date :2017年11月
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- 102
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- 2017.11.30 Thu
昭和天皇の自霊拝とお釈迦様の瞑想は同じ♪貪・瞋・癡の正しい解釈♪即身成仏は宇宙即我♪高橋信次師・園頭広周師
天皇と自霊拝
園頭広周師の教えるところによると、昭和天皇は自霊拝をされていたというのであります。自霊拝というのは、出雲の山陰神道家に古来伝えられてきた精神統一法で、自霊拝(アジマリカン)とは字の通りに自分の霊を拝むと書く。人間は神の子であります。
自分で自分に内在する神霊(神我キリスト・内なる神・仏智)を拝むということであるが、釈迦の禅定(瞑想)がそれであった。
高橋信次師の指導した方法も「自分に内在する神の霊を自分で拝む」という自霊拝であったと園頭師は言う。その自霊拝を日本人で一番厳修しておられたのが昭和天皇であったと言うのです。
園頭師は次のように述べている。
「私が宇宙即我を体験した時、私は決して無念無想になることをしなかった。第一回目に宇宙即我を体験したのが昭和十五年であり、「生長の家」を本当の正しい信仰団体にしたいと思いました。
昭和四十年に生長の家本部直属の飛田給練成部長になった時、私は調布市飛田給の本部道場の大広間で「自霊拝」をやった。そうして「人間の心は宇宙大の広さを持っている」ことを再々確認した。
戸田秀一先生から佐藤定吉博士のことを聞き、天皇陛下が「自霊拝」を実修なさっておられることを聞いたのはその頃であります。
この自霊拝が建国以来天皇家に伝わる行法であることを一般に明らかにされたのは理学博士・佐藤定吉先生であった。
私は昭和四十年、国民会議の委員として出席なさっている時、同じ委員の正岡岩三郎、戸田秀一両先生から佐藤定吉先生の『日本とはどんな国』という著書を頂いた。
これは佐藤博士がクリスチャンとして五十年間聖書の研究をされ、そうして『天皇行法』を知られたその総決算であった。」、と。
禅定と自霊拝
園頭師はまた言う。「自霊拝とは釈迦がなされた禅定(反省によって心を浄化した後に瞑想すること)でもあります。釈迦は、人間は神の大生命より現われた神の子であることを悟られた。
この自分と宇宙の大神とが一体であることを自覚(父と子は常に一体)して 「宇宙即我」の境地に入られた。この釈迦の行法、禅定(瞑想)は高橋信次先生によって次のように説かれた。
一、人間は神の子であります。
二、自分の心が黄金色に光り輝いていることを心の中に描きなさい。
三、自分が神の光に包まれていることを想念し、自分の身体の廻りに光の輪を描きなさい。
または、
一、心と肉体の調和を図りなさい。
二、心をまん丸く風船玉みたいに黄金色に描きなさい。
三、自分の身体の廻りに神の光の輪を描きなさい。
と説明された。自霊拝という天皇行法は、釈迦が悟られた時になされた禅定・瞑想であったのであります。」、と。
このように、釈迦がインドに出生して正法を説かれてから今日、「高橋信次」という名において出生されるまで、正法を説くにふさわしい国とすべく天上界より守られてきた日本。
その日本の中心者である天皇家に、代々、禅定すなわち自霊拝が実践しつづけられてきていたことは不思議という他はありません。
それは、敗戦という体験を通してはじめて国民の前に明らかにされたのであります。インドで阿しゅく如来として正法を説かれた方が、日本に神武天皇として出生されたのであれば、神武天皇がその内在された記憶(智慧)を甦らせ、正法の禅定すなわち自霊拝を実修され、それが現代まで連綿として続き、昭和天皇が実修されていたことは当然といわなければならない。
仏典の〃貪・瞋・癡〃の正しい解釈について
この難しい経典、仏典を仏教学者、宗教学者は、研究するわけである。古代インド語で語られたものが中国の漢字に翻訳され、それを日本語で読むのだから、いくら頭の良い学者でも難しいのは当然と思う。
ましてや、仏典や経典は、お釈迦様御自身が書き残されたのではないから、それはそれは大変なことだと思うのだ。このような理由で、〃貪・瞋・癡〃なる、若い人が読めない言葉が出てくることになる。
ところで、古代インドの時代、お釈迦様の本体エルランティであった高橋信次師はこの貪瞋癡を「心の三毒」と題して「愚痴」「怒り」「足ることを知らぬ欲望」と、わかり易い言葉で解説した。
それでは講演の中から高橋信次師。
「このようにして、それぞれが愚痴をこぼしたり、怒りの心を持ったり、足ることを忘れたりするこの三つのことを「心の中の三毒」と言っています。この三つの毒を、我々は日常生活の中から抜くことが大事なのです。」
同じく、高橋信次師の「ことば」の中から「心の三毒」を参考にしていただこう。
「 人の精神と肉体を、もっとも不安定にする想念は、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望の三つである。いづれも自己保存に深く根ざしているからである。
愚痴は、神の子の己れを否定し、人間疎外感と孤独を生み、怒りは破壊を意味し、足ることを知らぬ欲望は自己を失わせる最たるものである。
こうした想念を霊視すると、その周囲は、黒、赤、灰色の妖気が漂い、魔王、地獄霊、動物霊が必ずといってよいほど姿を見せている。
いうなれば、あの世の最低の悪霊に身も心も蹂躙されていることを意味する。精神と密着した私達の肉体は、思うことが直ちに現象となって現われる。笑いは血液の循環をよくし、胃腸の活動を活発にさせる。
反対に、怒ったり、悲しんだりすれば、心臓や睡眠に影響する。想念のあり方如何が、肉体的現象となって現われてくることは、誰しも経験しているであろう。怒ったり、悲しんだりして、食欲が減退し、睡眠がとれないと、仕事に影響し、人間関係の判断まで狂ってくるであろう。
つまり、こうした想念は心の平衡を失わせ、精神まで不安定にしてゆく。心が不安定になれば、家庭や職場での協調関係がうまくゆかず、こうした状況が長びけば、やがて仕事も行き詰まり、病気や災難を誘発する。
こういうように、想念は、その人の心と肉体に敏感に反映していく。いうなれば想念は、ものをつくっているのである。心が中道を知らず、また中道を失うと、眼や耳や口等を通して肉体中心の業想念に支配されてゆく。
自分で自分の心を汚し、神から与えられた肉体まで汚してしまうことになり、今生での自分の運命、天命を狂わせ、新たな業因をつくってゆくことになる。
今生の原因が、今生で清算され結果とされればよいが、清算されない時は、あの世に持ち越し、来世でそのおさらいをしなければならない。
つまり、もう一度今生と同じような環境の下で修行し、自分の魂をテストしなければならない。はっきりいうならば、大抵は、原因と結果の堂々めぐりをしてしまうだろう。
二千年の昔も今も、心の面ではあまり進歩がないというのも、こうしたところに原因がある。悪循環からなかなか抜け出せないからである。
悪循環の最たるものはなにかといえば、愚痴と、怒りと、足ることを知らぬ欲望である。この三つを称して、心の三毒といい、業想念の中でも、最も悪い原因をつくり出す。よくよく心しなければならい。」
お釈迦様の45年間は永遠の神理の道
高橋師は、「古代インドの時代、釈迦の四十五年間に説かれた道は、永遠の神理でした」と言った。また、高橋信次師の記述の中から
「 ブッタの説く法は、自然の姿を通して、人間の在り方を、当時の衆生に説き明かして行きました。ブッタの教えは、八正道を心の物差しとして、
調和された安らぎの道につけと常に説き、転生輪廻の法を肉体的に示し、万生万物は相互の関係にあって安定しているのだから、感謝の心を持ち、報恩の行為を実践することが大切である、と教えるのでした。
報恩の行為としては、自分の環境に応じて奉仕と布施の実践活動をする。社会人類のために、果たすべき人の道、を教えるのでした。
そして、その四十五年間の道は、慈悲と愛の塊りのようにすごしたもので、常に、「人類はみな兄弟だ。貧乏人も金持ちも、地位の差に関係なく、
みな神の子であり、生まれた環境は自らが選んだものであり、その環境を通して悟り衆生を済度するための目的を持って生まれてきたのである」と、原因と結果の法則(因縁の法則)を説き、悟りへの道を示したのでした。
運命と因縁の法 善因善果 悪因悪果
お釈迦様が説かれた「因縁の法」は、高橋信次師によって「善因善果、悪因悪果」というわかり易い言葉で言い表わされた。この因縁の理法は大宇宙の法則であり神理である。
誰にでも変えることの出来ない大自然の法則である。因縁の法とは、悪い原因をつくれば、その内に必ず悪い結果が表われるということである。
また逆に善い原因をつくれば、必ず善い結果が表われてくるということである。或る国が、他国を攻撃、侵略したりしたことが、しばらくして、その悪い結果がその国に起るということである。
また、その逆に、困った国に技術援助をしたり、食糧の布施をするなどの無償の援助等の善い原因をつくっていると、その内に必ず善い結果がその国に起ってくるということである。
これは、まったく誤りのない寸分違わない方程式である。
このように人の力や知恵によって変えられない絶対不変の法則という意味で、神理、真理、「法」と呼んでいる。
反省と後悔の違い
「反省は神の慈悲である。この因縁の法が、すべてあらわれてくるものであれば、人類は遠の昔に存在していないでしょう」、と。
「反省は神の慈悲です」と高橋師は教えた。
ここで言う「反省」とは、もう二度としないということである。〃悪かった、悪かった〃と自からを責めとがめることではなく、その原因を二度とつくらぬことが、ここでいう「反省」となる。
悪かった、悪かったと口では言いながら、同じ間違いを何度も繰返す人がいるが、これは反省ではなく、「後悔」という。
反省と後悔とはまったく次元が違う。まさしく、反省は神の慈悲なのです。 悪因が悪果であると知ったら、一日も早く反省して修正する方が良いのだ。そして、良い原因があって、良い結果となっているものなら、ますます心を大きく豊かに魂をみがくこと。
高橋師は、現代の仏教など一つも勉強しているのではない。
いつも「私はコンピュータ会社の社長であり電気屋ですから」と、
そして「習ってもいない仏教の話しが、古代インド語が、中国時代の経文が口をついて出てくるのです」と、言っている。
正しい宗教・正しい信神とは何か
宗教の世界というのは、人生の目的は、善いことをすることを通して、大生命、即ち神そのものの存在を知り、神と自分との関係を自覚することにある。
子供が、ふる里を想い、母のふところを切ないまでに思うように、人間が神を想い、神を切ないほどに求めるのは、人間は神の子だからである。
神の子である人間が、神の心に波長を合わせることを通して、どうしても善いことをせずにはおれないという心の働き、これを道徳というのである。
だから現在の日本の宗教団体は宗教団体ではありません。
道徳修養団体である。
宗教というのは、神理(正法)を説いて、それによって悟り、霊の向上、人格の完成、人間性の向上を教え且つ目覚めさせるものである。
高橋師は「※宗教」とは「宇宙に示す心の教え」と解説し、「信心」とは「自分の嘘のつけない善なる心(内在キリスト・神我・仏智)を信じること」と教えた。
「信神」とは、神の子人間が、人間の中に宿る善なる心(神我)・神の心を信じ、大宇宙大神霊、宇宙創造の神を信じることとなるわけである。
天上界の扉を開くのは貴方の調和の光です♪
日蓮は他宗はすべて邪宗で日蓮宗だけが絶対だとはいっていません。
ところが、日蓮宗では南無妙法蓮華経を拝んでいてもあっちは邪宗だ、こっちは本物だとか馬鹿みたいなことをいっているのです。こういうことをまず修養道場で徹底的に反省させられるのです。
ある人はここで十年いや二十年、三十年やっても卒業できない人がいます。この段階がまず第一段階、さらにその上に幽界というところがあります。一般に皆様がいう天上界というところです。
天上界へは後光という光がなければこの国の扉は開かないのです。
ちょうど電気の光で開く扉と同じようなものです。
皆様の心が調和されて光子体という肉体の光が強ければ強いほど世界がどんどん開けて参ります。これはちょうどエレベーターにのっていると思って下さい。
そしてこのエレベーターは無限に続くエレベーターなのです。私達はよくあの世に行く時に、途中で死んだ人達がついてきます。白い雲にのって途中でみな消えて知らぬ国へ行ってしまいますが、それでも結構、天上界へ行っているのだからいいなあと思います。
その天上界の一番上の方の世界が仏教でいう如来界、または金剛界ともいいます。その世界は全く下の方から見れば、太陽だとも神様だともいわれます。この世界にはスモッグなどはなく晴天です。地獄界へ行くとちょうど谷間のような暗いところと思って下さい。
そんなところへ行くのもこの地上界を去る時に皆様自身が自分で決めてしまうのです。すなわち、神も信ぜず人を恨み・妬み・そしりした連中、自分勝手な気ままなことをした連中は奈落の底へおちます。土管の中のような真暗な世界です。その時に必ず誰かが救いに来ます。
死んだと思っていても大抵の人はこの地球上に執着がありますから、自分の死体の側にしばらく居ります。そこで自分で眺めていて、生きている親や兄弟と話が出来ないものですから、そこで疑問をもち始めます。
その内にお坊さんが来て「ああ、自分は死んだのかなあ」ということになります。ところが仲々お経をきいても難しくて解らない。
お経はいくらお坊さんが一生懸命あげてくれても難しくて解りません。
ですから、もっと解り易く、
「貴方は死んだのです。生きている時に、八正道ということを知らずに貴方はこういうことをした。だからこういう面を修正しなさい。反省しなさい」
とよく教えてあげることなのです。そうしますと口の利けない死人の顔がスーと赤くなります。同時に硬直しているのが柔らかくなります。こういうことは機会のある時に試してみて下さい。」、と
「即身成仏」の真実は「宇宙即我」
「空海の古代インドの時代は、釈迦に竹林精舎を寄進されたガランダ長者という方であります。空海は心眼を持っており、病人に憑く憑依霊が良くわかったために加持祈祷をした。
そして『般若心経秘鍵』の中に、
『私はインドの当時、リヨジュセンで釈迦の説法を聞いたことがある』
と書き残され、過去世の時代を思い出していた。」
園頭広周師の記述の中から
「空海は日本から渡って行った当初、西の門近くの西明寺を宿舎となさっていられたが、のちに南の方の青竜寺に移られ、そうして恵果和尚に密教を習われる。
恵果和尚の師はインドから来られた不空三蔵で、恵果和尚はその一番弟子であった。不空三蔵はお釈迦様の分身であります。
高橋信次先生がよく憑依霊、動物霊を除去される時には『不空三蔵、この霊を連れて行きなさい』といっておられた。空海即ち弘法大師が修行された中で最も大事なのは『即身成仏』であります。
即身成仏、即ちこの身このまま仏であるとの自覚は『宇宙即我』であります。その『宇宙即我』の相を現わしたのが『曼陀羅』ですが、今は高野山ではその真義が見失われてしまっている。」
空海は、釈迦に竹林精舎を寄進したガランダ長者の生まれ変わりと高橋師は言い残した。仏陀が正法を説かれるときの経済的な援助者を「大黒天」というのですが、ガランダ長者は釈迦の大黒天であったのであります。
天才少年キムは
ギリシャ時代の天才科学者タールスだった
天才と言われる人は霊道(心の窓)を開いている人だと高橋信次師は言った。幼少の頃、天才と言われた人が、二十歳を過ぎれば、〃ただの人〃と言われるのはなぜなのだろう。
心に曇りのない時には、守護霊や指導霊の協力を得て天才的な力を発揮できるが、年齢を重ねるにつれて、次第に心を失っていく。つまり、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望、そして天才と言われることへの慢心と増長慢となって己を忘れていく。
従って、守護霊や指導霊達は天才と言われていた人が、心の曇りを作っていくために指導できなくなる。それは、直感、予感の中から浮かびあがってくる天才的な力も閉ざされ、凡才となってしまうのである。
話は少し変わるが、信次師が憑依霊を取り除く時、
「私は自分の心をしっかりと正し、うぬぼれや虚栄心が無いか、そして謙虚な自分であるかどうかを確かめると同時に、〇〇を救って下さいと心に念じた」、
と著書に講演に、至る所に出てくる。自由自在に力を発揮できる信次師ですら、いつも自戒していたのである。天才と言われる人よ、心して聞いて欲しい。
一九七六年(昭和五十一年)三月、小田原講演会での講演の中から、信次師の言葉を聞いてみよう。昇天する三カ月前の講演であった。
「丁度、四〜五年前、キム少年という朝鮮の子供が、東大の教授が出題した不定積分を、わずか五歳の子供がテレビで解いていました。私達が高等学校でやったものです。
大学の一年位で学んだあの不定積分を、五歳の子供が解いたのです。それを天才というのでしょうか。そうではありません。彼は永い転生の過程に、過ってギリシャの時代にタールスという偉大な科学者だったのです。
その心の窓が開かれていたから、彼はそのような数学を解くことが出来たのです。しかし、あのキム少年が増長慢になった時に〃二十過ぎれば唯の人〃になります。
彼が謙虚で、「自分ではない、次元の違った天上の世界からの協力を得ているのだ」という感謝の心を持って行為をしたならば、彼は又、より偉大なる力を出すでしょう。
同じように、大人ばかりが道を説くのではありません。小さな子供でも心の窓を開けば、大人に説法をするようになるでしょう。
そのような人々が既に隣の国の中華民国にも、我々のグループが出ております。それは、わずか七歳の子供です。それが大人達の前で道を説いております。不思議でもなんでもありません。
こうして我々は、心の窓を開いた時に、智性という無限に近い、そのような力を与えられていくものなのです。
その時、我々は物質とか地位とか名誉とか欲望だけを満たそうとするもの、そのものの愚かさを自分自身で納得出来るようになります。
そして、人間の心が本当に調和されてくれば、より豊かな文明が発達し、調和された社会が築かれてゆくものなのです。それだけに心を失ったところの文明は、やがてお互いに環境を破壊してゆくだけなのです。
人間の価値観、心こそ永遠のものであり、我々はこの偉大なる心を今、盲目の中から探り当てた、その光明を調和と安らぎの中に、我々は生活することが大事ではないでしょうか」
次に、信次師の著述から引用しよう。
天才児の才能は、九〇%の潜在意識の一部が、その子の大脳に働きかけるためにおきるものです。その子の守護霊が、あの世で学んだことをダイレクト(直接)で教えるために、本人が今世で学んだことのない、大学生でも解けないような高等数学を解くことができたりするのです。
しかし、その天才児が、増長慢となり、俺は偉いというような優越感や、おごる心に支配されますと、守護霊の働きは止まってしまいます。
これはなぜかと言いますと、たとえば、電気を自由に流すためには、ゴムやベークライトでは電気は流れません。銅、アルミといった導体物質でなければなりません。
これと同様に、守護霊は光に包まれており、光の電磁的作用でその者に教える(通信する)ので、それを受け入れる導体物質(表面意識)が増長慢という不導体物質のベールに包まれると、光を通さなくなるからです。
人間の精神のエネルギーを受ける心に、慈悲と愛とは正反対の、人を見下す増長慢や怒りの想念があっては、光が通じなくなるのは当たり前でしょう。天才が一夜にして鈍才に変わるというのも、こうした理由によります。
『心の発見』「 年が若いから、子供だからと言いましても、守護霊は全部大人なのです。」講演「実在界と現象界」より高橋信次師
おまけ情報、愛の胎教でIQ160の天才児が発現するかも♪
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アマゾンのレビューからの引用ですが・・・♬
ジツコさんは日本人で30年前の方。
今の4人のお嬢さん達はその後どうなったのか知りたいですね。
本文を読むと愛情溢れた昔の夫婦のあり方が伺えます。
天才児を作る気は更々なく、ご夫婦で胎児の頃から愛情を掛けまくる話です。
アメリカナイズされた愛情を持って胎児を愛そうってお話です。
20歳手前までの4人娘の話。
胎児を愛すると、産まれた際には知識の吸収力が異常発達して、副産物に天才が出来た内容です。
内容は恐らく家庭保育や七田式がこれの後継にあたるのではと思います。
基本はこれならば敢えて何百万もなさる高額な授業料を払って、超天才児を作らなくても充分だと思いますが。
育て方は人それぞれなので、否定するつもりはないです。
今の4人のお嬢さん達はその後どうなったのか知りたいですね。
本文を読むと愛情溢れた昔の夫婦のあり方が伺えます。
天才児を作る気は更々なく、ご夫婦で胎児の頃から愛情を掛けまくる話です。
アメリカナイズされた愛情を持って胎児を愛そうってお話です。
20歳手前までの4人娘の話。
胎児を愛すると、産まれた際には知識の吸収力が異常発達して、副産物に天才が出来た内容です。
内容は恐らく家庭保育や七田式がこれの後継にあたるのではと思います。
基本はこれならば敢えて何百万もなさる高額な授業料を払って、超天才児を作らなくても充分だと思いますが。
育て方は人それぞれなので、否定するつもりはないです。
我が家の様なお金に困っている家庭向きの胎教です。
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- No
- 103
- Date
- 2017.11.26 Sun
瞑想的反省で守護霊・指導霊との交流♪釈迦一番弟子のシャリー・ブトラー物語♪知花敏彦師・高橋信次師・園頭広周師
心の原点 高橋信次著 と 華光如来
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知花敏彦師と高橋信次先生について 最近は高橋信次先生にハマってご著書を購入し拝読しておりますが、正法については知花先生の宇宙神理の教えからしましても、全く矛盾のない素晴らしい教え(正法)だと感じました。 ですが、木下さんのご著書から、これは本物で間違いないという強い直感がありまして、高橋信次師に大いに興味を持ったという次第で御座います。 知花先生の170話分のご講話やご著書を熟知している身から申し上げますと、知花師のたまに出てくる言葉や世界観が高橋先生の正法とかぶる部分が結構あり、その点からもパズルがピッタリハマったみたいな感じ(エル・ランティ・無限地獄とか)で、本物の教えだと心から実感したのでした。 知花師があまり触れていなかった、心の正し方や、あの世の世界について、かなり事細かく詳細にご著書で記載されておりますので、長年の霊的な知識の謎が解けた様な感じで、心が晴れ晴れしちゃいますね。賢くなったみたいで♪ 高橋先生は事細かい事まで拘る凝り性なご性格なのがよく判りました(笑) 私も凝り性タイプですから、妙に親近感を持っちゃったのでありました♪ 多分ですが、知花敏彦師は、細かい所はすでに高橋信次師が説かれているので、もっと突っ込んだ悟りの本質の部分、「全てを愛し全てを赦す、全ては自分・全ては神、全ては一つ」の方に重点を置かれたのだと思いました。 高橋信次師の正法は、知花先生の教えを熟知している私から見ましても、間違いなく本物の教えだと断言出来ます。しかも、高橋先生のご著書は、中古が安くてお求めやすいので、お財布の点からもとってもオススメで御座います。 心の原点 高橋信次著 からの引用ですが・・・♬ 神は光なり 我とともに在り 瞑想的反省の意義 禅宗の座禅の目的は心を空(カラ)にし、その空の中から己を見出そうとするらしい。一般的には無念無想になることが、仏を見出すことになるらしい。 ところがゴーダマ・ブッダが教えた瞑想はそうではない。毎日の想念と行為の在り方が、中道に適ったそれであったかどうかを確かめ、誤りがあれば、神に詫び、智慧と勇気と努力で、二度とその過失を繰り返さない自分を修正して行くことにあった。 したがって、瞑想の目的は反省にあって、1日24時間の、正しい生活を目指すものであった。瞑想のための瞑想ではないのである。何事によらず、私達は反省することによって前進する。学業にしろ、職業にしろ、人生問題にしろ、反省なくては進歩もない。 私達の人格を形成する心と行為の問題でも、反省を通じて培われ、安らぎある自分を見出す事が出来る。反省は、いつ、どこにいても可能だし、慣れてくれば、一秒一秒がそれに繋がっている生活といえよう。 しかし瞑想による反省は中身をよく深くし、充実したものにする。何故かと言うと、中道を尺度とした反省をすると、必ずと行ってよいほど守護霊・指導霊がそばに来て、その反省を助けてくれるからだ。 また瞑想は、軽く目を閉じ目を開き思念を一転に集中させる、最も良い方法なのだ。目を開けていると、思う、考える事がどうしても散漫になり、まとまらない。外界の動きに気を取られるし、考えが浅くなる場合が多いのである。 私達の心と肉地の関係は先にも触れたように、別個に存在している。目覚めている時はそれが一緒になって生活するので、肉体そのものが精神を作っていると考えがちだ。 心と肉体は、心、意、大脳、五官、五体という順序から伝わる。私達が物を見て美しい、醜い、と感ずるのは眼という五官から大脳に、そして意に伝えられるからだ。もし、就眠していれば、第三者が目を開けさせても美醜の感覚はおこらない。 私達の心の姿は、丸く大きなものだが、五官を通じて、様々な歪みを作っていく。それが中道という尺度を持って、外界から影響を正しく判断していれば、心の歪みは生じない。 ところが通常はそうはいかず、痛い、かゆいという神経が心に伝わるために、五官や五体を中心とした見方、考え方を抱くようになっていく。そのために、意が正しく働かずに歪みを作っていくのだ。 恋愛が進行すると、心の中の本能と感情が以上に膨らみ、智性、理性は小さくなっていく。本能と感情が膨らむと、心の姿は、ハート型に変形する。ハートとは心ということになっているが、本来の心はハート型ではないのだ。 恋愛感情を抱くと、アバタもエクボで相手のいい所しか見えない。つまり相手を正しく評価することが出来ない。智性、理性が小さくしぼんでしまうので、これらの機能が十分働かないために起こるからだ。 一方智性や感情が異常に膨らむものもある。これは、主義や思想に溺れるために起こる。 瞑想的反省は、こうした心の歪みを修正し、自己の心が、現在どのように傾いているか、膨らんでいるか、人によっては四角四面もあるし、三角形になっている人もいるのだ。心の形は様々に変化している。 心の歪みは、意である自分の意思、つまり考え方、思い方が偏っているために起こる。苦しみ、悲しみの原因は、全て、こうした心の歪みが作っていく。丸く、豊かであれば、心は安らぎ、不動の自分を見出すことが出来るのだ。 三昧の境涯とは瞑想の極致 反省が進み、反省の結果を行為に現していくと、瞑想の境地が進んでいく。つまり、守護・指導霊との対話が可能になってくる。さらに進むと、自分の魂が肉体から脱け出し、あの世の様々な世界を見てくることも出来る。また、遠くに離れた人の様子を知る事もできる。 もっと進むと、天上界の人達と交流が頻繁になり、いながらにして、物事の推移が手に取るように分かってくる。三昧の境涯とは、瞑想の極致を指すのである。 無念無想となり、気持ちのよい状態を言うのではない。無念無想は、危険極まらいない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識に侵入してくるか分からない。瞑想中でも自分を失ってはならない。 大我の自分は、どんな場合でも、生き通しの自分であり、瞑想が深くなれば、ますます大我(別名を無我ともいう)の自分が躍動してくるものである。 反省の瞑想は瞼(まぶた)を軽く閉じ、瞼の中の眼は真っ直ぐ前方を見つめる。瞼を閉じると大抵、眠気を促し、反省が思うようにゆかないものだ。 そうならないために中の眼は前方を見つめるようにするのだ。 眠くなると、大抵は中の眼は上に移動する。疲れた時、夜が遅い場合は、瞼を閉じると、自然にこっくりが始まる。瞼が開いている時はそうでもないが、瞼を閉じるとそうなるものである。これは自然現象であり、生理的なものなので仕方がない。 しかし、そうした場合、中の瞼を、まっすぐに前方を見定め、意識をしっかり定めていると、そう眠くなるものではない。そればかり、心が一点に集中でき、反省が比較的容易に出来るものである。 瞑想というと、普通は黙って目をつぶり、様々な妄念が起きないよう、つまり雑念が起こらないようにすると考えがちだが、これではいけない。瞑想の意義はまず反省の瞑想を繰り返し、守護・指導霊の光が届いた時に現れてくるものだ。 反省もせずに、いきなり、雑念を払う瞑想をしたり、そうした習慣が身に付くと、心が歪んだままであり、そのために、歪んだ心に通じた悪霊を引き込んでしまうのである。 正道を知らずして、座禅をすれば悟れるという事で瞑想の行を積む内に、魔に犯され、精神分裂や肉体的欠損に悩む者が出てくるのはそのためである。 したがって、反省は瞑想にとって絶対欠くことの出来ない基本的な行法であり、心の曇りを除く、唯一の方法なのである。瞑想はどうしても夜になる。朝、昼は仕事に従事しなければならないし、仕事をせずに瞑想ばかりしていたら、生活に問題が生じてこよう。 夜になると1日の疲れも出るし、前記のように眠気を催してくる。どうしても反省に集中できないという場合は、瞼を軽く開け、座している少し前方に視点を定め、反省するようにすると、眠気は解消できる。反省に慣れてきたなら、再び目を閉じ、瞑想の反省に入って行く。 夜は昼間と違い、雑音が少ない。草木の活動も鎮まり、動物たちの眠る。それだけに、夜の瞑想は、深くなり、心が統一しやすい状態になる。 同時に、あの世の天使たちの通信も受けやすい状態になる。昼間は、 家事や仕事に気を取られるので、天使たちの通信をキャッチしにくい。 ゴーダマ・ブッダの瞑想が、殆ど夜、それも今の時刻で午前1時から3時の間に集中したのもそのためであった。 ただし反省の瞑想をせずに、雑念を払う意義の空白状態や執念に心を奪われると、魔が入りやすい。これは昼間よりも危険である。百鬼夜行と言うように、夜は魔も活動しやすいのである。 反省の瞑想をしておりながら、それを終えて夜眠れなくなるような場合は、反省の仕方に、どこか間違いがあり、反省ではなくて、何かにとらわれているのである。 こうした場合は地獄霊が近くにいて、本人の意識に入り込もうとしており、誠に危険である。こうした状態が毎夜続くとノイローゼになっていく。これは反省ではなく執着なので、こういう時は反省の瞑想はしばらく休まれた方が良い。 正道に基づいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っている。魔は絶対に近寄れないものだ。したがって、瞑想を終えればすぐ就寝出来る。 こうして、反省の瞑想を続けて行く内に、守護・指導霊との交流が始まり、対話が可能になってくる。つまり、心の曇りが晴れてきて、いつ、どこにても、守護・指導霊の導きが可能になってくる。 瞑想は、第1段階から第九段階まである。守護・指導霊との対話は、第四弾界である。 第一段階は、反省である。 第二は、反省後の心の統一。 第三は守護・指導霊との交流となり、第四に入る。 こうした区別は、反省を重ね、心の曇りを払い、日常生活に反省の結果を行事ることによって、理解されてくる。 第五、第六、第七と上に上がっていくが、第六まで行く人はかなり限られてくる。第八は、如来の瞑想であり、座していながら外界の動きが手に取るように分かってくる。第九は、ゴーダマ・ブッダ、イエス、モーゼの瞑想である。 この瞑想は過去世の修行を積み、神と直接交流できた人の境地である。ここへは余人は近づくことが出来ない。過去世の修行により、また今世で徳を積む事によって、第六までは誰でも上がれる。 しかし、それ以上になると、中々難しいものである。いずれにせよ、反省の瞑想は、モーゼも、イエスも、そして釈迦も行じて来た大事な行法であったのである。 人類は、神の子としての人格を持って、大宇宙の各細胞と共に、神の心である大調和に、ユートピア建設のために、永遠の転生輪廻を繰り返している。自ら、より豊かな広く丸い心を完成し、大生命に調和するため、今も輪廻をしている途上なのである。 仏智が開かれる道 地球という場に適応した肉体舟に乗って、私達の魂・意識は、その目的を果たすため、不安定な、個体的物質界の混乱した不調和な世界にあって、一秒一秒の過ぎ行く中であらゆる体験を積んで修行を続けているのである。 私達が体験した一切の諸現象、想念と行為は、自らの意識の内部にある記憶連合領ともいうべき想念体に記憶されている。過去世の体験と想念も、潜在された想念体に、奥深く祕められているということだ。 この偉大な宝庫の扉を開くことが出来るのは、神でも他人でもない。自分自身の正しい想念と行為の積み重ねによって、神の心と調和された時、仏智は開かれるのである。 仏教では、摩訶般若波羅蜜多と教えている。内在された、偉大な智慧に到達するということなのである。 「神は光なり、我とともに在り」その実在を知るためには、正法を己の心のもの差しとして、生活行為の実践をする中で発見するしかないだろう。 私達の心が調和され、安らぎの境地に到達し、執着を離れて足ることを悟った生活が実践された時に、光の天使たちが、私達の心の中に現れるのである。 私達の心の準備が出来た時、指導霊や守護霊たちの助力が得られるのだ。 これに反し、混乱した不調和な心と生活が積み重ねられた時には、暗い地獄霊たちに見まわれ、さらに心の混乱が生じ、分裂症という病いで己自身の心身を失い、人格が変わってしまう。しかし、自己の心を取り戻した時には、その地獄霊たちは側に近寄ることは出来ないのである。 私達の魂は、転生輪廻の過程において造り出したカルマの状態と、神理の悟りの程度によって、その学習の程度が決まるのである。 私達の想念と行為を裁くことが出来るのは、他人ではなく、自分自身の善我(神我)なる神の心(真我・真の自己)であるということだ。 己の心の王国の支配者は、己自身だからである。罪は、正法を理解せず、実行していないために造り出したもので、それは、自らの心に歪みを造ると共に、他人にも迷惑をかけることになるだろう。 目に見える肉体舟のみが、私達ではないのである。肉体舟は、私達の一つの表現体で、その船頭である不変の魂こそ、本当の自分自身であるといえよう。 心の中に、イライラ、恨み、嫉妬、怒り、足ることを忘れた欲望などが生じたならば、すぐにその原因を追求すること。そして反省することだ。暗い想念を造らないために-----。 そして、「我は神の子、我が心よ、光明に包まれよ」と自らの誤りを神に詫び、心に祈願せよ。その時、我々は、ゴールド・カラーの慈愛の神の光に満たされ、安らぎの境地に達することが出来るのあろう。 私達の魂・意識(神我キリスト大師・内在の神)こそ。己自身の最も偉大な指導者であり、内在されている潜在意識の中には、転生輪廻の過程に体験した偉大な智慧の宝庫があるのである。この宝庫の扉を閉めているのは、自分自身の心の不調和な想念の曇りなのである。 華光如来(園頭広周著)からの引用ですが・・・♬ お釈迦様の随一の1番弟子 シャリー・ブトラー(園頭広周先生の前世)のお話 釈尊の十大弟子と言われる人達がいる。 シャリー・ブトラー、マハー・モンガラナー(大目連)を始め、マハー・カシャパー、アルニッター、スブティー、プルナー、マハー・カッチャーナ、ウパリ、ラフラ、アナンといった方々である。 もちろん、釈迦教団があった時からそのように言われていたわけではなく、後世の人達がいい始めた事であるが、それでも釈迦教団の弟子たちの中にあっても、特に優れた人達であったのだろう。それが後世このような尊称をもって呼ばれる所以(ゆえん)である。 そしてその筆頭に挙げられるのが、シャリー・ブトラー(サリープッタ)である。紙園精舎を建てた時の話である。その建てる場所が、コーサラ国のシラバスティーの郊外の風光が一段と優れた静かな場所であった。 だが、ここで問題が起こった。当時のインドで上層階級を占めていた、一大既成集団であるバラモン教の人々が、大反対を起こしたのである。 彼等からしてみれば、カースト制度で一番上に位置する我々を差し置いて、どこの馬の骨とも分からない連中が、大きな精舎を建設するというのである。心中面白かろう筈はなかった。 この頃はまだ、釈尊の名声もこのコーサラ国までは届いていなかった。何度か話し合ったが結局話しがつかず、それなら力を持って争うほかないという事になり、議論で決着をつけることになった。 当時、バラモンは議論をこととしていた。この議論に負け、自分の名声も家も失ってしまった者もいた。この当時、バラモンの遊者同士の議論は珍しいものではなかった。 この頃の宗教はバラモン教のみであり、法を説くというよりも殆どは、祈祷呪術宗教になっており、その方法によって幾つもの分派に分かれていた。 現在でいえば何万、何十万も信者のいる、既成宗教や新興宗教の大きな教団の代表に、新しく出来たばかりの数百人程度の教団の、一人の代表者が討論を挑むのである。無謀というより話にならないと思われていても仕方がないことであった。 だが、新たに興った仏教と、在来のバラモン教との公然とした議論は始めてのことであった。一般の人々は好奇心を持って集まり、バラモンの僧達は自分たちの将来に関することになるのであるから、やはり多くの者達が集まった。 議論は七日後と決まった。シャリー・ブトラーはこの議論のなされる日まで、釈尊から聞いた法を繰り返し思い出し、瞑想で仏法により、多くの人が救われていくことを祈り念じていた。 シャリー・ブトラーは、相手の言葉や態度によって心が動かされるという事は全く無かった。相手が感情的に興奮すればするほど、ますます冷静に心を済ませられる人であった。 いよいよ対決の日が来た。バラモンの代表者は、「赤眼バラモン」と呼ばれる人物である。人と議論をしているとその目の周りが赤くなり、底光りのするその異様な眼で睨まれると、それだけで相手は萎縮してしまうのであった。 そんな所から、「赤眼バラモン」と言われていた。今まで、富と名声を欲しいままにしていたバラモン教が、昨日今日出来たばかりの教団に負けるわけにはいかなかった。このような重大な議論の代表者に選ばれたのである。 この「赤眼バラモン」と呼ばれる人物は、コーサラ国きっての大物であり、過去何十人ものバラモンの修行僧達も、論破してきた猛者であった。 シャリー・ブトラーも、優れた人物として名が知られていたのであるが、たかだか出来たばかりの宗教の弟子と、大バラモンでは格が違い過ぎ、太刀打ちできるはずがないと思われていた。 ここの所を仏典には、神通力によって勝敗が決したと書かれてある。赤眼バラモンが、神通力によって花樹を作れば、シャリー・ブトラーは、風を起こしてふき落とし、赤眼バラモンが龍王を作れば、シャリー・ブトラーは、 金翅鳥王(こんじちょうおう:全ての悪魔を食いつぶす天上界の大きな金色の鳥)を作ってこれを降伏させた。遂に赤眼バラモンは、シャリー・ブトラーの威神に服して弟子になった。と、この様に書いてある。 確かに物語としてはこの方が面白い。だが、これは後世の仏典作者の創作である。シャリー・ブトラーも赤眼バラモンも、当時においては瞑想の達人であり、すでに幾つかの神通力を持っていたのであろう、 それを人々に理解してもらおうと、このような書き方になったのであろうが、実際のこの時の勝負は実にあっけなかった。議論も何もなく、アッという間に勝敗が決したからである。 シャリー・ブトラーと赤眼バラモンが、対峙し、お互いの眼と眼を見合ったその瞬間に勝負が決した。多くの人々を慴伏(しょうふく)させてきた赤眼バラモンの鋭い眼光も、シャリー・ブトラーの澄んだ眼で見つめられると、 その威光に打たれて思わず眼をふせ、ついには頭を上げることが出来なくなってしまった。それはちょうど、剣の達人同士が真剣勝負とする時に、お互いの眼を見ただけで相手の力が分かり勝負が決してしまうのと同じであった。 誠にあっけない勝負であった。ただ、集まった群衆が分かる事といえば、シャリー・ブトラーの体が、大きく宇宙一杯に広がったように見えるのに反し、赤眼バラモンの体は、それまで大きく見えていたのに、だんだん小さく小さく見えてくることであった。 群衆はひたすらシャリー・ブトラーの威徳に感じ入り、このことにより、シャリー・ブトラーと釈迦教団の名声はコーサラ国全土に広がり、この地に、紙園精舎が作られる事となり、この紙園精舎の建立によって、仏教は北インド一帯に広がっていくことになったのである。 赤眼バラモンとの勝負は誠に呆気ないものであったが、この時の、シャリー・ブトラーの働きは、後の仏教の広がりを考えるならば、誠に意義のあることであった。また、こんな話も伝えられている。 釈尊の弟子の一人であり、従弟でもあったダイバー・ダッタが、釈尊が自分を、釈迦教団の後継者に指名してくれなかったことに怒り、釈迦教団を割って、独立の教団を作ろうとした時のことである。 この釈迦教団の教団分裂の危機を救ったのも、シャリー・ブトラーであった。この時、ダイバー・ダッタについて教団を出ていったのが、新参の修行僧500人で、その一番最後にシャリー・ブトラーがついて行った。 残った弟子たちはシャリー・ブトラーが、ダイバー・ダッタについて行ったという事で皆動揺し、ダイバー・ダッタは、釈尊の弟子の中でも随一のシャリー・ブトラーが、こちらに来たという事で大いに喜んだ。 だが、このシャリー・ブトラーの行動は、釈尊の弟子を、一人足りともダイバー・ダッタに渡さないための芝居であった。シャリー・ブトラーの法力で、ダイバー・ダッタが寝入ったすきに、シャリー・ブトラーは500人の弟子を説得、全員を釈迦教団に連れ帰り、ダイバー・ダッタの独立を阻止したのである。 当時、シャリー・ブトラーはこのような活躍を幾つもしたのであろう。それが釈尊の信頼につながり、また多くの人がその実力を認め、今日、釈迦教団随一の人物と言われる所以となるのである。 ある人が釈尊に、「あなたの後継者は誰ですか」と聞いた。その時釈尊はこう答えていられる。「それはシャリー・ブトラーである」と。 もし、インドの当時シャリー・ブトラーが釈尊より長く生き、釈尊入滅後の釈迦教団を継いでいたならば、今のような非常に分かりにくい、仏典の残り方はしていなかったであろう。 (それは今生では証明されることになる。今回は高橋信次師〈釈尊〉が先に昇天され、園頭広周〈シャリー・ブトラー〉が残り、その教えを継ぐことになった。そして、高橋先生の教えを、より分かりやすく説明したのである) 晩年シャリー・ブトラーは、釈尊の入滅の近いことと、自分の寿命も尽きることを天上界より教えられた。それを知ったシャリー・ブトラーは、偉大な師の悲しみには堪え難いと思い、最後は自分の生まれ故郷に帰って死のうと決心する。 そして釈尊に、「ナーランダの母の下に帰って死にたい」と願い出る。 釈尊は、自分の入滅の日の近いことを悟っていながら、 「シャリー・ブトラーよ、そなたは先に行くのか」と、最愛の弟子の死を悲しまれながらも、その願いを許した。 シャリー・ブトラーは、マハーチュンダ(シャリー・ブトラーの一番下の弟)一人連れ、母の下に帰った。母シャリーは、大きく成長した我が子の死を、看取らなければならない立場に立たされたことを悲しんだ。そして、偉大な我が子を育てさせて頂いたことを、神に感謝した。 シャリー・ブトラーの死を惜しむ人達が続々と集まってきた。そんななかでシャリー・ブトラーは、静かに息を引き取った。遺骸は火葬され7日間供養が続いた。弟のマハーチュンダは遺骨の一部を捧げて、竹林精舎にいられた釈尊の下に届けた。 この時の、釈尊の気持ちはいかばかりであったであろうか。出家40数年その殆どを、釈尊はシャリー・ブトラーと共にいられた。遊行に出る時も、釈尊はシャリー・ブトラーのグループと行動を共にし、精舎で説法される時も、 シャリー・ブトラーは常に釈尊の側に控え、晩年の釈尊は体の疲れがひどい時など、「背中が痛くて横になりたい、今日の説法はシャリー・ブトラーにやってもらいなさい」と、つどつど説法をシャリー・ブトラーに任せられた。 釈尊自身が一番頼りと,また自分の後継者とも思っていた。最愛の弟子シャリー・ブトラーとは、最早今生では二度と行動をともにすることは出来ないのである。 「シャリー・ブトラーが生きていた時は楽しかった・・・」 シャリー・ブトラーが亡くなった時、釈尊はよくこのような話を弟子達にされ、その後釈尊の体も衰え、クシナガラの地で入滅されるのである。 シャリー・ブトラーが昇天して数百年後、シャリー・ブトラーを火葬した跡に塔が建てられた。最初に大きな塔を建てられたのが、アショカ王である。この時アショカ王は、次のような偈(げ)を作って、シャリー・ブトラー(パーリ語でサリープッタ)の徳を称えられた。 我、サリープッタを礼し もろもろの恐怖より解脱す その名、世にあまねく 智慧、この世に等しきもの あることなし 法の後継者 釈尊の時代、釈尊の教えを継ぐ者として、その筆頭にはシャリー・ブトラーが挙げられた。だが、肉体の寿命により、釈尊より先にシャリー・ブトラーが亡くなったため、釈尊の教えはマハー・カシャパーを中心に後世に伝えられた。 イエス・キリストの時代はどうであったか、キリストの福音はその弟子のペテロ・ヨハネ、パウロといった方々が後世に残していった。モーゼの時代も同じである。モーゼのヤハウェ信仰を受け継いだのは、当時最も人格人柄共に秀でていたヨシュアである。 このような歴史を振り返ってみると、救世主の説いた神理を受け継ぐ者は、当時の人々の中でその心理を一番理解し、人望があり人格も優れている、そのような人物こそ法の後継者足り得るといえる。 釈尊の時代釈尊教団の中には、釈尊の一子ラフラもいたのであるが、釈尊入滅後ラフラが釈尊と血のつながりがある息子だからと、釈尊教団の後継者に選ばれた訳ではない。 なぜなら他に最も優れた人達がいたからである。釈尊入滅後の弟子の中で、当時一番信望の厚かったマハー・カシャパーを中心に、アナンが法を、ウパリが戒律を受け持って、その後の釈迦教団は運営されていったのである。 神の心である偉大な神理を、後の世に伝えていくためには、伝えるだけの力を持った者がそれをしていかなければ、正しい神理は人々に伝わっていかない。偉大な救世主と親子あるいは兄弟であるからと、その血の繋がりを主張した所で、そんなものは法の後継者になる事と何の関係もないのである。 法の前には、血統が入り込む余地など全く無いのである。法を受け継ぐ資格のある者は、肉体的な血統などではなく、その人格や人柄である霊統なのである。 そしてこの大分裂(ミカエル事件)を起こしたGLAから、高橋先生の教えを継ぐと宣言し、一人立ち上がったのが、華光如来である。園頭広周であった。 この時に、昭和42年に天から受けた啓示『汝は60歳になったら、一つの教団を作ることになる』という予言が実現することになる。 この時広周は、ちょうど60歳になっていた。 高橋先生が、「シャリー・ブトラーとマハーモンガラナーは、常髄の弟子として釈尊と共に7回出生したが、この次のシャリー・ブトラーは一人で一つの教団を作っていかなければならない」と言われた通り、釈尊の神理は華光如来が正しく伝えていくことになった。 釈尊の時代にも、釈尊出生以前から多くの教えがあり、釈尊が神理を説いても、昔からの教えにこだわり、釈尊の神理など聞く耳を持たない人も多かった。キリストの時代も同じであった。 キリストが福音を説いても、他にパリサイ派サドカイ派など多くの教えがあり、キリストの教えなど信じない人も沢山いた。 釈尊の教えもキリストの教えも、これこそ正しい神の教えであると皆が認め始めたのは、100~200年経った後の事である。つまり正しく歴史を判断するには、100~200年の時が必要であるという事である。 だが、釈尊の神理を説いていられた時、その弟子となり心理を学んでいた人達、キリストの弟子となってその福音を学んでいた人達は、現代から見れば正しい判断が出来ていた人達であり、他の人達は偽の教えに騙されていた哀れな人達ということになる。 現在のような混沌とした時代に、本物の教えを見分けるのは至難の業かもしれないが、このような時代だからこそ、光の大天使がこの世に舞い降りたのである。 この釈迦如来より華光如来に受け継がれた教え(正法・宇宙神理)は、やがて日本中に広がり、世界中に広がっていく、そして多くの人々がそれを指針として、救われていくことになるのである。 神に生きる 自分を愛すべきものと知れば 自分に悪をつけるな 悪しき師を たずねるな 悪しき友と ともに行くな 神を師とし 神を友として ひとり行け 園頭広周 すべての記事を表示 |
- No
- 104
- Date
- 2017.11.21 Tue
色心不二・色即是空の究極の極意♪神人合一♪心の本質は慈悲と愛の塊♪真の反省で神我顕現♪高橋信次師・園頭広周師
大宇宙の神理「心行」の解説(上) 園頭広周著
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神人合一 慈悲と愛 「色心不二」「色即是空」 慈悲とは、一言でいえば、情け、慈しむ、思いやり、人の苦しみを見て、何とか助けてやりたい、苦しみを除いてやりたい、楽にしてやりたいという心である。これは自己を滅却し、自己が拡大された姿(キリスト意識)である。 インドにおける釈尊はこの慈悲の心を人々に説かれたのである。人間は誰しもがこの慈悲の心を持っており、この心があるからこそ、人間は人間としての資格と機能(悟り)が与えられているのである。 神の慈悲の心が象徴されたのが太陽である。だからキリストは、 「太陽が善人の上にも悪人の上にも等しく照らすが如く」と言われたのである。慈悲を神の宇宙の心とすれば、愛は調和を目的とした地上の光である。 愛の根本は慈悲である。その働きは、他を活かし、助け合い、そうして赦しである。人々の罪を赦し、人々をして、生きる喜び、お互いに手を取り合って助け合い、調和へと高め上げて行く地上の光が愛である。 慈悲は神仏の縦の光であり、愛は人々を横につなぐ調和の光である。この縦の光と横の光が結びあった、その十字交差の上に、人は神を発見し、己の仏性を悟ることが出来るのである。 仏教の「色心不二」は、色とは物質、心とは精神で、この2つは別々のものではなく、一つだということ(父(神)と子(人)は一体)である。 物質は核と除外電子という生命体から成り立ち、生命体は、無限のエネルギーを持つ宇宙の意識、心、精神からそのエネルギーの補給を受けている。その無限のエネルギーの供給の姿、それが慈悲であり、愛なのである。 『般若心経』に、「色即是空、空即是色」という重要な言葉がある。「空」とはあの世の実在界。「色」とはこの世の現象界のこと。 この世はあの世があって初めて存在するのであって、この世だけ独立して存在しているのではないということである。この世の現象界は、あの世の実在界から映し出された世界であって、本来別ではないのである。 「色心不二」も、「色即是空、空即是色」も、共に、意識、心、精神と肉体の関係、慈悲と愛の心の大事について言っている言葉なのである。 観の転回、慈悲、愛そのものが自分である 「心は慈悲と愛の塊にして」という心は、神の心そのままの心、それが人間の本心である。その心は慈悲であり愛であり、それ以外の何物でもないということである。 人間だからいいこともすれば悪いこともする、とよく言われるが、しかしそうはいっても、悪いことはいけないことだという事だという事は皆知っている。人間の本性は善(神我・全ての本質は神)であるという事も皆知っている。 悪いことをした人は反省して「これから心を入れ替えて真人間になります」と言う。悪い心を持っていても、その悪い心を捨てて善なる心を持てば、それが真の人間(神一元・愛一元・光一元)であるという事を知っているから、そういう言葉の使い方をするわけである。 悪い心を起こす自分を偽我(自我)といい、偽我はあくまでも偽我であって真の人間ではないのであるから、「人間が罪の子である」という事は絶対にない。 偽我、ニセモノの自分、あってはならない自分、その悪い自分の心をなくするにはどうすればよいかというと、その悪い自分の心の心を有りと見て、実在と見て、「この心をなくそう、なくそう」と思ったのでは絶対になくならないのである。 よく反省した上で、その悪い自分の心は本来、人間が持つべき正しい心ではなかったということに気がついたら、その悪い心は本来「無い」と切り捨てて、慈悲と愛の心(神我・仏我)が本来の自分の心であったと認める事をしなければいけないのである。 自分の心は慈悲であり、愛であったという言い方は、自分の心と慈悲と愛との間に隔たりがあるように感ぜられるから、「自分は慈悲そのもの、愛そのものである」と観ずるのである。 「見(けん)」というのは肉体に眼で見ることをいう。大小、長短、軽重、美醜などを見るのは「見」である。 「観(かん)」というのは心の眼でみることである。大小、長短、軽重、美醜などの表面を見ないで、心でものの本質をズバリと”みる”ことである。 肉体の眼で”み”たことを基準にすると、小さいよりは大きい方が良い、短いよりは長い方が良い、顔が醜いよりは綺麗な方がよい、小さな家に住むよりは、大きな家に澄んでいる人が偉いとかというように、無情である現象の表面的な見方をするのが「見(けん)」である。 宗教的な、というよりは日常生活全てにおいて、人間はものの見方を「見」ではなくて「心でみる」即ち「観」でみるという事をしなければいけない。 宗教は「観」の見方を教えるものなのであるが、その「観」を教えならければならない教祖たちが、競って大神殿をこしらえて、その大きさで教勢を誇示するとか、キラキラした高価な衣服を身に着けて、信者の前に現れるとかという事は、すでに教祖自身が宗教を知らないということを証明していることになる。 「観(くわん)」、心でみる、身体が大きからろうが、姿がどうであろうが、外形なしに「心」を見る。例えば「悪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。 この言葉は、悪いことをしているその姿(自我・幻)にとらわれないで、その悪いことをしたのはホンの出来心であって、本当はその人も立派(神我)な人であるとみることであって、人間を「観」即ち心でみているわけである。 そのように、あなたがまだ色々な欠点があり、人間的には未完成であっても、あなたが「神の子」であるということに変わりはないのである。 神の子であるからこそ慈悲と愛の尊さをあなたも知っているのであり、あなたの本性は「神」なのであるから、だから道を歩く時でも、 「今、神の子が歩いている(全てに神を観る)」と思い、仕事をしている時でも、「今、神の子が仕事をしている」と思うことである。 そのような思い方をすることが、 「当体意識は不二なることを悟るべし」ということなのである。「不二」即ち「二つではない」ということは「(神と人は)一つだ」ということである。 紙に裏表があり、金貨にも裏表があるが、裏と表は一体としてあるのであって、裏と表と別にあって、それを張り合わせて一枚にしてあるのではないのと 同じように、私達も心と肉体とが一体としてあるので、心と肉体とが別々にあって、心が肉体に入って今、自分があるのではないのであって、肉体も神が創 られたのであり、心と肉体とが一体としてあるので、心と肉体とが一体としてあることを「当体(とうたい)」といってあるので、心と肉体とが別々にあるのではなく、「不二」即ち「一つである」ということである。 本来、不二一体であるものを、肉体は肉体だと思うことが迷いなのである。 執着煩悩をなくせよ、と言われても中々無くすることは出来ないという人は、 心と肉体とは別々の存在であると思っているために、心の思いと肉体の思いとが衝突して思うようにならないと思っているわけで、そういう思い方は「迷い(自我・無知)である」という事なのである。 これまでの宗教が、人を救うことが出来なかったのは、心と肉体は別々だという考えで教えを説いてきたからである。それが端的に現れたのが親鸞上人の 「悲しきかな愚禿(ぐとん)親鸞、愛欲の広海に、沈没し」という嘆き、あるいはパウロの「我はわが中、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る」という嘆きになっているのである。 そうではないので、あなた自身がそのまま神の慈悲と愛の当体なのである。あなたは自分をつまらないものと思ってはいけない。神の当体ということは「神そのもの」ということ、※あなたが「神」なのである。 (※父と子は一体でありまして、父なる神が表現者で、この肉体である貴方は、神そのものであり、神の愛を表現するための愛の媒体であるという自覚が「我神なり」の自覚で御座います。 神我の善なる心は、神の御心そのままであり、神の想いと貴方の想いは同じですから【善・愛なる想いは神様が想っているんだ】という神我と自我との一体感が内観であります。間違った思いは自我だと反省するとよいでしょう) あなたが存在していること、そのことが神が存在していることであり、神が存在していることは、同時にあなたが存在していることであり、神があって自分があるのではないので、それは「当体」として同時にあるのである。 「当体意識は不二なることを悟るべし(父と子は一体)」という言葉がどんなに重大であるかが分かられたと思うが、その「当体意識」とは何であるかというと、「心は慈悲と愛の塊りにして」ということである。 慈悲と愛の塊り(神我キリスト・仏性・大愛・宇宙神理)、それがあなたの心(真の自己・神は全ての働き手・全てに神が宿り給う)なのである。 その本当の思いを阻害する思いを「迷い(自我・不調和・無知)」というのである。どんな美しい素晴らしい言葉を持ってしても表現しきれないほどの素晴らしい意識、慈悲と愛の塊そのもの(神我・善我)、それがあなたなのである。だからあなたは自分で自分を腐してはならないのである。 「私は慈悲と愛そのものであった(吾は神そのものであった・我神なり・吾生命なり・神は絶対善)」、それを「神の子の意識」というので、このことが本当に分かると人間は独りでそのことを知った喜びに泣けてくるのである。 その喜びの涙は、人から物を貰って嬉しいとか、久しく逢わなかった人に逢ったとか、離れ離れになっていた肉親にやっとめぐり逢えたとか、そういう時の喜びの涙とはまた違った、心の奥底の深い所から起こってくる。 魂の心の感激の涙である。このことが分かった時、初めて人間は、人間として生きていて良かったという喜びに浸る事が出来るのである。 今までたくさんの宗教があったが、それらの宗教は「心は慈悲と愛の塊りにして」ということを観ないで、肉体を人間と見て、煩悩をなくそうという事ばかりに執着していたから、人を救い得なかったのである。 人間の意識は神の意識そのもの このことは本当の信仰をするについて最も根本的な大事なことである。心のことを精神という。では精神というのかということを考えた人は、恐らく極めて少なかったのではなかろうか。心のことを「精神」というのだとただそう思い込んで、「心」といえば「精神」、「精神」といえば「心」と、無意識の内に使ってきたようである。 神仏の精、神仏そのもの、それは慈悲と愛のエネルギーそのもの、その精がそのまま人間の心であるので、高橋先生は、「心は慈悲と愛の塊りにして」という言葉を使われたわけで、精即ち意識、心はそのまま神の意識である、 それが人間の心であるというので、 「精神」即ち「人間の心は神の意識そのものである」というわけである。 「精(意識)は即ち神」であり、神の精(心)が人間という姿を現したもので、人間は本来、神そのものなのである。 通常「人間は神の子である」といっているが、 実際は神の当体(表現体・愛の媒体)、即ち神そのものなのである。 地球上に最初に現れた人間はみな「神の当体」「神そのもの」であったから、あの世とこの世を自由に交通し、相手のことを心に思えば即座に相手に通ずるので言葉の必要も無かったのである。(全一体感の意識でテレパシー) 子孫が増えるに従って子孫の繁栄を願う心が起こり、それが執着となり業となって、その業がだんだん大きくなり重なってきたために、今では、業を修正することが大事になってきたのである。 その修正が反省であって、反省は、人間(の真実)が神の当体(神我・仏性)であることを再確認するために与えられている神の慈悲なのである。 だから、ただ「悪かった、悪かった」といって、反省するたびに心を暗くする様な感情的な反省は本当の反省ではないので、反省するたびに、自分は神の当体、慈悲と愛(神我キリスト)そのものであったことを再確認して、心は喜びと感激に震えるということにならないといけないのである。 今から1500年前、奈良町時代に大陸から伝わってきた仏教では、すでに「神の当体(人は神の愛の媒体)」であるという事が分からなくなっていた。 そのために日本の仏教を主体とした新興宗教も、全て、自分を罪の子だと見て、良い事をしようと思っても悪い事しかできない、どうしようもない自分であると、自分に絶望した所から、他力によって 救って頂く外はないという他力信仰が中心になってきたのである。 だから、我々は奈良朝時代以来の歪められた仏教徒、そこから派生してきたすべての宗教を正しくするという重大な使命を持っているわけである。 自分の光の側に置いて、神と一体であり、慈悲と愛そのものであるということを自覚し、この肉体を使って、この地上にユートピアを実現するのであるという信仰をするのが正しい信仰なので、自分を罪悪深重の凡夫として、救いようのない暗い自分だとして、向こうの方から救って頂くという他力信仰は本当の信仰ではないのである。 自分の運命を明るくしようと思う人は、歩いている時でも、仕事をしている時でも、とにかく四六時中、「私は神の当体である(我神なり)」「私は慈悲そのもの、愛そのものである(我愛なり)」という言葉を自分に呼びかけて、 「そうだ、私は神の当体である」「慈悲と愛そのものである」と、常に思う様にして、小さなことでも良いから、心が喜べる事をする、また人に優しい言葉をかけるということをすることである。 運命学、手相、人相、易、姓名判断、印相、墓相などそんなものに頼る必要はない。正法は運命学を超越した人間の正しい生き方を教えるもので、運命学の奴隷になっている人は正法を知る事によって「自由の境地」に出ることが出来るのである。運命学に翻弄されて苦しみ悩んでいる人が救われる道は、この正法しかないのである。 神仏一体とは この大意識こそ 大宇宙大神霊・仏なるべし 神仏なるがゆえに 当体は大神体なり 大宇宙を秩序整然と運行せしめているものは何であるか。じっと眼とつむって、太陽が、地球が、全ての惑星・遊星が、音もなく静かに一糸乱れず回転している状態を思ってみることである。 するとそこに、この大宇宙を動かしている不思議な力、エネルギー生命力、意識が働いていることを、頭でなくて胸の辺りで、心で感ずることが出来られるであろう。 この「心で感ずる」ということが大事なことである。「心で思う」「心で感ずる」、それが智慧の働きである。 昔の人は、「胸でとっくり思案する」とか、「腹で考える」と言ったが、頭で知識で考えたことは時として失敗することがあるが、胸や腹で考えたことは絶対に失敗しない。肉体の胸と腹のあたりに相当する所に、智慧の心の座(コスモ細胞・原子細胞・宇宙細胞・神我キリスト)があるのである。 この大宇宙の全てのもの、太陽も、地球も、人間も、全てのものが輪廻しながら生命活動を続けている。人間は空気を吸ったり吐いたりすることによって生命が維持されている。 休むことのない生命の活動、全てのものが生きて動いている。そのことに私達は驚きを発し、感嘆しなければならない。大は大宇宙から、小は分子、原子、素粒子に至るまで、全ては一貫した秩序ある(宇宙)法則によって生かされ回転している。 この大生命(宇宙生命・大愛)の充満したこの大宇宙、この大宇宙を生かしている意識が神であり仏であり、目に見える大宇宙がそのまま神の大神体である。 私達の外に神があるのではなくて、私達は、神の心(宇宙創造神)の中に、神の胸の中に、神の身体の中に、※生かされて生きているのだということを忘れては成らないのである。(※大宇宙(宇宙生命・大霊・無限質量)の中に小宇宙(肉体・エーテル質量)の中に大宇宙(神我・仏智)が御座います) |
- No
- 105
- Date
- 2017.11.17 Fri
悟りの状態の極意♪災いを防ぐ強力な方法♪波動共鳴の原理♪真我を自覚する道♪笑顔の効能♪高橋信次師・園頭広周師
高橋信次師のことば 園頭広周著
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覚者 ”園頭広周”先生について(高橋信次師のお弟子さん) 園頭広周先生は、お釈迦様の生まれ変わりでも有名な「高橋信次先生」のお弟子さんの方で、高橋先生から”正法を一から十まで全部理解している唯一の人”とまで言わしめた偉大なる悟りを開かれた方で御座います。 本家本元の高橋信次先生より、正法の説明が上手かもしれないという(笑)、大成功な二代目という感じですね♪覚者のお弟子さんの中でも、最高級に悟りが大成功して、人格も申し分なく育った方といった印象を持ちました。 しかも、高橋信次先生や五井先生と同等の偉大で神秘的な霊能力を保持されている感じで、ご著書の不思議遊戯な霊的エピソードも面白かったです。 これ位できないと本物の覚者じゃないんだろうな...って♪ それにしても、今回の悟り話の善我(神我)と偽我(自我)の説明が、知花敏彦師の神我と自我のいつもの神理のご説明と、全く同じと言っていい内容でしたので、正直な所、腰を抜かすくらいに驚いた次第であります。 園頭広周先生が本物の悟りを開かれた偉人だと確信したと共に、知花敏彦師の説かれる宇宙神理がいかに素晴らしくて偉大な究極の教えであるかがよく判りました。知花先生についていけば、もう悟り覚醒は間違いありませんね(笑) これだけ悟りについて分かりやすく語られている事例は滅多にお目にかかれないといっても過言ではありませんね♪まぁ(//∇//) 、私もこんな素晴らしいお話をご紹介出来るいいお役目を頂きましたね(笑)本当に有り難い事です。 高橋信次師のことば 園頭広周著からの引用ですが・・・♬ 悟り、真我を自覚する道 悟りの状態とは何か 心は自由である。ということは、我々の心は天国でも地獄にでも、どちらにも通ずるということです。偽我(自我)の思いは地獄へ、善我(神我キリスト)の思いは天上界、即ち天国に通ずる。 他力信仰で救われる人が一人もいないというのは、他力信仰の人は、拝んでいても実践がないからであり、また、自分のことは自分ではどうにもならないのであるという自分自身に対する不信感、無力感、劣等感、罪悪感などが根強くあって、心が暗く重苦しくなり地獄に通ずるからであります。 「人間だから良いこともすれば悪いこともする」というのは常識の世界で、しかし、悪いことをしないように、良いことのみをしようというのが道徳の世界で、そう考える事を通常「良識」と言っています。 宗教は、常識、良識、道徳の世界を超える事にあります。それを超えた境地が「真我(神我キリスト・宇宙生命・内在の神)」の世界で、ここ(絶対愛・神我顕現)に至って、人は真の心の自由を得ることになるのです。 この境地は、カルマの束縛(※カルマも魔も自我に属するものです)、魔に悩まされるとか、魔に心を支配されることは全くなくなる境地です。 悟りとは、善我(神我)と偽我(自我)を揺れ動く心から、真我の世界に参入し、真我(真の自己・絶対調和・全一体感・キリスト意識)を自覚することにあります。即ち、道徳の世界から真の宇宙法則へ脱皮してゆくことです。 人間には善我と偽我があるという「善悪二元論」から 「真我一元論(神一元・愛一元・光一元・愛のみが実在・神のみが実在)」 にならなければいけないので、真我一元(宇宙即吾・吾即天)の境地にある人を「如来(神我顕現・大宇宙と子は一体の境地)」というのです。 真我一元のS会は、光のみであって影はない。善悪二元論、即ち善我(神我)と偽我があると2つながら認め自覚している境涯の人にとっては、肉体は煩悩の体であって肉体的な欲望執着に悩まされるという事になりますが、 真我一元の光の境涯にいる人にとっては、肉体はそのまま涅槃(ねはん)の体、即ち真我なる神の生命を地上に顕現する表現体(神我顕現)となって、肉亭的な欲望に悩まされるということはなくなるのです。 己心の魔は、善我(神我)もあれば偽我(自我)もあると、偽我を認める所から発生するのです。その偽我の面が強くなるに従って魔は次第に大きくなり、その魔が地獄霊や地縛霊に誘導して憑依されることになるのです。 だから、己心の魔をなくすためには、善もあれば悪もある、善我もあれば偽我(自我)もあるという「善悪二元論」から、真我(神我)のみがあるという「真我一元論(神・愛のみが実在)」になってゆかないといけないのです。 だから常に「神のみがある(神一元)」「真我のみがある(愛一元)」「光のみがある(光一元)」「われは神の当体である(吾神なり)」と言い続けて、怒り、憎しみ、そねみ、足ることを知らぬ欲望、愚痴、怠情、増長慢、特に、怒り、憎しみ、増長慢の心を持たないようにしなければならないのです。 歩いている時、仕事をしている時、車を運転している時、掃除している時、とにかくどんな時でも、「神のみがある(神一元)」「光のみがある(光一元)」「真我のみがある」と、※心の中で念じ続ける(内観・億念)事です。 その念が強くなると、怒ったり、憎んだりする様な己心の魔はなくなり、あなた方の心も、周囲も、光の世界に輝いてくるのです。 (※知花敏彦師の神我に目覚める瞑想が安全で効果抜群ですよ ![]() ![]() ![]() ) 善悪二元論の立場に立ち、善なる心をもって、相対的に悪の心をなくしようと考えている間は悟ることは出来ないのです。(悪は未熟な善であり、本質的には全ては神様の絶対善・絶対愛の現れ・全てに神を見るのが重要♪) 「悟り」「悟りなさい」という言葉はよく聞かれますが、「悟り」という言葉だけが算用されて、「悟りとはどういうものか」という悟りの内容についてはっきり説いた人はいないようです。 「悟り」とは、次のようになった事をいいます。 一、自分の心を完全にコントロール出来るようになったこと (慈悲と愛の神の境地・不動心・全てを愛し全てを許す絶対愛の境地) 一、「宇宙即義」に到達して、宇宙と自分と一体になったこと (宇宙即我・吾即神・神一元・光一元・全我・愛一元・自他一体感の境地 自分は宇宙と一体であるということ---を知ること) そのような境地になるに従って神通力も自然に備わってくるのです。 だから霊能力だけを求めようとすると魔に通じて人格を狂わしてしまいます。 魔に災いされない最も強力な方法 魔に災いされない最も強力な方法は、絶えず自分の周囲に、神の光の輪を描いて、「自分は常に神に守られている」ということを信ずることです。 私が戦争中、中国軍やアメリカ軍の砲弾、爆弾の中にあって、身近に落下する砲弾、爆弾が全て不発に終わったという奇跡は、私がその想念をしていたからです。 終戦になって生長の家の講師になり、昭和30年、生長の家副総裁・谷口清超先生訳の『天地とを結ぶ電話』が出版され、それを見たら、 「『悪想念から自分を防御する方法は、完全な光、例えば白や黄や黄金色、或いは高い振動数の光の調和した混合色の一種の霊的な鞘(さや)の中に自分が包まれている事を心の中にアリアリと描くことである。 完全な健康、幸福、調和、愛を、アリアリと心に描き、見つめることが必要である』と、アガシヤは言っている」と書いてありました。 そうして昭和48年8月、志賀高原での高橋信次師の研修会に初めて出席して、禅定の指導の時に、「皆の身体の周りに黄金の光の輪を描きなさい」と言われた時に、あっと驚くと同時に、「あっ、やっぱりあれが正しかったのだ」(戦争中のこと)と思ったのでした。 波長共鳴の原理によって、心が暗くなるから魔がよってくるのですから、病気や不幸のどん底にあってどうしても心が明るくできない、どうしたら心を明るく出来るのか分からないという人は、子供時代の幸せであったことなどをありありと思い出して瞑想することから始めればよいのであります。 だから、悪や悪魔があって、油断をすると自分を傷つけるかもしれないという恐怖心を、あなたの心の中から一層して、「我は力なり、我は光なり、我は常に祝福されている。これからは良いことばかりが現れてくるのである」 と信ずる事をしなさい。そうすれば魔に支配される事は絶対にありません。 http://yuki000004.seesaa.net/article/91166868.html からの引用ですが・・・♬ 観自在菩薩行深般若波羅蜜多の真の意味とは 〃観自在菩薩行深般若波羅蜜多〃といったところで解りますか。 無学文盲のインドの当時の衆生に、ラジャグリハーの郊外において説かれたあの仏教の神理が、そのような難しいものであったと思いますか、「ゴーダマ様は、何によって生活しておられるのですか。 私たちは、このように農耕をして、米を作って生活しております。 あなたはなぜそのようにしておられますか」と問われたことがあります。 その時に「あなたは米を作って生活をしているが、私はあなたたちの心に神理の種を蒔いて、その実るのを待って生活をしている。人間は米のみによって生きるのではないのだ。人間の心こそ偉大なる不変のものなのだ」 そして「あなたは今、このようにひよく肥沃の土地によって稲を蒔いて生活をしているが、まず稲を蒔くならば、あの上の方の痩せた土地に蒔くか」と聞きました。 その時に農夫は「上の方の土地は砂利が多く、そのために米は実りません。土地に地味が足りません」といいました。 ゴーダマは「私の説いている神理も、受け入れる機根の無い人たちに、いかに説いたところで、この神理の種は、人々の心の中に入って芽生えるものではない」とこのようにこんこんとその農夫に説きました。 そのように方便を通して、その時の衆生の機根に応じて、神理を説いたのであります。 この世に生まれてきた目的 ※神は罰などは与えないのです。 皆さまが、自分の可愛い子供たちや、兄弟たちが不幸になることを、親として望みますか、愛と慈悲に満ちている神が人間を不幸にすることをしますか。 (※神様は偉大なる赦しの方で・絶対愛・絶対善・絶対調和であられます) 罰は皆さま自身が、神理を悟らずに、己の心に嘘の生活(愛に反した行動)をした時に、嘘の行為をした時に、※己自身の心の曇りによって神の光をさえぎって、その結果が(不幸災難の)原因を作って行くのです。 ※補足説明 【この世界は三次元映像の様な現象の世界でありまして、実在界ではありません。神様は元々、完全な調和の世界をお創りになられていたのですが、人間の迷い(不調和)の想念が、完全調和の世界に迷いの影を投影・投射することによって、この世に不調和な現象(災難等)が出てきているので御座います】 そのようなことを考えた時に、病気をしても、すぐに医者へ行って注射を打てばすみやかに治ってしまうと思ってはいけません。 その前に、まずじっくり自分はこのような病気になぜなったのか、そのなった原因を追及していった時に、必ずその中には悪の根っ子(日頃の行いや想念の間違い)があるはずです。それから医者に見て貰っても遅くはありません。 病気も一つの反省のチャンスなのです。我々はこのようなことをよく知り、毎日毎日の生活に対して、貧乏したからといって、自分の心まで貧乏にしたり、体が悪いからといって、自分の心まで欠陥車にしてはいけないのです。 私たちの魂というものは、今世が全てではないのです。永遠の生命(宇宙神・神我キリスト)の中に、私たちは転生輪廻を繰り返し、あの世に帰り、この地球上に出る時に、皆さんの肉体という舟を頂き、またこの地上界を去る時には、親から頂いた肉体は、地上界へ置いて帰らなければならないのです。 そしてまた新しい肉体を持って、永遠の転生輪廻を続け、この地上界においては、太陽の熱・光のエネルギーで大自然の万物万生ははぐ育くまれ、皆さんの肉体を保存する事ができるのです。 一方においては、神の光はすべて万物平等に与えられて、慈悲と愛の中に、私たちは存在しているということを知ったならば、今の一秒一秒の人生に対する価値というものが判るでしょう。 皆さまが何億何千万年も転生輪廻して来て、自分自身が作った心の曇りを修正(愛と調和)すること、これが私たちの地上界に生まれて来た目的なのです。 そして私たちが魂を磨くと共に、神の体である地上界を、万物の霊長である人間が心と心の調和によって、平和なユートピアを作っていった時に、皆さまはこの地上界に、偉大なる卒業者として、あの世で迎えられるのです。 私たちは、やがてあの世に帰り、自分自身の一生はすべて意識に記録されております。その記録された、思ったこと、行ったことを、自分に嘘のつけない善なる己自身が裁くのです。 皆さまは、自分の心に嘘がつけないように、その善なる神の証の己の心が、なして来た己自身を裁くのです。 その時に皆さま自身がなし終えなかったならば、執着となり、いったんは地獄界に堕ちて神の子として、自覚するまで地獄で厳しい修行をするのです。 自分が神の子であると悟った(宇宙即我の境地)ならば、皆さまの心の曇りは晴れて、あの世にも照されているところの神の光を受けるのです。 このように、私たちが八正道を中道の神理を通して、毎日毎日の生活をして、お互いに人々と助け合った人生を歩んで行くことが大事だということです。 過去記事からの引用ですが・・・♬ 悪い念も周波数を変えることでブロックできる 笑顔は呪い返しの極意です 周波数の音だけで、実は病気は治ってしまいます。 本来、周波数には形状化作用があり、後から中身がつくられていったものなのです。それが日本語の形霊(かただま)であり、音霊(おとだま)です。洋服も形霊です。ですからデザインは大事なんです。 形霊とは、磁気がつくり出す磁気波動であり、神聖な形は整った磁気を発信します。元は光ですから、光という磁気が電子に代わって体に入って来ます。ですから宇宙から地球から、また美しい寺院や神社の建物や、毎日自分が用いるもの身につけるもの、着るもの、食べる物などの周波数はとても大事なのです。 人間の発する念というのは、怖いものです。 なぜならそれも周波数だから。悪い念を周波数で飛ばすこともできるので、病気にすることも、治すこともできるのです。 しかし外に向けて飛ばしたものは、いずれ自分に戻って来ます。そして飛ばしている人はより大きなダメージを受けることになります。 (善因善果・悪因悪果、因果律の法則、波動は4倍になって自分に返ります) 飛ばされた悪い念をどうやってブロックするかという事ですが、そもそも自分がそういう悪い念の周波数に合っているからブロックできないわけで、自分の周波数を上げてしまえば同調せずに済みます(笑顔・感謝で波動上昇)。 そもそも悪い念というのは周波数がすごく低いので、疲れている時や気が病んでいるときとか、落ち込んでいる時に入ってしまいます。それは油と一緒で、PHが近いから油汚れが落ちるのと同じで、似ていて近いということです。 そうした悪い念を入れないようにするには、明るく笑うことです。 だから笑うことが一番いいのです。明るい波動というのは周波数が高いのです。笑っていると免疫も上がり、胸腺が活発になり、口角を上げるだけで胸腺が活性化されます。ですから※笑っていれば大丈夫です。 (※竹内文書の正当後継者の方が、呪い返しの極意は、「笑顔」だと言っていました。いつも笑顔でいれば、悪い念の影響は心配しなくても大丈夫ですね) 増川いづみ☆★☆ 幸せな毎日を送るためには、光り輝く笑顔を忘れないことが何より大切です♪天使の恋愛メッセージ♪凰宮 天恵さん *:..。o 8 21, 2016 新しい地球のStar Lover達へ 花の美しさは花のためにあるのではなく その美しさを愛でる者のためにあります どんなに美しい花でも、自分自身のために咲いているのではありません。 その花を美しいと思う人達のために咲いているのです。 まわりに美しいと感じてもらうことが花の喜びです。 それと同様に私たち人間も、花のような美しさをまわりの人達に伝えることがとても大切です。 幸せな毎日を送るためには、光り輝く笑顔を忘れないことが何より大切です。 自身が生まれる「自分磨きのスピリチュアル・レッスン」 内面の美しさは必ず相手の心に届きます 江原啓之さん 笑顔は、興奮を呼びこむために、また、いい仕事をするために、無くてはならないものです。笑顔がなければ、どんな美人でも、幸運には恵まれません。仕事もうまくいきません。一時的にはうまくいくように見えても、長続きはしないのです。 逆に言うと、笑顔さえあれば、顔がどんな造作であっても、幸せになります。周りにいい人が集まるからです。仕事は人で決まりますから、仕事もうまくいくのです。 人には、それぞれ個性があります。整った顔が好きな人もいれば、愛嬌のある顔、味のある顔が好きな人もいます。美人に生まれたからといって、万人に好かれるわけではありません。 けれど、いつも笑顔の人は、万人に好かれます。それは事実です。 いつも笑顔でいる事は、簡単なようで、中々出来ることではありません。 つまり、心が美しい人でなければ、いつも笑顔でいる事はできません。 造作ではなく、心が美しいかどうか。それが、すべてを決めるのです。 これを読んで、「そんなの。キレイ事よ」「美人が特に決まってる」と思った人は、注意して下さい。すでに心が素直さを失っています。 実際、相談者を見ていると、どちらかと言うと造作には今ひとつ自信がない、という人の方が幸せになっています。 「私は外見では勝負できないから、せめてサービス精神はたっぷり持っていよう」 「せめてジョークの達人になって笑わせよう」 江原啓之さん そう思って生きているから、愛嬌があります。生まれてついての美人でも、チヤホヤされてきてしまった人より、周囲に「与える」事を知っています。だから幸せになれるのです。 美人に生まれるというのは、必ずしもいい事ではありません。魂を磨くチャンスが少ないからです。仕事をすると第一印象が大切なのは事実です。 ですから、印象を良くするために、色々と努力をすることはとても良いことだと思います。 一番行けないのは、「私は生まれつき、器量が悪いから」と、うつむいてしまうことです。「こんな顔だから、どうせいい印象は与えられない。だから仕事ができなくても仕方がない」と考えていれば、絶対に魂は輝きません。いい仕事をすることも、当然出来ません。 「容姿に自信がない」と、気がすくんでしまう時ほど、人の中に出ていきましょう。そして、いろんな人を観察して下さい。外見がいいから、仕事ができているのかどうか。幸せになっているのかどうか。そうではないことがきっと分かると思います。 いつも笑顔でいられる、強くて優しい人のところに、仕事でも幸せも集まっているはずです。外見は、関係ないのです。 さあ、うつむけていた顔をあげましょう。笑顔の練習から始めて下さい。 |
- No
- 106
- Date
- 2017.11.13 Mon
心を込めた挨拶で幸せなエネルギーを引き寄せて運気上昇♪質の良い睡眠時間の秘訣♪イエス様の最後の言葉の真相♪
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- No
- 107
- Date
- 2017.11.06 Mon
今即天・今即神・慈悲と愛は宇宙神理の境地に到達した悟り話♪阿弥陀如来仏はアミン♪知花敏彦師♪木下俊雄さん♪
「今即天」「今即神」「慈悲と愛は宇宙神理」 の境地に到達して生きながらにして天の住者になったお話 知花敏彦師の教えで、「今即天」「今即神」、他にも「宇宙即我」「今即大霊」「今即キリスト」「今即神我」「全ては自分・全ては神」等々、 今即、神様の中におり、自分の中に大愛・大生命であられる宇宙創造神が宿り給う、という悟りのど真ん中のメインテーマの教えが御座います。 私自身、表面での解釈ではとっくに理解していたつもりだったのですが、ここ最近になってやっと、深いハートの次元で実感できる境地にまで到達することが出来ました。現在では、もう生きながらにして天の住者になれました。 愛の境地って本当に一瞬一瞬が喜びと安らぎそのものなのですね♪ 「TextForma」を使えば、言葉を綺麗に変換したり、非表示にしたりして、見やすく出来ると知りまして、社会勉強の一環としてしばらく三年ぶりに、修羅場の話のまとめサイトを拝見することにしてみました♪ 昔でしたら、修羅場の話等を見ていますと、ひどい人間とかに怒りを覚えたりしていたのですが、今回はそういう感情が全く出てこないのです。 初めは、私自身、摩訶不思議な感覚でした。あれっ?前なら感もっと感情が高ぶったり揺り動かされていたのに...と。 ごくたま~に、一瞬出そうにはなりますが(笑)、そういう時は、吾神なり、と一喝して自我(サタン)を追い出します♪ どんな修羅場話でも、自分の心の中で行われていることであり、皆、本質本源は、神様そのもの、愛であり光であることを心のハートで悟っていますと、「愛と慈悲」の神我の心しか湧いてこないんです。どちらの方も幸せでありますようにという、ただただ幸せを祈る想いしか出てこないんですね。 修羅場の話は自我の世界の話ですから、神我に目覚めると、自我の影響は全く受けなくなるのであります。「慈悲と愛」という神我の白光の前には、自我という闇の影響は、かき消される運命にありますので。 例えば、自我の世界、マンションの一階(自我)で、ゴタゴタや騒動があったとしましょう。同じ一階(自我)にいれば、もろに影響を受けて、いわゆるエネルギーバンパイアも受けるかもしれません。 ですが、自分が愛そのもの、神我(最上階)である光そのものであれば、自我(一階)の影響は全くを受けませんね。 他にも例えてみますと、「神我(白光)が実在」であり、「自我は側の影」であり、神我の白光で真っ暗な部屋を照らしたならば、真っ暗な部屋の闇は一瞬で消え去ってしまうことでありましょう。 自分の全身が愛の白光で光っておりましたならば、愛という高い波動(白光)は、自我という低い波動(闇)は全て消し去ってしまいますから、光そのものの自分(白光)には影響を受けないんですね。 愛と赦しの中には、苦しみは一切存在しないんですね、愛は白光で、苦しみは闇ですから、どんな闇でも、愛という全てを照らす白光の中では闇は消え去るしかないので御座いますね。 不動心につきましても、実際に経験してみて初めて、これが『不動心』というものなんだぁ...ということも実感することが出来ました。あぁなぁるほど、不動心とはこんな感覚なのね...と。 全てを愛し全てを許す境地になりますと、どんな腹の立ちそうな話でも、心がびくともしなくなる様であります。自我の荒波の影響を受けないみたいな♪ どんなひどい修羅場の話を見ましても、私の心は、全ては自分、全ては神、と悟っていますから、どんな悪人の様な現れをしている方でも、愛しい想いしか出てこないんですね、愛しか出てきませんから、苦しむことがないんです。 4倍なのに、赤の他人と思って、修羅場話等々で、不倫とか、いじめとか、その手のお話を見て、むかっ腹を立てて、怒りを覚えてしまったら、その自分が出した波動は、宇宙の端っこまで行ってから、自分の心の中にドカーンって戻ってまいりますので、苦しいに決まってますよね。 なぜなら、宇宙には自分の心しかないからです。神一様しかいらっしゃらないからです。大宇宙には神様の御心(大愛)あるのみだからであります。 どこかの独裁者がミサイルを打って、たとえ地球を破壊したとしても、何もかも全てを許して愛してあげて、慈悲と愛の神我の心でその相手の幸せを祈ってあげれる寛容な神の御心...その境地にまで達することが出来て初めて、天国・神の国・実在界へ入ることが出来るので御座います。 私の好きな言葉で、「汝の敵を愛しなさい」「汝の敵を赦しなさい」「汝の敵の為に泣きなさい」「汝の敵のために祈りなさい」「7の70倍赦しなさい」 というイエス様の御言葉があるのですが、全てが自分、全てが神であると分かれば、この言葉が実に深い神理であるとよく分かるので御座いますね。 絶対愛、絶対調和とはこの教えそのものだからです。神様は偉大なる赦しの方であられるので、貴方自身が、偉大なる赦しの方になって初めて、神と同じ意識状態(天上界・神意識)に到達する事が出来るので御座います。 「7の70倍の赦し」の真の意味合いは、「永遠の赦し」を現しております。 愛はキリストであり、愛は神我であり、神様のみ心は愛そのものでいらっしゃるからです。神は愛であるが故に絶対者であり、愛であるが故に完全なのです。天国とは意識の状態ですから、意識状態を絶対愛・絶対調和・絶対善にまで高めて初めて、実在界である神の国へと参入することが出来るのです。 神の国は霊の水の国、愛と調和の王国でありますので、今即実在、今即神、つまり、本当は今即、神様の中におり、神と人は常に一体なのに、ただ気づいていないだけなのです。貴方の意識状態がその「愛と調和」の境地にまで達したならば、生きながらにして天の住者になることが可能なので御座いますね。 「慈悲と愛」が「宇宙神理・神我」なのであって、慈悲は「全てを赦して相手の幸せを祈る想い」ですから、全てを許すという事が神の国に入る為にいかに大切かを切実に訴えたいのであります。 難行苦行は悟りにあらず、と言われております通り、そんな行は必要ではなく、日々の瞑想・内観を通じて、身口意を磨いていくことが真の修行だと存じます。 自分の心を愛と調和の想念変えていく、自他一体感で、「真の自分である神様(神我・ありとあらゆるもの)」を愛する実践といった感じでしょうか。 見えるもの見えないもの全てが神様であり、その全てを愛する「愛・ラブ・ゴッド」の境地、神様がお働きになられているお陰で自分が存在している事を心から実感して、一瞬一瞬を、神様に自然に感謝してしまう境地ですね。 五井先生が、「悟りの境地とは神様ありがとうございますの境地」とおっしゃられておりましたが、今ではその真の意味が理解できます。 知花敏彦師、上江洲義秀先生、 五井昌久先生、の偉大なる覚者のお三方のお陰で、今即天、今即神、全てが神あるのみ、の境地を理解することが出来まして、一瞬一瞬がプルプル震える愛の波動で喜びに満たされて、幸せの極みでございます。 愛の中には苦しみ存在しない、苦しみは愛から離れるから出てくるのです。愛という神から離れるから苦しみが出てくるんですね、赦してしまえば苦しむことはありません。苦しみという闇は、愛という光で完全に消え去ります。 貴方が常に、愛と赦しそのものであれば、愛の波動しか出ませんから、戻ってくる波動も愛が4倍ですから幸せのそのものです。つまり、常に神の御心である「慈悲と愛」であれば愛の幸せの振動しか戻ってこないんです。 神様は愛を表現するため、神が神を愛する為、その為だけに、この三次元世界をお創りになられたので御座います。神の愛を表現するために神様は一人ひとりに、自由意志と心を与えて下さいました。それは神様が大愛だからです。 もしこの世界がレゴワールドの様に、みな心がないロボットの様な世界でしたら寂しいと思いませんか?ただの操り人形でしたら悲しいですもんね。 心・意思があるって何と素晴らしいことでしょう!と心がある有り難さに気づいて神様は何と寛容で偉大なるお方なんでしょう...と私は思ったのです。 その自由意志で一人一人が、宇宙は一つの生命体であり、大宇宙という宇宙創造神しか存在しない、自由意志で自分と神の御心は常に一体であることを悟り、自分が神の愛を表現する媒体だと悟る境地に到達するために、輪廻転生しているわけでありまして、それに気づいたらもう解脱の境地で御座います。 私は、全てを愛し全てを許す境地になる心の浄化の弛まない日々の修養を続けて、全一体感、自他一体感、の境地まで到達することが出来ました。 生命には区切りも分離もありませんから、全ての全ては神様(無限宇宙・宇宙生命・大生命・宇宙霊・大愛・神我キリスト)であり、、見えるもの見えないもの全てが神様という、色即是空、色心不二、の境地を実感して頂いて、 「慈悲と愛」という神我の白光で満たされた生き神様になれましたら、きっと誰もが毎日、生きながらにして天国に住むことが可能でありましょう。 超能力云々より、このような真の意味での愛の境地、心の平安と安らぎを得られる事が、一番の内観・瞑想の効能だと実感した次第であります。 一瞬一瞬が、愛の振動で(*´д`*)エクスタスィーな光悦感で満たされております。 私の経験をご参考にして、皆様が「慈悲と愛」の神の境地になれますことを心からご祈念申し上げます。生きとし生けるものが幸せでありますように♪ 人生逆転の瞑想法からの引用ですが・・・♬ すべてを肯定する発想 宗教の教えで、我々が最もわかりにくいことが煩悩ということであるが、宗教家はよく煩悩を捨てなさいと簡単に言うのですが、それは一番難しいことだと存じます。お坊さんでもこれは中々捨てられない。しかも、もし我々が煩悩の最たるものである性欲を捨てたら、人類は絶えてしまう。 ところが真言密教では、そんなことは教えていない。真言密教の教えの素晴らしい所は、大宇宙の全てを肯定する、認めるという事である。人間にはすべて煩悩がある。その煩悩すら肯定する。そこが他の宗教と違う所なのである。 我々はどれだけこの煩悩という言葉に悩まされたことか。そのために欲望という名のつくものを全て罪悪視してきた。ところがこの欲望というのも、神が人間に与えたものの一つなのであります。 それが悪いとなれば、世界を否定することになる。そうかといって、この欲望のままに生きれば、やがて病気になったり、破滅したりする。要はどんなことでも病気になったり、破滅したりする。 人間に与えられた全てを肯定する(※すべてが愛・学びの環境全てに感謝)。 そこには、性欲もあれば食欲もある。名誉欲、金銭欲もある。弘法大師はこれらを肯定することを教えた。ただし、そこには自ずから限界がある。その限界を知ることが調和ということなのであります。 我々は性欲があることで子孫を残し、食欲があることで生命を維持し、金銭欲によって仕事にも張り合いが出て来る。ただ我々は、それにも限度があることを知らなければならない。 釈迦はそれを中道、調和という言葉で説いた。調和とはお互いを活かし合う心のことであります。我々が生かされているのは、この太陽系を含むすべての宇宙が日々整然と運行しているからであり、そこに調和があるからである。 瞑想をする上で大事なこと では、我々が生きる上で大事なことは何かというと、それは神とは何か、大宇宙とは何か、我々は何処から生まれて、何のために生まれて、生きて、働くのか。またなぜ運が良かったり、不運に見舞われたりするのか。 何のために子供が出来、先祖がおり、人々がおり、そして死んでいくのか。さらに死んだらどうなるのか。そういう根源的な事をしっかりつかんで、自分の人生観、世界観、宇宙観を持つことであります。そういう人生哲学が、自分の仕事、家庭、子育ての根本になるのであります。 それがない人は、ふわふわしたアブクの様な人生を送ることになる。そんな泡の様な人生ではなく、しっかりとした人生を生きるためにも瞑想は大事なのであります。 私にこの人生の意義、瞑想の大切さを教えてくれたのが高橋信次先生であります。私が高橋信次先生に教えられた事は、地球に対して水の占める割合は、全体の七割、人間の体の中の水分の割合も七割という不思議。 さらに先生は人間の体の細胞は60兆ほどあると言っておられますが、その細胞が一つひとつ生きており、一つが集まって器官となり、器官が集まって人間となっているということであります。その細胞は一つひとつが意識を持っており、心があるということでした。 高橋先生は「心行」の中で、この太陽系は大宇宙の一つの器官であり、その地球はその一つの細胞であるに過ぎない。しかしこの細胞には意識があり、万物はすべて生命にしてエネルギーの塊(※宇宙創造神であられる大生命あるのみ)であると言っておられた。 私は高橋先生に3回お会いしたが、私の現在、過去、未来を全て透視してしまわれた。それは超能力という様な次元のものではなく、こういう人が存在するとは信じられなかった。 前にも触れたが、会社の不正や子供の将来についても色々教えを受けたし、調べたら、銀行の頭取に紹介された人物が不正をやっていたかという事もあった。 私個人の事については、夜の11時、12時に家に帰って来て食べることは胃に悪いですよ、それはあなたの胃の細胞が言っていますよ・・・とハッキリ言われた。それは私の家内しか知らないことでした。 高橋先生が病気を治す方法は次のようなものでした。先生はまず、 「神よ、この胃に光を与えて下さい。細胞に光を与えて下さい」と言って、胃を見て、「あなた方の細胞には、神から与えられた使命があるはずです。それを正しく果たしなさい」と細胞に言って聞かせて病気を治してしまわれるのであります。 高橋先生は、我々は地球を含めた太陽系が属する銀河系には、約1千億個の恒星と、それに付随する惑星が存在し、そういう銀河系がこの大宇宙にはまだ1千億個あると言われる。想像すると、気の遠くなるような話であります。 つい先ごろの新聞によると、この大宇宙というのは、蜂の巣のようなもので一つひとつが無数に集まって、それが大宇宙になっている。それだけ広大な宇宙が、みな調和して整然と生きている。もしこの調和が破られたら、地球などはどこかに飛んで行ってしまう。 我々人間がいくら偉そうなことを言っても、それはあたかもお釈迦様の手の上で暴れている孫悟空のような存在でしかない。人間は地球を離れたら一瞬たりとも生きられない。 高橋先生は、人間の体には60兆個の細胞があると言っていましたが、それらの細胞が集まって、目、耳、鼻、口などが作られ、それらが一生懸命働いてくれるお陰で、我々は食べたり、語ったり、聴いたりできる。 前に、片目に視力がなく、残る一方の視力も落ちて私の所に来た弁護士事務所の事務長の話を記したが、我々はこの目が見えなくなるということがどれだけ大変なことか想像すら出来ない。 また、口が使えなくなる、喉頭がんで喋れなくなるということがどんなものか。そんな大げさなことでなくても、指先の爪一枚取れても大変な痛みで苦しむ。我々はそうなった時初めて、自分の身体の有り難みが分かる。 ところが普段何気なく生活している時は、こういうことが分からない。日蓮でしたと思うが「病中にあらずば正法を得ず」と言った高僧がいましたが、人間は病気になって初めて、自分の弱さが分かる。 それはちょうど、親がいる時は、その有難みがわからないようなものと同じであります。瞑想をするということは、我々が生かされている存在であるということを知ることであり、さらに、万世万物に感謝するという心を持つことであります。 高橋先生はかつて、万世万物は全て心を持っていると話しておられた。私も先生の死後、色々なことを体験しながら、先生の言葉が真実でしたことを実感として分かったのであります。 万世万物に心あり その高橋先生の言葉を実証するような事が、後の場所で行われたことがあった。それは、かつて三越百貨店の本店で、高橋先生の奥さんとお嬢さんの佳子さんが、花と語るという不思議な体験を公開したことであります。 花、たとえば菊といっても無数にある。その中には日本で育った菊もあれば、中国から来たものもある。そういう事は鉢植えの菊を持ても普通の人にはわからない。ところが先生の奥さんと佳子さんは、実際に聞くと話すことで、そういう事が全て分かる。 ある菊は奥さんに、「私を持ってきた人は、人が良さそうに見えますが、実際は家に帰ると夫婦喧嘩ばかりしている」と話したりするのであります。 あなたはこんなことは想像出来るでしょうか。私はそういう事を聞いてから、毎日花に語りかけるようにした。一輪差しの花をコップに入れておいて毎日、おはようございます、と3年も5年も繰り返している内に、何となく花の言葉が聴こえるようになってきたのであります。 そんな馬鹿なと言っても、聴こえるのだから仕方がない。私がおはようございます、と言えば、おはようございますと答える。綺麗ですねと言えば、ありがとうございますと言う時もある。ある時など、今日はコーヒーを飲みすぎてますから、もう飲むのをやめて下さいという事もある。 私はその時になって初めて、高橋先生の言っておられたことは本当でしたなと分かったのであります。私はそれまで、こういう事は特殊な能力がなければ出来ないのですかと思っていた。ところが瞑想と反省の日々を送って、心が調和し正常になると、誰にでも可能だということが分かってきたのであります。 高橋先生は、現世という現象界では、人間の潜在意識は10%しか発揮されておらず、残りの90%は眠ったままだと言っておられた。 この残りの部分が開発できれば、誰でも花と語ったり、守護霊と語ることが出来るとも。そうするためには、私の心の波長を、正しい方向に向けなければならない。 いくら守護霊や指導霊、さらには光の天使が我々に語りかけようとしても、それをキャッチするだけの感度の高いアンテナを備えていなければ、到底受け止めることはできない。たとえ「霊道」は開かれなくても、瞑想、反省を日々の生活の中に取り入れれば、どれだけ心穏やかな人生を送れることか。 さらに私はその後、胎児と語るとう稀有な経験もしている。私は前の家内をがんで失った後、しばらく男やもめで三人の男の子と暮らしていた。ですが社長業という激務の傍(かたわ)ら、三人の男の子の面倒は見きれない。 困ったなと思っている時、私どものメインバンクである大阪銀行の石原保会長から再婚の話が持ち込まれた。私はそこで現在の家内と再婚したのですが、最初に写真を見せられた瞬間、ああこの女性ならと思いました。 結婚してしばらくすると、家内が子供がほしいと言い出した。私はそれを聞かされた時、正直な所、3人も子供がいるのに、この上子供を作るのは面倒ですねと思いました。 ところが翌年(昭和60年)の10月頃、私に守護霊の声が聞こえてきた。 「今年は宿りませんが、来年の2月には宿ります」ということでした。 私はそれをうっかり忘れていましたが、翌年の3月頃に、家内が体の調子がおかしいというので病院に行くと、「お目出たです」と言われて帰ってきた。 その頃出版されていた俳優の河津祐介さんの本の中に、胎児と話すということが書いてあった。私はそれを読んで、面白いと思い、始めた所、本当に女の子の綺麗な声が聴こえてきたのであります。というのは、家内の逆子の胎児を、胎児の誘導するままに行って正常にした経験があった。 そんななと思うかもしれないですが、現実にあって、そのことは山王病院にも記録として残っている。高橋先生は、万世万物、それこそ一寸の虫にも五分の魂ではないですが、砂にも意思にも生命があると語っておられた。 瞑想が進むと霊界とのコンタクトが多くなる 阿弥陀如来の秘密 昭和63年3月1日、阿弥陀仏は次のようなメッセージを送ってきた。これはかなり以前の「霊言」ですがユニークなものなので紹介しよう。 阿弥陀如来は一般に架空の人物だといいます。また、二年ほど前の『文藝春秋』の巻頭随筆分に、作家司馬遼太郎氏は阿弥陀如来の足跡・消息はシルクロード辺りで消えているといいます。 私の瞑想では、阿弥陀如来は約6000年ほど前にエジプトに実在した光の大指導霊であり、アミンと言った。己の国を平和にし、以後、神理正法心を遠くイスラエル、ギリシャ辺りまで行って心を説いた方であります。 ---私が今日あなたに伝えることは、次のことです。 一つ、人間はいつも己の心を持し、常に謙虚であること 一つ、人間は常に感謝と報恩の心を持つこと 一つ、人間は常に心を明るく持つこと 一つ、人間は全ての人、ものを生かす心、育てる心を持つこと 一つ、人間は必ず死すということを忘れないこと 一つ、人間は日々、反省と祈りと瞑想をすること 一つ、人間は毎朝呼吸法を50回と掌マッサージを己の全身に行うこと 一つ、人間は必ず神から与えられた全てのものを大事にし、調和すること 一つ、人間は家族、職場、社会、大自然との調和を心がけること 一つ、人間は己自身の心を常に凝視(みつ)め、人を責めないこと 一つ、すべては神から授かったものであることを心得、およそ無駄にしないこと 一つ、人間の心のなかに慈悲と愛の心を持ち暗き心を持たないこと 一つ、人間は己の能力を生かし、己の使命を果たすよう心掛くべきこと 一つ、人間は神からそれぞれの使命に応じて脳力を与えられたものなれば、みな平等なることを知ること 一つ、神はあなた方一人ひとりに光を与えられ、あなた方は神とともにあることを自覚すること 一つ、神は平等なるも、全てのものごとは作用反作用の法則、因果律なることを知ること 一つ、人間は輪廻転生して己の魂を修行していることを知ること 一つ、煩悩は人間性に必ずとらわれたことなるも、煩悩の一つひとつ、己の心の動きを凝視(みつ)め早く脱却すること 一つ、物事はすべて客観的見地、第三者の目で正しく見ること 以上のことを毎日心に持ち実践して下さい。 神、汝に光を与え給う 神、汝を導き給う 神、汝と友にあり---- 高橋先生が私の前に初めて現れたのは、私が車の中で瞑想しているときでした。その時私は、生前の先生の教えと、その後の私の解釈の違いを疑問に思っていた。先生はそれを私に教える為に現れたのであります。それ以来先生は、しばしば私に「霊言」を伝える為に現れている。 これは平成3年7月10日の午前6時10分に先生より寄せられた「霊言」であります。 ---あなたの心の中の偉大な神の光(神我)に目覚める時、あなたは正しく調和します。全ての万世万物は神の創造されたものであり、一本一草すべてに神宿り給い、神の光り満ち給う。 今、先進国は飽食暖衣の時代、物質万能の時代。なるほど、神は肉体、大自然を想像し給い、物質を造り給うたもの。それゆえ物質はすべて神宿り給う神聖なもの(※霊(大生命)と水(質量)との調和で存在)であります。 同時に神は全てに一木一草に至るまで、一粒の砂、ミクロの全てにまで形、体と共に、心、魂を与え給うています。人間然り、動物、植物はじめ、万世万物一切のもの皆然しかり、物質と精神、心と肉体、神の心と大宇宙、大自然、すべて同じ神意からそうあらしめたものです。 今、物質のみから精神、心に目覚めた時代に入りつつあります。しかし、正しい心こそ肝要です。神意、正法、真理、大宇宙、大自然、転生輪廻、生老病死、慈悲、愛、調和の心、使命等を正しく人々に教え導いてください。己の使命を正しく果たしてください------
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