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date :2018年02月

神我が光る7つのメッセージ♪神への愛,感謝♪食べ物のカルマを浄化する方法♪功徳を積める光の祈り♪神岡健さん♪

魂のすごい力の引き出し方  神岡健先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
         
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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神我が光る7つのメッセージ      神岡健先生の記事♪  

 2007年の夏、私は旅行で千葉県の美しい海辺の町を訪れていました。この時、とても知りたい事が湧いてきて、宇宙の創造主に祈って訊いてみました。

 実はその直前から、私は瞑想中に神様に祈ると、頭の中にかすかな息の声で答えが聞こえてくるようになっていたのです。
 全てが当たる訳ではありませんが、序章で触れた3.11東日本大震災のリーディングも、このサイキックな聴覚で日付を知り得たものです。

「人間が生きていく上で最も大切な事は何でしょう?どうか教えてください」
 こう祈った時、まるで訊かれるのを待っていたかの様に即座に、
「7つあります」という声が脳内に聞こえてきたのです!

 その後、立て続けにスラスラと頭の中の言葉が続き、時々それを万年筆で神に書き留める手がついていけない程のスピードで淀みなく聞こえてきました。聞き取れなくて困っている時は、同じ言葉がテープレコーダーの様に繰り返し聞こえてきました。

 これが私の妄想や想像の産物ではない事は明らかでした。
読み返して思わずうなってしまうほど深遠な真理が書かれており、自分で読んでみて唖然としました。

 これは現代を生きる私達への創造主からのメッセージだと思いました。これらの意味をよく味わい、実行なさるなら、きっと神我がとても強く大きくなるでしょう。

7つあります。

◆一つ目は、神への愛です。
 神を愛することほど大切なことはありません。神はあなたを創った愛の光であり、命の大本です。
 これなくしてあなたは生きている事は出来ません。神はあなたが考えている以上にあなたを愛しています。だからあなたも神を愛しなさい。


◆二つ目は、奉仕すること。
 奉仕は体を使って、頭を使って、神の愛の現れである全てのものに何かをすることです。神があなたを創ったのですから、あなたも神に何かをしなければなりません。神への愛を奉仕によって表さなければなりません。

 あなたが何かを大切にすることは、神を大切にすることです。神への愛を体で表して下さい。そうすれば、神はあなたをもっと愛するでしょう


◆三つ目は、生き物を殺さないこと。
 生き物は神が創った愛の現れです。あなたが生き物を殺すならば、自然の環境はあなたを懲らしめるでしょう。


◆4つ目は、真実を語ること。
 真実を語る人は神に仕える人です。神は真理だからです。真実の言葉は神の光です。真実を語らない人が神を愛することは出来ません。


◆五つ目は、心を手なずけること。
 心を手なずけることは困難なことですが、大事なことです。心がなければ何も出来ません。心を調和的な方向に手なずけることです。
 
 心を手なずけることは欲望を抑えることです。欲望があまりにも大きければ肝心なことがわかりません。欲望を抑えるにはどうしたらいいでしょう。

 欲望を抑えるには神に祈ることです。そうすれば完全に抑えることが出来ます。神は欲望を消滅させることが出来ます。神の力があれば可能なのです。神に祈ることが大切です。


◆六つ目は、肉体に執着しないこと。
 肉体に執着すると、肝心な神との関係がわからなくなります。肉体は必ず無くなります。神との関係は体より上です。神こそが体を与えた大本です。体が滅びた後、神との関係が残ります。神との関係は永遠に残ります。


◆七つ目は、全ての行いを神に捧げること。
 あなたが神だとしたら、あなたは何を人間に求めますか?あなたが神なら、あなたが創った全てのものを大切に思うはずです。

 あなたが何かを大切にすることは、神を大切にすることです。あなたが目にする全てのものは神ですから、神に全ての行いを捧げなさい。



神我が強く光る「光の祈り」

 ある日わたしは神様に祈って、誰でも宇宙の創造主に太くつながる事ができる祈りの言葉を教えて下さいとお願いしました。そして脳内に聞こえてきたのが、次にご紹介する「光の祈り」です。

 これはどんな宗教の方も唱える事ができるユニバーサルなマントラです。 これを受信した時、「七回唱えてください」という声も聞こえました。七は”完全”を表す数字です。実はこの祈りで奇跡のような事がよく起こるのです。

 この言葉を紙に書き留め、最初に声を出して唱えてみた時、遠い宇宙の中心になる途方もない強い光の源と私の神我が、太くてタイトな一直線の光のロープのようなものでグググッと繋がり、私の神我が光に満ちてきたのです。
 そういう経験は初めてでしたので非常に驚きました。皆様もぜひ心を込めて唱えてみて下さい。


「光の祈り」

神の光につながります
真理の光につながります
神と私は一つになり
神の光に包まれます
神に全てを委ねます

(七回唱えます)


 特に重大なヒーリング・セッションの前などは108回、あるいはそれを数セット捧げて頂き、あらかじめ魂の中に ”光の貯金” を作っておいて下さるようクライアントの方にお願いしています。

  ”光の貯金” は本来見えない所で善行や奉仕を重ねると魂の中に自然に出来るもの(※いわゆる”徳”)です。これが沢山ある人は、いざという時に天の助けがありますし、ヒーリングの効果を決定的に強めてもくれます。

「光の祈り」は深い神我から唱えましょう。我欲や期待を込めて唱えてしまうと、かえって自我を強めてシナリオを悪くしてしまいます。

 唱える前にハートの神我の意識になると意図してしばらく心を静め、最も深く静かな内面から言葉通りのことを思って捧げましょう。

 ある日クライアントの方から「父が肺炎で入院し、危篤な状況です」と電話で伺い、私は「お父様のために光の祈りを毎日108回唱えてあげて下さい、良いシナリオになれば良いことがあるかもしれません」とお勧めしました。

 その結果本当に熱心に唱えて下さり、奇跡が起こりました。ご本人様の感謝のお手紙をご紹介しましょう。


体験談 「光の祈り」で父が重症肺炎から生還

 神岡先生には平成25年度からお世話になっております。それ以来先生に教えて頂いた「光の祈り」を毎日唱えておりました。8月中に83歳の私の父が肺炎になり、約40度の熱が10日間続き、肺の機能も低下し、とうとう人工呼吸器をつける事になりました。

 医療関係従事者である親戚の人からは、「良くなることはないだろう」と言われ、私も覚悟しておりました。

 ただ、今まで本当にお世話になった父に、娘として出来る限りの事はしたいと思い、今までの感謝の気持ちを込め、毎日108回の「光の祈り」を父に唱えました。もし亡くなったとしても、高い霊界に行けますようにという思いを込めて……。

 この祈りを毎日唱えているうちに、神様に、父の肺の機能が戻り自発呼吸が出来るようになること、また、心臓の不整脈が整うこと、また、腎臓の機能も回復すること、そして意識も完全に戻ることを具体的に祈っていました。

 すると、三週間経った頃から、肺の機能が回復し始めて、人工呼吸器からの酸素濃度も少しずつ減ってきて、四週間経った頃には人工呼吸器が必要なくなるくらいに肺の機能が回復し、不整脈も殆ど消え、腎臓の機能も回復し、意識も完全に戻りました。

10月の上旬に一般病棟に移った父を見舞った時に、そばにいらした看護師さんが。「奇跡だと思います。すごい生命力でした」と言って下さいました。

 本当に神様の力はすごいと思いました。また、「光の祈り」はすごい力だと思いました。神様に、そして「光の祈り」に心より感謝致します。

 本当にありがとうございました。また、光の祈りを教えて下さった神岡先生にも心から感謝致します。神は愛であり、その神に委ねることの素晴らしさを体験させて頂けたこと、幸せです。


もう一つ素晴らしい体験談をご紹介しましょう。

体験談 「光の祈り」でハムスターの腫瘍が消滅

 今は寿命でなくなりましたが、飼っていたハムスターの片方の類袋に大きな腫瘍ができ、動物病院で手術するか悩んでいた頃、私の手の平の中でハムスターを覆い、光の祈りを出来る限り祈りました。

 そうしたら翌日、ポンポンに膨れ上がっていた腫瘍が消えてぺったんこになり、しかも以前より元気に走り回っていたのです。

 家族みんなが驚きました。二年が寿命と言われているハムスターですが、その後も元気に約三年近くまで生きました。光の祈りの素晴らしさを実感した出来事でした。

 人は誰でも心の深い所には神様の一部としての神聖な創造パワーを持っています。神様とつながることでそれを引き出し、欲望(=陽)や恐れ(=陰)のシナリオを遠ざけ、愛と感謝(=中庸)のシナリオを強めてくれるのが、この祈りの驚異的な力の秘密なのです。

 苦しんでいる人の為に真剣に祈れば、相手の魂にも光が灯り、その人のシナリオも良いものに変えてしまう場合がよくあります。


食前の祈り

 次の言葉は私がサイキックな聴覚で受け取った食前のお祈りの言葉です。玄米を浸水させる時に唱えています。これを神我で真剣に唱えると金色の光が来て、食べ物についたカルマ、暗いオーラを浄化して頂けます。


神の体であるこの食べ物を神に捧げます
私の中の神に捧げます
神により この食べ物は浄(きよ)くなり
私の心と体を浄くします
この食べ物を神に捧げます


唱える方の魂の光の強さ次第で、農産物の生産者や料理人さんのカルマが邪気として付いているのも浄化されます。浄められた食べ物の明るいオーラが神我にスーッと入っていきます。どんな宗教の方でも唱える事が出来ます。

 手を合わせても合わせなくてもよいのですが、合わせた方がパワフルな結果を生み出しますし、声を出した方が強い作用があります。

「あの人が入れたお茶は、なんだか美味しい」と思った事はありませんか?
料理もお茶も、魂の大きい方が作ったり入れたりすると、同じように作っても美味しくなります。

 それは作り手の魂の光が食べ物を自然に浄化し、雑味やカドの取れた深い味に変えるからです。実は、お祈りをしなくても自然にそういう事はある程度起こっているのです。



魂を大きくする方法     神岡健さんの記事

 この世の全てが神さまです。生き物はもちろん、無生物も全て大切にし、ムダにしないように扱わなければ、神さまとの関係を損ねて魂の光が弱くなってしまうのです。

 では、「全ての行いを神に捧げる」とは、具体的にどうすることなのでしょう。
 この言葉は比喩的な表現ではありません。読んで字のごとく、そのままなのです。「全ての行いを」「神に」「捧げる」、それを素直に実行することです。

「全ての行い」といったら本当に「全ての行い」です

 例えば、学校の授業の予習や復習をこれから始めるとします。その時、漫然と初めないで、まず「この勉強を神に捧げます」と、一言祈るのです。出来れば声に出して。

「この仕事を神に捧げます」「運転を神に捧げます」「調理を神に捧げます」「入浴を神に捧げます《こう祈って温泉に入ると陽にならず、出た後湯あたりしません。湯あたりは陽の反動なのです》」

「掃除を神に捧げます」という具合に、何をする場合も心の中でそう祈ってから取りかかりましょう。

 この「◯◯を神に捧げます」という祈りは、生理的にも良い変化をもたらすことを期待出来るだけでなく、霊界に数多く存在するいろいろなシナリオの中から神さまの調和的な中庸のシナリオを選び取りやすくしてくれます。

 最後にとても大事な点ですが、全ての喜びも神さまに捧げるということです。喜びは”陽”の感情であり、個人化した自分という存在の生存が確保されることで味わう一時的なワクワクした感情です。

 何かを手に入れた時、何かを達成した時、人は飛び上がって喜びます。しかしその後で、必ず”陰”がやってきます。苦しいこと、悲しいこと、つらいことがやってきます。

 ですから、良いことがあった時は嬉しい気持ちが完全になくなるまで神さまに感謝の祈りを捧げましょう。
 感謝は中庸であり、完全に感謝し尽くすと反動による”陰”がやって来ませんので、浮き沈みのない平安な道を歩むことが出来ます。



魂とは何か
魂の光(中庸のエネルギー)   神岡健さんの記事

 私のサイキック感覚では、人間の魂の光は胸にあります。(※覚者知花敏彦先生と同じですね) この「魂の光」の中心は、咽(のど)の下の首の付根にある深い凹みの「天突」というツボから5~6センチ下にあります。

「魂の光」は温かく、明るくて、ふんわりとした優しい感触のエネルギーです。ビリビリした「影」のエネルギーやねっとりした重い「陽」のエネルギーとは違って、中庸の軽くてニュートラルな安定したエネルギーです。

「魂の光」は、全体としてはマユに似た横長の楕円球体をしています。より詳しく視れば、クォークのようなまん丸い球体が、螺旋状の軌道を描いて運行しており、その軌道が全体としてマユのような輪郭をなしています。

 男性の魂は、霊視で視た中性子と同じ構造をしており、女性の魂は、霊視で視た陽子と同じ構造をしています。

心が利他的な人は「魂の光」が大きく、運行しているクォークのスピン速度を運行速度が速い(※周波数が高い・波動が高い)のですが、利己的な人は「魂の光」が小さく、クォークのスピン速度も遅い※波動が低い)のです。

 後に第六章でお話するアセンションの際、魂の光の小さい人は、アセンション後の宇宙の高い波動に同調できず、移行ができないのです。

 その「魂の光」の中に、「神我」の姿があります。神我の意識は、神聖な愛や良心、理性といった個人化した神の意識です。魂の光は、脳の前頭葉とオーラ的に繋がっています。神我の意識は、前頭葉に情報や指令を与えているのです。

 胸の光から前頭葉に来る神我の意識は、動物的な要求を超えた二元らしい高度な意識です。ですから、胸の魂の光が弱く小さい人は、前頭葉も光のエネルギーが乏しく、暗く冷たいのです。

 人間の場合、当図にはその人の高次元霊界での上位存在(ハイ・ビーイング)の魂の光が宿り、それから来る光が胸の魂を外側から包んでいて、二重構造の光の玉になっています。

 ちなみに、動物は頭に魂の光があり、なんと、その中には人間の姿の故人化した神様が映っています。動物も私たち人間と全く同様、神様が個別化している存在なのです。
うちの猫達も、動物の姿をしているけれども、実は神様・・・』
これを発見した時、もう本当に驚いて唖然としてしまいました。

 ただし、一部の例外を除き、通常の動物には高次霊界の上位存在はなく、人間のような二重構造の魂ではありません。

 
魂の光こそ幸福感の正体

 自我意識があると、他者のエゴと衝突して怒りを感じますが、祈りや奉仕や瞑想などの霊性修行で神我を強め、自我意識を浄化していくに従い、創造主の意識に近づいていきます。その結果、世界の分離という幻想から開放され、他者の自我意識に触れても、それを”無限の自己”の一部ととらえ、受け入れて包み込む境地になっていけるのです。(自他一体感・全一の意識)

 その時、善対悪、光対闇という二元世界を超越し、全てを包摂して対立を超えた境地に至ることができるでしょう。
 これが、昔中国の老子が説いた、”無為自然”という境地ではないでしょうか。霊視では、老子は宇宙の創造主の化身の一人でした。

 誰もが幸福を願っています。幸せになりたくない人はいません。でも改めて考えてみると、幸せというものは一体何でしょう。それは、人によって違うから一概には言えないのでは、という方もいらっしゃるでしょう。

 確かに、歌手になって歌を人々に聴いてもらうことが幸せと考える人もいれば、主婦として夫を支えたり、子供を立派に育て上げることが幸せだと思う人もいます。

 たまたま、ビジネスでお金を沢山稼いで豊かな暮らしをすることが幸せだと考える人もいれば、人に何かを与えて喜ばれることが幸せだと考える人もいます。

 しかし、サイキックな観察からすると、幸福感に満たされている人のオーラの状態は、同じように明るく輝いています。人によって個性にあった千差万別の生き方やプロセスがあることはもちろんですが、そうして色々なプロセスをえた結果として、魂の光が強く大きく輝き、オーラ(特に第四オーラ)

 全体が明るく、波動の高いエネルギーを放っている---そういった人が幸福なのであり、それこそは神様の神聖な光のエネルギーが魂やオーラに豊かに届いて輝いている状態なのです。

 ところで、幸福と似ていながら、それと全く非なるものがあります。それは、自我意識で分離された個としての存在がいっそう確保された刹那に味わえる束の間の強い興奮(陽)のことです。簡単に言えば、「楽しい」という感情です。

 人は楽しさを求めてやみません。例えば、沢山のお金が貰えた時、ゲームや賭け事や仕事で他社に勝った時、美味しいものを食べた時、立派な家を建てた時・・・。そういう時に個としての自己の存在が一層確保され、強い興奮と換気を味わうのです。多くの人がそれを幸福だと考えています。

 しかし、それらを手にすれば、次に失う恐れ(陰)が必ず待っています。宇宙の法則により、陽は陰を呼び、陰は陽を呼ぶからです。お金は使えばなくなりますし、勝負はいつか負ける時が来ます。美味しいものもいつも食べていれば飽きますし、成人病になります。

 家は数十年で建て替えが必要になります。高収入でイケメンだった夫も不況で解雇されたり、老いて中年太りになります。それはちょうど、灼熱の砂漠の地平線の彼方に浮かぶ蜃気楼のオアシスを追いかける様に儚(はかな)いものです。

 真の幸福は、そういった目に見えるものではありません。何かを得たり、楽しいという感情でもありません。むしろ、それらと無縁なものなのです。

 それらを超越した、静かで満ち足りた不変の至福の境地、すべての人が同じ愛なる神の現れであるという一体感
※全一感・自他一体感・神我一体の境地・全ては自分、全ては神)。

 自分もまた不変の愛(※神一元・愛一元・光一元・愛そのもの光そのもの)であるという絶対的認識。それが真の幸福であり、中庸の境地(※悟りの境地)なのです。どれだけ自我意識を減らして源魂が神様(神我)に近づけたか魂の成長が生まれてきたの真の目的幸福はそれ次第です



魂を大きくする方法
正しい人の祈りはパワフル

 神様は、神様を信じる正しい人の祈りを喜び、これを叶えてくださいます。神様の存在を否定する人や信じようとしない人、あるいは神様の分身である他者を助けようとしない人の願いを、もしあなたが神様なら叶えてあげたいでしょうか。

 神様も、やはりご自分を信じ神様を愛して大切にする人や、他人に奉仕する慈しみ深い人、他人を傷つけない人嘘をつかない誠実な人の祈りをよしとされ、喜んで願いを聞いてくださるのです。

 多くの方をヒーリングしてきて、心底そう思います。見えない所で人助けをコツコツと頑張っている人をヒーリングする場合は、神様から浄化の光が大量にやって来て、強い邪気や思いカルマでもドンドン浄化して頂けます。

 ところが、神様の存在を信じない人や疑う人、批判的な人
あるいは言葉遣いや態度の悪い人などは、私がいくらヒーリングをしても浄化の光が神様からやって来ませんので、殆どオーラの浄化ができません。


正しい祈りは神我から湧き出る

 神様は正しい祈りや願いを喜び、これを叶えてくださいます。というよりむしろ、正しい祈りは私達の魂の光(神我キリスト)から出てくるものですから、そうした祈りや願いは、そもそも神様の側からそうした結果を私たちに与えたい、体験させたいと願っていらっしゃるということなのです。

 今これを書いていて、「そのとおりです」という神様の強い肯定のお言葉が脳内にテレパシーで聞こえてきました。

 神様を熱心に求める祈り、自分の使命や義務を遂行して人々に貢献したいという正しい祈り、自分をダメにする悪習慣や悪い生活と決別したいと願う切なる祈り、他人の幸福や成長を心から願う愛に溢れた利他的な祈り、

 執着や心配を手放して全てを神さまに委ねる勇気を求める祈りなども、神様はとてもお喜びになり、無限にお力を与えてくださいます。

 正しい祈りは全て、祈る人の魂の光(神我)の中心から発する光のエネルギーとして視えます。私のヒーリングセッションでは、最後にそのヒーリングやガイダンスへの感謝のお祈りをクライアントの方がご自身にも捧げて頂くのですが、

 心から感謝の祈りを捧げて頂くと、その人の魂の真ん中から光のエネルギーが出て神さまへ届くのが私のメンタル・スクリーンの中に視えます。そうやって神様に届いた光は、その人の未来のライフ・レコードの上に調和的なシナリオを創設していきます。

 一方、自我意識から出る自己中心的な祈りは、魂の光を覆う外側の自我意識の層からエネルギーが出ていき、その人の未来のライフ・レコードに影のシナリオや陽のシナリオを強める結果になります。


最も大切な祈り---神様を求める祈り

 ある時私は、『人間にとってどのような祈りが最も大切なのでしょうか』と、神様に伺いました。それは、神様を求める祈りだそうです。魂を大きく光らせて、調和的で平和な人生のシナリオに帰るには、生涯を通じて愛なる神様を求め続けることが大切です。

 人間が神様に近づくほど、神様は人間に近づいてくださいます。まるで鏡のようです。神様は、どんな人にも常にご自分のもとへ帰ってきてほしいと強く願っていらっしゃるのですが、人間の方が自我意識によって光を遮られており、神様を忘れてしまっているのです。

 自我意識は、動物時代の古い過去生から積み重ねてきた恐れや怒り、執着、その他諸々の強い感情です。この自我意識という厚い雲が誰にでも沢山あるため、私たち人間の側が、それらをかき分けて神様に到達しようと※努力しない限り、神様のもとに自動的に帰っていくことはできません。
(※神我に目覚める瞑想法王瞑想がベリーグッド♪)

「私は神様の存在を感じたことがないから、神様は存在しないと思う」と言う人は、考え方が逆です。本当は神様を求めないから神様の存在を感じることができないだけなのです。

 ちょっとやそっと祈って何も感じないからと言って、「神様なんてやっぱりいない」と断じないで下さい。水滴でさえ、何百年、何千年も一か所の岩の上に落ち続ければ、やがて岩に穴を開けます。それくらい不屈の心で神様を求め続けましょう。

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奇跡現象の真実♪人体の神秘の謎が解明♪宇宙倫理の書♪病気を治す飲水法・万病を予防し治す水の力♪色即是空の真実

 最近「セイクレッド・スター」という最高級に高次元なチャネリング情報満載の良質サイトを発見したのですが、これまた、私の宇宙神理の知識からしましても、間違いなしに本物だとすぐ分かる、大変高貴で素晴らしい、人々の為になる濃厚な高次元な内容でございました


 今までに知らなかった情報もありまして、これまた宇宙神理の深い深~い深遠な奥深い霊的知識が手に入ってとってもご機嫌ミラクルハッピー~♪な気分になっちゃいました~♬




嗚呼…気分爽快~♪



 あとで調べて分かったのですが、その筋では知る人ぞ知る、超異次元級☆の超能力者であられる「くまた様」というとてつもなくスゴイお方が運営されているそうなのです。世の中まだまだ知らない世界があるものですね。

 無償の愛で全部の内容をネットで公開して下さってますので、ぜひこの機会に数少ない本物の中の本物の真実のチャネリングを体験して見て下さいね♪



理論編    実践編    真理偏
 「般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色」

 私は空海です。ただいまお読みいたしましたのは、般若心経の最初のくだりの部分でございますけれども、この般若心経という経文がなぜ長い間人々の心の中に問いかける答えを見出すものとして、多くの人々に長い間、親しみ続けてきた経文でございます。 

 この経文は、もともとサンスクリット語で書かれたものですけれども、 「パンニャ・パラ・ミトゥ」という中国音が日本音へと変化し、「ハンニャ・ハラ・ミタ」と変わってきたのでございますけれども、大切なことは、この経文の意味をよく理解することが大切で、意味を理解せずして真の経文の意味はわからないのです。 

 ただ唱えただけでは何の意味も持ちません。それぞれの言語により、発声法も異なり、意味合いも変わってくるのです。 

 もっとも大切なことはこれらの違いを超越し、真髄に潜む真の意味を悟ることにあるのです。

 「色即是空、空即是色」。皆様が見るものは幻であり、幻の中にあなたは振り回され、それはただあなた方の肉体の持つ五感に支配された、「色即」の現象界そのものなのです。すべては空蝉の如くただ漂っているだけ。

 そのようなものに皆様は支配され生きている。それは「色」という肉体の持つ、五色(五感)あるがゆえに、この拘束から抜け出すことが出来ず、苦しみを、悲しみを生む。人の世は、四苦、四つの苦しみ生老病死によって翻弄され、この苦から逃れるためには、あらゆる「色」の世界を「空」と悟ることただそれだけなのです。 

 すべてが幻なのです。人生きるゆえに幻を好み、楽しみ、悲しみ、笑い、それも人生かな。はて、それら、ことのまことなりきか? 

 人の世の空蝉の如き幻影に惑わされること無く、そなたらすべて、空の、ただ空の中にあるのみということを、すべては、何も無き空の大海原の中にそなたが投影し、創り出したもう幻影であることを今知るべきなのです。

「色即是空、空即是色」すべては、「空」の意識から生まれた「色」(現象)であるということを知っていただきたいのです。 




 世の中にある、伝承として残されている奇跡とか、ミステリーに属するもの、説明不可能なものとして、いまだに謎にされていることが多いと思います。 

 その理由をいま、明らかにしたいと思います。 時空の流れというのは、連続するフィルムのコマに過ぎません。そのフィルムのコマの中に別のものを挿入、編集することは、実は、いとたやすいことなのです。

「個の意識が時間の概念を超越できたとき、時空概念の壁を破ることができたとき、それが可能となってくるのです。」 
この時空操作は「マスター」の意識以上となったときに、出来るようになります。 

 つまり、歴史上に残されたUFO出現の記録や映像の多くは、実は、このフィルムのコマを挿入した部分を見せられているということなのです。つまりは人為的に創られたイメージを見せられているだけなのです。

 歴史上の大きな流れの中に、説明不可能な断片を挿入することで、人々に、自分たちの現実が幻想であるということを気づかせるために、そうしているのです。

 単なるいたずらのように見えるでしょうけれども、「大きな流れにあまり影響を与えない程度のささやかないたずら」とでも申しましょうか、茶目っ気のあるお遊びなのです。

 本当にいいたいことは、「皆さんの見ているものは幻だよ。」ということを知って欲しいからです。 人々の気づきをもたらすための刺激でもあるのです。

 すべてが理屈で説明できないような謎として言われておりますけれども、あなた自身の生きているこの世界そのものが、投影されたスクリーン上に映し出されている物語を見ているのですから・・・。ただそれだけなのです。 

 それを見ている観測者はあなた自身なのですから、そしてそのビジョンを変えてゆくのもあなたなのです。 だからこそ「人は創造主であり宇宙である。」この真理は永遠に変わりがないのです。 

 いかなる幻想を信じ、それを糧にして生きようともそれぞれの個の選択なのですけれども、束縛された固定概念に生きるのではなくて、もっと自由で明るく楽しい素敵な宇宙を創造してみてはいかがでしょうか。

 この創造の源こそが、あなたの魂の中に眠る「光の源」でもあり、スクリーン上に映し出す「光の源」なのです。

 この光には、多くの光を好む意識界の人々、存在、が寄り添ってきます。 そしてあなた自身を常にサポートしているのです。それを「光の天使」と呼んで差し支えは無いでしょう。

 光を常に求めているあなたがあるからこそ、その光をさらに輝かせようと、多くの存在が集まってくるのです。 
 そして、素敵なビジョンを創造し空間に投射して欲しいのです。 



 Q:植物、花や、動物や魚たちの色や形の美しい意味は何でしょうか?

 A: 光の七色。人も、動物も、植物も、海の生き物も、すべては波動法則、つまり、波動の状態によって変わるのです。波動が変わると状態も変わるのです。

 それを法則で判断するのが、人相学にもいえるでしょう。言い換えれば、住んでいる環境、またその土地の波動レベルによって生き物が形を変えてゆくのは、波動性を持っているからです。純粋なものは、より自然そのものになってくるのです。

 光が七色と、虹によって、生き物の七色のパターンの持つ、人格の美しさを見て、自分を照らし合わせてみたとき、感動を持ったとき、自然の美しさを見ることができる。

 心が乱れると、顔が変わる。互いに繋がっていることを気づかせるために周りの自然の美しさが、動物や植物たちが存在しているのです。

 それとおなじに人の魂が綺麗になると、地球自体の生き物が美しくなり、地球も美しくなってくるのです。その進化で、地球を美しくさせてゆくのです。

 光のパターンを、美しいと思える心がチャクラを目覚めさせるように、動植物も、あなたを目覚めさせ、花の香りも同じようにあなたを目覚めさせるようにできているのです。

 しかしながら、形態を持ち進化してゆく、そのプロセスには善も悪も識別は無いのです。どのような環境に適応し、どのように生きていくか、すべを知っているからです。

 荒っぽい性質を持つ動植物は、醜い形態を持つように感じてしまいます。聴覚、味覚もそうなのです。

 ただ、それはあなた方の観点における先入観がそのようにさせているからなのです。ここからすべてがあなた方の意識の進化にかかっているということに気づいていただきたいのです。地球をさらに美しい星にするのもあなた方の意識にかかっているということです。


 Q:中性的なバランスが大切ということにつきまして、さらに詳しく説明してください。

 A:人は地球と同じフラクタル体を持っているわけですから、あなた方の体の要素すべては、多くの原子の集まり、その原子をつなぎとめている中性子の存在なくしては、あなた方の体もばらばらになってしまいます。

 その中性子は非常に質量が無きに等しいほどの物質ではありますけれども、非常に高いレベルの高波動的性質を持っております。

 中性的なエネルギー(宇宙生命・大生命・御霊神霊・神我キリスト)なればこそ、そのような不可能に近いことが行えるわけです。

 つまり原子転換とかエネルギー転換、すべてが、その中性子の役割(神の御業・大生命・大愛・神は宇宙法則)によって行われているのです。

 肉体の中に原子転換をもたらす働き、化学合成にしてもすべてです。細胞分裂にしてもそうです。

 あなた方の肉体が持っている中性子のおかげで、養分の合成転換、還元が、自動的に行われるようになっているのです。

 つまり、奇跡的な変化、転換の働きをなす要素は、この中性子の影響(神・大愛・大生命のみ働き)によってもたらされるものなのです。

 現実レベルでは説明不可能な事柄もこのお話によって理解できると思います。全くあなた方の中、存在する世界に奇跡というものは無いのです。

 もっともっとあなた方が、そのレベルまでわかるようになったとき、あらゆる奇跡現象はあたりまえのことのように見えてくるでしょう。

 それまで、あなた方の進化を待つ意外にないのですけれども、いずれこのことがわかるようになってきます。そうするともっともっとあなた方の人体の神秘を理解でき、体を慈しみ、愛する心が生じてくるでしょう。

 病気の原因もあなた方の意識の作用のゆがみによって起こることもわかってくるでしょう。そのゆがみをどうすれば取り除くことができるかということもわかってくるでしょう。

 その修復作業の働きを行ってくれるのは、これらの中性子のおかげなのです。あなた方の体からも、たくさんの中性子が発生しているのです。

 その発生のおかげで、人と人を結びつけ、互いに融合させ、そしてまた、地球社会の安定をもたらすことができるということを知って欲しいと思います。



無限一点の神 --- 宇宙倫理の書より --- 

無限小の集積(万群の霊)が、無限大である。無限小(原子と電子)なければ無限大は無い。神は完全なる無限大の神である。同時に神は完全なる無限小(コスモ細胞・神は全てに宿り給う)の神である。 

神は無限の神である。神は一点小の神(全ては神)である。無限一点共に完全である。神を離れし一物も無い。無限の神は、無限の権能である。

一点の神は大愛と聖愛とを以て人の誠を観る。一点の人は、純虚一点の誠に於て、一点の神を拝すべし。砕けたる魂の至誠一点は、無限の神の聖胸に直達する。私我を撃砕絶滅して、一点の無限に活く。其処に永遠の生命あり。

不朽の大道存す。一切を究めて、一切を離脱するにあらざれば一切の真を知り難し。全虚にして始めて一点の真に徹す。無限の性能は無に等しき無限自在、無限権能である。無限の形は、無に等しき無形有形である。

完全の絶対有形は無に等しき有形である。神以外の視野に入ることは出来ない。見得る有形は既に、絶対有形ではない。

見えざることは絶対神の絶対条件でなくてはならない。絶対的虚無、純虚にあらざれば、絶対唯一神を拝することは出来ない。

神はただ純誠の一点をのみ無限距離を以て、受け給う。無限に徹する一理の法則に、神の性能の姿の一部を窺い見るべし。

 今、一点は存す。一点は消滅せず。無窮の一点は無限に存在する。一点なき無限は無い。一点を重じて、一点の虚無を正に純誠ならしむべし。無限にして無窮なる絶対唯一完全神、愚劣、賎陋、醜悪極る汝を愛し給う。

そはただ神の大愛と聖愛とによる。汝を愛するが如く、神は総てのものを愛し給う。人ただ知らず、人ただ是れを受けざるのみ。

 語ること勿れ。説くこと勿れ。言説は対象を生じて、虚の真を失う。虚にして始めて、虚の真と、真の虚とを見るべし。 

大道は無辺なり。至誠の流るる所、総て宗教あり。『税吏、罪ある者』の中にも、寺院教会に無い宗教の光が棚曳いている。 

イエスの偉大なるは、税吏マタイ己を売るユダを使徒に選び、税吏ザアカイの家に宿り、娼婦マグダラのマリヤを教え導いたことである。 

聖オーガスチンも、バンヤンも終に甦生復活した。罪ある者、汚れたる女と、世に賤めらる者の中にも、真珠の如き道の生命の宿れることは大聖人と変りはない。神は等しくこれを愛し給い、これを重んじ給う。 
一点の純誠は一点の完全に通ず。




丹田呼吸の数ある流派の中でも、白隠研究家で医学博士でもある著者が医学的な視点から極意を解説した本。

釈尊ー白隠-藤田霊斎(調和道)-村木弘昌、と調和道を継承しつつ、探求に余念がなく仏教にも造詣が深い。

釈尊や白隠が怒責(下腹に腹圧をかける際に、上部の胸や肩に力が入り、いきむこと。上虚下実でなければいけない)の誤りから不健康に陥りその苦脳から脱却すべく生まれた正しい長呼気法の素晴らしさが書かれています。

それが内観の法とよばれるもので丹田(へそ下の重心)に心を置いて、
腰脚足心、つまり下半身に元気と重心を置いて練っていくもの。

禅の流れを汲む観法の一種であり、それを動的に進化させた呼吸法が調和道で,丹田呼吸のコツとは吸気を意識することではなく、重要な事は吐息にあり吐き切ることにあるとしています。
(釈尊は長呼吸と短呼吸両方に意義をおいている)

それにより体が活性化するだけでなく頭脳も澄み渡り今まで解けなかった
人生の難問題すら、絡まった糸がほどける様に解決できるのだと述べています。

つまり長呼気丹田呼吸を極める事が言わば奇蹟へのメソッド(方法)であるということを強調されているんですね。オーバーに聞こえますが、それはあながち虚言や大言壮語ではなく真理かもしれません。

(次に述べることは私見であり、ほとんど丹田と関連づける方はいないのですが、現代医学の枠を超えているがために封印されマスコミでは取り上げられることはないけれども、実は非常にすぐれた千島学説という医療理論がありまして、それによりますと、綺麗な血液が健康の源であり、その血液は骨髄ではなく腸で造られるといいます。

つまりそのことが事実であるとするなら、腸は丹田の位置であり、そこに気の集中なり圧力や刺激を与えることによって、良い血液が生成されるのではないかという勝手な仮説なのですけど、それと最新の医学理論によりますと腸(下腹)こそが免疫力の要であるということ。 )

丹田呼吸のいろんなヒントが具体的に書かれていて為になりました。
最初の頃、私自身も時々思い出したように実践をしたりし、しないよりはやったほうが体調や精神状態がいいかなという程度だったのですが、

何度か回数を重ねているうちに、頭痛が治ったり胃腸の調子が回復したり、あるいは高めの血圧が正常化したり、はたまた精神の安定が得られたりと、実際に丹田呼吸のすごさを実感でき助けられたように思いました。

そのことから時間をかけて行えば行うほど、より効果が得られるのだと思われます。

因みに一日に千回はしていたといわれている白隠は、適切に正しい方法で時間をかけ行って見ても効果が表れない場合は、私の首をもってゆきなさいと言い切るほどの絶対の自信を持っていたようです。

(難病であっても沢山の人が直った事例が数多くあり枚挙にいとまがないほどだったという)体だけでなく、肚が座るといわれるように精神力の強化にもつながるようです。

一日に100回程度を目安にするのがいいかもしれません。(ですが余り無理するのもよくありません。その人に合った回数もあるようですので、仕事や生活に追われる現代人にとって時間を設けるのも難しいのだろうとは思います)

また白隠禅師は僧侶としての地位には全く無頓着で,ひたすら大衆への教化の為いろんな所へ赴く必要があり、その為よく歩いたそうです。
(よく歩くことが健康の為に良いのは言うに及ばない)

僭越であり、本書のレビューという枠から逸脱しますけれど、
調和道はもちろん優れた呼吸法ですが、それ以外にもお奨めできる呼吸法といいますと、例えば

○幼少の頃は病の百貨店と揶揄され病弱な体であったのにもかかわらず、自分で工夫した呼吸法により自ら実践し105歳の長寿を全うされた塩谷信男医学博士の正心調息法。

○今のラジオ体操がなければ間違いなく採択されたであろうと言われている肥田式強健術を編み出した肥田春充の丹田呼吸。

肥田春充の凄さは、医者にも見離された、こんなにもひどい自分の身体を医者の薬を一切使わずに、運動法や、人間の肉体の自然の法則に従って行う健康法によって、心と身体の健康を獲得しているところです。

○天才を育てるといわれる七田チャイルドアカデミーの教育創始者である七田眞の七田式丹田呼吸それぞれが、とても素晴らしく奥深い呼吸法です。

要は自分に合った方法が必ず見つかるということではないでしょうか。
(自分に合うとは、行って気持ちがいいとか調子が良いと感じられること)
例えば自分に合っていると感じたら、次には必ず良い効能が表れると信じることが非常に大切であろうかと思います。

その為に無理をする必要はないのですが、努力と弛まぬ研鑽が必須になることは言うにおよびません。

ただ,行っていますとある程度自己流にならざるをえないのですが、それが結果的に良い効力を生むのであれば問題はないのですけれど、生兵法は大怪我のもとという諺があるように、逆に好ましくない我流に走っていることに自分で気が付かないこともありうるので注意も必要です。

継続は力なりともいいますし、適正に心を込めて行えば、副作用もなく、金もかからず薬もいらずそれは、一生を通して探求と心のこもった実践をするに十分な価値があるように思います。


本山先生が身近の弟子たちに語りかけるような教えが、そのままの口調で記録されています。読むたびに励まされ、色々気づかされる重要な本です。日々の修行の指針となるでしょう。


以下、私が要約したものを引用させていただきます。引用開始
P21
成仏できない霊のために祈ってあげるということは非常に重要で、我々が物を食べなければ生きていけないのと同じで、我々の祈りや経典をあげることは、霊にとっての食べ物でありエネルギーなのです。

ですから、そういうことをしないと、浮かばれない霊が沢山でてきてしって、災いや祟りを引き起こすことになる。救われていない霊を先祖に持った家というのは栄えません。たいてい落ちぶれてしまうね。

拝んでくれる人がいないから、いつまでも救われないのです。支那では魂魄といって、魂は上に上がるし魄は土に還ると言われているが、救われない霊というのは、本当に土に埋もれたようになっていて、だから墓などを暴き出すといろいろと祟りが起きる。

P142
毎日三十分でも一時間でも坐っていくと、そのうち色々なことがわかるようになるから、一生かけて坐る気持ちで続けるようにね。

P157
心が開けてきたしるし
 毎日欠かさずに坐っているうちに、だんだん心が開けてきます。本当に行をして、成長して魂が上がったら、自然に知恵が湧いてくるし、自由になるし、本当に人に対する愛というものがでてくるし、また、自分も、ちょうど人に対するように扱えるようになります。

 心が開けてきたしるしとしては、心が自由になって、物事への捉われが少なくなり、つらいことも受け入れて、その日その日を精一杯生きられるようになります。

 みんなが坐る時には、超能力とか、幸せになるようにとか、何か自分のために願いながら坐っているけれど、そういう自分があるうちは、神様のところへは行けないのです。神様と一つになることを積み重ねていけば、色々のことは、特に願わなくても自然に良くなっていくのです。

 それと、もう一つのしるしは、他人のために祈れる心になることです。本当に人のために心から祈れるようになります。心の開けない人は、自分のことばかり考えています。
 自分から自由になると、自分が一番かわいいという意識状態から脱して、自分も人も対等に扱えるようになる。


座っていられないほどの頭痛がこの本のとおり水を飲んだだけで治りました。
水が体にとってどれほど重要な役割を担っているのかを詳細に記載してあり、薬の副作用についても分かりやすく記載してあります。

また、緑茶、コーヒーも身体にはいいと思っていても、それに含まれるカフェインにより脱水症状を引き起こすので、水の代用品として飲むのはいけないことも分かりました。
病院や市販薬を飲む前に、水をしっかり摂るのを薦めたいと思います。


糖尿病、高血圧、がん、肥満など、
ありとあらゆるの万病と称されるものが
水を飲むことによって予防できて、病も治るなんとは、奇跡だと思いました。

以前から1日2リットル以上水を飲んでいたので、
健康診断でもまったく病気知らずだったわけが
わかりました。

紅茶やコーヒー、お茶も体に良いけど、
第1には「水」ですね^^

この本の著者が最後に記載されていますが、
エイズについても書かれているのは驚きました。
さすが医師の著書ですね。

男性同士の性行為がなぜエイズにり患しやすいのか、
それは精子にあるものが含まれていることが考えられるとのこと。
ということは、なぜエイズになるのか、他の病にり患するのか
全て原因ありきということですね。
遺伝は生活習慣の次の要因ということがわかりました。

知っていると知らないではまったくこれから人生が
違ったものとなると思います。一読の価値ありです。


若い頃、汗をかくのが嫌で、水を呑まない習慣がありました。
汗をかくとお洒落が楽しめなかったので。。。
それ以後、慢性的は頭痛と体の不調に苦しみました。
最近は不眠症に悩んでいました。

この本を読んで、寝る前にコップ1杯の水を呑み、塩を耳かき1杯位をなめました。
朝になって気が付いたのですが、アッと言う間に眠りに入ったみたいです。
高血圧なので塩を極端に減らしていたのが不眠症の原因かも知れません。


77歳を迎えた母親が最近微妙にてきて、このまま認知症がすすんだら・・・と考えて怖くなったのをきっかけに、色々と予防や改善方法をネットで調べまくっていたら、どうも最も大きな原因が水分不足らしいと判明。

さらに調べていくうちにこの本を見つけ、早速購入して読んだ所、何と認知症のみならず、多くの病気が体内の水分不足によるらしい。

この本を読み、母親だけではなく今では家族じゅうがこの本にある通り一日に体重の30分の1の水(コーヒーやジュースは「水」には入らない)と適量の塩(ミネラル分の多い天然塩)をとる事をはじめました。

まさか「水」にこんな凄い効果があったなんて、本当にびっくりしたし医療費の負担も減り、いいことづくめ。なので友人何人かにも早速すすめました。


著者が「病気のすべては水分の不足によるもの」と言い切るところに最初は疑問を感じた.
しかしながら,読み進めていくうちに疑問は解け,納得できるようになった.経験則も大事だと思い,実際に私も実践してみたが,身体の調子はかなり良くなったと感じる.以下に主だった変化を挙げておきたい.

①皮膚の乾燥状態が改善される
②便秘症状が改善される
③入眠がスムースになる(塩分添加)
④関節の痛みが改善される
身体の不調を訴えている方は本書を読み,実践されることを奨めたい.


子供のころからアレルギー性鼻炎でこういう体質なんだ、とあきらめていましたがここ数年は、アレルギーマーチなのかアレルギー性の喘息や結膜炎、
そしてアトピーのような湿疹も並行してでるようになってしまい、しかもなかなか治らずかなり辛くて。。。
なんとか治す方法はないかと試行錯誤していました。

この本に出合うまでにもあれこれありとあらゆるものをいろいろ試し、それなりに効果はあったのですがどれも一時的なもので、またすぐに元に戻ってしまう。
根本から治す方法はないか!?と強く思った矢先にこちらの本に出合いました。

本を読んで、思い当たることがたくさん!
子供のころトイレが近くて困った経験からこれまでずーっとあまり水分を取らないようにしていたしのどが渇いても、すぐに水を飲むことはせず、それに慣れてしまっていたことに気が付きました。

それで、こんなにアレルギーがひどくなったのかもしれない!と、ピンときました。

本を読んでからさっそくお水をたくさんのんで、
コップ一杯の飲水後は〇〇(※岩塩?)を一つまみなめるようにしたら、
すぐにアレルギー性鼻炎に対する効果を実感しました。

ここ数年後鼻漏にも悩まされていましたが、
たくさんのお水を飲み、その後本に書かれてあった〇〇をなめてみたら一瞬で後鼻漏が治りました。そして鼻が終始通るようになった!

すごいです!!!
咳のほうはまだでてますが、日に日にましになっています。

また、冬はいつも乾燥からかリップを何度塗っても
唇の皮がめくれていましたが、水をたくさん飲むようになってから、
リップぬらなくても潤いがつづくようになり全くめくれなくなりました。
ほんとに水が足りてなかっただけだったんだなぁ~!と実感。


水の真の力を知り、衝撃と共にとても感激しました。これを知ってるのと知らないのとではこれからの人生かなり違ったものになると確信しました。


パラマハンサ ヨガナンダのThe Divine Romanceという本の中で彼がどうやって短期間で大幅減量に成功したかが書かれておりますが、そこで水分の取り方について言及しています。

食事中は飲み物は取らず、水分を取るタイミングは食事の30分前か食後2時間後といってます。バトマンゲリジは2時間半後といっていますが、まあ同じようなものかと。

違いは基本的にはヨガナンダはそのタイミングで水分を取ってどうぞと言っているだけですが、バトマンゲリジは取ってくださいと勧めています。ただ、こんな単純なことですが、やってみると案外難しいです。

カレーなんて食べた日には特に・・・おから料理も難しいですし、またマイナーな疑問も湧いてきます、味噌汁は飲まない方が良いのかとか、ラーメンの汁は残すべきなのかとか、間食をした場合はまたそこから2時間半待つのかとか・・・私は基本的に一日二食なので必要量飲むには食前と食後以外に数回どこかで飲まないとなりません。

いろいろダイエットを試してみましたが、減量中に水をたくさん飲んでも飲まなくても減量のスピードは変わらなかったと思いますが、水を飲まずにダイエットしたときは必ずその後リバウンドしていましたが、ダイエット中にたくさん水を飲んだ時はほとんどリバウンドがありませんでした。だからきっと何かはあるんだと思います。




成仏して極楽へ行く秘訣♪悔い改めの大切さ♪あの世で父親に会った幽界話♪幸せの法則・償いの法則♪長尾弘先生

愚か者の独り言(2) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
            
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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長尾弘先生の教えは、スムーズに極楽へ行くための最高の神理で御座いますから、ネット環境の無い方(ご年配の方)などに印刷してお渡しするなどして、一人でも多くの方々の魂の救いの為にご活用下さいませ♪






奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
この世への執着や心の重さが成仏を妨げる
             
 私たちは死んだらおしまい、ではありません。死んだら、素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。その世界は魂のふるさとです。ふるさとに帰って初めて、本当に成仏します。この世に、この地球上に思いを残しますと、その思いが執着になり、その思いの場所に自分が留まるのです。

 だから、一切の思いを捨てなくてはいけません。そして全ての思いを離すと、自分のふるさとに向かって旅立つ事が出来ます。しかし旅立つ時、自分の心に重荷を背負っていますと、重くて走れません。

 50kg背負う能力のある人に100kgの荷物をいっぱい背負っていますと、重くて走れません。これはもうえらい事です。もし150kg載せられたら、ペシャンコに押しつぶされて動けません。

 これと同じように、自分で作った心のお荷物によって、自分自身が荷物に押さえつけられて、たとえ帰る世界を知ってこの世から執着を離したとしても、その重さによって動く事ができません。

 この心の重さを持たない為には、これまで何回も言っておりますが、腹を立てない様に、愚痴を言わない様に、人様を憎まない様に恨まない様に、要らない心配をしない様に、嘘は絶対に言わない様にしなくてはなりません。

 これらはみなお荷物です。そのお荷物を少しでも軽くして、もし今までにためた荷物がありましたら、一つ一つ、時間があれば本当の神様に対して心の底から
「お許し下さい。私はあの時あんな過ちを犯しました。もう繰り返す事は致しませんからどうぞ許してください」
と、悔い改めた時、それは一つ一つ許されます。

 若い時、好きな方とデートでもしますと、「早く帰らなくてはいけないよ」と言われていても気付いたら、「あら、もうこんな時間」と、知らない間に時間が過ぎているのです。

 楽しい時間というのは早く過ぎ、嫌な時間は長いもので、私達の一日も同じ事です。ものすごくい心配な事があったり、恐怖に襲われたりしておりますと、一日が無限に長く思われます。

 早く夜が来ないかな、寝てしまうと忘れられるのにと、夜の来るのを待ち望みます。ところが夜になったら寝られないでああ長い夜だなあと言って朝まで待たなくてはいけません。

 しかし幸せで楽しい時間というのは、一日があっという間です。
私などは「夜が明けたと思ったらもう寝なくてはいけないなあ、休ませてもらったらもう起きなくてはいけないなあ」と言って、楽しみいっぱいの日々でございます。

 それは喜びと安らぎとそして感謝に満たされており、又人々の喜びと、その人々の喜びを頂いてそれを我が喜びとする毎日だからです。

 こんな事をしていましたら、私の寿命が限られているのに、もうあっという間に私のこの世での生命(いのち)は過ぎるのではないかと冷や冷やしているぐらい、一日一日が知らない間に過ぎていきますね。
 それは常に喜びに満たされていますから、心は天上界です。

 私は禅定の時、よく言わせてもらっています。
「身はこの世にあり、心は天上界にあります」と。

 自分の思い方、生き方によって私達の心は天上界にいつもあるのです。苦しみが少なく、常に感謝に満たされ、安らぎと喜びの中にあります。

この世に生きさせて頂きます時に、日々の生活の中で常に「有り難いなあ、私は幸せだなあ、何と幸せ者なんだろう」という思いに満たされた生活をし、人生を過ごしますと、死んだ時に硬くならないのですね。

 いくら表面上はいい格好をして、きれいな着物を着て人様に対して偉そうにしていましても、心の中で苦しみ、つまり誤った行いや思いによって苦しみを自分の中に溜めていますと、あの世に帰る時に必ずその決算が出てきます。

 心の中で苦しみを溜めている方は、あの世に帰る時に苦しみを持って現れますし、いよいよ息が切れてしまいますと、肉体は硬直を始めます。

 見ている間に冷たく、悲しく、硬くなり、もう石みたいなものです。顔は見るのも恐ろしい嫌な顔になります。成仏なさった方のお顔は惚れ惚れ(ほれぼれ)と見とれる様な綺麗なお顔になります。

 私は幼い頃に、親戚の者やその他亡くなったお方に、何回か最後のお別れの手向け(たむけ)の水を捧げさせてもらいました。
 人間が死ぬと、なぜあんな嫌な顔になってしまうのだろうかと、よく思ったものです。そして幼い頃、母に聞きました。

「お母ちゃん、死んだらなぜあんな怖い顔になるんやろ、あんないやらしい顔になるのはなぜやろう」と。

「あれはな、長いこと親しくてもらっていた人が死んだ時、愛おしい人が死んだ時、別れる事はできない、その人を捨てる事はできないという思いが、

もう見るも恐ろしい顔になって、ああ恐い、恐い、早(はよ)うこんなもの
どないかしてもらわなあかん、という顔にならないと、別れられない。それで神様があんな顔にして下さるのや」
と教えてくれたのです。ああそんなものかと思っておりました。

 その後、歳を段々積み重ねていきまして、この正法にご縁があるまで、何人かのお葬式に最後の手向けをさせてもらいましたけど、もう皆、嫌な顔をしておられます。ああ恐ろしいなという顔ですね。

 ところが、この正法にご縁を頂き、心というものが分かってきまして、亡くなった方に対して法をお伝えさせて頂きましたら、硬直しているお方が即、硬直が解けて、ふわふわになって綺麗なお顔になっていきます。

 唇などは、上等の口紅を塗ったようになり、頬は頬紅を塗ったようになりますね。それは、私のような人間にそのような力があるはずはないのです。

 これは、正しい法を伝えさせて頂く事によって、そのお方が自分の心に目覚めて下さったから即、成仏する事が出来るのです。

 私の事を「霊に囚われている」と人は言いますが、亡くなったお方に対して成仏して頂いて、その方が忽(たちま)ち百人が百人、千人が千人見て、

「まあ何と綺麗なお顔になられた」と言って認められたなれば、それは霊的現象であり、且つ科学です。体験をして、自分が実際に神の力を見せて頂いて、その話を人々にお伝えさせて頂く、この体験こそ、この自分の実践こそが尊いものであり、それを通して神の力が示されるのです。

 そして肉体を持ったまま、真の神を証明する事が出来るのです。行わない者に誰か力を現してくれるでしょうか。法に背いている者に誰が力を注いでくれるでしょうか。法に従ってこそ、神の力は働いてくれます。正しい教えを自分が行(ぎょう)じてこそ、法の力というものは現されます。

「私は天上界において、神とコンタクトしてきます」と言われる自称の偉い先生があります。そんなもの、天上界にお伴(とも)して行って見てきた人は一人もいません。ただ自分でかってに言っているのですから信用できません。

 高橋信次先生の意識が入ってこられて先生の霊の言葉を話す人達もおられますが、誰一人証明する人はありません。証明のないものを信じるのは盲心狂信となります。

 誰も見ていない事で、そんなものは証明者がいなかったら駄目だと思います。そんな事をわざわざ言わなくても、自分が神の子として、神の御使いとして、神の心を我が心として恥ずかしくない様に日々の生活で自分が実践したらいいのです。

 よく、誤った神様や観世音菩薩や何々の大神と称する者が、人の口を使って出て来られる事があります。こういう事がありました。東京のお稲荷さんはすごい力を持っていて、東京のあるお宅で超自然現象を起こすのですね。

 そこのお宅の床の間や将棋盤やお膳の上から水がフワーッと湧いて出てくるのです。最初は、水道屋さんが工事ミスをして、天井の水道パイプから水が漏っていないと天井も全部見たそうです。
 しかし原因もないのに水が湧くので、その家の者が恐怖に襲われて、怖がって、私の所に相談に見えたのです。

 その東京のお宅ではお稲荷さんを祀っています。
「では、水の出てくるのを止めてあげましょう。私がおまじないを書くから、これを、水の出て来る部屋に貼りなさい。そうすればもう水は出ません。もし水が出たら私が止めに行きましょう」と言いますと、

「東京まで来てくれるのですか」と驚かれておられます。
「私はどこへでも生きます」と言って、紙に書かせてもらいました。それを東京に持って帰って部屋に貼りますと、ピタッと止まったのです。

 ところが、その家のお嫁さんのお母さんがこの近所にいるのですが、ここに来ましてね。そのおばあちゃんに霊が入ってきたのです。

「どなたですか」と言うと、「東京の稲荷、水が怖い怖いと言うてるやろ、あれは私が出しているのだ」と言うのです。

「あなたは自然に逆らってそういう超自然現象を現す力があるのだったら、この家庭の調和の為にしっかり頑張りなさい」と言いますと、
「わしは気に入らんのだ」と、言い返します。

「何が気に入らないのですか。もし正しい事であれば私が聞き入れてあげましょう。間違っていれば、それはあなたが正しなさい」と言いますと
「あんなにガチャガチャ言うのは気に入らん」

 つまり、その家の中で夫婦が絶えず喧嘩をするのが、お稲荷さんが気に入らないと言います。

「それは結構です。私が夫婦に指導致しましょう。その時はもう水を出しませんか」と聞くと、
「もう出さない。そのようにしてくれたらもう水は出さない」

「それでは約束しましたよ」と言って、その人達を呼んで
「あなた達は仲良くしなさい。お稲荷さんは怒って水を出すのだと言っていますよ」と、東京の夫婦に注意をさせて頂きました。ご夫婦はびっくりして、今後仲良くする事を誓ってくれました。

 この様に自然に逆らった超自然現象を現す力があっても、それは霊の力で自分の心を悟る事が出来ないのです。だから何回も出てきては私に叱られ、「許してくれ、許してくれ」と稲荷さんが泣いています。

 しかしこの件以後はもう水は出なくなりました。私の心の友の方々は、みな目の当たり一緒に見てよく知っています。1番気持ちが悪かったのは、「先生の所に祀って欲しいのや、祀って欲しいのや」と、神様が言う事です。

「いや、私は祀りません。私はそういう偶像は祀りません」と断りますと、「先生の所ならどこでもいいから祀ってくれ。便所の端でもいい」

「そんな汚い所に祀ってもらってどうしますか。まことの神の使いをさせて頂くこの私でさえ、祀れとか拝めなどとは言った事がない。あなたは自らを知りなさい」と強く言いますと、
「祀ってくれなかったら、先生の肩に乗せて欲しい」と言ってきます。

「神と祀られながら、こんな愚かな私の肩に乗ってどうするのですか。あなたはこの私の肩に乗る力がありますか」と私が言いますと、

「先生が駄目ならここにいる誰でもいいから肩に乗せてほしい」と指差して探しかけた時、冷たい風がピューッと吹いてきました。
 すると、たまたま泉大津から見えていた方がキャーッと飛び上がって逃げ出してしまいました。それ以来再びその人はここに来てくれません。

 誰でもいいと言って探しかけて指をさされましたら、皆びっくりします。そんな神様が、肩に乗せてほしいと言ってきたら、誰でもいい気はしません。なるほど神と祀られて、一般の低級な拝み屋さんなどが見ますと、威圧的に神の恐ろしさを見せるのです。

 そして言う事は立派な事ですので、つい神様として祀ってしまうのですが、その本質は違います。よく人間の体に神憑りしていますが、ああいうのは、自らの心を悟っていない(※迷い)霊が乗り移っているのです。

 真の神の御心を知らない者、神の御心を日々の生活に実践出来ない者に、どうして真の神が憑られますか。

 死んだ後に、強い思いを残してこの世に出る幽霊は、絶対に歓迎を受けません。誰も皆、お金は大事だと思いますが、そのお金さえ幽霊が出てきて言えば、もう要らないと言います。

 これはこの近所の方の話です。そのおばあちゃんは、「ちょっと三千円貸してくれるか」「ちょっと五千円貸してくれるか」と言って、あちこちで沢山の借金をしたままよそへ引越しされました。借金の持ち逃げです。

「まあ、しようがないわ」と皆諦めていたのです。
するとある晩、そのおばあちゃんが、「こんばんは、皆のとこで借りたお金をまだよう返さないでいる。もうちょっと待っといてや」と言って、一軒一軒借りた家を回って歩いたのです。

 それで近所の人が、「あんなに長い間何も言わないでいて、急に来てあんな事を言って、もうちょっと待って言うてる。あんたとこにも来たのかいなあ」という話になっていたのですね。

 その後、何日かして、その家の若い息子さんと、近所の人が会った時に、
「えらい遠い所に行ったと言うけど、この間おばあちゃんがこちらに来て何軒も尋ねて歩いた」と言うと、「ええ?それはいつの事です」と、びっくりされたそうです。

 そこで、何月何日だと言うと、その日はおばあちゃんはもう死んだ後だと言うのです。それでびっくりした皆さんが、「もう銭は要らんから、おばあさんに二度と出てこないように言うといて」と、家族の人にお願いしたそうです。

-----死んで出てきたら、金も要らん、物もいらん、愛もいらん、どうぞ二度と出てこないようにと言われるほど嫌われていたのです。

 ですから、私たちは死んだ後、嫌われる様な所には出ないようにしましょう。死んだら生き残った人への執着を離して水臭くし、私達も死んだ人への思いを捨てて水臭くしたらいいのです。

 私が「死んだら思いを残してはいけません。どれ程愛おしい方でも、どれ程大事な物でも、どんな大きな財産、地位、名誉であっても、そんなものは一切捨てなくてはいけません。死んだらもう心を離さなくてはいけません。後に残った者も死んだ人の後を追ったらいけません」と言いましたら、

「先生は水臭い。自分の大事な人を失ったことがないからそんな事が言えるのだ」と言って怒られました。

「いや、私も大事な人を亡くしました。しかし、生きている者は死んだ方から思いを離してあげて、極楽の世界に旅立ってもらうように仕向けなくてはいけません」そう言うと、

「水臭い水臭い」と言って怒りますから、
「では、あなたは死んだ人が出てきたら喜びますか」と聞くと、
「いや、やっぱり気持ちが悪い、恐ろしくて嫌です」と言われます。

 この世を去った時、私たちは素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。その素晴らしい世界に帰るためには、先程から言っております様に、この世の一切のものから思いを離す事、そして自分の心の荷物を少しでも軽くする事、それと自分の行く世界をはっきりと知っている事です。

 そうすればもう迷うことはありません。私にご縁のあった方は、亡くなったら皆綺麗な顔をしてくれます。それは皆迷っておられないから、綺麗なお顔をしているのです。

 ご縁のある方は皆、「安らかな綺麗なお顔で極楽往生してくれました」といって連絡して下さいます。それは、その方が(※正法を知り)自らの心に目覚めて、光に満たされるから、安楽往生が出来るのですね。

その人の長所を見つけて礼拝する

 指導者が人を中傷し、嘘をつく、そんな方の教を信じて散々悪口を言って、嘘をついて歩いていたなら、間違いなく地獄行きです。指導者が人の悪口を言い、嘘をついているのだから、学んでいる人達は又同じように人の悪口を言い、嘘をつきます。

 嘘を言って多くの方を騙したり、人をけなしたり、人の悪口を言ったりしていて、死んだ時に極楽に行けるはずがありません。熱心な弟子ほど教えを守りますから、その指導者の様に生きるはずです。人をけなしたり、自分が地獄に行くという事を覚悟して、人をけなしたらいいのです。

 人を褒めなさい。そして感謝しなさい。褒めてもらって怒る人はありません。その方の素晴らしい所を見つけて下さい。

 まあ「観自在菩薩---アバロキティーシュバラー」ですね。観自在菩薩の、「観」は見る、「自在」は自由自在です。灰皿一つ見ましても、上から横から底から見ますと、それぞれ形が違いますように、人間もその方を見た時、長所もあれば短所もあって、それでこそ人間です。

 完成された方は一人もおられません。欠点の無い方はこの世に生まれる必要がありません。欠点があるから、生まれてきているのです。

 この欠点を取り上げて、「あの人はああだこうだ」と貶している人の方がおかしいのですね。皆、欠点はあるのですから、それよりもその人の持っている素晴らしいものを見付けて褒め称えたらいいのです。

 自分の身近な方を褒め称え、信頼し、そして礼拝(らいはい)したらいいのです。それでこそ本当の神の信仰につながります。
 家庭の中で、或いは職場の中で人様を礼拝させてもらえばいいのです。

 私の所に来て頂きましたら、「有難うございました」と合掌して迎え、治療させてもらっても、「ああ、有難うございました」と合掌してお礼を言わせてもらいます。その方の仏性に礼拝するわけですね。

 その方もみな神の心、仏の心を持っておられ、素晴らしい面を持っておられます。「あの人にはあんな素晴らしい所がある」「この人にはこんな素晴らしい所がある」と見付けて、それを褒め称えるのです。

 それを、いい所を見ないで、悪い所ばかり見付け出して、文句を言って喧嘩をしています。新しい畳でも叩けば埃(ほこり)が出る様に、過ちのない人間は一人もありません。

 過去を振り返ってみましたら、どんな方でも「私は未だかつて過ちを犯した事はありません」と言える人は、一人もいないはずです。今は犯していなくても、過去において犯しているかも分かりません。

 ですから、人の過ちを掘り下げるのだったら、自分の過ちをせいぜい探すといいのです。人の過ちを探している暇があったら、自分の過ちをしっかり探して、自分の間違いを掘り起こせばいいのです。これは反省です。

 自ら法の後継者と称しながら、「私は一度も過ちを起こしていないから、今まで一度も反省をした事がない」と講演をして威張っている指導者もあります。

 今日来て頂いている若い方は、この間から一週間、奈良のY先生の内観道場に行き、その帰りにここへ寄ってくれたのです。一週間よう頑張ってくれました。本当にご苦労様でした。

 私たちは自分自身の心を見つめ、内観或いは反省する事なしには、自分の過ちに目覚める事が出来ないのです。反省、内観は神の与え給うた大きな慈愛です。私も反省させて頂くまでは、全て自分が正しく、人が間違っていると思っていました。

 自分がどうであったか、果たして過ちを犯していなかったかと追求していきますと、もう、あるわあるわ、過ちの塊(かたまり)みたいなものです。

 よくまあ、こんな自分が今日まで生きさせてもらったことだ、皆さんの許し、神様の許し、そんな大きな愛の中に許して頂いて初めて、今生きさせて頂いているのだなあという事が分かります。反省なしにそんな事に気付く事は出来ません。

 反省もした事もない指導者が、どうして人に反省の指導ができますか、できません。そして反省の中で己自身の哀れな姿も見せて頂けます。本当に哀れな可哀想な自分も見せてもらう事が出来ます。人はみな可哀想な存在です。

 この世に生まれた以上、愛しき者と別れなくてはいけない、又巡り会った方と別れなくてはいけない、そしていつの日かこの世を去っていかなければいけない、そう宿命を背負ってこの世に生きているのです。

 又人生というのは自分の思う様にはなりません。「ああしたいなあ」「こうしたいなあ」と思っても、どうする事もできないしがらみの中に自ら縛らせている自分の姿も、反省する事によってはっきり拝めます。

 そして自分が許して頂いているのだから、人様を責めるような資格が自分にあるのだろうかと思いました時、そんな資格は一つも自分にはない事が分かりますね。何の過ちもなければ、人を責める資格があります。

 しかし、そんな方は一人もありません。過ちを繰り返し、本当に正しい道を知らないが為に、愚かにも過ち犯し罪を作り、やがて地獄に落ちるのです。私達は過ちに目覚めなければ本当に地獄に行きます。生きながら地獄の毎日です。

 愚かにも悪行重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国

                       となります。

 しかし己の罪を悔い改め、日々の生活を通じて正しい教え、神理の中に己の行ないを行じていきますと、やがて光に満たされます。

日日(にちにち)に神のみ胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ

 
地獄の底に真っ逆さまに落ちないように、毎日の生活の中に神の御胸(みむね)に抱かれて、そして光の国に住まわせてもらっている喜びですね。

 愚かな過ちの多い私でも、こんな幸せを毎日送らせてもらっています。そして数限りない多くの方から愛してもらえます。

 なぜ私が、多くの方から愛して頂けるのでしょう。それが私が人を愛するから、人は私を愛して下さるのです。愛するが故に愛され、与えるが故に与えられます。これは法則ですね。
 
 だから幸せになりたければ、人様を幸せにしたらいいのです。その時、必ず自分が幸せになります。不幸になりたかったら、周りの人をいじめて不幸にしてやれば、必ず不幸になります。簡単に幸せにも不幸にもなります。

 山彦は山に向かって声を発しますと、そのまま山に当たって返ってきます。「オーイ」と言えば「オーイ」と、「アホー」と言えば「アホー」と、返ってきますね。狂いはありません。過ちの行為をすれば、それは過ちとなって自分に返ってきます。

償いの法則

 善悪の行為が自分に返ってくる場合、時間に関係があります。縁によって、つまりその相手との縁、或いは出来事の縁などの縁上(えんじょう)によります。

 二十日(はつか)大根は種を播いて二十日経過すればもう収穫がありますね。豌豆(えんどう)や野菜は三ヶ月から五ヶ月ぐらい経てば収穫できます。桃栗三年、柿八年といいます。檜(ひのき)は四十年、五十年しなければ伐採できません。
 そのように早く現れる場合と、長い時間経って播いた種が返ってくる場合と、色々あります。

 播いてしまった悪い種は、必ず成長して収穫されて自分の許(もと)に返ってきますから、これを何とか自分の許に返らない様にしなくてはいけません。その為には、善い行いをもってするしか、消すことが出来ないのです。

償いの法則」ですね。一つの悪にたいして、必ずその善の償いが要ります。山林業をされる場合でも、山の木を伐採して放っておくと、のちに雑林の山になります。伐採の償いとして次の苗木を植えておかねばいけません。

 過ちに一つ気付いたら、それに代える罪の償いをして、何か一つ善い行いを積んでいくのです。一つの悪を犯して、「ああ私は悪い、私はもう罪人だ」といって自分を苦しめては、神のご意志に背きます。悪に目覚めた時に、その悪を土台として、良き行いを積めばいいのです。

 あのジャン・バルジャンは、路頭に倒れて、のたれ死になりかけていた所を神父さんに助けてもらい、下男として働かせてもらいます。

 恩を知っていれば、そこで恩返しをしなくてはいけませんのに、ジャン・バルジャンは教会にあるお盆や燭台、その他色々な金の装飾品をみな袋に入れ、それをかかえて逃げてしまいます。

 それらを元手に大きい商売をして大富豪になりました。しかし自分の犯した罪が、自分の良心を責めます。そしてその償いとして、盗んだ燭台や道具以上の物を返し、又多くの方々の救済に当たりました。

 数限りない人々を、その償いとして救われたのですね。この場合、たとえ神様の物を盗んでも、それによって目覚めて、今度は大勢の人を救いました時は、神様は必ず喜んで下さいます。

あなたは目覚めました。よくそのような気持ちになってくれました。私の燭台を盗んだ事は許しましょう」と言って許されるはずです。神様が1番喜んで下さるのは、神様の意志に沿った行為をした時です。いくらお金を供えても、神様には必要が無いのですから駄目です。神様はお喜びになりません。

全財産あげても神は喜ばれない

 ある方はT教を信仰されて亡くなりました。ものすごく素朴な信仰をされましたね。現在は違うそうですが、昔は「家も屋敷も上げてしまえ」と言って、みな上げてしまえという時代があったようです。

 その頃、その人は家も屋敷も田も畑もみな上げてしまったのです。その息子さんが、お父さんの亡くなった後、法にご縁があって、自分の意識を開いてあの世を見てこられるようになられたのです。

 その息子さんはT教団の子として分教会の中で貧しい貧しい生活をして成長されました。その息子さんが、
「お父さんはあんなに熱心な信者であったから、さぞいい所に行っているだろうなあ」と思って、光の世界をずうっと探し求めてこられたそうです。

 ところが、上の方にはどこにもおられないのです。「まあ、あんなに物を上げても高い所には行かれないのだなあ」と思って、天上界の低い段階を次々探していってもそこにもおられません。

「おかしいなあ、どこかにおられるはずだ」と思って、今度は幽界からもっと下の世界、薄暗い世界へと探していきますと、地獄の薄暗い所で、向こうからお父さんが荷車を引いて廃材を荷車いっぱいに積んでやって来ました。

 明治時代の人ですから荷車を引いているのです。お父さんは自分の息子さんが、自分よりも歳がいっているので、もう分からないのですね。

「死んだ後でお父さん、何をしているのですか。そんな所で」と声をかけると、「アンタは、誰かいな」と、逆にお父さんが尋ねます。

「僕や、○○や」と言うと、「ああ、そうかいな。ワシわな、家も畑も田んぼもみな上げてしもうて、子供を育てるのに本当に申し訳ない事をした。

 こんな事だったら、子どもはちゃんと自分の家で育てて大きくすべきだった。家がないという事はこんなに辛い事だ。何とか自分の家を建てようと思って、今こうして一生懸命働いているのだ」と、このお父さんは地獄で材木を運んで家を建てようと思っているのです。

 全財産を上げても極楽へは行けません。神様は財産をお受け取りになっていないのです。仮に神様に文句を言ってみなさい。
 神様は「私は何ももらっていません」と言われます。

 上げたものは教会、或いは教会の中におられる人間が掠(かす)め取って使われたのであって、神様の許(もと)にはいっていません。

 神様は、私達よりもなお恵まれない不幸な方に、たとえ僅かでもいい、無駄遣いを少なくして、その人達に役立てて下さいとご喜捨させて頂いた時、

「あなたはよくしてくれます。あなたの行為は私が頂きます」と言って下さいます。

それは何故かと言うと、神様は
「私は人を救いたい、人々を幸せにしたい。しかし私はその行為を現す事ができない。愛ゆえに身を滅(めつ)した者である」と言われ、助けてあげたいと思われても、それを現す事ができないのです。
 
 神の御心は愛の思いでいっぱいです。その神の御心を私達が行った時、神様は「よくやってくれました。私の思いはあなたが果たしてくれて、ありがとうございました」と喜んで下さいます。受け取って下さいます

 そんな事があるだろうかと思いますが、河内の国分でこのお話をした時の事です。固い蕾(つぼみ)のチューリップを何十本か生けて下さっていましたが、みな首を曲げていた蕾が、その途端に立ち上がって、パーッっと一斉に花が咲きました。

 ワーッとその場で開いたのです。二部屋向こうの鏡台の上に一輪挿しで生けてあったチューリップも一緒に開きました。見ておられた皆さんが歓声をあげて驚かれました。

 自然現象であったとしたら、蕾は必ず時間をおいて次々開いてくるはずです。「ああこれが開いたなあ、ああ次はこれが開くなあ」という様に開くのが普通ですが、同時に全部揃って開くのです。

 これは、私が話させて頂きました事を、神様が「その通りだ」といって証明して下さったのです。私の話は間違いないと神様が認めて下さったから、こういう不思議な現証を見せて頂けたのです。

 もし間違っておれば、そんな事は起きません。チューリップの蕾が一斉に開いても、その中の1本だけが開く前はこうだったのですよと教えるように首を曲げて、元の姿の証として残っていました。

 正しい神理は、話す言葉の中に神の力が宿ります。言霊です。その言霊によって植物も動物もすべて反応してくれます。神が証をして下さるのですね。私にはそんな力はありません。ただの凡夫ですが、しかし日々の生活で心の調和とその実践が神様に通じます。

 過去7年毎晩坐って反省禅定をしました。今年から坐らせて頂くのは月・水・金になりましたけど、最初は二、三人の方と始めたのが、今では三十人、四十人集まってこられるのです。

 そいういう風な心の調和、そして行いですね。行ないなくして神の道に入る事はできません。正しい神理に叶った「祈り心」の生活です。

 

四国の霊的事故多発地域を全部解消した日本の偉人♪長尾弘先生♪商売繁盛の秘訣♪黄金の海出現の奇跡秘話♪大感謝♪

愚か者の独り言(2) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
         
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
出せば入る法則 --原因結果の法則
             
「他を愛せば自分が愛される」というのは、「出せば入る法則」によるのです。出さなかったら入りません。自然はそのようになっております。

 どんなに大きなダムをこしらえても、大雨が降った後出すのを嫌と言っていたら、忽(たちま)ちにして決壊しますね。水門を開けてダァーッと排水するから、又入ってきます。

 この肉体を見ましたらもっと明らかですね。お尻と前の汗の穴を全部セメントで固めてしまったらえらい事です。3日も経たずに死んでしまいます。
 前と後を縫ってしまって出ないようにしますと、もう生きられません。

「私は、もう一週間も便秘でうんちが出ません」という方がありますが、しかしちゃんとおしっこは出ています。神様は本当に上手いこと造って下さっています。

 一週間、10日、或いは20日間、大便が出なくても、大便というのは90%以上は水分ですから、その水分を腸が吸収してしまうのです。

 そして水分の抜け殻になったカチンコチンのうんちは、極く小さいものになってしまうので、一週間も、10日も、長い人は一ヶ月も持つのです。そして、水分がみな抜けてコロコロとした硬い石みたいなのが出てきます。

 私の所にひどい便秘の方がお見えになって、すぐ治る方もありますし、
治らない方もあります。「お宅、ケチですか」と聞きますと、
「いや、私はそれほどケチとは違いますけど」
「それじゃ、そんなケチケチせず出して下さい」というのですけど(笑い)

 それは不思議なものですね。うんちというのは一度にたくさん出るものなのに、10日も出なくて一体どうなっているのかなあと思いますが、ちゃんと乾燥して水分はみな吸収されて滓(かす)がたまるので、量としては少なくて済むようになっているのですね。

 大便が出なくても水分として汗なり或いは小便なりとして出してもらうから体がもつのです。出させてもらうから入るという事を知る事です。

 私はこの正法にご縁を頂く前から、色々不思議な体験をさせて頂きましたが、商売の上でも自分が儲けようとしてはいけないという事を知っております。人様に儲けてもらう、かと言って自分が損をしたら商売にはなりません。人様にご奉仕させて頂く事をモットーにさせてもらいました。

 関東のある所に本社のある貸し布団の大手会社にご縁を頂きました。毛布業界では最低四ヶ月の手形、長くて六ヶ月、或いはお産手形といいまして十ヶ月の手形もあります。そんな時代に、そのお得意さんが現金で取引してやると言ってもらったのですね。

 こんな有り難い事はありません。業界では絶対と言っていいような大手のお得意さんが、ひょいと舞い込んできて下さったのです。
 まさに天上界から与えられたご縁です。その時私はこれを全部儲けたら申し訳ないと思いました。

 その後たった一度だけ東京の本社に行きました。受付の方に「大阪から参りました」と言いますと、「どうぞ」と案内して下さいました。
 オフィスの机が並んでいるそのずっと奥の、社長の部屋までの途中、事務を取っている方達が立って礼をして迎えて下さるのです。

「へえー、私のような者が来てもおじぎをしてくれるのだなあ」と思って社長室に入りました。案内してくれた人が社長さんだったのですね。

 私に頭を下げてくれたのではなくて、社長さんにおじぎをしていたのです。よく考えてみると、私に頭を下げてくれるはずがありません(笑い)。

 社長さん、会長さんとお見えになりまして、色々世話話をしました後、では商売の話をしましょうかという事で、「条件はどういうことですか」と聞かれたのですね。

 私は、「地元の問屋さんに入れさせて頂いている相場で買って頂いたら結構です。一銭も余計には要りません。しかし送料、荷造り料はお宅さんで持って下さい。それ以外は要りません」と、話させてもらいました。

「分かりました、では取引して下さい」と、お話は何と2、3分ほどで済んでしまいました。
 その後25、6年お付き合いさせてもらいました間、ずっと現金で買って頂きました。私は何とか会社にご奉仕させてもらわなくてはいけないと思ったのですけど、受け取って頂けないのです。

 で、仕入れ部長さんんが私の所に来て下さるので、
「うちは、これで儲けさせてもらっています。私だけが儲けては申し訳ないですから、仕入れ部長さんに私の感謝の気持ちとして、売上金額の二%を還元させて頂きます」と申し出たのです。

 これは一億円としますと、その二%はいい小遣いになります。盆と正月に分けまして、その半期の売上の二%を仕入れ部長さんんい送っていたのです。
 
 その会社に大きなメーカーから売りに来ますね、ところが絶対に買わない。「いや、うちはもう専属の製造所がありますから結構です」といって、

私の所より歩(ぶ)のいいお話を持っていこうが、どんな大きなメーカーから行こうが、よそからは絶対に買わないで、そして他に必要なものまで、私の所に注文があるのですね。

 私は注文を頂いたらよそでそれを買ってきて送る、それで又何%かも受けさせて頂くという具合で、相手に儲けて喜んでもらう事によって、
自分を守ってもらうという事と、必要以上に儲けさせて頂く事を、身をもって体験させてもらいました。

 今日、こうして結構に生きさせてもらいますのも、商売を通して
「こんなにぎょうさん儲けさせてもらっていいのかなあ」という程儲けさせてもらったお陰です。とはいっても、何億と儲けたわけではありません。
足ることを知っただけです(笑い)。

 それはさせて頂くから、して頂けたのです。しなければ、もし良い条件で他の大手から売りに行かれたら忽ち得意先を取られてしまうはずですね。

 なんと東京のお店に私から出向いたのはたった一回、しかも商売の話は一分間で済みました。そして25年間、こういう今の人助けの生活に変わるまで、ずっとお取引して頂きました。これは、出す事によって入る事の一つの良い例だと思います。

 商売において、同じ商品を買っていただくにしましても、「これ一つ売ったら500円の口銭(こうせん)がある、何とかこれを売って儲けてやろう」と思いますと、相手の心にはもう入らないのです。

「この商品によってこの人が便利になり、幸せになってもらえるのだ、喜んで頂けるのだ、儲けて頂けるのだ」という一念でお勧めしますと、買う方の心にシャッターが下りません。

 金儲け主義となっては相手に通じないのですが、買う側の幸せを思い、その方のお役に立ちたいのだという一心でお勧めした時は、相手の方にそのままストレートに入っていきます。

 商売というのは、品物を売っているのだと思っていますけど、本当は自分という人間の心を買ってもらっているです。信用ですね

「あの人なら信用できる、あの人の言う物なら買っても間違いない」というように、全部心を買ってもらっているのですね。品物は動いています。
 そして欲が絡んで取引しますと、「ああこれを買ってえらい目に遭った」という事になってしまいます。

 この自然界といいますのは、すべて調和を目的として運営されていますから、私達もそのように生きさせてもらえば、その時苦しみの少ない安らかな人生を過ごす事が出来ます。

 私の所のご近所で、この人は商売がきつくて、えげつなくてね、
ま、商売の上手な人がおられました。私達よりも年輩ですでに引退されていますけど、この人はこちらで千円の品物を何万枚も契約するとします。

 ところがこちらよりも十円か二十円高かったら、契約違反をしてでもそちらに売るのです。その人は「何千万円の不渡手形を掴まされた」とか「何千万やられた」と、私が知っているだけで何回もやられています。

 私は自分のことを話して申し訳ないのですけど、三十年近く商売させてもらった間、一回も不渡手形を受け取った事はありませんでした。

 ただし一回だけあったのです。昭和45,46年当時、六百万円引っかかったのですが、しかしその95%は返ってきました。

「やあ、あの人が恐いよう、運が悪いのか、よく不渡り食うなあ」というのは本当はやはりその人の心の不幸な原因が結果として現れてくるのですね。

 ですから、日々の生活で、出来るだけ間違った苦しみの原因を作らないことです。不幸になっていく原因を日々作らない事、これが精進です

 そして幸せの種をしっかり播くこと、幸せの種、つまり良き結果が現れる原因を常に積み重ねることです。その時播いた種は必ず生えますし、また成長して実ってくれます。

 胡瓜(きゅうり)が幸せで、なすびが不幸とします。自分の不幸の種のなずびを播いておいて、実ってきた時「私は胡瓜が欲しかった、なすびは要らない」と怒るのでは遅いのです。自分がなすびを巻いたのです。
 幸せ不幸せとは、それと同じ様なことが言えます。

 ただ、正しい正法を知らない間は、その種が幸せの種か、不幸せの種かが分からないのです。盗みをしたり、人を泣かせたりすれば、これが悪い種という事は分かりますが、自分の心の作用の種には気付かないのです。

 その種は、自分の心を苦しめた時に必ず苦しみの実りが現れるという事です。悪い行為はもちろんいけません。今笑っていた人が瞬間に激怒するとか腹を立てて、「怒らな損損」といって、怒っている人がありますが、あれは毎日毎日怒るたびに不幸の種を播いているのです。
 
 又、愚痴ばかり言っている人がありますね。あれなども愚痴を言ったぐらいで不幸にはならないと思っているのですが、それが不幸になっていきます。まさかと思う人の悪口についても、

「悪口を言うのは相手が悪いからいっているのだ。そんな事で不幸になるものか」と思いますが、しかしいけません。悪口を言う時「ここだけの話ですよ」と言うと、もうすぐ向こうに聞こえています。

 悪口ほど早く通じるものもありません。「内緒やで……」と言えば言うほど、余計に人は喋りたいのです。その結果、自分の心の中に大きな荷物を背負う事になります。又、そしりですね。もちろん恨んでもいけません。

 もっといけないのは人を呪うことです。夜中にカーンカーンと釘を打つ、あれは最も罪深いことです。人を不幸にして自分が幸せになれるはずがありません。
 それが分からないから、「憎いから心臓に釘を打ってやろう」と呪うのですが、これは遠い昔の物語かと思いましたら、そうではなくて、今日お見えになっていませんけど、神戸の方の現実のお話です。

恐い生き神様の話

 また、とんでもない神様があります。話すと、正法らしい事を言うのです。そして素晴らしい事を言うので、信者さん達がそこへ行っていますと、妙なことが起こっています。

 あるお宅のお父さんが教育熱心でスパルタ教育をするので、上のお姉ちゃんがすねて、いわゆる翔(と)んでるお嬢ちゃんになって、親の言う事を聞かなくなったのです。

 上は手がつけられないというので、今度は小学四年生の下のお嬢ちゃんにお父さんのスパルタ教育が向かってきました。
その下のお嬢ちゃんというのは身体が弱いのですね。その神と称する人の所に行きますと、「この子はもうあと二年したら死ぬ」と言うのです。

 お姉ちゃんとお母さんが「何とか助けてください。なぜ死ぬのですか」と聞くと「お父さんが厳しい教育をするから、この子は耐えられない、この状態でいくと、この子は二年以内に死んでしまいます」と言うのです。

「それで何とか助かる方法はありませんか」と言うと、「お父さんが原因でこの子が死ぬのだから、この子を助けたかったら、お父さんに死んでもらいなさい。そうすればこの子が助かる。お父さんが死ぬか、どちらかが死ななくては解決しない」と、うまい事を言うのですね。

 そこでお姉ちゃんとお母さんとが相談をして、こんなに小さなRちゃんが死ぬのは可哀想だ、お父さんはもう50年程生きているのだから、お父さんに死んでもらおうかという事になったのです。

 神様が「それじゃお金がちょっと高くつきますけど、私がちゃんとしてあげます」とおっしゃってね。
「写真を持ってきなさい」との事で、写真を持っていったのです。

 ところで、そのお宅の奥さんのお姉絵さんの家族もそこで信仰していたのです。その姉さんのご主人は、もう退職していますが、三十五年間も刑事を務めている人なのに、そんな恐い刑事さんでも、ころっとその神さんにやられているのですね。

 そして悪魔払いをしてやるから何万円持って来いとか、やれこの家に又悪魔が入っているから、今度は何十万円で取ってあげるなどといって、次々とお金を巻き上げられています。

 そして変なものが憑いているといって、これは結局憑けられてしまったのですが、その方が初めて私の所へ見えられた時は、二人とも地獄の底の住民みたいな顔をしていました。

 自分の周りが全然見えないで、遥か高い所にボコッと穴があいて空が見えている様な、生きながら自分の意識が地獄に行っているような有様でした。

 そのお姉さんの大学四回生の子供さんも、そこに行っていたのですが、ある日、帰ってきて言ったそうです。「お母さん恐いで。どこの人か知らんけど、神棚で男の人の写真が心臓に釘を打たれて、先生が殺してやるのだと言って一生懸命拝んでいる、こわいで」と。

 そこで今度そこにいって写真をよく見たら、なんと自分の妹の婿さんだったので、もう地獄の底にいる心地がして、自分ながら頭がおかしくなって、妹さんと二人で私の所にこられたのですね。そして、今話したいきさつを聞かせてもらいました。

「あなた方は、そんな優しい顔をして何と恐ろしい方達だ、私だったら、あなた達のように恐ろしい人は嫁さんになってもらわない、殺されてしまう」と、私は言いました。

 そして、「早く写真を返してもらいなさい。そんな事をしていると、その念はものを作ります。想念はものを作って形として現れるから、そんな事をされたら、ご主人は必ず体が悪くなりますよ、だから早く写真を返してもらいなさい」と言ったのです。

 しかし何と言っても返してくれない。「いったん神さんにお願いしたものを中止する事はできない。お金が惜しくなったのか」と言うのだそうです。

「それでは私が、返してもらえるように、ちょっとおまじないを書いてあげますから、これを胸のポケットに入れていってみなさい。必ず返してくれますから」と、いつも書かせてもらっている「明かりが来れば闇が去る」と、名刺の裏に書いて差し上げたのです。

 私はそのご主人とその時はまだご縁がなかったのですが、奥さんは「お父さん、これを持っていけば返してくれるそうです」と渡し、ご主人はおまじないの私の名刺を胸の内ポケットへ入れていったのですね。

 その生き神様と称する方は母子家庭で、中学生のお嬢ちゃんと小学五年ぐらいのお嬢ちゃんとその神さんであるお母さんとの家庭です。

 親がああいう事をしていますと、子供にも移るのです。親が間違った信仰をして霊的に通じますと、必ず子供に、孫にと、遺伝のように伝わっていきます。これは避けられません。そこの下のお嬢ちゃんは特にそういう霊感が強いのだそうです。

 そして今の話のMさんがその家の表に立たれますとね。家の中で、「表に恐ろしい奴が来た、恐ろしい奴が来た」と泣き叫んでいる。「恐ろしい奴が来た、眩しい奴が来た」と泣き叫んでいるのです。

 すると、お母さんの生き神様が出てきて、「ああ、Mさんですか、まあ入って下さい」と言って、Mさんが中に入りますとね、その小さな女の子が恐ろしい顔をして男の声で、「眩しくて見えない、早く帰れ」と言って逃げて行くそうです。

 Mさんが、いつもはおじいちゃんと言って膝に乗ってきてひどくなついていた子が、その日に限って逃げ歩くので、
「なぜこの子はこんな事を言うのですか」と聞くと、「今日は天で神さんが暴れているからこんなにしますのや」とそのお母さんが言ったそうです。

 それで、「実は写真を返して欲しいのです」と言いますと、「はい」と素直に取ってきて返してくれたのです。

 Mさんは私の所にその写真を持ってこられたのですが、可哀想に心臓の所に穴が開けてあるのですね。五寸釘を打った穴がね。私は、「あんばいにしてあげましょう」と言って、その穴を元通りにしておきました。

 このような、人を呪い殺すということは、もう昔の物語だと思っていましたが、今でもあるのですね。不思議な事には、名刺に僅か四文字「明来闇去」と書かせて頂きましたものが、霊的な世界から見ますと、眩しくて見えないのです。

 ただ胸の内ポケットに入れてあるだけで、その人の姿さえ光で見えなくなってしまって、そして絶対に返さないと言っていた写真をハイと素直に返してくれたのです。

 正しく生きる者には光があります。これは天から守って頂くのですMさんはその当時の自分の出来事を詳しく書いてここへ持ってきてくれました。

四国の霊的事故多発地域を解消する旅路の奇跡
黄金の光と暗い想念

 度々お話しますが、一切の自分の欲得を捨てて、何の求める心なしに苦しいお方の為に、或いは悩んでいる方の為に、又見えない世界の苦しむ方の為に、ただその人達の幸せを願って自分の行動を起こした時、私達は光の天使です。どなたでも皆、光の天使です

 そういいう光の天使が行動を起こされますと、もしどんな地獄の底まで行かれても、迷える霊は近づく事さえ出来ません。
 なぜかと言いますと、これは光ですから、自分のしがみつく場所さえ分からない光というのは、そういうものなのです。

 これは、四国にお話に行った時のことです。そこは見晴らしのいい十字路ですのに、次から次へと交通事故による死人が出るのです。そこでお地蔵さんを建てて、拝み専門の人に拝んでもらったり、ご祈祷をしてもらったりするのにその信号のたった一か所で、もう何十人と死んでいるのですね。

 四国のS町という所です。この場所で事故が起きないようにして下さいと頼まれて行ったのです
 それで、その地で亡くなられた方々でその地に意識を残して迷っている方々にお話させて頂いて、そして天上界にみな上げさせて頂きました。そうしますと、それ以後、一回も事故は起きていないそうです。

 最初四国に行きました時は、そういう場所ばかりを「何とかして下さい」と言われて回ってきました。その帰りに車の運転をして一緒に行ってくれた方が、
「先生、あんな恐ろしい所ばっかり行くと、霊がいっぱい先生にすがってくるのと違いますか」と車の中で言うのですね。

 私は、今お話したように、
「私達が一切の求める心なしに、たださせて頂き、救われて欲しいという思いだけで行動を起こしますと、私も光、こうして共に来てもらったあなた達も光です。だからもし迷える霊が沢山いる場所を私達が通りましても、

その迷える霊たちは私達を理解する事さえできない。ただ光の塊が通っていくなあとしか理解できないので、すがってくるなどとんでもないことです」と話したのです。

 そして、香川県から徳島県へと、あの大きな大坂峠を越えて入っていきました。峠に差し掛かった夕方、また暗くはなっていなかったのですけど、
左側は山肌で、中に道が通っており、右側は谷でやはり切り立った崖で、ガードレールがつけてあって谷へ落ちないようになっています。

 山を切り開いた峠を車が登っていき、私は助手席に乗せてもらって左側を見ますと、山肌がちょうど車の黄色いヘッドライトでパァーッと照らしたように黄金色で、ずっと光っているのです。山肌が全部光っています。

 それで、「ああ、ひょっとしたら後からバスかトラックが来て、黄色いライトを付けて追いかけてくるのかなあ」と思って後を何回も見たのですけど、何も来ません。その峠を越えるまでずっとものすごく光っていたのです。

 私も凡夫の浅はかさというやつで、「後からバスが来ていないのなら、この車の横にランプが付いているのだろうなあ、それで山が光って見えるのだなあ」と思いながら走っていたのですね。

 四国の旅から帰って何日か経って、一緒に行ってくれた方々と又お会いした時、運転してくれた方が、
「先生、あの峠を越える時、気が付きましたか」と言うのです。

「あ、お宅も気付かれましたか」と言うと、「私、運転していましたら、前の方がパァーッと光って、ちょうど黄金の光ですから、あの黄色いライトで照らしたような光なので、バスが来たのだと思って、何回もバックミラーで後を見ました」と、やっぱり同じことを言っているのですね。

「そんなこと言ったら頭がおかしいのかと言われると思ってね、よう言いませんでした」「ああ、気付かれましたか」と私が言いますと、

後ろの咳に乗っていた方も、「私も右側のガードレールがずっと光っていたのを見ていました。大阪のガードレールは確か白だったと思うのに、四国へ来たら黄金が塗ってあるのかなあと思った」と言うのです。

「私達は光です」と言いました時、忽ちその車の周りがものすごい黄金の光に包まれていたのです。現実に何人かおられても、皆に肉の目で見る事の出来る光です。本当の愛ゆえに行動を起こしますと、どなたでも全部、光になります。光に包まれるのです。

 愛は光なり、神は愛、光こそ神、そういう自然界の中にも厳然としてはっきりとこの肉体の目をもって光を見せて頂けます。

 地元の方は何回も聞かれた話ですが、今日はわざわざ遠方から来て頂いて、初めてお見えになって頂いた方たちの為に説明させてもらうお話だと思って、辛抱して聞いて下さい。
 初めての方は、「ああ、ほんとにそんな事があるのかなあ」と理解してもらえると思います。

たださせていただく行為」の時は、天から光がさあっと射してきます

 徳島に行きますと、頂上に沢山アンテナの立っている眉山(びざん)という山がありますが、徳島から船に乗って、港を離れて後を振り返りますと、私達の行った場所、通った場所に、雲間から数条の光が下りています。

 その時運転をしてくれた方が、「先生、あれが眉山、あちらが三本松、あそこは途中で下りてもらった所、雲間からさあっと光が下りております」と言うのです。
 
 見ると、本当に雲間から光が下りています。その時、突然海面が全部黄金に変わりました。もう例えようのない黄金の海になってしまったのです。

 船に乗っておられた大勢の皆様も「ウフー、なんと美しい海、こんなきれいな海は見たことがない」と皆わいわい言っていますけど、私達は、

「ああ、これは神様が私達の行為に対して、その祝福の光を与えて下さっているのだ」ということが分かっていますから、「ああ、有り難いなあ」と言い合って帰ってきたのです。

 暗い想念、誤った想念、誤った行動によってこの世を過ごし、そしてこの世を去った時、暗い世界に私達がもし執着しておりますと、その光と反対の現象が出てきます。

 よそのお宅に行きました時、真っ暗な感じを受ける家というのがあります。表に立つと奥が見えないような暗い家、或いはお仏壇を見ましても、その中が真っ黒のお宅がよくありますね。仏壇の奥が見えません。

 正面の阿弥陀さんなども墨を塗ったように消えてしまって、真っ黒で見えない。お墓もそうです。仏壇は本来あんなに暗くはならないものです。

 ですから、真っ黒の仏壇でも、ご縁がありまして、その中におられるご先祖様を天上界へ送りますと、忽ち光ってきます。
 これはどのお宅のお仏壇でも同じように暗い所がみな光ります。いわば私は、仏壇の洗濯屋さんみたいなものです。光るのです。

 ではなぜ暗いのかと言いますと、仏壇の中に迷える諸霊の方がおられるから真っ黒になっているのです。線香の煙で曇っているのとは違うのです。

「私が一生懸命拝みましたから、線香とろうそくの煤(すす)で仏壇が真っ黒になっているのです」というのは嘘です。

「では、見ていなさい」と言ってお祈りをして、迷える霊が成仏されますと、パァーッと光ります。特に仏壇の正面の上などは彫刻ですから、もう真っ黒になったら磨きようがないのですけど、それが光ってきます。

 私が地番上の姉が泉大津に嫁いでいるのですが、そのお仏壇が又黒いのなんのまっ黒けだったのです。私が二十代の時、そこでお世話になっていまして、そこの仏さんの前を通る時、「まあ、ここの仏さんはなんと暗いなあ、なぜこんなに黒いのかなあ」と思いました。

 阿弥陀さんも横に書いてある南無不可思議光如来も南無無量寿光如来の字も何も分からないほどまっ黒けでした。

 この法にご縁を頂きましてから後、一回はおじいちゃんが亡くなられた時、二回目はおばあちゃんが亡くなられた時、その後3回に参ってお祈りしました。

 今度家を建てまして、その新築の家に、もう何十年も前の真っ黒けだったお仏壇を入れますと、その新築の家よりも仏壇の方が光っています。奥の方から煌々(こうこう)と光っています。

 私が二十代ですから、もう三十年前に真っ黒けだったお仏壇です。それが今は新品みたいで、新しく家を建てた家よりもなお光っています。新しい家に古い家具を入れても調和しないものですね。

 それだけが古く目立って、ついもうこのタンスも替えようか、これも新しいのに替えようかという事になって、そうしないと合わないものです。

 ましてや真っ黒けの仏壇を入れたら似合うはずがないのですが、家よりも仏壇の方が光るぐらいになりました。仏壇の中に不幸にして成仏する事のできないご先祖様がおられますと、仏壇はだんだん暗くなります。

 家もそうです。ものすごく陰気臭い家で、その中に入ると暗い感じを受けるお宅というのは、その家の中に執着している何者かがあるから暗いのです。墓地全体が暗いのもそうです。



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過去記事ですが、私もたまに見ては感動で大粒の涙をポロポロ流しております(笑)

生き様・行ないが人の尊さ♪イエス様の偉大さ♪人を咎めない責めない事が自分を愛する近道♪長尾弘先生♪高橋信次師

愚か者の独り言(2) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
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奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
人は生まれより、その行ないによって尊さが出る
               -----イエスの誕生-----
 
 イエス様の誕生についてよく質問を受けます。
「聖書には処女懐妊と説かれていますが、現実はどうだったのでしょうか。母マリアはヨセフと婚約をしていたが、まだ一緒にならない前に聖霊によって身重になった、と書かれています。先生はどう思われますか」と。

 信じる信じないはその人その人の自由です。皆様もよくご存知の事を思いますけれど、聖書について、ちょっとお話をしましょう。

 その時代のエルサレム統治者ヘロデ王の代にユダヤのベツレヘムでイエスがお生まれになりました。当方から博士たちがエルサレムに来て、

「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私達は東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました」
と聞いて回ったので、人々の噂がヘロデ王の耳にも入ったのです。

 王も人々も不安を感じずにはおれません。自分が今、王として君臨しているのに、預言書の書にベツレヘムにユダヤの王が生まれると書いてある事を知り、自分の地位が危うくなると思ったのでしょう。

 何とかしてその子を見つけ出して殺してしまおうと思ったのです。そこで、東方の博士達を呼んでその子を上手く探し出す様に命じます。

 博士たちは星に導かれて、ある家に入りました。そこで母マリアとそばにいる幼子(おさなご)に会い、ひれ伏してその御子(みこ)を拝み、贈り物を捧げて、そのまま他の道を通って自分の国へ帰ってしまいました。

 マリアの夫ヨセフは見の危険を感じ、マリアと幼子を連れてエジプトへ逃げてしまいました。

ヘロデ王はその子が見つからないので、ベツレヘムとその地方の二歳以下の男の子を全部殺してしまえば、王と言われる子も殺せると思い、実行してしまったのです。これは、事故保存の恐ろしい心の現れといえます。

 自分を守ろうとして幼い男の子を全部殺したとしても、時が来れば人は死ななくてはなりません。
 ヘロデ王が死んだ後は、ヨセフは家族でイスラエルへ帰って来ますが、王の息子アラチオがユダヤを治めている事が分かり、イスラエルから離れたガラリア地方のナザレに住み着く事になります。この話の中で、何度か神の使いが導いています。

 しかし現実の人間社会の中で、ヨルダン川でヨハネよりパプテスマ(洗礼)を受けるまでのイエスを、神の御子を誰が信じたでしょうか。

 結婚前に身重になって出来た子は「神のみぞ知る」であって、普通の人々は何と言ったでしょう。恐らく父なし子不倫呼ばわりをしたはずです。

 婚約者ヨセフは貧しい大工の左官の職人だったそうです。イエスは世の嘲(あざけ)りとさけずみの中で成長されたのだと思います。
逃避と苦難の成長期に間違いありません。後にイエスは言われました。

「私は世の人々の全ての苦しみを理解する事ができる。
それは、私はその全てを体験してきたからである」と。

 人間イエスは生まれた時から、普通の我々の味わい得ない悲しみの十字架も背負っておられました。生まれは貧しく、非難中傷を受け易い環境を選ばれ、その中であらゆる苦しみ悲しみを体験して、愛を学んでいかれたのです。

 自然界の法則では、天と地と、プラスとマイナスと、陰と陽、雄と雌、男と女が縁に触れて和合し、初めて種の保存が成立する様になっています。

 尤(もっと)も最下等の動物では雌雄両性を持つものもあり、雌雄どちらにも変成するものもあり、細胞が分裂して種の保存をするものもありますが、自然の法則では、人間は男女の縁によって子供を授かるのが当然です。

 ゴータマ・ブッダ釈迦がマヤ夫人の腋の下からお生まれになって、その場で七歩歩かれて、片手を天井に挙げてられ片手は地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと仏典に書かれています。

 これも普通の常識では考えられない事です。では、なぜこんな非常識な事が仏典や聖典に書かれているのでしょう。

 洋の東西を問わず遠い昔から、人間離れした偉大なるお方は普通の人間の様な生まれ方はされないという言い伝えがあり、偉大な方を神格化する思想がありました。人々はみなそのように思っていたのです。

 そこで、その思想のままに書き残されたものだと思います。信じる信じないは人それぞれの自由です。しかし自然が神の御姿であり、自然が神ご自身であれば、自然に背いて神のお使いが現れるはずがありません。

 このようにしてイエスは、人間社会において最も厳しい環境を自ら選んでお生まれになりましたが、その生涯を通して、思いにおいて、言葉において、行為において、神ご自身の愛をお示しになりました。

 人は生まれによって尊いものではなく、その生き様によって尊いのである事がよく分かります。私達人間は生まれによって尊いのではありません。
 
 その人の行いによって尊さが出てくるのですね。だから、たとえ総理大臣であろうと、この世のどんな素晴らしい家柄に生まれた方であろうと、その人の行為、想念、言葉が正しくなかったら、その人は何の尊さもありません。

 逆にどんな貧しい家柄に生まれても、処女懐妊でも非処女懐妊でも関係なく、その方が神の愛を行なった時、その行為がその人を尊くします。
 「法は実践の中に生命が宿る事を知れ」です。

無償の行為とそれに伴う現象

 そこで間違ってはならない事は、人様のために尽くさせて頂いて、一生懸命の底から尽くした時に、人から裏切られた場合です。この時、私達は自分の心を傷つけます。

「ホントに何という憎い人だ。あれだけしてやったのに、あの恩知らず、ようあんな恩知らずの人があったものだ」と言って、自分が尽くした人の裏切りによって、夜も寝ないで苦しんでいるのですね。

 この苦しみが、せっかく良い行いをしながら自分を不幸に陥れている一つの大きな原因となっています。

「あの人は神か仏のような方で、あんないい人がなぜあんな不幸な一生を送ったのか、あんないい方がなぜあんなえらい病気になったのだろうか」
と思うような方が沢山おられます。

 それは全部、自分の心を苦しめたという原因が、苦しみという不幸な結果として現れているのですが、案外この事に気が付いていません。

「裏切った人が悪い、私は一生懸命尽くしたのに、あの裏切り者が悪い」と言って、人を恨みます。しかし苦しんでいるのは自分の心です。恩を忘れて裏切った人の心は苦しんでいません。

 裏切られた人は夜も寝られないで腹を立てて怒っていますが、裏切った当人は、そんな事に関係なくぐうぐう寝ています。

 今、皆様の心に「ああ、私は幸せだ、私には何の苦しみもない、本当に幸せだ」という方がおられますと、その幸せは結果として現れていますから、過去に喜びの原因をお作りになっていて、今がその喜びの中にあるのです。

 では、不幸にして今、「苦しい、なぜ私は苦しいのだろう」という人が御座いましたら、それは苦しみの原因を過去において積んだから、今、結果として苦しいのです。原因があるから、結果が現れております。

 ただ、させて頂くのみ、一切の報酬を求めないで、ただ、させて頂く事です。世の中に偉いと言われる人は数多くおられますが、自らを捨てて他を生かそうと実践されている本当に偉い人は、砂の中からダイヤモンドを捜す様なもので、中々お見かけできません。

 神理、正法を口にはしましても、思いにおいて、言葉において、行いにおいて、何とかして会員を増やそう、会員が減らない様にしよう、或いはお金に困っているから寄付をしてもらいたい、長生きしたい、などと言ったり思ったりしておりますと、これはもう正法、神理とは違います。

「私こそ法の後継者、正法を伝えるのは私一人だ」と自分のことを自分で先生、先生と言ったり、はっきりと嘘とわかっていて、知らない会員を騙したり、自らを正当化する為に人様を誹謗中傷しながら、「私は人の悪口は言った事はない」などと言っておれば、これはもう帳消しですね。

 教えの中にも誤りが出てきます。行いが間違っておりますと、正しい教えは説けません。自分を捨てた、自己を犠牲にした、他の人への奉仕、その行為の中に正しい教えが沸き上がってきます。

 世の中には天からの啓示、又は霊示を受けて、次から次へと無限に言霊が出てくる方もあります。又霊が乗り移って話す人もあります。

 私は、そういうものは一切ないのでございます。全くの凡夫でございますので、私の場合は天からも教えてくれませんし、違う世界からも教えを受ける事ができません。又声を聞く事もできません。

 自分のこの肉体を使って、求める心なしに、この肉体を最大限に使わせて頂いて、人様の為に生きさせてもらった時、その実践を通して色々なことを学ばせて頂けます。

 人との出会い、そこに起こる出来事の中から学ばせて頂く、これが実践を通して学ぶという事ですね。自分の体を動かして良き行いをする事です。私は一円感にはたった一日のお休みもございません。
 しかも、昼夜一睡もしないで飛び回る事もあります。

 これが又不思議でございまして、私と一緒に行って頂きますと、その方々も疲れが出ないのですね、2.3年前、私の所にK先生と一緒に岐阜・愛知と回らせて頂きました。

 土曜日の朝から出まして岐阜に先に行かせてもらい、それから愛知の犬山に行きましてお話をしました。その夜中に変な迷える霊の方が出てきまして、そういう方を救わせてもらっていますと、もう夜中の二時頃です。

 さあ、これから帰りましょうかといって、車に乗って帰ってきました。
ちょうど栗東(りっとう)あたりで夜が明けて、岸和田へ7時頃に帰り着いたのですね。

 同行の方は一睡もされていないのですが、その足で奈良の当麻(たいま)に牡丹を見に車で走られました。私はお人が見えましたから、少し遅くなってお昼前から出かけまして、当麻でお話会をさせてもらいました。

 こうして全く一睡もしないで飛び回っているのです。ところが眠くもなければしんどくもなりません。
 ひどい時は三日間で三時間ぐらいしか寝ない時もありましたね。あちらこちら飛び回っていますと、寝ている間がないのですね。

 それでも次に向けてに来て下さる方が「先生の目は爛々と光っていますね」と言われます。一睡もしていないのに目が爛々と光ってくるのです。

 それはみな、その行動、行為に対して見えない世界からご協力を頂くからです。それがエネルギーとなって私体を運んで下さいます。

 だからよく新幹線で山口や広島に行かせてもらうのですけど、その道中、自分一人で静かに列車の中で瞑想をしておりますと、本当に自分というこの肉体が、今、神様のご指示によって、その目的地に運ばれているのだなあという事がはっきりと分かります。

 私の意志ではなしに、神の御意志によって私の肉体を運んで頂いている、これは、至らない私ですけど、その私の想念行為によって、神様が私を使って下さっているのです。そして、行く先々で信じられない現象を現して頂きます。

 講演の時に会場一面に金が降ってきたり、ある会場がピカピカになったり、あるいは生けて下さったお花が全部、突然にしてパアーッと一度に開いてくれたりという現象が起こります。

 これは私にできる事とは違います。神様がして下さるのです。その法の正しさ、その教えの正しさの証明として、信じられないようなそういう現象を現して下さいます。

 過去世の名称にとらわれて、今生(こんじょう)の自分を見失っている方がありますけど、その方に、ある人が私のことを尋ねたら、
「ああ、あれは霊的な事ばかりやっているから駄目です」と言われた、といって私に話してくれました。

 過去世の名称にとらわれる事が霊的である、と気が付いていないでいるのです。しかし私はお話の中で、霊的なことに囚われてはなりませんといつも言っております。

 この世の中で私ほどあの世の世界の方との体験を豊富にさせてもらった者も数少ないと思うほど、色々と体験させてもらっています。

 迷っている霊の方をこの世の方の中に入って頂いて、その方と皆様の前でお話をして救い上げます。しかしそんなものに囚われてはなりません。

 又、よく金が現象として出てきますね。昭和52年7月に泉大津の市民会館でお話させて頂きましたら、その会場一面に金が降りました。私の体などはキラキラになりまして、その時見えた方は、皆合掌してひれ伏しておられました。その会場にいた一人が、自称偉いお方の所に迷い込んだのです。

 そこで「大阪の長尾先生という人からこんな金が出ます」と言いますと、偉いお方は、「いや、それは動物霊です」と言ったのです。
 そして、その人が又私の所に、「いやあんな金が出るのは動物霊の仕業だと言われましたよ」と告げに来るのです。

 だから私はその人に言ったのです。
「そうです。動物霊もそれぐらいの事はできます。しかし私を見て下さい。私が動物のような生活をしておりますか。もし私が動物のような生活をしておって、こういう現象が起きたのなら、それは動物霊の仕業です。

 私がもし、見て頂いて間違いが少なく、良き行いを積んでおりましたら、私に現れる現象は神の力です。私の行いを見て判断して下さい。
私の生活はいかがですか」と、その人に聞きましたらね、
「それはそうですな」と言って帰られました。

 このように、その人の行いを見て、その人に現れる霊的現象が正しいか、間違いかを判断したらいいのですね。そうすれば、はっきりと分かります。

 他の地方でも正法を説いている先生がおられまして、その方は私を非難されます。「あれは現象ばっかりだから駄目だ」と。
 しかし現象が現れるのは、正しい行いを行ったから現証が現れるのです。

 だからこれは理論的に証明する事が出来ます。また、私は書いたものをまだ本に著しておりません(※この公演後に「愚か者の独り言」を刊行)

 そうしますと、「正しい教えとは、文証・理証・現証がなくては駄目、あれは文証がないから駄目です」と、私の事を私のいない所で人様の前で注意してくれます。

 しかし自分が書かなくとも、縁があれば人様に書いて頂けます。現に山口県でお話させてもらいますと、このお話させて頂いたものを全部そのままテープから文字に移して清書し、全国に送ってもらって頂いております。

 本当に有り難いことです。またそのコピーを読まれた方が泣けて泣けて、そして病気が癒やされたと言って、喜んで下さる方もいっぱいおられます。

 現証はその行いによって現れますから、行いがあれば理論的に証明できます。文証も自分がしなくとも、周りがして下さいます。文証・理証・現証、これは正しい教えについて回るものです。

得難い法のご縁
 
 見えない世界にいる苦しい方も、正しい教えによって即、救い上げます。見えない世界の方はこの世に生きる人間よりもなお、悟りが早いです。

 なぜ霊の方は悟りが早いかといいますと、それは肉体、つまり目・鼻・耳・口・皮膚の五官がないから、悟り・目覚めが早いのですね。

 しかし不幸にして法にご縁がございませんと、永遠といってよいほどの長い時間を苦しんでおられます。それは気付く事が出来ず、目覚めを与えられないからです。

 昨夕も、本当に有り難いことで、わざわざ富山県から、そして新潟県からおいでになって頂きました。今日お集まりの皆様は関東の皆様でございますね。本当によく来て頂きました。ありがとうございました。

 ご縁というのは誠に得難いもので、この私のご近所にあっても縁のない者は近づく事もできません。しかしご縁のある方はご近所からもこうして熱心に来て頂けますし、遠い県外からも集うて頂けます。

「正しい教えに縁を得る事は、片目の亀にあの大洋の真ん中で1片の流木に巡り合うよりもなお難しい」、つまり太平洋の真ん中に流れてくる1片の板切れは、見つけようとしても、中々どうして見つかりません。

 そして二つ目の持つ亀が片目というのは、世界が半分しか見えないという事です。その亀が流木に巡り合うよりもなお難しいという程に、本当の教えに巡り合う事は難しいそうです。

 しかし、こうしてご縁を頂いて巡り会えるというのは、それほど尊いご縁によっているのであり、誠に得難いご縁です。

 今、来て頂いている或るお方は、以前にただ一度お会いしましてね、忽然と素晴らしい方に変わって頂きました。それはもう周りのお方がびっくりされてしまうほどに変わられました。これは本当に奇跡ですね。自分の心に目覚められた後、忽(たちま)ちにしてその人間性が変わります。

 昨日見えておられたTさんの息子さんの場合も、一度青いしてお話させてもらいました後、素晴らしい変貌をしてくれました。

 大学の四回生ですけど、体が弱くて半年ほど入院されたりして、長男さんですから可愛い可愛いと大きくされたために、すごくわがままになりまして、自分のお母さんに対する要求が大変なんです。

 思い通りにしてもらえないとひどい事をするのでほとほと困られまして、
「先生、何とか一回お話を聞かせてやって下さい」と言って連れて見えました。

 僅か30分か40分ぐらいしかお話出来なかったのですが、もうこの玄関を出る時から態度が変わり、帰りの電車の中、夕食への感謝と、お母さんは腰が抜けるほどびっくりして電話を下さったのです。
「あれからずっと、それを守ってくれています。いや、うちの子はほんまもんですわ」と。

 この守るべき事というのは、怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配や取越苦労・不安・恐怖・嘘・貪欲を無くす事だと言って話しました。

 その息子さんは学生手帳の中にこの項目を書き込みましてね、持って歩いているのです。そしてそれを実践して素晴らしい変貌をしてくれました。

 この間訪ねてきまして、大学でのテストの話をしてくれたのです。すごくよく出来る子です。テストでは鉛筆と消しゴム以外は出してはいけないそうですね。ですが、学生手帳と私の写真を持っていったそうです。

 数学の問題を見ましたら、全部ハッキリ覚えているものだったのに、その時に限って油断して私の写真を出し忘れたそうです。それで四問とも全部正解したのですが、0点になったのです。

 問題をよく読むと、「この中から二問選択して解きなさい」と書いてあるのを、出来すぎて四問全部解答したので、0点になってしまったそうです。

「先生の写真を持っていなかったら、えらい事になりました」と言って笑っておりましたけど、すごい心の支えになるものですね。

 この息子さんの場合のように、本当に短い間、ちょっとお会いしただけでしたが、そのようにさっと素晴らしく変わってしまった方もあります。

 心や肉体が地獄お底の様な生活をなさっていた方で、ここにお見えになった時は全く恐ろしい鬼婆のような顔をしておられましても、帰る時には仏様のような顔になって変えられる方もあり、それは不思議な事です。 肉体が癒され心が癒され心が安らぎますと、たちまちお顔の相が変わってしまいます。

人間は皆、自己が最も愛おしい

 人間といいますのは、今地球上に50億人の人口がありますけど、この世の中で誰が1番愛おしいかをよく考えてみますと、自分ほど愛おしいものはないのです。

「いや、私はあの人が好きで愛おしくて……」といっても、それは嘘です。
「うまいことして、その人と結婚できたら、その人はちゃんと食べさせてくれる」という様に、心の底ではまず自分の事を第一に思っています。

「私はこの子供が可愛くて可愛くて」と言っても、その子が苦労かけてくれたらどうもならんと思いますし、掘り起こしてみると、全部自分の事に帰着します。

「私は主人を命の限り愛しています」と言っても、主人がよそへ言ってお金を持ってきてくれなくなったりすると、主人を憎むようになります。
 
 主人の方も「私は家内を愛しています。愛おしくてたまりません」と言いましても、心の底を掘り起こしてみると、「この人がいないと選択もしてくれない、飯も炊いてくれない」という具合に結局は全部自分の為です。

 お釈迦様は「自己が愛おしい様に、人様も各自、自己が愛おしい、だから自分を愛おしむが如く、他を愛おしみなさい」と教えておられます。

 これは蚊一匹、蟻一匹といえども自らを愛おしんでいます。だから私達は自分を愛おしむように、他の全ての命あるものをいとおしまなくてはならないのですね。

自らを愛し、自らを愛するが如く他を愛しなさい

 まず自分を愛さなくてはいけません。その自らを愛するといっても、「ああ、可愛い可愛い」といって自分を甘やかしたり、自分の身体をなでさするのは愛ではありません。これは肉体を愛しているのです。

 自らを愛するとは「自分の心を苦しめないこと」です。自分の心を苦しめないというその苦しみとは何かといいますと、これはいつも言います怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配・不安・恐怖、これらの苦しみを、自分の心の中に入れないこと、これが自己を愛することです。

 そして、人様に対しても腹を立てさせたり、愚痴を言わせる様な事をしたり、不安・恐怖を与えたりしてはならないのです。他を愛すれば愛する程、今度は他から自分が愛されます

「汝の隣人を愛せよ」の隣人とは自分の身近な隣人です。自分の隣にいてくれる身近な人達を愛した時、つまりその人達に一生懸命尽くした時、その身近な方から自分が愛されるのです。   

 他という対象を通して自己を愛する事になるのです。他という対象を通して自己を愛することになるのです。他の方、隣人を大事にする事によって自分が大事にされ、愛し、尽くす事によって、自分が愛され、尽くされます。
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愚か者の独り言(2) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
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奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
東京・沖縄の旅にことを寄せて 幸せになる為には
 
 東京・沖縄では、それぞれに偉い先生が難しい話をして下さいました。
私は難しいことは何一つお話できませんが、皆さんが聞いて下さってわかり易いと言われます。難しくて理解できない事を教えて頂いても中々学びにくいものです。

 この間沖縄でも懺悔させて頂いた後でお話させて頂いておりますと、皆さんはお腹を抱えてひっくり返って笑っておられましたね。
『大笑いしながらも、ちゃんとその中に全てこの真理は含まれております』
と言って褒めて頂いたのです。

 ※或る先生は悟るというのか、自分の過去世を紐解いて、
神様から「あなたは法を説きなさい」と言われて、ボリビアから日本へ帰ってきてきたとの事です。 (※おそらく知花敏彦師の事でしょう

まだ日本語もおぼつかない時に、「この日本で法を説きなさい」という神のご指示があり、「私にはとてもそんな事は出来ません。分かりません」と言って、何回もお断りになったのですけど、「天上界から協力しますから、あなたが法を説きなさい」という、神のご宣託があったそうです。

 みな天上界から学ばれるそうですね。素晴らしい事です。しかし私はそんな事は一切できません。この間も沖縄で「先生の過去世の意識をもって話して下さい」と言って頂いたのですが、。そんな意識は出てきません。

 出てこなくても、本当の神様の御心を述べ伝えますと、皆様が号泣されていました。なぜそういう短い言葉の中に感動を受けられるのかというと、ほんとうの神の御心だからです。

 私が帰りました後、昼からのスケジュールは、別の先生の講演の登板になっていたそうです。昼食を食べて頂いている時に、その先生の奥さんが呼びに来られたのですね。

「実は主人がお腹が痛くて動けなくなっているのです。昼からの講演が出来ないので困っています」という事で、
「なぜ早く言ってくれなかったのですか。そんなのはすぐに治ります」と言って、その先生の所へ生きますと、ベッドに休んでおられました。

「お腹痛(いた)は治りなさい」と言いましたら、パッと治りました。すぐに治ったのです。「偉大な御業ですね」とびっくりしておられました。

 昨日来の癒しは百五十人以上、仮に一人当たり三分要したとしても百人で三百分、三百分なら五時間はゆうにかかります。中には身動き出来ない方も沢山お見えになっていました。

 お気の毒に三歳の男子の子で脳性小児麻痺を患って両足とも曲がって伸びず、手も曲がって生きながらのミイラの様な子でして、一生懸命に祈りました。
すると足が伸びまして、翌日になりますと、もう可愛い綺麗なお顔に変わっていました。手も普通に動く様になって、お母さんの喜びは大変なものでした。

 東京でお会いした世にも不思議な超能力の先生が沖縄にもおいでになっていたのですが、皆で手分けして一生懸命汗を流して治療しておられました。

 その方達が一人にかかっておられる間に、私は、5、6人終わっているのです。私の場合はただ「治りなさい」と言えば、皆治っていって下さるのです。
「どうですか」と聞くと、「いや、もう治りました」と、ご本人がそう言ってくれるのですから、これは間違いないですね。

「あの先生に診てもらったのですけど、またここが痛いのです」と言って、その先生に一生懸命治療してもらったのに、又私の方へ来る方もあるのですね。

 その方もうまく治って下さって良かったのですけど、最後には治療を申し込んだ人は全部私の所へ来てしまいました。そういう喜びというのは得難い事です。

 人様に治って頂く、苦しみから開放される時の喜びは何ものにも代える事の出来ない喜です。人様に喜んで頂く事です。

 助けてもらう、救ってもらうよりも、助ける側、救わせてもらう側に常に自分を立たせてもらう事です。愛の無償のご奉仕をさせてもらった時、不思議な奇跡を見せて頂く事が出来ます

 神様から沢山のものを与えて頂きながら、それをよう貰わないのが私達です。なぜ貰えないかというと、自分の心を曇らせて神の光を遮っているから、神様が下さるものをもらう事ができないのです。
 神は無限の供給をなさいます

 毎月のお話会で500円ずつ頂戴するのを、私が着服してけしからんと怒っている方があるそうですが、これは事実無根のことで、現実に私の所には一円玉一個も入っておりません。

 これは会計さんがちゃんと監督して下さり、年末の助け合い運動や、又役に立つ所に回させて頂いております。500円を私の所に入れても何の足しにもなりませし、またそんなさもしい心は持っておりません。ちゃんと神様が与えて下さいます。出しておけば、神様が入れて下さいます。

 出すのを異様に惜しがる人がありますね。あれは出せば、一旦自分の前から消えますから損したと思うのが並の人間、普通の凡夫の思いです。

 確かに現実には消えるのです。ところが、真理は出せば入る様になっています。どんどん出させてもらうと又、どんどん入る様になっているこの真理を知らないから、人はケチケチします。

「出すのは嫌、舌を出すのも勿体無い。貰うのだったら、人の葬式でも貰ってこようか」という人があります。現実にあるのですよ。

 大阪のK市で20歳過ぎのちょっと精神薄弱の方がおられました。この両親が亡くなって、親がこの本員に大きい保険を掛けていたのですが、立派な親戚がありながらこの子の世話をするという人が一人もいないのです。

 仕方がないので、大阪の平野にある施設に入れたそうです。
ところが、この子が交通事故でポコッと死んでしまうと、親戚中が「うちに呉れ」「うちに呉れ」と言って、その死体の奪い合いをしたというのです。

 親戚中が「うちで葬式を出させてくれ」と言うので、町会長さんが「何と不思議な事があるものだ、なぜこんな事を言うのだろうか」と思ったら、その子に大きい保険が掛かっていたのですね。
 
 葬式を一つ済ませたら、何千万円の保険金が入るのですから、死体でも欲しいのです。こんなさもしい方も現実にはあり、しかも親戚一同が揃ってそうだったのです。街中で一時は評判になっていたそうです。

 人の心は様々です。同じお父さんお母さんからこの肉体を頂いても、その兄弟中で一人は心豊かであり、同じ兄弟でありながら心貧しい方があります。出すのは嫌い、貰うのは好きで厚かましい事この上ないという人ですね。

 かと思うと、同じ兄弟でも遠慮深く謙虚でどんどん人のために尽くす方もあるのは、親は子に肉体を与えても、魂は与える事はできないという事の証拠です。

 親は子に肉体は与えても、魂は与える事ができないという事の証拠です。親は肉体を与えてオギャーと生み出す事はできますが、魂まで生み出す事はできないのですね。いくら幼い子でも一人の人格者として、神様から

あなたにこの子を委ねます。この子の修業に協力してやって下さい」と頼まれて授かったのが、私達の子供です。幼き子供は心に何の曇もありません。その証(あかし)として幼い子ほどどの子を見せてもらいましても皆可愛い顔をされています。

 段々と成長する過程で心にスモッグを出していきます。そのスモッグがきれいな心の周りを全部覆ってしまいます。
 自己保身・自我我欲などの思いによって、魂の表面がだんだん曇り、私達の心の曇った分だけ顔の相が曇ってきます。

 だから、肉体は魂の表現体、この顔は魂の看板です。心が知りたければ、その人の目の中を覗いてみなさい。その人の内部がみな分かります。
 そんな阿呆なとお思いでしょうけど、こうして見たらみな見えます。

 いくら奥の方におられても同じ事です。意識を向けたらパッと分かります。これは何故かといいますと、心は全部底で繋がっていますから、そのほうに意識を向けましたら、全部分かるようになっているのです。

 意識には、潜在意識、表面意識、超潜在意識とあります。海の上に島が沢山ありますが、それらの島は海底で全部繋がっているように、私達の表面意識は、各島々が海面に出て全く別であるのと同じで、各個性を持っていますが、超潜在意識は底でずっと皆繋がっていますね。

 超潜在意識からいえば、皆の心が繋がっている事が分かります。ですから、皆の心の奥底が見えます。
 そして皆が繋がっていますから、皆が愛おしくなります

 皆、兄弟、親子という感じが湧いてきまして、すべてのものが愛おしく、犬ころにしても小島や猫にしても、愛おしく感じます。
 神の子として全部兄弟だからです。動物も植物も鉱物もみな神の御姿であり、私達自身も神の御姿です

 神を遠くに求めても、姿を見る事はできないものです。どこにおられるか分からない神様を教会に行って賛美しなさいとか、或いは見えない神に懺悔しなさいとか言いますけれど、この一人一人見える皆様こそ神の御子です

 また自然界のすべては神の御姿です。神を賛美するのだったら、人々を賛美して良き所を褒め称えることです。しかも自分の隣人の良きところを褒め称えることです。

「あの人はこんな素晴らしい所を持っておられます」
と言って、褒めて下さい。ところが、私達は人の素晴らしい麺を見落として汚い面を見ようとします。見落とすのではなく、人の素晴らしい所を貶(けな)しにかかる人が多いのです。

 立派な行いをされる方がありますと、「いや、あんなのはだめだ」と言って、その方の素晴らしい所を消しにかかるのですね。まさに凡夫の浅はかさです。それは神様の徳をその人が消しているのです。

 神社仏閣にお参りして、「神よ、神よ、どうぞ福を与えて下さい」と言って祈っても、神様が福を下さるはずがありません。自分は神を冒涜しているのですから。家の中で喧嘩し合いましたら、これも又神への冒涜です。

 或いは人と喧嘩し、人と争い事をしても神を冒涜しています。又、人の陰口を言ったり悪く言ったりするのも、それは人様の事を思うから言えるのです。神様だと思いましたら、私達は恐ろしくてとても言えません。

 その証拠に悪口、陰口を言ってご覧なさい、即、自分に返ってきます。中には、こんなことを言えば喧嘩になるだろうなあと楽しんで、告げ口をする人があります。

自分が言いながら、相手の方がうっかり相槌を打つと、「あの人はこの間この様に言っていましたよ」と、言いふらす人もありますからね。

 争いを起させる心は悪魔の心です。そして神への冒涜であり、神への挑戦をしているのですから、そんな人は幸せになれるはずがありません。

 簡単なことです。(幸せになる為には)人様を褒めたらいいのです
その人の良い所を見つけて褒めればいいのです。良いところ以外は一切見ない様にすれば今度は自分が褒められます。

 幸せを求めていない人は、この世に一人もありません。「いや、私は不幸でいいのです」という人は大分おへそが曲がっております。

 もう十年前のことですが、四国へお話に行きますと、へそ曲がりの人が、「こりゃ一体何の話や」とおっしゃるのです。しかも見ると、サントリーのボトルを持ってきまして、酒を飲みながら私に質問しますので、

「この場所は酒を飲んで集まる場所ではありません。あなたはどうぞ酒を飲んでいない時に来て下さい」と言ったのですが、聞かないのです。

「ここ、何する場所や」と言うので、「幸せになる場所です。人は全て幸せを求めております」と答えると、「いや、わしゃ幸せなんて要らんのや」と言っています。
「では、あなたのおヘソはだいぶ曲がっています」と言いました。

 その人はウィスキーを飲みながら法の話を肴(さかな)にしているわけです。誰も追い出しなさいとも、外に出なさいとも言わないのに、私が話していますと、その人の周りにおられた方が5,6人寄ってこられて、その人の手や足を掴んでサーッと表に放り出されました。

 誰か知らないけど寄って皆で抱えて放ってきたのです(笑い)。お釈迦様がお説法なさった時は、聴衆の中で咳払い一つしても周りの者が制したという程真剣なものであったのです。

 かつて、15、6年前ですが、本当の教えを説く所はないものかと宗教遍歴をしていた事があります。その時、S教に「入会はようしませんが、その修業に参加させて頂けますか」と伺うと、
「どうぞ来て下さい」という事で、何ヶ月か通った事があります。

 そこへ通っていた時に、K大学の体育館でT先生の講演会があり、券を買って出かけたのです。大きな会場ですし、集まった人も多いのですが、お話の間中、皆がワイワイワイと大声で喋っているものですから、全然公演を聴くことが出来ないのです。いや、これは法ではないと思いました。

 法話の時は咳払い一つしてもならないとお釈迦様の仏典の中に載っております。ところが、前の公演で大きなマイクを通して話しておられるのですけれど、話の内容は全然聞くことが出来ませんでした。

 だから講演も、それは知識として話されるから人の心の中に入ることなく、皆がワイワイ話したり、居眠りしたりする事になるのです。ただ、人の集まりだけの事になってしまうわけですね

 体験ほど強いものはありません。体験を通して自分が実際に掴んだものは間違い無しに人の心に入っていきます。

 あちらこちらの講演会に行きますと、居眠りをしている人や、皆がワイワイお喋りしている場合があります。
 立派な先生でいい話をしておられるのですけど、頭で学んで知識として得たものを口で語られるから居眠りが出るのです。

 一生懸命皆が聞いておられる場合のお話は、講師の先生が自分の体験を語っておられます。「私はこの様な事をして、この様な事がありました」というお話は、全部の者が耳をそばだてて聞くものです。

 聴衆の態度ですぐ分かります「あ、この方は知識を話しておられる」
「この方は智恵を説いておられる」と、実体験、実践によってお話に差が出てきます。

神理の光の前にボロを出した霊との対話

 これは或る先生が講演の中で話しておられた事です。氏神様などの神様の事ですが、「自分の家もよう建てない者、自分の腹を自分でよう満たさない者、自分の生活の保障が自分でできない者が、どうして人の為に家を建て、人の腹を満たす事が出来ますか。そのような者は偽物です」と。

 しかし神社仏閣の中には本当の諸天善神が下(お)りてこられる場所もあるのです。すべてを悪と決めたら間違いですね。

 しかし人の身体に移ってくる神は、もう全て100%偽物と思って間違いありません。拝み屋さんに拝んでもらって神が入って喋っているのはあれは偽ものです。(※正確にはオーバーシャドウ真の神憑り)以外は…です♪

 もしこの中にそういう方がありましたら、私が皆さんの前で暴いてみせましょう。正しい法の前には騙し切る事は出来ないのです。最初は騙しますが、神理の光の前にはやがてボロが出てくるのですね。

 ある時、60歳ぐらいの女の方に三輪大神が憑(かか)ってこられました。
「三輪、三輪の山じゃ」と言って入ってこられました。

「へえー三輪さんでございますか。あんな大きな三輪の山は人の身体にははいりません」と言うと、「そうかのう」と返事されます。

「なぜこの方に憑いておられますか」と尋ねますと、
「この者を助けるためじゃ」

「ではこの方が足が痛くて難儀しておられますのに、あなたはなぜこの方を助けられないのですか」と言うと、突然、
「20kg痩せろ、20kg痩せろ、痩せたら足が治る」と言われます。

「神様が痩せさせてあげたらいかがですか」と聞きますと、「勝手にせい」と言われました。無茶苦茶な話です。

 また「伏見の山じゃ」と言って、入ってきたのがあるのですよ。
「どうして山が人間の体に入るのですか」と聞くと、「それもそうじゃ」と言います。

 そのうちに「何が何だか分からない様になった」と言い出しました。
そんな分からなくなるような神様はありません。

「南無観世音菩薩!」と言って、素晴らしい声を出して入ってくるのもあります。
「へえー観世音菩薩でございますか」と言うと、「さよう!」と、高い声で言います。いかにも有難そうに言うので、あれで騙されます。

「お名前は何とおっしゃる菩薩様でございますか」と聞くと、ここでもう答えられないのです。

「南無」と上に付けたらそれは偽もの、南無とは帰依する事ですから、観音さんが観音さんに帰依してどうしますか。
 そんな事が分からない人が、「南無観世音菩薩」と言って入ってくるのです。すると皆「へえーっ」と有難がってご宣託を聞くわけです。

 私が見ますと、そんなものは観音様どころか、成仏出来ていない迷える霊が付いているのです。私は先に見通してますから、向こうの方が騙されるのです。

「なぜ憑いておられるのですか」と尋ねると、「この者を救うためじゃ」と言います。
「へえーこの身を救う為でございますか」と念を押すと、「さよう!」

「ではなぜこの身を救う為なのに、この身があそこが痛い、ここが痛いというのは、これいかた」と言いますと、「この者の修行が足らん為、力が出ないのじゃ」と、人のせいにしています。

「嘘おっしゃい。あなたは観世音菩薩などといい加減な事を言って人を騙しているのです。しかし一般の人の前では通りますが、私の前でその様な事を言っては通りません。
 私は先程からちゃんとあなたを見通しております。正直に言いなさい」
と言うと、「エッエッエッ」と怒りだしました。

「観世音菩薩がそのような愚かな真似をされますか」と決めつけると、
「お許し下さい」と謝ります。

「あなたも本当は助けて欲しいが為にこの人に縋(すが)ってきているのです。正直に言いなさい」というと、

「私は祀ってくれる者がいない。子孫が死に絶えて放ったらかしにされて、なんとかお経の一つでも欲しい。
 この人は信心深くて無縁仏さんによく参ってくれるから、この人に憑いたらよく拝んでくれるだろうと思って憑きました」と白状しました。

「観世音菩薩などと言うて、何も見えない人間をたぶらかしてはいけません。そのような事は許しません」と言うと、
「お許し下さい、お許し下さい」と、謝ります。

 そこで、「あなたも助けてほしいのでしょう」と言うと、
「助けて下さい」と助けを求めてきました。

 これは、自分が供養を受けたい、自分をお祀りしてほしいという強い思いを持っておりまして、自分を祀ってくえる人がおりますと、その人に神や仏を騙(かた)って肉体を支配するのです。ところが、普通私達はその事が分かりません。

 また、霊的現象で心の綺麗な方には天上界からの光の天使が入ってくれます。そして習った事もない外国の言葉でお話をなさいます。気を付けないと恐いのは、人は常に心の安定を保つ事は難しいです。

 都合の悪い時には心が揺れ動きます。もっと都合が悪ければ腹が立ってきますし、恨んだり謗ったりします。色々とその時の人生の過程で出会いが始まり、その出会いによって出来事が起きます。

 出来事の都合がいい時は心が安定していますが、都合の悪い時は心が波立ちます。こん波立った時が恐いのです。

 例えば素晴らしい霊能力者の先生が亡くなられて間もない頃の事です。先生の長女のA様に光の天使長が入ってこられて講演された時、何千人というその場に集まっていた人達は、ワンワンと大声を出して感激して泣きました。

 まさに神の言葉が出来たのです。しかし、先生が亡くなられた後十ヶ月ぐらい経ってから、ボチボチと何やらおっしゃる事が正法から外(はず)れてきました。

 二十歳そこそこの若いお嬢ちゃんに光の天使長という天使が入られて、もう周りも「天使様、天使様」と言って持ち上げ、ご本人もご自分の名前を使わずに、天使の名を名乗っておられました。

 今もその当時の月刊誌が残っておりますが、そのうちに増長慢になれば恐ろしいことです。同じように「私は天使○○でございます」と言って入ってきても、それは悪魔とちゃんとすり替わっている事があるのです。

 しかし、これを見破る事が出来ないのですね。本人も分からないし、周りも分からないのです。サタンというのは絶対にバレないように近付いてきます。そして人の心を誘惑します。

 ばれる様な事をしたら「ああ、サタンだ」と、すぐ分かります。しかも本人も周囲も気付かない間にサッと入れ替わるのですから、そこが霊的現象の最も恐ろしい所です。

 霊的に神の啓示を受ける場合、突然その人の心の状態によって、神と悪魔が入れ替わる場合が起きるのですね。

 受信機のチャンネルを怒りの世界に向けたら、怒りの世界から入りますし、増長慢になれば増長慢の世界から入ります。

 喜び・安らぎ・愛の方へ向けたら、光の天使が入ってくるのです。安らぎ、喜び、愛の心の侍読という事は、我々にとって難しい事です。しかし無償の愛の実践を通してのみ、安らぎと喜びが持続できます。

 過去世を開いたからといって、調和されている方は殆どありません。腹の立つ時は腹を立てておられますから、その時に悪魔がちゃんと入っています。

 このB先生の本の中にもその事が書いてあります。「過去世を開いた為に自分が偉いという増長慢となり、その為に遠くへ去っていってしまった」と。

 私にもそういう体験があります。心の窓を私の縁によって開きながら、私を非難、誹謗した人がありました。
 私はその人を開かせておきながら、私が自分自身開いていない事にしていますから、開いた人は自分の方が偉いと思ってしまって、それでこういう事が起きます。増長慢はまさに魔の餌食となってしまいます。

 今日ここに来て頂いてますMちゃんとお姉ちゃんと僕の三人はおばあちゃんが高石におられるのですけど、お孫さんたちは千葉に住んでおられます。

 去年高石でお話をさせてもらいました時も、この子らが来ていたのです。お話の後、金がいっぱい出てきましてね。こうしてこの子達が手を振りますと、キラキラになるのです。

「もう一回振って」「もう一回振って」と、大の大人が周りに寄って言っていました。この子供さんが手を開くと、金がパアッと出まして、家に帰られてからもずっと出ていたそうです。

 この子供さんも神様のご用をしてもらうように、また人様を救うてもらうように、大きくなったら頑張ってください(笑い)。

 こういうお子さんは心に曇りが少ないのです。ですから、素直に私の様な者にも「のの様、のの様」と慕って頂きますと、その様な奇跡を現します。信じる者は救われます。そして神ご加護を頂けます。

 沖縄に行かせてもらった時、あわよくばUFOの写真を撮ってきますと約束しましたが、あまりに忙しくてUFOにお会いする事が出来ませんでした。

 私はタバコを一服、水一滴頂く暇がありませんでした。東京でも汗を拭き拭きでしたが、沖縄はもっときつかったです。

 部屋に帰りますと、近くの部屋の方が来てくれまして、休ませてもらったのは二時半から三時頃、朝は早く起きなくてはいけないし、ちょっとしか寝ていない上に前日多くの方々の治療をしましたので、朝起きると瞼がこんなにたるんでいました(笑い)。

 鏡を見てびっくりしまして、「しっかりしなさい」と言いましたら、スーッと消えてくれました。
「こんなことでは人の前には出られません。調和して下さい」と言いますと、普通の顔になってくれました。

 しかし嬉しいことがあったのです。帰りに水族館で海底の魚の見える所に連れて行ってもらいました。自然というのは有り難いもので、行く先々で学ばせてもらう事が出来ますね。
 
 海はあんなに広いと思いますけど、サンゴ礁の肴は、そこで生まれて底で死ぬそうです。よそへ行かず一生をそこで終わるそうです。

 こんな大きい鯛がいます。餌のふを投げると、魚が取り合いをして食いついてきます。餌や細長い魚や透き通った肴などが良く見えました。

 こんな所で漁師がその魚を全部取ってしまったら後、魚が育たないそうです。「もう時間がありません」と言われて、パーッと走って運動会のような旅でした。

 しかし、人様の喜びを頂いて数え切れない程の沢山の方が喜び、そして感激して下さいましたが、特に沖縄では自分が分からない程抱きついてワンワンと泣いておられて、それは大分長い間でした。

 何人も何人も抱きついてワンワン泣いておられて、それは大分長い間でした。何人も何人も抱きついて泣いておられました。魂の触れ合いに恥も外聞もありません。男同士が抱き合って泣いたり喜んだりしましたね。
 一般の社会で男同士が抱き合って泣いていたら、気が狂っていると思われるでしょうけれど。

 かつて、今から十年程前、私は山の中で反省させてもらったのですけど、その時背の高い髭の濃い方が心を開かれました。その時私も心を開かせていもらったのですけど、帰りの別れの際にその大きい方が私を抱いてくれます。

 私もくらいついてその髭の濃い方とハハハハ、頬ずりして喜びあった事があります。後になって考えると、少しおかしかったのと違うかな、そんな変な趣味はないはずなのになあと思った事がありましたね。

 それは魂の触れ合いです。肉を超えた魂の触れ合いの感動が起きるのです。女の方も、男の方も関係ありません。どうにもならない感動ですね。
 こんな事は内緒にしておかなくてはいけませんが(笑)。
 しかしそういう感動に包まれるのです。
                     長尾弘先生の記事♪ 

長尾弘先生 で検索⇐長尾弘先生動画が見放題です♬

極上スピリチュアル・ラブロマンス♪アニメや漫画好き必見♪楽しく霊的世界が学べちゃう素敵な感動愛物語をご紹介♪



 過去記事ですが、見やすいように再編集させて頂きました♪
漫画やアニメ好きの方には大変読みやすく感じて頂ける、超究☆限界突破☆感涙スピリチュアル・ラブ・ロマンスでございます



 昨日再度観覧したのですが、何度も感涙の涙が止まらなくて、愛の尊さって偉大だなぁ…と恍惚の歓喜の思いに高まって、感動の涙でむせび泣きながら・じいんと感動がこみ上げる幸せな一時を過ごしておりました




こみ上げる感動の涙なくしては見れない…♪心清き麗しい天使と恋をした 極上の愛によって、愛の力で憎しみを超えて天国の階段を上り詰めていくイタリア貴族の男性が送る極上のスピリチュアル・ラブロマンス♪全九話♪もちろん、最高にハッピーエンド♪読み心地満点な実際に存在した実話です♪


下のリンク記事をクリックして頂けますと記事を見て頂けます


世界一素敵な霊的ラブロマンス♪フランチェッツォの清い愛の物語

世界一素敵な霊的ラブロマンス♪希望の同胞団に入団♪



最近見つけた良質スピリチュアル宇宙情報をご紹介♪

長尾弘先生の無我の境地♪反省会場に起きた数々の奇跡♪反省の功徳・恩返し・病の治癒♪奇跡の人♪高橋信次師♪

愚か者の独り言(1) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
           
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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奇跡の人 天に愛された神の使徒 長尾弘先生
反省の体験
 
 私は十年前、山の中で四日間程坐って反省させてもらいました。
「お母さんと自分」について反省させてもらいました。ずっと幼い時から振り返ってみますと、お母さんには色んな恩恵を頂いております。

 しかしそれに対して私がそれだけのお返しをしてきたか、頂いたお母さんの無償の愛に対して、その万分の一もお返しも出来ていません。

 それどころか、心配をかけたり、嘘を言ったり、怪我をしてお世話をかけたり、病気の時にはずっと我が子に付き添ってくれた、

そういうお母さんに対して自分が幼い時からしてきた事を振り返ってみますと、もう、申し訳なくて、羽があれば今すぐ飛んで帰ってでもすぐにお詫びをしたい、という心に目覚めてきたのです。

 親から頂いた御恩というのはどれほどお返ししてもお返ししきれないものですね。しかしそれを当たり前の様に思っていました。
 感謝する事も知りません。

 そのお母さんに対してせめて万分の一のお返しでもさせて頂かなくてはという心に目覚めてきたのです。これが反省の功徳ですね。

 そして山から降りてたまらなくなりまして、お母さんに電話をかけました。私もその時はこどもが大きくなっておりましたから、おばあちゃんと呼んでいましたが、幼い時の記憶に戻って反省させてもらいますと、自分の心がふっと幼い子の様になっていました。

 電話をしますと、幸いおばあちゃんが出てきてくれたのですが、幼い頃私達は「おかちゃん」と呼んでいましたので、それでおばあちゃんの声が電話で聞こえてきますと、
「おかちゃん堪忍してや、堪忍してや、とても申し訳ないことでした」と、泣いてお詫びをしたのです。

 自分では、そういう反省をさせてもらうまでは全く気付かないでいたのです。反省を通してお母さんだけではないですね。夫婦の場合もそうです。

 子供に対してもそうです。その至らない、できていない自分に目覚めるのです。そして今度はその償いの為に善を行っていけば、それは必ず幸せにつながっていきます。

「家内と私」についても反省させてもらって、目覚めました時は、もう二時間ぐらい泣き続けました。ちょうど3月頃で、パッチ二枚とジャージのズボンを穿いておりましたが、目が開きますと、目に最初に入った2本のものがあり、

これは何だろうかと思いますと、鼻水が切れないで繋がって垂れていたのです。涙と、その鼻水とズボンもパッチ二枚も濡れて、座布団までボトボトになっておりました。

 反省というのは、深く入りますと、自分の過ちの深さに目覚めた時に、涙と鼻水でグチャグチャになってしまうものです。そのような反省の涙は、自分の魂の汚れを流してくれる法の雨です。常に反省させてもらうのです。

反省の一例

 道場の方に「反省させて下さい」といって次々に訪ねて来られます。最初はどなたも皆「私は何も間違いをしていませんが、なぜこんな苦しい目にあるのでしょうか」と言われます。

「幼い時から一度振り返ってみて下さい」と言って、反省をしてもらいます。1日や2日では中々出てきません。

ずっと続けて反省されますと、あるお方の場合は小学校低学年の頃に、お母さんの財布から十円盗んで、それでお菓子を買った事を思い出されたのですね。こんな事は反省しなかったなら、全くの記憶の底に沈んでいるのです。

 そうしますと、お母さんはわが子の事はどんな事でも知って下さいます。子どもは隠してした事であってもお見通しです。お母さんが、我が子の十円盗んだ行為について思う事は、

「今ここで注意をすべきか、或いはお父さんに話すべきか、このまま放っておいたら又繰り返すのではないだろうか、家でお金をきちんと片付けたら、今度はよそのお金に手を付けはしないだろうか」ということです。

 ましてや終戦後まもない頃で、お母さんは買い出しをしておられたそうですが、その買い出しの大事な十円だという事にこの方は気付かれたのですね。

 反省しておられる部屋に私が入ろうとしましたら、その方は大きな声をあげて泣き叫んでおられたのです。その泣き方は幼い子の泣き叫び方をしておられました。それでもう少し泣いてもらおうと思ってそのままにして、

私は部屋の外に出まして、その後、もうこれくらいで自分の過ちに気付かれたのだからと思って、「どうかこの方の罪をお許し下さい。この方は自分の心に目覚められました。この方の過去をお許し下さい」と祈りますと、泣き声はピタッと止まりました。

 私が部屋の中に入って行きますと、「お母ちゃん堪忍してや、堪忍してや」と全く幼い子の様に繰り返していました。自然にこういう文句が出てしまうのです。

 この方は15.6年来、腰から下が筋無力症で全く動けなくて、松葉杖で歩いていても足を交互に降り出す様にして歩いておられました。その足が動き出して、全く健常者とはいきませんが歩ける様になったのですね。

 反省をさせて頂くことによって、現代医学ではどうする事もできなかった下半身不随の無筋力症の病気が治ってしまったのです。

 自分の中にそんな心の原因が遭ったとは、まさかその方も思いもかけなかったでしょう。しかし「反省」によってこんな不思議な例も見せて頂けます。

 私も幼い頃を反省して泣き泣き懺悔させてもらいましたが、本当に反省をさせてもらいますと、涙が滝のようになって出てきます。そして鼻水も出てきますけど、鼻水も涙を拭う間もありませんね。

 私達の心の中に知らずに曇ってしまったスモッグを、反省する事によって晴らすことが出来るのです。反省は、お釈迦様が私達の心の苦しみから救うためにお説き下さった心を磨く一つの方法ですね。

心が主で肉体は従

 ある方から相談を受けました。
「私は元来、餅肌の様に白く綺麗な肌をしていましたが、こんな蟇蛙(ヒキガエル)の様にブツブツいぼのある体になっています。

 O大学の皮膚科の偉い先生に診てもらいましたら、これは目に見えない霊に取り憑かれているのだから、医者では治らないと言われました」
と言うのです。

 私もその背中を見せてもらいましたが、何とも言えない不気味な感じです。そこで色々と心の持ち方について話しさせてもらいました。

 その方は「心を入れ変えます」と言われるので、
「では神さまにお願いしてみましょう」と祈らせてもらいました所、
 見ている前ですっかり綺麗になったのです。

 こんな事を言いましても、「瞬間に消えたなんて、そんな馬鹿な」と言って信じてもらえないでしょうが、私もわざわざ嘘をつきにここに来ているわけではありません。

 また、こういう事もありました。24.5歳の耳の聞こえない女性の方が来られました。生まれつきの難聴なのですが、電話などとてもかけられなかったその方が、やはり心の持ち方を変えて治療をさせてもらいますと、その場で電話で話が出来るようになったという不思議な現象も現実に現してもらいます。

 それは心の在り方を変えた時に、奇跡が現れるのです。今まで痛い痛いと言っていたのが消えるのは、心というものがいかに大切かという事を示しています。

 心の持ち方や、自分の思うことぐらいでまさかと思われるでしょうが、私達の肉体を支配している心が変な方向に向かっていたら、肉体も又変な方向に向かうのです。心が主で肉体が従です。

 皆さんにこの会場に来て頂いたのも、大阪からこういう人が来ると聞いて、心が納得押してその日を待って下さったからこそ、おいで頂けたわけです。

 心で決めて集まって下さったからこそ、今こうしてご縁が頂けたのですが、もし「私はそんな話は聞きくない」と心で決定を下したとしたら、この場には来られません。

「思い」の力と「言霊」の力

 想念、思いはものを造り出すのです。まさに、「思いはものを造る」といって、人間の思いはものを造る力を持っています。

 悪い事を思ったら必ず悪いことが起こってきますし、良い事を思えば良い事が起きる。思いはエネルギーです。常に建設的な安らかな思いに心を満たしていく事が大事ですね。
 心配はしだしたら切りがないものです。できるだけ正しく、できるだけ過ちのない思いを常に描くようにする事です。

 私の幼い頃の友達で、恵まれた人だったから神も仏もないという考え方の人がいました。ところが、肝硬変になって寝たり起きたりの生活をしておられました。

 この人がお医者さんから肝臓が悪いと言われて、お医者さんに病状を色々と尋ねるけれど、余りはっきり教えてもらえない。
 そこで心配して医学書を読み漁り、更にお医者さんの勉強する本を借りてきて、肝硬変について勉強を始めたのです。

 初期、中期を経て末期症状になると、手に持った箸がポトッと落ちると書いてある。恐ろしいなあと思っている内に、食事の時に、箸がポトッと落ちた。それを「ああ私は末期だ、いよいよあかん」と思って、

お医者さんに箸が落ちたと話した所、「そんなことはない、あなたはそんなに悪くないですよ」と言われて、その途端に病気が治ったというのです。

 そんなもので、余計な心配で悪いように思っていくと、実際に悪くなっていくもので、非常に恐ろしい事です。

 しかも、もっと恐ろしいのは人の言葉です。言葉は「言霊」といって物凄い力を持っています。ましてや信じた人の言葉は余計に強いものです。

 私を信頼してくれていた或る方が、私よりも偉い方があると聞いて、その先生の所へ掛かって行かれました。私は全く自然のままに生きさせてもらっていますから、私の方に来て頂きましたら、どなたが来て下さっても平等にお迎えします。しかし去って行く人は後を追って行きません。

 やがてその人のお母さんが半年も経たない内にリューマチが進んで悪くなって、再度私の所に来られて、実は母のリューマチについてその偉い先生のご指導を受けたという事でした。

 その偉い先生は「私が天上界へ行って聞いて来てあげましょう」と言って、この話から今は数年前の10月の出来事ですが、
「来年の2月25日になったら最後だから精一杯尽くしなさい。これは私が神のご託として聞いて来たから間違いない」と言われたというのです。

 これは大変な事、10月から2月までならと四ヶ月の命かと思って、家に帰って来てお母さんを含めて皆が信じたわけですね。

 信じたものだから1月の末頃になると、完全に顔が死相を表してきて、もう死の寸前になっていたのです。そして死ぬ前にもう一度渡しに会いたいので顔を見せて欲しいという事で本人が来られたのです。

 その後重ねて頼みに来られたので、私が行きました所、
「2月25日に死ぬという事なので、その前に先生に一度お会いしたかったのです」と言われますから、

「そんな馬鹿な事は信じなさんな。神さまがそんな無慈悲な事をどうしておっしゃいますか。信じたらあなたは本当に死にますよ。

人の命がいつまでなどと神さまはそんなことは絶対におっしゃいません。神は黙々としてその日までちゃんと私達を見守って下さいます。本当の神様の御心は慈悲にあふれています」

 そこで「私が神様にお願いしましょう」と言って、その人に光を与えて頂きましたら、今まで明らかに死相が出ていたものが、瞬間にハッと生き返って来られました。
 
 それから二年半経ちますけれど、段々元気になって来ておられます。言葉によっては人は自分の命さえ落とす場合があります。

 次の話は私の先生である高橋信次先生がよくおっしゃっていたものです。人間は思う事ぐらい自由にさせて欲しいという事になるのですが、その点についての一例です。

 電車の中で一人の紳士が自分の前に座っている美しい女性に目をやっている。その紳士の心の内をこちらから見ていると、初めはああ美しい人がいるなあと思っているが、その心が段々エスカレートして、この女の人を裸にしたらどんなだろうと思うようになり、裸にするだけならまだいいのですけど、

自分の思いの中でみだらな事を思っている。自由に思っている紳士の心の内が丸見えなのですが、いくら形、姿、恰好が良くても、その思いが出来ていなかったら、何にもならないという事です。卑しい思いを退ける事ですね。

 今日は私は良い服を着させてもらっていますが、いつもはボロを纏(まと)っています。私が日頃あまり身を構わない面白い風をしているので、
「先生、これを着てください」と言って、頂いたのです。
  

 頂けば着させて頂かないわけにはいかないと思い、今日は来て参りましたけれども、実は窮屈でしようがないのです。いつも本当に着の身着のままの姿で生活させてもらっています。

毎日の反省会

 私は今日のように外に出ました時はおやすみですけれど、家におります時は、夕方6時15分から約一時間、今で五年になるのですが、この1時間は反省と祈りの時間として持っているのです。

 最初は今助手をしてくれている二人の人達に「あなたたちの心の掃除をしましょう」と言って、二人の人を相手に初めたのです。

 毎晩一時間半坐りましょう、これは私の心に問いかけますからあなた達も自分の心に問いかけて下さい、過ちがあれば明日の生活に正して下さい、という事で始めました。


○今日一日、腹を立てる事はなかったか
○愚痴を言う事はなかったか
○両親の恩を感じ、その恩に対して万分の1でもお返しができたか

○人々に心から慈悲を、愛を与えたか
○人の命は明日の保証のある者は一人もいない、その時が来て後悔のないような今日一日を過ごしたか

 このように項目を作りまして、言わせてもらうのです。その後静かに安らぎの時間を持っております。

 だんだんと人が増えてきまして、この頃では多い時で40名近く来られますが、大抵は20人ぐらい毎晩おいでになっております。
 しかし来て頂く方は用事があれば休まれますし、今日はちょっと行って坐ってこようという方は来てくださいますね。

 私は一日も休みがありません。特に辛いのは、心の中に良くない思いを持ったり、過ちを犯した時、自分が言わせてもらうのですから、これは針のむしろの上に坐るっているよりも、もっと辛(つら)いです。

 今日はしたくないなあ、止めたいなと思っても、人が来て下さったら止めるわけにはいきません。私も凡夫ですから、「今日これがなければ楽だろうなあ」と思うこともあります。でも私のような者でも求めて毎晩来て頂くのだから勿体無い事だと思います。

 見方を変えたら、私は大変怠け者で常に過ちを犯しやすい、皆さんよりも沢山過ちを犯して来た、そんな私でもこうして毎晩自分の過去の過ちを悔い改めれば、神はお許し下さるし、また未来の喜びを与えて頂く事ができます。そんな事を繰り返しながら、もう5年が過ぎました。

反省会場に起こった現証

 先日来、とても不思議な事が起こっています。反省の後に禅定、感謝を安らぎの時間を持たせてもらっています。その時、その場にいた皆さんは聞いておられるのですが、何もない空間から声が聞こえてくるのです。

 しかも地球上の言葉とは違う男の方の厳かな声で話されるのです。勿論日本語とは違います。英語ならばこれは英語やなあとか、これは中国語やなあ、インド語やなあぐらいは私も分かります。

 しかし全然耳に馴染みのない言葉がずっと響くのです。そういう事がこの間から3回程ありました。

 そして一昨日(おととい)の晩でしたか、禅定の一番最後に
「神よ、どうぞこの場に集う方に光をお与え下さい、全ての方々に調和と安らぎをお与え下さい」
と言って祈る言葉を唱えました時、テレビでUFOが飛んできた時にああいう音を流しますけど、突然ギィーという音が鳴り響いてきました。

 そして一瞬、不思議な事ですがそういう音が響いてきますと、私の合掌していた手の形が自然に開いたり、ものを受ける形になったりして、それについて音の響きが自然に変わるのです。

 皆さんの頭の中が一瞬しびれる程の大きな音が鳴り響いて、その後、
「ありがとうございました」と言いましたら、音はパッと止まりました。
 こんな不思議な現象もちょいちょい起きております。

現証・理証・文証

 なぜそんな事が起こるのかと言いますと、法に従って生活し、感謝を安らぎの中にいますと、この世の学問とか常識を超えた世界が現実に現れて来るのです。
 これは正しい生活、安らぎの中に現れて来る現証で、その場に坐っておられた皆さん共に体験されておりますね。自分一人だけではないのです。

 おとなしい方は身震いしたと言われ、又或る方は私の胸の中から鳴ってきたと言われ、人によっては、絶えず頭痛のしている方は痛い所に響いて、それ以後頭痛が消えてしまったなど、色々とおっしゃっています。

 この様な現証は別にとらわれる事はないのですけど、正しい教えと言いますのは、それを行じた時、必ず現証が自然とついて回るのだそうです。

 正しい生活の副産物ですね。そしてそれは理論的に証明できます。正しい教えには、現証・理証・文証(もんしょう)がついて回るそうです。

 私は字を書く事は下手で、文証はとても駄目であろうと思っておりますと、このお話会のテープもちゃんと文字に起こして、今日までの分のコピーを送って頂きました。皆さんも非常に喜んでおられます。

 この間も或る方が、このコピーしたものを読まれて「何か知らないけど泣けて泣けて、涙を流して読ませて頂きました」と喜んでおられました。
 そのように文証も、私は十分書けなくても又録をもってこうして文字にして頂けるのですね。

喜びの現証

 小学五年生の男の子ですが、牛乳瓶の底の様な物凄い強い眼鏡をかけているのです。視力は検査表の一番上のあの大きなのが0.1ですが、その字が見えないのです。

 ですから自分の履き物さえ眼鏡がなかったら履けないのですね。勿論階段などあったら大変です。眼鏡がなかったらお尻で這って下りて来なければならない、そういう子が来られまして、「どうか安らぎをお与え下さい」

と祈りますと、瞬間に眼鏡が要らなくなりました。帰り際にお母さんが泣いて喜んでおられましたけれど、その子は元気にその子は遊びに行っておりました。これも一つの現証です。

 全部そんなにうまい事はいきませんよ。その縁によって、そういう奇跡を現してもらう事があります。

 四国の方で、24歳のものが言えない方が突然に耳が聞こえてものを言われるようになりました。これも現証だと思います。ものが言えませんし、耳も聞こえませんから聾唖学校に通っていたのですが、

全く聞こえなかったその方に、私の前に坐ってもらって「どうか光をお与え下さい」と祈りました所、突然聞こえてきたのです。
「聞こえます、聞こえます」と言われたので、皆さんびっくりして頂きましてね。こういう事も絶えず見せて頂きます。

 今私の所に来てくれているSさんのお父さんが下半身筋無力症というのか、全身動かなくて、指一本動かす事が出来なかったのですが、祈りますと、

その晩から足が動くようになり、3日目には松葉杖も持たずに歩いて来られて「先生歩けるようになりました」と言われました。これなども奇跡と思います。

 これらは見えない世界からのものであって、私の力ではありません。私以外の神の力が働いて下さって、信じられない様な奇跡を現して頂けるのです。

無我の境地、神の使徒

 このようにお話させて頂いて、あちこち寄らせて頂くのですが、もう一睡もせず走り回っている時があります。それでも何ら疲れないですね。仏の常識で考えましたら、とてもたまらないだろうなと思われるでしょうが、

しかし疲れも知らないこのエネルギーは自分が自らを、自分の思いを全て捨てて、待って頂いている方に、たとえ一人でも二人でも安らいで頂けたら、喜んで頂けたらというその思いが、私のエネルギーになります。

 仏教でよく「無我の境地」と言います。お坊さんが坐禅をされて無我の境地に到達されたとか、私は悟ったとか言います。
それも一つの無我ですけど、「自らの自我をなくした日々の生活」これが無我で、私には私の自我は何もありません。

 他の方から私の自我について質問受けた時、私は次のように答えます。

私のすべては神のもの、私のすべては人々のもの、私の時間は神のもの、そして私の時間は人々のもの、このように祈らせてもらい、このように実践させてもらっています」と。

 自分という我を無くしてしまったら、その生活の実践は神の御心のままに為したことです。       長尾弘先生の記事♪ 

インドの2500年前の思想・神意論・宿命論・偶然論♪無限地獄話♪高橋信次師♪園頭広周師♪長尾弘先生♪知花敏彦師

現代の釈尊高橋信次師とともに 大宇宙の神理「心行」の解説 上 園頭広周
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
          
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世界最高のお塩はこちら


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知花敏彦師と高橋信次師の教えの整合性について

 前にも少し触れた事がありましたが、知花敏彦師のご講話170話の総合的な知識と高橋信次先生の教えに同調する部分が多々ありまして、私の中で高橋信次師に少し疑惑を持っていた部分が完全に解消されたのでございました。

 その関連の事例について少しご説明申し上げます。
知花先生が東京のホテルでの瞑想中に守護神さんと地獄めぐりをされた時のお話で、無限地獄の興味深いお話があったのでご紹介してみましょう。

 無限地獄にいるのは、教祖、坊主、牧師ばかりだそうです。知花師は、なぜあんな所に宗教指導者たちばかり…と不思議に思ったのだそうです。

 誤った教えで間違った指導をして、多くの魂の兄弟を騙して、せっかくの人生の修行を、棒に振らしてしまって大きな罪を背負ってしまったとの事で、そういう方々が無限地獄に落ちるというお話でありました。

 間違った宗教の指導者の無限地獄での姿を見てびっくりされたそうです。何と!目と耳を持ってない口だけのぺらぼうの様な容姿だったからなのでした。地獄では間違った想念で奇異な妖怪みたいに変化する様ですね。

 誤った教えで魂の兄弟の人生を台無しにしたという深い罪で、元宗教指導者が行くのが無限地獄ですね。宗教の上層部の方々は死後が大変そうです。

生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのである。素直に反省できるようになるまでには時間がかかるのである

 宗教団体の講師達が、如何に、その教団に忠誠を尽くして功労があったとしても、その教団の教義が間違っていれば、この間違った教義を説いた罪を問われることになるのであるから、間違った教義を説いている教団で、最も功労のあった者ほど深い地獄に堕ちるということになるのである。

 だから講師たちは、自分で納得出来るものだけを説くようにして、教団から給料をもらって生活しているからといって、自分で納得出来ない教義は伝えないようにしなければならないのである。

 天上界の天使が救おうとしても、全く聞く意識がなくて教える意識しかなくて、聞く耳を持たないために、素直さがなくて、無限地獄から長い間抜けれないのだそうです。無限地獄の「無限」は伊達じゃないですね(笑)

 知花先生が使われるあの世関連の言葉が高橋信次先生の正法と同じ用語だったりしたのが、あれっ?と思ったり、無限地獄が誤った宗教指導者達が行く所というお話も価値観的に全く同じだったり、共通点が満載なのも信頼する気になった要因でございます。

 「高橋信次巨星の実像」というご著書を拝見したのですが、高橋信次先生は過去世当てについては、結構適当な感じだったそうです。

 ですので少々矛盾点があっても気にしなくても大丈夫かと思います。
人間誰にでも多少の間違いはありますからね。私も聖書についてはそれほど詳しくありませんので.....笑


 もう一つ興味深いお話で、高橋信次師が「エルランティ」の本体であられる事実がありますが、知花敏彦先生のお話の中で、何と!「エルランティ」について語られている所があるのです♪それが下の記述になります。

白色とは七つの色をミックスすると、白光になります。七色の虹の七つのチャクラの生命線が一つになった時には、白光として輝きます。

私達は七つの虹色とか、七色の翼とか、七大天使とかいいます。
それをエルランティといいますが、全部含めてエルランティと、普通は名づけているところもあります。


これで知花敏彦師と高橋信次師の教えが、全く正しい宇宙神理である事がお分かり頂けたと思います。何の矛盾もありませんね。謎が全て解けました♪

 神我と自我の内容や、知花先生のオーラのお話とも全く矛盾もなかったですし、知花敏彦先生の教えを深く熟知している私からしても、今では心から、高橋信次師や長尾弘先生・園頭広周師を心から真実の師だと信頼し信じております。正法に帰依した感じでしょうか。本当に有り難い事ですね。

 知花先生は、あの世のいわゆる幽界のお話をされる事を、極力忌避されるお方でしたが、数少なく触れている幽界系のご講話からの整合性からみましても、高橋信次先生が語られているお話は間違いなく宇宙神理なのだと、私は確信した次第でございます。

 私が知りたかった幽界関連の詳しい事情も高橋信次師のお陰でよく理解する事が出来ました。知花敏彦師と高橋信次師で説明を補完しあう様な感じでしょうか。チャクラにつきましては「本山博」先生が1番詳しいと思います。

 暖房をつけずに寒い中、長尾弘先生の文章を書き出している時に、背中が急激にカーっとする摩訶不思議な変化を体験しまして、これはもしかすると天上界からのご加護の光なのかなぁ…と思ったりもしました♪

 しかも心がいつも以上に平安と安らぎの状態にもなっちゃったり、その後に面白い意識の変化がありまして、心が今まで以上に強く正しく、そして驚くほどに寛容な愛に溢れる境地……まるで仏陀様になったかのようです(笑)

 また魂が大幅にレベルアップしてくれたみたいであります。日々の霊的進化の修行と正法の実践、後もう一つ世の中への社会奉仕の実践ですね。それを積み重ねていく事によって、正法の功徳が頂けるのだと感じました。

 本当に有り難いことでございます。今回の意識(魂の次元)の大幅な上昇には私自身も大変驚いた次第であります。皆様のご参考になれば幸いです♪

 知花敏彦師、上江洲義秀先生高橋信次師長尾弘先生園頭広周師の教えは宇宙神理や悟りを追求する、真理の追求者の方々には必見の内容であると言えるでありましょう。もし宜しければ記事を見てあげて下さいね♪




大宇宙の真理「心行」の解説  園頭広周師
はしがき
 
 この「心行の解説」は、「宇宙の神理」「人生の原典」である。凡(およ)そ人間たるものが生きていく上で、その生き方の基準とすべき「法」とは何かを解説したものである。

 宗教はすべて、人間の生き方を教えるものであるが、この「心行の解説」は全ての宗教団体の指導者が読み、かつ人を指導する時にこれによって始動すべき宝典である。

 また各人が常に座右において必読すべきものであり、子供が中学生、高校生になったら必ず一冊は買い与えて読ませなければならない本である。

 中・高校生では、全体がすぐ分かるという事ではないかも知れないが、分からない所は年を追い、経験を積むに従ってわかって行けば良いのであるし、とにかく初めに、「人間は神の子」であるという事をまず自覚させれば良いのである。

 昭和五十八年3月から月刊「正法」誌で解説を始めてから、約四年にして終わったこの解説を一冊の本にまとめるにあたり、改めて全文を読み直して、私はこの解説を書くために生まれてきて、高橋信次先生よりも後に残されたのだという気がしてならなかった。

 昭和43年11月22日から23日朝にかけて、高橋信次先生は、自分がかつて今から2500年前、インドに釈尊として出生していた事を悟られ、直ちに天上界の諸如来・菩薩、地上界に肉体を持っている菩薩たちの霊を招集されて、「物質と生命」という講話をされた。

 その時司会をしたのはモーゼであった。この時点から最終的な仏国土・ユートピアのための本格的な運動が地上界で開始される事になったという事を離していられた。

 かくしてこの地球を霊の修業の場として、今までこの地球上に生まれてきた人類、現在生きている人類、これから生まれてくる人類の全ての霊の指導の責任を神から与えられているのがアガシャ系の光の大指導霊、光の天使たちである事を悟られた。

 それは今から12000年前、大西洋にあったアトランティス大陸を統治されたアガシャ大王、その方がインドに釈尊として出られたのであり、後(のち)に今から7000年前、エジプトにアガシャと名乗って出生された方があり、この方はそれから5000年後にイスラエルにキリストとして出られた。

 釈尊、モーゼ、キリストは共にアガシャ系の光の大指導霊であって、元々その説かれた神様は一つであったのである。

 勿論、高橋信次先生は、肉体は地上に置かれたまま、霊は肉体を脱出して天上界へ行かれたのである。「物質と生命」という講演をされてすべての如来・菩薩・光の天使たちに霊の自覚を促されて、先生の霊が肉体に返ってきた時に、東京には震度3の地震があったという。

 この事は仏典には、釈尊が出家されると大地は六種に振動したと書かれてあることと同じである。その霊が肉体に返ってきて、

覚醒された時に直ちに書かれたのがこの「心行」であったのである。
だから「心行」は「宇宙の神理」であり「人間の原典」であるといわれたのである。

 昭和51年6月25日、高橋信次先生は48歳で昇天された。先生が48歳で昇天される事は、既に先生がこの世に肉体を持たれる時の約束であれば致し方のないことであった。

 昭和48年10月のある日、私は大阪での公演を終えられた高橋信次先生と共に、奈良の生駒山の腹にある三鶴山荘に泊った。そうして中秋の名月を仰ぎながら、そこに露天風呂に入っていた。

「園頭さん、あなた何歳でしたかね」と突然たずねられた。
「58歳です」と答えたら、
「ほう、そうですか、不思議なものですね。今度も9歳あなたが年長ですか、インドの時と同じですね」と言われた。

 それからしばらく、インドの時の話をしたのであった。昭和51年6月25日、高橋信次先生が昇天された時に私はその時点において、「心行」の解説をすべきであると決心したのであった。

「心行」の解説の初めに高橋信次先生の書かれた「人間・釈迦」と、渡辺照宏著『新釈迦伝』を対比したのは、高橋信次先生が釈尊の生まれ変わりである事を証明せんが為である。

 渡辺照宏著『新釈迦伝』は今まで伝えられてきた仏典に依(よ)って書かれたものであり、高橋信次先生は『人間・釈迦』は眼をつむると、瞼の裏に今から2500年前、インドに釈尊として生まれていた時の情景がありありと見えてきて、その情景を見ながら霊的示唆に導かれて自然に手が動いて書かされたのであると書かれてられる。

 過去世を自分で思い出して書いたという本は、この『人間・釈迦』が世界で初であろう。

 インドの当時、釈迦が悟りを開かれる直前に「パピアス・マラー」という悪魔が出てきたと仏典に伝えられている事は、渡辺照宏著『新釈迦伝』にも書かれている。

 ところが渡辺照宏氏のみならず、日本の仏教学者の殆どは、パピアス・マラーという悪魔がいたのではなく、釈尊が悟りを開かれる直前の心理的な葛藤を擬人化して書いたものであると解説している。

 しかし、それが単に心理的な葛藤であるとしたら、賢明であった釈尊の弟子達が固有名詞として伝えるはずがない。「釈尊の心の葛藤はこのようであった」と伝えればそれで済むことである。

 ところで高橋信次先生、仏典によらず霊感に導かた「人間・釈迦」にも同じく「パピアス・マラー」であったと言われていられた。実際に悪魔はいるのであって、単なる心理的葛藤でないのである。

「パピアス・マラー」は地獄界の魔王であったのである・今もこの「パピアス・マラー」とその眷属に魂を売り渡している人がいるのである。
 そういう人々が平気で人々を殺し、強盗、強姦など勝手次第という罪を犯しているのである。

 なぜ悪魔が妨害するのであるか。それは「正法」が広がって全ての人が「人間は神の子」の神理を自覚すると、悪魔の棲み家がなくなるからである。この事を「正法が現れると魔が競い立つ」と昔から言われているのである。

「心行」と『心行の解説』をよく理解し実践する人が一人でも多くなると、それだけ魔は姿を消し、この世は平和になっていくのである。

「心行」と『心行の解脱』が、各人各家庭に一冊ずつ置かれ、これに拠(よ)って生活していく時、すべての人が幸福になるばかりでなく、その祖先たちも救われていくのである。

 あなた方が何の信仰をしていられようとそういう事は関係ない。
「心行」をとなえ、『心行の解説』を読んで行かれるならば、その時あなたは天上界の指導霊たちの啓示を受けられる心に自然になられるから、今まで味わった事もない、心の安らかさを感じられると思う。

 その心の安らかさの積み重ねがあなたに奇跡をもたらし、また、あなたも奇跡を起こす人になれるのである。これを読まれる人々の上に、神の祝福を与えられんことを祈る。
                 園頭広周



運命論の諸種相

「心行」がどんなに大事なものであるかをよく知って頂く為には、人の運命についてどういう考え方があるかを知っておく必要がある。

 高橋信次先生はよく「インドで釈迦が出た時代の宗教界の状態と、現在の日本の宗教界の現場と全く同じだ」と言われた。

 今から2500年前のインドの状態と、現在の日本とを比較してみる時に、人間の心というものはそんなに変わっていないという感じを深くする。

「人は何のために信仰するのか」ということに対して、大部分の人は、
「幸福になりたいため」「運命を良くしたいため」と答えて
「人格、人間性向上のために」と答える人は殆どいない。

 幸福になりたい、運命を良くしたいと思うことは人間の本能だといってもよい。しかし、多くの人が忘れている、というよりは全く知らない事がある。それは運命というものは、※心が変わらないと運命も変わらないという事である。(※八正道や関英男博士の洗心の実践等々♪)

 多くの人々は、ただひたすらに「良い事がありますように」とのみ念じ、祈り、あるいはあちこちにお詣りしては願を掛けている。
しかし、いくらそうしてみてもそれで運命が良くなる事はない。

「いや、私は良くなりました」という人は、その事によって心が変り性格が多少変わったからである。さて人間というものは、運命についてどのように考えてきたか。釈尊の時代のインドの人々はどう考えていたかを調べてみよう。

神意論

 宇宙の最高神を立てる正統バラモンの主張で、現象界の発生も消滅も、すべて全知全能の神によって支配され、人間の幸福も不幸も、すべて最高神の心のままに決まるとするのである。

 だから我々が幸福と繁栄を得るためには、神の恵みを受ける様に心掛けなければならない。そのためには、神を讃える歌を歌い、供え物を捧げ、伝統に従って祭祀をし、祈祷をしなければならないというのである。

 大きな恵みを受けようと思えば、山羊、羊、馬などの生きた動物を「いけにえ」として捧げ、さらに大きな恵みを受ける為には、人間が一番大事にしているものを捧げて祈らないといけない。

 何が一番大事かというと、親にとっては子供であり、領主や地主達にとっては大事な働き手である奴隷であるという事で、人間をも「いけにえ」として捧げた。

 この「いけにえ」を「犠牲」というのであるが、当時の人々は、神も人間と同じような感情を持っているものと考えた。だから、その神様のご機嫌をとって、幸福を授けてもらうためには、神さまが喜ばれる様なものをお供えして祭らなければならないという、色々な儀式が考え出されたのである。


この考え方は、
①人間の自由が認められていない、
②自分の利益のために動物や人間を殺すという事で生命尊重の心がない、

③我々の運命はすべて神さまの手に握られているのであって、我々自身の手で自分の運命を開拓する事は許されない、

④すべては神さまのお心次第というわけで、人格や人間性を向上するために修養努力するとか、そのために教育をするとかいう事は一切認められていない。

 運命は努力して開拓すべきものではなくて、神さまからの授かりものである。だから、神さまの気に入るようにして、何を下さるかは神さまのお心次第なので、自分の心でどうにもなるものでもないのであるから、それはただ与えられたものをお受けするしか無いのであるというわけである。

 だから人間がする事といえば、神さまに気に入られる様に、お供えをしてお願いをする事だけで良いというのである。
 ここでは人間の努力向上という事は全く認められていない。

 この考え方が日本流に現れてくると、念仏信仰、題目信仰となる。人間は罪悪深重の凡夫であり、全く力のないものであり、救いは向こうからくるのであるから、ただ一心に、念仏や題目を唱えれば良いというのである。

 その外にわずかでも努力する事といえば、読経すること、写経する事位のものである。日本の仏教信者が無気力で消極的で、何事も受け身で、自分から進んで何かをやろうとする意欲、積極性を持たないのは、この神意論の考え方が根本にあるからである。

 一方、祈禱によって運命は良くなるという体型を確立したのが、真言宗の空海であり、日蓮上人である。この祈禱によって運命が良くなるという考え方は、現在においては、神社や寺院でお祓いをし、交通安全の祈願をしたり、色々なお守りを授けたりする事になっても現れている。

 入学祈願もそうである。お守りを持っているから事故にも遭わないし、事故で死ぬ事はなかろうと考える事は一種の精神安定剤の役目をするという効果はあるであろうが、お守りを持っているだけで事故や死に遭わないという保証はない。

 その証拠には、戦時中お守りを持っていた人もたくさん戦死したし、また交通事故に遭った自動車には、殆ど全部が交通安全のお札やお守りがぶら下げてある。

 入学祈願だってそうである。祈願したからといってそれで合格できるものではない。外国人は日本人みたいにこのような祈願はしない。別に祈願などしなくても、みなが交通法規を守って安全運転すれば事故は起こらないし、

また、一所懸命に勉強して、学力が向上すれば合格すべき所には合格するし、合格祈願も、祈願してあるから守ってもらっていると思うことで試験場で上がらず、落ち着いて答案が書けるという程度の、精神安定剤的なご利益がある事は否定しないが、勉強していないのに合格するという事はない。

 試験場で上がらないように心を落ち着けるだけの事なら、別に祈願しなくても、精神統一、瞑想をやる方が余程効果がある。

 神社や寺院へのお参りが隆盛し、お札やお守りが沢山売れるという事の根底なるものは、この神意論に見るように、運命は自分の力で切り開くというものではなくて、授けられるもの、与えられるもの、であるという考え方である。

 釈尊の時代2500年経っているのであるが、日本人の信仰状態を見ると、人間の考え、心のあり方というものは少しも進歩していないという感じを深くする。

宿命論・宿業論

 現在の我々の運命は、すべて過去世の宿業、善悪の行為の結果として決まっているのであって、それは自業自得であり、因縁によって決まっているのであるから、人間の自由意志によってどうこうなるものでないという考え方である。日本の仏教の考え方には、神意論とこの宿命論がある。

 私が「人間は何のために生まれてきたのか」という事を知りたくて、お坊さんに聞いたら

「何のためという事はない、とにかく生まれてきたんだから有り難いと思いなさい。しかし、人間はみな業を持って生まれてくるんだから、その業は仕方がないので、人間の運命は生まれてくる時にみな決まっているのである」と言われたのであった。

 私はそれに納得できなかった。宿命論というのは、人の運命は生まれてくる時に決まっているというのであるから、

○歳の○年○日にはこういう病気をして、○年○月○日にはこういう事があって、全ての人間の運命というものが決められてあるのであったとしたら、一切の努力は必要ないということになる。

 いくら努力しても貧乏人は金持ちになる事は出来ないし、また、金持ちになるように運命づけられている者は、どんなに悪い事をしても金持ちになる

というのであったら、善いことをしないといけないなどという教育も必要なくなるし、努力も教育も道徳も必要ないという事になれば、この世の中は全く無秩序になり暗黒になるのではないのか。

 宿命論を「そうだ」と信じ込もうとしても、それでも、「少しでも向上しよう」と思う、その心はどうして起こってくるのか運命は既に決まっていて

努力する必要はないというのであったら、現状を打破して少しでも良くなろう、人間性を高めようとする事は、仏の道に反するという事にあるが、
「よくしよう」「よくなろう」とする事をいけない事だという宗教などあるはずがない。

 やはり努力したら、努力しただけの事はあるという事でないと、本当の人間の喜びはどこにもない。そのように私は考えたから、それっきりお寺の門を叩いた事はない。

「すべては因縁だと諦めなさい」と言われても、少しでも勉強して立派な人間になりたかったし、食うには困らないだけの生活はしたいと思ったから、不満足な現状に単に因縁だといって諦めるわけにはいかなかった。

 そういうわけで、宿命論的な考え方をすると何事に対しても人間は無気力となり、一切の進歩がなくなる。現状を改革して少しでもよくしようとする事は、してはいけない罪であるという事になる。

 西洋では科学が発達したのに、なぜ東洋では発達しなかったのかという原因、なぜ東洋の文化・文明が長い間停滞してきたのかという原因は、東洋人の心の中に、神意論や宿命論的な考えが支配的であったからである。

 すべての進歩発展向上は「なぜ」「どうして」と疑問を持つ所から出発する。神意論や宿命論は「なぜ」という疑問を持たせず、どんな運命、どんな問題が起こっていようと、ただそれを甘受するだけで、積極的に改善・改革しようとはしないのであるから、そこに進歩向上が見られないのは当然である。

 この世でいくら努力しようとしまいと、また、良いことをしようと悪い事をしようと、我々の運命には何ら関係はないという事になると、人をよくしようという宗教も道徳も、教育も修練も、全く必要ないという事になる。

 しかし、人間は教育に拠って初めて人になるのであって、生まれたままなんの教育もせずに放っておいたら、人として立派な人間になる事は絶対になりのである。

 金持ちに生まれたらどんなに怠けようが一生金持ちで、貧乏に生まれたらどんなにまじめい働こうが一生貧乏だというのであったら、誰も努力する者はいなくなる。

 しかし実際は、金持ちでも怠ければ貧乏になるし、貧乏でも一所懸命働けば金持ちになる事が出来るのであるから、この宿命・宿業論は間違いだという事になる。

偶然論

 宿命論は、神はきまぐれであると考えるのであるが、全ての運命は偶然だと考える人達は神の存在を認めないのである。偶然に人間に生まれてきてよかった、動物に生まれないで良かったと考えるのである。

 私がこれまで接触してきた宗教家の中にそういう人があった。
「本当は、牛か馬に生まれてきても仕方がなかったのが、こうして人間に生まれさして頂いただけでも、ありがたいと感謝しなさい」とその人は講演していた。

 偶然論では、正しいことをしていても不幸になる事もあれば、悪い事をしていても幸福になる事があると考えるのである。だから、善因善果、悪因悪果という因果、因縁の法則は認めない。
 
 また、神やその他のものがあって、我々の運命が左右されるものでもない。幸福も不幸もすべて偶然で、世の中の事も全てが偶然である。

 だから、何をしようといっこうに機にする事はない。ただ、偶然に起こってきたその事を、どうするかを考えればよいので、幸福のチャンスが来た時に、すぐそれを捕まればよいのである、というのである。

 西洋にもこれと同じ様な考え方がある。幸福の神は額の前側だけに三本毛が生えている。後ろはツルツルである。だから、高福の神が向こうから来たと思ったら、さっと前から捕まらないと、あれが幸福だと思ってからつかもうとすると、ツルッと手が滑ってつかめない、というのである。

 偶然論を主張した人達は、あまりにも形式化され、規格化されたその当時の宗教界に反発を感じ、常に見えない神に監視され、束縛されている様な感じから、もっと自分を開放して自由になりたいと考えていた人達であった。

 現代流に言えば、伝統的な考え方に立っている主流派、体制派に対して、この偶然論者たちは、反主流派、反体制派という事になる。

 一切の権威、伝統を認めようとしないヒッピーみたいな考え方の人達である。世の中が無軌道に乱れてきた時に、その風潮に乗って退廃的な考え方をする者の心の中にあるのは、この偶然論であった。

苦行論

 神意論、宿命論、偶然論の人達が、幸福とは肉体の健康と物質の豊かさであるという考え方に立っているのに対して、苦行論者達は、肉体も金銭も物質も、死んでいく時には持って行けない、死んでも持って行けない、死んでも持って行けるものは心しかないという事で、精神的な幸福を求めようとするものである。

 この人達は、肉体は健康であっても精神的に悩んでいる人はいっぱいあるし、また、金銭や物質が豊かでも、精神的には不幸だという人もいっぱいいるというのである。

 この考え方の人達は、煩悩は肉体があるから起こるのであるから、なるべく肉体的欲望が起こらない様にしようとして、断食、水行などをするのである。

 苦行する人達は、人間が生きていくために必要な一切の物を生産するという生産活動にも参加せず、人間生活の基本であり、それなくしては永遠に人類が発展する事もできない夫婦生活、家庭生活も忌避するのであるから、

苦行する人が増えてくると社会は滅亡することになる。また、苦行によっていかに肉体を苦しめても、それによって心が静かに安らかになり、悟りが開かれるという事はない。

 しかし、色々な苦行はしなくても、苦行するのと同じような気持ちで生活している人が実際には沢山いる。

「私は若い頃、こういう悪いことをしました。その業があるから、その業をなくする為には、私は幸福になってはいけないのです」と言って、

せっかく幸福になるチャンスが与えられても、幸福に成る事は悪い事だと思って、進んで貧しい生活をしている人達がある。

 釈尊の時代のインドの人達の運命に対する4つの考え方を概略を書いてみた。これを読まれて、皆さんもきっと「人間の考えというものは、そんなに変わるものではない」という事を、現在の信仰のあり方から見て思われるに違いない。

 釈尊は、こうした運命論は間違いであると言って、仏法(正法)を説かれたのであるが、しかし、釈尊一代45年間の説法によって、それまで何千年と続いてきたインドの伝統的な考え方が、一変で変わってしまうというわけにはいかなかった。

 釈尊の正法の及ばなかった地域、また、釈尊の正しさを認めなかったインド古来の伝統を守る宗教家たちが守っていた旧来の宗教、思想、そういうも

のが残っていたのが、釈尊滅後にまった勢いを得て、それも、仏教の名によって中国から、そして日本へと伝わってきて、今では仏教の名のもとに、釈尊が否定されたものも仏教として信じられているわけである。
 
 そうであるからこそ、釈尊であられた方が、今度は高橋信次という名において、また正法を明らかにされなければならなかったのである。

 この事がしっかりとよく分かっていないと、「心行」がどんなに大事なものであるかも分からないという事になる。

 しかし、そういう事が分からなくても「心行」は「心行」それ自体の意義があるから、『心行』に書かれてある事を実践すればそれによって救われる事にはなるが、これまで何かの信仰をしてきた人に正法を伝えようとする場合、今まで述べてきた事を知っておくと相手を説得し易くなる。

 釈尊が悟りを開かれて、五人の弟子に「四諦八正道(したいはっしょうどう)」を説かれた。その後に話しをされたのは
「今までの宗教はここが、このように間違っているのである」という、仏法と従来の宗教を比較した「比較宗教学」的な話であった。

 従来の宗教を正しいと信じ込んでいる人達に対しては、やはり、どこがどう違っているかを説明しなければ納得してもらえない。

 ただ「正法が正しい、正法が正しい」といくら絶叫してみても、それだけでは正法の正しさを認めてもらう事はできない。
  
 比較宗教学的な話をすると、間違っていると指摘された宗教を正しいと信じている人達から非難が起こってくるのは当然である。その非難を恐れていたのでは正法を広める事はできない。

長尾弘先生の神我覚醒☆宇宙即我・神秘体験話♪神の御姿・御心♪両親の親に反省する大切さ♪心行の解説♪高橋信次師

心行の解説 講演集(下) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
           
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心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年4月22日

「正しく定にはいるべし」 
 
 正しく定に入るとは、自分の心をよく見つめて「反省」をした後、一時の安らぎの時の時間を持つ事です。今日は「反省」について学びたいと思います。

 反省とは、自分が生まれてから今日までの間にどれだけの過ちを犯してきたか、それは、思いの中で、また行いの上でどうであったかと徹底的に自分を見つめ自己反省することです。

 幼いころの反省に入りますと、必ずお母さんが出てきます。もし友達と喧嘩して、友達を傷つけたり友達を泣かしたりした時、お母さんはわんぱく坊主に代わってお詫びに行って下さいます。
 また何か悪い事をして見つかった場合や他の物を盗んだ時には、やはりお母さんが謝りに行って下さいます。

 私が幼い頃を反省した時の話をもう一度今日させて頂こうと思います。
私が小学生一年生の時ですから、七歳ぐらいの頃の事です。友達は百姓の子供の子もあればサラリーマンの子もあり、お店をしている家の子もいました。
 
 そういう子供たちは全部遊んでいます。私の場合は水呑百姓ですから学校から帰って鞄を置くなり、「今日はどこの畑へ来なさい」と言われて、すぐ鎌か鍬(くわ)を持って畑へ行くのです。

 そして畑の側で遊んでいる友だちを見ては、「ああ僕も一緒に遊びたいなあ、羨ましいなあ」と、常に友達と自分を見比べて、皆は遊んでいるのにどうして僕だけ畑へ行かなくてはいけないのかと、自分の運命を思ったものでした。

 たまには遊びたいという思いが昂(こう)じて、ある時、嘘をついて畑を行くのをさぼったのです。
「今日は友達とどうしても勉強しなくてはいけないから」と、親に嘘をつき鉈(なた)を持って、竹とんぼを作る竹を取りによその竹藪へ行ったのです。

 そこにはすごい急斜面の竹藪で、小学校に入って間もない頃ですから私にとってはちょっとした冒険です。
 竹藪の中に入って手頃な竹を見つけ片足をその斜面にあげて落ちないようにしてから鉈を振り下ろした時、自分の足をスパッと切ってしまったのです。

 足の外踝(そとくるぶし)の上十センチ辺りに鉈が当たってしまいました。ここは案外血管も少なく骨が近い所ですからパカンと割れて真っ白な身と中の骨が見えています。さあ、これはえらい事をしたと思いました。

 もし畑とか仕事をしていて怪我をしたのなら、「お母ちゃん、えらい事をした、何とかして」と言えるのですが、嘘をついて隠れて悪いことをしたのだから言う事も出来ません。

 まず血が出ない様にしなくてはいけないと考えたのです。
私は田舎で育ったので薬草や血止めの草の事をよく知っていましたから、血止めの草を取って、ぐっと縛って傷につけて、その上から血止めの薬で押さえ、

ここを何とか括(くく)らなくてはいけないと思って、やっと道まで出てきて、道の端に落ちていたボロ布で足を縛ったのです。

「えらい事をしたなあ、何と言って言い訳をしようかなあ」と、七歳の幼い頭で一生懸命考えたのですが、いい考えが出てきません。

 家の近くまで帰って、私の家と隣の家との間が一メートル近く空いている所へ、冬の間は田の稲を干す長い木が使わないで囲ってあるのですが、
その隙間へ入って、「どうしようか、どう言って親に言い訳をしようか」と思いあぐねていました。

 他の山へ木を切りに行って、自分の足を切ったと言えば怒られますから、何とか逃れる方法はないものかと考えている内に外が暗くなり、もう仕方がないから勇気をふるって家の横の入口から「ただいま」と言って入ったのです。

「遅かったなあ、今まで何してたのや」と母が聞くので、「友達の所で遊んでいて怪我をした」と言ったのです。

 その時、母は「見せてごらん」と言って「こんな汚い布で。どうして向こうのおばちゃんに言って安配してもらわなかったのや、こんなえらいことになっているのに、痛かったやろう」と薬を塗り、新しい包帯をしてくれたのです。

 その時、私は大きな嘘をついているのですが、親はそんな事は関係なしに、「ああ痛かやろうなあ、可哀想になあ、辛かったやろう」
「友達のお母ちゃんはなんで按配してくれんじゃったろう」と言ってくれたその事を、ずっと反省させて頂きました。

 不思議なもので、3日、4日、5日と坐って一つの事をずっと追求しますと、その時の場面が本当にそのまま出てくるのです。私が足をパアッと切ったときの感覚がはっきりと出てきます。

 あの時の肉の裂けたあの感覚がはっきり再現されるのです。だから本当に反省に取り組むと、その時の状況が詳しく思い起こされます。

 この時、親に友達の名前を告げたはずです。そこで、友達の立場に立って考えた時、自分の所へ遊びに来ていないのに、来て怪我をしたと言われたら、その友達はどんな思いをしただろうか、またどんな思いで私という人間を見たであろうか。

 相手の立場に立って自分を見た時、「ああ、申し訳なかったなあ」と思います。私は幼い頃から、想いの中では何と悪い奴、悪知恵ばかり働いて、嘘をつく事ばかり思って、何と嫌な人間だという事がよく分かります。

 次に母の立場に立って考えてみました。母は足の怪我を見てびっくりしましたが、これは友達の家で怪我をしたのではない事ぐらい分かっているはずです。

 血止めの薬をすりつけてボロ布で巻いているのですから、これはおかしいなと思ったはずです。その事よりも、「ああ痛かったやろうなあ、可哀想になあ」という母の愛の方が大きいのです。

 その母に対して、小さい七歳の私が嘘をついている、その己というものを見つめた時に、
「何と申し訳ない、お母さんの愛に対して幼い頃から嘘をついていた私、どうか許してください」と泣いて、泣いてお詫びさせてもらったものです。

 その時、もし羽があれば飛んで帰っても土下座をしても母にお詫びがしたいという気持ちが湧き上がってきました。しかし羽はありませんし、帰れないので、すぐ電話をさせてもらったのです。

 電話の向こうで「もしもし」という母の声を聞いた途端に、心は幼な子に返っていました。私は子供の頃、母を「おかあちゃん」と呼んでいたのです。

 電話でその声を聞いた途端に、「おかあちゃん、堪忍してや、堪忍してや」と言ったまま電話器を持ってワンワン泣いてお詫びしていました。

 母親の愛というのは有り難いものです。突然電話に出て、幼い頃の呼び方で、「おかあちゃん堪忍して、おかあちゃん堪忍して」と泣いていたら、

「弘、大丈夫か、頭がどうかなったのと違うか」と気遣ってくれます。
「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。どうぞ許してください」と言いますと、「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。

「私の言っている事は頭がおかしい様に聞こえますか」と聞くと、
「いや別におかしゅうないけどな、いい年をしてそんなに泣くから」
 親というものは何を知っても心配して下さいます。

 次には、どうしようもない罪深い己自身の姿ですね。
今反省させてもらっている自分の意識でもって、幼い時の悪ガキの己に対して、「優しい提言」を与えなさいと教えられました。

 優しい提言といいますと、これは難しいことです。つまり自分に、慰めと励ましを与えなさいという事です。

「あなたは幼い頃から、これをしてはいけない、これはしてよいという事をよく知っていました。それなのに親に嘘をつき、他人の山へ竹を盗みに入って、自分の大事な肉体に傷をつけて、あなたは本当にいけない子です」

というように、自分を責める事しか思えないのですが、
「今後は頑張りなさい」と励ますのです。私達の思いにおいて、
「人様には寛大に、己には厳しく」という生き方が基本にある事です。

 これが法の姿だと学んできました。私は幼い頃から、そのように生きてきました。その思いが基本にあって、自分を許す事は、自分に甘くなる事だと思い込んでいましたから、自分には厳しくして、人を許してもいいけれど自分を許してはいけないと思っていたのです。

 だから何万回見方を変えてみても、出て来る答は自分自身を責める思いしか出てきません。自分を許す事は出来ないものと思っておりました。

 皆様も、過去にあった間違いに対して完全に心から許している方は極稀だと思います。自分を許せないのが、自分の良心です。自分は悪いことをしたと、その良心が自分責めるのです。

 反省させてもらって、自分というものを見てきた時、許せないものだから、「草1本、木の枝一つにしても人様のものを取ってはならない事を知っていながら、どうしてそのような事をしたのか、これはいけない事だ」といって、自分を責め立てるので、どう見ても反省が出来ないのですね。

 何百回繰り返しても同じ答しか出ません。そこで、私のような者が法灯を頂くのは無理だと諦めました。集中的な反省は、自分の心の法灯を頂くためにするそうです。

 例えば、夜の真っ暗な部屋に机や物が置いてあり、皆さんがその中にいたとします。真っ暗だからどこに誰がおられるのか全く分かりません。

 小さいローソクの灯が1本でもあれば、ああここに居るなあという事が分かります。私達の心の中は反省が出来ていなかったら真っ暗な部屋と同じ事だそうです。
 真っ暗な心の中を反省して、ある一つを超えた時に、心に小さい法の灯が点(とも)るそうです。その法灯を頂くために反省するのですね。

 ローソクが2本になったらまた余計に明るくなります。よく反省して法の灯が心の中に何本も点ったら、小さいごみが落ちているのまで見えるはずです。

 私はいくらやっても出来ないから、もう諦めたのです。
諦めてごろんと転がって、「私のような者が法灯と頂くというような大それた事はありえない事だ。それは心の綺麗な尊い方だけが出来る事である」と、完全に心から捨てました。

 捨てるまではもう嫌という程、己を見つめたのですが、どうしても出来ないのです。
 そして天を見ると、木陰の葉こぼれの光彩がずっと入ってきて、その何とも言えない光を見ていると、「あんなふうに光を頂けたらいいのになあ」と、また欲が湧いてきて、もう一回起き上がったのです。

 しかし自分ではどうしようもない、もしも守護霊様が私について下さるのならと思って、「守護霊様、私はどうしても出来ません。どうぞ正しい反省の仕方というものを私に教えてください」と言って、一生懸命お祈りしたのです。

 その時、本当に不思議なことに右前方の手の届く辺りに、私の幼い頃から四十半ばまでの間の自分の姿が写し出されて、みんな見せて頂いたのです。

 それこそ立体的で、その当時のありのままの姿・行動・出来事などが見えました。どのぐらいの時間が過ぎたか分かりませんが、あまり長い時間はかからなかったと思います。

 まさに意識の世界は時間、空間、距離というものとは一切関係がないという事をはっきりと分からせてもらったのです。その自分の姿は何とも言えない哀れなものでした。

 自分に与えられた環境の中で、「ああしたい」「こうしたい」と思いながらどうする事もできない柵(しがらみ)にがんじがらめになりながら、必死に生きている姿を、まざまざと見せられました。

 この話もよくしますが、小学校一年生の秋のことです。秋の取り入れで稲刈りをして干し、乾燥すると田園の真ん中にござを敷いて脱穀するのです。

 干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、父が足踏み機でギコギコ脱穀しては済んだ藁を後ろに放っていくのですが、その時、積んでる束を父に渡すのが私の役目でした。

 この稲束を一つずつ父が最も受け良いように渡しますと、父はザァーッと脱穀してパッと後ろに放ります。
 すると、次の束を渡さなくてはいけないのですが、父の手許の受け取りやすい所へ持っていかないと、「何をしているのか」と怒られます。

 父のしやすいように次々と渡していくのです。こうすれば一つ一つの取る時間が節約できるわけで、父の体も少しは楽になります。

 その田園のすぐ近くは堤防でその上は平地になっており、友だちが来てワイワイ遊んでいるのです。私はちょっとおませでして、もう好きな女の子がいたのですね。

「あの子、可愛いなあ」と、まあ、私の初恋でございます。その子も一緒に遊んでいるので、私は生きたくてたまりません。「男女の愛は苦しみである」と、よくいったものです。

 神の愛、アガペの愛に苦しみはないのです。けれども男女の愛には必ず苦しみがつきます。
 その女の子の側へ行きたいと思っているのに行けない、友達は楽しそうに遊んでいるのに私は稲束を渡さなくてはいけない、その時の辛かったこと。

 その内にだんだん日が暮れてきて、友達は皆帰ってしまいます。その子も帰ってしまいました。私は涙をポロポロこぼしながら稲束を渡していたのです。

 父が、「弘、泣いているのか」と、私の気持ちも知らないで言うのです。もし私の心を知ったら、お父さんは腰を抜かしたかもしれません。小学1年生で好きな子がいるなんて、まあ、私は泣きながら叱られながら稲束を渡したものでした。

 行きたい、行きたいと思うのです。ところが、そこへどうしても行けない。稲束を渡す役目をしなかったら怒られますから、その場から逃げる事ができないのです。

 これと同じようにどうする事もできない事が十代であれば十代においてあり、或いは二十代であれば二十代で、同じように柵(しがらみ)の中で涙を流しながら精一杯生きている己の姿この目に見せられました。

 その時、あまりにも哀れな自分の姿を、短い間に全部見せて頂いたのです。私はこんな可哀そうな環境の中で柵に括(くく)られた中で必死になって生き

ている己の姿を見て、思わず「可哀そうだったなあ」と、自分に対してもう涙が止めどもなく流れてきて、こういう厳しい中でよく生きてきたなあという思いが溢れてきました。

「反省みたいなもの、出来ても出来なくてもいい、心に法灯みたいなもの、頂いても頂かなくてもいい、そんなものは関係ない。とにかく私自身を許してあげよう。これほど精一杯生き続けた己自身に対して許しを与えよう。
 
 己に優しく、人に厳しくという生き方ならば法に背くけどそうではなかったのだ。もう法も何もない、とにかく私は私自身を許すことだ」
と思って、自分を許そうと決めた時、心がふわっと軽くなったのです。

 本当に心がふわっと広くなり、光り輝いた己をそのまま自覚しました。自分を許した時、どれ程自分が楽かあるかという事を悟らせて頂いたのです。

 自らを許させて頂いた時、この肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。意識ははっきりしていますが、頭・手・足・胴はどこにもなく何も感じないのです。
 こういう事は生まれて初めての体験ですから、
「あら、私の体が無くなってしまった」と思ったのです。

 身が軽いという様なものとは全く違います。完全に肉体の感覚が消えます。私は自分がどこかへ行ってしまったらえらい事だと思いましたから、顔・頭・胸・手足をしっかり掴んで確認しました。

 するとやっぱり感じがあるなと思い、自分の全身を探したぐらいです。そして「ああ、やっぱりついていた」と思ったのです。

 私達の心の中には想念体という心の曇りの場所があるそうです。それは私達の肉体の五官によって出来ているのですね。想念体が破れた時に、この五官の感覚が全くなくなってしまいます。その事が後になってから分かって、その時の心の状態はこういう風になったのだなと知る事が出来ました。

 その時の心境は、もう見るもの見るものが全部愛おしくて愛おしくてたまりませんでした。そこらに生えている草、林の中の樹々を見ると、ああ良かったなあと草に頬ずりをし、樹に抱きついて喜んだものでした。何とも言えない喜びに満たされるものです。

 ちょうどその頃、私が反省のために山に入らせて頂く直前に、東京から偉大な方と言われていた人が来られたのです。その方の公演を聞かせてもらいました。「坐って反省する事は要りません。反省する時期は過ぎました」と、

その先生が話されるのを聞いて、
「これはえらい事になったなあ、私は何のために山に入っていくのかなあ、何のために坐りにいくのかなあ」と、すごく疑問を持ったのです。

 しかし、行く日も決まっているし、荷物もまとめていましたが、そのまま反省をしに行って坐らせて頂きました。その結果、私は素晴らしい喜びを頂きました。正に心に法灯を頂いたと思います。

 口は言葉ではとても言い尽くすことのできない喜びです。法の喜びですね。この時私は、「あの東京の先生は間違った事を言われた、坐って反省は要らないとおっしゃった。しかし私は坐ってこの喜びを得た、

 坐る事なしにこの喜びは絶対にいただけないはずである。だから坐ってする反省の実践をして掴んだこの喜びは、誰が何と言おうと、どんな偉い人がどう言われようとそれは関係のない私の心です。

 そして間違いのない事実です。だから頭や口でそういう事をおっしゃっても、それは間違いであるという事をはっきりと言い切る事が出来ます。

 そういう体験をさせてもらって、反省とは有り難いものだなあ、こんなにも自分が楽になれるものなのだと分からせてもらいました。

 私達は成長の過程において、自分のお母さんに数え切れない迷惑をかけているのは事実ですね。しかも母はすべてを許して下さっています。私達全てがそうです。親に心配をかけていない者は皆無なはずです。

 また、この世に生まれて一度も過ちを犯していないという人も皆無のはずです。自然に背いた思いや言葉もそうです。思いはすでに心の中で行動が始まっているという事です。
 思うから、それが言葉となって発せられ、また、肉体の動きとなります。思うだけならば人に迷惑はかけないと思うのですが、そうではありません。

 私が教えを習いたての頃に、こういう話を同業の人にしたのです。すると、ある人が、「長尾さん、殺生な事を言うな、思うことぐらい自分にさせておいてほしい。私は友達の嫁さんが好きで好きで、晩になったらその人の事を思うのが楽しみだ。思うぐらいなら構わないだろう」と言うのです。

 それで、私は「いや、思ってはいけないそうです。心の中でもしもその人の事が好きだと思ったとしたら、それはすでに姦淫を犯しているそうです」

と言うと、「何もしていないのだから構わないだろう、なぜいけないのか教えてくれ」と言われるから、

「まず、奥さんを裏切ります。心の中で裏切っています。あなたを信じ、あなたを立派なお父さんと思っている子供さん達をすでに裏切っているのです。また、友達に対してあなたは盗みを働きました。

そのお嫁さんを思う事は、もう盗みを働いた事です。最も危険な事は、もし何かの縁によってあなたをその奥さんが二人きりになる様な機会が訪れた時、

あなたが何とも思っていない場合は間違いは起きませんが、しかし好きだと思っていて二人きりになったら、これはただではすみません。だから、その思いは正しくないのです。思いを正さなくてはならないそうです。」

と、教えてもらった通りに話しました所、なるほどそうだな、私もあまり思わんようにしよう」と、言って頂いた事がありました。

 思いは円に触れたら、それが行動となって現れる場合が起きるから、正さねばならないのです。もし現実にそうなった時、今度は苦しみが生まれますから、思いはできるだけ正す事です。それは必ず形となって現れるからです。

 思う事で、他に迷惑をかける場合は沢山あります。憎い人があって、
「ほんとに憎いなあ、あんな○は○○でしまえ」と思った時、すでに心の中で殺人を犯した事になります。

 たとて相手に聞こえなかったとしても、これは言葉として口に出さなくても、思いとして立派な殺人を犯した事です。言葉についても同様で、常に正しく語らなくてはいけません。

 口を開けば、必ず相手に喜びと安らぎと希望を与える言葉を使うように心掛け、それ以外の言葉は一切不要です。その時、言葉の災いから自分を守る事ができます。

「正しく定に入るべし」が、とんだ寄り道になりましたが、これも定にはいる一つの反省の例でございます。皆様も参考にして頂けたら結構かと思います。
「心行」も大詰めとなりました。長い間、本当によく聞いて頂きました。


神の御姿

我は姿あって姿なし
姿あって天地自然・万生万物の中に我が姿を見よ
姿なくして生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証せん


神の御心

いとしき我が子よ いとしき我が子よ
そなた達は幸せに生きよ 健やかに生きよ

己自身を苦しむことなかれ
己を愛し 己を愛するが如く他を愛せよ

汝らの喜びは我が喜びなり
汝らの苦しみは我が苦しみなり

いとし子よ、自らを苦しむことなかれ
汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
自らの神我に目覚めよ

我は愛故(ゆえ)にそなた達を
形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり

いとおしきが故に度に出させし者なり
いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち

旅立ち日より今日までをよく振り返り見よ
我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ

もし我が心と離れし箇所に気付かば
それを悔改めよ
その時、汝らの魂は清まれり
我が与えし、その肉の身を持ち
我が思いをこの地上に示し現わせよ    長尾弘先生の記事♪

不思議な現象話♪八正道が最も魂が完成に♪良い事をして不幸にならない最良の方法♪神我・心行の解説♪長尾弘先生♪

心行の解説 講演集(下) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
           
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年5月27日 
 
 「心」を学ぶという事がなぜ有り難いのか、尊いのかといいますと、     
 「心」は私達の肉体を支配している目に見る事のできない力であり、

その心に目覚める事によって幸せにもなり、心の在り方によっては不幸にもなり、色々と人生の行き先が変わってくるからです。正しい心の在り方を私達は学んでいます。

 自分が幸せになれたなあ、良かったなあと心の中に喜びた頂けた時、苦しむ方や、縁ある方に、「心の持ち方によって私はこんなに楽になりました。あなたもそのように心がけられたらいかがでしょう」と言って、自分の喜びを他に伝えていく事ができます。

 これには時間がかかると思いますが、人類全てが感謝や思いやりの心に目覚めた時、この地球上は仏国土、ユートピアになります

 まず私達一人一人が正しい心の在り方を学び、そして幸せになり、その幸せを縁ある方々に広めていく事、これが地球の幸せな惑星、調和された惑星になっていく事に繋がります。

 高橋信次先生は講演の中で、「私達は、この地球を調和しさらに次の天体を調和させる為に、若い星へ移っていくものである」とおっしゃいました。
 そういう大きな使命、目的を頂いて生まれてきております。

 昨夜も、高橋信次先生のお姉様から電話を頂きまして、どうぞ頑張って下さいと励ましの言葉を頂戴しました。本当に有り難い事です。

「一人でも多くの方を救って下さい。信次先生の亡き後も、どうぞ法を曲げない様に頑張って下さい。そして学びの場にお集まりになった皆様にどうかよろしくお伝え下さい」という事で御座いました。
「心行」の勉強は、今特に大切な「八正道」の部分について学んでいます。

「正しく仕事をなし 正しく生き」

 私達は生まれた限り、肉体を動かして仕事をしなくてはいけません。この世に生まれて、何一つ仕事もせずにのらりくらりと一生を過ごした場合は、これは人様の血と汗による労働力に生かされてもらいながら、何のお返しもできないで、ただの人のご苦労を担って生きている事になります。

 こういう生き方は吸血鬼と同じです。人の血を吸って生きるのは、正しい生き方とはいえません。仕事というものは他への恩返しだと考えて頂いて、精一杯努力すれば不足の思いは出ません。必ず道は開けてくるはずです。

 正しく仕事をなすとは。「正行」つまり、正しく行ずる事ですね。仕事ではなくても日々の生活の中で人間として正しい行いをする事にも繋がります。が、さらに仕事を通して魂の進化をはからなくてはなりません。

 大学を出てお勤めをされる方の場合、学生の間はこちらからお金を持っていって教えてもらいますが、職場へ入ったら、向こうからお金をもらうのですから、そんなに気楽にはできません。

「やあ、仕事はしんどいです」と言いますけど、「それは当たり前、今まではお金を出して勉強していたけど、今度はお金を頂いて勉強するのだから、それはきつくて当たり前ですよ」とよく話します。

 今月の「道」に有名なキリスト教学者のヒルティーの言葉を書いて頂いているのですね。「およそ神経病患者というのは多少の差はあれ、全て病める魂の持ち主である。まずこの魂から治してかからねばならない」と。

 病気というものは大体において耐え難いものですが、もしその人の精神生活が疲れ病み、挙句の果てに死んでしまう様な場合には、病気は人間を台無しにしてしまう災いです。

 精神生活さえそのような状態でなければ、内的生命つまり私達の霊ですね、この内的生命を損なわずに、辛い肉体的苦悩を堪え忍ぶばかりか、それによってさらに価値を加えていくような人々も珍しくはありません。

 人は魂の力を持たなければいけません。この力によって苦痛を耐え抜くばかりでなく、次第に肉体を強くして行くことも出来るのです。

「健全な魂は健全な肉体に宿る」のではなくて、「健全な魂が肉体を健康にし、健康を維持していく事ができる」のであって、病める魂は間違いなく肉体を弱めます。正しく行じる事が出来ない場合、精神的に不安となります。

 精神的に健全であれば、肉体もまた健全に働いてくれます。精神とは何かというと、私達が見ることの出来ない心の奥底の作用です。

 私達は子供の頃、まず健康な肉体があり、その健全な肉体に健全な魂が宿ると教育を受けました。しかし本当はその逆で、健全な魂に健全な肉体が従ってくるのですから、健康になるという事は、まず魂です

「正しく道に精進し 正しく念じ」

 神様の御心をもって生きる事が、正しく道に精進する事です。精進するのですが、私達にとってはこの正しい生き方そのものが厳しいのです。許せない人を許さなくてはなりません。そして全く無償の愛を実践するというのは、人間にとって大変難しい事です。

 神様の心を人間が行うのですから、難しくて当然です。それを一つ一つ努力して日々の生活に生かす事が正しく精進する事だと思います。正精進ですね。精進に励む正しい生き方が分かったら、今度はそれを実践する事です。

 次に、「正しく念じ」と説かれています。
「思い」と「念じ」となぜ二つ別にして書かれているのでしょうか。それは「念ずる」のと「思う」のとは違うからです。

 思いというのは、ころころと飛び回って一時としてじっとしていないその人の心をいいます。静かに心を一か所に止めようと禅定、瞑想しましても、思いは次から次と走り回ります。まるで野の猿のようにじっとしていません。一か所へ思いを集中しようとするのはそれほど大変な事です。

「念ずる」とは、あの人は憎いなあ、憎いと、そこへ止まっていくものです。正しく念じないで、誤った念じ方をしますと、それは自分に返ってきます。
 
 愛知県のある女性の方で、今日もお見えになっていますが、今はもう素晴らしい方に変わってくれたのですけど、その方はホテルの仲居さんをなさっているのです。

 仲居さん頭(かしら)やお姉さんがいて、性根の悪い人からいけずをされ「私はこんなに苦しんでいるのによくもあんな事を言ったものだ、今に見ておれ、ひどい目に遭わせてやる」と、帰ってきてこの様に念じるのです。

 今に見ておれ、えらい目に遭わせてやるといって何時間も念じている内に、その方自身頭が痛くて辛くなり、相手の方もこの人の念によって悪くなっていきます。

「今日は頭が痛くて辛いのです」と言うと、「そんな頭が痛いくらい何ですか、やりなさい。誰でも頭が痛いんだ」と言われるのですね。

 そこで帰って、また念じると、その人は頭が痛くなり、膝も痛くて動けなくなったのですが、しかしお膳は運ばなくてはいけないし、
その上に「あなた、何してるの」と言って叱られるし、今に見ておれ、とやったら相手が念じた通りになり、同時にその人自身も痛くなったのです。

「私には超能力があります。私が思ったら、思った通りになるのです」と言われますが、
「それはいけません。そんな思いをしていますと、あなた自身が苦しいはずです。もう今日のご縁で再びそういう思いをしないで下さい。さもないとあなた自身が幸せになれません」と、お話させて頂いたのです。

 不思議なことに、この方がよそへ遊びに行ってお土産を買って知り合いの所へ送りますね。すると包みを開けるとみな腐っているのです。

 不思議な現象です。「あの人は腐ったものばかりくれる」と言われるのですが、当人は新鮮なものを発送しているのです。ある時も北陸の方からエビの生きのいいのばかり詰めて人に送ってあげた所、着いた荷物を明けたら髭(ひげ)が1本だけ出てきたといいます。

 まあ作り話の様な話ですが、誤った念じ方をする人は生活が不調和で、ものを腐らせてしまうのです。
 しかし今はこの方が送られても腐りません。この間私の所へわかめを送って下さいましたが、それは新鮮な美味しいわかめが届きました。

 人を苦しめるのには色々な事情はありますが、自分にとって都合が悪いからといって「今に見ておれ」と、強い念を集中して発しますと、それは悪念で、そういう悪い念は他を毒していきます。

 その人の持っている闇の想念が、その方の送るものを腐らせていたのです。
「相手を悪くする様な思いは一切持たないようにして下さい」とお話させて頂きまして、今は素晴らしいお方になっておられます。そうしますと腐りません。

念ずる」とは、他の幸せを念ずることです。決して他の不幸を念じてはなりません。念ずることは「正念」が大事かと思います。

「一念岩をも通す」という言葉もあります。念の強い人は大きな水晶の原石に年力だけで穴を開けてしまいます。その石を私も実際に見せてもらった事がありますが、それぐらい強い念が出ているのです。

 今でもヒマラヤの山奥に行くと、念力で大きな岩を「ウォー」と言って割ってしまう人があるそうですから、念というのはものすごいエネルギーですね。そのエネルギーを闇に使おうと、光に使おうと同じ力が出て来るのです。

 悪い方へ使えば力が弱く、良い方へ使えば良く出るという事はなくて、同じだけのエネルギーが出るのです。

 昔、悪い人の藁人形をこしらえて夜中の丑三つ時に、相手を呪い念じて釘をカンカンと打ちますと、そうすると相手殺されたりする事がよくありますね。これは悪念です。

 念は常に人様が幸せになるように、良かれと念ずる事ですね。そのようにしますと、それは光です

 神様がいらっしゃるのなら、悪念には力をなくし、良念にだけ力を与えて下さったらいいのにと思いますが、同じ力を与えられている事、つまり、どちらに使ってもよいという能力を与えられている事が、私達の魂の修行において大事な事です。

 結果は悪に使えば悪として自分に返ります。善に使えば善として返ってきます。自由に使ったあと、原因・結果の法則で自由に返ってきます。ただし、その刈り取りは自分自身であり、決して他人は刈り取ってくれません。

 地中に種を播いて、丹精込めて育てた綺麗な花を、「ああ綺麗な花が咲いているなあ、一枝欲しいなあ」と、切り取って帰る人もありますし、せっかく実らせた果物も心無い方が盗んでいく場合もあります。

 しかし心の中に播いた種を育てて咲かせた花は、どれほど綺麗な花であっても誰も盗む事はできません。収穫は自分以外の人は誰も出来ないのです

 心の収穫は自分自身であるという事が分かってきますと、悪い種は播かない様に努力する事ですね。良くない種を播けば良くない芽が出て、良くない花が咲き、良くない実がなります。良い種を播けばその逆です。

 どちらを播いても人は刈り取ってくれませんから、収穫は自分だけのものとなる事を知らねばなりません。

 今まで、そういう事には一切気が付きませんでした。
「好き放題にしたらいい、まさかそんなにきっちり返ってくる事もないだろう、ちょっとぐらい悪い事をしてもどうもないだろう」

と思っておりましたが、それが私達の苦しみの原因になっていたのです。
苦しみの原因をできるだけ作らない事です。
 
「正しく定(じょう)に入るべし」

「定」とは禅定三昧の定で、反省させて頂く事です。「正しく定に入る」とは、反省の後で、安らぎの一時を持つ事です。
 反省の後、五分でも十分でも「ああ有り難いなあ」という感謝、安らぎの時間を持つ事が正しく定に入る事です。

 定に入るというと、入定されたと受け取って、死ぬことかなと思いますが、そうではありません。反省をして、自分の過ちを悔い改め、明日の生活に再び過ちを犯しませんと誓って、そのあと感謝と安らぎの時を持つ事です。

 この「八正道」を行じ実践した時、私達は諸々の煩悩から離れる事が出来るのです。人間は煩悩にくるまれ、煩悩に包まれて生きている様なものです。煩悩とは肉体の五官からくる自己保存と自我我欲です。

 この煩悩から離れる方法として、自己中心の見方を一旦捨てて相手の立場に立って見る事を今日まで度々話してきましたが、さらに自分が部外者の立場になって、自他のいずれにもつかない見地から、自分と相手とどちらが正しいか間違っているかを見た時に、煩悩から離れた正しい見方ができます。

 すべては原因によって結果が出る、そして結果が現れたら必ずそれには原因があります。その原因は反省する事によって知る事が出来ます。私達は悪い原因を作らないために、八つの正しい生活をすることです。

 私達は知らず知らずに過ちを犯す場合も沢山あります。過ちだと知って犯す場合も、知らないで犯す場合もありますから、私達は禅定で反省する時に、

「知って犯す罪、知らないで犯す罪をお許し下さい」と言ってお詫びすることです。知って犯す罪は悔い改め、知らずに犯す罪は自ら見出すことです。 この時心は必ず安らぎます。

 そのどちらが罪深いかというと、普通この世的な常識で考えますと、知って犯す罪の方が罪深いと思うのですが、実は知らないで犯す罪の方が罪深いのです。何故かと言うと、知らないで犯す罪は罪の意識がありませんから、

それが罪深い事だと目覚める事が出来ないのです。ですから次の罪を積み重ねます。知って犯す罪は、「ああ、えらい事をしたなあ、あんな事はしなければ良かった、しまったなあ」と思います。

 罪だと知らなかったら、そのようには思えませんから、知らないで犯す罪の方が重いと、教えられているのです。知って犯す罪は悔い改める事が出来ます。知らなければ改める事ができないから、罪が深くなります。

 このように八つの正しい生き方をさせて頂く事は、幸せになるいちばん大切な根源であると説かれています。正法というものと反省とは切り離す事はできません。常に己を見つめる練習をすることです。

 他を見つめなくていいのです。反省する時、自分を見ないで他を見つめ、「あの人はあそこが悪いな」と他を見る事は、反省とは違います。
 これは人を裁いているのです。

 私達は己を見つめなくてはいけません。今日まで過去において私達は人に知られたくない事、誰にも言いたくない事、そういう罪を色々と背負っているはずです。失敗、過ち、それらを覆い隠して生きているのが我々凡夫の姿です。

「反省」とは、それらを一つ一つ掘り出していくのです。
そして、1番知られたくない、1番嫌な自分自身を引き出すことです。

「かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得
   迷いの岸より 悟りの彼岸(ひがん)に到達するものなり」

「八正道」の生活を実践した時に、私達は求める事なしに「神仏の光明」が与えられます。私達の生きるこの世は迷いの岸です。そして向こうの岸というのが悟りの彼岸です。
 私達はこちらの岸で迷っていますが、「八正道」を実践する事によって向こう側の悟りの岸へ到達する事ができます。

 お釈迦様の当時のインドは、ガンジス川(ガンガ)は川幅も広くて、こちらに住んでいる者にとって対岸は、素晴らしい世界に思われ、向こう岸はいいあなと思っていたのです。それを仏教では「悟りの世界」と説かれたのです。

 その向こう岸が彼岸です。春と秋に「お彼岸」がありますが、あれは向こうの岸の事で、それは苦しみのない安らかな悟りの世界です。その世界へ渡るためには「八正道」を実践しなさいと説かれてます。

「この時に 神仏と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん」

 心に神仏の光明を頂いた時に、神仏の心と己の心が調和され、一体となる事ができます。調和とはバランスであってハーモニーのことです。
 
 大変難しいことですが、神様の御心を人間が行いをもって現した時、神の心と調和されるはずです。ですから日々の生活において、自分が可愛いという自分を甘やかす生活をある程度犠牲にして、他へ開いの実践をする事です。

 神の御心(神我)で、差別をすることなく、どなたでも平等にお付き合いをし、人を責め裁く事をせず、どなたもみな許させて頂くことです。そして無償であること、他から一切のものを求めず、ただでさせて頂く事です。

 太陽は私たちに幸せになる方法をちゃんと教えて下さっています。太陽の心(神の大愛・慈悲と愛)を実践した時、必ず幸せが約束されます
 何故かと言うと、自分の心が苦しまないからです。

心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年8月26日 
 
 この世の中は、苦しみ、悲しみ、辛いことを体験する様に作られております。しかしよく考えてみますと、全部自分がその苦しみの原因を作っているのです。

「周りの人はみな嫌な人です。私に意地悪をされます。対人関係がうまくいきません」と言われる方がよくありますが、ご自身が心を変えていかれた時、周りの方が良くなってくれます。

 自分が良くなった時、周りの方も変わってくれるのです。悪いのは相手ではなくて自分自身が気付かない内に苦しみの原因を作っている場合が殆どです。

 その事に目覚めて過ちを正した時、周りが皆いい方に変わって頂けます。
その事を知らないから「相手が悪い、良いのは自分である」と、錯覚を起こしているのです。

 私も高橋信次先生にご縁を頂くまでは、迷える人生を送ってきました。先生のおかげで、「ああそうであった、どうしてこんな苦しい辛い思いをしなくてはいけないのかと思ったけど、それは全部自分自身に原因があった」と、はっきり掴ませて頂きました。

 そして自分が変わった時に、周りも変わってくれる事を、身をもって掴ませてもらいました。

 私の所へ来て下さる方は、皆さん素晴らしい方ばかりです。入れ墨を彫り込んで、町では恐ろしくて震え上がるような方でも、私の所へ来られたら、皆幼な子の様になって頂けます。

 自分が変わった時、どんな方でも皆素晴らしい方に変わって頂けるのです。今まで、背中からお尻まで入れ墨を入れた方がよく来られました。

 治療すると、「痛い、痛い」と、そんな方に限って悲鳴をあげますから、「身体中に傷つける事を思えば、私は身体に傷をつけないのだから辛抱しなさい」と言って、痛い目に遭わせます。

 もう十年以上前のことですが、頭のある組で揉め事が起きてもその人が顔を出したら治める力をもっていたという、八十何歳かのおじいちゃんが見えたのです。この人は背中全部に入れ墨を入れていましたね。

 木崎という有名な外科医の執刀のもとに麻酔なしでお腹の手術をしたそうで、「私はあなたに命を委せたので、好きにして下さい」と言ったのだそうです。

 ところが、その時よりも私が触った時のほうがもっと痛いと言われるのです。「えげつなく痛いですなあ」と、悲鳴を上げる事があって、このご縁で、子分の方達が次々と私の所に見えたのです。

 親分の命令だから来なくては仕方がないし、私も普通ならひどい目に遭わせるのは怖いけど、親分の命令なら怖い事もないので、かなりひどい目に遭わせて治療しましたが、皆さんはにんげんてきにはとてもいい人ばかりでした。

 こんな事も経験してきましたが、入れ墨というのは、親から頂いた満足な肉体をわざわざ針で傷つけ、この世的な凡夫の自己顕示欲を示そうとする一つの現われだと思います。

 人に対していい格好をしたいという心の働きによって、色々な人生を送っていかれますが、ほんとうの神を知らず、道を知らないから、その様になっていくのですね。

 お釈迦様が説かれた幸せへの道、「八正道」を行じる事が、人間として最も魂が完成される道筋です。自分を大事にして、自分の心を苦しめない様にして下さい。

 大変なお人好しのおじいちゃんがいて、この人は他人のために一生懸命尽くし、「ちょっとお金を貸してほしい」と言われたら、自分に持ち合わせがない時は人から借りてでも貸すのです。
 人が好いから請求する事を知らず、貸しっ放しにしています。

 ところが、返してくれないとおばあちゃんが集金に行くのです。
「借りるときのえびす顔、還すときの閻魔顔」とは凡夫誰もが同じことで、借りる時はニコニコ顔で頼みに来ますが、お金を返す時は閻魔様の様に怖い顔です。

 ましてや返してくれない時はもっと怖い顔ですから、ばあちゃんは腹を立てます。おじいちゃんはいつもご機嫌ですが、おばあちゃんは内職をして借りたお金を返さなくてはいけません。

 この世的に見ると、おじいちゃんは罪が深く、おばあちゃんは一生懸命苦労を重ねて可哀想です。人の好いおじいちゃんと、借金を返すために苦労して腹を立てているおばあちゃんとはそれぞれ死後どんな所へ行ったかといいますと、

おじいちゃんの方は、綺麗な方が紫の雲の上に乗ってお迎えに来てくれて、「有り難いなあ、結構だなあ」と言って死んでいかれたのですが、
おばあちゃんは「わあ、恐ろしいのがいっぱい来る」と言って虚空をかきむしって死んだのです。

 この実際にあった話を通して、なぜ苦労させられたおばちゃんが地獄へ行き、苦労させたおじいちゃんが極楽へ行ったのかと、この世的な矛盾があります。その理由はおじいちゃんは自分の心を苦しめる事はなくおばあちゃんは自分の心を苦しめたから、こういう結果になってしまったのです。

 自分の心を苦しめるという事はこの世だけでなく。あの世まで続くという事です。思い方を変える事、つまり大難を小難に切り替えていく思い方を身につける事です。

 現在、どんなに苦しくても、もっともっと苦しい方も沢山おられるという様に思い方を変えた時、自分の心が苦しまないはずです。心を苦しめない生活を日々に行ないますと、常に心が軽く、光明を頂く事ができます。

「かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得」

 心を苦しめないから、神仏の光明を頂く事が出来るのです。自分の心を苦しめた状態の時に神仏の光が入ってくる事は絶対にありません。常に心を穏やかに安らかに保つことによって、神仏の光明を得る事ができます

「迷いの岸より、悟りの彼岸に到達するものなり」

「迷い」とは、この世に生きて色々な錯覚を起こすという事です。今ある命はいつまでもあるように思いますが、この錯覚が迷いです。

「いつまでもあると思うな親と金」と言いますが、これだけではなく、自分の命もいつまでもありません。また、この世には苦しみがあって当然であるのに、この世は楽な世界と錯覚しています。

 お釈迦様が諭された様に、「常に苦しみがあって当たり前の世の中」と、悟る事ができたら、少々の苦しみがあっても当然だと思うことが出来、心は楽になるはずです。さらに、不浄なるもおのを浄なるものと錯覚を起こし転倒してしまうのです。

 このように錯覚を起こしている事が迷いです。仏教ではこの苦しみ迷う世界を此岸(しがん)といい、悟った向こうの岸を彼岸(ひがん)といいます。彼岸に到達するには、正しい生活の実践をしなければなりません。

「このときに 神仏の心と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん
      心は光明の世界に入(い)り 三昧の境涯に到達せん」

 先日、九州の方からの電話で「三昧(さんまい)」の意味について質問がありました。「三昧」といは煩悩の炎が消えてしまった涅槃静寂という心境をいっております。

三昧」とは元来サンスクリット語のサマーディの音訳で、仏教では「心を一つの対象に集中して乱れない精神状態」の事をいっております。
 何も念じず、何も思わず、自我を滅した心境、こうした心で私達は生活する事ができます。

 昨夜、京都からある奥さんが電話をかけてこられました。その方のご主人は、癒しの能力を持っておられて、一日に五十人も六十人も患者さんが見えるそうです。とても不思議な事をされるので生き神様の様に有り難がられて

いるのですが、ご本人は相手の苦しみを受けてしまってそこから逃れるために夜になると酒を飲みに出かける始末で、外に女性の方もいて一時の安らぎを求めるそうです。そのために生活がガタガタになっているのです。

 いくら不思議な癒しの力を頂いても、自分でコントロール出来なかったラ何にもならないです。人も救われ、自分も救われるのが正しい治療のはずです。

 私の場合は、お陰様でいくら多くの方を癒させて頂いても、相手の苦しみを受ける事はないのですが、なぜ受けないのかというと、無我の心で、自分という我を捨てきった心で癒させてもらうからです。この心を持っておれば、相手から病や苦しみを受ける事はないのです。

 これは治療に携わる者だけでなく、日々の生活においても同じことで、
「自分がしてあげた」という思いを持たない事です。

 これは難しい考え方ですけど、「神様が私を使って他のために働いて下さるのである、私がしたのではない」と、思わせて頂いたら、その時は相手から苦しみを受ける事はありません。

 これは原因結果の法則から何ものも逃れる事は出来ないという事です。今、苦しみがあればその苦しみは何か知らないけど、過去に原因があったから、今結果として苦しんでいるのです。

 自分さえ良ければ人はどうでもよい、人に尽くす事もなく、人に親切にする事もない、こういう人は裏切られる事はないから案外心を苦しめる事もなく、却(かえ)って幸せのように思えます。

 しかし、こういう生き方をすれば何らかの形でその家庭は破壊していきます。他に冷たくて思いやりもなく、人に後ろ指をさされながら隆盛にいっていたとしても、親子三代続いたという家は一軒もないはずです。

 何故かと言うと、人々と互いに手を取り合って助け合い、調和を目的として生まれてきた者が、目的を果たさずに、神仏との約束を果たしていないからです。

 だから、そんな生き方をする者はいつまでも続かない様になっているのです。「親の因果が子に報い」というようになっています。

 そこで、良い事をして不幸にならない方法は、徹底して善い行いを積ませてもらって、「これを私を通して神様がして下さっているのだ」と思う事です。そうすれば、腹の立つ部分も少なくなります。

 もしも、善き行いをしながら自分の心を苦しめた方は、その苦しみの結果を必ず自分が受けます。しかし、神様が自分を通して相手を助けて下さったと思わせてもらった時は、たとえ相手が裏ったとしても、その裏切り行為は神様に対して通じていくわけです

 途中で腹を立てたら、神様の所へ行かないで、自分が苦しみを受けるから不幸になってしまいます。一切の望む心を持たないことですね。相手のお礼の言葉、喜びの笑顔を求めても得られない時は自分が苦しいです。

 一切求めず、自分の善き行いは他(神)に委ねる事、つまり、神様が私を通して善き行いをさせて頂いたのだと思えばいいのですね。その時、人は案外裏切らないそうです。それは、神の愛を受けるから裏切らないのです。

 人間には、「私がしてやった」と、恩に着せたがる心があります。これも凡夫の心です。恩にきせられたら、どんなにいいものを貰ったとしても

くないものですが、ましてや小指の先ほどの苺や出荷した後の小さいヘタ芋を人にやって、「あそこの家へやった」と言いふらしているのは、そんなものでさえ恩に着せたがる凡夫の心を見る思いがします。

「させていただく」と、「してやった」という心では、全く天と地ほどの違いが出てきます。私達は数え切れない方々の働いて下さったお陰を受けて、生きさせて頂いています。

 米一粒、住む家一つを見ても、どれほど多くの方々の汗と労力を頂いているか分かりません。私達が死ぬまで精一杯人様のために働かせて頂いても、

なお返しきれない程の恩恵を受けているのですから、「してやる」のではなく、その万分の一でもお返しさせて頂くという気持ちで、人様のために尽くさせて頂く時、恩に着せる事はなくなると思います。
 
 恩着せる心こそ私達を苦しめる大きな原因となっています。してやった、してやった、といい格好をして自己保存・自我我欲に捉われている煩悩を捨てる事が大事かと思います。
 日々の生活において煩悩から離れた思いを学び、精進努力していきたいと思います。

 長い年月をかけて「心行」の解説をさせて頂きましたが、私ごとき未熟者がとても解説しきれるものではありません。

「心行」解釈の一端として皆様のご参考にして頂ければ幸せでございます。縁生の友の皆様がしあわせになって頂くことが私の幸せであり、皆様の苦しみは私の苦しみです。日々に精進努力して共に幸せになっていきましょう。
                         長尾弘先生の記事♪

 

目が何万ワットで光っている長尾弘先生の正法学びで綺麗な顔に♪神の御心は完全なる愛・完全な許し♪高橋信次師♪

心行の解説 講演集(下) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
         
 高血圧にならない
世界最高のお塩はこちら


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心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年3月25日 
 
 私達が必ず体験しなければならない「死」とは何であるか。その死が訪れた時、どのような心がけが必要か、私達はどこへ行かなくてはならないか、死が訪れる前に何を為すべきか、これらの事を学ぶのが私達の勉強の目的の一つです。

 生まれるという事は死が約束されています。この世を去るという一つの現実はどなたも避ける事はできません。

 お釈迦様はこの事を「たとえ山奥の洞窟に逃れても、空の彼方へ逃れても、海の彼方へ隠れても、死より逃れる所はどこにもない」とおっしゃっておられます。巡り合い、ご縁があるという事は、やがて別れるという事であって、これは避けられない事です。

 病気についても同じ事です。あなたは病気をしませんという約束はどなたも頂いておりません。いつどんな病気が起こるか分からないのです。
 
 人間の体は、四百四病の詰まっている袋であるとも言われております。いつどんな病気が起こってくるか分からないのです。今、健康な時に何をなさなければならないかというと、これはごく簡単な事です。

過ちをできるだけ少なくして、そして善き行いを多くする事」です。
これが人として生きる上での修行です。やさしそうなことであっても誠に難しい事です。

 あるバイオリンの先生が十分な練習をされた上で演奏会へ臨まれたそうですが、その結果が良くなくて自信を失われたそうです。音楽というのはハーモニーであり、音階の調和が命です。

 どれ程素晴らしい技術を身に付けましても、演奏する方の心が不調和であれば人の心には伝わっていきません。演奏会の失敗はご兄弟の間で色々と揉め事があって、調和されていなかった事が原因だったのです。

 やはり兄弟仲良くして親孝行する事ですね。素晴らしい音楽というのは調和された心から生まれるものです。

 私達の日常生活も同じことで、喧嘩していたら仕事も上手くいきません。車に乗っていて何回もムチ打ちの目に遭うのは、ただ運が悪いからではなく、原因をその人が持っているからです。

 私達の心がすべてを表し、全てを形づくっているという事に気付くべきです。病気についても同じ事で、不可抗力で内蔵が悪くなったり、怪我をするのではなく、不注意であったり、たくさん食べて内蔵に負担をかけているから、それが病となって現れるのです。

 足ることを忘れた結果として現れるのです。もちろん、先天的な病気もありますが、殆どの病気は自分が作ったものです。

 どうかこの世にいる間に苦しみの原因を作らないように、私達は素晴らしい世界から生まれてきている事を自覚して、また素晴らしい世界へ帰るのだという事に心を思い描いて下さい。

「正しく仕事をなし 正しく生き

 今日の「心行」の解説は仕事についてお話させて頂きます。
世の中の殆どの方は仕事をしていらっしゃいます。

 なぜ仕事をしなければいけないかというと、私達は人様の労働のお陰で生きさせてもらっていますから、そのご恩返しをするために仕事をするわけです。仕事の目的はお金儲けとは違います。

 私達は、人様が一生懸命汗水を流し物を作ったり販売して下さったりするお陰で生きさせてもらっているのですね。例えば鉛筆1本をとってみましても、外側の木は大きな材木を切らなくてはなりません。

 中の芯は鉱物ですから、まず掘り起こし次に加工します。そして色を塗ったり印刷したりして、一本の鉛筆のためにどれだけ多くの方が労力を使って下さるか分かりません。食べるものについても同じです。

 お米一粒に八十八回の労力がかかるそうで、それだけ手をかけないと出来ないお米は私達は三度三度頂いております。まさに人の労力を頂いているという事です。

 魚についてみますと、漁をされる方が海に出られるのは命懸けです。その魚を私達は頂いております。野菜にしても牛肉にしても、それぞれ大変な努力のお陰で私達の口に届いております。

 着る服もそうですね。布地が出来るまでは、まず羊を飼い、羊が成長するまでが大変で、その毛を刈り取って大量にまとまったものが輸出輸入の労力を通して日本に入ってきます。

 輸入された羊毛はお尻の辺りには便がいっぱいついていますし、バーといってくるくる巻いた棘の生えた植物の実の様なものが沢山ついていて、それを一つの工程を通して燃やしてしまいます。

 次に整毛してやっと紡績へ運ばれて糸になります。いろいろな色に染め、織り上げたものを仕立て一着の服になるのです。どれほど大勢の方たちの労力を頂いているか計り知れません。住まわせて頂く家もまた労働を通して多くの方々の恩恵を頂いております。まさに血と汗の塊です。

 そうであれば、私達もどんな仕事でも、仕事に貴い賎しいの差はありませんから、自分の肉体を動かして、生きさせて頂いているご恩報じをさせてもらうのです。これが仕事の意義です。

 仕事についての目的を尋ねますと、その方その方によって答が違います。「私はご馳走を食べるために働いています」と言われる方があります。

 昨日寄せてもらった香港、中国の地はそれはそれは食べるのが好きな所です。二時間も三時間もかけて、ご馳走が次から次から出てきます。私は日頃少食で通していますが、次々と出して頂いたら自分でもようこれだけ入るなあと思うほど入るのですね。

 食べるために働いている、家を建てたいから働いている、車のローンを支払わなくてはいけないから働いている、家族を養うために働いているという具合に、各自目的を持っておられます。しかし本当の目的とはそんなものではないのです。

 正しい仕事の意味は、どんな仕事でもいいから、自分の肉体を使って自分が生きさせてもらっていることへのご恩返しをする事です。仕事をしないで食べさせて頂くような生活をしますと、人様の血と汗を吸う「吸血鬼」と同じ事になります。

 肉体を動かしてご恩返しをさせて頂くという心がけで仕事をさせてもらいますと、給料の多い少ないという不足の思いは減少します。

 仕事というのは給料をもらうためだけにするものではなくて、ご恩返しをさせて頂いて、しかも貰おうと思わなくてもお給料として報酬が頂けます。

「ありがたいなあ」と思って仕事をしますと、不足も出ません。
「私はこの仕事を通してご恩返しをさせて頂いている」と思えば不足の出るはずはないのです。

 世の中は不足の出る方が非常に多いです。そんな中にあって、一生懸命ご恩返しさせて頂くと思えば、陰日向なく働けるはずで、人が見ていようが見ていまいが精一杯協力させて頂いたなら、おのずと人の目につきます。

 ある所で、仕事についてお話をさせてもらいましたら、ある方が
「このせちがらい世の中で、そんな事を言っていては生きていけません」とおっしゃったのです。

 しかしそんな事はありません。会社や企業にサラリーマンとして勤めたとします。企業というのは大きくならなければいけないというカルマ(業)を持っていて、潰してはならず、利益を上げなくてはならず、そうでなければ企業として成り立ちません。

 また企業というのは人材をもって成り立っています。いくらコンピューターが発達しても、それを使う優秀な人材が必要です。企業の上の方は社員をずっと見ています。

 下から上を見てもよく見えませんが、上から下を見るとよく見えます。そして陰日向なく一生懸命働いている人は会社のためになる、あれなら大丈夫だと上のポストに引き上げます。

 素晴らしい人材というのは、どこにでも必要なものです。主婦は家族のために「生きさせて頂いているご恩返しをさせてもらうのだ」と思って、ご馳走を作り洗濯をさせて頂くのです。仕事というのは、お金儲けのためだけにするものではないという事をはっきりと知りたいと思います。

 いくら時代が変わり環境が変わっても、本当の真理というものは変わらないものです。お日様が西の方から上がってこられる事はありませんし、水は低い所から高いところへは流れません。人間は必ず年をとっていきます。

 花開く前は一番美しい時であり、今、花の盛りの十七、八は男も女も美しいです。しかし五十年、六十年も過ぎますと、顔を見るのも恐ろしいなあという顔に変わっていく場合もあります。

 正法を勉強なさっている方は、いくら年をとっても素晴らしく綺麗な顔をなさっていますのは、心に安らぎがあるからです。法に縁なく年をとっていきますと、終わりにはお化けのような顔になっていく方もあります。

 何故かと言うと、年と共に過ちを繰り返し、罪を積んでいくからです。幼い赤ちゃんはいくら見ていても飽きのこない何とも言えない安らかな良い顔をしています。心が曇っていないから顔が綺麗なのです。

 目は心の窓といいますが、心が曇ってくると目もどんよりしてきます。私の目は寝不足でございますけど、目がだんだん汚くなってきます。

 世の中には不思議な事があって、人間に、霊が取り憑いている場合、目の玉が死んだ魚の様になっている人がいます。
 目に鱗(うろこ)がついた様になっていますが、不思議なもので、ついている霊をお救いした途端にその方の目は綺麗になります。

 去年の暮の事ですが、静岡である赤ちゃんがこのままいけば半身不随で一生下の世話をしなくてはいけない、大手術をしても治るかどうか分からないという事で、何とか治して下さいという連絡があって、寄せて頂きました。

 生まれて一ヶ月の赤ちゃんが手を出されて合掌されたのです。
おばあちゃんもお母さんも泣いて「こんな赤ちゃんが合掌して……」と言って感激されました。

 生後一ヶ月の赤ちゃんが抱かれて、小さな手で合掌される姿を見せて頂くと、人は神の子であり、人の心の中には仏性、神の心が宿って下さっている事を目の当たりにさせて頂く思いがしました。

 それがだんだん成長して、手足が自由に動くようになっていたずらをし始めますと、大人の目で見ていけない事は「いけません」と叱られます。

 その度に子供さんにとっては都合が悪いのです。自分のしたい事を止められますからだんだん心に曇りを作ります。三歳ぐらいになりますと、ものの見事に心の中は真っ黒になります。

 神の心と人間の心との間にカーテンを下ろしてしまいます。こうして幼い頃、善悪の判断もつかない時に犯した罪の上に、成長と共に苦しみの原因を積み重ねてその苦しみを背負いながら生きていますから、殆どの方が亡くなった時うまく成仏できないで、硬直を起こしてしまいます。

 私達は硬くなるのが当たり前と思っていますが、これはうまく成仏していない証拠です。死後の体が柔らかくて温かく、皺も消えて綺麗なお顔になっている方は間違い無しに迷ってはおられません。

 人間はこの世だけが全てではありません。それを死ぬのは嫌だ、死にたくないと思いながら死んでいきますと、生き続けたいという正への執着の為に迷ってしまいます。

 あの世に帰っても魂は生き続け、そしてまたやがてこの世へ転生してくるのであり、今は修行の過程であるという事が理解できた時、死への恐怖は自然となくなります。

 私達の学びの仲間は、死ぬという事は少しも怖いと思わなくなりましたとおっしゃっています。
 怖くないからといって自殺してはいけません。これはいい所へ行けないのです。自殺は自然の法則に背く事で神の御心に背く行為ですから、自分の良心が自分を責めてきて、救われ難いのですね。

 自殺された方に縁がありましたら、
「あなたの自殺という行為は、ほんとうの神様の御心に背いた行為です。その事に目覚めなさい。神様に背いて人は幸せにはなれません。自然に従った生活こそ神に従う生活です」と、よくお話させて頂くのですね。

 神様は「汝らは我が愛し子であることに目覚めよ、愛ゆえに汝らをこの厳しい現象界に旅立たせしものなり」と言われています。

 可愛いから私達をこの世界に生まれさせて、私達の魂を進化させ、神の様な心にさせるために転生輪廻させて下さっているのです。
 私達の学びの友、ご縁のあった方たちはみな綺麗なお顔でこの世を去っておられます。そういう嬉しいお便りを次々と頂いております。   

心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年4月22日 

 日々の生活を振り返って、「私の今までの考えは間違っていたなあ」と気付いたら心が軽くなります。心を軽くしておきますと、やがて全ての方に訪れる死の時に、苦しみ少なく、軽いが故に素晴らしい世界へ上がっていく事が出来ます。

 死ねば終わりであるとか、燃やしてしまえばなくなるとおっしゃる方もありますが、死後の世界は確かにあるようでございます。

 あるおばあちゃんは、自分のお兄さんが亡くなられたあと身体が悪くなりまして、今朝もここで横になって死にかけているほど具合が悪かったのですが、お兄さんに天上界へ上がって頂いたら、たちまち身体が良くなられた様です。

 見えない世界はないものと思っておりますが、形として見えない世界があるという証拠として、私達の肉体を通して、つまり物質を通して不思議な現象を見る事が出来ます。

 先月香港でフェリーに乗る時、乗り場まで歩いた後の大地がキラキラと光っているのがビデオに映っています。歩いた後に金がいっぱい出ているのです。私の立っていた所には丼一杯ほどの金粉が出てきました

 常識では考えられない不思議な事を、形として現して頂いています。理屈では考えつかない事がなぜ起こるのかというと、

神様の御心に近づけさせてほしい、この肉体をもって実践させてほしいと願って、行いを積み重ねていきますと、目に見えない神様の全く次元の違う世界からの証として、普通では考えられない、人智では計り知れない事が働きかけられるのです。

 私達がやがて帰っていく世界からの働きかけです。私達は暗い嫌な世界ではなく、喜びと安らぎと調和に満たされた素晴らしい世界へ帰らなくてはいけないのです。

 数え切れないほど多くの宗教がありますが、死後まで救われる宗教というのは余り聞きません。
 念仏を唱えたら極楽へ行けるとか、一生懸命拝んだら極楽へ行けるとか教えていますが、殆どの人は死後硬直のために醜い姿に変わっています。

 私達の学びは、自分の過ちに気付いて神様にお詫びをして悔い改め自ら目覚める学びをしています。その時神様から許して頂けます。

 拝まなくても、お参りをしなくてもいい、ただ「ああそうか、私は間違っていた」と気付かせてもらえばいいのです。正しい法には偉大な力が秘められていますから、大往生なさった方の報告はたくさん届いております。

「南無妙法蓮華経」と唱えれば素晴らしい世界に救われるという信仰をなさったあるご婦人の方と縁があってお会いした時、私の目が何万ワットという光で光ったのを見たそうです。

 生きた人から「こんなにすごい光が出ているのを見た事がない。これは正宗より上だと思った」とおっしゃっていました。

その方が今まで信仰していた宗教の偉い方が亡くなった時、
「綺麗なお顔で極楽往生させて頂きました。どうぞ見てあげて下さい」

と言われて、顔を覆ってあった布をはずして見ましたら、それはそれは恐ろしい顔で、目は落ち込んで暗い山間(やまあい)の日の射い陰気な池が二つあるようで、まるで牙を向いた様な相になっていたそうです。

 死後そのような醜い姿になったら、いくらこの世で偉い方でありましても、いい世界へ行く事はできません。

 他の宗教の批判をいう事はないのですが、間違った宗教からは目覚めて、幸せにならなくてはいけません。ある宗教では選挙闘争、折伏闘争、題目闘争という事を教えております。これでは決して安らぎは得られないのです。

 闘争の中に安らぎがあるはずがないからです。闘争を教える様な宗教も全て同じで、本当の神様から離れた教えです。
 神は争い戦いなさいとは言われません。神は完全なる愛、完全なる許しであり、その愛の行ないこそ神の御心です

「私の宗教は正しい。他の信仰をしていたら地獄へ行く」と、他を非難中傷するのは、神の御心から離れます。

 常に自然を愛し、人間を愛し、完全なる許しを教える事こそ本当の教えではないかと思います。他を裁く時間があれば自分自身を裁く時間を持つ方が大事ではないかと思います。

 全く無償の、何のものも求めないご奉仕をさせて頂く事です。午前中三十人ほどの癒しをさせて頂きました。間違ってもおらっては困るのは、私達の学びはあくまでも自力であって、病気治しではないという事です。

 病気治しはただ方便であるという事を理解する事です。癒しというのは神様がいて下さり、私達は皆同じように五官、肉体を持ち、その肉体を通して人を救う事が出来るという一つの証であり、心が救われていくためのただの方便だという事をわかって下さい。

 あそこへ行けば病気が治る、歩けるようになったというだけでは何にもならないのであって、日々の生活の中で、心の正しいあり方を実践すれば、健康が頂けて病気も癒され幸せになれるのだという事を理解して下さい。

 心に目覚めないでいて、痛み苦しみが救われたとしても、原因が心にあるものなら、その原因がとれていなければ結果を消したとしても、また原因が出て病気は後戻りします。まず心を自分で綺麗にして愛の実践をして頂くのが、健康になり幸せになる秘訣ではないかと思います。

 心が綺麗になった時、死後の世界もまた素晴らしい世界である事が約束されます。「心行」の解説は今、「八正道」についての勉強を進めています。

 お釈迦様は「苦しみを滅し、解脱する道」が正なる八支(はっし)とお説き下さいました。その苦しみとは、まず欲望です。欲望がなければ生きていけませんが、必要以上の欲、つまり「貪欲」を持ってはいけません。

 お腹が空けば適当な食事を適当な量だけ食べ身を養う事は善ですが、美味しいからといってお腹いっぱい食べて腹痛を起こしたら、これは悪です。

「欲望」というのは行ないを起こす前は善でも悪でもないのですが、捉われた時は悪になり、その行ない次第によって善にもなり、悪にもなります。
 お腹が空いたといってよそのものを盗んだら悪ですが、適当に頂いて心身の健康を養った時は善き行いです。

 自分の欲望をどう使うかが問題であって、欲望に捉われると際限がないものです。のどが渇いて水が欲しいと求める欲望を仏教では「無記(むき)」という言葉で説いています。

「無記」というのは善でも悪でもなく本来人間にあるものです。欲望の使い方によって、咽の乾いた人が水を求めて止まない様なのを「渇愛(かつあい)」という言葉で説かれております。
「求めて止まない」のをインドの言葉ではタンハーといいます。

「欲望」の中には3つの欲があって、

その一つは欲愛(性の欲望)、
その二は有愛(美味しいものを食べたい、人より良い家に住みたい)、
の三は無有愛〈名誉、権力、名声を持ちたい)

 
です。生きるための欲望、渇愛という求めて止まない欲望が私達を大きく苦しめています。その求めて止まない思いを大きく滅するのが「八正道」だといわれています。

 その教えの中に、「比丘(びく)たちよ、これが区の滅尽の聖諦(せいたい)である。渇愛を余すところなく滅し捨て去り、もはや執着するもののなき状態に至る。求めて止まない欲望を心から離し、苦しみを滅してしまう方法が正なる八支の道である」と説かれています。

「正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ること、正しく行じること、正しく生きること、正しく精進すること、正しく念じ、正しく定に入る(反しする)こと」と、正しい八つの道を説いて頂いています。

 人間は欲愛とか、生きるための自己保存や自我我欲の欲望とか、求めて止まない地位名誉権勢欲とか、いわば渇愛の塊のようなものです。

 政治家の話を聞いていると恥ずかしいです。色々な政党の偉い人が話しているのを聞くと、皆「自分が正しくて、人が悪い」と言い合いをしていますが、自らを正す事が正しい道であって、人の間違いを正す道ではないはずです。

「八正道」には八つの正しい生き方が示してあります。この世には苦しみがあるというのは真理であり、苦しみは生まれ起きるというのも真理であり、生まれ起きるものであれば、これを滅し尽くす事も真理であり、滅尽に至る道も真理である。
 苦の滅尽に至る道こそ「八正道」であると、説かれています。

 正しい「ものの見方」をするのには、心が平静でなくてはなりません。腹が立っていたり愚痴に捉われている時、また他を憎んでいる時は正しく見る事はできません。また疑心暗鬼でいても正しく見えません。

 そのような思いを一切持たず、平静な心で物事を見た時は正しく見えます。人の話を考え事をしながら聞く時は、耳はあいていても聞こえないものです。心が他の事に集中していると、五官が働いてくれません。

 私達は自分の心のあり方によって幸せになったり不幸せになったりします。喜びいっぱいの幸せの中にありながら、その心を横に向けたために幸せを失ってしまう方が多いです。 聖書の中に、

「賢い女はその手で幸せを築き、愚かな女はその手で幸せを破壊する」と書かれています。どうぞ愚かな女にならないようにして下さい。

 男の人も同じ事ですが、女性の方に多いのです特に注意して頂きます様に。これは私が言っているのではなくて、神様が言っておられるのです。

「正しく見る」には、しっかりと心を据えて見なくては見えません。いっぱい花が咲いている中にあって他の事に心が集中していたら、綺麗な花さえ見えないのであって、そういう心では、ものが正しく見えるはずがありません。

 正しくものが見えなかった時、私達の心は正しく思えないのです。間違った見方をすると、間違った思い方をするようになり、間違った思いをすると、間違った言葉が出てきます。正しく見た時、正しく思えるはずで、正しい言葉が出てきて、正しい行ないが出来るのです。

「正見」は、3つに分ける事ができます。
一は、「妄(もうぼ)」を離れ、間違った見方をしない事です。明晰でない、如実でない、真実に即さないそういう明確に話さない言葉は間違いです。

 正法を学ぶ者は「八正道」を実践してこそ苦しみから救われるとお釈迦様は説いておられます。事実無根の事を確認もしないで言ったり書いたりしたら、お釈迦様の教えから失格とい事です。

 真実に即していない言葉は使ってはいけません。真実に即さない明確でない言葉を使う事は一般的な言い方をすれば「嘘つき」であり、悪い事です。

第二は、「転倒」を離れる事です。人間は「常転倒」していますが、この世にあるもので常にあるものは何ものもなく、全ては移(うつ)ろい変わっているという事です。

 赤ちゃんは何年か経てば成長し、一人前になり、年老いてやがて死んでいきます。花も、種を播き芽が出て成長して花が咲きますが、時間が経てば消えていきます。移ろい変わりゆくものが、いつまでもあると錯覚を起こしていますが、その先には必ず死がやって来ます。

 これは厳粛なる事実です。自分はいつまでも生きられるのだと錯覚を起こして、よその方が亡くなられると、「気の毒にねえ、まだ若いのに」と、他人事のように言っていますが、これはやがて必ず来る自分の事です。

 常にあると思ってはいけません。「移ろい変わりゆくもの」と、自覚する事です。これを常にあるものと転倒するのが私達です。
 
 本来この世というものは苦しみの海であるのに、楽な世であると錯覚を起こしています。自分の思う様にならない苦しみがあって当然なのに、楽な世である様な錯覚を起しているのです。これを「楽転倒」といいます。

 本来は不浄なる存在であるべき人間を、浄なるものと錯覚を起こしています。
 お釈迦様は人間の肉体は目くそ、鼻くそ、歯くそ、耳くそ、便尿など不浄なるものを詰め込んだ皮袋の様なものと言われましたが、それを浄なるものと錯覚を起こしているのです。

 お釈迦様のおっしゃっている不浄なる存在を、浄なる存在と「浄転倒」しています。

 まず転倒を離れ、錯覚した見方をしない事です。この事をはっきりと知る事です。常に無きものをあると錯覚し、本来苦しみである人生を楽なものであると錯覚して、ちょっと苦しいとすぐ私は不幸だと泣き叫びます。

 親子の関係も夫婦の関係も同じことで、いつまでもあるものと思っています。「我転倒」は自分自身さえやがて消えてなくなる無我なる存在を「我、有り」と転倒します。
 
 先日もご主人に先立たれて毎日泣いてお墓参りをしている六十代半ばの女性の方が来られて、生きていた時は、ガラスを粉にして食べさせたけど、亡くなったら毎日お墓に参って泣いていると言われます。

 ひどい人もあったものです。女の人は怖いから男性の方は注意しないとガラスを食べさせられます。逆に、奥さんがあまりご馳走を食べさせるとご主人は必ず病気になって早く死にます。

 ご馳走を食べると寿命を縮めてしまいます。腹八分目か、六分目ぐらいが1番いいのです。それを十二分目ぐらい食べ過ぎるから身体に良くないのです。
 死ぬと、泣いてお墓へ参っていますが、これが二十年、三十年寿命が延びたらどうなると思いますか。

 わずか二十年、二十五年の差で毎日泣いていた人も、もし夫が病気になり八十過ぎて看病疲れしてしまいますと、
「おじいちゃん、もういい加減死んで下さいよ」と、頼むようになります。人間の心というものはいつか移ろい変わっていくものです。

 人は極端を喜ぶ性質を持っていて、すごい苦行をするとか、快楽主義に走るとか、好き勝手放題にすればいいのだという思いに向かいがちですが、両極端の生き方を避けて、中道の道を生きるべきです。

 以上の3つ、「妄」「転倒」「極端」を離れ、心は常に平静を心がけて日々の生活で実践した時に、「八正道」を行じる事ができます。
これをお釈迦様は「苦しみを解脱する道」とおっしゃっています。皆様にはどうぞ心のあり方に目覚めて頂いて、お幸せになって頂きたいと思います。
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善意なる第三者とは神から見た視点♪疑問と猜疑心の違い♪正法は商法に通ず♪心行の解説♪長尾弘先生♪高橋信次師♪

心行の解説 講演集(下) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
           
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心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年1月28日 

「いっさいの諸現象に対し 正しく見 正しく思い」

 今日から「八正道」の教えに入ります。私達が生きているという事は、色々の出来事の中にいるという事です。起こる出来事に自己保存という欲がある場合、自分にとって都合の悪い人には腹が立ってきます。

 腹が立つ時、もし自分の方が正しいと思えば、すでに間違いで、正しく見た事にはなりません。自分という立場からいったん離れて、相手の立場に立ってみる事です。身体をつねると痛いし、人から悪く言われると辛いですから、何か出来事があった時は相手の人はどうだろうかと思い遣ってみるのです。

 しかし、相手の話千葉にばかり立つとこれまた片寄りますから、善意なる第三者の立場に立って、相手と自分とどちらが無理を言っているか無茶をしているかと、第三者つまり神の立場に立って見ることです。

 ものを正しく見ようと思いますと、平静でなくては見ることはできません。水の入ったかめでも土鍋でも、上から見ますと綺麗に顔が映りますが、煮え立ってくると映りません。これと同じで、怒りに煮えたぎっていると心が乱れて正しく見る事ができません。

「疑問」は持っていいけれど、「猜疑心」は持ってはならないといわれます。疑いを懐に入れた猜疑心を持ってはなりません。

 綺麗な水を放っておくと、藻が生えてきて顔が綺麗に映らない様に、貪欲に振り回されると全く映らなくなりますし、不調和の時は映らない様にできています。怒り、妬み、謗り、愚痴、不安、貪欲の心を持つと、正しくものを見る事ができないようになっています。

「八正道」は、まず最初に正しく見る事が説かれています。心に苦しみの原因を持っていては正しく見る事ができません。

 現れてくる一切の諸現象に対して、まず正しく見る事ができなかったら、正しく思う事もできず、正しく語る事もできません。だから「正見」という事を八正道の第一項目に説いておられるのです。

 世の中には色々な宗教があります。高橋信次先生が説かれたものでも、これは本物か偽者かと、常に正しく見ていかなくてはいけません。

 商売も同じです。「あの人は運が悪いせいか、いつも商売不振に陥る」というのは、本人が正しく見ていない事が原因しております。
 正法は商法に通ずと言われる様に、取引先を正しく見てこの取引を危ないと思えば、近づかない様にすれば不渡りを食う事はないのです。

 また普通世の中では、儲かったら自分の懐へ入れようとします。そして栄蘭栄華に暮らそうとしますが、そうするとやがてお金が入らなくなるのです。

 貪欲の心を少なくした時は、気持ちよく儲けたものを出させて頂く事ができます。物事を正しく見るという事はこういう事で、腹を立て、愚痴を言えば苦しいはずですし、心配をしてよくなるものは一つもありません。

 想念は思いを作り、私達の思った通りの形となって現れます。草も花も木も神の想念によって現れたものです。自然界は神の思いが形となったもので、全部神様の思いの結晶です。私達も、神ご自身が現れて下さったものです。

 また人間の手をもって作られたものは全て人の思いによって作られたものです。自然界は神の思いによって現れており、人が作ったものは家もビルも、飛行機もロケットも人工衛星も、みんな人の思いによって現れたものです。

 思いなくして現れたものは何一つありません。今生きておれば、その人の思いがこの場所に現れるのです。家を建てたいと思えば、設計士や大工さんと相談して思いが形になって家として現れます。

 最初、このお話会は私の所の本宅の座敷でしていました。そして公民館でお話する様になりましたが、工場が空いているのだから内装してもられば公民館を借りる経費も要らないと思って、またこちらでお話会をする様になりました。

 その内狭くなったので広く増築してもらいました。マイクにしても建具にしても想念が形となって現れるのですから、これを忘れると思い方が間違ってきます。

 まず正しく見、そして正しく思うことです。想念の中に不調和な思いをしない事です。例えば取越苦労をすると不幸な結果を呼ぶことになります。

 常に幸せな環境を作るためには、思いの中で全てのものを生かそうとする事が大切です。他を幸せにする思いがそのまま自分の幸せに繋がります。

 疑心暗鬼の思いを持っている人は、その目を見たら疑い深そうな目をしています。いつも安らいで人の幸せを思っている人の目は安らいでいます。

 何かしら暖かい光に包まれており、そういう人の側にいると、腹の立つ思いは起こりません。想念は形となって現れ、心は表情となって表れます。安らかな顔はにこやかで穏やかです。心の動きによって笑う時、怒る時、泣く時に働く筋肉はすべて表情となって表れます。

 心の形が表情となって顔に現象化しているだけです。
「笑う門には福来る」と言いますが、和やかに過ごしたいと思います。

心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年2月25日 

 今日は雨の中、こんなに多くの方に集まって頂きまして心からお礼申し上げます。私達が「心」を求め、心を学ばせて頂く事は本当に尊い事です。

 私達はこの肉体があって自分がある、つまり肉体が自分であると思っておりますが、この肉体を動かしている見えない力があります。その力が肉体の中のどこかに間違いなくあって、その力を「こころ」と言っております。

 私達は常に「心というものはある」と思い、「心の友」とか「心の学び」とかいっておりますが、そのもっと奥に形もなく触れる事もできない霊、霊魂が私達の中にちゃんとあるのです。この霊は永遠にして不滅です。絶対に死なないものです。人類の悲願は死んでも死なない命を得ることです。

 これこそ全人類の悲願です。その「死んでも死なない命」を現実に私達は与えられていますが、この事実を知らないでいました。この肉体が全てであると思い、肉体が死んでしまった時に私達は終わってしまうと思っておりました。

 しかし私達はこの「死んでも死なない命」に目覚めなくてはなりませんね。
法を学ぶと「そういう事なら安心してこの世を卒業できる」という事がはっきり分かってきます。心からその事が理解できますと、死の恐怖はなくなるのですね。安心してこの世を卒業する事ができます。

 何か死後の世界の事ばかりの様に聞こえるかもしれませんが、この世界は、今生きている私達の生活が死後そのまま続いていくのですから、要は今をいかに生きるかという問題です。今の一瞬に、私達が果たさなくてはいけない使命を大事にする事です。

「私は小さい時は一つも過ちがありませんでした」とおっしゃる方がありましたが、過ちがあればこそ苦しいのです。幼い頃、過ちがなかったのならば成長して過ちが起きる事はありません。

 私達は過去世において勉強をやり残した分を、今人生学んでいるわけで、過ちを犯して当然、過ちがあってもこれを悔い改めていく所に人生の意義があります。過ちを繰り返したら何にもならず、また来世へ持ち越してしまいます。

 だから今生で一つでも二つでも正していくべきで、これが人生の学びです。今生で勉強をやり残した分は、また今度生まれ変わった時にその残りを学習させられます。それを全て卒業したら、来世はもう学ぶ事からはずれ、この世に転生する事はありません。

 私達はだんだん魂を進化向上させていって、最終的には神の御胸(みむね)の中に到達するのです。仏の御胸の中に返るために私達は生まれてきております。

 何回も何回も生まれ変わる事を仏教では輪廻転生と説かれていますが、そのようにして自分の魂を向上させているのです。自分の持っている悪い癖、欠点を少なくして、「これだけ少なくしてきました」と天上界へ帰った時にご報告させて頂ける様なこの世の生活を送りたいと思います。

「正しく見 正しく思い 正しく語り

 まず正しく見ること、正しく見ることができなかったら、正しく思えない、そして正しく思う事ができなかったら正しく語れなくなります。しかしどのような思いが正しいのか、中々その基準がつかめません。

 そこでいつもお話する「太陽の心」を我が心の思いとして実践すればいいのではないかと思います。これは永遠の真理です。

 自分を犠牲にして慈愛を他に与える、一切の差別をせず他に与える、人の過ちを責めたり裁いたり罰を与えたりしない、この様なお日様の思いを持たせて頂いて、他の方の幸せのために働かせて頂く事です。

 私達の思いは自由です。一念三千といって、一瞬の内に三千の思いが出来るという程、心は動き回ります。「心」は昔「ころころ」と言ったそうです。

 それほど心はころころと転げ回るものです。「ころころ」がいつの間にか「こころ」になったそうです。
 今いいことを思っているかと思うと、次の瞬間にはもう悪いことを思ったりして、現れてくる出来事によってころころと動き回るものです。

 しかし、常にお日様の心を忘れない様にして、お日様の姿を思いの中にとどめますと正しく思えると思います。他を生かす愛の思いも、太陽の中にはちゃんと与えられています。

 悪い思いをしておりますと、必ず悪い事ばかりが日常生活の中に出てくるはずです。悪い言葉を出しておりますと、悪い行いが始まってきます。

 心の毒は数々ありますが、もっともいけないのは呪いです。「呪う」という思いそのものは、相手を倒すというよりもまず自分が苦しむ事になります。

「何とか相手をやっつけたい」という苦しい思いが、呪いとなって行動に移るわけです。呪えば必ず相手と自分とは共倒れになります。

 現実に、「私は丑の刻参りをしました」というお方に、何人もお会いしました。「それだけは止めなさい。必ず自分の肉体、或いは心がずたずたになってきます」とお話させて頂いた事がありました。

 現実にその人は、体ががたがたになっておりました。思いの中には、そのような恐ろしい思いもあります。

 思いが楽しければ言葉も正しく語れるはずです。「正しく見る」について、言葉というものは、ただものを言えば言えるのですから、

私達は何とも思わないで色んな事を口走っていますが、言葉は「諸刃の剣」とも言われる様に、相手の方に死ぬよりも辛い思いを与えますし、また、一方相手に無常の喜びを与える事もできます。

 私が十四、五年前の自分の悪い癖を正すのに、まず怒りっぽいのと愚痴っぽい事をどのように直したらいいか、正す方法を守護霊さんにお尋ねしたときの

お話はよくしますが、私の話し方が下手であるために相手に理解してもらえず、言った事を行なってもらえないから腹を立てているという点を守護霊さんに指摘して頂いたのです。

「これをこのようにしておいて下さい」とお願いした事が相手によく分かってもらえればちゃんとしてくれるはずですが、言う事を聞いてくれないから、「本当にいくら言えば分かるのか、仕様のない奴だ」と言って、カッカと腹を立てていたのです。

 私は自分が話下手なのはよく知っていますが、それが怒りと愚痴に繋がっているとは知りませんでした。

 その時、守護霊さんから、「この同じく力出る言葉によって相手を無常の喜びに導く事も出来るし、まだ死よりも辛い思いを与える事もできる。だからあなたは口を開けば、人々に安らぎ、希望、喜びを与えなさい、それ以外の事を口に出してはいけない」と注意されたのです。

 言葉の持つ力など考えもせず使っていましたが、それがやがて自分に苦しみとなって返ってきた事が沢山あったという事も学ばせて頂きました。

 言葉は生きています。人を傷つける事も出来れば、その傷を癒やす事も出来るのです。言葉には力があるのです。言葉に力があるという教えを頂くまで、私は気付きませんでした。

 言葉の持つ力については相手を信じる度合いが強ければ強いほどその人の言葉が偉大な力を現します。
「あれほど偉い人が言われるのだから間違いない、あの人がおっしゃった事だから-----」と、聞いた言葉が力になり、一種の啓示を受ける事もあります。

 ある偉い先生は、相手の死ぬ日を、天上界の神から聞いてきたと言って話されます。そんな事は人に言うべき事ではありません。ほんとうの神の使いであれば人に恐怖を与えるはずはありません。

 ある方は偉い先生がおっしゃったのだから間違いないと信じてしまい、その日が近づいた頃には完全に死相が現れていました。しかしその方は、「そんな馬鹿な事はありません」という私の「言葉」によって生き返ったのです。

 その人は「その日になったら死ぬのだ」と、不安と恐怖の迷いの中ではまってしまいます。たまたまご縁があってその方に光を入れますと、いっぺんに生き返ってくれて、その後もう七、八年になります。これは「言葉」によって死が近づいたのであり、また逆に「言葉」によって生き返ったのです。

「正しく仕事をなし」

 先生と言われる方たち、宗教に関して教えの道を説く方たち、また、その教えそのものに殊に大事な事は、実践面です。「正しく仕事をなす」事が伴わなくてはならないという事です。

 この間、山口の方からツアーで十六人訪ねて下さり、皆泊まって楽しいひと時を過ごして帰って頂きました。各人が色々な信仰を持っておられるのですね。

 ある宗教にお金ばかり入れて何千万円という借金をしてしまった方は、鉄工所をなさっているのですが、息子さんが、「こんな大きな借金を作って、私は後を継げない、協力もできない」と、ものも言ってくれないそうです。

 せっかく信仰しても借金をこしらえて、しかも家庭の中は親子の対話もなくなってしまったのですが、一体なぜそういう事が起きるのかという事です。

 嬉しいことに去年の11月に、同じ信仰をなさっていたある方が見えて、「もう止めます。二十何年間も頑張ってきましたけど、先生にご縁を頂いてその間違いがはっきり分かりました」とおっしゃったのですね。

 この方はガソリンスタンドを経営なさっているのですが、ちゃんと止めると報告を済ませますと、暮からお正月にかけてタンクが空っぽになるほどガソリンが売れたそうです。営業をはじめて以来というほどです。

 お正月に一千万円貯金したとおっしゃっています。「よう儲けましたなあ」と言うと、「先生は本当に福の神です」とおっしゃっていました。

 ガソリンスタンドといえば直接お客さんと接触しますから、喧嘩しながら家の者がうっとうしい顔をしてガソリンを売っていましたら、人は寄り付きません。

 それを、「ああ良かった、本当に有り難い」と言って、家の者がニコニコしてお客さんに接していたら、「あそこへ行ってみようか」と、よそへ行っていた人まで来てくれる様になりますね。

 そして思わぬ売上と利益を上げる事が出来るのです。そうであれば、何もそんな信仰をしなくても、家の中で皆が仲良くして、気持ちよくお客さんと接していれば商売は繁盛するのです。

 1番いけない間違いは、「この神様にお参りしたら金儲けができる」といって拝む事です。「六根清浄、六根清浄」といって山に登ったら儲かるといって行くのです。そのようにすれば上手くいくと思っている所が間違いです。

 滝に打たれて、大変寒い時に苦行をされるのですが、ある旦那さんは二号さんと一緒に滝に打たれているのです。

「あなた、それは止めなさい。そんな事をするよりもまず日々の生活を正す方が大事だと思います。生活を正さずして、百万遍滝に打たれても出て来る結果は同じことです。まず自らを正さなければいけません」と話したのです。

 また、神仏にお参りすれば幸せになれる、と他力信仰では思うのですが、自分の行いを正さないままにいくらお参りしても何の効き目もありません。

 とてもいい話をされる女の先生を知っています。「まあ、素晴らしいなあ」と思うような話をされるのですが、その方の日常生活を親しい方から聞きますと、出すのは嫌い、もらうのは大好きで、貰ったものは腐っても出さないという生活ぶりだそうです。

 そういう人が法を説いておられるのです。法を説く者の実践面がいかに命であるかという事を感じます。

 ある場所へ招かれて、普通のお宅でお話させて頂きました。二、三十人も集まってくれたらいいと思っていたのですが、百数十人も来て下さったので家に入れなくて、階段も廊下もいっぱいとなり、雨縁の外に立って聞いて頂いた方もあったのです。

 その時、一生懸命勉強なさっているご夫婦の方が来られたのですね。外で聞いて頂いているのですが,休憩時間にちょっとお話させてもらいました。

 その後手紙を下さったのですが、
「今まで実践という言葉を耳にたこが出来るほど聞いてきました。いろんな先生から実践が大事であると聞いて、なるほどそうか、実践しなくてはいけないのだなという程度に受け取り、こちらの耳から入ってこちらへ抜けていきました。

 ところが長尾先生の口から実践という言葉を聞いた時に、胸の中にぐさっと突き刺さりました。同じ言葉がなぜこんなにも違うのか大変疑問に思って、自分なりに一生懸命追求して、その謎が解けました。

 それは先生が実践されているから、実践という言葉が重い力を持って響いてくるのだという事が分かりました」と書かれていました。

 実践をしない者がいくら実践、実践といいましても、それは聞く者の耳を素通りします。
「私はこの様に行いました」と、行った者が実践という言葉を使った時は、人の心の中に入り込んでいくのですね。こういう面から見ましても行う事がいかに大事かという事が分かります。

「心行」の中では「正しく仕事をなす」と書かれています。これは、「正しく行う」事で、お釈迦様は八正道では「正業」と説かれています。

 仕事ではなく、行いを正しくしなさいという事です。「行ない」とは実践する事です。正しい実践をしなくてはいけません。間違った実践をしたら間違った結果が出ますから、法に従ったお日様の心を自分が行う事です。

 太陽の御心(みこころ)を行ないに現した時、正に私達は神を体験させて頂けるのです。太陽こそ神ご自身のお姿ですから、太陽の思いを常に抱くことは、神様の思いを常に持たせてもらっている事です。

 神を体験するといいましても、中々出来るものではないと思いになるでしょうが常に精進努力をしますと、神はその人を通して、つまりその人の言葉や行動を通して神ご自身がお働きになるのです。

 神が人間を造られたのは、ご自身をこの地上に表現したいがために、その道具として造られたのです。その神様が何を望んでおられるかは、私達は普通では知る事は出来ませんが、あの太陽を見せて頂いた時、神様はあの太陽の思いを、行いをして下さっています。

 また、イエス様は常に「あなたの隣人を愛しなさい」と言われます。そういう言葉が沢山書かれています。なぜくどいほど「愛」をお説きになったかと言うと、他を愛するが故に自分が愛されるからです。

 隣人という対象を通して愛されるという事は幸せな事だからです。世界中どこへ行っても隣人はいてくれます。その隣人を愛することによって、私達は地球上どこへ行っても愛されます。愛するが故に愛される様になり、自分が裁かれない為に人を裁いてはいけないのです。  長尾弘先生の記事♪

奇跡は信じる力に比例♪奇跡は神ご自身の御力♪インマニエルとは,我 神と共にありという意味♪中道とは♪長尾弘先生

心行の解説 講演集(下) 長尾弘  長尾弘先生の記事♪  高橋信次師
から引用させていただきました


   
上江洲義秀先生の記事♪
           
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心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年11月26日 

「苦楽の両極を捨て 中道に入(はい)り

 お釈迦様は「不放逸」というお言葉をお使いになられました。この言葉は日本の仏教では馴染みの少ないものです。放逸とはつまり遊び惚(ほう)ける、パチンコをし惚(ほう)けることです。人は惚けてはいけないのです。

 怒りは放っておくと、すごく腹が立ってきて相手を殺してやろうかという所までいきます。そこまでいってはなりません。怒り惚けない、愚痴惚けない事で、これは「中道」を行きなさいということですね。

 人は余り極端に怒ってしまうと、何をするか分からないし、また我慢し辛抱するといって腹の立つのを押さえて心に詰め込んでいましたら、これは苦しみになります。腹の立つ事が起きて当然ですが、放逸にならないように、一時(いっとき)も早く怒りを捨てるのが正法を修行です。

 あまり苦しみの中にはまっても、またあまり楽な目をしても中道にはずれてしまいます。中道とはどちらへも片寄らず、バランスが取れている事です。
「和」というのも「中道」というのも、バランスの事ですね。毎日の生活で常にその中ほどを実践することです。

「自己保存・自我我欲の煩悩を捨てるべし」

 これがまた難しいですね。繰り返しお話しますが自己保存と自我我欲は肉体に付いているものですから、これがなかったら人は生存できません。

 自分を守ろうとする心がなかったら、もし水の中に落ちた場合、放っておけば死んでしまいます。火の中に入った場合も、構わず放っておけば焼け死んでしまいます。

 また自我我欲とは、自分さえよければいいという自我の欲で、なるほど人間は自分さえよければいいのです。人のことは放っておけばいいのだし、自分の事だけ考えていれば楽でいいですね。

 人間は楽な方へ楽な方へと行こうとして、それが昂(こう)じますと、いいものを食べたい、いいものを食べたい、いい家に住みたいという様に欲望はどんどん広がっていきます。

 この世というものは物質に限りある世界ですから、際限なく欲望が広がりますと、求めても与えられない仕組みになっています。
 皆が「私は地球がほしい」と言いましても一個しかありませんから、一人がとがってしまえば他の人には当たりません。取り合いをして喧嘩するのが戦争です。

 9月には西ドイツへ寄せて頂きまして、色々と奇跡を見せて頂きました。ちょうど私が行かせて頂いている時に、あの頑固な東西ベルリンの壁が取り払われました。不思議なことだなあと思います。

 ある人は偶然というかもしれませんが、しかし聖書には「東方より光が来たりて、世を照らすであろう」と書かれています。

 まさに日本は東方の国であり、東から西へ光が伝わり、世を照らすであろうと、聖書に書かれている様な全く同じ様な出来事が起きております。

 正しい法を地球の裏へお伝えさせて頂きますと、多くの方が東から神様が来てくれたと言って下さり、またにドクター、神様だと何人もの方から言って頂きました。

 思い方はその人その人の自由ですが、ドイツも訪れた結果、平和が訪れてくれますと、やはり私は神様を信じたいと思います。寄せてもらった国が、神の光に満たされましたら、こんなに嬉しいことはございません。

 年が明けましたら、韓国の方へ是非来て下さいと招待されております。香港、オーストリア、ドイツ、フランスと、これまたまたえらく忙しくなりますし、身体は一つしかないのにどうしようかと思っています。

 しかし肉体の続く限り一人でも多くの方が幸せになって下さったら、私に与えて頂いた使命が果たせると思っています。本当に不思議な事で、想像もできない様な事を現実に見せて頂くのですね。

 先々月もお話しましたが腕を骨折して三角巾で吊った大学生の側へ行ってほんの一分足らず祈らせて頂いたのです。

「どうぞ骨に光をお与え下さい。骨の細胞集団は不調和を起こしてはいけません。あなたは約束を果たしなさい」と、祈りまして、「腕を動かしなさい」と言いますと、その場で治ってしまったのですね。

 それをビデオに綺麗に撮って頂いているそうです。そのビデオをお母さんが見て下さったのですけど、お父さんは「そんな馬鹿なことはない」と、現実に映っていても、それが信じられないのですね。

 ビデオに映っており、現実に目をもって見ても、普通の者は信じられないのです。しかしイエス様はおっしゃいました。

見て信ずる者は幸いなり。されども見ずして信ずる者はなお幸いなり。目を見てもなお信じない者は幸いうすき者なりと。

 神様がせっかくこうして見せて下さり、今は有り難い事にビデオに残して頂けますから、この場にいる方だけでなく、遠くへ持っていってもそのまま見て頂けるはずですが、それを信ずる事ができないのです。

 以前、腰が痛くて身動きも出来なかった方に、あまりお気の毒なので光を入れさせて頂くとたちまち治ったのです。するとその方は自分が治っているのに「あら、おかしい、こんな事があるはずがない」とおっしゃるのです。

 今まで痛くて身動きができなかったのが治って自由に動ける様になっていても「こんなあほな事はない」と怒り、
帰り際に「こんなもの、信じなさいというのは無理です」と捨て台詞を残して行かれました。本当にその通りでして、普通は信じる事は出来ません。

 しかしイエス様はあらゆる病を癒され、人に道を教えられました。しかも二千年昔の物語ではなく、現実に今こうして目の当たりに見せて頂いているのです。至らない未熟な存在ですが、私という肉体を通して、目に見えない力つまり神ご自身がお働き下さるから、信じられない事が起きるのです。

 神様は私達の肉体をとしてご自身を現そうとして、常に待ち構えておられます。神様と人間との媒体、パイプの様なものをどなたも持つ事が出来ます。

 イエス様はどなたにもなれる法をお説きになりました。
キリスト意識(神我)に目覚めなさい。キリストに自身の肉体を預け、委ねなさい。その時、キリストがその業をなされるであろう」と。

 キリスト意識とは、私達一人ひとりが持っている心の内なる神我のことです。一人一人がキリストに目覚めた時、神はその人を通して神の御業を示されます。己という自我があったら、神はお働きにならないのです。

 近頃はだんだんと強いパワーを頂きまして、昨夜は10時を過ぎてから八人もお見えになり、残業させて頂きました。
 八人が皆、足が痛い、お腹が痛いとおっしゃっていましたが
「治りなさい」と言えばみなすぐに治ってくれましたね。

 時間外手当を貰わなくてはいけません(笑い)。まだ痛みのしつこい方から、名刺に光を入れて下さいと入れましたら、「あれ、治った」とおっしゃって、信じられない事が起きるのです。

 実践の数が多くなればなるほど、そのパワーが強くなってきます。私も当初は一人の方に治ってもらうのに、三十分、一時間もかかった時期がありました。今でしたら「治りなさい」とひとこと言えばすぐ治ってくれます。

 しかし、皆が皆は治りません。全部治ったら、私は神様です。
人間ですから受けてくれる方の気根にもよります。また信ずる信じないの度合いにもよります。

 先程お話した方は、腰痛がパッと治ったのですが、よそへ行って、
こんなあほな事はない」と言ったとたんに痛い痛いと戻ってしまって、 
「これは不思議だ」と、おっしゃったそうです。

「汝の信仰、汝を癒やせり」といって、信ずる力が、神の徳を頂くのです。疑う方は中々治りません。癒やされても、そんな事はないと否定しましたら、また痛みます。
 
 どこへ行かせて頂いても皆様が大歓迎して下さると思っておりました。
たださせて頂くだけで、皆さんに一切ご負担をかけない様に心がけておりますから、相手にとっては都合がいいし、嫌われるはずがないと思っておりま

したが、この前、鹿児島で講演内容や沿った方の追跡調査をアンケートにまとめて本にして下さいました中に、「来年も来てほしいか」という質問に一人だけ、来てほしくないというがあったそうです。

 これは他宗教の支部長とか、役員とかをしている方が約15人来ていたそうで、正しい法を阻害する妨害者が入っていたのですね。

 追跡調査の回答では90%は癒やされているという事でしたが、これはお医者さんよりもすごいです。
 お医者さんであっても90%癒される方は少ないと思います。

 いかに正しい法をお伝えし、全く己を滅して神ご自身の御心を実践させて頂いても、神に逆らう心を持つのも、やはりいるという事です。

 これは誤った信仰がいかに恐ろしいかという事です。正しい神の教えさえ否定しようとかかります。神の御心とは、自らを犠牲にして他を生かす無限の愛です

 本当の神様とは、ただ与え給うのみの存在である事を私が自分の心の中にはっきりと掴ませて頂いた時から、私の運命、人生が変わりました。
 例えば、車の運転をしていて、横から人が飛び出したり、車に追い越されたりして冷や汗の出る様な事は一切なくなりました。

 だんだん神様へ理解が深くなりましたら、私が車のハンドルを握りますと、車の前方がみな空きます。赤信号にかかる事は殆どありません。これはほんとうの神様は私達を守って下さっているという事です。

 神様と一緒におらせて頂いているのに妙な事が起きるわけがないと、そのように思えて来るのです。

「インマニエル・イエス・キリスト 我 神とともにあり」

 インマニエルとは「我 神と共にあり」という意味です。イエスさんだけの名前とは違うのです。イエスこそイエス様の固有名詞です。

 キリストとは代名詞で、どなたでもキリストさんです。そのようにキリストのごとく生きたら、皆さんがキリストになる事が出来ます。

 田中さんでしたら「インマニエル・田中・キリスト様」です。どなたでも内なる神我に目覚めた生活をなさる方は、キリストです

「癒しの油の注がれし者」として生活した時、必ず癒しの力が与えられます。その中には一切の自我を持ってはなりません。自我の中にカルマを背負いますから、私が私という偽我を一切捨てて、たださせて頂く事です。

 イエス様の教えを真剣に話させて頂いた時、イエス様はこの場所に即、お見えになります。お釈迦様のお話を真剣にさせて頂きますと、お釈迦様の意識がその場所へ来られるのです。

「私はイエスである」と言わなくても、ちゃんと肉体を通してその方が語り給うのです。実践しないものにそのような事は起きません。

 高橋信次先生は、この世において、この歳までの間にお会いした方の中で、私の最も尊敬し、お慕いしている方です。まさに、男が男に惚れたというに値する、本当に素晴らしい方で大好きです。

 私は先生が亡くなられた時、実践をもってどなたよりも先生の身近な弟子にさせて頂こうと決心しました。ただ行えば良いのですからこれなら誰にも邪魔されません。

 先生と私達との間に何段階の組織の壁などは問題ではありません。遠く離れていても日々の生活の中で実践した時に先生の最も身近な弟子になれます。

心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年12月24日 

 先月は「苦楽の両極を捨て、中道に入ること」について学びました。苦しみに片寄っても、楽に片寄ってもいけません。中道をいくのが法の根本であり、調和がとれている事が何より肝要です。
 
 お釈迦様はお城の中で、王子として酒池肉林の栄華を極め、楽に片寄った生活の中では悟る事が出来ず、やがて出家し、自分の生命の限界まで厳しい肉体行をされ、その苦に片寄った中でもなお悟る事が出来ませんでした。

 その生命が絶える寸前に、たまたま川上から聞こえてきた「弦の強弱」を歌った少女の歌声によって、中道の道を教えられたのですが、その少女を訪ねていかれた時、お釈迦様のお身からは後光が出ていたのです。

 少女がその光輪を見て、神様が来られたと思ってひれ伏して挨拶をした時、「いい歌を聞かせてもらってありがとう、あなたのお陰で道が開けました」と、お礼を言われたお釈迦様に、少女は今しぼったばかりの牛の乳を差し上げたのです。

 お釈迦様は、まず元の健康な肉体に戻らなくてはいけないと気付かれて、少女の差し出した乳を「ありがとうございます」と押して頂いて召し上がられました。

 お城の王様の言いつけによって、お釈迦様の護衛に当たっていた五人の剣の達人など豪傑ばかりの従者たちは、お釈迦様が乳を飲まれるのを見て、

「ああ、ゴーダマは修行に耐えかねて、行を捨ててしまった。もう共に修行はできない」と、見切りをつけて去っていきました。

 この後、お釈迦様はただ一人になられて、大きな菩提樹の元に吉祥(きっしょう)草を敷いてお尻が痛くない様に座して、生まれて以来今日までの徹底的な反省に入られたのです。そして偉大なる悟りを開かれたのですね。

 私達は反省するのに、姿勢などは関係がないと思うかもしれませんが、背骨を丸くしますと、重りがかかって長時間坐っているのは困難です。

 専門のお坊さんは座禅の時、必ずお尻に円座といって座布団を入れます。お尻を高くして結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐をしますと、背骨が真っ直になりますが、お尻を高くしないと背骨が曲がります。

 以前、NHKでやっておりましたが、起きている時も寝ている時も脳波は出ているのです。ところが普段は出てこない脳波が座禅をすると出てきます。

 また催眠術をかけても、その脳波が出てくるそうです。アルファー波といって、座禅をしていてもお尻の座布団をのけたら出てこないそうですから、座禅をする時は必ずお尻を高くしないと効果が出ないのですね。

 正座しますと、踵(かかと)の上にお尻が乗りますから、真っ直になります。しかしこの形は踵も膝も痛いです。慣れない者は長時間坐っていると痛くなってきます。お話し会の場所によっては四時間、五時間坐っていても痛いと感じないのは、慣れる事によるのです。

 心がある状態になりますと、科学的に脳波を調べた時、アルファー波が出て来るのですが、それは一つの姿勢によるのですね。

 ですから、凭(もた)れて丸っこい背中をしていましたら、長時間坐る事はできません。座禅の時は結跏趺坐でも半跏趺坐でも、背骨を真っ直にする事です。

 その証拠にお釈迦様の仏像は、背骨を真っ直にしておられます。お釈迦様は修行の時も、自分の坐る場所は長く坐っていても痛くない様に草を敷き、菩提樹の木に沿って真っ直ぐに半跏趺坐の恰好でお坐りになりました。

 反省するというのは、私達の心の奥底のもっと奥底のその奥底に、素晴らしい宝物がしまわれていて、その宝物を掘り起こす事で、その時反省の功徳が与えられます。

「自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし」

 私達はこの世に生きてきた人間、人様に対して恥ずかしい事もしてきています。あれさえしなければよかったのになあという出来事で、

人に知られたくないという事を、心の奥底の宝物の上に、ビニールの袋の中に入れて、しっかり口を閉じて、しかも1番恥ずかしい事は奥底に入れ、次に恥ずかしい事をその上に詰めて、心のごみ箱にいっぱいしまいこんでいます。

 人に知られない様に、上から蓋をして、大きな重しの石を載せて出てこないようにしていますが、この汚いやつを全部放り出さない限り、底に埋まっている宝物が出てこないのです。この汚い、恥ずかしいものを一つずつ放り出していくのが、反省の事業です。

 以前、ある方がお嬢さんの荷物を立派にこしらえてお嫁に出されたのですが、ご縁がなかったのか、何ヶ月もしない内に帰って来られたのです。

 お嫁に行く前は、「荷物を見てやって下さい」と、近所の皆さんに来てもらって門出を祝ってもらいましたが、荷物を引き取る時は夜中で、皆に分からない様に家に入られたのですね。

 人に知られたくないという思いがあって、それをお母さんは夢に見られたのです。娘が戻ってきたという出来事を、ごついビニール袋の中に詰め、口をしっかり縛って表のごみ箱の底へ詰め込み、上から蓋をして石を載せたという夢です。

 それほど人に知られたくない出来事です。反省する事によって自分で掘り起こすのです。反省するぐらい、何が苦しいものかと思います。

 かつて反省の場で「さあ皆さん、苦しみのたまって下さい」と言われた時、私はなぜのたうつのかと思いましたが、自分で自分の嫌なものを放り出しなさいという事なのです。

 誰にも言っていない事、誰にも知られたくない事を自分で放り出して告白するのですから、苦しみのたまなければなりません。
 反省をして、自分の心の中に詰まった諸々の罪穢れを掘り起こして、捨ててしまうのです。これが反省の一つの行為です。

 私達は自己保存・自我我欲の為に、自分は正しく、人が間違っていると思いやすく、自分が無理を言っているから、聞いてくれない相手が悪いと思って、腹を立て相手を謗り恨み憎むという苦しみが湧き上がってきます。

 人間は肉体を頂いた限り、肉体についている五官の煩悩、つまり目、鼻、口、身体の中に、自分を保存しなくてはならない欲望というものが、否でも応でも与えられています。

 これから離れる事が出来ないために自己中心にものを見ようとして、心を苦しめていきます。ですから心の状態は常に平常心を保ち、心に苦しみを入れない状態でものを見るようにしなくては、正しく見る事はできません。

 腹を立てていて正しく見る事は出来ません。それは心が煮えたぎっているからです。心が白紙でなくて既成概念を持って見た時も、また貪欲の思いに捉われて見た時も、自己中心に片寄ってしまって、正しく見る事は出来なくなります。

 まず煩悩を捨て去る事です。自分から離れて客観的に自分と相手を見る訓練をする事が 大切ではないかと思います。

 錆(さび)は鉄自身から出てきて、出てきた錆によって鉄自身を滅する様になっています。鍛えて鍛え抜いたあの日本刀でさえ、堅くて一番良く切れる刃先から錆びてきて、ボロボロになってしまいます。

 私達の心も同じ事で、自分の心の錆によって、自分を滅してしまうのであり、この錆の種類が怒り、妬み、恨み、謗りなどの思いです。この私達自身から出る錆によって、肉体にも影響が出るようになっています。

 自己保存・自我我欲は私達の肉体に付いているもので、それを捨てるのですから捨てきれるものではないのですね。ただ、いかに短い時間に思いを切り替えて喜びにするかという事です。

 よく、腹を立てたらいけませんと言いますと、「腹を立てない様にと思っていると、その思いがいっぱい溜まって、終いには普段の十倍ぐらいになって爆発する」と言われますが、

これは怒りを内に入れて溜めているからで、腹の立つ出来事をその都度消してしまう想念の転換をして、切り替えなくてはいけません。

 車がペチャンコに潰れても、「自分が無事でよかった」と思いを切り替えるのです。「車が潰れて、なんて運が悪いんだろう、相手が悪いからだ」と怒りを内に取り込んでは自分が苦しいです。

 私はいつも、どんな時でも笑っています。心の状態によって顔は即、表情が変わります。心がどこか病気をしていると、肉体のどこかに曇りが出てくるようなものです。

 私達は環境の中に生きているのではなくて、思いの中に生きていますから、どのような環境の中にあっても幸せそうな方もおられますし、あんな結構なと思う方が不幸せそうな顔をしている場合もあります。

 何億円というお金を持っていて、人に取られないかと苦しんでいる人もあります。この様な苦しみの原因なら持たなければいいのに、お金に捉われて家の周りに赤外線の防犯装置をしています。

 しかしあの世には一銭も持って帰れません。財産に執着すると天国には帰れません。思いだけ、自分の心だけしか持って行けないのだと、心がける事が肝要かと思います。          長尾弘先生の記事♪


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斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

 そのノウハウを全て無償で公開しておりますので、もし良かったら皆様も、小顔・高身長の翔平スタイルになって幸せで喜びに満ち溢れた人生を満喫して下さいね♪ 


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