date :2018年01月
- 2018.01.30(火)
- 人類に朗報♪長尾弘先生の救霊テープで誰でもご先祖様の真の成仏が可能に♪両親が喜ぶ選択が幸せの人生の秘訣♪
- 2018.01.27(土)
- 悟りとは心の中の怒り・愚痴・貪欲の壊滅の事♪心行の解説♪神理の理解で魂の光量増加♪長尾弘先生♪高橋信次師
- 2018.01.25(木)
- 魂の最奥の世界は内なる世界・実在界♪現象界とは色界・物質化現象世界♪心行の解説♪長尾弘先生・高橋信次先生
- 2018.01.15(月)
- ヘソの下が光るチャクラ話♪チャクラは肉体と心の体を仲介するセンター♪気・超常能力の科学的分析♪本山博先生
- No
- 81
- Date
- 2018.01.31 Wed
調和の取れた生活の「3つの幸せの根源」とは♪意識のエネルギー源は調和の取れた生活から♪長尾弘先生♪高橋信次師
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年10月29日
「己の心・意識のエネルギー源は調和の取れた生活のなかに
神仏より与えられることを悟るべし」
私達の肉体保存のエネルギーは、食物によって与えられますが、では心のエネルギーはどこから頂くのかというと、それは調和の取れた生活をした時神仏より与えられます。
日々の生活が不調和でしたら、心のエネルギーを頂く事はできません。生活が不調和とは常に、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、取り越し苦労、不安、恐怖、人の悪口、貪欲、或いは足ることを知らない欲望、このような思いに心が捉われ心を苦しめる事によって調和を欠いてしまう事です。
私達はこの教えにご縁を頂きますまでは、平気で自分の心を苦しめてきました。そして日々の生活を不調和にしていたのです。
このように聞きますと、ごく簡単でございます。この簡単な教えを私達は日々の生活において、一つでも二つでもいいから、行う事です。
ただ実践と聞きますと、何か行動を起こす事だと思いますが、高橋信次先生にご縁を頂きまして、心の面での反省という実践が大事である事を教えて頂きました。
私の場合、行動の面では、よくお話しておりますトイレのスリッパを揃える事から始め、心の面では腹を立てない様にしようと、毎日の生活の中でこの実践に努力しました。
そして怒り、妬みという十項目余りが、努力によって自分の心から消えていった時、調和されて心が安らかになっていきます。そうなりますと、別に神様にお願いしなくとも、心にエネルギーが注がれます。逆に怒り、妬みの思いを持つと、心のエネルギーが消耗され失われていきます。
「私も心が安らかになった、これなら心を苦しめる事はもうない」と日頃は思っておりましても、何かの縁に触れた時に、たちまちにして自分の持っている悪い癖、欠点がむくむくと頭をもたげてきます。
しかし、欠点が出てきても肉体を持っておればこそで、これは致し方のない事です。ただその時、いかに早く捉われの思いを捨てるかが、私達の修行であります。
高知から出来て頂いているおばあちゃんは、ある信仰をなさっていて、ご縁の信者さんが沢山あるそうです。しかし信者さんの事で色々と心を苦しめ、このまま死んだら地獄へ行くかもしれないから、何とか地獄へ落ちない方法を教えて下さいとの事で、お話させてもらていたのです。
その宗教では、前世の因縁によって、あなたは今こうしてこういう苦しみを受けているとか、過去世のカルマによって今この様な裁きを受けているのかという「前世論」という教えを説いています。
しかし前世論では人は救われません。私達は前世で何をしたのか今の自分には分からないです。どれほど前世で悪いことをしたのか、善いことをしたのか私達自身、分かりません。
その分からないものによって、今生が苦しいのだとしたら、苦しむ方があまりにも可哀想です。苦しんでいる方を諦めさせるしかない事になります。
前世のカルマというのは、私達が何世でも過ちを犯しますと、その過ちの世界へ必ず落ちます。そして長い間、この世的三次元的にいいますと地獄という刑務所の様な所に居るわけです。
そこで何年も何年も罪の償いとして苦しみを受けます。長い時間が経ってのち、自然治癒力、自然浄化作用という神の愛を受けて、自然に浄化されて天上界へいったん帰ってから、また両親の縁を頂いてこの地上に生まれてきます。
前世で失敗した方は、再び失敗は繰り返したくない、何とかあの時の失敗を修正しようと、この世の厳しい環境に生まれてきます。
この世で善い行いをして心安らかに徳を積んだ方は、亡くなりますと天上界へ帰ります。そしてまたこの地上に生まれてきます。地上での修行が終われば、そのまま天上界に直行してこそ、本当の浄化が出来るのです。
五百年、千年、もっと長い間、暗闇の世界で苦しむ方がありますが、いつか時が経てば必ず天上界に帰りますから、前世の因縁というのは、それほど大きくはうけないはずです。
もちろん因縁を少しは持ってこの世に出てきます。そしてこの世に生まれてから、その上にさらに過ちを積んでいき、苦しみを作っていきます。
素晴らしい天上界の世界から、私達は魂の修行に生まれさせて頂き、修行が終わればまた、あの光の世界に帰らなければならない事を常に信ずる事ですね。絶対なる信心を持つことですね。
まあ死んだ後の事は皆あまり分かりません。しかし亡くなった時のあの安らかな姿、硬直も起きず、今お化粧をした様な綺麗なお顔で、生きている時よりも素晴らしい姿となってこの世を去られた時は、確かに光の世界というのはあるのだなあという事が分かります。
私達の仲間の方、或いは直接私にご縁が得なかった方でも、私のテープを聞いたり、「名来闇去」の名刺とか光を入れたハンカチなどを与えてもらうだけで、その方々が極楽往生をなさったという報告を沢山聞いております。
私達の魂のふるさとを心に描いで下さい。今、目を閉じて、私達がこの世に生まれる前に住んでいた、調和されていて光に満たされた緑したたる素晴らしい世界に帰りたいと思います。
そのふるさとへ上手く旅立ったか、そうではないかは、死んだ時の姿によって分かります。もし不幸にして死後の体が硬くなっておられたり、冷たくなっておられたり、気の毒ですが天上界にはかえっておられないという事がはっきりと分かります。
先日、ある方がお礼に見えました。
「母が亡くなってドライアイスをいっぱい入れました。普通なら冷たくなって当たり前ですが、それが全く冷たくなっていませんでした。またその顔の美しさは言葉では表現できませんでした」と。
ドライアイス漬けにしてあっても温かいという信じられない様な現象を、成仏された形として見せて頂けるのです。正しい法とは、学ぶことによってそのような功徳(くどく)を頂く事ができます。
昔から、「金儲けと死病(しにやまい)とはおろそかにできない」といいます。金儲けは辛いもので、苦労しなくては出来ないものですし、死ぬのもちょっと苦労しなくても死ねません。これだ大体の相場らしいですね。
しかし、この法にご縁を頂いて、常に自分の心を苦しめない様にして、もし苦しむ様な事が起きても一瞬の内にこれを捨て去る努力をする事によって安定した心の状態で生活し、常に感謝と平安に心を満たしておりましたら、俗に言われるような死病もそれほど苦しむ事はないと思います。
その証拠に、悟られた偉大なお方は、坐ったまま極楽往生をなさっておられます。こうしてお話をしながらすーっとこの世を去られる方もあるそうです。そういうお方は、心に苦しみが少なかったと思いますね。
私達が忘れていた心の持ち方について高橋信次先生は「心行」に書き残して下さいました。本当に小さな冊子ですけれども偉大な光が秘められており、この世を卒業された方に読んで聞かせてあげますと、その方が救われる場合が多いです。
こんなものを読んだだけで大丈夫かなという思いでは駄目です。心から信じて、今、姿を見る事は出来なくても必ず救われるという強い信念をもって読んであげて下さい。必ず現証を見せて頂けます。
肉の目では見る事はできませんが、心の目をもって見ますと、ものすごい光が出ているそうで、その光をご覧になった方は何人もおられます。
また私の「愚か者の独り言」も、置いてあればものすごい光が出ているそうです。何が光っているのかと思って側に行きますと、あの本が光っていたという報告を沢山頂いております。「歌集」も同じことですね。
手に持てば自分の本の宣伝をしておりますと笑われますが、本当の正しい真理であれば、それは当然の事です。
心を苦しめ自分を不調和にしておりますと、心のエネルギーを失い、消耗していきます。その上、神仏から与えられないのですから、だんだんと肉体の支配者がエネルギー不足になって、いくら美味しいものを口に頂いても身につきません。
家庭の中では「ああ、有り難いなあ」と、心満たされて、家族の皆が心配する事もなく、仲良く暮らす事です。高橋信次先生はよくおっしゃいました。
「家庭の中に、ハ、ハハ、ホ、ホホといって笑いの絶えない様な、そういう環境を作りなさい」と。これが調和の取れた日々の生活のはずです。
家の中で揉め事や争いごとがあっては、絶対に幸せにはなれません。一番安らぐ場所である家庭に安らぎがなかったら、幸せになる道理はありません。
また、満たされた環境を頂いておりながら愚痴や不足ばかり言っておられる方もあります。あまりにも結構すぎて、それが当たり前だと思ってしまうのですね。
私達が最も注意しなくてはいけないのは、「当たり前と思ってはならない」ということです。当たり前と思うと、感謝を失っていきます。
調和の取れた生活の日々の生活であるためには「3つの幸せの根源」といえるものがあります。
つまり肉体の調和と、調和した経済と、心の調和です。この中のどれが欠けても本当の幸せは掴めません。これらが調和された時は心が穏やかですからエネルギーが失われる事もありません。
神仏からは心のエネルギーが与えられ、心が安らかで何の心配事もなく、腹を立てる事もなく、恨む人もいない、憎む人もいない、こういう時はとても楽に生きられます。
その楽な状態にあるから心に活力があり、また次の喜びを得て、この喜びを人様に頒(わか)かたなくてはいけない、お伝えしなくてはいけないという気持ちも湧いてくるはずです。それにはまず自分自身が救われる事が先決です。
「己の肉体が苦しめば 心脳乱し わが身楽なれば 情欲に愛着す
苦楽はともに正法(しょうどう)成就の根本に非(あら)ず」
私達の肉体が苦しめば心は乱れます。痛いところがあると、ああ痛い、苦しいと、肉体の支配者である心が乱れます。肉体の健康は、幸せに欠くことはできません。
また、あまり肉体が楽で、美味しい物を食べ、時間もある、お金もあるちおう場合は、まともな事を考えないものです。情欲にとらわれたりします。
ところがそのような苦しみや快楽は、正道成就の根本ではないのです。お釈迦様は両親、妃、子供、お城のすべてを捨てて出家され、厳しい肉体行をお求めになりました。
お城の中では栄蘭栄華を極めた思いのままの生活をなさり、これは「楽」に相当しますが、その中で心を悟る事はできませんでした。
何とか心を悟らなくてはと、道をお求めになり、厳しい肉体行の先生について修行されましたがやはり悟る事はできなくて、今度はご自分で厳しい肉体の行をなさったのです。
飲むのも食べるものを何日も断ったり、焼け付くような岩の上で何日も耐える修行をなさったのです。それほどの苦行を通しても自分を悟る事はできなかったのですね。これは、肉体を苦しめては心が乱れるという事です。
例えば氷を割った中に漬かってお経をあげていましても、冷たいという感覚があり、肉体が痛みますから悟る事は出来ないのです。また護摩といって火を焚いて汗を流してエイヤーとやっていますが、火の側へ行けば熱いのは当たり前で、「ああ熱い」と思っていては心が乱れて悟れません。
あまり楽な生活に走ってもいけないし、またあまり肉体を厳しく痛めても、正しい道を成就できないと、お釈迦様ご自身の事を言っておられます。
お釈迦様は今まさに自分の命の灯(ひ)が消えようとしていた時に、川上の方から聞こえてきた少女の歌声によって「調和・中道」という事を悟られたのですが、日頃から聞いておられた民謡の今まで気付かなかった意味を、「なるほど」と悟られたのですね。
お城での栄蘭栄華の生活は、歌の言葉でいえば弦がゆる過ぎたのであり、今の苦行の状態はあまりにも弦を強く締めていたために、命の切れる寸前まで来ていたのだとお悟りになって、一切の苦行を放棄されました。
快楽も苦行も共に捨ててしまわれて、あの菩提樹の元に吉祥草を刈ってきて、それを厚く敷いて心地よい場所を作られ、ご自分のうまれて以来今日までの反省に入られたのです。
反省・禅定に入られた時、色々と悪魔が攻め襲ってきた。仏典には書かれています。悪魔は外部から襲ってきたのではなく、自分の心の中から湧き上がってくるのです。静かに反省していると、国に置いてきた妃の事が思い浮かぶのです。
今風に言えば「家内はどうしているだろうか」、という事です。信次先生のご著書の中には、「妃がその春を売る様なポーズをしてきたので、悪魔といって追い払われた」と書いてあります。自分の心の中に現れるのです。
静かに過去を振り返った時、「妻は今、何をしているだろうか、城で共に暮らした時はこのような事もあったなあ」という思いが湧いて、元の生活に自分の心が向きそうになるのですが、これは思って当然です。
しかしお釈迦様は「悪魔よ去れ」と、自分の心の中の魔を追い払われたのです。そして、あの偉大な悟りをお開きになりました時、
「私の悟った教えは、世の常に逆らうものである。逆らうのが真理であった」とおっしゃっています。
世の常とは、人のこの世的な常識です。「出すのは嫌い、買うのは大好き」というのは世の常です。しかし出さなければ入ってこないという事をお釈迦様は気付かれたのですね。
原因、結果の法則をお悟りになったのですが、普通の我々凡夫は、腹が立つ時には怒らなくてはしょうがない、愚痴が言いたい時は愚痴を言ったらいいと思うわけです。
この前、三十過ぎの女性の方が、ふとしたご縁で訪ねてこられて、この方はああ言えばこう言うし、こう言えばああ言うという方で、絶対にうんとは言われません。お顔を見れば苦しみをいっぱい背負った顔をしています。
「あなたは幸せにならなくてはいけません」と言うと、
「いや、私は幸せです」「しかし、あなたの顔は幸せとは違います。心の中にいっぱい苦しみを持っています」
「そんな事、あなたに分かるはずはありません」「いや、よく分かります」
こういう具合で、何を言っても受け入れません。この方はヨガの有名な先生についておられて、二十代の頃、高橋信次先生のご講演を何回も聞いているのです。その後ヨガの先生に質問したそうです。
「腹が立ったり、愚痴を言ったり、貪欲になったりしてはいけないと、高橋信次先生に学びましたが、そのように思ってはいけないのですか」
そうすると、ヨガの先生が「○かやろうー」と怒鳴ったそうです。「人間だったら腹を立て、愚痴も言え、貪欲になれ」と言ったのですね。
そして「大勢の前で○かやろうと怒鳴られて、わしの言う事が気に入らなかったら、わしを恨め、憎め」と言ったそうです。
まあ、えらい先生があったものだと思います。その方はもう亡くなっておられますが、有名なヨガの先生です。お釈迦様の教えに反した事を教えておられます。私達はいわば荒れ果てた山と同じことです。
大きな木もあれば石ころもある原野、つまり愚痴もあれば怒りもある荒れ山を良き畑にするには、怒りの根を切り、愚痴の石ころを取り出し、貪欲の根っこを掘り返し開墾して、ものの出来る畑になります。
畑が出来て初めて良い種がまけるのです。それを「腹の立つ時は腹を立てろ、貪欲を離すな」と言えば、苦しみの木をどんどん成長させている様なものです。これでは幸せになる事は難しいと思います。
私達の学びは、聖なる学びであり、聖なる実践です。お釈迦様のお説き下さった心の安定を追求するものです。怒り、愚痴、貪欲を持っておれば、心は絶対に安らぐ事はありません。
つまり不調和な生活が現れてきますから、イライラした不安定な生活をする様になります。人間の幸せは心の安らぎです。安らぎを得るために私達はそれなりの努力をしなければなりません。
心の安らぎとは、他に喜びを与え、その時の他の喜びによって、「ああ良かった」という喜びを持つ事で、それが、大いなる安らぎに繋がるのです。奉仕です。無償の奉仕、愛の実践によって、初めて大いなる安らぎが頂けます。
京都から電話がありまして、「私はある法華宗の僧侶でございます。私なりの修行をしてきました所、突然クンダリニが開いてしまいました。
今日も朝から法事を二つさせてもらったのですが、その法要中にも、その現象が出てくるのです。今のこういう状態から解脱する方法について是非教えて頂きたい」と言うのです。
自分の心について、生まれて以来今日までについて徹底的に追求する事なく、精神統一したり、瞑想したり、禅定に入りますと、そういう現象が起きます。そして自分で自分がコントロールできなくなるのです。
徹底的に反省して自分はどういう人間なのか、今日までどれほど過ちや罪を作っていたかに目覚めて、その上で許されている事を知り、人を許す事を実践して、心が安らかな状態になったのであれば、これは本物ですが、
心が不安定で、心にやすらぎがないまま霊的現象が起きれば大変危険です。その方にお会いして、そのようにお話させてもらったのです。
よく霊道が開くといいまして、過去のことを話される方があります。この前、神戸から来られた十五、六人の中には、何人もの方が過去世を語られるという事でした。
「あなたは自分の心に問いかけてみなさい。あなたの心は綺麗ですか」と、聞きますと、「いや駄目です。自分の心は汚い」と言われます。
汚いままで、そういう霊道が開きますと、光の世界からも来て頂けますし、また一つ間違えば、闇からも入ってくるわけです。光も来れば闇も来ます。心の状態によって異なります。
ものすごく素晴らしい光の天使がお入りになって正しい法をお説きになったとします。しかし、肉体を通して語っておられたお方が、その時もし増長慢になったり、また怒りや貪欲に捉われたりした時は、たちまちにして闇の世界のものが、その方に入ってきます。
最も危険な事は、例えば「私はミカエルでございます」と言ったとしても、この場合、本当の光の世界のミカエル様がお入りになった場合も、闇の世界から入ってきた場合も、全く同じように、「私・は・ミ・カ・エ・ル・で・ご・ざ・い・ま・す」と言われることです。
ご本人の心の状態によって入れ替わっていても分かりません。しかし質(たち)が悪いのは、同じ名前を使い言葉を使うという事です。ですから霊的に捉われますといかに危険かという事を自覚したいと思いますね。
見えない世界は、何重にも重なっていて、はっきりした確証を掴む事は大変難しいものです。過去世が誰であったとか、今、何々様が私の身体を通して語りますとかいいましても、それにははっきりとした証明がありません。
ただそのようにしゃべっているだけで、証明のないものは、いってみれば幻のようなものです。幻の様なものは、あると思えても消えてしまいます。そういう幻を信じては間違いの元になるという事ですね。
私達は今頂いている肉体をもって、例えば私でしたら、長尾弘という人間を通して、日々の生活に神の子として恥ずかしい生活を努力する事です。
神の御使いとして間違いのない様な生活をする事です。過去世の様なものは関係ありません。自分の言葉と行いをもって「これは神の御使いだなあ、神のごとき現象を出されるのは、まさに神の心を実践されているからだなあ」と、人様から言われる様に、身をもって証明したらいいのです。
お一人お一人がそうです。常に神様に恥じない様な言葉を使わせて頂き、神様の御心を実践し、この体験を多く積みますと、自分の心の中にまことの神が働いて下さっているという事が分かります。
私達を生きさせて下さっている生命そのものが、現実に私達のこの心臓を通して命となって与えられています。死は肉体という衣を脱ぐだけで、衣を脱ぎましても生命そのものはちゃんとあります。この生命を霊といっております。
私達は悟る、悟らないとは関係なく全てのものは生命であり、霊なのです。肉体という衣を脱いだ時、霊は元のふるさとへ帰らなくてはいけません。 長尾弘先生の記事♪
おすすめスピリチュアルサイトをご紹介♪
スポンサーサイト
- No
- 82
- Date
- 2018.01.30 Tue
人類に朗報♪長尾弘先生の救霊テープで誰でもご先祖様の真の成仏が可能に♪両親が喜ぶ選択が幸せの人生の秘訣♪
|
- No
- 83
- Date
- 2018.01.30 Tue
真の正しい先祖供養の極意♪ご先祖様を極楽へ導く究極の方法♪仏壇と極楽とは違う場所♪長尾弘先生♪高橋信次師♪
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年7月23日 今日は真夏の厳しい暑さの中をこうして沢山の方に集うて頂きまして、誠に有難うございます。お互いに「心」について学べます事は、人間として生まれて最も尊い事でございます。私達の本質は心であり、肉体は仮のもので御座いまして、この世を去る時は置いていかねばならないものです。 数多くある宗教は、現世利益を主としております。お参りをして、病気を治して下さい、金持ちにして下さい、商売繁盛させて下さい、家の中が上手くいくようにして下さいといってお祈りをします。 こういうお祈りをさせるのが宗教ですが、これらは全部消え去るべきもので、あの世に帰る時に持って帰れないものに対しての欲望であり、本当の幸せに繋がりません。本当の幸せとは心の安らぎです。 心に安らぎがなければ、この世の生命が終わって見えない世界へ帰っていく時、心のあり方が分からないから、迷わざるをえません。 日頃から心を重くして自分の心を苦しめていますと、この世を去った時、必ずその続きの世界へ帰っていく事になります。この世で苦しめば、あの世へ行っても苦しみの世界が続くのです。 今の生活が心満たされたものであり、感謝の生活であり、またご奉仕によって他の方々を生かす愛の実践をしておりましたなら、「ああ良かったなあ」という思いを持ってあの世へ帰りますから、その思いと同じ世界へ帰っていくわけです。 「心」の勉強をしますと、だんだんと心が深くなり理解が深まっていき、過去は過ぎ去ったもので、絶対に戻らないという事がよく理解できます。 また未来はまだ来ておらないのですから、今の一瞬一瞬の心のあり方がいかに大事か、この一瞬の積み重ねが、未来の自分の姿である事もよく分かってきます。今の一瞬を自ら苦しめない様に生きる事が大切ではないかと思います。 「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず」 私達の肉体が在らせて頂きますのは、ご先祖様があってこそで、ご先祖さまがなかったら私達の存在はありえないはずですね。自分の存在は、ご先祖様のお陰であるという事を忘れてはなりません。 ご先祖様を放ったらかしにしている方がよくあります。仏壇は締め切って、お供物をした事もなく、正しい教えを知らなければ、仏壇はあっても、その中に成仏できないお方が入っておられるという事も分からないでいます。 しかし正しい教えに触れますと、未成仏霊が間違い無しにおられるという事が分かります。お墓も同じ事ですね。 お墓の中にも、私達の肉の目では見る事ができませんが、間違いなく天上界の世界へ帰る事ができない先祖がおられるので なぜこういう事がはっきり言えるかと言うと、お仏壇に私がお参りさせて頂きますと、阿弥陀様のお姿も、書いてある文字も読めないほど暗いお仏壇がありますが、その中に執着しておられるご先祖様にお話させてもらって成仏して頂きますと、お仏壇がたちまちにして光ってくるのです。 「何々家先祖代々の諸霊の皆様、このような仏壇の中におられますと、成仏ができません。私達は極楽に帰ってこそ本当の成仏ができるのです。 この仏壇の中は極楽の世界とは違いますから、この中におられては成仏できません。この仏壇から思いを離して下さい。仏壇の中や、お墓の中、愛しいお方に心を残しますと、必ずその場所に自分の心が残り、これは執着となって縛られます」と言って、お話させてももらうのです。 仏飯をお供えして、「ご先祖様どうぞ召し上がって下さい」と言ってはいけません。ご先祖様には感謝と喜びをお供えするのです。 ご先祖様にどうぞと言ってお供えしますと 「ここにおったら供え物をしてくれるから安心だなあ。朝晩供えてくれるし、お経もあげてくれる、この仏壇の中におれば、子孫は私達の事をよくしてくれるから安心だ。他へ行く必要はない」 といって、極楽へ行く事を忘れてしまうのです。そして仏壇の中へ居ついてしまわれますから仏壇は古くなると黒くなってきます。 「私の家は一生懸命お勤めをするから、ローソクの煤(すす)と、線香の煙とで真っ黒になっています」と、自慢をなさっていますが、それは、拝めば拝むほど執着を残させる事になるのです。 私がお参りさせて頂きますと、「先生、ローソクとお線香を焚かなくてもいいのですか」と、言われますから、「そんなものは関係ありません。立てたければ立てて下さい。しかし、そういうものは要らないのです」と言って、ご先祖の諸霊にお話させてもらうのです。 ご先祖様が成仏される前の暗いお仏壇と、成仏された後の輝いたお仏壇の写真がそちらに幾組か置かれてありますが、本当にたちまちにして光ってくるのです。 これは仏壇の中におられた方の霊を天上界の世界へ送らせて頂いたら、お仏壇の中が光ってくる様に出来ているのです。毎月、命日にお寺さんに参って頂いて、それがだんだん暗くなってくるのはおかしい事です。 成仏された後は、いくら黒くなっておりましても、古いお仏壇は古いなりに燦々と輝いてきます。 「まず執着を離して下さい。仏壇と極楽とは違う場所です」という事をお伝えするのです。極楽へ行かないと成仏できませんから、仏壇にいてはいけない事をお伝えしまして、 次に、行く先が分かりましても、心にお荷物を沢山背負っておりますと重くて上がれませんから、心の荷物を下ろす方法をお伝えしたらいいのですね。心の荷物は、何によって荷物になっているかをお話させてもらいます。 「心の荷物は、腹を立てること、怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、不安、恐怖、取越苦労です。また過去の苦しみを話さないでいる事、貪欲、嘘、これらが心の荷物になっています。 この世に生活した時をよく振り返って、自分の過ちに気付けば、心素直にしてその一つ一つをまことの神にお詫びしなさい。その時、皆様の心は安らぎます。そして、あの天上の光の世界に救われる事が出来ます」 といって、反省させてあげたらいいのです。見えない世界の方に、自分の人生を振り返って反省して頂くのです。 「私達は心の教えを知らないために、自分の心を苦しめてきました。腹を立てましたし、人も恨みました。どうぞ許してください。あんな憎い人はないと思って憎しみを持った事もあります。どうぞ許してください」と、 一つ一つの反省、懺悔(ざんげ)、悔い改めをしていきますと、見ている内に諸霊の方の心の曇りが晴れていきます。そこで、 「神よ、光をお与え下さい。諸霊の皆さんは今、自らの反省に入っておられます。どうぞ神の光をお与え下さい。反省を正しく導いてあげて下さい」と言えばいいのです。 私達は、このように人間として生まれさせて頂きますと、必ず過ちを犯します。それは、過ちを犯す様に肉体を与えて頂いているのですから、過ちを犯していない人はこの世に一人もおられないのです。 見えない世界の方にお話させて頂きますが、肉体を持っている者も、すでにこの世を去った方も全く同じ事です。 見えない世界の霊の方に私は話しかけますが、これはこの世を去った霊だけでなく、その場にいる者も一緒に聞かなくてはいけないのです。 聞こえているのですから、その子孫の方も「私もそうであった、私にも過ちがあった」と、目覚めることです。 人間の習性といいますか、慣れるという事は恐ろしい事です。 かつて、昭和54年~56年頃は、迷える方が今生きている方の中に入って救いを求めてこられますと、その都度天上界へ送らせて頂きました。 最初の頃は、私の側におられる方も珍しいから、テープを持って用意してくれていました。 「なんと有り難いことだなあ、見えない世界の方が即、救われるとは、有り難い事だ」と最初は感激されて、涙を流して見ていた方が、一年、三年と経ちますと、私が一生懸命霊の方に諭していても、ワイワイそちらで喋っているのですね。 見えない世界の方に話しかけている時は、見える世界の方も一緒に、自分に言われていると思って聞けば救われるのです。見える方にそのように厳しい事を言いましたら、「あの人は生意気だ」と言ってきます。 見えない方にこそ、本当に私の権限をもて法を伝える事が出来ます。見えない世界からは怒ってきませんが、見える世界の方はすぐ怒ります。 こうして話をさせて頂く時と、見えない世界の方にお話させて頂く時とは、私は全く変わっているはずです。 光の天使は、「慈悲と愛の塊にして、あの世この世の諸霊を導かん、神より、この地上階の権限を委ねられしもの」と、「心行」に書いてあります。 すべての権限とは、財政界のトップに立ったりする事とは違って、心の世界における光の天使の権限をさしています。私達は心のあり方によって、どなた様でも光の天使になる事が出来ます。 元々お一人お一人は全部、光の天使としてこの地上に降りてこられたのですから、それに目覚める事です。愛を実践し、神様の御心を行った方は全部、光の天使になる事が出来るのです。 そして、地上の全ての人が、自分の行いによって神様の御心を示した時、この地上は仏国土、ユートピアの神の国が現れるはずです。 神様の御心を表すにはどうしたらいいか、それは今日まで何回もお話し、テープでも聞いて頂いています様に、「神様を知りたければ、あの太陽を見なさい」、お日様の御姿こそ、ほんとうの神様と思えばいいのですね。 そして、ほんとうの神様を知った時、私達はその真似をしたらいいのです。自分の生活の中で少しでも神様の真似をさせて頂いたらいいのです。お日様の様に自分を犠牲にして自分を燃え上がらせたらいいのです。 つまり、自分の肉体を使って、人様のために働かせてもらうのです。 「ああした、こうしたい」という時間をちょっと横に置いて、人様の喜びの為に肉体を動かす、これでいいのです。そして「あの人は好き、この人は嫌い」と言わないで、どの人も好きになることです。 嫌いな人を一人作りますと、一つ、二人嫌いな人を作りますと、二つ苦しいのです。世の中の人が皆好きになれば、神様の御心を行うことになります。 また、自分にとって都合の悪い事をされた時、「よくもやったな」と腹を立てて、一つの不都合に対して3つお返しをしてやろうかと思うのが私達ですが、これは絶対にしてはなりません。 お日様がなさらない事、つまり神様がなさらない事を、私達は決してしてはならないのです。ひとは自分の悪口陰口を言ってくれても、自分の持っているものを盗んだとしても、これを許させてもらい、責め裁かない事ですね。 イエス様は「自分が裁かれない為に、人を裁いてはならない」と、おっしゃっています。お日様が裁く事を一切なさらないのですから、私達も裁いてはなりません。またせめてはならないのです。 と言いましても、肉体を持っていますと、都合の悪い時にはむくむくと怒りが起きてきますが、この思いを早く捨て去る事です。そういう思いが起きて、「これはいけない」と思えば、早く捨てて、正常な心に切り替える事です。 しかし、私達は、自分の身に都合の悪い事がふりかかってきますと、心の曇りの中から悪魔が首を出してきます。悪魔(サタン)のままに実践しますと、それは自分の魂を悪魔に売り渡した事になります。 「ああこれはいけない、私はまだこんな未熟な人間である」と思って悪魔を追い払った時、正常を保つ事が出来ます。イエス様は「サタンよ去れ」と、おっしゃったのですね。サタンとは、心の中の悪魔です。 私達は油断をしますと、肉体のサタン(自我)がどこかに隙はないか、隙があれば襲ってやろうと狙っていますから、サタンにやられてしまいます。 サタンの正体は、自己保存と自我我欲です。これは私達の肉体の悪魔で、キリスト教では原罪といい、「人は罪の子である」と教えています。 しかし、人の内なる意識は神の子です。肉体が持っている意識が罪の子であり、この肉体の罪は、無理はないのです。自己保存、自我我欲から離れては生きていく事は出来ないように作られているからです。 自己保存しなければ破滅するから、保存するように作られています。ただ思いに心が翻弄されてしまいますと、罪の子として生きる事になります。 「自分を愛しなさい」と言いますと、「では、仕事をしないで寝ていよう」と言う人がありますが、これは、自分を傷めているのであり、サタンを愛している事です。 インドの言葉で、悪魔の事をマーラーといいます。日本に伝わりまして、男性のシンボルをマラといいます。 悪魔に注意しなさい、特に男性は大きなマーラーを持っていますから、その悪魔に翻弄されると色々な問題が起きるという事です。肉体の事をマーラーといい、己の肉体の中に潜んでいる悪魔、これが私達を誘惑してきます。 例えば何かしんどい事をしなくてはいけない時に、 「止めておけ、そんなしんどい事して何になるのか」と、誘いかけます。 私はいつも悪魔に狙われています。 「こんな暑い時に日本国中歩き回って何をしているのか、それよりもっとゆっくりして、少し楽にしたらどうか」と言って誘ってきます。 特に「ああしんどいなあ」と思う時は余計に誘いかけてきます。 隙を狙っているのですね。 その時、「いやいや、私はそれどころではないのだ、私がゆっくり遊ぶ事をせず、ある場所へ行けば、何十人、何百人の人が救われてくれるのだ。 私の様な者がいくのを多くの方が待って下さっている、楽をするよりも、こちらの方が大事だ」と思って、遊ぶ方を振り切るのですね。 ですからおよそ遊びという事をしません。若い時から、遊びを知りません。人様に少しでも喜んで頂くように生きたいと、これは若い時からの私の理想でございまして、二十歳ぐらいの時から人様のお役に立たせてもらい、少しでも喜んで頂けるような行いをしようと思って生きてきました。 それがいつの間にか、このように望む事なしに与えられているのですね。私から、どこそこへお話に行きたいとか、或いは人様の前でこの様にお話したいとかは、爪の先ほども思った事はありませんが、必要とあれば縁ができます。 ご縁が出来ますと招いて頂きます。これは「神様が私をその場所に呼んで頂いているのだから、何を置いても寄せて頂かなければいけない」と思います。 もちろん、私には求める心は何一つありません。電車賃がほしい、私の日当(にっとう)を出してほしいなどとは爪の垢ほど思った事はありません。 ただでさせて頂きたいと思うだけです。言葉の唯(ただ)と無料(ただ)を間違う人がよくあります。 「ただでさせて頂くのだったら、電車賃を出せ」と言う人があります。私は皆さんの電車賃を出すほど大金持ちではないのです。私は貰っていないから、電車賃を出せと言われてもどうする事もできません。 本当に心は人それぞれで、意味をどう受け取るかも人それぞれですが、人はどのように言っても構いません。 「ただただと言うのだったら、電車賃を出せ」と言う人は、神の御心を知らないのです。 神はただ与え給うのみ、私も、たださせて頂くのみです。それに対して、もし異議があるのならば、神様に文句を言って下さい。神様に電車賃を出せと言ってみなさい。神様は「ばかなことを」と言われます。 私に対して、もし背く様な批判、中傷をしますと、それは神様に対してしているのと同じ事になります。なぜかと言うと、私は神の御心を行っているからです。 その行いに対して、その言葉・神理に対して屁理屈をこねますと、それは神様の悪口を言っているのと同じ事になります。世の中にはそういう屁理屈を言うお方もおられるのです。 お一人お一人が、たださせて頂くようになった時、この地上界は理想の都です。この時大事な事は、どなたにさせて頂いたか、何をさせて頂いたかを即、心から捨ててしまう事です。 なぜ、そうしなければいけないかと言うと、すぐ捨ててしまえば相手に負担がかからないからです。負担がかからないから、相手の方も素直に喜んでくれるのです。 どれほど良い事をしましても、「私はあの人にこんな事をしてあげた」と言いますと、相手も恩着せがましく迷惑な思いがして「そんなに言うのなら、してくれなければいいのに」と、いう事になります。 これではいくら良い事をしても何にもなりません。善き行いが、悪しき行いに代わってしまいます。 たださせて頂き、その相手がどなたであったか、どういう事をさせて頂いたのかも、自分の心から即、捨ててしまいますと自分の心には、 「ああ良かったなあ」という喜びだけが残ります。喜びは最初の内は残りますが、これも慣れてきます。 こういう私達の日々の喜びが、先祖供養に繋がるのです。ご先祖様への供養とは、喜んで頂く事です。 ご先祖様にできなかった善き行為を、子孫の私達が行う事によって、「ああすばらしい子孫を与えて頂いて、私ができなかった事をしてくれる。なんと有り難いなあ」とご先祖様に喜んで頂く事ができます。 先祖供養で間違ってならない事は、巷(ちまた)の宗教で言うように、何代前の何兵衛さんが出てきたとか、熊やんの供養を一生懸命したけれども良くならない、それでその前の八兵衛さんが出てきたと、次から次に言って眠っている先祖様を起こす事です。これでは死ぬまでやっても、終わる事はありません。 私達のご先祖様の数は、わずか三十代測りましただけで、何十億という膨大な数になるのです。もう無限に多いのですから、そのお一人お一人を掘り起こしていたら私達が生きている間に終わる事はありません。 有り難い事は、まず私達救われる事です。私という存在は、何十億というご先祖様の癖、欠点、業(ごう)を背負っており、それらが集まったのが自分の姿ですから、沢山の悪い癖、欠点を持っているはずです。 無限のご先祖様の寄り集まった塊が自分であるならば、自分自身が救われ、成仏した時に、無限のご先祖様の業(カルマ)が解けるのです。 成仏は、生きながらに出来ます。 成仏は死んでするものとは違います。自分という存在が、ご先祖様の無限の諸々(もろもろ)の業(カルマ)の集まりであるならば、その集まったものが解ければ、ご先祖様が救われるわけですから、私達は自分が救われるという事がいかに大事であるかを知らねばなりません。 救われるという事は、苦しみがないという事です。 自分の苦しみとは、何回も言いますように、怒り、謗り、愚痴、貪欲、取り越し苦労、これらが苦しみの材料です。 そして、悟りといえば大変難しいようですが、お釈迦様は 「人の心から、怒り、愚痴、貪欲が壊滅した時、その心の状態をニルバーナーという」と言われました。 ニルバーナーとは、中国に伝わって「涅槃(ねはん)」と訳されましたが、その涅槃が悟りの心境です。 そこで問題なのは、悟りの心境をいかに持続していくかという事です。悟ったらもう怒りも愚痴も貪欲も出ない、と思ったらとんでもない間違いで、お釈迦様もイエス様も生きている限り、その思いは湧いてきたのです。 その湧いてきた思いをいかに早く捨てられたかが問題であってそれによって素晴らしいのです。その事は聖書の中にも、仏典の中にも書き残されています。 「悪魔物語」の中に、このように書かれています。ある時、お釈迦様が托鉢(たくはつ)に出かけられました。 鉢を持って、一軒一軒回ってその日頂く食事を鉢に入れてもらうのです。これは、日本の私達が知っている乞食さんとはちょっと違います。 同じ「乞食」といっても、人の家の表に立たれて、「私達の行いに価値ありと認めたならば、余食を鉢に投じ給え」と言って家々を回るのです。 余食を受けるのが礼儀作法ですね。 ある時、托鉢に回られたのですが、町は祭りでごった返しており、誰一人、お釈迦様の鉢に食べ物を入れてくれなかったのです。ただ鉢を持って貰い歩くのだから、楽なことだと思いますが、これはまことの真剣勝負の一つです。 価値あると認めてもらわなくては、鉢に食べ物は入れてもらえないのです。日本の乞食さんというのは、家の表に立って、「恵んで下さい」といって、食べ物をもらっていたのですが、あれとは意味が違います。 お釈迦様が一日足を棒にして回っても一粒の米さえももらえず、空っぽの鉢を持って精舎に帰ってこられた時、悪魔がささやきかけてきたのです。 「今一度町に行ってみよ。私がその鉢に食べ物を山と盛ってあげよう」。 すると、お釈迦様はこの様におっしゃいました。 「私は食にだけによって生きているのではない。私は喜びを食として生きよう」と。その時悪魔は、「仏陀は私を見通した」と言った、と書かれています。 この悪魔とは何かというと、いかに偉大なお釈迦様でも、一日中歩いて一粒のお米も貰えなかった時は「腹がへるなあ、困ったなあ」と思います。 この心が悪魔ですが、しかしそう思いになって当然です。そして、 「今なら祭りも終わっているから、もう一度家を回ったら、食べ物を入れてくれるかも知れないなあ」 という悪魔のささやきがお釈迦様の心の中に湧いてきたのですね。 その時、お釈迦様は 「今日は命懸けの托鉢をしたが何もなかった、私はするだけの事が出来て満足である。私はその喜びの方を取ろう」と思われて、自分の精舎へお帰りになったのです。誘いに来る悪魔とは、自分の肉体の持っている自己保存の欲望です。 悪魔といえば、口が裂け、角(つの)が生えた怖い生物だと思いますが、実は私達の自己保存、自我我欲こそが、私達を苦しみの中へ誘い込もうとするのであり、これが悪魔の正体です。 私達は常に自分の心を神の心に合わせて生活し、満ち足りた心を一瞬一瞬を過ごすよう努めねばなりません。この事が、先祖供養に繋がります。感謝と安らぎと調和に満たされた心境になれた時、ご先祖様に話しかけて下さい。 「ご先祖様、お陰様で私は人にこんなに喜んでもらっています。とても幸せでございます。もし暗い世界におられるご先祖様がございましたら、私の様に幸せでしたでしょうか」と尋ねてみて下さい。 そうしますと「幸せではなかった、あなたのようには生きなかった」と、おっしゃいます。これは具体的に生きる姿を見せるのですから、すぐ気付いて下さいます。私の様に幸せでしたかと言われたら、幸せだったと言えないですね。 これとは逆に、毎日喧嘩をして腹を立てていて、お仏壇の前だけで「ご先祖様‥‥」と言いますと、「何を抜かすか」と言って、お灸を据えられます。 ご仏壇にはどれほどもものを供えても、ご先祖様に食べて頂く事は出来ませんし、どれほどお経を唱えても、お経の意味を理解される事はありません。 お経の意味が理解できる様な方は迷っておられません。理解できないから迷っておられるのです。理解できない方にお経を百万回あげても成仏は出来ないのです。戒名も同じ事です。 お坊様がおられましたら商売の邪魔をしてごめんなさい。戒名、院号をつけると、お寺にとって何百万円の収入になります。 「大院殿居士」とつけると三百万円から入るのですね。何々院だけでも何十万円です。あんなものはいくらつけても、これは後に残った者がいかにいい格好をするだけの事で、儲けはお寺さんのものです。 「いくら上級の戒名をつけても何の意味もない」と、あの世から出てきたお方がおっしゃっています。戒名というのは、それを商売をするお寺さんが生活する為に出来た制度です。 元来はお釈迦様の当時、生きている時にお釈迦様の弟子になる為に反省を重ねて。過去の自分を捨てる意味において、名前を変えて付けたのが戒名です。 名前を変えて弟子になったのであり、死んで戒名をつけるものではなかったのです。こんな話がお寺さんの耳に入ると叱られますが、これは真理ですから避ける事はできません。 偉いお坊さんで本当に力のある方は、あの世の人に聞いてみて下さい。同じ答を霊の方は言われます。 「戒名は何にもならない。いくら供物をしてくれても食べられない」と。 間違った宗教教育によって私達は思想を作っていき、そのように思ってしまいますそして、間違った習慣をつくった環境において私達は人格を形成していきます。間違ったものでも正しいと錯覚して、人生を過ごすのです。 正しい法は「本当の神理とはこのようなものである」と説くものです。この様に生きなくてないけない、良い言葉を使わなくてはいけないと説きます。 言葉はやさしく分かりやすく、相手の方が喜んでくれるように理解できる様に語る事ですね。これが正しい法の日々の実践かと思います。 |
- No
- 84
- Date
- 2018.01.29 Mon
ソ連邦がロシアに代わった驚異の真実♪地球の歴史を変えた長尾弘先生の祈り♪聖母マリア様の涙話♪神秘超能力秘話
編集語記
地球の歴史を変えた長尾弘先生の祈り
ソ連邦がロシアに代わった驚異の真実とは
この度「心行」の解説下巻が出来上がり、ここに上・下二冊が揃い完成しました。平成5年1月「心行」の解説上巻の上梓(じょうじ)直後から、お忙しい先生にお願いして、引き続き同下巻の原稿(ご講演のテープを起こしたもの)
に目を通して頂けますようにご無理を申し上げ、もうこれ以上の催促は控えなくてはと思うほどの作業だったと思われますが、約束の期限に合わせて原稿を仕上げて下さいました。
解説の補足、文字の修正など細々(こまごま)と手を入れて頂きましたが、先生が一言(ひとこと)加筆されると意味が分かり易くなり、たちまち文章が生き生きと活気を帯びるのはまさに画竜点睛の趣が御座いました。
お陰様で先生の教えの原点であり、核とも言える「心行」の全行について上・下通して学べる幸せを頂き、皆様と共に喜び、感謝したいと思います。
今や、長尾弘先生の電動の旅の足跡はここ数年地球全土に亙り、正しい法と先生の大きな愛は日本国内はもとより、
ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・フランス・イギリス・香港・韓国・台湾・ブラジル・アメリカ・イスラエル・インド・中国・オーストラリア・ポーランドへ、そしてロシアにまで及ぼうとしています。
故高橋信次先生がかつて「正法は世界中に広まるであろう」と予言された通りでございます。
ことに、ドイツへ行かれて帰国後間もなく、世界中の人が予想もしなかった、まさかと思うあの堅固なベルリンの壁があっという間に崩壊しました。
また、イスラエルへ行かれた直後には、積年の複雑な事情による混乱で解決の糸口さえ掴めない状態だったパレスチナとの和解のきっかけが生じ、現在少しずつ争いを止める方向を模索しつつあります。
さらには、先生がソ連の上空を飛んでおられた時、機中から
「どうぞこの国に安らぎをお与え下さい」と祈られました。
下の方がパッパッと目も眩むほど光りましたそうで、そうすると、ソ連邦は終焉し、ロシアの誕生という、これまた思いがけない出来事に世界中がびっくりしました。
これを単なる偶然と思う人、また先生とは縁なく関知せぬ人も多いことでしょうが、知る人ぞ知る、間違いなく長尾弘先生の比類を超えたパワーの発露によって世界中が大きな調和に向けて確実に始動し始めている事を認めないわけにはまいりません。
イスラエルで、聖母マリア様の前に立たれた先生が掌を合わせて語りかけられると、大理石の象はまるで生きた人のようになり、眉が動き御目から涙が出て、眼の中の血管まで見える不思議なマリア様のお姿がビデオに写されております。
インドの仏陀の涅槃像の前で祈られました時は、日本の五百円硬貨よりも大きな金箔がまるで花びらの様に無数に舞い降りて同行の方々が驚かれました。
また、生まれつき聾唖(ろうあ)の方が先生の愛を頂いて、当然知るはずもない言葉を出し抜けに発せられたという事実も。驚異というほか言い表しようもございません。
インドでは、マザーテレサ女史と親しくお会いになり、インド大統領に招かれて官邸での歓迎を受けられ、イタリアのミラノでは市の名誉市民章も受けられております。
先生は、「人間はみな等しく内に神を宿しており、私たち一人ひとりは神の具現者である」と教えて下さいます。
長尾先生ほどの、神そのもののお姿にまで達することは至難であるとしても、せめて、先生の足許に近寄る事が出来ますように、日々地道に善を積んで悪を止め、常に心の曇りを払う実践に努めて、魂を向上させていきたいと思います。
ここに、長尾弘先生のお導きに対し心から尽きない感謝を捧げて、御著書編集の後記とさせて頂きます。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成2年9月23日
「心行」の解説を私なりに、ここ二年に亙(わた)ってさせてもらいました。今日をもって「心行」の解説を終わらせて頂きます。
いよいよ最終回でございます。神仏の光明を得る事は、正法の生活の実践の中にあります。正法の生活とは、調和された日々の生活ですね。この生活実践の中に神仏の光明を頂く事が出来ます。
迷いの岸である此岸(しがん)から、迷いのない川の向こうの岸、彼岸へ到達することを悟りの世界へ至るといっています。
向こう岸へ至るためには何も厳しい行をしたりお経を唱えたり特定の修行をしなくても、調和された正法の生活をすれば到達出来るのです。神仏の光明が与えられます。
正法の生活とはどういう事か、と追求させてもらいますと、やはり、自分の心を波立たせない事、貪欲によって心を曇らせない事、愚痴から離れる事です。愚痴によって正しいものを間違いと思う愚かな智恵から離れる事です。
ぐちぐちと嫌なことを言うのが愚痴だと思いますが、本当の意味は「愚かな智恵」という事です。この愚痴から離れない限り「本物」を知る事が出来ません。間違ったものを間違っていると認識しない限り、本当の正しいものには巡り合えないという事です。
この日本には二十万という沢山の宗教があり、みな人が幸せになるための良い事を教えています。しかし教えている事と実践面が逆になっている事が多いのですね。
お釈迦様は「幸せになりたい人、福徳を求めるバラモンは時々如来といわれる方に献花の供養をしなさい」と教えられました。
時々花を捧げる事によって心が広く豊かになるからで、心が大きくなれば徳が入ってくる、法施・財施(ざいせ)という教えを説いておられます。
出家なさった方は、在家の者に法を施して下さる、だから在家の者は出家された方に対して財を施すという、「法施・財施の教え」を説いておられます。
今の宗教はその点、「あげなさい」と言い、また、物を売っています。百貨店ほど物を売っている宗教があります。家も屋敷も全部供えなさいという宗教もありますし、お賽銭は硬貨でなく音のならないお札をあげなさいという宗教もあり、少しでも供えたら徳があると教えています。
ひどいのになると、「男は腹が小さいから、主人に内緒で借りてあげなさい」という、ひどいのが現実にあります。それを信じて主人に内緒で一生懸命あげたのがばれて離婚された方も沢山あります。
家の中で内緒事をしたら絶対にいけません。不調和に繋がります。主人に逆らったら幸せになれないのです。
その事を人間の肉体が教えてくれています。まぶたは上から下へ下がった時、目の前は真っ暗になります。家庭の中で奥さんが主人の言う事を聞かないでいたら、目の前が真っ暗になってしまいます。
女は陰の存在、男は陽の存在で、陽は上に陰は下にあります。私達の顎も下から上に合わせる様になっていて、上の顎は絶対に動きません。
それで私達の肉体は保存ができる様になっています。下が上に合わせる様になっており、そうすれば家庭も調和します。女は下から上の男の人に合わせていくものであって、逆らったら口が開いたまま飯が入らない様になっているのです。
瞼(まぶた)が上から下へ下がると真っ暗になるように下(女)が上(男)を下げさせると家庭が真っ暗になってしまいます。
今の宗教の中には、教える事が素晴らしくても、その実践において家庭の破壊や親不孝を実践させる教えもあります。そういう信仰をしてると、いつの日か必ず苦しみとなって具現化してくるのです。
ある宗教では、一つのものに三万円、五万円、十万円とあって、同じ買うなら十万円が有り難いと言って皆一番高いものを買うそうです。それに向かって毎日拝んでいたら救われていない霊が出て来るので、難儀なことだと思って本部へ行って供養のお願いをするのです。
すると一霊ご供養してもらうと十万円要るのです。五人の霊が出てきたら五十万円供えなければならない、こうして拝んでもらっている内にまた三人出てきて、さらに三十万円持っていかなくてはならなくなるのですね。
全国的組織を持つ宗教ですから、信者さんがいっぱいいて、大広間には「毎日供養します」といって受け付けますが、その教祖様は生神様の様に偉い人ですから出てきません。
係の人が「誰々さん、ただ今ご供養が終わりました。ご霊様何名様終わりました」と報告すると、その大広間にいる皆さんが゚゚パチパチと手を叩いて拍手をするのです。
そして次にまた、「誰それさん、ご先祖様何名のご供養終わりました」と言うと、手を叩いて、朝から晩まで拍手が鳴りっぱなし、こうして拍手のたびに何十万円と入るのです。これは現実です。
この宗教を信仰しているおじいちゃんとおばあちゃんがあって、おじいちゃんに、「あなたの亡くなった先妻さんと、お母さんが憑いている」と言ってその宗教で二人分二十万円をあげてご供養してもらわれたのです。
「分からなかったら何にもなりません。どうして憑いているという事が分かったのですか」と聞くと、おじいちゃんは年をとってヨボヨボしていますから、おばあちゃんとその娘さんとが、「何をぐずぐずしているの」と聞くと、
「ああ、お母ちゃんがいてくれたらこんな目には遭わないのに」と言って泣くから憑いていると思ったと言うのです。
「では先妻さんが憑いているのは、どうして分かったのですか」と聞くと、
おじいちゃんがコンコンと咳をする、先妻さんは胸を患って死んだので常に
咳をしていたから、それがおじいちゃんに憑いて咳をさせているのだと決めたそうです。そこで二十万円供えてご供養をしてもらって、結果は何も良くなっていないの言うので、私は言ったのです。
「そんな供養をしてもらって、おじいちゃんの病気が治ってああ良かった、良いことが起きて良かったという証明がなかったら、供養されているのかされていないのか分かりません。私なら供養代は一銭も要らなくて証明してみるから、おじいちゃんを連れてきなさい」、
そこでおじいちゃんを連れて来ましたから、「おじいちゃんどうですか」と声をかけると、「わあ、わあ、ああ」とものを言うのも通じないのです。
おばあちゃんに通訳してもらって、「おじいちゃんにお母さんや先の奥さんが憑いたら叶わないから、私が今日お救いしましょう」と言って、憑いておられる方をお救いしてあがってもらったのですね。
そうすると、おじいちゃんがいっぺんに治ってしまって、今までグニャグニャと言って死にかけていた様になっていたおじいちゃんが、
「ここは結構なとこです。まあ、どうぞお上がり下さい」と言って、来られたお客さんの受付をしてくれました。見えていた方々がびっくりして、
「今死にかけていたおじいちゃんが受付してますよ」と知らせてくれたのですが、そういう事が起きます。
この様にはっきりといっぺんに治るという現象として現れた場合は、
「ああ本物だなあ。救われてくれたなあ」と分かりますが、何の証明もなかったら信ずる事は出来ませんね。
そういう宗教に限って何も証明ができません。何故かと言うと、嘘か本当か分からないものに何十万円、何百万円と取って、不当なるお金を集めている様なものに、神が力をお与えになるはずがないからです。
神はただでさせて頂く時にのみ、神の御業を現されます。欲の曇りで神の光は遮られるのです。欲を持たず、ただ救われてくれたらいいと思って尽くす時には何の曇りもありませんので、神様の光がすーっと通っていくのです。
そんな法外なお大きなお金を取っている様な所は欲の曇りで光が止まってしまうのです。
一回見てもらって二十万円という様な宗教もあります。そこへ行って治ったというお方はごく稀です。治らなかったからといって後から苦情を言われない様に、前もってちゃんと契約書を書かされるそうです。
「もし治らなくても、お金を返してくれとは言いません」そして、判を押すのです。「やっぱりだめです」と言って、よく私の所へ来られます。
これらの宗教を偽物だと見抜けない限り、本物に巡り合う事はできません。そして本当に巡り会えるご縁というのは、どれほど難しいものかという事ですね。
私達は今、本当に正しいご縁を頂きました。本当に正しい教えとは、高橋信次先生を縁としての正法だったのです。先生は講演の時、大きな縦長の垂れ幕(たれまく)を垂らして、「釈迦・イエスの原点に還れ」と書かれていましたが、釈迦・イエスの教えの原点こそ正法だったのですね。
今の数え切れないほどの多くの宗教は、お釈迦様がお説きになった教えとは似ても似つかないものに変わっております。
今の仏教とは、まず京都のお寺など見られる様な、お客がお金を払って入る観光寺院と、もう一つ、私たちに切っても切れないお葬式です。御坊様といえば葬式、葬式といえばお坊様が必要不可欠の存在になっています。
まず人が死ねば枕経、葬式のお経、火葬場でのお経、お骨をあげに行った時のお経、お骨をあげてお寺へ帰ってきてからのお経、死後七日ごとに四十九日までのお経、むかわりのお経、そして、あくる年がまわってきて三年のお経、七年のお経と続きます。
「一人死んだらわしゃうれしい、七日七日に米五合、むかわり三年、また七年」と言われています。一人死ぬと次々とお布施が入るわけで、昔はお布施は米五合を供えたのですね。
四国へ行かせてもらった時、そこの主人はお坊さんとよくカラオケに行くそうです。そのお坊さんが、「どうも不作でいかん。もう少し○○でくれないかなあ」といつも言っているというのです。
○○でくれないと収入がないのです。お釈迦様の当時はこんな事は絶対になかったのです。お葬式に出家された方がお参りするという事は絶対にありません。お坊さんはお葬式とは全く関係がない存在だったのですね。
お釈迦様の死が近づいた時、側に仕えて世話された阿難さんが、「仏陀が亡くなられた後の亡骸はどのようにしたらいいでしょうか」と尋ねると、
「そんなものはそこらに放っておきなさい。肉体は在家の者が適当に処置するであろう。肉体にかまうよりも、しっかりと法を精進しなさい」とお釈迦様はおっしゃったのです。今お坊さんのする葬式というのを、当時は在家の方がしたのですね。それが仏教の原点だったのです。
今の仏教というと、お線香をあげて、難しいお経をあげるものと思っていますが、本当の仏教というのは、今は無いのです。形の変わったものが仏教だと思っているだけです。
高橋信次先生は、「仏教の原点を学びなさい」と言われました。学ばせて頂くと「なるほどそうか、お釈迦様がお説きなったものと今の仏教とはそれ程までに変わっているのか」という事がよく分かります。
キリスト教についても同じ事が言えますね。今はローマ法王の姿がキリスト教の偉い方だと信じていますが、イエス様はああいう豪華な姿をいつされたでしょうか。その生涯にあっても一回もそういう事はありませんでした。
一般の我々と全く変わらない同じ姿をされ、生活も同じようにふるまわれて多くの人を救われたのですね。あらゆる病を癒やされたと書かれています。
以前、山口で話をさせて頂いた時、お話のテープを起こしてそのプリントを沢山送って頂きました。それを熱心なクリスチャンのご夫婦が、ヨーロッパへ行く飛行機の中で読まれて、
「ああ聖書の中に書かれている事をそのまま話していられる、ひょっとしたら、イエス様が日本にお生まれになったのと違うだろうか、日本に帰ったら早速お訪ねしたい」と思われ、奥様が何をおいても、ここへ来てくれたのです。
ご主人の聖書を見せてもらうと、どのページも全部赤線が引いてある程、熱心に信仰なさっている方です。凄くハイカラな方でモダンなスタイルで来られましたが、私はランニングシャツとステテコ姿でいたのです。
「先生おられますか」と言われるので、「先生みたいなものはおりません」と言うと、「山口で講演された長尾弘先生です」。
そこで「それは私です」と言うと、びっくりなさっていました。立派な方が奥からしずしずとお出ましになられると思っておられたそうです。
その時の「ヘエー」と言って驚かれた顔が今も目の前に浮かぶようです。あまりびっくりなさって居たので、今のお話をさせて頂いたのです。
「あなた達が最も尊敬なさっているローマ法王の様な恰好を、イエス様はご存命中に一回でもなさったと思いますか。
弟子は先生のように生きるのが、弟子としての姿です。先生が着たこともない様な立派な衣を着るのは弟子の取るべき態度ではないはずです」
「それもそうですね」と、色々お話して、よく理解して頂いたのです。
二回目、三回目と来られた時、「主人も子供達もぜひ先生にお目にかからせて欲しいと言っています」とおっしゃるから「あなたが想像された様な立派な格好をした人間ではないと、ちゃんと伝えて下さいよ」とお願いしました。
「それは間違いない様に言うておきます」。次の時「どんな風に言うてくれましたか」と聞きますと、「お百姓のようなおじいちゃんが、いま肥(こえ)たごをおろして入ってきた様な人だと言っております」
「それなら間違いないでしょう」と言った事がありますが、キリスト教でも、イエス様がご苦労なさって、命懸けで人の命を救われた姿と、今の教会の奥におられる牧師さんとか神父さんとかは、とてもかけ離れた方が多いです。
イエス様の様な方は一人もおられませんと言えば怒られますが、そういう方は砂の中からダイヤモンドを探し出すほどしかおられません。お坊様も同じです。お釈迦様のように生きておられる方はごく稀で、殆どありません。
これは、長い時間の内に、人間の知識と思いが、時の権力者の欲望も入り混じって、正しい教えを間違ったものに変えてしまったのです。
ですから仏法を学ぶのであれば、その原点を学ぶ事であり、キリスト教を学ぶのであれば、イエス様がどのようにして生きられたのか、どのような事をおっしゃられたのか、それを求めて聖書のほんとうの意味を学ぶ事です。
イエス様が教えられた事は、表面の言葉としての意味と、文字の底に沈められている深い意味とがあります。分底の秘文といって、文の底に沈められている意味を学ばなくてはいけません。
例えば、「汝、人の血を我が内に受け入れることなかれ」と聖書に書かれています。「血」と書いてあって、「血液」とは書いてありません。
「血」とは、その人間が持っている癖、欠点、業(カルマ)のことです。
それを血液と間違えて受け取って輸血すれば助かるものを、教えに背くと自分の愛し子を殺してしまった方があるのですね。また、自ら輸血を否定して死んだ人の事も新聞に載っていました。
こんな事をして、本当の神様がお喜びになるでしょうか。誤った教えの為に我が子を死なせてしまった時、父なる神は絶対にお喜びにならないと思います。しかしこの事について、誤った信仰の方たちは「これは殉教である、素晴らしい行為である」と称えております。
愛し子の命を救うてこそ神は喜んで下さるはずなのに、可愛い我が子の命を奪って、一体誰が褒めてくれますか。教えによって、本当の真実が曲げられている事は沢山あります。
「心行」のお話は先月で終わっているのですが、日々の生活において、法を常に実践した時、神仏の光が頂け、迷いから抜け出る事が出来るという事を各自銘記して下さい。
「この教えは世の果てるまで変わることのない神理である」と、書いて頂いております。日々の生活の師として、何かあった時には読み返して、「そうだなあ」と噛み締めて下さい。
「反省しなさい」と書いてあるから反省してみようかと思って頂いた時には、守護霊さんがご協力ご指導して下さると書いてあります。
また、宇宙の存在とか、太陽系の存在についても、何回も何回も読ませて頂いたら分かり易く書いてあります。私も「心行」から学ばせて頂きました。常に日々の生活の中でこの「心行」をお師匠さんとして学んでいきたいと思っています。 長尾弘先生の記事♪
正しい法とは、どれほど時代が変遷(へんせん)しても、人の心が変わっても、同じように変わることのないものです。この「心行」に説かれている神理はいかに時代を経ても、社会の環境が変化しても変わることのないという事です。ですから大事に学んでいきたいと思います。
- No
- 85
- Date
- 2018.01.28 Sun
神仏の大慈悲に感謝♪感謝とは心を苦しめる想念から自分自身を守る武器♪線香・供花の秘密♪長尾弘先生♪高橋信次師
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年6月25日
世の中には数々の宗教があります。その宗教によりまして先祖供養、或いは浄霊、除霊などの特色を持って法・道を説いておりますが、本当の正しい教えはお釈迦様のお説き下さいました正法であり、イエス様がお説き下さいました愛の正しい教えです。
高橋信次先生は、釈迦・イエスの教えの原点に還れとおっしゃいました。現在の仏教もキリスト教もお釈迦様・イエス様のお説き下さった教えとは遠く離れております。
お釈迦様は亡くなった方のために拝んで祀りなさい、そして物をお供えなさい、ローソクを立てなさいとはおっしゃっておられません。この様な事がなぜ日本の仏教の中に習慣になってしまったかについて少しお話させて頂きます。
仏教はインドの地において2500年有余年の昔、ゴーダマ・シッダルダ(お釈迦様)がお説き下さった教えです。元々ゴーダマという王子様だったのです。
釈迦族というのは、アメリカのインディアンにコマンチ族とかアパッチ族とかがあります様に、インドのシャキャ族という一つの部族で、その王子様だったのですね。このお釈迦様が、人は何故苦しむのかと疑問を持たれたのです。
生後間もなくお母様が亡くなられて、お母様の妹さんが義母となって育てられました。お釈迦様は、人間として生を享(う)けた全ての者がなぜ悲し
まなければならないのか、なぜ苦しまなければならないのか、なぜ病気をしなければならないのか、なぜ死んでいくのであろうかと、そういう生死の問題について深く疑問を持たれたのです。
そしてその苦しみから何とかして救われる方法はないものかと、徹底的に追求していかれました。
高橋信次先生の「人間釈迦」を読んで頂きますとその中に詳しく書かれてありますが、やがてお釈迦様は自らに目覚められて教えを説かれました。
その教えがインドからチベット、そしてあのシルクロードを通って中国の地へと伝わってきました。その伝わる道中でその土地と土地の信仰と仏教がミックスされながら伝わってきたのです。
中国には道教と儒教という教えがあり、それを混ざり合ったものが朝鮮半島に伝わり、またさらにその国の思想とか土地にある宗教などと混ざり合いながら今度は日本に伝わってきました。この時すでにお釈迦様のお説き下さいました御(み)教えとはかなり遠く離れたものになっているのですね。
色々な儀式の中に一つの例を取りましても、現在の日本の仏教ではお灯明をつけ、録音を立てるのが普通の仕来(しきた)りになっていますが、しかしお釈迦様の当時はそんな事はしていませんでした。
ローソクはなぜつけるようになったのか。お釈迦様は八正道の中で常に正しく仕事をしなさいと生業に就く事を説かれました。
その正しい仕事とは主に昼間行われなくてはいけません。その頃は電気もありませんから夜は真っ暗です。当初、お釈迦様の説法は夜の方が多かったのですね。夜、真っ暗の場所で説法を聞かせて頂いてもお顔が見えないので、
「何とかお釈迦様のお姿を拝みたい」という人々の願いからお釈迦様の前でかがり火を焚いたのですね。今で言えば照明と同じ事です。それがいつの間にかお灯明になりました。
では線香はなぜ立てるようになったのか。インドの地は暑い所でございますから、色々な毒虫がおります。人の血を吸う虫、或いは毒蛇などもおりますから、そのままでは噛まれて仕事にならないので、毒草の汁を絞って、それを体に塗りつけ虫除けにしたのです。
今で言う殺虫剤の代わりで、虫が寄り付かない為のものです。ところがこれがものすごく臭いのです。これを体に塗って仕事をしますと汗と薬草の臭いでもう臭くてたまらなかったそうです。
お釈迦様の場へ人々が集まりますと我慢できない程の臭気ですから、頭の良いブルナニヤにプトラという方が栴檀(せんだん)の木をくすべた所、
大変良い匂いがして悪臭が消されましたので、それで皆さんが集合の時には必ず栴檀の木を持ってきて各自がくすべたのです。
それがいつの日にか線香やお香へと変わりました。
では、花を供えるのはどういう事なのでしょうか。
お釈迦様のみ教えの中に「福徳を求める人々は、時々如来に花を捧げよ」というのがあるのです。幸せを求めて、人々はお釈迦様に花を捧げたのです。その捧げられた花をお釈迦様の前にずっと飾られたのですね。私も小さい献花をここに置かせて頂いております。
しかしこの花は私の方を向いておりません。私から見ますと花の背中が見えて綺麗さがよく分かりません。お釈迦様もその通りで御座いまして、
お釈迦様は偉大でございますから身の周りいっぱいを花で飾られておりましたが、お釈迦様から見られたらみな花の後ばかりで、皆さんの方に向けて花を飾られたのですね。これが供花の始まりです。
お釈迦様ご存命当時はその仕切りと今の仏教の仕切りではとんでもない間違いになっています。
本当に仏様にお花を供えるのであれば、自分たちが背中を見て、仏様に花を見てもらうのが礼儀ですが、供えている花は仏様にお尻を向けて、花を供えた者達の方に花の表が向いています。
しかしこれは仕切りとなって行っているだけです。
キリスト教にしましても、イエス様がご存命法をお説きになりました時と今とでは、大変かけ離れたものになっています。イエス様は着の身着のままです。私は今日は良い服を着させて頂いていますが、イエス様はこんな格好はなさいませんでした。
皆さんと同じ服を着て日々の生活のままの姿をもって法をお説きになりました。ローマ法王が頭にかぶられる王冠は七、八千万円もするものだと聞いています。ビロードのガウンを着て金の錫杖をついておられます。
イエス様がいつそんな姿をなさいましたか。イエス様は
「私の肉を食べなさい。私の血を飲みなさい」とおっしゃったはずです。
肉を食べるといってもイエス様を殺して食べたら大変です。あれはイエス様のみ教えを素直に私達の肉体の中に、心の中に入れなさい、そしてイエス様の如くイエス様と一体となって生きなさい、一人一人がイエス様になる事を望んでこの様に言われたのですね。
お師匠様であるイエス様がそのようにいい恰好をなさっていないのに、何百年何千年も経った後の弟子が、贅沢三昧のものを身にまとっている事自体が、イエス様とは遠く離れています。原点と現在とでは全く違っている事を高橋信次先生はお説き下さいました。
正しい法を学ぶという事は、この世で何を為し、何をなさないか、また何を語って何を語ってはならないかを学ぶ事です。そしていよいよあの世へ帰る時は迷う事なく私達の魂の故郷である極楽に帰らねばなりません。
「神仏の大慈悲に感謝し
万生相互の調和の心が 神意なることを悟るべし」
私達は日々の生活でこの神仏の大慈悲に感謝する事を忘れてはいけません。私達は神仏のお陰で生きさせて頂いています。
神仏といいましても肉体を持たれて、そこらを歩いておられる様な神様とは違うのですね。神様とは、大宇宙の隅々までもその愛を持って支配し、小さく言えばこの地球界の万生万物を育む大自然の力です。
この力こそほんとうの神であり、また法の体の仏です。法そのものが仏の体なのです。神という言葉は全てを生かし全てを育む事を表わし、神ご自身がその大宇宙の中に、また自然の中にご自身の姿を示されております。
それはお互いに持ちつ持たれつという姿です。万生相互の調和の心です。
「私は自分の家の神さんにだけ感謝します」と言う人がありますが、こういう神様はほんとうの神様ではありません。真(まこと)の神様とは宇宙の隅々までもその愛をもって支配なさる計り知る事の出来ない巨大なエネルギーであって、この神様であれば素直に受け入れる事が出来ますね。
私達が毎日の生活でこうして生きさせて頂くには、動物・植物・鉱物を頂いています。そして感謝した事もなく、その有り難さを味わった事もない空気というものを私たちに与えて頂いています。
しかもその空気の中には私達が生きさせて頂くのにちょうど都合の良い量の酸素を入れて頂いているのですね。もし酸素がなかったら、私達は三分か四分の内に全部窒息します。それにもかかわらず空気に対して私達は感謝する事さえ知りませんでした。
またあのお日様から私達の最も生き易い熱と光を頂いておりながら、お日様に対しても感謝を知りませんでした。もし光が無かったら大変ですし、熱が無かったら地球はたちまち凍ってしまいます。
この熱と光をカロリーに計算しますと、一秒間に石炭二百万トンも燃焼させるだけのものになり、それをこの地球だけが頂いているそうです。
一秒間で二脚万トンもの石炭は十秒間で二千万トンですから、一日経ちましたらもう計算することもできません。
これをお金に換算しましても、もし請求書が来ましたらこれはもう大変な事です。地球の全財産を持っていっても足りません。これほど巨大な熱・光を頂いており、しかも一銭の請求もなさいませんから私達はあって当たり前と思っています。
日々の生活の中でもそうですね。両親にいて頂き、夫婦がお互いに生きさせて頂き、子供さんにいて頂き、しかもそれで当たり前と思ってしまいます。当たり前と思う中から感謝を忘れていきます。もしいなければどれほど淋しいか、どれほど不自由であるか、その事が分からないのです。
ですから、神様への感謝という事が、法の生活をする上ではいちばん大切な要素です。見るもの触れるもの全てに感謝の心を持たせてもらう事です。
「神仏の大慈悲に感謝し」と書いて頂いておりますが、自然界に現れた全てのものが神様の現れです。全てのものに感謝するという事が神様への感謝に繋がります。
この水もそうですね。有り難い事に蛇口をちょっとひねりますと、ジャーと水を出して頂けます。しかしこの水が無かったら生物の生存は絶対に許されないのです。人間の肉体は七十数%が水分で出来ていると聞いています。
円心分離機にかけますと七割は水になって出ていってしまいます。人間のこの肉体そのものも自然界の中の一物質としてこの世に生存を許されています。水そのものも七十%はH2Oの原子に帰ります。
もちろん脂肪とか蛋白質とか色々な他の物質もありますが、これらも全部原子に帰ります。人間は死ぬと燃やして灰にしてしまって何も無くなってしまったなあと思うのですけれども、人間の肉体は、焼場で燃やしてもらうと熱の作用によって七十%の水は全部炎と煙と一緒になって蒸発するのですね。
自然の中に帰るのです。土の中に埋めますと時間はかかりますが、やはり水となって土に帰っていきます。しかし物質そのものは変わることなく、水は水として現実に残っているのですね。
私の住んでいる近くに火葬場がございます。
一昔前まで、低気圧の時などはむくむくと煙が出て地を這って流れますから、皆「気味悪いな、いやだなあ」とおっしゃいます。
しかし人間が自然界へ帰った時はあの煙と一緒に空気中に水蒸気となって上がっていき、それが満遍なく広がりますと、私達はその空気を呼吸しますし、またその水分が天となって大地に降りてきますと、その水を頂いて生きてもいきます。
いってみれば人間の共喰いをやっているわけです。そんな事はないと言いましてもこれは事実です。燃やせば必ず空気中に帰りますし、それが水として大地に帰ってくるという様に、循環の法に従っています。
相互依存というのはお互いに持ちつ持たれつという事ですが、人間という字が持ちつ持たれつを表し、その「間」に生きる事を表しています。
自然界の太陽系を考えてみますと、太陽を中心として9つの惑星、つまり火星・木星・金星・地球などの星があり、それが一秒の狂いもなく循環しています。遠く離れているから関係はないと思うのですがお互いに作用し合って動いています。
昔の時計を分解しますとゼンマイが入っていますね。ネジを巻きますとゼンマイの力によってギヤが回ってきます。また無数の歯車が入っていて、その歯車はゼンマイのばねのエネルギーを元にして周ります。回ることによって次の歯車を回し、さらに次が回される事によってその次を動かしています。
これと全く同じ事で、太陽というエネルギーによって各惑星が回されているのですが、これが各惑星ごとに独立して回っているのではなくて、目に見えない歯車、つまり引力の作用によって自分が働き、動くことによって他を動かして他を動かしています。太陽系はこのように調和されています。
引力は目に見えませんが、ちょうど歯車のギアの様なつとめをしております。銀河系にはこの太陽系の様な星の塊が二十億個もあるそうです。
太陽系の中で地球という生物の存在を許された星が一個あるという事は、十分の一の確率ですね。十分の一に生存可能な環境を与えられていますから、別の太陽系にもやはり同じ様な確率で地球のようなものがありますと、
この銀河系だけで生物の生きている星は約二千億個あるという事になります。その中には地球よりももっと古い歴史をもった星もありますし、また地球より若い星もあります。
古い歴史を持った星はそれだけ科学も進んでいるでしょうからUFOという未確認飛行物体は、その様な天体から地球へ時たま訪れる姿なのでしょう。
テレビでよくUFOの話をしていますが、ああいうものが来ても別に不思議ではないのです。しかし分からないからびっくりします。
空から円盤の様なものが飛んで来たら「ウワァー恐ろしい」「お椀が飛んできた」と言いますけど、そういうものの存在はあって当たり前の事です。
銀河系の中を見ましても、太陽系そのものの力によって他の太陽系〈惑星系〉を運行させているのです。これが大宇宙の果に至るまで全く同じ力をもって動かされており、その作用は相互依存で、お互いに持ちつ持たれつという法則の中に、大宇宙の隅々までもその力をもって示されています。
この教えは今、磯ノ上の浄心庵でお話をさせて頂いていますが、しかし宇宙の果てへ行ってこの同じお話をしましても「ああなるほどそうか、その通りだ」と、通じる話です。こういう教えこそ本当の正法であり真理です。
ですから「教え」が、日本でしたら日本だけ、或いは韓国なら韓国にだけしか通らない様な教えであれば、それは正法・神理ではないわけですね。
日本にだけおられる神様で、外国におられない神様は、これは正しくない神様です。地球そのものは神の御神体であり、地球そのものが神様の御姿(みすがた)の現れの一つですから方角が悪いとか良いとか言いますが、神様の御神体の中に悪い場所のあるはずがありません。
これらの事は全て人間が考えたものであり、しかも人間が自分の都合により、また国を治めた権力者の都合によって色々と定められたものが、場所や方角の迷信となって世に広まっていったものです。
地球は神のご身体であり、地球上どこへ行きましても大いなる神の愛に満たされています。ここだけは神様の手の届かない場所という、そんな所はどこにもありません。トイレの中でもお風呂の中でも山の上に登っても海の中に潜っても全部神様の中にあるわけです。
私達は常に神様の中にどっぷりと漬けていただいており、寝ても起きても神様の慈愛の中に包まれています。言ってみれば神様漬けになっている様なものですね。どぶ漬けというのがありますが、私達は有り難い事に神様漬けです。
それをハッキリと自覚させて頂くだけでも私達はどれ程有り難い事か知れません。神様の中にいるのですから不安とか恐怖とかいったものは本来は無いものです。それを知らないから不安や恐怖に襲われるのです。
私はいつも神様の御胸(みむね)の中に抱(いだ)かれているという事を知っています。そのために大安心です。全く恐怖はありません。しかしそれを知りましても、日々の生活でもしも思うこと、行うこと、語ることが間違っておりますと恐怖が襲ってきます。
嘘がばれないかともうその思いが恐怖です。また、悪事や間違った事をしますと、私達の心の中にやはり神の心である良心、神我なる我がちゃんと居て下さって、その神が自分を裁きます。
そして表面の意識が恐怖に襲われます。夜休みますとすごく怖い夢を見ます。逃げても逃げても追いかけられる夢を見たり、崖っぷちから落ちそうになって「ああ怖い」としがみつくと、
しがみついた所からまた崩れてきて、底知れない所へ落ちそうになり必死に逃げようとしている夢などを見たりします。
私は悪ガキの頃、そのような夢をいつも見ました。しかし今は一切見なくなりました。意識の中に恐怖を持った生活をしていますと、夜休んだ時に恐怖に襲われる夢を見るわけです。
夢はただ寝ている間に起こるものと思っておりますが、これは私達の昼の生活が夜の意識の中に現れているという事です。生活を正した時には、そのような夢は一切消えるはずです。
そして夜休む前、或いは朝のトイレの中ででも神様に対して心から
「お父さん、お父様」と呼べる様な自分を作る事です。
神様を「お父様」と呼ぼうと思いますと、神様の御心(みこころ)から少し離れても恥ずかしくて呼べませんからこれは厳しいものです。
完全に神の子としての一日を過ごした時、胸を張って「お父さんありがとう御座います」と父なる神に感謝できるはずです。その時父なる神と自分とは本当に親子であったと思う事が出来ます。
神様のみ心を私達がこの肉体をもって実践する事です。神様の御心の実践とは相互依存、お互いに持ちつ持たれつの助け合いで生きる事です。
もう少し細かく砕いていきますと、私達は自分に都合の悪い方はすぐ差別をします。「あの人は嫌な人」、ひどくなりますと「あんな嫌な人とものも言いたくない」とか「あの人の方を向いて小便もしたくない」とか言います。
嫌いな人の方を向いて小便するのももったいないというのですが、それほど嫌う事自体、差別をしているのです。
あの太陽の熱・光の様に、一切差別なく平等に生きる思いを持たせて頂く様に、神の子であればこれを実践するのは当然の事です。私達は自分の悪口をちょっと言われると、たちまち三倍五倍にして返そうとします。
「私は何も言っていないのに、あの人は私の事をこんなに悪く言った、もう許せない」と、今度はその人の悪口を一生懸命言うのですね。しかしお日様を見て下さい。どれほどお日様を侮辱しても、どれほど悪口を言っても怒鳴っても一切関係なしに、ただ熱と光を燦々(さんさん)と与え給います。
私達も自分にとって都合の悪い方、自分に良くしてくれない方、或いは悪口を言ってくれる方に対しても、難しい事ですけれども、どんな風に言われようがされようが、なお燦々と与え続ける太陽の御姿をお手本にして生きたいと思います。あの太陽の御姿そのものが神ご自身の御姿です。
私達も神の子としてその様に努力して生きるべきです。私達はよく人を裁きます。気に入らない人に対してはすぐ言い返したり、こきおろしたりしてその人を裁き、復讐し、仕返しをしようとしますね。
これも神の心に背いております。お日様から仕返しは受けません。頭の上におられるお日様に向かって唾を吐きかけてみなさい。その唾は必ず自分に返ってきますが、これはお日様と関係のない事、神様に関係の無い事です。
天に唾した行為が自分に返っただけです。これを天罰覿面(てきめん)といいます。自分で自分に罰を当てているのであって天はそんなものは知らん顔なさっています。
間違った信仰では、会を脱会しようとしますと必ず罰が当たると言って脅します。えらい目に合うとか祟りがあるとか言いますがあんなものは全部嘘です。これは組織というエゴがその様に言わせているだけでほんとうの神様とは全く無縁の事です。
神様はそんな事は一切関係なしに、ただ幸せになって欲しい、幸せな人生を過ごして欲しいと、その愛を私たちに注がれています。どれほど罪を犯した人間であっても、いかに国が違ってもそれらには一切関係なしに
「すべてが愛おしい、幸せに生きよ、健やかに生きよ」と言われています。
もしその苦しみがたとえ他の方から与えられたものであったとしても、私達が自分の心を自分で苦しめた時、父なる神はご自身の苦しみの様に辛い思いをして下さるのです。
何が最も罪深いかといいますと、それは自分の心を苦しめる事です。自分を苦しめる原因は腹を立てる事です。私達は平気で腹を立てて、もう堪らなくなるとカッカッカと頭から湯気を上げますが、これは自分を苦しめているのですね。
怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、貪欲、取り越し苦労が苦しみの原因です。また過去の苦しみをいつまでも話さない事も苦しみです。過ぎ去った出来事はすでに死んだ出来事です。絶対に帰ってきません。
その帰ってこないものに対していつまでも自分の心を苦しめる事は神の御意志に背く行為です。自分の心を苦しめる事は全部神様に背いているのだというこの真理を知る事です。その時私達の心から怒りが消えます。
怒りが消え去った時どれほど心が安らかであるか知れません。嘘を言わなかった時、恨み憎む方が一人もなかった時どれほど心が安らかであるか、
---私は世界一の幸せ者ではないかと思います。集うて下さる方々は皆素晴らしいお方ばかりが集まって下さいます。世の中にはすばら生くないお方もおられるはずですが、そんなお方は私の側へは来て下さいません。そしてどこへ行っても愛されて重宝して頂けます。
なぜ私のようなも者をこんなに大事にしてもら、皆様の愛をそのまま頂けるのか、それは私がただでさせて頂くから、愛の実践をさせて頂くから、皆様から大事にして頂けるのですね。
ですから日々の生活で、まず家庭の中で心から愛の実践をする事です。たださせて頂いただく時、自分がして頂けます。
イエス様はこの様におっしゃっています。
「自分のして欲しいと思う事を人様のためにしなさい」と。
「あなた達はお互いに愛し合いなさい」ともおっしゃいました。
愛するという原因を作りますと、愛されるという結果が出てくるからです。原因結果の法則の中にすべてのものが含まれており、この法則から誰も逃げ出す事は出来ないのです。その事をよく理解しますと、愛することによって愛され、せさて頂く事によってして頂けるという事がよく分かります。
あらゆる宗教は「感謝をしなさい」と教えますが、なぜ感謝しなければならないのかという本当の意味は教えて頂けません。
これも原因結果の法則から見ますとはっきり分かります。
「有難うございます」と感謝しておりますと、その感謝の思いの中には怒りも愚痴も恨みも憎しみも入る事が出来ませんから、万生万物すべてが神の御姿であれば全てのものに
「有難うございます」「有難うございます」と感謝の時間を長く持てば持つほど私達の心の苦しみの原因が入って来る事がないからです。
私達の心は「一念三千」といって一瞬にして三千の方向に動き回りますが、どんな器用な方でも同時に二つの事を思う事はできません。一つ一つしか思えない様に心は作られていますから、感謝の心を向けておりますと、外の事を思えないのです。
感謝とは心を苦しめる悪しき想念から自分自身を守る武器であったのです。この様に思わせて頂いて、
お日様を見ては「有難うございます」、
熱・光を頂いては「ああ有難うございます」、
お水を頂いては「ああ有難うございます」、
花を見て人様を見ては常に、「有難うございます」
と思う時間が長ければ長いほど平安に過ごせます。
今日一日がそのような感謝の心で過ごせましたら、平均寿命が八十年としましても三百六十五日を掛けてみて下さい。三万日もありません。
しかもその一日一日は再び帰ってこないのです。
もし取り返しが出来るのでしたら、私の髪の毛はすぐ真っ黒になるのですが、時間の取り返しはできません。
しかしこれは自然現象で、髪が薄くなる方、白くなる方は定めであり、いずれにしてもやがて必ず皆この世から消えていきます。
いつまでも生きたいと思う方がありますけど、人は適当な時に死なせてもらうのが1番いいのです。もっと良いのは惜しまれる内に桜の花の様に散らせてもらえたら最高です。朽ち果ててから散ったのでは愛想を尽かされます。
桜という花は大変綺麗で人の心を引きます。
春の嵐に「もうちょっと咲いていてほしいなあ」と思う時にハラハラと散ってしまうから「もったいなあ、惜しいなあ」と思うのですね。
私の様な者が何も望む事もなく、自分の思い一切なしに、こうして日本国中から招いて頂いて、そしてこんな拙い話を聞いて頂き
「お陰様で救われました」
「お陰様で病気が治りました」
「心の苦しみから救われました」
と、数え切れない方々が幸せになって頂いております。
これは人として生を頂いて、人間として今の私は最も花の満開した時ではないかと思わせて頂いております。私は高橋信次先生よりも、もう十年長生きさせて頂きました。
出来ることなら日本のあちらこちらから、私の代わりにこうしてお話をして下さるお方が目覚めて頂けます様に、そして次の人々を救って頂けますように-----そうなりましたら私はもう安心して散っていけます。
私が散りましても、私の咲かせた花はまた皆さんが実らせてくれたらいいのです。散った後に「あの人はこんな事をいったなあ」と言って、実らせて下さったら私の努めは終わるのですね。
そのように惜しまれる間に散らせてほしいのが私の心境です。
不思議なもので、心から私の事を思って頂く方から、「自分の胸の中にいつも長尾先生が坐っていて下さいます。ほっと思えば先生の顔がここに浮かんできます」と言って頂けます。
それは常に私の話を思い出して頂き、私と接した時の思いを心の中に抱いて下さるからですね。私はそういう方の心の中に常に生きていられます。
ですから一人でも多くの方の為に善き行いをもって一人でも多くの方の魂の中に自らを生きさせてもらう事です。自分を捨てた愛の実践、これは必ず人の心の中に入ってきます。
もし望むものをもって「こうしてあげるから、こうしてほしい」、或いは「こうしたから、あんな風にしてもらわなくてはならない」という思いを持って行為しましたら、これは自らを苦しめる事になります。
徹底した無償の愛の実践をすることです。この時は心に苦しみが残りません。相手に笑顔を求めても、感謝の心を求めてもいけません。
ましてや物や金を求めてはいけません。
一切無償、そして自分は何をさせて頂いたとか、どなたにさせて頂いたという思いも全て捨て去ることです。その時は、心に苦しみが湧き上がる事はありません。あたかも池の鯉にエサをやる如くさせて頂くことです。
餌をやりながら、鯉に「この餌を返してね」と言う人はいないと思います。この心がけが大切ではないかと思います。しかし餌をやるからといって、その餌に針と糸をつけて投げてはいけません。
求めて得られない様になっているのがこの世の実相です。求めて全てが得られるのでしたら、人は苦しむ事などないのです。与えられないから皆苦しんでいます。だから求めない事です。たださせて頂くのが、幸せへの道です。
私達はどのような事があっても心を苦しめないようにと話しましたが、これはそう簡単にはできません。腹を立てまいと言っているはしから腹の立つ事が起きるようになっています。
そして見えない世界からテストを受けるのですね。「私は一生懸命頑張ったから、この頃腹を立てない様になった」と思っている所へカッカッカと怒る事が起きてくるのは守護霊さんがテストをしてくれるのです。
心の修行は言うに易しく行うに難しいと思います。しかし私達は訓練する事です。絶えず休み無しに練習訓練をしていきますと、やがて上手になってきます。その様にして頑張っていきたいと思います。
蓮 <REN> 長尾弘先生 CD/DVD 『誰でも幸せになれる法』 http://www.1love.jp/index.html 長尾弘先生のご講話CD店です♪
- No
- 86
- Date
- 2018.01.27 Sat
悟りとは心の中の怒り・愚痴・貪欲の壊滅の事♪心行の解説♪神理の理解で魂の光量増加♪長尾弘先生♪高橋信次師
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年5月28日
「六根あるがゆえに 己が悟れば 菩提と化すことを悟るべし」
私達は五官によって感じ、「意」によって喜び、苦しみ、悲しみます。五官に「意」を含めて六根です。つまり「眼・耳・鼻・舌・身・意」これで六根です。肉体には眼、耳、鼻、口があり、そしてこの体をいれて五官が与えられています。
この五官によって魂の修行をさせて頂くのです。五官が無ければ肉体が保存できませんが、どうしてもこの五官を通して目で見、肌で感じ、舌で味わって、都合の悪いものは避けて自分を守ろうとします。
苦いものや毒などは吐き出しますし、火に手が触れると熱いから避けますし、針で突いたら痛いので避けるというように造られています。五官を通して見る時は、どうしても自己保存になりますが、それが当たり前なのです。
そして自我我欲に捉われて当然なのです。自己保存のために与えられた道具ですから、そうなって当たり前のこの肉体の中に、神の子の私たちの内なる魂が宿って修行させてもらうのですね。
私達一人一人の中に、神様が自らを表現するために入っておられます。その神様が肉体の五官という悪魔の装いをなさっています。
ですから表面に捉われますと、悪魔の働きが出てきて、それが自己保存・自我我欲となります。
しかし悪魔の仮面を剥がせば、その中は神ご自身であるはずです。
私達は一人一人魂の修行にこの世に生まれ出ているのですが、ついつい五官に翻弄されてしまいます。五官による翻弄を煩悩ともいっています。
人間は肉体を頂いた限り、避けることの出来ない自己保存と自我我欲の煩悩を持ちます。キリスト教では「人間は罪の子である」と説かれますが、
本質は罪の子ではなくて、肉体そのものが持っている自己保存と自我我欲こそが罪そのものだったわけです。イエス様が「人間が罪の子だ」とおっしゃったのはその事をさしています。
六根という煩悩を頂いておりますが、自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。自らが仏となります。
魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、理性的になったり、つまり「知性・理性・本能・感情」の4つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。その想念の働きによって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。
心が丸い状態で、4つの思いが想念によって調和されていますと、あばたはあばたに見えます。逆に知性ばかりが大きくなりましたら「頭でっかち」になり、これは危険です。
想念の働きによって、私達の意識の状態が色々と変化します。私達の心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、呪ったり、またある時は飛び跳ねるほど喜んだりします。
一人一人が持っている魂の器の底から少し離れた場所に、五官の感覚というカーテンが下りています。この感覚が表面と内とを遮ってしまうので、神様が私達の表面に出ていただけないのです。
幼な子の魂には遮るカーテンが下りておらず曇りがありませんから、神そのものの意識が表面に出ておられるのですが、もう三歳になりましたら立派にカーテンがかかってしまいます。
しかし神様と人間とが切り離されるのではなく、心の曇りによって遮断されているだけであって、表面に振り回され、五官に翻弄された人間になっているという事です。
よく悪霊とか地獄霊とかいいますが、たとえサタンといえども、表面が曇っただけで、内は神の御子です。自ら遮っているだけで、この遮るカーテンを払えば、どなたも皆菩薩と化す事が出来ます。すごく簡単な事です。
このカーテンを取り除くのにはどうしたらいいか。まずこの曇りはなぜ出来たかというと、五官に翻弄されて怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、盗み、取り越し苦労、不安、恐怖、貪欲などによって生じたのです。
五官の求めるままに翻弄され、怒りや妬みになるのですから、この邪魔ものを取ってしまえばいいのです。
取る方法は「徹底した自己反省」をさせて頂く事です。
生まれてから今日までの間を振り返り、「あの時あのような過ちを犯した」「あの時はこんな事をして人を恨んでしまった」と、一つ一つ神様にお詫びさせてもらい、これを改めていく事です。
そしてその悪の償いとして善き行いを積み重ねた時にだんだんと心の曇りが薄れます。反省を通して心の壁、カーテンを打ち破った時、自らが光であるという事が体験できます。
五官の感覚は全く消えて光だけになるという体験を、私はさせてもらいましたので、間違いございません。妙な霊能力がつくとかというものとは違って、全く異質なものです。
お釈迦様は誰にでも出来る道をお説きになったはずですし、イエス様も誰でもが救われる道をお説きになりました。仏も昔は凡夫だったのですから、私達も悟った時は仏と化す事が出来ます。
これを「やがて死ぬから仏になる」と思えば大きな間違いです。死んだら仏になるのではありません。悟られた方が仏になるのです。
死んだ者は亡くなった者、つまり「亡者」と書きます。亡くなった方のお宅へ行って「亡者さんにお悔やみさせて下さい」と言うと無礼だと叱られますから、いっそ死んでしまったのだから仏にしてしまえといって
「仏さんにちょっとご冥福を祈らせて下さい」と言うようになったのです。
本当は悟りもせずに死んでしまったら皆亡者です。死んで硬直を起こしたり、怖い顔をしたりしている方は気の毒ですけど皆亡者さんです。
この世を去った時、その方の人生の全てが、肉体に現れます。昔から「人の価値は死んだ時に分かる」といったものです。
それは、死に様と、亡くなった時の姿を言うのです。この世でのお付き合いが多く、顔の広かった方や何とか議員という方のお葬式で花輪がいっぱい並び、この世的にはお葬式の送り人が多かったので値打ちがあるという風に
一般は思いますが、本当はそういうものではなく、自らの心を悟り、神の子として生き、この世を去る時に成仏された方こそ値打ちがあります。
こういう方は死後硬直は起きないという形でその方の価値は肉体の上に現れます。今まで人が亡くなれば死後硬直は起き、必ず冷たくなるものと思い、それが常識となっておりましたが、硬くなるようでは成仏出来ていないのです。
その数からいいますと、いかに成仏できないお方が多いかという事が分かります。しかし硬くなったお方にも、私達が本当に愛の心をもって法をお伝えさせて頂きますと即、硬直がとけます。
今冷たくなって見るも無残な姿をなさっていても、ご本人が自分の過ちに気付き、死というものを認識し、そしてこの肉体から魂がうまく離れる事が出来た瞬間に肉体はふわふわと柔らかくなります。
こういう事は沢山体験させてもらってますから、これは自ら菩提と化す事を悟られたから、そうなったのです。
私達の本質は神そのものであり、神が私達の内に入って下さっている事を知るだけで、また、「ああなるほどそうか」と思わせて頂くだけで、もう皆さんの魂のワット数は何ワットか上がります。
このことが分かれば今度は実践する事ですね。
じっくりと反省しますと自分の数々の過ちが浮かび上がりますから、自分の罪に対する償いとして、どなたに対しても構いませんから「あの罪の償いをこの方に善をさせて頂こう」と思って実践する事によって罪は消えていきます。
しかし次々と罪を繰り返しますと、何時まで経ってもカーテンは上がってくれません。曇りの原因をまず作らないこと、
「今後は一切腹を立てまい」「今度は一切愚痴は言うまい」「全てのものに足るを知る生活をしよう、貪欲を捨てさせてもらおう」これでいいのです。
お釈迦様の教えの「悟り」についてみますと、悟りとはニルバーナ、つまり火が燃え尽きてしまった状態という意味です。この言葉が中国に伝わりまして涅槃(ねはん)という言葉になっております。
「涅槃」そのものが「悟り」です。
あるお弟子がお釈迦様に質問されたのですね。
「ニルバーナ(涅槃)とは一体どういう所ですか」。
そうしますとお釈迦様は次のようにお答えになったそうです。「ニルバーナとは私達の心の中の怒りの壊滅、愚痴の壊滅、そして貪欲の壊滅である」
と。
この状態がニルバーナであるとおっしゃっていますから、これなら私達も悟りの心境に至る事が出来るはずです。この教えが理解できましたら、私達は自信を持って、勇気を持って挑戦する事が出来ます。
滝に打たれたり、断食をしたりという事はちょっと真似ができませんが、この3つでしたら日々の生活の中で実践出来るはずですね。誰にでも出来る事です。それが悟りであったのです。この状態になった事を菩提とも言えるわけです。
日常の具体例で、怒りの壊滅の方法を言いますと、これは思い方をうまく帰る方法しかないのです。一番手っ取り早い方法は常に大難を小難と思う事です。何事が起きても、もっとひどい目に会う事を思えば幸いだと、考える事です。
ある方が奥さんからいつも怒られて逃げ回っていると、また追いかけてきて言われるので「うちの嫁さんにはかないません。どうしたらいいですか」
と相談に見えたのです。
「本物の狂人よりはましだと思って喜びなさい。文句を言われるぐらい結構な事です」と言いますと、「そう思いましたら、えらい楽になりました」と言って、いつもそう思う事にされたそうです。
私達は思い方一つによって不幸になったり、幸せになったりしますね。男性は嫁さんにえらい目に会わされてかなわんな、えらい嫁さんで苦労するなと思うのですが、本当の心の持ち方でああましな嫁さんだと思えるのです。
奥さんの側に立って見ても同じことです。うちの主人はうるさくて嫌だな、どうしようもなくかなわないと思う主人を
「ああ結構だ、この人がいるから私は生活させてもらえる、もう嫌な所は目をつぶろう」と思いかえましたらたちまち楽になります。
嫌な面ばかり見るから嫌になるのです。私達は環境の中に生きていると錯覚を起こしていますが、本当は心の中に生きているのであり、思い方一つ変えるだけですごく救われる場合がありますね。
自由自在に良い面も悪い面も見分けて、良い方へ心を変えるのが「観自在菩薩」で、良い面に素早く切り替えの出来る方は観自在です。仏を目指して修行する方をボサターといいます。
私達は、アポロキティーシュバラーといって過去、現在、未来の三世を見通す能力を持つような偉大な者にはなれませんが、観自在菩薩でしたら、誰にでもなれます。
私達は確かに三世を見通す能力があれば素晴らしいなあと思いますが、こんな能力がつきますと、魂の修行が出来ないのです。みな分かってしまうから生まれる必要はなくなってきます。
前もって全ての筋道が分かっていて、こちらへ行ったら駄目、こう行ってこのようにすれば良いというのでしたら、何も生まれてくる必要はありません。
ですからいくら失敗しても「ああ私は駄目人間だ」と思わなくてもいいのです。二度と繰り返さないという修行法でしたら私達は自信を持って修行できます。失敗しても当たり前、それを学びとして次に繰り返さなければいいのですね。
「私はもう再び人の悪口は言いません」と言いながら、言うはしから次々と悪口を言っている人があります。これでは何もなりません。間違いと気づけば「過ちを悔い改めるのに憚ることなかれ」で、遠慮せず勇気を持って改めたらいいのです。
イエス様がおっしゃるように「悔改めよ、汝の罪は許されん」です。悔い改めたらもう罪は許されます。しかし改め放しではいけません。今度は善き償いをする事ですね。
例えば、よその人をひどい目に会わせて、殴って泣かせます。今度悔い改めましたと言って相手に謝らないでいると「こら」と殴られます。相手からどついてもらうのが償いです。
どついてもらって「はい、有難うございました」と言って受けるのが償いの行為です。どんな事でも「ああ悪い事をした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、反省すればするほど自分が嫌になるとよくおっしゃいますが、それはその後の実践をしていないから苦しいのです。ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
反省をして償いのために善き行いをしますと「ああ人として生まれて良かった」という喜びが必ず与えられます。反省をして自分の過ちに目覚め、次に償いの為に善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。
「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、そこで悔い改める事が出来て償いをさせてもらえて良かったなあ」という喜びが頂けるはずですね。頭で反省するだけで実践がありません。だんだん落ち込んでいきます。
道教の教えに「友の憂いに我は泣き、吾が喜びに友が舞う」というのがありますが、友の憂いに我が泣いてはいけません。一緒に不幸になります。
喜びは、我が喜びも友の喜びもともに踊って喜べばいいのですが、憂いを共にして泣くというのはいけません。泣くよりも励まし勇気づけて、友の憂いを除く助けをするのが、良き友のお付き合いですね。
このように心の在り方によって人は不幸にも幸せにもなります。菩提とは、内在された偉大な神の意識と、表面の意識とが遮られている事を知る事であり、一つの悟りです。
この事が把握できますと人間全てが兄弟である事が理解できます。
このコップが沢山ありますが、どのコップの中もみな同じ空気が入っているはずです。このように人間は全部同根、コップが何十万個ありましても、全部同じ空気が入っているように、私達一人一人の中に父なる神のご意志がそのまま入って下さっています。私達は全部同質同根です。
これを知った時、「自分を愛するが如く他を愛さなければいけない」というイエス様の言葉が理解できます。お互いに愛しなさいというのは、それは内在の世界において、皆自分がこの方であり、この方が自分であるからです。
菩提とは菩提と化す事、つまり内なる意識に通じることです。これは六根があるがためにこの心境を掴む事ができます。というのはこちら側があるからそちらに達する事が出来るのです。
カーテンがあり壁があって、壁の外側は私達の表面意識、内側は内在された神の意識が通じているという事を知ればいいのです。つまり悟る事ですね。六根があるが故に菩提と化す事が出来ます。
お釈迦様はこの肉体を「不浄なるものを詰め込んだ皮袋のようなものである」とおっしゃいました。人体を何か尊い清らかなものの様に錯覚を起こしていますがよく考えてみますとこの肉体からは「くそ」ばっかり出てきます。
歯くそ、耳くそ、目くそ、もうくそだらけでございます。しかしこの汚い物が出て来る袋があってこそ、私達は悟らせてもらう事が出来るのです。
汚れ多き五官が無かったら悟る事は出来ません。お釈迦様がおっしゃっている様に不浄なるものを詰め込んだこの皮袋があってこそ菩提と化す事が出来ます。蓮の花は汚い泥がないと咲かないのと同じ事です。
天上界にいたら悟れません。何故かと言うと、自分と全く同じ光の量の区域におりますから、十㍗の者は十㍗の者ばかり、百ワットの者は百ワットの者ばかりで外の人はいませんから、他の方を見て学ぶ事が出来ないのです。
このくそ袋に魂が入りますと、偉大な光の大天使も、地獄からちょっと上へ上がった程度の方も全部同じ肉体の中に入りますから見たところ皆人間ですが、魂の次元の高い良き方は、やはり過ち少なく善き行いをなさいます。
その方その方の霊格、霊の高さ、魂の段階の高さを知る方法は、その方がどれだけ善き行いをなさっているか、どれだけ過ち少ない生活をなさっているかによって判断出来ます。
一時、目を細くして相手を見たら光が出てきて、光が大きいか小さいかを見るというのを習った事がありましたが、そんな事をしなくても、善い事はようしないで悪い事ばっかりしている過ちの多い人はもう霊格が低いと判断して間違いありません。魂の次元の問題です。
高い方は人の為に仏の技をなされているはずです。言われる事に嘘や惑わしい言葉は一切使われません。ですからその方の行ない、言葉を見て霊格を判断する事が出来ます。
この肉体とは、言ってみれば泥沼みたいなものです。しかし蓮の花は泥沼がなければ絶対に咲きません。蓮の花はあの泥沼の汚いものを吸収して、それを栄養として、その泥を汚さない美しい花を咲かせています。
蓮の花でも葉でも、泥水をかけても決して汚れることはなく、水をみな弾いてしまいます。悪や汚れを寄せ付けない蓮の花は一体どこから育ってきたかというと、泥の中からです。
それと全く同じ事で、六根がなかったら魂の進化、悟りはありません。私達人間は、肉体の五官をもって、五官を栄養として、汚れを寄せ付けない心の蓮の花を咲かせる事が、この世に生まれた目的でした。
今、この社会を見ましても、リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、自分も内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。
「私達がいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、世間の奴は悪い事ばかりしているから何にもならない。ましてや政治家が悪い事をしている世では修行する意味がありません」などと言う人がありますが、
しかし、悪い事をし、間違いを犯す方々は、私達「法」を学ぶ者から見ますと、これは泥沼と同じです。その人達の姿を私達の栄養として「あのような事はしないように、ああいう間違いは犯さない様にしよう。せめて自分だけでも間違いのない様に生きよう」と思って、そこから学び取っていく事ですね。
そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。過ちも人の悪も私達が裁く必要はありません。これは私達と神様の問題です。
私達はそれを学びとして、せめて自分は過ちを犯さない様にしようと、自分の栄養にしていけばいいのです。
ですから社会の悪も全て私達の学びの材料として受け取らせてもらった時には、腹も立ちませんし、人を悪く思うこともありません。ましてや恨み憎しみは関係のない事です。
その方を神様の関係だと思わせてもらえればいいのですね。身近な親しい人が正しくない事をされる場合も同じ事です。
腹が立ったり嫌な思いをしたり、ひどい時にはカッかときて、他人の愚かな行為の為に自分の心の楽しみを失います。
自分は間違っていないのに、人が間違ったからといって自分自身の心を苦しめる方が多いのですが、この時、私達は次のように思う事です。
「人の愚かな行為をもって、我が心の楽しみを失うことなかれ」と。
人が愚かな事をした場合、大半の人はその事で自分の心を苦しめます。例えば電車に乗っていてすごくマナーの悪い人に対して、
「ほんとに、ようあんな事が出来るものだ」と怒っています。
起こるのは自分ですね。マナーの悪い人は他の人なのに、それを見て怒って自分の心が苦しんでいます。
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなり」。
他の愚かな行為で、夫婦の間でも友達の間でも心を苦しめる事は多いです。
「ほんまにうちの嫁さん、もう何をやっているのやな!」と、自分がしていないのに自分の奥さんの事で怒っていますと、嫁さんよりも婿さんの方が愚かになります。
逆の場合も同じ事ですね。「うちのお父さん、しょうがないなあ」と言って主人に腹を立てていますと奥さんの方が愚かです(笑い)。
自分が愚かな事をしたら、これは悔い改めなければいけませんが、人が愚かな事をして、それで自分が怒っていたら、その愚かな人よりも自分の方がなおアホという事です。
人の事で自分が腹を立てない事、ましてや相手が間違っている場合に原を立てたら、丸損でございます。これを専門の様にして、人の悪い事ばかりを言ったり書いたりして怒っている人がありますね(笑い)。
あれは丸損です。自分の心の休まる暇がありません。他人の悪い所ばかり目につく人は、常に心が苛立って、腹を立てていますから、心の中にやすらぎがあるはずがありません。こんな人は死んだら必ず硬くなります。これは絶対間違いありませんから、そういう人を一度見ておくといいですね。
私達は天上界の世界におりますと、自分の魂の光の量をさらに上げる事が出来ないために、この厳しい現象界で肉体の中に入って魂の修行をします。
現象界というのは天上界から見ますとものすごく危険極まりない場所です。いつ転がり落ちるか分からない様な断崖絶壁で旅している世界ですね。一歩踏み外すとたちまち奈落の底に落ちます。
仲良く幸せに暮らしていた家庭で、奥さんが亡くなられた後、息子さん夫婦に揉め事が起きてお嫁さんが子供を残して家を出てしまい、私達が知り合った当時の幸せな調和された家庭が二年もしない内に完全に破壊したのを知っていますが、この様な崖っぷちを私達は旅をしているという事です。
一つ何か縁に触れましたら、突然奈落の底へ落ちるという方がいっぱいありますね。会社の場合も同じです。この間まで景気良く盛大にやっておられた方が、ある日会社の前を通りますと、破産のため会社は潰れ、家族は分散していました。これも危険なこの世の旅で一歩踏み外した姿です。
自然界の海原の航海にも譬(たと)えられます。海原はある時は波一つなく静かに凪(な)いでいますし、また暴風に荒れ狂う時もあります。
海原は凪いでいても切りに閉じ込められて航海不能な状態もあり、凪いでいるから「やれ嬉しや」と航海していると暗礁が出ていて船底を突き破ってしまう事もあります。それと全く同じ事です。
私達の人生も油断していたら港の人口で船の底を割ったという例になりますね。私達は肉体という船に乗りまして人生の海原を旅しているわけですから、余程うまく羅針盤を動かさないといけません。
この羅針盤は、何事をするにも自分の心で一度判断してみる事です。あちらへ行った方がいいか、こちらへ行った方がいいか、と考えてみます。
この時、良心が嘆く法に行けば必ずひどい目に遭います。喜んでくれる方を選んでいけば必ず上手くいきます。なぜ上手くいくかと言いますと、私達の両親こそ、神が私達に与え給うたお方だからです。
「その父と母との導きに従う事は父なる神の導きに従う事である事を知りなさい。父母を敬い父母の導きに従う者は、神なる私を敬い、神なる私の導きに従う事である事を知りなさい」と、この様に神は言われます。
両親が喜んで下さる道は、神が喜んで下さる道ですから、狂いはないのです。両親の悲しまれる道を選んだら神が悲しまれるから、失敗の道を辿ります。
私の人生の羅針盤は二十歳の時に頂きました。そして少しでも安心して頂く様に、親には心配をかけたくないと思っていますのにこれも試練で、心配をかけなければならない様な事も起きますね。それは必ずひどい目に遭います。心配をかけただけまた自分が苦しみを味わいます。
仮にお亡くなりになっていても、親に安心して頂くようにすれば両親はあの世で喜んで下さいます。私達は神の御意志に背いて、絶対に幸せになる事は出来ません。
神様と全く同じ生命を頂いている私達が、その意味さえ分からなくなって自ら苦しんでいると、その痛みはそのままこちら側の神様に通じるはずですから、自分を苦しめてはなりません。
この世の中で、たとえ宇宙の果まで行こうとも、どこへ行こうとも自分以上に愛しい者はいないのです。
自分たち夫婦の仲が悪いために、主人のいない所でお父さんの悪口を子供に言って、お父さんへの尊敬をお母さんが奪っていますと、やがてこういう子どもは十代の中頃を過ぎましたらその復讐をお母さんに向けてきます。
これが家庭内暴力の正体です。お母さんの頭の毛を持って引きずり回し、或いはバットで殴ったり、遂にはお父さんまで殺してしまいます。
あれは全部母親の罪です。子どもの心を自分の方に向けたい為にお父さんの悪口を子どもに教えるからです。その一番いい例が私でございます。
「あんたら大きくなって、お母ちゃんの様になったら駄目だよ、お父さんの言う事を一つも聞いてくれない、あんなお嫁さんになったら結婚する相手の人が可哀想だから」と言って、私は一生懸命教えました。
家内もまた教えます。「あんなお父さんみたいな人と一緒になったら駄目よ。余計な事ばかりして家を放ったらかしにしているから」。
親のこういうやり方は、子どもに悪くなれ悪くなれと教えている様なものです。私はずっと幼い頃まで遡って反省させて頂きましたが、三歳まではお父さんお母さんは神様だと思っております。皆さんもそうです。
三歳まで反省してみて下さい。おしめを替えて頂き、おっぱいを頂き、抱っこして頂き、両親は神様以上の存在だと思っています。
そのお父さんお母さん、つまり男神と女神がお互いに子供に向かって値打ちの落とし合いをしているのです。私の両親の場合は仲が良かったので幸せでしたが、私の子供は気の毒です。
私は本当に両親を神様以上に、天皇陛下以上に思っておりました。昔は天皇陛下と言いますと、もう生き神様、現人神でして、その天皇陛下よりもお父さんお母さんの方がなお尊い方だと思っておりました。これは事実です。
両親の縁があってこそ自分があり、もし両親に縁が頂けなかったら、私自身の存在は絶対にないはずですから、誰よりも尊いのが両親ですね。
その両親がお互いに貶し合い、神様の値打ちを落とし合っていたら子供を駄目にしてしまいます。子供を素直な神の心で大きくするのも、駄目にするのも親の教育の中にあり、それは親の責任です。 長尾弘先生の記事♪
- No
- 87
- Date
- 2018.01.26 Fri
久遠常住の巨大な愛が本当の神様♪内なる神・神なる我の理解度で治癒♪反省の心は霊を浄化♪高橋信次師♪長尾弘先生
|
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年3月27日
「心行」の解説は、前回「自己保存・自我我欲に明け暮れてこの現象界を過ぎゆく」という所まで学びました。自我我欲といいますのはキリスト教でいっている所の「原罪」ではないかと思います。
肉体を頂いている限り避ける事の出来ない罪が自己保存と自我我欲です。肉体を持つ限り、縁に触れますと次から次へと自己保存と自我我欲の思いが盛り上がってきます。自己保存と自我我欲こそ私達の心の中に巣を作って住みついている悪魔の正体です。
私達の内なる世界の、心の奥底のもっと奥底の世界は、本当の神なる我の世界であり、これこそキリスト教でいう所の「キリスト意識」です。
私達の一人一人の中に、真の神の御霊(みたま)がちゃんと与えられています。これを知る事に最も大きな妨げをするのが自己保存と自我我欲、そして後に出てきます所の五官です。
他の人はどうでも構わない、自分さえ良ければいいと思ったり、自分にとって都合が悪かったら嘘を言っても相手を陥れようとしたりします。
自分を正当化するために、ありもしない事実をでっち上げてでも、自分に都合の悪い人を落とそうとかかるのは、ありもしない事実をでっち上げても、自分に都合の悪い人を落とそうとかかるのは、正に悪魔の仕業であり、そのような思い、行いは本当の神様のご意志に最も背いた行為です。
何故かといいますと、神は大いなる愛であり、全てのものがお互いに幸せに暮らすように努力する事が神のご意志に添うことだからです。
もし、自分と相手を分離させたり、差別してしまいますと、これはもう神のご意志に背きます。神のご意志に背く者は全部偽物であり、悪魔であると見るべきです。
自分の心を自分の心の魔に支配されてしまって、神の御心に背いて、この現象世界を去ってしまうのが、法に縁をいただけなかった時の私達の姿です。
もし縁を頂けなかったとしたら、今頃私はどうなっていたか分かりません。欲望に振り回され、他を恨み憎み、非難攻撃して自分の心を鬼のようにして生きていた事と思います。この姿は全く神のご意志に背いた生き方です。
「また 生老病死の苦しみを受け 己の本性も忘れ去るものなり」
私達は肉体を頂きますと、生老病死の苦しみを受け、自分自身の本性を忘れ去ってしまいます。日々の生活を生き抜いていく事も大変です。
年を取ることも大変です。姿が醜くなるなる事を避けることは出来ませんし、病気にならないという保証は誰一人頂いておりませんから何時病気にかかるかもしれません。
というのは、人間の肉体は四百四病の病の姿であるといわれて、その病が縁に触れていつ噴き出すかも分からないのです。
また死は誰一人として避ける事は出来ません。どれほど善いことをしようが、悪いことをしようが、大空の彼方に逃れても、水の底に逃れても、山の奥の洞窟に逃れたとしても、死から逃れられる所はなく、死は必ず訪れます。
この世に生を頂きますと、必ず乗り越えなければならないのは死という現実です。しかし、どうしてもそれに対する恐怖が伴うのですね。ですから「死ぬのは怖い」と皆さんがおっしゃっています。この誰もが避けることが出来ない死を、いかに迎えるかという事ですね。
それは常に自分の心を軽くすることです。この現象世界は私達の魂を修行させて頂く所の仮の宿であるということを常に自覚することです。
父母に仮に呼ばれて客に来てまた立ち帰るもとのふるさと
もとの故郷に立ち帰るとは、この世を卒業した時のことです。この事を普段から心の中へよく入れておく事です。
そうしますと死というものは別に怖い問題ではなく、この世は魂の修行をするためにお父さんお母さんの縁を頂いてお客様に呼んで頂いているだけで、帰るべき時が来たら本当の自分の故郷に帰るのだという事が分かると、死を怖いと思わなくなります。
私は二十代に、この言葉に巡り合いまして、死の恐怖から逃れました。ですから死というものには、一切恐怖はなく、いつお迎えを頂いても喜んで帰らせて頂く用意があります。
というのは、今日までの間に私がさせて頂いた事をあの世に帰りまして、「これだけのことをさせて頂きました」と言って報告できるお土産を作っております。
故郷に帰る時に、日頃、私達が神様の愛をこの肉体を通してどれだけ日々の生活の中で現せたか、本当の神様の御心をどれだけの方にお伝えできたか、これが大きなお土産になるのではないかと思います。
善き行いを積み、人々の心にどれだけ安らぎを与えてきたかがあの世に帰る時のお土産になります。幸い私は少しお土産を作りましたので、もう何時死んでも満足でございます。
先々月の『道』の中に
満開や春の風に散る桜我も散りたし朽ち果てぬ間に
この歌を載せて頂いて、お叱りを受けました。
「先生は死ぬというような事を言ったらあきませんよ」と叱られてしまったのですが、まあ今朝も朝食も頂かずに飛んで出まして、先程やっと家に着きお茶漬けを少し頂き、満腹になるとしゃべるのがしんどいですから、食事を控えてここへ駆けつけました。
帰ってくる時、近鉄線に乗って私の肉体の故郷である国分を通過しました。特急ですから国分駅には止まってくれません。
「ああ、お母さんが国分にいてくれるのに、ちょっと挨拶ぐらいできたらなあ」と思いながら実家の側を通りました。自分の時間があれば自分の母親の顔も見に行きたいでしょうし、また私の顔を見て頂いたら喜んでも頂けます。
しかしそれさえ許されない今の自分に与えられた環境を思いました時、ああ辛いことだなぁと思います。
またしんどい目をしてフラフラになりながら、体の悪い方の癒しをさせてもらい、その数があまりにも多くなってきますと、エネルギーがなくなりまして、お尻を持ち上げる事もできないから、今度は私が皆さんの周りを這いずり回って直さなくてはいけない事になります。
エネルギーの限界、命の限界まで挑戦しまして、
「もうこんなにしんどいことがずっと続くのだったら、朽ち果ててしまわない間に、いい加減卒業できるといいのになあ」と思うのです。
今はお陰様でこうして元気で飛び回っておりますが、やがて腰が曲がり杖をついて歩くようになった姿を皆様に見て頂くのでしたら、今、花と惜しまれる間に散りたいと思うのも人情かと思います。
「先生、死んだらあきません。長生きして下さい。先生が死んだら私ら難儀ですから、いつまでも生きて下さい。
もし無理だったら私が死ぬまで待って下さい。私を天上界へ上げてくれたら、もうしつ死んでもよろしいから……」
こんな事をおっしゃるのですね。死にたいと言っているのに死んだらあかんとおっしゃるし、それも自分のために言われるのです。私達は生死を超えなくてはなりません。
この話も時々するのですが、この世に現実に自分があるのです。ところがその自分が全く違う次元で話しているのが分かる時があるのですね。この世にありながら、あの世にも同時に生きているという事がはっきりかるのです。
今この地上にこうして肉体を頂いておりますが、私の心はあの世この世共に生き通しているという事が自分で自覚出来るのです。
ですから死の恐怖というものは一切関係ないのです。人はみなこの世に生きていると錯覚を起こしていますが、本当はあの世この世を通して生きているのが私達の実相です。
どういうことかと言いますと、肉体はこの三次元世界の現象世界のものであり、心は四次元以降の実相界のもので、実在界と現象界が一つとなって、この世というものが現れているという事ですね。
己の意識(霊)が肉体という衣を着て、自分の持っている悪い癖、欠点を修正する為にこの地上に生まれ出ております。人は無くて七癖、あって四十八癖ともいう程沢山の癖を持っていて、その癖を修正することがこの世に生まれ出た大きな目的の一つですね。
次にどれだけ悪を犯さないか、過ちを少なくしていくか、またどれだけ善き行いを積み重ねるか、愛の実践が出来たかという事がこの世に生まれた目的と使命です。
「人々と手を取り合ってそして調和を目的として」をもっと噛み砕いて説明しますと、「正法」とはどれだけ自分の癖、欠点を正せるか、どれだけ過ちを少なく生きるか、どれだけ善い行いを積めるかという事に尽きると思います。
また、「正法」の学びの中で大事な事は、本当の神様を知るという事です。神様はいっぱい在られまして、本当の神でない神があまりにも多いですから、私は「まことの神」「ほんとうの神」と呼ばせてもらっています。
キリスト教的には「父なる神」「天に坐します我らの父」、或いは「私達を造り給うた父なる神」といっているこの神こそまことの神様ですね。
示す偏に申すと書くまことの神は宇宙の中でただお一人方であり、それは自らの姿をこの大自然の中に現し、私達に「このように生きなさい。このように生きてはならない」と示し申されるのがほんとうの神様です。
真の神は「形あって形なし、形あって天地自然に現せし姿これなり、形なくて汝らを生かさん力これなり」というお方です。
そのお姿を見たければ私達一人一人が神の御子であり、神の愛(いと)し子であると知る事です。
つまり神様がご自身を示し現す為に人間を造られたのですから、人の悪口を言ったとしたら、これは神様の悪口を言った事と同じです。どなたに対しても、もし謗(そし)る事があれば、神を謗った事であり、人を殴ってしまったら、神様を殴った事になります。
これほんとうの神を知ってこそ私達は日々の生活にやすらぎを頂けます。
マクドナルド・ベインさんという方に、イエス様がお入りになりまして、お話されたものを書き留めたご著書があります。その原書を沖縄の仲里誠吉先生が翻訳された「心身の神癒」という本が出版されております。
この本を読ませて頂くと、本当に神と人間との関係について分かりやすく書いて頂いておりますね。
「神は大生命なり、神はこの大宇宙の中に隈(くま)なく偏在される巨大にして偉大なるエネルギーであり、力であり、全てを調和させて下さる愛そのものである」
とありますように全てを生かして育て上げようとして下さる永遠にして変わることのない巨大な愛が本当の神様です。
そして私達は神様の中に包まれて日々を生かさせてもらっています。私達の心の奥底にも、ほんとうの神様の御霊(みたま)が一人一人に注がれているのを知ることによって、完全無欠なる神が私達の中に在られるという理解が深まれば、現実の病気は消えていくはずです。
こういう事を「心身の神癒」という本の中に書いて頂いております。ですから私達は「内なる神、神なる我」を理解させて頂き、その理解度が深まれば深まるほど病気が治るようになっている事を知らねばなりません。
ある宗教では、「病気は本来ないものである」と教えています。本来ないのではなくて、「神の中には病はない」という事です。そして神は私達の中にいて下さるという事を知るだけでいいのです。
そのことを強く理解したらいいのです。その時、この世から病は消え去っていきます。消えて当然ですからみなさまが一人一人
「ああ、成る程そうか」と、掴んで頂きましたら、私はしんどい目をして病気治療をしなくてもいいのです。
私の代わりに各自自分で治して頂けるようになるのですから、これがほんとうの神様で厳しい行をしなくても誰でも幸せになれる法です。
護摩を焚かなくても、滝に打たれなくてもいい、ただ真の神理を知って日々の生活に自分が行えばそのようになっていきます。
もし護摩を焚いて自分の持っている悪いカルマが消えてしまうものであれば、自分の持っている良いものまでも共に燃えてしまうはずですね。
また滝に打たれて自分の悪因縁が流れるものであれば、悪因縁も流れる代わりに良い因縁も流れてしまいます。
そのような事よりも、毎回私のテープを聞いておられる方はすでに耳にたこが出来ていると思いますが、日々の生活において、高橋信次先生の
「神を知りたければ、あの太陽を見なさい」と言われた教えをしっかりと実践して下さい。
太陽は自らの身を燃え上がらせ、自らの身を犠牲にして、その結果として現れる熱と光、この熱と光こそ神の慈悲であり、これを他に与え給います。
太陽は正に神の御姿であり、私達がいかにいきるべきかを教えて下さっております。私達は自分を犠牲にして、その行動を通して人々に喜びを与える事です。
まず家庭の中においてイエス様の「汝の隣人を愛せよ」を、実践する事ですね。自分の時間を犠牲にして、自らの命を燃焼させ、自分のエネルギーを燃え上がらせて、その行動によって隣人に愛を注ぐことです。
その時、どこに行きましても、自分の隣人から愛されます。
太陽の熱・光は、現象界での社会的地位の高い方も低い方も、お金持ちの方も貧しい方も、病気の方も健康の方も、全て平等に与えて頂いています。
神の慈愛はこのようなものですから、私達も人を差別する事があれば、もう神の心に背いた事になります。どなた、こなたに関係なく平等の思いを持って他を差別すること無く接し、全ての方を愛すべきです。
また、あの太陽の熱・光を頂き、その光の中にありながら悪を犯す人はいっぱいあります。私達もそうでした。しかし未だかつて太陽から裁きを受けた方は一人もおりません。
「この者は悪いことをしたから罰を当ててやろう」とか、「あなたは善い事をしたから熱と光を沢山あげましょう」とかそんな差別は一切ありません。
神様の慈愛もこのようなものです。私達がどのような過ちを犯そうが悪いことをしようが、神様の慈愛もこのようなものです。
私達がどのような過ちを犯そうが悪いことをしようが、ほんとうの神様はだた「目覚めなさい。気付きなさい。そして幸せになりなさい」という慈愛を垂れ給います。
人を裁くという事は、神のご意志に背いているのですね。神の御意志に背くことは自然の法則に背く事です。そして自然の法則に背いた時、神が私達を罰せられるのではなくて、自分で自分を裁くのです。
これは自然の掟であり、そして神の御心です。もし人が過ちを犯しても、それを私達が裁く必要はありません。それは過ちを犯した人と神様との関係です。神の御心に背いた行為をした場合は、その方と神様との間において、その方自身が自らを裁くようになっております。
世の中には「わしほど偉い者はない」という増長慢の人があります。増長慢になりますと、急な坂道を登るのと同じで、常に上がっていかないと止まったらコロコロと転げ落ちるように、必ず下に落ちる宿命がついているのです。
それを知らないから、少し自分に何かが出来るとか、人よりちょっと勝れているとかいう場合、「わしは偉いんや」と偉ぶるのですが、それは肉体の悪魔の仕業によるのです。
増長慢の反対は謙虚ですから、謙虚は悪魔から自分を守る鎧という事が出来ます。謙虚であることによって増長慢という悪魔が入り込めなくなります。
お釈迦様は「ただ3つの実践をしなさい」と言われました。
「常に謙虚であること、礼儀正しくあること、柔和であること」の3つをいつも実践していましたら、どこへ行きましても人様から愛されるはずです。
たったこの3つでいいのですから、これなら誰にでも実践できます。来月までにこの3つを実践して頂きまして、「私はしてきました」と言って手を挙げて下さい。難しいことは勉強しても中々出来ませんが、こんなやさしい事でしたら誰にでも出来るはずです。
私はいつも阿呆みたいに笑っておりますから、「先生は腹の立つ事はないのですか」とよく聞かれます。
「いやいや、私も肉体を頂いた普通の人間です。都合の悪い時には腹が立ってきます。しかし一時(いっとき)も早く捨ててしまうように努力しているだけです」。腹立つ心をいつまでも持っていない事です。
持っておれば苦しみの時間が長いのです。最初は腹の立つのを止めるのに何日も必要でしたが、訓練しておりますとだんだん短い時間でも止められるようになり、最初3日かかったものが一日ぐらいで
「ああ、腹を立ててもしょうがない」と、捨てるようになりました。
それを積み重ねますと、一時間ぐらいで思い変えが出来るようになり、もっと上手になりますと一瞬の内に捨ててしまいます。そうすると苦しみが自分の心に入ってきません。これもやはり練習で、何事も練習しないと上手にはなりません。
肉体を頂いている限り都合が悪ければ必ず嫌だと思うもので、これは避けられません。もちろん、お釈迦様もイエス様も都合の悪い時は嫌な思いをなさったと思います。しかし早く捨てられたから悟りの持続が出来たのです。
法を実践する事によって、いかに早くその苦しみや嫌なものを心から捨て去る事が出来るかを身に付けていきます。これを心の草引き、心の雑草の引き抜きとも言います。
いくら綺麗に耕し、草1本無い畑を作っても、何ヶ月か放って置きますと、草はぼうぼうに生えています。これから春夏にかけては、畑を一ヶ月も二ヶ月も放置しますと草引きが大変です。根も大きくなり葉もはびこります。これを双葉の間に少しずつ摘んでおけば楽に除草出来ます。
「心の雑草」とは怒りであり、妬みであり、愚痴であり、恨み憎しみの事で、それが常に心から芽生えてきます。
「私はもう悟ったから、一切雑草は出ない」という方はないのです。だから、あの偉大なるお釈迦様にしましても「常に草引きをしなさい」とおっしゃったのですね。
雑草を引き、そして適当な水をやり、肥やしを与えて心を豊かにしていく事です。心の灌漑、施肥とは、こういうお話を聞き、話から得た知識を整地し、綺麗に耕し、そこへ良き種を播きましても、雑草をそのまま放っておきますと、たちまち種は雑草の勢いにやられてしまいます。
心の中の雑草は常に芽生えようとしますから、日々に精進して抜き取ることが私達の修行の一つです。生きる限りこの雑草を避ける事は出来ないのですから、「私は悟った。そんな思いは一切ない」というのは真っ赤な偽りです。そして次には、悟りの持続をする事に価値があります。
「その原因は煩悩なり 煩悩は眼(げん)・耳(にい)・
鼻(び)・舌(ぜつ)・身・意の六根が根元なり」
自分自身、神との約束を忘れ去り、神様の御意志に背いてこの世を去っていくのですが、その原因として生老病死の苦しみとこの苦しみを作る五官の煩悩があるのですね。
五官の煩悩と言いますのは、人間の持っている眼・耳・鼻・舌そして体です。神様は上手に造って下さって、私達の魂の修行が出来やすいようにこの五官を与えてくださっているのです。目について言えば、もし目がなかったらこれは便利が悪い事この上ありません。
耳が付いてなかったらこれも具合が悪いですね。この世には身体に障害を受けたお方もおられますが、ほんとうに不自由なことと思います。
あのヘレン・ケラーさんは見えない、話せない、聞こえないという三重苦を乗り越えて人々の為に尽くされましたが、ああいうお方は正に光の天使です。
「このような不自由な肉体を持っていても、このようになれるのですよ」と、その肉体を持って教えて下さっているのです。
しかしどんなにか不自由で大変なことだったかと思います。見えないだけでも辛いし、聞こえないだけでも辛い、またものが言えないだけでも辛いものですのに、3つの苦しみを同時に持って生まれたお方もあるのですね。
もっとも、ヘレンケラーの場合は途中で病気になって、目・耳・口が不自由になられたのですが、付いていた先生の愛によって、世界的に有名な素晴らしい「心の先生」になられました。
眼・耳・舌・身・意を六根といいます。この五官・六根がなぜ私達に与えられているかと言いますと、それは自己保存の道具としてです。
早い話が口がなければ御飯が食べられないから生存が成り立たなくなりますし、言葉が通じなかったら生きる上で具合が悪いです。自分を生かす為に与えられた道具がこの五官です。
そしてこの五官が「意識」を持っていて心の中へ連絡をしてくれるのですね。例えば前方から危ないものが来ましたらパッと避けたり、横から音を鳴らしたら飛び退いたりします。
鼻は、良い匂いとか悪い臭いとかを嗅ぎ分ける道具ですがこれも肉体を守るためのものです。この五官を通してものを見た場合には、すべて自分を中心とする見方となってしまって、それは、全部間違っているという事です。
五官を通しますと煩悩の悪魔が自己保存と自我我欲という色眼鏡が全部にかけられてしまうのです。つまり五官を通しますと、
煩悩の悪魔が常に全体を覆ってしまうのであり、神が肉体という悪魔の装いをなさって人間として現れておられるという事です。自己中心または利己的に見る思いこそ、悪魔の正体といえます。
では、この悪魔から開放され、悪魔に囚われない方法は何かというと、まず自分という立場を離れて相手の立場に立って自分と相手の出来事を観察してみる事です。
次に相手の立場に立つだけでしたら、相手に片寄りますから、今度は善意なる第三者の立場でどちらにも付かないで、自分と相手の出来事を見るのです。或いは神様の立場に立って自分と相手を見ますと、自分を離れた見方をする事が出来ます。
自分の五官から離れるには相手の立場に立ち、そして次に天の立場に立って二人を見ます。するとどちらかが無理を言っているか、どちらが正しいかという答が出てきます。私達には五官が与えられており、この五官に囚われた小さな己、偽りの己が煩悩であり、煩悩とは、即ち悪魔です。
「六根の調和は 常に中道を根本として
己の正しい心に問うことなり」
私達の肉体と心を調和するには、常に中道を根本とせよという事で、この中道とは、相手にも自分にも片寄らない善意なる第三者の目で見る見方をすることです。
「己の正しい心に問うことは反省にして」
中道を根本として己の正しい心に問うにはどうすれば良いかというと、自己反省をする事ですね。反省する事によって片寄りのない中道の生活が出来るのです。物事を正しく見る方法として「八正道」の中に8つの正しい生き方が説かれています。
まず第一に「正しく見なさい」と政見を説かれています。見方が間違いますと、思い方が間違うのです。思い方が間違うと言葉が間違います。
言葉が間違いますと行い(仕事)が間違います。このように八つの正しい生き方の内の根本になっておりますのが、正しく見る事で、全てはここから始まります。それには常に反省を繰り返すことで、反省なくして自己の心を知る事はできません。
「反省の心は 己の魂が浄化されることを悟るべし」
反省しなかったら何時まで経っても自分の心は清まりません。反省の方法には、自分が生まれて今日までを徹底して集中的に反省する仕方と、今日一日どうであったかを反省する方法があります。
今日一日の己自身の生活はどうであったか、行いの上で、言葉の上で、思いの上で間違いを犯さなかったかという点を調べてみる事です。
もし過ちがあれば「これは悪かった、どうぞお許し下さい。明日の生活に再びこの過ちは犯さないように致します」と、誓うことです。それをしないと何時まで経っても過ちを繰り返してしまいます。
過ちを重ねてだんだん心の中が真っ黒になります。真っ黒になると同時に重くなっていきます。真っ黒であれば迷う以外にありません。暗闇の中は迷いの世界です。そして重くなればどこかへ落ちていきます。
落ちる先は地獄です。地獄に落ちますと私達の魂のふる里には中々帰れません。この世では「人のふり見て我が身を直す」という教えを行う事が出来ます。他を見て自らを正すように仕組んで頂いております。
過ちがあればその人の過ちを見て自分を正せさせてもらい、素晴らしいお方に学んでいく事ができます。しかしあの世に帰りますと、全て同じ段階の方ばかりの集まりですから、比べるものがなく、悪い人は悪い人ばかりが集
まっており、またいい人はいい人ばかりという世界で、自分と同じ段階の者ばかり寄り集まっていますから、他と比べて自分を正す事が出来なくて、それが当たり前になるのですね。
ですから肉体を与えて頂いている今こそ、魂の修行をさせて頂くもっとも大事な一瞬一瞬として神から与えられている事を知りたいと思います。過ぎた時は再び返りませんから、「今」の一瞬一瞬を真剣に生きていきたいと思います。長時間ご清聴頂きましてありがとうございました。
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年4月23日
前回は、生老病死の苦しみによって自分自身の本性も忘れ去ってしまうのは、人間の持っている煩悩によって曇るからだというお話をしました。
この煩悩の元は、私達の眼・耳・鼻・口・体の五官ですから、人間は元々煩悩の塊なのですね。煩悩の塊であると思って間違いありません。何故かといいますと、この五官というものは全部苦しみの原因として造られている道具だからです。
元々この五官は全部私達の身を守るために与えられたものですから、自己を中心としてものを見、聞き、触れ、舌で味わって、都合の悪いものはみな避ける様に造られているのです。
嫌なものは見たくない、嫌な言葉は聞きたくない、口に含んで嫌なものは吐き出してしまうのは、すべて自己保存のために与えられた道具の働きによるのです。
ですから五官を通してものを見たり聞いたりしているという事は、「私は絶対に間違っていない」と思ってみましても、すでに間違っているという事です。すでに自己保存と自我我欲という色眼鏡がかけられている訳で、この自己を中心として見ることが煩悩になってくるのです。
煩悩から私達が逃れる方法、煩悩に振り回されないものの見方、聞き方、話し方とは、常に自分という立場を離れて相手の立場に立って物事を見聞きする訓練をすることです。
奥様はご主人の立場に立ち、ご主人は奥様の立場に立って常に相手の立場からものを判断させて頂くようにしますと、自分から離れた見方が出来ます。
今日も九州の熊本から来て頂いていますが、この方はすでに十回以上内観といいますか、内省の研修に参加なさったそうです。
しかしどうしても心が救われることもなく、ついに落ち込んでしまうという苦しみを持っておられたそうですね。
一昨日の朝早く着かれて、一時間ほどお話のチャンスがありまして、反省の方法についてお話させて頂きました。それは相手の立場に立ってみるという事ですね。これが今まで全く分からなかったとおっしゃっていました。
相手の立場に立たないと、反省しましても絶対に救われないのです。というのは自己を中心として反省しますと、
「自分が悪い、申し訳なかった、自分が至らなかった、悪い悪い」と、自分ばかり責めるようになってくるからです。
自分自身の心が苦しくなりだんだん小さく萎縮してきます。その時、相手の方がどのような思いをなさったかと相手の立場に立って反省させてもらい、
相手の方に迷惑をかけたのであれば、その時迷惑をかけられた方がどのような思いをなさったか、どのような思いで私という人間を見られたかと、自分が相手の立場に立って自分を見るのです。
その時、出来ていない自分というものが見えてくるのですね。
常に謙虚であって、人様の言葉を素直な心で聞かせてもらい、もし自分に間違った面があれば素直な心で自分を見詰めますと、
「ああ、私のこういう点がいけなかったなあ、これを何とか悔い改めていこう」というように思えるはずです。
私は過去も今もですけど、全くできの悪い人間でございまして、まだ今の方が少しはましにならせてもらいましたが、過去は取り柄のない人間でしたね。
何でも都合の悪い事は全部人のせいにして、都合のいい事があれば全部自分のせいにします。人間の持っている最も深い業で、この宿業をそのまま現しておりました。
しかし法にご縁を頂きまして、自分の愚かさ、自分の至らなさを学ばせて頂きますと、人様を責めたり人様を裁いたりするような資格は無い事が分かってきました。そうしますと人様の事は気にならなくなります。
人様よりもまず自分を正さなくてはいけない、自分の悪い癖、欠点を直さなくてはいけないという事に目覚めてきます。
そこでこの煩悩ですが、眼・耳・鼻・舌・身の五感の感覚が原因になっておりますから、この五官を調和する事です。そのためには常に中道を根本として、つまり前になる第三者の立場に立って自分と相手を見ていく事です。
「中道の立場を根本として己の正しい心に問うこと」の正しい心とは反省させてもらう事です。常に反省させて頂くことが、自分の正しい心に問いかけていく事になります。
ですから私達は常に自分を見つめて、己自身に間違いがないか、欠点を造らなかったか、悪い癖を出さなかったか、自分の姿を厳しく見ていく事が大事です。これが反省です。
そして反省させてもらうという事は自分自身の魂が清められていくという事です。清められるという事は汚れが取れていくという事ですね。
「今日一日腹を立てなかったか 愚痴を言わなかったか 人の悪口を言わなかったか 人様を謗らなかったか 恨んだり憎んだりする事はなかったか」
と、各項目に分けてその日一日をずっと調べていきます。もし犯した過ちがありましたら、すぐに
「しまった、今日は腹を立ててしまった」「ああ自慢してしまった」
「心の中に恨み心が残っていたなあ」と、明瞭に浮かび上がってきます。
そして「明日の生活の中にこの過ちを再び犯さないように努力します」と誓って、反省をするのですね。毎日毎日休むことなしに今日一日の反省をさせて頂きますと、私のような鈍な人間でも阿呆の一つ覚えという言葉のようにだんだんと心の運転が上手になって慣れてくるのですね。
「今日一日増長慢にならなかったか 自信過剰にならなかったか」
「今日一日卑屈になってはいなかったか 今日一日謙虚で生きられたか
礼儀正しく生きられたか 柔和であったか」
「今日一日相手の立場に立ってものを考えられたか 心から相手の立場に立てたか 人々に対して差別の思いは無かったか 人様を心から許させて頂いたか」「何か一つぐらい善いことを行ったか」
と、この様に自分自身を毎日調べてみますと、いかに出来ていないかという事が分かります。出来ていない事が分かりましたら、次は実践し、行えばいいのです。出来ていない分を行うことです。これを行いますと知らない間に魂が浄化していきます。
ですから私の所に禅定に来られる皆さんのお顔はすごく安らいでおりまして、綺麗なお顔です。皆さんが安らいだお顔に代わっていかれるのは魂が浄化していくからです。
魂と顔とは比例して、魂が浄化されると顔も浄化されます。この肉体は私達の魂の表現体、お顔は魂の看板、眼は魂の窓です。
ですから窓の中をちょっと覗きますと、その人その人の心の中は丸見えで御座います。立派な窓を付けているのですから、何も不思議な事と違います。私達は反省する事によって、魂が浄化されていきます。この事を悟りなさいと、「心行」に書いて頂いております。
「己自身は孤独に非(あら)ず」
私達は、自分は一人ぼっちである。自分はたった独りであるという錯覚を起こしておりますが、たとえ山奥で一人迷ったとしましても、私達の魂の奥底にはちゃんと父なる神が共にいて下さいます。
これは「インマニエル、我、神と共にあり」であって、絶対に孤独ではありません。仮に孤独に漂流しましても、その場所にはちゃんと神様があられて私達と共にいて下さいますし、守護・指導霊様もついてくれるのですね。
しかしこの事が中々分からないのです。地球上のどこへ行きましても一つの神様があられて、そこは慈悲と愛に満たされております。東京であろうが、或いは地球の裏側であろうが、真の神様は慈愛に包まれているという事を知ることですね。
「意識のなかに己に関連し 守護・指導霊の存在を知るべし」
そういう大きな神様の慈愛に包まれており、そして意識の中には私たちに関連した守護・指導霊がちゃんとついて下さっています。この守護・指導霊の説明もすでに何回かさせてもらいましたね。
守護霊というのは私達を守って下さる霊で、指導霊とは私達を何かと導いて下さる見えない世界のお方です。一生懸命に私達が何か一つの事について追求している時に、突然パッと閃く事があります。
「ああ私は頭がいいなあ、いい智恵が閃いたなあ」と思うのはとんでもない事で、これは指導霊が教えて下さっているのです。
守護霊の働きについては、この臨海で一つの例が御座います。臨海には外国から入ってきた大きな材木がいっぱい浮かしてあります。
この材木をトラックに積んて走っていた所、横を走っていた乗車用の上へ何十トンという大きな丸太が荷こぼれして、その車がペチャンコになって30センチぐらいに潰れてしまいました。
その時、車に乗っていた人はかすり傷一つなかったのですが、こういう事は、普通では考えられない出来事ですね。車が潰れているのに、中に乗っていた人がかすり傷もないというのは、これは正しく守護霊の働きだと思います。
また、絶壁から車が飛び込んだのに、途中の木に引っかかって助かったという場合に働きをして下さったのも守護霊様です。私達の心の中に住んで下さっていますから、どんな所へ行っても安心して生きる事が出来ます。
「守護・指導霊に感謝し さらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし」
私達は常に守られ指導を受けている事を自覚する事ですね。自覚する事によってまた力を与えてもらえます。常に守護・指導霊に感謝し、常に反省をさせて頂きますと、守護霊・指導霊がお願いしなくとも導きをして下さるのです。頼まなくとも反省の功徳が頂けます。
反省の功徳は計り知れないものがあります。高橋信次先生にご縁を頂きまして、私達は反省の大切さを学びました。しかし、さて反省させてもらおうと思いますと、中々出来ないのです。どうしたらいいかそのやり方はハッキリ分かりません。
そこで私がさせて頂いた反省の方法を、自分が実際に体験した事に基づいて皆様にお伝えしております。
以前、私の幼い頃の反省をして、自分の悪さの限りを告白懺悔させていただきましたね。
あのようにして自分の幼い頃の「あれさえしなければよかった、あの時あれをしなければ私は心がもっと楽だっただろうのに」という思いはどなたもあるはずですから、それを反省するのです。
この間、高校生のあるお嬢さんが悪いことをして捕えられて、大変恥ずかしい思いをした事を話されていました。お友達が天王寺の駅で定期券の期限が切れているのにそのまま乗車したのですね。
「あんた、そんな事をして見つかったら怒られるよ」と言っているのに
「こんなの分からへんよ」と言って期限切れの定期券を持って出た所捕まったそうです。
「こんなもの見つかったらぱっと逃げたらいいんや」と言って、まあいたずらの気持ちだったのでしょう。ところが逃げようと思ったら、腕を掴まれたそうです。そして、大勢の人が見ている前で叱られたそうですね。
この話を聞きまして「ああ可哀想に、人生の大きなお荷物をその子は背負われた、正しい法にご縁を頂いて反省を自分の魂の浄化をしない限り、そのこは二十代になっても三十代になっても、或いは九十、百になっても一生心のお荷物として生きていくはずだ」と思いました。
人間には良心があります。そして恥というものを良心が知っております。女の子ですから駅で捕まって、大勢の人に周りから見られた時には必ず恥じらいがあるはずです。その恥ずかしさがお荷物となって、その子は生涯背負っていく事になります。
私達はこれに似たような事をいくつも繰り返しており、それらが全部心のお荷物になっております。その行いが私達の心の中に一つ詰まり二つ詰まって大きな砂袋と化していきます。
砂袋は私達の心の中に常に錘(おも)りとなってぶら下がっているわけで、これを軽くしない限り、次に犯せばまた重くなり、この世を去る時に肉体の命の糸が切れてしまいますと、たちまちにして深い所へ落ちていきます。
落ちていく先は、仏教では地獄と言っていますね。宗教ではない私達のこの学びの世界では、心の暗闇の世界へと落ちるという事です。
心の中で常に荷物がなく、明るくて軽ければ浮き上がります。そういう方が亡くなりますと、間違い無しに上へ上へと上がっていきます。それが自然の法則ですね。重いものは落ちます。軽いものは上がります。
その砂の材料は何かというと、怒りであり妬みであり、謗りであり愚痴であり、恨みや憎しみ、不要の取り越し苦労、これらが全部砂の材料になっております。
神の御心の中には罪も過ちも汚れもありません。無いものであるから改めた時には消えてしまうのですね。本当に有り難いことです。自分が間違っていたという事を正面から知ることによって私達も即、その苦しみから救われるのです。
自分が正しいと思っている限りは絶対救われる事はありません。
「自分は正しい、間違いない」と言うのは地獄の霊です。成仏できないで暗い恐怖の世界におられる方の霊が出てこられますと、全部共通して
「私は何も悪い事をしていないのに、なぜこんな苦しい思いをしなければいけませんか」と言います。自分が悪いという事が分からないから地獄にいるのです。
ところが天上界から来られた霊は
「私はこの地上にあった時は色々な失敗やら過ちを犯しました。本当に未熟な人生を送ってしまいました」と言われます。
そして地獄の世界にいる人は今でも「私は悪いことをしていないのに、罪も犯していないのに、一生懸命人の為に尽くしたのに、なぜこんなに苦しまなくてはいけないんですか」と言って苦しんでいるのですね。
それには色々な原因があります。いくら善い事をしましても、どれだけ人様の為に尽くしましても、どれだけ人を救わせてもらいましても、その結果として自らを苦しめているからです。自分を苦しめる事なかれ、自らを愛せよ、自らを愛するが如く他を愛せよ」と言われます。
これは神様の至上命令です。私達のお母さんお父さんは、子供の幸せを願って下さいます。その親以上の愛を持って私達の幸せを常に念じ願って下さっているのがほんとうの神様、父なる神ですね。私達は神の愛し子です。
そして父はただこの幸せを願われます。神の偉大なる愛は常に私たちに注がれております。この事を知った時、私達はいかに幸せであるかという事が分かりますね。
長尾弘先生・第168回浄心庵講演会⇐の動画はこちら♪

8:01長尾弘先生 神霊治療(仕事)の報酬について
4:04長尾弘先生 地底王国について(現実と正しい行い)
長尾弘先生 で検索♪⇐広告がなく見やすい動画です♬
- No
- 88
- Date
- 2018.01.25 Thu
魂の最奥の世界は内なる世界・実在界♪現象界とは色界・物質化現象世界♪心行の解説♪長尾弘先生・高橋信次先生
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年2月26日
「心行」には「末法万年の神理なることを悟り、日々の生活の師とすべし」と説いて頂いております。
永遠に変わることのない神理なることを私達は自覚して「心行」を日々の生活のお師匠様として学ばせて頂いたら結構かと思います。
この「心行」はただ読むだけ、聞くだけでは、言葉に馴染めない方々もあると思いますので、理解させて頂くために一行ずつ追って、説明させて頂いております。
「心行」の内容は意味が深く、私のような者が解説出来る程やさしいものではないのですが、私の知らせて頂いた範囲内で説明させて頂いております。
話はあちこちに飛びますのでいっこうに前に進まないのですが、いつの日にか終わるかと思います。
「肉体を有する現世の天使は」
この世に肉体を持って現れた天使様というのは、本当に位の高い方で、光り輝く神の意識を自らお悟りになった方です。そういうお方が、この地上に肉体を持って頂く時があります。
それはイエス様であり、今生において私達が縁を頂きました高橋信次先生であり、これらの方々は肉体を持たれた光の天使様ですね。
「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」
肉体を持たれて、この世に現れた天使は諸々の諸衆、あらゆる方に正法神理を説き、「正しい教えとはこのようなものである、神理とはこのようなものである」と、どなたにでも理解できるように説いて下さいます。
その話を聞いて今までの思いや行いが間違っていた事に目覚めますと、いやでも「ああ、これを正さなければ」と思います。
「毎日の生活が今までは正しいと思って生きてきたけれども、とんでもない間違いであった、これを正す事によって心に安らぎが頂ける」という事が分かってきます。
「調和の光明」というのは、私達の心の平安と喜びですね。その喜びとは光です。また反対の苦しみとは闇です。光明とは喜びであり安らぎであり、そして愛に目覚めることです。
人々の心を平安と調和と愛に目覚めさせて下さるのが、肉体を持たれた光の天使ですね。この方は諸々の諸衆に、人としての正しい生きるべき道をお説き下さいます。
「この現象界におけるわれらは」
現象界とは、現れた象(かたち)の世界と書いてあります。象として現れた世界とは、この世のことです。仏教では「色」といいます。
目に見えるものは全て色が着いているから確認出来ますが、全くの無色透明であれば確認出来ないのですね。そのためにこの世の現象世界のことを「色の世界」とも呼んでいます。また、私達の肉体も色で表現されます。
現象世界とは反対に、実在界という世界があり、これは目に見えない世界です。私達がこの世を去ってから帰っていく世界を実在界と言っております。
言葉を変えていいますと、私達が見える事の出来るこの世の全て、自分から外にある世界を「外なる世界」または「外界・物質化現象世界」といいます。
反対に、見えない世界こそ「内なる世界・実在界」です。「私達の意識の中心は心なり」と説いて頂いておりますが、その心の奥底は魂であり霊であり、私達の意識を操っているもので、その霊魂に私達が目覚めることです。
その魂の最奥の世界こそ「内なる世界・実在界」ですから、外にとらわれる心をよく反省し、禅定・瞑想することが必要です。
瞑想の方法には色々とあって、例えば阿字(あんじ)を見つめて、そこへ心を統一する阿字観とか、お月様を思い描いて、意識をお月様に留めて統一する月想感とか、水を想って観じる水想観とか、
或いは自分の肉体が朽ち果て、徐々に腐りかけていく姿を観じながら深く心の中へ入って行く不浄観という汚いものを観るものなどがあります。
この中で「不浄観」というのは素晴らしいものです。自分がどこか人里離れた山の中を旅している姿を思い出します。そして寿命が尽きて野垂れ死んでしまいます。倒れて、自らの命が絶えた姿を観つめていきます。
だんだんと腐っていき、時間と共に朽ち果てていく姿を観ます。腐ってきますと、ハエが飛んできて卵を産み付け、肉体にウジがうじゃうじゃと動いている姿を観ます。
その内、鳥とか犬とかが近寄って自分を食い散らかしている姿、やがて骨だけになった自分を観ます。その内鳥とか犬とかが皆寄って自分を食い散らかしている姿、やがて骨だけになった自分を観ます。
ある時、親切な方が通りかかってその骨になってしまった自分を見つけ、まとめて火に燃やして下さる、その燃えていく姿を静かに観じます。
一握りの廃になってしまいます。その時、一陣の風が吹いてきて、灰は空中に飛び散ってしまいます。このように、自分が消えて無になってしまうのですね。
自らの心を宇宙の中へ遍満させてしまう瞑想法が不浄観ですが、これをやってみますと、自分の死の姿から腐っていく姿、蛆(ウジ)がいっぱい湧いて肉体の中を這いずり回る姿は何とも気持ちが悪くて、本当にそういう感じがわかるのです。そして、やがては消えてしまう自分を観じる事が出来ます。
このような色々な瞑想法がありますが、これは全て外に求めて自然と一体となる方法です。内に求める方法は、自らの心の奥底の魂の中に自らの心を向ける訓練をしたらいいのですね。
心を外に向けますと、かつて組織の中でよく聞きましたように「禅定しては危険です。禅定・瞑想をしてはいけません。という事になります。
今のある宗教組織もそのように言っておられると思います。高橋信次先生のご存命の当時も禅定・瞑想しては危険があるから止めておきなさいと言っておられました。
しかし、私達はもう十年も禅定と反省を続け、その内七年間は毎日坐りました。けれども、危険は一切ありません。憑依するものがありましても、正しい反省と禅定を行いますと、その当人も、とっついている方も共に清まって救われていかれますね。これは正しい反省と禅定だからです。
世の中の偉大と言われる政治家であっても、芸術家であっても、音楽家であっても、世に功績を残された方は皆、静かに瞑想・禅定をなさっているそうです。
知らないのは我々凡夫だけで、知らないから偉大な功績が残せないのですね。私達も幸いにしてこの教えに縁を頂きまして、約一時間、反省・禅定のために坐らせて頂いております。
ある時、ノイローゼのひどい状態で、自分さえも分からなくなっておられた四十半ばの働き盛りの男性で、もちろん仕事にも行けない方がありまして、お話会に何回か連れられて見えていました。
「一度、禅定の時一緒に坐ってみませんか」と言いましたら、ご夫婦で来られたのですね。ちょうど私の前に坐っておられて、私からその方の胸の中へ光を入れましたら、すごい光がサーッと入ったそうです。
するとその人の肉体の中が、火がついて燃えるように熱くなり、「熱い熱い」と思っている間に、精神分裂、強度のノイローゼがたちまち治ってしまったのです。今では健全な生活をなさっています。正しい方法によって禅定をさせてもらえば、絶対に害はありません。
今まで十年余り禅定させて頂いた間には、憑依された方も見えました。そうしますと、その方の身体が動いてくるのです。何ともいいようのない声を出しながらどんどん自分の胸を叩いて霊が乗りかかってきます。
もちろん私も目を閉じて禅定中ですが、その方の方に光を送りまして、「今この方に憑依する霊よ、後ほどあなたを救います。しばらく待ちなさい」と言いますと、ポッと止まります。
「今、あなたはこの場所に出てきてはなりません。静まりなさい」といえば全部止まるのです。本当に正しい法の生活を実践させて頂きますと、私ではなく、私の内なる神が、その威力を示して下さるのですね。常に心を内に向ける習慣が大事だと思います。
外なる世界には色々な出来事があります。自分の内なる世界には平安と愛と安らぎがあります。もし、静かに坐って安らぎの時間を持つとすれば、常に自分の心の奥底へ奥底へと心を向けていって下さい。
その心の奥底には本当の神様がちゃんと在られます。私達の心の奥底の神我こそ、大宇宙大神霊とそのまま繋がっているのであり、この事が「宇宙即我を体験する」事なのです。
「過去において 己が望み 両親より与えられし
肉体という舟に乗り 人生航路の海原(うなばら)へ」
私達は肉体を頂いて、この現象の世界へ生まれ出るのですが、生まれる前まではあの世の世界におりました。私達の両親もまた生まれる前の世界におられました。これを天上界といっていますね。
私達は全部天上界からこの地上界へ来ている魂の修行者であって、地獄からこの世に生まれでた方は誰一人としてありません。全部天上界に帰ってからでなくては、この世に生まれ出る事が出来ないのです。
あの世では魂の光の量の区域というものがあって、同じ量の光を持つ者同士が一区域におり、それぞれが光の量をさらに高めるためにこの世に修行に出てきているのです。
10ワットの者は15 ワットに、15ワットの者は20ワットに光の量を高めるという目的を持って、この世に生まれてきています。そのワット数がものすごく高くなりますと神様の御胸(みむね)の中に通じていくわけです。
この世に生まれる前の実在界において、私達は一人一人、私達の両親の元に「どうぞお父さんになって下さい。お母さんになって下さい」と、お願いに行っております。
その時には、詳しく現象世界のことも説明を受けて、「あの世に出ますと、その世界の環境たるや相当に厳しいものです。それでもいいですか」と念を押してもらっています。
私達は「それでも結構でございます。どうかお父さん、お母さんになって下さい」とお願いをして、了解を頂いてからこの世に縁を頂くのです。
もし今生で、余り心配をかけ親不孝をしておきますと、「この子はかなわんな、あんなに心配をかける子はもうかないません」と言って、
今度生まれ変わる時にお願いにいっても「もうあなたの事でえらい目に会うのはかなわんから、今回は親子の縁は組めません」と断られてしまうのです。この世の親を大事にしておかないと、来世の縁が頂きにくくなりますね。
両親と親子の縁を頂きますと、次に夫婦の縁を頂きます。
「どうか夫婦となって共に修行させて下さい」と、お互いに約束をするのです。天上界は精妙そのものに計画がなされていて、何かの事情で夫婦の片一方が欠ける場合は、ちゃんと第二、第三候補まで天上界において約束されているそうです。
仮に片方が欠けても縁によって第2候補が現れます。天上界で夫婦としての約束が出来ていましても、その二人は環境も場所も教育も思想も全く違う世界へ生まれてきて、別々の習慣の中で自らを造っているのですが、約束の時が来ましたら縁に繋がれて巡り合うようになっているのです。
何歳の時に、ある方は仲人さんの縁によって、或いは恋愛によって、ある方は職場の縁によってというような事まで、ちゃんと計画がなされていて、その時期が来ますと巡り合い結ばれるというように、この世の全ては計画通りに事が運ぶようになっております。
天上界で夫婦の縁が出来ますと、今度はその子供達が「どうぞお父さんになって下さい。お母さんになって下さい」と頼みに来てくれるのです。
「それではあなたは私の子供となって、共に学んで下さい」と了解して、まず両親がこの地上に出られ、夫婦の約束の時期が来て結婚なさいます。すると、親子の縁を頂いていた者が子供として、そのお母さんに魂が宿るのですね。
肉体はお父さんとお母さんがこしらえてくれたと思いますが、しかし一個の卵子と一個の精子が結ばれて出来た、たった1つの細胞がわずか数ヶ月の間にどんどん細胞分裂を起こし、お母さんのお腹の中で人間の形を造り上げていくのですね。この力こそ神の御業以外の何ものでもありません。
母なる方の体内において、父なる神がその御業をもって人をお造りになるのです。人はみな神の御子です。この親子の縁というものは、自分が望んで両親から頂いたということ、そして神が造り給うた肉体という船に、私達の魂が船頭として乗りくんでいる事を知らねばなりません。
こうして私達は人生行路の海原へ航海の旅に出るのですね。その人生行路の中には切りの日もあれば嵐の日、凪(なぎ)の日もあります。
風はなく、安心して櫓(ろ)を漕いでおりますと、海の底から突き出た暗礁の上にガーンと乗ってしまって船底が破れたりする場合も起きます。
全く自然界と同じことです。この厳しい現象の世界に何のために生まれてきたのかというと、己の意識を、魂を磨くためだったのです。
「己の意識・魂を磨き」
「魂を磨く」という表現をして頂いておりますが、私達の魂そのものは本当は磨く必要はないのです。何故かと言うと、神様の生命、神の御意志がそのまま私達の中に入って下さっているからです。
では、磨くとはどういう事かというと、魂の表面意識(自我)と内なる神の意識(神我)との間を遮(さえぎ)っている五官煩悩を取り除く事です。
こちら側は私達の肉体の意識であり、向こう側は内なる神の意識で、この間を遮っている曇ったもの、スモッグやカーテンのようなものを取り払うために私達はこの世に生まれてきています。
この曇を取った時、内なる光輝く神の意識に通じていくように造って頂いているのです。父なる神は自らを何とかして表現しよう、自らを示し、表へ表そうとするご意志によって人間を造って下さいました。
私達一人一人はみな神様そのものの意識を魂の奥底に頂いているのです。私達を造って下さった父なる神の御意志が、子供である私達の中にそのまま生きていて下さるという事を、まず知らねばなりません。
そうしますとお一人お一人はみな神様ですから、もし喧嘩をして人を責めたり、謗(そし)ったり恨んだり憎んだりしますと、それは取りも直さず神様を謗り、神様を侮(あなど)った行為に繋がっていきます。
お一人お一人はみな神様なのだと思わせて頂いたら間違いありません。
ただ問題なのは、このスモッグやカーテンによって、神の意識と人間の意識を遮っているという事です。これを取り払う修行をするために私達は生まれてきております。
カーテンを取り払った向こう側の世界は、永遠にして不滅、永久に滅びる事のない生命そのものが、私達の魂の奥底に脈々として生き続けております。何故かと言うと、神のご意志が私達の中にそのまま与えられているからです。
「死」というのは、ただ傷んでしまった肉体の船から私達の船頭さんが下りるだけの事です。船は傷んで使い物にならなくなり、朽ち果ててしまいます。
しかし、傷を受けて滅んだのは肉体だけで、その肉体を動かしてくれていた船頭さんは健康にして傷むことなしに、全く肉体とは別なもので健康体で生き続けているのです。
この神理を知らないで、肉体が痛い痛い、苦しい苦しいと言って死んでしまいますと、死んだ後までその苦しみが続いていきます。あの世もこの世も、生きている時も死んだ後も「想いの世界」に生き続けるのです。
人は環境の中に生きていると錯覚を起こしますが、本当は想いの中に生きており、自分の想いのままの人生を送ります。悪いことを想えば必ず悪くなっていき、良いことを想えば良いことが起きてきます。
現在、たとえ環境に恵まれず苦しい立場にあっても、その中にあって自らの想いを光に向けて、暗い方に向けることなく「大難・小難の想い」を持って生活した時は、必ず環境は光に満たされてきます。
どんなに不調和な環境の中にあっても、その人の想い方によって必ず調和されていきますから、このことを知った時、私達は何も恐れるものはなくなります。
大地に種を播いても土もかぶせずに放置した時は、根も芽も出てきません。しかし、種を土の中に埋めた時は、適当な水分と太陽の熱・光さえあれば必ず根を出して芽を出します。
このように穴を掘って土に埋められた時、私達は真っ暗になって苦しく辛いのですが、しかしこの暗闇を与えられて初めて芽が光を求めて伸びていくのですね。苦しみは闇です。
今の私達が体験する色々な苦しみ悲しみや辛い事とは、私達の魂の芽を出させるために神が与え給うた大きな愛なのです。この苦しみあってこそ根も出せるし芽も出す事が出来ます。
私達の人生で、今は土の中に埋められたような光を失って苦しい辛い環境にありましても、それは神が私達を目覚めさせるための大きな愛なのだと思わせて頂いた時、また希望も出てくるはずです。自然はそのように造られております。
大変苦しい体験をなさっている方はこの世の中にはいっぱいおられますね。しかし一般の宗教、信仰はそれに対して「あなたは前世で悪いことをしたから、今その裁きを受けているのです。だから辛抱しなさい」とか、
「前世の因縁が今生に現れているのです」とか、こういう教え方をしています。しかしそれではその方は救われません。
夜が来ればそれは必ず朝が近づいているという事であり、闇が来れば必ず光が近づいてくるのです。この事を知って、私達は生活の上で勇気を持っていかなる暗闇の中にあっても、
「自然は夜が来れば朝が来るようになっているのだから、私の人生も必ず夜明けがやって来るはずだ」と、強く確信を持つ事です。
私達は何か苦しい暗い体験を一つしますと、「ああ、また同じことが起きるのと違うだろうか、またこんな辛いことが起きるのではないだろうか」という想念を持ちやすいのですが、その想念が次の苦しみを形造るのです。
良くない事が二度続くという事がありますのは、その人の想念が悪い事態を呼び寄せてきたのです。しかし「必ず良くなるのだ」という強い信念を持った時は、災難は一度で収まるはずです。全ては自分の想いによって作っているのだと知ることが大事かと思います。
「神意の仏国土を造らんがため 生れ出たることを悟るべし」
神意、つまり神様のご意志である争いのない平和な世界、それをこの地球上に造らんがために私達は生まれてきました。別の言い方をすれば、一人一人自らが神の表現体であるという事を自覚して、神のご意志を現していった時、この地球上は仏国土ユートピアが建設されるという事です。
争いのない、お互いに生かし合い、お互いに愛し合う幸せな地球が誕生します。一人一人が神様の意識に目覚めるだけでいいのです。
「宇宙即我」も、自ら目覚めることによって「自らが宇宙である」という事が理解できるという事です。
「今、日本国中で火の手が上がりました。やがて地球上に教えは広まる」と、高橋信次先生が予言されていました。「この正しい法は日本を拠点として世界中に広がるでしょう」とおっしゃられました。
予言されたときとは差がありますけれども、現実に今、私のような者がしゃべっておりまして、このお話が世界各国に広まっております。
私がそういう事を望む、望まないに関係なく、見えない世界ではこの教えを広げなければならないという必要をもって日本中に、また世界各地へと広げて頂いているようですね。これは正に天の計らいです。
今学んでいる私達の数は知れていますが、お一人お一人が知った方にこの教えを伝えて頂き、またその方が他に伝えて頂いた時、縁のある方が核となって広がっていくのです。
「自分だけが聞いておけばいい、自分だけが安らいだらいい」というのでは法の実践にはなりません。まず自分が幸せになり、その幸せを人に伝えるべきです。
そのようにして一人から一人へ、またその方から縁を持って広がった時、私達の想像以上の早さでこの地球上に神の国が建設されるはずですね。
「肉体の支配者は 己の意識なり 己の意識の中心は心なり」
私達の意識が肉体を支配して動かしていますが、その意識の中心に心があり心の奥底に魂があります。自らの神なる魂に目覚める事です。意識を操るのは心です。
「心は実在の世界に通じ 己の守護・指導霊が
常に善導せることを忘れべからず」
心は実在の世界に通じているということですね。実在とは内なる世界の事で、心が魂を通して内なる世界に直通になっているということです。
「心行」にはこのように深い意味が全部説かれています。ただ私達が理解できなくて分からなかっただけです。
私達の守護・指導霊といわれるお方も、常に私達をいい方へ、いい方へ導こうと努力して下さっているということを知る事ですね。良き方へ導いてあげようと努力して下さっている事を知り、いつも感謝の心を持って忘れない事です。
ここで、守護・指導霊の説明をちょっとさせて頂きます。守護・指導霊という言葉はよく聞きますが、しかし目に見る事はできません。
私達は誰も、普通の者は見ることはできません。しかし間違いなしに守護・指導霊は私達をちゃんと守って下さり、その導きを受けておりますね。これは実在界のお方です。
「守護霊」といいますのは、私達が両親の縁を頂いてお母さんのお腹の中に宿りますと即、守護霊が付いて下さいます。そしてこの世の人生行路を終えて死の世界に帰るまでずっと共に見守って下さっています。
この方は他の方と交代することなしに、ずっと付いて下さるのですね。私達の魂の兄弟は六人をもって構成されていますが、その内の一人が守護霊として付いて下さるのです。
そして私達を守護すると同時に、この地球の環境をあらかじめ予習していられるわけです。というのは、時代が変わり環境も年月と共に変わっていますから、その中に突然入ってきますと慌てなくてはなりません。
ですから守護しながら自害や環境の変化をちゃんと学んでおられるのですね。そして私達が無事あの世へ帰った時、肉体の生命というバトンをその守護霊さんに渡すわけです。
そうしますと、バトンを受けて、私達の代わりとして、オギャーと人生行路の旅に発ってくれるわけです。この方が出た時、次に生まれる方が守護霊として付いて下さるようになっています。このようにちゃんとうまくして頂いています。
次に「指導霊」とはどんなお方かと言いますと、読んで字の如く、私たちに色々と教えて下さりご指導下さるお方です。この指導霊というのは、常に代わって下さっています。私達の魂が幼稚園に入るまで成長しますと、ちゃんと幼稚園程度の指導霊が付いて下さるのですね。
そして小学校に進む程度に魂が進化しますと、小学校の先生のように指導して下さる方が代わってくれるのです。中学校に行けば中学校程度の先生が代わってくれます。
このようにして私達の魂が進化しますと指導霊がちゃんと入れ替わって付いて下さるわけですね。大変素晴らしく造って頂いております。守護霊に守られ、指導霊に導かれて私達は日々の生活をしております。
「善導させるがために」
良い方に導こう導こうと常にして頂いているために、己の心は己自身に忠実なる事を知らねばならないとは、他人に嘘をつく事は出来ても、自分の心には絶対に嘘を付く事はできない、いかに上手に人を騙しても、自分では「ああ、今嘘をついているな」と、知っているという事です。
自分自身を欺く事は出来ないのです。自分を騙す事が出来ないのは、守護・指導霊が常にいい方へ、いい方へと導いてくれており、守護・指導霊がそれを知っているから、自分の心には嘘がつけないのです。
どんなに大天才の詐欺師でも「私は今この人を騙しているのだ」という事をちゃんと知っています。知っていながら人を騙しますと必ず苦しみが結果として現れるように造られています。
山に向かって人を騙しますと必ず苦しみが結果として現れるように造られています。山に向かって叫べば必ずそのまま自分の声が返ってくるのと同じで、山彦現象が起きます。
「アホー」と言えば必ず「アホー」と返ってきますし、「ヤッホー」と叫べば「ヤッホー」と返ってきます。山彦の場合は、音波が向こうの山に当たって返ってくるだけですが、これは私達の想い、行いの場合も同じで、
私達の想い、行ないからは波動が出ていますから、神の子として恥ずかしい愛の実践をしますと、この場合は精妙なる波動が出ますし、人を騙したり、
貪欲に捉われたり、怒ったり、恨んだり、憎んだりしますと、必ず荒い波動が出てきて、それは見えない次元の違った世界に突き当たって自らにそのまま返ってくるようになっているのです。原因結果の法則ですね。
これは何者も絶対に逃れる事は出来ません。そういう中で私達は修行をしているのです。自分の想い・行い・言葉が間違った事をしたら、間違いの分だけ自分に返ってくるという事を知った時、日々の行・想・言がどれ程大事であるかという事が分かってきますね。
この原因結果の法則さえ分からないで道を説いている方々もあります。人の悪口を言えば必ずそのまま自分に返ってくるのです。これは恐ろしいです。私達はできるだけ法則の中に生きたいと思います。
「しかるに 諸々の諸衆は 己の肉体に 意識・心が支配され」
これほど完璧に守護・指導霊から愛をもって守られ導かれておりますのに、己の肉体に意識・心が支配されています。
見えない世界では神の意識をそのまま頂いているのに、肉体というものに自分の意識・心が完全に支配されて、肉体の持っている意識、つまり五官から受ける感じが私達の内に坐(ま)す神なる意識(神我)を遮(さえぎ)ってしまうのです。
神様が自分を表現するために人間の肉体をお造りになり、しかも神ご自身が一人一人の中に坐しましながら、肉体の五官というサタンの化粧をなさっているのです。
五官に捉われるとなぜ悪魔の餌食になるかというと、五官には自己保存と自我我欲というもんが与えられているからです。
この自己保存と自我我欲こそ、キリスト教でいう所の「原罪」であり、人間が生まれつきに持っているエゴです。
このために、学者は性善説・性悪説という二つの両極端の研究をなさっています。人間は本来善か、本来悪か、また両方を唱える方もあります。
しかし私達は神の子であり、人間は本来善なるものだと思います。その証拠がここにあります。これは生まれてわずか十ヶ月の幼子が合唱している写真ですが、こんな調和されたお顔とポーズをされています。
その性が悪であればこのような姿が出来るはずがありません。善悪の判断の基準も分からない幼な子に光を入れてもらいますと、このように自らの仏性・神性を現して合掌されます。
「人間は本来神の子なり」というのは間違いないと思います。知らないから性は善か悪かと色々な議論されるのですね。
私達の魂の奥底に与えられているものは神の意識であり、そして、善なる永遠不滅の生命が私達一人一人の中に与えられている事を知って下さい。
その時私達は今まで知らなかった世界を知り、人間として生まれ人間であるという想いから、本当は神のいとし子であったという事に目覚める事が出来るはずですね。本来人間は善です。本来悪などという事はありえません。
しかし、神の意識の中には元々禅も悪も無いのです。善悪は肉体を持った人間が作っただけのものであって、神の意識の中は善悪を超えた愛によって満たされています。このように幼な子のお顔を見せて頂いた時、これは正に人は神の子であることの証ではないかと思います。
「心行」は深く理解させて頂きますと、私達は神様のいとし子であったという事までちゃんと書いて頂いているのです。
「文底の秘文」、つまり、文字の底に沈められた秘密の教えを自分の魂の進化によって次々と頂く事が出来るのです。
私達は肉体の外なる世界に支配されてしまいます。この肉体とは外なる世界のもの、そして心・魂は内なる世界です。
一日の内のせめて五分でも十分でも結構ですから静かに坐って、今日話させて頂きました事をずっと思い出しながら、自分の心の内に入っていく練習をして頂けたら結構かと思います。肉体という外なる世界に意識が支配されてしまいますと、自分が生まれる前にした約束を全く忘れてしまうのです。
「己が前世の約束を忘れ 自己保存 自我我欲に明け暮れて
己の心の魔に支配され 神意に反し この現象界を過ぎ行かん」
私達は生まれる前に自分が約束させて頂いた事をなぜ忘れるのかというと、肉体によって意識・心が支配されるからです。そのために自分が前世において結んだ約束を完全に忘れていきます。
忘れる原因は自己保存・自我我欲に翻弄されてしまうからです。その時、神の御意志に完全に背いております。自己保存・自我我欲というのは外なる世界に与えられたものであり、この肉体に与えられたものです。そして内なるものは神そのものの意識です。
私達はこのように完全なる愛の中に生きさせてもらいながら、自分の肉体に意識・心が支配され、自分の前世の約束さえ忘れ去って、自己保存・自我我欲に明け暮れています。己の心の魔に支配されて神のご意志に背き、この現象会を過ごしています。
この姿は法に縁の無かった方たちのこの世の最後の姿です。しかし、私達は今、法に縁を頂きましたから、あの世に帰る時は神との約束を果たして帰りたいと思います。
「心行」の解説、今日は大変良く進みまして、この辺りで終わらせてもらいます。どうも長い間、ご清聴ありがとうございました。
長尾弘先生・第168回浄心庵講演会⇐の動画はこちら♪

8:01長尾弘先生 神霊治療(仕事)の報酬について
4:04長尾弘先生 地底王国について(現実と正しい行い)
長尾弘先生 で検索♪⇐広告がなく見やすい動画です♬
- No
- 89
- Date
- 2018.01.24 Wed
日本の八百万の神解説♪摩訶不思議テープ話♪正法神理とは、お釈迦様・イエス様の教え♪長尾弘先生・高橋信次先生
心行の解説 講演集(下) 長尾弘
心行の解説 長尾弘先生講演 平成元年1月22日
さらに 諸天善神あり 諸々の諸霊を
いっさいの魔より守り正しき衆生を擁護せん 長尾弘先生の記事♪
諸天善神と呼ばれる方々は、本来はお釈迦様の当時、お釈迦様をはじめお弟子たちも含めて仏教教団の外郭を擁護しておられた方々のことです。
仏教教団を守りながらお釈迦様の弟子として、また信者として仏法を学んでおられました。
「正しき衆生」とは仏弟子であり、正法を実践する人々をいいます。正しき道を歩み、正方を実践しておれば、頼まなくとも擁護されています。
「正直者の頭(こうべ)に神宿る」と言われている通りです。正法を学び実践する人々、また法にご縁がなくとも人間として正しく生きる人々を「正しき衆生(しゅじょう)」といいます。
「諸々の諸霊をいっさいの魔より守り」というのは、この世を去って成仏できないでいる人々の霊、つまり、自分が本来神の子であることを自覚できないでいる人々を、色々な魔の意識が襲ってきた時に、諸天善神はこれらのいっさいの魔から諸々の諸霊を守って下さるのです。
ですから、正法に背き、正方を標榜し妨害する者には厳しく接して、正法に近づけないようにする役目を持っております。
それを形として現しているのが、大きなお寺の門に経っておられるあの仁王様で、これは、仏教教団を守る諸天善神の姿です。勧善懲悪の神が諸天善神ですから、決して害を及ぼされることはありません。
仏教教団を守る姿としては、他にも、例えば大阪の四天王寺にある阿弥陀如来像の周りを警護しておられる四天王とか、ならの新薬師寺で薬師如来の周りを警護している十二神将とかにそれを見る事が出来ます。
お釈迦様の生存時、クシャトリヤといって、王侯貴族の方々で仏の教えに帰依し、仏陀サンガの外側を守られた方々のことを神将とか諸天善神とか言いました。
また、当時は財閥の方々が精舎を寄進したり、色々経済的に援助をなさいましたが、この方々は諸天善神の大黒天と呼ばれています。
諸天善神はお釈迦様の弟子、或いは信者さんですから、仏が「こうしなさい」と言われれば、それに従われます。
私も今日までに何回か体験させて頂きましたが、蛇(みい)さんとか動物霊とかを祭りこめた恐ろしい場所がありまして、その霊を上げました時に、
「実在界の八大竜王はこの場所に来なさい」と言いますと、八大竜王はすぐに来られます。「この者を正しく指導しなさい」「この者を連れていきなさい」といいますと「はい」と言って連れて行かれます。
或いは「実在界の稲荷大明神、この場所に来なさい」と言いますと、すぐに来られます。これは仏よりも一段下の段階におられるからです。
次に日本の八百万の神々と諸天善神とは全く異質の神々であることについて、補足説明させて頂きます。
日本の八百万の神々の中には善神も悪神も含まれています。
高橋信次先生の言われる神、「まことの神様、上と書く、人の上にあった上(かみ)様、ペーパーに神の名前を書いた紙(かみ)様、」、
この神・上・紙をどれも示す偏に申すと書く「神」という字を使うから、すべて神様だと思ってしまいます。
八百萬の神の中にも諸天善神と呼ばれる方々もおられます。それは社会のために尽くしてくださった方、地域のために尽くされた方、貧しい農民のために自分の命をかけて、時の権力者と戦って犠牲になられた方、
大勢の人々を救い助けて下さった方、これらの方々を感謝の気持ちをこめて、神社を建てて神として祀られた場合は、八百万の神の中で諸天善神と呼んでよいと思います。善行を積んで神と祀られた方々です。お岩様は八百万の神の神の中の神として祀られていますが諸天善神ではありません。
また、八百万の神の中に天照大神を祀る伊勢神宮、神武天皇を祀る橿原神宮など皇室の御霊を祀った神社もあり、これは国家権力を神としたものです。
朝鮮半島や中国から文化を伝えてくれた一族の長(おさ)を、神社を建てて神として祀ったものもあります。これらの神社は主に帰化人の同族の人達が建てたもので、このように善行を積んで神と祀られた方は、人の上(かみ)であった方で、仏教徒は関係なく善神と呼ばれます。
八百万の神の中で最も新しい神社は、飛行機を神として祀った航空神社ですが、時代を遡ると、戦争で亡くなった方々の霊を祀った靖国神社、乃木将軍の乃木神社、東郷元帥の東郷神社、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の日光東照宮、また織田信長をお祭りした神社ももちろんあります。
数えていけばきりがありません。飛行機は別として、これらの神社の祭神は時の権力者、或いは有力者、また時代の犠牲者でもあり、諸天善神とは呼び難いと思います。
また、自然を崇拝する信仰としては、富士山、愛宕山、三輪山など数多くの山々を神体として信仰の対象にしています。その他、木や石や岩などにしめ縄を張って神として信仰する習慣もあります。
恐ろしいのは、怨み憎しみのために死んでから人々や社会や自然に災いを起こす怨霊、悪霊、地縛霊、幽霊たちです。
それらの霊に「どうぞ災いを起こさないように、幽霊となって出てこないように、静かに収まって下さい。その代わりにあなた方に、神社を建てて神として祀ります」といって、その霊を鎮魂した神々が日本には大変多くあります。
ですから神社の木を切ったり、石を動かしたり、境内で小便をしたりするとバチが当たったり、害を受けたりします。また、犬・猫・狐・狸・蛇などの動物を神社に祀っています。さらには男女の性器を御祭神として祀ってある神社もあります。
八百万の神とは、ありとあらゆる神々の事を言い、数え切れない神を言います。善神も悪神もまた動物や性器も含めて八百万の神と言っています。
神という名が付いているから何神様もみな神様だと思ってしまいます。しかし、善神、悪神、動物神、自然神など数え切れない中から選択するのは私達自身です。
八百万の神の中の諸天善神と、本来、仏教教団を守る方々で諸天善神と言われる方とは異質だと思います。
八百万の神は日本古代の神話の神々から始まったもので、もちろん仏教伝来以前からあります。権力争いによって相手を倒し、倒された人々の祟りを恐れて神社を建立し、神として祀った神が日本には沢山ありますが、権力者ですから立派な社を建てる事が出来ます。
相手を殺しておいてその祟りが恐ろしくて、神として祀り祈るのは人間の良心の呵責(かしゃく)に対するエゴの現れでもあります。
以前に読んだ祝詞ですが、神前では宝のお経と言われる祝詞の中の一説に、母が子を犯し、子が母を犯すというのがあって大変驚いた事がありました。古代社会における近親相姦の風習がうかがえる所で、これは正法とは全く違った信仰であったはずです。
「肉体を有する現世の天使は」
今度は、この世に肉体を持たれておられて、そして天使の勤めをして頂くお方ですね。こういうお方も沢山この世に出ておられます。この方々は「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」と書いて頂いています。
この地上界の者が心を失って、人として正しく生きる道がわからなくなった時、あの天上界から偉大なる光の大指導霊がこの地上界の人々を救うために現れて下さいます。
その方達は神と表裏一体ですから、地球人類が不調和なことになりますと、人類の滅亡にも関係していきますので、調和を目的として偉大な光の大指導霊が天下(あまくだ)られます。そして正しい生き方、この正法を人々に説き明かして下さるのです。
「正法」はお釈迦様がお生まれになる以前から厳然として在るものです。しかし人間の自我や我欲によって正しい法が判らなくしてしまったのです。
ぶっ許由知恵う像法を経て末法の時代になりいますと、人々はどのように生きたら良いのか、どのように子供を躾ければ良いのか、人と人とはどのようにお付き合いしたら良いかという道が分からなくなるのです。
人は相互依存してお互いに助け合わなければならないという事さえわからなくなって、「自分さえ良ければいい、人はどうでもいい」という様になっていきます。
この思いは神様の思いから最も離れていますから苦しみが大きくなっていくのですね。道がわからず、光が分からなくなりますと、人類に危機が訪れます。今の時代は正にそうです。
自己保存と自我我欲に満ちています。社会主義社会も資本主義社会もどちらも人間の欲望が形を分けて現れた世界です。欲望のために争っています。
大きな自然から言えば、小さな人間の思想によって地球の取り合いをしているのですね。その地球の奪い合いも、一つ間違ってボタンを押せば地球に人類の存在が許されない様な危険な状態になる所まで来ています。
あのノストラダムスは、1999年に地球が滅びるようなことを予言しています。しかし「人類が何か一つの道、一つのものを掴んだ時に、それは乗り越えるであろう」とも予言しています。
人々が自らの心に目覚め、真の人類愛に目覚めた時に、地球は滅亡から救われるはずです。人々は正しい法に早く目覚める事ですね。
法に目覚めるとは、小さく言えば自分の心の中が安らぎ幸せであることです。大きく言えば地球を今の危機から救う使命に目覚める事です。
有り難い事に今年はドイツの方から「心というものについて話をして欲しい」と、お招きを頂いております。本当に正しいものであれば、自分から言わなくても求める方は必ず「来て下さい」と呼んで下さいます。
国籍も肌の色も言葉も関係はありません。魂、心は人間すべて同じだからです。心について話す時は、どんなお方にでも通じるはずです。
手を切れば皆赤い血が出ます。切った時は痛いというのも同じです。同じ人間として造って頂いております。それは全人類は全て神の愛子だという事ですね。
しかしごみが溜まってしまってどうしたら良いか分からなくなった時に、天上界から光の天使が天下されてそのごみを払って下さるのです。積もったごみを払っていただいたらまた元の光が現れてくるわけですね。
これを正法の流天、正法の輪廻ともいいます。正法も自然も同じことで曇ったり腫れたり輪廻しています。しかし、これはあくまでも人間の貪欲・自己保存のエゴが造り出すものです。
私達の使命はせっかくごみを払って頂いたこの法の黄金の玉にごみを溜めないように、常にごみ払いをして生きることです。法を曇らさない様に努める事ですね。
高橋信次先生がごみを払って下さいました。そして法とはこういうものだ。この様に生きるべきだと導いて下さいました。お陰で、私自身は本当に救って頂きました。もしこの教えにご縁を頂かなかったら、今の私の存在はありません。今も凡夫ですが、以前はもっともっとしょうもない凡夫でした。
欲に捉われて無我夢中で生きていた私に「足ることを知りなさい」と言われ、その一言で救って頂きました。あのまま商売に必死になって金儲けに追い回されていましたら、今の私は絶対にありません。
或いはもっと大きく会社をのばしていたかもしれませんし、不景気で潰れて夜逃げをしていたかも分かりません。しかし私は、幸い事業を縮めていくだけの力にも恵まれていまして、当時、毛布業界は難儀していたのに、
「こんなに儲けさせてもらっていいのかな」と心の中で思ったほど儲けさせて頂きました。そして今日の私を動かして頂く為に天はその用意をして下さいました。お陰様で心の活動をさせて頂く蓄えを頂いて、今、全国を回らせて頂いております。
どこへ行かせて頂きましても交通費や講演料を下さいとは言わなくてもいいのです。ただでさせて頂くのみです。会場によっては百人も二百人も治療させてもらう場合があります。
難病奇病が治っても「ああ、それは良かったでですね、神様に感謝して下さい。あなたが神様と巡り合ったのですから、そのように奇跡を頂いたのです」と言います。
「後の私の心の管理はどのようにしたら良いのですか」と尋ねられますから
「せめて朝五分、夜休む前に五分、心を静めて本当の神様に感謝して下さい。ありがとうございましたと感謝の祈りを三分でも五分でも続けてみて下さい。必ず神の光は注がれます。私偏感謝は一切要りません」と言うのですね。
それは私が治しているのではなく、私という肉体を通して、神がその御業をなし給うから病気が治るのです。
一昨日、「先生はなぜそんな力が頂けるのですか」と質問を受けました。その方は車のドアを締めた時に、お嬢ちゃんの手を挟んで、その指の先がちぎれて得しまったそうです。これは痛いです。
ぐちゃぐちゃになってちぎれてししまった肉をくっつけたのですけど、お医者さんはもう腐って駄目かも分からないとおっしゃったそうです。
そのお母さんが、お嬢ちゃんとそのお兄さんの、お子さん二人と一緒に私のテープをずっと聞いていますと指先がちぎれているのに全然痛くなくなったのです。ここへ連れてきて、また光を頂いた後、お医者さんへ行きますと「あっ、先が出てきた」と言われたそうです。
もう切ってしまわなくてはいけないとお医者さんが言われたのにちゃんと肉が出てきたのです。それで早速お礼に行かなくてはといって、ご夫婦とお子さんとで見えました。
お父さんが「なぜ先生はそういう事が出来るのですか、指がちぎれているのに痛くなくなり、ここへ寄せてもらったらすぐに肉が出来上がってきたのはなぜですか、先生はいくつの頃からそのような事が出来ましたか」と言って、色々質問を受けたのです。
人は皆そのような力を神様から頂いているはずです。ところがその力の出し方を知らないでいます。なぜ出し方が分からないかというと正しい法を知らなかったからです。
私は幼い頃から不思議なことはいっぱい体験させて頂きましたけれども、小学校へ行くようになったり、だんだん自分の心を曇らせてきますと、もうただの凡夫になってしまいます。そして40半ばまで凡夫のままで来たのです。
40半ばになりまして、高橋信次先生のご縁を頂く一年前くらいから色々と不思議な事が起きました。自分では全く予期しないのに、私の所へ来て下さったおばあちゃんの足が一遍に治ってしまったのです。
腰が痛くて動けず、お医者さんに行きますと「骨がぐちゃぐちゃになってしまってこれは治しようがない」と言われて、お医者さんの帰りに寄ってくれたのです。
「それは気の毒な、どこが痛いのですか」と言って、足をさすりますと一遍に治ってしまったのですね。今度はお医者さんに行くと骨がちゃんとできてしまっていたのです。
「おかしいな」と言ってレントゲンを撮りましたら骨は元通りになっています。これは不思議な事がと言っておばあちゃんが一生懸命宣伝してくれまして、それが人の口から口へ伝わり、今は日本全国に伝わっています。
外国にまで伝わっています。まあ私の所の電話も国際的でございまして、フランスから、イギリスから、香港から、アメリカからといって各地からの電話を頂きますね。光はそこまでみな届いているのです。
電話でお祈りさせて頂いたら、「本当に助けて頂きました」という喜びが頂けます。そのように自分がこうしようと思っていないのに全く予期しない事が次々に起こり出して、なぜこのような事が起きるのかと、あらゆる宗門を叩きましたが分かりません。
その約二年後の昭和49年11月に高橋信次先生の教えにご縁を頂きました。先生は妹さんに常におっしゃっていたそうですね。
「大阪から私と全く同じ教えを説いてくれる方が必ず出てくれるはず、その方がまだ姿を見せてくれないから僕はあの世に帰るのがもう一年遅れているんだよ」と。
全く同じ教えを説いてくれる方-----まあ私などは、どんな大それた事は夢にも思ったことは御座いませんし、ただ先生の教えを、光の天使の教えを曲げないように、曇らせないように一生懸命塵払いをしていこうと思っただけですけれども、先生のお話とよく似ているそうです。
ちょうど一昨年になりますね。それまで私達は5.60人或いは7.80人集まりましてこの場所で十年余り勉強会をしておったのです。
まあ招いて頂きますと遠い所で四国、山口、丹後の宮津、京都、岐阜辺りは回っていたのですね。その後横浜にご縁を頂き、そのご縁で東京のある先生が「私の所で一度話をして下さい」と言って招いて下さり、そこでお話をさせてもらいました。
その時のお話のテープをその先生が会の読者の皆さんに送って下さって、それで一遍に日本国中に広がってしまいました。問い合わせやら何やら頂いて、自分ではしょうもない話しかできないし、そんな大それた思いなど持っておりませんが、大勢の方がすごく喜んでくださり、
「私の所にも是非話しに来て下さい」「どうぞ私の方にも来て下さい」と言って全国からお招きを頂くようになりました。自分で想像もしていないことですね。
私はこのようにして法をお伝えしていきたいとか、人々に広めたいとかおいう思いはこれっぽっちもなかったのです。
ただ「縁ある方たちでこの法を守っていきましょう、法を曇らさないようにしていきましょう」と言って学んでいた勉強会だったのです。
しかし、これは天上界ではちゃんと計画して頂いたことだと思います。ある時期が来るまで-----そしてその時期が来た時、忽然としてご縁によりまして全国へ広げて頂きました。
しかもこんな拙い話で申し訳ないと思っているのですけれども、そのテープを聞いて病気が治ったり、首の骨がずれていたのが治ってしまったり、腰痛が治ったり、30年来動かなかった腕がその場で治ってしまったり、そういうお便りをいっぱい頂いています。
テープを聞いて頂くだけで、心臓や肝臓が治ったと聞きますと、
私は「それは本当ですか」と言うのです。
「本当に治ったのですか」「それは有り難いですね」。
私のこんな話を聞いて病気が治ったり、家庭が調和されたり、ノイローゼが治ったりするのなら、私も一生懸命しゃべらなくてはいけないなあと思っています。
この間、1月の東京公演に行きましたが、相変わらず忙しゅう御座いまして、公演直前まで治療をしていて、「ここが痛いんです」
「ああそうですか、---治りましたか」「あっ、治りました」と、こんなことばかり言って癒しをしておりますから、前もってお話の段取りができればいいのですけど、もう全くそんな時間は与えられないですね。
そしてすぐ壇上に上がりましてお話をさせて頂くのですが、一時間、二時間はあっという間に過ぎてしまいます。その時間に何を喋ったのかなあと思うような事で、「みなさん、1月早々からつまらない話で、どうぞ許してください、何を喋ったのか、知らない間に時間が過ぎてしまったのです」と、
控室に入るなりお詫びをしたのですね。すると「いや良かったですよ」と言って頂きました。その時、今日もお見えになっていますが、
Kさんのご主人が入ってこられて「先生、今日のお話は良かったですなぁ」と言ってくださり
「本当ですか、今お詫びをしていた所です」「いやいや今日のお話は筋立ってすごく良かったです」と褒めて頂きました。
不勉強の上に、勉強する時間も頂けませんので、聞いて下さる方に申し訳ないのですが、そんな申し訳ないテープでも病気が治ってもらえるのです。
先程の指の千切れたお嬢ちゃんのご両親が見えた時の話です。子供さんは二人はいつも二階で休んでおられて、お父さんはめったに上がらない二階の子供の様子をそっと見に行ったそうです。
するとその部屋で私のテープをかけているのですね。それが日本語で話を一言しますとその後外国の言葉で話しているそうです。また日本語で話して声は同じなのに次は外国語で話、そういうテープがずっと流れていたそうです。
そして二階から下りようとすると、奥さんが飛んで上がってこられて、
「お父さん、来て、来て、こんな不思議な事がある、このテープは全部先生のお話ばかりだったのに外国の言葉で説明がついている」
と言われて、お父さんはまたびっくりされまして、「なぜそういう力を頂けたのか」と尋ねられたのです
神の御心とは愛です。太陽の光がさんさんと注がれているのも神の御心と同じですね。慈悲と愛をまんべんなく与えて頂いています。
この太陽の光に当たって「熱い!」と言ってめったに火傷はしませんが、綺麗なレンズを持ってきて焦点を合わせましたら、たちまち燃えてしまいます。手の上に焦点を合わせたら火傷してしまいますね。
たちまち燃えてきます。手の上に焦点を合わせたら火傷してしまいますね。神の愛は燦々と注がれています。肉体を持った者が心の曇りを一生懸命磨いて綺麗にしますとレンズ上になるのです。
普段は丸いのですが、愛の思いをさっと集中しますと綺麗なレンズの様になるのですね。平均に注がれた愛が、或る一つの円レンズのような状態をもって一つに集中されますと、そこに愛の奇跡が起きるのです。
平均して頂いている愛を一つの場所に集める役割をするのですね。これはどなたにでも出来るはずです。私達は皆、そのレンズも頂いております。
ただそのレンズの表面に、あまりにも曇りを作ってしまったのですね。その曇りを一生懸命磨いて拭き取ればいいのです。つまりこれは反省することです。
自分が知らなかったために、過去において数々の過ちを犯しています。その過ちを一つ一つ悔い改めていったらいいのですね。その時、神の光を集めるレンズの作用を神から許されるわけです。許されるというより、自分がそうなれるのです。
一つの場所に集める方法は、ただレンズを磨くだけの事ですね。レンズを最も曇らせるのは自己保存と自我我欲です。言葉を変えますと、この事故保存と自我我欲こそ悪魔の正体で、綺麗なレンズを曇らせてくれます。
この心の曇りだけ取れば、誰でも自動的にレンズの働きが頂けるのです。
しかしいくら綺麗にしましても、自分の心を『愛』に向けないと、レンズにはなりません。
ピカピカの綺麗な玉になりましても、透明なだけでは光は集まってきません。これを愛の力でレンズ状にする事が出来るのです。そうしますと光は即愛、愛は即現象化して一つの場所に現す事ができます。
こう言ってその父さんに説明しますと、「なるほど、よく判りました。それなら私にも出来ますね」「ああ、どなた様にでも出来ます」
これは簡単でしかも正確な理論です。私達はそのような心の方法を学びましたら、まず自分が神の愛を一つに現すレンズの役目を果たさなくてはいけません。相手の方に愛の心を向けたらいいのです。
そうしますと、この肉体は元々神様から頂いたものですから、しかも60何兆という細胞が集まって形造られており、その一つ一つは全部神のお造りになった命の塊(かたまり)です。
神の御心を頂いて、自分の霊で焦点を合わせたら、これは病気が治って当たり前です。ですから、「はい、治りなさい」と言えば治ってくれます。
このように肉体を有する現世の天使といいますのは、色々な方便を使って、神様と人間との関係とか、神様の心をこのようにして現しなさいとか、救われる側から救う側に立ちなさいとかいう事を、分かりやすく誰にでも出来る方法で人に伝えてくれるのですね。
「諸々の諸衆に正法神理を説き、調和の光明へ導かん」
諸々の諸衆とは多くの私達という事です。正法神理とは、お釈迦様であり、イエス様の教えです。この尊い方たちのお説き下さいました教えをできるだけ分かり易く、どなたが聞いても理解できるように、「それなら私にも出来ます、私はやっていきます」と受け取れるように導いていくべきですね。
私達の魂のグループは六人で一人を構成しているそうですね。その本体と五人の分身のお方の六人でもって私たち一人を構成しています。光の大指導霊が天下られる時はその本体の方が優先してお供をして出られる権利を与えられるそうです。
天上の世界は「光の量の区域なり」と説かれていますように、偉大な如来・菩薩というお方は慈悲と愛の光で輝いておられ、実在界ではとても眩しくて、そのお姿を拝むことが出来ないのです。光だけなのです。
光の塊ですから拝めないのですが、地上に出られますと、どんな偉大な光の大天使も私達と何ら変わらない肉体の中にお入りになりますからその如来の姿を拝まんがために、私達の魂の兄弟の本体がお供をしてこの世に出てくる権利を与えられているみたいです。
今、高橋信次先生の教えにご縁を頂きました者は全部、魂の本体のお方です。今こうして集われる皆さんは分身ではなくて、その本体です。
如来の姿を拝むためだそうです。なるほどそのように思わせて頂きますと、偉大な魂の方は眩しくて拝むことができません。しかし同じ肉体の中に入ってもらったら、五感を通して拝むことができます。
こういうお方を「肉体を有する現世の天使」と呼ぶそうですね。そして人々を調和・喜びの中へ導いていきます。
「正月三日間はええものじゃ」と言いますが、私は今年の正月は3日から寒い東北の岩手県の方に寄らせて頂きました。朝は、飛行機で言ったのですけれど、帰りは切符がなくて、新幹線に乗せてもらいましたら、何とここへ帰るまで8時間半もかかりました。
8時間半も同じイスに座っていたら、お尻が痛いものですね。やっと帰って、翌朝は早く起きて今度は九州の大分へ寄らせて頂きました。
大分では同じ正法というのを学んでおられたのですが、その中に色々と苦しみがありまして、悩んでおられた方々にご縁を頂きまして、そこへ寄せて頂きますと今までとは全く違った驚きと喜びとで、
最初に「心行」を読ませて頂いておりますと、もう前に座っているお方は皆涙を拭きながら聞いて下さるのです。
2日目の最後に「父母恩思経」を読ませて頂きますと、ある方などはハンカチで顔を覆って大声を上げて泣いておられ、皆さんも私も泣きながら読ませて頂きました。そしてその後は喜びの渦に変わりました。
自分の過ちに目覚めて流した涙、同じ正法という名前であっても、誤った中で苦しい思いをなさっていた、その苦しみから救われたという喜びですね。今日も大分から何人か来て頂いております。
四国の高知から舟で11時間かけて来て頂いた方、また島根からも、北陸からもご縁に寄ってこうして巡り合えますのは、初めてのご縁ではなくて、私達の過去世において何百年か或いは何千年か前に全部共に学んだ仲間だからです。
その縁と条件によって、今こうしてこの場所に巡り合っております。話を聞いて、皆さんが「ああそうだ」「そうだった」という風に受け取って頂くのは、以前にちゃんと学んでいた魂の持ち主だからです。
過去世において法に縁のなかった方は、こういう話を聞いても分からないそうです。私の様に分かりやすく話しているのですけれども、それでも分からないとおっしゃりますね。それは縁がないのです。
この正しい法に縁をいただくのは両目を潰した亀が大洋の真ん中に流れてくる木と巡り合って、その流木にあいていた穴の中へ首を突っ込むよりも、正しい教えに巡り合うのはさらに難しいそうです。
私のお話は全国へ伝わって全国で聞いて頂いているようですが、それでも法に縁のつながったお方は日本の人口からしますとごく僅かなもので、数にしたら一億何千万人の中の何十万人という所でしょうから、これは知れたものです。
それだけしか縁を頂くことは出来ないのです。この世で法に縁を頂くということは本当に難しい事ですね。しかも縁と条件とによって、この場に集えるということは、どれ程有り難い事かと思います。
光の天使は常に正法神理を説いて、人々を調和と安らぎと喜びの世界へ導きます。この世は形として現れた現象世界です。
この現象界はあくまでも実体が無く、形として現れているわけで、そのようなものでも、ある時間が来ますと消えていきます。ただ時間が早く消えるか、時間がちょっと長く経ってから消えるかの違いです。
正法にご縁を頂いて間もない頃の事です。ボーリングが大変流行していた当時ですね。この旧26号線を通りますと助松の駅下りの所に松ノ浜ドライブインというのが出来ています。あの辺りにボーリング場が出来ました。
私は商売をしていましたから、いつも飛び回っていまして、工事をしている時から大きな工事だなあとおもって見ていたのです。
何と壁の厚さは30cmからあるのです。使っている中の鉄筋の太さもものすごいものでした。その鉄筋を網の様に組んで厚いコンクリートの壁の何階建てかの大きなボーリング場が出来ました。その時思ったのです。
「実体のないものは必ずいつかは消えるけれど、こんなにごっつい事をしたら、これは200年や300年ではめったに消えないだろうなあ」と。あのまま置いていたら消えるものではないと思っておったのです。
それから半年もしない内にボーリングが不景気になったのです。或る時通りますと、大きなクレーン車が来て、大きな鉄の玉を振り動かして建物にボーンと当てているのです。
出来たと思ったら潰しているのを見て、その時つくづく思いました。
「本当に、鉄と石をもって作った建物でさえ、縁と条件に触れたらたちまちにして消えていくのがこの世の定めだなあ、本当にその通りだなあ」と。
その後一ヶ月経ってそこを通りますと、もう跡形もないのです。石も何も全部片付けて広い原っぱになっていました。私達の肉体もそうです。肉体も今、あると思っているのですね。これは現実に見ればあるのです。
肉体は現実にありますから実在しているかのように思っています。しかしいつの日か、これは消えていくものです。そしてまた人は現れ、現れては消えしているのです。
その時間の中に、私達は自分にとって都合の悪い出来事が起きました時に自分の心を曇らすのですね。幼い時の綺麗な魂が年と共に曇って、その曇りがだんだんと積もってきます。
しかしこれは反省を繰り返し、自分の幼い頃まで反省していきますと、元の幼子の清らかな魂に返るのですね。神のみどり子に返る事が出来ます。
それは反省以外にはありません。反省が出来ていなかったら、善悪の基準が分からない間に犯した過ちによって、その苦しみを一生背負っていくのです。そしてあの世まで持っていかなくてはなりません。
常に反省させて頂いて、人様の前で聞いて頂いて、もう何とも思えないようになった場合は、あの世に帰っても何ともないのです。この世で反省を知らず、悪事を隠しておくと、あの世で恐ろしい思いをします。
この世に肉体を持たれて、そして正しい道を述べ伝え、人々に調和と安らぎと喜びを与える仕事をして下さるお方が光の天使であると、そのように書かれております。 長尾弘先生の記事♪
おまけ情報♪
自殺ダメ様の「性生活の偏見をなくそう」は青少年必見の内容ですよ♪
私も自殺ダメ様からスピリチュアリズムの真髄を沢山学ばせて頂きました。
若者☆も若くない方☆も、ぜひ一度ご観覧してみてね♪
性生活の偏見をなくそう 目次⇐クリックで見れます♫
次に一転して禁欲主義の最右翼であるところのキリスト教に触れてみたい。ある所にテントの製造を商売にしているサウロという男がいた。
晩年になって南ヨーロッパからギリシャ諸島、小アジア、イタリア、スペインの各地を旅した。彼にはてんかんの持病があり、また大の女嫌いであった。
歴史家の中には彼をインポ(性的不能者)だったとする者もおれば、ホモ(同性愛)だったとする者もいる。
このサウロが実はキリストの有名な弟子パウロであり、キリスト教の性的戒律を生み出した人物である。この戒律は肉体的欲望を〝悪〟と決め付け、従って肉体的欲望の所産であるところの出生そのものが悪であり、結局人間の存在そのものも根源的には悪であるという思想に発している。
要するに人間は悪の塊であり、なかくずく性欲が諸悪の根源である。その悪から少しでも善に近付く道は禁欲生活であり、処女性であり、夫婦それぞれの貞節であり、裸体をむやみに人目に晒さないことである、という。
ヨーロッパ人の性観念に罪悪感と羞恥心を注入したのはこうしたキリスト教的戒律である。
つまり、教会が信者に対してこの罪悪感と羞恥心を吹き込むことによって、教会との繋がりを保ち強化しようと努力してきたことが、信者の心に性交は本来いけないことという観念を植え付けてしまったのである。
そして今日では、そのことがかえって諸悪の根源となってしまった感がある。性問題の専門家であるカンフォート博士もその著書の中で
「性というごく当たり前の自然現象を厄介な問題としてしまったその最大の責任はキリスト教にある」と断言している。
確かに、教会のこうした固陋(ころう)な反進歩的教説は数多くの精神的ないし神経的な病気を生んでいる。
特に、西洋諸国においては離婚を始めとする人間関係の破綻や不和は、その大半がキリスト教的戒律から来る罪悪感、不安感、挫折感といったものによって引き起こされていると言ってよい。
実際に患者の治療に当たっている私は、そういった根拠のない宗教的罪悪感や抑圧観念から病気になっている事実を、目の当たりに見せ付けられている。だからこそ、右のようなことが断言出来るのである。
初めの内は精神的ないし心理的なもので留まっているが、やがて肉体にはっきりと症状が出て来る。胃潰瘍、腫瘍、偏頭痛、関節炎、慢性的消化不良、喘息、吹き出物、そして癌。
本章の初めの所で、私は一切の先入観、既成概念を捨て去って欲しいと要求したが、〝一切〟は無理としても、ここまで私の説に耳を傾けられたからには、あなたの性愛観にもかなりの変化をきたしていることを期待しよう。
そう期待した上で、私は今度は性のあり方について積極的な立場に立って、人間の性生活はかくあるべきだ、という意見を述べてみたいと思う。ご批判はその後にして頂こう。
言うまでもなく性は本来悪ではない。目によって美しいものを観賞し、舌によって美味しいものを味わうのと同じように、性器によって肉体の快楽を味わうことは極めて自然なことであり、有り難いことであり、これが自然に出来ることに感謝しなければならない。
これを罪悪感や過度な羞恥と結び付けるなどは、もっての外というべきである。身体そのものが性的快楽を味わうように出来ているのであるから、罪悪感や羞恥心から性行為を忌み嫌うというのは実に愚かなことである。
イヤ、私の言わせれば、性を否定することこそ神を否定することだと言いたい。性を抑制せんとする人達がとかく病的なまでに精神的に歪められている事実が、その何よりの証拠だと思う。神は何一つ不要なものは与えていない筈である。又具わっている道具は使うのが自然な筈である。
宗教的とは別に、生理的な面から性行為を有害視する人がいるが、これも又大変な誤りである。精子も卵子も適度に消費するように出来ている。
生理的機能に異常のある場合は別として、正常な機能を具えた健康な男女なら、欲するままに行動して決して害はない。正常であれば害になる前に欲求が止まる筈である。少し位の疲労は、若い健康な男女なら一晩熟睡すれば回復する筈である。
若者は自然な性行為を知る迄には、色んな形で性の快楽を味わい欲求のはけ口を求めようとするものである。その一つの現れが自慰行為であるが、これも至って自然な行為であり害もない。
大人になってからでも、これを性のはけ口として精神安定の為に行なうことは極めて賢明なことである。
ところがこの自慰行為においても、キリスト教的罪悪感に根ざした有害説によって、どれだけ多くの若者が精神的に苦しい思いをさせられてきたか測り知れない。
つまり生理的に抑えようにも抑え切れなくて自然な衝動によって行なうのだが、その時の心理状態は悪いことをしているという罪悪感が付き纏い、それがかえって生理的にも悪影響を及ぼし、結局は精神的にも肉体的にも性のはけ口としての効用を少しも果たさないことになるのである。これほど愚かで罪作りな話はないといっていい。
ある孤児院で興味深い調査が行なわれた。そこの子供達は当初は性的行動についてあまり厳しい監視をされていなかった。
それで殆ど全員が自慰行為の体験を持っていたが、ある時、実験的にその子供達を二つのクラスに分け、一つのクラスではそれまでどおり自由に行動させ、もう一つのクラスには厳格な監視と説教を徹底させてみた。
やがて成人して社会へ巣立って行った後、福祉員が追跡調査を行なった。その結果は、厳格に育てられたクラスの全員が何らかの精神的症状を訴え、中には精神病院に入院した程の重症患者もいたが、一方自由に行動させたクラスには一人も病的症状を訴える者はいなかった、ということだ。
- No
- 90
- Date
- 2018.01.20 Sat
神様に親孝行の境地に到達したお話♪忠臣蔵の真実♪長谷川わかさんの霊視話♪誰でもスプーンまげ方法♪悟り覚醒へ♪
今日は、オーム振動水を作製する環境を調える為に、台所を徹底的に片付けておりまして、大容量の水置き場をこしらえておりました。
大人のおしりふきで綺麗に拭き掃除して、底部にブルーシート、その上にグリーンシートを綺麗に配置したりしてとか、色々ですね♪
水缶 コック付 BUB 20L 水タンク(こちらに水を溜めます♪)
それにしても人生は楽しゅうございますねぇ♪愛と調和、後それと、最近目覚めた、日々是感謝と宇宙創造神への親孝行の思いですね、この4つの想いで毎日がしびれる高振動の喜びの日々で過ごさせて頂いております♪
毎日が喜びで、感激で、神様への感謝で涙がこぼれ落ちる毎日なのです♪
今回ご紹介する記事は、私自身、スピリチュアルサイト巡りをしている割には全く知らなくて、大変驚いた記事もありましたから、精神世界通の方々も、意外と驚いちゃうかもしれませんね♪
関英男博士の『高次元科学』と『高次元科学2』をしっかり拝読させて頂きましたが、昔初見で見た時にはピンとこなかった内容が、今回の二回目の拝読では、同じ本とは思えないくらい高次元な内容であると深く理解できました。
魂の理解レベルによって、同じ本でも、ここまで感想が変わったという、これまた摩訶不思議な体験をさせて頂けました。本当に有り難いことですね。この体験で、人によって同じ本に対する感想が、表と裏くらい違うというという事例に近い感覚を、一人で一石二鳥分感じる事が出来ました。
アミ小さな宇宙人を読んだ読者の方々でも、感動したり絶賛したりする多数の方々と反応が思いっきり違う方がいらっしゃいます。
ある程度ぼかして申し上げますと、まだ宇宙の真理を理解できるレベルに意識が到達していない、という事になります。えっ
全然ぼかしてないって、それストレートすぎィ~、とそんな声が聞こえてきた気がしました(笑)

全然ぼかしてないって、それストレートすぎィ~、とそんな声が聞こえてきた気がしました(笑)
そうです♪宇宙の真理とは底知れぬ深さを持ったものでありまして、追求すればするほど、その分だけちゃんと理解したご本人しかわからない世界があるのだと言えるので御座いますね。神理の理解度が上がるにつれて、新しい世界が開かれてくるのであります。
100人いれば、100通りの神理の理解度があるわけですから、自分の尺度だけで判断するのは筋違いという訳でございます。この違いを理解しておけば、人をあまり責めなくなると思います。
私は常に、どのような考え方、想念の持ち方をすれば、神様がお喜びになられるかを長年追求しておったのですけれども、遂に‥遂に、もしかすると、ひょっとするとひょっとするかも、という境地に到達できたかもしれません。
その境地とは、常に神様(宇宙創造神)に親孝行したいという想い、神様にを両親を愛するが如く愛する、愛しい恋人のように神様を想い続ける、全てが神の境地、ただ全てが愛おしくてしょうがない境地、無欲、現在の環境に感謝の境地とでもいいましょうか、
体が高い振動数になったのがよく分かるのです。本当に幸せです♪幸せの境地とはこういうものなのかなぁとも感じました。神理を追求して、悟りを追求して本当に良かったなぁ…と心の底から実感したのでありました。
悟りを大幅に加速させてくれる一つのキーワード、それは『親孝行』で御座います。まさに、親神様(創造主)に親孝行、これが非常に大事なのですね。
そんな想念で実践されたら良いかもしれませんね♪
この文章を見て、これはいい話っ♪と、ビビッときて深い悟りを得られる方もいらっしゃれば、ピンとこなくて、この人一体何を言いたいのかしら……な~んて思われる方もいらっしゃるわけであります。これがいわゆる人それぞれ、魂(意識)のレベルそれぞれ、という事で御座いますね。
私も地道に魂のレベルがアップし続けているみたいです。その悟りは全部包み隠さず皆様にご紹介させて頂く予定でおります。少しでも皆様の悟り覚醒のお役に立てればこの上なき光栄で~す♪これからも期待しててね♪
弥盛地(イヤシロチ)の科学⇐本が無料で見れますよ♬
かつて、警視庁からお墨付き(鑑札)をもらった霊能者がいた!さまざまな難事件を解決し、阪神・淡路大震災をも予言した超ド級の霊能者の超☆面白いお話です♬
忠臣蔵の驚愕の真実はこちら♪このブログ主様も霊能力をお持ちのようです♪
私も一応………^^;
『忠臣蔵の真実1』
真の成功と真の富を掴む方法♪(良質で濃い内容です♪)
誰でも簡単にスプーンまげをする方法♪
1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する
「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する
眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。
3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する
言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。
4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する
重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。
5.心施(しんせ) 他のために心をくばる
心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。
6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る
「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。
松下松蔵こと祖神様とは - 祖神道本部(親孝行で神人に) http://sosindou.web.fc2.com/sosinsamatoha.html
松下松蔵翁のこと(戦前に活躍した日本最高級の神人) https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/6019/
「私は、親孝行のために力を得た。
私は決して願をしたのでもなく、行(ぎょう)を積んだのでもない。
ただ、生まれつき親孝行することが好きである、
一度も親に口答えせず、そむいたこともなかった。
元来人間は、親あっての自分で、わが身が大切ならば、親はなおさら大切で、ことに親の子に対する愛情は無限である、それを思うなら、どうして親を大切に思わずにいられよう。親孝行が人間道の根本だ。
私は、神様は何神様を信ぜよとか、仏様は何様を信ぜよとか、決してそんな事をすすめるのではない。世の中は親孝行が第一で、親孝行さえするなら、成功もでき出世もできる。
「精々、肉類は食わぬようにするがいいよ。
儂等は朝は味噌汁一杯、昼は御飯一椀と野菜一皿、それ以外に何も食わないで、これだけ働ける。
今の人間は食い過ぎているわい。
獣の肉を食うと、心臓が弱る。血が濁る。
魂の穢れを増すばかりじゃ。
獣類、鳥類、虫類の怨みも恐ろしいからな・・・・」
宇宙創造の神がすすめる霊性を高める方法 天の理=洗心
いつももつべき正しい心(=常の心)
強く 明るく
正しく 我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ
心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)
憎しみ 不満
妬み 疑い
猜み 迷い
羨み 心配心
呪い 咎めの心
怒り いらいらする心
不平 せかせかする心
■四句御箴言(しくごしんげん)
与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ
与えられたことを拒むこれ欲なり
与えられぬことを欲するこれ欲なり
- No
- 91
- Date
- 2018.01.15 Mon
ヘソの下が光るチャクラ話♪チャクラは肉体と心の体を仲介するセンター♪気・超常能力の科学的分析♪本山博先生
「ラビエ編集部」編 気を考える 第二集 宗教心理学研究所 本山博先生 気・チャクラが科学になる チャクラと超常能力 超常能力の一例をお話しましょう。弟子の一人が北海道のお寺の住職で、一生懸命加持祈祷していた所、 「40度の熱が1週間も10日も治らなくて、いくら拝んでも治らないから、先生どうか治してくれ」と電話がありました。 「それでは、今力を送ってあげるから、そこにちゃんと座っておるように」と言って、お祈りしながら力を送りました所、繋がった感じがしました。つながった感じがすれば病気は治ります。近くにいてもつながらないと治りません。 それで、つながったけれど、長いこと病気をしていたからもう少し送ってやろうと送ったら、向こうでひっくり返って気絶してしまった。それが分かるのです。 4.5時間経って目が覚めたら熱が下がっていました。こういう能力は気のエネルギーと違うのです。気のエネルギーはせいぜい10メートルぐらいで、北海道までは届きません。 アナハタ・チャクラとは 日本科学基礎学会というのが3、40年前に出来て、当時の錚々たる日本の哲学、物理学、数学等の学者が集まりました。 その時、自律神経とチャクラの関係という話をしますと「聞いたこともない。チャクラってなんだ、得体の知れない話をする奴だ」と嫌われたようでした。 ところが、近頃はアメリカや、オーストラリアなど外国でヨガや行をする人口が増えたせいか、チャクラについて割合知っている人が多くなり、30年も経つと色々な変化が起こるものだと思いました。 皆さんの中にもチャクラという言葉を知っている方もあるでしょうが、チャクラというのは今言ったように、気の次元や経路やツボとは違います。 サハスララ・チャクラ☆クラウン・チャクラ☆第七チャクラ・頭上 アジナ・チャクラ・第六チャクラ・眉間・松果体 ウィシュダ・チャクラ・第五チャクラ・喉元センター アナハタ・チャクラ・第四チャクラ・ハートセンター マニプラ・チャクラ・第三チャクラ・太陽神経叢・鳩尾センター スワディスタナ・チャクラ・第二チャクラ・尾骨・尾てい骨・丹田 ムーラダーラ・チャクラ・第一チャクラ・性器、会陰、頚部・性腺 私は40年ぐらいヨガの行を毎日していますが、ヨガの行を初めて半年か1年経った頃だと思います。1週間も2週間も水だけ、あるいは米粒が見えないようなおかゆを毎晩一回ずつ食べるという断食のお陰で、汁気がなくて咽がからからになって声が出なくなります。 ある日のこと急に、ぱっと座ったままで体が宙に浮きました。せいぜい4,5秒くらいだったと思います。また、アストラル・プロジェクション、 あるいはカラナプロジェクションといって、座っているのに自分は天井の高さにいて、みんなが見える。自分の体が下に座っているのが見えるという経験も何度もしました。 それから人を見ると、その人の体の周りに光の輪がよく見えるようになりました。みんな色を持っていて、下腹の辺は赤い。ヘソの辺りはグリーンであったり赤であったりします。 それから、心臓のあたりのアナハタ・チャクラというのが動いていると、金色の光になります。喉の辺が動いていたり、眉の辺が動いてくるとスミレ色とか、薄い紫の様に見えます。 チャクラというのは、元々光の輪という事で、この頃で言う所の「オーラ」です。仏像の後光に光があるのは、要するにチャクラをああした形にかたどっているわけです。 チャクラは仏教とかヨガだけのものではなく、キリスト教でも、金色の光をキリストの周りに描いていますが、ああいうのは自分が自分の外へ出て、下が見えるようになると分かるようになります。 その目で見ると、この人はどういう種類の病気であるとか、体質的にはどういう人かがよく分かります。 ついこの間も、フランスの国営テレビが一日中研究所に来まして、先程のAMIの機械で測定実験をするためにスプーン曲げをする少女を連れてきて実験しました。 その少女は中学一年生ぐらいの女の子で、スプーンが曲がったり傘の柄が折れたりするのですが、その女の子を見ていると赤城山が見えてきます。 赤城山の山麓に池があって、そこに祠(ほこら)があり、その前に自然霊(山の神霊)がお爺さんの様な形になって見えています。 それで、こういう所へ行った事があるかと聞くと、あると言う。行った頃からそういうした能力が出たらしいのですね。 一昨日(おととい)は、皆があまり見るものですから、とうとうテレビに映している間中スプーンが曲げられない。「まあいいや、今日は出来なくてもいいから、写真を取ろう」というので、係の人が写真を撮っていました。 その彼女にスプーンを持たせて「気楽にすればいいんだよ」って方に手をかけてやると、スプーンがグニャグニャと曲がりました。そういう能力というものは、心臓のチャクラが動くとよく起きやすいのです。 例えばラッキョウの皮 チャクラというのは、人間はラッキョウの様なものだと思えばいいでしょう。つまり外からむいたら中に皮があるでしょう。それでその中をむいたら皮がある。剥いてしまうと何も残らない。だから何もない状態が空の状態、悟りの状態※だと考えていいのです。(※違います。”神あるのみの境地”です...) 永久保存版♬知花敏彦さんの神我に目覚める♫瞑想の極意をご紹介♪ ところが普通の人間は外側の皮の部分(肉体)だけを見ます。ついている感覚器官を通して、色々なものを見たり聞いたりするだけだから、見たものしかわからないわけです。(※内側の最奥には神我、内在の神がおられます) 本当は外側を一皮剥いてしまうと、例えば断食をするとかして、体の欲望とか感覚的な欲望にこだわらなくなったら、その外側のものがボロリと落ちるようになるのです。そうすると内側のものが働くようになります。 内側のものとは何か。その内側というものも、やっぱりひとつの体があるのです。それは我々の体とは違うけれども、微細身とか幽体とか呼ばれるものです。それは心の通りに割合すぐ変化をするのですね。 その体、微細身にもやはりひとつの生命力があって、そのエネルギーが動くセンターがチャクラだと思います。 それが動くようになると、光って見えるようになります。そのチャクラというのは物理学的な体と、それから心の体との仲介をするセンターでもあり、そこには仲介するエネルギーとして気のエネルギーが働いています。 チャクラと特定の経路 気のエネルギーを経路の測定器で色々調べている内に、面白いことが分かりました。新体道というものを作った青木さんという人は10メートルぐらい離れていても、気を出すと相手が何もしなくてもひっくり返ります。 これは遠当てと呼ばれているものですが、この現象は私も5.60人ぐらいの人と一緒に、私どもの根府川道場で座っている内によく起きました。 私が1番前に座っていて、力を後方へ送ると、受けやすい人は4,5人が後ろへ一斉に倒れてしまい、今度力を前に引っ張るように押し出すと、後ろに倒れていた人が前に倒れてしまいます。 1987年頃に筑波大学でフランス、アメリカ、インドから学者を呼んで、精神世界と科学の統一をいかに考えたら良いかという会がありました。 その時青木さんを調べる機会があって、調べてみますと、青木さんの場合は何回測っても、心臓のチャクラ---アナハタ・チャクラが必ずよく動いていることが、AMIのデータに出てくるのです。 心臓のチャクラは心経と心包経とに非常につながりがあります。アナハタ・チャクラがよく動くと、外にエネルギーが出やすいのです。 これに対して霊が見えたり、聞こえたりする巫女型の霊能者というのは、臓経とか胃経とかいう経路が動いていて、非常に感情の起伏が激しいし、外からのエネルギーを吸収するタイプです。 そういう人はESPタイプ(超感導の知覚タイプ)ということになります。 このタイプは、直感というか、目に見えない霊を見たり前世を見たりするような、その人に憑依している霊を見る能力が出てくるのです。 そして、胃とか消化器系が非常にまずくなる。そして感情の起伏が激しい人が割合日本に多いんです。ところが日本では気を出すようなPKタイプの霊能者は割合に少ないのであって、いまの青木さんの場合は何度計っても心・心包経に異常が出ていて、遠当てが出来るのです。 青木さんのお弟子さんに、やはり合気道か空手の五段か六段の人だと思いますが、岡田さんという人がいます。この人は受けやすいESPタイプです。 青木さんが岡田さんに、どこに力を送るとか言わないで、何もしない状態でAMIで5回測る。次に、送ってからどう変化が起きたか5回計ってみました。 相手に何も言わないで、岡田さんのお腹の下辺りに送ってもらうと、確かに岡田さんの下腹部に変化が起こります。 その力がどんなものかという事で、今度は上から下まで板の厚いのを二人の間い送っても、やっぱり同じように起きます。 初めは2メートルぐらいの距離でしたが、もっと離れた所からやっても起きる。ということは、青木さんから出てくるエネルギーは、気のエネルギーというよりはPSIのエネルギーだろうと思います。 NHKから電話があって、彼の心臓の動きを調べましたが、滝に打たれても、滝に打たれなくても、心電図、脳波でみると動きは全然変わりません。 脳波というのは、計算をしたり、目をつぶったりするとベーター波、アルファ波という風に変わるものです。 ところが、柔軟演歌前に私の脳を測った時でも、計算をしても、目を開けていてもつぶっても、アルファ波の内容は全然変わりませんでした。 インドの優れたヨギでは本当に深い三昧に入(はい)れる人の場合は、心電図を撮ってみると、全く心電図が停まってしまいます。心電図が消えたということは普通ではもう死んだということになるのですが、死なないのですね。 十秒位は意思で停める事が出来ます。また、二百回ぐらいに心臓の拍動を変える事も出来るし、百にする事も出来ます。 そういう風に、あるチャクラが目覚めたら、そのチャクラが支配している臓器を意思で自由にコントロール出来ます。 青木さんの場合はアナハタ・チャクラが目覚めていて、滝に打たれても打たれなくても変わらない、という事になります。 それはさっき述べたように、体の外へ出て、体全体をコントロール出来る様になると、自由に体の機能を変える事が出来る。それがチャクラの機能の特質です。 皆さんもチャクラを目覚めさせる事が出来たら、ガンになったからといってバタバタしないで、なったらなったで気にしない。ガンでも治すことが出来るからです。 そういう能力は人間は誰でも持っていると思います。ただ皆さんは、さっきのラッキョウの話のように、1番外側の肉体だけがあると思って、それにしがみついているから、何時まで経っても、ラッキョウの外側がボロリと落ちないのです。 ヘソの下が光るチャクラ ユダヤ人のモーゼという人をご存知だと思いますが、モーゼの直系子孫で、代々ユダヤ教の牧師さんの家柄に生まれたアメリカ系の女性ですけれども、彼女は、真っ暗闇の中で光を出す事が出来ます。 そこでAMIで測ってみますと、マニプラ・チャクラの第二マニプラと、それから、もう一つは泌尿生殖器系と関係あるスワディスタナ・チャクラがよく動いているのです。 それでは実勢に出るその光がどこから出るのかを、電場、磁場、光を測定して調べてみました。ここでシールドルームのドアを開けると外から光が入って、データの第四ラインで光が入った事が波形変化として出ています。 シールドルームの内側は真っ暗闇です。電磁場や光の他に、被験者の呼吸とか脈拍、それから皮膚の動きとか、色々測っているわけです。 ところが暗がりの中で、彼女が守護霊と一緒になって光を出すと、チカチカとなって、またちょっと強い光が出ます。 その光がどの辺で出ているかというのを、ビデオカメラと、それから部屋の側面に光が出たらつかまえられるセンサーを置いてありまして、色々工夫して実験ができるようになっていました。 種々なデータの総合的解析の結果、光は彼女の関元、つまり臍(へそ)下の辺りからよく出ていることが分かりました。 これで彼女のスワディスタナ・チャクラがよく目覚めていて、そこでPSIエネルギーが放射され、物理的光のエネルギーを生み出すことが推測されました。 ところが彼女はやっぱりスワディスタナの能力を少し使いすぎたと思うのですけど、4,5年前から少しずつ腰が痛くなって動けなくなりました。 スワディスタナ・チャクラは、泌尿生殖器系、腰部神経と密接な繋がりを持っていますから。ですから、あるチャクラが目覚めても、それだけ使いすぎると病気になったり死んだりします。 一つの例として、Tという霊能者が作っている会がありまして、そのTさんが色々な霊を自分に降霊させて人々を指導されていました。いわゆる巫女型のマニプラタイプですから、色々な霊をつけて、マニプラを使いすぎたと思うのですが、早く亡くなりました。 そういう風に、チャクラが目覚めても、一つを使いすぎないで、全体のバランスを取る事が非常に大切だという事を申し上げておきます。 障害者を持つご両親に朗報♪言葉の遅れ、てんかん、脳性マヒも治癒する間脳活性化手当て法をご紹介♪七田眞さんの過去記事からの引用ですが・・・♬イメージで操作される右脳の意識の活用が大事 七田眞さん 祈りは宇宙意識に通ずる 宇宙意識にはすべてを創り、そして治す力があります。 祈ることによって宇宙意識と一体になると、宇宙の無限力が使え、奇跡が起こるのです。 実はこれは奇跡ではありません。奇跡とは科学的に説明の付かないこと。 祈りの持つ力は、科学的に説明の力がつくことなのです。 では、祈りという行為はどのような行為なのでしょう。祈りは、人を普通の意識から、深い深い、潜在意識の最も深いところへと人を導きます。 意識にはいくつもの層があって、一番深い意識は純粋意識と言われ、この状態の時は統一場の状態と言われます。 統一場とは何でしょう。宇宙に存在するすべての物質は、ある究極の場で創出されました。これが統一場です。統一場は万物が生み出される場です。万物が生み出され、また癒される場でもあります。 祈りや瞑想によって五感の意識を超え、深い純粋意識の状態に入ると、この統一場に入ることが出来るのです。 統一場はまた、意識と無意識が働く場でもあります。統一場は純粋な想像のエネルギー、宇宙意識、宇宙エネルギーが働く場です。 祈りは人をこの純粋意識の場へ導くので、すべてが癒やされるのです。無限の宇宙エネルギーを自由に使えるので、癒しが楽に行われるのです。 祈りと手当て法でこんなによくなった 次は七田教室のお母さんからのレポートでです。 --------子供が七田教室に入室したきっかけは、てんかんと診断されたからでした。 その半年前「脳波に少し異常がありますが、思春期になったら治る例も多いので、このまま様子を見ても大丈夫でしょう」と言われておりましたので、てんかんと診断された時はとてもショックでした。 七田先生の講演会に行き、せめてこの先幾度が発生したとしても、右脳教育をすることによって少しでもダメージを抑えることが出来るのではないかと思ったのです。 この時七田先生から教えていただいたのは、両手が熱くなるように三十六回きつくこすり合わせ、指三本に額を当てて「どうかこの子の病気が治りますように」 と子供の治った姿をイメージしながら、一生懸命祈ることでした。しばらくはそれを続けておりましたが、その後祈りの言葉とともに、「五分間手当て法」というのを教えて頂きました。 それは、子供が寝たら子供の右側に座り、まず、手が熱くなるように三十六回きつくこすり合わせ、手のひらが熱くなるのを感じたら、右手を子供の額の上に3~4センチ離して当て、祈りの言葉とともに子供が治っていく姿をイメージすることでした。 BGMにα波ミュージックを流しました。その五分間手当て法と合わせ、五分間暗示とともに毎日三十分前後手当をしました。 それから約一年余り、一度も発作を起こすこともなく過ぎ、脳波検査ではほぼ正常だと言われました。本当に信じられない思いでした。 思春期になる頃には治ればいいと気長に構えておりましたので、この奇跡的な出来事に感動すると同時に、人との出会いにとても感謝致しました。 七田先生の教えがなかったら、七田教室の先生との出会いがなかったら、この感動は無かったかもしれないのです。本当に感謝の念で一杯です これからの子育てにはイメージの活用が大切 これまでの子育ては、言語で操作される左脳の働きしか知らず、右脳のイメージ力については知ることはありませんでした。 これからは左脳の意識だけでなく、イメージで操作される右脳の意識の活用を覚えることが大切です。 左脳の意識では自然の法則を司(つかさど)っている波動関数を打ち破ることは出来ませんが、右脳の意識では遺伝子の波動関数を一瞬に打ち破ることが可能なのです。 (関数というのは2つの変数の間に見られる規則関係、意識は波動数値で表される) 意識は波動なのです。そしてこの世の全てのものは究極の構成分子に煎じ詰めると、これもまた波動なのです。右脳は全ての波動に同調する原理で働いており、その同調した波動をイメージに変える働きがあるのです。 イメージはホルモンが見させるものです。障害児は間脳(視床、視床下部)がうまく働かないのです。間脳に情報を入れれば、全ての病気は治癒します。 なぜなら、間脳は全ての中枢を支配しており、中枢ホルモンの分泌もコントロールしているからです。 障害児は間脳の働きを眠らせているので、病気が治らないのです。この眠っている間脳に情報を伝える事が出来るのは、電気信号系の言語ではなくホルモン系のイメージなのです。 障害児の眠っている間脳を目覚めさせるのは、母親の愛情であり、イメージなのです。イメージは同調原理で伝わり、母親との一体感が大切なのです。 生涯を持っている子供にマイナスの思いを持つのをやめ、その子の間脳の働き、イメージの力の働きを信じ、イメージと五分間暗示法を使えば、急速に子供を良くすることが出来ます。 次のお便りを読んでください。(1歳5ヶ月の脳に障害を持つお子様について) ------3月28日に小児科の神経の先生に診療して頂いた時には、知能は1歳1ヶ月程度ということでした。それが1ヶ月後の4月28日には、脳外科の先生の診療ですが、「標準はある」と言って頂きました。 1ヶ月でここまでいってくれるとは思いもよらず、家族皆で喜びました。またCTスキャンでも半年前とは見違えるほど脳が出来ていたのです。 病院の先生の話では、運動も心配ないということでした。手当をして三ヶ月、目に見えて変わってくれましたこと、先生のご指導のおかげだと感謝しております。有難うございます。------- まるで意識が働いているとは思えない脳性マヒのお子様が、賢く育っている姿をイメージして手を当て続けて下さった所、表情が、そして言葉が出だして急速に取り戻したというケースもあります。 まとめ 間脳に情報を入れれば、全ての病気は治癒します。 間脳を目覚めさせるのは、母親の愛情であり、イメージなのです。 手当のやり方 子供が寝入ったら、子供の右側に座り、まず手が熱くなるように36回きつくこすり合わせ、手のひらが熱くなるのを感じたら、両手を少し離したり、近づけたりしてジンジンするのを感じて下さい。 (始めの内はすぐには感じないかもしれませんが、そのままの手でやって下さってよろしいです) それから右手を子供の額の上に3~4センチ離して当て、 「この子が明るく、やさしく、素直な子供に育ちますように」あるいは 「神経質でなくおおらかに育ちますように」 「人に優しく、人に気持ちよく物を貸してあげられますように」 「内弁慶でなく、誰とでもどんどん喋れますように」 などと念じ、子供がすでにその通りに育っている姿を心からイメージし、そのように育ってくれたことを先取りして、 「有難うございます。子供が明るく自身のある子に育ちました」というように感謝してください。本当に感謝の気持ちでこの手当てをやって下さいますと、子供が急速に変わってくれます。 女性に朗報♪唱えるだけで老化を防止して若さを保てる奇跡のマントラ☆秘伝能望をご紹介♪ムー大陸の英知♪ からの引用ですが・・・♬「能望」の実践とは・・・・。 「のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」 と、唱えることです。 たった一行のサンスクリット語を唱えるだけですが、宇宙の扉を開く呪文のような効果があるのです。 この言葉を唱えることにより、意識がプラスに変化して、氣のエネルギーが高まり、若返りを促す脳内ホルモンや、万病の元になる活性酸素を撃退するホルモンや一酸化窒素の発生など、すごいことが起きてしまうのです。 今までのメルマガでの多くの体験談などからも、納得されると思います。 アカシック・レコードは、この中の、アキャシャからきています。 虚空菩薩像は(アカシャガルバ)ですから、インドの古典哲学も仏教も、ムー大陸の高度な文明と関連しているように思われます。 般若心経の内容も、素粒子や波動の原理のことを説明している内容ですから、高度な文明との関連が伺えます。 「能望」の実践を経験すれば、するほど、現代の科学では考えられない程の、奇跡が起きております。 再度、アカシック・レコードの語源は、この虚空蔵菩薩の名前から来ています。 虚空蔵菩薩は、サンスクリット語で「アーカーシャガルバ」と呼ばれています。 アーカーシャは「虚空」という意味です。 空海は、その虚空の空間に入ると「五大に響きあり、十界に言語を具す」(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意している。) と、言っておりますが、「虚空蔵」のアーカーシャの中には、無限の叡智と、その叡智から導かれる無尽蔵の富が蔵していることを示唆しています。 虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オンアリキャ マリ ボリ ソワカ」の意味を推測してみます。 ・ノウボウ アキャシャ の意味は「虚空蔵菩薩に帰依します」 ・ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリの意味には、虚空蔵菩薩の功徳からも、「無限の叡智と無尽蔵の富」の意味が含まれているように思います。 ・ソワカは、成就する、達成する、という意味になります。 ですから、「虚空蔵菩薩=アカシック・レコードに帰依してつながれば、無限の叡智と無尽蔵の富が得られるので、心から祈念します。」 と、このような意味になると思います。 つまり、「能望」の実践で・・・・ 宇宙の中心=虚空蔵=『命の源流』=無限のパワーと、呼ばれている自分の心の奥底の阿頼耶識や涅槃寂静の領域に至り、無限の叡智と無尽蔵の富が得られるのです。 空海が実践した求聞持聡明法というのは、この真言を100日かけ100万回唱えるというもので、これを完遂した者は 「あらゆるものを記憶」できる無限の叡智が授かるとも言われております。 無限の叡智が授かれば、必然的に、無尽蔵の富がやってくるのです。 空海は、虚空蔵菩薩に帰依して、虚空蔵菩薩=大日如来=宇宙=無限のパワーとの一体化を切に願い、ひたすら委ねて、全身全霊で虚空蔵菩薩に溶け込み一体化したのです。 潜在意識を浄化して自分を殺し、命がけで徹底した意識の深まりを追求した実践が、百万遍という回数になっているのです。 古代サンスクリット語は、この虚空蔵=アカシック・レコードにアクセスすることができる唯一の言語だったという説もありますので、 冒頭は「南無」を使わすずに、古代のサンスクリット語の「南牟」(ノウボウ)を使っていたものと思います。 空海は、1000年に一人の天才となり、様々な奇跡の業績を残しているのは、衆知の事実です。 そして、この真言は、ムー大陸からきたという説があります。 ムー大陸の人々は、何万年もの試行錯誤と彼らの叡智の積み重ねで、 「のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」 という音の組み合わせを、声に出して唱えれば、宇宙の虚空の響きに共鳴し、 虚空の蔵(アカシック・レコード)にアクセスできて、虚空蔵から、無尽蔵の智慧と富を引き寄せられるということを発見したのです。 インドでは、虚空蔵のことを「ブラフマン」と言い、智慧の女神、富の女神がいるとも言われております。 「虚空蔵」に「アカシック・レコード」に「意識のテータベース」、アインシュタインの「統一場」、ディビット・ボームの「内臓秩序」、そして、仏教の「涅槃寂静」これらは、同じ概念になります。 これらは、量子力学的な概念がなければ、生まれない言葉です。 「虚空蔵」のアカシャに働きかける、ミクロの素粒子のレベル から極大のレベルまで、森羅万象の無数の組み合わせから、 宇宙の扉=心の扉を開く・・・・。 「のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」 という言葉=キーワードを選び出したのですから、計り知れない叡智です。 空海の「三教指帰(さんきょうしいき)」に、この真言を百万編、誦すれば大変な暗記力を得られるとあり、虚空蔵求聞持法の説明にも、智慧や暗記力ばかりか、あらゆる財宝を得られる功徳、大願成就の功徳があるとされています。 日蓮も12歳の時に「日本第一の智者となさしめ給へ!」と、21日間の願掛けをされて、求聞持法を実践され、虚空蔵菩薩様から宝珠を頂かれた!という伝説があります。 昔の名立たる高僧は、偉大なる空海の業績を熟知していたので、この求聞持法の実践をされて頭脳を開花されたものと思われます。 この手法は、真言宗の長い歴史の中で、門外不出の秘伝中の秘伝であり、様々な縛りや制約を設けて、一般の人には取り組めないようにしてきました。 1000年の封印が解けて、現代の私達が知ることになったことも奇跡の様なもので、私は、「10代生まれ変わっても能望には巡り会うことができないほどの奇跡です」と言ってきました。 また、ムー大陸の人々は、この言葉を唱えることにより、松果体が振動して、脳内ホルモンが分泌し、この実践に伴い、勢いよく鼻から息を吸えば、体内で一酸化窒素が効率良く生産される!ことも、高度なコンピユーターか何かで、分析して、これらの言葉を抽出していたのです。 これは、現代の最先端の科学でも不可能なことです。 各種の脳内ホルモンは、特に奇跡のホルモンであるメラトニンは強力に活性酸素を撃退し、老化を防止して、いつまでも若さを維持できるのです。 一酸化窒素も、万病から身を守り、血管や臓器の機能を高め、副作用もなく、何よりも効果的に働いてくれるのです。 その他にも、血液の中を最上のホルモンが巡り、全身の細胞に行き渡り細胞間の好ましいコミュ二ケーションが盛んになるのです。 さらに、氣のエネルギーが全身に巡り、生命力が向上し、心身ともに良くなり、毎日、病気の心配をすることもなく、元気で明るく過ごすことができるのです。 私の知識では、ムーの人々よりも、1000年も遅れているので、 この程度の分析しかできないのですが、科学が進歩すれば、まだまだ、とんでもない奇跡の働きや効果がいくつも明らかになると思います。 〇能望の実践の効果を上げてみます。 ・従来の呼吸法が完璧にできる ・高次元のエネルギーの交換 ・チャクラへのエネルギー補給 ・各臓器の免疫機能の強化 ・右脳の活性化 ・脳波はアルファ支配になり、さらに深いシーター支配にもなる ・脳内ホルモン、β-エンドロフィン等の放出 ・潜在意識の浄化 ・波動を高め運気を上げる ・遺伝子レベルからエネルギーのパワーアップ ・意識レベルの向上 ・アカシック・レコードへのアクセス ざっと上げただけでも、10以上の効果があるのです。ですから、多くの皆さんが考えられない奇跡を起こし、幸運を引き寄せているのです。 本格的な能力開発を探している人はたくさんいます。 この情報はその様な人にとっては、ものすごく貴重な情報だと思います。 一人でも多くの人に、この情報を教えることが、皆さんの最大の与える事になります。 莫大な時間と費用をかけた人にとっては、千金の値になる情報ですから、与えてください。感謝のエネルギーが高まるのです。 また、この能望(虚空蔵求聞持法)は、ムー大陸より継承されたもので、ムー大陸の崩壊時に能望を唱えて意識レベルを高めた人達が奇跡的に生き残り、宮古島や沖縄に流れ着きました。 能望がムー大陸からきている!という判定は、エハン・デラヴィ氏にもキネシオロジーテストで、確認してもらいましたので、確かだと思います。 |
- No
- 92
- Date
- 2018.01.12 Fri
与え頂いた環境に感謝で神秘力が開花♪無我の境地は神の使徒♪常に他を生かす愛の思い♪高橋信次師♪長尾弘先生♪
長尾弘先生のtwitter と 愚か者の独り言 -講演集1-
偉大なるヒーラー☆長尾弘先生について
高橋信次師のお弟子さんで、長尾弘先生という方がいらっしゃいます。高橋信次師のお弟子さんの中では、園頭広周師と双璧をなす偉大なる覚醒をされた偉大なるヒーラーの方で御座います。
長尾弘先生は、自分の身を呈して、命を燃え尽くすぐらいの気迫でヒーラーとしてご活躍なされた方で、まさに高橋信次師と同様に命を神様にお捧げした、大変崇高で高貴な精神をお持ちの覚者級の聖人の方だと感じました♪
病状が回復する奇跡神秘話エピソード話が盛りだくさんあって、この手のお話が大好きな私にとっては、読み応え満点で面白かったです。又幾つかご紹介させて頂く所存でございます。おっ楽しみに~

v(o´∀`o)v━♪


v(o´∀`o)v━♪

自然が見せてくれた実相
与え頂いた環境に感謝で神秘力が開花
以前の私は、ご多分に漏れず、皆様と同じように、他力の信仰を求めていました。ところが、信仰の話を聞かせてもらったり、本を読ませて貰ったりすると、間違っている、正しくないとすぐに分かるものですから、
こんなものは駄目だということで、あらゆる宗教を探し求め、どの組織にも入ることはなかったのです。
ある時S教の修行が素晴らしいと聞いて、電話帳で探すと、岸和田にあったので、電話をして「入会はようしませんけど、修行だけさせてもらえますか」と頼むと、どうぞという事だったので、朝6時から行われている業に何ヶ月か通いました。
そんな或る朝、いつも通っている国道のポプラ並木が光っています。後光がさして、その国道が何とも言えず美しく、とてもこの世のものとは思えないほどで、普段見慣れている道が大層綺麗に見えたのです。何と不思議な感じがするものだなあと思っていました。
心が本当に静まり返った時は、万世万物が、覆われたものを取り外して、実相を現してくれるのですね。心が調和された時には、本当のものが見えてくるのです。普段気づかなかった美しいものが見えてくるのです。
さらに与えて頂いた環境に感謝することによって、自然の声を聞くことが出来るようになります或る時は地球の回る音を聞く事も出来ます。眼に見えない世界の方々との対話も出来ます。これは誰にでも可能な事です。
”八正道” について
お釈迦様は正しく見なさいとおっしゃいます。
人間が幸せになる方法の一つとして、まず物事を
「正しく見なさい」「正しく思いなさい」
「正しく語りなさい」「正しく仕事をしなさい」
「正しく生きなさい」「正しく道に精進しなさい」
「正しく念じなさい」「正しく定(じょう)に入りなさい」
この8つの正しい生き方を説かれました。「八正道」ですね。
これを日々の生活に生かせたら、私達は幸せになれるのです。
●正しく見る
正しくとはどういうことか、中々分かりません。自分を中心としてものを見ると、自己保護と、自我自欲の色眼鏡に振り回されますから、常に相手の立場に立って、自分中心の見方をしないこと、これが正しい見方です。
●正しく思う
常に他を生かす愛の思い、これこそ正しい思い方です。
●正しく語る
相手を思いやり、相手にやすらぎと喜びを与える言葉や、その方が幸せになるよう、生きる勇気を与える言葉を語ることです。
●正しく仕事する
私達は一人では生きられません。この社会の数え切れない多くの人々の恩恵を受けて、生きさせてもらっています。この頂いた恩恵のご恩返しの行為こそ正しい仕事で、金儲けが正しい仕事とは違うのです。
●正しく生きる
常に自分を厳しく見つめて生きていくことです。
●正しく道に精進する
これはまず家庭の調和を気づかなくてはいけません。両親から頂いた無条件の愛に対して感謝し、ご恩返しを行うことです。
これを忘れては、幸せになれません。夫婦が喧嘩ばかりして、神様に夫婦仲良くさせて下さいといくら拝んでも駄目です。家庭の調和のためには、子供に偏った愛情を持ってはいけません。
子は我が物ではなく、神様から預からせて頂いたものです。肉体を分け与えたと思ったら間違いです。魂は皆独立した立派な人格者ですから、神様から預かった子と思って豊かな愛情をもって育ててほしいですね。
そして自分が幸せになったら又他の人にもその幸せを分け与えていく、これが正しく道に精進するということです。
●正しく念じる
常にしっかりした目的を持って、そこに心を向けることが正しく念ずる事です。
●正しく定に入る
「定に入る」とは死ぬことではなくて、常に反省して安らぎと感謝のひとときを持たせてもらうことです。
今日一日を反省し、間違ったことがあったら悔い改めて二度と再び繰り返さないことを誓って、その後で感謝と安らぎの一時(ひととき)をもたせてもらうことです。このようにすれば必ず幸せが来ます。
無我の境地 神の使徒
このようにお話させて頂いて、あちこちによらせて頂くのですが、もう一睡もせず走り回っている時があります。それでも何ら疲れないですね。
普通の常識で考えましたら、とてもたまらないだろうなと思われるでしょうが、しかし疲れも知らないこのエネルギーは自分が自らを、自分の思いを
全て捨てて、待って頂いている方に、たとえ一人でも二人でも安らいで頂けたら、喜んで頂けたらというその思いが、私のエネルギーになります。
「しんどいなあ」とか「もうあかん」という状態になることはありません。
仏教でよく「無我の境地」と言います。お坊さんが座禅をされて無我の境地に到達されたとか、私は悟ったとか言います。
それも一つの無我ですけど、「自らの自我をなくした日々の生活」これが無我で、私には私の自我は何もありません。
他の方から私の自我について質問を受けた時、私は次のように答えます。
「私の全ては神のもの、私の全ては人々のもの、私の時間は神のもの、そして私の時間は人々のもの、このように祈らせてもらい、このように実践させてもらっています」と。
自分という我を無くしてしまったら、その生活の実践は神の御心(みこころ)のままに為したことです。
与えるが故に与えられる法則
出せば入る法則というのがあり、この法則に従って「私は与えるが故に与えられる」と言う言葉がありますね。愛するから愛されるのです。
自分が愛さないのに一体誰が愛してくれますか。自分が与えないのに誰が与えてくれますか。もし不幸になりたかったら、人を不幸にしてやったらいいのです。すると必ず不幸にしてくれます。
相手から憎んでほしかったら相手を憎んだらいいのですね。必ず憎んでくれます。これは法則です。しかも避けることはできません。自分が幸せになりたかったら、まず身の回りの人を幸せにすることです。
都合が良いとは誠心誠意尽くすこと
では、都合の良い自分とはどういうことかと言いますと、私達は自分の為に良くしてもらったら都合が良いのですから、相手の為によく尽くすこと、尽くさせてもらうことです。
相手にどう思われようと、どうされようと、とにかく精一杯心から尽くすこと、その時相手の為には都合が良いから、必ず相手は「この人は必要な人だ、大事な人だ」と思うようになっていきます。
イエスはこのことを「汝の隣人を愛せよ」とおっしゃいました。
隣人と隣家とは意味が違います。隣人とは自分の最も近くの隣にいてくれる人、つまり夫婦であり、親子であり、或いは兄弟、これこそ最も近くの隣人であり、この隣人の為に尽くしなさいと言っているのです。
職場にあっては職場の同僚の方、上司または部下の方、商売をされる方は売って下さる方、買って下さる方にとって、都合の良い自分になることです。誠心誠意尽くすことです。その時必ず自分が尽くされます。
心の曇りと何か
幸せになれないのは心の曇りによるのです。私たちが知らず知らずに出している心の曇りによって、幸せの光を自ら遮断していたのですね。その曇りとは何か。これはいつも何回も申し上げています。
〔怒り、妬み、憎しみ、謗り、人さまの悪口、愚痴、恨み、憎しみ、取越苦労、不安、恐怖、己を守る為の嘘、盗み、貪欲〕
このようなものが、本来は神と変わらぬ、神の分け御霊を頂いている私たちの表面を包み、神様と私たちとを遠く離していたのです。
人間はどうしても自分本位になっていき、その時、人に尽くすことを忘れます。そして「何でもあって当たり前」と思う心から、感謝を忘れ、幸せを失っていたのです。
自分に都合良い人は好き
では、好きになるにはどうしたらいいかと言いますと、これは簡単な理論で割り切れるのです。人間の心というのは、地球上の全人類が共通して持っている思いがあるのです。それは「自分にとって都合の良い方は全部好きで、自分にとって都合の悪い方は皆嫌い」という思いです。
これはもう地球人類すべて、世界の国々の人種に関係なく共通した思いです。皆さんの中で自分にとって都合の悪い人が好きだという方がありますか。そんな人はありませんね。
都合の悪い人は嫌いという自分の心の行動からしていけば、自分が相手にとって都合の良い人間になればいいのです。出会う人すべてにとって都合の良い自分になっていくのです。
その時必ず、相手の方から好きになってもらえます。これはまず自分から先にせねばなりません。夫婦の間で、親子の仲で、兄弟の仲で、都合の良い自分になることです。
「死のとき」
生命力の強い時は死の世界から遠く離れています。これが生と死の境とします。こちらからは向こうはあの世の世界、こちらは私達の生きている世界とします。
健康に生きている時は、死の世界からずっと遠いのです。
ものすごい病気をしたり、あるいはだんだん年を取って肉体的に衰えてきましたら、だんだん死の世界に近づいていくのですね。
ものすごい病気をしたり、あるいはだんだん年を取って肉体的に衰えてきましたら、だんだん死の世界に近づいていくのですね。
生と死の境界線に近づいていきます。
で、心悟った方はここからさっと遠い方へ遠い方へ離れて行かれます。
極楽の世界に離れて行かれるのですね。
極楽の世界に離れて行かれるのですね。
そして、「ああ、死にとうない、わしゃ、まだ後、心残りいっぱいあるし、死にとうないんや」と、生への執着、あるいは物とか、財産とか、名誉とか、そんなものに思いを強くもっていましたら、肉体は死んで無いのですけれど、その心は生と死の境をさまよっているのです。
だんだん境に近づいてきましたら、ここをウロウロしている人が、この人と近いものですから寄って来るのです。
だから、死ぬ前になると、心のきれいな方は、「ああ、きれいな人が迎えに来てくれはる」と言って、
心の汚い人は「ああ、怖い奴じゃあ。もう来なー(来るな)、もう来なー」と言いながら虚空を掻きむしって、死ぬ人があります。
あれはその人の心に応じたものが迎えに来るのです。「おとろしよー。怖い奴が来たー。怖い奴が来たー」と、掻きむしって死ぬとよく言うでしょう。あれは皆、その人の心に応じた人が、迎えに近寄って来ているのですね。だから、怖い。
心の綺麗な方の中には、ここから離れた世界から紫の雲に乗って迎えに来て下さったと言って、亡くなる方もあります。
こういう方はだんだん死の世界に近づいてポッといきましたら、これはもうあちらの世界にサッと行かれるのですね。
言葉について
言葉は他とのコミュニケーションの道具の一つでありますが、別名「両刃の剣」とも言われています。
同じ口から出る言葉であっても他を「無上の喜び」にさせる事も可能であり、また、その逆に同じ口から出る言葉で「死よりも辛い」想いを与える事も可能だからです。
私達は毎日この言葉を簡単に使っていますが常に相手の気持ちを思いやり、出来るだけ相手の心に傷を付けない様に配慮して使うべきであると私は思います。
語る際は常に聞き手に希望や安らぎを与え喜びに導く言葉以外は出来れば使わない様にするほうが自分にとっても無難であると思います。
何故なら「売り言葉に買い言葉」なる諺もあり、まかり間違えば喧嘩にエスカレートして殺人にまで発展しないとも限らないからです。
「口は災いのもと」と言う古い諺がありますが正にその通りであると思います。特に御自身の子供達に対しては愛情溢れる言葉で語ってやって頂きたいと思います。
時々我が子は自分の所有物の一つであるかの様に思われている親御さんもおられますが、子供は子供としての「人格」もあり「魂」も持っておられるのですから・・
確かに御両親の御縁により子供を授かるのは間違いない事実ですが御両親は子供に肉体は与えても「魂」までも与えていないと私は思っています。
もっと言えば肉体にしても母体に10月10日存在する時に神の御手によって人間として形造られる事を私たちは知るべきであると思います。
もし「魂」も両親が与えたのであれば何故両親と意思疎通が出来ないお子さんが出来たり、両親の希望した様に御自分のお子さんが育たないのでしょうか?
肉体のDNA鑑定は出来ても魂のDNA鑑定は特殊相対性理論を提唱したアインシュタインの様な優秀な方が何人も集まり、現在の科学、物理、医学の粋をもって鑑定しても不可能な事だと思います。
何故なら魂を肉眼で見たり肉の手で触われないのですから。社会生活の中では誰ともコミュニケーションをとらずに生活していくことは不可能ですか
ら、「人として語るべき事は語り、語ってならない事は語ってはならない」
これは理の当然であり、言うまでもない事でしょう。
言葉使いにおいて誰かから何かを依頼された際、二通りの答え方があると思います。
一つは何々「して上げる」、何々「してやる」・・・と言う答え方と、
今一つは何々「させて頂きます」、何々「させて下さい」・・・の二通りの答え方です。
先の答え方は「上げる」、「やる」・・と言っている訳ですから折角の「行為の功徳」を相手の方に上げてしまうことになり、損得の見地からすれば「損」な言い方であると思います。
後の答え方は「させて頂きます」、「させて下さい」と言っているのですからその「行為の功徳」を戴いている訳ですから損得の見地からすれば「得」な言い方だと思います。
言うまでもなく損をするより得をした方が利口ですから、誰かから何かを頼まれた際は、「させて頂きます」、「させて下さい」といった方が何か儲けた様な感じになりますし、双方にとって心地よい言葉の余韻を残し、清々しい気分になるのではないでしょうか。
素直に告白させて頂きますが上述した内容はこの歳まで生きさせて頂いて実際に体験させて頂いた私の反省自戒の辞です。
苦しみを喜びとして受け取る
では、この苦しみの海の中で、人が幸せに生きていくには、どうしたらいいのか、簡単に言いますと「囚われ」を捨てていけば一番良いのです。しかし、これはなかなか難しくてできません。
そこで、苦しみはあって当然ですから、その苦しみを苦しみとして受け取るか、これを喜び・感謝として受け取るか、その受け取り方にかかってきます。
神の御心に合った生き方とは
自分が日々の生活で、どれだけ神を体験するか、慈悲と愛を他に与え、自分を犠牲にしてでも他を生かす生活をしているか、またすべての方を差別せず、求める心を持たない生活をしているかです。求める心は神の御心に背きます。
心行
心行は 宇宙の神理 人間の心を言霊によって表現したものである
それゆえ心行は拝むものでも暗記するものでもなくこれを理解し
行うものである正法は実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ
われいま見聞し 正法に帰依することを得たり
広大なる宇宙体は 万生万物の根元にして
万生万物相互の作用により 転生輪廻の法に従う
大宇宙大自然界に意識あり 意識は大宇宙体を支配し
万生万物をして調和の姿を示さん
万生万物は広大無辺な大慈悲なり 大宇宙体は意識の当体にして
意識の中心は心なり
心は慈悲と愛の塊にして 当体・意識は不二なることを悟るべし
この大意識こそ 大宇宙大神霊・仏なるべし
神仏なるがゆえに 当体は大神体なり
この現象界における太陽系は
大宇宙体の 小さな諸器官のひとつにすぎず
地球は 小さな細胞体なることを知るべし
当体の細胞なるがゆえに 細胞に意識あり
かくのごとく 万物すべて生命にしてエネルギーの塊りなることを悟るべし
大宇宙体は大神体なるがゆえにこの現象界の地球も神体なり
神体なるがゆえに 大神殿なるべし 大神殿は 万生 魂の修行所なり
諸々の諸霊 みなここに集まれり 諸霊の輪廻は三世の流転
この現象界で己の魂を磨き 神意に添った仏国土・ユートピアを
建設せんがためなり
さらに 宇宙体万生が 神意にかなう 調和のとれた世界を建設せんがため
己の魂を修行せることを悟るべし 過去世 現世 来世の三世は
生命流転の過程にして 永久に不変なることを知るべし
過去世は 己が修行せし前世 すなわち 過ぎ去りし実在界と現象界の世界なり 現世は生命・物質不二の現象界 この世界のことなり
熱 光 環境 いっさいを含めて エネルギーの塊にして われら生命意識の修行所なり 神仏より与えられし 慈悲と愛の環境なることを感謝すべし
来世は次元の異なる世界にして 現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり
意識の調和度により 段階あり
この段階は 神仏の心と己の心の調和度による 光の量の区域なり
神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち 実在の世界にあって
諸々の諸霊を善導する光の天使なり
光の天使 すなわち 諸如来 諸菩薩のことなり
この現象界は 神仏よりいっさいの権限を 光の天使に委ねしところなり
光の天使は慈悲と愛の塊りにして あの世 この世の諸霊を導かん
さらに 諸天善神あり 諸々の諸霊を
いっさいの魔より守り 正しき衆生を擁護せん
肉体を有する現世の天使は 諸々の衆生に正法神理を説き 調和の光明へ導かん この現象界におけるわれらは 過去世において 己が望み 両親より与えられし 肉体という舟に乗り 人生航路の海原へ 己の意識・魂を磨き
神意の仏国土を造らんがため 生まれ出でたることを悟るべし
肉体の支配者は 己の意識なり 己の意識の中心は心なり 心は実在の世界に通じ 己の守護・指導霊が 常に善導せることを忘れるべからず
善導せるがために 己の心は 己自身に忠実なることを知るべし
しかるに 諸々の衆生は 己の肉体に 意識・心が支配され 己が前世の約束を忘れ 自己保存 自我我欲に明け暮れて 己の心の魔に支配され 神意に反し この現象界を過ぎ行かん
また 生老病死の苦しみを受け 己の本性も忘れ去るものなり
その原因は煩悩なり
煩悩は 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり
六根の調和は 常に中道を根本として 己の正しい心に問うことなり
己の正しい心に問うことは反省にして 反省の心は 己の魂が浄化されることを悟るべし 己自身は孤独に非ず
意識のなかに己に関連せし 守護・指導霊の存在を知るべし
守護・指導霊に感謝し さらに反省は 己の守護・指導霊の 導きを受けることを知るべし 六根あるがゆえに 己が悟れば 菩提と化すことを悟るべし
神仏の大慈悲に感謝し 万生相互の調和の心が神意なることを悟るべし
肉体先祖に報恩供養の心を忘れず 両親に対しては 孝養を尽くすべし
心身を調和し 常に健全な生活をし 平和な環境を造るべし 肉体保存のエネルギー源は 万生を含め 動物・植物・鉱物なり このエネルギー源に感謝の心を忘れず 日々の生活のなかにおいて 己の魂を修行すべし
己の心・意識のエネルギー源は 調和のとれた日々の生活のなかに 神仏より与えられることを悟るべし 己の肉体が苦しめば 心悩乱し わが身楽なれば情欲に愛着す 苦楽はともに正道成就の根本に非ず
苦楽の両極を捨て 中道に入り 自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし
いっさいの諸現象に対し 正しく見 正しく思い 正しく語り 正しく仕事をなし 正しく生き 正しく道に精進し 正しく念じ 正しく定に入るべし
かくのごとき正法の生活のなかにこそ 神仏の光明を得
迷いの岸より 悟りの彼岸に到達するものなり
このときに 神仏の心と己の心が調和され 心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入り 三昧の境涯に到達せん
(この諸説は 末法万年の神理なることを悟り日々の生活の師とすべし)
長尾弘先生・第168回浄心庵講演会 ⇐はこちら♪

8:01長尾弘先生 神霊治療(仕事)の報酬について
4:04長尾弘先生 地底王国について(現実と正しい行い)
長尾弘先生 で検索♪⇐広告がなく見やすい動画です♬
- No
- 93
- Date
- 2018.01.08 Mon
感謝は謙虚な心を創り愛の心をも育成♪愛の原点・父母への反省と感謝♪常に全てに感謝は悟り♪高橋信次師♪五井先生
年が進むにしたがって、ものに感謝する心が失われてきます。すべてが当たり前に動いており、感謝や、感動の心は湧いてこなくなります。
しかし、ものに感謝できない心は、もともと、どの辺りから生じてきたのでしょう。誰しも子供の時代がありました。
子供のときは両親から可愛がられます。両親は子供のいうことなら大抵のことは聴いてくれます。近頃は過保護となり、親は子供のこととなると夢中になってしまうようです。
両親は大抵のことはいうことをきいてくれる。わがままを通してくれる。
ということから、子供の心は生長するにしたがい、次第に、ものに感謝する心を失ってゆきます。
学業を終え、社会に出ても、仕事をするから給料をもらうのは当然だ、課長は係長より余計に給料を取っているから、それだけ働くのは当然だ、ということになってゆきます。
こうして感謝の心は一向に芽生えてこないわけですが、そのもとをたどると、子供の頃のわがままが、大人になってもつづいているからです。これでは感謝の心がよみがえってきません。
この地球上は、お互いに、助けたり、補い合うことによって成り立っているのですから、感謝の心というものは、人間にとって非常に大事なものになるのです。感謝は謙虚な心をつくり、やがて、愛の心をも育てるものです。
正法の出発、そして終点は、ものに感謝することにあります。すべてが当たり前で、当然、という見方をしていては、「正しくものを見る」ことにはなりません。
大事なことは感謝です。感謝が基礎にないと、ものの見方は偏見を伴ってくるでしょう。
このほか、親子の問題、夫婦の問題、社会生活の問題、いろいろその例題は尽きませんが、正しい見方というものは、具体的には現れているさまざまな事柄を深く掘り下げ、物事を正しく認識することから生まれてきます。
公平な見方は、そうした認識から生まれ、正しい見解に至るわけです。
この地上界に事象(現れているさまざまなできごと)は、すべて、人の想念、心の動きから生じており、現れの姿はそれの結果なのです。
ですから、ものごとの原因は、人の心にあるのであって、現れているさまざまな現象は、原因ではなく結果なのです。したがって、結果だけをとらえ、あれこれ判断すると、間違いのもととなります。
まず、現れている結果を見たならば、その原因について、掘り下げてゆくことが「正見」のポイントです。
正見の目的は、物事の正確な判断であり、そうして、それにもとずく正しい見解を持つことです。
以上を要約すると、
一、まず感謝の心を持つこと。
一、事象の一切の原因は人の想念、心にあって、現れの世界は結果である。
一、既成観念を白紙にもどし、物事の真実を知るようにする。
一、正見の反対は邪見になります。常に第三者の立場に立って、自我の思いを捨て、正しく見る努力をするということになります。
愛の原点 父母への反省と感謝
それでは皆さん、静かに呼吸を整えてください。
今から、私たちをこの世に送り出してくださった両親の事を静かに考えてみたいと思います。
あなた方は今、生きています。肉体があります。呼吸しています。
今、ここに自分というものがあることを誰も否定できません。なぜあなた方が今、ここにあるのでしょうか。
ご承知のように物事には、すべて原因と結果があります。
私たちの魂もこれから外れることが出来ないから、今ここにある訳です。
人間には転生輪廻があります。
何十回・何百回生まれ変わったか知れません。その繰り返しを重ねて、今ここにあなた方があります。それは丁度、数限りなく繰り返した輪廻という法の中にあります。
その法の端にいる今のあなたをこの世に送り出して下さったのは、他ならぬご両親です。ご両親を縁として、今のあなたがあります。
お父さんがいなければ、あなたは今ここに居ることはありませんでした。お母さんが居なければ、あなたは生まれることはありませんでした。
あなたの肉体は、ご両親によって与えられました。しかもビタ一文払うことなしに、この肉体を頂きました。ただで頂いたばかりでなく、ただで育てて頂きました。
全てが与えられたものばかりでした。よぅく考えてみて下さい。あなたはただで肉体を与えられ、ただで育てて頂いたのです。
今、もし仮に、あなたのご両親がその肉体を返して欲しいと言われたら、あなたはどうするでしょう。……… あなたは拒むことは出来ないはずです。
そうではありませんか。あなたの体は、すべてご両親から与えられたものだからです。自分のものは、何一つありはしないのです。
皆さんの中には様々な事情があって、ご両親に対して良からぬ想い出や感情を、お持ちの方がいらっしゃるかもしれません。しかし、それは狭い心に基づいた偏見だと申し上げましょう。
今ここにあなたがいる。そのために、両親がどれほど心を砕き、身を挺し、その結果としてあなた方が存在しているかを振り返って頂きたいと思うのです。
遠く昔に遡って見ましょう。………
今、あなたがお母さんのお腹の胎内(なか)にいる自分を想像してみてください。お母さんのお腹の胎内(なか)は暖かです。
ゆったりしています。何の不安もありません。
そのようにして十月十日(とつきとおか)の間、あなたはお母さんの体に守られて、ゆっくり育っていきました。
お母さんは大変でした。ある時はつわりで吐きそうになり、何日も苦しみました。体は重くなり、動くのさえ大儀になってきました。トイレに行くのも苦しいほどです。
肩で息をしました。でもその体でおむつを縫ったものです。夏の暑い日には、かんかん照りの日差しの中を、お腹を突き出してあえぎながら、毎日市場へ買い物にいったものです。お母さんも、たまには映画を見たいと思ったこともあったでしょう。
けれども人ごみの中へ出かけては、お腹の子に悪いと控えたのでした。胎教に悪いからと読みたい本を控えたこともありました。
いつも考えるのは、お腹の子のことばかりでした。丈夫な子が生まれるように、そればかり念じておりました。時には赤ん坊は、お腹の中で手足を動かしあばれました。「ああ、丈夫に育っている」とそれが何よりの喜びでした。
みなさん、よぉく考えてください。お腹の胎内(なか)にいた、僅か十月十日(とつきとおか)の間でさえお母さんは、これだけの犠牲をあなたに注がれたのです。
やがて出産の時が来ました。お母さんの陣痛は大変なものでした。骨の節々まで痛み、身体中から脂汗を流しながら痛みに耐えたのでした。
この子が無事に生まれてさえくれればそれでいい。ただ、それでいいと、必死になって陣痛と戦ったのです。
命をかけてあなたをこの世に送り出そうとされたのです。
お父さんもそうでした。出産が近づくともう欲は言わない、ただ赤ん坊の手足の指が五本づつ揃っていれば、母と子が無事であれば、もうそれ以上何もいりませんと、ひたすら祈り続けました。
ひたすら祈りながら産室の前を歩き回ったものでした。それがあなたのお父さんの姿でした。あなたがこの世に生を受けるまでに、すでにご両親はこれだけの愛と犠牲を払われているのです。
思い出してください。こうしてあなたはこの世に生まれました。「おぎゃー」と呱々の声を上げた時も、両親の喜びはどんなに大きかったか。
その声を聞いて母親は自分までが、初めてこの世に生まれたように喜びました。お父さんもまた、安堵の胸を撫で下ろし、涙さえ浮かべたのでした。
そして手を取り合って二人で喜び合ったものでした。それからは一切がお母さんの手によって育ちました。
母の懐を寝床として、母のひざを遊び場として、母のお乳が唯一の食べ物として育ててくれました。母の手でなければ夜も昼も明け暮れません。
母の手がなければおむつはそのままです。夜中にむづかり、泣き出して母親を起こします。両親は昼間の疲れもいとわず、二人で飛び起きてあなたの世話をして下さいました。
あなたがヨチヨチ歩きを始めると、両親の気遣いは大変なものでした。
お母さんは台所で水仕事をしていても、あるいはちょっとした買い物に出かけていても、気がかりでならないのです。
泣き声が聞こえてくると、縁側からでも落ちたのではないかと息せき切って走ってかけつけました。それがたとえ、空泣きであっても急いで抱き上げておっぱいを含ませました。
痛いほど乳房を噛まれても、母は吾が子があどけなくおっぱいを吸い、にっこり笑う笑顔を見さえすれば、母親は一切の苦しみを忘れるのです。それがあなたのお母さんでした。
赤ん坊のあなたは何もわかりません。父親が注意していなければ、ストーブの火が身体を焼くことを知りません。母親がいなければ、刃物が指を切ることを知らないのです。
両親がいなければ、毒で命を落とすことも知らず、何でも飲み込んでしまうのです。どれほどの心づかいや、目配りが赤ん坊のあなたに必要だったか、あなたはお分かりでしょうか。
熱を出して、お医者さんを呼びに走ったこともあるはずでした。夜も寝ずに、心配で胸をいっぱいにして看病してくださったのはご両親です。
大病をした子供に私の命に代えてもこの子を救ってくださいと、お百度参りをしてくださったのは、あなたのお母さんでなくて誰だったのでしょう。
ご両親がいなければ、あなたは、今ここに居なかったはずです。
自分一人で育ってきたと当然のような顔を出来るはずはありません。
両親がよその家にお客に招かれておいしいご馳走がでたときに、ああこのお菓子の一つでもあなたに食べさせてあげたいなぁと思うので多少格好が悪くても、わざと食べ残したものを紙に包んで持って帰ったこともあり、あなたはそれを喜んで食べた。
ご両親は自分が食べなくても、子供が喜んで食べるその姿を見てひもじい思いは消し飛んでしまいます。戦争直後は、ひどい食糧難でした。
その時に、子供にだけはひもじい思いをさせたくないと、自分は食べずに、自分の分まであなたに食べさせて下さったのは、お母さんでした。
お母さんはお釜の底や、しゃもじに残った一粒一粒のお米を食べて、さも充分食べているような素振りをしていたのです。それ程の愛を注いで下さったのがお母さんの外に誰があるでしょう。
……… やがてあなたは成長しました。学校に行くようになりました。洋服を整え、学用品を買い、世間並みの恥ずかしくない用意を整えて下さったのは誰でしょうか。毎日、ハンカチからチリ紙まで気を配って下さったのは誰でしょうか。
「車に気をつけなさいよ」・「道草をくわないで」毎日そう言って送り出して下さるのは誰でしたか。お母さんの心は愛で一杯です。
たとえお金をもらっていても、これだけの愛の行為が、誰に出来るでしょうか。
あなたが成長するにつれ、しだいに大きな洋服がいります。靴がいります。あなたのお父さんが、汗水たらして働いて得た収入があってこそ、必要なものが整えられていったのです。俗に男が家を外に出れば、七人の敵が居ると言われます。
会社に勤めたり、また独力で商売を営み、それにはどれ程の汗と涙が流されているのでしょう。上役の厳しい命令にも耐え、辛いことも忍んで父親は家族のために収入を得てきました。本当に苦労の連続です。
あなたはその苦労を知りませんでした。欲しい物が買えるお金が家にあるのは当然のように思っていたのです。いやお金の事なんか、全然考えもしなかったでしょう。
しかし実際は、限られた収入の中からやりくり算段して母親は、子供たちに必要なものを買い与えていたのです。
自分は流行りの着物を着なくても、あるいは、化粧品は、百円の安いクリームで我慢して、あなたに恥ずかしくない服装を用意したのです。
……… 冬がやってくればあの子はセーターがいるだろう、この子は手袋がいるだろうと心をくだいて、あなたの事ばかり考え配慮して下さったのはお母さんです。
思い出してください。何年も前の古ぼけたオーバーのままで、町を歩いていたお母さんの後姿。その後姿にあなたへの一杯の優しい愛が、母の心が溢れていたことを、いま知ってください。
こうした多くの両親の犠牲と愛によって、あなたは、いま、ここにある訳ですが、それに気付いたことがあるでしょうか。
「正法(しょうほう)は愛に始まって、愛に終わるものです。」
愛の献身によって、人は生かされ生きています。
その愛は、両親の身を削るような犠牲の中に育み、今のあなたがあるのです。幼い時を反省し、父や母の愛の行為に感謝されたでしょうか。
たとえされたとしても、両親の愛の心に対して、両親の愛の大きさ広さに見合う心は、容易に得られない事を知る事でしょう。現にあなたは、ご両親の心を痛め、苦しめることを、何度繰り返した事でしょうか。………
食事がうまくないと言って箸を投げ出し、口も聞かなかったことがなかったでしょうか。苦しい家計のやりくりの中から作った食事に、このおかずは嫌い、このおつゆは辛い、そう言っていささかの感謝もなく、心を不満で一杯にした事もあったでしょう。
犬猫でさえ、文句を言わずに食べるのに。あなたは好き勝手なことを言いました。洋服の柄が気に入らないと言ってぶつぶつ文句を言った事もあります。
親の愛が満ち溢れているその洋服を怒って、身につけて泣きわめき、我を通そうとしたこともあったでしょう。お母さんが忘れたと言って怒鳴った事もあると思います。
忙しい上に心配事の多いお母さんが、一度か二度忘れた事を、罵り(ののしり)返す権利が、いったいあなたのどこにあったと言うのでしょうか。
怒鳴っているあなたは、鬼です。己の事しか心にないエゴイスト、それがあなたではないですか。
受験勉強でお腹が空いただろうと、
一緒に夜遅くまで起きていて夜食を作って下さったお母さん。………
「しっかりやっているか」とのぞきに来て肩を叩いてくれたお父さん。努力が実って入学試験に合格したとき、お赤飯を炊いて顔中を涙でくしゃくしゃにして、喜んでくださったお母さん。
あなたが社会に出た時もそうでした。入社試験に受かって、これで一人前になったと励まして下さったお父さん。お祝いの料理を作り、お酒を買ってきて前途を祝って下さったお母さん。
どれ程の大きな愛が、生まれてから現在までのあなたに、注がれ続けてきた事か。あなたは、その愛の重さを感じ取る事が出来ますか。
あなたの身体は、両親の、父と母の愛が、一つ一つ集まって出来ているのです。
あなたの身体は、単なる肉体ではない事を知ってください。
そうした大きな愛を受けながら一人前になってしまうと、両親をなおざりにしがちになるのが人間です。まして結婚しますと両親の事を忘れてしまい、自分の家庭だけが心の関心事になってしまうのです。
「去る者は、日々にうとし」もはや、あなたは自分の妻や子供達だけで自分の世界を作ってしまい、両親の事は遠くへ押しやってしまいます。
故郷を離れ都会に出てきてしまうと、その繋がりはいよいよ薄くなり、親の年が幾つであるのかも忘れてしまい………
ご両親の年が幾つかを、正確に覚えていらっしゃる方がこの中に何人いますか。… お父さんは還暦じゃないかな… 七十七のお祝いの年じゃないかな、といつも心掛けている方が何人いるでしょう。
両親と言うものは、歳を取り仕事が衰えてくると頼りにするのは子供だけです。ですから、電話を掛けたり手紙を出してあげれば、両親が喜ぶことは、あなたは百も承知のはずです。
それでいて、滅多に電話も掛けなければ、葉書一枚書くのもおっくうがって、一日延ばしにしてしまうのはどう言うことでしょう。
でも、ご両親は、あなたを恨みません。愚痴もこぼしません。それどころか、夫婦仲は上手く行っているだろうか。… 病気はしていないだろうか。…会社ではうまくやっているだろうか。… 孫達は風邪をひいていないだろうか。…
ご両親の愛の思いは尽きる事がありません。幾ら歳を取っても、親不孝であった子であればある程、気掛かりなのが親心です。
そうした両親が連れ合いに先立たれると淋しさは一段とつのります。丁度、独りぼっちで旅先の旅館で泊まっているようなものです。
話し合える人もなく、淋しさをまぎらわせる物は何もありません。独りぼっちの親も、頼みとする子供夫婦が、そして、孫が訪れる事もありません。
皆と笑いささめく楽しみもなく、夜は冷たい布団の中で身を横たえるのです。眠れない布団の中で思う事は、子供達と一緒に暮らした昔のことです。
その淋しさを、あなたは想像できるでしょうか。淋しくとも文句一つ言いません。その心の内を、あなたは思いやった事があるでしょうか。
夜中に目が覚めて、子供達夫婦はどうしているかを考えるのです。そのような母の心、父の心を思いやる時が、あなたにこれまで、何回あったでしょう。
たとえ同じ家庭に同居していても、夫婦が親をそっちのけで、ひそひそと楽しく語り合う事ばかりが中心で、独りぼっちの父や母と語り合う機会がどんなに少ないことでしょう。それがどんなに、父や母の心を傷つけていると思いますか。…
けれどお父さんやお母さんは恨みません。あの子は優しい子だった。… いろいろ忙しくて大変なんだ。… この頃は余り話も出来ないけれど、あの子は悪意がある訳じゃない。そう思って、自分をなぐさめるのです。
我が子が悪いとは、露程にも思いません。たまにちょっとした事があって、遠慮がちにお母さんがあなたに何か言えば、「そんな事じゃお母さん困るよ」と文句を言ったのは、あなたではないでしょうか。
いつも妻の肩を持って、「お母さんはそれだから」「お父さんはそれだから」、と逆に両親を責める事はなかったでしょうか。
そのようなあなたであれば、あなたの奥さんやご主人、あるいは子供達も、あなたのご両親に対して心よからぬ感情を持つでしょう。
ひどい時には「人間老いぼれて行き永らえるよりは、早く死んだ方がいいよ」と、鬼のような言葉を吐く人もいます。
そのような言葉を聞いた時に父母の悲しみはどれほどのものでしょうか。お腹を痛め、ひたすら育ててきた子に、裏切られる親の悲しみはどんなものでしょうか。
それ程の言葉でなくとも、それに類した親の心を刺す言葉を、あなたは口にした事はないでしょうか。
両親にこんな思いを抱かせる人があったならば、もはやその人の心は地獄の心、畜生の心、の心です。如何なる守護霊、指導霊も手をつけかねて、見守る以外ありません。
考えて下さい。今は年老いてしわだらけのお母さんの顔は、あなたを産み落とした頃は、花のように美しい顔でした。
あなたを育てていく苦労が深いしわを、その顔に一本一本と刻み、顔・かたちはすっかり消沈してしまったのです
じっ~と、あなたの心を見つめてください。
今、あなたがたの心の中に父母に対する本当の思いがあるはずです。お父さん、お母さん本当にすみませんでした。
そういう思いがよみがえっているはずです。
その思いこそが本来あなたが持っている愛の心、善の心です。
その心をしっかり知ってください。さあ、その心を持ってあなた方は、
ご両親に感謝し、感謝する思いをご両親に愛の行為を返していって下さい。
おいしい物があったら持って帰って「お父さん、お母さん、これおいしいよ」とすすめて下さい。どんなに喜ばれる事でしょう。
その時また、愛の言葉が返ってくるでしょう。「私はいいよ。孫にあげようよ」… そのご両親の心をしっかりと胸に刻み込んで下さい。
ご両親が病気になったら、あなたが自分で看病しましょう。そして愛の言葉を掛けてください。便を取ってください。寝入っている時は、寝息を伺ってください。
これは皆かつて、ご両親があなたにして下さった事なのです。
それがあなたには出来ないはずはありません。
その時、あなたは初めてご両親の愛の深さを体験する事が出来るのです。
初めて親の心と同じ心に成ることが出来るのです。
このように親に孝養を尽くす時、ご両親はあなたという子を得た喜びに胸を震わせるでしょう。良い子を持ったという、嬉しさで一杯になるでしょう。
その時、親と子の間に愛の交流が始まるでしょう。
その時ご両親の煩悩は菩提と替るでしょう。
中には頑(かたく)なな心を持ったお父さん、お母さんがいらっしゃるかも知れません。しかしそれは、長い苦しい人生の間に、あなた方を育てる苦しみのために、止むなく作り出した心の癖でもあるでしょう。
そうしたご両親でも、あなたの愛の行為の積み重ねによってご両親の内なる心(神我)は、広く人間性に目覚めてゆくでしょう。
ご両親がそのように成られた時、本当の親孝行が成就されるでしょう。
なぜならご両親も修行のため、人間として、この世に出てこられたからです。人間が親子の縁を持って生まれたのも、豊な人間性を養うために、お互いを磨き合う目的を持って縁を結んだからです。
愛の行為を通して意識(意思・心の次元)を高め合ってこそ、本当の親孝行が完成するのです。
あなた方の中には、既にご両親が他界された方がいらっしゃるでしょう。そういう方は、普通の形の地上界での親孝行は出来ません。
しかし父母に対して、今自分達がここにある事を感謝し、このように育ててくださった恩を感謝し、至らなかった不幸を詫び、自分自身を善なる者につくり変へ、
暖かい調和ある家庭を作り上げて行くことが素晴らしい親孝行と言えましょう。そして、その姿を見て両親は天上界から喜んでいらっしゃるでしょう。
今、皆さんは生まれてから今まで、ご両親があなたに注がれた愛というものを振り返って来られました。そして、ご両親への数々の誤ったあなたの行いと行為に気がつきました。
その誤った自分中心の価値観を身につけて来た過程を、これからも毎日の生活で正していって頂きたいと思います。それは両親の愛の心に相応(ふさわ)しい、それに立ち戻ると言う事です。
その心で今から生きてまいりましょう。お父さんやお母さんに、その心で接して頂きましょう。その心とは愛の心です。思いやりの心です。
「愛多ければ、成すこと多し」 もう一度申し上げます。
「愛多ければ、成すこと多し」
親孝行の大事さ・大切さがよく分かる良質サイトはこちら♪
つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表し、その心で生活行為をしていく思念である。
人間は、一寸先闇の中で生活している。明日がわからない。いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。
隣の人が今、どのように生活しているかもわからない。そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持ちが湧き上がってきたときに、私たちは祈られずにはいられない気持ちになるものだ。
しかし通常は、願い事に終わっている。神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。
正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。
この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである。
人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえようとしてもおさえることはできない。
ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。
念仏を唱えればうまいことがある。祈っておれば救われるという風に考えられてきた。そんなものではないのである。
こうみてくると念は、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは神との対話であるわけである。
そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。
「 感 謝 の 祈 り 」 園頭広周先生が示されました
私達は 一宗一派 一冊の教典 一片の主義信条にこだわるものではなく
ただ永遠の生命である神と その神がつくられた永遠の法とを信じ
且つ実践してゆくものである
測(はか)り知れぬ愛 限りなき叡智にして 全生命の根元にまします
大宇宙大神霊よ
私達は その大宇宙大神霊の子であることに
無限に感謝いたします
全宇宙間に 何一つとして あなたを超えて存在するするものは
ありえないのであることに
無限に感謝いたします
あなたの全生命の息吹いぶきが 一切のものを創造し
その波動リズムが宇宙のあらゆる相すがた あらゆるものの動きと なっていることに無限に感謝いたします
あなたのすべての霊性が わたしの霊性であることに
無限に感謝いたします
私達は常に 神とつながっているものであり
切ろうとしても 切ることのできない生命として
常に一体であることに
無限に感謝いたします
私達が吸う息いきも、吐はく息いきも
見るもの、聞くもの、ふれるもの
すべては、神の生命であることに
無限に感謝いたします
私達の前にいる 夫も、妻も、子も、まわりの人々も
すべてはみな、神の子であり
私達の神性を 磨いて下さる神の子であることに
無限に感謝いたします
神は
永遠の神理であり
永遠の善であり
永遠の美であり
私達は
神の持ちたもう 永遠の、真、善、美を
顕現するために 生まれて来たものであることに
無限に感謝いたします
神は
永遠の神理であり その神理に従って生きる者には
霊的にも 物質的にも 幸せと豊かさとが与えられるものであることに
無限に感謝いたします
神は
罰を与えない
罰と見えるものは 神理に逆(さか)らって生きようとする その結果を
自ら刈り取るものである
私達は、今 永遠の神理の道を 神の光を浴あびて 前進する
私達の背後には 不滅の霊的存在がある
自分で救われる道を 私達は 自分で学び取らなければならない
産みの苦しみや 悲しみの涙があっても
それは神を知るまでの 束つかの間の苦しみであり 悲しみである
神を知る時
その苦しみは 楽しみに
その悲しみは 喜びに 変わるのである
それがわかった時 その時 私達は救われたというのである
私達の内にある 高貴な生命(神我キリスト・仏智・内在の神)
理想に燃える生命に 希望の灯ともしびを点じて 力強く生きよう
大宇宙大神霊よ
私達に光をお与え下さい 私達をお守り下さい
私達を生かしていて下さることに 無限に感謝いたします
過去記事からの引用ですが・・・♬
五井先生の修行は、何も思ってはいけない、というものだった。
けれど”神さま有難うございます”だけは許されたという。
生長の家にいる時も、先生の祈りは”神さま、神さま、有難うございます”だけであった。長々しい神想観の言葉があるが、神想観の間中も、ただ”神さま有難うございます”だけだった。
この感謝の言葉がいっぱい先生の中に詰まってしまったのである。ラッシュアワーで大混雑の電車にやっと乗った瞬間、カツンと足を蹴飛ばされた。それもあろうに腫れ物が出来たその所を蹴られたのだ。
しかしその途端、口をついて出たのは”有難うございます”という言葉であった。お陰で足の痛いのは、それっきりで治ってしまったそうである。
とっさに出る想い、とっさに出る言葉には、その人の日頃の想い、人柄がいつわりもなく出るものである。
五井先生の場合、正真正銘、神への感謝であったのである。この想いは修正変わることはなかった。ご帰神された年の正月
「何か私たちにお言葉を下さい」と申し上げると、
先生は「ただ感謝あるのみ」と私たち理事に合唱していらっしゃった。
五井先生は道を歩きながらも、ただぼやっと歩いていたことはない。大地を一歩一歩踏みしめながら、有難うございます、と思っておられた。
大地がなければ人間は立っていられないでしょ、とおっしゃっていた。
風が吹けば風に感謝し、空を見れば晴れていても、曇っていても、雨が降っていても、有り難いな、と感謝されていた。太陽に、水に、空気に、天地に感謝しておられた。それも人にわからないようにしておられた。
「私は朝から晩まで、有り難いな、有り難いなという感謝一念で生きているんだよ」とおっしゃっていた。
「聖ヶ丘道場に入ってくるでしょ、花に祈ってはいるんですよ。花さんありがとう、草さん有難う、ああなんてみんな美しいんだろう、私を慰めてくれて有難う、と感謝して入ってくる。
お庭のお手入れをして下さる方にも感謝して入ってくるんですよ」とおっしゃっていた。
雨降らば雨の心になりぬべし 風吹かば風の心にとけて生くべし
つねに”有難うございます”という言葉と想いで、天地万物と交流されていたのが先生であり、天地一切に融け込まれていたのが先生である。
常日頃、朝の目覚めから、夜寝るまで、夢の中まで、感謝していられれば、どんなに素晴らしいことだろう。そうありたいと願っている。
それはどんな百万言の理屈よりも尊い尊いものだ。
質問 「悟るってことは、一体どういう状態をいうのでしょうか」 五井先生 「悟った状態というのは、全てのことに感謝出来るということですよ」 神の支流となれ。神の愛を貰いっぱなしにするな。まず感謝せよ。 神よりの喜びを他に与えよ。喜びは他に与えれば与えるほど神より流れ来るものだ。 永久に神につながる道、安心立命の泉ここにあり。 |
なにも偶然のことなどありません。すべてが感謝に値する出来事です
必要だから起こったことでも、そこには必ず ”何か” が、関与していたり ”誰か” が、力を貸してくれていたりします。
何でも「当たり前」とすませてしまわずに、関わってくれた人達やその想いを大切にしてみましょう。
恋人が何気なく見せてくれた、思いやりの気持ちも同じことです。
どんなふうに、自分の事を思ってくれたのか、どんなふうに心を砕いてくれたのか。それが必ず感じ取れるはずです。
”感謝” を形に表すこと、「ありがとう」の気持ちを素直に伝える事は、あなたに小さな奇跡を与え続けてくれることでしょう。
- No
- 94
- Date
- 2018.01.05 Fri
読みやすいサイトだと内容の理解が容易に♪親孝行の神人♪真の親孝行に覚醒♪多次元の意識レベルのお話♪高橋信次師
読みやすいサイトだと内容の理解が深くなる法則
スピリチュアルの良いことを書いているサイトでも、文字が見にくかったり、背景が真っ白で眩しくて目が疲れる色使いだったり、10行以上文字列が
くっついて読むのに一苦労するようなサイトだったりしますと、どうも脳が理解する前に、読むだけで脳のキャパシティーを多量に消費する様なのです。
見にくいサイトを一生懸命読んでも、読んだわりにはあまり頭に内容が入っていないという法則に気づいたのでありました。
私の場合は、Google ChromeとFirefoxを併用する形でネットを満喫しております。グーグルクロームは、背景色はそのままで、文字の「Textforma」の文字修正は最小限に設定しまして、ブログ記事を記載する場合や、メールでやりとりする使用用途で使っております。
ネットサーフィンをする場合は、基本的に「Firefox」でしてまして、背景色を薄いピンクにして、「Textforma」の文字修正を100%まで変更して、快適で読みやすい構成にして観覧している形で御座います。
私はこのように、臨機応変にネットを使い分けているから良いのですけれど、大抵の方は、背景色が真っ白で眩しくて見にくかったり、文字列が長く繋がっていたりすると、見づらくて、読んでて辛かったという経験がある方もいらっしゃるかもしれませんね。
それで私自身、父親譲りの遺伝の眼の弱さがある関係で、眼の弱い立場(眩しいのが耐えられない)の方々のお気持ちが痛いほどよく判りますから、
かなり見やすい文字列、背景色のレイアウトにして、最上級に見やすいサイト構成になっていることを、何となく感じて頂いているかと思います。
私が今まで、高橋信次師や園頭広周師の正法のお話をコピペして見やすく編集して、行も2~4行で改行して読むのに疲れない形に編集して、記事にしているのも、そういった関係があったからなのでした。
親孝行の神人について
それで、このサイトを観覧して下さっている命の恩人の両親の為にも、またインターネット正法様の良質記事を厳選してご紹介させて頂こうかと思った次第です。非営利&無償の愛で記事を作っておりますのでお許し下さい。
松下松蔵師のお陰で親孝行は何よりも尊いものだと分かってから、より両親に対する感謝の気持ちが吹き出る泉が如く湧いてきたのでありましたぁぁ
( ^ω^)・・・それで、両親に見てもらい、神理正法を理解して頂く親孝行という意味合いを込めまして、親孝行シリーズを始めさせて頂きま~す♪
真の親孝行とは、両親の魂を永遠に救ってあげることだと思うのです。それは神理正法をお伝えすることでしょうし、それを咀嚼し理解しやすい形でご紹介する事でもあるといえるでありましょう。
このブログは私が今までのネットサーフィンで知る限りでは、ネットでも最高級に見やすいサイトではないかと実感しておりますが、その点でも神理がより短時間で理解しやすいという意味で、お得度満点の気が致します。
twitter・LINE・インスタグラム・等々で、知り合いの方に教えて下さると管理人としましても、大変助かります┏○ペコ

これも徳積みの一つ・人類の覚醒への一つの奉仕として考えて頂ければとても有り難いです♪


これも徳積みの一つ・人類の覚醒への一つの奉仕として考えて頂ければとても有り難いです♪
松下松蔵こと祖神様とは - 祖神道本部(親孝行で神人に) http://sosindou.web.fc2.com/sosinsamatoha.html
松下松蔵翁のこと(戦前に活躍した日本最高級の神人) https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/6019/
正法 http://www.shoho2.com/index.htmlからの引用ですが・・・♬
高橋信次師の正法問答 高橋信次師の記事♪
【 質問 】
地球はこれから、段々よくなって行くのでしょうか。
【 答え 】
良くなって行かなかったら困ります。しかし、もうちょっとの間は悪くなりますよ。今から色々な面で、我々が、また、我々と同じような神理を持っている人達が立ち上がらない限りダメなんです。
ですから、そういう人達、心ある人達が地球上に、人類はどんどん増えています。1/3が霊界以上、1/3が幽界クラスの人達、1/3は他の天体から初めてこの地球上に魂の修行に出てくる人達、それは心の広さ、光の段階でわかります。
特別の使命を持った光の天使は、霊界以上の1/3の中の1割くらいです。その中には学者あり、経営者あり、あらゆる人達がいます。そういう人達は、必ず、色々な宗教に頭を突っ込んで疑問を持ちます。これで良いだろうかと、どうも違うなと捨てる人達。
それは何故かというと、その人が過去世で正法を学んだことが、その人の心のテープレコーダーに記録されているから、それでその人は潜在意識で、正しい宗教はどうなければならないかを、ちゃんと知っているからです。
人が上手い事を言う。じゃ一つやってみようか。ペンダントが3万円、3万円は大金で、金は惜しいですが、まあボーナスが入ったから3万円位いいだろう。そうすると教祖は、7カラットのダイヤモンドをぶら下げている。
きんきら金の恰好でね。自分の心から光が出ないから金襴緞子きんらんどんすを着て、格好で光を出している。そうするとそれに目が眩んで馬鹿者はヘイーということになるのです。
まあ、それを信ずるのもいいでしょう。そういう人はそういう心の段階でしかないのですから。
みなさん、ここで考えなければならないのは、モーゼ、釈迦、イエスといった人達はきんきら金の服は着ていませんでした。如来の着ているものはみな、質素なものです。決して装飾品をつけていませんよ。如来の仏像を見たらわかるでしょう。
【 某氏 】
先生の説明を聞いて、成る程と思います。今まで気が付きませんでした。
【 先生 】
だから、きんきら金の服や着物などつけている人は、自分の力のない人なんです。そういう人が説くのを宗教だといっているが、そういう人間を、おっ立てる馬鹿者が一人でもいれば、そういう宗教は成り立つということになります。ところがそういうものは必ず反作用を起こします。
結局、そういう宗教は問題が起こって、精神的にも肉体的にも、がっちりやられるということになります。
ところが、執着のない人達は、一切、飾りなどしません。普通の飾り気のない質素な服装をしています。心にダイアモンドを持つということ、それが大事なのです。
格好で脅かすようなのはね、人間以下の動物のやること、蝶なんかでもね、雌、雄ちがいますよ。
光の天使、心を説く人が、そういう格好をしていたらおかしいんです。
あれも飾りたい、これも飾りたい、飾りたいという執着を持っているのは、ホンモノではないんです。
如来というのは、上上段階光の大指導霊、なんにも飾っていませんよ、質素です。だから、女はね、上上段階光の大指導霊にはなれないんです。化粧はする、イアリングをつける、ネックレスをつける、まあ仏教的にいうと菩薩位の所まで。
でも、地球上で菩薩というと、偉いですよ、大変な、大変な、永い永い輪廻転生の体験を経なければなれません。それは輪廻転生の過程によって、雪だるま式に、小さい時からだんだん大きくなってゆく、心の広さですから。
だから、菩薩になろうとするならば、今生でなければ来世、来世でなければ再来世と、こうしてより豊かな自分の魂を磨いてゆくことなのです。こうして菩薩の境地というのが生まれてくるのですね。
だから菩薩というのは、インドの言葉でボサターといい、悟りの段階をいうのです。よく、どこそこに大菩薩がいられるといいますが、冗談じゃありませんよ。菩薩が出てくるには、菩薩と同じだけの心を持った人でなければ出ないんですよ。それを皆さんは、知っておかなければならない。
並四級のラジオでは、外国の電波は入りません。壊れたラジオをポンと叩くと、調子の加減でガァーと鳴るということがあるでしょう。調子はずれのガァーガァーいう雑音、まあ地獄霊がかかってくるのは、
安物の壊れかかったラジオみたいなものですよ。ところが、オール・ウェーブ(超短波)クラスになると、ダイヤルを回すとちゃんと選局されて、地球の裏側の電波まで入ってきます。それと同じですよ。
心の段階、人間の心の段階なのです。だから、そういうような段階を自分が作り上げて行くのですから、心の広さ、そこで私が書いている「心行」の中には、「心の段階は、光の量の区域なり」と書いたのです。
光の量の区域というのは、後光の出ている量によって決まるのだから、心の段階が上になると後光の量が広くなるのです。
動物霊は菩薩に化けるのがうまいです。有名な菩薩に化けますね。どういう菩薩の姿を見せたら信ずるか、人の心をよく知っていますからね。
富士山の頂上で拝んでいるうちに出てくるのは100%狐です。よく、私は霊感があるといって出てくる人がありますね、他流試合を申込んでくるのもあります。そんなのは僕はへっちゃらです。
東京でも、教祖をやっている大西という人、高橋信次君、なんてね。僕は6階にいるんですが、その大西という人が受付に来た。相手は新興宗教の金持ちで、私みたいなみすぼらしい格好はしていません。3階の私の所へ案内して来た。
「高橋信次さんは、どこにおりますか」
私は前にいるのに、私を小使いかなんかだと思ったんですね。本人を目の前にしてそういうのです。
「お座り下さい」というと、「あなたですか」
高橋信次という人は、相当年を取った、格好のよい、髭でも生やした男かと思っていたんでしょう。それが丸っきりどこかの会社の課長にも及ばない、係長みたいな格好をして出て行くものですから。
私の所へ来ましてね。
私はそういう時には黙っているんです。向こうから話をさせた方が話が早い。そうしたら、
【 大西 】
あなたは釈迦だと自称しているが、釈迦が生まれてくるはずがない。
【 先生 】
はあ、釈迦ですね。僕はね、自分から釈迦だといったことはない。だが、人の口には戸が立てられませんからね。それが本当であるかないかは、あなたがわかるなら立証できるはずだ。あなたは教祖だといって、多くの人を迷わせている。
【 大西 】
迷わせていません。
【 先生 】
その証拠に、私が誰であるか、あなたはわからない。わからないということは、人にもわからせられないということだ。意味がわかりますか。大体、あなたは、自分の住んでいる場所が変わっているのはどういう訳か。あなたは自分の本妻は四国において、今ここにいるかあちゃんは一体、何者なのか。神さまを説く人がなんですか、そんなことはないとは言わせませんよ。
【 大西 】
そんなことがわかるんですか。
【 先生 】
そんなエッチな宗教家ってありますか、出直して来なさい。あなたは心のことは何もわかっていない。頭でわかっても一つも行いが出来ていない。出直しなさい。
そういうのが教祖で、それが神学博士だなんて、そういうのに騙されて、金持って来い、何持って来い。あなた、金をそんなに何するんだ。怪しい事をやって、そんなもの信仰的でも何んでもない。あなたは私をわかっていない。ビシッとやってやったんです。
中には挑発に来るのもいるんですよ、まあ大抵ダメですね。一気にひっくり返ってしまいます。それだけの力が僕にはあるんです。
人間には、根本の正しい道を実行させることが大事です。我々は争うことを目的としているんじゃない。争う必要はないんです。それで、今後そういう人達は、みなバンザイしてダメになりますね。
【 某氏 】
これまで私達は、そういうことが正しいと思っておりましたから、言われることがなるほど、なるほどと良くわかります。
【 先生 】
私は皆さんに、信じろと言ったことはないんですよ。どうしてだろう、なぜと疑問を持てといっています。疑問を追及してゆくと最後は神理に到達するからです。
だから、私は、ずーっと講演をして来ているけれども、最初から素直に信ずるな、疑問を持て、持ったらもう一度質問をしろ、そうして最後に到達するのは神理なんだからといっているんです。
だから、わかったような顔をする必要はないんです。
こっちは32年かかって、やっとわかったんだから、それを1回聞いてわかったなんて、そんな1回でわかるという頭のいい人はこの地球上にはおりません。
イエス様が言われたんです。あなたは疑問を持てというからいかん、「信じろ」と何故言わないのか。イエス様と僕とはちょっと考えが違うんです。そうするとイエス様は、それでは困るんだ、中途半端になってしまって、信じろと言え、というんです。
私は聖書を読んだことはない。病気の場合はね、本当はね、信じさせた方が奇跡が起こるんです。疑問を持っている人よりもね、拒否反応を持っていないほうが速いんです。相手が受ける心、信ずる心があれば奇跡が起こるのが速いんです。
私が疑問を持てというのは、どんな疑問にも答えられる力を私がもっているから言うのです。力のない者がポコポコやるのが一般の宗教ですね。信仰が足りない、拝み方が足りない、あいつはこうだ、とそういう。
そういう言い方が一番ラクな方法です。何があっても、信心が足りない、もっとお経を上げろと言って置けばいいのですからね。
【 某氏 】
今までの経験上、その通りです。
【 先生 】
だからね、それじゃいけない。私達はあくまでも疑問を持つ、回答を得る。そうして自分が理解したら即実行する。実行しないで屁理屈言うのが一番いけない。
正法は実践、体験を得て、そうして実際にわかってくるのです。
だから、いくら頭でわかっていても、僕の話でも聞いている時はわかっている、これでは何にもならん。この中にも、色々宗教をやった人がいますけれども、いくらやってもダメですよ。
お水上げたり、お茶を上げたり、お花を上げたり、いつの間にか、心に足枷を嵌められてしまうんです。そうすると、後は罰が恐いから、まあ、そういうことです。
あなたは、そこのところ踏ん切りつけて捨てたんですからね、偉いですよ。そのように出来る人は救われるんです。
それには、自分が心をしっかり持って、間違いがないかな、自分の心はこれでいいかなと、やっていなければ、せっかくの正しい信仰も分解しますよ。そういうことをやると、心のあり方がしっかりわかってくる。
私が説いているのは、「心」です。
今までに、口で「心」と言う人はあったけれども、心にも形があるんだといったのは、私が初めてです。
心には、感情、知性、理性、本能と、それを行動化するかどうかという意志の働きの領域があるといったのは、外に聞いたことはないでしょう。一人一人こうやって見ていると、この歪つなのは、このフワフワしているのは、これはイライラしているなと、心に形があるのがわかって来た。
生まれたばかりの子どもはね、実にきれいで、まん丸い、それが大きくなるに従って歪が出てくるんですね。
ああ、人間の心はこうなんだな。この中はなんだ、どうして、と追求していった。そうしたら、「パスカルの原理を勉強しろ、パスカルの原理を勉強しろ」と、天上界から教えられた。「作用・反作用の法則」ですね。
丸い心の中に、これだけ歪が出来ていれば、それだけその結果が出るではないか、なるほど、そうするとその中に感情があるんだよ。一体、心はどうなっているか。
ハート型に見える人がいる。この人馬鹿にピンク色に光っているな、昔から心をハート型に書いている。これは一体なんだ、あなたはいくつ。すると守護霊が、「この人は恋愛中なんです」と教えてくれる。
どんな人ですかと聞くと、その姿を見せてくれる。「あれ、あなたは恋愛しているの、こういう女の人だろう」と、みなわかってしまう。
そういうことから、恋愛している人々の心を、なぜハート型に書くかがわかってきたんです。恋愛している人の心は、実際にハート型になっているんです。
恋愛すると、感情がふくらんで、本能がふくらむ、そして理性を失いやすくなる。講演中にこうやって、若い人達を見ていると、ムードが違う。恋をしている人にはピンク色の後光が出ている。
そう見ているうちに、心には、知性、感情、理性、本能の領域があり、その中心に我々の霊、神の子の意識があることがわかった。
我々が耳で聞く、すると大脳皮質の神経繊維に電気振動が起こる。大脳皮質の中は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚等、全部分野が決まっている。そこに電気がピカッと赤くついて電気振動が起こる。
人間の脳から出る神経繊維の電気振動が、肉体の船頭である。我々の意識、霊に伝わってゆく。それによって意識、心が思う。思ったことが今度は別な振動となって脳に帰ってくる。
そこで私は、肉体と霊、意識、心は別だということがわかってきた。
それで、心はそういう仕組みになっているから、心は丸くして置かなければならない。そして、心というものが、どんなに重大であり、これが私達の永遠の生命であったということを知り、肉体はタダの船なんだな、ということがわかったのです。それでまた、これは本当かな、と思ってあっち(天上界)へ行って聞くわけです。
するとイエス・キリストを名乗る人が何人もいるんです。髭をこう生やした人、それから、少し面長な人とね。声も違うし、アクセントも違うんです。
それで、本体と分身の関係がわかってきた。それから、「細胞を学べ、細胞を学べ、五体の形成はどうなっているかを学べ」といわれた。
だから、なぜ、どうして、と突っ込んで結論が出てきた。
だが、一般の人は突っ込めないんですね。こういうことを僕は10歳から42歳まで、そんなことばかりやってきた。
そういう所から、稲刈機械というのも、僕の発明です。会社をやりながら長野の田舎で田んぼをつくっていた。腰が痛くてね。それなら立って刈ればいい。定量にするにはどうするか、束ねるにはどうするか、と考えた。
レナウンのスポーツシャツ、これもゴルフをやっていてね、シャツが上に上ってしまうんですよ。そのたびにシャツをズボンの下に隠す、面倒くさいでしょう。
それで家に帰って切ってみてね、脇下に三角の布を入れればいいと考えついた。便所の臭み止めの「無臭元」があるでしょう。あれも私の発明です。
全て疑問から出たものです。
それで私が、昭和43年7月12日に、自分自身が何者であるかがわかった以降は、ドイツ語でアインシュタインが出てくるのです。
鼻の長いのが出てきて、むつかしい数学を解く。ボクは一体なんでこんなことをしなければならないのかな、と思ったりした。
僕の本の中に、相対性理論が出てきたり、次元の差という説明があるのは、アインシュタインから教えられたのです。
アインシュタインが、自分の法則には手落ちがある。振動、ブランク常数というもの、人間の脳波の振動も、波動という一つの現象となって伝わってくる。そうすると、それにおける、仕事を為しえる能力というものは目に見えないが、エネルギーが起こる。みな、そうやって教えられたものです。
文学的才能ゼロの男が、20日間で原稿用紙460枚、「道」改題「愛は憎しみを越えて」を書いたのも、みなそうやってです。
人間は、本当に偏らない中道以外にないのだということ。どんなに、お経を上げても、お経を上げるのが上手くても、それでは救われないよと。「南無阿弥陀仏、なむあみだぶ」冗談じゃありませんよ。
それでみな地獄へ行っているんですから。大体、坊主は生きている人を救うのが本来の役目でしょう。それを香典の額などといったのではたまったもんじゃないですよ。
坊さんは生きている人間を救い、亡くなった人達には、人間はかくあるべきであって、あなた達は、この辺が間違っていなかったかと、教えてやるのが坊さんです。坊さんが、どんどん、病院に出入りするようにならなかったらダメ。
今、死なんとする時に、
「あなたは今から、この地上を去るのです。心を綺麗にして行きなさい。」と言うのが当然のこと。それを死んでからお経を上げるなんて馬鹿気たことで、これは今までの宗教の大きな間違いである。
「人間の心は、こういうものだ。あなたは、どういう生き方をしてきたか、病気にどうしてなったのか、あなたはこういうことがあったんだ、それをよく反省しなさい。」
こうやって教えてやれば、死んでも地獄へ堕ちないんです。今まで、あの世へ帰ってすご、「やるだけやったぞ」という人はいませんね。
最近では外人であります。ヘレンケラー(三重苦の聖者:見えず、聞こえず、話せない)「やるだけやりました」といって天上界へ帰ってきました。
それから、シュバイツアー、エジプトで治療に従事した。この人達は菩薩界の人達ですからね。こういう人達は使命を持って出られた人です。
日本では、例えば総理大臣であっても、「私はやってきました」という人はおりませんね。
私の所へね、東急の専務が訪ねてきた。「私の親分と話をしたい」と。後藤慶太かと思った。当然でしょう。東急の専務ですから。
ところが違ったのです。その親分という人の意識を僕の体に入れた。ドカンと体が重くなった。声が出ない。その内に少し声が出るようになった。
「マサヤン、あなたさん、良く訪ねて来てくれた」僕の声じゃないんです。池田勇人総理大臣です。「日本を救った、日本を救った」と言っていますが、地獄界です。その前の総理大臣も地獄です。
(※豊臣秀吉や織田信長も地獄だそうです、明智光秀さんは天国です)
私は、そういうのを実際に地獄界へ行って見てきているから、地位や名誉は関係ないといっているんです。ですから、講演の中で、貧乏に生まれても、心まで貧しくしてはいけないと教えているのです。貧乏人だから、といっても恥ずかしくないんだよ。いくら地位が高くっても、大臣でも地獄にいるんだから、大臣だってただの人間だからといっているんです。
それは、自分がその環境を望んで約束して出てくるのですから、いくら金を持っているかとか、地位は関係ないんだ。
地位が上の人ほど地獄にいますね。欲望で一生を過ごすから。あんな水呑み百姓が、というひとが天上界へ行っているんですから。
大久保彦左衛門ね、びっくりしましたね。菩薩界できれいな光を出している。僕の所へ来ましてね、「大久保彦左衛門めにてござります」
日本で有名な坊さんで、菩薩界へ行ってる人は少ないですね。
日蓮さんもね。永いこと自分から地獄界におった人ですよ。菩薩界に入らなかった。自分の蒔いた種が、その後、多くの大衆を狂わせてしまったという責任を負ってね。あの人は、あの世では知らない人はいませんね。
あまりにも有名で、謙虚なんです。今の創価学会のやっているようなものではないんですよ。
心のきれいな人達は、例え貧乏でも立派な人がたくさんいる。だから、金額の多寡や地位が人間の値打ちを決めるんじゃないんです。
その人の、思っていること、行っていること、それがどんなに調和されているか、どんなに片寄らないものの考え方、行為をしているか、それがどんなに大事かということがわかったのです。
そうなってきたら、地位も何もいらなくなるのは当然です。
【 某氏 】
私の場合は、60歳を過ぎてしばらく、2・3ケ月前、神理にふれたんですが、ありがたいです。やがて、霊界、神界へと昇ってこの神理を行ずることが出来るのですか。
【 先生 】
出来る。それはね、この地上界の1年は、あの世の100年に匹敵できるんです。ですから、この地上界で学んだことが優先されるんです。
私の神理の話を聞いた人は、ただ1回であっても、意識にちゃんと記録されています。あの世へ帰った時、そこだけが光りが出ているんです。悪いことをした所は、暗くなって赤字で書かれております。
それはいずれ自分が裁くのです。こういうことを聞いた、ああいうことを聞いたああやればよかったのだ、間違っていた、こんな執着捨ててしまえと、神理を聞いていると簡単に捨てられます。そこなんですよ。
【 某氏 】
今世でダメなら来世で、来世でダメならまた次の世でという気持ちですね。
【 先生 】
しかし、この地上へ出てこれるかどうか疑問ですよ。沢山の霊が地上へ出て霊の勉強をしたいと待っているんですから。
私は780年後にもう一度、地球上に出ます。それからまた、他の天体にも生まれます。その天体もわかっています。この地球は、700年くらい後には調和されるからです。ユートピアになるからです。
その時は、今のような公害は一つもなくなります。
そして、今の日本は気候が変わります。現在の、アフリカ、南アメリカ、それからインド、この方面は、現在の日本と同じように、春夏秋冬が最も調和された国になります。
そして、アフリカの大西洋岸の所に、大きな宇宙ステーションが出来ます。そして、他の天体と自由に交通するようになります。そういうようになっているユートピアに、私達は生まれてきます。780年後です。
その途中において、かつてイエス・キリストといわれた方がアメリカに生まれます。シカゴという所へ生まれます。それが今から180年後になります。
その時に皆さんは、天上界にいて協力するのです。天上界からこの地上界を見て、またあんなことをしているということになっているんです。
【 某氏 】
シカゴへは本体が出られるのですか。
【 先生 】
本体です。分身の方はフィリッピンに出ていられます。科学に周期律というのがありますね。この物質の周期律と同じに霊の周期律もあるのです。我々の生命も、やがてはあの世へ帰ります。
イエス様は、あれだけやられたのですから、「やるだけやった」といって天上界へ帰られたのです。十字架にかけられた時は、自分の霊は、自分の肉体が十字架に掛けられたのを見ていられたんですからね。
その時は、イエス・キリストとはいいません。イマニエルといっていました。私はこの方の指導霊をやっていたんです。だから、その時のことも私にはみなわかるのです。
私が肉体を持った時は、イエス様が指導霊をされる。イエス様が肉体を持たれると、私が指導霊をする。イエス様は厳しいといっても西洋的なところがあって非常に親切です。
ところが、私がイエス様の指導霊をやる時は厳しいのです。だから僕は言われましたよ。あなたは自分には甘くてボクには厳しいと。イエス様が、ある弟さんの病気を治してやった。その姉さんを好きになった。
「イエス、そんなこと、やっちゃいけない」と、あなた、わしには恋愛もさせなかったじゃないか、その割りにあなたは甘いじゃないか、と言われたものです。
今まで、イエスやモーゼ達が、私に予言したことは一つも違っておりません。私はコンピューターをつくっているんですからね。いい加減なことは信じません。だから私は自分にも厳しい。自分でやっていることはこれでいいのか、あんなことを言ったが、その科学的根拠は、どうして、どうして、と突っ込んで行く。
【 某氏 】
私、先生のお話をうけたまわって感ずることは、私は30数年、色々な遍歴をして来たんです。このような人生の教えにふれて、本当に反省をして心を調和させなければいけないと、決意しかけているんですが、過去にダラダラ怠けた信仰をしていたわけですから、感情的に、神理正法の厳しさに対する拒絶反応的な、そういうものがあらわれることが・・・・・・。
【 先生 】
それはあなたの心です。これしかないんだと思ったら、その欠点を勇気をもって改め、自分がより豊かな自分をつくるにはどうすればいいか、そのための最大の努力をする。ああいうことがあった、こういうことがあった、一つ一つ正法に照らして反省をする。
あなたは家庭というものを非常に粗末にしてきた。自分では一生懸命にやってきたつもりでしょうが、家庭を粗末にして、変なものを求めてきた。その辺から自分を振り返って、それに、変な所でがめついところがあるから、わかりますね。
過去を捨てるということは、瞑想的な反省をして、これは出来たと、一つ一つ行為しているかどうかを反省することです。
皆さんの心のテープレコーダーには、○年○月○日、こういうことをやった、こういう時にはこういうこともやった、女遊びをしたなど、みんな、書いてあるんですよ。
ここの所はこのように修正しました、ということが日本人は日本語で書き込まれる。英語好きで英語でメモするという人は英語で、フランス語でやる人はフランス語でというように書いてある。
出来たことはしようがない。それをどう修正するかが大事で、修正されるとその部分の霧が晴れていく。
あなたはすぐカッカッして、肝臓も余り良くないですよ。
これは一体どうなんだわしが悪いんだ。じゃあこれをこのように直さなければならんと、パッとやって置けばよいのです。わかりますね。私はそんなつもりではなかった、私はこうであった。しかし、もう二度とそのような迷惑はかけませんとね。
あなたは、本を読んでいないから、もっと読んでくださいよ。読めば後光が出てくる人だから、はい、そういうことです。
- おわり -
(園頭先生注:高橋信次先生の偉さの一つは、もったいぶるところがないということである。大方の教祖は、これは取って置きの話で、そうめったにタダでは聞かされない、というような話の仕方をするものであるが、高橋先生にはそれがなかった。
それがなかったので、「偉い」と思った人もあったが、他の教祖のように権威づけされず、きわめて平凡な服装をし、きやすい話の仕方をされるので、高橋先生を軽く見る人も多かった。
現在の人類は1/3が霊界以上、1/3が幽界、1/3が他の天体から来た人達だといわれる。皆さんは、人間が月へ、さらに火星へ人工衛星で行こうとするほどに科学が発達した現代に、アマゾン、ニューギニア、オーストラリア、アフリカ等に、未だに裸の原始生活をしている未開人がいることに、それはどうしてかと疑問を持たれたことはなかったであろうか。
あのような原始生活、あるいはそれに近い生活をしている人達は、他の天体からこの地球に初めて移住して来た人達である。
まずああいう所に生まれて、この地球という環境になれ、それから輪廻転生を重ねてゆく間に色々な面で進歩してゆくことになるのである。
780年してこの地球が仏国土になった時、人間は神の子であることを悟った最も進歩して人達は、この地球での霊の勉強を卒業して、再びこの地球には生まれ変わって来ない霊となって他の天体へ生まれて行き、そこでまた、霊の勉強をすることになるのである。
このようにして、今までも、すでにある一定度以上の霊の進歩を遂げた霊魂郡は、この地球を去って他の天体へ行き、さらに他の別の天体から地球に移住して来た霊魂郡が、この地球で転生輪廻を繰り返すということをやって来たのである。
だからして我々は、この地球のいかなるものにも執着してはならないのである。わずかばかりの土地やまして墓などに執着するということは、全く愚かなことなのである。地球上の、何ものにも執着を持たない心境にならないと、宇宙即我の境地にはならないのである。
780年後、再び高橋信次先生がこの地球上に肉体を持たれた時に、この地球上に仏国土が実現するということを昭和48年(1973年)に言っていられる。我々は、いつでもこの地球上を離れて他の天体へ行って、その天体でも生きる基準である正法を勉強してゆくという心構えを持って、それらに執らわれない精進をする方が賢明である。
高橋信次師の記事♪
多次元の意識レベルについて 高橋信次師の記事♪
ここで四次元以降多次元の意識の自由さについて述べると次のようになる。
四次元の自由さは、三次元を貫通し、物質にさまたげられることなく、ものを見ることができる。
五次元は、四次元世界はもちろん見ることができると同時に、地上界と地獄界の比較が容易に出来る。
四次元の自由さは、ある限られた物質的障害を乗り越えられるのにたいして、五次元は、幾層もの物質を貫通して見ることができる。
六次元は、四次元、五次元の世界は勿論のこと、地球の隅々まで見ることができる。善悪の判断が正確となり、人を導く自由さを持つようになる。
七次元は、六次元は勿論、他の天体にまで瞬時にみてくることができる。物質の成り立ち、天体の動き、人間の生い立ちが、七次元の意識が進むにしたがって、明らかとなってくる。したがって、物質のなかを覗き、生命普遍の認識を深めることができる。
八次元は、宇宙全体を認識できる自由さを持つ。万生万物の生命の根源が神の意識によって、動いていることを知り、神の意思を受け継いで、慈悲と愛の広く高い心の広がりを持つ。
過去、現在、未来を見通す心は八次元の頂点にある。
九次元は、神の意識であり、全(まっとう)なる心である。
さて私たちの住む世界は三次元の世界であるが、四次元以降多次元の世界が、感覚的に分からないとしても、前述の説明で概略理解されたと思う。
そうして、四次元以降の意識界の働きが、どのようなものであり、そうしてその意識が、私たちの生活にどう働いているかも、ほぼ納得出来たと思われる。
ところが人によっては、それでも四次元以降の世界はない、三次元で十分だ、四次元は飛躍だという人もいる。しかし飛躍であるかないか経験がないのに、どうしてないといえるだろう。
経験のない人が多くいて、経験がある人が少ないから否定する、というのはおかしい。私達の眼で見える範囲は、約7~4オングストログまでである。
赤外線、紫外線、X線、γ線、電波については確認することができない。しかし確認できなくとも、実在していることには間違いないのである。
色即是空、空即是色 ――― 。
つまり私たちの魂(意識)は、現象界に肉体をまとって生きている間は、主に三次元的感覚(10%の意識)で生活しているが、肉体が滅びれば、魂だけが肉体から抜けて、あの世で生活する。
四次元以降多次元の意識を持って。そうして再び、この現象界に現れ、生活する。この事実は、否定しようがしまいが、あることに変わりのないものだ。
万生万物は全て、転生輪廻の法から逸脱できない。何故かというと、生命と物質は、そのように作られているからである。
地球が太陽の周囲を循環することによって、春夏秋冬の季節をつくり、生命が健やかに育つように出来上がっている。原子の世界も、核の周囲を陰外電子が循環することによって、原子全体を維持している。
この理法を崩せといっても崩せない。この点については、また順を追って説明するが、色即是空、空即是色は、転生輪廻の実相をいっていることを理解して欲しい。
- No
- 95
- Date
- 2018.01.02 Tue
愛馬が夫に生まれ変わった感動秘話♪植物人間がオウム振動水で劇的に改善♪AOUM振動の奇跡♪心霊治療♪安東民師
心霊治療 安東民 新山上の垂訓 植物人間への光明 オウム振動水で開放された植物人間 ある高等学校の学生が私を訪ねてきた事がある。17歳になる弟が脳性麻痺のため苦痛を受けているという。お金には困らない家庭ではあるけれども、この弟のために家族達はいつも憂鬱に過ごしているというのであった。 「脳性麻痺はその原因はどこにあるにしろ、体の中に有毒ガスがいっぱい詰まって、脳神経に麻痺を起こしたのであるから、オウム振動水をこれから百日の間飲ませるようにしてみて下さい」 私はこう言って、その日はそのまま帰したのであった。カセットテープを利用して、自ら「オウム振動水」を作って飲むことにより、何かの変化が起きるには、少なくとも百日間はかかると言ったのである。 なのに1ヶ月ほど過ぎた後に、この学生が訪ねてきたのであった。弟がどうしたわけか、とんと「オウム振動水」を飲もうとしないという事、 しかし1ヶ月の間、とにかく飲んだのは事実であるから、何とかしてくださるわけにはいかないでしょうかと、涙ながらに訴えるのである。この時、彼が持ってきた弟の写真を霊査してみた所次のような事実が明らかになった。 -----この学生の弟は、前世には有名な坊様で、○○○乱の時、国のために僧兵として戦い、多くの○○兵を殺傷し、この坊様の手で殺された○○兵の亡霊が憑依したため、その後5回、人間として再生したけれども、その都度、一種の馬○かまたは身体不具者として生まれたというものであった。 そして今度が、その5回目の生まれ変わりに当たるが、この生を最後に業障より解放されるであろうことが分かった。------ 私はまだ所定の百日は過ぎなかったけれども、霊査が出来た以上、何とか手をつくしてみることにしたのであった。それで学生の弟さんを、ぜひとも研究院に一緒に連れてくるようにと言った。 ところであらかじめ覚悟はしていたものの、この少年の体に手を付けた瞬間、腐った屍体から出るようなものすごい悪臭がドッと出たのには、さしもの私もタジタジとならざるを得なかったのが事実であった。しばしの間、息ができないほどであった。 「どうもダメのようですね。今日はこれで手を抜き、お母さんが代理施術を受けてみることですね」 「代理施術とは一体、どのようなものでしょうか」 少年の母親はとんと納得がいかない表情であった。 「あなたの息子さんは生理的には17歳ではあるけれども、精神的な年齢は2~3歳しかならない幼い子供と同じなので、霊的にはお母さんの運命と一つに連結されているのですよ。 これはどういうことかといえば、息子さんの苦しみが消えるのは、お母さんの苦しみが消えるのと同じであるということです。 それでお母さんの霊波を、息子さんの霊波の波長に同調させて施術を施せば、お母さんの体質が改善されると同時に息子さんの業障が消滅させられ、ある程度の変化が起こることを期待するわけです。」 普通の人にはちょっと納得が難しい私の考えを、なんら抵抗なしに受け入れてくれたお陰で、少年のお母さんはその後、何回かにわたって代理施術を受けたのであった。 その中には、代理除霊も含まれていたのは勿論の事である。代理除霊とは息子に憑依している怨霊または悪霊を、お母さんの脳波(霊波)に同調させてお母さんに憑依させた後、除霊をする方法であるが、非常な危険を伴うので私も、めったに使わない特別な除霊方法である。 (ちなみに一言で言えば、私が言う除霊または代理除霊は、私なりに編み出した全く新しい方法である) 幸いにもこの方法が大きく成功して、お母さんが体質改善施術と除霊を受ける間、つまりまる2日の間、息子は眠り通しに眠ったという。 それ以前には夜も殆ど眠らなかった子供が、42時間の間、眠り通しに眠っただけでなく、家族がその部屋に入ると死体が腐るような悪臭のため、鼻を摘んで飛び出した程だったという。42時間にわたる長い眠りから覚めたこの白痴少年は、その後1週間は一食もせず、熱病を患ったという。 一週間の間、自らも知らないうちに断食をした白痴少年は、骨と皮ばかりになったが、それからは食欲が出始め、白痴であると誰もが判断した表情が全然なくなり、顔だけ見れば正常人と変わらぬようになったし、言葉も日が立つに連れ正常になりつつあると、家族の喜びは大層なものであった。 白痴少年のお母さんも長い間にわたって経験してきた精神的な苦しみから開放され、明るい顔の健康体になったのは勿論の事である。 この白痴少年が、難治病の中でもひときわ難しいとされている頑固な脳性麻痺から開放されたのは、その原因が前世における殺生にあるとはいえ、 その殺傷の動機が祖国に対する愛から出発したのであり、私的な恨みによって殺傷したのではなかったという点にも、快癒への原因であると思うけれども、またこれは例え脳性麻痺でも適切な処置をすれば、麻痺が解かれる可能性もあるという一つの良い例である。 この話には後日談があるので、ちょっと記して置こうと思う。白痴少年はある程度知能が正常になったけれども、まだまだ正常人として社会生活をするに至らなかったのであるが、ある日突然、風邪気味で床について2~3日患った末、静かに息を引き取ったというのである。 まさかそのように簡単に死ぬとは家族の誰も思わなかった。しかし、「死んだ弟の顔はどう見ても生前の白痴少年ではありませんでした。 悟りを開いて静かに息を引き取った聖人の顔でした。私はこの次、弟がまた人として生まれ変わるならば、きっと素晴らしく頭の良い人になるのじゃないかと思いますが、どうでしょうか?」 兄である高等学校の学生は目を輝かせながら、この様に私に報告してきたのである。私はただ、うなずくだけであった。 夫の前世を透視する 愛馬が夫に生まれ変わった感動秘話 人間が自らの尊厳な人格を損傷させて、動物の位置に堕落する時、次の世には動物として生まれ変わる例を話したわけだが、今度はその反対のケースを紹介してみようと思う。 S企業の金○○社長といえば知らない人がないくらい、建設業界では広く知られた名人である。韓国国内だけでなく、むしろ海外でより活躍しているこのS企業の社長夫人が、昨年の秋に私を訪ねて来られたのだ。 中年婦人によくみられる肝臓機能がすぐれない低血圧の患者であった。この婦人が何回かにわたる体質改善施術を受けて健康を取り戻しただけでなく、見違える程若返ったのであった。 施術を受ける前に「オウム振動水」を一定期間飲ませたのはいつもの例である。経済的には裕福な生活をしておられるこの婦人にも、人知れぬ悩みはあった。 この婦人はただ一人息子を産んだだけでその後には子宝に恵まれなかったし、夫が外に産ませた8歳になる女の子を直接育てているが、その女の子が何かにつけて頭痛の種であるという。 また息子のお嫁さんが遠からずお産をする予定なので、何かと出産を助けるためにアメリカに渡る準備に忙しいという。 お嫁さんの出産のために、わざわざ米国まで行くということは我々庶民の立場では到底考えられない話であるので「羨ましい限りですね」と私が言った所、 「私が知る限りでは、お金があるということは、人間が幸福になるのにはたいして助けになりません。勿論、無いよりはましでしょうがね。 私が夫が望むだけ多くの子供を産めなかったので、心の中にある不平は何一つ表立って言えない立場ですけれども、夫の留まるところを知らない浮気には、女としては堪え難いのですよ。孫まであるし、糖尿病まで患っているくせに、一体これはどうしたわけでしょうか?」 「いつか機会があったら一緒にいらっしゃい。糖尿病も体質改善して完全に治った例は多いのですからね」 婦人はしばらく考えに沈んでいたが、 「さあ、私も誘ってはみるつもりですけれども、今のところは難しいのではないかと思います。私の夫は徹底的な常識人で、現代医学以外は全然信じない人ですからね」 「そうでしょう。けれども私と縁があるならば、1~2回はお出になると思いますね。きっとそうされるでしょう」 それから、何日か経った後のことである。自分の妻が健康を取り戻したのをみて少なからず感銘を受けたらしく、S企業の金社長が婦人の案内で私の研究院を訪ねてきたのであった。私が会って見た所、非常に特異な印象を覚える人であった。 まあ、言ってみれば、馬が人間に生まれ変わったというのが確かだったのである。俗に言う典型的な馬面であった。特に下半身が異常に発達した体つきであった。 誰が見ても「貴方は馬の様な印象を与えますね」といえる体格であった。 2日にわたって施術を受けた後、大体、このようなケースでそうであるように「忙しい」という口実の下に、二度と私を訪ねてこなかったのであった。最初は自分の健康の為に訪ねて来たのではなく、妻の体面の為に訪ねてきたのだった。 「それでも、夫の性格で2回も施術を受けたというのは奇跡ですよ。少しばかり体の体調が良くなったという話でした」 「まあ、お宅でオウム振動水でも飲ませる他に道はないわけですね」 「それが駄目なんですよ。いつも海外出張に明け暮れのですからね」 と言って、婦人はため息をつくのであった。 「私の夫の前世は何であったでしょうか?私とはどういう縁で結ばれたのでしょうか?」 「馬ですよ。馬が人間に生まれ変わったのですね」 「馬ですって?」 彼女はビックリした顔で私を見た」 「あなたは前の世では、清王朝の王女だったらしいのです。どの時代であったか、それまではわからないですけれども、とにかくあなたは中国の清王朝に生まれたお姫様で、非常に馬を愛した人だったのです。 王女の乗馬は、三度にわたって王女の命を救ってくれた事がありましたし、自分の夫が死んだ時にも泣かなかった王女が、この馬が死んだ時には、非常に悲しみ泣きわめいたのでした。夫以上に愛したためだったのです。 その為に、王女が愛された馬が人間として生まれ変わり、あなたの今の夫になられたと私は思うのですよ。前の世でいつも自分の背中に安らかに乗せていたのですから。 今もあなたに、お金には全然困らない生活を保証しているわけですね。馬であったために、今も東奔西走しているわけですよ」 私の話が終わった瞬間であった。彼女は大いに笑ったのである。涙を流さんばかりに、本当に痛快無比に笑い転げたのであった。いつも内省的で沈鬱であった彼女の顔に、この様な明るい表情を見るのは初めてのことであった。 「馬ですって?…本当にそうですね。姿も馬のようですけれども、性格も馬とそっくりなんですよ。だから前の世で、私が彼に大きく助けられた事があるのですね」 「ハイ、それも3回も命を助けてもらったのですよ」 「だからたとえ夫に過ちがあっても、少なくとも3回は許してあげなければいけないわけですね。 また馬が人間として生まれ変わったのだから、彼が人間として多少足らない所があっても、私が寛大に見てあげなければならないでしょうね。 特に彼が私が彼の夫になったのは、私が前の世にて愛したためですからね。自分の夫が死んだ時にも泣かなかった王女が、愛馬が死んだ時には泣きわめいたというのですね ‥……本当に先生のお話を聞いて、私は心の中のわだかまりがすっかり無くなったみたいです」 自分の夫が前の世では馬であったという話を聞いて、カンカンに怒るのではないかと思った所、その反応は正反対だったのである。 否、この話を聞いて、彼女の夫に対する態度はそれからずいぶんと寛大になったのは確かであった。S企業の金社長が直接、この話を聞けば、さぞかしカンカンに怒るかもしれないが…。 安東民先生☆発祥♪治癒 除霊 健康 ओम् アウム聖水の奇跡? 真言「アウム」で振動された水を毎日飲んでいると、肉体は10年以上若くなります。 毛細血管にまでその水が行き渡り、新陳代謝がそこに働いて、体内毒素が多く体外に排出され、血液が浄化されるからです。 血液が浄化されると、目は子供のように白くなり、歯と肌も美しく綺麗になります。これは、特に女性の方には朗報になるかと思います。 身体障害者の方が飲用しますと、極度な眠気に襲われることがあります。それは脳の新陳代謝が活発に働いて睡眠の神経細胞を刺激するからですが、そこで止めないで更に飲み続けますと、病はそれなりに癒えて障害が軽くなることがあります。 「アウム」はDNAを覚醒させ、病の治癒を促進させます。 「アウム」は霊力・超能力を覚醒させる機会を与えます。 「アウム」は下級界に存在する霊が嫌がるマントラムで、その霊を追い出せる神聖な言葉です。「アウム」は、己の魂を浄化させる太古の聖なる言霊。 助安由吉さんへのイエス様のメッセージ 新山上の垂訓 1.組織なく規則なく、お金を集めずにする活動こそ神の活動なり 2.名声を求めず、ただひたすら み心の道具となる 3.男女の調和は 陰陽の調和なり 調和度を高める 4.すべての人の神性を見 そこに焦点を合わせる 5.奉仕に身を捧げ 一切の見返りを期待しない 6.大宇宙はひとつなり 宗教もたったひとつなり 7.万物の出生は ただひとつ 一切の差別はない 8.神は永遠の霊なり すべての中に息づいている 御霊(みたま) 相手の中心の 御霊と 自分の中心の御霊は 大いなる神の 御霊と同一である どんなにわがままを言おうが どんなに怒ろうが 御霊は依然として光っている この 御霊の光りは 地球を覆い 太陽系を覆い 銀河系宇宙を覆い 大宇宙を覆いつくしている 短気な人も 愛深き人も みんなみんな この力を発揮している ただし気がついている人と 全く気がついていない人がいるが 平等に力を発揮している 相手の 御霊は素晴らしい 自分の 御霊は素晴らしい そして全ての全ての人々の 御霊に 感動を持って接するのである 相手の 御霊と 自分の 御霊は 遠き古(いにしえ)の昔より 一瞬たりとも離れたことはない これから後(のち)も 一瞬たりとも離れることはない 我の 御霊は 全ての人々の 御霊を指し 全ての人々の 御霊は 我の 御霊を指している 御霊において差別は一切なく 高低など微塵もない 御霊においては 完全に平等である この 御霊こそ 大いなる神の源なのだから……… 相手の 御霊も 自分の 御霊も どんな時でも溶け合ってひとつであり どんな場所でも溶け合ってひとつである そして燦然と輝いている 永遠にその光は変わりなく 光続けている 神の望みを聞く いつも内なる神我に 問いながら生活をする どんなことをしたら良いか 何が喜ぶか 優先順位は何か これらを問いながら 真剣に生きていく 自分の自我の望み 自分の自我の要求を知る人は多い しかし大いなる神の望み 内なる神我の望みを知る人は少ない ゆえに神我の意志を尊重して 真面目に取り組んて生きていく 内なる神我 あなたの良心であり あなたの無私の意識であり 大いなる神の源と直結の部分である この部分こそ あなたが行きていく上で重要である 今日一日生きていく上で 大いなる神は何を私に望んでおられるのか 何が出来るのか 何から手を付けたら良いのか…‥を 聞きながら生きていく人と そうでない人との差は天と地の開きができる あなたはそれのできる人である 自我の要求より 神我の要求に耳を傾ける人である 人類の幸せヲ願う人である 国の豊かさより地球の調和を優先する人である 大いなる神はあなたをいつも このように信頼している 例え裏切ったとしても この信頼にはヒビが入らない 3回裏切っても 10回裏切っても 大いなる神のあなたへの信頼は 微塵も変わることはない 100回裏切っても 1000回裏切っても同じことである 内なる神我に目覚めて 大いなる神の望みを知ろう 知ったならばそのために力を尽くそう 一瞬一瞬に全力を傾けて… 大きなところを目指すのではなく 貴方のいま出来ることから始めよう 今できる小さなことから… やがてその小さなこととが大きくなろう 大いなる神の望みは いつもちいさなことからスタートする |































































































