date :2018年03月
- 2018.03.28(水)
- 宇宙の中心は地球人類全ての中にある♪祈りの極意♪未来永劫元々愛♪愛の剣♪自分と神とは常に一体♪知花敏彦師
- 2018.03.27(火)
- 宇宙には愛は一つ♪人間の本質は即大愛♪我は大愛なり♪全ての根源は神♪悟り・神我♪知花敏彦師♪
- 2018.03.01(木)
- 光に満たされると病が消滅♪スムーズに極楽に行く為の心の準備♪正しい供養の心構え♪長尾弘先生♪高橋信次師♪
- No
- 55
- Date
- 2018.03.30 Fri
現代の聖書♪悟りの程度で神の力が発現♪根源は一つで全てが神♪イエス様の講釈♪神が生きて神が呼吸♪知花敏彦師♪
愛の実践 神理の実践
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まえがき 井戸敦
この初めの文章は、イエス様から神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達として、文中にある「この同胞」と称されている著書を用いられ、イエス様が直接語られた講話の一部を引用したものです
…………一つの心から他の心、一つの意識から他の意識への直接交感通信というものがあります。離れた所から甲が乙に話しているのと聞くために、あなた達の世界で用いている仕掛けと、ちょうど同じ様な直接の通信方法があります。
此処でも同じ事です。上(霊界)にある通りに、下(現界)でもその通りになります。一つの心から他の心への直接交感通信があるのです。そういう仕事にたずさわる為に訓練された心は、私の与える想念を表現するのです。
この同胞(きょうだい)の意識がはかなき感官を超え、肉体の感官を超えて、内界の意識にまで高揚されているのに注目されるがよろしいでしょう。
彼の意識は私の意識に繋がれ、それから脳や肉体を音響版の様に使って、彼の肉体に移し戻されるのです。この過程が進行している間中、
彼は事の推移一切を意識していますが、私の神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達が終わると、それまでの出来事一切についての意識を失い、彼の背後に仕掛けられたテープ・レコーダーで改めて聞き直して、初めて分かるようになるのです。
もし、この同胞が瞑想し、静かに坐って彼自身の意識の内界に再び入るならば、一切がそこに刻印されているのを発見するでしょう。
そして、私が伝えたものを全部再現出来るのです。この連続講話の後、彼は再び今以上に真理示顕の大いなる器となるのですが、それはこのためなのです。
彼はこの目的のために、ヒマラヤ山中において訓練を受けて来ました。時としては七日間、またそれ以上に飲食さえせず、より高き波動が受けられるようにまで、完全なる瞑想に入ったりしたのです。そのお陰で、我々は彼を今日まで世界中で用いて来たし、今後も世界各地で用いるでありましょう。
あなた達はそういう事を知るべきなのです。その故に、私はこの話をしているのです。
何時か我々は彼をあなた達の視界から、我々の御霊(みたま)の中に世界に連れ去るでありましょう。
そして彼は其処(そこ)から目には見えない姿のままで、あなた達の中で働くことでしょう。
我々は今日まで彼を若々しくして、強く、逞しく生かしてきたし、今後も彼が地上に居る限りそうし続けるでしょう。
M・マクドナルドペイン著『心身の神癒』-主、再び語り給う-より
『全ての中に神を観る時が来るであろう』と、イエス様の二千年前の予言が、今というこのときに、本書著者[知花敏彦師]を通じて成されようとしています。
そのために「知花敏彦師]は、天の使命を果たされるるべく、父なる神の御使い(大天使)として、キリストの再臨として、神の道を示しに、そして愛の火を灯しに、この世に出てこられたのです。
イエス様は現在[知花敏彦師]を用いられ、神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達にて多くお講話をされておられます。
愛は天と地の架け橋Ⅰ⇐リンク先でイエス様のご講話が見れます♪
その中でも昭和63年8月に行われた沖縄の講話『愛は天と地の懸け橋』が、平成七年に出版化され、広く世の人々に愛読されています事は、すでにご承知の皆さん方も多いと思います。
そして清里で毎年行われる12月25日を中心とした[クリスマス・セミナー]の時などにも、イエス様は[知花敏彦師]を通じ何度も講話をされておられるのです。
その時(私達の目では直接見る事が出来ませんが)、イエス様は光を超えたお姿で、一緒にお見えになられた大勢の天使方と共に、セミナー参加者の間を回られ、愛と癒しのエネルギーをお与え下さっているのです。
この様にイエス様と共に知花師は、世の中に神の道(宇宙神理)を、愛の道をお示しになっておられるのです。
今ここで、イエス様が[知花敏彦師]の事を語られるならば
[私の思想をあなた達に伝える手段として、今私が用いているこの同胞(知花師)をあなた達がどんなに愛しておられることか、
それが私にはよく分かるのです。私もあなた達と同じ様に彼を心から愛しているからです」と、その様に申されるはずです。
本書は、その著者[知花師]が御霊(みたま)より語られた御言葉を文字化したものです。その神理が誰にでも分かり、誰にでも理解できるようにと解き明かされているのです。
しかし、今までのそれらの類とする書は、専門用語が多く用いられており、それを極めなければ理解しにくいものでした。
理解の出来ない専門用語とは、一般的に馴染みのない文章が多く用いられておればよいというものでもありません。
どんなに神理が説き明かされているものでも、それが読めなければ、理解できなければ何にもならないのです。宝の持ち腐れにしかなりません。
「神理の言葉や文字は、大いなる値の真珠を内に秘めている貝の殻にすぎない」というイエス様の御言葉があります。
書物や文字などはそれ自体としては何の価値もないという事を申されているのですが、しかし、自分が神理を悟ろうとする手段として、その目的を持ってこの書を用いた時、初めてそれに価値が生ずるのです。
その文字の背後にある神の力が、悟りの程度によって私達の中で働くようになるのです。
従って本書を読まれる時、本書にある言葉を用いて、知恵と力を高める事が出来るのです。そしてその知恵と力は自分自身を救うものになり、ひいてはそれが世を救う事につながって行くのです。
それだけに、これらの書は誰読んでも分り易く、理解し易いように説き明かされていなければならないのです。
ですから、著書[知花敏彦師]は、親鳥が雛(ひな)を羽の下に抱きかかえるように、親鳥が消化し易くしてから雛に餌を与えるように、その愛の想いで、優しく、分かり易く、丁寧に、ある時は強烈に、
しかしそれは蜜より甘く、全ての人が全ての中に神を観ることが出来るようにと話されているのです。その講話はもうすでに、八千話以上を超えた膨大なものになっています。
いつか著者は「皆さん方に神理を説明する事は、盲目の人に色を説明しようとする事に似ています」と話された事がありました。
この世で何人たりとも神を見る事は出来ません。その目では見る事の出来ない神を、著者は繰り返し説明する事によって、神理をこの世の人々に与えて下さっているのです。
そしてこの神理をこれまでに幾度となく、今では八千話以上に及んで、繰り返し繰り返し解き明かして来られたため、世の人々はようやくそれを理解出来るようになって来たのです。
その事を、イエス様は「神理は繰り返しによってのみ、心の中に根付き、成長し、成熟するものです」と申されています。
「世の人々に神理を理解して頂くには多くの繰り返しが必要なのです」と、著者はそれらの言葉を注意深く、全ての人が学習できるようにと、
それらの言葉によってその神髄(しんずい)が分かってもられるようにと語られておられるのです。
「神理を語るには、神理を知っていない限り、本物の自分を知っていない限り、本物の神理を語ることは出来ないのです」と、著者は自らをそう語っておられます。
『外なるものは裡(うち)なるものと成り、裡(うち)なるものは外なるものと成る』と、それを成し得ておられる本物の指導者と、それを成し得る事の出来ない偽者の指導者との違いはそこにあると思います。
ですから、静かな時間にこれを読んで吸収し〈自分はなぜ神なのか〉〈自分はなぜ愛なのか〉と瞑想し、その答えを内に求め、出てきた答えを自分のものとした時に、神理を自分のものとする事が出来るのです。
そして、それらを肉体の五官を超えて高める事により、今までに持ったことのない力と悟りが得られる様になるのです。
その知花師より語られる神の御言葉を、完全なる神理を文字に化し給うことを『文化』というのではないかと。
その文字化した、完全無欠なる神理こそが光明を放ち給う事を『文明』というのではないかと。
その完全なる神理の値を秘めた光明なる書こそが、人類を救済し給う事を『経済』というのではないかと。
文化、文明、経済と、それらのすべてを兼ね備えた書こそが、本物の『聖なる書』というのではないかと。
それが故に、この書ことが「現代の聖書」だと言えるのではないかと考えています。
冒頭に、イエス様の講話の一部を引用させて頂きました。
その中でイエス様は「あなた達はそういう事を知るべきである。その故に私はこの話をしているのである」と申されておりますように、本書著者[知花敏彦師]はどのような方であるか。
どのような目的を持たれてこの世に存在されている方であるか。
その事をより多くの人々に知って頂きたいが為にイエス様の講話を用いさせて戴いたのです。
これを知ると知らないとでは、この書を読もうとする心構えが違ってくると思います。つまり、自分の心の扉を開けて読む事が出来るか出来ないか。
神理を汲み取る心の器を前に出す事が出来るか出来ないか。というように、ただ単に興味本位に読まれるものではなくて、そこに著者の御本性を知って頂きたいという願いがあるのです。
そして今というこの時こそ[知花敏彦師]の御本性(ごほんせい)をお伝えする事の最も重要な時期であると考え、どうしてもこの事実を世の人々にお伝えしたいという、その強い想いの中で、本書の編集に携(たずさ)わせて戴きました。
「あなた達が神に一歩近付けば、神はあなた達に百歩近付いて下さるであろう」という御言葉の如く、私達が神に近付くならば、著者はいたくお喜びになり私達に百歩近付いて下さるのです。
それが本書著者[知花敏彦師]の御本性であられるのです。どうかそれらの意味を御理解の上、本書の内容をご自分のものにすべくお読み下いますならば、編者としましてもこの上もない喜びに存じます。
人間はなぜ神か
創造者と被造物
創造者とは神のことです。その神が天と地を創造されました。そして、この地上界に色々の形体、形あるものをお造りになられました。
神の事を創造主ともいいます。神は唯一無二の造り主です。そして私達の造り主は神です。造り主が神であるという事は、私達の親が神であるという事になります。
色々な目に見える形体、創造物で、人間が造ったものは何一つありません。しかし人間は、その形体である創造物に目が眩んでしまって、本質的な神を見失っているのです。
今、ほとんどの人は、物質の奴隷化といって、その形体だけは認識していますが、それをお造りになった方はどなたであるか、という事を知らないのです。そのために、私達は神から遠ざかっているのです。
この私、知花という肉体創造物があります。その創造物の中に、必ず神ご自身の命、神ご自身が宿っておられるのです。
そうなると、肉体という形体が私達なのか、中身が私達なのかということです。ですから、今、我を忘れているのです。
私達、真の我というのは、外なるものではなくて内なるものですが、みんな外なるものを見て、評価して、判断して、日常生活をしているのです。
真の我の世界の事を内界、神の世界といい、この世の世界の事を外界といいます。今、人間というものは、殆ど外を生きていて、内には生きていないのです。
皆さん方は「あなたは何ですか」と問われた時、「自分は人間である」と答えます。全ての生きとし生けるものの中に、神ご自身が生きている事を忘れているのです。
人間は、内の事はあまり分かっておらず、外(自我・分離意識)だけに生きて、外側の形体に目が眩んでしまっているのです。それが人間の対立です。憎しみです。怒りです。それは分離と差別です。形体はみんな形が違います。中身を観なくて、形で評価してしまっているのです。
知花という入れ物があり、皆さん方という入れ物があります。形態が違うだけで、中身は、根源は一つで神(大愛・大生命)であるのです。
その創造者の命を、分霊、分魂(ぶんこん)、あるいは、分け御霊(みたま)というのを、皆さん方はみんな持っているのです。神そのもの、力と知恵が内蔵されているのです。
しかし、皆さん方は外に生きるがために、無知と迷いに生きているのです。
この世のことを、この外界のことを「生死の世界」といいます。
ここに《人間は死ぬものだ》という迷いがあるのです。私達は肉体だ人間だといって、真の自分を知らない間は、死の世界に生きているのです。
この三次元というのは生死の世界です。内界という神界、神の世界は久遠(くおん)の生命のことです。久遠の生命と得るという事は、自分の常在である常にあるもの、自分の本質なるもの、創造者と被造物との関係を知り、それを自覚している人は、久遠の生命を得て、内界に生きています。
しかし、世の人々は外に生きて、内なる本質的には死んでいるのです。世の中には、死人がゴロゴロしています。その意味がお分かりでしょうか。
死人なのです。みんな死を信じています。死ぬと思っているのです。これは、私達の無知、迷いからくるもので、被造物であるものに、形体でものを判断している無知から生じています。
この血や肉というのは、神によって造られたものですが、色褪せるものであり、朽ち果てるものです。
しかし、私達の内なるものは久遠なるものなのに、自分が久遠なるものなのに、なぜ自分が久遠の存在で本質的なものであることを認めないで、
外なる影を我だと思っているのでしょうか。この被造物の形体を、我といっている事を自我というのです。
我は創造者なり。我は生命なり。我は神なり。と、皆さん方の中に真実なる我、神我そのものが実在しています。
『神我』これを[キリスト]と仮名付けします。あるいは[仏陀]とも仮名付けします。これが皆さん方の本質であり、真実のあなた方なのです。
神我は内なるものに存在して、外なるものはその現れにしか過ぎません。外なるものは着物のようなもの、衣装のようなものですが、その衣装に目が眩んでいるのです。
その衣装が破けて、その中から創造主が離れて行く事を「死」というのです。被造物というのは、この三次元に現れるための衣装に過ぎないのです。ですから、この世の形体だけを見て判断している人は、死があると思っているのです。
死は存在いたしません。この内界というのは、久遠の生命で死のない存在です。ですから、今、皆さん方がこの世の死の世界から、命の世界、生命の世界に生まれ変わらなければならないのですが、
数世紀に渡って、何回も何回も、幽界と死の世界という三次元に行き来して、生死をさまよっているのです。輪廻転生事です。
これを迷える霊というのです。皆さん方は、今、現実に迷える霊です。死の世界に生きています。この三次元は死の世界です。
内界という生命の世界は、生の世界です。久遠なる世界へ、私達もいつかは還らければならないのです。これは、今世で皆さん方が悟った時に還れます。
この世に見えるもの全ては、神のお造りになったものであって、人間が造ったものは何一つ存在しない事を知るべきです。
目に見えないもの、見えるもの、その造られたものの中に神が存在するのです。だから、神は我が宮をご自身で造って、その中にご自身が住んでおられるのです。
人間の手作りのお宮や、仏閣や、神棚の中に、神はおられるのではありません。それらの中に神がおるという、それを偶像礼拝者というのです。これは神を知らないものの無知が、神を弄(もてあそ)んでいる姿です。
では、神は何処におられるのでしょうか。神は到る所におられるのです。神は自分で自分のお宮という被造物をお造りになり、その創造物の中に、ご自身を宿しておられるのです。
ですから「人間は生ける神の宮なり」と、私達は生きた神を宿しているのです。小鳥という形体を神がお造りになり、その中に生命という神を宿しているのです。
小鳥の中に神を観ることが出来ず、知ることが出来ず、自分自身の中に神を知る事が出来なければ、私達は真の我を知っていない、無知の存在であるという事です。
今、世の中は、神に対しての想いを、観念や概念によって間違えています。皆さん方よく考えて下さい。神様は何処におられるのでしょうか。神は到るところにおられるのです。
そうした時、自分自身の形体という肉体は、神がお造りになってその中に神が宿っておられると思った時、それが自覚できた時、自分の心はどのように変わるのでしょうか。
そして皆さん方は、周囲の人をどのように見ることが出来るでしょうか。それは形体を見なすのではなく、その内なるものが自覚出来るようになると思います。
そうした時、皆さん方は人が憎めるでしょうか。人を憎む事は、神を憎む事になるのです。人を謗(そし)る事は、神を謗る事になるのです。あるいは、被造物を汚す事は、神の宮を汚す事になるのです。
私達は、今、真の神というものを理解していないのです。それは世の迷いの指導者が、間違って神を説くようになったからです。
お仏壇の中に神がいると言ってみたり、神棚の中に神がいると言ってみたり、様々な形体を人間の無知が造り出し、そこに商売的な神を造り上げているのです。
どうでしょうか。皆さん方だったら、私の言っている本物の神と、今、宗教的に言っている神と、どちらの神が事実だと思いますか。
この地球は、誰によって造られていると思いますか。この地上界は、誰によって造られ、誰によって存続されていると思いますか。
いろいろな形体が、この世には造り出されています。ですから「神は一神であると同時に多身系である。一柱の神であると同時に多身である」と。
この事を「神は一(いつ)にして多身」というのです。それは一なる神が多なるものをお造りになり、そのお造りになった多なるものの中に、一なる神ご自身が宿っておられるという事です。
一つの神、一つの創造主しか存在しませんが、世の無知は「我々の神が」とか「あなた方の神だ」とか、真実の神を低い次元にまで引きずり下ろして、自分たちに都合の良い色々な神を造り、本物の神を分離させているのです。
神は一神です。無限なる大宇宙には、一つの神しか存在しません。一つの神。一つの生命。一つの意識。一つの存在しかないのです。
この大宇宙というものが、神の大神殿であり大霊界です。その中に地球が存在し、惑星が存在し、ありとあらゆる形体被造物が存在するのです。そのありとあらゆる創造物の中に、必ず、神ご自身が宿っておられるのです。
花一輪の中にも、神ご自身が宿っているのです。この一輪の花。神がその花という創造物をお造りになって、その花の命として、その中に神は宿っておられるのです。これを精霊と呼んでいます。
この花の中に生命が宿っています。花は生きています。これが生き神様です。神は死に神様ではありません。
色々な宗教家が考えている様な神ではありません。神は現実的に生きて、活動して、実際的です。そして、現実的であるのです。
この花に、こんな綺麗な色鮮やかなものを発揮しているのは、この花の中で働いているのは、誰でしょうか。それが神様なのです。
あなたの中で働いているのは誰でしょうか。それは神様です。あなた自身の中に生きているのは神であって、あなたが生きているのではありません。
しかし、あなた方は自分が生きていると思っています。神があなたの中で生きているのです。神があなたの中に生きていなかったら、あなたはこの世に存在する事は出来ないのです。
「私の中に神のみが生きておられ、神のみが働き給うておられるのである。常に私と神とは一体である」とは、その事を言うのです。
皆さん方は、今、真の神を知る事が出来ると思います。創造者であり創造主である神。そうすると、周囲を見てそこには何がありますか。神のみしか存在しないという事になります。
神以外に何かがありますか。神の創造物であるその形体の全て、被造物であるその肉体全て、ありてあらゆるものを神はお造りになっているのです。
そうしますと、その他に何がありますか。その事を「神のみの実在」というのです。
神の他には何も存在しないのです。何かがあるというのは、私達が造り出した迷いの存在で、幻想に過ぎないのです。皆さん方は神の中にいると同時に、皆さん方にも神がいるという事を、悟らなくてはなりません。
周囲はみんな神です。木の中にも木の精という神が生きています。岩の中にも岩の精という神が生きています。
その中で神が生きて神が息しているのです。そして皆さん方の中で息しているのは神であって、あなたではないのです。あなたが息していると思ったら大間違いです。そのあなたが〈私 私〉と思っている事を偽我というのです。
誰れ彼が生きているのではないのです。生きているのは、神のみが生きているのです。人間が生きているのではないのです。どうですか。人間が生きていますか。今までは自分が生きていると思っていたのです。
皆さん方の命というものは、一分一秒だって、この世で自らが伸ばすことは出来ないのです。どんなにあなたがもがこうが、どんなに医学が進もうが、あなたの命、運命というものは伸ばす事は出来ないのです。
あなたが神の宮から離れる日は、神のみが知っておられるのです。
人間の無知というものは、如何に伸ばそうと思っても、伸ばせるものではありません。しかし、人間は伸ばせるものだと思っていますので、それについて非常にもがきます。あれを食い、あれを飲み、何を食い、何を飲まんともがくのです。
皆さん方〈私は神(大愛・神我)である。私(自我・偽我)がいるのではない〉と想った時、あなたは死の恐怖から開放されます。
〈自分が生きているのではなくて、神が生きているのだ〉と想った時、皆さん方は「死にたくない」とか、「もっと生きたい」とか、そういう事を言うと思いますか。
死にたくても死ねない。生きたくても生きられない。これは創造主のみが、神のみが知っておられるからです。
私達の肉体を管理されているのも、創造主なる神なのです。
神がお造りになった肉体ですので、私達が自我で自分の肉体を働かさないで、この神の創造物である肉体を神に全託(ぜんたく)した時、皆さん方は健康になれるのです。
あなたが肉体を造ったのではありませんから、あなたの知恵では、到底、この肉体を管理する事は出来ないのです。
出来ないものを出来るともがいている姿。これが却(かえ)って、肉体をアンバランスにしています。恐怖と怒りと自我のために、私達の闕腋の循環をアンバランスにし、心臓に色々な動悸を与え、色々な食べ物を食べて、かえってこの肉体という神のお宮を、自らが破壊しているのです。
そのことを、イエス様は「何を悔い何を飲まんか思い煩(わずら)う事なかれ。それよりも命の方が大切であるからである」と言われたのです。
すべては神のご意志によって、神がお造りになったのです。皆さん方の肉体は、誰の創造物だと思いますか。あなたのお母さんでしょうか。
お母さんのお腹から出て来たものは、「血に属するもの」といって死に属するものです。そういう方々は死の世界に存在いたします。
命は神から来たものです。ですから、神に還るべきです。その事を、イエス様は「我は上から来たものである」と言われています。
多くの人々は、お母さんのお腹から出てきたものだと思っています。
命が何処から来たものであるか分からないのです。命が何であるかが分からないのです。命そのものが神なのです。
命そのものが神であるという理解と悟りを得たならば、皆さん方は死の恐怖、病気の恐怖、全ての恐怖から解放されるのです。ですから、創造者と被造物の関係を強く理解する必要があります。
そうした時、皆さん方の夫婦の関係も、非常に良くなります。この意味が分からないために、創造者と被造物の関係が分からないために、争ったり、憎んだり、そこに罪を犯しているのです。
その関係が分かれば、皆さん方は罪を犯さなくなります。罪を犯さなくなりますと、その罪に報いるものがないのです。その罪に報いるものがないという事は、皆さん方は苦しまなくてもよいという事です。
あなたの肉体は、神が造って、神が管理しています。どうでしょうか。あなたの肉体は、あなた自身が管理しているのですか。誰が管理していますか。それは神です。神が管理しておられるのです。
神ご自身が肉体形体をお造りになって、その中に命という神が宿って、この私達の肉体を管理して下さっているのは神なのです。
その肉体の中で目には見えませんが、私達には色々な神秘が内在しています。食べ物を食べると、血に変え、肉に変え、カルシウムを摂って骨に変え、栄養分を摂ったカスは排便として出し、また小便として流します。
との知恵と力が皆さんの中に内在されています。その神の力が内在しているのです。それが皆さんの『我が神』です。自分自身の神です。
それが自分自身の神(大生命・コスモ細胞・大愛)というのが『キリスト』です。『神我』というものです。
「本来の自分は神であった」という自覚、悟り、信仰というものを、皆さん方が持っていたならば、皆さん方は何を怖がりましょうか。誰を憎みましょうか。
この世の中に、憎める者が一人もいない(全ては自分・全ては神である)事を悟ったならば、あなたは人を憎めますか。
その事が分からないから憎んでいるのです。神との関係を、自分とその隣人との関係を知らないから、憎み合ったり、謗り合ったり、罪を犯すのです。
相手も神の現れです。神の現れですが、あなたがこの神と自分との関係、想像者と自分との関係を知らないために、悪を施しているのです。悪口を言ったり、憎んだりしている状態は、迷いの姿であって、悟りの姿ではないのです。
その迷いによって、本性、本質を知らないその言葉遣いや行動、これを見て、また自分もこれに捉われているのです。
皆さん方が悟ってしまえば、どんな悪口をいう人であろうが愛おしく思うはずです。〈この人は、創造者と被造物の関係を知らないで、その被造物なる肉体に目が眩んでしまって、外なる死人で可哀相な人なんだな〉と、愛を持って思ってあげればいいのです。
肉体形体に目が眩んでいる者は、その被造物に目が眩んでいる者は死人です。生きているようで死人です。命を知らないからです。世の中の人は命知らずです。
命が何であるかを知っている人がいないのです。そのことを「世の中の人は命知らずだ」というのです。
命とはなんでしょうか。命とは神のことです。命が神であるならば、皆さん方は命を持っているのです。神を持っているのです。
これを内在神、内在の神といい、皆さん方ご自身であるのです。それが皆さんの実相です。本来の姿です。
しかし、今、世の中は外なるもののその肉体形体に、私が一番申し上げたいのは、この肉体形体に目がくらまされているのです。
そして、肉体に目がくらまされているために、肉体の奴隷にされているのです。肉体に使われているのです。本質的に色褪せているのです。
肉は我ではないのです。その肉をお造りになった。その肉の背後に偉大な方がおられる。それが神です。その神が、一人びとりの創造物の中に留まっていらっしゃるのです。そうした時、皆さん方は外に神を求めなくなります。
それが分かった時、皆さん方は何処で祈りますか。何処に話しかけますか。自分自身に話しかけるはずです。
その事を、イエス様は「神の国は汝の内にあり。外に神を求むるなかれ」と、言われているのです。
神はあなた自身の中におられて、外におられるのではありません。勿論、外にもおられますが、神棚やそういう所におられるのではありません。
神は「人間の手作りの中に私は住むのではない」と言っておられます。
神はご自分の住処(すみか)はご自身で創造し、その中にご自身を現しています。これが生きた神です。
それなのに、今、世の中の人は死んだ神を拝んでいます。
私達にとって、神に対する認識は物凄く大切な事なのです。それが分からなければ、まだまだ生死の世界をさまよわなければなりません。
そして、この地上界からの解脱というものはあり得ません。
「神とは何か」「人間とは何か」「この世に現れている形体とは何か」と、そのことを皆さん方にはよく理解して頂きたいと思います。これが理解できて、日常生活で罪を犯さない本質的な生き方をする事が大切です。
ですから、皆さん方の全てのものの中に神を観る事が出来た時、知る事が出来た時、この世に憎しみというものがなくなります。
憎めますか。親を憎めますか。夫婦互いに憎めますか。子供を憎めますか。子供を憎んではなりません。それらを憎むという事は、神を憎むという事です。
なぜなら、この世に現れているものは、ありてあらゆるものが神のすべての全てであるからです。
モーゼが神に「あなたは何処にいるのですか。何という方ですか」と尋ねた時、「私はありてあらゆるもの、全ての全てである」と答えられたのです。
ですから、空気も神であり、雲も神であり、この世で目に見えるもの見えないもの全ては、神の現れであり、神の体、すなわち、御神体であるのです。
それを私達が粗末にしたり、罵ったり、貶(けな)したりする事は、私達が神を貶したり傷付けているのです。もうその人は信心者ではありません。
子供を貶してはなりません。あなたが神理を悟って、子供にこういう素晴らしい教育をすべきなのです。
「人を憎んではいけませんよ。※謗(そし)って(※悪口を言う事)はいけませんよ。怒ってはいけませんよ。嫉妬をしてはいけませんよ。なぜならば、人間とは本質的にはこういうものですよ」と、子供達に教えるべきなのです。これは知恵あるお父さんでありお母さんであるのです。
しかし、今のお父さんお母さんは無知ですから、本質的なものは観ませんから、この肉体形体を物差しとして、想い考えて、言葉を話し、行動するのです。
それはもうすでに、被造物の奴隷化に置かれた、その影に迷わされた無知の存在であるのです。
今、皆さん形に強く自覚して頂きたいのは、形として見えるものと、見えないものの関係を知らなくてはならないという事です。
皆さん方の肉体は見えますが、皆さん方の命は、どんなに医学がどんなに科学が進もうが見る事は出来ません。
しかし、現実的に、実際的に生きています。この目に見えないものは、実相世界すなわち内界で、見えるものは影の世界です。
霊があるから、命があるから、皆さん方の肉体があるのです。命のない人間が肉体を保持して生きられるものでしょうか。
本質的なものは、外なるものですか。内なるものですか。内なるものがあなたから離れれば、あなたの形体である肉体は、瞬きも何もする事が出来ません。それを死人というのです。
それは死に殻、抜け殻・だから何も意味がないから火葬場で焼かれるのです。本質的なものはあなたの内なるものです。あなた自身は内界にいるのです。そこにいるのです。この世は三次元という写しの世界です。
だから、あなたはこの世に住んでいると思って、錯覚しています。この世に住んでいるのはあなたではありません。その写しであるのです。
ですから、「私はあの世のものである」と私はいうのです。
私はこの世に形体を通して、このように神理を説きに参った者です。
あなた方で〈自分はこの世の者だ〉と思っている人は、〈自分が生きている〉と思っている人は、もう死人なのです。
皆さん方は霊的存在(神我)であって、物的存在(自我)ではないのです。この事は非常に大切な事です。うっかりすると逃してしまいます。
そこに愛と調和が生まれるはずです。しかし、あなた方がこの形体で、この世にある写しの、自分自身の肉体を物差し(自我を自分)として生きている間は、この世に調和も何も生まれません。
この世(自我の世界・分離意識)は対立であり、憎しみであり、嫉妬であるのです。それは形でものを判断するからです。
私達はみんな姿・形が違います。それは器が違うだけであって、中身は同一なるものです。私のものも、あなたのものも、みんな同一のものであり、同一の分け御霊であり、一つの神の根源から派生しているものです。
周囲の人はみな我であり、神であるのです。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
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- No
- 56
- Date
- 2018.03.29 Thu
イエス様が病人を癒された愛のエネルギー実演秘話♪許しと愛に生きる事が誠の愛の実践、神理の実践♪知花敏彦師♪
人間はなぜ愛か
人間の本質は愛、なぜ
愛です。全ては愛です。皆さん方が本当の愛の自分というものに目覚めた時、それが実行できる様になるのです。
だからまず第一に「自分とはなんぞや」と、人間なのか、愛なのか。これを徹底して理解してゆかねばならないという事です。
書紀の言葉
(師は演壇の下の広場に下りられ、最前列の女性を師の元へ招かれた。「後ろを向いて下さい」と、その女性の背中に軽く手を触れられた瞬間、彼女は愛のエネルギーを受け師の方へ引き寄せられてゆく。
もうそれだけで彼女は完全にトランス状態になっているのである。
師が2~3歩後退(あとずさ)りされると、彼女はすでに立っておられない状態で、師から放たれる愛の吸引で師の方へ引き寄せられてゆく。
そして引き付けられる様に師に倒れ込む。師はそれを身体で受け止めながら講話を続けられる)
愛は吸引力といって力なのです。愛はものを引き付ける力ですから、こちらが愛であれば、こういう具合に形という世界を自由自在に操る事が出来るのです。
これは愛に勝さる力はないという事で、愛を注ぐ、エネルギーを注ぐ事なのです。そうしますと、彼女の肉体はこの愛のエネルギーでどんどん柔らかくなってゆくのです。
書紀の言葉
(師に受け止められている彼女の全身はますます柔らかくなり、自分で立っている事が出来ず、師の足元へ崩れ込み、そのままその場で横になってしまうのである。
横たわっている彼女を通じて、師はその強烈な愛のエネルギーを、癒しのエネルギーを、この会場にいる全部の人達に同時に与えられているのである)
だから、自分は人間だ、肉体だと思っていては、この力を絶対に使う事は出来ないのです。
愛になったら皆さんは病気になるのですか。愛のエネルギーです。神性エネルギーです。愛のエネルギーは癒しのエネルギーです。
二千年前にイエス様が多くの病人を癒されたエネルギーが、今、皆さんにお見せしたこのエネルギーだったのです。
不調和のエネルギーというものはあるのですか。愛のエネルギーしか、神性エネルギーしかないのです。それが癒しのエネルギーです。
だから皆さん方も、せっかく持っている愛のエネルギーを出し惜しみする事なく、有効に人の為に働かせたら如何でしょうか。
この愛は使ったら減るものでしょうか。愛は使えば使うほど多くなるもので、決して減るものではありません。
一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人へと、その様に何人というのではなく、全てを愛したら如何でしょうか。
これが真の意味の『全(また)き愛』ではありませんか。
この神の愛は差別ですか。無差別の愛ですか。所得ですか。無所得ですか。
神の愛は善人にも、悪人にも、平等に注がれていませんか。愛を宿さない悪人というものはいるのですか。悪人でさえも愛の現れではありませんか。
悪人の本質は愛なのです。この世の中に愛を宿さないものは一物もないという事です。だから神の愛は無差別であると、無所得であるというのです。
それは無限大の愛ですから、それを使ったら減るのでしょうか。使えば使うだけ多くなるのが愛なのです。
だから「愛は求め得るものではなくて与えるものである」という事になりませんか。
愛を得ようとする者は愛を失い、愛を放つ者は愛を得ます。ですから、あなた方は乞食みたいに人の愛を貰おうとする前に、人に愛を注いだらそうでしょうか。「私に愛を下さい」というのですか。
愛を与える事ですか。愛は貰うべきものでしょうか。与えるべきものでしょうか。愛は与えるべきものなのです。
その愛は無尽蔵(むじんぞう)ですから、与えても与えても決して減る事はありません。だから多く愛しなさいと、隣人愛をしなさいと言うのです。
自分の都合のいい人だけを愛したとして、それは愛にはなりません。これは差別の愛ですからこの愛の事を「盲愛」といいます。
真の愛は差別いたしません。都合が良かろうが悪かろうが神は全てに愛を注いで下さっていますので、私達も都合のいい人悪い人全てに愛を尽くさなねばならないという事です。
これが神の道です。これ以外に神の道はありません。
もし、この世に宗教というものがあるならば、それは愛の宗教だけではありませんか。なぜかといいますと、愛以外何も無いからです。愛以外の宗教があるならば、それは宗教ではないという事です。
もし、今からの21世紀の宗教があるとすれば、世界一つの愛の宗教しかないと思います。愛以外の宗教が合ってはならないのです。何故ならば、愛以外の宗教は宗教ではないからです。
「愛以外何も無いからである」と言えませんか。それは神理の実践、即ち、愛の実践ではありませんか。どんなに憎まれても、悪口を言われても、その人を許して愛する事が誠の神理の実践ではないでしょうか。
避難したり、批判したり、恨んだり、憎んだりしないように、許しと愛に生きる事が誠の愛の実践、即ち、神理の実践だと思います。
それを行う事によって、皆さん方は身も心も健康になるのではないでしょうか。それ外に皆さんの救いの道はありますか。
だから何を言われても悪を食うか食わないか、その誘惑に負けないように気を付けて頂きたいと思います。
悪を悪で克服した試しはありません。争いで争いが無くなりますか。闘争は何処までも闘争です。それを無くするのには愛しかないのではありませんか。世の中の闘争を無くする為には、愛をもってくればいいと思います。
敗北あれば勝利ありと、勝利あれば敗北ありと、敗北と勝利の苦い思いを、善悪の世界をさまよわねばなりません。戦う者は敗北者です。戦わぬ事が肝心(かんじん)です。
これが「負けるが勝ち」という事です。皆さん方は負けたつもりが勝っているのではありませんか。何か文句を言われた時負けておればいいのです。
負けていれば勝っているのです。勝とうとするから負けるのです。どうでしょうか。闘争で闘争を無くする事が出来ますか。愛しか無いと思います。許しと愛があれば如何なるものにも打ち勝つ事が出来ます。
ですから、愛の実践、これに勝さる力はないと。これを徹底して日常生活で生かしてゆく事が誠の神理の実践であると。
これ以外に修行があった例(ためし)はないという事です。修行とは愛に生きる事です。これ以外に修行があるはずがないという事です。
不調和だらけの人間が頭を剃って滝行に打たれても、それは何の変化も、何の変哲もありません。変哲があるのはあなたの日常生活が愛の生活であるという事です。
その所をよく理解して頂いて、今までの自分の生き方は正しかったか、正しくなかったかと、これを見極めて、今からの生活を愛という一点張りで押し通してゆかなければならないのではありませんか。
それ以外に道はありますか。道は唯一つ、それは愛の道だと思います。それ以外に道はない。だから「我は道なり」と「我は愛なり」と、その愛の道から脱線しないようにしなければなりません。
愛の道から脱線している者は、神の道から脱線した者であるとお考えになって結構です。愛の道から外れれば苦しむだけではありませんか。
だから『私に添いなさい』と。「私に添いなさい」という事は
「愛に添って生きなさい」という事なのです。
それを実行して、実践して、日々の生活の中で愛があります事をお祈り申し上げます。それこそ皆さんの健康を幸せを生み出す、唯一の秘訣であり鍵だと私は思います。
いくらあなたが健康食だ無農薬食だと頂いても、争う限り、不調和である限り、それこそ幸せも健康も訪れません。
なぜ人類は病気になるかといいますと、それは不調和で生きるからです。不調和な心が起こった時、あなたの体内で化学変化が起こります。細胞が酸化してくるのです。それが病の原因となっています。
その健康を維持するためには愛の道しかないのだと、幸せを維持するには愛の道しかないのだと、これを徹底して実行して頂いて
「為すべき道は己しにしかない」と、この道を一生懸命歩むこと。これ以外に道はないという事です。
もう皆さん方は愛についてご理解頂けたと思います。今、実際にそれを実践している私もその一人です。誰から文句を言われようと、罵られようが、その人を憎み返すという思いが全くありません。
ですから、健康を維持し幸せを維持する事の体験者が申し上げているわけですから、皆さん方のそれを体験して頂ければ「成る程、知花の言っている事は嘘ではなかった」という事を体験しご理解頂ける事と思います。
これを実行した時、愛ある所に光があり、光あるところ愛があります。その時皆さん一人びとりは光の住民となります。
愛という光は永遠に消えない聖なる火です。これは全ての国民(くにたみ)の光、全世界を照らす光です。その愛の光に満たされて、皆さん方の日常生活を歩めば決して躓(つまづ)く事はありません。
人生の躓きはないという事。その時皆さんの為す事する事、全てがうまくゆくという事です。その愛でもって為せば、うまく行かないものはこの世の中にはないという事を、自信を持って申し上げたいと思います。
言うこと、為す事、全てその通り実現されます。なぜならば、それは神の御心に通じたからであると。
皆さん方の不調和の心は神の道には通じませんので、波長が合いませんから、是非、愛という波長に合わせて日常生活を行えば、あなた方の思い通りの人生が歩める事を断言いたします。また、それを保証いたします。
是非、実行して頂きたいと思います。皆さん方の元に、神の愛と平安が留まります事をお祈りいたします。
あとがき 編者
闇とは人間が造り出した心の影の事です。だからこの闇を恐れてはならないのです。私達にはその闇に打ち勝つ力、即ち、愛を持たされているからです。
神は光です。愛は光です。「自分が闇に打ち勝つ光である」という事を、こうしてこの書を読む事によって理解する事が出来、悟る事が出来るからです。正しい信仰を持つ事が出来るからです。そして、それを実践する事が出来るからです。
その事を筆者(知花先生)は「愛に勝さる力はありません。愛は神であり、神は愛であるからです」と申されているのです。
闇は光を理解する事は出来ません。光のみが理解するからです。それを理解するのは光であって闇は理解しないのです。闇の中へ光が入れば、闇は瞬間に消されてしまうからです。光ある所必ず闇は消えるのです。
だから、光である愛を顕(あらわ)せばよいのです。そうすれば人類が救われます。それは地球が救われるという事になるのです。
そして、人類が救われ、地球が救われるという事は、銀河系宇宙の調和に繋がり、それが無限宇宙の調和につながるという事になるのです。
何故ならば、人間は小宇宙といわれるが如く大宇宙と一体であり、その無限なる大宇宙こそが、ただお一人なる父なる神の御神体そのものであるからです。
だから『今というこの時』、私達は何を想い、何を悟り、何を為すべきか。それは私達が愛を想い、愛を語り、愛の行為をせねばならないのです。そのために本書著者がこの世に出て来ておられるのです。
そのために神の道を、愛の道を示しておられるのです。そして、そのためにこの書を著(あらわ)しておられるのです。
「我は初めから愛であり、今も愛であり、未来永劫愛である」といいます。それは単なる口先だけの言葉ではなく、親切により、愛により、理解によって『本物の自分』に目覚め、『愛と調和』に目覚め、それを世に顕す事が、この世で生かされている私達人間の使命だと思うのです。
著者[知花敏彦師]は、私達に愛の道をお示し下さいました。その道を歩むのは私達自身です。今すぐにでも歩む事が出来るのです。愛の道標(みちしるべ)を記して下さっているからです。
知花敏彦師が付けられた足跡に従えばよいのです。その道を自分自身の理解力でもって歩むのです。私達には何人も触れる事の出来ない自由意志というものを、神から与えられているからです。
そして、一人でも多くの人々が神の愛に目覚め、神の御心を受け継ぐ者となり、この地球が、愛の光に満たされます事を願ってやみません。
どうかこの本が広く世の人々に行き渡りますように、そして、そこに愛の火が灯(とも)りますようにお祈りいたします。
この編集を通して、真のキリスト伝導者[知花敏彦師]のお手伝いをさせて頂く事が出来ました事は、編者として大いなる心の喜びと感謝致します。
そして、この仕事をお与え下さいました父なる神に心より感謝申し上げます。
あなたの御名(みな)が崇められますように
あなたの天国(みくに)が来ますように
あなたの御意志(みこころ)が天におけるように地にも行われますように
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- No
- 57
- Date
- 2018.03.28 Wed
宇宙の中心は地球人類全ての中にある♪祈りの極意♪未来永劫元々愛♪愛の剣♪自分と神とは常に一体♪知花敏彦師
愛の実践 神理の実践
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人間はなぜ愛か
人間の本質は愛、なぜ
神我は平安です。
だから「神が平安であるが如くそなたたちも平安であれ」と。
正しい生き方をする事です。皆さん方は正しい生き方をしていないのです。仮相という人間に生きるから苦しいのです。
実相という我に生きるならば苦しい事はあるはずがないのです。
自我に生きる限り、あなたは苦しまねばなりません。自我は楽しいのですか。苦しいのですか。いつも不安と恐怖に怯えているのではありませんか。
苦しみに疲れ果てた人は、もう本来の我に還りましょう。愛の大国に還りましょう。その愛の大国は汝の内にあるのです。
だからあなたは元々愛であり、初めから愛であり、未来永劫に愛なのですが、ただ自分が愛である事を忘れ、人間だと勘違いしているだけなのです。
皆さん方一人びとりが大愛ではありませんか。あなたの中の愛(御霊神霊・大生命)が様々な形を現しているだけなのです。愛がなければ絶対に形という世界は出来ないのです。(色心不二・色即是空、全ては神の現れ)
『初めに愛ありき』。これが初めに神ありきなのです。その神によって全ては成れりです。神おわすが故に我はおわすのであると。愛おわすが故に我はおわすのであると。だからあなたは愛そのものなのです。
悟ったら愛になります。それは人の道ですか。愛の道ですか。人の道(仮相の道)から外れても構いませんが、愛の道から外れてはなりません。
その大愛の道の事を「大道」といいます。「惟神(かんながら)の道」といいます。
皆さん方が本当にこの人間を、この肉体を我として生きている限り、あなたから悩み苦しみが絶対に無くなる事はありません。迷っている限り悩み苦しみはつきものです。
もう疲れ果てた人、本来の我の愛に還る時が来たのではないでしょうか。天国に入るも入らないも誰次第ですか。還るも還らないも誰次第ですか。
では、救い主は誰ですか。頼れるのは誰ですか。いつ還るのですか。それは今だと思います。あなたは今、即ち、大愛なのです。
今、即ち、「我は愛である」と思えばよいのです。そこから始まるのです。
明日から何年後に修行として愛になるという人がいるのですか。元々愛、今も愛、未来永劫に愛です。これは久遠常在です。これを久遠我といいます。
救世主がこの世におるならば、それはあなたご自身ではありませんか。
唯一の救い主は誰ですか。それはご自分なのです。
「神は自らを助くる者を助く。汝の救いは汝自身なり」であって、決して他人ではありません。
他力信仰ですか。自力信仰ですか。もう騙されている他力の時代は終わったのではないでしょうか。他力的にあなたが救われると思いますか。
あなたを救うのも救わないも己次第です。どうでしょうか。あなたが人間だと思ってあなたが救われますか。
人間だと思っている人の事を「救いがたい人」というのです。
人類救済というのは、物理的に救済が出来るのですか。自我のままでほっておいたら何も為した事にならないのです。その人間を(自我から)克服させて、大愛(神我)に還す事が唯一の人類救済ではありませんか。
即ち、神我に目覚める事が唯一の人類救済です。外側の救済なんかあるのですか。だから「愛なき行為は無に等しい」という事になります。
皆さん方はこの人類救済というのは「物資で救済できるのだ」というならば、これは偽善的行為というものです。偽善とは偽我で行っている行為の事です。神我で行っているのは真の善です。
善は神我で行うべきですか。偽我で行うべきですか。偽我で善が行えるのですか。その偽我で行っている善の事を「偽善」と言うのです。
ですから皆さん方はそういうもので、あなたの偽我でいくら善い事をしたとしても、あなたに(真の自己に目覚める霊的な)救いは来ないのです。
だから「おお神よ、神よ」と言った所で何の価値もありません。神よ神よと呼ぶことではなくて、その神が何であるかを理解する事ではありませんか。神は至る所におられますので、あなたの中にも全宇宙にも遍満しておられますので、大声を張り上げて呼ぶ必要があるのですか。
なぜなら、あなたそのものが神ですから
「あなたが言わない前から神は知っておられる」というのはその事です。
だから「神は全てを知り給う」という事になるのです。
あなたの思っている事は、全部、神はお見通しではありませんか。なぜなら、あなた自身が神であるからです。
では、神に隠せるものがありますか。あなたがそっと隠れて「これは神様に聞こえないように」と言っても、それはお見通しではありませんか。
「これは神様に見られないように」と行っても、それもお見通しではありませんか。それはあなた自身の本質が神であるからです。
ですから「神様!」と大声を張り上げる必要がないのです。天に向かって大声で「神様!」と呼んでいる人は神を知っている人ですか。知らない人ですか。神はあなたと共におられるのです。
自分が何者か知らない者は、外の何処か遠くの彼方に神がおると思っていますから、あの様に大声を張り上げているのではないでしょうか。だから街頭の祈りは禁物です。
「わたしはあなたと共にいます」という事です。神はあなたと共におりますという事です。あなたの心の中での祈り。これは無言の祈りといってあなたは声を出さなくてもよいのです。これが沈黙の祈りというものです。
大声を張り上げる必要はまったくないのです。
もう一つ、祈りについてお話しましょう。真の祈りとは、人間という前提で人間として祈る事ですか。神我で祈る事ですか。「キリストの御名(みな)において祈れ」という事は、「汝の神我より祈れ」という意味です。
神我の祈りは真の祈りで、偽我の祈りは偽りの祈りです。それでは、あなたの祈りは聞き入れられましたか。祈り方に問題があったのですか。
答えに問題があったのですか。偽りのあなたが祈ったのでは偽の祈りになりますので、それは真の祈りにはなりません。
キリストの御名に於いて祈れ。汝の密室にて祈れ。というのは、神我より祈れという意味です。あなたの自我で祈って答えが出ましたか。思い通りの答えが出ましたでしょうか。
祈り力とは「祈りと答えは一つである」という事実の中に存在するのです。自分と神とは一体である。神の御意志が自分の中で為されるのである。
という深い理解を持って祈ることです。
その事は「神の宿り給うあなたの内なる聖なる中心の中に入るがよい」といわれていますように、汝の密室に入って奥底の真心の中で祈れ、即ち神我(キリスト)より祈れという事なのです。
その「祈りと答えは一つである」という事は、あなたが神我という本来の我、その愛の自分から祈ったとするならば、その祈りと答えは一つになりませんか。
だから皆さんがいくら泣き言を言って自我で祈ろうが、何をしようが、それは無効となるのです。聞き入れられないのです。
真の祈りの答えを出すためには、真の祈り方をしなければなりません。誠の自分で真心から祈らねばなりません。
神の心を真心といいます。人間の心を偽心といいます。偽りの心で祈ったとしてもそれは偽りですから、それは神と波長が合いませんから答えが出るはずがないという事です。
自我の祈りは偽りの自分です。偽心です。真心は「御心(みこころ)」といって神の心です。神意識は即ち、神の心です。肉意識は肉の心となっています。
あなたは肉体ですか。神そのものですか。愛の心で祈らねば、キリストの御名に於いて祈らねばならないのです。
だから「祈りをする時は全ての者と和解してから祈りなさい」と。
「全ての者と調和してから祈りなさい」と。
あなたが神に祈る時、まず第一に、あなたに不満を持っている人を思い起こし、心の中でその人と和解するのです。
その時初めて、神はあなたの祈りを聞き入れて下さるのです。心の中で和解して、初めて自由となり許しが得られるのです。
その時初めてあなたの心は真性を現し、愛なる神はあなたを祝福して下さるのです。
なぜなら、あなたの心の中にこそ神の館の入り口への鍵があるのであり、その神の館の中には、諸々の恵みがあなたのために貯えてあるからです。
だが、あなたは決して自分を欺(あざむ)く言葉を、祈りに加えてはならないのです。それは何にもならないのです。
その様な言葉は神の御国には届かないのです。本気でないもの、感じてもいない事をいうのは祈りではないからです。
本当の祈りは真剣さです。その様な祈りには大きな吸引力があります。祈りの時真剣である事の重大性を、私はあなた方の心に刻み付けておきたいのです。
不調和は自我です。この世にあなたが一人でも嫌いな人がいたのなら、その人も神ですから、あなたは神を嫌っているという事になるのです。
人を嫌う事は神を嫌う事になり、人の悪口という事は神の悪口をいう事になるのです。
さんざん人の悪口を言いながら「私は信心者で御座います」と。これは偽者です。信心者であるためには、この世の中に一人でも嫌いな人がいてはならないのです。
神を愛するという事は隣人愛の事ではありませんか。その隣人一人びとりが愛の化身ではありませんか。その本質は神ではありませんか。隣人を嫌うという事は神を嫌うという事ではありませんか。
ですから、あなたの祈りが聞き入れられるか聞き入れられないかという事は、この世の全てと調和しているかと、愛しているかという事が第一条件ではありませんか。
もし、この世に嫌いな人が一人でもいるならば、あなたは悟っているのですか。迷っているのですか。あなたは悟ったならば全てを愛する者となりませんか。自分を愛する様に他を愛する様になるのではありませんか。
他を愛する事は己を愛する事ではありませんか。なぜならば、その本質(根源)は一つしかないからです。
全ての一(いつ)なるものの現れですから、愛の世界には他人というものはないのです。他人は存在致しませんので[自他一体]です。
自他一体ですので、全てを愛し通さなければならないのです。
もし、あなたに好き嫌いがあるならばあなたは自我です。「あの人は好き。この人は嫌い」というならば、それは単なる自我ではありませんか。
愛の世界に好き嫌いがあると思いますか。しかし皆さん方にはまだあります。非常に好き嫌いの激しい人がおりますが、それは全くの自我です。
神我には好き嫌いがありません。それは絶対なる愛しか無い事をご理解頂きたいと思います。
もう何を観ても愛を観じなければならないのです。だから新しい人、古い人、昔からの付き合いの人、全て同じ様に愛さなければならないのです。後先がないのです。そういう所もご理解頂かなければならないのです。
今、自分は悟っているか、迷っているかは誰に聞くべきですか。誰にですか。その答えはあなたの中に存在していると思います。
〈ああ、まだまだ私は自我なんだ〉とかを感ずるはずです。神我そのものになっているならば、この世に於いて嫌いな人は一人もいないはずです。
嫌いな人がいる限り、あなたは自我である事を知っておいて下さい。神には好き嫌いというものがありません。絶対なる愛しかないのです。
ですから、絶対なる愛の道から外れてはならないのです。
イエス様は御自分を十字架に架けたローマの兵士の事さえも祈られました。
「この者共の罪を許し給え」と、「知らぬが故に犯した罪を許し給え」と、今、自分を殺そうとする人の為にイエス様は祈られたのです。もし、あなただったらそう出来るかという事です。
例えば、あなたは顔を殴られて、その人を憎まないでいる事が出来るでしょうか。もし、それが出来るなら真の愛です。真の愛の勇者です。
「右の頬を打つ者がいたら左の頬も打たせなさい」と、イエス様はそれぐらいの勇気と愛がなくてはならない事を説かれておられるのです。
これが本当の愛の勇者です。どんな事をされても許す事の出来る自分が、その愛ある心が非常に大切なのです。
許しは愛です。そして愛は許しです。神は偉大なる許しの方ですので、許す事が偉大な勇気、偉大な愛である事を分からなくてはならないのです。
皆さん方は愛をもって許す事により、色々な制約・束縛から開放されるのです。人を許さない事によって、許す愛の勇気がない事によって、自分を束縛しているのです。苦しめているのです。悩んでいるのです。
あなたが人を愛して許す心になった時、真の安らぎと平安があなたの心の中に生まれて来るのです。
自分を汚す者でも、自分を罵る者でも、本当に自分が愛する事が出来た時、あなたは真の勇者となり、真の愛を施している事になるのです。
だから、あなたが誰からどんな悪口を言われようが、復讐しようとか、憎み返そうとか思ってはならないのです。
そういう事をされてもすぐ噛み付く様な人であれば、その人はまだライオンであるという事です。即ち、自我であるという事です。
ライオンとはあなたの肉我の事です。自我の事です。子羊とはあなたの神我の事です。その神我とは自我が戯れる事を、ライオンと子羊が戯れるという意味なのです。あなたの自我はすぐ噛みつきます。
それはライオンよりも早く噛みつきますから、ライオンよりも短気ですから大変恐ろしい動物です。そういう事を皆さん方はよく理解して行かないとならないのです。
お互いの夫婦でさえも、噛み付き合っているのではありませんか。どうでしょうか。違いますか。それはライオンだからです。
子羊の神我で生きているならば、噛み付き合う夫婦というものは無いと思います。また、他の誰にも噛みつかないと思います。どうか、もう食ってかからない様にして頂きたいと思います。
ですから、あなたが外部の人から何と非難されようが、批判されようが、許しと愛があればそれに打ち勝つ事が出来ませんか。
これを「愛の剣(つるぎ)」と言うのです。
愛という剣を持っていれば、この世の全てに打ち勝つのではないでしょうか。あなたは憎しみの剣を使うべきですか。愛の剣を使うべきですか。
愛のある所に過ちは決してないのです。愛はそれ自身で完全であるからです。その愛に勝てるものがありますか。愛で克服出来ないものがありますか。愛さえあれば如何なるものにも打ち勝つ事が出来るという事です。
だから、あなたが明日からどんな人に悪口と言われようが、憎まれようが、決して復讐をしようと思ってはならないのです。愛の道から外れない為には、愛で通さなければならないのです。
愛そのものの日常生活をしたとするならば、あなた方に苦しみはあるのでしょうか。苦しみは愛から来るのですか。不調和から来るのですか。
多く苦しんでいる人は、多く不調和を持っているという事です。調和の人が苦しむはずがありません。
この私、知花が苦しまない理由は、私は誰から貶されようが、罵られようが、その人を憎み返す事がないからです。これは小さい時からの私の特権でした。私は小さいときから悩みや苦しみがなかったのです。
私は「いいじゃないの、言いたいから言ったのでしょう」としか言いません。しかし皆さん方は「誰が何と言った!」と聞き耳を立てて、それに憎しみを増幅させようとしてゆきませんか。
悪いことは受け入れるべきですか。聞き流すべきですか。受け入れたら「盛られた毒」を食った事になります。即ち、悪の誘惑に負けた事になるのです。
それを請け合わなかったならば「悪に抗するなかれ」と「悪にあがらう事なかれ」と、その悪に抵抗する必要があるのですか。悪に抗するのですか。悪に抗するなかれですか。悪に従う必要はありません。「いいじゃないの」と聞き流せばあなたを害する事も、相手も傷つける事もないのです。
己も傷付けず、相手も傷付けない方法は『許しと愛以外にない』という事です。これを実行していけば、世の中に苦しむ人は一人もいないという事です。
愛の道から外れるから苦しいのであって、愛の道を押し通していれば、世の中に苦しみなんか存在するはずがないという事です。
もし、あなたが私の話を聞いて嘘だと思うなら実行してみて下さい。実行しないで「嘘だ、嘘だ」と疑って、一向(いっこう)に愛に生きようとしない人間が世の中に一杯いるのではありませんか。違いますか。
だから、その事をイエス様も「なぜあなたたちは疑うか」と申されているのです。
宇宙の中心より流れ出る愛とは。その宇宙の中心は何処にあるのですか。
それはあなた方の中にあるのです。
宇宙の中心はあなたの中にあり、地球人類全ての中にあるのです。そこから愛が白光と共に全世界に向けて放流放射されているのです。
それを『愛光』と言うのです。その愛光は全てのものを愛の癒しでもって抱擁(ほうよう)するのです。これが神の愛の力です。
『愛に勝る力はない』という事を、『愛は全ての癒し主、全ての救い主である』ことを、皆さん方は絶対にお忘れにならないで下さい。どうかその事を強く銘記しておいて下さい。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 58
- Date
- 2018.03.27 Tue
宇宙には愛は一つ♪人間の本質は即大愛♪我は大愛なり♪全ての根源は神♪悟り・神我♪知花敏彦師♪
人間はなぜ愛か
人間の本質は愛、なぜ
人間は愛の仮の姿です。人間は仮相で愛は実相です。実相の自分は愛であって人間ではありません。
愛がなかったとすれば、絶対に人間は存在できないのです。我は愛であって、我は人間ではないのです。しかし、残念ながら皆さん方は仮相という人間を見て、実相の自分という愛の自分を観ていないのです。
仮相を見るべきですか、実相を観るべきですか。実相は人間ですか、愛ですか。実相は愛です。大愛なのです。
愛は宇宙にいくつありますか。宇宙には愛は一つしかないのです。無限大の愛(遍満する大霊)しかないのです。その愛がなかったとすると、人間は絶対に存在出来ないのです。ですから存在の本源は愛(神)であるのです。
人間は全て[霊と水バランス(調和)]でもって存在しているのです。その霊と水がなければ、人間という形体は絶対に存在する事は出来ないのです。
その形体を人間と言っていますが、人間の本質は即大愛なのです。ですから皆さん方は我は大愛なりですか。我は人間なりですか。自分は愛なのか人間なのか。愛の自分と人間の自分とどちらが本物でしょうか。
人間は偽我、愛は神我となっています。しかし、皆さん方は自分の事を人間と言うのです。「我は大愛なり」というべきであって、「我は人間なり」といってはならないのです。
では、愛の自分を観るべきか、人間の自分を見るべきか、という事です。
人間は仮相の自分です。殆どの人がこの仮相の人間であって、実相という愛を見失っているのです。その実相を観るべきであって、仮相を見てはいけないのです。
人間とは、愛の仮の姿ですから『愛の化身』となるのです。
宇宙法則の中に[陰陽の法則]というものがあります。
陰とは(質量)の事です。陽とは(エネルギー)の事です。全てのものはその陰陽の調和、即ち、霊と水の調和によって存在するのです。その調和の事を「愛」といい、それは大調和ですから「大愛」です。
ですから、その調和によって全てのものが創造される事を「愛の具現」というのです。
その陽の事を「父なる神」といいます。その陰の事を「母なる神」といいます。ですからその愛の具現者、全ての創造者、全ての創造主は神であるという事がそこに言える訳です。
その愛がなくては人間は存在できないのです。霊と水がなければ人間は存在できないという意味は、この肉体は水出てきます。
お母さんの羊水で十ヶ月10日で出て来て、そこへ霊(生命)というものが宿って、初めて人間は生きることが出来るのです。
では、初めに本質ありきですか。愛ありきですか。それとも人間ありきでしょうか。大愛が人を造って、その大愛が人の中に宿っていませんか。
これを「内在の神」と言っているのです。だから、愛我が中にましますと、人間は愛の化身であると、愛の仮の姿であると言うのではありませんか。
もうそろそろ皆さん方も愛に目覚めたらどうでしょうか。自分は人間ではなくて、愛であるという事を悟らねばなりません。
イエス様は「我は人間なり」と言われたのですか。「我は愛なり」と言われたのですか。あなた方は悟れば人間になるのですか。愛になるのですか。
自分が愛(神我・大生命)である事を知る。その愛(神理)を知る事は己を知る事になるのです。愛を知らない人間は己を見失っているのです。
だから私は人間だというならば、それは嘘つきになります。なぜならば人間は嘘の自分となり、愛は本当の自分となるからです。
愛の事を神我といいます。愛の到達が神我の到達となります。
だから『我は愛なり』と『我は慈悲なり』という事になります。
それは『愛のキリスト』『『慈悲の仏陀』となっています。
愛以外何もないのです。愛のみが独存しているのです。愛以外絶対に何も無いのです。全て愛なのです。
全き愛(マタキアイ)と書いてこの字が読めないのです。意味が分からないのです。どのように形が変わろうがその本質は愛なのです。
あなたの本質は人間ですか。それとも愛ですか。人間の本質は愛であると、愛こそ絶対実在であると、実在しているのは愛であって人間ではないと。その愛は有限の愛でしょうか。無限の愛でしょうか。
霊も無限大で、質量も無限大です。霊はエネルギーで水は質量ですから、無限大のエネルギーと無限大の質量(大愛)しかないのです。
これを大バランス、大調和、大愛といっているのです。
即ち、そこには無限しかないのです。ならば、我は無限なりですか。我は個人なりですか。そこには無限の愛しかないのです。
しかし、皆さん方にはまだ人間という観念、概念があります。雑念があります。「私は愛です」という人は正思念です。「私は人間です」という人は悪思念です。その人間という悪思念を捨てなければならないのです。
人間は本物ですか。偽者ですか。愛は本物です。愛は神我で、人間は偽我となっています。
その人間という仮相で、愛という実相を目隠しされているのです。皆さん方はその仮相を見ることが出来、触る事も出来るのです。実相という本質は見る事も触る事も出来ないのです。
その愛がここにある、あそこにある、と言えますか。無限ですから全宇宙に遍満しているのです。だから愛には内外(うちそと)がありません。
見えるもの、見えざるもの、ことごとく愛なのです。ですから「神の在し在さぬ処はない」という事は、「愛の在し在さぬ処はない」という事です。
全き愛ですから愛の他には何もないのです。なぜ全てが愛なのかという事は、愛(神)が全てを造り、その大愛が全ての中に宿っているならば、全てが大愛ではありませんか。
初めに形ありきですか。初めに愛ありきですか。その愛が全ての本質ではありませんか。だから人間の本質は神であるという事です。その大愛の事を大神様というのです。
愛は万物の造り主、万物の親です。大愛が万象万物を造って、大霊が万象万物の中に宿っています。これを唯一不二の愛というのです。即ち、唯一不二の神となるのです。
内在の愛と内在の神とは、愛眼を開く事と神我を開く事とは、同じ事です。
皆さん方は本物を観ないで、どうして偽者を見ているのですか。人間は偽者、即ち人間は偽我、愛は神我、これが愛のキリストです。我は愛であって、我は人間ではないのです。
まだ皆さん方には人間という観念、概念、雑念があるのではないでしょうか。人間という思いがある限り、あなたは悟る事が出来ないのです。
人間だと思っている人に悟った人がいるのでしょうか。あなたは悟ったら人間になりますか。それとも愛になりますか。
愛だと想わなくてはなりません。愛を観なくてはなりません。自分を人間だと見ている人の事を闇の人といいます。自分を愛(大愛)だと観ている人は神眼の開かれた人といいます。
初めに人間ありきですか。初めに本質ありきですか。本質なき形体なんて存在いたしません。本質がなくてどうして形というものが存在出来るのですか。形を存在至らしめているのは本質(神・大生命)ではありませんか。
初めに本質ありきというのは、初めに神ありきという意味です。全ては上によってなれりと言うのは、全ては本質によってなれりという事です。
では、存在の本源は形ですか、本質ですか。その形を至らしめているのは本質なのです。その本質は大調和です。
だから神は愛なり、大調和なりというのです。これをプロフェクトバランス、大バランスといい、者は全ての質量とエネルギーのバランスで存在しているのです。アンバランスでは絶対に形という世界は存在できないのです。
だから、もう愛以外に何もないと、何を見ても愛だと観なさなくてはなりません。全てに愛(神)を観る。全てに愛を観(かん)じなくてははりません。
残念ながら形皆さん方は物を見てしまった。その見ている物の本質を観ていないのです。形を見るならば本質を観よ、だと思います。
皆さん方は形を見るべきですか。本質を観るべきですか。では、その本質は何処にありますか。それは汝の内にあり。だから愛は汝の内にありとなるのです。これが内なる神、内なる愛というものなのです。
その愛のことを「天」と言っているのです。仮相のことを「地」と言っているのです。仮相と実相は表裏一体です。その大愛のことを「大天」と言っているのです。だから「天は汝の内にあり」というのです。
人間の我が、愛の我に還ることを「天に還る」といいます。
では、その愛は何処にあるのですか。それを「汝の内にあり」というのです。偽我の我が神我の我に還る事を天に還る。愛は神我ですから、神我は天で偽我で地となっています。
私は人間だ、肉体だという人は、地に生きている人です。私は大愛だ。という人は、天に生きている人です。だから天は我が内にあり、それを存在の天と言って、天(神理)は汝の内にありという事です。
実相は天、仮相は地となっています。この地の事を仮相世界といい人間は仮相です。仮相という人間を見るべきか、実相という愛を観るべきか。どちらでしょう。
実相という本質を観るべきであって、仮相という人間を見てはならないのです。だから「外を見るな内(実相・神・本源)を観よ」というのです。
内なるものなくして外なるものは存在出来ないのです。本質がなくてどうして形が存在出来るのですか。初めに人間ありきですか。本質ありきですか。
では、本質は宇宙にいくつありますか。たった1つです。だから人間の本質は愛であると、神であるといえる訳です。
もう今こそ愛眼を開くべきではありませんか。あなたは人間眼ですか。肉眼ですか。人を見よですか。それとも大愛を観よですか。どちらが正しくものを観ていますか。
自分を大愛と観ている人と、自分を人間だ見ている人と、どちらが正しくものを観ていますか。
人間がこの大愛を否定できるのですか。皆さん方は修行をして大愛になるのですか。元々大愛なのですか。皆さん方は今も大愛で、未来永劫に大愛なのです。
「私は人間です」と未だにいう人に〈何を言っているのですか〉と、その人を捕まえて分からせようとしたいのですが、それでは人間の自由意志を犯す事になります。人間の自由意志を犯す事は出来ないのです。
無知の人は己を人間だと見ます。神眼が開かれた人は本質を観るのです。イエス様は「あなた方の見ているものはただの人間です」と言われてます。
皆さん方は人間の本質を観ていないのです。人間の本質は愛ではありませんか。愛が無くては絶対に人間は存在しないのです。
だから『人間の本質は愛(神)である』と、ここにはっきり言えるのです。
人間を存在至らしめているのは愛ではありませんか。違いますか。愛無くして人間は存在できるのですか。では、存在の本源は人間ですか、愛ですか。
「神おわしますが故に我はおわすのである」というのは、「大愛おわしますが故に我はおわすのである」と、その大愛とは大神様のこと、
だから愛は神ですから「人と神は不可分である」という事です。決して愛から離れては存在出来ません。
「人間は神から一秒間も離れる事は出来ない」という様に、人間の形体は愛から一秒間だって離れる事が出来るのでしょうか。
だから「人間一人びとりは神につながらないでは不毛である」と、
「愛につながらなくては不毛である」と。
では、人が生きているのですか。神が生きているのですか。
「※神のみが生きて神のみが働き給う。人間自らは無なり。御業を為し給うは神のみなり」という事です。(※イエス様の御言葉でもあります)
人間一人びとりは神の化身です。愛の化身です。その本質は神であるという事です。では、我は人間なりですか。我は神なりですか。
あなたは悟れば人間になるのですか、神となるのですか。神の自覚といって、「我は神(愛)なり」の自覚がなくてはならないのです。我は人間なりではなく、仮相という人間を見るか、実相という神を観るかです。
実相という神。だから神は万物の造り主、万物の親というのです。大愛が万象万物を造っていませんか。何があなたを造っているのですか。
形が形を造っているいるのですか。本質が形を生むのですか。本質がなくて形を生む事が出来るのですか。本質(大愛・神)が形を生んで、その本質が形の中に宿っているのではありませんか。
では、我は人間なりでしょうか。我は本質なりでしょうか。その本質が愛ではありませんか。人間の本質は愛ではありませんか。
その本質に始めがあったり、終わりがあったりするものでしょうか。形体は破壊できましても、その本質なるエネルギーと質量は破壊する事は出来ません。これを久遠の愛といいます。
永遠の愛、無限の愛です。これが我ではありませんか。いつか朽ち果てる形体があなたなのですか。久遠の大愛があなたなのですか。
あなた方はその愛を知るべきではありませんか。その愛を知らない事は誰を知らないという事ですか。愛を見失う事は己を見失う事です。
その本質を知らない人間のことを「迷い人」といい、本質を知っている人は「悟り人」といい、悟った人は「自分は愛である」といいます。
迷った人は「自分は人間である」といいます。どちらが悟り人ですか。あなたは悟れば人間になるのですか、大愛になるのですか。人間を見るべきですか、大愛を観るべきですか。
愛は一(いつ)にして多身、一なる愛が様々な形を現しているだけではありませんか。どのように形が異なろうと、その本質は愛ではありませんか。
皆さん方は形という世界でものを見るのではなくて、その形の本質を観るように努めなければなりません。それゆえに内観(全てに神を観る)しなければならないのです。
内なるもの(大愛・大霊)なくして外なるもの(すべての形体)は存在出来ない、本質なくして形あるものは存在出来ないのです。
皆さん方は形を自分だと見ているのです。それは単なる無知というものです。その自分を人間だと信じている人の事を、妄信家、狂信家というのです。もう妄信も狂信もこれくらいにしたらどうでしょうか。
真の信仰家とは、人間だと信ずるべきか。愛だと信ずるべきか。自分を愛だと信じている人は神信者です。自分を人間だと信じている人は無神論者です。即ち偶像崇拝信者です。
何故ならば、形体を信じて本質(根源・真の神)を信じていないからです。本質を信じていないという事は、神を信じている姿ではありません。
イエス様は「我は姿・形に属する者である」と言われたのですか。
「我は姿・形に属する者にあらず。我は愛なり」と言われたと思います。
あなたは姿・形に属する者ですか。愛に属する者ですか。愛がなくて姿・形が存在出来るのですか。姿・形の本質は、即ち、愛ではありませんか。
霊と水(の大調和)(※大愛)ではありませんか。
神の国は霊と水の国です。その神の国は汝の内(本質・根源)にあります。霊と水を宿さないで、この世に物が存在した試しはないのです。
この大愛の事を神理というのです。
神理と愛とは、愛の追求とは、神理の追求とは、その神理が汝の内にあるのです。その神理(大霊・大生命)は万象万物の造り主、万物の親です。神理が万象万物を造って、神理が万象万物の中に宿っていませんか。
という事は、全き神理になりませんか。それでは私は人間なりですか。私は愛なりですか。我は愛なりです。我は神理なりです。
本質の追求が神の追求です。しかし、皆さん方はまだ人間という、概念、雑念があるのではないでしょうか。
「雑念を捨てなさい」というのは、「私は人間である」という雑念を捨てなければならないという事です。人間という思いは正思念ですか、雑念ですか。この人間という雑念がある限り、あなたは決して悟る事はないのです。
一時(いっとき)だって人間だと思ってはならないのです。四六時中神を想うという事は、四六時中愛だと想っていなければならないのです。四六時中悟っておく為には、四六時中愛でなければならないのです。
あなた方はその逆の、四六時中人間だと思って生きているのではないでしょうか。という事は、四六時中迷っているという事になりませんか。
人間だと思った状態は、悟った状態ですか。迷った状態ですか。愛のキリストですから、慈悲の仏陀ですから、だから皆さん方は決して人間だといったり、思ったり、語ったりしてはならないのです。
〈私は人間だもの……〉本当ですか?
〈私は愛だもの……〉そうです! 愛です。
ですから、肉の人になるのではなく愛の人になりなさい。全てが愛ではありませんか。どう形が異なろうとその形は愛ではありませんか。
愛を宿さない形体というものがありますか。愛を宿さないで形が存在出来るのですか。存在の本源は形ですか。愛ですか。
「初めに神ありき」というのは、「初めに本質ありき」即ち「初めに愛ありき」という事です。その愛によって全ては成れりではありませんか。
違うと思いますか。それでは存在の本源は形ですか、愛そのものですか。
「存在の本源は神である」と、神こそ絶対実在で、本質こそ絶対実在で、久遠の愛、無限の愛とはその意味を言うのです。
愛には初めがなく終わりがありません。初めなき終わりなき愛、これを久遠の愛といい、その久遠の愛を久遠我といいます。
それは永遠の自分ではありませんか。愛は死にますか。殺せますか。破壊できますか。区切りはありますか。それは普遍です。普遍的愛です。
愛がここなる、あそこにあると言ってはならないのです。即ち、見えるもの見えざるもの尽(ことごと)く愛(神)であるからです。
だから「何が愛だ」と」言った瞬間、それはもう愛ではありません。これは神理ではないという事です。愛は全ての全て、ありてあらゆるものなのです。
その愛に、善い愛、悪い愛、というものがありますか。愛に善悪というものがあるのですか。善悪は人のものです。愛のみが独存する中で、悪なんかは何処にも存在しないのです。愛の外に何かがあるのでしょうか。
あなたが愛以外に何かを知っているならば、あなたは単なる愚か者です。
「あなたが知っているものは何ですか」と言われた時「愛のみです」と。
何故かといいますと、愛以外に何もないのですから、だから愛以外に知る訳にはゆかないのです。
違うとお思いですか。愛の他に何かがあるのですか。愛もあって悪魔もあるのですか。愛は万物の造り主、万物の親です。では悪魔は誰が造るのですか。その本人の心ではありませんか。
悪を持っている人は悪を観ます。愛を持っている人は愛を観ます。悪を観る人の心に悪が住んでいるのであって、その本人が造らない限り悪は存在しないのです。
それでは悪魔の生みの親は何処にいるのですか。その本人の心ではありませんか。愛に善悪があるのですか。完全しかないのです。愛はそれだけで完全なのです。
一元論ですか、二元論ですか。愛一元論です。
〈愛もあって不調和もあるのですよ〉それは本当ですか。不調和は実在するものですか。その不調和は誰が造ったものですか。
それは神のものではなくて人のものではありませんか。迷いのものではありませんか。迷った者には不調和がありますが、悟った人には不調和なんかはなく大調和あるのみ、大愛あるのみです。
神はこう申されます。「私には愛しかないのである。不調和は私のものではないから私は知らない」と。
その不調和とは迷いそのものの事です。愛とは調和そのものの事です。悟りそのものなのです。あなたが悟れば調和そのものとなるのです。あなたに不調和がある限り、あなたは迷っているのです。お分かり頂けますでしょうか。
愛の他には何もないと。愛の他に何かがあると思っている人がおりましたならば、愛以外に誰が何を造っていると思っていますか。
愛は万物の造り主です。全ての本質は愛です。そうであれ、愛以外のものが何処かにあるのですか。愛のみですから、愛以外のものがあると思う事は、人間の観念概念が造り出した単なる迷妄にしか過ぎないのです。
あなたが愛を悟った時「神以外、愛以外のものがあります」と言うと思いますか。そこには絶対なる神、絶対なる愛があるだけではありませんか。
故に「神は絶対なるものであられる」と、「絶対なる愛であられる」という事を知らねばならないのです。
皆さん方はもっともっと「自分というものは何か」という事を、徹底して追求してゆくべきではありませんか。あなたが自分の事を人間だと思っているならば、あなたは自分を見失っていませんか。
本来のあなたは人間ですか。大愛そのものですか。その大愛は全知全能ではありませんか。「愛に勝る力はない」といっているではありませんか。
愛は神聖エネルギー、愛のエネルギー(無限大の愛)ですから、即ち、完全ではありませんか。では、神は不完全な人間をお造りになっておられますか。
はじめから完全として造られた人間を、それを不完全にしているのは誰でしょうか。それは自分自身ではありませんか。
皆さん方は形が自分自身だと、その形体を自分と見ていますが、この本質を自分だと観なくてはならないのです。本質なき形体はないのです。
初めに本質があるのであって、形があるのではありません。人間の形を取った本質ではありませんか。だから人間の本質は神である、愛であるという事が言えるのです。
全てが神ですから「誰々が神だ」「これこれが神だ」と限定して言えるのですか。全き神というのは、全てが神であるという事ではありませんか。神は一(いつ)なるものであるという事を知らねばならないのです。
神の存在しない所はないという事は、このエネルギーも無限大で、質量も無限大ですから、それが全宇宙に遍満している事を、遍満の神、遍満の愛というのです。(※神のみが実在・愛のみが実在・大生命あるのみ)
ですから悟るのも迷うのもあなた次第です。色々な事を、頭の中で、概念で造り出す迷妄を持っている人が世の中には一杯います。
これが人間の苦しみとなっているのです。それは単なる概念にしか過ぎないのです。そんなものから何も得るものはありません。
この世の中に善悪があるのですか。絶対善しかないではありませんか。完全しかないではありませんか。皆さん方が自我でものを見るから、不完全のものの見方をするから、不完全の状態の現れ方をするだけなのです。
人間を見て愛を受け継いだ人は一人もいないのです。本質を受け継ぐには本質(大愛・大生命)を凝視しなければなりません。
これが「汝の観るもの受け継がん」仮相という人間を見ていて愛を受け継いだ者は、未だかつて一人もいませんという事です。
愛眼を開くことを、神眼を開く事とは同じ事です。自分を大愛だと観るか、それとも人間という仮相を見るかだけのものです。
だからお釈迦様は「外を見るな内を観よ」と。内なるもの(神)なくして外なるものは存在しないと。外は仮相世界で内は実相世界であると。
だから内を観よと。外なる仮相を見るのではなく内なる実相世界のみを観よと。その実相世界を天というのであると。人間の我(自我)が愛の我(普遍我・宇宙我・大愛・神我)に還る事を天に還るというのであると。
それは愛の大国であるから、愛は汝の内にあるから、即ち、汝の内なる天(神の御国)に還るのであると。本来の我(神我)に還る事であると。
神我は天で、自我は地となっています。天地一体となっています。天地一体とは「神我と自我は一体」という意味です。即ち、自我は仮相・神我は実相となっています。神我は天・自我は地。
ですから外という仮相を見て生きている限り地に這って生きる者、実相に生きる者は天に生きる者、即ち、地に這って生きる者の事を「地獄に生きる者」といい、天(愛)に生きる者の事を「天国に生きる者」と言うのです。
我は天より語るという事は、我は実相より語るという意味です。これを、愛の声。天の声と、言っているのです。
だから愛より語るべきか、肉より語るべきか。という事です。愛より語るは内なる声であると、これを「御言葉(みことば)」というのです。
ですから皆さん方は「私は人間なんです。肉体なんです」と、そんな事を言ってはならないのです。
「私は人間だ」といった瞬間、あなたは自分で自分を偽っていませんか。人間とは本当の自分ですか。偽りの自分ですか。
では、それは誰が誰を偽る事になるのですか。
だから「汝、偽るなかれ。汝、嘘つくなかれ」と言うのです。
どうしてあなたは大愛(久遠我)なのに人間という嘘をつくのですか。人間は嘘の自分です。大愛は真実の自分です。真実を語るべきですか。嘘をつくべきですか。嘘に生きるべきですか。真実に生きるべきですか。
あなたが人間として生きているならば、あなたは生涯嘘つきで終わらねばなりません。嘘を言う限り嘘の罪を犯していますので、罪人として生涯を終わらねばなりません。
嘘は罪になりませんか。人間と言った瞬間にあなたは罪人ではありませんか。嘘つきではありませんか。これを「罪人」というのです。
罪を消すには本物を認めなければならないのです。嘘をつかない事です。人間という嘘はつかない事です。あなたは人間ではなくて、愛そのものではありませんか。人間というべきですか。愛というべきですか。
どちらが正しくものをを言っていますか。「私は人間です」という人と「私は愛です」という人と、どちらがどちらが正しく語っているのでしょうか。だからイエス様は「我は愛なり」(アイアムラブ)と言われたのです。
皆さん方はこの形というものが自分なのか。本質という愛が自分なのか。これを徹底的に識別して行かねばならないのではありませんか。
では、天は何処にありますか。天に還る事を愛に還る。その愛の大国(真の自己・神の御胸)に還る事を天国に還るというのです。
愛に生きればそこには一点の悩みも苦しみも、そして病も存在致しません。完全ですからそこには病があるはずがありません。愛は病気になりますか。年を取りますか。死にますか。愛は普遍不滅ではありませんか。
愛の世界に[生・老・病・死」という4つの苦しみがあるのですか。そこには平安しかないのではありませんか。
あなた方はなぜ不安と恐怖に怯えているのですか。愛に生きているからですか。偽我という嘘をついているからですか。その人間に生きているからですか。
人間として生きる限り、あなたには生・老・病・死の4つの苦しみがつきまといます。皆さんの悩みがなくなるためには嘘をつかない事です。嘘の自分に生きない事です。真実の自分に生きるべきなのです。
大愛と人間とどちらが真実ですか。我は大愛なりと。愛がなくてどうして人間が存在出来るのですか。人間一人びとりの本質は、即ち、大愛ではありませんか。だから愛は一(いつ)にして多神となるのです。
愛が様々な形を表しているだけではありませんか。愛がなくて形という世界が存在出来るのですか。だから存在の本源は愛であるという事になるのです。存在の本源は神であるのです。
あなたは悟ったら人間になるのですか。愛となるのですか。人間だと思っている人に悟っている人がいるのですか。人間と思っている人の事を迷い人と言いませんか。
大愛(今即天・今即神)だと思っている人の事を悟り人と言いませんか。
これを大悟と言います。あなたは悟ったら愛となるのか人間となるのか。では自分が迷っているか悟っているか誰が一番良く知っていますか。
迷うも悟るも誰次第ですか。あなたは修行して大愛になるのですか。元々大愛なのですか。大愛になるのには修行が必要なのですか。お金が一円だってかかるのですか。天に還るも宗教次第ですか。お金次第ですか。
それともあなた次第ですか。実相は天です。仮相は地です。天と地という事は実相と仮相は一体という意味です。
それを天地一体と言っているのです。その実相が何処にあるのですか。それは汝の内ではありませんか。
仮相の自分が実相の自分(大愛)に還る事を天に還ると言うのです。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 59
- Date
- 2018.03.23 Fri
天上界のリーダーが説くカルマの法則♪悔い改めの奥義♪愛と調和と善意に満ちた1日を送るのが秘訣♪知花敏彦先生♪
愛の実践 神理の実践
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人間はなぜ愛か
悔い改めについて
「なぜ人間は悔い改めなければならないか」という事です。
私達には「自分を悔いる」という事が非常に欠けていると思います。
今、自分の生きている状態が〈自分は正しい人間だ。正しい生き方をしているのだ。だから罪などは犯していない〉という様な思いが非常に強いのですが、本当にこの私達が罪を犯してないだろうかと言いますと、
人を憎む事も罪であり、人の悪口を言う事も罪であり、その罪は全て私達の未来に必ず跳ね返って来るものです。
私達には[カルマの法則]といって、自分の蒔いた種は必ず、刈り取らねばなりません。今、皆さん方の日常生活の環境だとか、状態というものは、過去のあなたの心の影(カルマ・業想念)なのです。(現れては消えてゆく姿)
過去にあなたが行ったものが今生の刈り取りとなって、
そして今、思い行為(おこない)しているものが、あなたの未来の運命となって跳ね返ってくるのです。
例えば今誰かに自分が裏切られたとするならば、その「裏切られた」という事はどういう事かといいますと、過去にその人が裏切っているという事です。自分自身が人を裏切った過去を持っているのです。
そうすれば、その裏切りというものはどういうものであるかと言いますと、過去に自分が裏切ったならば〈自分が裏切られたらどういう状態になるか〉と、その心を知らされてしまうのです。
聖書の中にも書いてあります。
「生まれながらの盲というものは、それは彼の罪であるのか、お父さんお母さんの罪であるのか」という事が問われているのです。
これについては、例えば生まれながらの盲というものは、過去に於(おい)て人の目を潰した、人の目に傷付けて盲にした、そうすると
〈もしあなたが盲になったらどういう気持か〉という事を試練として、今、生まれながらに盲にされてしまいます。
これは「カルマ」です。自分の犯した罪です。そういうものの状態を皆さん方は知りませんから自分の泣き言を言うのです。
そして、その生まれながらの盲の子を生んでくれたお父さんお母さんは、どういうカルマを持っているかといいますと、過去に於て人様の盲を罵って、その子を生んだ父親や母親の気持ちが分からず、
「あなたは罪深い人だ。こんな盲の子なんかを生んであなたは業の深い人だ」と言って罵った人なのです。
罵ったとすると〈そういう立場に立ったらあなたはどういう気持か〉という事で、そういう子供のカルマを背負って、自分の家庭にその様な子供が生まれて来るのです。
これは旧約聖書にも書いてある「目には目を、歯には歯を」という事です。必ず自分の蒔いた種は実ります。(因果律の法則)
この前も顎を飛ばされたという交通事故がありました。それも偶然に顎の事故を起こしたのではないのです。これもカルマなのです。
過去に於て人の顎を棒や何かで叩き割ったとか、そういう罪を持っている時、今度は自分が叩き割られる立場に当たります。何故かと言いますと、人に与えた罪は必ず誰かを通じて自分に跳ね返って来るからです。
それだけ分かれば、皆さん方も今日一日という生き方が、心の在り方が、如何に大切かという事が分かってくるのです。これが未来のあなた方の運命となるからです。
過去の運命を、今、今生で刈り取ると同時に、皆さん方は、今、未来の自分自身の運命を築いているのです。
そういうものは皆さん方が悔い改めて行くうちに、徐々にそのカルマ、罪というものを造らなくなって、運のいい本当に幸せな人生を送る事が出来るのです。
そして、この世の中で罪の刈り取りをする必要性がなくなった時、この世で完全に悔い改められた方々はこの世から解脱いたします。ですから自分自身の環境を呪ってはいけないのです。
旦那さんに捨てられたという奥さん方は、必ずその奥さんが過去には男性で、その時の自分の奥さんを捨てたカルマを持っています。
〈もしあなただったら捨てられたらどうなるか〉という事を勉強させられるのです。学ばされるのです。
よくこの世で旦那さんが浮気をして、別に女を作って、その捨てられた奥さんが旦那さんを恨んでいる人が多いのです。これは愚かな話です。
その奥さんは過去においてそういう体験を持っているのです。
〈もしあなただったら捨てられたらどうするか〉という罪です。
それに報いられなくてはならないのです。それを通して人間は徐々に成長し、色々なものを体験を通して成長して行くのです。
「こういう事をしてはいけないのだ」
「こういう悪いことをしてはいけないのだ。捨ててはいけないのだ」
と、そういう体験を通し、それが私達の修行になるのです。
一つの家庭に小児麻痺の子供が二人も出たりします。これは可哀想な存在だなと皆さんは思います。
しかしその家庭に小児麻痺の子供が生まれた、大変惨めな子供が生まれたという事は、過去に於てその親が小児麻痺の子供を嘲(あざ)笑った。
罵った。「あんな小児麻痺の子供なんか」という様に嘲笑ったとすると、あなたが親の立場で〈もし自分の家庭にそういう子供がおったら〉というカルマが跳ね返って来るのです。
それを皆さんは知りませんから「神は無情だ。私の家庭にこういう小児麻痺の子供をお造りになった」と。これは親が犯した罪なのです。
その本人は本人で、過去に於て、自分が健康の時そういう小児麻痺の子供を貶したとか、罵ったとか、嘲笑ったとか、それ以上の物凄いカルマを持っているのです。
そういう時、自らが来世には小児麻痺になるのです。
〈あなたがもしそうだったら〉という罪を持っているのです。
おわかり戴けますか。分り易く話しますのでよく聞いて下さい。
そうしますと、皆さん方は人のカルマというものを見抜く事が出来ます。「あれは過去世にこういう罪があったのだな」と分かるのです。
ですから、聖書の中にも出てきますが「生まれながらの盲の罪はこの人のものか、お父さんお母さんのものか」という事に対して、
「この人のものであると同時に、お父さんお母さんのものでもある」という事を説いているのです。
それは何故かと言いますと、本人が人の目を傷付けて見えなくした。そうすると今生は自分が生まれながらの目の見えない状態で生まれ、そしてお父さんお母さんのカルマというものは、目の見えない者を侮辱した、
あるいは目の見えない者が通ると蹴っ飛ばしたり悪戯(いたずら)したり、あるいは目の見えない者を生んでくれたお父さんお母さんを侮辱したり笑ったりすると、そうすると〈あなたの立場だったらどうなるか〉と、必ず跳ね返って来るのです。これが「カルマの法則」なのです。
ですから、皆さん方は、今生は過去のカルマを刈り取っていると同時に、来世のあなたの運命を築いています。
それに早く気付いて頂き、私達の1日の想い行為(おこない)が、その未来のあなたの運命である事を知ってほしいのです。
あなたが人を憎んだとするならば、必ず来世はあなたは誰かに必ず憎まれる様になります。あなたが、今、常に、憎しみと人の悪口をいう性格を持っていたとするならば、あなたは来世は必ず人から悪口を言われるカルマを背負っているのです。
だから、自分の運命というのは自分自身が造ったものであって、誰もが造ったものではないのです。それを知っておくべきなのです。
正しい生き方をする人は正しいカルマが出てきます。今、一生懸命人助けをして人様の為に尽くしている運命を、カルマを持っている方がいます。
今、人から愛されて人から助けられている方がいます。過去背に於て多くの人様を救った方、奉仕した方は(積んだ徳で)、今、今生で多くの人々から救われています。善い事も、悪い事も、みんな跳ね返って来ます。
皆さん型のこういう善いこと悪いことのその混乱した状態の中に、皆さん方が今生で如何に自分のカルマを知り、人様のカルマを知り、憎まず、謗(そし)らず、そういうものを皆さん方が、愛に変えて。
愛のみの日常生活を行っていきますと、そうしますと皆さん方が、たとえ今生でこの世で解脱出来なかったとしても、皆さん方が愛に満たされていたとするならば、来世の運命は花の様なもの(幸せな人生)になります。
それは、こういう例えでも言えるのです。
旦那さんが女を作って何処かへ逃げた。奥さんは捨てられて残された。それは誰に責任があると思いますか。旦那さんですか。奥さんですか。
その奥さんに責任があるのです。奥さん本人が過去に於ては男性で、こういう悪い行為(おこない)をしたのです。
そうすると〈あなただったらどういう気持か〉という事の罪が背負わされるのです。その意味がおわかり頂けますでしょうか。
ですから、自分に襲いかかって来る災難、そういうものは全部自分で造ったものです。自ら出たものなのです。身から出た錆です。
これを人のせいにしたがるのです。自分の運命が悪いのだとか人のせいにしたがります。それは自らが蒔いた種です。
それで徐々にこういうものの成長を遂げて、体験を通して人を罵らなくなり、離婚、または自分の妻子を捨てないようにして、家庭を本当に愛に満たして育てる環境というものを、自らが造って行くという事が大切なのです。
そうしますと、次に返って来る体験も素晴らしいものが出てくるのです。
今、今生で知花というものが、こういう具合に皆さんの前で正法を話し、神理を話すという事は、過去世の私の善きカルマなのです。
過去に於ても、私は人様の為に神理を説いていたのです。その過去のカルマが今生もまた芽生えて、こういう具合に人様の前でお話をするのです。
今、私は皆さん方の事を「幸せ者だ」という事は、こういう人生で皆さん方が「神理に巡り合った」という事なのです。
正しい生き方の道を知って、正しい日常生活で罪を犯さなくなる様な状態を造り上げて、人を憎まない、謗らない、怒らない、嫉妬をしない、悪いあなたの罪がここで減少され起こらなくなった時、皆さん方の来世、未来は非常に素晴らしいものとなるのです。
そのことを『神理は汝を自由ならしめん』と言います。
神理というのは正しい生き方の事を言いますので、正しい想い、正しい行為(おこない)、そして正しい生き方が皆さん方に成就されて来ますと、未来は正しいあなたの環境が、あなたの(幸せな)人生が待っているのです。
今の今、過去の自分を非常に悔いて「私はあの時人を憎んだ。謗ったり怒ったり、そして色々の悪い事をしたけれども、あれは申し訳なかった。私の罪であった」という様に悔い改めなければならないのです。
改めるという事が大切なのです。悔いるだけでは何もならないのです。
悔いたのはあなたの過去の罪を悔いたのです。
そして改めるという事は、来世のあなたを築くという事は、その間違いを二度と起さないように、そして今の生き方一日一日というものを、平安の中に愛の中に生きなくてはならないのです。
皆さん方には来世というものがあり、皆さん方は今生で終わりではないのです。皆さん方が完全になる。人の悪口も言わない怒りもないその完全愛に達成した時に、皆さん方は成就された魂として、完成された魂として、この世の試練から開放される事が出来るのです。
皆さん形が過去に沢山の罪があったとしても、今あなたが悔い改めて正しい生き方をする事によって、悔いる事によって過去のカルマが解消され、そしてあなたが今、今の今、正しい生き方をする事が如何に人間の救いであるかという事です。悔い改めのない人間は救われる事はないのです。
何も分からない人は〈人間だから怒るのは当たり前じゃないか〉〈悪い事をするのは当たり前じゃないか〉と思っている人が多いのです。
その人は悔い改めをしていませんので、来世は物凄い強烈な厳しい環境の中に生まれます。今、心改めなくてはなりません。過去を改めなくてはなりません。
過去のあなたの心の現れが今のあなたの環境なのです。運命なのです。それは「あなたの心がどういうものであったか」という事は、あなたを見れば、今のあなたを見れば分かるのです。過去に善い人であったのか、悪い人であったのか、今のあなたの環境を見れば分かります。
悪い人だったならば、今、悪い結果が必ず現れます。旦那さんに捨てられたり、あるいはその家庭内に沢山の病人がいたり、様々な経済的な苦しみなどそういうものを体験しています。
現在は奴隷制度はありませんが、今生で奴隷的である者は過去世においては主人だったのです。そして今生で主人である者は過去世では奴隷的であったのです。
全てを、全ての全てを私達はこの世で体験しています。今、社長である者は過去世では労務者であったかも知れない。
そして今〈人を使う身になればどういう気持か、どういう心持ちか〉と、それを体験させられるのです。
だから、今、社長になっているものも偶然に社長になったのではないのです。過去世に於ては下働きでうんと使われた身で、その下働きの身で〈今生は社長になったらどんな心持ちなんだろう〉という過去のものが今生で社長にさせるのです。
今、例えば社長になっている人が放漫経営であり、会社の従業員を愛しないで、自分だけの自己中心的な欲望だけの達成の為にその人が生きていたとするならば、来世は必ず下働きで、うんと給料の安い厳しい環境の中に生まれます。
そういう事が分かりませんから、人間はみな増長慢になって、「自分は偉いのだ」といって自分の従業員をバカにしたり、踏みつけたり、その放漫社長になっている人はもう未来は決まっています。
その人の未来は非常に貧乏で、うんと苦しまなくてはならない運命をその人自身が築いているのです。
そういうカルマの法則を、因果律の法則を、みんなそういう法則から免れた人間というのは一人もいないのです。そういう事を皆さん方はよく学び知って、神理を知って、今の今を改めなくてはならないのです。
結婚をして10年~15年になっても子供が出来ない、あるいは生涯子供が出来ない夫婦がいます。それは偶然に子供が出来ないのではないのです。
過去に於て子供嫌いであった、子供が嫌いで好きではなかったのです。子供が出来すぎて子供の出来ない人の事を羨ましがったりしたのです。
〈子供が出来ない人は幸せだな。自分はこんなに沢山子供を生んでしまって子供達を育てるのに大変だ〉という、そういう想いが強かった人は今生で結婚はしますが子供は出来ません。
〈もし子供が出来なかったらどういう気持ですか〉という事を問われるのです。
子供がいた方がいいのか、いない方がいいのか。しかし人間は過去の事が分かりませんから、欲望ですから、子供が出来ないと
「神様は無慈悲だ。みんなには子供をお与えになるのに、私には与えて下さらない」と、泣き言を言うのです。
どうでしょうか。誰が悪いのですか。神様が悪いのだと思いますか。それは自分自身が望んだものの通りにしかなっていないのです。その様に今生で子供の出来ない夫婦というものが出て来るのです。
これはみんなカルマなのです。過去においてのカルマなのです。
皆さん方が、今、今生でこう生きているのは、過去のカルマの刈り取りをさせられていると同時に、今、同時に自分の未来を築いているのです。今の今の生き方があなたの運命となって来るのです。
だから、一日一日というものが、非常に大切だという事が分かるのです。あなたの1日の善い想いの積み重ねは、未来のあなたの善い環境となり、善い運命となるものなのです。
今、皆さん方は自分の未来を築いています。その未来を築いている事を知りませんから色々な悪い事をするのです。その悪いことは必ずあなたの未来に悪い結果として現れます。
それを刈り取らなくてはなりません。それが皆さん方には分かりません。その為にどんどん罪を犯しているのです。だから私達は悔い改めなくてはならないのです。
私の環境の中にもそれが現れる事があるのです。
例えば、以前私のことをある指導者が「知花には動物霊が付いている」と間違った事を本に書いたのです。それは誰が悪いかといえば私が悪いのです。
おそらく私が過去においてある人に「あの者には動物霊が付いている」と、その人を貶(けな)したカルマがあり、その事が偶然に出てきたものではありません。私は自分自身のカルマをよく理解しておりますので、
それをいう人は私の心の現れであり、それは確かに私が過去に於て、同じ指導者である立場に於(おい)て、人様を罵った貶したそのカルマは
「今こうしてその人を通して刈り取りをなされているのだな」という事が分かりますので、過去のその人に大変申し訳無いと思うのです。その人にお詫びをしなくてはならない。その事を悔い改めなくてはならないのです。
普通一般ならば、そういう間違った悪い事を本に書かれたならば、カッとなって怒るはずです。でも私には怒れないのです。自分の心の過去の罪が今生でこういう結果として現れている訳です。
それに私に責任があるのであって、それを書いた方に責任があるのではありません。しかしその方は私の事をそう書くことによって、彼自身の新しいカルマを造っているのです。その人も来世になりますと、必ず誰かに「あの者はこうである」と書き上げられるのです。
ですから、人の非難のし合いは辞めようではありませんか。人を非難している方々は多くいますが、非難される非は、誰に非難される非があるのかというと、それは自分自身にあるのです。
今の今には皆さん方は思い付きません。なぜなら皆さん方は過去世で犯したものですから、その潜在意識が読めませんから、過去でこうであった事をみな忘れていますので、その人を憎んでしまうのです。
その意味がお分かりでしょうか。それが分かる様になりますと人様の全てが許せるのです。人様の悪い結果として現れているものは皆自分に原因があります。自分に原因がないものは一つも存在いたしません。
ただ今生では皆さん方の目は近目なのです。今生だけの自分自身を見つめるから分からないのです。過去を遡(さかのぼ)って
「過去に於てそういう私の心の現れが、今、そのカルマの刈り取りをさせられているのだ」という事が分かって、「その過去の罪の現れに悔いて、今の今を改める事が如何に大切であるか」という事なのです。
みんな不平等であるのです。目で見るとみんなカルマが違いますから、銘々の家庭はみんな色々と不平等であるのです。
善い家庭もあれば悪い家庭もある。また、金持ちの家庭もあれば貧乏の家庭もある。様々です。何故様々なのか、それは銘々のカルマが違うからです。想いや行為(おこない)が百人おれば百色違うからです。
しかし、そのカルマは、その運命の造り主は誰であるか。それは自らが造ります。自分自身の想い行為が正しくなる事によって、私達の運命も正しい結果が生まれる事を忘れてはなりません。
ですが、人間はややもすると、自分に結果的に悪い事が起こってくると、すぐ相手様のせいにします。「あの者が悪いのだ」という様にしてしまいます。
例えば誰かの保証をはいて保証履きをさせられた。その人に代わって債務を負担させられた。それは保証履きさせた人の方に責任があると皆さんは思います。
保証履きをきさせられるのはその保証履きさせられた人に責任があるのです。過去世に於て自分は他の人に保証履きをさせ、その人に自分の債務を負い被せたのです。その人を騙した事があるのです。
騙されるという事は、過去に於て自分が騙しているなら、今生は必ず誰かに騙されます。それはカルマの法則なのです。
ですから、いくら自分が人に騙されても、その騙した人を憎んではならないのです。なぜ憎んではならないかといいますと、過去に人を騙した結果が今現れているからです。
「自ら蒔いた種は必ず刈り取る」と、それを皆さん方が心の底から知っておられるならば、〈それは全部我が身に責任があるのだ〉と、決して何者も憎まないと思うのです。
今、今生の身近なその近目でものを捉えるから、私達は憎しみとなって来るのです。
皆さん方一人びとりはみんな過去世というものがあります。過去世があって今生があって、また、未来というものがあるのです。
皆さん方は、今の今[過去・現在・未来]の中に生きているのです。三世にに跨(またが)っているのです。今の今に、この瞬間に三世であるのです。その意味がお分かりでしょうか。
今、今生の皆さん方の運命に襲いかかっているのは、みんな過去世のものなのです。(現れては消えてゆく姿♪ by五井先生)
皆さんの今の思い行為(おこない)は今生であり、そしてそれと同時に、今の想い行為(おこない)は未来です。来世です。
ですから皆さん方は、今の今、三世に跨って生きています。その意味がお分かり頂けますか。過去、今生、来世にと、三世に跨っているのです。
今のあなた方の心の状態が如何に大切か、今の今が如何に大切かという事が分かってきます。今、私達は過去のカルマの刈り取りを取ると同時に、今の今、自分の来世、自分の未来を私達は築いています。
そうしますと皆さん方は1日の言葉遣い、想い、行動というものが如何に大切であるか。これがあなた方の来世の運命となるからです。
しかし、世の中の人々はその神理が分かりませんから、法則が分かりませんから勝手に人を憎んでいます。
例えば人に金を騙し取られたとか、保証履きをさせられたとか、悪口を言われたとか、色々と勝手に人を憎んでいるのです。
皆さん方は誰かに悪口を言われた体験がありますか。言われたのは誰に責任がありますか。相手を責めるのですか。自分責めるのですか。誰を責めますか。
普通なら相手を責めます。しかし、あなた方は神理を知ったら相手を責めますか。その因果律の法則を知ってしまえば相手を責めないと思います。
まず自分自身を悔いる事です。〈ああ、私は過去に於て人様の悪口を言ったカルマがあったんだな。だから今、私はこの人を通してその人から非難されているんだな。悪口を言われているんだな〉
と、相手を責めるのではなく、自分を責めて、それを悔い改めるのです。
〈申し訳ありません。あなたは私のカルマの対象となって、こういう悪い現れ方をして下さっているんです〉と。
相手はみんな自分の心の鏡なのです。映しなのです。
しかし、自分自身の心が相手に映って、そういう結果が起こる事を皆さん方は知りませんので、相手様のせいにして相手を憎んでしまうのです。
それが皆さん方の心の中にあるのです。どんなに悪口を言われようが、どんなに憎まれようが、あなたを憎んでいる人がおりましたなら、それはあなたが過去に於て蒔いた種なのです。
あなたが過去に誰かをうんと憎んだ罪があります。その罪の刈り取りがあなたが誰かに憎まれる状態になるのです。その法則を皆さん方が知っておられたなら、この世で憎しみ合いや怒り合いというものはないのです。
相手というものを見るのではなくて〈相手の現れはみんな私の過去の心の過ちであった〉と、悔い改める事です。
善い事も一緒なのです。例えば人様からよく愛される人がいます。その人は過去に於てうんと人様を愛した方です。奉仕を積んだ方です。
世の中には非常に面白い所があるものです。あまり学問もないのに、学校も出てないのに、知恵もないのに、働きもあまりしないのに金持ちの人がいませんか。それは過去に於て人助けのうまかった人(徳を積んだ人)です。
その反面、一生懸命勉強して、大学も出て学問もあるけれども、知恵もあるけれども、よく働きもするけれども、一向に金にならない人がいます。
それもその人のカルマなのです。
皆さん方に偶然というものは、一つもない事を知らなくてはなりません。まず、あなた方が人様を見るのではなくて、自分を見つめる訓練が出来た時全ての非は自分にある。
相手がどんなに悪く映ろうが、どんなに善く映ろうが、非は全部自分にあるのです。その自分自身の負債を人のせいにしてしまうのです。
喧嘩をするのも、例えば今生で誰かと血を流す様な喧嘩をしたならば、必ずその人は来世で誰かから血を流されます。人を殺せば穴2つ(掘れ)。殺せば殺される。傷付ければ傷付けられる。
例え傷付けられても相手を恨んではいけないのです。過去世に於て傷付けたその本人が、必ず誰かに血を流させられます。今生でその血を流す体験をさせられるのです。
流した方の体験です。〈あなただったらこういう痛い思いをしたらどうするか〉とい罪を刈り取らされるのです。
人の目を潰せば自分の目が潰れます。来世はどうなるでしょうか。生まれながらの小児麻痺の子供を罵って笑って貶(けな)せば、必ず来世はその家庭に小児麻痺の子供が生まれます。
あるいは自分自身が小児麻痺で生まれて来ます。これは因果律の法則なのです。それを通して〈ああ、なるほど。こういう事で悪い言葉や悪い想いや、こういう事をしてはならないのだ〉と。
皆さん方の魂が成長して来ますと、今生こういう悪い罪やそういうものを造らない様になります。そうすると皆さん方の未来、来世は素晴らしい環境と運命を築きます。
どうでしょうか。今、正しい運命を築いていますか。誰も憎んではいけないのです。憎むと必ず誰かに憎まれなくてはならないのです。
誰かを傷つければ必ず来世であなたは誰かに傷付けられます。悪口も言ってはいけないし、謗(そし)ってもいけないし、謗れば謗られるのです。
今、皆さん方が嫉妬をしているならば来世に必ずあなたは嫉妬されます。人を苦しめているならば必ずあなたは来世に苦しみという運命を背負います。
何度でも申します。今の今というものが如何に大切であるか。今の今、今日という1日が如何に私達の未来を築いているか。
それと同時に過去のカルマを刈り取っている。その両方のお荷物を背負っておりますので厳しいのです。これを難行苦行という訳です。
どうでしょうか。それを正さずにして、自分の未来を運命を一生懸命築こうとして「南無妙法蓮華経」と上げた所で何もなりません。
そんなものではないのです。そんなものではなくて皆さん方の日常生活の言葉遣い、想い、行動というものが運命を築くのです。
今どういう日常生活をしているのだろうか。どういう想いで生きているのだろうか。自分に厳しく人には寛容な心を、これを持って生きることが如何に大事であるかがお分かり頂ける事と思います。
祈りよりも何よりも一番大切な事は、今の今という、今日という今日を皆さん方の想いが如何に人を傷つけず、罵らず、嫉妬をせず、その一日一日を送って愛に満たされて生きるかと、これが大切なのです。
今、私は来世の私のカルマを築いているのです。こうして皆さん方の前でお話をしている私というものがどうなるのでしょうか。
こういうお話をする事によって、私の未来は明るく、それは素晴らしい善いカルマとなるのです。愛の現れなのです。
だから多くの人々のために奉仕をし、尽くし、その人はたとえ解脱出来なかったとしても、その人は次に生まれ変わる時は、物凄い素晴らしい未来が待っているのです。
その生まれ変わりの未来を造るために、動機がそうであって、私はやっているのではありません。それは愛でなくてはならない。人を罵ってはならない。怒ってはならない。謗ってもならない。嫉妬してもならない。
悪口を言ってもならない。悪なるものをみんな撤退し、そして正しい言葉遣いと、正しい教えと、正しい想いと、正しい行為に、私達は改めて行かなくてはならないのです。
その改めが皆さん方の未来です。過去を悔いて今の今を改める。今の今を皆さん方が改めなかったならば、皆さんの運命がはどうなっていくのでしょうか。
運命の造り主は自分自身であることをみんな忘れています。だから暗闇の人生を歩んで、人を憎んだり、謗ったり、様々なカルマを罪を背負ってあの世に還ります。そして来世はその悪因しか持っていませんから、悪の結果を皆さんは刈り取ります。
罪を造れば造るほど私達は制約を受けます。束縛されます。罪を犯さなければその罪からみんな解放されて行きます。あなたを縛るものがなくなります。
縛るものがなけれえば皆さん方は自由ではないでしょうか。神理を知って、神理の如く生きるようになって、皆さん方は無限の自由を得るのです。
神理を知る事によって、皆さん方は罪から開放されるのです。その事を『神理は汝を自由ならしめん』といいます。神理を知ってそういう罪を犯さなくなる事によって、皆さん方は罪から開放されるのではないでしょうか。
罪を犯しながら罪から開放される人間というものは、世の中には一人もおりません。自分の蒔いた罪から祈って免れる人間というのは、一人もいない事を知らなくてはなりません。
罪から皆さん方を開放するのは、自ら神に祈って〈我が罪を許して下さい〉という事ではなくて、自らが自分を犯さなくなる。
悔いなくてはならない。悔いて罪を解消して、私達は新しい罪のない生き方をしなくてはならない。と、こういう生き方が私達を救うのです。
皆さん方は今、何かの不安と恐怖の中に生きているのではないでしょうか。何故不安なのでしょうか。不安や恐怖は何から来るのでしょうか。それは自分の道を知らない時、そして道に迷っている時が不安なのです。
皆さん方は道に迷うと恐怖しませんか。不安ではありませんか。道を知って「この道を行けば何処にたどり着く」という事を知っておれば不安も恐怖もなくなります。
まだ皆さん方の心の中に不安と恐怖があるならば、正しい神理を知っておりません。あなた方が正しい神理を知り、正しい道を知ったならば
〈こういう生き方をすると神に至る事が出来る〉と、その道をあなた方が実感として持っていたならば、あなた方に不安と恐怖があるはずがありません。
ですから私達は今、今日一日というものが如何に大切であり、なさねばならない事が多いか、それは非常に大切な事なのです。
しかしその大切な事を皆さん方の肉体の欲望が誘惑します。肉体の誘惑は強烈です。肉体は色々の欲望を持っているのです。物質欲、性欲、娯楽、肉の快楽、もう全てです。だから肉体に支配されて本質なるものを私達は見失っています。
肉体から出て来るその自我(利己的・自己保存の心)というのは利己的です。
本来、私達は非利己的なる本性、神性なるもの(神我・真我)を持っています。皆さん方の本性は神性なるものであり、欲望でもなく、利己的でもなく、非利己的である。と、
その自覚が出来て、非利己的(神我)がその利己的である肉(自我)を完全に支配した時、皆さん方はもうこの世で罪を犯す事はありません。
罪を犯さなければ縛られるものがない訳です。そうすると、その人は自由を得ます。無限の自由を得るのです。恐怖もなければ何もないのです。
無知で何も神理を知らないままで、それを学ばず、それに生きない人は、いつも不安と恐怖の中で肉欲の中に生かされています。
『神理をよく学び、神理をよく行う者は、神の御心(みこころ)を行う者は、我が御国を観るであろう。我が御国に至る事が出来るであろう。神の御国に入る事が出来るであろう。だがそれを歩まず行わず悔い改めずにしては、何者も御国に入る事あたわず』という様に神の道は険しいのです。
皆さん方の(善意・愛の)実行実践(※洗心でもあります)があなたを救うのであって、私の話があなたを救うのではありません。
その話を通して、その話を実行する事が如何に大切であるか、それを改めというのです。過去の間違った自分の想念行為を悔いて、今、正しく改めて生きる事です。
今まで私達は無知のために人に平気で悪口を言いました。人を平気で罵りました。だからそういうものを、私達は過去の悪かった部分を悔い改めなくてはならないのです。
私達は罪を造らない。罪を造らなければ罪によって苦しめられる事はないのです。束縛されないからです。
皆さん方は今日一日罪を犯さなかったか。正しい生き方をしたか。それを如何に悔い改めるかという事が大切になって来るのです。
皆さん方は今の環境を呪ってはなりません。今の環境は皆さん方の心の、過去の心の過ちの、その心の影が今という今生に映っているのです。
それが運命となって環境となって現れているのです。それはみんな自分自身に非があったのです。
「あの者はこの者は」と自分に少しでも妨害する人が、迫害する人がおりましたなら、皆さん方はその人を憎む癖があります。
それは相手の人に非があるのではなくて、自分が憎まれたり妨害される事は、必ず自分自身に非がある事を忘れてはなりません。
その事が「自分が蒔いたものしか刈り取らない」という事なのです。
皆さん方が正しい原因を持っていたならば、正しい結果が必ず自分の所に訪れます。ですから、皆さん方は正しい原因者にならなくてはならないのです。正しい原因を造る為には善意でなければならない。愛でなければならないのです。
愛と善意に生きる者は結果も愛と善意しか訪れません。悪意という悪い想いをしておれば必ず結果も悪なのです。皆さん方は悪なのか善なのかという事なのです。
神に至るには善意であり、『善意の行為』『善意の言葉遣い』『善意の想い』であらねばなりません。それしか皆さん方の救われる道は残されておらない事を、よくご理解して頂きたいと思います。
今日は皆さん形に[悔い改め]と[カルマの法則]の一部を申し上げました。善いものを造られます様に、善い原因と結果を持たれます様に、
愛と善意を通して、是非、皆さん方が日常生活の中でこれを築いていかれます事をお祈りいたします。
洗心(天の理=洗心) いつももつべき正しい心
強く 明るく
正しく 我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ
心の中からなくすべき感情(ご法度の心)
憎しみ 不満
妬み 疑い
猜み 迷い
羨み 心配心
呪い 咎めの心(人を責める心)
怒り いらいらする心
不平 せかせかする心
■四句御箴言(しくごしんげん)
与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ
与えられたことを拒むこれ欲なり
与えられぬことを欲するこれ欲なり
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 60
- Date
- 2018.03.19 Mon
お釈迦様の呼吸法の悟り話♪白隠禅師の夜船閑話の呼吸法♪健康は酸素たっぷりの正しい呼吸から♪村木弘昌医学博士
『夜船閑話(やせんかんな)』の呼吸法とはどんなものか?
白隠禅師自身は”丹田呼吸”という用語は使わなかったが、その中心になる内観法は使わなかったが、その中心になる内観法、軟酥(なんそ)の法はともに長息(長呼吸、長く息をゆっくり吐く)の丹田呼吸法である。
どういう呼吸法なのか、とりあえず全貌を次の対談から想像してもらいたい。これはNHKラジオ第二放送の「宗教の時間」に、NHK学園講師の金光寿郎氏の質問に答える形で語った速記録である。
放送当時のタイトルも「白隠の呼吸」であった。注釈を一言だけ言えば、対談中に出てくる「調和道を初めた藤田霊斎」だが、霊斎先生は白隠の『夜船閑話』を徹底読破して、新しい丹田呼吸法の型を作った方である。
その丹田呼吸法を調和道と名付け、同じ名前の団体を作った。
昭和三十二年、九十歳で没したが、丹田呼吸を現代に蘇らせた人物として記憶してもらいたい。
金光 白隠禅師の『夜船閑話』の中に内観の四則というのがありますが、あの四則というのは4つの規則という意味ですね。
村木 そうです。最初に本来の面目(めんもく)、
続いて本文の家郷(かきょう)、唯心の浄土、己心(こしん)の弥陀(みだ)と4つをあげているわけです。
金光 「我がこの気海丹田(きかいたのでん)腰脚(ようきゃく)
足心(そくしん)、すべてに是(こ)れ我が本来の面目、
面目何の鼻孔(びこう)かある」、これは有名な言葉でございますね。
村木 そうですね。
金光 それに続き「我がこの気海丹田、すべてに是我が本文の家郷、家郷何か消息がある」、それから三番目が「我がこの気海丹田、すべてに是唯心の浄土、浄土何の荘厳(しょうごん)かある」、
四番目が「我がこの気海丹田、すべてに是己身の弥陀、弥陀何の法をか説く」……対になっていて調子の良い言葉でございますね。これをどういう風に扱うんでございますか。
村木 本来の面目、つまり本当の自分とは、気海丹田腰脚足心、すなわち下半身に重点があると考えられるんだという事ですね。
金光 気海丹田とはどこの事でしょうか。
村木 気海は臍下(せいか)訳一寸五分、丹田は三寸という文章がありますように気海・丹田で、下腹部と考えていいと思います。それに白隠さんは
腰脚足心を付け加えていますから、お腹だけでなく、下半身の全体にすぐれたものが内在しているんだという事を現していると思いますね。
金光 それで、下半身に心を込めて力を入れる、この言葉を繰り返し唱えるわけですね。で、力を入れるというと気張(きば)るという感じを受けやすいのですが、それとは違うんでございますか。
村木 それは誤解しやすい言葉でして、実は力を無理に入れるんではないのです。1番良い方法は、上半身を下半身に向けて前傾姿勢をとる。
すると、お腹に力を入れようとしなくても入っていきます。自然に入るという事が大事なんですね。それが坐禅の時に下腹に力を入れなさいなんていうと、間違う場合が多いのです。
ですから、私は、坐禅でも上半身を曲げるような前傾姿勢を最初と最後に取り入れて、五分ほどやったらいいと思うんです。
金光 はい、鳩尾(みぞおち)を落とすという事は、医学的に非常に重要な意味があります。鳩尾の真後ろの腹膣内に太陽神経叢(たいようしんけいそう)があって、それが腹部大動脈に沿って拡がっているわけですね。
その一部は大動脈にまとわりついています。そしてこれが前傾姿勢をすると、非常によく働く事が分かってきたのです。
金光 それで、力が自然に入ってくる場合は、短い呼吸でなくて、長い呼吸の方がだんだんと入るような気がするんですが、それにしても
「我がこの気海丹田腰脚足心、すべてに是(これ)我が本来の面目……」と、けっこう長い、これを4つ続けるとかなり長く息を吐く事になりますね。
村木 はい。要するに、分節超呼気(ぶんせつちょうこき)という事になります。これは非常に大事な呼吸法です。
金光 声を出してやると、自然に丹田呼吸になるんですか。
村木 そうすると気持ちがとても落ち着いてくる。要するに、出る息を長くする事によって、精神集中が可能となり、さらにもっと拡がっていくと、大自然を見る目が深く広くなっていくという事に繋がるんですね。
「充分に吸い込む」ためには息を入れるスペースがいる
金光 丹田呼吸で、自然に丹田に力が入って長く生きを出していますと、医学的裏付けとしまして、どういう事になっているんでございましょうか。
村木 人間は他の哺乳類と違って立位(たちい)の生活をしていますから、胸と腹が上下関係になっています。すると、心臓から送り出される動脈血が約70%ぐらい下半身にいきます。
それを必ず心臓に還さないと、心臓は送り出す血液がなくなってしまいます。そのために人間はどうすれば良いかというと、上半身の前傾動作をすると横隔膜がこれに連係して収縮活動をする。それでお腹に力が入る。
その腹圧により、下半身の静脈血を心臓に還しているんです。同時に長呼吸ですから、肺胞という三億ある小部屋の中に溜まっている炭酸ガスをいくらでも吐き出す事ができる。
その次の瞬間に大量の酸素が入るという面白い働きがあるんです。
金光 吐き出した後は、空っぽになっているから、吸い込む努力をしなくても酸素が自然に入ってくるんですね。
村木 そうなんです。そこに大きな東洋的な呼吸の特徴があると思うんですね。これが西洋では、酸素が必要だから胸を拡げて一杯に息を吸いなさいという考えですが、これは案外だめなんです。
というのは、浅い呼吸ばかりしていると肺胞の中にはいつでも炭酸ガスが詰まっておりますから、それに先に追い出さないことには、酸素を入れようと思っても十分には入らないのです。
「身体がどんどん良くなる」とイメージする効用
金光 今までの内観の四則と、もう1本の柱である軟酥の法というのはどういうものですか。
村木 酥(そ)というのは牛乳などを煮詰めて濃くした極めて栄養の多い乳製品です。これを頭上に乗せたと想念し、これが頭の骨を通して大脳に染み込み、さらに下に降りて心臓、肺と浸透して、次にはお腹に下がって肝臓、
胃、腸、腎臓、膵臓など沢山の内臓に潜注(せんちゅう)していくと、内蔵に色々な故障を持っていても、みんな綺麗に治ってしまうんだという想念を凝らしていきます。
不思議な事にそれが長呼吸になるんですね。出る息が非常に長くなって、気持ちも落ち着くんです。
金光 上からずずーっと下がってきて、身体の隅々(すみずみ)までいき渡っていると思っていると、呼吸の方も忙しくなくて、ゆっくりと吐き出していけるというわけですね。
村木 その長呼吸が、気持ちを非常に落ち着かせる事になりますね。
金光 はい。その時大変面白い事には、徹底的に吐いて、吐きぬくと、今度は吸うことは考えなくても、待ってましたとばかり大量に呼気が肺に入ってくる。その中に必ず21%程の酸素が入っていますから、この酸素がよく吸収されるんですね。
これを西洋的発想でいくと、さっき言ったように、酸素は必要だから一杯吸いなさいとなります。これでは肺胞の中には炭酸ガスが入ったままで吸いますから、案外入らないのです。その事はオルザット方式のガス分析で調べてみるとハッキリ分かります。
金光 ずーっと吐き出していると炭酸ガスが大量に外へ出るし、出た後だから酸素はスーッと効率よく入ってくるというわけですね。そういう事は昔は考えなかったけれど、東洋では昔から合理的な呼吸をしていたのですね。
村木 はい。行住坐臥、全部できます。
金光 ことに病気で横になっていらっしゃる方なんかには、非常にやりやすいわけですね。
村木 そうですね。その時は両手を胸から下へ撫で下ろしながらやると良いのです。
金光 じゃあ、軟酥の法なら軟酥の法を、横になったままで出来るんですね。
村木 そうです。しまいにはそういう事を考えないで、長呼吸だけをやればよいという事が分かってきます。
金光 軟酥の法の場合でも、力を入れようとしなくてもいいのですね。
村木 ええ、むしろ肩の力を抜いて、坐位の時ならば上半身を前を倒していくと、自然にお腹に入り、胸の方は軽くなります。これを私ども調和道の道祖は上虚下実(じょうきょかじつ)という言葉を使っています。
上半身を軽くして、下半身には自然に力が入るという事ですね。
「力強い息」をする秘訣
金光 真人(しんじん)の息は踵(くびす)を以て(もって)する、という言葉が『夜船閑話』にありますが、これもやはり丹田呼吸といいますか、腹式の長呼気でないと中々出来ないわけですか。
村木 はい。踵の息、これはあくまで想念の呼吸で、踵から息を入れたり出したり出来ない事は当然ですけれど、そういう気持ちでやりなさいというんです。
その時はどういう呼吸をしているかというと、足の裏の後部から息を入れたり出したりというわけですから、かなり力強く息をしないとそうならないわけです。
そういう想念を使って息をさせる所が東洋の面白い特徴ですね。西洋ではそいういう事は殆ど言わないと思いますね。出来ない事はやらないですから。
金光 長呼気をすると、心身共に非常に良いからやりなさいというのを、真人の息は踵を以ってす、という表現にしたのですね。
村木 そうですね。お釈迦さんも、足心(そくしん)、つまり足の裏に心を込めて息を出したり入れたりしなさい、と言っているのと同じ事ですね。
金光 ああ、そうですか。『大安般守意経』にもそういう言葉があるわけでございますか。
村木 『夜船閑話』の中に、呼吸をする時お釈迦さんは足心に心を込められた事が書いてあります。
金光 こういうのは、かなり腹圧のかかる様な長い呼吸でないといけないのでございますか。
村木 そういう事です。だから、出る息を長くするにはかなり努力がいります。けれども、繰り返しやっていると苦痛でなくなる。しまいには長呼吸が楽しくなるという事ですね。
金光 『夜船閑話』のどこかに確かあったと思うんですが、あまり頭で色々考えていますと、特に現代の様に情報が過剰な時代ですと、頭が熱くなってしまう事があるんでございますか。そういう状況を心火逆上(しんかぎゃくじょう)という言葉で表現されているわけでございますか。
村木 そうだと思いますね。特に息を止めている場合は心火逆上という事になりますね。私どもが怒ったときにはしばしば息を止めます。すると頭が重くなります。息を止める事によって、大脳の静脈血が心臓に還れない。
すると大脳は静脈血の鬱血(うっけつ)が起こる。そのために脳圧が上がって非常に危険になってくるわけですね。頭は重くなるし、考え方も常軌を逸してくる。普段考えられない事もしでかす様になります。
そういう意味で胸に力を入れて息を止めるという事は危険な事です。私そもの調和道の藤田先生は、ドセキ厳禁という事をしょっちゅう私どもに教えておりました。
金光 ドセキとは怒るという字に責任の責ですか。
村木 本来は努力の努ですが、怒(おこ)るの怒の方が面白いですね。怒ると息を止めますから。
金光 努責というのは、そうしますと呼吸を泊めてしまって……
村木 胸に力が入る。これは非常に危険です。ですから今後、医学の中で体腔圧変動学というのが必ず出てくるはずです。それには努責任が1番危険だという事が強調されると思うんですね。
金光 この事に昔から気付いていた方がおいでだったのでございましょうか。
村木 これはものを考える人は、すぐ分かりますね。息を止めますと、頭がカーッとしてしまって、正常な考えができなくなってしまいます。
金光 そうしますと、お釈迦さんなんかも、長い間いろいろな苦労をなさった方でございますから、当然こういうご経験もおありだったとみて宜しいでしょうか。
村木 大ありです。特に苦行六年の最後にはかなり激しく息を止めておられる。それは必然的に胸に力を入れて、この努責をやった。その時脳天を鋭い刃物で突き刺される様な激痛を覚えたという事が仏典の苦行偏に記載されています。
金光 もう顔は死相になっているという事でございますか。
村木 ええ、危険ですよね。ともかく心臓に血液が還らないのですから、送り出す血液がなくなっちゃいます。そこで息を止めるのはいけない事だと気付くわけです。
金光 このままいったら自分は駄目だと……
村木 そうなんです。それでスパッと息を止める事をやめてしまいますね。その後で長呼吸をやられる。この、出る息を長くする事によって、お釈迦様らしい素晴らしい発想がいくらでも出てくるんですね。
今申したような軟酥の法あるいは内観の法も長呼吸ですから、これをやると出る息を長くしますから、非常に血液が綺麗になります。
そして出して出し抜いた後には、待ってましたとばかり酸素が大量に入ってくるという、素晴らしい働きがあるわけです。
どんな姿勢でも充分深い呼吸が出来る
金光 これも慣れない間は意識的努力、練習が必要なんでございましょうね。
村木 そういう事です。長呼気だけやろうと思っても難しいですから、やはり色々工夫が必要です。幸い、私どもは藤田霊斎先生あるいはお釈迦さんから、短息、つまり力強い息の重要さを教えてもらってますから……。
金光 あ、長呼気だけでなく、短い息もなんですか。
村木 はい、単なる短い息ではなく、出る息をパッと瞬間的に出すんです。
金光 日常の中でもそれはあるんですか。
村木 ずいぶんあります。
金光 どんな場合ですか。
村木 スポーツは全部短息です。走る、棒高跳びなど全部短息ですね。武道もそうです。例えば柔道の背負い投げなんて、力を入れてパッと瞬間的に息を出す。
剣道でも、相手に向かって木刀を振り下ろす時は、瞬間的に大量の息を出します。こういう力強い呼気も非常に大事だと、お釈迦さんもそれにも気付いていました。
金光 お釈迦さんの場合は、どういう形でその短息をなされていますか。
村木 最初は、息を止める事を止めた後、お釈迦さんは、もっぱら出る息を長くしました。
最初の内は出る息ばかりでなく入る息にも全力投球していましたが、その無駄にに気付いてその後はもっぱら出る息だけに心を傾けるわけです。
金光 こうした深く吐き出す呼吸を日常意識的に練習する方法があるんでしょうか。
村木 これはスポーツの中に全部ありますね。今言った様な前傾動作をとる時、ハーッと力強く吐く事が出来ます。面白いことには、力強く吐き出した瞬間、それ以上の呼気が入ってくるという事です。
金光 そうしますと、例えばジョギング中や歩きながらでもこの練習は出来るのですか。
村木 出来ます。それから寝ていても力強いそれは先程も言いましたが、胸の上で手を組んで、上から下へ撫で下ろす様にすると出来るんです。
組んだ手を下ろす時、横隔膜が一緒に動くわけですね。こうして横隔膜が縮小すると、下半身の静脈血はいくらでも心臓に還るという事が分かってきたのです。
病人には一番良い方法だと思います。病人は寝ているとどうしても呼吸が浅くなります。すると炭酸ガスも出ないし、酸素もうまく入らない。これでは健康に良いわけがないのです。
「思案なげ首」では呼吸も浅くなる
金光 日頃、先生は歩きながらする呼吸法をなにか教えていらっしゃいませんか。
村木 それは短息を3回に分けてハッハッハーと出す、その後自然に一回息を吸うという三呼一吸法(さんこいつきゅうほう)を多くの人にお勧めていします。
台所に転がっているポリエチレンの袋にこの三呼一吸で出る息の量を調べてみますと、わずか2~3秒で2Lから3Lくらいになります。
気持ちが落ち込んでいる様な浅い呼吸ですと、1分かかっても1Lにもなりません。これはもう大変な差があります。
金光 思案しながらため息なんかついている時なんか……
村木 非常に呼吸が浅くなってしまいます。そうすると炭酸ガスは出ないし、酸素は入りませんから、60兆という細胞のバイタリティーが低下してしまいます。
金光 そうしますと、先程おっしゃった、3回ハッハッハーと吐く三呼一吸は、どこでも応用出来るんですね。
村木 そうです。ただ三呼一吸と言いますと、言葉の上では3回吐いて一回吸うという事になりますが、そうではないのですね。
最初のハッと出し瞬間すぐ入ってきます。
二回目を吐くとその量はかなり多くなっているので、入る息も多くなる。三回目にはもっと多くなる。このように三呼一吸というのは重要な呼吸法で、しかもいくらやっても疲れません。
金光 そうしますと、最初のお話にありました白隠さんの『夜船閑話』の中には、長呼気を中心に書いて下さってる。これは坐禅をして病気になった時にどうやったら治るかという事を中心に書いていらっしゃるようですが、
我々現代人にとっては、行動の中で長呼気でなく短い呼吸でも深くハッと吐き出すと同じ様な効果が肉体や精神の上に現れてくる様な方法もあるという事ですね。
村木 そうですね。今の三呼一吸でも、最初と二回目はハッハッと力強く出すとその直後にそれより多い呼気がバネ式に入ってきます。三回目は練習によってハーッと長くなります。
ですから、現代人にはこの三呼一吸法が長呼気の練習にもなるわけですね。
「たかが息一つ」で発想まで変えられる
金光 呼吸というのは、日頃無意識にしているわけでございますが、やはり何か考えている時に気が付いて、そうだ、ひとつ深い呼吸をしてやろうという事でやっていますと、発想の転換とか、気分を変えるという事が出来るんでございましょうか。
村木 はい、そういった意味でも素晴らしい呼吸だという事が分かりますね。最初から長呼気をすうるというのは難しいのですが、一番やりやすい
三呼一吸で、三回目をずーっと長く出すという練習をすると、楽しくやっているうちに長呼気が身に付きます。何事もトレーニングの集積でして、良いことは絶えず行なう事が大事だと思います。
金光 確かに禅の言葉で、考えている時にある一つの言葉を聞くと、それが引き金になってパッと心境が変わる「一転語」というのがありますが、そうすると言葉でなくても行きでもそういう事があるわけでございますね。
村木 そのとおりですね。だから私は、”一転語”に対して”一転息”という言葉を作ってみたのです。今まで浅い呼吸ばかりしていた人達が、気が付いたら長い息をする、あるいは瞬間的に力強く出す。
すると発想がすっかり変わってしまいます。考え方も明るくなる、健全になる。血液の流れも良くなり、酸素は多くなるので健康にも大いにプラスになるんです。
金光 悪い老廃物は出て、新しい酸素が入ると、自然に頭の働きも体の調子も良くなってくるのですね。
村木 そういう事ですね。そういう意味で一転息という言葉、面白いと思うんです。
金光 ありがとうございました。
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- No
- 61
- Date
- 2018.03.15 Thu
合気道の神人・植芝盛平師が戦わずに避けた相手とは♪知られざる興味津々☆摩訶不思議話♪山本光輝先生♪五井先生♪
さとり実践呼吸書法
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植芝盛平先生の知られざる裏エピソードをご紹介♪
山本光輝先生の「さとり実践呼吸書法」に興味深くかなり珍しいエピソードがありましたので、ご紹介させて頂きます。
神人一体の境地に到達された達人でも、思わぬ弱点?があったという風なお話でございます。詳しくは本文を見て頂くとして、
無心の境地にまで到達した、超一流の熟練した猟師さんの無意識での発射では、どうも神人でも対応が難しいみたいであります。
猟銃で無心の境地まで到達された相手ですから、ある意味、超サイヤ人VS超サイヤ人といった意味付けに近いかも知れませんね。
逆に、素直に相手の力量をしっかり把握して、その名人の銃撃の対応できるかを正確に把握する事が出来る事自体が、さすが!植芝盛平先生♪素晴らしいな~♪って思いました。
神人の自然体ならではの研ぎ澄まされた判断力といった感じでしょうか。
では過去記事の内容と絡めて御覧下さいませ♪
「さとり実践呼吸書法」17P、62~64P からの引用ですが…♪
合気道開祖・植芝盛平師
この呼吸書法が成立するには、合気道という日本武道との出会いなくしてはあり得ませんので、合気道に関することを少し書きます。
植芝盛平開祖は、「合気道は禊(みそぎ)わざじゃ」と言われます。
それは、生まれてから今日までに身に付けてしまった人間のアカを、綺麗にするために行うものだという意味です。
権力や物・金への欲望や執着を捨て、人が大自然と融合一体となった時に、人為的ではない無限の力が発揮され、自然に相手が倒れ、敵という存在もなくなるというのです。
人の体からムダな動きを取り、思想的なムダも取り、人間本来の清らかな魂そのものになった時に、無限のエネルギーが発揮される。
禊(みそぎ)というのは、「魂のゴミ」を取り去ることなのだと、その時初めて教わりました。
植芝盛平開祖の神業
合気道というものは、人間の立ち居振る舞いの全てに関わって、体の動きのムダを取り、同時に思想的なムダを取っていくと書きました。
そして素直できれいな魂そのものになった時に、
人間の本当の無限なるエネルギーが出てくると言われています。
名誉欲、権力欲、金銭欲などの欲望で包み込まれてしまっている本来の魂のまわりが綺麗に磨かれると、魂そのものの力が発揮されるのです。
しかもその力は無限だといいます。それが実際に現れた例として、開祖・植芝盛平という神人が存在したと私は思っています。
これは有名な話ですが、日本の軍隊が絶大な力を誇っていた戦前の事です。開祖が日頃の話の中で、「わしには鉄砲の弾も当たらぬよ」と言われた事が、軍人に聞き咎められました。
「そんなことを言う武道家がいるなら、我々軍人の沽券に関わる。それなら実際にやってみようじゃないか」と呼び出されてしまいました。
そして射撃のうまい五人の兵士を呼び、対決させたのです。
三十メートルほどの距離に開祖を立たせて、五人の射的手が鉄砲で狙いを定めて撃つという条件です。
「撃て!」という号令のもと、兵士たちが引き金を引いた瞬間、一人の兵士はその場に倒され、四人の兵士は誰もいない空間に弾を打ったということです。これには、立ち会っていた軍の将校たちも度肝を抜かれたといいます。
そして次の話が何とも示唆的なのですが、こうした評判を聞いた名人といわれる猟師が、「それじゃあ、自分が銃で勝負してみよう」と言ったそうです。
けれども開祖は、「いやわしはその人にはかなわない」と断ったというのです。
猟師というのは、いつ出てくるかわからない獲物を狙い、無意識に近い感覚で銃を撃つので、それでは撃たれてしまうと言われたそうです。
この話は、開祖を知る上で大変興味深いことだと思います。
撃とうと意識する人間にはある種の欲望があるので、これを開祖が瞬間的に感知し、体を難なく瞬間的に移動せしめるというのですから、まさに神業といえましょう。
また開祖は、十人くらいに円陣を組ませ、杖や木銃を持たせて、自分はその真ん中にいて、一斉に突かせるという事もされました。
しかし突かれた瞬間に、開祖は背後に入ってしまい、杖や木銃を持った者はみんな将棋倒しのように倒れてしまうのです。
これは、私もしばしば実際に道場で見せて頂きました。まさに神業としか言いようがありません。
私は、このような人間の限りない能力の一端を、実際に目にする事が出来たのを大変幸福だと思っています。
それが現実に存在した人なのですから、修業によってここまで魂と肉体を禊いで、そしてアカを取り去っていけば、
その境地に達するのではないかという希望を与えてくれます。
http://www1.vecceed.ne.jp/~kyusei/sub46.htm からの引用ですが…♪
植芝先生の神秘力
植芝先生というと、いまだに話題にされるのが、純粋な武術の技の他に、ある種、神懸り的な力を持っていたかどうかということです。
植芝先生というと、いまだに話題にされるのが、純粋な武術の技の他に、ある種、神懸り的な力を持っていたかどうかということです。
私は側にお仕えして、先生の一挙手一投足を見てきたわけですが、その上で言わせてもらえば、先生には確かに神懸り的な力がありました。
先生は大本教の熱心な信者でした。そのせいかどうかは分かりませんが、時々我々には理解できない感覚を発揮していたことは事実なのです。
そんなことは迷信だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、私は実際にいくつかの出来事に遭遇していますので、それを紹介してみましょう。
先生は月に一度、京都にいって指導されていたのですが、そのお供として私をよく連れていってくれました。今のように新幹線などありませんから、汽車にゴトゴト揺られながら、十時間以上もかかって大阪に向かうのです。
先生はいつも鉄扇を持ち歩いています。何でも武田惣角先生から頂いたものなのだそうです。
汽車に乗ると、先生がその鉄扇を私に預けてこういうのです。
「ワシに隙があったら、いつでもこれで殴ってきなはれ。もし殴れたら、あんたに十段をやろう」そして、お年寄りらしく、座席の上に正座して、そのまま眠り込んでしまいました。
寝息をうかがっていますと、本当に先生は眠っているようです。
しめしめ、と私は思いました。今ならいくら先生でも気づかないでしょう。いつでも殴っていいといわれたのだから、眠っていても関係ないはずです。
これで十段はもらった、と思って私が今まさに鉄扇を打ち込もうとしたとき、先生がカット目を開きました。私はびっくりして、ピタリと動きが止まってしまいました。
先生は微笑みながら、「今、夢の中に神さんが現れてな、塩田が叩くぞ、塩田が叩くぞ、と教えてくださったんじゃ」そんなことをいってまた眠りにつくのです。
私は何度かやってみましたが、やはりどんな時でも先生は気づくのです。本当に不思議だと思いました。また、こんなこともありました。
私たち内弟子は、夜は道場に布団を敷いて寝ることになっていました。
先生は奥の部屋でお休みになります。ある夜のことです。
私がいい気持ちで眠っていると、いきなり奥の部屋の戸がバーンと開いて、先生が木剣を片手に真っ暗な道場へ飛び出してきました。そして、暗闇の中で「キエーッ」という気合と共に、先生が何かに向かって木剣を斬りつけました。
何事が起こったのかわけが分からず、私たち内弟子がおっとり刀で灯りをつけると、仁王立ちになった先生の足元に、首の飛んだネズミの死体が転がっていました。
「ばかモーン!」
先生の雷が落ちました。
「ネズミが神さんのお供えをかじっとるというのに、神棚の前で寝ていた君達が、なんで気がつかんのじゃ!」
つまり先生は、隣の部屋で寝ていたのに、道場の神棚のお供えをネズミがかじっているのに気づき、飛び出して来て、木剣でネズミの首をハネたと云うわけなのです。
私たちがそれに気づかなかったからと先生は怒っているのですが、そんなことを言われても、私たちに分かるはずがありません。烈火のごとく怒った先生を前にして、私たちはただ頭をかくばかりでした。
拳銃の一斉射撃をかわす
不思議といえば、極め付きの出来事をお話ししましょう。これも私が実際にこの目で見たことです。
あるとき、陸軍の砲兵官の方が、軍の関係者を九人ばかりつれて植芝道場にやってきました。合気道という素晴らしい武道があるから見学しろ、というわけです。
その時いっしょに来た人達というのは鉄砲の検査官でした。検査官というのは、作ったばかりの鉄砲を実際に撃ってみて、銃身が右に曲がってるとか左に曲がってるとかを判断する人達なのです。
射撃の腕前はオリンピック級で、私が見せてもらったときも本当に百発百中なのでびっくりしました。
そういう人達を前にして演舞を行った植芝先生が、その時「ワシには鉄砲は当たらんのや」といってしまったのです。
確かに植芝先生は、蒙古で馬賊と闘ったときに鉄砲の弾をよけたと聞いていましたが、しかしこの時は相手がいけません。検査官の人達はプライドを傷付けられて、すっかり怒ってしまいました。
「本当にあたりませんか」
彼らが先生に詰め寄ります。」
「ああ、当たらん」
「じゃあ、試していいですか」
「けっこうや」
売り言葉に買い言葉です。その場で何月何日に大久保の射撃場で鉄砲の的になる、という誓約書を書かされ、拇印まで押すはめになってしまいました。
しかもその写しを軍の裁判所のようなところへ持っていって、確認までしてもらうという念のいれようです。これで植芝先生は撃たれて死んでも、文句が言えないようになってしまいました。
さてその当日、先方から迎えが来て、大久保の射撃場へと植芝先生を連れていきました。お供は私と湯川さんの二人です。
奥さんが大変心配されて、やめるように懇願したのですが、先生は、「いや、大丈夫。あんなもん当たらんよ」とのんきなものです。
私と湯川さんも顔を寄せ合って、「こりゃ葬式を用意しといた方がいいんじゃないか」などと相談していたくらいです。
射撃場に着くと、もっと大変なことが私たちを待っていました。私はてっきり、一人の人が先生を撃つと思っていたら、なんと六人がかりというのです。
用いた銃はピストルでした。ピストルの有効射程距離が25メートルだそうです。射撃場ではその距離に人間の形をした的が置かれています。
しかし、その時は人形の代わりに、植芝先生が的の位置に立つことになりました。そして、こちらの方で、六人の検査官がピストルを構えました。
25メートルというと相当の距離です。あんなところから先生はいったいどうするというのだろう、と私は息を呑んで見守っていました。
「1,2,3」で、六つの銃口が一斉に火を吹きました。砂ぼこりがもうもうと舞いあがったかと思うと、次の瞬間、六人の内の一人が宙に舞ったのです。
なんということでしょう。先生がいつの間にか六人の後ろに立って、ニコニコ笑っているではありませんか。
狐につままれたような気分とはこのことです。いったい何が起こったのか、私にはまったく理解できませんでした。
私ばかりではありません。その場にいた誰もが、ただ驚くばかりで言葉を失っています。
納得できない様子の六人の検査官が、もう一度やらせてくれと申しでました。先生は、「かまわんよ」と、いたって涼しい顔です。
もう一度、六つの銃口が先生に向かって火を吹きました。と、今度は端っこの人が投げられて宙に舞ったのです。先生はまたもや、何時の間にか後ろに立っていました。
私は茫然となってしまいました。今度こそ何が起こるか見極めてやろうと目をこらしていたのですが、結局、先生の動きが何一つ見えなかったからです。
立っている先生に向かって六つのピストルの引き金が引かれた。そこまでは分かっています。とことが、次の瞬間にはもう、先生は25メートルの距離を移動して、人一人を投げ飛ばしているのです。
これはもう、まぎれもなく神技としか思えません。首を傾けるだけの軍の関係者を後にして、先生は意気揚々と引き揚げたのでした。
黄金の玉が飛んでくる
帰りしな、私は先生に「いったいどうやったのですか」と尋ねました。
それに対する先生の答は、次のようなものでした。
彼らがピストルの引き金を引こうとすると、黄金の玉のような光が飛んでくる。弾はその後から来るから、避けるのは何でもない。
それに、六人同時に撃ってるつもりでも、一度には出てこない。必ずバラバラだから、一番先に来るやつのところに行けばいいのだ、と。
「金の光は、ビューンとすごい音がするんだよ」と先生はおっしゃってました。
音がしたときに走り出すんだそうです。その時はまるで忍者のような、腰をかがめて小走りに走るような格好になるそうです。それで飛び込んでいって、後から弾が来たときにはもう半分くらい中に入っているのです。
先生は、金の光が来てから弾が届くまですごい時間があるというんですが、見ている方にとっては、まさに一瞬にしかすぎません。先生が間合いを詰めるのは、全く見えないわけです。
「ワシはこの世に必要だから、植芝は生かしとかなきゃいかん、と神様の御告げがあった。ワシのミソギはまだ終わってないから、死なんのや、神様からもうこの世に必要ないといわれたときに、ワシは昇天するんじゃ」
先生はそんなふうに納得していたようですが、私たちにはどういうことだか理解できません。こんな話をしても皆さんには信じられないかも知れませんが、こういう不思議なことは実際にあるものなのです。
明るい心 五井昌久講話集4のからの引用ですが…♪
合気道の植芝盛平先生
この間、うちの(※白光真宏会の)人達が合気道の植芝盛平先生の所へ行ってきたのです。合気道の植芝盛平先生といえば有名な人です。その時の植芝先生の話もやっぱり私と同じなんです。
「人間というものは宇宙なんだ(宇宙生命あるのみ)、みんな宇宙なんだ(我即宇宙・全ては宇宙生命の現れ)、何故皆さんは宇宙(無限宇宙)だっていうことが分からないのかなあ・・」というんですね。
「自分は宇宙なんだ(宇宙即我)、光り輝いているものなんだ(光一元)、全知全能なんだ(我生命なり)」というんです。それで植芝先生はちゃんとそれを実証するわけです。
若い人たちが木刀でパッと打ってくると、どうやったかわからないけれど、皆すっ飛んじゃう。いくら力でもって若い者が押さえつけても、大木のようにびくともしない。
五尺ぐらいの人ですよ。それが頭を一寸ふるとみんなすっ飛んでします。
「自分に千人かかって来ても、何人かかって来ても、自分は負けることはない。自分に敵はいない」というんだ。すごいね、それを実際にやるんだから。そういう人がいるということは、実に有り難いと思うんですよ。
大の男もちょっと指で押さえられたら動けない、というんでしょう。みんな見て来たのですね。力を出せば出すほど動けなくなっちゃう。
何故、力を出せば出すほど動けないかというと、向こうはやっつけようと思う力です。こっちは宇宙でしょう。もう肉体にいないのですよ。
いくらぶとうとしても、肉体はそこに見えているけれど、実は居ないのです。業の中にいないのです。神の中に入っちゃってるんです。ぶたれるというのは業の波でしょう。業があるからぶたれるんです。
業がない、神の中に入っちゃっているから、いくらぶったってダメですよ。次元が違うんだから。片方は三次元(自我・個我)で一生懸命ぶってくるのに、片方は無限次元(宇宙我)の所にいるから、手が届かない。
ぶとうと力を入れれば入れるほど、自分の力で飛んでいっちゃう。
植芝先生は私の事を分かっていて、私もそういう人だというんです。私はまだ立廻りをやったことがないから、人をすっ飛ばすかどうか知らないですよ。
けれど、向こうから悪い人が来る、会いたくない人が来れば、そのまま合わない。来るのがわかるから逃げることがいくらでも出来ます。だから宗教的には同じです。武道じゃ知りませんよ、私は武道家じゃないから。
業の世界を超える
やっぱり業の世界をこえてなければダメですよ。それを私は教えているんですよ、植芝先生も教えているんです。
業の世界というのは争いの世界、相対的な世界です。敵があるんです。自分があって人があるんです(分離意識)。自分と人が違うのです。自分と人が別々なんです。別々(自我)ですから敵になるでしょう。
利害関係では敵になる。自分と人とが神さまのみ名において、神さまのいのちにおいて1つ(全一体感・真我)であるとするならば、敵はないでしょう。
この間、斎藤秀雄さんの話を聞いて、とても関心しました。それは、斎藤さんが毎朝お祈りをするんです。そして私の直霊から色んな講義を聞いて起きるんです。
或る朝、ひょっと新聞を見た。そしたら矢野という巡査を殺した人がいました。新聞じゃ悪いことをすると、”さん”を無くし、悪いことをしない時は、”さん”とか何とか付いているんですね。
私は付けておきましょう。巡査を殺した矢野さんの記事が出ていた。その途端、斎藤さんは、ああ矢野さんの守護霊さん申し訳ございません、
矢野さんが悪いことをしてすみいませんって、矢野さんになり替わって、守護霊さんにお詫びしちゃったのです。これは大変なことなのよ。
私は聞いていて涙が出たのです。あーあ、斎藤さんこんなに偉くなったかと思って、私は嬉しかったのです。私のところに来てから偉くなったのですからね(笑) ここにいますからね(笑)。
これは出来ないことなんですよ。ああこの○○がこんなことをして・・・なんて普通思いますよ。
ところが、新聞を見た時、矢野さんの守護霊さん申し訳ありません、と神さまにお詫びする気持ちというのは、自分と矢野さんという人を一つに見たのです。
矢野さんの命と自分の命と全く一つ(全一体感・全ては自分)になったから、ああ申し訳ありません、と言うんですよ。そういう気持ちに、ここにいる人だけでもなれば、世界平和になります。
そういう気持ちにするために世界平和の祈りをやっているんですよ。
(※世界平和の祈りで植芝先生の様な宇宙と一体化した覚者へ♪
)

)「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉は、1955年に白光真宏会の創始者 五井昌久先生によって提唱されました。
世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます
世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 62
- Date
- 2018.03.14 Wed
水補給でつやつや肌に♪目の下のクマも解消♪血液サラサラでダイエットと美容力UP♪水分補給で心と体が健康に♪
美容と血液サラサラはリンクしている
皮膚細胞にたっぷり水分を運んでくれるから 森本チヅ子先生
健康のジャンルで「血液サラサラ」が注目されているのは有名な話。では、「美容」となるとどうか。エステティシャン協会認定校の「カリタ」で長年講師を努めた森本チヅ子先生に伺ってみよう。
「私達の皮膚、いえ、皮膚に限らず人間の細胞はたっぷりの栄養と酸素があってこそ、瑞々しさを保てます。この栄養と酸素を運ぶのが血液ですから、血液をサラサラにし、循環をよくする事は美容にとっても大事な事です」
「血液をサラサラ」は美容の世界でも注目されていた!
聞けば、女性が抱える多くの美容の悩みは、血行不良、つまり「血液ドロドロ」が原因の事も多いのだという。
「例えば、目の下のクマ、これには原因が2つあって、ひとつは色素沈着、もうひとつは酸欠です。酸素不足のため、血液が汚れたままで滞り、目の下が黒く見えるというもの。後者の場合は、顔を軽くマッサージしたり、パッティングすることで、解消します」
なるほど、マッサージをすることで、血液の流れを良くして、酸素を送り込めば解消するというわけだ。
「色素沈着によるクマも、新陳代謝が良くなれば皮膚が生まれ変わって徐々に薄くなってきますから、長い目で見れば、血液をサラサラにする事が解消法になります」
という事は、同じく色素の沈着によって出来る「シミ」も同様に血行を促進すれば、継承するということですか。
「その通りです。肌の悩みが解消して、みずみずしい肌を手に入れるには、血行を良くする事(血液サラサラ)が全てなんです」
煙草を吸う女性は絶対に水を飲まなければ
エスティックサロンの美顔コースには必ず顔のマッサージ器があったり、美容雑誌などでも「顔のマッサージ」を推奨するのは、このような理由があったのだ。
「でも、血液循環を良くするために、いくらマッサージをしても、血液が油などでギトギト状態で、流れていかないのでは意味がありません。ですから、エステにいらっしゃるお客様にも普段から水を飲むようにお願いしています。
サロンでは最初にウェルカムティーを出して、施術が終わった後にもお茶やお水を出すところが多いと思うのですが、それも水分補給の機会を多くつくるためなのです。」
また、煙草を吸う女性には特に水を飲むことが大切だ、とも。
「煙草を吸うと、血管が収縮します。そうすると、血液がなかなか流れていかない。だから、煙草を吸う人の顔はくすんでいるのです。
美容のためには、吸わないのがベストですが、吸わない事がかえってストレスになるのでしたら、水をたくさん飲むこと。そうすると、血液がサラサラになって、収縮した血管でも流れやすくなりますよ」
「水で血液サラサラ」は健康だけでなく、美肌にとっても万能薬のようである。
つやつや肌をキープするもの
化粧品にお金をかけている女性は多い。でも、皮膚は老廃物を排出するのが主な機能のため、吸収作用はわずか。ビタミンC配合などの栄養成分をうたう化粧品は多いが、吸収はあまり期待できない。
栄養は本来小腸から吸収され、体内から送り出される。肌への栄養も同様だ。肌は、血液やリンパから栄養支給を受ける。血液やリンパの主成分は水分。つまり肌への栄養補給にいちばん大事なのは水というわけ。それを考えると浸透性が高くミネラルバランスのよい水が好ましい」
全身に酸素を送り込むとダイエットが進む
その酸素を運ぶ血液を水で生き生きさせる
「血液サラサラ」が美容に効果的ならば、一歩進んでダイエットにもいいのだろうか?
「もちろん、そうです。よく、太ってしまったら、有酸素運動をしなさい、と言われますよね?有酸素運動とはウォーキングや水泳など、一定の呼吸を継続的に行う運動です。
なぜ、有酸素運動かというと、体に詰まった脂肪を燃焼するのに酸素が必要であり、沢山の酸素を送り込む為には、ウォーキングなどのように、沢山の呼吸をする運動がいい。で、体中に酸素を届けるのは血液の役目。
この血液がドロドロだと酸素が全身に巡らないし、脂肪だって燃えない」
というのは森本チヅ子先生。
「有酸素運動をしている間に汗をかくと、血液が濃くなってきますから、あい間にもしっかり(真水で)水分補給をされる事をお勧めします」
また、最近良く耳にする「セルライト」。これは、お尻や腿(もも)の辺りに脂肪の組織がデコボコ状になって出来るものだが、やはり「血液サラサラ」によって解消する、という。
「セルライトは血液循環が悪くなり、脂肪の塊が出来た状態。つまり、血液がドロドロだと出来るんです。その証拠に、日本の女性湯おり欧米の女性の方がセルライトが出来やすいのですが、欧米はご存知の通り肉をよく食べます。動物性の脂肪は血液をドロドロにしやすいから要注意なんですよ」
ダイエットを考え食べ物とのバランスを
確かに、日本で発売されている、セルライトに対する対応のスリミング財や錠剤などは、殆どが欧米のもの。向こうの人はそれだけ深刻だという事だ。
「スリミング剤を使うのもいいですが、やはりいちばんの対処法は肉中心の食生活を改める事。そして、血液の状態をサラサラにしていく事です」
血液をサラサラにするには、例えば青魚を食べるという方法もある。青魚に含まれるDHAという油が血液を綺麗にしてくれる、という話をどこかで耳にした事があるだろう。
だが、カロリー的にはサンマ一匹で約160カロリーと油だけにやはり高エネルギー。ダイエットを考えるなら、やはりノンカロリーの水だろう。
「水には血液をサラサラにして、脂肪燃焼を促したり、セルライトを解消するだけでなく、水分代謝もよくし、体内に滞っていた水を排泄する働きもあります。
ですから、『水を飲んでも太るから』とか「むくむから』という理由で水を飲まない女性もいますが、ダイエットしたい人こそ、水を飲んでほしいですね」
また、ダイエットの大敵「宿便」も朝一杯の水を飲むことで、腸の働きを活発にして、解消につながるという。こうした面からも、水はダイエットの強い味方と言えそうだ。
水でダイエットができるのか
水が及ぼす効用は、血液循環が良くなる、蓄積された脂肪の代謝を助ける、体内の老廃物や毒性物質を排泄する、便秘を予防する、などがある。
でも、「水を飲んでも太る」という人がいるのは、それはリンパの流れが悪いため。太っているのではなく、むくんでいるのだ。まずリンパ循環を良くすればそれは解消される。
水分を摂ると太るからと水を飲まないのは過ち。水を飲まないのは、体内の老廃物の排出が悪くなったり、便秘の原因になったり、むしろ太る原因となるので、気を付けて。
ストレスは水分不足から来る
結果、血液を濃くして病気を招くことに 関戸秀臣先生
ストレスを貯めすぎると、感情のエネルギーの行き場がなくなり、交感神経、副交感神経という自律神経のバランスが片寄ってしまう。
結果、イライラ、動悸、めまい、耳鳴り、頭痛、肩凝り、発汗、胃痛、消化不良、便秘など、様々な症状が現れてくる。その辛さを紛らわすために、喫煙、アルコール、甘いものなどを多量に摂取したくなるのも、また当然である。
困ったことにその全てが、血液ドロドロの要因であり、いわゆる生活習慣病を招いてしまう。
また、ストレスによる活性酸素の増加と、血管の縮小も血液をドロドロにし、血管を傷つけ、動脈硬化を引き起こす事が懸念されている。
関戸整体医院長、関戸秀臣先生は、そのストレスの原因が水分不足にもあると判断しているとか。
水分が不足した体は、内因ストレスを抱え込み、仕事、生活、環境からくる外因ストレスに過敏に反応するようになる。この反応の悪い影響をまともに受けると、さらにストレスを溜めるようになる。
反対に水分に満ちたみずみずしい健康な体は、たとえ外因ストレスがあっても、それを受け流す余裕を保持出来るのだ。
これは、砂漠に風が吹くと砂嵐になるが、緑の大地は風が吹いてもそれを受けて揺れるだけ、という光景に例える事が出来る。
体を安定した状態に保つ仕組みを維持していく上で、水はこんな大きな役割があると考えているのである。
暴飲暴食を招くストレスを水で撃退
「食べ物を食べるとお腹が膨れるように、水を飲み続けていると、体中の血管に水が行き渡り、体が『満ちた!』と実感できるはずです。
そして自然に気持ちも落ち着いてくるのです」と関戸先生。
体が自然と満ちている状態になれば、生活習慣病の元凶である暴飲暴食が軽減する。イライラも少なくなり、喫煙量や酒量も減らす事が出来、自然と薄味を好むようになり、濃い塩味、極端な甘い物を要求しなくなるのだ。
そしてこの状態にある時、血液はサラサラになっていると考えていいのだとも。つまり、逆にストレス過多の状態は、血液ドロドロの状態なのである。
「水をたくさん飲めば、自律神経の片寄った状態が、本来のバランスに戻り、体温調節、消化、循環の各能力が正常になり、ストレスを跳ね返す体力が出来、同時に血液も蘇ります」
人は、1日に約2.5Lの水分を尿、便、汗、吐く息として排出している。対して、食事などで自然に補給できるのは、約1.5L。残りの1リットル、コップ約五杯分は食間に摂らなくてはならない計算だ。
だが、ストレスを抑えて体が良好な状態を保つには、これ以上の水を飲む必要が生じてくる。
「1日に最低必要なコップ5杯(約一リットル)以外に、さらに一杯ずつ5回を飲むと良いでしょう。これは、体質を変えるために飲むのです」
辛い体の症状は「水を飲め」のサイン。やがて、無意識のうちに、自分がその日必要な水の量がわかるようになるという。
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 63
- Date
- 2018.03.11 Sun
無我というのは無限の我♪第三の眼が開眼した方の秘話♪怒りは毒素♪知花敏彦師♪チャクラ超能力良質サイトをご紹介
最近見つけた面白☆悟り・魂の覚醒☆良質情報をご紹介♪
最近見つけた素敵で為になる良質で☆魂の覚醒に役立つ☆素敵なサイトをご紹介させて頂きます。
密教僧のブログ様の方が造られているグッズはあらゆるグッズの中でも、トップクラスで本格的でパワーが素晴らしいそうです。。エジプトの周波数の神秘にも通じているらしく、パワーストーンのパワーを最大限に引き出す極意も体得されているとの事でした。
会員制でしかも、精神性がある一定以上に達した方しか入会出来ないそうですが、最近、何とか入会を許されましてホッとしております(一安心...笑)
近い内に私も第三の目と丹田のチャクラの開発CDを購入させて頂く予定でおります。
本山博先生の様に正統なヨガだけでは、チャクラの開発には、とてつもなく長い時間がかかってしまいますからどうしたものかと考えておりました。
仕事でそんなに悠長にヨガの修行ができない身分ですから、修行の時間短縮の為の方法(グッズ等々)をネットで思案する日々でございました。
ですがお陰様で、何とか究極の修行短縮グッズを見つけることが出来たというわけで御座いますね…
。゚┬|´ω`*)。oO(ヤッタ♪)

。゚┬|´ω`*)。oO(ヤッタ♪) 密教僧様の”第3の目・丹田の開眼秘伝CD”で短時間で第三の目が開眼した方のお話は大変衝撃を受けました。確かにこれは本物なんだろうなぁ…と。
一応、究極グッズを紹介する補足説明として申し上げておきますが、心の次元を高める修行を全くしないで、単なる自己欲望や超能力願望だけで、チャクラの開発をしますと、クンダリニー(霊的な気?)が暴走して、体が焼け焦げてしまう場合が結構あるそうなのです。
本山博先生によりますと、インドのグル(導師)にもこの現象はよくある現象だそうでして、知花敏彦師のご講話の中にも、ヨガでクンダリニーが暴走して肉体が焼け焦げた方のお話が御座いました。心の修行を怠って、行だけするとこうなる事があるのだと仰っておられました。
精神性を高める努力、心を正し、行いを正し、思いを正し、身口意を高める、関英男博士の提唱される”洗心”、高橋信次師の”八正道”、それらをしっかり日々実践して、心の制御と愛の意識の拡大、全てを愛し全てを許す・絶対愛の不動心から心が揺り動かされない境地、徹底した宇宙神理の理解、
それらの実践を通じて、それなりに心の次元を……まぁ少なくとも最低6次元レベルにまで高めておかないと、チャクラの活性化に耐えうる事が厳しいのかなぁという気が致します。私は大丈夫だとは思っておりますが^^;(汗)
究極グッズだけ紹介しときながら、私のせいでクンダリニーが暴走して、制御不能で肉体が焼け焦げちゃいましたぁ☆彡テヘ

なんて事になっては申し訳ないので(笑)、珍しくちょっと厳し目のことを書かせて頂きました。


なんて事になっては申し訳ないので(笑)、珍しくちょっと厳し目のことを書かせて頂きました。 入会方法は少し調べればすぐ分かると思います。密教僧のブログ様のグッズは知る人ぞ知る、最強クラスのパワーグッズだそうですから、悟りを追求する方や、チャクラを開発したい方にはとってもおすすめで御座います。
入会についての諸注意事項のご説明も本物ならではの、格調高さ、厳しさもあり、あぁこれこそ本物の精神世界の修行者の世界なんだなぁ…という感じでの感激☆彡もあり、究極☆極上☆の情報源に出会えた喜びに打ち震えておりました。霊性進化の時短に良かったらご参考にしてみて下さいね♪
宇宙意識に到達した知花敏彦氏は『釈迦とイエス 宇宙法則を語る』の中で、次のように述べている。
「人間という姿形を自分だと見てはなりません。本質においては総ては無限です。その無限を見ている人は視野の広い人、個人を見ている人はただの視野が狭い人です。
それを普遍的原資と言います。無限大です。その普遍的原資、本質(大生命・宇宙生命)には始めがないし、永遠です。これを久遠我、普遍我、無限我と言います。無我の境地(宇宙大の意識・宇宙即我)とよく言います。
無我の意味を知っている人は非常に少ないのです。無我というのは無限の我のことであり、無という意味ではないのです。
無限の境地のことなのです。無意識という言葉を使いますが、意識がないという意味ではないのです。意識は無限ですよ、という意味です。
無我とは、個我のことではなく、全我(神我)のことです。
まだまだ悟っているか、迷っているかは、個人という思いがあるかないかで決まります。人という思いがなくなって初めて、真の悟りです」
余談だが、いわゆるプライドが高い人というのは、小我(自我=個我)の強い人のことで、本当にプライドが高い人というのは大我(宇宙意識)と一体となっているので、誰に何を言われてもプライドが傷付くことはなく、慢心も怒りも起こらないのだ。
「人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。この物質はホルモンの一種なのですが、どういうわけかものすごい毒性を持っている。
自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性をもつといわれています。
もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、いつも怒ったり強いストレスを感じていると、この毒のせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまう。
ただ誤解のないようにしていただきたいのは、ノルアドレナリンやアドレナリンは決して悪者ではないということです。人間の体の中で発生するものは、必ずそれなりの目的、必然性というものをもっています。
ノルアドレナリンやアドレナリンはドーパミンの親戚で人間のやる気や活力の源でもあるのです。ただ体の中で、こんな毒がなぜできるのか、と思われるほど毒性が強い…
いつもイライラするような世界に入ってばかりいると長生きできないばかりか、人生が決してうまく運ばないのです」
(「脳内革命」春山茂雄)
「怒りや憎しみは心の毒です。
毒に当たって苦しむのは、あなた自身です」(ジョセフ・マーフィー)
「憎しみはその心を抱くものの上に返ってくる」(ベートーベン)
人間は1回怒ると脳細胞が3000個なくなるといわれている。
また、怒った時の息を液化してマウスに注射すると即死するという報告もある。潜在能力研究家の小林正観氏は、次のように述べている。
「損得感情が完全に頭に入ってしまうと、人間は声を荒げなくなります。イライラしなくなります。声を荒げイライラした結果、人間は自分で毒液を出して、その毒液が五臓六腑をどんどん痛めつけます。
誰が一番損をするかというと、その言葉を発した本人ということになります。一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込み、そこにハエを1匹入れると40分くらいで窒息死します。
ところが、激怒した状態で同じ実験をすると、中のハエは3分くらいで死んでしまいます。毒死です。人間が怒った時は自分では気付かないだけで毒気を吐いているのです。
私たちは体調が悪い時、愚痴や泣き言を言いがちです。本人は病気ゆえに愚痴をこぼしているように思っているでしょうが、実は不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句(五戒)という否定的な感情が肉体を蝕んでいるらしいのです」
内観精神統一法について
瞑想で神秘体験をした方の深いお話(瞑想で検索)
般若心経の謎8 瞑想
般若心経の謎9 瞑想二
密教僧のブログ様
シリーズ商品と周波数
第三の目がついに開眼 (第三の目が開眼した方のお話♪)
”スピフナ”フナイ中古品販売セレクトショップ
https://funaiselect.net/ (スピリチュアルパワーグッズの中古店です)
育成光線とサイレントブルー・プラーナ(水質が浄化される効能有り♪)
サイレントブルー 波動測定(針が振り切れて全数値が+25に♪)
サイレントブループラーナで松果体が活性化するかも♪
ヤフオクで購入できます♪
アクティブギア・SBPネックレス・パワーアップネックレス・SPORTネックレス、名前は違いますが皆同じ商品です。真珠を粉にしてチューブに混ぜて作っていますので、効能はお高い真珠と全く同じの様であります。
私も付けておりますが、付けた瞬間、頭がシュワーッとした何とも言えない爽快感に包まれまして、体波動が高い振動(感謝・愛)の様な光悦感に包まれたのを今でもよく覚えております。テスラペンダント以来の神秘波動体験でした。このSBPグッズは波動ソムリエも大絶賛しちゃいます♪





洗心(天の理=洗心) いつももつべき正しい心
強く 明るく
正しく 我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ
心の中からなくすべき感情
憎しみ 不満
妬み 疑い
猜み 迷い
羨み 心配心
呪い 咎めの心
怒り いらいらする心
不平 せかせかする心
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 64
- Date
- 2018.03.07 Wed
健康長寿の秘訣♪水療法の究極の極意♪ドロドロ血液解消♪脳血管疾患・ドライアイも解決♪腎臓の濾過力♪永久保存版
水で血液サラサラ 別冊宝島
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腎臓が特に悪くなければ、
出来るだけ多くの水を飲む方がいい 高田明和先生
人間の体の3分の2は水分でできているが、汗や尿によって失われた水部を補わないと、絶対的に体内ん水分は足りなくなる。
体内の水分量が少なくなると血液の粘度が上がってドロドロになり、決戦が作られやすくなる。血栓が血管に詰まると脳梗塞や心筋梗塞の引き金になる。
高田明和先生は警告する。
「眠っている間や入浴中、夏など、身体周辺の温度が高い時、エアコンなどで空気が乾燥している場所に長時間いる時などは、少しずつ汗をかくことで知らず知らずのうちに水分が失われています。
これを不感蒸泄と言います。不感蒸泄は水分を体外に出したという自覚がないので、気付かないうちに脱水症状に陥ってしまうのです」
のどが渇いていなくても水は意識的に飲んで!
1日2リットルできるだけ多く
トイレが近くなるからと、就寝前に水を飲まない人がいるが、体内の水分不足、すなわち血液ドロドロによる血栓の発生を予防するには、こまめに水分補給をすることだ。又、水には体内にある有害物質を溶かし込んで排出するという利点もある。
「たとえ喉が渇いていなくても、水は意識的に飲んで下さい。喉が渇いたと感じた時は既に体に十分な水分がなく、血液ドロドロになっているのです」
十分な補給で、知らぬ間に失った水分をカバーする
では、1日にどれくら飲めばいいのだろうか。普通、人間は飲み水や食べ物から、約2.2~2.5Lの水分を摂っている。
これに対して体外に出ていく水分は、汗・尿・大便に含まれるものとして、約1.5L、汗以外の蒸発する水分量(不感蒸泄)として約900mLとされている。
この他、運動など、体温の上昇によって汗をかくため、実際には摂る水分より多くの水分を失っていることになる。
「私は、出来るだけ多くの水を飲む事を進めています。特に腎臓が悪くなければ、1日2L以上を目標として下さい」
腎臓は水のリサイクル工場だった!?
腎臓には何と、1日に述べ1トン半もの水が通過している。通過する水から老廃物と水分を濾過し、おしっこの元、原尿を作っている。その製造速度は一分間に約100ミリリットル(mL)。
しかしこれを全て尿として排出すると、一日中トイレにいなければならなくなる。そこで実際には1%の毎分1mLだけを尿として膀胱に送る。
残りの99mLは再度、体内水分として血液に戻され再利用されているのだ。ちなみに正常人の1日の尿は、1.5L程度である。
いらいらを解消する水は、
血圧上昇によるくも膜下出血の予防にも!
水は新陳代謝を活発にして以来を解消し、血圧が上がるのを防いでくれる。若いうちは血圧を心配する必要はないと思いこんでいる人も多いが、実際は20~30代でも血圧の上昇で命の危険にさらされる場合がある。
中でも、激しい頭痛と吐き気を伴うくも膜下出血は、何の前触れもなくそのまま奇特な状態に陥る事が多く、働き盛りの突然死、過労死の原因となりやすい。
くも膜下出血は、脳の血管にできた動脈瘤が破れて、脳を保護しているくも膜の下(脳の表面とくも膜の間)に出血するもの。
水分の摂取で新陳代謝を活発にすれば
「かつて、くも膜下出血は先天的な異常によって脳の周りの血管に動脈瘤ができ、そこに圧力がかかってなるものと考えられていました。
しかし、最近では血圧が上がると脳血管の弱い所に圧力がかかって動脈瘤が出来るという事が分かっています」
高血圧は、加齢と塩分過多が主な原因と思いこんでいる人も多いが、若い人の場合はストレスによるものが非常に多く、普段から忙しくて休む暇がない様な人にくも膜下出血が起こりやすい。
従って、働き盛りの世代は疲れを溜め込まない様に心がける事が大切だ。水は、疲労回復にも一役買う。
「水分摂取によって新陳代謝を活発にし、血圧の上昇を防ぐ事が出来ます。そうした意味でも、私は積極的に水分を摂ることを進めています」
水分を摂ると即座に脳へ働きかけて利尿を促し、新陳代謝が活発になる。その結果、体内に溜まった老廃物や疲労物質が素早く排出される。これによって疲労感やストレスが軽減されるため、水分を積極的に摂ることは高血圧や脳出血、くも膜下出血などの予防にもつながるのだ。
「毎日仕事などが忙しく、ストレスが溜まっている人ほど血圧が高くなりやすいので、積極的に水分を摂ってもらいたいものです。摂取する水分は、やはり真水がベストです」
緑茶やコーヒー、アルコールなどは利尿作用に優れているので、こうしたものばかり飲んでいると逆に水分不足になってしまう。
その点、真水の利尿作用はそこまで極端なものではないので、程よく代謝を活発にしてくれるのだ。
仕事に追われているときは食事や睡眠さえ不規則になりがちだが、そんな時こそ水分補給で、フル回転している頭や体をクールダウンさせる必要がありそうだ。
体温と汗と水の微妙な関係
体を動かして体温を上昇させ、発汗する習慣をつけるのは悪くない。新陳代謝を促すからである。ウォーキングなどの運動を20分以上する、を日課にすれば中性脂肪が燃えてダイエット効果もあるとされる。
ただし、運動前後に200ccくらいの水を摂ることを忘れない事、水分が体外に出したら、即、補給するべきなのである。
シャワーでサッと汗を流すだけの入浴より、浴槽にゆっくり浸かる方がベターなのも同じ理由。たっぷり汗をかくことで、水を欲し、血液の健康回復を計れるのである。
動脈硬化が引き起こす脳の病気
脳卒中----脳出血(くも膜下出血)
脳梗塞(脳血栓、脳塞栓[そくせん])
真水で補給するのがベスト。
沸かしたり、お茶やコーヒーよりも…。 甲田光雄先生
一般に、下痢をしやすい人は真水は良くないと思われている。が、
甲田先生は「下痢を怖がって真水を飲まず、生野菜なども制限するのはもってのほかです」と言っている。
真水や生野菜で下痢をするのは宿便を出そうとするからであって、逆にこれを避けてしまうと下痢症は良くならないのだという。
一見非合理的ではあるが、下痢によくなさそうな真水を飲むことで下痢しない体質になった。という先生は、すべての人に真水を勧める。
水を沸騰させると貴重な成分が失われる
水分補給に、お茶はやコーヒーを飲む人が多いが、お茶やコーヒーにはカフェインが含まれている。カフェインには神経を興奮させる作用があり、胃にも刺激を与える。
「人間は35万年前から真水を飲んできたのですわ。昔はお茶やコーヒーは飲まなかった。白湯というのも健康上は良くないのです。真水の中には酸素があるのに、一旦沸騰するとなくなってしまう。
それを飲む体の中の本来の水に戻ろうとして、体の中の酸素を奪うんです。それで体内の酸素が欠乏してしまう。それから、水に溶けてイオン化したカルシウムが大切なのに、沸騰するとカルシウムイオンも働くなってしまいます」
飲み水の温度は体温の半分、体温が36℃だとして18℃くらいが適温。
これが冷蔵庫にれておくと5℃くらいになってしまう。
自動販売機で「飲み頃温度」などと、販売機内の温度が表示されている事があるが、それは3~5℃程度、現代人は、冷えすぎの飲料水を飲むことが常識になってしまっている。
しかし、その現代人の感覚は、生物学的な観点から見ると異常な事なのだ。
「犬や猫の前に冷たい水の入った皿と、常温の水の入った皿を置いておくと、冷たい水は嫌がって飲まない。
本来、体が健康なら冷たい水は飲みたくないものなんですわ。やたらと冷たいのを飲みたがる人は、胃に熱がある事が多いのです」
逆に熱いお茶も胃の粘膜を荒らすのでよくない。理想的なのはやはり常温の真水だ。
「熱いのも冷たいのも避けて、綺麗な水を飲むこと。水道水には体に必要ない成分も入っているから、出来れば※浄水器で濾した綺麗な水を飲む。それから、基本的に空腹時に飲むという事です」
(※水缶 コック付 BUB 20L 水タンクの中に遠野の角閃石を入れて、塩素を除去しつつも、波動石の30万パワーで大腸菌をも消滅させてしまいますから、衛生的にも安心してお飲み頂けます。
しかもメンテナンスは一切不要というお気楽さでございます。
私はこの方法+AOUM音声でオーム振動水を作成して飲んでおります♪)
空腹時に飲むのが健康にとって良いのは、真水に含まれる体に必要な成分を、消化器の粘膜から吸収しやすいからだ。
体の中の消化管にある水10Lはどこで吸収される?
口から入る水分は、特に意識して水を飲まない人でも、1日約1.5L。これに唾液や胃液、腸液などが加わって、消化器官には常時10Lの水が存在している。
その80%は小腸で吸収されるが、未消化物が大腸に送られる時残る20%が含まれて、ほとんど液体の状態なのである。
健康な場合、大腸でこの殆どが吸収され便となる。ちなみに健康な人の理想の便は150~200gで100cc程の水分が含まれているもの。だが、水分が大腸でうまく吸収されないと、いわゆる下痢の状態となる。
ただ、味噌を飲みすぎるとこうなるかと言えば、答えはノー。飲む水の量と下痢は直接の因果関係はなく、他の要因が絡むからだ。健康であれば、平均より多くの水を摂っても、小腸でより多く吸収され、尿として体外へ排出されていくのである。
体質的に水を飲めないという人がいるが、
正しいトレーニングで解決できる!
水を沢山飲むと胃がもたれたり、トイレが近くなるという人がいるが、だからといって水を飲まないのは体に良くない。
「水を飲むとすぐに下痢するとか、お腹にもたれてチャプチャプ音がする様な人がいますが、胃下垂や内臓下垂の人に多いのですわ。こういう人は、水を沢山飲めないから飲まない。すると便が出にくくなって宿便が溜まる。
それが冷え性につながって、頭痛、肩凝りになってくるんです。疲れやすいとかスタミナがないのも、このタイプの人。こういう人はまず、宿便を出す為に水を飲める体を作る(体質改善をする)ことから初めなあかん。
元々たくさん飲める人は、飲んだ水を体の中に溜めておく事が出来るんです。溜めたのをぐるぐると使うことが出来るから、トイレが近くなる様な事もないのですわ。
水がたくさん飲める様になると、寝る前に3合(約450cc)飲んでもトイレに起きん様になりますねん」
甲田先生曰く、水を飲めない人の体には特徴があるという。それは、大5胸椎の歪み。
「大5胸椎というのは背骨の中でも胸の裏面辺りにある骨ですわ。これが歪んどると、胃の下の方にある幽門という所(胃から腸への出口となる部位)が閉じたままになって、うまく開かないのです。だからもたれてしまう。
胃がもたれたときは大5胸椎の辺りを拳で軽く叩いてやると、胃の中のものがすっと流れていきますわ。それから、金魚運動を長く続けること。
これは器具を買わんでもよろしい。仰向(あおむ)けになってつま先の膝の方へ90度以上反らし、金魚が泳ぐような動きを素早くやるだけでいいのですわ。
これを朝1~2分でいいから続けると、そのうち水が飲めるようになってきますねん。背腹運動も長く続けると、だんだん歪みが取れてきますわ。
膝をやや開いた恰好で正座して、背骨をまっすぐに伸ばした状態で左右に振り子運動をする。お腹は体が傾いた時に押し出し、真ん中に来た時に引っ込める。これだけです」
「むくむのは水分の摂りすぎ」の誤解
「手足がむくむから水はあまり飲まない」という人がいるが、意外にも「水を飲まない人の方がむくみやすい」という。
「水が足りないと脳にある反利尿ホルモンの分泌が多くなって、尿が出にくくなる。そこへ水分を摂っても、ホルモンの働きで尿が出にくくなってるから、水分過剰になってむくむんですわ。つまり、逆の現象が起こるというわけです。
腎臓病でむくむのも水の摂りすぎが原因だと思っとる人が多いけど、腎臓病になると毒素を薄めようとして腎臓に水が溜まってむくむんですわ」
日本人の死因 癌より動脈硬化が第一位
70年代末まで、日本人の死因は脳血管疾患(脳卒中など)が第一位だった。ところが80年代に入ると、悪性新生物群(癌など)が死因の第1位に浮上した。2位も心疾患(心筋梗塞など)が3位から上がってきている。
日本人は脳卒中で死ぬというイメージだったが、癌を恐れるようになった。しかし、第3位に落ちた脳血管疾患と、2位の心筋梗塞は共にその遠因は動脈硬化。たどればドロドロ血液との因果に行き着く。
この2,3位を加えると(合計すると)、癌を抜き1位になるから驚かされる。
人1日の水の出納(出入り量)
摂取 排泄
飲料水 1500mL
尿 1500mL
固形食物水分 800mL
不感蒸泄・肺 300mL
代謝水 300mL
不感蒸泄・皮膚 700mL
フン便 100mL
合計 2600mL
合計 2600m
55年間、私がこっそり続けている
水健康法をこっそり教えましょう!
甲田先生は大病を患ったのを機に、今から55年前に西式に基づく水飲み健康法を始めたという。
「当時は重い肝臓病や胃腸病を患っておって、現代医学の治療から民間療法の世界に入っていったのです。その中で西式健康法に興味を持つ様になって、まずは真水を美味しく飲めるようになろうと練習を始めたのですわ。
一度にたくさん飲まずにチビチビ飲むのがいいという話で、ウイスキーボトルに水を詰めて、ポケットに入れてちょこちょこ飲んどったわけです。
最初はとにかく胃もたれしましてね。ところが、断食や生野菜菜食をしている内に体質が変わった様で、3,4年したら2リットル飲めるようになりました。
さらに10年くらい経って1日5リットル飲めるようになると、便がものすごくよく出るんですわ。しかし体調は良いけど、5リットル飲んでちょくちょくトイレに行くのは社会生活を送るのに無理がありますから、それで1日3リットルに戻したというわけですわ」
1日3リットル弱の水を飲んで衰え知らず
水だけで午前中を過ごしていても、昼食後に出る尿が濃い黄色に染まっているうちは、まだ水を飲める体になっていないという。
逆に午前でも昼食後でも出る尿の色がごく自然な黄色になってくれば、水を飲める体に近付いてきたサイン。摂取した水がすぐ排出される事なく、体の中をぐるぐる回って効率よく利用されるようになってきたという事なのだ。
「朝起きてまず約0.6L、その一時間半後に同量(0.6L)。2時間置いて約0.7L、ビタミンCを摂りたい時は柿の葉茶を同量。夕方5時頃にまた0.6L、寝る前には水代わりに青汁も。これで水だけで合計2.7Lも毎日飲みます」
78歳になる甲田先生の体は驚くほど柔らかく、会話の中には学術用語がボンボン出てきて記憶力の衰えも全く感じさせない。
先生は、「努力で体質は変えられる」という。水を飲めない人も、トレーニングを続けて血液がサラサラに循環する体を作ってみてはいかがだろう。
目の水分が不足してなるドライアイ
若い世代に多く見られるようになった目のトラブル。大半は目の表面が乾くドライアイという症状で、疲れ目の60%はこれが原因。
他に、目がゴロゴロしたり、充血したり、痒くなったり、原因は空調のきいた室内で、涙が蒸発することから起こる。感覚としては、涙の分泌量が減るようにも思えるらしい。
この状態になった時、実は血液はドロドロになっている。目薬で目に水分補給すると共に、水を飲んで血液もサラサラにする事が必要だ!
水分は1日、1.5L以上摂る? 答え ◯
人間は1日に2.5L~3Lの水分を必要としています。そのうち食事で1L程度摂取するので、残りの1.5L~2Lは、他から補わなければなりません。
ただし、1.5L~2Lの水分を一気に摂ると、尿になって排出されてしまうので、小分けにして飲むのが理想的といえるのです。
では、なぜ人間は1日に2.5L~3Lの水分が必要なのでしょうか。実は、熱くも寒くもない環境で安静にしているだけでも、呼吸のたびに水分は体外に排出されます。
また、じっとしていても、体温調節のために汗を分泌しています。
これを「不感蒸泄(ふかんじょうせつ)」と言いますが、それだけで1日に0.9リットルもの水分を失っているのです。
さらに、尿として1.4リットル、便に含まれる水分がおよそ0.2リットルありますから、その合計は2.5リットルというわけです。ここの運動や仕事などをして汗をかけば、さらに1リットル程度の水分が必要になります。
ビールなどで水分を補給しても、飲んだ分だけ水分補給出来たことにはなりません。アルコールは利尿作用が強い上、アルコールを分解する際に大量の水を必要とするため、飲んだ分以上の水分を失ってしまうからです。同様に利尿作用のあるカフェインを多く含む飲み物もお勧めできません。
ただし、必要以上の水分の摂り過ぎは、肝臓に負担をかける上、低ナトリウム血症(水中毒)につながることがあり、避けた方が賢明です。
ちなみに、知花敏彦先生も食物全体で2.5Lの摂取が必要と言われていました♪知花敏彦さんの水のお話はこちら♪
私たちの肉体は75%水分と言われてますが、私からすると100%水分と言いたいのですよ。
私たちの食べてる食べ物もほとんど水分です。私たち大人の1日に必要とする水分は食べ物、飲み物ふくめて2.5Lはどうしても必要なんです。
1日に2000ミリリットルの水分補給
私達、大人の体は55~60%が水分で構成されています。適度な水分が体温を一定に保ち、血液をサラサラにさせます。夏になると水分を取ると汗がでるので、のどが渇いてもガマンしている人がいますが、とんでもありません。
水分が不足すると思考力が落ち、意欲がわかなくなります。1日に大人が必要とする水分は約2000mLと言われています。水分は一回に200mLくらいずつを数回、かむようにして飲むと効果的です。
汗をかいて脱水状態になったときや運動後は特に水分補給が必要です。私が健康法として習っているダンスの時の運動量も相当なもので、スポーツドリンクを飲んで、練習にはげんでいます。
同じテーマでの続編記事はこちら♪
腎臓が特に悪くなければ、
出来るだけ多くの水を飲む方がいい 高田明和先生
人間の体の3分の2は水分でできているが、汗や尿によって失われた水部を補わないと、絶対的に体内ん水分は足りなくなる。
体内の水分量が少なくなると血液の粘度が上がってドロドロになり、決戦が作られやすくなる。血栓が血管に詰まると脳梗塞や心筋梗塞の引き金になる。
高田明和先生は警告する。
「眠っている間や入浴中、夏など、身体周辺の温度が高い時、エアコンなどで空気が乾燥している場所に長時間いる時などは、少しずつ汗をかくことで知らず知らずのうちに水分が失われています。
これを不感蒸泄と言います。不感蒸泄は水分を体外に出したという自覚がないので、気付かないうちに脱水症状に陥ってしまうのです」
のどが渇いていなくても水は意識的に飲んで!
1日2リットルできるだけ多く
トイレが近くなるからと、就寝前に水を飲まない人がいるが、体内の水分不足、すなわち血液ドロドロによる血栓の発生を予防するには、こまめに水分補給をすることだ。又、水には体内にある有害物質を溶かし込んで排出するという利点もある。
「たとえ喉が渇いていなくても、水は意識的に飲んで下さい。喉が渇いたと感じた時は既に体に十分な水分がなく、血液ドロドロになっているのです」
十分な補給で、知らぬ間に失った水分をカバーする
では、1日にどれくら飲めばいいのだろうか。普通、人間は飲み水や食べ物から、約2.2~2.5Lの水分を摂っている。
これに対して体外に出ていく水分は、汗・尿・大便に含まれるものとして、約1.5L、汗以外の蒸発する水分量(不感蒸泄)として約900mLとされている。
この他、運動など、体温の上昇によって汗をかくため、実際には摂る水分より多くの水分を失っていることになる。
「私は、出来るだけ多くの水を飲む事を進めています。特に腎臓が悪くなければ、1日2L以上を目標として下さい」
腎臓は水のリサイクル工場だった!?
腎臓には何と、1日に述べ1トン半もの水が通過している。通過する水から老廃物と水分を濾過し、おしっこの元、原尿を作っている。その製造速度は一分間に約100ミリリットル(mL)。
しかしこれを全て尿として排出すると、一日中トイレにいなければならなくなる。そこで実際には1%の毎分1mLだけを尿として膀胱に送る。
残りの99mLは再度、体内水分として血液に戻され再利用されているのだ。ちなみに正常人の1日の尿は、1.5L程度である。
いらいらを解消する水は、
血圧上昇によるくも膜下出血の予防にも!
水は新陳代謝を活発にして以来を解消し、血圧が上がるのを防いでくれる。若いうちは血圧を心配する必要はないと思いこんでいる人も多いが、実際は20~30代でも血圧の上昇で命の危険にさらされる場合がある。
中でも、激しい頭痛と吐き気を伴うくも膜下出血は、何の前触れもなくそのまま奇特な状態に陥る事が多く、働き盛りの突然死、過労死の原因となりやすい。
くも膜下出血は、脳の血管にできた動脈瘤が破れて、脳を保護しているくも膜の下(脳の表面とくも膜の間)に出血するもの。
水分の摂取で新陳代謝を活発にすれば
「かつて、くも膜下出血は先天的な異常によって脳の周りの血管に動脈瘤ができ、そこに圧力がかかってなるものと考えられていました。
しかし、最近では血圧が上がると脳血管の弱い所に圧力がかかって動脈瘤が出来るという事が分かっています」
高血圧は、加齢と塩分過多が主な原因と思いこんでいる人も多いが、若い人の場合はストレスによるものが非常に多く、普段から忙しくて休む暇がない様な人にくも膜下出血が起こりやすい。
従って、働き盛りの世代は疲れを溜め込まない様に心がける事が大切だ。水は、疲労回復にも一役買う。
「水分摂取によって新陳代謝を活発にし、血圧の上昇を防ぐ事が出来ます。そうした意味でも、私は積極的に水分を摂ることを進めています」
水分を摂ると即座に脳へ働きかけて利尿を促し、新陳代謝が活発になる。その結果、体内に溜まった老廃物や疲労物質が素早く排出される。これによって疲労感やストレスが軽減されるため、水分を積極的に摂ることは高血圧や脳出血、くも膜下出血などの予防にもつながるのだ。
「毎日仕事などが忙しく、ストレスが溜まっている人ほど血圧が高くなりやすいので、積極的に水分を摂ってもらいたいものです。摂取する水分は、やはり真水がベストです」
緑茶やコーヒー、アルコールなどは利尿作用に優れているので、こうしたものばかり飲んでいると逆に水分不足になってしまう。
その点、真水の利尿作用はそこまで極端なものではないので、程よく代謝を活発にしてくれるのだ。
仕事に追われているときは食事や睡眠さえ不規則になりがちだが、そんな時こそ水分補給で、フル回転している頭や体をクールダウンさせる必要がありそうだ。
体温と汗と水の微妙な関係
体を動かして体温を上昇させ、発汗する習慣をつけるのは悪くない。新陳代謝を促すからである。ウォーキングなどの運動を20分以上する、を日課にすれば中性脂肪が燃えてダイエット効果もあるとされる。
ただし、運動前後に200ccくらいの水を摂ることを忘れない事、水分が体外に出したら、即、補給するべきなのである。
シャワーでサッと汗を流すだけの入浴より、浴槽にゆっくり浸かる方がベターなのも同じ理由。たっぷり汗をかくことで、水を欲し、血液の健康回復を計れるのである。
動脈硬化が引き起こす脳の病気
脳卒中----脳出血(くも膜下出血)
脳梗塞(脳血栓、脳塞栓[そくせん])
真水で補給するのがベスト。
沸かしたり、お茶やコーヒーよりも…。 甲田光雄先生
一般に、下痢をしやすい人は真水は良くないと思われている。が、
甲田先生は「下痢を怖がって真水を飲まず、生野菜なども制限するのはもってのほかです」と言っている。
真水や生野菜で下痢をするのは宿便を出そうとするからであって、逆にこれを避けてしまうと下痢症は良くならないのだという。
一見非合理的ではあるが、下痢によくなさそうな真水を飲むことで下痢しない体質になった。という先生は、すべての人に真水を勧める。
水を沸騰させると貴重な成分が失われる
水分補給に、お茶はやコーヒーを飲む人が多いが、お茶やコーヒーにはカフェインが含まれている。カフェインには神経を興奮させる作用があり、胃にも刺激を与える。
「人間は35万年前から真水を飲んできたのですわ。昔はお茶やコーヒーは飲まなかった。白湯というのも健康上は良くないのです。真水の中には酸素があるのに、一旦沸騰するとなくなってしまう。
それを飲む体の中の本来の水に戻ろうとして、体の中の酸素を奪うんです。それで体内の酸素が欠乏してしまう。それから、水に溶けてイオン化したカルシウムが大切なのに、沸騰するとカルシウムイオンも働くなってしまいます」
飲み水の温度は体温の半分、体温が36℃だとして18℃くらいが適温。
これが冷蔵庫にれておくと5℃くらいになってしまう。
自動販売機で「飲み頃温度」などと、販売機内の温度が表示されている事があるが、それは3~5℃程度、現代人は、冷えすぎの飲料水を飲むことが常識になってしまっている。
しかし、その現代人の感覚は、生物学的な観点から見ると異常な事なのだ。
「犬や猫の前に冷たい水の入った皿と、常温の水の入った皿を置いておくと、冷たい水は嫌がって飲まない。
本来、体が健康なら冷たい水は飲みたくないものなんですわ。やたらと冷たいのを飲みたがる人は、胃に熱がある事が多いのです」
逆に熱いお茶も胃の粘膜を荒らすのでよくない。理想的なのはやはり常温の真水だ。
「熱いのも冷たいのも避けて、綺麗な水を飲むこと。水道水には体に必要ない成分も入っているから、出来れば※浄水器で濾した綺麗な水を飲む。それから、基本的に空腹時に飲むという事です」
(※水缶 コック付 BUB 20L 水タンクの中に遠野の角閃石を入れて、塩素を除去しつつも、波動石の30万パワーで大腸菌をも消滅させてしまいますから、衛生的にも安心してお飲み頂けます。
しかもメンテナンスは一切不要というお気楽さでございます。
私はこの方法+AOUM音声でオーム振動水を作成して飲んでおります♪)
空腹時に飲むのが健康にとって良いのは、真水に含まれる体に必要な成分を、消化器の粘膜から吸収しやすいからだ。
体の中の消化管にある水10Lはどこで吸収される?
口から入る水分は、特に意識して水を飲まない人でも、1日約1.5L。これに唾液や胃液、腸液などが加わって、消化器官には常時10Lの水が存在している。
その80%は小腸で吸収されるが、未消化物が大腸に送られる時残る20%が含まれて、ほとんど液体の状態なのである。
健康な場合、大腸でこの殆どが吸収され便となる。ちなみに健康な人の理想の便は150~200gで100cc程の水分が含まれているもの。だが、水分が大腸でうまく吸収されないと、いわゆる下痢の状態となる。
ただ、味噌を飲みすぎるとこうなるかと言えば、答えはノー。飲む水の量と下痢は直接の因果関係はなく、他の要因が絡むからだ。健康であれば、平均より多くの水を摂っても、小腸でより多く吸収され、尿として体外へ排出されていくのである。
体質的に水を飲めないという人がいるが、
正しいトレーニングで解決できる!
水を沢山飲むと胃がもたれたり、トイレが近くなるという人がいるが、だからといって水を飲まないのは体に良くない。
「水を飲むとすぐに下痢するとか、お腹にもたれてチャプチャプ音がする様な人がいますが、胃下垂や内臓下垂の人に多いのですわ。こういう人は、水を沢山飲めないから飲まない。すると便が出にくくなって宿便が溜まる。
それが冷え性につながって、頭痛、肩凝りになってくるんです。疲れやすいとかスタミナがないのも、このタイプの人。こういう人はまず、宿便を出す為に水を飲める体を作る(体質改善をする)ことから初めなあかん。
元々たくさん飲める人は、飲んだ水を体の中に溜めておく事が出来るんです。溜めたのをぐるぐると使うことが出来るから、トイレが近くなる様な事もないのですわ。
水がたくさん飲める様になると、寝る前に3合(約450cc)飲んでもトイレに起きん様になりますねん」
甲田先生曰く、水を飲めない人の体には特徴があるという。それは、大5胸椎の歪み。
「大5胸椎というのは背骨の中でも胸の裏面辺りにある骨ですわ。これが歪んどると、胃の下の方にある幽門という所(胃から腸への出口となる部位)が閉じたままになって、うまく開かないのです。だからもたれてしまう。
胃がもたれたときは大5胸椎の辺りを拳で軽く叩いてやると、胃の中のものがすっと流れていきますわ。それから、金魚運動を長く続けること。
これは器具を買わんでもよろしい。仰向(あおむ)けになってつま先の膝の方へ90度以上反らし、金魚が泳ぐような動きを素早くやるだけでいいのですわ。
これを朝1~2分でいいから続けると、そのうち水が飲めるようになってきますねん。背腹運動も長く続けると、だんだん歪みが取れてきますわ。
膝をやや開いた恰好で正座して、背骨をまっすぐに伸ばした状態で左右に振り子運動をする。お腹は体が傾いた時に押し出し、真ん中に来た時に引っ込める。これだけです」
「むくむのは水分の摂りすぎ」の誤解
「手足がむくむから水はあまり飲まない」という人がいるが、意外にも「水を飲まない人の方がむくみやすい」という。
「水が足りないと脳にある反利尿ホルモンの分泌が多くなって、尿が出にくくなる。そこへ水分を摂っても、ホルモンの働きで尿が出にくくなってるから、水分過剰になってむくむんですわ。つまり、逆の現象が起こるというわけです。
腎臓病でむくむのも水の摂りすぎが原因だと思っとる人が多いけど、腎臓病になると毒素を薄めようとして腎臓に水が溜まってむくむんですわ」
日本人の死因 癌より動脈硬化が第一位
70年代末まで、日本人の死因は脳血管疾患(脳卒中など)が第一位だった。ところが80年代に入ると、悪性新生物群(癌など)が死因の第1位に浮上した。2位も心疾患(心筋梗塞など)が3位から上がってきている。
日本人は脳卒中で死ぬというイメージだったが、癌を恐れるようになった。しかし、第3位に落ちた脳血管疾患と、2位の心筋梗塞は共にその遠因は動脈硬化。たどればドロドロ血液との因果に行き着く。
この2,3位を加えると(合計すると)、癌を抜き1位になるから驚かされる。
人1日の水の出納(出入り量)
摂取 排泄
飲料水 1500mL
尿 1500mL
固形食物水分 800mL
不感蒸泄・肺 300mL
代謝水 300mL
不感蒸泄・皮膚 700mL
フン便 100mL
合計 2600mL
合計 2600m
55年間、私がこっそり続けている
水健康法をこっそり教えましょう!
甲田先生は大病を患ったのを機に、今から55年前に西式に基づく水飲み健康法を始めたという。
「当時は重い肝臓病や胃腸病を患っておって、現代医学の治療から民間療法の世界に入っていったのです。その中で西式健康法に興味を持つ様になって、まずは真水を美味しく飲めるようになろうと練習を始めたのですわ。
一度にたくさん飲まずにチビチビ飲むのがいいという話で、ウイスキーボトルに水を詰めて、ポケットに入れてちょこちょこ飲んどったわけです。
最初はとにかく胃もたれしましてね。ところが、断食や生野菜菜食をしている内に体質が変わった様で、3,4年したら2リットル飲めるようになりました。
さらに10年くらい経って1日5リットル飲めるようになると、便がものすごくよく出るんですわ。しかし体調は良いけど、5リットル飲んでちょくちょくトイレに行くのは社会生活を送るのに無理がありますから、それで1日3リットルに戻したというわけですわ」
1日3リットル弱の水を飲んで衰え知らず
水だけで午前中を過ごしていても、昼食後に出る尿が濃い黄色に染まっているうちは、まだ水を飲める体になっていないという。
逆に午前でも昼食後でも出る尿の色がごく自然な黄色になってくれば、水を飲める体に近付いてきたサイン。摂取した水がすぐ排出される事なく、体の中をぐるぐる回って効率よく利用されるようになってきたという事なのだ。
「朝起きてまず約0.6L、その一時間半後に同量(0.6L)。2時間置いて約0.7L、ビタミンCを摂りたい時は柿の葉茶を同量。夕方5時頃にまた0.6L、寝る前には水代わりに青汁も。これで水だけで合計2.7Lも毎日飲みます」
78歳になる甲田先生の体は驚くほど柔らかく、会話の中には学術用語がボンボン出てきて記憶力の衰えも全く感じさせない。
先生は、「努力で体質は変えられる」という。水を飲めない人も、トレーニングを続けて血液がサラサラに循環する体を作ってみてはいかがだろう。
目の水分が不足してなるドライアイ
若い世代に多く見られるようになった目のトラブル。大半は目の表面が乾くドライアイという症状で、疲れ目の60%はこれが原因。
他に、目がゴロゴロしたり、充血したり、痒くなったり、原因は空調のきいた室内で、涙が蒸発することから起こる。感覚としては、涙の分泌量が減るようにも思えるらしい。
この状態になった時、実は血液はドロドロになっている。目薬で目に水分補給すると共に、水を飲んで血液もサラサラにする事が必要だ!
水分は1日、1.5L以上摂る? 答え ◯
人間は1日に2.5L~3Lの水分を必要としています。そのうち食事で1L程度摂取するので、残りの1.5L~2Lは、他から補わなければなりません。
ただし、1.5L~2Lの水分を一気に摂ると、尿になって排出されてしまうので、小分けにして飲むのが理想的といえるのです。
では、なぜ人間は1日に2.5L~3Lの水分が必要なのでしょうか。実は、熱くも寒くもない環境で安静にしているだけでも、呼吸のたびに水分は体外に排出されます。
また、じっとしていても、体温調節のために汗を分泌しています。
これを「不感蒸泄(ふかんじょうせつ)」と言いますが、それだけで1日に0.9リットルもの水分を失っているのです。
さらに、尿として1.4リットル、便に含まれる水分がおよそ0.2リットルありますから、その合計は2.5リットルというわけです。ここの運動や仕事などをして汗をかけば、さらに1リットル程度の水分が必要になります。
ビールなどで水分を補給しても、飲んだ分だけ水分補給出来たことにはなりません。アルコールは利尿作用が強い上、アルコールを分解する際に大量の水を必要とするため、飲んだ分以上の水分を失ってしまうからです。同様に利尿作用のあるカフェインを多く含む飲み物もお勧めできません。
ただし、必要以上の水分の摂り過ぎは、肝臓に負担をかける上、低ナトリウム血症(水中毒)につながることがあり、避けた方が賢明です。
ちなみに、知花敏彦先生も食物全体で2.5Lの摂取が必要と言われていました♪知花敏彦さんの水のお話はこちら♪
私たちの肉体は75%水分と言われてますが、私からすると100%水分と言いたいのですよ。
私たちの食べてる食べ物もほとんど水分です。私たち大人の1日に必要とする水分は食べ物、飲み物ふくめて2.5Lはどうしても必要なんです。
1日に2000ミリリットルの水分補給
私達、大人の体は55~60%が水分で構成されています。適度な水分が体温を一定に保ち、血液をサラサラにさせます。夏になると水分を取ると汗がでるので、のどが渇いてもガマンしている人がいますが、とんでもありません。
水分が不足すると思考力が落ち、意欲がわかなくなります。1日に大人が必要とする水分は約2000mLと言われています。水分は一回に200mLくらいずつを数回、かむようにして飲むと効果的です。
汗をかいて脱水状態になったときや運動後は特に水分補給が必要です。私が健康法として習っているダンスの時の運動量も相当なもので、スポーツドリンクを飲んで、練習にはげんでいます。
同じテーマでの続編記事はこちら♪
腎臓が特に悪くなければ、
出来るだけ多くの水を飲む方がいい 高田明和先生
人間の体の3分の2は水分でできているが、汗や尿によって失われた水部を補わないと、絶対的に体内ん水分は足りなくなる。
体内の水分量が少なくなると血液の粘度が上がってドロドロになり、決戦が作られやすくなる。血栓が血管に詰まると脳梗塞や心筋梗塞の引き金になる。
高田明和先生は警告する。
「眠っている間や入浴中、夏など、身体周辺の温度が高い時、エアコンなどで空気が乾燥している場所に長時間いる時などは、少しずつ汗をかくことで知らず知らずのうちに水分が失われています。
これを不感蒸泄と言います。不感蒸泄は水分を体外に出したという自覚がないので、気付かないうちに脱水症状に陥ってしまうのです」
のどが渇いていなくても水は意識的に飲んで!
1日2リットルできるだけ多く
トイレが近くなるからと、就寝前に水を飲まない人がいるが、体内の水分不足、すなわち血液ドロドロによる血栓の発生を予防するには、こまめに水分補給をすることだ。又、水には体内にある有害物質を溶かし込んで排出するという利点もある。
「たとえ喉が渇いていなくても、水は意識的に飲んで下さい。喉が渇いたと感じた時は既に体に十分な水分がなく、血液ドロドロになっているのです」
十分な補給で、知らぬ間に失った水分をカバーする
では、1日にどれくら飲めばいいのだろうか。普通、人間は飲み水や食べ物から、約2.2~2.5Lの水分を摂っている。
これに対して体外に出ていく水分は、汗・尿・大便に含まれるものとして、約1.5L、汗以外の蒸発する水分量(不感蒸泄)として約900mLとされている。
この他、運動など、体温の上昇によって汗をかくため、実際には摂る水分より多くの水分を失っていることになる。
「私は、出来るだけ多くの水を飲む事を進めています。特に腎臓が悪くなければ、1日2L以上を目標として下さい」
腎臓は水のリサイクル工場だった!?
腎臓には何と、1日に述べ1トン半もの水が通過している。通過する水から老廃物と水分を濾過し、おしっこの元、原尿を作っている。その製造速度は一分間に約100ミリリットル(mL)。
しかしこれを全て尿として排出すると、一日中トイレにいなければならなくなる。そこで実際には1%の毎分1mLだけを尿として膀胱に送る。
残りの99mLは再度、体内水分として血液に戻され再利用されているのだ。ちなみに正常人の1日の尿は、1.5L程度である。
いらいらを解消する水は、
血圧上昇によるくも膜下出血の予防にも!
水は新陳代謝を活発にして以来を解消し、血圧が上がるのを防いでくれる。若いうちは血圧を心配する必要はないと思いこんでいる人も多いが、実際は20~30代でも血圧の上昇で命の危険にさらされる場合がある。
中でも、激しい頭痛と吐き気を伴うくも膜下出血は、何の前触れもなくそのまま奇特な状態に陥る事が多く、働き盛りの突然死、過労死の原因となりやすい。
くも膜下出血は、脳の血管にできた動脈瘤が破れて、脳を保護しているくも膜の下(脳の表面とくも膜の間)に出血するもの。
水分の摂取で新陳代謝を活発にすれば
「かつて、くも膜下出血は先天的な異常によって脳の周りの血管に動脈瘤ができ、そこに圧力がかかってなるものと考えられていました。
しかし、最近では血圧が上がると脳血管の弱い所に圧力がかかって動脈瘤が出来るという事が分かっています」
高血圧は、加齢と塩分過多が主な原因と思いこんでいる人も多いが、若い人の場合はストレスによるものが非常に多く、普段から忙しくて休む暇がない様な人にくも膜下出血が起こりやすい。
従って、働き盛りの世代は疲れを溜め込まない様に心がける事が大切だ。水は、疲労回復にも一役買う。
「水分摂取によって新陳代謝を活発にし、血圧の上昇を防ぐ事が出来ます。そうした意味でも、私は積極的に水分を摂ることを進めています」
水分を摂ると即座に脳へ働きかけて利尿を促し、新陳代謝が活発になる。その結果、体内に溜まった老廃物や疲労物質が素早く排出される。これによって疲労感やストレスが軽減されるため、水分を積極的に摂ることは高血圧や脳出血、くも膜下出血などの予防にもつながるのだ。
「毎日仕事などが忙しく、ストレスが溜まっている人ほど血圧が高くなりやすいので、積極的に水分を摂ってもらいたいものです。摂取する水分は、やはり真水がベストです」
緑茶やコーヒー、アルコールなどは利尿作用に優れているので、こうしたものばかり飲んでいると逆に水分不足になってしまう。
その点、真水の利尿作用はそこまで極端なものではないので、程よく代謝を活発にしてくれるのだ。
仕事に追われているときは食事や睡眠さえ不規則になりがちだが、そんな時こそ水分補給で、フル回転している頭や体をクールダウンさせる必要がありそうだ。
体温と汗と水の微妙な関係
体を動かして体温を上昇させ、発汗する習慣をつけるのは悪くない。新陳代謝を促すからである。ウォーキングなどの運動を20分以上する、を日課にすれば中性脂肪が燃えてダイエット効果もあるとされる。
ただし、運動前後に200ccくらいの水を摂ることを忘れない事、水分が体外に出したら、即、補給するべきなのである。
シャワーでサッと汗を流すだけの入浴より、浴槽にゆっくり浸かる方がベターなのも同じ理由。たっぷり汗をかくことで、水を欲し、血液の健康回復を計れるのである。
動脈硬化が引き起こす脳の病気
脳卒中----脳出血(くも膜下出血)
脳梗塞(脳血栓、脳塞栓[そくせん])
真水で補給するのがベスト。
沸かしたり、お茶やコーヒーよりも…。 甲田光雄先生
一般に、下痢をしやすい人は真水は良くないと思われている。が、
甲田先生は「下痢を怖がって真水を飲まず、生野菜なども制限するのはもってのほかです」と言っている。
真水や生野菜で下痢をするのは宿便を出そうとするからであって、逆にこれを避けてしまうと下痢症は良くならないのだという。
一見非合理的ではあるが、下痢によくなさそうな真水を飲むことで下痢しない体質になった。という先生は、すべての人に真水を勧める。
水を沸騰させると貴重な成分が失われる
水分補給に、お茶はやコーヒーを飲む人が多いが、お茶やコーヒーにはカフェインが含まれている。カフェインには神経を興奮させる作用があり、胃にも刺激を与える。
「人間は35万年前から真水を飲んできたのですわ。昔はお茶やコーヒーは飲まなかった。白湯というのも健康上は良くないのです。真水の中には酸素があるのに、一旦沸騰するとなくなってしまう。
それを飲む体の中の本来の水に戻ろうとして、体の中の酸素を奪うんです。それで体内の酸素が欠乏してしまう。それから、水に溶けてイオン化したカルシウムが大切なのに、沸騰するとカルシウムイオンも働くなってしまいます」
飲み水の温度は体温の半分、体温が36℃だとして18℃くらいが適温。
これが冷蔵庫にれておくと5℃くらいになってしまう。
自動販売機で「飲み頃温度」などと、販売機内の温度が表示されている事があるが、それは3~5℃程度、現代人は、冷えすぎの飲料水を飲むことが常識になってしまっている。
しかし、その現代人の感覚は、生物学的な観点から見ると異常な事なのだ。
「犬や猫の前に冷たい水の入った皿と、常温の水の入った皿を置いておくと、冷たい水は嫌がって飲まない。
本来、体が健康なら冷たい水は飲みたくないものなんですわ。やたらと冷たいのを飲みたがる人は、胃に熱がある事が多いのです」
逆に熱いお茶も胃の粘膜を荒らすのでよくない。理想的なのはやはり常温の真水だ。
「熱いのも冷たいのも避けて、綺麗な水を飲むこと。水道水には体に必要ない成分も入っているから、出来れば※浄水器で濾した綺麗な水を飲む。それから、基本的に空腹時に飲むという事です」
(※水缶 コック付 BUB 20L 水タンクの中に遠野の角閃石を入れて、塩素を除去しつつも、波動石の30万パワーで大腸菌をも消滅させてしまいますから、衛生的にも安心してお飲み頂けます。
しかもメンテナンスは一切不要というお気楽さでございます。
私はこの方法+AOUM音声でオーム振動水を作成して飲んでおります♪)
空腹時に飲むのが健康にとって良いのは、真水に含まれる体に必要な成分を、消化器の粘膜から吸収しやすいからだ。
体の中の消化管にある水10Lはどこで吸収される?
口から入る水分は、特に意識して水を飲まない人でも、1日約1.5L。これに唾液や胃液、腸液などが加わって、消化器官には常時10Lの水が存在している。
その80%は小腸で吸収されるが、未消化物が大腸に送られる時残る20%が含まれて、ほとんど液体の状態なのである。
健康な場合、大腸でこの殆どが吸収され便となる。ちなみに健康な人の理想の便は150~200gで100cc程の水分が含まれているもの。だが、水分が大腸でうまく吸収されないと、いわゆる下痢の状態となる。
ただ、味噌を飲みすぎるとこうなるかと言えば、答えはノー。飲む水の量と下痢は直接の因果関係はなく、他の要因が絡むからだ。健康であれば、平均より多くの水を摂っても、小腸でより多く吸収され、尿として体外へ排出されていくのである。
体質的に水を飲めないという人がいるが、
正しいトレーニングで解決できる!
水を沢山飲むと胃がもたれたり、トイレが近くなるという人がいるが、だからといって水を飲まないのは体に良くない。
「水を飲むとすぐに下痢するとか、お腹にもたれてチャプチャプ音がする様な人がいますが、胃下垂や内臓下垂の人に多いのですわ。こういう人は、水を沢山飲めないから飲まない。すると便が出にくくなって宿便が溜まる。
それが冷え性につながって、頭痛、肩凝りになってくるんです。疲れやすいとかスタミナがないのも、このタイプの人。こういう人はまず、宿便を出す為に水を飲める体を作る(体質改善をする)ことから初めなあかん。
元々たくさん飲める人は、飲んだ水を体の中に溜めておく事が出来るんです。溜めたのをぐるぐると使うことが出来るから、トイレが近くなる様な事もないのですわ。
水がたくさん飲める様になると、寝る前に3合(約450cc)飲んでもトイレに起きん様になりますねん」
甲田先生曰く、水を飲めない人の体には特徴があるという。それは、大5胸椎の歪み。
「大5胸椎というのは背骨の中でも胸の裏面辺りにある骨ですわ。これが歪んどると、胃の下の方にある幽門という所(胃から腸への出口となる部位)が閉じたままになって、うまく開かないのです。だからもたれてしまう。
胃がもたれたときは大5胸椎の辺りを拳で軽く叩いてやると、胃の中のものがすっと流れていきますわ。それから、金魚運動を長く続けること。
これは器具を買わんでもよろしい。仰向(あおむ)けになってつま先の膝の方へ90度以上反らし、金魚が泳ぐような動きを素早くやるだけでいいのですわ。
これを朝1~2分でいいから続けると、そのうち水が飲めるようになってきますねん。背腹運動も長く続けると、だんだん歪みが取れてきますわ。
膝をやや開いた恰好で正座して、背骨をまっすぐに伸ばした状態で左右に振り子運動をする。お腹は体が傾いた時に押し出し、真ん中に来た時に引っ込める。これだけです」
「むくむのは水分の摂りすぎ」の誤解
「手足がむくむから水はあまり飲まない」という人がいるが、意外にも「水を飲まない人の方がむくみやすい」という。
「水が足りないと脳にある反利尿ホルモンの分泌が多くなって、尿が出にくくなる。そこへ水分を摂っても、ホルモンの働きで尿が出にくくなってるから、水分過剰になってむくむんですわ。つまり、逆の現象が起こるというわけです。
腎臓病でむくむのも水の摂りすぎが原因だと思っとる人が多いけど、腎臓病になると毒素を薄めようとして腎臓に水が溜まってむくむんですわ」
日本人の死因 癌より動脈硬化が第一位
70年代末まで、日本人の死因は脳血管疾患(脳卒中など)が第一位だった。ところが80年代に入ると、悪性新生物群(癌など)が死因の第1位に浮上した。2位も心疾患(心筋梗塞など)が3位から上がってきている。
日本人は脳卒中で死ぬというイメージだったが、癌を恐れるようになった。しかし、第3位に落ちた脳血管疾患と、2位の心筋梗塞は共にその遠因は動脈硬化。たどればドロドロ血液との因果に行き着く。
この2,3位を加えると(合計すると)、癌を抜き1位になるから驚かされる。
人1日の水の出納(出入り量)
摂取 排泄
飲料水 1500mL
尿 1500mL
固形食物水分 800mL
不感蒸泄・肺 300mL
代謝水 300mL
不感蒸泄・皮膚 700mL
フン便 100mL
合計 2600mL
合計 2600m
55年間、私がこっそり続けている
水健康法をこっそり教えましょう!
甲田先生は大病を患ったのを機に、今から55年前に西式に基づく水飲み健康法を始めたという。
「当時は重い肝臓病や胃腸病を患っておって、現代医学の治療から民間療法の世界に入っていったのです。その中で西式健康法に興味を持つ様になって、まずは真水を美味しく飲めるようになろうと練習を始めたのですわ。
一度にたくさん飲まずにチビチビ飲むのがいいという話で、ウイスキーボトルに水を詰めて、ポケットに入れてちょこちょこ飲んどったわけです。
最初はとにかく胃もたれしましてね。ところが、断食や生野菜菜食をしている内に体質が変わった様で、3,4年したら2リットル飲めるようになりました。
さらに10年くらい経って1日5リットル飲めるようになると、便がものすごくよく出るんですわ。しかし体調は良いけど、5リットル飲んでちょくちょくトイレに行くのは社会生活を送るのに無理がありますから、それで1日3リットルに戻したというわけですわ」
1日3リットル弱の水を飲んで衰え知らず
水だけで午前中を過ごしていても、昼食後に出る尿が濃い黄色に染まっているうちは、まだ水を飲める体になっていないという。
逆に午前でも昼食後でも出る尿の色がごく自然な黄色になってくれば、水を飲める体に近付いてきたサイン。摂取した水がすぐ排出される事なく、体の中をぐるぐる回って効率よく利用されるようになってきたという事なのだ。
「朝起きてまず約0.6L、その一時間半後に同量(0.6L)。2時間置いて約0.7L、ビタミンCを摂りたい時は柿の葉茶を同量。夕方5時頃にまた0.6L、寝る前には水代わりに青汁も。これで水だけで合計2.7Lも毎日飲みます」
78歳になる甲田先生の体は驚くほど柔らかく、会話の中には学術用語がボンボン出てきて記憶力の衰えも全く感じさせない。
先生は、「努力で体質は変えられる」という。水を飲めない人も、トレーニングを続けて血液がサラサラに循環する体を作ってみてはいかがだろう。
目の水分が不足してなるドライアイ
若い世代に多く見られるようになった目のトラブル。大半は目の表面が乾くドライアイという症状で、疲れ目の60%はこれが原因。
他に、目がゴロゴロしたり、充血したり、痒くなったり、原因は空調のきいた室内で、涙が蒸発することから起こる。感覚としては、涙の分泌量が減るようにも思えるらしい。
この状態になった時、実は血液はドロドロになっている。目薬で目に水分補給すると共に、水を飲んで血液もサラサラにする事が必要だ!
水分は1日、1.5L以上摂る? 答え ◯
人間は1日に2.5L~3Lの水分を必要としています。そのうち食事で1L程度摂取するので、残りの1.5L~2Lは、他から補わなければなりません。
ただし、1.5L~2Lの水分を一気に摂ると、尿になって排出されてしまうので、小分けにして飲むのが理想的といえるのです。
では、なぜ人間は1日に2.5L~3Lの水分が必要なのでしょうか。実は、熱くも寒くもない環境で安静にしているだけでも、呼吸のたびに水分は体外に排出されます。
また、じっとしていても、体温調節のために汗を分泌しています。
これを「不感蒸泄(ふかんじょうせつ)」と言いますが、それだけで1日に0.9リットルもの水分を失っているのです。
さらに、尿として1.4リットル、便に含まれる水分がおよそ0.2リットルありますから、その合計は2.5リットルというわけです。ここの運動や仕事などをして汗をかけば、さらに1リットル程度の水分が必要になります。
ビールなどで水分を補給しても、飲んだ分だけ水分補給出来たことにはなりません。アルコールは利尿作用が強い上、アルコールを分解する際に大量の水を必要とするため、飲んだ分以上の水分を失ってしまうからです。同様に利尿作用のあるカフェインを多く含む飲み物もお勧めできません。
ただし、必要以上の水分の摂り過ぎは、肝臓に負担をかける上、低ナトリウム血症(水中毒)につながることがあり、避けた方が賢明です。
ちなみに、知花敏彦先生も食物全体で2.5Lの摂取が必要と言われていました♪知花敏彦さんの水のお話はこちら♪
私たちの肉体は75%水分と言われてますが、私からすると100%水分と言いたいのですよ。
私たちの食べてる食べ物もほとんど水分です。私たち大人の1日に必要とする水分は食べ物、飲み物ふくめて2.5Lはどうしても必要なんです。
1日に2000ミリリットルの水分補給
私達、大人の体は55~60%が水分で構成されています。適度な水分が体温を一定に保ち、血液をサラサラにさせます。夏になると水分を取ると汗がでるので、のどが渇いてもガマンしている人がいますが、とんでもありません。
水分が不足すると思考力が落ち、意欲がわかなくなります。1日に大人が必要とする水分は約2000mLと言われています。水分は一回に200mLくらいずつを数回、かむようにして飲むと効果的です。
汗をかいて脱水状態になったときや運動後は特に水分補給が必要です。私が健康法として習っているダンスの時の運動量も相当なもので、スポーツドリンクを飲んで、練習にはげんでいます。
同じテーマでの続編記事はこちら♪
FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪
- No
- 65
- Date
- 2018.03.04 Sun
長尾弘先生の仰天の福の神エピソード♪正法の光で商売繁盛♪親孝行は幸せの基礎♪念力と超能力♪痴呆と憑依現象♪
奇跡の人 天に愛された福の神 長尾弘先生
念力と超能力
或る先生は素晴らしいお話を毎月しておられるそうです。
その先生がこられた時の話ですが、日本の防衛庁にも、遅ればせながら超能力をもって相手のスパイ行為を探知するとか、
或いはミサイルを人間の念力によって破砕(はさい)するとかいう研究を進める期間ができて、その国家予算がこの程おりたそうです。
科学先進国の米・ソなどでは、国の研究として進められているそうです。ミサイルでも水爆でも、みなコンピューターで動いています。そのコンピューターを壊してしまえば爆発しないわけですが、それを上手いこと研究する機関が日本にも出来たのですね。
そこへ、その先生が教官として招かれたそうです。最初はそれと知らずに、一度来て下さいと招かれて東京に行かれたそうです。
すると、「コンピューターを念力で破壊する事が出来るのですか」と聞かれたので、「出来るでしょう」と言って、コンピューターというのはどんなものか見せてもらうと、3台あったそうです。
「A、B、Cのコンピューターを破壊させる箇所それぞれ別の場所を指定して潰しましょう」と言って、離れた別の部屋から意識を送られたら、3つともその箇所が潰れたとおっしゃっていました。
目の中に指を突っ込んで掃除をされるBさん、この方も超能力の持ち主ですね。念力で直径三十センチ程の水晶の原石に穴を開けられたという事ですが、私はこんな真似はとてもできません。世の中には不思議な人もあるものです。
すべてを生かす力は「仏の心」
たまたま、私は潰れたコンピューターを直させてもらう体験をしました。Uさんは近くの大きな生コン会社の社長をしておられます。
そこのコンピューターが潰れて動かなくなり、専門家が何日も泊りがけで悪いところを調べて修理してくれたけど、コンピューターが動いてくれないのです。
そこで社員が相談して、専門家が来ても駄目だったら、長尾先生に頼まなければしょうがないという事になって、そこの社長から電話があり、一度お願い出来ませんかと言うのですね。
私はコンピューターは見たこともありませんから、「専門家に頼んで下さい」と言ったのですが、「専門家が駄目だから、先生にお願いしているのです」と言われます。
行きますと、事務所にコンピューターが据えてあって、現場の方にその指示をする機械が置いてあるのです。
私はコンピューターに話をする前に、どうぞこのコンピューターに調和の光をお与え下さいと祈ってから、コンピューターに、
「あなたもこの世にコンピューターとして生命を持たされたのですから、精妙なる働きをしなくて引けません。それをこのように不調和を起こすとは何事ですか。この世に現れた限り、みな使命があるのです。あなたはその使命を果たしなさい」と話しますと、コンピューターがパッと直ったのです。その後、一度も故障していないという事です。
ただ行かせて頂いて、コンピューターに話をさせてもらっただけです。そこで私にも壊す力が与えられていたら、良かったのにと思うのですが、私には、ただ生かすだけの力、ただ癒すだけの力しか与えられていないのです。
破壊する力は私にはありません。すべてを生かさなくてはいけない。その心こそ仏の心です。
もう私は羨ましがるのは止めよう、その人その人に与えられた使命でなさっているのだから、そういう力を欲しがってはいけないと、その時思わせて頂いたのです。
この話を福井でさせて頂きますと、或るおじいちゃんが「それはおかしい、そんな事はあるはずがない」とおっしゃるのです。
もしそうなら、機械が潰れた時はみな私が「直れ」と言えば直るのかと言われるのです。
それで、「そんな事を言っても、機械を直す為に専門家がいるのだから、故障すれば専門家が直せばいい、専門家がよう直さなかったら、私が直させて頂くのです」とお答えしたのですが、その後も随分逆らっておられました。
それで、「百聞は一見に如かずです。もしお疑いなら、私がその会社にご案内します。会社の方からあなたの納得いくように説明して頂けると思います」と言ったのです。
その時面白かったのは、コンピューターが直った後、二階でお茶を御馳走になったのですが、「先生、ついでにこの株をちょっと上げておくなはれ」と言われたのです。株券というのは今まで見たこともありませんでしたが、たくさん持っておられました。
私は「はい、はい」と言って、光を入れておきました。そうしますと、その年、何千万円かの赤字だったのが、株で儲かったお金を全部返して、まだ何千万円か残ったということです。
(会場に来ておられるご本人に「ほんとですねえー」と先生が声を掛けられて大笑い)
何千万円も儲かったのなら、その内少しでも私にくれてもいいのになあと思ったほどで(笑い)。しかし、光を入れると現実にそうなるのです。
喜びがその場所を清める
先日福井に招かれて、Fさんという大きな履物屋さんのお宅でお話させてもらいました。その町は静かな町であまりお客さんの動きもなく商売も成り立たないので、もういつ止めようか、止めようかと思っておられたそうです。
ところが、私が寄せてもらってから毎日入れ変わり立ち変わりお客様が見えて、思わぬ売上げがあったそうで、その場所が清められるのです。
なぜ清められるのかと言いますと、皆さんの「喜び」が、その場所を清めるのです。そして光に満たされます。光に満たされると、物事が上手くいくのです。それはそれは、「福の神様」を迎えた様に喜んで頂きました。
何年か前に岐阜に寄せてもらいまして、その後犬山の方へ行く途中で、或る大きなレストランに入り、美味しいフランス料理をご馳走になった事があります。ところが見渡しますと、お客さんが少ないのです。
「先生、どうかお客さんが多くなるようにして頂けますか」と仰るから、私は「はい、はい」と言って外に出て、駐車場の所で、「どうぞ光をお与え下さい」と祈りましたら、忽ちにお客さんがどっと入ってこられて、私達の坐る場所もないくらいになりました。私自身が信じられない事ばかりです。
その後1、2年して行きますと、「先生、もう一回前に立ってお客さんを呼んで下さい」と言われましたが、まあ、こんな事は絶えず起きます。
今日は犬山から、Mさんの妹さんもお越し頂いています。庭の○の木に何十年間実がついたことがなかったという事ですが、去年は実がいっぱいなったそうです。数え切れない程の小鳥たちが集まってくるそうです。
ですから植物も喜んでくれます。人間だけではありません。植物も光を頂いたら、実をたわわにつけてくれますね。すべてが調和されるのです。
調和は幸せの根源---紙屋さんの話
I島に行きました時に、紙を漉(す)いておられるお宅へ初めて伺いますと、ジャンパーを着て貧乏髭を生やしていかにも貧乏たらしく見えるご主人が、私を見てうさん臭そうにしておられました。
そこのお仏壇にお参りさせて頂きますと、たくさんの金が出てきました。おばあちゃんはその金を持ってご近所に店に回っておられました。
お仏壇の真っ黒けの位牌を拝みますと、忽ちに文字が浮かんできて、金箔を塗ったうるしの位牌が綺麗になりました。
ご主人が小学五年の時、修学旅行で奈良へ行き、金箔を塗った大仏様の小さいのを自分の小遣いを全部はたいて買ったというのが、お仏壇の奥から出てきました。これも真っ黒です。
お仏壇には、お仏壇の作法がございます。まず宗旨によって、正面の中央には御本尊様、右側には祖師様---その宗教を興(おこ)された方、左側には中興の祖---一旦滅びかけたのを再び興して下さった方をお祀りするのが普通のしきたりです。
真言宗の場合、中央の本尊は大日如来様、右に弘法大師、左に不動明王を祀ってあります。そこのお宅にはそういうものが何もないので、
やはり作法に従った方が宜しいと言いまして、その奈良の大仏さんの模型は毘慮遮○仏ですから、大日如来様をこしらえましょうと言って、光を入れて大日如来様をこしらえまして、真ん中に置きました。
次に、弘法大師の色紙がありましたから、それで弘法大師さんをこしらえて置き、不動明王の代わりには観音様の首の落ちかけたのがありましたから、
これで不動明王様をつくり、三体揃えて光を入れますと、忽ち真っ黒だった大仏様が光り輝いてきて、お位牌も真新しいようになりました。古いものは古いなりに光ります。
その方がおっしゃるのですね。働いても働いてもお金は溜まりません。その辺りにA教という宗教があるのですが、それを信仰したらお金が溜まると聞いたので、そこへ入ろうかと思っていたと言われるので、
「いやいや、そんなところに入ったら、余計貧乏になります。何故かと言うと、信仰したら必ずお金をあげなくてはいけないから、出した分だけ貧乏になります」と言ったのです。
「これ(※長尾先生の光・法の功徳)でお金が溜まりますか」と聞かれるので、「お金がいっぱいに溜まります」と言って帰ってきました。
その後、一年経ってから再びそこへ行きますと、きちんと背広を着てネクタイを締めてパリッとした方が迎えに来てくれました。
「あなたは初めてですか」と尋ねると、「いやあの貧乏の紙屋です」と言われるので、びっくりしました。
あれから紙が売れて、二千枚綴じた半紙を庭の土間から座敷まで山のように積んであったのが忽ちに売れて、注文に追いつかず、もう一年先までの注文が来ているという事です。
あの時、紙を安くたくさん買っておけば良かったと思うぐらい、それほど売れっ放しになっているのですね。主人いわく、「今度は紙の値段を高くして下さい」と。私は「知りません」と答えました。
この前の時、ご近所に金を見せに行かれたおばあちゃんが。「先生は本当に福の神様ですのう、不思議な方です」とおっしゃいます。
これは、ご先祖様が救われ、家中が調和するからです。光を頂いて調和しますと、身体は健康になり、商売は繁盛し、家の中が明るくなって、幸せが訪れます。
神の心を人間が具現する
人間は全部神の御子、神の御使いです。神様はなぜ人間をおつくりになったのか。神は自分の姿に似せて人をおつくりになったと聞いております。
では、人間に何をさせる為に姿を神自らに似せてつくられたのかと言いますと、それは、神の御心を人間が現してくれるようにい神様の模型をつくられたのです。
神はその愛の故に滅せられました。そして姿あるものを人間としてつくられて、この肉体を頂いた私達が、神の御心を、つまり神ご自身を具現---具体的に示し現す為に、人をおつくりになったのです。
だから、私たちは、神が何を望んでおられるか、まずそれを知らなくてはなりません。それを知るのが「法」です。そして法を知ったら、自分でよく考え、よく思い、今度はそれを行動に移していく事ですね。
神の心を、この肉体をもって現して神の心を現した事に対して、
「あなたは神の心をよく現してくれました。私は満足です」と、喜んで下さるはずです。その時、私達は一人一人がみな神の御使いと変わります。
救われる側から救う側に
縁なき方々に救いの手を差し伸べて頂くこと、これが神様に対するご奉公です。救われる側がいつまで経っても救われる側であっては、神の使命を果たす事はできません。
全部神の御子としてこのように肉体を頂いているのですから、せめてこの事が分かった私たちは、肉体をもってこれを示し現していくべきです。望む事なしに、その御業は示されます。
以前お話した、手が動いて止まらなくなったお子さんとか、物が言えない方とかを、私は治す力も自信もありませんし、こうしたら治るという事は全く分かりません。
ただ救われて欲しい、こんなわけの分からない病から救われて欲しい、何とか幸せになって欲しいという私の思いが、神様を動かしたのです。愛ですね。その愛は誰でも皆現すことができます。
「苦しい方を幸せにしてほしい」こんな思いは、ただ行えばいいのです。力のないのは皆同じ、肉体を持てば同じ人間です。ただ、要は行うか行わないかの実践にかかっています。
為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり
何事も為せば成るのです。私にこのような不思議な力を与えて頂いても、「相手が喜びもしないのにそんな事アホ臭くて、ただで出来るか、しんどいのにできるか」といって、私がしなかったら、神の御業は現れません。
それと同じ事で、皆様もして頂いたら現れます。神様は平等で、えこひいきは一切なさいません。私も皆さまも同じ事です。
では、私だけがどうしてこういう事が出来るのかと言いますと、私が行うからです。皆様も行って頂いたら、大なり小なり差はあるかも知れませんが、必ず現れます。それが神の御意志です。
救われる側から救う側に立ちたいと思いますね。これが仏に目覚める事です。菩薩はすべてを生かそうとなさいます。
大自然の力は念力を越える
先程のコンピューターの話のように、生かそうという思いは壊れたコンピューターを動かしてくれます。その力は人間の持っている超能力、念力をはるかに超えております。
あの水晶に穴を開ける能力を持っている方に向かって、
「あなたの持っている念力と、私の頂いている自然の力と、どちらが偉大か、どちらが強いか試してみましょう。あなたは自分の胃が絶対に動いてはいけないと念じてみて下さい」
と言いますと、その方は強力な念力で念じておられましたが、私が「胃よ、その位置を変えなさい」と言いますと、胃はパッと位置を変えておりました。
皆様も既にご存知のように、胃は上から押さえますと、胃のある場所は痛いですね。
前もって胃のある位置を押さえておきましてこの場所からですと、確認して頂き、この場所から絶対に動いてはならないと念じて下さいと言い、その方が念じてられたのですが、私が言えば、胃は上に下にと位置を変えます。
大自然のエネルギーは小さい人間の念力などをはるかに超えているのです。もう関係なしに超えますね。自分にはそんな力は無いくせに、
どちらが強いか試してみましょうと、つい口をついて言ってしまったのですが、私が胃に対して上に来なさい、下に来なさいと言いますと即、変わりました。大いなる神の御業です。
訓練や鍛錬によって、火のない所に火をつけたり、念の力で物質に穴を開けたり、物を破壊したり、大きい声を出して岩を破壊したり、今でもチベットの山奥に行きますと、そういう行者さんがおられるそうです。
目の当たりに見てきた人もあります。色んな人の出会いによって学ばせてもらいます。
神はただお一人である
インドのサイババさんという聖者は、偶像崇拝を否定しておられて、神はただお一人であると言っておられます。
私の所にもお釈迦様、イエス様、お地蔵様と色々のお像が置いてありますけど、これは祀っているのではなくて、ただ置いてあるだけで、私は手を合わせて拝んだことはないのです。
困るのは、誰か知らないけれどそれらの前に銭を置いていかれることです。そうしますと、崇拝する事になりますから、どうか感謝、御礼だけを言うようにして下さい。物を供える必要はありません。
では、なぜ置いているのかと言いますと、こういう人類の尊いお師匠様、地球人類の大お師匠の前で、日々の生活が恥ずかしくない様に、自分自身を監視して頂くように置かせて頂いているのです。自分を常に監視して頂いても、見えない所でついちょっと過ちを犯す私のような者もおります。
悪口を止めると心が楽になる
「人の事を悪く言わない、悪く思わない」と心に決めますと、とても心が楽になります。
他の宗教に関係ある話は、一つの分かりやすい例にはなりますが、人の悪口を言うことは、自分の心を苦しめる一つの大きな原因になりますから、そういう話は一切言わないと誓いました。
すると、心がものすごく安らぎます。たとえそれが真実であっても、人の欠点、過ちを人様の前で喋ってしまいますと、言われた人はつらいと思います。
本当の愛に目覚めたら、そういう事も恥ずかしくなってきますね。私は今何年生きさせて頂くか分かりませんけど、他の宗教、宗教に関係のある方、或いはお医者さん、先生と言われる方達の過ちを指摘しない様に頑張っていきたいと思います。そういう話を一切しないと決めましたら、すごく楽です。
笑い話みたいなものですけど、胃下垂で何も食べられず、もうガリガリに痩せておられる方が、偉い大学病院で診てもらったら、お医者さんが仰るには、「あなたは肥えなさい、肥えたら胃下垂が治ります」と。
胃下垂で痩せて食べられず、肥えられるはずがないのにと思いますが、これはまあ笑い話みたいなものですね。こんな笑い話でも、お医者さんが聞かれたら、何を抜かすか、と嫌な思いをされますから、今度は一切言いません。
「言わない」という事は、本当に楽なものです。
人の悪い事は知っていても見ない。そして思わない。そして言わないようにすると、素晴らしい人生に変わります。
これは決心をして行った時、これほど楽なものかなあと分かりますから、皆さんも一つ私の真似をして頂いて、どなたの事も悪く思わないようにして下さい。いかに功徳(くどく)が大きいかが分かります。人を悪く言い、悪く思う事は、自分を苦しめる原因となっております。
「己の心を苦しめてはならない。己を大切にせよ」という神の御心に従って、私たちは自分自身を大切にしていきたいと思います。
自分を苦しめたら可哀想です。自分の心を苦しめて、どうして幸せになる事ができるでしょうか。そんなことはできません。
しかもそれを知らなければ、平気で私たちは自分の心を苦しめます。怒り、妬み、愚痴、これはもう法に縁がなかったら、日常茶飯事の様に繰り返しております。怒った結果として頂くものは、心の傷であり心の苦しみです。
わが子を救いたい親の愛
まだ一ヶ月も経っていませんが、先日或る方がご相談に見えました。足が痛くて引きつって歩けないのですね。
話を聞きますと、夜中二時頃に起きまして、藁人形を持って氏神様の森へ行き、一生懸命呪いの釘を打っていられるのです。こんな事は昔の物語かと思いましたら、今でもあるのですね。
鼈甲(べっこう)の櫛(くし)を口にくわえて、鏡を胸に吊り下げ、頭に三徳をのせてロウソクを三本立てて白衣を着ておられます。
鼈甲の櫛で口が裂けた様に見えるのです。そして人を呪い殺す様な心ですから、その人の心は正に鬼、夜叉ですね。姿までそのようになって人を呪い殺すのです。
これは人間の想念、行為の中で最も恐ろしい思いと行ないです。これをやりますと、相手を倒すだけでなくて、自分も倒します。鬼の心にならないとそういう事は出来ないのです。その方に言いました。
「あなたはどうかそれだけは止めて下さい。色んな事情はあると思います。しかし、それをやりますと、やがてあなたご自身がやられます。これは間違いありません。だから、その恐ろしさに目覚めなさい」と。
足の痛い原因について、何か思い当たる事があるでしょうと尋ねますと、実は丑の刻参りをしていますと告白されたのです。普通ならお参りしている所を他の人に見られても人に知られても、願いが成就しないのです。
そして自分の命が無くなるともいいます。それを、その人は告白されました。そこで、その恐ろしさを話させてもらいますと、「もう今日から止めます」と言われました。
では、あなたの足、腰の痛みを治しましょうと言って光を入れますと、ポッと治ってしまいました。あれほど跛(びっこ)を引いて痛んでいたのに、もう何ともありませんとのこと。その鬼の思いに、鬼が食らい付いてくるのです。
これも話を聞けば無理がないのですが、その方はお嬢ちゃんの事で心を痛めていたのですね。お嬢ちゃんというのは、勉強はよくできる、孝行、大学と一度も親に心配をかけず、良い大学を出られたそうです。
それが卒業して就職されると同時に、悪い男の人に引っかかったのですね。それは暴力団の人だという事です。フィリピンから女の人を連れてきては売っている様な男に引っかかってしまって、歳は20も上で奥さんもある人なのですね。
こういう悪い人からどうしても離れられないでいた所、結婚の話が持ち上がって結納も頂いたのに、そのお嬢ちゃんは嫌だと言うので、なぜ嫌なのかと問い詰めますと、実はこういう人と付き合いがあると告白されたのです。
何とかしてそんな人と分かれさせなくてはいけないと、両親は娘さんをきつく責めたのですね。そんなことをするのなら、私たちは死んで世間にお詫びするとまで言われたのですが、あまり厳しく言われたものですから、
お嬢ちゃんが家出してしまって、一つ先の駅の所にあるアパートに住んで生活しておられたそうです。それは男から逃れる為ですか、と尋ねますと、荷物はヤクザさんが運んできたもので、男の為のものなのです。
お嬢ちゃんのお兄さんが、あちこち探し回って居場所を突き止めて、アパートを尋ねた時に、そのヤクザと会ったそうです。そこで辛抱できなくなって、お兄さんがその男を殴ったのですね。
すると、逆ねじを食って二百万円も巻き上げられてしまったのです。親にしてみれば、娘は取られるわ、銭は取られるわで、居ても立ってもいられず、何とかしようと思って、こういう呪い事をしてしまったようです。
親は子への愛情の故に、鬼になってでも子を救おうとします。たとえ地獄に落ちるとも、その子に代わる事を思うのです。大きな親の愛だったのですね。それでお母さんを責める事は出来ませんから、
「そういう事をしても、お嬢ちゃんは絶対に帰ってこられません。今日から止めて下さい」と話しますと、「よく分かりました。来て良かったです。助けて頂きました」と言って帰られました。
親の愛というのは、自分を地獄に落としてでも子を救おうとします。自分を犠牲にしてでも子を救いたいという親の愛ですね。お母さんの大きい愛を頂いて、現在の私達の存在があります。
親はどのような親であっても、その親から頂いた恩を忘れないようにしていきたいと思います。全ての始まりは親孝行からです。親に安心して頂かなくて、親に喜んでいただかなくて、自分の幸せは絶対に訪れません。
そう言いながら私は、おばあちゃんに心配をかけます。お客さんが来られて夜の10時11時になると、「弘、もう早う寝な、そんな事してたら、身体が悪うなってしまうで」と言われ、又土曜から日曜にかけて留守にしますと、帰って顔を見せるまで心配をかけます。
この年になってもまだ親に心配をかけ続けているのですけど、本当に申し訳ない親不孝者でございます。心の中では少しでも母親に心安らいで頂きたいと、常に思っております。
親に心配をかけない様に生きること、これが人生の基礎ですね。その道が分からないから、自分が勝手に生まれて、勝手に生きてきたような顔をして、気に入らなかったら、「誰が私を産んでくれと言ったんや」と、親に向かってこんな事を言う人がいますが、これほどの罰当たりはありません。
しかし、平気でこれを言う人が案外多いのです。本当の親の有り難さを知らないからですね。
「お陰様で」
私たちは「お陰様で」という感謝の心を忘れております。あって当たり前、してもらって当たり前、すべてが当たり前と、思い違いをしております。
お陰様で、お陰様で、どんなことでもお陰があって今があるのです。そのお陰を忘れ去って当たり前になっていくのですね。当たり前という思いの中から感謝を忘れます。
「私には感謝するような幸せなどありません」とよく言われます。
考えてみますと、こうして生きさせて頂くのも、目に見る事は出来ませんけれど、現実に空気を与えられているからです。もし空気が無く、空気中の酸素が無かったら、三分以上生きられる人はありません。
全部の人の息は止まります。この与えられた空気に対して、「有り難いなあ、この様に目で見ることのできない酸素や窒素など、空気中に色んなものがあって、私たちは苦しみなしに生きさせて頂ける、有り難いなあ」と心から感謝できた方は一度手を挙げてみて下さい(笑い)。
また、あのお日様の熱や光に対して、心から感謝できましたか。これも、中々私たちにはできません。私達の目を楽しませてくれる花、こうして花を生けて下さる方の私達への思いやり、全てはお陰様の中で生きさせて頂いております。当たり前のように思っているので、有り難さが分かりません。
お日様も照って当たり前、しかし無かったらどうしますか。常に「もし無かったら」と思わせて頂いた時、有り難さが身にしみてきます。
夫婦の間もそうです。健全に守って頂いている間は喧嘩ばかりして、亡くなった時、ああ、えらいことをしたと言って、相手が死んでから一生懸命お墓にお参りして、お父ちゃんお父ちゃんと言っておられる方があります。
生きていた間はさんざん意地悪をして---。しかし十分に尽くさせて頂いた時にはお墓にお参りしなくてもいいのです。生きている時に満足を与えていたなら、お墓へもお仏壇へもお参りしなくても、うらめしやと出てこられることはありません。
本当に尽くし抜いた時は、絶対に夢に出てこられる事はありません。夢ばかり見るのは、自分の良心が、尽くしていない分だけ自分を責めて、夢を見せるのです。
死んだ人が夢の中に出てきて、こわい夢でうなされたというのは、完全に自分の良心が自分を責めているのです。そういうことがないように、生きている間によく尽くす事ですね。
そして、死んでしまってからも何の悔いも無いように、死なれた時も思いを残さないように、又後に残されたものも思いを残さないように、日々に十分、お互いに尽くし合っていく事ですね。そうすれば悔いは残りません。
尽くすことによって、尽くされた相手の方が救われます。そして自分自身も救われます。こんな年寄りは早く死んでしまったらいいのにと思ったら、よけい長生きされます。そうなっているのです。
ついには、呆けて何も分からなくなっても、まだ生きていられます。だから、尽くさせてもらったら、その時が来てサッと引き取ってもらえます。
年寄りに物を惜しんだらいけません。人間は、食べるだけ食べなくては死にません。もし呆けてもきますと、六人分、八人分のご飯はいっぺんに食べてしまいます。
おかずでも、じゃがいもの煮っころがしを家族七人分を大鍋に作っていても、おじいさん一人でいっぺんに食べてしまって、知らん顔しておられるのですね。現実にはそんなに食べられるはずがないのに、食べられるのです。
老人の呆(ぼ)けと憑依現象
何人かの老人呆けが治った例があります。これは統計的に見まして、一種の憑依現象が起きているのです。だから、憑依している方を救わせてもらったら、呆けが治る場合がよくあります。
呆けると、自分の家が分からなくなって、夜中に飛び出したまま迷子になるのですね。外に出ていくのはいいのですが、帰り道が分からなくなる。それで家族中で探さねばならなくなるのです。そういう状態の方が何人も治っておられます。
それはどういうことかと言いますと、この世とあの世との間に境界線があります。生と死の境界線です。人間は健康な時、幼い時など生命力が溢れている時は、この死の境界線が遠のいているのです。
若くても病気をしてだんだん信仰して生命力が弱まってくると、死の境界線が近付いてきます。病気が最悪の状態になると、死の境界線の中に入っていくわけです。そうしますと、死が訪れます。
また年をとって次第に生命力が弱まりますと、やはり死の境界線に近付いていきます。若い時は神も仏もあるものかと思っている仏心の無い人が、年をとったら、しきりにお寺詣りをするのです。そして、やがては死の境界に入ります。もう全部入ります。
だんだん年をとって70代、早い人は60代半ばで呆けている人があります。70代を越えて死に近付いていき、死んだ事を知らないでこの地上に思いや執着を残した人が、肉体は無いのに意識となって境界線をうろうろしています。
その境界線をうろついている人がたまたま近付いてきた人と心の通じた場合、その人に取り憑いてしまいます。すると、他の人格が出来上がります。
死後の世界、つまりこの境界線を越えた時は、いつも言うのですが、もう尻を向けたら一目散に走って行くことです。境界線から一時(いっとき)も早く遠のくことです。
この世への執着の思いを持てば、境界線の辺りをうろついてしまいます。これが、迷える霊です。いつまで経ってもこの世から離れないで、生命力の弱い人、或いは自分の思いと一致した人の中にポッと憑依するわけです。
取り憑かれたという事になります。老人にはそういう場合が多いように思います。こんなことを言うと、お医者さんに叱られますが、現実にはそういう事ですね。ですから、医者では治りません。
老人呆けを、医学上は老人性脳軟化症と言っていますが、呆けが進みますと、最終的には毒を食べても病気にはなりません。それは、自分に意識がないからです。
私達が食べ物に当たったり病気をしたりするのは、「ああ、これを食べたら恐い、それは毒と違うか、あれが悪かったのかなあ」などと思うからです。呆けたら、そういう事が分からなくなりますから、いくら食べても腹痛は起こらないし、腐った水を飲んでも大丈夫です。
現実は、衛生をやかましくいう時代ですから、ボウフラの湧いた水を飲んだら、皆腹痛を起こします。普通だったら、六人分七人分のご飯を食べたらお腹がパンクしますが、それも起きません。
不思議な憑霊現象の例があります。これは泉大津の方の話ですが、お嬢ちゃんが四国の松山の方と結婚されるので、両親が四国へ行かれて道後温泉で一泊され、又お婿さんの家でも泊めてもらって2,3日して帰ってこられました。
それから、そのお父さんは食べるわ食べるわ、お茶碗に八杯食べてもまだお腹がいっぱいにならないので、お寿司を三人前買ってきて、家族にも恥ずかしいからお茶だけ持って自分の部屋で食べるというのですね。
お菓子を一箱もらったら、誰にもやらないで一人で食べる。その方が私の所に来てそんな話をされるから、「それはおかしい、もう食べないようにしてあげましょう」と言って、ちょっとお祈りをして、「今晩食事されたら電話して下さい」とお願いしておきました。
夜八時頃電話がありまして、「先生、今食事をしましたら一膳のご飯がやっとでした。どういう事でしょうか」と言われるので、「あなたに大きな伊予狸が憑いていましたよ」と言うと、びっくりしておられました。
あれは狸が食べていたのですね。そういう事もあるのです。泉大津駅の前にジャンボどら焼きといって大きいのを売っています。
私はあんな大きいのは一個もよう食べませんが、それを4つも5つも食べていたというのです。考えられないことが起きますが、そういうのは簡単に取れます。
憑依現象の中にはこういうのもあります。そこら辺りに坐っていた方に「来なさい」と言いますと、ビューンと六メートル程飛んで来たので、
憑いていたものを取り除きますと、「いったい僕、何してますのや」と仰るから、「あなた、あそこから飛んできました」と言うと、「ほんまですかー」とびっくりされました。
オリンピックの選手でもそんなに飛べませんね。そして、悪かった肝臓もいっぺんに治ってしまって、これから帰って野球がしたいと言っておられました。
まあ、こういう不思議な事が色々ありますので、私たちは日々の生活の中でいかに心を正しく生きていくかという事が大事なことです。
誤った想念、行為に陥りますと、目に見えない世界の闇のエネルギーの支配を受ける危険が常にあるのです。だから常に心を光に満たしていきたいと思います。長い間ご静聴いただき、どうも有難うございました(拍手)。
- No
- 66
- Date
- 2018.03.01 Thu
光に満たされると病が消滅♪スムーズに極楽に行く為の心の準備♪正しい供養の心構え♪長尾弘先生♪高橋信次師♪
奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
死を迎え、死を送る心の準備
人は遅いか早いか必ず死ななくてはならない存在です。生まれるという事は、死を約束してこの世に生まれているのです。私たちは、別れを約束してめぐり合っております。死は避ける事の出来ないものであれば、その時の心の準備が大事です。
この世にオギャーと生命を頂きますと、その時から死への旅路が始まります。若くて元気な時は、永久に生きるが如く錯覚を起こして生活しています。しかし、間違い無しに一日一日、或いは一分一分、一秒一秒と死に近づく旅路をしております。
そして死んだ時、死とはあの世へ帰ることですね。それは何ら恐ろしいものではありません。知らないから恐いのです。
人はこの世に生きていると思っていますが、心はあの世の世界のものです。あの世の世界の心が物質と化した肉体の中に宿っているだけです。
死とは、着ている服がボロボロになったから脱ぎ捨てて、生まれたままの裸になるだけの事で、肉体とは服のようなものです。
わが師、高橋信次先生は魂の乗り舟とおっしゃいましたね。この肉体とはこの世からあの世へ魂が乗っていく舟だとおっしゃいます。
肉体舟、この肉体という舟がボロボロになったからといって、舟に乗っている人が傷つくかというと、そんな事はないのです。
或いは着ている服が傷んだから私の肉体がボロボロになったのかというと、それは関係のない事で、脱げば同じことです。
しかし、肉体と自分とが同じだと思っているから、恐れ苦しまなくてはならないのです。私たちは皆いつの日か、あの世に帰っていかなくてはなりません。これは避けることが出来ないのですね。
もしこの地上に思いを残しますと、その思いが執着となってあの世に帰る事ができず、迷える霊となってしまいます。
自分は死んだらお墓の中に入れて頂こう、仏壇の中に祀って頂こうと思いますと、その思いの場所に自分の心は完全に留まります。
私たちは、死んで肉体を去りますと、「思い」だけの世界に入ります。「思いの世界」は、自分が思えばその場所に意識が行くようになっているのです。死んだらお仏壇の中に入ると思ったり、或いはお墓にお参りして、
「早くお迎えに来て下さい」と祈っているお年寄りがよくありますが、そのように願えば、お墓とかお仏壇に入ってしまいます。そこに入ると思っておれば入るのです。
絶対にお墓やお仏壇に入ってはいけません。この地上界の何ものにも思いを残してはなりません。お仏壇、お墓、財産、名誉、愛しい方など、この地上の一切から思いを放して初めて、極楽の世界、素晴らしい魂の世界に帰る事が出来るのです。
このお話をしますと、皆さんから「水くさい」と言われます。しかしこの世を去って、愛しい者や心配のある方の所へ現れますと、決して歓迎は受けません。死後、お葬式も済んだ後に、「私はあんたらの事が気になるのだ」と言って出てきてご覧なさい、誰が歓迎してくれますか。
幽霊は若いお母さんが多いです。子どもを抱いたお母さんはその情の故に、愛の情けの故に迷うのです。肉体を持った私達もそうです。
情けに流されたら迷い、そして、苦しみの中にはまります。死を境として歓迎してもらえないのがこの世の定めですから、もう一目散に走っていくことですね。
命が終わりました時、自分が死んだと気づかせてもらったら、振り返る事無く、この地上界のすべてから思いを離してふるさとへ帰ることです。
正しい生活、正しい法の中に生きた時、私達は苦しみから解脱する事が出来ます。死んでも迷いません。そして自分の帰っていく世界がちゃんと分かります。自分はこの世を去った時、あの辺りの世界に帰るのだという事が分かって、心が安らぎます。
私はあの世に帰る時は、このようにして帰ろうと思っています。
たとえどんなに苦痛に襲われても、近くにいてくれる方に
「有難うございました。本当にお世話になりました。どうぞしっかり法を実践して幸せになって下さい」と、この世にある限りの力を振り絞ってお礼を申し上げたいと思います。
そして「今この場におられない方々にも、もしお会いになったら、どうぞよろしくと、私からのお礼を伝えてください」と、これだけは言わせてもらわなくてはいけないと常に思っております。
また、肉体を頂いて今なお死のチャンスを頂かずに生き残った私達が、亡くなった方に対して、「どうぞ私について下さい、私を守って下さい、私と一緒にいて下さい」という思いを祈りますと、その思いが亡くなった方の行く手を遮(さえぎ)り、自分の方へ引き戻す事になります。
これは供養の反対になるのですね。亡くなった人に対して、「生前は色々ありがとうございました。お陰様で私もこの世の喜びを頂きました。
お亡くなりになれば、この世とあの世とは世界が違いますから、私たちは精一杯生きて参ります。どうぞご安心なさって極楽の世界にお上がりになって下さい」と言って送り出すのが、後に生き残った者の定めであり、義務です。
いつの日か、あの世のふる里に帰らねばならないのが私達の定めですから、その時の事を今からいつも練習しておくといいと思いますね。
その時に慌てなくて済みます。
或るお年寄りとの対話
先週の日曜日、Fの地に招いて頂きました。三階の広間が会場になっていましたが、エレベーターがありませんでした。或るおじいちゃんが両側から抱えてもらってやっと部屋に入って来たのですけど、入るなり机の前に倒れてしまって息絶え絶えだったのです。
ちょっと息を整えてから私の前の机に坐られましたが、ひどい喘息の発作で苦しそうでしたので、「喘息を止めましょう」と言って光を与えますと、忽(たちま)ち発作は止まりました。
半時間ほどそのまま話をさせてもらってから、「おじいちゃん、発作は止まりましたね」と声を掛けますと、「いや、わしはじっとしてたら、喘息は出ないのや」と言うのですね(笑い)。
「じっとしてたら出ないと言うけど、今まで出てましたよ」と言いますと、「家でじっとしてたら出ないのや」、こうして階段を上がって来て動いたから出たのや」とおっしゃるのです。
「まあ、それは結構でしたね」と言ったのですが、その方は家にいても喘息が出て苦しくてたまらないから会場に来ておられるのです。
以前から苦しいので助けてあげて下さいという事で、名刺に書いたものを渡してあったのですが、いつもその名刺にお祈りをして、「長尾先生助けて下さい」と言い続けておられたというのです。それが、私に「あんたなあ、喘息が止まったのはあんたに関係ない」と言われるのですよ。
「今私が、どうぞこのおじいちゃんに光をお与え下さいと言って神様に祈ったのを見たでしょう」と言っても、
「そんな事で治るはずがない」と言い張っていますから、
「では、おじいちゃん一度階段を下りて、走って上がってきて下さい」と言いますと、「そんな事をして苦しゅうなったら叶わんから、そんな事はしない」と、しぶっています。
「でも、しなくては分からないから、行ってきて下さい」と言うと、おじいちゃんはしぶしぶ出て行かれたのです。
ところがおじいちゃんは、「不思議だなあ、わしが走って上がってきたのにどうもないわ」という事で、それからそのおじいちゃんと私との愉快な対話が始まりましてね。もう皆さん、大笑いされましたね。
「わしは朝1時間と晩1時間ずっと毎日神さんと仏さんを拝んでいる。あんたも拝んでいるのかい」と言われるから、
「私は拝んだ事はありません。私が祈るのは、朝の祈りはトイレの中です。
夜の祈りはお風呂です」と言いますと、
「まあ勿体無い。あんたようそんな事するなあ」と、びっくりされます。
「しかし、私はお尻を出して神様にお祈りをしても神様は聞いて下さいます。生まれたままの姿でも神様は聞き入れて下さいます。おじいちゃんは、神様を拝もうと思ったら、歯を磨き、手を綺麗にして拝んでいるでしょう。でも神様は聞いてくれないでしょう」と言うと、
「その通りや。どうしてこんなに差があるのか、一度聞かしてくれえ」と、まるで叱られているみたいなものでした。
本来心は清浄なるもの
なぜ、私は拝まないのに神様はあなたの病気を癒やして下さったのか、おじいちゃんは一生懸命拝んで自分の病気さえなぜ治して頂けなかったのか。
私達の心は本来清浄なるものです。オギャーと生まれた時は何の曇りもありません。全部素晴らしい清らかな心を頂いて生まれさせてもらいました。その証拠に、どんな赤ちゃんの顔を見ても全部可愛いです。どんな赤ちゃんの顔も全部安らかです。
なぜ、そのように安らかであるか、そして可愛いのかと言いますと、それは心が曇っていないから、あのように素晴らしい顔になるのです。
それが段々とこの世の風に当たりまして、人様との出会いがあり、出会いによって体験する出来事があり、この出来事の中で清浄な心を次第に曇らせていくのです。
私達の心は自分にとって都合のいい時は安らかでいられるのですが、自分にとって悪い都合の出来事が起こった時、必ず苦しみます。
腹を立てたり、愚痴を言ったり、相手を恨んだり、憎んだりして、その都度自分の清らかな魂を曇らせて汚していきます。
本来は丸く豊かな心を頂いて生まれました。怒り、妬み、謗り、愚痴、不要な心配、取り越し苦労、不安、恐怖などによって自分の心を曇らせた時に、その清らかな魂からモクモクとスモッグが出てきます。
その吐き出したスモッグによって自分の魂の周りを包(くる)んでしまうと、スモッグが私達の肉体や顔に形となって現われてきます。
苦しんでいる方のお顔を見たら、苦しい顔をしておられる。喜びに満たされた方のお顔を見たら、喜びに満たされております。しかも顔だけではなく、肉体そのものも喜びに跳動しております。
悲しみに打ちひしがれている時は、必ずそういう顔になっています。肉体そのものが表現しており、これは避けることができません。赤ちゃんは何の曇りもありませんから、あのように安らかで清らかです。
苦しみの原因を断つこと、その方法
私たちは、まっくろけにスモッグを出しても魂そのものは汚れていないのです。その周りが曇っているだけの事です。
常に反省させてもらって、自分の過ちを正す事によって自分が出したスモッグを薄くしていく事ですね。スモッグを打ち消す方法として1番大事な事は、今後の生活で心のスモッグを出さない事です。
後から後からスモッグを出したら、いくら反省して消そうと思っても、尻から出せば同じことです。
先日も或る地方にいって。「皆さんおならを落とした経験がありますか」と言うと、皆へへへと笑われます。おならと言えば上品、屁をたれると言えば、先生はえらい下品な事をおっしゃると言われますが、しかし現実に屁をたれない人はありません。
しかもこのおならには、頂いた食物という原因によって臭いという結果が色々に変わります。これは原因・結果の法則です。
ニンニクを頂いておならをすると、これはとても叶いません。お豆腐などのあっさりした蛋白質のものを頂いたら、おならもあっさりしています。これはなぜそうなるかと言うと、原因があれば必ず結果が現れるという法則に従っているだけです。
「この臭いは叶わないから、神様どうか臭いを取って下さい」と祈っても、自分が臭い原因を作っておきながら、滝に打たれたり、護摩を焚いたりしても取れるわけがありません。
あと出さなかったらいいのですが、お参りをしながら尻から又おならを出す、すると又臭いがします。他力信仰というのは、これとよく似ているのです。一生懸命に、
「福を下さい、健康にして下さい、幸せにして下さい」とお祈りをしましても、不幸になる原因、悲しみの原因、苦しみの原因である屁を自分がたれていたら、いくら拝んでも同じことで、臭いはプンプンとしてきます。まず、お尻をちゃんと締めて屁を出さないことです。
有り難い事に、神様は自然浄化作用、自然治癒能力という愛をこの地上界に与え給うております。一度臭いにおいを出したとしても、あと出さなかったら、何も拝まなくても、臭いは自然に消えていきます。
自分が臭いの原因、苦しみの原因を続けますと、永遠に救われる事はありません。一度で止めれば消えるものも、何回も出したのでは繰り返しになります。
こういう話をしますと、先生は不謹慎だ、神様の話をしながら屁の話をしたと怒られますが、これは神理です。
どれほど熱心に信仰しても、どれほど素晴らしい教えを受けても、どれほど素晴らしい加持祈祷をしましても、自分がその原因を断たない限り、その結果は消えません。
私の信仰とは「行ない」であり、信仰とは屁をこかない事です。屁をこくという事は、苦しみの原因を作る事です。苦しみの原因を作らない事によって自分が苦しむ事が無くなってくるのです。
屁たれ虫という虫がおります。
2センチぐらいのチョコチョコ走る虫で、棒でお尻を抑えるとブーっと煙が出てきます。私ら幼い時に、あれを「へったれ虫」と言いました。
拝んでばかりで、その端から苦しみの原因を出し続けている方の信仰を、「お宅様の信仰は屁ったれ虫信仰と言います」と、私は言うのです。いくら拝みましても、朝から晩まで拝んでも、幸せにはなれません。
Y先生が、石川県にいる教え子で、もう40代の方ですが、その方にお話のテープを送られたのです。そしたら、護摩も駄目、お経を上げても駄目、拝んでもらっても駄目だったのが、そのテープを聞いた時ものすごくショックを受けられたそうです。
「自分は今日まで数々の過ちを犯してきた、一体この過ちをどうしたら救われる事が出来るか、話が筋立っているので、救われる道が無くなったら、一体私はどうしたらいいのか」
と思って、三十数回もテープを聞き直し聞き直しして、救われる方法をどこかに話しておられないかと思って探されたそうです。
ようやく最後の方で「悪をとどめて善を積みなさい。その事によって罪は許されるであろう」という言葉を見付けて、「初めて分かった」と言われたそうです。
同じことをしゃべっているのに、一度も直接お会いせず、テープを聞いただけでものすごくショックを受けて、こえはえらい事だと思って下さる方もあれば、直接話を聞いても、ははは面白かったなあと、少しもショックを受けないで済んでしまう方もあります。
1番大事な事は、スモッグを出さない事ですね。観念、行為、言葉のおならを落とさない事です。おならを出せば臭いですからね。しかし心から出してしまったスモッグは、これは払わなくてはいけません。
それでは、払うのにどうしたらいいかと言いますと、反省をさせてもらうのです。常に自己反省をする事です。
つまり幼い時から今日まで一体どういう生き方をして来ただろうか、過ちはなかったか、人様に見られて恥ずかしい事はしなかったか、あの時にあれさえしなければ良かったと思うような出来事を作ってはいなかったか、
誰も見ていない、誰も知らないからといって、もし見られたら恥ずかしい行ないをしなかったか、或いは心の中の思いはどうであったか、これらが全部スモッグとなっておりますから、反省させて頂いて、そしてその過ちを一つ一つ悔い改めた時に、スモッグは薄くなっていきます。
仮にスモッグで心の中を真っ黒にしましても、その外側も内側も何ら変わりはありません。地球の周りがスモッグで取り囲まれても、その外には太陽の光が燦々(さんさん)と注がれております。
スモッグの層が厚くなりますと、太陽の光は遮られ、地球には届きません。そのスモッグは太陽の熱、光と化学反応を起こして、光化学スモッグとなり、目がチカチカしたり、皮膚が痒くなったりします。
そこへ硫酸の雨が降って、森林が全部枯れた場所というのが地球上にいっぱいあるそうですね。テレビで映していました。
あれは人間が出したスモッグによって、化学反応を起こして酸化した雨が降ってくるから、樹がみな枯れてしまうのです。
それと同じ事が心の中で起こります。神様の光が燦々と注がれる中にあって、自分の心から出したスモッグによって、その神の光を遮って、通らなくしています。スモッグによって完全に光は遮られます。
しかも化学反応と同じように自分の心を腐敗させるような作用も起きますから、このスモッグを出さないことが大事です。
次に、今度は法を学ぶことと、反省をすること、そして自分が過ちを認めた時にこれに代わる償いの善き行いを積み重ねていくことです。
そのことによって魂が清められてきます。スモッグが薄くなっていきます。雲間からサーッと太陽の光が射している光景も見られた事があると思いますが、あれと同じ状態が私達の心の中に起こります。
その時、内なる神と外なる神が一体となって繋がります。私たちは皆神の御子です。
「私は神」と「私は神の分け御霊」
或る人が私の所に見えて、「私は神であるという事を悟り気付かせて頂きました。私は神です」と言うので、神のごとく生活していないのに恐れ多い事を言うなあと思っておりました。この人は肉体の痛い所が多く不調和な方でした。
例えば太平洋が神様としますと、この一滴は海ですよ、太平洋ですよ、と言えば笑われます。太平洋の水ではありますが、即ち太平洋ではありません。しかし汲み上げた一滴の水が太平洋に帰った時、私は太平洋の一部ですと言えます。
それと同じことで、私たちは神の分け御霊です。尊い大生命の中から分かれさせてもらった神様と同質同根の生命です。しかし、私たちは神ではありません。神の分け御霊です。
そのように思わせてもらったら間違いないのではないかと思いますね。神の如く生きないで、私は神だ、私こそ神だとは言えません。神様の如く生きてこそ神と言えると思います。
沖縄にイエス様の話を翻訳なさったN(仲里)先生という方がおられます。その先生の名刺を頂きますと、「いと小さき神理のメッセンジャー」と肩書に書いておられます。
私は「いと小さき神の御使い」、つまり私たちは皆いと小さき神の御使いとして生きさしてもらっているのです。それを自覚したらいいですね。
「私は神の使者として生きさせて頂く事に目覚めました」と言って、その会場でお話させてもらったのです。スモッグを払った時、燦々として光が注がれます。その時、望むことなしに現証はあらわれます。このようにFの会場で説明させて頂きました。
お年寄りの対話の続き
先のおじいちゃんがこの様におっしゃいました。
「私は今日まで色んな宗教を渡り歩いてきたが、納得がいかないから、その都度疑問に思うことを色々質問させてもらった。ところがあんたは生意気だから後ろへ行けと言っていつも追い払われた」と。
あまりしつこく聞かれて説明が出来なくなり、ひどいところではもう出て行けと言われたそうです。
ところが、こうして納得のいくまで教えてもらいましたと話されているうちに、先程まで「あんたあんた」と呼んでいたのが、急に「先生」に変わりましたので、先生なんて言わないで下さいといったのですが、
「大体、先生は姿や形が貧弱だからいかん、先生だったらもっと偉そうにしておれ」と言うのです。
そして終わりになりましたら頭を机に擦り付けて、「先生、わしはもう80何歳になったが、こんなありがたい先生にめぐり合わせてもらって、あの世に帰る時のおみやげを頂いた。年に一度か二度しか会えないけど、どうか私を導いて下さい」と言って、ひれ伏して拝んでくれました。
それで、私が「寄せてもらっても、一切の求める気持ちはありません。ただ縁のある方が幸せになってくれたらいい、不幸な方が救われてくれたらいい、その思いだけで日本国中回らせてもらっています」と言いますと、
「それでは何をして食うてるのや」と尋ねます。
「私は一生懸命働きます。自分の食べる分ぐらいは自分で稼ぎます。そして余ったお金を旅費にして、会場を借りて頂いた場合は、私も負担して全国を回っています」と言うと、
「あんたよっぽどボロイ仕事をしてるのやなあ」(笑い)
「いやいや、私は普通ですけど、神様が与えてくださったのです。私はもう結構ですから、これ以上頂きませんようにと言いましても、神様の方がいやいやあなたにはもっとしてあげなくては気が済まないと言って下さいます」と言うと、「あんた得な人やのう」(笑い)
まず自分が出しますと、普通は損をすると思いますが、しかし出すと必ず入ってきます。出させて頂くと入る、出すと又入ってきます。
これが自然の法則ですね。だから、常に出させて頂く事を日々の生活に隠れて行っております。
これは、喋りますと損します。喋りますと、それはみな赤字になります。しかし私は敢えて天の蔵から皆さんの為に放出して損をさせてもらいます。
火事の時も神から守られる
この前の金曜日でしたか、夜、皆さんがおいでになってここで禅定をさせて頂いていました。皆さんと坐っておりましたら、静かにそこを開けて小声で「萌えてますよ、燃えてますよ」と言われるので、何を仰るのかと思って、静かに目を開けて「ああ燃えてますか」と外に出てみますと、一軒おいた家がボウボウ燃えているのです。
火の粉が飛んできて、しかも台風の夜で、風がこちらに向いていますから、これは危ないなあと思いました時に、急に風向きが変わって反対に吹き出しました。
それで「もう皆さん心配ありません。どうぞ安心して下さい」と言って、私は燃えている火の元を消しに行っておりました。一軒おいて隣から十軒燃えたそうです。
大火事で、そこへ台風でしたが、さすがに皆さんは私の心の友で、心ができておられます。二階に上がって火事を見物なさっています。
普通だったら荷物を担いで出る所ですのに、燃えている隣の家の屋根に上がって火事見物をしておられるのです。
私は火を止めるのに必死の思いで走り回っているのに、二人のお客様は火事見物をしておられました(大笑い)。心を学んでいても、各自その人その人の心の段階があります。
しかし本当に有り難いことで、瞬時にして風の向きを変えて頂いて、二階から見ておられた方は、火がこちらに来ても、途中で炎は向こうの方へいったと話しておられました。その御蔭で焼けずに助かりました。
もし燃えてしまったら、皆さんが集まる場所が無い所でした。神様のお陰だと思って心から感謝しました。
皆さんの「心のふるさと」が燃えたらえらい事でしたが、ほんとうに神様のお陰ですね。こうして守られている、守って頂いているという事が、ひしひしと感じられます。
光に満たされると病(やまい)が消える
先日F市で質問の時間を頂きました時、或る50代の男の方が手を挙げられました。「どうぞ」と言いますと、「質問はないのですけど、先生に御礼を申し上げたいのです。私はぎっくり腰で今日はタクシーに乗ってこの会場まで
来て、人の手を借りてやっと部屋まで来たのですが、今は全然何ともありません。お話を聞かせてもらっている間に腰痛が治り、何とも無くなりました」と言って、前で体操をしておられるのです。
すると、肩の痛かった方が何人も、「そういえば、私も何ともありません。治った治った」とおっしゃいました。
それは何故かと云いますと、その会場が光に満たされるのですね。光に満たされますと、あそこが痛い、ここが痛いという闇が消え去られてしまうのです。肉体の不調和、つまり痛い苦しいというのは全部闇です。
その闇は法の光で照らされた時、光に逆らう事は出来ませんから、痛みが消えてしまうのです。こういう事はよく御座います。
お医者さんから見放された肝硬変の方が、お話を聞いて頂いている途中で、完全に治ったという例があります。そのお医者さんはなぜ治ったのか分からないとおっしゃっていますね。まさに奇跡です。
一般的には全く考えられない事ですから、奇跡が起きたと仰るのです。しかしそれは光によって闇が払われただけの事です。そのように寄せて頂く先々で、信じられないような奇跡を見せて頂きます。
病気の原因は肉体を支配する「心」
すべてがそうだともいえませんが、病気というのは、心の不調和が集まり集まって、肉体の上に形として現れたものです。現象化した私達の肉体を支配している支配者とは、それは私達の「心」です。
心は肉体の目では見る事が出来ません。しかし、今日お話会がある、では寄せていただこうかと皆様は心に決定を下されたはずです。
そして、肉体がそれに従ってこの場所に集われました。もし、「ああ、私はもう止めておきます」と、心に決めますと、この場に肉体は絶対に来ません。心はそのように、決定権を持っております。心が支配するのであれば、病気も同じように心の支配を受けます。


















