date :2018年04月
- 2018.04.16(月)
- 神から観れば一人びとりは神の細胞体♪宇宙即我・我れ神・神我顕現・全一の意識・悟り覚醒♪知花敏彦師♪
- No
- 42
- Date
- 2018.04.28 Sat
最近ハマっているクンルンネイゴンについて♪瞑想の数百倍の覚醒パワー♪世界最高の霊性修行♪超能力♪神仙KAN様♪
最近ハマっているクンルンネイゴンについて
実は最近、神仙KANさんで有名なクンルンネイゴンにハマっておりまして珍しくしっかりと真剣に実践中しております。
本山様のクンルンネイゴンの記事を見て、最新翻訳版をアメリカのAmazonさんのサイトから購入させて頂きました。
お陰様で、一ドル104.7円位の一番円高の時に購入出来ましたので、送料込みで約4750円位だったかと記憶しております。
アメリカのAmazonさんでは、為替相場から+5円上乗せされるようです。ですので、私の場合は1ドル109.7円位でした。ラッキーでした♪
アメリカのAmazonで購入時に、ローマ字で住所を入力するのですが、住所確定の時に、ローマ字が勝手に漢字に変わってしまうのですね。
それで、どうも本来の私の住所とは違う変な漢字になるみたいで、自然な漢字になる様に、何回も住所を作り直すという予定外の苦労をする羽目になりました

これは仕様の様ですから皆様もお気を付け下さいませ。


これは仕様の様ですから皆様もお気を付け下さいませ。 そんなこんなで無事二週間後くらいに本は到着致しまして、ハンドスキャナで読み込んでパソコンの画面で全部目を通して拝読させて頂いたという次第でございます。
本の内容は期待していた以上に深い、覚醒が起こる肉体の変化の過程を、ホルモンの詳しい分泌を初め、こんな現象が起きますよ…みたいな正直、予想していた以上に素晴らしい内容の著書でございました。
初回翻訳版にはいわゆる ”アチューンメント” が必要みたいな事が書いてあったそうですが、最新翻訳版にはワークに行かないと出来ません、とは書いておりませんでした。ですので独学でも大丈夫と判断出来るのではないでしょうか♪断然やる気が湧いて来ますねっ♪
波動23万のスピリチュアル界の偉人、本山様によりますと、瞑想などの霊的修行よりも数百倍の覚醒スピードがある様な事を記載されておりました。
それでいわゆる、心の次元を高める内的上昇的な修行とは別に、肉体を精妙化させる、肉体を霊化させていく、チャクラを開発する、霊的回路を発達させてゆくという肉体的アプローチとして、クンルンネイゴンは最適であると判断したというわけであります。
私自身、瞑想というのが、私の感性からしてフィーリングに合っていないといいますか…ジーッと何もしないという受動的な態度が、お恥ずかしいのですがどうも苦手でして……複数の事を効率的に行う、複合的アプローチが好きな私の性分にマッチしない様で、思案に暮れておりました。
私のいつも瞑想といえば、部屋を暗くして、ピンホールメガネをかけて、耳にチャクラ開発の音声をかけつつも、心の中は神我に目覚める瞑想で、両手腕振り体操をするといった、私の好きな複合的アプローチなのでした。
クンルンネイゴンをする時も、レベル1をしている間中、心の中は「神我に目覚める瞑想」といういつもながらの複合的アプローチの時間有効活用でやっております。
クンルンネイゴンをした後は、体に気力がみなぎっていると言うか、霊力が漲(みなぎ)っているという感じで、違いが分かる程にエネルギッシュになれるのがよく分かります。かなりいいんじゃないでしょうか。
ただの瞑想ですと、ここまでの違いは感じませんから、やはりクンルンネイゴンは新幹線のスピードというのは伊達じゃないな…と。
それに、私の性分にも合っている様で、両手腕振り体操みたいに何とか続けられそうで、期待に胸をワクワクさせておりますよん♪
クンルンネイゴンの基本は「スマイル・スマイル・スマイル」なんですって。それにつけても、清々しいまでに、「スマイル・スマイル・スマイル」を強調されているのが印象的でした。本当に笑顔っていうのは、魂の覚醒に多大な影響を及ぼすものなんですねぇ…(*´∇`*)ニッコリ







直感力然り、覚醒力UPの追い風になったり、心の起点をポジティブに変える効能があったり、とにかく何より大切なのは「スマイル・スマイル・スマイル」という事らしいですね。笑顔は何よりの薬です…なんちゃって





きっと、波動23万の本山様も「スマイル・スマイル・スマイル」を実践なさっている事でしょう。クンルンネイゴンは笑顔なくして語れないものですから。「笑顔なくして覚醒なし」くらいのものを本の内容から感じましたし。
クンルンネイゴンやってま~す、と言っておきながら、無表情で全然笑顔じゃない人がおりましたならば、その人はまだまだと判断して大丈夫かと。
眩しい素敵な笑顔が自然に出来る方は、人間的にも波動的にもかなり上出来の上等の魂のお方だとあえて申し上げます。
心が病んでおりましたならば、そんな自然な心地よい笑顔(スマイル)は出来ませんものねっ。笑顔を人間の判断の一つの物差しとしてご活用なさるのもアリかもしれませんね。
本を全部見た感じでは、クンルンネイゴンのポーズはかなりシンプルで覚えやすいですね。全然複雑ではありません。拍子抜けするくらいに簡単です。
いずれにせよ、やっと自分にあった修行法を見付けれたという喜びで満たされております。神仙KANさんに続いてドラゴンボディーまで到達できる様に頑張っていきたいと思っておりま~す♪ルン♪ (≧▽≦) ルン♪





とりあえずスキャニングしたデータは、家族皆にプレゼントしてみんなを短時間で覚醒へ導ける様にしてあげたいな~って……あっ、身内、家族だけですよ
本当に家族だけですから~っ…
ねっ^^;
本当に家族だけですから~っ…
ねっ^^;
皆様の霊性修行に何かしらお役に立てれば幸いでございます♪

☆


☆本山様最高にお役立ちな素敵な情報ありがとうございましたm(_ _)m♪
ライトボディに関してKanさんが説く食と年齢の考え方
若返りを極めるのか、次元を超えるのか
クンルンネイゴンの奥義には、若返っていくような方法があります。でも、私にとって、若返ることに大した魅力はないです。
人生を豊かにするために、アンチエイジングを心がけるのは良いことだと思いますが、若返るというのは、時間のベクトルを延ばすということでしょう?
それは、時間と永久に追いかけっこすることを意味します。
ライトボディになると若返ったり、不老不死になるのかと言えば、どんな聖人君子であれ、亡くなっていますよね。
彼らは「時間のベクトルをやみくもに延ばす」という事に飽きるんでしょうね。だって、時間を長く引き延ばすより、時空を超えたほうがいいじゃないですか(笑)
だから、高次元の宇宙人も700歳とか4000歳とか、命の期限があるわけです。
私の知人で、3次元で実際にすごく若返っている人がいます。90代なのに、どう見てもしぶみのある30代にしか見えない。
これは極端な例ですが、たぶん「ヘイフリックの限界の法則」が関係しているんでしょう。この法則は、「生まれた時点で、一生の内に難解細胞分裂するかが決まっている」という説です。
若返る人の場合、細胞分裂の回数を決める遺伝子がオープンな状態なのでしょうね。
それと地球上では、他の星から来た「ウォークイン」や「ワンダラー」などの存在たちが、3次元のボディをまとって生きていたりします。
彼らは、あまり歳をとったボディにしていくのは趣味じゃないから、いつまでも若々しかったりしますね。
究極の存在への修行と瞬間移動
明治神宮から青森へ 初めてのテレポーテーション
ファーストテレポーテーションが起きたのは、数年前、明治神宮にいた時です。その頃は、まだ行き先をコントロール出来ない時期でした。
午後二時すぎくらいに芝生の上に座っていたら、目の前にいきなり渦が沸き起こったかと思うと、1秒もかからない内に真っ暗になって、体が冷たくなり、一瞬呼吸が出来なくなったのです。
一瞬、「何が起こったんだろう?」って思ったんだけど、呼吸が出来ないので、とにかくもがきながら手で上へ上へとかき分けるようにしました。そしたら、なぜかゆきの中にいました。
まわりは白銀の世界で、自分は豪雪の中に閉じ込められていたのですね。
瞬時に、「こんな寒くて淋しい所にいたら死ぬわ」って思って、どうやって来たのか分からなかったけど、とにかく元の場所に戻ろうとして、フン、フン!って力を込めて雪の上で踏ん張ってみたり、ありとあらゆる事を試してみました。だけど何も起きないわけです。
さすがに、「その日の内に日が暮れたら、本当にヤバイな」って思って、無駄な努力をするよりも民家を探そうと思い、雪の中を歩き続けたのですね。
寂しい場所で、民家を探すのがすごく大変でしたが、2時間くらい歩いたら、ようやく家を発見したのです。
私はいつもTシャツにサンダル姿です。その時もその格好だったので、
「北国に暮らす、あるおじさんの家に、黒いTシャツを着た謎の男が訪ねてた」っていうシチュエーションになるわけです(笑)
そこは、青森県だと分かりました。おじさんの家に泊めてもらう事になりましたが、自分のことを証明しようと、カバンを公演の木のそばに置いていたので、手元にありません。
事情をわかってもらうために、連絡の取れた東京の知人に公演に残してきた鞄を見つけてもらい、それを青森まで送ってもらいました。
数日後にその宅急便が届いたので、カバンをおじさんに見せて、お礼を言ったのです。
「あの日、私は東京の明治神宮にいて、カバンだけ置いてきました。でも知人に送ってもらったので、この鞄の中にある財布から、お礼をお支払いします」
といった究極の覚醒まで到達された神仙KAN様のエピソードでございました。クンルンネイゴンを実践するとこんな境地まで到達出来るそうです。
もうこれは……やるっきゃないかも(b´∀`)ネッ!♪



FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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- No
- 43
- Date
- 2018.04.25 Wed
バーソロミューが語る真実の愛とは♪全ての人間は大いなる愛そのもの♪知花敏彦師の宇宙神理と全く一緒♪神我・悟り
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
真の愛とは何か 愛ではないものとは
地球の人々の最も深い関山事のひとつは愛であり、愛とは何かということだと思います。
愛とは、本当は非常に単純なことなのですが、地球界では、多くの錯覚や誤解に満ちた概会になっています。そこで、「愛ではないものは何か」ということについて考えてみたいと思います。
自分には愛し愛される相手がいると感じている人たちは、自分たちの愛を非常に強くて深い、決して変わることのない感情であると思っています。
ここで問題になるのは「決して変わらない」という言葉です。
一見すると永遠につづくと思われる強い愛も、よく観察してみると、決してそれが永久に続くものではないことに気づきます。
ここに深くて変わらぬ愛を抱きあっていると思っている二人がいるとします。このふたりが人生を共に歩むにしたがって、ある日、奇妙な事が起こります。
ふたりにとって重要な問題に関して、大きな意見の食い違いが生まれたのです。このような状況にどう対処するかは人によって違ってきます。
ふたりがインテリの場合は、それぞれが自分の立場を正当化して議論をするでしょう。
ふたりが、怒るのは良くない事だと考える「いい人」であれば、自分の不満をそれとなく間接的に表現するでしょう。
また、感情的な人たちの場合には、怒鳴ったり、わめいたりする事になります。いずれにしても、これらの言動はどれも怒りや恨みの表現であって、愛情表現ではありません。(感情の愛・盲愛)
こうした状況においては誰も愛を感じることはできません。
自分の夫婦関係や恋愛関係を注意深く観察すると、このような摩擦が何度も起きていることに気がつくはずです。
一般に愛と思われているのは、実は、引力のように惹きつけられる「魅惑」という感情の動きです。
そして、この引力には反発という感情がついてきます。
この相反するふたつの感情は常に共存しています。
現在、深い愛情関係にありながら、この魅惑と反発の感情が共存していることを認めるだけの正直さを持ちあわせない人に対しては、私から何も言うことはありません。
誰かに心を動かされているからといって、その感情を愛だと思いこむのは単純すぎます。
自分の心のなかをよく見つめてみると、非常に意地悪で否定的な感情や恨み、利己的な考えもあるのに気がつくはずです。
それは、とても人間的なことです。
ではここで、愛とは何でないか、という点について考えてみましょう。
愛は自然についたり消えたりするものではありません。
ある日あったものが、次の日にはなくなっている、というようなものでもありません。それは愛ではなく、感情です。
愛とはワクワクするような華やかなものである、というイメージを捨ててほしいと思います。
愛とは魅惑的なものであるという考えが誤りであることに気づき、自分の人生において大切な人々に対して抱いている本当の感情を理解した時に、やっと愛とは何かを理解できるのです。
愛とは何かということが、なぜそんなに大事なことなのでしょうか。
自分は最高の愛を経験していると感じている人も多いことでしょう。
しかし、私の目から見ると、地球の人々は最もすばらしい愛をまだ経験していません。
最高の愛とは、人々が考えているよりはるかに素晴らしく(真の光悦感)、地球界で言われる「最高の愛」はそれに比べると色あせて見えます。
ここでヒントを出します。それによって、恋愛関係にあるとき、人がとる行動についての誤った思いこみを捨てる助けにしてください。
まず、自分が非の打ちどころのない完壁な恋人であると思っている(反省出来ない)人は、自分を変えようとは決してしません。
一方で、恋人に対して自分の思いやりの足りなさを率直に認める(内省する)ことの出来る人は、自分の行動を変えることをいといません。
自分のなかの思いやりのない部分に気づくということは、他人から学ぶという姿勢を持つことで、柔軟な思考を必要とします。
この姿勢は、大いなる自由―「人間界の幻影の鎖を解き放ち、無限の可能性に目覚めた状態」を得るために通らなくてはならない過程において重要な一歩です。
では、誰から学んだらよいのでしょうか。それは、学ぶ人がどんな人で、どんなタイプのものにその人が惹かれるかによります。
経験者の助けを借りるのが嫌いな個人主義者の場合は、ふつう自分自身の経験から学ぶことになるのですが、この方法はとても困難です。
本質(神我)と幻影(自我・偽我)を常に判別できるとは限らないし、時には、わき道にそれて、つまらない退屈な人生を送ったりしてしまいます。
最も簡単な方法は、すでにその道を切り開いた先駆者(知花先生)を見つけ、自分にあった方法でその先駆者から学ぶことです。
これには色々の方法があります。この先駆者は生きている師やグル(導師)でもかまいませんが、他にも先駆者はいます。
多くの先駆者はすでにこの世にいませんが、あゆんだ軌跡をはっきりと残しており、本を通してそれを知ることができます。
そうした本のリストから「これだ!」と感じるものを見つけてください。
そして※本物の愛、大いなる愛へ一歩でも近づけるよう、その先駆者の助けを借りてください。
まず、あなた自身のなかで、どういった分野で愛情を持った行動がとれないのかを見つけ、それから、あなたの求める「大いなる愛(大愛・真の自己)」の状態を実現(神我顕現)し行動に移している師を探してください。
師は、必ずしも現在生きている人でなくてもかまいません。
肉体を持っていないからといって、その人の力強い生きた叡智を学び取れないということはありません。
人聞は個々別々の肉体を持つバラバラの存在だというのは地球界の幻影(自我・偽我)であって、高い意識の観点(普遍我・宇宙我・キリスト意識・全てに神を観る)ではないのだという事を理解してください。
では、肉体を失うと、その人の叡智はどこに行くのでしょうか。
叡智は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原(愛の光)の中に常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。
偉大な真理や叡智(普遍不滅の大霊・真の自己)は死滅することはありません。
真理や叡智そのもののなかに勢いや速度(全ては波動)というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)の中を動きまわっています。
真理を求めたり、求道の思いに導かれたりするのは、そのような真理が宇宙のエーテル体(宇宙生命・大愛)の中に存在するからなのです。
そのような叡智や真理を自分に引き寄せ、それを実感することは誰にでも可能です。
たとえば、自分にとっての真理の道はキリストまたはキリスト意識(神我)を体現化した道を歩むことだと決心したとします。
その場合、キリストの愛と叡智を今の時点でも受け取ることができます。
ここで私が言っているのは、二千年前に示された、神の真理を肉体を通して現したパワフルで創造的な叡智(宇宙法則)であって、現在、キリストの言葉として信じられている単なる宗教上の解釈のことではありません。
キリストの没後、人間の言う「連続する時間」の流れの中のどの時代においても、キリストの道を歩む者なら誰でもこの真理に生き生きと触れることができました。
そして、これらの人々の存在が真理の勢いを今まで維持してきました。
すぐれた使徒はこのようにして偉大な師に仕えるのです。
つまり、使徒は学び、理解し、教えを身につけ、さらにその教えに心を注ぎ、行動し、自ら体験することによって教えを生かし、「後世に残して」いくのです。
ですから、使徒が教えを身につけ、それを実践することは、師に対して大きな貢献をしていることになります。
このような教えを地球界で実践することによって、教えの真髄をより実際的に理解することができるようになります。
ですから、宇宙の「大いなる叡知(宇宙神理)」と結びついた偉大な師(知花先生)の誰とでも、今、交流することができるのです。
あなたが自分の進むべき「道」を選び、その道に従って生きようとするなら、まず、心を完全に開いて「大いなる叡智」が何らかの形で自分の前に現れるように謙虚に(※神に)祈ることです。
(※神の御心(大愛)が我が中で行われますように・貴神(きしん)の想い我が想いへとならせ給え・貴神の言葉我が言葉へとならせ給え・貴神の想い我が想いへとならせ給え、(by知花先生)等々♪)
そうすると、あなたの人生にいろいろなことが起きはじめます。
その起こり方もさまざまです。
たとえば、何年も前にもらって読まずに放っておいた本が急に読みたくなったり、前に読んだ事のある本がまた目に入り、今度読むと以前とは違った新しい事を発見するということがあったり、また、友達から何かもらったり、新しい考え方に巡りあったり、といった事が起こります。
地球界の人々の感覚では、こんなことは日常的な取るに足らない事に思えるかもしれません。しかし、宇宙の叡智との結びつきを知ろうとするなら、こうした小さな出来事に心を留めることが必要です。
「大いなる自由(解脱・覚醒・アセンション)」を求める心が真摯であれば、「広大無辺なもの」(宇宙の無限の存在)はあなたの探求を速める手伝いをしてくれる事がわかります。
今まで思いもかけなかったような人たちに出会うようになり(シンクロニシティ)、さらに、さまざまな事が起こりはじめますが、それが単なる偶然で起きているのではないという事を理解しなくてはなりません。
なぜなら、これらすべてはあなたという存在の「あり方」そのものが強力なメッセージを宇宙に送りだしているために起こっていることだからです。
「助けてください。私にはこれが必要です」というあなたの求めの声が宇宙に流れたからなのです。
こうして求めるものが明確になり、それを自分という存在の「あり方」の中心にすえたときから、自分のまわりで何かが起こりはじめます。
このことが愛といったいどういう関係にあるのでしょう。
実はこれらすべてが愛と関わりを持っているのです。
愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。
自分の中や自分の周りにあって、自然に流れ動く(存在する)ものが愛なのです。そして、その人のあり方(裡なる神)そのものが「崇高なる愛」なのです。
しかし、このことに地球の人々はまだ気づいていません。
人々は、愛を非常に狭いあやまった見方で見ています。
ある肉体が別の肉体を好きになったり、自分のまわりの少数の肉体に好意を持つことが愛だと思っています。これは全くナンセンスです。
愛とは行為や行動をさすのではありません。
愛のただ中にいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方(愛のみが実在との気付き)そのものだという事実です。
人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。
愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。
あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。
それは「大いなる源(創造主)」(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられ、はじめから人間にそなわっているものです。
すべてのものはこの「大いなる愛(大愛)」から創りだされます。
ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。
どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。
とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心の中から沸き起こってきます。
これが「大いなる愛」です。
(感情・マインドで)誰を愛するか誰を愛さないかを、いつも自分で選んできた人々にとってこれは信じがたいことかもしれません。
あなたは一日のうちに何回も、自分の心の中から思いやりや、相手の気持ちを理解する心が自然にわき上がってくるのを経験するようになります。
このような感情は必ずしも誰かに向けられた情熱的な感情ではありません。
むしろ、日常のちょっとしたことから生まれる小さな心の動きです。
自分では意識しないような、日々の小さな出来事のなかに織りこまれている感情です。
他人とのいさかいなどから目を離して、このような感情の動きにもっと注意を払うようにすると、そうした感情が強くなり、もっとひんぱんにそれを経験するようになります。
愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したり出来るものではないという事を忘れないで下さい。あなたに出来る事とは、愛を体現していると思う道に従うことだけです。
真の自分とは何か(大愛・全一体感)、自分とは何でないか(自我・分離感)、という事が解ってくるにつれ、この愛の真理に気づく様になります。
人生に対するこれまでの幻影(分離感)がはがれ落ちると、それに代わって入ってくるのが、「大いなる愛」という、ダイナミックなパワーです。
このパワーは「神なる源」の主なエネルギーのひとつです。
このエネルギーは、あなたの中を流れて外界に出ていき、そのたびに勢いを増していきます。この(愛の)エネルギーは観察することができます。
行動に現れた愛として見ることができます。
ただし、現在、地球界で見られるもののほとんどは個人対個人の愛の行動で、「大いなる愛」はほとんど見られません。
自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。
性的な魅力を感じていることや、友情や、親としての本能的感情などに見られる愛は、自分はますます愛情深い人間になりつつあると思わせるために、その人のエゴが使う手立てにすぎません。
では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。
自分の心をよぎる全ての人、自分の目の前に現れる人の全てに対して、温かい思いやりの心とその人達の気持ちを理解する心
(全てを許し愛する寛大な心)を持つことが出来た時、その人は本当に愛情深い人という事が出来ます。
殆どの人は、いい仕事を持ち、愛する人々に囲まれていれば、自分の人生はうまくいっていると考えます。
これもまた地球界の人々が抱いている幻影の一部です。今はまだ多くの人が、このような感情的な愛を本当の愛と勘ちがいしています。
自分の人生を誰かのために犠牲にしようとしている人は、もう一度考えてみてください。
相手がいつもひどい事ばかり言うような場合でも、あなたはその人に対して美しく、清らかな愛情を持ち続ける事が出来るでしょうか。
このような愛情関係においては、ふつう、それぞれがその関係から何を得ているかということが問題となります。
たとえ、自分にプラスになるものを得ていなくとも、その関係から何かを得ている限り、その人はその関係をつづけるでしょう。
けれども、その関係が変化して、自分が望むものが何ひとつ得られなくなったときに、「愛がさめた」とその人は言うのです。
恋におちいることができるということは、また、さめることもできるということです。
人間のエゴから生まれるこのような愛情関係のように、やって来たり去っていったりする愛情は本物ではないのです。
自分の感じている気持ちが「大いなる源」から生まれる本物の愛なのか、または、エゴの生みだした単なる幻影なのかを知るには、
自分がその瞬間抱いている感情や思いを見つめ、「自分の周りでどんな事が起ころうとも、この気持ち(全ての全てを愛する心)を常に持ちつづけることが出来るだろうか」と自分に問いかけることです。
もしその気持ち(真の愛)を永遠に持ち続ける事が出来ないのでしたら、それは地球界における浮かんでは消える人間ドラマのひとつにすぎません。
「神なるもの」が生みだす本物の「創造劇(愛と調和)」ではありません。
こういう感情(表面意識)にいちいち心をわずらわせなくてもいいのです。
この自分への問いかけは人生のあらゆる出来事に応用できます。
ある特定の出来事を心に思い浮かべると、そのときの気持ちや考えが不変のものかどうか、自分でわかるはずです。
不変のもの(大愛・愛と調和の想念)であれば、その感情は「大いなるすべて」の一部であり、大切にすべき感情(想い)です。
ここで私が強調したいのは、努力や意思の力で愛を得ることはできないということです。あなた方ひとりひとりがすでに愛そのものだからです。
ただ、この愛の状態を実感するためにあなたに出来る事があります。
それは愛したいと心から望むことです。これは誰にでも出来る事です。
自分に対する見方を(大愛・全てに感謝に)変え、他人との関係を(愛と調和に)変え、世の中に対する自分の態度を(愛と調和に)変えるのです。
自分の可能性の全てを(神の愛をこの世に顕現したい)生かしたいと強く望めば、あらゆる面において自分の態度を(大愛に)変える事が出来ます。
もしもそれが信じられないなら、今、自分の人生にどんな愛があるかよく考えてみてください。本物の愛は現れたり、消えたりしません。
それ(真の自己・神聖な愛・神我)は(ハートの中に)常にあるのです。それが本物の証(本物のあなた)です。
あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。
そして(全てを)愛したいと強く望むことです。
その(愛を顕現したいという)強い気持ちが正しい道へと導いてくれます。
正しい道を歩んでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。
真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます。
こうした道は、最初はどんなに険しくとも、最後には愛に巡り会います。最初は愛に偏った道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。
愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。
どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。
どんな道を選ぶかはそれぞれの責任です。愛と叡智を自分のものとしていない師や、グルを、※まちがって選ばないようにしてください。
愛を生みだす公式のようなものはありません。
何度も言いますが、愛のエネルギー(無限宇宙の大愛)はすでにあなたの中を流れています。
自分の中にある愛に注意を向けなければあってもなくても同じです。
愛があなたの人生に役に立つのでなければ、あってもしかたがないではありませんか。
「大いなる愛」とは、あなたの求めるものすべてに対して休むことなく流れる深い愛のエネルギーであり変わらぬ思いやりの心です。
それはこの宇宙のすべてを創りだした「大いなる源」の一部です。
そして「大いなる源」の一部であるあなたの一部でもあります。
人間はひとりひとり別々の肉体と別々の心を持つ「大いなる源」とは関係のない存在であるという考え(分離意識)は、誤りであり、錯覚(自我・偽我)です。
すべての人間は「大いなる愛」そのものであるということを真剣に考えてみてください。あなたは愛(神・無限大の愛)なのです。
あなたが愛なのですから当然あなたは愛を知る事が出来ます。
- No
- 44
- Date
- 2018.04.23 Mon
バーソロミューが語る真の霊性の高い人♪全てが神という本質的真理の理解度♪知花敏彦師と一緒♪悟りの秘訣♪神我♪
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。
霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、
宇宙が命(大愛)に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる(許し愛する)心を持つにいたった人です。
自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。
それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。
というのは、この方法を長い間続けていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。
もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。
自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。
こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。
頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。
自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか。
自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。
そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。
同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。
「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。
私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。
理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。
誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。
どうしてそんなことがわかるのですか。
また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。
過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。
それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。
自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。
けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。
頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。
そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。
自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。
人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。
そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。
他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。
※本質的(神我)には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。(※神・大愛は完全であり絶対善です)
人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。無知と怖れ(分離感・自我・偽我)から人を傷つけるのです。
自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。
誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。
こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。
理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。
いいですか、よく聞いてください。
頭で人生を理解することはできません。人生はそんなに単純ではありません。自分で思うほど、あなたは単純ではありません。
あなた(の本質)は途方もなく広大無辺な存在(無限宇宙・神そのもの)だと、私は何回もお話したでしょう?
人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。
「頭(表面意識・マインド・自我)で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在(神)であることを否定しているのです。
したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。
あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。
そして最後には、「私とはこういう私(宇宙意識・大愛・神そのもの)なのだ」ということを(ハートで)理解するのです。
求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。
「広大無辺性(無限大の宇宙)」に法則を当てはめることはできません。
広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。
それはまるで、海辺に立って両手を広げ、
「波よ止まれ。なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。だから私はここに立って命令する。波よ止まれ」というようなものです。
不可能なことです。
弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」という考えを持ちます。
そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。
仮にこれが本当だとしてみましょう。師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。
では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。
あなたですか、師ですか。師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。
師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。
師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。
あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。
そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。
私はそうは思いません。今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分(裡なる神)だと感じているとします。
カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。
どうやって探したらいいでしょうか。
今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。
もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。
ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。
つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。こんなことが意味をなしますか。
私にはそうは思えません。
このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。
問題は、あなたが何かを知らないということではありません。
問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。
あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。
このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。
あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。
エゴはいつも、「心配するな。悟りはすぐそこだ。もう少しがんばれ。
すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」とささやきつづけます。
誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。それでは求める人になってしまいます。
前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。
求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。
私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。
何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。
一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。
人生はもっとよくなってはいきません。
自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。どうかわかってください。
「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。
未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。
今日こそが毎日です。
今日こそがすべての日です。
今日こそがその日なのです。
求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。体をこれ以上きたえることもできない。できることはすべてやった。できる限りの努力はした」
と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。
求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。
この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。
エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。
本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。
エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。
このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。
何しろあなたは神を求めているのですから。
神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。
ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。
まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。
どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。
一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。もしも一定のやり方があるとすればの話です。しかし、そんなものはありません。
既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。
このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。
このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。
こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。
何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。
気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、※神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。
(※「神は汝の内にあり」「神と人は常に一体」が神理であり、悟りそのものですから、そこに気付くことが解脱にとって最重要♪)
高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。
非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。
長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。
しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在の証である」とも昔から言われてきています。
この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。
次のことをどうかおぼえていてください。
自分は歩むべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分は守れていると感じはじめることがあります。
そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。
自分の人生が道理にかなっているのは、頭(マインド・自我)を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか?
命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。そういうふうにはなっていないのです。
神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。
もしも神、すなわち、命(宇宙生命・大生命・大愛)が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。
「大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。
「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。
「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。
ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。
葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。
これがパラドックスだということがわかりますか。
悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめた時だというわけです。
ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。
ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている(今即天・今即実在・宇宙即我)」と言っています。
それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。
でも、やはり信じていないのです。
マハリシはつづけます。
「悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである」
それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や
はり信じません。
マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。あなたが判断してください。
マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください。
マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。
ただし、中途半端に信じるのはやめてください。
中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。
自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。
よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。
誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。
自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。
人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。
残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつ(色心不二・空即是色)なのです。地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。
無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ(愛して)、自分を完全にありのままに受け入れ(愛し)、
他人を完全にありのままに受け入れ(許し愛して)、自分自身を愛するように他人を愛することです。
自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。
では、どうやって愛すればいいのでしょうか。
自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。
今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。
この一瞬において(全てが)自分自身(全ては自分)であることです。
一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にも厳しくなくなります。
この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。
これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。
この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません。
しかし、あなた方が、「神なるパワー(大愛)と呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。
この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。
人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。
こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。
それはとても単純なことから起きたのです。
あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。
「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。
人生、もう少し予測可能であるべきだ。いくつか規則を作ろう。
規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」
予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。
予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、当てにできないので、都合が悪い存在です。
そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。彼らは気が変わるので、不都合なのです。
彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。
そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。
そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。
人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。
何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。
どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。
何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。
何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。
しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。
「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。
すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。
けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。
教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。
私には悪は見えません。私は悪の存在を信じません(真実・実在に於いて、心の影・自我・闇は存在しません・神一元・愛のみが実在・光一元)。
私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れ(無知・分離感)が原因だと考えます。
心の中に「大いなる愛(神我キリスト)」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。
けれども、怖れ(自我・偽我)は「大いなる愛(大愛)」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。
傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。
心が痛むにまかせていてごらんなさい。誰かそれで死にましたか。
すべての人々は傷つけられた経験があります。何度も何度も傷つけられた経験があります。それでも、人々はちゃんと生きています。
そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。
あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。悲しみなくして喜びは、経験できません。
そのふたつは同じ世界の両面なのです。
ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです(全てを愛し全てを許し愛の光で抱擁してあげる)。どうでもいいことです。
傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。
どちらでもいいのです。そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。
堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。
真剣にやってください。
こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。
自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。
あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。
このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。
けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。
覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。
自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。
(※全ては自分・全ては神・大霊との一体感)
喜びや慈しみの心や命(神)を感じることでしょうか。
(※慈悲と愛が宇宙神理・全てに神(命)を観る)
それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。
注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。
あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。
それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。
そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。
でも、きびしい修行をする必要はありません。
あなたは心を静めることが必要なだけです。
あなたがしなければならないのは、それだけです。
心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。
いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。
瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。
あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。
そして、その結果、困ったことになるかもしれません。
みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。
子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。
小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。
顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。
そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。
その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。
では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。
まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。
自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。
自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。
地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。
今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。私たちはあなた方に「今のままでいいのですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。
すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。だから、すべては今のままで、※そのまま(愛おしい)でいいのです。
(※勘違いしやすい部分ですが、所謂、努力しなくていい[偽スピ系]というわけではありません。難行苦行悟りに非ず・全て善し・全てが愛おしい・全てに感謝・と解釈すると自然な気が致します)
何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。
あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。
そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。必ずわかります。
この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。
あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。
「大いなる光(大生命・大愛)」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、育んでくれていることをあなた方は知っています。
それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。
人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。
しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。
あるがままですべて完壁(全て善し・全てに感謝)だということがわかり、その(神の)一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。
あなた方はみんなその無限の広がり(無限宇宙・宇宙生命・大生命)の一部であり、それは実に美しいのです。
どうか、そうした見方(神のみが実在・全てに神が宿り給う)をするよう心がけてみてください。
質問:
これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。
自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。
あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。
これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。
全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。
痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。
感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。
それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。
古いパターンの考えが現れなくなります。
それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。
そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。
こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。
そのための唯一の方法はとにかくやることです。
自分の考えを考えないようにすることはできません。
ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。
古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。
しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。
この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。
これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。
新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。
ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。
これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。
これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。
けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。
肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。
瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。
真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。
ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。
そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。
まさにそれだけです。それはすばらしい生き方です。
瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。
全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。
人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。
けれども、あなたは何も知ってはいないのです。
なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。
常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。
すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。
人生は決して古くなったり、終わったりはしません。
あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 45
- Date
- 2018.04.21 Sat
バーソロミューが語る性欲の真の意味♪ラー文書が良く分かるお話♪遺伝子組み換え果物判別法♪悟り・全ては一つ♪
メタフィジックス通信様 (ラー文書が良く分かる良質記事♪)
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
性の問題をきちんととらえるためには、過去に戻って考える必要があります。
ご存じのように、性にまつわる問題というのは何も現代に限ったことではなく、昔からいろいろあったことで、それは不可思議なものであり、人々をとまどわせるものです。
これをもっと広い見地から見るために、人間の性の持つ役割というものを考えてみたいと思います。
性行動に関する「ルール」を私がここで述べようなどというのではありません。性行動のルールを作るのはあなたの責任です。
それは、どういう社会的法律のもとで暮らすかを決めるのが、あなたの責任であるのと同じです。
では、過去にさかのぼってみましょう。魂がこの地球にやってきて、肉体を身につけ、これから何をすべきかを決定した時代に戻ります。
そのとき、人間たちは「パワー」を与えられました。
このときに与えられたパワーは七つのテャクラと関係したエネルギーでした。
現代の人は、エネルギーというものを、規則正しい法則にしたがって動くものだと思っていますが、ここでいうエネルギーは、人々の「存在」のなかをたえまなく動いているパワーであり、それは特定の目的を持つものでした。
目的のひとつは考えることであり、もうひとつは感じることでした。
私がいう性エネルギーも、こうしたエネルギーの一種でした。
性エネルギーやパワーは、人間ひとりひとりが自分の意思で決めて使うようにと、与えられたのです。
はじめの頃は、性エネルギーはほかのエネルギーと分離してはいませんでした。
人を狩猟にかり立てる衝動と性衝動とのあいだに、たいしてちがいはありませんでした。その頃は、それぞれのエネルギーのあいだには、はっきりした区別がなかったのです。
はるかな過去世において、すべての人間の体のなかでエネルギーがスムーズに流れていた頃、それぞれの人間は、自分がどんな人間なのか、どんな人間になりたいのかということにもとづいて、人生におけるさまざまの選択をしていました。
あなたが地球界に転生してきたのは、今回がはじめてではないということをここで理解しておいてください。
あなた方は、この地球界にずっと長いあいだ、何回も転生してきています。
ですから、過去世からの性癖のようなものが各人のなかにあらかじめあって、それが、その人のありよう、意識などににじみでてきます。
このような過去からの性癖がひとりひとりの性に対する態度に影響し、その人となりの一部となります。
あなた方が何度も転生して、時間と空間のなかを移動するにつれ、性エネルギーは自己表現のひとつの方法となり、人は自分の意思にもとづいてそれを使いました。
ほかのエネルギーと同じように、性エネルギーも、ひとりひとりが自分に対してだけ責任を持つものとしであったのです。
性エネルギーは、「その人らしさ」の一部であり、ひとりひとりがしっかり意識すべきものとしてあったのです。
自分らしい感じ方、自分らしい行動をするためのものでした。
あなたは、自分の考え方しだいで人生が調和に満ちたものになったり、逆に不調和そのものになったりするということ、そしてその自分の考え方というのは、自分の責任であるということを経験から理解するようになりました。
それと同じように、自分の性エネルギーをどう使うかというのもあなたの責任なのです。
けれども、現代では、誰もそうした責任を認めようとはしません。
人はすべての行動に対するルールを作り、個人としての責任をとろうとはしません。
何をすべきかは法律や社会のおきてに決めてもらう、そうすれば自分の責任は関われないと思っています。
こういうやり方はうまくいっているでしょうか。
「暗黒の時代」の昔に決められた性道徳は人々に喜びを与えているでしょうか。(あなた方はまだそういう古い性道徳のなかで生きでいるのでしょう?)
もう、そろそろ自分自身の性に目覚めるときです。
他人のモノサシに左右されず、自分にとって、男であること、女であることはどういうことかを表現することです。
いつも生き生きして、元気いっぱいで、優しい気持ちに満ちて、クリエイティブでダイナミック、そして明るくエキサイティング・・・自分をそんな人間だと感じさせるようなことをしてください。
そうすることがあなたの責任なのです。
社会のおきてにしたがって行動しようとすると、自分の欲望との板ばさみになります。
神が、人間の性行動のすべてを、関心を持ってじっと見ていると信じている人も多いようですが、実のところ神はそんなことには全く関心がありません。
セックスは人間ひとりひとりの問題です。
神はそんなことにちっともかまってはいないし、他人もそんなことに関心をはらうべきではないのです。
神が関心を持っていることはただひとつ――人間がどれほど真理に目覚めているか、その人の生きる力や愛情、他人への思いやりがどんなものか、ということです。
社会のおきてにしたがって生きてきて、その結果、怒ったり、恨んだり、人を批判したり、ネガティブになっているとしたら、神と調和しているとはとても言えません。
性や性行動の話になるといつも決まって同じ質問が出ます。
みんなが自分の好き勝手な性行動をとったら、世の中はメチャクチャになるのではないか、というものです。
規則をすべて取り除いたら、いったい、どうなるのだろうか、という質問も出てきます。
これに対する答えが、私と地球の人々との考え方のちがうところです。
人間から社会的な規則を取り去ったら、人々は自分自身の心のおきてを見いだし、もっと人間的で自然で、優しく親切になる、と私はかたく信じています。
私は人間を信じていますが、人間は自分たちを信じていません。
人間は、まるで自分たちは檻に入れられた動物だ、とでも思っているようです。
社会のおきてという檻がなくなれば、自分たちは性欲に狂った野獣のようになると信じているのでしょうね。そんなことにはなりません。
安心してください。
人間は「大いなる創造物」の一部であり、
その気になれば、何が一番よいかを知る能力をそなえています。
しかし、自分自身の内に指針を求めるのではなく、社会のおきてに判断を求めると、問題の本質が不明確になります。
自分自身のなかにあるおきては完全に予測できるものです。
私は、人間を支配する「大宇宙の法則(宇宙神理)」を知っているので、そう断言できるのです。
人間が人間を創りだしたのではないということは、もうわかっていますね。
人間は(神に)創造されたものです。
あなたは、この「あなた」というすばらしきものを与えられたのです。
あなたのなかには「大宇宙の法則」が働いており、これはあなたが自分で創りだしたものではありません。
この「(宇宙)法則」は例外も全くなく、完全に信頼できるものです。
人間が作ったどんな法律よりも信頼できます。
自分の(裡なる)「存在(神我)」そのものを心から信頼しようと決心すると、他人への深い思いやり、人の心を理解する能力、調和、勇気、知恵など、これまで自分が求めていたものが、すぺて自分のなかにすでにあることがわかるようになります。
人間の本来の性質、人間存在の本質は「大いなる源」の一部であり、それから創られました。
そうでなければ、人間が創られたときの「原材料」はいったいどこから来たと思いますか。
創造のその瞬間、人間はすばらしい贈り物を与えられました。
なかでも重要な贈り物が、男性女性という性別、セクシュアリティだったのです。
外の世界と関わろうとするときに、人はどうも混乱してしまうようです。
人は自分のなかのある種の感覚や感情を何とか他人の感情と調和させようと努力します。
また、人はそれぞれ性に関して異なる意見を持っています。
みんなちがうのですから当然です。
自分の性を理解しようとするときに、頭でわかろうとはしないでください。
人が性のパワーから何かを学ぶことができるのは、それが体のなかで動いているときです。
性エネルギーそのものは、ほかのどんなエネルギーとも同じように純粋です。たとえば、倒錯的行為について考えるとします。
すると、パワーが増加します。ここで、ただちに頭が働きだして「善」か「悪」かの判断を下してしまいます。
性というものを自分はどんな目的に使っているか考えてみてください。
他人を自分の思いのままにするために、性的パワーを使う人もいます。
セックスがとても「上手」になって、人をコントロールする目的にそれを使ったりします。
他人を罰するために性的パワーを使う人もいます。
とても「下手」になってそれで人をコントロールしたりします。
性的パワーを全く使わない人もいます。
何らかのパワーを手にすると人は自問します。
「このパワーをどう使おうか。誰と一緒に使おうか。
自分の人生にどう役立てようか」と考えます。
自分の性というものは見ることはできませんが、自分のなかにあるパワーとして感じることができます。
そこで、、同じような質問を自分にする必要があります。
「私は自分の性を何のために使いたいのか」
これは個人的な問題ですからひとりひとりが自分の心の奥深く、
自分の「あり方」そのものに問いかける質問です。
誰も性欲に狂った動物になったりはしませんから、こういう質問をすることを怖れないでください。
性について真剣に深く考えていくと、性エネルギーは肉体というものの偉大な味方だということがわかります。
もちろん「味方」はいわゆる霊界にもいて助けてくれますが、ここで話しているのは物質界にいる味方のことです。
性が人間の味方だというのは、自分らしく自然に生きることを通して、自分というものをよりいっそう知る機会を与えてくれるからです。
自分のなかの性を素直に見つめ、それについて考えるのは、非常に勇気がいることです。
年齢に関わらず、どんな人であろうと、性に対してゆがんだとらえ方をしていたり、自分の性欲を不快に思ったり、そのことで悩んだりしている人は、性こそが自分にとって解決すべき「未処理」の分野なのだ、ということに気づいてください。
現在、自分の人生に性を表現する相手がいない人は、自分でそうしたくないと決めたからです。
自分の人間観、人生観にしたがって性欲が表現されていれば、かならずその人に合う相手が見つかります。
醜いからとか、太っているからとか、年をとっているからとか、何らかの理由をつけて自分の性エネルギーを使っていない人は、自分のそういう考え方を外界に投射しているためにそうした現実を経験するのです。
性を全く無視して生きれば、面倒が起こらないと思いこんでいる人もいますが、そういう人は性の問題に何度も直面するはめになります。
性に心を悩まさなくてもいいようにと、手術までする人がいますが、性エネルギーは手術後も残っていて、自分の体のなかを動きまわっているのを発見することになります。
性エネルギーは肉体の一部なのですから、捨て去ることはできません。
性欲は肉体が持つ欲望のなかでも最強のもののひとつだからこそ、常に人間の味方になることができるのです。
現世でこの問題を解決するか、来世でするか、いつかはこの問題に直面しなければなりません。
性エネルギーという神からのすばらしい贈り物をどう使うのか、自分のなかではっきりさせることです。
そうすると、人生に変化が起きてきます。
今までとちがう経験をたくさんするようになります。
今までなかったものがその人の人生のなかに現れたり、今まであったものがなくなったりします。
大切なことは、自分に問いかけ、それに答えることです。
「この驚くべきパワーを自分は何のために使いたいのだろうか?」と。
いずれにせよちょっと乱暴ですが、神は性エネルギーを通して何を人間に望んでいたのか、ということを私が推理してみたいと思います。
たとえ話をしましょう。
ここにティーンエイジャーがいて、車を買うことになりました。
あこがれのポルシェです。
さて、いざ車のキーを渡すときになって、
親は「これはたいへんだ」とこわくなります。
強大なパワーは非常に危険なことに使われる可能性があるし、ティーンエイジャーの息子、または娘がまだ未熟な子供だということが、頭にひらめきます。
これと同じように、神が性エネルギーを人間に与えたときも、
「これはたいへんだ」という思いがありました。
神が望んだのはこのパワーが、深い意識をもって有益な目的に使われることでした。
そのひとつは、人間の喜びのためでした。
性の喜びとすばらしさ、そのもののためです。
もうひとつは、パワーというものがあるということ、それが存在し、動き、創造し、何かの形となり、ダイナミックで変化していくものである、ということを人間に教えるためでした。
人間の思考力のほかに、これほどの力を持ったパワーがほかにあるでしょうか。
そして最後に、この贈り物にはもっと高い目的もありました。
それは感謝の心です。肉体の喜びに対する感謝であり、命を実感できることに対する感謝、肉体以上のものになれることに対する感謝の心です。
性エネルギーが外からおとずれ、体を満たし、感動を与えると、人は喜びを感じ、生きていることを実感し、感覚のすばらしさを味わいます。
そういう経験をしたあとでは、今度はそのパワーが反対方向に流れることも可能なことを、理解できるのではないでしょうか。
ちょっと説明しましょう。
性エネルギーは外から自分のほうへやってくるもの、または、自分の内部からわきでてくるものだ、と人は感じています。
神が望んだのは、性エネルギーの流れは反対方向に行くこともできるのだということを知って、人間がそのエネルギーとともに、発生源である「大いなる源」へとさかのぼってくることでした。
エネルギーは両方向に流れます。
人間がエネルギーとともにさかのぼることができれば、エネルギーの根源である、「大いなる源」と合流できるわけです。
「大いなる源」と合流するには多くの方法があり、とくに、これと決まった正しいやり方というものはありません。
あなた方が、正しいやり方をしなければならないと思いこんでいるから、むずかしくなるのです。
あなた方はこれまで「読むべき」本をすべて読み、師につき、「正しい」道を歩んできました。
ところが、「大いなる源」へ戻っていく道を少しでもかいま見た人は、ここで壁にぶつかります。その理由はその人の思いこみにあります。
自分には「大いなる源」へ戻っていくだけの資格がないとか、そうするには何らかの犠牲をはらわなければならないなどと、信じているからです。
したがって、セックスの一瞬一瞬を通して、性エネルギーが教えようとしているレッスンにちっとも注意をはらいません。
セックスのただなかにありながら、それを感じようとしないので、意識が体験から離れてしまいます。
このように気が散るのには、いろいろな原因があります。
まず第一に罪悪感があります。
こんなことをしていてはいけないとか、神が見ているのではないかとか、師が見ているのではないか、と思ったりします。
こんなことを考えているので、セックスをなかば無意識的に行い、性の不思議な魅力も、性エネルギーの動きも感じることができません。
性エネルギーは人間の味方なのです。
けれども、どんなに力強い味方も、心ここにあらずの状態にいる人や、耳を傾けようとしない人を助けることはできません。
意識を集中させ、セックスの初めから終わりまですべてに注意をはらい、自分の反応や感情を見つめ、エネルギーがどんな動きをしているか、性エネルギーが自分をどのように解き放ってくれているか、
どこのところでエネルギーがとどこおっているか、その滞(とどこお)りをどうするか――このようなことに注意をはらう必要があります。
意識がそこになければ、人はそこにはいないわけで、何も学ぶことはできません。性生活が満足なものでない場合、パートナーの数を増やせばいい、と思っている人がたくさんいます。
それでもまだ体力があまっていると、自分がまだ満足していないだけでなく、パートナーの数が増えたぶん、自分に文句を言う相手も増えたわけで、悩みの種を増やしてしまったことに気づきます。
なかには、自分の問題は現在のパートナーが悪いのであって、もっと官能的な相手を見つければ、満足が得られると思っている人もいます。
そうして、ちがうパートナーを見つけてみても、まだ不満です。
性エネルギーから満足を得られるのは、それがすべてのレベルで賢明に使われたときだけです。そうでない限り、満足は得られません。
性エネルギーは、この喜びのレベルまで来たらストップする、などというようには創られていないからです。
では、もっと深い経験をするにはどうしたらいいのでしょうか。
瞑想をしている人は、自分の体のなかを流れ動くエネルギーをはっきりと感じ、そういうエネルギーは自分の肉体を超えたところから来ていることを知ります。
性エネルギーにも同じような働きがあって、あなたをより広大な意識へと誘う「引き金」となります。
自分がすべてのレベルで学び成長していく手段としてセックスを利用したければ、自分の内部やまわりで何が起こっているかに耳を傾け、注意をはらわなければなりません。静かにして意識をとぎすますのです。
性エネルギーの動きに気づき、それを感じ、動くさまを知るようにならなければなりません。生殖器部分は宇宙のパワーであるクンダリニーの発火点に非常に近いことも、観察していくとわかります。
意識を完全にとぎすましていると、パワーを急増させ、背骨の基部にあるチャクラから天項のチャクラまでエネルギーをかけのぼらせて、途中のチャクラにすべて点火する能力が自分のなかにあることがわかります。
性エネルギーのすばらしさを感じない人は、そう感じないように、頭のなかで何かがスイッチを切っているからです。
このエネルギーは一方向に流れるだけではない、ということを思いだしてください。
エネルギーの筒の一方の端と、もう一方の端を分離するわけにはいきません。それらはつながっているのです。
性は神から人間への贈り物です。
神からの贈り物はすべて、ひとつの目的を持って与えられました。
将来、神のもとへ、「大いなる源」へ戻っていくために使われるようにです。
ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。
神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。
しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。
どの転生の人生でどんなふうに性エネルギーを使うかは、あなたの自由です。けれども、性エネルギーは、それを使って「家(神の御国)」に帰るようにと、神から与えられたものであることを忘れないでください。
何か質問がありますか。
質問:「クンダリニー」のパワーは非常に危険で、それを得るには師につくべきだと思っていました。ちがうのでしょうか。
長時間の瞑想や禁欲生活、プラーナヤーマ(ヨガの呼吸法)などの精神的修行をしてこのクンダリニーのパワーを「獲得」し、自分の意思通りにそのパワーを使おうというのでしたら、確かに師につくべきでしょう。
私が人間として転生したときの経験から言いますと、私には師もいませんでしたし、私がしようとしていることを理解できる人も全くいませんでした。
私にあったものといえば、エネルギーの動き、それだけでした。
私が確信をもって言えるのは、エネルギーの動きというのは完全に信頼できるものだということです。
エネルギーはそれ独自のやり方で動き、独自のペースですすむのであって、私の能力以上のスピードですすんだり、能力以上のところへ私を連れていくこともありませんでした。
すべてがうまく行きました。エネルギーが動くままにまかせて、エネルギーにしたがうようにすると、エネルギーはそれ独自の道を開いてくれます。
まるで奥山にわきでた小さなせせらぎが軽やかに山を流れ下りるかのようです。けれども、ダムの門を開けて、いっせいに水を放流すると、水の勢いが激しくて危険です。ですから、自然にマイペースでやってください。
何をするにも師が必要だなどと思いこまないでください。
あなた自身が教師なのです。パワーはあなたの内部にあって、人はそれぞれがパワー制御装置のようなものを持っています。
エネルギーが動くにしたがって、道も開けてきます。
私の言うことをうのみにはしないでください。
もちろん、ほかの人の言うこともうのみにしないでください。
自分自身の内なる声に耳を傾けてください。
少しやってみると、自分も性エネルギーについて知っていることがある、ということがわかります。性や性エネルギーから、自分が切り離されていると感じる必要はありません。
セックスによる結びつきの目的は、すべてのレベルで人をはぐくみ、育てることにあります。
セックスへの理解を深めたいと思っているパートナーがいる人は、自分をはぐくみ、育てるものはどこから来るのかを知るために、次のようなことを実行してみてください。
欲しいと思う人はタントラ・ヨガの本を手に入れてもいいでしょう。
けれども、べつになくてもかまいません。
自分にとってセックスとは何かということについて、自分自身の本を書くつもりになってください。そのために自分が実験場となり、実験体となるのです。
では、あなたがパーティに出席しているとします。
誰かがあなたに近づいてきて、その結果、あなたは自分のなかで性欲がわき起こってくるのを感じます。
修行をしている人は、「性エネルギーを経験することは有益だろうか」と、ただちに自問します。
一番下のレベルにいる人にとっては、答えははっきりしています。快楽です。そこでそのための行動をとるか、またはとらないことを選びます。
もう少し高いレベルにいる人は(私は、この「レベル」という言い方をまるで信じません。でも、皆さんは大好きでしょう?)、
「ちょっと考えなくては。今このエネルギーを行動に移すと、私の人生に混乱が起きるだろう。それだけの価値があるかどうか」と考えます。
それだけの価値があると思えば行動に移し、ないと思えば行動しないでください。そして、いずれを選ぶにしても、自分の行動の責任をとる覚悟をしてください。
最も高いレベルにいる人は、
「このような状況でこの人と性の表現をすることは、私にとって、神を理解するのに最もふさわしいかどうか」と自問します。
これらの行動の結果、人は知りたくなかったことを知ることになります。
どんな場合も似たもの同士が互いを引き寄せますから、低いレベルにしかいない人が、自分より高いレベルの人に魅力を感じるということは、まず起こりません。
低いレベルの人にとって、自分より高いレベルの人は自然さに欠けるように見えるからです。その次のレベルは「かたく結ぼれているカップル」のレベルです。
彼らは必ずしも高い意識をめざすことを第一義にしているわけではなく、相手という人間とかたく結ぼれているのです。
一番高いレベルの人たちは、自分の人生のあらゆる出来事や経験を「神のもとへ帰る」覚醒のために使おうとします。
質問:性エネルギーはどのように動かせばいいのですか。
自分の体のなかのどの部分で性エネルギーを感じているか、まず見つけてください。
そして、その感覚とともにいることによって、その感覚をとぎすまします。
自分の想念が現実を創造するということを、あなたは理解しているのですから、意識的に自分の体のなかでエネルギーを上昇させようと決心するのです。
すると、エネルギーが上にあがりはじめます。
ほとんどの人は、人間の体には七つのチャクラがあると信じていますが、実際にはもっとあります。
体のいたるところにチャクラがあります。
エネルギーを動かしはじめると、これらのチャクラがまわりのチャクラのスイッチを入れていきます。
これは神経間のシナプス(ある神経の軸索とほかの神経の樹枝状突起との接触部分)の動きであり、非常に速いスピードで起こります。
いったん、始まったら、もうコントロールすることはできません。
あなたがするべきことは、エネルギーを感じ、エネルギーそのものと、それを上昇させたいという自分の願望に意識を集中することです。
そしてエネルギーが動くにまかせます。
エネルギーは、自分の意識が向いている体の部分に移動します。
まず、一番下のチャクラから始めて、順番に上のチャクラへと意識を集中させていきます。こうすると、エネルギーが天頂のクラウン・チャクラを通りぬけます。やってみてください。
性エネルギーは神から与えられた贈り物のなかでも、最高のもののひとつだということを忘れないでください。この贈り物には何のルールもついてきませんでした。ルールを作ったのは人間です。
自分が話す内容の質や自分の行動の質や人生に起きるあらゆることの質が、ひとりひとりの責任であるのと同じく、性行動の質もひとりひとりの責任です。あなたが決めることです。
「まちがった」こととか、「正しい」ことというのはありません。
あなたがどれを選ぶか、ただそれだけのことです。
質問:性に関する社会的ルールは、人間が「神のもとに帰る」のを怖れているから作られたのでしょうか。
性に関する社会的ルールを作ったのは、自分が性の表現を自由にできないと感じた人たちです。現代の人々のことを言っているのではなく、古代の聖職者たちのことをさしています。
彼らは、自分たちは一般の人とはちがうと思い、自分たちはセックスをすべきではないと決めました。
このおきてを作ると、ただちにそれをほかの人々にも強要しました。
それ以後、性は多くの社会的制限を課せられるものとなりました。
セックスを通じて多くの人々が完全なる悟りを開いたにも関わらず、このおきては守りつづけられてきました。聖職者たちは、自分たちのやり方で達成された悟り以外は本物でないと信じたのです。
ちょうど、医者が、西洋医学の治療法以外で治った病気に対し、当初の診断がまちがっていたにちがいないと信じるのと同じです。
古くからつづいている宗教のやり方にしたがっていれば、そこで起きた「悟り」の経験も信じてもらえます。あなたが守っている規則を作ったのは、神だなどと誤解しないでください。神は人間に何も強制しません。
ここではっきり申し上げますが、あなた方の人生で起こっていることの大半は、いわば実験です。人生は、創造しつづけるダイナミックなアクションです。
神が、やるべきことをすべて示して、人間はただそれを実行するだけだったら、人生にどんな意味があるというのでしょうか。
人生は、不可思議に満ち満ちた、すばらしい創造の過程であり、
あなたもその創造の一部です。
あなたが考えたり、言ったり、したりすることはすべて、この創造的行為を構成する要素です。したがって、「あやまち」などというものは存在しませんし、「悪い」ことも存在しません。すべては「生きること」なのです。
はい、では説教はこれくらいで終わりにしましょう。
みなさん、今日はどうもありがとう。
永久保存版♬知花敏彦さんの神我に目覚める♫瞑想の極意♪白色同胞団♪神我と自我の詳しい説明♪悟りとは何か♪ から一部抜粋ですが……♪
●自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心
●真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・神我キリストによって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、中身は全て神、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・我神なり、神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、我即大霊の境地、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・我即実在・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 46
- Date
- 2018.04.18 Wed
人間と神は一つの体♪唯一神のみの実在・神一元という悟り♪全ては神であり全体は神♪知花敏彦師♪上江洲義秀先生♪
人間はなぜ神か 神と人間の関係
私達は自分自身の中に神を秘めています。
「キリストとは何か」と言われたら、皆さんは人格神のイエス・キリストを想像します。十字架にかけられたイエス・キリストの姿を想像しますが、そのキリストは皆さんの魂の中におられるのです。
ですから、この肉体というものはその魂の中におられるキリストを顕現する、この世でキリストの働きを現す媒体であり、そのキリストの住処(すみか)であり宮であるのです。
しかし、その宮なる肉体、その肉体に皆さん方は捉われています。皆さん方一人びとりが、自分の中にキリストを宿している事を忘れてはなりません。
世の中では、自分の浅はかな物差しで人格神を作って唯一の救い主と拝んでいます。神は皆さんを通してお働きになられます。
決して人間の手作りのお宮を通してお働きになるのではありません。
神は「あなた方は生ける神の宮なり。仏の宮なり」と申されています。
生きた神が皆さん一人びとりの中におられるという事です。
その生きた神の名前がキリストであり仏陀であるのです。それは宇宙意識の事です。私達の神性なる意識の事を「キリスト」といい「仏陀」というのです。
キリストを宿し仏陀を宿している魂そのものが、偉大なる存在である事をあなた方はみんな忘れてしまっています。
それでは「人間と神の関係」はどうなるのでしょうか。もうここまで話をすれば、個人個人でそれを理解していかなければなりません。
本当に「自分の肉体を通してキリストをこの世に顕現しているのだろうか」と言いたいのです。
〈顕現するのだ〉と、努力する事です。自我という肉に溺れない様にし、にくから出てくる欲望を禁制しコントロールする。
それを克服する事によって、神性なるキリストが私達を通して現れる様になります。これを成さずにして、何者もこの世の使命を果たした事にはならないのです。
私達と神とは切っても切れない関係です。「キリストより語る」。それは言霊となって、神の誓願となって、その力は偉大なものとなります。
私は以前、片方の耳が聞こえない人に会いました。その聞こえない耳は鼓膜喪失のため、医者は治療不能であると診断したものです。
私はキリストより聞こえない耳に命令しました。
『耳の意識よ、しっかりしなさい!』『神の使命を果たしなさい!』と。
その時、何が起こったと思いますか。鼓膜のない耳が聞こえる様になったのです。その人は「聞こえます!」と言うのです。小さな声で「もし…もし…」と言えば、大きな声で「ハイ!ハイ!」と言うのです。
なぜ、そのような奇跡が起きるのでしょう。内なる言霊より、キリストより、その肉は造られています。御霊は、キリストは主人です。
その主人が造った三次元的なバイブレーションは、命令的なものを与える事によって完全となったのです。
ですから、肉はあくまでも造られた物であって、造り主である御霊(みたま)がそれを支配して皆さんの中におられます。
神は皆さんの中におられます。肉を支配する神が皆さんの中におられるのです。それを自覚出来るようになりますと、もうこの世で悩む事はありません。もう皆さん方は病気になる事がないのです。
肉体が何であるか分からないから、神理が何であるか分からないから、今まで、迷い、苦しみ、肉に捉われて来たのです。
いくらでもあなた自身の御霊から、不調和を起こして悪くなっているその部分に命令することが出来るという事です。
『元の神から与えられた使命を果たしなさい』と命令しますと、胃は造られたものであり、造り主の御霊には逆らえませんから、お臍(へそ)の下まで落ちていた胃がグーッと上の方へ上がってきます。
胃だけが聞くのではなくて、全ての細胞は皆さんの言霊によってそれが支配できるという事を体験しなくてはなりません。
それを「信仰」と言います。「汝の信仰、汝を癒やせり」。それは信ずるか信じないかという事です。神を信じているかいないかはあなたの信念にかかります。信仰にかかります。
上江洲義さんは神が自分を通して働いて、その力が肉体を支配し、その胃を支配する事が理解出来ていますから命令する事が出来るのです。
なぜ、あなた方にはそれが出来ないのか、何処に差があると思いますか。それを信ずる心の強さ弱さによって違うのです。
あなた方は自分自身の肉体を、あなたの御霊によって支配しなければならないのです。世の人々は、多くの人々は、殆ど肉によって支配されています。
「この世で造られた物によって、なぜ私達はそれに支配される存在なのだろうか」という事を知らなくてはなりません。
今、肉に生きているのではないでしょうか。肉の支配下に置かされているのではないでしょうか。肉に操られ、肉が「何かをしなさい」といえば、あなたはその何かをするのです。
肉が酒を飲めといったら酒を飲む。肉が賭け事をしたいといったら賭け事をする。その様な不調和なものはみんな肉から出てきます。
私達は肉の奴隷ではないのです。肉というものは、肉体というものは、私達のキリストの支配下における部下なのです。
この世に現れているもの。その物質的三次元のものは、すべて御霊によって造られているもので、肉が作り主ではないのです。
その造り主である御霊が、皆さん方の中に、一人一人の中に宿っている事を知らなくてはならないのです。
イエス様はその事を悟っておられましたので、風を支配されました。海を支配されました。
台風が荒れ狂う大海原の小舟の中で、「風よ!海よ!静まれ!」と。
それは何処から支配されたと思いますか。何処からその声が出たと思いますか。それは自然界を創造した神のご意志であるキリストにより、言霊によって、風と海を支配されたのです。
この三次元の全てのものに御霊が存在しています。しかし、人間は万物の霊長です。神に似せてお造りになっています。この世に現れているものは何物も礼拝してはなりません。
私達が礼拝しなければならないものは、神であるキリストそのものだけです。尊敬はしていいのです。大事にしてもいいのです。
しかし、その支配下に置かれてはならないのです。そうなりますと人間は万物の霊長ではなくなります。
なぜ万物の霊長であるものが、山神様を拝み、海神様を拝み、火の神様を拝み、水の神様を拝まなくてはならないのでしょうか。
私達は山のために、海のために、水のために造られているのでしょうか。神は私達のために山をお造りになり、海をお造りになり、火も、水もお造りになったのです。
そして、神は私達にこの三次元のものを支配させる為に、私達をここに送って下さったのです。
しかし、今の世の中の人は、海神様だ、山神様だ、火の神様だ、水の神様だといって拝むのです。山はどうでしょうか。山はあなたの為にあるのか。
山のためにあなたが生きるのか。火はどうでしょうか。火はあなたのためにあるのか。火の為にあなたが生きるのか。それなのに、それを拝む人が一杯いるのです。
支配すべきで怖がる事ではないのです。それらは、あなた方の御霊によって支配すべきなのです。しかし、あなた方はそれを怖がっているのです。
だから、色々なこの世の三次元的な諸天善人を祀って、それを拝む習慣性というのが出て来ているのです。もうすでに万物の低調になっています。
万物を支配する万物の霊長たる人間が、万物の低調になって色々なものを拝む様になってしまったのです。
すでに、万物の低調になっているのではないでしょうか。万物の霊長たる人間が、石を始め木や銅や色々なものを拝んでいるのです。
それは愚かな話です。石像を拝み、木像を拝み、銅像を拝み、様々なものを拝みます。それは神を知らない、自分を知らない、「神と人間の関係」を知らない無知からそういう事が起こるのです。
どうでしょうか。皆さん方は世の支配者である事が、もうお分かりだと思います。世の支配者であり、山を支配し、海を支配し、全てのものを支配すべき私達が、肉たるそのちっぽけなものに支配されるのでしょうか。
その肉そのものは御霊の支配下であって、あなた方は肉に支配されてはならないのです。肉のために御霊があるのか。御霊のために肉があるのか。どちらだと思いますか。御霊のために肉があるのです。
神は御霊のために肉体をお造りになって、そのものは部下であって、三次元に現れるための一つの道具にしか過ぎないのです。皆さん方はその道具に支配されてはならないのです。
それをよく理解した時、皆さん方は、肉という自我意識を克服する事は簡単にできます。しかし、まだまだ自我に振り回されています。
肉の言うがままです。〈何処かに美味しいものを食べに行け〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と美味しいものを求め探します。
〈旨い酒が飲みたい〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と完全に肉の支配下に置かれている状況です。
肉に使われてはなりません。肉体を支配せねばなりません。肉体を自由に御霊によって支配し、コントロールして、このキリストをこの世に表現するためとするのです。決して肉の快楽に溺れてはなりません。
それに操られている間は、皆さん方はまだまだ神我という本性を、神を、キリストを観ておりません。信じておりません。だから、キリストを通さずにして何者も神の御国に入る事は出来ないのです。
皆さん方は内在のキリストを秘めております。(神我)キリストは全ての支配者であり、唯一なる神の子です。神の意志を受け継ぐ者です。
そうした時この三次元の目に見せるもの、物質界を支配したという事になります。その時初めて自然の法則を超越し、宇宙の法則に従ったという事になります。
自然の法則の支配下に置かれている者は敗北者です。皆さん方はその自然を克服するすべての力を持っております。それが皆さんに内在しているキリストです。
どうでしょうか。もう大丈夫でしょうか。肉体に操られる事はありませんか。肉体に負けてはなりません。イエス様は肉体の欲望を克服された時は、「サタンよ、退け!」と言われたのです。
肉体は皆さんを誘惑します。イエス様もその誘惑を何回も受けられたのです。
〈こんな神の伝道をするよりは、あなたは一国一城の王になった方がいいだろう〉という肉の意識が、黙想(瞑想)されていた時に、強烈にイエス様の心を誘惑したのでした。
その時、イエス様は《サタンよ、退け!》と言って、その肉の誘惑を、御霊より言霊の力によって、完全に支配されたのです。
皆さん方も肉から出て来る欲望を、「サタンよ、退け!」と一喝(いっかつ)して、それを追い払わなければなりません。
色々な名物を求め歩いて、何々名物だ、どこどこ名産だと、欲望と快楽に溺れてしまい、金を使い暇を潰しそれを求めるために肉に操られている人もいます。また、豪華な美食だといって食欲という悪魔に操られる人もいます。
そんなものに操られたりするために私達があるのではありません。そういう事を全てを支配し克服して、肉に属するものを、この地に属するものを克服してこそ、皆さん方は解脱出来るのです。
皆さん形を、この世に束縛している原因は何でしょうか。それはこの世に敗北しているからです。この世のものに、全てのものに打ち勝つ事なのです。
肉に打ち勝ち、物質に打ち勝ち、全てを支配する事によってのみ、皆さん方はこの世の束縛から解放されるのです。それを「解脱」と言います。
本当に「自分自身が何か」という真理の追求を、そして求道の精神を、生半可ではなくてそれをかたせなくてはならないのです。
イエス様は「この世の全てを克服した時、私はこの世を克服したのであると言われたのです。
その時、イエス様は三次元的な肉的な物質的な存在から霊的存在となられたのです。霊が勝利したからです。
まだまだ皆さん方の霊は物質に勝利していません。物質の奴隷下に置かれています。色々と造られたものに、その造られたものの概念で生きています。
あなた方の考えを支配しているのは、殆どが三次元的、その物的なものなのです。四六時中私達が神を思う事によって、物質、肉体に支配される事はありません。そういう欲望が出る時「サタンよ、退け!」と、それを克服する事が出来るのです。
この世で、どんなに地位や名誉や財産を持っていようとて、それは肉と共に葬り去られるものです。この世的なものです。
持ち帰れるものは一切ありません。それらのものを得た所で何になりますか。「自分が何であるか」を知らないから、それを欲望的に求めるのです。
それらの人達は、この世では大きい者の様に見えるかもしれませんが、あの世では小さな者でしかないのです。なぜならば、物質の支配下に置かれているからです。
その人達が物質の支配下に置かれていなければ、この世の財産や地位や名誉を得るという、自己顕示欲的な慾望などは求めようとはしないのです。
それは、三次元的です。物質的です。そして未熟です。幼稚です。
今、皆さん方は、三次元的なもの、物質的なものを一つ一つ克服しつつあります。
そうした時「我は神なり」「我は霊なり」「我は生命なり」「我は神理なり」と、言える程の強い信念、深い信仰を持たなければなりません。
その信仰があなたを救います。
しかし、今、あなた方は「自分が何であるか」を知りません。ですから、世の物質の誘惑に振り回されるのです。その物質による世の誘惑に振り回されていればいるほどこの世で苦しみを造っています。
これを克服した分だけ幸せを健康を得る事が出来るのです。この世の恐怖というものが一切なくなります。何故ならば、この世の全てを御霊が克服してしまうからです。
まだまだ皆さん方は、物質の少ない事を怖がり、地位や名誉や財産の少ない事を怖がり、色々なものを恐怖しています。物質を怖がっています。執着しています。それが皆さん方の苦悩となっているのです。
今、肉体について、その肉体が何であるのかをよく考えて下さい。そして、その肉に支配されてはならない事をよく理解して下さい。
肉体は、この世的な、一時的な住処にしか過ぎません。それを「人間」と呼んでいるのです。
皆さん方の中に神が住んでいるのです。あなた方が拒否さえしなければ、神はあなたの肉体を通してのみ働きます。
あなた方は御霊より、内在のキリストにより、色々な神理を伝える事が出来、正しい言葉遣いと、正しい想いと、正しい行為が出来るようになります。
今、皆さん方が正しい言葉遣いと、正しい思いと、正しい行為が出来ていないのは、この肉が邪魔しているからです。
肉は利己的です。魂は非利己的です。自分が三次元的なものを克服しているかしていないかは、自分の行いを反省してみれば分かります。
自我で肉の敗北者である人は必ず利己的です。しかし、その利己的である肉を克服した者は、非利己的になっています。
非利己的な総合的なものの見方です。ものの考え方です。
『自他一体』。一体観念の中に生きています。
聖書の中にこの様な事が書かれていると思います。ある街が大火事に遭いました。火事の災害を受けなかった金持ちの人達に、イエス様はこう言われました。「神から預かっているものを神にお返ししなさい」と。
その人の持ち物は神のものであって彼等のものではないのです。
「それを必要とする所のために、神から預かったものを神にお返ししなさい。それを必要とする困った人にあなたの財産を与えなさい」とイエス様は言われたのです。
ある人は全部与えました。ある人は半分与えました。ある人は何も与えませんでした。何も与えなかった人、その人は盗人です。
あなたの持っている財産や、そういうものは誰のものだと思いますか。神のものです。それを私のものと錯覚して執着しているのです。
あなたのものであれば、あなたがこの世を去る時それを持ち帰れるはずです。持ち帰る事は出来ません。預かりものです。
神からの預かりものを持っていながら、それでいて「これは私のものだ」と威張りくさる人がいます。そして何も持っていない者を罵る人がいます。これは非常な盗人であり、罪人です。災いなる者です。
自分のものがない事を皆さん方は知らなくてはなりません。その時が来れば全てはた叩いて皆さん方は困っている人に、貧しい人の為にお返ししなくてはなりません。
それが出来る人は真の勇者であり信仰者です。神を信じている者の信仰です。
それは、神理を通して眺めてみれば、自分のものがない事が分かります。それが理解出来ない人は、私の言葉を「おかしな事を言う」と思うでしょう。
しかし、事実はそうではないのです。自分のもの、私のものというのはないのです。全てが神の預かりものです。
この肉体でさえも神から預かっているものです。ですから、私達は死にたくないと思っても、寿命が来れば行かなくてはならないのです。
自分の肉体が自分のものだと思っていてもあなたの思う通りにならないのです。肉体が自分のものであるならば、自分の思い通りにする事が出来るはずです。
思い通りにする事は出来ません。言う事も聞きません。なぜならば、それは神のものだからです。自我ではどうする事も出来ません。
あなたの支配しているのは神ですから、私達は肉体でさえも神に捧げる事です。これが本当の「献身」というものです。
命を捧げる者。自分自身の外なる命と内なる命を神に捧げて人々のために捧げた時、皆さん方は「永遠の命」を得ます。
しかし肉我の自分に生きようとする者は、永遠の命を得る事は出来ません。神を知っていないからです。神理を知っていないのです。
だから「生命を得ようとする者は生命を失い、生命を捨てる者は生命を得る」という言葉があるのです。この事は非常に大事な事です。
神とは何でしょうか。神とは宇宙の摂理であり、法であり、エネルギーです。私達は宇宙の中の存在です。
私達一人びとりはその宇宙の中に、宇宙エネルギーの中にいるのです。そして私達一人びとりは、その宇宙エネルギーを持っているのです。
「私は神の中におり、神は私の中におられる」というのはその意味です。
エネルギーの中に私達はいるのです。私達の中にエネルギーがあるのです。
「神は内にいると同時に外にもいる。全ては神であり全体は神である」と、それが分かる様になります。
神と人間とは一つの存在、一体の存在です。なぜならば、神は無限であるからです。神から分離した人間は何処にも存在致しません。
神から分離した人間がいるならば神は無限ではなくなります。普遍でもなくなります。
あなた方は、今、即、神の中におり、神はあなた方の中におられます。それが分かりますと、唯一神のみの実在、神一元という悟りに到達致します。
神一元です。
しかし、人間の浅はかな感化(自我)が、色々なものを分離し、独立させて考えているのです。あなた方の肉の意識がそれを妨げているのです。
〈自分は神と分離しているのだ〉と思わせる様に誘惑するのです。
あなた方が中々神理に入って行けないのは、自分自身の肉による自我意識が、神から遠ざけているのです。
事実においては、神の中に私達はおり、神は私達の中におり、それは一元なるエネルギーの中におるのです。エネルギーは外でもなく内でもなく、また、外でもあり内でもあるといえるのです。
この事は、〈今、あなたは神の中にいる。それはあなたは神の中の存在であって、そしてあなたの中には神が存在している〉という事です。
「神の中に自分は存在し、自分の中に神は存在する。常に神と自分は一体である」と、この事の意味をよく理解して頂きたいのです。
そうした時「人間と神の存在というもいのは一つの存在である」という事が分かるのです。そこには、人間と神が独立し分離している存在ではなく、「人間と神は一体であった」という事です。
一体とは「一つの体」という意味です。
「人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事です。
その神が皆さんの中に、生命の中におられます。
ここで私が一番言いたい事は、「神の存在を、内在のキリストを、あなたの肉を通して完全にこの世に現す様にしなければならない」という事なのです。
何回も、何回も、私は同じ事を言っています。飽きる程そういう事を言っています。しかし皆さん方はまだ肉に敗北しています。ここから自分の家に帰りますとまた敗北するかも知れません
〈知花はなぜ毎日同じ事を繰り返すのだろう。なぜそう言うのだろう〉と。それを自ら追求する事によって、自ら自問自答して、内から答えを得る事によって神に至る事が出来るのです。
今、世の中では、色々な誤ったものの見方と、誤ったものの教え方をしています。それにはまず統合的な高い意識を高揚させてから、そこから全体を見る事です。一部だけを見てはならないのです。
しかし皆さん方の見方は、近眼になってしまって、一部しか見ていません。ですから全体と自分の関係を見失っているのです。厳しいようでもやらなければならないのです。
世の人々は、神に至るのに平坦な道を選びがちです。肉欲も、情欲も、飲み食いも、常平生それをやりながら神に至ろうとしています。
物質の支配下に完全に置かれて、霊的なものに遠ざかっているからです。平坦な神への道というのは何処にもありません。
道は厳しいのです。狭いのです。この世のもの全てを、あなた方が御霊によって克服しなければならないからです。
では、人間と神の関係はどうなのでしょう。本来は人間と神の関係さえもないという事です。
この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、関係さえもなく、一つの存在であるのです。
「人間と神は、即、一体の存在であり、我々も神の存在であり神そのものであった」という事が分かるのです。我は神なり。我は生命なり。我は神理なり。と。
「我は神であり、我はキリストである」という悟りに至らなくてはならないのです。
この世というものは、始めがあり終わりがあります。皆さん形には誕生があり死があります。
しかし、これはこの世的なものであって、もうひとりの真の自分には誕生もなければ死もない存在なのです。それがあなたの本質であり、生命であり、魂であるのです。それに早く気付く事です。
初めがあり、終わりのある存在ではありません。それを追求して、それを克服して、初めがあり終わりのあるものに捉われないように。
それは初めがなく終わりがないものによって造られたものであり、それを造ったものによって支配しなくてはならないのです。
その造り主である神の御意志が、内在のキリストとして皆さんの中に宿っています。早くそのキリストに気付く事です。
その支配者である全知全能であるその方(神我キリスト・宇宙生命)を、皆さん方は早く気付いて欲しいのです。
神棚を通して神は働くのではありません。生きた人間の肉体を通してのみ神は働き給うのです。
「神は人間を通して働き給う」と、その事を決して忘れないで下さい。
なぜならば、人間そのものが神であるからです。神棚そのものは神ではありません。それは三次元的な、物質的な存在であるのです。
私達は神である生命を頂いています。「我は生命なり」です。その生命が働き手であり、生きているわけです。どんな植物の中にでさえも神は生きて働いているのです。だから植物は成長し、花が咲き、身を付けるのです。
皆さん方の奥さんは「カミサン」といって神様です。本物の神様です。ですから大事にしなくてはならないのです。
皆さんの周囲には沢山の生きた神々がおられます。その生きた神々を私達は愛し合わなくてはなりません。真の神の愛です。
あなた自身の中に神がおられるなら、あなたの隣人の中にも神が宿っておられる事を知らなくてはなりません。そうなれば、その隣人を貶す事は神を貶す事になり、その隣人を罵る事は神を罵る事になるのです。
そうならないように、皆さん方は「隣人愛」をしなくてはならないのです。「自分を愛するが如く人々を愛する」と、それをしなくてはならないのです。これは神を愛している姿であり、神を賛美している姿なのです。
誰の悪口を言ってもなりません。神を知らない者が人の悪口を言います。神を知っている心の清い者が人の批判や悪口を言うでしょうか。
人の批判や悪口を言うならば、その者の心は曇っているのです。真の自分を知らない、神を知らない者です。
そのような迷い人の言葉や姿に迷わされないで、一生懸命、自分自身の神を観つめ、その「神と人間の関係」を追求し、求道され、実践されます事をお祈り致します。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 47
- Date
- 2018.04.16 Mon
神から観れば一人びとりは神の細胞体♪宇宙即我・我れ神・神我顕現・全一の意識・悟り覚醒♪知花敏彦師♪
あなた方は自分で生きていると思うから、死の恐怖があるのです。あなたは自分で生きていると思いますか。
あなたの生命というものは、あなたがどんなにもがいても一分一秒だって伸ばす事は出来ません。どんなに医学や科学が進もうが、人間の生命は一分一秒だって伸ばす事は出来ないのです。
今の医学者や科学者達は、自分たちが生命を伸ばしたと思って錯覚しています。その生命は神ですから、それを超越する医学者や科学者は一人もいないのです。
私達のこんな浅はかな小知が、偉大なる全知全能の神に逆らおうとしているのです。それは逆らう事は出来ません。もし医学が人の命を伸ばしているなら、この世で死ぬ者が一人でもいると思いますか。
医者だって死んでゆくのです。のばせないからです。しかし、医者は自分が伸ばしていると錯覚しているのです。
あなた方の今までの五感の感化では、医者が命をのばしていると思っています。もしそうであれば死ぬ患者はいないはずです。死ぬ医者というのもいないはずです。
命はのばせません。しかし縮める事は出来ます。毒を飲むとか、あるいは首を吊るとか、自殺でもすれば縮められるのです。しかし、命そのものは久遠常在ですから、永遠ですから変わりません。
自殺をして殺しているのは何かと言うと、その生命を現している形体だけです。結果としてその肉体が見えなくなるだけです。命は永遠なのです。
皆さんの肉体は生きていません。息しません。話しません。聞きません。肉体ではなく、命が見たり、命が聞いたり、命が匂いを嗅いだり、命が話したりしているのです。
しかし、世の中の人達は、肉体が見たり、肉体が聞いたり、肉体が匂いを嗅いだり、肉体が歩いたりしていると思っています。
「命と肉体は一者でありながら独立した存在である」という事です。
独立した存在のため肉体から命が分離すると、その肉体は活動しなくなるのです。
だから、死とは肉体の変化の事を言うのであって、肉体自らは初めから命によって生かされ、命によって働かされているものであり、決して肉体そのものが生きているのではありません。
ですから、肉体そのものには何の力も何の働きもありません。肉体そのものが生きて働いているというならば、肉体から命が分離して、その肉体は死体となっても、なお生きて働いていなければなりません。
その死体が息しますか。動きますか。喋りますか。話を聞きますか。だから死体というものは何の意味もないものであり、腐り果ててゆくものですから、火に焼いて灰にしてしますか、土の中に深く埋めてしまうのです。
生きているのは命(宇宙生命・大生命)です。息しているのは命(神)です。「息が切れた」といいます。息が切れたから肉体が変化してそれを死体というのです。
ですが、世の中の人々は肉体が自分だと思い、その肉体の自分が生きていると思っているのです。
自分とか、私というものはないのです。「無私」です。「無我」です。
本来は私という存在はないのです。あると思っている事を「自我」というのです。自分で造っている我「自我」。それは迷いです。
あなた方は自分があると思っています。あなたの存在はないのです。
神のみしかないのです。真我しかないのです。神我しかないのです。
「我れ神」しかないのです。これが悟りです。
自分がある。自分が生きている。自分が働いている。それをあなた方が為していると思う事が自我です。迷いなのです。働き手は神です。
あなたの中で働いているのは神であって、あなたというものが働いているのではありません。
今こうして私が皆さんの前でお話をしているのは、神がお働きになり、神が活動してここでお話が出来るのです。
肉体があっても何も出来ない。生きた神がそこにおられて、働き手である神がそこにおられてこそ、私は皆さんの前でお話が出来るのです。
それを悟った時、自分というものがなくなります。無我です。無私です。
私の中に生きてい給うものは神であった。命は神であった。と、そうした時、その肉体は神の意志を受け継ぐのです。
肉体は神の意志をこの世に現す媒体に過ぎず、自分の欲望を果たすためにあるのではないのです。〈自分がある〉〈自分が働いている〉と思う事は、自我そのものであり、迷いそのものです。
「私の存在」「私のもの」「私が造った」という人がいかに多いかという事です。まだまだ「私」というものに皆さん方は縛られています。
皆さん形を誰がお造りになったと思いますか。皆さん方の肉体は神の創造物なのです。神ご自身が一人びとりと創造し、その中に神自らが命を宿し、そこに働いて下さっているのです。
私達の中に、生きて働いておられるのは神なのです。その事をイエス様は「人間は生ける神の宮なり」と言われたのです。
「生きた神の宮なり」それ以外の何物でもありません。それ以外の何物であると思う事が自我というのです。迷いというのです。
なぜ皆さん方は、その自分の本性を掴(つか)もうとしないのでしょうか。それを掴んでしまえば皆さん方は幸いです。本当に幸いなのです。
もうこの世で苦しむ事も、悩む事も、恐怖する事もないのです。なぜならば、神のみが生きておられるからです。自由です。何の束縛も制限もない、観自在、無碍(むげ)自在の自由を得るのです。
皆さん方は、今、苦しいことが多くあるはずです。それは自我でものを考えているからです。私という個人的なものの考え、利己的主義の考え方をしているからです。
聖者方と言われる方々は、非利己的で自分というものがないのです。しかし、世の迷い人は利己的主義者です。
自分というものがなければ、そこに欲望的な自分が存在すると思いますか。そこには愛しか存在しない事が分かるのです。
神の根源は愛です。神の意志は愛です。その神の意志を受け継ぐ者でなければ、皆さん方は神の御国に入る事は出来ません。それをだ無理解のままでいるという事は、無知であり、迷いそのものであるという事です。
「あなたという存在が何であるか」と問われた時、皆さん方は説明できますか。「人間とはこういうものである。私という者はこういうものである」と、それは自らが自らを知った状態で、悟った状態で答えられるのです。
「あなたは何ですか」と聞かれたら、皆さん方は自分を説明出来ますか。今までの私の話を聞いて、理解出来ていれば説明できます。
そうしますと、その自分の本性をこの世に現さなくてはならないのです。まだ現す事のできる状態でないのなら、まだまだ皆さんはわかってはおりません。
自我に引っ掛かっています。まだ自分には他の何かがあると思っています。それが利己的主義、分離、対立というものです。
皆さん方銘々の中に宿っている生命。全ての人が、その同じ一つの生命の中の一人びとりであるという事が分かれば、皆さん方には分離のない事が分かっているはずです。
あなたと私と分離がありますか。「私はあなたの中にいます。あなたは私の中にいます」と、私はいつも言っています。
〈そんな馬鹿な事が〉と、五感の感化に支配されている自我の人間はそう思います。それは悪魔です。無知です。迷いです。闇です。
これほどまでに、皆さん方がその暗黒の世界に、無知の世界に、どっぷりと浸かっている事を忘れてはなりません。
自分に対して何も分からない人が、威張っているから仕様(しょう)がないのです。[東大]という大学を出ていたとしても、何をやっても、何も分かっていないのです。
ただ、読み書きが人より優れ、拾い集めた外の知識が人より多く、この世の欲望を果たすためにはいいというだけであって、神の目から見れば恐ろしい程の無知であり、白痴の様なものです。威張れる様なものではないのです。
自分というものは何もないのです。神のみしかないのですから、威張る自分というものがあっては困るのです。
今、神というものを、神棚の中に神がいる、お寺の中にいる、というまやかしの指導をする者が如何に多いかという事が残念なのです。
神をあそこに見よ。ここに見よ。というものであったならば、神は無限ではなくなるのです。全能でもなくなるのです。
「神は全知全能で、無限で普遍である」といいながら、「神棚の中に神がいる、お宮の中に神がいる」というのです。
そして、その人間に支えられている神が、灯明をあげられたり、ご馳走をあげられたりする神がどうして必要なのでしょうか。口も利かない、目も利かない、手も動かない、動きも出来ない仏像を、言葉も言えない、答えてもくれない、何もしてくれない神を、どうして必要とするのでしょうか。
何も行わず、座ったきりで灯明を要求する神、供え物を要求する神。こんな乞食神を、如何に世の中の人間が信じているかという事です。これは信じている者が乞食だからです。
偶像とは愚かな像と書きます。偶像と書いてその意味が分かっていないのです。それを拝む者は愚者です。偶像という愚かな像を作ってそれを拝むという事は、それを拝んでいるのは愚者ではないでしょうか。
それを金儲けとして、神の名を語って企業化しているだけです。
真の神とは、そんなものではありません。実際的で、活動的で、本当に現実的で生きているのです。あなた方一人びとりが現実的に生きている神ではないでしょうか。
真の神を知った時、「神は無限であり、普遍であり、全知全能なんだ」という事が分かるのです。
神は虫の中にも、鳥の中にも、草花の中にも、到る所に実在している。神は、あそこに見よ、ここに見よと指せるものではなく、それは無限大のものである。という事が分かる様になるのです。
そして「全知全能である」という事が分かるのです。
神に対しての概念とか観念というものによって、如何に世の中が盲信、狂信している事を、皆さん方に知って頂きたいのです。
特別な神というものはありません。なぜなら、一つの神しか実在していないからです。我々の宗教の神。仏教の神。キリスト教の神。というのはありません。
一つの神です。一(いつ)なる神です。仏教もキリスト教も本来は一つなのです。
神の根源は愛です。分離でも差別でもないのです。根源は一つの愛なのです。しかし、仏教徒はキリスト教徒を貶し、キリスト教徒は仏教徒を貶します。それを教えている指導者が、神を知らないのです。
神を知らないと同時に自分を知らない。自分と他人の関係を知らない。虫や小鳥と自分の関係を知らない。動物・鉱物・植物と自分の関係を知らない。その愛を知らないのです。
彼等は一欠片の愛もない状態を神だと思いこんでいるのです。恐ろしい事です。それは神の意志ではありません。
神の意志は一つの意志しか存在しない。その一つの意志とは、一つの愛しか存在しないこと、一つの体しか存在しない事です。
お分かりでしょうか。その意味が分かっていれば「自他一体」というその意味が分かるはずです。この自他一体という意味が、辞典の中にも「自分と他人は一つの体」と書いてあります。大宇宙という一体の中に、神とあなたは一つの体であり、他人様も一つの体に存在するのです。
自分が人と争う事は、それは自分と争っている事です。例えば、一つの身体の中で耳が鼻と争っている様なものです。耳と鼻は形も違うし役目も違いますが、目と鼻が、独立して、分離して争ったらどうなると思いますか。
目と鼻は繋がっています。繋がっているのですが繋がっていないと思っているのです。ただ形が違っているだけです。全部が繋がっているのにです。
身体の何処かが一か所つねれば全身に痛みを感じませんか。だから人をつねったら、その人の全身が痛いと思ったらいいでしょう。自分も痛いのです。
皆さんは、誰かを貶したり、汚したり出来るものだと思っています。それが迷いというものです。
誰かの悪口を言っているのは、自分の悪口を言っているのです。全体の悪口を言っているのです。全体に悪影響を与えているのです。
一人が悟って喜んでみて下さい。全体に善い影響を与えます。一人が憎しみや怒りに燃えてみて下さい。全体に悪影響を与えるのです。
全体は分離ではなく、全体という一つの体しか存在していないからです。ですから、世の奉仕者となるためには、誰も傷付けないで愛し合う事が全体への奉仕であり、神への奉仕であり、神の意志なのです。
今、世の中の人達は、憎しみ合いと怒りあいの中で、迷妄の中に生きています。如何に残念であるかという事を、私は世の中の人々にその事を伝えたいのです。
「自分と他人の関係を早く知って下さい。そうした時、もう人を罵る事はありません。もう人を貶す事はありません」と、私はそう言いたいのです。
学校で子供たちの教育に携わっている方々も、子供達はあなたです。全体というものの中の全一のあなたです。この子供は、あの子供はと、差別をして見てはいけないのです。無差別で愛しなくてはならないのです。
あなたの子供も学校に来ている子供も一緒です。全体というものの中に点々と何名もがいるのです。この事は全体という全一の事で、全一体という事なのです。
他即我(たそくわれ)。我即他。あなたは私です。
私はあなたです。あなた方一人びとりは全て私です。
それが分かった時「宇宙は私である」と、その事を知る事が出来ます。
お釈迦様は「私は宇宙であった」と、宇宙即我をお悟りになられたのです。宇宙はあなたです。宇宙が神ならば神の中にあなたがいる事を知るべきです。
神とあなたと分離した状態というものは何処にもありません。神とあなたは独立しているものでもありません。そうしますと、皆さん方は外に髪を求めるような事はしないのです。
イエス様が「神の国は汝の内にあり」と言われた意味が分かるのです。そして「神を外に求むるなかれ」と言われた意味も分かるのです。
あなたの意志そのものが神の意志であるのか、迷いの意志であるのか。それによって決まるのです。
今、私達は古い習慣性で分離概念を自分の中に持っていますが、その分離概念という悪魔を克服しない限り、皆さん方は一体感というものは出来ません。一体感が出来た時、皆さん方は真の愛を、神の意志を受け継ぐ者となります。
今、皆さん方は分離感でいます。皆さん方の意識は、ものの考え方はみんな分離です。それはサタンです。あなたを神から遠ざけている迷いそのものであり、肉から出て来ている欲望そのもののサタンです。悪魔そのものです。その誘惑に負けているのです。
それは肉の感化です。外なるものの感化です。それが皆さん方を苦しめています。それを克服しなければ、これからも分離の意識で生きなければなりません。これからもあの者はこの者はといって行く事になります。
それが皆さん方の悩み、苦しみであり、病気になる原因です。不安の気持ちと恐怖の気持ちは、其処から出て来るのです。
本当に一体概念の宇宙即我という、自分と他人とは一切分離がない事をしらねばならないのです。
人様に尽くすという事は、自分に尽くしていると同時に神に尽くしているのです。そうではありませんか。
あなたの目が尽くす事は、あなたの耳が尽くす事は、あなたの身体全体に尽くしている事になりませんか。
見たり聞いたりすることは全体に響くのです。あなたの行う事は、一人びとりに尽くす事は、全体への奉仕なのです。
それが分かるようになりますと、地上界にユートピアが、神の国が、仏の国が誕生するのですが、今、悪魔のような生き方をしているために、神の意志に反する日常生活をしているために、そこには対立と憎しみが絶えないのです。
もうやがて、それが分かるようになれば地上天国が訪れるのです。この地上界は元々天上界です。心だけの天上界ではないのです。
私はこの地上界にいながら、私の中に天界がある事を知っています。私は喜びに満たされているのです。誰も憎まないのです。
その原因と結果の関係を知っているのです。それを知っていますので私にとってはここがユートピアです。
その意味がお分かり頂けますか。ですから「神の国は汝の内にあり」といい、それは心の持ち方だけである事が分かるのです。
憎しみがあれば地獄です。愛があれば天国です。あなたのハートが愛だけに満たされた時、あなたにとってもここは天国です。
それを皆さん方に真剣に取り組んで頂き、自分の悩み苦しみの原因を早く分かって頂いて、追求して頂かん事を常に私は祈ってやまないものです。
皆さん方にこうして私がお話する事は、自分に話していると同時に全体へ影響を与えているのです。一人でもこの世から争う者、憎む者がなくなった時、その分だけ光明化されてくるのです。
黄金時代というものは、皆が「我れ神なり」「我れ生命なり」と、自他一体の意味が分かって、神の意志を受け継ぐようになった時、この地球上に黄金時代が訪れるのです。今、丁度、その時が周期的に来ているのです。
一人びとりに早くそれを知って頂いて、日々の生活の中で、憎しみもなく、怒りもなく、謗りもなく、嫉妬もなく、「ああ、私は今日も1日、真剣に愛の中に満たされて生きた」と、言える様になって頂きたいのです。
愛の中に生きたという事は、光の中に生きたという事です。愛は光ですから、あなた方は光に至りたいという想いはありますが、その光をあなた方ご自身が曇らすのです。憎しみは曇りであり、怒りも曇りであり、全てスモッグとなって、私達の本性である愛光を曇らせてしまうのです。
皆さん方が今日から愛の光の中で生きたいならば、愛の想いだけを持つ事です。その愛の想いを持っている時光そのものとなれるのです。
そうした時、皆さんは神の意志を受け継いでいます。ですから、光になりたいなら、愛に反する事は一切持たない事です。神の御心は愛であるからです。愛以外に光にはなれません。愛以外に幸せにもなれません。
愛に反するものはみんな苦しみであった。みんな悩みであった。そして病気の原因でもあった。
健康でありたい、幸せになりたいと、それは愛しかないのです。皆さん方が愛を通して健康になり、幸せになられる事をお勧め致します。
あなたに憎い人がいますか。この世に悪い人がいるなら、あなたは自分を憎んでいるのです。人を憎んでいる時、自分を憎んでいると思ったらいいのです。なぜなら、自分しかいないからです。全一しかないからです。
皆さん方が誰かを憎んでいるとするならば、その誰かを憎んでいるのではなく、それは自分を憎んでいる事になるのです。
大宇宙というのは一つの存在しかないのです。皆さんの身体の中にも70兆あまりの生命があるのです。その細胞体が、お互いの細胞体の食いつぶし合いをやっているようなものです。
私達は、神から観れば一人びとりは神の細胞体の様なものです。
だから、隣人の細胞を食いつぶし合っているのです。それは全なる細胞だけではなく悪細胞、即ち、癌細胞です。今、この世に癌という病気が表現されていますが、今の人間一人びとりが癌細胞の様なものです。
隣人と憎しみ合う。貶し合う。食いつぶし合う。殺し合う。皆さんの一人びとりが〈私は癌細胞ではないだろうか〉と考えてみたらいいと思います。
誰かと傷付け合ったり、憎しみ合ったりしているならば、自分自身が癌細胞なのです。
大丈夫ですか。助け合っていますか。大宇宙からすれば、皆さん方が助け合う事は善なる細胞です。食い潰し合う事は癌細胞です。
その事をよく理解して頂き、今、自分は正しい生き方をしているのだろうかと強く見つめ直して頂き、そして「神の意志を受け継ぐ者」となって頂かん事を、常に私は祈ってやまないものです。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 48
- Date
- 2018.04.15 Sun
主食を玄米に変えると糖尿病予防に良いお話をご紹介♪東洋経済オンライン様の良質記事をご紹介♪ヒマラヤ岩塩25kg最安値情報も♪
東洋経済オンライン様の「白米止めて玄米にしたらいいかも♪」の記事は
日本人必見の超良質な素晴らしい内容ですので、良かったらご観覧してみてねっ♪
要約しますと、
●白米は少量でも糖尿病になりやすい
●良い炭水化物と、悪い炭水化物の二種類がある
●良いのは玄米、悪いのは白米、基本的に白く精製したものは良くない
●白米が基本という常識を変えてみたらいかが♪
●玄米にすれば血糖値も下がるし、ダイエットにもなるし、糖尿病予防にもなるし、全てうまくいくから玄米にしちゃおう♪それで全てが解決♪といった内容です



ちなみに私は、玄米・押し麦・大豆・ヒマラヤ岩塩、の栄養四天王が主食なのです♪カルシウム・蛋白質・アルギニン・ビタミン群・微量ミネラル・の全てが完璧で、食療療法そのままといっても過言でもない主食でもあります♪
結構これがベストなような気が致しますが……いかがでしょうか







FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
オススメスピリチュアルサイトをご紹介♪
- No
- 49
- Date
- 2018.04.13 Fri
幸せの秘訣♪幸せになる種を自分で蒔く♪人間だけに自由意志♪許した瞬間に光に♪悟り・解脱・因果応報♪知花敏彦師
人間はなぜ神か 神の意志について
今、この世で皆さん方は何を知ろうとしておられますか。何を知りたいのでしょうか。金儲けを多くする事を望むのでしょうか。地位や、名誉や、財産を多く求め自己顕示する事でしょうか。
私は皆さん方が目的を、人間がこの世に生まれてきた目的を忘れているのではないかと思ったりします。あまりにも世の中が無知なため、世の闇の為それが恐ろしいくらいです。
ここで私の話を聞いていても、真っ黒くしている人が一杯います。それは憎しみや怒りが絶えないからです。その怒りや憎しみが、如何に私達の本性という光を曇らせているかという事です。
皆さん方は、愛し合っている家庭を見たことはありませんか。夫婦が愛し合って、親と子が愛し合って、お互い家族全部が愛し合って、本当にその家庭は愛の光り輝く「光明家庭」ではありませんか。
素晴らしい家庭だと思いませんか。そういう見本を示している家庭もあるのです。
しかし、その本性の全く逆で、その家庭には憎しみ合いが絶えないため、神への反逆や、罪や、汚れの多い家庭を見ることもあります。
そこには病気が多く発生し、災難も多く発生するのです。家庭が明るくない。家庭が暗いという事は、多くの愛に反するものを、その家庭の人達が持っているという事です。
「あの家庭は素晴らしいよ」と言われる家庭は、お互いの家族人が愛し合っている状態です。見ていても本当に気持ちのいいものです。明るい光に満たされているからです。
「あの家庭は暗い」と、憎しみの多い、鬼のような心を持っている人の住んでいる家庭は陰気臭く、そこには病気が続出し、災難が次から次へと出て来るのです。それは苦しみであり地獄であるのです。
私達は、今、自らの地獄(自獄)を自らが造って、そこに閉じ込められています。その地獄は神が造ったものではありません。
本来、神は完全無欠そのままです。完全無欠の我ですが、私達は相反する事を行う事によって、自らの地獄を自らが造り出しているのです。
だから、地獄は造られたもので実在ではありません。存在するようには見えますが、自ら造り出した心の罪の状態であって、決してこれは実在ではありません。
一人びとりが、神の意志を受け継ぐ状態での日常生活でなければならないのです。皆さん方はその意志を持っているのですが、その神の意志をまだ受け継いでいません。植物は素直に神の意志を受け継いでいるのです。
神には反逆しないのです。なぜならば、動物、鉱物、植物には自由意志というものが与えられていないのです。
ですからそれらのものは、神の意志そのままを顕現しているのです。
人間だけに「自由意志」というもの、「自由選択」というものが与えられています。それによって自らが地獄を選んだのです。選択を間違えたのです。人間はその選択を間違えた事さえも見失っているのです。
そのまま神の意志を、自然の動物、鉱物、植物が行っている様に、私達が神の意志を受け継ぐ者となったならば、私達はどうなるのでしょうか。
それは光り輝く我であり、幸せそのもの、健康そのもの、純粋潔白そのものの我になる事を知らなくてはなりません。
ただ、自らが選びそこねてしまったのです。その状態が苦しみであり、憎しみであり、様々な自己災難である事を、皆さん方は誰もが知らないのです。誰があなたを苦しめていますか。誰だと思いますか。それはあなたです。
自分が自分を苦しめている事を知らねばなりません。あなたのものの考え方が、神の意志から外れている事によって、自分が苦しまなくてはならないのです。神の愛から離れる事によってそうなるのです。
愛に反するものは、憎しみです。怒りです。謗りです。そういうものを自らが望んで行っているのです。
自らが望んだのですから、それに報いなくてはなりません。自らの意志で行ったのですから、刈り入れるのも、それしか刈り入れられないのです。
愛の種を蒔けば愛を刈り取る。光を蒔けば光を得る。闇を蒔けば闇を得る。作用と反作用の法則です。因果の法則です。それから免れる人間は一人もいないのです。
今、皆さん方の一人びとりの心の中に、何の種があるかによって、何の種を日常生活で蒔いているかによって決まってしまうのです。
憎しみなのだろうか。怒りなのだろうか。謗りなのだろうか。嫉妬なのだろうか。憎しみの種を蒔けば憎しみを刈り取る。
怒りの種を播けば怒りを刈り取る。誹りの種を播けば誹りを刈り取る。嫉妬の種を播けば嫉妬を刈り取る。
自分が好んで、自分の意志で種まきをしたのだから、それを刈り入れるわけです。自分自身の心は「何を蒔いている心であるか」という事を、強く自分の心に言い聞かす事です。
幸せでありたいのなら、幸せになる種を自分で蒔けばよいのです。その種まきの種を間違えているのではないでしょうか。
その種蒔きは、皆さん方の一分一秒間の日常生活の中で行われているのです。そして、あなたは善きにつけ悪きにつけ、必ずそれを刈り取るのです。
私は口を酸っぱくしていつも同じ事を言っているのですが、中々聞いてもらえず、あなた方は悪の原因なる種蒔きを平気で行っているのです。
今日一日、何を想ったか。何を語ったか。何を行動したか。あなたが幸せになるのはあなた自身の日常生活に関係してきます。
今日一日、本当に皆さんが神の意志を受け継ぐのだと、誰も憎まない、誰の悪口も言わない、誰も謗らない、そして愛に満たされるその意志をまずスタートしてみて下さい。
そうすれば、素晴らしいことが素晴らしい結果が生まれるのです。そして、明日になるとその結果はありありと出てきますので、明日もまた神の意志の種を播いて下さい。
そして、三日目、四日目と、それにも増してその結果が出て来るのです。そして皆さんのハートに、周囲にと、光を拡大して行くのです。
まず、愛しなくてはならないのは夫婦間の愛です。そして親子の関係と、隣人から初めなくてはならないのです。まず、隣人からそれが出来なければ、遠くにいる身内の者には出来ないはずです。
皆さん方の救われる道は、愛しかない事を知る事です。愛する以外にはないのです。人間だけではなく全てのものにです。全ての全てです。
なぜならば、神は全ての全てであられるからです。それは無差別の愛です。無所得の愛です。
太陽は無所得の愛の象徴を現しています。
太陽の光は、選り好みをするのでしょうか。この者には光を与えない、この者には与えるという贔屓(ひいき)がありますか。贔屓などはありません。善人にも悪人にも平等に光を与えて下さっています。
太陽の如く、私達は無差別の愛でなければなりません。
利害関係の入った利得の愛や、差別のある愛は不純の愛です。これは愛ではありません。神の意志でもありません。
なぜならば、私達が神の意志を受け継ぐ者となるためには、神の意志を私達の肉を通して表現しなければならない、顕現しなくてはならないのです。それを行う者が神への意志を受け継ぐ者となるからです。
「私は悪に染まる様な者でもなく、苦しみの原因を造る様な者でもないのだ」と。「私は神の意志を受け継ぐ者になるのだ」と。
その強い信念と意志力がなくてはならないのです。生半可な事では意志を受け継ぐ事は出来ないのです。
みんな生半可です。「今世で出来なかったら来世がありますから」と言うのです。生半可です。全く生半可です。きっと来世でも同じ事が起こります。
そうすれば「また来来世だ」と言って、その来来世でもこの世との燐廻転生を繰り返さなければならないのです。どうか皆さん方には出来るだけ今世で、この神の意志を受け継ぐあなた方になって頂きたいのです。
これを受け継ぐ事によって御国(みくに)に入ることが出来るのです。
この地上界の束縛、地縛。それから解脱する事が出来るのです。
それを「彼岸の到達」、あるいは「神理への解脱」というのです。
皆さん方がこの世から解脱する道は、何によって示されるものだと思いますか。それは愛によって示され、その愛を通してのみ解脱出来るのです。愛そのものが神であるからです。
神の意志を受け継がないで、行わないで、「私は毎週教会に行って祈っています。神に賛美歌を聞かせています。だから私は天国へ行けるのです」と、有頂天になっている人もいます。
あるいはご先祖様のご供養だとかいって意味の分からぬお経を読み、一生懸命「南無妙法蓮華経」と唱えている人もいます。
それを唱えても神はお喜びになりません。そんな隙があるのなら、たとえ少しでも人々に愛の奉仕をしたら如何でしょうか。
神の意志というのは、南無妙法蓮華経を唱える事ではないのです。
「主よ、主よ」と唱える事でもないのです。歌を聞かせる事でもないのです。何のために唱えているのか、歌を聞かせているのか合点がゆきません。
それは、神の意志を受け継ぐものではないのです。神の意志を受け継ぐというのは、実践行為で愛を示さなくてはならないのです。お互いに愛し合う事と分かち合う事しかないのです。
救われる道がもっと別の何処かにあると思いますか。神の意志を受け継ぐ事しか、神の愛を受け継ぐ事しか、皆さんが救われる道は残されておりません。
ですから、イエス様は「むやみやたらに我が名を呼んではならない」と。
「我が意志を行う者は、我が御心を行う者は御国に入るであろう」と言われたのです。
「我が御心を行いなさい」と言っておられるのです。この事は聖書に書いてあります。聖書には「私を賛美しなさい」とは何処にも書いてありません。
しかし人間はいつの間にか楽な道を、安楽の道を選んだのです。安楽の道では神に至る事はありません。彼等の還る天上界は何処にも存在致しません。なぜならば、彼等の心に愛がないからです。
御国というのは愛です。誰も憎まない。誰も謗らない。誰も怒らない。これが天国です。皆さん方が地獄であるという事は、憎しみであり、怒りであり、謗りであり、嫉妬であり、これが地獄です。
地獄というのは憎しみや怒りであり、天国というのは愛です。愛を持っていないのに、天国に還れる人は何処にもいないのです。
天上界とは不安と恐怖のない存在。その心の状態の事を言うのです。その者は肉を去っても何処に行っても天上界です。
その者には憎しみも怒りも謗りも、不安も、恐怖も、何もないのです。その状態を造らなくてはならないという事です。
一杯不安と恐怖と憎しみを持っていながら、「私達は毎週神を賛美しているから天上界に連れて行かれる」という夢を見ている盲信家がいかに多いかという事です。残念ながら彼等の還るべき天上界は何処にもないのです。
非常に強烈に人を憎み、許す事が出来ず裁く人がいます。あるいは、それに捉われなくて許している人がいます。いつも不安の中にいる人がいます。
あるいは、平安の中にいる人もいます。どういう意識状態なのかによって人は様々です。
神は人を裁きません。神は偉大なる許しの方であり、神の意志は許しなのです。皆さん方は人を裁こうとする所に、苦しみを造り出しているのです。
相手が間違った事を言うとカッと噛み付く。もう許さない。
それは地獄を造るのです。神に反して愛の光を曇らせてしまう。
それを許した瞬間に光となるのです。
皆さん方は、全てを許していれば、愛の他に何がありますか。許さない事によって憎しみ、裁き、悪口を言っているのではありませんか。
許しがあれば嫉妬するのですか。許さない事が嫉妬であり、怒りであり、憎しみであるはずです。
許してみて下さい。自分が許さなければ、あなたは人から許されないのです。だから、自分を許さないのは自分であって他人ではないのです。
どうでしょうか。あなた自身は、自分が全てのものから許されたいならば、許してもらいたいならば、全ての人を許してあげればいいのではないでしょうか。自分が自分を許していないだけです。あなたが掴んでいるのです。
あなたはもう誰も掴まなければ良いのです。そして、誰からも縛られたくなければ、あなたは誰も縛らなければよいのです。誰も謗らなければ良いのです。怒らなければよいのです。
許してあげれば良いのです。それは、この世の束縛から解放される秘技なのです。あなたが許さなければ人様はあなたを許すはずがありません。
自分が人を許さないのに、〈おお、主よ。我が罪を許し給え〉と祈るのです。それは許されるものではありません。
いくら神に〈私の罪を許して下さい〉と祈っても、自分が人を裁き、許さなかったのなら、これは許されるものではありません。
私達は行為でもってすべての人を、たとえ自分を迫害する者でも罵る者でも許してあげれば、その制約に縛られる事はありません。自由なのです。
捉われてそれを受け入れる事によって、束縛を受けているのではないでしょうか。
例えば、旦那さんが浮気をしたとします。
「よくも私というものがありながら、これは絶対に許せない」と、嫉妬に燃えて怒り狂っている奥さんと、
「うちの旦那さんは私の愛が足りなかったから私の他に愛を求めたのだ」と反省して、〈旦那さんに申し訳なかった。私の愛が足らなかったために〉と思う奥さんと、どちらが偉いと思いますか。
嫉妬に怒り狂う人と、自分を厳しくし反省して許してあげる人と、どちらが偉いのでしょうか。どちらが、本物の神の意志を受け継いでいると思いますか。
皆さん方はどちらを選びますか。嫉妬に狂う女でしょうか。
それとも許しを与える女でしょうか。どちらを偉いと思うのでしょうか。
どちらを神はお喜びになると思いますか。
許さないのはみんな自分です。誰かがあなたを縛っていると思いますか。あなた方は誰からも縛られていないのです。あなたを束縛し、制約し、縛っている者は誰でもないのです。自分自身です。
その事は、自分自身を戒めて、自分を苦しめている状態に思えがちですが、その状態を自分自身が受け入れさえしなければ、何者にも束縛される事もなく、制約される事もないのです。
私はそういうものを受け入れておりませんから、非常に自由なのです。こんなにも身軽で楽しい生き方があるのに、なぜ皆さん方はこれを行ってくれないのだろうかと、そう思うのが残念でたまらないのです。
ですから、全国を回り回って、私はこういう事を訴え続けて歩いているのです。一人でも多くの人に、神の意志を受け継いで頂きたいと思うからです。
しかし、それは自分でしか出来ません。他力本願であなた方の代わりに誰かがやってくれるものだと想わせることや、何処かに救いを求めさせようとする事が嫌いですから、私はそのような事は決して致しません。
なぜならば、人があなたを縛っているのでもなく、人があなたを救えるものでもないからです。ただ、自分が自分を救っていないだけなのです。
イエス様は「神は自らを助くる者を助く。汝の救いは汝自身なり」と、その事を言っておられるのです。
すでにあなた方は助けられているのです。自分は助けられているのに、自分自身を制約や、色々なものに捉らわれや悪に染まる事によって、自分を苦しめているだけなのです。あなたを苦しめている犯人は何処にもいません。その犯人は自分自身です。
自分を救うのは自分自身であって、どなた様でもないのです。誰かにすがれば救われると想っている人の、その他力依存の強い事が残念です。
どうでしょうか。あなたの心を変えてくれる人がこの世の中にいると思いますか。自分の心は自分でしか変えられないのです。
想いを変えるのも自分であって、他人があなたの心を一々(いちいち)ほじくり出して、「こうしなさい、ああしなさい」と、あなたを救える人間が、世の中に一人でもいると思いますか。
自分自身です。あなたが幸せになるのも苦しむも、あなたの手中にあるのです。想い一つにあるのです。それは神の意志を受け継げば簡単ですが、その神の意志を誰もが受け継ごうとしないのです。
憎しみ合い、怒り合いというものが、なぜ、そんな事が起こるのでしょうか。それは利己的なものの考え方から、全部自己中心から来るのです。あなた方が自分と他人との関係を、まだまだ理解していないからです。
他人様は神の現れです。この世の人間は、神というと非常に空想的なものを持っています。神が何処にいるかも分からない。自分が何であるかも分からない。だから、「神を知る前に先ず己を知りなさい」と言うのです。
自分とは何でしょうか。自分がなんであり、何処から来たものであり、何処に還るべきか。という事を知らねばなりません。
皆さん方は神によって造られ、神に還らなくてはならないのです。
銘々が生きていると思っています。一人びとりが生きていると思っているのです。あなたが生きているのではない、神が生きているのです。
ただ、神より個別化された外観を見て「私が生きている。あの者は生きている。この者は死んだ」と言っているのであって、生命は一つしかないのです。大宇宙という生命は一つしかないのです。
あなた方は、別々に生きているのではないのです。その肉体の死を「死」と見ている者は無知であり愚者です。本性を知らない、本質的なものを知らない、外観しか見る事の出来ない無知であり愚者なのです。
それは死に属する者でとうに死人です。死を信ずる者は死人です。
私達は決して死にません。私達一人びとりや色々なものに死があるならば、神に死があるという事です。
生命は一つです。様々な人間がいるだけです。生命には分離も個別もありません。生きとし生けるもの全てが一つの生命です。
小鳥の生命も、虫の生命も、全て同じ一つの生命の中にいるのです。ただ形が違うだけ、その生命の入れ物が違うだけです。
あなたの生命も、私の生命も同一の生命です。一つの生命体です。「全一」の生命しかないのです。
しかし、人間は外観でものを捉えるため、分離で〈あの人の生命、この人の生命〉と思っているのですが、同一のものなのです。
例えば、海水を色々な様々な入れ物に汲んで来た様なものです。入れ物の姿形が違うだけで、その中に入っている海水は同一のものなのです。
ここに知花という者がいます。今、私はこの肉体を持って三次元に現れているのです。これは知花という形体にしか過ぎません。
「この世を去る」という事は、命は去るという事はなく形体が去るだけです。命はそのまま永続、存続します。
ですからこの世を去った方々も、同じ生命の中にいるわけです。どこか遠い彼方に離れているのではありません。形体が消えただけです。
それは、私達の生命も、お釈迦様の生命も、イエス様の生命も、、この世をさられた方々の生命も、みんな同じ一つの生命であるという事です。
皆さん方は「自他一体」です。自分も他人も一つであって、この言葉の意味が分かっている人は悟っています。
「なぜ自他一体というのだろうか」という事が分かっている人は悟っているのです。自分と他人というものはないのです。あなたしかないのです。
あなたしかないという事は、神のみしかないという事です。その大生命が神であるからです。まだまだ神の他に何かがあると錯覚しているのです。
神は自分から遠ざかっていると思っています。遠い彼方にいると思っています。だから「我が神よ」と天を見つめる人達がいるのです。
神と我と即一体であり、神から分離した人間というのはいないのです。生命から分離して生きている人間が存在すると思いますか。命のない人間が存在するのでしょうか。
この大宇宙は神の大生命です。その大生命の中に、その大宇宙の中に皆さん方は、今、いるのではありませんか。
地球という惑星があり、その地球は大宇宙の中に存在しているのです。地球の生命も神の生命です。我々一人びとりの生命も神の生命です。
私達は宇宙人です。皆さん方に「宇宙人を見た事がありますか」と聞けば、「いいえ、見た事がありません」と言います。
それならば「あなたは宇宙の他のどこかにいるのですか」と私は言いたいのです。大宇宙の中に地球という惑星があり、金星があり、土星があり、火星があるのです。
皆さん方一人びとりが宇宙人です。しかし、宇宙人は円盤か何かに乗って来るものであって、地球人とは全く違った姿をしているものだと錯覚しているのです。
この地球惑星は、宇宙の他と分離して独立して存在しているのですか。大宇宙の中にポッカリ浮いている一つの惑星です。
その生きている惑星の上に、我々は生き物として存在しているのです。その生き物全ては神の中にいるのです。
イエス様は「私は神の中にいると同時に神は私の中にいる」と言われたのです。あなた方は、大宇宙という神の家の中にいるのです。
この大宇宙は神の家です。そして大宇宙である生命が、あなたの中にもいるのです。だから、皆さん方は神の中にいると同時に、神はあなたの中にましますのです。
その事を、イエス様はお悟りになっておられましたので、
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その事を、あなた方の理解力でもって、「自分が生きているのではなくて、神が生きておられるのである」という悟りを持って頂きたいのです。
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人間はなぜ神か 神の意志について
神の意志というのは「愛」の事です。本来、私達は神の愛を受け継ぐものですが、中々その愛というものを受け継いでおりません。神の意志とは何かと問われた時「愛」だと答えればいいのです。神は愛です。そして愛は光です。
本来は私達も光ですが、その本性である意志である愛を自らが曇らせているのです。愛に反するものは闇です。怒りとか、憎しみとか、謗りとか、嫉妬というのは闇で、その本性である光を曇らせているのです。
常に光の中にいるならば、神の意志の中にいるならば、私達は愛でなくてはならないのですが、愛に反するものの中に生きる事によって、悩み、苦しみ、そして病気というものを造っているのです。
神の意志に反することを行っているからです。それは罪、汚れです。あるいは業(ごう)というわけです。
ですから、私達が常に神と共にいたいのなら、神の意志を行わねばならないのです。神の御心(みこころ)の如く生きなくてはならないのです。
神の御心とはすべてを愛する事です。この世に存在するものは愛しかないのです。その愛に相反するものを私達は持っているのです。
それは神に逆らっている状態、自分の本性を曇らせている状態です。だから、神に近づくという事は、その愛を通してしか神に近づく事は出来ないのです。
皆さんはよく「天上界に還りたい」とか、「成仏したい」とか言いますが、天上界に還るのも、成仏するのも、愛を通さずして、神の意志を通さずして、何者も神の御国(みくに)に入ることは出来ないのです。
常に私達が愛に満たされる。朝起きて愛に始まり、そして一日を愛で過ごし、その1日が愛で終わる日常生活であったなら、あなたは光の中の住者となるのです。
悩みも苦しみもないのです。そこは光そのものであり、自分の本性であると同時に神の意志を行っているからです。
イエス様はこう言われたのです。「我が身心を行う者は、我が御国に入るであろう」と。これが『神の意志、明らかなる神の御心』です。
これに相反するのは私達の悩み苦しみです。人間は愛でなければならないのです。私達の根源は愛であるからです。
その愛とは何かというと神であるからです。神の御国に入るには、愛を通さずにしては何者も御国に入れないのです。
なぜ、そんなにまで愛が実行できないのでしょうか。以前私は非常に疑問を持った事がありました。
〈なぜ人を憎んだり、謗ったり、裁いたり、中傷したり、色々なものがあるのだろうか〉と。
この事は、自分の正体が、自分の実態が何であるか分からなかったからです。自分が何処から出て来た者で、何処に還るべきかを知らないから、人々が色々な妬みや、謗りや、そういうものを行っているのです。
自分は何から誕生して何に還るべきか、何処から出てきて何処に還るべきか。という事を知っていたならば、自分の本性、実態を知ったわけですから、自分の根源が愛であった。自分は神の意志そのものを受け継ぐ者であった。と。その事が分かってくるのです。
そして、その神の意志を受け継ぐ者が、神の息子となって神の娘となるのです。神の後継ぎ者となるのです。
その時皆さん方は「神のものは私のもの、私のものは神のもの」と言えるような状態となるのです。
今の私、この知花の心の状態がそうなのです。「神のものは私のもの、私のものは神のもの」と、実感としてそう想っているのです。
そして、神の意志というものは愛であった。この世で何者も憎んではいけない。憎むという事は神への反逆であり、神から遠ざかる事であり、罪であり、汚れでもあり、それが苦しみの原因である事を私は知っているからです。
常に皆さん方の心の中に愛が満たされているならば、皆さん方も神の意志を受け継ぐ者となるのです。
神の意志を受け継ぎたいのなら、愛に反するものを想わないこと、語らない事です。皆さん方が人を裁く事は神は決してお喜びになられない。
人を怒る事もお喜びにはなられない。しかし、その神の望まれないものを私達は平気で行っているのです。
神が一番お望みになっている事は愛し合う事です。お互いにこの世に存在するのはみんな神の子であり、神の創造物なのです。神がお造りになったのです。造り主は神であるのです。
その造られた全てのものは、神ご自身がお造りになりましたので、神の意志はこの世に現れている一人びとりを、ありとあらゆる生きとし生けるものを、万象万物を愛して下さっているのです。
そうであるならば私達も万象万物を愛さなくてはならない。これが神の意志です。そして私達が万象万物を愛し、人々を愛し、分かち合う事が、神の意志を受け継ぐ者となるのです。
それ以外、この愛を通さずにして、何人も御国(みくに)に入ることは出来ないのです。それなのに、今までは偽りの指導者によって騙されて来たのです。
「主よ、主よ」と主の名を唱えれば天上界行きだとか、お経を何万回上げれば極楽行きだとか、神の御国に入れると言われてきたのです。しかし、彼等は現実的には愛し合ってもいない。同胞愛をなしてはいないのです。
神は善人にも悪人にも、平等に愛を注いで下さっているのです。その神の愛は無差別の愛です。無所得の愛です。ですから、神の御国に入るには、神のような愛でなくてはならないのです。本当に自分という我を忘れて、愛だけに満たされるという状態になる事です。
皆さん方は、まず今日一日、明日からでもよろしいから愛だけに満たして下さい。そうすれば、あなたにどんな事が起きるのでしょうか。
あなたの心にこれっぽっちも憎しみがない。怒りがない。嫉妬がない。本当に何処を見ても愛おしくて全てに愛を満たしている。それは人間だけではなく動物、鉱物、植物全てに、万象万物、全てにです。
そうなっている時、もう皆さん方は神に波長が合っているのです。
神に波長を合わすという事は、全てが愛でなければならないのです。
神の愛に満たされている時、私達は光明人間となるのです。だから、イエス様は愛に満たされている時「我は世の光なり」と言われたのです。
光明人間、すなわち世の光です。愛は光です。愛に満たされている時は光明人間です。曇りがないのです。だから愛は光なり。光は愛であるという事が分かるのです。
皆さん方は本来光です。皆さん方一人びとりはみんな光ですが、その光に反する事を、愛に相反する事を行う事によってその光を曇らせているのです。
憎しみの多い人は真っ黒くしているのです。怒りの多い人は真っ黒くしているのです。憎しみも、怒りも闇ですから、自分の本性である光を曇らせているのです。これは自らが曇らせているのです。
本来、人間は光そのものです。霊体というものは光体です。光姿体です。
私達の魂というものは光そのものです。
神の意志そのままなのです。神の意志を引き継いで、私達はこの世に存在しているのです。これを真の我「神我(しんが)」と言っているのです。
今人間は偽我という偽りの自分で、偽物の自分で、その三次元的な思考のものの見方をしています。それが分離対立であり、憎しみであり、それによって私達の本性を曇らせているのです。そこに歪みがあるのです。
ですから「神と人間の関係」を、神と皆さん一人びとりとの関係をまだ知らないために、分離と対立と差別というものが出て来るのです。
この世にあるものはみんな神のものです。人間が造ったというものは何一つだってないのです。
しかし、いつの間にか世の人々は「私が造った。自分が造った」という様になってしまったのです。これは盗人です。罪深き人間なのです。
あなたというものは、人間というものは、何も造れないのです。しかし「これは私が造ったものだ」「これは今の近代科学によって造られたものだ」「これは何々が造り出したものだ」という様になってしまったのです。
これは神から遠ざかったものの考え方であり、この世に存在する砂一粒だって、髪の毛1本だって、神の意志によって造られたものであるのです。
これが分からなかったならば、私のもの、あなたのものという、その差別感がまた出て来るのです。
全ての全ては神のものです。あなたのものとか私のものというのは何処にも存在致しません。それを知らないという事は「これは私のものだ」「これはあなたのものだ」と、奪い合いをしている様なものです。
どうでしょうか。自分のものというものがあると思いますか。勿論、預かってはいます。
自分の所有物のように預かってはいますが、皆さんのものではないのです。あなたのものであれば、あなたの財産はあなたが持ち帰るはずです。
だが、持ち帰る事は出来ません。それは神のものであり、神がこの世のものとして預けておられるだけです。決して何一つ持ち帰れるものではない事を知る事です。
それを「足りる心」として、私達はこの世の借り物を多くかき集めるための存在でないのです。
神の意志というものは、物をかき集めさせるために、自己中心的な自己欲望をこの世に達成させるために、人間を創造なされたのではありません。
神は人間をお互いに愛し合い、分かち合わせる為に、この世を善き発展させんが為に創造なされたのです。
お互いの分かち合いをする事によって、もっともっと高度な発展が、高度な調和の取れた物質文明が発達するのです。そういう神の使命を人間はまだまだ知らないのです。
お互いがみんな、世界人類がみんな神の創造物であり、神の根源から発生し、そこから生まれたものであるという事が、世界人類すべての一人びとりが分かるようになりますと、国境というものが無くなるのです。
それは一つの存在である世界人類が、みな一家族一つの存在感となりますと、今は色々な核兵器の購入や、核戦争の防衛費に膨大な金を使っていますが、それが必要なくなるのです。
それがなくなりますと国が豊かになります。平和になります。高度な調和の取れた、物質文明が栄える状態になるという事です。
今、皆さん方の税金から沢山の金がそれらに奪われています。無駄な者に奪われているのです。これは人間の無知から出て来るものです。
それは政治を執っている方々がその神の意志を受け継いでいないからです。神の愛を受け継いでいない。悟っていない。無知のままで政治を執っているからです。知恵者は神の意志を受け継いで正しい政治を行ないます。
皆さん方の本質は、本性は、愛しか持っていないのです。本性は愛ですが、その愛に反する事を自らが好き好んで苦しみを造り出しています。
まず、自分の根源が愛であることを知って愛のみを持って下さい。
しかし、皆さん方はその愛を現した事もないのに、体験した事もないのに、それを行おうとはしていません。それを行った時皆さん方は幸せになれるのです。
この世に敵もなければ何もない。
全ての束縛から制約から解放されるのです。これが「無限の自由」というものです。「神理は汝を自由ならしめん」といいます。
自分の本性を知り、根源を知り、そして、自分自身の中で〈自分の実態はこう(神・大愛)であったのか〉と悟る事が出来、神の意志を受け継ぐ様になれるのです。
神の意志の愛を受け継ぐ様になって、これを日常生活で活かす事がいちばん大切な事です。これ以外には何処にも悟りは存在いたしません。
宗教に愛というものがなかったならば、それは宗教ではありません。愛がなければ神の意志を行う事の出来る宗教ではないからです。
神の意志を受け継ぐ宗教であれば愛ある宗教でなくてはならないのです。愛のない宗教であるならば、憎しみであり、対立であり、分離であり、分派であり、党派であり、それは宗教ではありません。
神は決して分離でも、分派でも、党派でもないのです。
全一。一つのもの。一体なのです。その一つの中で憎しみ対立するという事は、もう宗教ではありません。全ては一つ。
全ては神の創造物であって、神の他には何も存在しないのです。神の他に何かが存在すると思っている事を「迷い」というのです。この大宇宙は神であると同時に、大自然も神のものであり、神そのものであるのです。
例えば、皆さんが虫と見たとします。小さな虫を見るときっと皆さんは可哀相だと思います。しかし、虫はあなた方の事を「人間は無慈悲だ」といいます。人間ほど愚かなものはないと思っています。
虫という生き物は神の意志を受け継いでいるのです。人間だけが神の意志を受け継いでいないのです。愛を表現していないのです。
人間は自由意志を持たされています。本来、人間は神の意志を受け継いたら、最高の万物の霊長として、発展すべきよう造られているのです。
しかし、今の人間は虫けらにも劣る存在なのです。今の人間のものの考え方というのは、一かけらの愛もないような自分さえ良ければ良いと、利己的、自己中心的、エゴそのもので生きている人間もいるのです。
虫は人間に踏み潰されても、殺されても、農薬を食わされても、花に受精させて実りの奉仕をしています。多くの野菜や果物に奉仕しているのです。
虫がいなかったならば、私達は農作物を頂く事も、果物を頂く事も何も出来ません。虫が今この世から全滅したら人間は死にます。人間は全滅します。
なぜならば、その種を造っているのはみんな虫であるからです。「虫の奉仕」といって、虫は偉大なる人間への貢献であり、奉仕をしているのです。
では、人間は何を虫に与えていますか。せいぜい農薬をまいて殺す事か、踏み潰す事しか知らないのです。それでいて威張り腐っているのです。
今、人間は虫だけを踏みつけているのではなく、人間までも自分の同胞までも踏みつけようとしているのです。握り潰そうと、権力で支配しようとしているのです。
虫は人間に農薬をばらまかれても、踏み潰されても、殺されても、その人間に無所得の愛を奉仕しているのです。そんな中でも虫は子孫を絶やさぬように、人間が農薬をまけば産卵を倍にして、バランスを保ち、神の知恵と力を受け継いで、神の意志を受け継いで、神の愛を受け継いでいるのです。
人間は、今、神の意志を受け継いでいるのでしょうか。神の意志を受け継いでいる状態なのでしょうか。それを受け継がないで「私は神信者でございます」と。何も愛さないで自分だけの利己的愛、自己愛を持って
「私は神を愛しています。神を信じています」という盲信家が如何に多いかという事です。これは愛なのでしょうか。神の意志を受け継いでいる者なのでしょうか。
自分が天上界に還るために一生懸命信仰をしている人。自分が金持ちになりたい、裕福になりたい、あるいは健康になりたい、幸せになりたいという、自己中心的な自分事の神を信仰している者は、盲信家であって狂信家であって何者でもないのです。
真の信仰というものは、お互いにみんなを愛し合う、万象万物を愛する、分かち合う、助け合う、活かし合う。これは神の意志を受け継いでいる者です。
『神の意志明らかなる中心より、その大自然が、人の大目的が、人の貧しき意志を導かんことを』という大祈願文があります。
私達の意志は、今、明らかではないのです。皆さん方の意志は明らかな状態ですか。愛が明らかな状態ですが、そうではないのです。もっともっと、私達はこの自分の意志を明らかにしなくてはならないのです。
その意志を明らかにするという事は、愛の奉仕を実践するという事です。
皆さん方が携わっている今の仕事も、この世で働く事は神への奉仕であり、その神を捧げている神の意志そのものなのです。
人様に尽くすという事は誰に尽くしていると思いますか。それは神に尽くしているのです。なぜならば人様は神様なのです。人様は神の創造物で、神美ご自身がその人の中に住み給うておられるからです。
しかし、皆さん方はそれを神と見なしていないのです。
皆さん方は虫を見ます。虫だといって外観で捉えて、中身は観ていないのです。例えば毛虫が這っていたとします。
普通の無知な人間は、その毛虫を見ると毛嫌いして何処かへ追い払おうとします。でなかったら何かを持って来て殺そうとします。
しかし、その毛虫の実態は何でしょうか。賢者のものの見方は、毛虫という形態を保って、その中に神が住み給うという事を知っています。毛虫を見ても神の現れだという事を悟っています。
この毛虫は如何に人間に、如何に自然に、神の意志を現しているものであるか。これが蛹(さなぎ)となって、蝶(ちょう)となって、
綺麗な花々を渡り実を結ぶ役目、すなわち、その使命を持っているのです。その毛虫は完全に神の意志を果たしています。
それに比べて私達人間は神の使命を果たしているのでしょうか。
今、自分自身を考えてみて〈神の意志を受け継いでいる自分なのだろうか。本当に受け継いだ日常生活なのだろうか。神への反逆なのだろうか。
まったく相対的なものの働きをしているのではないだろうか〉と、これを考えなければならないのです。
人間はこの世に生まれて来た目的が、何であるのかが分からないのです。これを暗闇の人生といいます。
そして、それを知らないで、自己中心的で自分さえ良ければよいという、エゴの渦の中で生きながら帰ってしまう。無知のままで帰ってしまう。
私達は生きている間に、どれくらいこの神の意志を受け継ぐ者とならなくてはならないか。という事が分からなくてはなりません。
自分が何もしないで、ただ天上界に還るだけの目的でどうのこうのではないのです。天上界に還るのは神の意志を受け継ぐ者しか還れないのです。
これを受け継がないで、愛の表現もしないで、奉仕もしないで、何もしないで神を賺(す)かしておれば、喜ばせておれば、あるいは、お経を上げておれば、賛美歌を歌っておればというものではない事が、もう皆さん方にはお分かり頂けていると思います。
サイババさんは「何十年瞑想するよりも一時(いっとき)の奉仕をしなさい」と、いつも言われております。
瞑想をしていても、奉仕もない、愛の顕現もない、神の意志を行わない者が瞑想をした所で、その者の瞑想は神に至る瞑想ではなくて、これは迷いの[迷想]というものです。何も悟っていない、愛も知らないのです。
知っているなら先ず隣人に愛を現すはずです。
愛そのものが悟りです。悟りとは、愛の実践です。悟った人は愛そのものを自分の身体に現すのです。家族を愛し、隣人を愛し、全てのものを愛する、それは深い悟りの人です。
愛は一切ないのに「私は瞑想家で信仰家です」と、一生懸命座禅を組んでいます。瞑想をする事と、愛の実践を行う事と、どちらが悟っていると思いますか。どちらが神の意志を受け継いでいると思いますか。
彼等は瞑想をしているという自己満足しているだけです。瞑想していたら光が見えた。景色が見えた。あるいは霊界にいる霊人が見えた。それが見えたから何になるのでしょうか。神がお喜びになるとでもいうのでしょうか。
神が一番お喜びになるのは、私達の肉を通してこの世に愛を現す事なのです。
ですから、私達は朝は愛に目覚め、1日愛にて生きて、夜は愛にて終わると、その様な日常生活でなければならないのです。そういう方々は神の意志を受け継ぐ者であり、神が非常にお喜びになる状態なのです。
何万回お経を上げれば神はお喜びになるかという、そんなものでしょうか。例えば、一日中家に座ってお経を上げている人と、一生懸命愛の奉仕をしている人と、神はどちらをお喜びになると思いますか。
一日中何もせずお経を上げている人でしょうか。
世の中に尽くしている人でしょうか。一生懸命働いて世のために貢献している人の方を、神はお喜びになると思います。
一日中家にいて「母さん、母さん」と母に媚びる子供がいいのか。親から離れ世のために貢献し、人の為に尽くしている子供が偉いのか。人に尽くし、愛の奉仕をしている子供の方が偉いと思うはずです。
子供達にそれをいえば子供達は分かる事です。しかし、大人達は自分は大人だと思っていながら、当たり前の事が分かっていないだけです。それは神の意志を行っていないのです。
神の意志とは、一言でいうと「愛」です。愛を行う者が神の意志を受け継ぐ者であり、愛に反する者は神に反する者であるのです。
一言にいって、「ただこの世に存在する私達が、神に至る事の道は愛しかない」という事です。なぜなら、神の根源が愛であるからです。そして、私達一人びとりは、全て愛の御子(みこ)で神の子であるのです。
皆さん方が一日中光に満たされておりたいと思うなら、愛で満たされていなくてはならないのです。「光の子」としての存在となる為には、光の世界の住者となる為には、私達は愛の持ち主でなくてはならないのです。
愛そのものが光であるからです。
「光の世界に我々は還るのだ」と言っている人は多くいますが、闇の行いしかしておらず、憎しみ、怒り、嫉妬、不安、恐怖などを一杯持っていながら、
「我等はこの世を去ったら天国に、光の世界に還れるし、そこで光の天使になれるのだ」という様な誤った教えをしている集団が、世の中にはあまりにも多すぎます。
この世で光を表現できる人こそが、神の意志を受け継ぐ人こそが、神の御国に入ることが出来るのです。
真っ黒な憎しみや、怒りや、謗(そし)りや、そういうものを曇らせていながら、光の世界に入って行ったとするならば、その人はどうなると思いますか。
それは波動の違いによって、大変な苦しみを伴わなくてはならないのです。ですから、誤った集団の指導者たちはその事実を全く知らないでいるのです。
皆さん方には〈私は光の中にいたい〉という欲望があるはずです。〈神の光を私に満たして下さい〉と祈る人もいます。神は常にあなたに光を与えてくれています。それを拒んでいるのはあなた自身です。
皆さん方一人びとりは、そのままにして喜びであり、幸せであり、平安であり、光そのものなのですが、自分自身の本性(神我)を自らが(分離感・自我・偽我で)曇らせているだけです。
人間は生まれてそのまま純粋純白の光そのものです。この世に生まれて来て、色々な無知が、欲望がその完全純真の光を曇らせているのです。
人を憎む。人を裁く。人を謗る。人の悪口を言う。そういうものが生まれながらの純粋な光を、欲望で持って、エゴでもって、曇らせているだけです。
ですから、私達は純粋潔白の状態であるためには、生まれた当時の心でなくてはならないのです。純粋な心でなくてはならないのです。
幼い子供は人を恨みません。誹(そし)りません。怒りません。心が汚れていません。光そのものを出しているのです。ですから子供は「家庭の光」というわけです。
赤ちゃんを抱っこしたり、子守りをする時は、いい気持ちです。その赤ちゃんからは、物凄い強烈な純粋なエネルギーが放射されています。
赤ちゃんを抱いていると病弱な人でも元気が出ます。赤ちゃんを抱いていながら、その赤ちゃんが憎いという人はいないのです。赤ちゃんはそれ程までに強烈なエネルギーをもっているのです。
「赤ちゃんはこの世の家庭の光なり」といいます。赤ちゃんは本当に可愛い顔をして可愛い声でよく笑います。
赤ちゃんがいなくて大人ばかりの真っ黒い者が集まっていると、渋い顔をしたみんなの顔は綻(ほころ)びませんが、そこには赤ちゃんが出て来ますと、その家庭は朗らかな光の家庭となるのです。
赤ちゃんは無邪気だからです。邪気という闇が全く無いからです。大人は邪気によって汚れていますので真っ黒な者同士がぶつかり合うのです。
しかし、そこに赤ちゃんが誕生しますと、その家庭は非常に朗らかになって来ます。その家庭が光明化されて来るのです。赤ちゃんの光が暗闇だった家庭を光で満たしてしまうからです。
本来は私達大人も、その赤ちゃんの様に光でならなくてはならないのです。純粋な純白な心でいなくてはならないのです。神の意志を受け継ぐ者でなくてはならないのです。曇らせてはならないのです。
その本性を、愛というものから分離して、愛に反するものを行う事によって、私達の本性である愛を、光を、曇らせてしまうのです。
では、自分が光になるためにはどうすればいいか。もう皆さん方には言わずともお分かりになると思います。
生まれて来る時、汚れている人はいないものです。全て純粋潔白に光り輝いている状態ですが、色々な欲望が出てしまい、私達は本性である神の意志を、愛を曇らせた状態でいるのです。
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- No
- 51
- Date
- 2018.04.08 Sun
父なる神と私は常に一体♪自然の摂理さえも超越♪真の超能力♪神の心♪大丈夫の波動は強烈な世の救い♪知花敏彦師
愛の実践 神理の実践
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人間はなぜ神か 神の心 人の心
『父なる神と私は常に一体である』
父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。
ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。
実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。
それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
〈ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。
それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い、そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。
それは、全て建設されて行きます。その建設されたものを破壊しているものは、消極的な心、即ち、マイナスのエネルギーで、「私はもう駄目だ。私位は学問もない。力も知恵もない。財産もない」という悲観的なもの、消極的なもの、これが自己破壊を招くのです。
私達が本当に神に素直であれば、痛み苦しむ事もないし、病気になる事もないし、あるいは、経済的にも苦しむ事もないのです。
全てのものが私達の実相の世界に、神の恵みを与えられているのですが、ただ私達が受け取らないだけなのです。全てのものです。全ての全てです。その全てのものが知恵であり力であり、その全てのものが与えられているのです。
この私が神と一体である限りは、この世に存在する自然の摂理さえも、私を妨げる事は出来ません。
例えば、私がどこか遠い所へ行こうとすれば、例え飛行機に乗る切符がなかろうが、それを妨げる事は出来ないのです。必ず私に飛行機の席を開けてくれます。
それは自然をみんな克服しているからです。自然のものの節理によって私を妨げようとする事は出来ないのです。
そして、その出発する日に台風が向かってきたとしても、私自身がどうしてもその所へ行かなくてはならない神の御心であれば、私は必ず行けるのです。
その台風はよそに流れて、私の行く手を遮(さえぎ)る事は出来ないのです。なぜならば、そういう風さえも、雨さえも、そして海さえも、全ての自然を支配しているのが私達の力であるからです。
ですから、今、人間が思っているその様な小さなものを、自我で支配しているのではありません。これは全てのものを支配している力です。それが宇宙力なのです。
それが皆さん方の一人びとりの中にあるのです。それを素直に受け入れるか。素直に自分のものとするかしないか、という事です。
しない人は苦しみます。する人は、素直になれる人は本当に幸せで健康で力と知恵に満たされて、安らぎの生活を送ることが出来るのです。毎日が楽しいのです。
こういう楽しい人生行路があったのに、その楽しい嬉しい人生行路は誰のお陰だと思いますか。それは神の御蔭(おかげ)なのです。
『神の心を素直に受け入れる』。この私達の心が、神の心を受け入れる事によってのみしか出来ないのです。これを信仰というのです。それ以外の信仰は何処にも存在致しません。
真の信仰というものは、実在する神の力を、神そのものを受け入れる事なのです。神そのものに全託(ぜんたく)する事なのです。
これは真の救いであり、現実的であり、実際的となるのです。
皆さん方はもう今日から健康になれます。その秘訣をここで学びました。自分の身体に関して一切消極的な想いを起さない事です。
健康になる秘訣をもう一つお教えしましょう。それは年を取らない事です。なぜ年をとると思いますか。
〈自分は幾つになったから〉と、年齢を意識した瞬間に私達は年を取るのです。年齢を意識しない事によって年を取りません。
本来、人間に年はあるのであって、実相世界には年は存在致しません。私もその過ちを犯して40数年余りの肉体舟を持っておりますが、
以後年を取らない様に、年を数えない様に、幾つになったと聞かれても、
「分かりません。神のみが知っています」と言っています。
「あなたは幾つになりましたか?」「分かりません」と言っています。
「年と私とは関係ありません」と言っています。
自分の年さえも忘れるくらい幸せになる。これは浦島太郎になります。浦島太郎は年を忘れていたのです。それは真理です。そうすれば、自分は浦島太郎の様に年を取らないのです。
これは海の中で年を取らないだけではなく、私達が本当にこの世の竜宮のような、幸せで平安で生きる喜びに、人を助ける喜びに、神の心に満たされていたならば、この三次元が、即、竜宮であるのです。
今の私には、自分の年を考える時間など持ち合わせておりません。喜びにあふれて何日であるかも何曜日であるのかも、事実分からないのです。
旅をしていても今日は何日なのか、何曜日なのか、殆ど意識していません。私に聞いても「暦を見て下さい」としか言えないのです。分からないのです。 なぜならば、私は、時間、空間、距離を超越しているからです。
皆さん方は心配をします。その心配する事はマイナスのエネルギーです。
よく心配するお母さん方がいます。心配は破壊のエネルギーであり、自己破壊のエネルギーであり、消極的なエネルギーです。
子供を心配するお母さんは、あたかも愛情深いお母さんの様に見えますが、そのお母さんは「無知のお母さん」になります。あるいは「無知のお父さん」にもなります。それは子供を破壊します。
〈カゼを引きやしないか。病気になりはしないか〉と、子供に、毎日マイナスのエネルギーを送っているのです。そうすると、子供は熱を出したり、カゼを引いたり、とうとう病気になってしまった。
〈私が思っていた通りになってしまった。私はそれを見抜く超能力を持っている〉と、自分の子供を病気にして自分を自慢し、それを人に言いふらしているお母さん方もいます。
「私には2~3日前からこの子がカゼを引くと分かっていたのです。案の定、熱を出しました。私は直感力がいいのですね」という人がいました。
それは病気になれ病気になれと、「なれ」とは言葉ではいいませんが、〈なる、なる〉と思っていますからその通りになるのです。それは破壊のエネルギーを、子供に注いでいるからです。
その意味がお分かりでしょうか。そのエネルギーの使い方を間違えるとあなたは罪人となります。目に見えないエネルギーで、人を傷付けているのではありませんか。
例えば、癌患者がいたとします。医者は癌は治らない不治の病と思っていますから、〈これは癌だから、もうじき死ぬであろう〉と、このマイナスのエネルギーをまず最初にその医者が起こします。看護婦が起こします。
医者は家族の人に伝えます。奥さんは〈私の主人は癌で死ぬのだ〉と、子どもたちは〈お父さんは癌で死んでしまうのだ〉と、家族全員でマイナスの破壊的な死の念を送ります。
そして身内の人を始めとして、親戚の人、知人、友達までが寄ってたかって殺してしまうのです。集団殺人です。
〈癌だから治らない。もう助からない。もう死ぬのだ〉と、大勢の人からマイナスのエネルギーを送られますから、もう本人はたまったものではありません。
癌は治ります。決して不治の病ではありません。しかし、一旦癌を病むと殺す人が周囲に一杯いるのです。妻でさえ主人を殺す張本人です。
〈癌は死ぬ。もう助からない〉と、大勢の人の心で消極的な心で集団殺人をするのです。恐ろしい事です。目に見えないだけで本当に恐ろしい事をしているのです。
見舞いに来る人もその人を殺しに来るのです。
「早く良くなって下さい」と、治すために、励ますために来るのではなくて、みんなの念によってたかって殺しに来るのです。
〈この前来た時よりも今日の方が弱っている。もうそろそろではないか〉と、〈もしかすると、明日か明後日には呼ばれるのではないか〉というような念を、消極的な念を、集中的にその人に送っているのです。
敏感な患者なら身内の人が病院に入って来る事が分かります。身内の人は心配という消極的なエネルギーを絶えず強く送っています。
本人は身体の調子を悪くする、その暗示をかけに来る身内の破壊的な念が近づけば近づくほど、本人にはそれが分かり苦しみだすのです。
皆さん方もそういう無知を、目に見えない罪を犯してきたのではないでしょうか。それが罪でなくて何でしょうか。
私達が神を知っていたならば、そういう罪を犯さないと思うのです。
ですから「言葉遣いに気を付けなさい。想いに気を付けなさい。そして行為には気を付けなさい」と、私はいつも皆さん方に言っているのです。
あなたの想いが消極的ではないか。あなたの言葉が消極的ではないか。あなたの行為が消極的ではないか。消極的な言葉や想いや行動は、私達が神を裏切る行為なのです。罪を犯している姿です。
今、地球上には、そのような破壊的な波動が、闇の波動が一杯です。その波動を清めるために私は《大丈夫だ》というエネルギーを送っています。
大丈夫という言葉。それは強烈な世の救いです。全体に大きく影響するのです。今ここでも、私は《大丈夫だ》というエネルギーを送りました。そうするとそのエネルギーは全宇宙に影響します。
皆さん方が〈もう大変だ〉と思った時は、破壊的エネルギーを全宇宙にばらまいたのです。それは罪です。あなた一人だけの破壊ではなく、全体に大きく影響する事を絶対に忘れてはなりません。
目には見えない集団殺人という事が、この説明でお分かりだと思います。可愛さのあまりに人を殺してしまう。それは無知の姿です。
子供がよく病気になるのもその一つです。子供が病気にならないように、常に大丈夫だという愛のエネルギーを、その言葉と思念でもって守ってあげる事です。
家庭においても家族の人がお互いに、一切、消極的な言葉を出さない事です。そうなれば、その家庭は常に積極的な神の心の中に、光の中に生きている事になります。消極的な言葉と想いのある家庭は、闇の中に生きている事になります。
皆さん方の家庭が闇の家庭か、光の家庭か、それは皆さん方の想いが消極的なのか、それによって決まります。
常に、家庭の人が積極的に生きているなら、積極的そのものは神我ですから、神と共に生きている家庭人です。そこには神が充満します。
神のエネルギーが、建設的エネルギーが充満しています。
神の中に生きたいならば、私達の言葉や想いが積極的でなくてはなりません。それは神と一体である証です。現実的に、実際的に、その力の影響をお守り受けている姿です。その事を、皆さん方は知らなくてはならないのです。
「それを実践する日常生活の中に、真の救いはあったのだ」と。
神棚を作る事によって神が働くのではなくて、
「自分は神の心の中に生きる者であるか。人の心という外に生きる者であるか。それは自分自身の心次第であった」という事をよく知って欲しいのです。
あなた方は今まで人の心で生きて、神の心で生きてはいなかった。あなたが神の心と一体となって、神に全開して生きることが如何に大切であるか、という事をよくご理解頂きたいと思います。その力を、即、今日から応用して頂きたいと思います。
言葉は神なりき。言葉は力なりき。だから私達の言葉は力であった。初めに言葉があった。言葉は色々な物資となった。
神が『光あれ』といえば光が発生した。神が『海あれ』といえば海が誕生した。神が『山あれ』といえば山は誕生した。神が『動物あれ』といえば動物は誕生した。
その支配者として、すべての自然の支配者として、その自然の全ての克服者として、万物の霊長として、神は最後に人間をお造りになったのである。
神は最後に『人間あれ』といわれた。そして、神は人間の形体を、その雛形を造られ、神ご自身が私達の中に住み給うようになられたのである。
それが創世記である。
この世の全てのものは、私達の支配下にある事を忘れてはなりません。その事が万物の霊長なのです。だから私達は海の神を礼拝してはなりません。
山の神を礼拝してはなりません。火の神を礼拝してはなりません。水の神を礼拝してはなりません。決してそれらを崇拝してはなりません。
火はあなたの為にあります。水はあなたの為にあります。山はあなたの為にあります。海はあなたの為にあります。
あなたがそれらの神を拝んだとすると、あなたはそれらの神より下になります。あなたの為にそれらの神があるのであって、それらの神の為にあなたがあるのではありません。
それらの神を一生懸命拝んでいる人がいます。火は人間の為に造られたのであって、火のために人間は造られたのではありません。海も人間のために造られたのです。山も人間のために造られたのです。
ですからそれらの神を祭って一生懸命拝んでいる方々、人間は間違えています。自分が全ての支配者であり、克服者であることを忘れています。世の中には「如何に間違った神々が祀られているか」という事です。
しかし、それを粗末にしてはなりません。自分の生きる糧ですから、尊敬しお互い愛し合う海であり、山であり、火でなくてはならないのです。
ですが、それを自分の上に置いて、それらの神々が私より上だと錯覚している妄想家が、如何に多いかという事です。
火の下にいるとあなたは火の災いを受けます。火をあなたが支配すれば火はあなたに従います。海を礼拝すれば海の災いを受けます。しかし海を支配すれば私達は私達は海の災いを受けません。山を支配してしまえば、山の災いをうけないのです。決して事故、災難に遭う事はありません。
しかし、山の災難に遭うのは山に支配されているからです。海の災難に遭うのは海に支配されているからです。火の災難に遭うのは火に支配されているからです。
山の神が、海の神が、火の神が、それらの方が私達より上だと思っているから、色々な災難に遭うのです。
私達はこの世の支配者である事を忘れてはなりません。私達はその上に立つ者です。決してその下にあるものではありません。
「如何に人間が神であるか」という事を、みなさん方一人びとりが自覚されんん事をお祈りしなたら、こうして「神の心、人の心」をお伝えしているのです。
そこに力の全てを、その神の力を現す事が出来るのです。肉体というものは皆さんの支配下にあるものです。しかし世の人々は今この肉体に支配されております。肉体はあなたの心でいくらでも支配できるのです。
〈肉体よ。神の使命を果たしなさい〉と、あなたの心で肉体に命令すべきであって、なぜ肉体に使われなくてはならないのでしょうか。
肉体はこの三次元の乗り舟に過ぎません。その有限なるこの世的なものに支配されてしまって、本質的な自分自身の心を忘れているのではないでしょうか。
心が主人であって肉体が主人ではありません。肉体は心の下僕です。召し使いです。しかし、世の人々は召し使いである肉体に支配されています。
私達は、この肉体に支配すべき心を持っている事を忘れてはなりません。心があくまでも主人です。
皆さん方の主であり、克服者である『汝自身のキリスト』を忘れてはなりません。それが、皆さん方に内在する『内在の神』あるいは『内在のキリスト』というものです。
皆さん方は神の御心そのものを、知恵と力と宝物を持ち合わせております。それをよくお悟りになって、我がものとして頂かん事をお祈り致します。
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- No
- 52
- Date
- 2018.04.05 Thu
想念治療健康法♪人生安泰法♪大宇宙そのものが神の心♪父なる神と私は常に一体♪想念は実現の母♪悟り♪知花敏彦師
人間はなぜ神か 神の心 人の心
「神の心」と「人の心」というものがありますが、本来は一つの神の心しか存在致しません。
大宇宙という中心に神の存在があり、大宇宙そのものが神の心です。
そして、私達人間には、個別化された心というものがあります。しかし、その個別化された心というものは、大宇宙の神の心の中に存在致します。
常に神は私達に啓示を与え、中心を与え、私達を守って下さっています。私達の心に色々なインスピレーションを、その啓示を与えて下さっているのです。
しかし、人間が勝手に、神からの中心を断ち切ってしまっているのです。神の御心のように、神から送られた中心によって私達が動いているならば、
浅瀬に乗ったり、困難にあったり、事故災難にあったり、病気になったりする事はありませんが、私達は神から分離して、神の心から離れてしまったために、神からの中心を自らが断ち切ってしまったのです。
それは、常に母船より小さな船へと、中心を発信しています。けれども人間が受け付けないのです。受け付けない為に自分が勝手に生きていると、自分が勝手に動いていると思い込む様になり、自分勝手な行動をしているのです。
私達が自分勝手な行動を取るのではなく、人の心が常に神の心を素直に受信して、私達の人生なる航路を航海していますと、道を間違う事無く、道に迷う事無く神に導かれ、幸せな健康な、完全なる状態を保つ事が出来るのです。
この肉眼では観えませんが、大宇宙の中心には神の中心部があります。皆さん方の肉体にも、中心部の心というものがあります。
心というものは、船でいえば舵取りです。船長です。私達の肉体を動かしているのは心です。心が命令してそれで肉体が動くのです。
その心というものが間違っていますと、私達の言葉遣いや、想いや、行動のすべてが間違ってしまうのです。
私達は、神から派遣された小舟のようなものです。お互いに出て来た所は一緒です。ですが、お互いが敵だと見なしています。
私達はお互い敵ではありません。味方同士です。あなたも私も味方であり、一つの根源から発生したものです。
私達の心は常に神の心と連結されて、繋がれて、神に素直になって人生行路を送るようになればこの世に躓(つまず)く事はありません。
神の心というのは完全無欠の心です。決してそこには、不完全なるものは存在しない事が分かるようになります。ですから、「神に素直でありなさい」と、私はいつも申し上げているのです。
私達は今、自分勝手に生きています。だから自分は何処から出てきたのかも分からないのです。闇の人生を、闇の旅をしている小舟の様なものです。
「肉体は魂の乗り舟」といい、肉体そのものは魂を宿している、心を宿している一つの乗り舟、航海の乗り舟に過ぎないのです。
今、私達は三次元という次元に、旅をしている小舟の様なものです。
あなたが神からの中心を絶やす事がなければ、この世の航海は困難ではありません。非常に楽しく航海が出来ます。
その力は全て神から、神の中心エネルギーは全て神から与えられていますが、そのエネルギーさえも私達は遮断するようになってしまったのです。
消極的という人の心はマイナスのエネルギーのことで、そのエネルギーが全てを破壊してゆくのです。消極的というのは破壊的エネルギーの事です。
積極的というのはプラスのエネルギーの事で、建設的エネルギーの事です。神は常に建設的エネルギー、プラスのエネルギーを私達に注いで下さっています。
しかし、人間が勝手にその積極的エネルギーを、消極的エネルギーに変えてしまっているのです。
その消極的というものは「心の在り方」その想いが一番大事なのです。心が消極的である時、私達は自己破壊を招き相手を破壊してしまうのです。
プラスのエネルギーをマイナスのエネルギーに変換してしまい、私達自らが神から遠ざかり、その神の力を失っている状態です。
皆さん方は、今からでも遅くはありません。自分自身の全てを神に委(ゆだ)ねるのです。
神に素直に「我が心を導き給え」と、神の心に委ねてゆく事によって、全ての神の力を、我がものとする事が出来るのです。全知全能です。その力も知恵も、その完全さも、この世で現す事が出来るのです。
神からの中心を断ち切っているのは、自らの自分勝手な想念(自我)です。そうすると、この舟は闇に人生行路を航海します。どのようにして何処へ公開するのかが分からない。何処に辿り着くのかが分からない。
指示命令するというその完全なる指導者(神我)が付いていないから、何処かの浅瀬に乗り上げるか、色々な荒波に揉まれるか、あるいは転覆するか、その航海が困難になるのです。
その事がこの世の悩み、苦しみ、罪、汚れを犯す事になるのです。
神につながっておれば、素直に神からの中心に従う事が出来るのです。
そして「私達の心と神の心が連絡されている」という事を悟り、
常に、神に委ねて生きていられる様になれば、今日という1日も、神の導きによって航海する事が出来、平安と安らぎの中に、力と知恵の中に生きる事が出来るのです。
今、皆さん方は、神と人とは全然別の存在だと考えているのです。神はどこか別の所にいて、〈神と自分とは別の存在だ〉と思う事が迷いです。
その迷いというものを断ち切らない限り、私達は神からのインスピレーション、天啓を受ける事が出来ないのです。
それは、あなたの持っている自我の心。私は私。神は神。あの人はあの人。という分離観念、分離意識、あるいは表面意識という外なる意識が、肉の意識が妨げとなって、神からの啓示を断り続けているのです。
素直な心になって《おお、我が神よ、我が父よ。今日も我を導き給え》と、その父なる神にお願いをして、神に心を全開すれば、私達には知恵と力と愛が流されます。それを思った瞬間にそれが充満するのです。
神と私達の分離は一切ありません。一つなのです。しかし、それをあなたの自我の心で境目を造り、あなたは神を分離して考えるのです。
「何かの修行をしないと神に至る事が出来ない」という誤った教え方の為に、賛美歌を唱えないと神と繋がらないとか、お経を上げないと神と繋がらないとか、誤った指導者が出て来たために、この世に現れている乗り舟である人間は、余計に混乱させられてしまったのです。
神と自分を分離させているのは、自分自らの心で〈分離している〉という想いの中にしか、それは存在していません。
《一つである》と想った瞬間に、皆さん方は一つと繋がります。知恵と力に繋がります。その知恵と力がある事を、皆さん方は認めていないのです。
〈今、私は神とつながって、神の知恵と力に私は満たされている〉と想った瞬間、皆さん方にはその神の知恵と力が満たされるのです。
しかし、私は神からの分離で人間であると想っている(自我・偽我の)人は、神の知恵と力には満たされる事はありません。
私達は非常な過ちと罪や汚れを造り出しています。何をしでかすか分からない、勝手な行動をしているのです。
それは舵取りのない様な、船長が乗っている様な、いつ何処に、どのように辿り着くかも分からない、まるで漂流している船のようなものです。
舵取りは神です。私達の舵取りを見守って下さっているのです。人生行路が過ちを起さない様に、舵を取って下さっているのは神の心なのです。
その船長に従わないで、私達はどう、航海する事が出来るのでしょうか。その中心部から、《こういう具合に航海したら危険ですよ》
《こういう具合に航海したら非常に素晴らしい人生行路が送れますよ》
という具合に、毎日、昼夜休みなく、一分一秒の休みなく、神は私達に通信して下さっているのです。
それなのに、それを私達の自我で神からの通信を遮断してその聞く耳を持たない。神に従わない。自分勝手に自分の欲望達成のためにもがいているのです。
そこには事故、災難、病気、様々な苦痛が出てきます。神の言う事を聞いているならば、そんな事は一切関係なく私達は平安な航海をすることが出来るのです。
それが分かるようになりますと、神の心に人の心が従うようになった、委ねるようになった、という事になるのです。
そして、心を全開して〈神よ、我を守り給え。我を導き給え〉と祈る心を起こした瞬間、神は《分かってくれたか……。では、私のその想いを行ないなさい。私の御心を行ないなさい》と応(こた)えて下さいます。
そして神の御心を、私達が神の御心を想い、人生行路を歩むならば、この世で苦しむ事は一切ありません。
しかし、私達の自我で、神の知恵と力を遮断して、神からの啓示を断ち切る事によって迷っているのです。
皆さん方が神に還るためには、その通信されている神からの中心を素直に受け入れて、素直に航海する事によって、これまでの長い長い人生の度は終わり、神の御元(みもと)に還るのです。神の御国(みくに)に入る事が出来るのです。
その事を、イエス様は「我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と言われ、私達に航海を間違わないようにと、常に神に至る道を示して下さっているのです。
私、皆さん方の前にいるこの知花は、神の心とつながり神の御心を行っている状態にいます。私の心は常に神の愛に満たされ知恵に満たされています。
「こんなにまでも神は私達を愛して下さっていたか」という事が分かるのです。
今まで私達は色々と何回もその航海の旅に出ました。何世紀に渡って、何転生もかけて、この世に現れてきました。
けれども、神の御心に従わず、勝手な振る舞いをし、勝手な航海をして来たのです。今こそ神に素直になり、神からの中心を受けて航海しようではありませんか。
そうすれば、皆さん方は本当に素直な、健康と幸せの中で航海することが出来ます。波風は立ちません。人生の浮き沈みの苦難な道もありません。
それは全て神が沈めて下さるからです。神が全てを示して下さるのです。荒れている海の航海と、静かな海の航海とは、神には全てが分かっておられ、「この道を歩むと平安である」と、「この道は苦難である」と、私達はその示された道に従って航海して行く必要があるのです。
世の中の人は、今、神を散々空想し妄想してもがいています。しかし、それらの人々が空想している神は何処にも存在致しません。
神棚に神を祀って、そこから啓示を受けて航海しようとする人ばかりです。神棚を通して神に通信を送れるものではありません。
私達の生きた神の中心を、その受信機であり送信機である心を通じてのみ、神はお働きになられるのです。その受信機であり送信機というものは、皆さん方一人びとりが持っている『心』の他には存在致しません。
その『心』が皆さん方の運命を決めているのです。心の素直な人は善い運命を辿(たど)りますし、心が非常に不真面目で自我の強い人は悪い人生を歩むのです。その人生行路を歩むわけです。
それは自我の強さによって変わるものです。神に素直な心になって、神と一体になって、私達が人生行路を歩んだならば、非常にやすらぎと平安と幸せの人生行路となるのです。
今、皆さん方の心に通信されて来るもの、神から通信されて来る事を信じますか。信じるならばあなた方は、今、即、信じる瞬間に導かれます。
「そんな事があるものか……」という疑問心があります。古い長い習慣で皆さん方は神から離れていましたので、中々神に素直になれないのです。
〈知花の言っている事は嘘ではないだろうか。そんな事があるのだろうか。おとぎ話の様なものだ〉と皆さん方はきっとそう思います。
しかし、現実的に素直になってみて下さい。神と繋がりますと、物凄い強烈な力が皆さん方に現れるのです。
それは宇宙力といって、この宇宙の力を我が力とする事が出来るのです。そのエネルギーは積極的です。これは神の心にのみ存在致します。それを受け入れる体制が出来たなら、受け入れたならば、物凄い力が出てくるのです。
しかし、受け入れない人には力が出ません。そのエネルギーを破壊的な人の心で消極的なものに、破壊的エネルギーに、つまりマイナスのエネルギーに変換してしまうからです。
本来、大宇宙そのものには、宇宙力という一つの力しか存在しません。その一つのエネルギーしか存在しないのです。そのエネルギーを受ける側が善い方向に使うか、悪い方向に使うかによって決まるのです。神の力を悪用するとその人は罪を犯している、という事になるのです。
例えば、あなたの発する言葉、その発生音というものは神のエネルギーです。そのプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに、自らかってに変換したとするならば、それはその神のエネルギーを盗み取った盗人です。それが罪となって、苦しみとなって、その人に跳ね返って来ます。
人に「○鹿○郎!」といった瞬間に自己破壊です。その神のエネルギーを、自分自身が変換した罪を報いなくてはならないのです。
人を憎む心もその通りです。人を憎んだ瞬間に、神の積極的な心を人のさもしい消極的な心に変えてしまったのです。
その建設的エネルギーを破壊的エネルギーに変えてしまった、変換してしまった、人を憎むという事は破壊です。
せっかくの建設的エネルギーを、破壊的、消極的エネルギーに変換する事によって、私達はその罪を報いなくてはならないのです。
ですから、皆さん方は神の積極的なプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに変えないようにする、その心掛けが必要です。
そうなれば、皆さん方の前から破壊というものが全部なくなります。今は自らが破壊しているのです。
皆さん方の想いが消極的である間は、一切、知恵でも力でも幸せでもありません。そのエネルギーの使い方を識別しなくてはなりません。
「私はもう駄目だ」という事はもうすでに消極的です。
〈私はもう駄目だ〉と想った瞬間駄目になってしまうのです。
せっかくの健全なるエネルギーを、駄目だというエネルギーに自分が変えてしまったのです。その瞬間あなたはマイナスのエネルギーに満たされてしまいます。
皆さん方の人体のエネルギーは消極的、破壊的エネルギーに、皆さん方が勝手に変換してしまったのです。
自分は健康であると想っているのは、積極的エネルギーです。自分が素晴らしいと想った瞬間、それは素晴らしい建設的なプラスのエネルギーです。
自分に力があると想った瞬間あなたに力が出て来るのです。自分には力がないと想う人は消極的ですから力はありません。
事実そうなのです。その力は想いというもので、プラスにもマイナスにも自由自在に、私達人間の心が変換してしまうのです。
厄介(やっかい)なものです。自分の想いというもので自分を低い低い次元にまで落としてしまう、本当に落としてしまうのです。
この事は、皆さん方が食べているその食べ物にも言えるのです。例えば、このミカンがそうです。私がこのミカンを食べる時、
〈物凄く健康になる、力になる〉と思った瞬間、そのミカンは神の心に変わります。それは積極的エネルギーに変わるという事です。
しかしこのミカンを食べて、人の心が〈これが力なんかになるものか〉と想った瞬間、そのミカンには力がなくなります。
皆さん方はいつもお食事を頂きます。お食事を頂く時、神に感謝して
《我が食する物は全て、神の積極的なエネルギーとなり、プラスのエネルギーとなって我が力となる》というその想いで頂きますと、その食事はあなたにとって強烈な力となるのです。
しかし何も想わない。神にも感謝しない。ただ、食べたいから食べているだけという様な、マイナス思考を持っているならば、その食事は力にはならないのです。それは神の心に素直ではないからです。
「神の心というものは、積極的な心のことです。それが神我です」
「人の心というものは、消極的な心のことです。それが自我です」
積極的は神我なのです。これが真の私達です。本来、私達は積極的な心しかなかったのです。神の心しかなかったのです。
消極的は自我にあります。それが「自我の心」といって、自らの心を造り出してしまっている。それが次元を低めて、神の力を落としてしまっている状態です。
ここにミカンがあります。皆さん方はこのミカンを食べて、このミカンに力があると思いますか。〈ある!〉と想うと、その瞬間にあなたはこのミカンにエネルギーを与えたのです。
奪う事も、与える事も、あなたの心が神とつながり、受信する事によって、いくらでも出来るのです。この事は、このミカンではなく皆さん方の食生活全てのものに当てはまります。
-----それは、ここでも実験する事が出来ます。
皆さんの前で、このミカンに消極的力を与えると、マイナスのエネルギーとなります。そのミカンを食べる事によって力があるかないか。
消極的とはどういうものか。心ひとつで、想い一つで、それを交換できる事を実験して見せます。皆さん信じますか。物凄い力なんですよ。
あなたにこのミカンの皮を向いて頂きましょう。そう、皮をむき終わったら、半分に割って下さい。食べられるように、一切れ一切れに分けてください。
別の人。はい、あなた、前に出てきて下さい。では、私がこの人に向けて、人間の心で〈このミカンを食べても力が出るはずがない〉という想いを起こします。それからこのミカンを食べてもらいます。
まずミカンを食べる前に、この人の力を試してみます。では、立って下さい。私と腕相撲してみましょう。う~ん、相当力持ちですね。
はい、もういいです。これだけの力のある人が、このミカンを食べると力が無くなるのです。
はい。食べて下さい。食べましたね。どうですか、食べた瞬間、力がなくなりますよ。〈このミカンはもう駄目だ〉と、私が消極的な想いを起こしたから、この人はもうボロボロなんですよ。このミカン一切れで力がなくなるのです。
今、この人は子供みたいな力になっています。力が入らないのです。では、もう一度私と腕相撲してみましょう。さあ、どうでしょう。
この通り力がないのです。あなたがどれだけ頑張ってもこの通りです。まるで小さな子供と腕相撲しているようなものですね。
これを、今度は宇宙エネルギーに変えます。積極的エネルギーに変えてみます。このミカンを食べますと、宇宙の力がその人に存在します。
この同じミカンの一切れに《これは神から与えられた偉大なるエネルギーの根源である》、と私はこれに感謝してこの人に食べてもらいます。
では、あなた、エネルギーが出て来ると思って、このミカンを食べて下さい。このミカン一切れを食べる事によって、もうこの人は、今、大変な宇宙力を持っています。これは、神から宇宙の力が与えられたのです。
これは、前の消極的エネルギーから、積極的エネルギーへ、プラスのエネルギーに変換したのですね。
このように皆さんの中にある積極的な想いと消極的な想い、その想いというものが、これほどの力があるという事を分かって頂きたいのです。
これは誰が出て来てやっても同じことなんです。誰か他に希望者があれば前に出て来て下さい。誰でもその力を試す事が出来るのです。
だから、皆さんの想いでこのミカンをいくらでも変換出来ます。変換して〈宇宙大の力が出る〉と想って食べてみて下さい。事実、その通りになっています。
しかし、その力は目には見えませんから、証明する事が出来ないのです。こうして試す事は出来るのです。でも、それを誰も信じてくれないのですね。
言葉も力です。力は言葉に出て来るのです。言葉にどれぐらい力があるかという事を、知らなくてはなりません。
私は今ここおにいるこの人から、いくらでも力を奪う事が出来るのです。この人を零(ぜろ)にして、私は百にする事が出来るのです。
では、そこのあなた、前に出て来て下さい。さあ。私と握手しましょう。こうして握手する事によって、私はこの人から力を奪う事が出来ます。
私位はこんなに背が小さいでしょう。この人は大男ですね。この人の方が力がありますね。でも、もうこの人は力がないのです。私に全部この人のエネルギーが流れてきたのです。
「私が全部吸い取った」という言葉を出しましたので、この人にはもう力はないのです。はい、あなた、力を入れてみて下さい。どうですか?力が入らないのですね。
その力を奪う事も与える事も出来るんです。またこうして、私がこの人にエネルギーを与えます。《エネルギーよ。私からこの人に流れて行きなさい》と想った瞬間に、瞬間にですよ。時間も空間もないんです。
瞬間にこの人のエネルギーは流れて行くのです。どうですか。皆さんお分かり頂けますでしょうか。
はい、もう結構です。ご自分の席にお戻り下さい。-----
これが皆さん方の思いの中と、言葉の中にあるのです。皆さん方の日常生活の想いが、如何に無知な消極的エネルギーに、マイナスのエネルギーに変換しているかという事です。
あなたの病気の原因は、みんなこれから来ているのです。
〈私は病気だ〉という想いは病気のエネルギーが流れます。そうすると病気を必ず造ります。なぜ自分の中に自分で病気を作りたがるのですか。
〈自分は健康である〉と想えば健康のエネルギーが流れるのに、〈自分は病気だ〉という想いを起こすと、瞬間に、あなたはそのエネルギーに満たされるのです。病気というエネルギーという悪魔にやられてしまうのです。その事を無知というのです。
私は、いつも皆さんに申し上げております。「なぜ健康になる根源を、皆さん方の心一つで健康にもなれるのに、なぜ不健康な想いをするのですか」と、常に申し上げているのはその意味なのです。
私がなぜ病気知らずだと、私の家族皆が病院知らずだというと、人間は所謂(いわゆる)心で病気を造り、病は気からという様に、《私達家族は皆健康である》という想念を一杯持っているからです。
そうしますと病院に行く必要はありません。常に、健康なエネルギーが流れているからです。
皆さん方が病気という想念を起こした瞬間、病魔があなたに入ります。そのマイナスのエネルギーが、破壊的エネルギーで自己破壊を招くのです。
〈近い内、私は病気になりはしないか……〉と想った瞬間に流れています。そして「とうとう私は自分が思った通りの病気になってしまった。私は超能力を持っているのだ」と言うのです。
『想念は実現の母』といって、それは想った通りのあなたにしかなれないのです。病気になる事をあなたが望んだのです。
自分はどこどこが悪いのだと、悪いエネルギーを毎日送るのです。何処に行っても、誰に会っても「私はどこどこが悪い。何々という病気だと思う」というのです。
そうすると、病気だと想うエネルギーがそこに集中的に集まって、その通りの病気になってしまうのです。それを想っている間は絶対にその病気は治りません。
なぜならば、自らが病気だというエネルギーを、マイナスの破壊的エネルギーを送るからです。それを送らなくなった時に治ります。忘れた時治ります。
《自分は健全である。その様な事は私の心の過ちであった。エネルギーの使い方が分からなかった為、私は心の過ちを犯した》という事を、悔い改める事によって、今、即、治ります。
「そんな事があってたまるか」と、反発する自我の強い人は治りません。
神に素直になって、〈想いというもので、こんなにも自分の肉体がエネルギーに関係しているのか〉
という事が分かって、自分の心が神の心に素直になった瞬間に、皆さん方に救いが、癒しの手が差し伸べられます。癒やすも癒さないも自分自身にかかっています。神に素直になるかならないかだけなのです。
神の心というのは積極的な心、積極的な想いの事です。《自分は病気である》という想いは消極的です。積極的というのは〈自分は健康である〉という想いの事です。それが積極的な心です。プラスのエネルギーの事です。
だから皆さん方には、健康的なエネルギーしか与えられていないのです。健康の力しか与えられていないのに、自らの過ちがその力を破壊的に使ってしまい、自己破壊を招いているのです。
身体の何処かが痛いという人がいたら、すぐそこで〈あなたは痛くありません〉と、それに命令するだけで、その積極的なエネルギーが入って行くのです。その人に入って行くエネルギーは、あなた方の心でコントロールするのです。
『神の意識を、神の心を我が心として』。それを御言葉(みことば)といいます。言葉をエネルギーに変換した、その積極的な言葉遣いは神の御心です。消極的な言葉遣いは悪魔の言葉です。悪魔からの使いです。
「私は病気だ」という言葉は神にはありません。神の心にはありません。悪魔の心にしか存在しないのです。それは魔の心です。神の心は積極的、魔の心は消極的であるという事を忘れてはなりません。
皆さん方が今、魔の心を多く持っているのか。神の心を多く持っているのか。それによって皆さん方の運命が違って来るのです。
しかし、そういう心を今、瞬間的に使うだけではなくて、常日頃からそういうエネルギーを想っている事です。
「私と神は一体である。神の全ては私のものであり、私のものは神のものである」と。
〈知恵も、力も、愛も、全て私のものとなってそこにある〉と想う事です。四六時中想うことです。そうした時、皆さん方は四六時中、神の中で生きています。それは素晴らしいことなのです。
これが事実である事が、いくらでも証明できる様になります。
例えば「水を飲んで病気を治す」「水を飲ませて病気を治す」というその事は、〈この水に宇宙エネルギーが充満している〉という想い、
想念を起こす事によって、事実その水に宇宙エネルギーが集中されて癒しの水となるのです。
これを飲む人は物凄いエネルギーに満たされて、そのお陰で病気が癒されるのです。皆さん方が四六時中、神の中で生きておれば、それは事実において出来るのです。
神の力には私達の自我では及びません。及ぶ事が出来ないのです。ですから、神の力というものを皆さん方は半信半疑でいるのです。
癒す力も全てあなたに備わっています。特別な人間というのはありません。神に素直に行っているか、行っていないかだけなのです。
人の病気は「はい、あなたは治りました」と、言葉だけで癒せます。
「治りました」という瞬間に、その人が癒されるのです。それがイエス様の癒しであったのです。イエス様は大病人でも癒されました。
その事は、イエス様が完全なる神の心と、ご自分の心が一体化なさっていたからです。ですから、イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。
『父なる神と私は常に一体である』
父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。
ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。
実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。
それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
〈ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。
それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い、そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 53
- Date
- 2018.04.02 Mon
ロシア型ピラミッドで災害減少♪穀物倍増・病気も治る活性水に変化・奇跡のロシア政府のピラミッド話♪治癒超能力
ロシア政府の黄金比ピラミッド話 ピラミッドパワーを真剣に研究したロシア政府が縦長の黄金比ピラミッドを沢山作ったそうなのですが、その造ったピラミッドの効果で周りの地域に様々な素晴らしい成果があったそうなのです。 例えば、穀物が400%収穫量に増えたり、囚人の精神状態が格段に良くなったり、水が凍らなかったり、ピラミッドの中に水を入れておくと病気が治る活性水になったり、災害が減少したりと、信じられないような驚きの成果が発見・確認されたというお話をご紹介させて頂きます。 下のリンク記事ピラミッド・パワーの謎5にそのロシア製ピラミッドの寸法図がありますので、ご自身で作成されてもいいかもしれませんね。 私も近い内に一度大型ダンボールで制作してみようかと思っております♪ ピラミッドの知られざる神秘のパワーに脱帽しまして、これは是非ご紹介せねばと思いながらも、知花先生に夢中だったりして(笑)、中々ご紹介できずにおりました。それではリンク先で驚愕の内容をご観覧して見てねッ!♪ 1、(ピラミッド内部で)免疫力が向上した(白血球が増加した)。 2、(ピラミッド内部で)細胞の再生に向上が見られた。 3、毒薬を注入された実験用のネズミが、研究室では60%の死亡率だったのに対し、ピラミッド内部ではたったの6%だった。毒、病気、がんを癒す効果もある。 4、ピラミッド内部に1日~5日保存された種は、発芽率が30%~100%上昇、生産率は400%上昇した。 5、ロシア・セリゲル湖に建てられたピラミッドの上空にあるオゾン層に改善が見られた。 6、ピラミッド付近では地震活動が弱まった。 7、ピラミッド付近では異常気象が減少した。 8、ロシア南部(バシコルトスタン共和国)に建設されたピラミッドは、当地で産出される石油に良い影響を与えている。グビキン石油・ガス大学の調査によると、粘性が30%も低下し、産出量は増加していたという。 9、ピラミッドのエネルギーを注入した花崗岩を刑務所の建物に使用したところ、囚人5000人の暴力性が著しく減少し、行動に改善が見られた。アルコール中毒や薬物中毒の患者も回復した。 10、ウィルス感染、バクテリア感染の際、細胞の生存数が増えた。 11、ピラミッド内部で、放射性物質の放射能レベルが低下した。 12、ピラミッドの頂点では電流が発生しており、バッテリーも自動的に充電された。 13、物理学者らの調査により、ピラミッド内部では、超伝導の転移温度、半導体やナノ炭素の性質が変化することが分かった。 14、ピラミッド内部では、水が摂氏マイナス40度でも凍らない。ただし、衝撃を加えると即座に凍結した。 自然堂様の超絶に☆素晴らしい記事はこちら♪ ピラミッド・パワーの謎1⇐クリックで見れます♪ ピラミッド・パワーの謎2⇐クリックで見れます♪ ピラミッド・パワーの謎3⇐クリックで見れます♪ ピラミッド・パワーの謎4⇐クリックで見れます♪ ピラミッド・パワーの謎5⇐クリックで見れます♪ ダンボールで作成した「黄金比ピラミッド」体験効能記です♪ ダンボールで「黄金比ピラミッド」を作る方法まで詳しく記載しております♪ |
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪ 身長を伸ばす記事も追記してみました♪ |
- No
- 54
- Date
- 2018.04.01 Sun
イエス様とお釈迦様の最高の絶頂のお悟り♪私達は神の中にいると同時に神は私達の中にいます♪宇宙即我♪知花敏彦師
人間はなぜ神か 創造者と被造物 皆さん方があの世に帰った時、皆さん方は何を問われると思いますか。 神は「あなたは私に何をしてきたか」と言われるのです。 「隣人に何をして来たか」と言われるのです。 隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です。 ですから、「あなたは、わたしを憎んで来ましたね。私に嫉妬しましたね。私を貶しましたね。私の悪口を言いましたね」と言われます。 あなた方がそのまま、罪、汚れのままで周囲の人を憎んでいたならば、謗(そし)っていたならば、怒っていたならば、裁いていたならば、そのように問われると思います。 悟っている人ならば、内界に還る人ならば、この形体に捉われずに、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観るのです。 皆さん方がこの世に生を持っているのは、一つのものになるためなのです。皆さんの心には分離と差別があります。一つになっていないのです。 そして『一つの存在である』と悟る事が一番大きな悟りです。 これを「大悟」といいます。あなたの中の生命も、私の中の生命も、隣人の中の生命も一つの生命、一つの生命しか存在しないのです。 この世に肉体を持っている者だけではありません。先にあの世に還った方々、肉体形体から離れた方々も一つの生命であるのです。 同じ生命です。あなたの命、私の命というのは何処にもありません。その事を皆さん方は非常に理解に苦しんでいるのです。 命は分離しているものではない。どうでしょうか。分離していると思いますか。今ならお分かりだと思います。 この全宇宙というものは、一つの生命にあるのです。この事を「大生命」といいます。この大生命の中に、大生命という存在の中に、個別化されたその形体というものがあるだけです。いくつも形体があるわけです。 そして、皆さん方の生命はこの大生命と一体です。この大生命から離れているものは一つも存在しない事を、皆さん方によくご理解頂きたいのです。 幾つもあるように見えますが、皆さん方はその形体というものを見るから、「私の命だ、あなたの命だ」というのです。 その大生命という一つの中に、皆さん方の生命があるのです。外側を見るから、目が眩んで私達は迷うのです。内を観れば一つである事が分かるのです。 「内観しなさい。神の国は汝の内にあり、外に神を求むるなかれ」というのは、その事を言うのです。 私達は見えるものによって無知にされています。例えば、私があなた達に「あなたと私は一つですよ」と言った時、あなた方は怒るはずです。 「こんな汚い顔の人と私は一体ではない」というはずです。 入れ物が違うだけで、形体が違うだけで、中身はあなたのものも私のものも、みんな同一のものです。 世の中に、色々な着物があるようなものです。しかし、内なるものは同一のもので、皆さん方は神の分け御霊であるのです。分生命でもあるのです。 その分生命とは、このように個別化されているが故に、個別化された生命の事を「分生命」というのです。しかし、個別化と分割とは意味が違います。 形体の外にも神はまします。と同時に、内にも神はまします。 それは「私達は神の中にいると同時に、神は私達の中にいます」という事です。これがイエス様のお悟りであり、お釈迦様のお悟りであったのです。 皆さん方も、最高の絶頂の悟りが得られるのです。しかし、一つの問題があります。皆さん方がここで神理の話を聞くには聞きます。 ある人は石のように硬い土に私の神理を聞いた種を蒔こうとします。私の神理を聞いて「ああ、素晴らしい」と一時的には涙を流して喜びます。 しかし、せっかく発芽した種も、石のように硬い土のため根を張る事が出来ず、それは枯れ果てて行きます。 そして、またある人は雑草の中に種を落とします。神理の話を聞いたものの周囲はみんな雑草のため、その雑草の影響を受けて同じ様な雑草になってしまいます。それらの人達は、せっかくの神理の悟りというものを実らす事が出来ないのです。 ある人は、良き土地に深く根を下ろします。これはその人の信念で、信仰で、私の説く神理を、心の奥底に根強く実らす事のできる人です。そういう人は実りのある魂となります。 ここで私の話を聞いて、涙を流して感動をしたものの、私の元を去って行く人が一杯いるのです。 これは石のように硬い土に植えられた神理で、一時的に感動はしたのですが根付く事無く枯れてしまい、それは何の役には立ちません。 あるいは、神理はよく理解したつもりでいたけれど、家族達や周囲の人達がみんな迷い人であるために、そこで身動きできず、そのまま雑草と共に枯れていってしまう。 これは雑草の中に蒔かれた霊的種といって、この事を、イエス様は麦の種蒔きの例えで言っておられます。 私のこの話を皆さん形は聞いていますが、どれだけの人が根を下ろして、それを我がものとするか、自分のものとしてそれを生かすか。 生かすも殺すも自分次第です。良き土地に自分の信仰を植えているか。石のように固い土地に植えているか。 道端に植えて黒い鳥(カラス)に食べられてしまうか、雑草の中に植えて雑草の影響を受けているのか。今、皆さん方のその道は非常に険しいものですが、自らそれを開かなくてはならないのです。 如何でしょうか。もう大体、神についてご理解頂けたでしょうか。今までのように、世の中で説かれている神々と、今聞いている神々と、どちらが正しいと思いますか。 神棚や祭壇の中に神がいるというのは、幼稚であるか、白痴であるか、何かであるはずです。無知なるものは、神に対して罪するものなのです。 神は私達の手よりも足よりも身近に、現実的に私達の中で働いておられるのです。その神を外に求めています。何百万もかけて神棚を作り、その中に神がおると一生懸命拝んでいる人がいます。可哀相な存在です。 これもみんな無知の仕業です。その形体に、被造物に目が眩(くら)み神を知らない者です。ですから、今まで自分が信じて来たものを、全て放棄しなければなりません。 それには大変な勇気を必要とします。 本物を知るためには、これまでの偽物を放棄しなければならないからです。 神のみが生きておられます。神のみが生きておられるのであって、人間が生きているのではありません。それをよく理解して下さい。皆さん方は神以外に何かがあると思っているのです。何もないのです。 神は無限です。神の他になにかがあるならば、神は無限にはなりません。 無限の中に別のものが存在すると思いますか。無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。 無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。神の他に何かがあるというならば、それは人間の心の迷いが造り出したものなのです。それを「不完全なもの」というのです。 私達はまだそういう神理的なものに、目覚めていないのです。それに目覚めなくてはならないのです。 〈な~るほど。よく考えてみると神からの分離はありえない。なぜなら神は無限であるといわれるし、その無限の中に私達は存在するのだ。 その事が私達は神の中に生きているという事になる。そうすると神のみが生きているという事になるのだ〉と。 神の他には何も存在しない。そのことを神一元といいます。光一元ともいいます。 お釈迦様は「宇宙即我」と言われました。宇宙即我というのは「宇宙は私であった」という事です。なぜならば、大生命という宇宙の中にあなたは存在するのです。そして、全体としてのあなたであるのです。 「全体はあなたであり、あなたは全体の中で生きている」。その全体が大宇宙であるのです。その宇宙はあなたであると同時に、あなたは宇宙の中の存在であり、その中の生命であるのです。 ですから、皆さん方も「宇宙即我」なのです。 何処を見ても、何を見ても神しかありません。神は天をお造りになり、地球をお造りになり、その中に住む動物、鉱物、植物、そして人間をお造りになったのです。人間も動物、鉱物、植物の全て、あらゆるものは神に被造物に過ぎません。その中に、神ご自身が命として宿っておられるのです。 ですから皆さん方は、やたらに生き物を殺せないはずです。殺してはならないのです。それは神の宮を破壊することになります。 命は破壊する事が出来ません。しかし、被造物である宮という、この世に現れる使命を果たさんがための形体は、崩す事が出来るのです。 イエス様は十字架にかけられても、この形体は破壊できても、命は破壊出来ませんでした。すぐ復活されたのです。3日で甦られたのです。 イエス様は偉大なる方でしたので、肉体までも復活して甦られたのです。イエス様が如何に偉大なる人物であるかという事は、創造者と被造物の関係を、すべてお悟りになられた方であった事で分かるのです。 肉体を持った人間だけが、この大生命の中にいるのではありません。肉体を離れた皆さん方の身内の方は、幽体をまとったという形体だけが違うのであって、一つの大生命の中におられるのです。 だから身内の方々は「私は肉体を離れても、もっともっと身近にあなたと共にいるのですよ」と言われるのです。 なぜならば、この三次元にいるときには、どうしても三次元という肉体の束縛を受け、飛行機に乗らなくてはならない、自動車に乗らなくてはならないのですが、 しかし、この世を去った方々は、飛行機も乗り物も何も必要としません。ご自分が行きたいと思った所に、即、いつでも、何処でも、自由に行くことが出来るのです。 そして皆さん方は、その方々からいつでもご守護、ご加護を頂けます。ご指導頂けるのです。だから「私は生きていた時よりも、もっと身近に皆さん方のそばにいます」と言われるのです。 イエス様は二千年前にお亡くなりになりましたが、現実にイエス様の御名(みな)を語れば、即、そこに救いとして現れると言われているはずです。 「キリストの御名において」と唱えておられるはずです。皆さん方はいつでも、イエス様のキリストの救いを受けることが出来るのです。あるいは、お釈迦様を念ずる者は、色々と仏陀のご加護を受ける事が出来るのです。 しかし、皆さん方に一番大事なことは、その創造者と被造物との関係をよく理解する事です。悟ることです。 必ず、その造られたものの中には、神がおられる事を絶対に忘れてはなりません。花一輪の中にも、小鳥一羽の中にも、どんなものの中にも、その形体を神が創造されて、その形体の中に神が宿っておられるのです。その事を、皆さん形に強く申し上げたいのです。 これを本当に、心からそれを信じ、心から信仰出来た時、皆さん方はどういう気持になると思いますか。これこそ天界というものです。 自分の心の中に邪気が残ってない。愛しか残っていない。慈悲しか残っていない。これを「仏の心」というのです。「神の心」というのです。 その時は、もうすでに皆さん方は久遠の生命を得ています。生死をさまよう事はありません。 外界というものに、束縛されてはならないのです。この世の制限から、束縛から、皆さん方は開放されなくてはなりません。その無知が、そこに捉らわれる無知が、制約を受け束縛を受けるのです。 皆さん方を苦しめているのは、この制約、束縛なのです。これを主体性として捉えることによって、苦しみを得ているのです。 主人であり、支配者である本物は内におられます。偽物の写しである外なる形を、私達は偽我といっているのです。偽物の我、実相の我、神我そのものの我。その区別が皆さん方には出来ていないのです。 これが理解できた時、「もう何ものも私を束縛する事はない。それは私の中にまします神が全ての支配者であった。この支配者は内なる神の現れであられた」と、自覚できる様になるのです。 しかし皆さん方は、まだまだ古い習慣性を持っていますので、なかなかそこを理解しようとはしないのです。 その自覚を瞑想を通して〈この私の肉体は神がお造りになって、この私の中に神が宿っていらっしゃるのだ。 イエス様が「人間は生ける神の宮である」と言われたのはその意味だったんだ〉と悟る事が出来た時、もう憎むものがない。怒るものがない。喧嘩をするものがない。それを理解していない間は、皆さん方はまだまだ生死の苦しい、浮き沈みの激しい奴隷化を、束縛を受けています。 これに捉われている人間は、生きているようで死人です。だから、私は「この世の中で本質的に生きている人間を見た事がない」というのは、その意味なのです。 インドのサイババさんは、こういう事の形体の全てをお悟りになり、その法則をご理解されていますので、神の化身と言われているのです。 「自分は神の化身である」と、ご自身が言っておられるのです。 あなた方もそれが分かれば、「私も神の現れであった」「神の化身であった」というはずです。そうじゃありませんか。 本質的において、皆さん方とサイババさんと何が変わりますか。それを知っているか、知っていないかだけなのです。 皆さん方も神の化身です。ただ〈化身ではない〉と思っているのは、外なる形体に目が眩まされているだけなのです。 外なるものと、内なるものとの理解が出来るようになりますと、皆さん方はもう救われています。このことは非常に大切な事なのですが、皆さん方は、今ここで解放されるか、そのままその外なるものの被造物に捉われて、それの奴隷下に置かれるか。束縛下に置かれるか。ということです。 支配者は内にまします。しかし、私達は、今、外なるものの形の支配下に置かれているのです。これを物質の奴隷化といい、物質の奴隷にされているのです。 この世の如何なるものも、私を妨げる事は出来ません。 「私はこの世の妨げを受けない」という事は、この被造物である形体は、この創造主が全てを支配し、創造主が神である事を私は知っているからです。 その創造主が、全知全能の神が、自らの中にも宿っておられる事も私は知っているからです。だから、私はこの世のものの支配者なのです。この世を克服した者なのです。 イエス様もそう言われたのです。しかし、皆さん方はまだまだ克服していません。形や姿に捉われています。この世の敗北者です。 真の勇者というのは、被造物をすべて自分の内面(神我)によって支配させた時、形あるものの価値観というものを知っています。朽ち果てるものである事も知っています。 色褪せるものであり、変化してやまないものがこの形体なのです。だから、皆さん方の形体は、どんなにあなたが若くありたいと思っても年をとって行きます。その年を取っていく我を、皆さんは見つめているのです。 あなたに年を取らない我がいるのです。これを何かといいますと、創造者であられるあなた自身の命そのものの事です。 本質においては年を取りません。あなたの着物が古びていくようなものです。あなた方は、自分の着けている着物が古くなったら「私は年を取った」 と言いますが、着物が年を取ったのであって、あなた自身が年を取ったのではありません。着物が古くなったのであって、あなた自身が古くなったのではないのです。 肉体というものは、丁度(ちょうど)、着物が古くなると脱ぎ捨てる様なものです。肉体が着物ですから、着物は永遠ではありません。 肉体をいう衣装、即ち、神現す衣装も、古くなると脱ぎ捨てるのです。命という中身が永遠なのです。 皆さん方には「久遠の生命」をよく理解して頂きたいのです。一番の問題は、創造者と被造物の関係をよく理解する事です。信念において、本当に心の底から理解した時、もうあなたはこの世で悪口を言わないはずです。 言っていたならば迷いです。分かっていないからです。悟っていないからです。 皆さん方が周囲の人の悪口を言うならば、あなたはまだまだ本質的には無知です。自分自身が死人であり、無知であり、迷いである事を知らなくてはなりません。 よくよく考えてみて下さい。これは一度聞くだけでは分かりませんので、常に瞑想(内観・全てに神を観るを)し、軽く目を閉じて、 〈この肉体は神がお造りになって、神がここに中に宿っておられる。そうなれば人様はみんなそう(神・大愛)なんだ。周囲の者、生きとし生けるものみんなそう(神)なんだ〉 と分かるようになった時、皆さん方はものを正しく観ている事になるのです。これが八正道の「正しく観る」「正しく思う」「正しく語る」というものです。 今、皆さんの五感の目というものは、正しくものを観ていないのです。形体しか見ないからです。皆さんは中身を観る事は出来ません。 外なる見るという事は、この「見る」です。内なるものは「観ずる」事です。それがこの「観る」というものです。「見る」と「観る」とでは全然違います。 皆さん方は「みる」といえば形を見るものと思っています。「観る」というのは「観ずる」事ですから、この「見る」というのは形体を見て、迷いの五感で見ているのです。 しかし、これはあなた方の心の目で観るのです。皆さんはよく、みる、みる、と言いますが、この「見る」事だと思っている人が多いのです。 「見る」と「観る」というように、「みる」というものが二通りあります。 『観る』これを心眼、あるいは、意識の目といいます。軽く目を閉じて何かを想うと、その想ったものが観えて来ませんか。心の目で観えるはずです。 あるいは、宇宙を観る事も出来るのです。その観るがこれなのです。目を閉じていても観えるはずです。それは心が観ているのです。意識が観ているのです。 皆さん方は「みる」といったらすぐ形に捉われて、この見るを考えるのです。形を見ると思っているのです。それは大きな間違いです。そこをよく考えて頂きたいのです。 私達は目を閉じていても色々なものが観えます。心で想っている通りそれが観えます。例えば、昔どこか遠くに行った時の場所も観えます。遠く離れた人の顔も観えます。心で想ったものが観えるのです。 しかし、五感の目では、遠くの場所や遠く離れた人の顔は見る事は出来ません。目を閉じていても心の目はみんな観えるのです。だから、この五感の目は如何に近目であり、何も分からない無知の存在であるかが分かるのです。 心の目、意識の目は自由です。心の目で意識の目でものを観るならば、色々なものが観えるのです。そして、意識の目がそこ(大生命・大愛・神我)に向いた時、皆さん方は現実にそこに行って観ているのです。それがはっきり分かるようになります。 今は、皆さん方はそこまでいっていません。なぜならば、本物が、自分と創造主の関係さえ分かっていないからです。 皆さん方は目を閉じて瞑想をしている時、色々なものを観ているのです。その事についても、もう大体お分かりになったでしょう。 皆さん方に私が強く申し上げたいのは、神と造られたものとの関係です。その形あるものはみんな神が造られたものであって、我々人間が造ったものは何一つ無いという事です。 何度も申し上げていますが、働き手も神であるのです。皆さん方は自分が働いていると思っているのです。あなたが働けますか。あなた自らは一切[無]なのです。肉体は働かないのです。 働いているのは、あなたの内なる神があなたの中で働いているのです。生きているのも神のみが生きているのであって、働いているのも神のみが働いているのです。 私がこうして皆さんの前でお話ししているのも、私という知花が働いて話をしているのではありません。私の中に、働き手である神、生命そのものがあればこそ、私はこうして皆さんの前で働く事が出来るのです。 あなた自らは無です。あなた自らは何も成し得ることは出来ません。あなたに命という神の活動源がなければあなたは働けますか。あなたの働きは誰が働いていると思いますか。それがあなたの中の神です。 ですから、皆さん方は自分が仕事をしたとか、何かをしたとか思っていますがそれは錯覚です。あなたは自分では何も出来ないのです。でも、みんな出来ると思っているのです。そこに非常に問題があるのです。 もう一度申し上げます。あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは本当に現実的に仕事が出来ますか。しかし、皆さん方は出来ると思っています。それが問題なのです。 あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは現実の仕事が出来るでしょうか。その働き手が神なのです。その神が仕事をしているのです。 それが分かった時、皆さん方は無我の境地となります。 〈私は自らは無であって、私の中で神が働き給う。なるほど、中で働き給う働き手は神であったのだ〉と、この事が分かると謙虚になります。 もう威張らないのです。なぜなら威張るものがないのです。自らに威張れるでしょうか。自分が働いていないのに、「私がやった」というのは盗人です。謙虚な気持ちがないからです。 神を知らない人が威張るのです。自分が造ったものもなければ、自分がやったというものもないのです。みんな神が働いておられるのです。 そうなりますと、あなたは何を威張るのですか。あなたの中に神が働かなかったら、あなたは何が出来ますか。その働き手は神なのです。 今、世の中で威張っている人は、神を知らない、真の自分を知らない人です。神がどの様にして自分の中で生きておられるのか、働いておられるのかが分からないのです。いかに世の中が無知であるかが分かります。 今、如何に自分が無知であるか、実相において無知であるかが分かります。それはみんな形体を、その形である被造物を物差しとして考えているからです。だから、皆さん方は「私がやった。私が造った。私のものだ」というのです。 完全なる神を、皆さん方は蔑(ないがし)ろにしているからです。神をそっちのけにしています。 内なるものを皆さん方は自覚しておりません。内なるものこそが本物であって、外なるものはその道具にしか過ぎない、写しにしか過ぎないのです。 皆さん方の子供を造るのも神がお造りになるのであって、お母さんが子供を作るのではありません。お母さんが子供を造れたなら大変な事です。 お母さんが子供を造るのではない、お母さんの中に宿っている神が子供を造るのです。命が生命を造るのです。 それを「これは私の子供です。私が造って、私が産んだ子供です」というならば、それは無知であるという事です。 本物を観ていないのです。形でものを判断して、被造物でものを判断して、外なる目でものを見ているのです。それは大きな間違いです。 本物を観ることです。真の我(神我)を知ることです。それには、日常生活の中で本物の観方(みかた)を訓練しなくてはなりません。それを訓練して、いつも自分に言い聞かせるのです。 〈創造主が私の中におられて、私の肉体は被造物であって、その中に神はおられる〉と。 神がおられるのです。神が自分の中におられるのなら、人様の中にも神はおられるのです。だから人様を神とみなし、見えるものの中に、全て神が宿っている事を知るようになったら、感謝と、喜びと、分かち合いと、助け合いになるのです。 今、助け合えないのはなぜでしょうか。それは形に目が眩んでしまっているからです。ご理解いただけたでしょうか。 今日から皆さんの心は晴れると思います。清くなると思います。それは、憎むものがないからです。謗(そし)るものがないからです。怒るものがないからです。その対象物がないからです。怒りようがないのです。 それを知ったならば怒れますか。奪い合いも出来ません。なぜなら、人から奪う事は神から奪う事になります。 だから、人を嫉妬する事は神を嫉妬する事になるのです。 私がいつも言う「迷っている人間の言葉に迷わされてはならない。迷っている姿に迷わされてはならない」とは、その事なのです。 その彼等は本質から離れた迷い人であって、本来の姿を現しているのではないのです。 だから「闇の中にいて闇に染まらない我であれ」というのです。その闇に染まる人間というのは、雑草の中に生えている霊的種であるのです。 周囲が闇で、迷い人で、この創造物に目が眩み、形に目が眩んでいるものが自分の家族の中に多くいるとすると、あなたは雑草の中に蒔かれた種のようなものです。 だが、この影響を受けないように、力強く芽を吹き出す事が大切です。周囲が如何に迷い人で雑草であっても、その影響を受けない力強い根強い信仰が大切です。 家族の者が勉強している同士であれば、周囲に雑草がありませんから非常にやり易いことはやり易いものです。実りが大きいのです。 実を三十に付ける者、五十付ける者、八十付ける者、百付ける者、実り多きあなた方はその環境によっても十分影響を受ける事も分かります。 しかしたとえ家族の者が迷い人で雑草であったとしても、それを乗り切らなくてはならないのです。 これからは、皆さん方の目は、正しくものを観る事が出来ると思うのです。今までは正しくものを観ていなかった事に、反省出来るでしょうか。 〈無知の目で、五感の目でものを見ていたのだな。形でものを見ていたのだな。内面の心(全てに神を観る見方)でものを観ていなかったのだな〉という事が分かると思います。 正しく観る(全てに大愛を観る)ということは、五感の感化(外)にあるのではありません。正しく観る(神一元・愛一元・光一元)というのは、私達の神我の中にあるのです。 この神理を皆さん方に見せる事は出来ません。神理は皆さん方が悟るしかないのです。感じるしかないのです。それ以外に方法はありません。 是非、1日も早く皆さん方が、正しくものを観たり感じたりする事が出来ます事を、お祈り致します。 FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪ 身長を伸ばす記事も追記してみました♪ |














