。彼らダルマ・インコの前で、前生の話をしたのを筆者は悔やんだけれども、時すでに遅かったわけである。
人命を救うために身代わりになったインコのお話
----もう一つ、インコにまつわる話をしてみたい。
その頃、筆者はひとつがいのセキセイ・インコを飼っていたのであるが、ある日のこと、非常に重症の患者が筆者の研究院に訪ねてきた。
六人の幼い子供を持った母親であった。夫とも死別れ、独りで六人の子供を養っているお母さんであった。たしかに重症の肝臓炎で、体中が黄色くむくんでいたのであった。
筆者としては最善を尽くしてあげたけれども、患者の様態は少しも良くなる様子がなかった。困った事だと心配していた所、ある日のこと、夢の中でセキセイ・インコが現れて、このように告げたのであった。
「(安東民)院長先生、私達は長らくお世話になりました。院長先生のお陰で、私達にも、宇宙を支配する因果律が何であるか判りました。
院長先生は、重症の肝臓患者を何とかして全開させようと努力しておられますが、すでに幽界の使者が来ているのです。それで私達が身代わりに死のうと思います。
その間、お世話になったせめてもの恩返しとして、私達が死んで彼女を助けてあげようと思うのです。
幽界の使者に頼んでみた所、院長先生が良いとおっしゃれば、何とかしてみるとのお話でした。それではお元気で!私達はこれから幽界行きするつもりです」
次の瞬間、筆者は夢から覚めたのであった。すぐ鳥かごの前に駆けつけた所、嗚呼!二羽のセキセイインコはすでに死んでいたのであった。
それから筆者の研究院では、時々何の理由もなしに小動物が死ぬと、ほとんど必ずと言っていいくらいに、誰かの生命が助かるのである!
他の人の生命を助けるため、身代わりに死んでいった小動物たちがどのくらいなのか?数えるのも難しいのが現実で、そこで筆者は思う。彼等は次の世では間違いなく、人間として再生するであろうと!
マントラの奇跡
今度は自分が食べた犬と蛇の霊が取り付いて、肝臓ガンになった男が”除霊”をすることで殆ど奇跡的にガンが治った話をしてみようと思う。
二年ほど前のことであったと記憶している。ある日の夕方、一人の中年紳士が小さい写真を一枚持って筆者を訪ねてきた。彼はひと通りの挨拶をした後に、黙って写真を筆者の目の前に差し出したのであった。
一見した所、写真に写っているその顔は黒ずんでいたのである。肝臓に異常がある感じであった。
「肝臓ガンを患っているのではないでしょうか?」
「そうです。やっぱり噂に聞いた通り、先生の判断は性格ですね」
筆者がもう一度、写真をとくと眺めた時であった。急に写真の顔が犬に変様して見えるではないか!
「腹水がずいぶん溜まっているのでしょう」
「ハイ、そうです」
「この病人は、犬をずいぶん食べたらしいのですが…」
「ハイ、そうです。大の犬肉好きでして、これまで何百匹も平らげたでしょうね。それがどうかしたのですか?」
筆者は黙ってもう一度、写真の顔を見つめた。ところがその瞬間であった。今度は、蛇がうようよしている感じがしたのであった。
「蛇も食べたのではないでしょうか?」
「そうです。私が知る限りは、恐らく千匹近く食べたでしょうね」
「この人は犬と蛇の亡霊が取り憑いて肝臓ガンを起こした…。それに間違いないと思います。何しろ、腹水がこう溜まっていては 「オウム振動水」を飲ませるのも無理ですね。現在、他の患者さんと一緒に、病院に入院しているのでしょう」
「ハイ、その通りです」
「それでは、スピーカーを利用しての自家施術も不可能なわけです。処置なしですね」
「でも何とかして助けてください」
その時であった。筆者の脳裏に稲妻のように浮かんだ考えがあった。それは私が考え出した除霊もでき、願いも達成できる「マントラ」であった。
まだ一度も実際に使ってみたことはないけれども、確かに効果はあると普段思っていたマントラであった。マントラとは、次のような内容のものである。
成願呪
敬天 修徳 広済
フンチ フンチ サバハ
筆者は真心を込めて、このマントラを書いてあげたわけである。
「これを患者さんの枕の中に入れて下さい。3日の間に腹水が小便として完全に排泄されたら、希望を持たれても良いわけです。万一、腹水が減ったら、3日の後に私を訪ねて来て、正式に会員になりなさい」
その後、3日が過ぎた時であった。患者の腹水が奇跡的に排泄されたとの知らせがあった。彼は筆者の研究院の会員になったし、それから二ヶ月後、完全に健康な体になって奥さんと一緒に挨拶をしに来られたのであった。
この場合は、マントラが呼んだ強力な保護霊の力により、動物霊が効果的に除霊された結果である、と筆者は考えているわけである。
このような事があって以来、筆者はよくこのマントラを書いてあげているが、1、2枚は判らないけれども、一度に7~8枚書くと、全身の力が抜けるのをみると、確かに念力が入るという事を認めないわけにはいかないのである。
心霊現象の小部屋 から引用させて頂きました♪
これは、ジャーナリストの西浦和也氏が取材した出来事である。
藤本さん(仮名)は、ある駅で駅員をしていた。その駅は都心から結構離れており、急行や特急などはわずかしか停まらないような小さな駅であった。
ある日、藤本さんが電車が入って来る前の安全確認をしている時、ふと一人の男が目に止まった。
その男はホームの先端に立っていた。どうということのない普段の光景だが、この時は違った。男の上半身が何か黒い煙のようなものに包まれていたのだ。
「どこが変だったかって、上半身が真っ黒にぼやけていて見えないのです。」と、藤本さんは後に語っている。
近づいてよく見ると、煙は男のスーツの襟(えり)の辺りからもやもやと立ち昇っている。その煙が拡散せずに、男の上半身を包み込むようにまとわりついているのだ。
煙のせいで男の顔はほとんど見えない。この光景をみれば誰だって、服が燃えていると思う。だが、周りには結構人はいるものの、皆、まるでこの男の煙に気づいている様子もなく、普通に電車を待っており、何ら騒ぎになる様子もない。
「この煙はボクにしか見えないのか?」
藤本さんは思った。この男に対して何か嫌な予感がした。
昔、何かの漫画で読んだ話に次のようなものがあった。
「主人公は何かのきっかけで、人間の頭の上に火の玉が見えるようになった。火の玉は全ての人間にあり、若くて元気な人は火の玉が大きいが、老人になるに連れて小さい火の玉になっている。
その中に、火の玉がほとんど燃え尽きそうな人がいた。その人を発見してすぐ、その人は主人公の目の前で事故に遭(あ)って死亡した。
火の玉の大きさはその人の寿命の長さを表していたのだ。」
この男だけ煙に包まれており、それが自分だけに見えるという、この状況は、この漫画を連想させた。
藤本さんは直感的に「この男は飛び込み自殺をする気なのではないか。」と感じた。かといって「あなた、飛びこむ気ですか。」などと声をかけるわけにもいかない。
それがきっかけで本当に飛び込む場合もあるし、もし違っていたら名誉毀損(きそん)で訴えられる場合もある。
もうすぐ急行列車が入ってくる。この駅を通過する列車なので、相当のスピードで入ってくるはずだ。
藤本さんは司令部に電話をし、不審な男がいるので、その急行列車は徐行運転で駅に入ってくるように指示して下さいと頼んだ。
司令を受けて急行は駅の手前から減速し、ゆっくりとホームに入って来た。
そして次の瞬間、煙に包まれたその男は藤本さんの予想通り、いきなり駅のホームから線路の上に飛び降りた。
耳をつんざくような急ブレーキの音が構内に響く。飛び込みを目撃した人たちが、一斉の悲鳴を上げた。列車は停まった。
藤本さんが列車の先頭まで走って駆けつける。線路の上にしゃがみこんで、震えている男がそこにいた。ブレーキは間に合った。男からは煙が消えていた。
後日藤本さんは人命救助を行ったということで、会社から表彰され、金一封をもらった。それから月日は流れ、藤本さんは車掌になっていた。
ある日藤本さんがいつも通り電車に乗って勤務していると、ある駅に停車した時、再び黒い煙に包まれた人間を見た。今度は女性だった。
ワンピースの胸元から黒い煙が立ち昇り、その煙は上半身を覆っていた。顔が見えないほどに真っ黒くなっている。前回と全く同じだった。
だが、自分の電車は時間通りに出発しなければならない。発車した後に藤本さんは、電車の中から司令室に電話し、飛び込み自殺の可能性のある女性がいるから、あの駅へは徐行運転で入るように次の電車に伝えてくれるように頼んだ。
藤本さんの電車がいくつかの駅を通過した時、司令室から連絡があった。先ほど伝えたあの駅で、やはり女性が飛び込んだらしい。
幸い、藤本さんの忠告通り、電車はゆっくりと駅に進入したために女性の手前で停まることが出来、人身事故には至らなかったということだった。
藤本さんはまたもや表彰された。その後も黒い煙の人間は藤本さんの前に現れ続けたが、藤本さんのおかげで、事故は未然に防ぐことが出来た。
5年間で27回もの表彰を受けた。
こうした表彰は、定年までに3回あればいい方と言われる中、藤本さんの功績はズバ抜けていた。しかしその反面、死のうとしている人が分るという能力を持つ藤本さんは、同僚から「死神」というあだ名をつけられ、話題の種にされていた。
「みんな助けてるのにね・・。」
と、ため息混じりに悲しそうに言っていたという。藤本さんはしばらくして退職し、別の仕事についた。
植物人間への光明
オウム振動水で開放された植物人間
ある高等学校の学生が私を訪ねてきた事がある。17歳になる弟が脳性麻痺のため苦痛を受けているという。お金には困らない家庭ではあるけれども、この弟のために家族達はいつも憂鬱に過ごしているというのであった。
「脳性麻痺はその原因はどこにあるにしろ、体の中に有毒ガスがいっぱい詰まって、脳神経に麻痺を起こしたのであるから、オウム振動水をこれから百日の間飲ませるようにしてみて下さい」
私はこう言って、その日はそのまま帰したのであった。カセットテープを利用して、自ら「オウム振動水」を作って飲むことにより、何かの変化が起きるには、少なくとも百日間はかかると言ったのである。
なのに1ヶ月ほど過ぎた後に、この学生が訪ねてきたのであった。弟がどうしたわけか、とんと「オウム振動水」を飲もうとしないという事、
しかし1ヶ月の間、とにかく飲んだのは事実であるから、何とかしてくださるわけにはいかないでしょうかと、涙ながらに訴えるのである。この時、彼が持ってきた弟の写真を霊査してみた所次のような事実が明らかになった。
-----この学生の弟は、前世には有名な坊様で、○○○乱の時、国のために僧兵として戦い、多くの○○兵を殺傷し、この坊様の手で殺された○○兵の亡霊が憑依したため、その後5回、人間として再生したけれども、その都度、一種の馬○かまたは身体不具者として生まれたというものであった。
そして今度が、その5回目の生まれ変わりに当たるが、この生を最後に業障より解放されるであろうことが分かった。------
私はまだ所定の百日は過ぎなかったけれども、霊査が出来た以上、何とか手をつくしてみることにしたのであった。それで学生の弟さんを、ぜひとも研究院に一緒に連れてくるようにと言った。
ところであらかじめ覚悟はしていたものの、この少年の体に手を付けた瞬間、腐った屍体から出るようなものすごい悪臭がドッと出たのには、さしもの私もタジタジとならざるを得なかったのが事実であった。しばしの間、息ができないほどであった。
「どうもダメのようですね。今日はこれで手を抜き、お母さんが代理施術を受けてみることですね」
「代理施術とは一体、どのようなものでしょうか」
少年の母親はとんと納得がいかない表情であった。
「あなたの息子さんは生理的には17歳ではあるけれども、精神的な年齢は2~3歳しかならない幼い子供と同じなので、霊的にはお母さんの運命と一つに連結されているのですよ。
これはどういうことかといえば、息子さんの苦しみが消えるのは、お母さんの苦しみが消えるのと同じであるということです。
それでお母さんの霊波を、息子さんの霊波の波長に同調させて施術を施せば、お母さんの体質が改善されると同時に息子さんの業障が消滅させられ、ある程度の変化が起こることを期待するわけです。」
普通の人にはちょっと納得が難しい私の考えを、なんら抵抗なしに受け入れてくれたお陰で、少年のお母さんはその後、何回かにわたって代理施術を受けたのであった。
その中には、代理除霊も含まれていたのは勿論の事である。代理除霊とは息子に憑依している怨霊または悪霊を、お母さんの脳波(霊波)に同調させてお母さんに憑依させた後、除霊をする方法であるが、非常な危険を伴うので私も、めったに使わない特別な除霊方法である。
(ちなみに一言で言えば、私が言う除霊または代理除霊は、私なりに編み出した全く新しい方法である)
幸いにもこの方法が大きく成功して、お母さんが体質改善施術と除霊を受ける間、つまりまる2日の間、息子は眠り通しに眠ったという。
それ以前には夜も殆ど眠らなかった子供が、42時間の間、眠り通しに眠っただけでなく、家族がその部屋に入ると死体が腐るような悪臭のため、鼻を摘んで飛び出した程だったという。42時間にわたる長い眠りから覚めたこの白痴少年は、その後1週間は一食もせず、熱病を患ったという。
一週間の間、自らも知らないうちに断食をした白痴少年は、骨と皮ばかりになったが、それからは食欲が出始め、白痴であると誰もが判断した表情が全然なくなり、顔だけ見れば正常人と変わらぬようになったし、言葉も日が立つに連れ正常になりつつあると、家族の喜びは大層なものであった。
白痴少年のお母さんも長い間にわたって経験してきた精神的な苦しみから開放され、明るい顔の健康体になったのは勿論の事である。
この白痴少年が、難治病の中でもひときわ難しいとされている頑固な脳性麻痺から開放されたのは、その原因が前世における殺生にあるとはいえ、
その殺傷の動機が祖国に対する愛から出発したのであり、私的な恨みによって殺傷したのではなかったという点にも、快癒への原因であると思うけれども、またこれは例え脳性麻痺でも適切な処置をすれば、麻痺が解かれる可能性もあるという一つの良い例である。
この話には後日談があるので、ちょっと記して置こうと思う。白痴少年はある程度知能が正常になったけれども、まだまだ正常人として社会生活をするに至らなかったのであるが、ある日突然、風邪気味で床について2~3日患った末、静かに息を引き取ったというのである。
まさかそのように簡単に死ぬとは家族の誰も思わなかった。しかし、「死んだ弟の顔はどう見ても生前の白痴少年ではありませんでした。
悟りを開いて静かに息を引き取った聖人の顔でした。私はこの次、弟がまた人として生まれ変わるならば、きっと素晴らしく頭の良い人になるのじゃないかと思いますが、どうでしょうか?」
兄である高等学校の学生は目を輝かせながら、この様に私に報告してきたのである。私はただ、うなずくだけであった。
夫の前世を透視する
愛馬が夫に生まれ変わった感動秘話
人間が自らの尊厳な人格を損傷させて、動物の位置に堕落する時、次の世には動物として生まれ変わる例を話したわけだが、今度はその反対のケースを紹介してみようと思う。
S企業の金○○社長といえば知らない人がないくらい、建設業界では広く知られた名人である。韓国国内だけでなく、むしろ海外でより活躍しているこのS企業の社長夫人が、昨年の秋に私を訪ねて来られたのだ。
中年婦人によくみられる肝臓機能がすぐれない低血圧の患者であった。この婦人が何回かにわたる体質改善施術を受けて健康を取り戻しただけでなく、見違える程若返ったのであった。
施術を受ける前に「オウム振動水」を一定期間飲ませたのはいつもの例である。経済的には裕福な生活をしておられるこの婦人にも、人知れぬ悩みはあった。
この婦人はただ一人息子を産んだだけでその後には子宝に恵まれなかったし、夫が外に産ませた8歳になる女の子を直接育てているが、その女の子が何かにつけて頭痛の種であるという。
また息子のお嫁さんが遠からずお産をする予定なので、何かと出産を助けるためにアメリカに渡る準備に忙しいという。
お嫁さんの出産のために、わざわざ米国まで行くということは我々庶民の立場では到底考えられない話であるので「羨ましい限りですね」と私が言った所、
「私が知る限りでは、お金があるということは、人間が幸福になるのにはたいして助けになりません。勿論、無いよりはましでしょうがね。
私が夫が望むだけ多くの子供を産めなかったので、心の中にある不平は何一つ表立って言えない立場ですけれども、夫の留まるところを知らない浮気には、女としては堪え難いのですよ。孫まであるし、糖尿病まで患っているくせに、一体これはどうしたわけでしょうか?」
「いつか機会があったら一緒にいらっしゃい。糖尿病も体質改善して完全に治った例は多いのですからね」
婦人はしばらく考えに沈んでいたが、
「さあ、私も誘ってはみるつもりですけれども、今のところは難しいのではないかと思います。私の夫は徹底的な常識人で、現代医学以外は全然信じない人ですからね」
「そうでしょう。けれども私と縁があるならば、1~2回はお出になると思いますね。きっとそうされるでしょう」
それから、何日か経った後のことである。自分の妻が健康を取り戻したのをみて少なからず感銘を受けたらしく、S企業の金社長が婦人の案内で私の研究院を訪ねてきたのであった。私が会って見た所、非常に特異な印象を覚える人であった。
まあ、言ってみれば、馬が人間に生まれ変わったというのが確かだったのである。俗に言う典型的な馬面であった。特に下半身が異常に発達した体つきであった。
誰が見ても「貴方は馬の様な印象を与えますね」といえる体格であった。
2日にわたって施術を受けた後、大体、このようなケースでそうであるように「忙しい」という口実の下に、二度と私を訪ねてこなかったのであった。最初は自分の健康の為に訪ねて来たのではなく、妻の体面の為に訪ねてきたのだった。
「それでも、夫の性格で2回も施術を受けたというのは奇跡ですよ。少しばかり体の体調が良くなったという話でした」
「まあ、お宅でオウム振動水でも飲ませる他に道はないわけですね」
「それが駄目なんですよ。いつも海外出張に明け暮れていますからね」
と言って、婦人はため息をつくのであった。
「私の夫の前世は何であったでしょうか?私とはどういう縁で結ばれたのでしょうか?」
「馬ですよ。馬が人間に生まれ変わったのですね」
「馬ですって?」
彼女はビックリした顔で私を見た。
「あなたは前の世では、清王朝の王女だったらしいのです。どの時代であったか、それまではわからないですけれども、とにかくあなたは中国の清王朝に生まれたお姫様で、非常に馬を愛した人だったのです。
王女の乗馬は、三度にわたって王女の命を救ってくれた事がありましたし、自分の夫が死んだ時にも泣かなかった王女が、この馬が死んだ時には、非常に悲しみ泣きわめいたのでした。夫以上に愛したためだったのです。
その為に、王女が愛された馬が人間として生まれ変わり、あなたの今の夫になられたと私は思うのですよ。前の世でいつも自分の背中に安らかに乗せていたのですから。
今もあなたに、お金には全然困らない生活を保証しているわけですね。馬であったために、今も東奔西走しているわけですよ」
私の話が終わった瞬間であった。彼女は大いに笑ったのである。涙を流さんばかりに、本当に痛快無比に笑い転げたのであった。いつも内省的で沈鬱であった彼女の顔に、この様な明るい表情を見るのは初めてのことであった。
「馬ですって?…本当にそうですね。姿も馬のようですけれども、性格も馬とそっくりなんですよ。だから前の世で、私が彼に大きく助けられた事があるのですね」
「ハイ、それも3回も命を助けてもらったのですよ」
「だからたとえ夫に過ちがあっても、少なくとも3回は許してあげなければいけないわけですね。
また馬が人間として生まれ変わったのだから、彼が人間として多少足らない所があっても、私が寛大に見てあげなければならないでしょうね。
特に彼が私が彼の夫になったのは、私が前の世にて愛したためですからね。自分の夫が死んだ時にも泣かなかった王女が、愛馬が死んだ時には泣きわめいたというのですね
‥……本当に先生のお話を聞いて、私は心の中のわだかまりがすっかり無くなったみたいです」
自分の夫が前の世では馬であったという話を聞いて、カンカンに怒るのではないかと思った所、その反応は正反対だったのである。
否、この話を聞いて、彼女の夫に対する態度はそれからずいぶんと寛大になったのは確かであった。S企業の金社長が直接、この話を聞けば、さぞかしカンカンに怒るかもしれないが…。
安東民先生☆発祥♪治癒 除霊 健康 ओम् アウム聖水の奇跡?
真言「アウム」で振動された水を毎日飲んでいると、肉体は10年以上若くなります。 毛細血管にまでその水が行き渡り、新陳代謝がそこに働いて、体内毒素が多く体外に排出され、血液が浄化されるからです。
血液が浄化されると、目は子供のように白くなり、歯と肌も美しく綺麗になります。これは、特に女性の方には朗報になるかと思います。
身体障害者の方が飲用しますと、極度な眠気に襲われることがあります。それは脳の新陳代謝が活発に働いて睡眠の神経細胞を刺激するからですが、そこで止めないで更に飲み続けますと、病はそれなりに癒えて障害が軽くなることがあります。
「アウム」はDNAを覚醒させ、病の治癒を促進させます。
「アウム」は霊力・超能力を覚醒させる機会を与えます。
「アウム」は下級界に存在する霊が嫌がるマントラムで、その霊を追い出せる神聖な言葉です。「アウム」は、己の魂を浄化させる太古の聖なる言霊。
上江洲義秀先生の「アウム」です♪ 内緒のヒント「 5Kplayer 」
法玉明想指導(日本語字幕付)-講師:中村寿子
助安由吉さんへのイエス様のメッセージ
新山上の垂訓
1.組織なく規則なく、お金を集めずにする活動こそ神の活動なり
2.名声を求めず、ただひたすら み心の道具となる
3.男女の調和は 陰陽の調和なり 調和度を高める
4.すべての人の神性を見 そこに焦点を合わせる
5.奉仕に身を捧げ 一切の見返りを期待しない
6.大宇宙はひとつなり 宗教もたったひとつなり
7.万物の出生は ただひとつ 一切の差別はない
8.神は永遠の霊なり すべての中に息づいている
御霊(みたま・神我キリスト)
相手の中心の 御霊と 自分の中心の御霊は
大いなる神の 御霊と同一である
どんなにわがままを言おうが
どんなに怒ろうが 御霊は依然として光っている
この 御霊の光りは
地球を覆い 太陽系を覆い 銀河系宇宙を覆い
大宇宙を覆いつくしている
短気な人も 愛深き人も
みんなみんな この力を発揮している
ただし気がついている人と
全く気がついていない人がいるが
平等に力を発揮している
相手の 御霊は素晴らしい 自分の 御霊は素晴らしい
そして全ての全ての人々の 御霊に 感動を持って接するのである
相手の 御霊と 自分の 御霊は
遠き古(いにしえ)の昔より 一瞬たりとも離れたことはない
これから後(のち)も 一瞬たりとも離れることはない
我の 御霊は 全ての人々の 御霊を指し
全ての人々の 御霊は 我の 御霊を指している
御霊において差別は一切なく 高低など微塵もない
御霊においては 完全に平等である
この 御霊こそ 大いなる神の源なのだから………
相手の 御霊も 自分の 御霊も
どんな時でも溶け合ってひとつであり
どんな場所でも溶け合ってひとつである
そして燦然と輝いている 永遠にその光は変わりなく 光続けている
神の望みを聞く
いつも内なる神我に 問いながら生活をする
どんなことをしたら良いか 何が喜ぶか 優先順位は何か
これらを問いながら 真剣に生きていく
自分の自我の望み 自分の自我の要求を知る人は多い
しかし大いなる神の望み 内なる神我の望みを知る人は少ない
ゆえに神我の意志を尊重して 真面目に取り組んて生きていく
内なる神我 あなたの良心であり あなたの無私の意識であり
大いなる神の源と直結の部分である
この部分こそ あなたが行きていく上で重要である
今日一日生きていく上で 大いなる神は何を私に望んでおられるのか
何が出来るのか 何から手を付けたら良いのか…‥を
聞きながら生きていく人と そうでない人との差は天と地の開きができる
あなたはそれのできる人である 自我の要求より
神我の要求に耳を傾ける人である 人類の幸せヲ願う人である
国の豊かさより地球の調和を優先する人である
大いなる神はあなたをいつも このように信頼している
例え裏切ったとしても この信頼にはヒビが入らない
3回裏切っても 10回裏切っても 大いなる神のあなたへの信頼は
微塵も変わることはない
100回裏切っても 1000回裏切っても同じことである
内なる神我に目覚めて 大いなる神の望みを知ろう
知ったならばそのために力を尽くそう 一瞬一瞬に全力を傾けて…
大きなところを目指すのではなく 貴方のいま出来ることから始めよう
今できる小さなことから… やがてその小さなこととが大きくなろう
大いなる神の望みは いつもちいさなことからスタートする
覚者・知花敏彦先生の教え
人間はなぜ愛か 謙虚な心
謙虚は何かといいますと、それは「威張らない」という事です。
人間はよく威張ります。なぜ威張るのでしょうか。
神は謙虚です。決して威張ることはありません。
神のような人間であるためには、謙虚でなくてはならないのです。
なぜ、人間は威張ってはならないかといいますと、人間はこの世で色々なことを成し遂げていると思っておりますが、それを成し遂げているのは私達ではなくて、
神のみが働いておられ、働き手は神であって、私達の肉を通して神が生きて、神が御業を成されておられるのです。
これを「自分がやった」といって威張ることは、まだ自分が何かを知っていないからそうなるのです。
皆さん方がやったという仕事は、この世の中だって存在いたしません。
何故このように申し上げるのかと言いますと、皆さん方が生きているのは神のお陰なのです。
皆さんの中に生きているのは神のみで、神のみが生きて働いておられるからです。皆さん方の存在というものは本当は無いのです。私というものは無いのです。
このことを「私は自らは無なり。我が中に神のみが生き、神のみが働き給う。御業を為し給うは我が内なる神の御霊(みたま)なり」と言われているのです。
例えば、この知花という者が皆さんの前でお話をして「私は偉いのだ」と威張っておりましたら、私は神を知らない無知の存在となります。
神は私を生かし私を通して語り給うておられるのです。そして私という肉体を通して神は働き給うておられるのです。働いているのは私ではなくて、私を通して働いて下さる神ご自身が働いておられるのです。
ですから、私達自らは何事もなし得ていないのです。
それなのに、それを「私がやった、私が造った、私が成し遂げた」と言って威張る人は謙虚から外れています。それは盗人になります。
「汝、盗むなかれ」と言われています。私たちがこうして生きておられるのも神のお陰であって、神が私たちの中に生きていればこそ私たちが生きているのです。それ以外は何も無いのです。
生命そのものが神です。私たちは神の命があるから何事も成し得られるのです。そういう事は、神がおられるから私達は何事も仕事ができるのです。
だから御業は全て神のものであり、私達のものではないということをよく理解する事なのです。
私が皆さんの前でお話することは、自分の御業ではなくて、神の御業であるということが分かりますので威張らないのです。
神が為し給うのである。と、それをよく知っていますので、私は偉いとかそういう事がなくなるのです。威張ることがなくなるのです。
威張っている人間は、まだまだ自分が何であるかを知らない、自分が何によって生かされて、その仕事は誰がやっておられるかがわからないのです。
それが傲慢というものなのです。それには威張りというそれが出てくるのです。
賢者は威張りません。賢者という方々は自らを知っておられるのです。
自分が何の力によって生かされ、そして何の力によってこの世で仕事をしているかということが分かるようになりますと、自ら謙虚な気持ちになれるのです。
よく皆さんは謙虚な人を見ます。謙虚な人を見ますと非常に気持ちが良いものですが、何故、謙虚は気持ちがいいのかと言いますと、その分だけ神に近いからです。
皆さん方は威張る人を見て気持ちがいいと思いますか。いい気持ちであるはずがありません。
「私がやった。私はなんでも出来る。あれもこれも全部出来る」と威張って腐っている人間を見ますと皆さん方は気分を悪くします。
それは神から離れているからです。神の道から外れて盗人であるからです。
神の力を神の御業を自分がやったというように、
「自分の右手で為したことを、自分の左手にも知らしめてはいけない」
という言葉の戒めを破っているのです。
だから私達は常に謙虚でなくてはならないのです。
今、私が皆さんの前でこうしてお話が出来るのも、私ではなくて神の御業が、神の力が、神の御霊があればこそ私はこうしてお話ができるのです。
しかし、世の人々はその神のお働きをまだ知りませんので威張るという言葉が出て来ます。
「私が何々をやってやったのにお礼も言わないのか」という事になってしまうのです。
皆さん方働いている。それを自分が働いていると思ったら大きな間違いです。働いているのは、あなたの中の神がお働きになっておられるのです。
だから「神は偉大なる僕の方である。神は偉大なる働き手である。神は偉大なる農夫である」と聖書に訴えられているのです。
働いておられるのは、活動しておられるのは神であって私達ではないのです。
皆さん方の中に命という、あるいは御霊(みたま)という力が存在しなければ、皆さんはここに集まることは出来ないのです。
ここに足を運んでこられたのも神のお蔭であって、あなた方のお蔭ではないのです。神がいなかったならば皆さん方はここに来る事が出来ないのです。
こうして皆さん方がいろいろと学びを得るために、ここに集まりましたのも神のお陰なのです。ですから全て感謝の念の中に私達は生きなくてはならないのです。
そのことがわかりますと何をやっても無所得です。自らは無である(無我)ということが、自分の御業が無いということが分かって、働き手は全て神であられると分かった時、
〈神が私の中に生きておられるのだ。そして神が生きていればこそ御業が為し得るのだ。これは神の働きで神の御業なのだ〉
と悟ることが出来た時、皆さん方は無所得(無我の境地)となるのです。
皆さん方がそういう気持ちを、本当に謙虚というものが何であるかということが分かるようになりますと、偉大な悟りに到達しているのです。
何を為しても無報酬ということです。その見返りを持たない、本当に無所得そのものの与えきりの御業が為し得たならば、あなたは自分自身の中にその御霊の力、神の力というものを心から信じている姿です。
これを誠の神信者というのです。
皆さん方の中には神が生きておられますので、自分がいくら長らく生きよう生きようともがいても、それは神のみが知っておられますから、〈私は何十歳まで生きたい〉と思っても無理な話です。
その神が必要とあらば長らくその肉体に滞在して下さいますし、早く出るべきであれば早く出られるのです。
イエス様は、「神の国は汝の内にあり。人間は生きた神の宮なり」と、人間一人びとりに生きた神が存在することを、実在することを、聖書で訴えてくださっているのです。
「生きた神である。人間一人びとりは生きた神の宮である。肉体というのは生きた神の宮に過ぎない。だから、一人びとりの命そのものが神である」と言われているのです。
だから皆さん方は命を学び、それを尊敬し合わなければならないのです。
そして、皆さん方は自分自身の中に神がおられることを知ったならば、この世で全ての隣人は神を宿した自分自身の同胞(きょうだい)であり、
血や肉よりも濃い素晴らしい生命の久遠なる同胞(きょうだい)であるのです。実の兄弟姉妹であるのです。
皆さん方は本当に神を愛しておられるでしょうか。それらが理解できていなければ、また旦那さんを、奥さんを憎んだり悪口を言うかも知れません。
そのことは、神を憎んだり神に悪口を言うようなものなのです。皆さん方はその神を本当に愛していますか。
汝の隣人である旦那さんを、奥さんを、汝の隣りにいる偉大なその神を貶し合っているのではないでしょうか。尊敬しあっていますか。愛し合っていますか。賛美していますか。
それが理解できるようになった時、夫婦仲というものは物凄い喜びと偉大なものになるのです。家庭人全てが愛し合う存在となって行きます。もうその喜びは例えようもないものなのです。
私は家内を自分の所有物だとは思っておりません。
偉大なる共に住む神の現れだと思っています。
私は家内を一度も粗末にしたこともなく、これっぽっちも荒い言葉を言った事もありません。私が家内に何かをして上げますと
「ありがとうね、神様」と答えてくれるのです。
だから私たち夫婦は〈この人は今何を欲しているのだろう。何をしてあげたらいいんだろう〉と、お互い周りを見つめ合い、助け合い、分かち合い、
それを無言の中で、謙虚な愛の中で実践しています。それは互いに神というものを理解し、そして最大にその神を愛し合っているからです。
私はこの世に一人でも憎むという人がいません。一人もいないのです。
なぜいないかということは、人を憎むことがどんなに悪いことであり、自分が苦しむことを知っているからです。すべてを許しています。
なぜなら、神は偉大なる許しの方であるからです。神が人間の過ちを許さなかったらば、私達は当に消滅しているのです。
私達は神から出て来て、神から生まれていながら親を知らないのです。
親(父なる神・宇宙生命)を知っていないのです。
何から出て来たのか、私達は真の親(大生命・大愛・神・宇宙エネルギー)を見失っているのです。
しかし、親は「可愛い子には旅をさせろ」と、苦しんだり転んだりしていても涙を堪えて見つめておられるのです。自らが気が付いて親元に還ることを父なる神は眺めておられるのです。
私達は何回も苦しんだり転んだりして、色々なことにぶつかって初めて親を想うようになるのです。
親を想う心が、その自分の親を捜す心が、それが働きかけてくるのです。苦しい時〈なぜ私はこんなに苦しいんだろう〉と、親を想うことの機会を与えられているのです。
しかし、この世で安楽に暮らしている者は、親を捜し求める機会を失っています。波乱万丈で経済的に恵まれ、色々なものに恵まれている者はこの三次元の世界に満足しているのです。
そういう方々は真の親である父なる神に巡り合うことは、
「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われているのです。
「貧しきものを幸いなり。苦しき者よ幸いなり」と言います。
なぜ「貧しき者よ苦しき者よ幸いなり」というか皆さんはお分かりでしょうか。貧しさの次には喜びが来るのです。苦しみの次には喜びが来るのです。
今、喜びであり、色々な物に満たされている人達は「昼の次には夜が来るであろう」と。しかし、今、自分自身に満足していない方は幸いです。
必ず満足する日が訪れるという事です。「夜があれば必ず昼がある」というように、「夜明け前は暗い。だがその者にはやがて明るい朝が来るであろう」とそれが訪れるのです。必ず訪れます。
それを「貧しき者よ幸いなれ。苦しき者よ幸いなれ。その者は神を観るであろう」というのです。正にその通りなのです。
皆さん方は今、自分の生き方に満足しておられません。満足しておられないからこそ、ここにそれを求めに来られたのではないでしょうか。
そして真の親を知りたいと想う心がけが、皆さん方には一杯詰まっていると思います。
それが神の慈悲、神の愛です。皆さん方は今、神の慈悲に満たされていることを感謝しなければならないのです。
ですから、皆さん方がこの世に生まれて出てくる時も、あの世に帰るときも神のみが知っておられるのです。
そのことを皆さん方は『天命』とか『運命』と言っているのです。
皆さん方は死を恐れる必要はありません。神は永遠に死なないからです。
神は久遠にして永遠です。なぜ人間は死なないかといいますと、人間が生きているのではなく神のみが生きておられるからです。
しかし人間は〈自分が生きている〉と思っているのです。
その自分が生きているということが迷いなのです。
あなたには、今、命があります。その命そのものが神です。
皆さんが生きているのは神のお陰です。神があなたの中に生きて働いて下さるのです。あなたが働いているのではないのです。
そこに人間という存在、個別化されたものがあり、「私がやったのだ」というものを考えるようになったのです。
ですから〈私は毎日家族のために炊事・掃除・洗濯をやっているのに、誰もお礼を言おうともしない、誰も褒めようともしない〉と思うようになるのです。
しかし「神が炊事をして下さった。神が掃除や洗濯をして下さった」と皆さん方が思ったとき、〈誰かお礼を言って褒めてくれるものはいないのだろうか〉という思いが起こるでしょうか。起こらないと思います。
これが謙虚な心というものです。
皆さん方が世に貢献している姿というもの、そういう謙虚な気持ちになってそれを為し得ているならば、それは非常に素晴らしい美しいものです。
しかし、それに見返りを頂こうとするその利害関係が入って来ますと、もうそれは謙虚ではなくなるのです。
世の中には謙虚のような姿を見せて、まだ自己限定している人がいるのです。「私みたいな人間が・・」とか「私は無知ですので何も出来ないのです」と、これを謙虚だと思っている人もいるのです。
これは謙虚ではありません。それは自己卑下というものです。神の力を限定していて、それも神を知らない無知の存在なのです。あなた方には無限大の知恵と力が備わっているのです。それはあなた方が神であるからです。
あなた方の為している御業は、常に神が為している御業であるということが自覚できるようになりますと、そしてそこに自己限定がなくなりますと、
偉大なる知恵と力があなたを通して、無限大の人間の想像を超えるような知恵と力が、皆さん方の肉体を通して働くようになるのです。
これが「神我に生きる」ということです。あるいは「神我顕現」ということなのです。
神我というのは「神の我」あるいは「真の我」ということで、
「私達は実相に於(おい)て神であった。命であった」ということが分かるのです。
今、世の中で「人間だ、人間だ」としているのは、五官の感化(自我・偽我)で人間と思っているだけです。
この世に神のみがおられるだけで、人間の存在は本来は無いのです。人間の五官の感化が人間という名前を付けているだけです。
皆さん方は常に神と共に、常に神と一体であるのです。
イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。
神と一体ということは、『その御業を為す御業は全て神の御業である』という強い信念と信仰を持っておられたのです。
そして神のその力を相当の意志力でもってこの世に現し給うたのがイエス様であったのです。あるいはお釈迦様であったのです。
皆さん方もイエス様と同一のもので、同一の生命を持ち同一の肉体を持っておられたのです。イエス様は特別な人間ではなく今身の人間であられたのです。何が我々と違っていたかということは、その謙虚さ、神の謙虚さを持っておられたということです。
謙虚さを持っておられたということは、ご自分の為される業は、「その御業は私が為すのではなくて神のみが為し給われるのである」という事を悟っておられたのです。
皆さん方は如何なる仕事をやっている時も、商売をやっている時も、みんな神がやっておられることを自分自身に言い聞かし、それを自覚することが如何に大切であるかということです。
こういう本来の自分を知った時、その謙虚な気持ちが皆さん方に起こって来るものだと思います。
よく世の中では「謙虚に」という言葉を使いますが、その真の謙虚さを知っている人はあまりにも少な過ぎます。
でも皆さん方には真の謙虚さというものを、ここでご理解頂きたいのです。
真の謙虚さというものは「自らの力は何も無く神のみが働き手であり御業を為されるのである」とそれが分かったとき、謙虚というのが分かるようになるのです。
威張るということは、神を知らない存在なのです。何回も申し上げるようですが、皆さん方は自分というものがまだはっきりと自覚されてないのです。真の自分とは何でしょうか。
その自分を知らないために自分という正体を知っていないのです。その正体を知らないがために、私達はそこに「威張り」というものが出て来るのです。
皆さん方の正体は何でしょう。皆さん方の正体は『命』であり『神』であるのです。皆さん方の一人びとりの中に宿っておられ、活動されてやまないのは神なのです。それがあなた方の正体なのです。
人間はなぜ愛か 謙虚な心
女性というものは非常に素晴らしいもので、神に似せて造られた男性よりも、こういう神秘の力を、外に創造する力を持っておると同時に、その神の愛を、女性はみんな母性愛というものを持っているのです。
だから「母のような愛である」というのです。
イエス様は母の愛について
「地上におけるあなた達の母は神に近く、あなた達にとっても、神にとっても愛おしき者である。あなた達のために母が払った犠牲が、その母に与える喜びが、如何程のものであるか想像してみるがよい」と言われています。
子供を育てる母の愛というものは無所得です。今、赤ちゃんを育てているお母さん、今まで子供を育てたお母さんならよく分かると思います。
我を捨てて無所得の愛を子供に注いているのではないでしょうか。寒い真冬の夜中でも、何回でも起きておむつを替えて、乳を与えて、一生懸命子供を保護して愛の出し惜しみをしないのです。
本当に可愛くて可愛くて仕方がない、全てが愛おしくて愛くるしいとでもいうのでしょうか。
そして目に入れても痛くないと思う心、一体観念です。子どもと一体観念を計った純粋の母をお母さん方は施しているのです。
これが母性愛です。それは神に近い母の愛です。
しかし、子供が大きくなるに連れてその愛は徐々に薄れてきます。それはお母さんの愛は不純の愛に変わってくるのです。お母さんは子供に何かをして欲しいと要求するようになります。
手伝って欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、もうそれは利害関係が入った愛に変わって行くのです。
でも赤ちゃんの時の、赤ちゃんを育てる間の愛は、純粋の愛を現しているのです。それは謙虚の愛であり、本当に素晴らしい威張らない謙虚な愛が現れているのです。これは神の愛なのです。
ですから、私達は常にそういうものが何であるか、これを学ぶと同時にそれを行うことが大切なのです。実行しなくてはならないのです。
皆さん方はいくらそのことを知っても実行しなければ何の救いにもならないし、また、神を観る事も出来ないのです。
お母さんが子供を愛するように、大人になっても子供を無所得のままで愛しきれる。そして神の謙虚な愛を皆さんが日常生活の中で行い、
それは家庭生活だけではなく、汝の隣人にもそういう愛の想いが表現できるようになれば、その人はもう生き神様で神に似てる存在となります。それが真の信仰です。
信仰というのは行為の中になければならないのです。口先だけの信仰というものは真の信仰ではありません。口先だけでは何とでも言えるのです。
人を憎みながら、怒りながら、そしりながら、嫉妬しながら、私は神を最大限に愛していますという訳です。
イエス様はそのことを知っておられましたので、
「汝の隣人を愛しなさい」と言われたのです。
神を愛するということは、銘々が、一人びとりが神を宿している神の御霊(みたま)であり、分生命であり、分魂ですから、隣人を愛することが神を愛する事なのです。
皆さん方は神の創造物であるのなら、神のお造りになった全ての全てを愛さなくてはならないのです。
なぜならば、神ご自身は創造主であり、神はご自身でお造りになった全ての全てを愛して下さっているからです。
動物、鉱物、植物を愛し、生きとし生けるもの全ての全てを、私達は愛さなくてはならないのです。これが神を愛している姿なのです。
と同時に神を賛美している姿です。
それは人々を賛美するということ、貶(けな)すのではなく誉め称えて、本当の喜びの中に、分かち合いの中に、助け合いの中に仲良く調和の取れた状態、これは神を賛美し、神を愛している姿なのです。
イエス様は「神を愛するということは汝の隣人を愛することである」と言われているのです。
汝の隣人こそが神の現れであり、神の御子(みこ)であるからです。
また、神ご自身であるからです。隣人を貶す者は神を貶す者であり、隣人を冒涜するものは神を冒涜する者であるのです。
その神というものは無限で、全宇宙に遍満しているのです。だからこの世に現れているもの、目に見えるもの目に見えないもの、全ての全てが神であるということを知らなくてはなりません。
そうなれば私達はそこに差別のない愛で、全ての全てを愛さなくてはならない、全ての全てを賛美しなくてはならないのです。
ただ身内の者だけを愛して別の者は嫌いだと、あの者はこの者は大嫌いだと争っていることは、神を知らない無知の存在であるのです。
神は偉大なる無限者であられるのです。
ですから、私達は、今、現実に、無限の中に生きているのです。
神を愛するという事はどういう事でしょうか。
それは隣人を愛するということです。
自分の奥さんや旦那さんを愛している、そして身内の者を愛している、あるいはあなたの職場の一人びとりを愛していることは、神を愛している姿、賛美し合っている姿です。
エドガー・ケイシーが語る解脱の真理♪から名場面の引用ですが……♬
エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)を悟ることに集約される事を訴えています。
ケイシーは、神の栄光は全創造物の中に現されている(全ての全ては神の現れ・神の他には何も存在しない)のだと繰り返し語っています。
人間性の全体、体と心とが神の現れであるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。
「汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。
あなたの知る善の全て、神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」
イエス様の名言♪
「我は汝らに告げる。汝の隣人を愛せよ。汝の仇(かたき)を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。これ天(内・潜在意識の最奥)にいます汝らの父(キリスト)の子とならんため(※神我キリストへの覚醒めの為)なり。
人は異質の統一を見、不和の調和を見ます。自分とは違う人々との接触に神の光(大愛・宇宙生命・神)を観ます、その時にのみ「汝の隣人を愛せ」という戒めの真意を理解できるでしょう。
問「キリスト意識とは、心の上にかたどられ意志力による目覚めを持つ、魂と神との一体の自覚(無限・宇宙との一体感)と述べて宜しいでしょうか。」
答「その通りである。それが正しい考え方である。」
(キリスト意識に覚醒めた)人は凡人には見えない、奥にある一体と本質と調和(御霊・宇宙意識・神我キリスト)を観ます。人はただ愛するのみになります。
キリスト意識に覚醒めると、(全ては神であり自分そのものですから)憎む事はできなくなり、羨(うらや)む事もなく、悩まされもせず、拒まれもせず、挫折も、恐怖も持つ事はありません。
(悟り)人は自分自身の魂と万物を一つと観ているため、あらゆるものの中にキリスト(神我)を観ます。これが覚醒めであります。
これがキリスト意識、クリシュナ意識、神意識であり、これが天国に招かれる真の改心なのです。
愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、自分の中にも他人の中にもある愛の光(キリスト)を見つめる事にあります。
聖なる愛(大愛・宇宙エネルギー)が神から来るように、愛は個人の魂から放たれます。人が明想を通して神にその魂を同調させる時に、聖なる愛はあらゆる憎しみや嫉妬に打ち勝つ力と共に、流れ出てきます。
「汝の敵を愛せ」という言葉には何ら論理的な矛盾も心理的なパラドックスもありません。
愛なる語(全ては私・全ては神・全ては一つの悟り)が強められれば、敵は自動的に敵は無くなるからです。
ケイシー・リーディングから……♬
「己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。」
(貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です)
隣人との接しを通じての神の愛は終日の作業です。我々は神がどのような形で自らを示されるかを知る由(よし)もありません。(全ては神の具現)
それはタクシーの運転手かもしれず、店員かも、学生かも、今日しかも、患者、医者かもしれません。
だからこそ、我々は荒い言葉、怒った顔を慎み、非難を愛に変えて、常に、あらゆる人との接触で(全ての全てであられる)神を崇めるのです。
求道者がこの段階に至ってなければ、聖なる愛を自ら実践することによって明想(全てに神を観る・我神なりの自覚)を続けなければなりません。
神への、我らが家(久遠のホーム)への、本源への、我らがの目標(神我顕現・神との合一)への探求は、こうして全的な働きとなります。
エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。
「あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝の主なる神(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。このキリストの与えた言葉が法則の全てである。それに優るものは存在しない。
主が約束されたように、あなた方は来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、主(なる神)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る(神我が中にまします・父と子は常に一体)。
あなた方はこの目的のために、主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」
全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。
目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。
永久保存版♬知花敏彦さんの神我に目覚める♫瞑想の極意♪白色同胞団♪神我と自我の詳しい説明♪悟りとは何か♪ から一部抜粋ですが……♪
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
おまけ情報・・・近代の知られざる日本の仙人の方のお話です♪
モンゴル神仙邂逅記
鶴にのって空を飛んだ仙人が東京大岳山に住んでいる。
1924年白頭山に住む仙人に会う。
1936年青海省の崑崙山に住む仙人に会う。
月の精気を食う方法
太陽の精気を食う方法
ヒマラヤはアジアの頭で崑崙は鼻だ。
人間の身体は56億7千万体の小身(細胞)から成っている。
中国には空を飛び、不死身の修行者がいると伝えられている。”不老不死”の仙人である。今 年一月に94歳で亡くなった笹目秀和氏は、中国で2人の仙人と出会ったと多くの著作の中で記 している。
1924年(大正13)年8月、中央大学の学生であった笹目氏は、夏休みを利用して中国大 陸を旅していた。彼の祖父は茨城県でも有数の資産家だったので、海外旅行をする余裕があった のだ。
当時、中国には満州国建設のため、数多くの日本人が移住していた。旅の目的は、見聞を 広めるといった程度のもので、仙人との出会いなど思いもつかなかった。
きっかけは、大連発の列車に乗ったときのことである。笹目氏が座席に腰掛けると、真向かい に座った中年の男がいきなり日本語で話しかけてきた。
「私は、白頭山に住む呂霊 來來 (りょりんらい)深仙の使いのものです。あなたを迎えにき ました」
男は仙人の弟子であった。彼によれば、呂深仙は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国境 にある白頭山の洞窟に住み、年は207歳になるという。
「一緒に白頭山へ来ていただけますか」と弟子は言った。
呂神仙は日本からいとりの青年が満州を訪れることを予見していた。その青年に将来のことを 指導するため、弟子に大連行を命じたのだという。
「日本人青年の名は、”熊○(木二つに下が土)御堂”(くまんみたん)だと言われました。」
「私の名前は笹目恒雄(本名)ですが。」
笹目氏がそう答えても、弟子は少しも動じなかった。
「それは3000年前の前世でのお名前だと思います。」
笹目氏の眉と眉の間に、はっきりと”熊○御堂”と記されていたという。笹目氏は、不思議に 思いながらも、呂神仙に会うことになった。
仙人といえば白髪の老人といったイメージがある。しかし、意外にも呂神仙は童顔で、闇の中、 彼の周囲だけが光っていた。
呂神仙は笹目氏に向かってこう告げた。
「あなたは、ふつうの人のような生涯は送れない。日本という国のカルマを背負い、常人には とうてい耐えることのできない苦労をしなければならない。その苦境から脱出する鍵は、12年 後に会うことになる崑崙山の疏勒(しゅろ)神仙から授けられることになる」
笹目氏の使命はモンゴルの遊牧民を救うことだと教えられた。
帰国後、彼は、神仙の教えどおりにモンゴル再建のために私塾を開き、モンゴルの青年たちを 招きいれることになった。やがて、笹目氏は彼らとともに内モンゴルを中心に独立運動へ参加し ていく。
蒙彊(もうきょう)自治政府徳王私設顧問として、力を尽くしたのである。そして、呂 神仙に会ってから12年たった1936(昭和11)年6月、予告されたとおり幻のチベット民 族が住む、青海の山奥で500歳の○勒神仙に会うことになったのだ。やはり子供のように小柄 で、童児のような顔立ちをしていた。
太陽光線を食事に変える神仙直伝の秘法とは
疏勒神仙は、この12年間にわたる苦労をねぎらうと、笹目氏に、
「では太陽の精気を食(は)む方法を授けることにしよう」
と言った。が、すぐに教えてもらえるわけではなかった。その方法を伝授されるため、疏勒神 仙とともに崑崙山の頂上に向かうことになったのである。
疏勒神仙の腰につかまり、天の鳥船・ 鶴船(仙)とよばれる天帝のつかわす鶴に乗ると、一瞬のうちに標高7000メートル以上の頂 上まで空中を飛んでしまったのだ。
その後、笹目氏はソ連の捕虜になり、神仙の予言どおり11年間にわたってシベリアで苛酷な 抑留生活を送ることになった。
が、”太陽の精気を食む方法”を伝授されたので、ふつうの人な ら3日で根をあげる水牢に、1ヶ月以上も閉じ込められても耐えることができたという。例の方 法を使えば、1日のうちに3分間、太陽光線を受けるだけで、まったく食物をとらなくても生き ていけることができたからであった。
笹目氏は帰国後、地球の危機を救うべく中国発祥の新宗教「道院」の日本統しょう(代表)と なり、仙人の修行を重ねていった。
その内容は、「内修」と「外慈」である。前者は静座と誦経 (ずきょう)で、一種の瞑想法、精神修養といってよい。後者は慈善的な行為で、ボランティア 活動などを指す。したがって、道院の入門者は、必ずしも超人的な存在を目指しているというわ けではなかった。
笹目氏が出会い、教えを受けた仙人については、現状、検証のしようがない。が、笹目氏の人 生を振り返った場合、モンゴル民族再興運動はの参加といい、シベリアの水牢を切り抜けたこと といい、確かに仙人に教わらなければ、できないことである。
また、笹目氏はその風貌からも生前、”日本の仙人”として知られる人物であった。誦経によ って富士山大爆発を止めたとか、龍神とコンタクトして天候を自在にコントロールしたとか、8 0歳を超えてふもとの駅から多摩道院のある1200メートルの大岳山まで、普通のひとが2時 間かかる山道を40分で飛ぶように歩いたなど、超人的なエピソードに事欠かなかった。
こうい った能力も、笹目氏が本物の仙人に出会ったからこそ身につけられたのだという、リアリティは 感じられる。
中国で2人の仙人と邂逅した笹目氏も、道院の弟子たちに向かっては、
「修行中の神秘体験」に惑わされるな」
と常識に立脚するよう求めていたという。
笹目氏の道院設立以来の高弟、福生道院事務局の川合康夫氏はこう述懐している。
「笹目先生は、最後まで”太陽の精気を食む方法”を誰にも教えてくれませんでした。神仙からうかつに話してはならないと釘を刺されていましたし、話す必要もないと考えていたからでし ょうね。
晩年は、いつでも死ねると言 っていました。この世に執着があるようでは、まだまだ修 行が足りないということです。
中国で神仙に出会って以来、生涯にわたって修行を続けた笹目先生は、あくまで霊的な意味で不老不死を追求していました。
修行を重ねていくと、死や老を超越 して、死の恐怖から解放されていくからです。」
笹目氏は、1月25日午後3時にこの世を去った。が、その遺体は、この世への執着はまった くなく、まるで「もぬけの殻」のような状態だったという。道院が神意を聞くフ-チという行事 を行ったところ、道教でいう最高の位”真人”になられたというお筆先(自動書記)が下った。
その意味で精神の不死は達成されたと、道院の人たちは信じている。
川瀬健一氏は気功法の源流である仙術や東洋医学の研究が高じて、台湾に渡り、仙術の達人を訪 ね歩いた。
もう20回以上も訪台している。独自の修行法で健康維持に務める一方、東洋思想の 著書多数。
参考文献
モンゴル神仙邂逅記 笹目秀和著 徳間書店
抱札子 列仙伝・神仙伝 山海記 本田済・沢田瑞穂・高馬三良訳 平凡社
太陽と月の精気を食べる秘術を仙人に授けられた男、笹目秀和
今年1月、惜しくも去った笹目秀和(1902~97)はその秀でた行動力から”神仙の寵児” とまでいわれた求道者だった。笹目は大学生のとき夏休みに訪れた中国であった、白頭山の呂霊 來來 (りょりんらい)神仙の命に従い、モンゴルの遊牧民を救う使命のためバル親王家 の養子となる。
帰国後モンゴルの青年を教育する戴天義塾を解説。モンゴル民族(蒙彊、もうき ょう=中国西北部)独立運動にも参加する。12年後、呂神仙の予言どおり、疏勒神仙に出会い、 伝説的な乗り物・鶴船(仙)に乗って800キロを聖山・崑崙山まで一瞬のうちに移動したとい う。
戦後は中国発祥の超宗教の教え、道院の普及に力を尽くし、富士山の大爆発を読経で止めた ともいわれた。(本人の写真の説明文)
笹目氏は中国に渡り、モンゴル復興にも尽くした
壮大なスケールの冒険はまさに仙人級だった。
1924年の中国旅行ルート
大連→奉天→白頭山 呂霊來來神仙207歳に出会う・月の精気を食べる秘術を授けられる
→モンゴル東部 バル親王家の養子となる →奉天→大連
1936年の中国旅行ルート
大連→奉天→北京→蘭州・青海 疏勒山神仙洞・疏勒神仙(500歳)に出会う →鶴船で飛んだ約800km→崑崙山 太陽の精気を食べる秘術を授けられる
大弾圧を受けた大本教(道院の姉妹宗教)の神体を隠す
イスラム教徒に捕らえられて3ヶ月の監禁後、護送される
→蘭州→西安→北京→奉天→大連
新疆ウイグル自治区
ウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域
2012年アセンション最後の真実―マヤ予言の秘密とクラリオン星人の啓示…魂の5次元上昇が今、始まる!! から引用させていただきました
「魂の抹消」は決して残酷なものではない
対談の際に私と坂本氏の意見ははっきりと分かれました。
私は幽界の消滅とともにそこに残っている魂は跡形もなく抹消されてしまうのではないかと考えているのですが、坂本氏はすべての魂が少なくともフォーカス27までは引き上げられると語っています。
坂本氏は実際にヘミシンク体験を積んで多くの情報を得ている方ですから、彼の発言は尊重すべきだと思うのですが、救いようがない悪人というのは現に実在しており、その彼らまでが他の魂と一緒に救われるという考えには、私のような凡人にはどうも得心がいかないのです。
彼は殺人者にも一つの役割があるという考えに立っているようですが、同じ殺人行為でも、何世代も前の生でなしたものであるならいざ知らず、長大な歳月にわたる最終段階に至った現時点でのそうした行為には、厳しい判断が下されることになるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
そうした私の考えを裏付ける2つの話をご紹介しましょう。
ます最初は、沖縄本島に住む長田明子さんという女性が神から受けたメッセージです。長田さんは、医師として活躍される一方、神々に導かれて聖地を回られている「祈りの人」でもあるのですが、昨年、那覇市でお会いした折に、2006年4月、芦ノ湖を巡礼されておられた際に受けた衝撃的なメッセージを語ってくださいました。
その中に、魂の消滅について語られた所がありますので見てみましょう。それは、東京がこれから先、遭遇することになる天変地異の啓示の後で語られています。
何度も人々へ気付くように
伝え続けてきた神々の思いの届かぬまま
江戸は、浄化の日を迎えようとしています
神々、竜神の準備は全て整いました
これより浄化が次々と始まります
江戸、二段階でいきまする
二回目に、富士・江戸・三浦半島 同時に動くのでありまする
これは予言なりまする
人々の改心しだいで小さくすることが出来まする
これより、生まれ変わりも許されることのない、人間・霊ありまする
宇宙より消滅する魂これより増えることになりまする
生まれ変われない抹消 消滅の魂を選ぶか
それは一人ひとりの人間自らが選択することになりまする
明子殿、 その仕組み伝えなさい
メッセージは最初に東京の浄化が二段階で行われることを伝えています。どうやら、二回目のほうが本格的な災害になるらしく、富士の噴火や三浦半島の地震が、時を同じくして発生するようです。問題は、後半のメッセージですが、そこでは、輪廻転生が断ち切られ、抹消される霊が出ることがはっきり語られています。
人類は地球誕生以来、長大な歳月をかけて魂の進化を図ってきたはずなのに、今この時に至っても、また性懲りもなく物欲。肉欲におぼれ、他人を苦しめ、悲しませ、殺傷し続けている人間は、もはや存在する価値が無いと判断され、消滅・抹消されることになるというのです。
カヴァーロ 全員が次の次元に行けるとは限りません。持っている周波数がものすごく低い人はその波に乗れず、上に行けないわけです。彼らは---死ぬという表現をしていませんが、排除されてしまうのです。
浅川 排除された人達は、どこかの星に行くんですか?
カヴァーロ 違います。彼らは新たな星に行く術すら見つけることが出来ません。彼らはいなかったもののように消えてしまうのです。
浅川 やっぱり消えてしまうんですか。どこか他の星に移動するわけではないのですね。
カヴァーロ そうです。彼らは消滅してしまうんです。中くらいの人はまだ可能性を秘めているという事で、他で色々体験してその周波数を上げるようにする、そういう世界の一つが木星です。
浅川 そこは3次元的世界ですよね。
カヴァーロ そうですね。地球は高次元になってしまうから彼らはいられない。ですから他の世界の3次元です。もう1つ、非常に高い周波数を持っている人たちは、神々といわれる宇宙を創造した人たちの船に乗って違う世界へ行きます。
浅川 やっぱりそうなるんだ。分かりました。
カヴァーロ 周波数の低い人達は、中くらいの人たちは落第生と一緒ですから、歴史以前のずっと前からやり直して、それで次元上昇出来たら、地球の高次元の世界へ戻る事が出来ます。
読者は、浅川氏が語る「魂の消滅の可能性あり」の話を聞くと、ずいぶん残酷なことのように思われるかもしれません。しかし、類魂という考え方と、天が私たちに与えた最大の贈り物である「自由意志」の意味をきちんと理解出来てさえいれば、そこには残酷さなど存在しない事が分かるはずです。
それに、魂が消滅されるといっても、それは分魂された末端が切り離されるだけであり、類魂全体として消えてしまうわけではありません。いうなれば、枯れた枝を切り落としたり、虫歯になった葉の一部を削り取るようなもの。末端を切り離しても本体が抹殺されてしまうわけではないのです。
つまり、「すべてがひとつ」という視点で見るなら、何一つ抹消されるわけではないと言う事になります。そういう点では、浅川氏と坂本氏のそれと矛盾するものではないのではないでしょうか。単に同じことを違う方向から見ているだけかもしれません。
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