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五井先生・如是我聞・総まとめ記事♪如是我聞 --時折り五井先生より拝聴したお話--♪「悟った状態というのは、全てのことに感謝出来るということですよ」「感謝の想いは光」「感謝の心」は「(神に)おまかせの心」自分が生きているのではない。神さまに生かされているのだ。♪ 「和顔愛語」「金銭に清らかであれ」「愛というのは与えっぱなしなんですよ。少しでも報酬を求めるのは愛ではない」失敗したら「また新しく出直そうよ」とサラッと言って励ましてあげよう。♪「天命を信じて人事を尽くす」「宗教の極意は執着と虚栄心を捨てることである」「神界では、言葉と想いと行動が一つなのである」人のために尽くそう。 陰徳ということが大事なのだ。それは天に宝を積んでいることなのだから。♪「ああ私は有り難いなあ、幸せによい心を持てて有り難いなあ、ますます愛深い私になりますように、どうかますます生命輝く私になりますように」「それは神さまだけをひたすら想うことだよ。その事一つだけを想い続けることだ」「神さまのなさることは絶対に間違いないと信じきることです」「人間はみな光の流れ、大光明の一筋なんです。」「宗教というのは根源へ、神のみ心の中へ入ってしまうことなのです」「神の生命と全く1つの個性を持った永遠の生命なのです」




如是我聞 --時折り五井先生より拝聴したお話--

30
神の支流となれ。神の愛を貰いっぱなしにするな。まず感謝せよ。
神よりの喜びを他に与えよ。喜びは他に与えれば与えるほど神より流れ来るものだ。
永久に神につながる道、安心立命の泉ここにあり。

31
「悟るってことは、一体どういう状態をいうのでしょうか」
「悟った状態というのは、全てのことに感謝出来るということですよ」

253
 「感謝の想いは光」です。

254
 涙を流すにも色々あります。悲しい時に流す涙。
しかし、喜びの涙、感謝の涙、それは光です


223
空になるには、守護霊守護神に一切をまかせることです。

224
感謝の心」は「(神に)おまかせの心」である。

225
神の働きかけは、必ず守護霊を通じてあるのである。

226
その人の本当の偉さは、その人の行為を見ればわかる。どんなに立派な理論を説こうと、どんなに素晴らしい霊力があろうと、その行為に愛がかけていたら、その人は聖者とはいえない。

227
悪いことが出てきたら「ああこれで過去の業が消えたんだ。これで必ずよくなるのだ」と深く思うことです。

104
 三界〈迷いの世界)を超えるには空(くう)になることが必要である。しかし空(くう)という言葉は難しいし、わかりにくい。

 そこで分かりやすく言うと、命を捨てるということになる。これでもまだ分かりにくいのならば、

 現れてくるすべてのもの(※現象や物事など)に”ありがとうございます”と言えることである。そう言えるようになれば、三界を超えているのである。

270
或る人に「病気の治る方法」と書いて、先生が手渡された。それには、

どんな想いが来ても、そのたびに神さまありがとうございます
という想いにみな変えてしまうこと。そうしていれば病気は治る」
と書いてあった。

271
 主よ、主よと呼ぶものばかりが天国に入るのではない。
という聖書の言葉があるけれど、本当の言葉です。

 いくら神様、神様と言ったって、行いが普通の人以下では何をかいわんやです。
 愛が深くなければ、才能があろうが何があろうが、それが生きてこない。
まず、心優しい人になることだ。

248
 息を吸うのも神さまがさせてくださっている。足を動かすのも神さまが動かしてくださっている。

 神さまが、この世にもう用がない、と思われれば、今日は健康であっても、明日天に召されることがある。

 自分が生きているのではない。神さまに生かされているのだ。

319
 或る人から「凡夫易行実践五ヶ条を教えて下さい」
と言ってきた。
五井先生は次のように五ヶ条をおあげになった。

1、肉体の自分では何事もなし得ないのだ、と徹底的に知ること。

(これが本当にわかったら悟ったと同じだがね、と先生はおっしゃった)
(※全てが神の御業…という「真の謙虚」を深く理解する事が大事♪)

2、なんて自分はダメなんだろう、と思ったら、
すぐそれは過去世の因縁の消えてゆく姿と思い、世界平和を祈ること。

3、たゆみなく常に祈ること。

4、何事も自分がやるのではなく、「神さまがやって下さる」のだと思うこと。

5、朝起きたら祈り、よる寝る前、少し時間をかけて祈れ、
そうすると自然に臍下丹田に生きがおさまる。

321
 五井先生が常にまわの者におっしゃっていることは、

「和顔愛語」

「人間はすべて兄弟姉妹。みな平等なのである。絶対に人を下眼にみたり、馬鹿にしてはいけない。そんな態度は、それだけで宗教精神にはずれている。その人の外観によってのみその人を判断するのは、愚の骨頂である。」

「金銭に清らかであれ」

190
 N夫人からお聞きした話-----

「十何年か前、まだこんなに五井先生がお忙しくならない時に、先生が私どもの家においでになって下さるというので、嬉しくて皆さんにも声をかけて、何人か集まって頂きました。

その時先生は、
『私は人間を改造しにこの世に来たのですよ、今に人の心が黙っていても分かり合い、通じ合う世の中になるんです』とおっしゃるので、

「私、困っちゃいました。そうなるとで私みたいな者は、恥ずかしくてこの世にいられなくなっちゃいます」と申し上げましたら、

『そんなことはない。徐々に徐々にみんなの心を変えていくのだから。 誰か1人が立派になって、というのでなく、みんなが揃ってそうなるんだから』
とおっしゃいました。

 でも今から考えますと、大変な思いあがりでしたが、人間改造とおっしゃっても、私はそんな必要はないんじゃないかしら、正直だし、人のことは真っ先にして自分のことは一番後回しにして、私は自分でもいい人だと思っているしと・・・

 でもいつの間にかご飯をいただく時、どんな時でも有難うございます、と感謝している自分に気づきました。教えられて努力したというのでなしに。

 そして『Nさん、愛というのは与えっぱなしなんですよ。少しでも報酬を求めるのは愛ではない』とまた先生はおっしゃいました。

一生懸命尽くしたら少しは反響があっていい、と思っていなければ淋しかった私の想いを、大きくえぐりとって下さり、
 それから余韻として少しづつ出てくることはありましたが、段々すべてに感謝している自分にさせていただいております。

 気が付くと、いつの間にか変わらして頂いている。ああこれが五井先生のおっしゃる人間改造なのだ、と分かりました

48
道というものは、道そのものを行わなければならない。それが弟子の先ず心得るべきことである。

 であるから、肉体人間の師匠にこだわることはない。説かれている道、法が良いと思ったらば、行えばいいのだ

-----ある師匠に疑問を持ち始め、疑問を持ったまま話を聞くことは耐え難いことです、という青年へのご返事-----

49
 人は仕事をしても、しなくても立派になれる。仕事というものは神様がさせてくれるもの。自分は自分が立派にしていかなければいけない。
 つまり自分がどれだけ無くなっているか(無我)という事である。

50
 自分の立場がおかされようと、自分のメンツがまる潰しにされようと、自分をかばうために、そして自分の感情が通らないために、私は人を攻めたことなどない。

51
 人が失敗した時、それを責めてはいけない。
泥棒に追銭ということはそういうことだ。責めても何もならない。

 宇宙の連行からみれば、失敗したことなど大したことではない。失敗したら「また新しく出直そうよ」とサラッと言って励ましてあげよう。

247
人に立てられることは難しい。先生先生と立てられると、いつの間にかそこに虚栄心が出て来る。その虚栄心を満足させるようにならぬよう注意すること。

 立てられないと腹が立つというようになる。自然に威張るようになる。何でも無かった時は出なかったのに、講師先生になると金銭欲も出て来るし、色欲も出て来る。欲望が増してくるからくれぐれも注意することだ。

248
私の行き方の特徴の一つは、常識を外れず常識を超えるということ。
もう一つは「天命を信じて人事を尽くす」ということ。人事を尽くさないとダメですよ。

30
不平不満の想いなどサラサラない、白紙のような、綺麗な澄み切った心。

たとえ親しい人でも、変なお世辞やいやだし、遠い自分の教えとは反対のような人でも、正しいことを言っていれば、正しいと認める、そういった心境が私の心境です。

31
「執着と虚栄心」、自分をかえりみてこの2つの想いがないように、つねに訓練することである。権力欲も虚栄心の変形である。
この2つの想いがなければ、その人はそのまま天界の人である

32
宗教の極意は執着と虚栄心を捨てることである
この2つが出来れば上等である。

33
人にたてられた時こそ注意せよ。先生、先生など言われていい気になっていると、業がよってきてさらわれる。だから人にたてられた時こそ心を引き締め、謙虚になって、ますます磨かなければならない。

34
非凡になろうとするからいけない。
平凡に極まればいいのだ。

42
霊的なささやきと自分の意志、言葉と別々であっては本物ではない。霊的なささやきを消して消して徹底的に消えてゆく姿にしてゆくことである。

ささやき、また中から出てくる言葉を咀嚼しないで、そのまま相手に伝えてしまうことは止めなければいけない。

その言葉、霊示なるものも、一度消えてゆく姿にして、調和ということ、愛ということを考える余裕を持つことである。そうしないと人を生かすことにならない。

 神界では、言葉と想いと行動が一つなのである。

43
今ある立場を生かして、世界平和の祈りをして下さい。今ある立場を生かすということは、お金を得る仕事をすることが大事であるということでもあります。

お金を得る仕事をするということは、大きな修行です。バカにしてはいけません。
お金を得る仕事をする。それが第一で、その生活の根本に世界平和の祈りをして、人のために尽くして下さい。
--------ある青年への手紙より---------

44
いついかなる時でも、(心の中・意識に)
神さま(慈悲と愛・愛と調和・ワンネス意識)だけを住まわせよ

45
指導者の第一条件はひろい心である。すべてを入れるゆるしの心である。

37
神秘とか不思議なことばかり求めている人は、寸時も心の飢が満たされることはない。注意すべきことである。

38
自分自身と自分がありすぎる。自分を全部消えてゆく姿にして、神さまだけを自分の心に住まわせよ。

39
人間はさっぱりしなければいけない。執着を捨てよう。

40
4つの病が重なり、精神的に焦りと恐怖心が湧いて来て抑えきれない、という方へのご返事。

「人間は体でものをするのではありません。精神でするのです。その精神の中に神様が生きているのです。
 ですから神さま有難うございます、と感謝しましょう。体でやろう、体で生きようと思いなさるな」

41
人間はいつも今から新しくつくるのです。いい人生を作りたいと思ったら、明るい想いを常に出し、真実のことを常に思い、おおよそ良いことばかり想って、人の為に尽くしなさい。それに祈りをプラスすればなお良い。

52
肉体人間が救うのではない。神さま(大生命)が救済をして下さるのである。だから肉体側は守護霊守護神の使いやすい器であるように、いつもしておくことが大事なのである。

53
人間いい人だけではいけない。肚が出来ていなければいけない。
肚をつくるには、守護霊守護神に守られているのである、と思い定め、守護霊守護神様有難うございます、と想い続けることである。

54
うちの会の人には特別な才能などはいらない。妙好人のような、素朴な純真な生き方をする人がいればいいのです。

55
「神様がすべてをやってくださっているのだ、気に入らぬことがあったら消えてゆく姿と思い、気に入ったことは有難うございます、と簡単に思って生きなさい」ちょっと神経症になりかかっている青年へのお言葉だった。

9
人間は生き通しの生命なのである。生命の個性のひびきをもって、永遠に輝き続けるのである。

10
肉体を去っても体はある。
しかし、その体は微妙な波動の体であって、光であると同時に、あらわそうと思えば身体となる、というものなのである。

11
自分を愛するとは、神さまから来た自分の生命を大切にすることである。
自分の心、自分の生命を汚さないことである。常に自分の心を綺麗に磨いておくことである。

 自分の想い通りの世界へ人間は逝くんですよ。暗い想いなら暗い世界へゆく。明るい想いの人は明るいところへゆく

 オシャレの人はオシャレの世界へゆく
 あの世ばかりでなく、この世も同じなんです。ただすぐ現れて来ないだけ。あの世はすぐ想った事はサッと現れる。

 だから世界平和の祈りの中に、自分のあらゆる想いを入れておく練習としておくこと。

235
 守護霊さん守護神さんに願っていれば、危ないところは必ず逃れられます。わざわざこうしなさい、というような導きではなく、自然に危険をさけられるのです。

 また思いもかけぬ、こんな智恵が自分にあったか、というような言葉が出てきます。

236
 深い祈りは睡眠と同じ効果がある。

251
 人生一度は苦しみを通らなければならない時がある。それがたとえマイナスを消すためのものであろうと、祈りある者には、それが大きなプラスに変化してゆくのである。

252
指一本痛むのさえ魂の浄まりである。いかなる苦しみも苦しむことで魂は浄まってゆくのである。

253
出来る限りのことを一生懸命やって、失敗したとしても、それは神のみ心と受け止めとり、成功したとしても、それは神のみ心と感謝できる人は幸せな人である。


290
 あまり人のことに気を使いすぎて、自分が疲れてしまう人がいるが、そういう人には図太い神経というのが必要だね。

 人がどう思おうと、どう言おうと、そういう事は一切気にしないことだ。
 気が優しい人はそれくらいでちょうどいいのですよ。


291
 すべては神のみ心である、といって超然としていられる事は私には出来ない。人が病気でもし、生活に苦しんでいるのを見れば、私はその人のことを心配し、その人がどうなったか、財布の中まで察してしまう。

 だからといって、心配にとらわれて、上に溺れているわけではない。心配とか、道場とかの気持ちや態度を通じて、神のみ心たる愛の光が相手の心に流れ、染みこんでいくのを私はいつも観じているのである。

 冷淡な仕打ちをするようだけれど、その人を真に愛して、生かしている人。悟っているようでその実、冷淡な人。情にとらわれているようでとらわれていない人。

 いろいろな人がいる・・・。愛と情の区別はなかなか難しいものだ。
 しかし、人は自ら見分ける目を持っているのである。

261
一番悪そうに見える時、一番どうにもならないようになった時、その時が一番夜明けに近いのです。いいことがかならず来る前兆なのです。

262
苦しみが多ければ多いほど、深ければ深いほど、のちにくる喜びも多くまた深い。

263
感謝されようとされまいと、目立つと目立つまいと、人のために尽くそう。
陰徳ということが大事なのだ。それは天に宝を積んでいることなのだから。

264
貧乏になろうが、病気になろうが、何があろうが一寸も驚かない。少しは驚くけれど、ああこれは消えてゆく姿だ、と祈り心になりきってゆける。
 そういう人間に仕立てあげるのが私の役目です。

265
何があっても驚かない人間、
何があっても憎しみがない人間、
何があっても常に愛深い人間、
そういう人間になってほしい。

317
 もし自分が優しい心、愛の心、明るい心、楽天的な、のんきな心を持っていたら
ああ私は有り難いなあ、幸せによい心を持てて有り難いなあ、ますます愛深い私になりますように、どうかますます生命輝く私になりますように」
と”祈る”ことです。
そうするとますます生き生きと明るく生きられます。

320
 欠点を直そうとして、欠点だけを叩き直すより、長所をうんと伸ばすことに精力を集中せよ。すると欠点は自然になくなっている。

87
自分自身としては、愛深い自分になること、この上もなく優しくなること。誰でも優しくされれば嬉しいものです。霊的な力とか、知恵はすべて天からくるもの、それを受け、人々に分かち与える器となればよいのです。

88
陽気は神のみ心であるから、神は明るい心を喜ばれる

89
思いやり深く柔和で、暖かな人であって下さい。
相手の心を痛めず傷つけない人であって下さい。

その人の前に座れば、何も言われなくても、温かく明るくなるような人に。
たとえ自分に不利なことをしようとしたり、自分を傷つけ殺そうとするような人の心さえも、傷つけ痛めてはいけません。

 何故なら自も他も一体なのだから。


83
まわりの者が病気になったり、苦しがったりしている時、
「これは大変だ!是非直さなきゃ」と、力んではいけない。

 神さまが生かすものは生かすのだし、往生さすものは往生させるのだ、
神様は愛なんだからその人に悪いようにしっこない、と深く信じることですよ。

 私の場合はもう信じるなんていう境も超えているから、どういう場合でも1つも心が動揺しないし、今更、動揺する心もない。

 私はただ、神さまの光明を流しているだけ。そして必要があれば体をさすってあげるだろうし、色々と慰めてあげる。

 しかし、ただ黙って祈って光を当てている時もある。
これはすべて神のみ心のまま。
 そうする時に、神様の力、神さまの光がそのままズバリと出るのですよ。

84
神さまごととか、霊能とか、才能とか、地位とか、そういうものを除外して、
裸の人間になって、なおかつ人格的に立派である、というような人間になることが必要です。

372

 素直な性質を与えられていることは有り難い事です。その素直さを更にもっと広げ、もっと深めることです。何故かというと、その奥に深い智慧がひそんでいるからです。

 それは無為になると出てきます。大生命である神は、少生命たる人間を常に生かそう、よくしようと、智慧、力を与えておられるのです。それはまた大宇宙を動かしている大いなる力であり、智慧なのです。これを改めて頂くことです。

 しかし、一遍に無為になれといっても出来るものではありません。
”消えてゆく姿で世界平和の祈り”で1段1段と無理なくその心境に達するようにしているのが、私の指導法なのです。

373
 天の扉を開く鍵は、まかせる、全託することである。肉体人間の力、智慧では何事も分からない、明日の運命、いや一瞬先どうなるか分からない。

 それを知ったとしても、どうすることも出来ない。肉体人間は何事もなし得ない、だから神さまにして頂こう、と神様にまかせるのである。

236
宗教精神とは愛と真と美である。特別に宗教団体に入らずとも、この精神を生かせばよいのだ。

238
日常、普通の生活、平凡な生活を送りながら、全人格から温かいもの、浄いもの、さわやかなものが湧き上がってくるようになることです。

239
「愛の祈り」は人を動かす

240
1人を愛し続けられる人は幸せだ。
1人を真実に愛せず、
それでいて多くの人も愛せない人程不幸な人はいない。

多くの人を愛しながら、
その一人ひとりを心の底から愛し続けられる人
そんな人を聖者というのだろう。

266
 常に常に祈りを積み重ねておくことです。

267
瞬々、間断なく私は体中で祈っている。揺れ動く想いなどというものは1つもない。ただあるのは、人々の幸せを願う愛のみである。

268
祈りをますます深めて欲しい。もう祈りよりない、という事をつくづく感じる。
肉体は神の器であるという自覚、神との一体感を深めることが必要である。

352
「霊感というのはどいうことですか?」
「生まれつき備わっている人と修行して得た能力とあります。五感に感じられないことを感じることが出来る1つの能力です」

「その修業というのは、頭の中の潜在意識などで、ゴチャゴチャ思わないという練習でしょうか?」

「頭の中でゴチャゴチャ想う、とか、想念を集中するというのではなく、
そうした意識とは次元の違った、高次元の想いの中にこちらの想いを入れる練習をすることです。

 その方法が祈りなのですよ。祈り言を唱える事によって思慮分別、小智才覚の世界を抜けて、本心の中に入るのです」

353
「先生、わたくし行がしたいのですが」
40歳がらみの婦人が言った。

「何故だね?」
「霊能を得たいからです」

「霊能を得たいために宗教に入るのならお止めなさい。
私は本心開発を先ず第一の仕事をしているのですから、お門違いだ」

「いえ、先生、私はヘンな霊能が欲しいわけじゃないのです。先生のような立派な方について学べば、本当のものが得られると思って・・・」

「どんな理由にせよ、霊能が欲しい、欲しいと思って行ずることは止めなさい。
霊能を得たいと欲するのは、自我欲望の変形です。まず本心を開発することです。

 神さまがあなたの本心開発に必要だと思われれば、霊能は授けられるだろうし、不必要と認められればあたえられないだろう。まず、自分の感情、人の感情にとらわれなくなることの訓練をすることです」

346
「先生、人間、想いを消すということは大変なことですねえ」

「いや想いを消す事は簡単なことなのだよ。どうすればいいかというと、
それは神さまだけをひたすら想うことだよ。その事一つだけを想い続けることだ

347
「大らかな、ゆったりした人間になるにはどうしたらいいのでしょう?」

「全く神さまにまかせきることです。全託することです。
神さまのなさることは絶対に間違いないと信じきることです


348
「世間では左翼だ、右翼だ、と色分けをすぐするけれど、うちのはなんだろうね?」
「・・・・・」
「”なかよく”だよ」


306
 霊能力がついて来た人に言われたお言葉

「己の心を振り返って、たとえ間違いがなく、自分は真理の言葉をしゃべっていると思っても、一度は押さえて、自分の言葉として話すことである。そうしないと和を乱すことがある。

心すべきことは、

1.和を乱さぬこと
2.相手を痛めぬこと
3.自分の言葉として消化して、やわらかくいうこと
4.謙虚になること

このように、自分を充分訓練しなければいけない」

91
 個我のわたくし、肉体の私、というのが無くなれば無くなるほど、その人は立派な人である。弱い私、善い私、悪い私、そういうものはない。

 いいわたしもいる必要はない。天に渡すだけである。わたしを渡し、それで天の心に入ってしまえばいい。そして光ごとに降りてくればいい。そうすると光明体である。光になることが唯一のことなのだ。

169
 人間はみな光の流れ、大光明の一筋なんです。
「体」というのは無いのです。只仮の姿として、神の働きを実現するために「私」があり「あなた」があり「彼」があるのです。(神の道具・神の化身・神の表現体)

170
 その人が悪いのではない。業にまきこまれてしまうのだ。あいつは悪いやつだ、と言われる人は、実は業をそこに結集させて、代表的に業を消している役目を荷(にな)っているのである。

 ああご苦労様、あの人の天命がまっとうされますように、と祈れる心は仏の心である。

362
修行というのは、自分がするのではないのです。自然にさせられるのです。
自分が意気ばって、偉くなろう、悟ろうというのではないのです。

勿論、志がなければだめですけど、例えば、なにか人のために生きたいとか、自分の生きている間に天命をまっとうしたいとか、という熱意を燃やし続けていると

守護霊守護神がその人に適当な導師の所へ連れて行ってくれるし、またその人の修練に適している場所に運んでくれるし、人に会わせてくれるのです。

だから、まず守護霊、守護神への感謝行をせよ、と私は教えているのです。


363
一番愚かなのは、自分の力を見せよう、ということですネ

人にたてられたい、人より上位にたちたい、
というので霊能力神秘力が欲しいという修行は一番愚かです。

道が誤っているから、自分が大変苦しむのですよ。

する”というより”させられる”のです。
自分からなる、というのは宗教の世界ではないんじゃないかナ。

193

 修養の根本問題は何かというと、肉体の自分がすべてやるんだ、やっているんだ、という観念を捨てることです。肉体がやっているんだ、という考えのあるうちは、宗教ではなく、修養です。
 自分は立派にならなきゃ、自分はこうしなければいけない、というのは修養なのです。

 宗教というのは根源へ、神のみ心の中へ入ってしまうことなのです。肉体的に現れている自分というものは、一個の肉体の人間ではなくして、神さまの分生命として、神さまの大光明の1つの光線として現れて働いているんだ、ということになるのです。

 だから肉体側の想いでもって、この世界を平和にしよう、というんじゃなく、また悟るというんじゃない。

 肉体側の想いのなすべきことは、世界平和の祈りで神さまのみ心の中、大光明の中に自分が入ってしまうこと。これが一番大事なことです。

 そうすると、大光明の方からも、本心の自分肉体以前の神霊の自分が、そのまま肉体を通じてくるんですよ。
 だから肉体側としてはスイッチをひねる役目、神さまのみ心の中に入る役目をすればいい。それを全託というのです。

187
 あれも運命だ、これも運命だ、という人がいます。大体の人は、自分が運命の流れに入ってしまって、その流れに左右されているようです。

 ところが本当は、自分というものと運命というものは違うのです。運命というものは、前生を含んだ過去において作ったものが、今現れては消えてゆく姿だけのものなのです。

 運命それ自身が今の自分ではないのです。たとえ運命が善かろうと悪かろうと、今の自分のものではないのです。
 すべて過去世からの想念行為が現れては消えてゆく姿なのです。

 ですから運命環境が悪くても、それは今の自分が悪いからではない。また運命が素晴らしく良くても、それは今の自分が善いから、偉いというわけはない。
 それはすべて過去からの想念行為の蓄積が、現れて消えてゆく姿なのです。

 ですから、運命や環境が悪いから、といって今の自分を嘆き悲しみ、責め卑下することはありません。また運命環境が良いからといって、感謝こそすれ、自惚(うぬぼ)れたり威張ったりしてはいけません。それはみな消えてゆく姿なのです。

 では今の自分はどこにあるか。今の自分は神の中にいるのです。
 神の生命と全く1つの個性を持った永遠の生命なのです
 そして現れてくるものはすべて消えてゆく姿。

 この信仰に徹すると、生き死にの恐怖不安にとらわれなくなり、永遠に生き続ける生命がある、という不動心を会得出来るのです。

の引用ですが・・・

「世界人類が平和でありますように」という言葉は、宗教宗派、信条を問わず、誰でも唱えることが出来る祈り言葉です。そしていつでもどこでも唱えることができます。

 日常の中で祈ることによって、本心(本来の神そのものの自分)と繋がり、あらゆるものを調和と平和に導いてゆきます。

「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉は、1955年に白光真宏会の創始者 五井昌久先生によって提唱されました。

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます


“この祈りは、五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのである”と説かれています。

守護霊、守護神とは、常に私たちの背後にあって、私たちを専属的に守護し、運命の修正に尽力している神霊です。


おまけで…皆様のお役に立てるかもしれない、私の恥ずかしい体験をご紹介致します。
 当時は真理の理解が浅かったのもあって、体験に真理の考え方が追いついていなかったのが思い出されます…。
 
 今なら…手に取るように分かる…体験を真理に基づいて的確に判断出来ちゃう…。
うっ…嬉しい…嬉しすぎる(´;ω;`)…感激ィ~という感じで、
この現在の、
「最高級の真理の理解」の体得に至った境地が愛おしいです(笑)。

2016年4月8日の記事です♪
ヒーリング能力が一時的に消えて
猛反省したら復活したお話

 私も実は、ヒーリング能力に目覚めて以降、両手が常にポカポカしていますし、背中がいつも日向にいるかのように温かいという不思議な感覚で毎日過ごさせていただいておりますが、背中に心優しい天使様がいらっしゃって、私の体を通してヒーリングしてくださっているのかもしれない♪、と個人的に感じています♪
 非常にありがたい事です♪

 こういう霊能力に目覚めだした頃が一番気を付けないといけない、とはよく聞くお話ですが、私も昨日、ありがたい気付きの体験がありましたので、これから色んな能力に目覚める方々の何かしらのお役に立てればと思いまして、ちょっと恥ずかしいのですがエピソードをご紹介させて頂きます。

 昨日母親と電話していた時に、私がゴミ拾いとか善い事を一生懸命頑張ってきたから、ヒーリング能力を与えて戴けたんじゃないかな~、スピリチュアル・ヒーリングは、修行すれば誰でも身につくものじゃないから結構すごい能力かもね~、など

 どこか心の奥底でおごりが出てきたと捉えられてもおかしくないオフレコ的な事を話してしまったのですが、その後に急に背中のポカポカ感や、手のひらからも光が出なくなってしまいました(´;ω;`)

 かなり意識のスピリチュアルレベルが上がってきてますので、慢心になったりすることは無いとは思っていたのですが、母親だからと油断して要らないことを言ってしまった事や、自分が頑張ったからなどという、謙虚さのない考えを猛反省したり、

 自分の考え方の総点検をして、反省すべき点は反省して、もっと謙虚な想念で、日々を感謝して生きていきます。

 神さまごめんなさいm(_ _)m…など、色々と…心の中でホ・オポノポノ等をしていましたら、また背中がぽかぽかしてきて、手のひらからも光が出ている感覚が戻ってきました♪

 戻った時は…正直あ~良かった(笑)、と心から思いました♪
 不思議ですが、能力が消えた時、特に不安とかは無かったですけどね……

 ただベストをつくすだけと思って、自分の出来る限りの内省と反省、スピリチュアル的思考の総点検をすれば、なんとかなると…潜在意識では分かっていたのかもしれませんね♪

 自分が頑張ったからなどという、謙虚さのない考えはもう完全に捨てました(笑)

 私の気付きの体験が皆様に何かしらのお役に立てれば非常に光栄で御座います♪良かったらご参考にして下さいませ♪


知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。


カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

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内なる空間の認識・”神の王国(内なる神の国)はあなた方の中(意識)にある”♪「あなたとは何者」なのか? 「意識」である。♪ 伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。♪

母親に長すぎるから短くした方がいいと言われたので、記事の後半を分割してみました。うっかりコピペを2回していた部分がありました。
大変失礼致しました。心からお詫び申し上げますm(_ _)m(´;ω;`)


前半の部分はこちらです♪
https://sinntyounobiruyo.blog.fc2.com/blog-entry-4021.html


内なる空間の認識

あなたもときおりは思考と思考のあいだの空間が生じているのに、自分では気づいていないのかもしれない。

経験に振り回され、形に、つまりモノの意識にばかり自分を同一化するよう条件づけられていると、最初はその空間に気づくことがとても難しい。

要するにいつもほかのことに気を取られているから、自分自身に気づけない。
つねに形に振り回されているのである。

自分自身に気づいているように見えるときでも、自分自身をモノとして、思考の形として見ているから、気づいている対象はその思考であって、あなた自身ではない。

内なる空間のことを耳にしたら、探したくなるかもしれないが、モノや経験を探すように探しても決して見つかりはしない。
これはスピリチュアルな認識や悟りを求めるすべての人々が陥るジレンマだ。

だからこそイエスは言った。

「神の国は目で見える道しるべを伴って来るのではなく、また
『ほら、ここにある!』『あそこにある!』というようなものでもない。
神の王国(内なる神の国)はあなた方の中(意識)にある”のだから」。

目が醒めているあいだじゅう不満や不安や心配や鬱(うつ)や失望やその他ネガティブな状態で過ごしているのでなく、たとえばシンプルな雨や風の音を楽しむことができるとしたら、

空を流れる雲を美しいと眺め、ときには一人でいても寂しさを感じず、娯楽という精神的な刺激物も必要としないとしたら、

何も求めずに親切に対応する赤の他人のように自分自身を見られるとしたら・・・・・ふつうなら絶え間ない思考の流れで占領されている心に、ほんの一瞬であれ空間が開かれたということだ。

そのときには、たとえかすかであっても静かな生き生きとした安らぎが感じられる。
その安らぎは、背景にやっと感じ取れる充足感から、古代インドの聖賢がアナンダと呼んだ「いまに在ることへの歓喜」まで、度合いはさまざまだろう。

形だけに関心を向けるように条件づけられていると、間接的にしかこの安らぎに気づけない。

たとえば美を理解し、シンプルなものごとを評価し、一人でいることを楽しみ、愛情をもって親切に人に接するという能力のいずれにも共通する要素がある。

その共通の要素とは、これらの経験を可能にする見えない背景としての充足感、平和、躍動する生命感である。

人生における美や優しさやシンプルなものごとの良さを認識できたときには、その経験の背景として自分のなかに何があるのかを観察しよう。

ただし、モノを探すように探してはいけない。
それは「ああ、こんなものがあった」とわかるようなものでも、精神的に把握して定義できるものでもない。

それはまるで雲ひとつない空のようなものだ。
形のない空間であり、静謐(せいひつ)であり、「いまに在る」楽しさであり、同時にこれらの言葉をはるかに超えていて、言葉はただそれらを指し示す道標でしかない。

自分のなかに直接感じることができれば、それらはさらに深くなる。
だから何かシンプルなものを――音や光景や感触を――評価したとき、美を目にしたとき、
他者への愛情あふれる心遣いを感じたとき、その経験の源泉であり背景である内なる広やかさを感じてみよう。

歴史を通じて詩人や賢者は、真の幸福――私はそれを「いまに在る喜び」と呼ぶ――がシンプルで一見ささやかなものごとのなかにあることを見抜いていた。

ほとんどの人たちは何か意味があることが起こらないかとそわそわしていて、ささやかなことを(ほんとうはぜんぜんささやかではないかもしれないのに)見落とす。

哲学者のニーチェは珍しく静かな深い落ち着きを経験したとき、こう書いた。
「幸せには、幸せになるためには、ほんのささやかなことで充分なのだ!

・・・・・まさしくごくささやかで穏やかなちょっとしたこと、滑るように動くトカゲの気配、吐息、挙動、一瞥(いちべつ)
――そんな小さなものが最高の幸せをもたらす。静かであれ!」。

ではなぜ「ごく小さなこと」が「最高の幸せ」をもたらすのか?
実は真の幸せはこのようなものごとや出来事によって引き起こされるのではない(最初はそう感じるかもしれないが)。

これらのものごとや出来事はごくささやかで控えめだから、意識のほんの一部しか占領しない。
そこで残るのが内なる空間、形に邪魔されない意識そのものである。

内なる意識空間とあなたの本質とは同じひとつのものだ。
言い換えればささやかなものごとは、内なる空間の余裕を与える。

そしてこの内なる空間、条件つきではない意識そのものから、真の幸福、「いまに在る」喜びが輝き出す。

だが小さくて穏やかなものごとに気づくためには、あなたの内側が静かでなければならない。
鋭敏さが要求される。静かであれ。見よ。耳を澄ませ。いまに在れ。

内なる空間を発見する方法がもう一つある。
意識を意識することだ。

「私は在る(I Am=我神なり・我生命なり)」
と考えるかつぶやき、あとは何も付け加えない。

「私はある(I Am=我無限なり・我愛なり)」
のあとに続く静けさを感じ取ろう。

自分の存在を、何もまとわない素裸の自分自身を感じよう。
そこには老若、貧富、善悪、その他いかなる付属品もない。
それはすべての創造、すべての形を生み出す広々とした子宮である。


正しい行動

エゴはこう問う。どうすればこの状況を使って自分の要求を満たせるのか、あるいは自分の要求を満たす別の状況に変えることができるか?

「いまに在る」とは、内に広がりがある状態だ。
「いまに在る」とき、あなたはこう問う。
どうすれば自分はこの状況の、この瞬間の要求に応えられるだろう?

実は、そんなことを問う必要もない。
あなたは静かで意識が研ぎ澄まされた、あるがままのいまに対して開かれた状態でいる。

そのときあなたは状況に新しい次元を、空間をもち込む。
そして見て、聞く。状況とひとつになる。

状況に対して反応するのではなく状況とひとつになると、解決策は自ずと現れる。
実際には見て聞いているのはあなたという個人ではなく研ぎ澄まされた静寂そのものだ。

すると行動が可能であるなら、あるいは必要であるなら、あなたは行動を起こすだろう。と言うか、行動があなたを通じて起こるだろう。

正しい行動とは、全体にとって適切な行動だ。
行動が完了したとき、研ぎ澄まされた広やかな意識はそのまま残る。

誰もガッツポーズを取って「やったぞ!」と叫んだりはしない。
「見ろ、私がやったんだ!」などと言う者は誰もいない。

すべての創造性は、内なる広がりから生じる。

創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。

自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。(盗みの罪)

(全ては神の御業・神の道具意識・ただただ神様ありがとうございます・私の体を通して神の御業が顕現なされた事に感謝致します…が正解♪)

ただ認識する

だいたい人は自分の周囲の世界にほとんど気づいていないし、慣れ親しんだ環境ならとくにそうだ。
関心の大半は頭のなかの声に吸い取られている。

知らない場所や外国に旅行すると生き生きする人がいる。
旅先だと思考よりも感覚的な認識――経験――のほうが意識の大きな部分を占めるから、より「いまに在る」ことができる。

だが旅先でも完全に頭のなかの声に占領されている人もいる。
そういう人たちは瞬間的な判断で認識や経験を歪めてしまう。
彼らは実はどこにも出かけてはいない。
身体が旅をしているだけで、当人はいつもいるところ、自分の頭のなかにいる。

ほとんどの人の現実はこうだ。
何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪(こうお)や善悪を決める。
この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。

この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。

この休みないラベル粘りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。

ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。

身近なモノ――ペン、椅子、カップ、植木など――を選んで観察してみよう。
好奇心と言えるような強い関心をもって見つめるのだ。

個人的な思い入れの強い、買ったときのことやもらった人など過去を思い出させるモノは避ける。

また本やボトルのように文字があると思考を刺激するので、これも避けよう。
緊張せずリラックスして、しかし感覚を研ぎ澄まして、すべての関心をモノに注いで観察する。

思考が混ざってきても、それに巻き込まれてはいけない。
認識から思考を追放することができるだろうか?

頭のなかの声のコメントなしに、結論を出したり、比較したり、何かをそこから引き出そうとせずに、ただ観察することができるか?

二分ほど観察したら、今度はいまいる場所に視線を向けて、目に入る一つ一つのモノに観察眼を向けてみよう。
つぎに物音に耳を澄ます。

周囲のモノを観察したのと同じ姿勢で聞いてみる。
自然の音――水音や風の音、鳥のさえずり――が聞こえるかもしれないし、人工の音が聞こえるかもしれない。

心地よい音も耳障りな昔もあるだろう。
だが良い音だとか悪い昔だとか、区別をつけてはいけない。

解釈なしに、ただ音を聞く。
ここでもリラックスした、しかし研ぎ澄まされた感覚が鍵だ。

こんなふうに見たり闘いたりしていると、最初はほとんど気づかないような不思議な静謐(せいひつ)さが生まれることがわかるかもしれない。

背景の静寂として感じ取る人もある。
安らぎと呼ぶ人もいる。
意識のすべてが思考に吸収されなくなると、残された部分は形のない、条件づけのない、本来の状態のまま留まる。
それが内なる空間である。

経験しているのは誰?

見る、聞く、味わう、触る、喚ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?

たとえばあなたの答えが、
「もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ」
なら、あなたは間違っている。

ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。

すべての経験には三つの要素が考えられる。
感覚的認識、思考あるいは精神的イメージ、そして感情だ。

ジェーン・スミス、上級会計士、四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これらはすべて思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ。

このどれも、また自分自身について語ったり考えたりするすべても、経験の対象であって主体ではない。

あなたは何者かというこのような定義(思考)ならいくらでも増やせるし、そうすればあなた自身という経験の複雑さは増大する

(同時にかかりつけの精神分析医の収入も増える)だろうが、そんなやり方では、すべての経験に先立ち、それがなければどのような経験も成り立たない存在である主体には行きつかない。

それでは経験しているのは誰なのか?
あなただ。

あなたとは何者」なのか?
意識」である。

 「私とは意識」であり、「意識はすべて」であり、
全てを超えている宇宙の要素」です。

(※「すべての意識」は=「神の意識」です。全ては神から生まれしものであり、全ての全てが神の現れであり、未来永劫「神」以外のものは存在いたしません)


意識」とは何か?
この質問には答えられない。
質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。

意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。探しても無益だ。

「知る」ということはすべて、二元性の領域――主体と客体、知るものと知られるものがある世界――の話だ。

主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。
「私」には形がないからだ。

知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。

形のない次元とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。
その空間が生命であり「私は在る(神の中の存在)」ということだ。

そこには時間はない。
「私は在る(宇宙生命・神意識)」も永遠で、時間を超越している。

その空間で起こることは相対的であり、一時的である。
喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。

内なる空間(内なる神の国)発見の最大の障害、経験の主体を見つけるうえでの最大の障害は、(三次元的)経験に投入するあまりに自分自身(真我)を失うことである。

要するに、意識(真の自己)が自分の夢(偽我)に呑み込まれてしまう。
あらゆる思考、感情、経験に占領され、まるで夢のなかにいるような状態になる。

何千年ものあいだ、人間にとってはこの状態がふつうだった。
意識(神)を知ることはできないが、自分自身として意識(神)を意識することはできる。

どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。
(未来永劫…私達は、永遠に神の御心の中に存在しており、父なる神と常に一体ですから)

いまここに在る自分、「いまに在る(神の中にいる)」
自分(真我)として、たとえばこの言葉が認識され思考になる場、
内なる空間(父なる神と常に一体・ワンネス意識)として感じられる。

それ(真理の理解)が土台の「私は在る(我神なり)」ということだ。
(真理を)読んだり考えたりしている言葉は前景(前提)で、
「私は在る(全ては神・全ては私)」は基部(実践)、
すべての経験や思考や感情を支える背景(土台)である。

呼吸

思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。
この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになるが、いまでも地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。

中断の長さは気にしなくていい。
数秒でも充分だ。
努力しなくても、中断時間はだんだん長くなっていく。

大事なのは長さよりも頻度で、日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。

先日、ある人にスピリチュアルな大きな組織の事業計画を見せてもらった。
実にさまざまな興味深いセミナーやワークショップが用意されていて壮観だった。

見ているとスカンジナビアのビュッフェ、スモーガスボードを連想した。
さまざまなご馳走のなかから好きなものを選んで食べる、というあれである。

見せてくれた人は、どれか推薦できそうなコースはないかと私に尋ねた。
「さあ、どうだろう。どれもなかなかおもしろそうだがね。

しかし、これだけは言える」と私は答えた。
「できるだけ頻繁に、思い出すたびに自分の呼吸を観察してみること。

これを一年続けてごらん。そうしたらここに書いてあるすべてのコースに参加するよりも効き目があるよ。それに無料だしね」。

呼吸(全ては神の呼吸)を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。
意識を喚起する方法の一つである。

意識(神意識)は外に現れないまま、丸ごと貴方の中にあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。

呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。
空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。

息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。

一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。

意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけめ多く繰り返す。
これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。

ただ、二、三時間 呼吸瞑想法を実践したところで(そういう人たちもいる)、必要なのは一つの呼吸を観察することだけだし、気づくことができるのもそれだけだ。

あとは記憶や予測、つまりは思考である。
呼吸はあなたの行為というよりは自然な出来事で、それを観察するだけのことだ。

呼吸は意図しなくても起こっている。身体のなかの知性が起こしている。
あなたはそれを観察するだけ。

緊張も努力もいらない。
それから呼吸の短い中断に注目してみる。
とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。

多くの人は呼吸が不自然に浅い。
呼吸に気づけば気づくほど、呼吸は自然な深さを取り戻す。

呼吸には形がないから、昔からスピリット(霊)と――形のない生命と―同一視されてきた。

「神は土地のちりで人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった」。

ドトイツ語の呼吸――atmen――は古代インドの言葉であるサンスクリット語で内なる「聖霊」と神を意味する「アートマン」から来ている。

呼吸には形がないという事実も、呼吸の観察が人生(生命)に空間を創り出す、つまり意識を生み出すきわめて効果的な方法である理由の一つだ。
呼吸はモノでなく形がないからこそ、瞑想のすばらしい対象となる。

もう一つ、呼吸の観察が効果的な理由は、呼吸がごくささいなあたりまえに見える現象であることで、ニーチェが言う「最高の幸せ」をもたらす「小さなもの」だからだ。

正式な瞑想法として呼吸観察を実行するかどうかはあなたが決めればいい。
しかし正式な瞑想法も、日常生活のなかに空間の意識を取り入れる代わりにはならない。
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる――これがすべての内なる変容の鍵なのだ。

呼吸を観察するとき、あなたは絶対的に「いまに在る」。
それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。

意識的に呼吸すると心が停止する。
それは茫然自失とか半睡状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。

思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。
そしてさらによく観察すると、この二つは――完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは――実は同じことだと気づくだろう。
空間の意識の現れである。

依存症

長いあいだにしみついた強迫的な行動パターンを依存症と呼ぶなら、依存症は半実在、身代わりの存在、定期的にあなたを完壁に支配するエネルギーの場としてあなたのなかに生きている。

あなたの心と頭のなかの声も占領される。
そうなると頭のなかの声は依存症の声になる。

その声はこんなふうに言うだろう。
「今日も大変な一日だった。ご褒美があってもいい。
どうして人生に残されたたった一つの楽しみまで諦めなくちゃいけないの?」。

気づさが欠如し、この内なる声に自分を同一化していると、気がついたら冷蔵庫を開けてカロリーの高いチョコレートケーキに手を伸ばしていることになる。

場合によっては依存症が思考する心を完壁に飛び越えてしまい、ふと気づいてみたらタバコや酒を手にしている。

「あれ、どうしてこんなものをもっているんだろう?」。
まったく無意識のうちにタバコを取り出して火をつけたり、酒をグラスに注いでしまう。

あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような強迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。

強迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。

次にしばらくのあいだ、強迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。

そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの強迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。

それからまた数回、意識的に呼吸する。
そのあとは強迫的な衝動が――そのときだけは――消えているかもしれない。

あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。
その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。

さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。
気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。

ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧みに)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。

そんな主張をしているのは誰か?と自問しよう。
依存症そのものだとわかるはずだ。

それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。

内なる身体(宇宙エネルギー)への気づき

生活のなかでこの内なる空間を見つけるためのもう一つのシンプルな、しかし非常に効果的な方法も、呼吸と密接に関連している。

身体に入ったり出たりする空気の流れを感じ、胸と腹のふくらみと縮みを感じることで、内なる身体(宇宙エネルギー)にも気づくことができる。

そうすると関心は呼吸から、身体のなかに存在し全体へと広がっていく生命感を感じることへと移るかもしれない。

たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭のなかの声に自分を同一化しているので、自分のなかの生命感を感じられなくなっている。

物質的な身体を動かしている生命(神)、
自分自身である生命(神)を感じられないなんて…、
こんなひどいことはない。

だから人はこの本来の幸せな状態の代替物を求めるだけでなくいつもちゃんとあるのに見すごしている生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。

ある人は代替物を求めてドラッグでハイになり、大音量の音楽を聞くなどして五感を過剰に刺激し、スリルや危険な行動やセックスに溺れる。

人間関係の波乱までがこの裏の生命感の代わりに使われることがある。
また多くの人がつねに背景にうごめく不安をごまかそうとしてすがるのが、親密な人間関係だ。

「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である。
もちろんそんな期待は「失望」に変わることがほとんどだ。
そして再び不安が甦(よみがえ)ると、人はたいていパートナーを責める。

二、三度、意識的に呼吸してみよう。
内なる身体を浸している微妙な生命感を感じ取れるだろうか?

自分のなかにある身体を感じられるだろうか?
順番に身体の各部に意識を向けてみよう。

手を感じ、次に腕を、脚を、足を感じてみる。
腹、胸、首、頭を感じられるだろうか?
唇は?
そこに生命感はあるだろうか?

次にもう一度内なる身体全体を感じてみる。
目を閉じていたほうがやりやすい人もいるだろうが、自分のなかの身体を感じたら、今度は目を開けて、身体を感じながらあたりを見回してみよう。

読者のなかには目を閉じる必要がなくて、このページを読みながら内なる身体を感じられる人もいるだろう。


内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)

内なる身体(無限宇宙)は固体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命(神・大愛)である。

身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。

あなたがそれに気づいたというのは、その知性そのものが自らに気づいたということである。

それは科学者には発見できない(それは探求している意識自体だから)、捉えどころのない「生命(神の愛・宇宙生命)」そのものなのだ。

物理学者が発見した通り、物質が密な固さをもっているように見えるのは、実は人間の五感がつくり出した幻想である。

この物質には肉体も含まれる。
私たちは肉体を形として考え感じているが、その九十九・九九パーセントは空っぽの空間なのだ。

原子の大きさと比べると原子と原子の空間はこれほどに大きいし、その原子のなかにもまた広大な空間がある。
密な物質としての肉体というのは誤解でしかない。
それはいろいろな意味でミクロ版の宇宙空間なのだ。

それでは、宇宙空間における天体と天体のあいだの広がりはどれほど大きいのか。
一秒間に十八万六千マイル(三十万キロ)進む光は、月から地球まで一秒ちょっとで到達する。

太陽の光は約八分で地球に届く。
そして宇宙で私たちにいちばん近い隣人であるプロキシマ・ケンタウリ星(私たちの太陽に最も近い別の太陽)の光が地球に届くのには四・三年かかる。これが私たちを取り巻く空間の大きさだ。

さらに銀河と銀河のあいだの空間となると、もう理解を超える。
私たちの銀河にいちばん近いアンドロメダ銀河の光が届くのには二百三十万年かかるのだ。

あなたの身体がこの広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできているとは、実に驚くべきことではないか?

したがってもっと突っ込んで考えてみると、形であるあなたの肉体は本質的には形ではない。
内なる空間、インナースペースへの入り口だ。

内なる空間には形はないが、生き生きとした生命がある。
その「空っぽの空間」は充実した生命で、そこからすべてのものが生じる隠れた源なのだ。

伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。

思考や言葉は形の世界に属している。
だから形のないものは表現できない。

したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは、思考が創り出した誤解である。

実際に起こっているのは、身体として現れている(生命が私という)意識「私は在る(我生命なり)」という意識――がそれ自身を意識したということだ。

「私は在る」という私(I=全一体)を一時的な形としての「私(I=分離意識)」と混同しなくなると、無限にして永遠の次元(ワンネス意識・神)が「私(I=内在の神)」を通じて立ち現れ、「私(I=意識としての私)」を導く。

さらに形への依存(分離感)から解放してくれる。

だが、「この形、これは私(I=分離)ではない」と知的に認識し、あるいは信じても役に立たない。

大事なのはいまこの瞬間、
内なる空間の存在(宇宙生命・神)を感じられるか、
つまり「いまに在る(神我が中にまします)」

自分自身(宇宙に遍満する大霊)を感じ、
「いまに在る(今即天・今即実在)」ことが自分(神)なのだ
と感じることができるか?ということである。

あるいは別の道からこの真実にたどりつくこともできる。
こう自問してみよう。

「私はこの瞬間に起こっていることばかりでなく、すべてが起こる場、時間を超えた生きた内なる空間(内在の真我)として、いまこの瞬間を感じているだろうか?」。

 この質問は内なる身体とは何の関係もないように見えるかもしれないが、いまという空間に気づくと、同時に自分のなかでも生き生きとした生命感を感じることに驚かれるはずだ。

内なる身体の生命感(大生命)を、「大いなる存在」の喜びと不可分の生命感を感じるのである。
身体を超えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。

毎日の生活のなかでできるだけ内なる身体(神の息・無限の生命)に気づき、空間を創ろう。

何かを待っているとき、誰かの話を聞いているとき、空や木を見上げているとき、花を、パートナーを、子どもを見ている時、それと一緒に自分のなかの生命感(宇宙意識・神意識)を感じよう。

これは関心あるいは意識の一部を形のない次元に留めて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。

こうして自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨(いかり)として役立つ。

思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わないですむ。

考え、感じ、感知し、経験しているとき、意識は形として生じる。
思考、感情、感覚認識、経験への輪廻である。

仏教徒がいずれはそこから脱したいと願う輪廻はつねに起こり続けている。
そこから――「いまに在る」という力を通じて――脱出することができるのは、いまこの瞬間しかない。

(過去や未来に囚われない・今この瞬間・神に感謝のみの意識)

今という形を全面的に受け入れる(神に感謝する)ことで、
あなたは内なる空間、今の本質と調和する。

この受容を通じて、あなたは内なる広がりになる。
形ではなく空間と調和する。
それによって人生に真の視点とバランスが生まれる。


すべての創造性は
内なる広がり(内なる神)から生じる。

創造が行われて、何かが形になったら、そこに「私に(me)」だの「私のもの(mine)」だのが現れないように気をつけなくてはいけない。
自分のしたことを自分の手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。

ただ(全てが神だと)認識する

だいたい人は自分の周囲の世界にほとんど気づいていないし、
慣れ親しんだ環境なら特にそうだ。
関心の大半は頭のなかの声に吸い取られている。

知らない場所や外国に旅行すると生き生きする人がいる。
旅先だと思考よりも感覚的な認識――経験――のほうが意識の大きな部分を占めるから、より「いまに在る」ことができる。

だが旅先でも完全に頭のなかの声に占領されている人もいる。
そういう人たちは瞬間的な判断で認識や経験を歪めてしまう。

彼らは実はどこにも出かけてはいない。
身体が旅をしているだけで、当人はいつもいるところ、自分の頭のなかにいる。

ほとんどの人の現実はこうだ。
何かを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪(こうお)や善悪を決める。
この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。

この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。

この休みないラベル粘りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。

ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。

身近なモノ――ペン、椅子、カップ、植木など――を選んで観察してみよう。
好奇心と言えるような強い関心をもって見つめるのだ。

個人的な思い入れの強い、買ったときのことやもらった人など過去を思い出させるモノは避ける。

また本やボトルのように文字があると思考を刺激するので、これも避けよう。
緊張せずリラックスして、しかし感覚を研ぎ澄まして、すべての関心をモノに注いで観察する。

思考が混ざってきても、それに巻き込まれてはいけない。
認識から思考を追放することができるだろうか?

頭のなかの声のコメントなしに、結論を出したり、比較したり、何かをそこから引き出そうとせずに、ただ観察することができるか?

二分ほど観察したら、今度はいまいる場所に視線を向けて、目に入る一つ一つのモノに観察眼を向けてみよう。

つぎに物音に耳を澄ます。
周囲のモノを観察したのと同じ姿勢で聞いてみる。

自然の音――水音や風の音、鳥のさえずり――が聞こえるかもしれないし、人工の音が聞こえるかもしれない。

心地よい音も耳障りな昔もあるだろう。
だが良い音だとか悪い昔だとか、区別をつけてはいけない。

解釈なしに、ただ音を聞く。
ここでもリラックスした、しかし研ぎ澄まされた感覚が鍵だ。

こんなふうに見たり闘いたりしていると、最初はほとんど気づかないような不思議な静謐(せいひつ)さが生まれることがわかるかもしれない。

背景の静寂として感じ取る人もある。
安らぎと呼ぶ人もいる。

意識のすべてが思考に吸収されなくなると、残された部分は形のない、条件づけのない、本来の状態のまま留まる。
それが内なる空間である。

経験しているのは誰?

見る、聞く、味わう、触る、喚ぐという感覚的認識の対象はもちろんモノである。
これが経験だが、それでは経験している主体は誰なのか?

たとえばあなたの答えが、
「もちろん、それは私、ジェーン・スミス、上級会計士で四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これが経験の主体ですよ」
なら、あなたは間違っている。

ジェーン・スミスもジェーン・スミスという精神的な概念と同一化されているその他の事柄も、経験の対象であって主体ではない。

すべての経験には三つの要素が考えられる。
感覚的認識、思考あるいは精神的イメージ、そして感情だ。

ジェーン・スミス、上級会計士、四十五歳、離婚経験あり、二児の母親、アメリカ人、これらはすべて思考で、したがってそれを考えている瞬間のあなたの経験の一部なのだ。
このどれも、また自分自身について語ったり考えたりするすべても、経験の対象であって主体ではない。

あなたは何者かというこのような定義(思考)ならいくらでも増やせるし、そうすればあなた自身という経験の複雑さは増大する(同時にかかりつけの精神分析医の収入も増える)だろうが、
そんなやり方では、すべての経験に先立ち、それがなければどのような経験も成り立たない存在である主体には行きつかない。

それでは経験しているのは誰なのか?
あなただ。
あなたとは何者なのか?
「意識(意識=神)」である。

意識とは何か?
この質問には答えられない。
質問に答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになる。
意識とは伝統的な言葉で言えばスピリット(霊)で、言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。
探しても無益だ。

「知る」ということはすべて、二元性の領域――主体と客体、知るものと知られるものがある世界――の話だ。
主体、私(I)、それなしには何も感じられることも認識されることも知られることも思考されることもない「知る者」は、永遠に知られないままに存在するしかない。
「私」には形がないからだ。

知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。

形のない次元(空・大生命)とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。
その空間が生命であり、「私は在る(無限の生命)」ということだ。

そこには時間はない。
「私は在る(創造主の意識・神意識)」も永遠で、時間を超越している。

その空間(三次元界)で起こることは相対的であり、一時的である。
喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ。

内なる空間発見の最大の障害、経験の主体を見つけるうえでの最大の障害は、(三次元の)経験に投入するあまりに自分自身を失うことである。

要するに、意識が自分の夢に呑み込まれてしまう。
あらゆる思考、感情、経験に占領され、まるで夢のなかにいるような状態になる。
何千年ものあいだ、人間にとってはこの状態がふつうだった。

意識を知ることはできないが、自分自身として意識を意識することはできる。
どんな状況でも、どこにいても、直接的に感じ取ることができる。

いまここに在る自分、「いまに在る(神と私は常に一体)」自分として、たとえばこのページの言葉が認識され思考になる場、内なる空間(神意識としての自分)として感じられる。

それ(真理の解釈)が土台の「私は在る(我神と一体なり)」ということだ。
読んだり考えたりしている言葉は前景で、「私は在る」は基部、すべての経験や思考や感情を支える背景である。

呼吸

思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。
この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになるが、いまでも地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。

中断の長さは気にしなくていい。
数秒でも充分だ。
努力しなくても、中断時間はだんだん長くなっていく。

大事なのは長さよりも頻度で、日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。

先日、ある人にスピリチュアルな大きな組織の事業計画を見せてもらった。
実にさまざまな興味深いセミナーやワークショップが用意されていて壮観だった。

見ているとスカンジナビアのビュッフェ、スモーガスボードを連想した。
さまざまなご馳走のなかから好きなものを選んで食べる、というあれである。

見せてくれた人は、どれか推薦できそうなコースはないかと私に尋ねた。
「さあ、どうだろう。どれもなかなかおもしろそうだがね。

しかし、これだけは言える」と私は答えた。
「できるだけ頻繁に、思い出すたびに自分の呼吸を観察してみること。

これを一年続けてごらん。そうしたらここに書いてあるすべてのコースに参加するよりも効き目があるよ。それに無料だしね」。

呼吸を観察するというのは、思考から関心を引き離して空間をつくることだ。
意識を喚起する方法の一つである。

意識は外に現れないまま、まるごとあなたのなかにあるのだが、その意識を私たちの次元に引き出すのだ。

呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。
空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。

息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。

一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。

意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけめ多く繰り返す。
これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。

ただ、二、三時間 呼吸瞑想法を実践したところで(そういう人たちもいる)、必要なのは一つの呼吸を観察することだけだし、気づくことができるのもそれだけだ。

あとは記憶や予測、つまりは思考である。
呼吸はあなたの行為というよりは自然な出来事で、それを観察するだけのことだ。
呼吸は意図しなくても起こっている。

身体のなかの知性が起こしている。
あなたはそれを観察するだけ。
緊張も努力もいらない。

それから呼吸の短い中断に注目してみる。
とくに息を吐き終わったあとに、再び吸うまでのわずかな中断を観察しよう。

多くの人は呼吸が不自然に浅い。
呼吸に気づけば気づくほど、呼吸は自然な深さを取り戻す。
呼吸には形がないから、昔からスピリット(霊)と――形のない生命と―同一視されてきた。

「神は土地のちりで人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き込まれた。
そこで人は生き物となった」。

ドトイツ語の呼吸――atmen――は古代インドの言葉であるサンスクリット語で内なる聖霊と神を意味するアートマンから来ている。

呼吸には形がないという事実も、呼吸の観察が人生(生命)に空間を創り出す、つまり意識を生み出すきわめて効果的な方法である理由の一つだ。
呼吸はモノでなく形がないからこそ、瞑想のすばらしい対象となる。

もう一つ、呼吸の観察が効果的な理由は、呼吸がごくささいなあたりまえに見える現象であることで、ニーチェが言う「最高の幸せ」をもたらす「小さなもの」だからだ。

正式な瞑想法として呼吸観察を実行するかどうかはあなたが決めればいい。
しかし正式な瞑想法も、日常生活のなかに空間の意識を取り入れる代わりにはならない。
呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる――これがすべての内なる変容の鍵なのだ。

呼吸を観察するとき、あなたは絶対的に「いまに在る」。
それに、考えながら呼吸を観察することはできないことにも気づくだろう。

意識的に呼吸すると心が停止する。
それは茫然自失とか半睡状態とは大違いで、完全に目覚め、意識が研ぎ澄まされている。
思考より下に落ちるのではなく、思考の上に上るのである。

そしてさらによく観察すると、この二つは――完全にいまこの瞬間に在ることと、意識を失わずに思考を停止することは――実は同じことだと気づくだろう。
空間の意識の現れである。

依存症

長いあいだにしみついた強迫的な行動パターンを依存症と呼ぶなら、依存症は半実在、身代わりの存在、定期的にあなたを完壁に支配するエネルギーの場としてあなたのなかに生きている。

あなたの心と頭のなかの声も占領される。
そうなると頭のなかの声は依存症の声になる。

その声はこんなふうに言うだろう。
「今日も大変な一日だった。ご褒美があってもいい。
どうして人生に残されたたった一つの楽しみまで諦めなくちゃいけないの?」。

気づさが欠如し、この内なる声に自分を同一化していると、気がついたら冷蔵庫を開けてカロリーの高いチョコレートケーキに手を伸ばしていることになる。

場合によっては依存症が思考する心を完壁に飛び越えてしまい、ふと気づいてみたらタバコや酒を手にしている。

「あれ、どうしてこんなものをもっているんだろう?」。
まったく無意識のうちにタバコを取り出して火をつけたり、酒をグラスに注いでしまう。

あなたに喫煙、過食、飲酒、テレビやインターネット依存のような強迫的な行動パターンがあるなら、次のようにしてみるといい。

強迫的な衝動が起こるのを感じたら、立ち止まって、三回、意識的に呼吸する。こうすると気づきが生じる。

次にしばらくのあいだ、強迫的な衝動そのものを自分のなかのエネルギー場として観察する。

そしてなんらかの物質を摂取したい、取り入れたい、なんらかの強迫的な行動を実行に移したいという肉体的、精神的欲求そのものを意識して感じる。

それからまた数回、意識的に呼吸する。
そのあとは強迫的な衝動が――そのときだけは――消えているかもしれない。

あるいは衝動のほうが強くて抵抗できず、やっぱり行動に移してしまうかもしれない。
その場合でも、それを問題と考えないほうがいい。

さきほど説明したように、依存症を気づきの実践の一部にしてしまおう。
気づきが強まっていけば依存症のパターンは弱くなり、いずれは消える。

ただし、依存症の行動を(ときにはきわめて巧みに)正当化しようとする考えが生じたら、すぐに気づかなくてはいけない。

そんな主張をしているのは誰か?と自問しよう。
依存症そのものだとわかるはずだ。

それがわかって、心の観察者として「いまに在る」ことができれば、依存症にだまされて言うなりになる危険は少なくなる。

内なる身体への気づき

生活のなかでこの内なる空間を見つけるためのもう一つのシンプルな、しかし非常に効果的な方法も、呼吸と密接に関連している。

身体に入ったり出たりする空気の流れを感じ、胸と腹のふくらみと縮みを感じることで、内なる身体にも気づくことができる。

そうすると関心は呼吸から、身体のなかに存在し全体へと広がっていく生命感を感じることへと移るかもしれない。

たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭のなかの声に自分を同一化しているので、自分のなかの生命感を感じられなくなっている。

物質的な身体を動かしている生命、自分自身である生命を感じられないなんて、こんなひどいことはない。

だから人はこの本来の幸せな状態の代替物を求めるだけでなくいつもちゃんとあるのに見すごしている生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。

ある人は代替物を求めてドラッグでハイになり、大音量の音楽を聞くなどして五感を過剰に刺激し、スリルや危険な行動やセックスに溺れる。

人間関係の波乱までがこの裏の生命感の代わりに使われることがある。
また多くの人がつねに背景にうごめく不安をごまかそうとしてすがるのが、親密な人間関係だ。

「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である。
もちろんそんな期待は「失望」に変わることがほとんどだ。
そして再び不安が甦(よみがえ)ると、人はたいていパートナーを責める。

二、三度、意識的に呼吸してみよう。
内なる身体を浸している微妙な生命感を感じ取れるだろうか?
自分のなかにある身体を感じられるだろうか?

順番に身体の各部に意識を向けてみよう。
手を感じ、次に腕を、脚を、足を感じてみる。

腹、胸、首、頭を感じられるだろうか?
唇は?
そこに生命感はあるだろうか?
次にもう一度内なる身体全体を感じてみる。

目を閉じていたほうがやりやすい人もいるだろうが、自分のなかの身体を感じたら、今度は目を開けて、身体を感じながらあたりを見回してみよう。

読者のなかには目を閉じる必要がなくて、このページを読みながら内なる身体を感じられる人もいるだろう。

内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)

内なる身体は固体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命である。

身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。

あなたがそれに気づいたというのは、その知性そのものが自らに気づいたということである。

それは科学者には発見できない(それは探求している意識自体だから)、捉えどころのない「生命」そのものなのだ。

物理学者が発見した通り、物質が密な固さをもっているように見えるのは、実は人間の五感がつくり出した幻想である。

この物質には肉体も含まれる。
私たちは肉体を形として考え感じているが、その九十九・九九パーセントは空っぽの空間なのだ。

原子の大きさと比べると原子と原子の空間はこれほどに大きいし、その原子のなかにもまた広大な空間がある。

密な物質としての肉体というのは誤解でしかない。
それはいろいろな意味でミクロ版の宇宙空間なのだ。

それでは、宇宙空間における天体と天体のあいだの広がりはどれほど大きいのか。
一秒間に十八万六千マイル(三十万キロ)進む光は、月から地球まで一秒ちょっとで到達する。

太陽の光は約八分で地球に届く。
そして宇宙で私たちにいちばん近い隣人であるプロキシマ・ケンタウリ星(私たちの太陽に最も近い別の太陽)の光が地球に届くのには四・三年かかる。これが私たちを取り巻く空間の大きさだ。

さらに銀河と銀河のあいだの空間となると、もう理解を超える。
私たちの銀河にいちばん近いアンドロメダ銀河の光が届くのには二百三十万年かかるのだ。

あなたの身体がこの広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできているとは、実に驚くべきことではないか?

したがってもっと突っ込んで考えてみると、形であるあなたの肉体は本質的には形ではない。

内なる空間、インナースペースへの入り口だ。
内なる空間には形はないが、生き生きとした生命(大愛)がある。

その「空っぽの空間」は充実した生命で、そこからすべてのものが生じる隠れた源なのだ。

伝統的な言葉を使うなら、その源とは「神」である。

思考や言葉は形の世界に属している。
だから形のないものは表現できない。

したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは、思考が創り出した誤解である。

実際に起こっているのは、身体として現れている意識――「私は在る」という意識――がそれ自身を意識したということだ。

「私は在る」という私(I)を一時的な形としての「私(I)」と混同しなくなると、無限にして永遠の次元――神――が「私(I)」を通じて立ち現れ、「私(I)」を導く。
さらに形への依存から解放してくれる。

だが、「この形、これは私(I)ではない」と知的に認識し、あるいは信じても役に立たない。

大事なのはいまこの瞬間、内なる空間の存在を感じられるか、つまり「いまに在る」自分自身を感じ、「いまに在る」ことが自分なのだと感じることができるか?ということである。

あるいは別の道からこの真実にたどりつくこともできる。
こう自問してみよう。

「私はこの瞬間に起こっていることばかりでなく、すべてが起こる場、時間を超えた生きた内なる空間として、いまこの瞬間を感じているだろうか?」。

この質問は内なる身体とは何の関係もないように見えるかもしれないが、いまという空間に気づくと、同時に自分のなかでも生き生きとした生命感を感じることに驚かれるはずだ。

内なる身体の生命感を、「大いなる存在」の喜びと不可分の生命感を感じるのである。
身体を超えるためには身体に入っていき、自分が「身体ではない」ということを知らなくてはならない。

毎日の生活のなかでできるだけ内なる身体に気づき、空間を創ろう。
何かを待っているとき、誰かの話を聞いているとき、空や木を見上げているとき、花を、パートナーを、子どもを見ているとき、それと一緒に自分のなかの生命感を感じよう。

これは関心あるいは意識の一部を形のない次元に留めて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。

こうして自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨(いかり)として役立つ。

思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わないですむ。

考え、感じ、感知し、経験しているとき、意識は形として生じる。
思考、感情、感覚認識、経験への輪廻である。

仏教徒がいずれはそこから脱したいと願う輪廻はつねに起こり続けている。
そこから――「いまに在る」という力を通じて――脱出することができるのは、いまこの瞬間しかない。

いまという形を全面的に受け入れることで、あなたは内なる空間、いまの本質と調和する。

この受容を通じて、あなたは内なる広がりになる。
形ではなく空間と調和する。
それによって人生に真の視点とバランスが生まれる。

ギャップに気づく

人は一日じゅうさまざまなものを見たり聞いたりしている。
何かを見たとき、あるいは聞いたとき
(それが見慣れない、聞き慣れないものであればとくに)、

心が見聞きした対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。それが内なる空間だ。

その瞬間の長さは人によって違う。
たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので、多くの人は見逃してしまう。

そこではこんなことが起こっている。
新しい光景あるいは音が立ち上がり、それを知覚する最初の瞬間に習慣的な思考の流れが中断する。

知覚の必要性に応じて、意識は思考から逸れる。
とくに目新しい光景、耳慣れない音だと、呆然として「言葉を失う」。
思考の中断時間が長いためである。

この空間の頻度と長さで、人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。

エゴとはこの空間次元に対する意識の完全な欠如を意味するから、どこまでエゴから解放されるかによっても違ってくる。

自然に起こるこの短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。
そうなれば思考にぜんぜんあるいはほとんど邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。

周囲の世界が新しく、新鮮で、生き生きとして感じられる。
抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通して人生(生命)を認識すればするほど、周囲の世界は生気を失った単調なものになる。


自分自身を発見するために自分を捨てる

内なる空間は、形に自分を同一化しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じる。
形に同一化しなくてはならないというのはエゴの必要性であって、真の必要性ではない。
これについては前にも簡単に触れた。
そういう習慣的なパターンを捨てるたびに、内なる空間が現れる。
真の自分自身になる。

これはエゴにとっては自分を失うことと感じられるが、実は反対だ。
イエスは、自分自身を発見するためには自分を失わなければならない、と教えた。

形への同一化というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになる。
少なくなることによって、豊かになるのだ。

人々が無意識に形への同一化を強化しようとするやり方がある。
充分に目覚めていれば、こういう無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるだろう。

自分がしたことを認めろと要求し、認めてもらえないと怒ったり動転すること。
自分の問題や病気について語りあるいは騒ぎたてて関心を引こうとすること。
聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。

他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。

所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。

心のなかで、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。

こういうパターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験をしてみることをお勧めする。
そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのだ。
ただパターンを捨てて、結果を見ればいい。

形のレベルの自分を重要視しないのも、意識を生じさせるもう一つの方法だ。
形への同一化にこだわらなくなったとき、あなたを通じてどれほど大きな力が世界に流れ出すかをぜひ発見していただきたい。

静寂(宇宙に遍満する大霊・大生命)

「静寂は神の言葉で、他はすべてその下手な翻訳にすぎない」という言葉がある。
静寂とは、実は空間(無限)を表すもう一つの言葉だ。

人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分(神意識)と触れ合うことができる。

それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。

静寂(宇宙に遍満する大霊・大生命)には形はない。
だから思考を通じて静寂(大生命)に気づくことはできない。

思考は形だ。
静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。

静かに停止しているとは、思考抜きの(神一元・神への愛と感謝のみの)意識でいることだ。
静かに停止している時程、深い本質的な自分自身(真我)でいるときはない。

静かに停止している時、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分(神意識・宇宙意識)になる。

静かに(自我・偽我の)停止している時、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。
無条件の、形のない、永遠の意識になる。

人は一日じゅうさまざまなものを見たり聞いたりしている。
何かを見たとき、あるいは聞いた時
(それが見慣れない、聞き慣れないものであればとくに)、

心が見聞きした対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。それが内なる空間(内なるキリスト意識)だ。

その瞬間の長さは人によって違う。
たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので、多くの人は見逃してしまう。

そこではこんなことが起こっている。
新しい光景あるいは音が立ち上がり、それを知覚する最初の瞬間に習慣的な思考の流れが中断する。

知覚の必要性に応じて、意識は思考から逸れる。
とくに目新しい光景、耳慣れない音だと、呆然として「言葉を失う」。
思考の中断時間が長いためである。

この空間の頻度と長さで、人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。

エゴとはこの空間次元に対する意識の完全な欠如を意味するから、どこまでエゴから解放されるかによっても違ってくる。

自然に起こるこの短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。
そうなれば思考にぜんぜんあるいはほとんど邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。

周囲の世界が新しく、新鮮で、生き生きとして感じられる。
抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通して人生(生命)を認識すればするほど、周囲の世界は生気を失った単調なものになる。

自分自身を発見するために自分を捨てる

内なる空間(ワンネス意識)は、形に自分を同一化(自分が個人だ認識)しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じます。

形に同一化(分離意識)しなくてはならないというのは、
エゴ(偽我)の必要性であって、真の必要性(真我)ではありません。

これについては前にも簡単に触れましたね。
そういう習慣的なパターン(分離意識)を捨てるたびに、内なる空間(真我)が現れます。
真の自分自身(真我・ワンネス意識)になります。

これはエゴ(自我・偽我)にとっては自分を失うことと感じられるでしょうが、実は反対なのです。
イエスは、自分自身を発見するためには自分を失わなければ(滅私・神への全託をしなければ)ならない、と教えました。


知花先生も「全託なくして悟りなし」とおっしゃられました。
滅私・神への全託」とは文字通り「自分のすべてを神に捧げる事」です。

間違った自我の解釈によって「生贄」とかの習慣になってしまった事もあるようです。

そうではなくて、「真我」の正しい解釈では、自分のなしたことは全て神の御業であり、全てが神のお陰であり、私を通して偉大なる神がお働きになられているだけなのだ…という真理の深い理解の境地に達した後に、「全てが神の御業」だと自然に思えるようになります。

 自分の御業は何もない…私の全ての全ての成し遂げた事は
神のもの」であり「神の御業」ですから、私の全てを神にお返し致します。という…そういった境地だと言えましょう。

 実は私、もうとっくに「神への全託」はしておりまして、滅私して、自分の御業は何もございません…と、このブログで成し遂げた事も全て「神の御業」で御座います…と「全ての全て」を神にお返し致します……と「神にすべてを全託」して神に返納しております。

 私の体を通して何か善行をなしたとしても、それはもう全ての全てが神の御業なんです。神が私を通してお働きになられているだけなのです。
 
 何か良いことをしたとしても、「神様が私を通してお働きになられた」のであって、ありがたい…「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します。」なんです。

 だから本当に、「神への全託」してしまったら、「神様、有難うございます」しかなくなります。

 私とは「神の道具」にしか過ぎませんから…、滅私・自分が無い…
無我の境地」とは言いますけれども、意外とこれは、
神の道具意識」とも言えるのかもしれませんね。

 わかりやすく申し上げますと…そういう境地だと言えましょう

形への同一化(分離した自己)というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになります。

(分離の自己)少なくなることによって、(全一体・ワンネス意識に近づき)豊かになるのです。

人々が無意識に、形への同一化(自我)を強化しようとするやり方があります。
充分に目覚めていれば、こういう(間違った)無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるでしょう。

自分がしたことを認めろと要求し、認めてもらえないと怒ったり動転すること。
自分の問題や病気について語りあるいは騒ぎたてて関心を引こうとすること。

聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。

他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。

所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。

心の中で、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。

こういう(不調和・偽我の)パターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験をしてみることをお勧めします。
(想念観察・内省・悔い改め・洗心・身口意を正す)

そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのです。
ただ(エゴの)パターンを捨てて、結果を見ればいいでしょう。

形のレベルの自分を重要視しないのも、意識を生じさせるもう一つの方法です。

形への同一化(分離意識の自己)にこだわらなくなった時、貴方を通じてどれほど大きな力(真我)が(貴方を通して)世界に流れ出すかをぜひ発見して頂きたいのです。


静寂(全一体・自他一体・全てを愛する我・静かな心・無限の赦し・愛と調和・神への連続的感謝の意識状態)

「静寂(静かな心)は神の言葉で、他はすべてその下手な翻訳にすぎない」という言葉があります。
静寂とは、実は空間を表すもう一つの言葉です。

人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができます。

それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれません。

静寂(無限大の愛・宇宙生命)には形はありません。
だから思考(分離感)を通じて静寂に気づくことはできません。

思考は形です。
静寂に気づくとは、静かに停止(全一体・我は全体なり・全体我なりの意識を)しているということです。

静かに停止しているとは、
思考抜きの意識(神への連続的感謝・慈悲と愛)でいることです。

静かに停止している(愛と調和・慈悲と愛の意識状態の)時ほど、深い本質的な自分自身(真我・全一体)でいる時はありません。

静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人(分離)という心理的、精神的な形をとる前の自分になります。

静かに停止(無限の赦し、慈悲と愛、愛と調和の意識状態で、神への深い愛と感謝を)している時、あなたは一時的な存在(自我)を超えた存在に変容します。

無条件の、形のない、永遠の意識(愛の王国・内なる神の国)になります。
それが、その人の「意識の進化を示すもの」であるからなのです。


宇宙創造の神が勧める霊性を高める方法 洗心

いつももつべき正しい心(=常の心)
強く     明るく
正しく    我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ

心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)

憎しみ  不満
妬み   疑い
猜み   迷い
羨み   心配心
呪い   咎めの心
怒り   いらいらする心
不平   せかせかする心


■四句御箴言(しくごしんげん)

与えられたことを感謝して受けよ     
与えられぬことを感謝して受けよ

与えられたことを拒むこれ欲なり     
与えられぬことを欲するこれ欲なり

 セント・ジャーメインさんによりますと、

●「神と繋がっている状態」というのは、「絶え間ない感謝の流れ
●全てのことに対しての感謝
●全ての瞬間に、ありがとう、ありがとう、ありがとう
●私達のエネルギーは感謝の波動にある

また、エイブラハムさんによりますと、

瞑想よりもっと上の状態がある。
もっといい気分の状態がある。
それは感謝の状態だ。」

との事です。


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。

愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

知花敏彦先生の総まとめ記事 第5回目♪ 自分が神であり万象万物が神であること、全てが神である自覚、神を自覚するということは自分自身が神であることを知るのが一番大切です♪神の中において神は自分であり、同時に全体が神であります♪我れ神なり、我れ生命なり、であって神は全ての全て♪ 「神一元」「神以外はない」 「神が全て」「唯一不二の神」 「無限者・普遍者」全体が一つであるのを全一体感といい、自他一体感といいます♪





 人々は誰でも神を探し、神がどこにおられるかと一生懸命に探し続けてきました。しかし神を探した人はほんの微々たる少人数に過ぎません。

 何故ならば自分が神であること、「我れ神なり」という事実を知らないからです。その自分が神であるのに神をしているのですから探すことはできません。神が神の中においては神を知るということです。

 神が何なのか、神がどこにいるかを知っている人が非常に少ないのです。一生懸命に神を求めている人はが非常に多いのです。神がどこかに存在するといって探していたのでは何時までたっても探すことは出来ません。

 自分が神であり万象万物が神であること、全てが神である自覚、神を自覚するということは自分自身が神であることを知るのが一番大切です

 神がどこかにいるのではなく神は全てに偏在したまい、全てに帯座されている。神はここやあそこにいるのではないのです。他に神を見出そうとしても、見つかることはありえないのです。

 神の中に今いるのです。そして自分自身が神なのです。神はありとあらゆるもの、全ての全てです。神の他には何もないのです。大宇宙そのものが神なのです。

 何年も何十年も神を探しても神は見つけることは出来ません。そこで、人間は神を造ったり、遠い彼方に神がいると想像して新興宗教を造っているのです。

 イエス・キリストは、「神のいるところに私がいて、私のいる所に神がいる」と言われ、お釈迦様は「我が内に仏(神)がいる」と言われました。

 この言葉を徹底して知り学び理解すべきです。自分自身が神であることを自覚できない人が神を知ることは絶対にできません。

 「我れ神なり、我れ生命なりと」。何故、全てが神なりといえるのか。神は万物の親、万物の創り主であり万物の生命でもあります。大生命そのもの、大霊そのものが神そのものです。

 大生命・大霊・神のほかには何も存在しないのです。神のみが実在する。神こそが絶対実在であり、その他には何も無いのを知るべきです。神は空の世界でも色の世界にでも全宇宙に遍満している神一元です。
 神のほかには絶対に何もないということを知ることです。

 「神は汝の手よりも足よりも近し」といわれる所以(ゆえん)です。
「天は近し、神は近し」と言われ、神の中にいて神そのものであるのに神を探している。そして今から神になろうとしています。

 今の今、神の中におり、神なのに入ろうとしています。
「いま即実在であり」「いま即天であり」「いま即神である」修行して神になるのではなく初めから私達神なのです。神には修行は必要ありません。

 「難行苦行、悟りにあらず」の言葉通り、自分が神であることを自覚する、自己を知るということが如何に大事であるかと言えます。自分の中に神がおれば全体の中にも神がいることが判ります。全てに神がいると言えるのです。

 イエス・キリストは「神の実子になられた」ということは、自分は神の実子であるのを悟られたという意味です。あなた方とイエス・キリストの違いはあなた方は神の実子ではないと思っているという違いなのです。

 あなた方を創られた方は神以外に誰がおりましょうか。見えるもの全て神のもの神以外の誰があなた方の創り主なのでしょうか。神こそわれわれの父なのです。

「何者もこの世で神以外に、父と呼んではならない」といわれる意味がわかりましょう。あなた方が神の実子であることがはっきりわかりましょう。あなた方の生みの親はまさに神なのです。

 このことを知ったならば万物の中に神がおられ、万物は神の子であるということになります。何を見ても如何なる形態でも、神を宿せぬものはないと判れば、神の他には絶対になにもないということ、神のみがまします、神のみが独存するということが判ります。

 あなた方はあちらに神を求め、こちらに神を求めていましたが、神の中において神は自分であり、同時に全体が神であります。であるが故に神は無限者であられる。
 この世の中で神でないものが一つでもあったならば神は無限者でもなく全体者でもないし、全知全能でもあり得ないのです。

 我を知ることは神を知ることの名言であるのです。
神を知る前に自己を知りなさい。自己を知った時、神を知るのである」という意味です。

 生命・大霊には区切られた生命、区切られた霊はありません。ですから私達一人びとりは個我であると同時に大我であるのです。ですから私達一人一人は個我であると同時に大我であるのです。

 形を見れば小我の小さいものですが、原因は大原因そのものですから大霊・大生命そのものであるのです。区切られた生命や如何なる形の形態の制限設けないのが生命であり、神なのです。神が形態の自由を奪われたり制限されたりはしません。

 だから神はいたる所にまします。神のましまさぬ所とてなく、空の世界にも色の世界にも偏在したまい、鉱物・植物・動物・人間とて神を宿さなければ存在しないのです。

「神は自らの住み家を自ら創り給うて、自ら留めたもうた」。
そして、「形態をお創りになり形態に自らの生命を宿しておられる」。私達の肉体は神の働く焦点、神を表現せんがために存在しているのです。

「生ける神の宮なり仏の宮なり」という意味です。神のみが生きているのです。神の他には生きているものはありません。生物は全て神です。

 無限の中においてこれが神だ、あれは神ではないと区別しているのは真理ではありません。もしそのようにいう人がおれば、その人達は妄信であり狂信家です。

 無限者の神の中において神以外の者が存在できましょうか。神は無限者であられ、大宇宙そのものが神であられるといいながら、ここに神はいて、あそこに神はいないと、どうしていえましょうか。
 
 今の宗教家達は間違いを語っています。何かの修行や何かの宗教をやらないと、神の中に入れないと思ってはいないでしょうか。

 今、神の中におるのです。お釈迦さまは「今即天」といわれ、イエスは
「私は初めから久遠の中にいた」といわれました。私たちは初めから久遠の中にいるのです。

 「今即久遠」「今即永遠」「今即実在」「今即霊」「今即神」です。
 今から神になる者は一人もおりません。初めから神しかおりませんのにどうして今から神になれましょうか。自分が神になることは自分が神であったことを知ることが必要なのです。

 自分が神であった、全体が神であった、全てが神であった、ということを理解することです。それを知らないのを無知というのです。
 自己を見つめるということは神を見つめるということになります。

 自己を知ることは神を知ることです。自己を知らないで神を知ることは不可欠です。自分は神ではないといったならば、もう絶対に神を探すことはできないのです。私達が神で無かったなら神を探すことはできません

 我れ神なり、我れ生命なり、であって神は全ての全てであり、ありとあらゆるもの、神以外何もないのです。神一元という意味です。

 「神一元」とは「神以外はない」、
神が全て」だという「唯一不二の神」というのです。
無限者・普遍者」なのです。その中に神以外は存在できません。

 それに対し、神を知らない心の状態を引き起こしたのが、この世の悪といわれているものです。神を知らないから悪とか悪魔とかいうのです。

 神を知っているものには悪とか悪魔は存在しません。神を知らない心の状態が悪というのです。神を知れば悪は存在しません。絶対善があるだけです。絶対神があるだけです。絶対愛があるだけです。絶対調和があるだけです。

 だから神を知らない者のみに悪魔・悪霊があるのであって、神を知ってしまえば、私達の今いるところが天なのです。いま即天とは実在という意味です。

 地獄とは非実在という意味です。非実在とは天しかないのに、天一元しかないのに、天以外に何かあると思う心が引き起こした幻想なのです。
その中に自らの獄壁を作り、自らを閉じ込めているものです。

 私達が全てを神とみなしたならば、全てが神だと観たとするならば、神こそ絶対実在で絶対に神しかいないとなったならば、私たちは一つ目になったということです。

 神もいるが悪魔もいるというならば二つ目です。目が開かれているのではありません。心眼が開かれているのではありません。
 その悪とは何なのかを考えれば判りましょう。悪は神を知らない人間の状態なのです。

 私達が真理を知り神を知れば悪を行えません。悪魔もいるが神もいるという指導者は神を知らない指導者であって失格者なのです。
 悪霊とは自分が死んでも神の霊であることを知らない、その霊的力を誤用している、誤って使っている状態の事を悪霊というのです。

 全体が一つであるのを全一体感といい、自他一体感といいます。霊には区切りがなく別離がないとはっきり理解したならば自他がありません。他人がありませんので、即自分ですし全体も自分であるのです。

 これを全我といい、全我の自分というのです。普遍的自分です。宇宙意識・普遍意識・神意識というのです。私達の生命には区切りがありません。区切りがあれば無限生命ではありません。

 生命が区切られていないと判れば、私達の生命は区切りがなく様々な形態を現しているのです。ひとつ様しかいません。一つの命しかありません。ですから全体は我ということ、全我ということになります。

 例えばここに一本の木があるとします。この木の葉も一つの命で全体の木の葉が生きているのです。個人個人の木の葉の命はありません。一本の木の個々の葉は外側から見れば一枚一枚ですが、内側から観れば一つの生命であるのが判ります。
 
 ですから「生命の木を把握しなさい」とイエスは言われましたが、生命の次元から観れば同一だという意味が判りましょう。
 外側から見れば個々ですが内側から観れば全体です。

 この全体が我だと判りますと誰を憎めますか。一本の木の個々の葉一枚一枚が憎みあったら、誰を憎んだことになりますか。
 自分自身を憎んでいることになります。

 外から見れば私達一人一人で個人個人ですが、内から観れば全体になるのです。外から見れば小さな私達ですが、内からみれば大きな我になるのです。内側を観れば大我であり、外側から見れば小我で、外側は小我で内側は全我です。

 外側の外観から見るから小さなものとしてこの木の葉を見ますが、木の葉の生命は小さいものではなく大きな生命です。

 私達の個人の命も同じように大きな生命です。この形態を見れば小さな小生命と思っていますが、小生命と大生命は一体だということで霊と大霊は一つであり離別していません。

 イエスは「あなた方は私に繋がらないと不毛である」と言われましたのが、この意味です。葡萄の木の譬えで言われたのです。枝葉のようなものであると、生命には離別した生命はないのです。全一の生命・唯一不二の生命しかありません。

 だから人になしている事は全部自分になしていることがはっきり判ります。これが理解できた人には争いというものはありません。

 悟って自分が生命であり霊である霊の次元、内側からものが内観できた人がおりましたならば、完全に内観していたならば、その内観者は愛そのものであり調和そのものであるはずです。

 そこには一点の悪も存在できません。内観しているといいながら人の悪口を言ったり、憎んでみたり、不調和を起こしている人は内観していないのです。
 内側を観れば全一の生命しかないのです。外側を見るから争うのです。

 外側に生きている人間のみに争いがあるのであって、内側を生きれば内側を観れば争いはあるはずがありません。ですから内側に生きることを天に生きるというのです。

 外側に生きているのを地獄に生きているという意味です。これは実在ではありません。離れ離れがあるというのは非実在であり、現実においては真実において絶対に分離というものがないのに、分離していると思っているのは実在ではないのです。

 自分という個人は無いのです。個人という全体から離れた個人は存在しません。しかし私達は離れた個人があると思っています。それが利己的となり自己中心となり、欲望というのが出て散々悪というものが生まれているのではありませんか。

 神を知るということは生命を知るということです。生命を知っているならば生命が何なのか、生命というものが個人的な生命がないということを知っているならば、神を知ったことになります。

 命知らずの人間に神を知っているという人間には、世の中に一人としていないのです。分離感を持った人間に真理(神理)を知った人は一人もいません。
 全一体感を知っている人は真理を知った人です。全一体感を理解した人は悟った人です。神に到達した人です。

 しかし悪魔だ悪だと、それを怖がったり分離感を持ったり、不調和を起こしたりする人は真理を知ったことにはなりません。それは神を知らないからで、神を知ってしまえば世の中には争いはありません。

 内側を観た全体は我ですから、私達がはっきり自己の自覚、生命の自覚、霊的自覚が出来ましたら大愛・大調和そのものです。神は何故、大愛・大調和であるのか、それは、ひとつ様しかないからです。憎む相手がいないのです。

 唯一の神しかいませんので対立するものがないのです。敵が無いのです。あの人は、味方だ敵だと言う見方をしている人は正しく見ていません。

 正しく見るとは内側で観るということです。これを内観というのです。外観ではものを正しく見えません。正しく見るということはその本質・本源から見るということです。内側から内観するということです。

 外側で、この肉の目で正しく物を見ることは出来ないからです。心の目・意識の目でしか正しくものを観ることはできません。この肉の目であの人は悪人だ善人だと、悪い人、善い人と見ることが正しくものを見ることでしょうか、違います。

 真の内観者であるならば真の愛であるはずです。あなたが本当の内観者であるあんらば自他があるはずがありません。自他がなければ不調和がないのです。内観して不調和があるならばその人は内観していないのです。

 だからイエスは「内観せよ臆念せよ」と言われました。愛しかありません。あなた方が本当に正しい内観法、すなわち生命の次元・霊的次元からものを観れば、全体が一つであるとはっきり判り、悟られたならば、もう皆さま方は神を知っているはずです。
 全体が神であって神の他には絶対に何もないとお判りできるはずです。

 今の世の中には動物霊だとか鉱物の霊・人間の霊だとかいいますが、霊というものが別々に存在していると思いますか。動物の霊と、人間の霊と、神の霊と別々にあると思いますか、ありません。

 一つの大霊・唯一不二の霊しかありません。一つの霊が、動物という形態を造って動物の中に留まっている霊も、人間という形を取って人間の中に留まっている霊も違う霊でしょうか、違っていませんね。

 霊に区切られた霊が存在することはありません。それを人間の霊だ動物の霊だ何霊だと、怖がったり、祟りがあるのだ、何だかんだと言って教えているのは目が見えるからですか、見えないからでしょうか。

 霊眼が開かれているのでしょうか開かれていないのでしょうか。霊眼が開いていると言いながら、そんなことをいう霊能者がいるのです。正しくものを見ていません。

 動物霊とあなた方とは違った霊でしょうか。同一の霊です。唯一不二の霊です。動物の霊もあれば、人間の霊もあれば、神の霊もあるというならば、神は平等ではありませんし差別です。公平ではありません。

 何故、皆さん方は神を差別と不公平な、不正な、神に造り上げるのでしょうか。ですから世の中の妄信家達や狂信家達は、さまざまな幽想と空想で散々人を迷わしているのではないでしょうか、今様々な分離感を引き起こしている原因は宗教にあります。

 宗教がなければ、そういうことが判らなければ分からないで済ましていればそのように人間を混乱させることは無かったのです。それが盲が盲を導くと、無知が無知を導くと、見えないものが見える振りをして説いただけです。

 もし動物の霊・人間の霊・神の霊と別々であるならば神は無限者ではあり得ません。全知でも全能でも無くなります。神は至るところにましますといえますか、偏在したまうといえますか。言えません。

 だから神はここにおるとかあそこにおるとか神に指を差せません。指を差せたらば有限の神になるのです。無限の神ではなくなります。神は無限者であられる、偏在したまう。

 大宇宙そのものを宇宙神・宇宙創造神といいながら、また神の中において神まがいの神を造っているのが人間ではないでしょうか、神の他には何もないのです。

 この世の中で神を宿さないものが一物とてありません。あなた方の髪の一本一本でも紙には数えられているという意味は一本一本の中に神が宿っているということです。その神というい生命、即ち生命エネルギーなくして生きることができますか。出来ません。
 
 すべての形態は神を宿しています。そしてあなたの肉体の中にも神がおります。全てに神はおりますということは、神は全ての全てでありますから、神の他には絶対に何もないということがはっきり理解できるのではないでしょうか。

 知ること、悟ること以外に神を理解することはできません。ですから、あなたご自身を知ったら全体を知ったことになります。

 区切られた生命はありません。大生命あるのみですから、全ての万象万物は宇宙生命で大生命の中に留まり、大生命が万物の造り主であるから造られた物の中に大生命が生きています。

 大生命の他に生きている物はない。だから全てが大生命であるのです。大生命は大霊ですから、全ては大霊といえます。

「生命一元・霊一元・神一元」と言う意味です。「神の意思なくして、この世に雀一羽とて生まれ落ちることはない、生まれてくることはない、現れることはない」、
「砂浜の砂一粒一粒とて神には数えられている」。当たり前のことです。

 大生命が砂一粒一粒を造って、その砂一粒一粒の中に生きているからです。その砂一粒一粒の生命は小さな生命ですか、大きな生命でしょうか。大生命です。分生命と大生命は一体です。

 自分も形から見れば小さいものですが霊の次元から見れば大きなものです。ですから小我と大我は一体です。小さなものと大きなものは不可分であり分離はありません。

私と神は一体である」という意味がお判りになりましょう。創られたものと創り主は一体という意味は、「私と父とは一体」と言う意味です。
 この真理が判りますれば大霊あるのみ神あるのみとなれば、皆さん方は「神が観たまうが如く私も観たのである」という言葉が下せます。
 
 これが一つ目といいます。神の他に何かあるというならば二つ目といいます。一つの心あるのみです。ふた心とは神の心と悪の心もあるということになります。
 神の心、み心が絶対実在なる心です。その神の心を知らない人が悪の心になっているのです。

 心は一つであるが故にひとつ様しかいないのです。心は二つはありません。それは神の心を通して悪を働いているです。
 力も善なる力と悪の力があるのではないのです。唯一の力しかないのです。その唯一の力を、或る者は神を知りませんから悪用して使っているのです。

 戦争のエネルギーと平和のエネルギーとは別々ですか、戦争を起こしている力と、平和を守っている力とは別々ですか、同一のものです。

 その自由意志でもって、或る者はその力を戦争に使い、或る者は平和に使っているだけなのです。心も同じです。自分の中に善の心と悪の心がありますか、いいえありません。
 
 唯一の神の御心しかないのにそれを悪用するか、善い方に使うかだけの選択しかありません。悪なる心、善なる心、善なる力、悪なる力はあるのではありません。そのことさえも判らない者が神を説いたのではしょうがないのです。

 悪魔もおって、神もおると、あなた方の健康を守っているエネルギーは一つしかないのです。唯一不二のエネルギーしか無いのです。それを誤って使えば病気になり、正しく使えば健康であるというだけのものです。

 だから「病気とは罪の結果である」と、そのエネルギーを誤って使った結果が病気であるといわれているのです。

 苦しみも同じなのです。心を誤って使えば苦しみを創りだしますし、心を正しく使えば幸せを創るのです。あなた方は天国の創り主でもありますし、地獄の創り主でもあります。幸せを創るのは神ですかあなたですか。

 あなた自身が幸せを作りださねばなりません。神があなた方に幸せのみしか与えていないのに、その幸せそのものを破壊しているのが自分ではありませんか。悪用すれば苦しみがやってくるのです。

 神があなたを苦しめているのか、あなたが、あなたを苦しめているのか、あなたの病気を神が与えたのか、自分が病気をつくったのですか、自分です。

 そのエネルギーを誤った方向である憎しみや怒りや嫉妬に使えば苦しみは寄ってくるのが当たり前です。正しく使っているかどうかだけの問題なのです。
 ですから、この宗教をすれば幸せになる、あの宗教をやれば幸せになるというのものではありません。

 幸せは宗教が創るものですか、あなたが創るものですか。自分です。宗教が幸せを創ったためしは一度もありません。あなたを幸せにするか、不幸にするかは、自分の心次第であって、神次第でも宗教次第でもありません。

 神はあなたの自由意志を奪うことはありません。自由意志を犯すことはありません。神からこうしなさい、ああしなさいと強制することはありません。

 エネルギーそのものですから、エネルギーそのものが神そのものですから、これをどう使うかが問題であって、エネルギーがあなたにこれを正しく使って下さいという強制されたエネルギーはありません。

 与えられているものをどう使うかの使う能力によって違うのであって、マイナスエネルギーだとかプラスエネルギーだ、悪のエネルギーだ、戦争のエネルギーだ、これは平和のエネルギーだ、というのがあるのではありません。

 われわれはその宇宙に遍満する偉大なる神の力、エネルギーをどう正しく使うかだけのものです。ある者は善に使い、ある者は悪に使うだけのもので、善に使ったものは幸せに、悪に使った不幸せにというだけのものです。

 ではあなた方に不幸や災難を与えているものはあなた方ですか、神ですか。あなたです。神は情けが無い私だけを苦しめてと、言っている人もいます。

 何故、神様は不幸せと幸せをお創りになりましたかと質問する人もいます。とんでもない質問です。その質問は無知すぎませんか、神が人間を不幸せにするのですか。自分がですか。

「汝の救いは汝自身なり、神は自らを助くるものを助くる」という名言があります。あなたはその真理に対しての理解力、その宇宙エネルギー、生命エネルギー、霊的エネルギー、霊的力を正しく使うか使わないかだけのものです。

 現に持っています。今から貰うものでもなく、皆さん方が持っている力を如何に日々の生活の中に正しく使うかだけのものです。宗教をやったから幸せになるものではありません。

 宗教が救うものでもなく、あなたの理解力があなたを救うのです。あなたを救うのはあなた自身です。健康にするも病気にするも不幸せにするも、あるいは幸せにするも誰でもなく、あなたの心次第です。

 心を誤れば不幸せや、不健康を創ります。ですから皆様方は何を知るべきですか、自分を知るべきです。

 あなたは徹底して学ぶことが大切です。徹底して自分自身を知ることが大切です。あなたを知ったならば、あなたは自分の中に今、大霊、大生命が働いておられることを大宇宙の一切の力、偉大なる力があなたの中にあるのです。

 それをどう使うかは、あなた次第ではありませんか、神様がこれは善に、これは悪に使いなさいと持たされているエネルギーはありますか。あなたの心が自由意志で自由選択でそれを正しい方向に使うか、悪い方向に使うかだけのものです。

 では神が皆さんの中に今いることは今判りましたね。全ての中に神がおることが判りましたね。そうすれば神棚の中に神がいるといえますか、神を知っても神棚を作りますか、神を知らぬ者が神棚を作るのです。

 大神殿、神の中におりながら大神殿の中で神の飯事遊びをしているのではないでしょうか、髭を生やした大人や、バッヂを付けた男が全くの飯事遊びをしているのです。

 今の世の中で神・神・神という人は多いけれども神を理解している人は如何に少ないかということです。今の宗教家達が神を知っていると思いますか。神を知っているならば宗教はつくりません。

 ここに神がいる、あそこに神がいる、遥か彼方に神がいるとはいいません。神は偏在したまうのです。神のましまさぬ所とてないのです。髪の毛一本とて神はいます。まつ毛一本でさえも、神なくして神の毛一本でも存在しません。

 神は存在の本源ですから神なくして何も存在しないということです。原因なき原因ですから、大原因ですから、その大原因あっての我々という結果が存在するのです。

 原因が結果の生みの親です。見える世界は見えないものの結果なのです。
ですからこの世は諸行無常といわれているのです。皆さん方は神をもっと、もっと徹底して知るべきだと思います。

 拝むべきか知るべきですか、何が何だか判らないものに拝むのですか、神は拝むべきものではありません。知るべきものです。

 神は何であるかも判らないで頭をぺこぺこ下げるのが神信者ですか、神を知ることが大切です。如何に世の中が妄信・狂信に明け暮れているかといいたいのです。

 理解することです。理解とは悟りです。悟りとは知るという意味です。知ることが信仰です。神を理解しない、判りもしない、知りもしない者が妄信・狂信というのです。

 悟った人は宗教をつくりません。聖座方が宗教をつくったためしはありません。全てが神なのですからつくる必要がありません。

 宗教をつくってここに神様がいるのだと、頭をぺこぺこ下げさせたり拝ませたり、悟った人がさせると思いますか、ですから「神・仏は汝の内にあり地頭明・宝頭明を汝の主としなさい」と、お釈迦様がいわれました。

 人間の肉体の中での人間は仏の宮といいます。なのに仏像を作ったりお経をあげさしたりする事が大切ですか、不要です。
 皆さん方も神を徹底して理解すべきだと思います。

我、神なり」です。これが信じ得なかったならば、皆さん方は神信者ではありません。これが判らなかったならば信仰ではありません。

 何がある故に生きていますか。
神生きるが故に生きています」。死神さまなら私達は生きていません。幸いにして生神さまであるから、神仏である訳です。

 死なないと神仏になりませんか、生きているが故に神仏ではありませんか。死んだら神ですか、生きているから神なのです。だから永遠の生命です。永遠に生き通しであるがゆえに神なのです。

 死ぬ者であるならば神ではありません。死なないと神の国へ入らないとか死んでからでないと神になれない、仏になれないという教えは、正しい教えでしょうか、間違っていませんか。

 皆さん方も徹底して知るべき学ぶべきことが多々あると思います。そのまま妄信・狂信で世を終わるを無知いうのです。自分が何であるかを知らないのです。誰でも自分のことを人間といいます。

 では人間とはなにかといえば、判りませんという答えが返ってきます。人間が人間を知らないのですから、その人間が人間を知らないのですから、自分を自分が知らないほど無知なことはありません。

 自分を知らずに知恵がありますか、自分が何なのかを知るのが大切なのです。自分を知らない者が神の善し悪しなどがありますか、あなたを知るべきです。
 何を学ぶべきかと問われたならば、あなたを学びなさい。何を知るべきですかと問われれば、あなたを知りなさいと答えます。

 自分が何であるかを知らない者が神を説けますか、説けません。悟りとは何かといえば己自身を知ることです。

 自己が何なのかを知っている者は悟りの人です。これを自覚者というのです。自らが目覚めた者、何であるかを知っている方々を覚者方というのです。覚者方というのは自分が何であるかを知っている方々という意味です。

 字の如くです。知らない者は愚座方というのです。賢座型というのは自分が何者であるか、何なのかを知っている方々を賢座方というのです。
 ですから自己を知るべきです。自分を知るのが悟りです。自分を知らない悟りはありません。悟りとは自己を知ることです

 自分は人間なりといって盲目の人生を歩むことは悟りではありません。何故生きているか、命が何なのか肉体が何なのかも判らない盲目の人生。意味も判らない無知な人生を送ってはなりません。知り尽くすことです。

 それを知らないで力はどこにあるのか、その力は何なのか、知恵は何なのか、肉体は何なのか判りもしないで、ただ生きているから生きてる、力があるからあるのだ、知恵があるからあるのだというような、無理解のまま無知のままで如何に世を去る者が多いかということです。

 結果に目が眩んで、庇護の力があるならば必ず原因があるはずです。知恵があるならばどこからその知恵が出たか、出所があるはずです。
 それを求道(ぐどう)といいまして、追求することが大切です。

 神、神とどこでも幼稚園児でも誰でも書きますが、神を知っている人が世の中に52億の人間の中に何名くらいいるかということです。僅か数名しかいません。教えている人は破棄捨てる程います。

 神を知っている人は少ないということです。即ち神を知っているということは自分が何者か、何なのかを知っている人のことです。世界中に覚者は数名しかおりません。あなた方も自分を知ることによって覚者になるのであって知らないのに覚者になれますか。

 自分を知ることが覚者になる秘訣であって、自分を知らないで妄信と狂信に明け暮れることが覚者ですか、自己自身を徹底して学び知ることが覚者になる秘訣です。

 誰があなたを覚者にしますか、自分自身です。誰でもあなたに王冠を載せる者はいません。あなたの悟りの王冠は自分で載せねばなりません。

 悟りの位は誰があなたに与えるのですか、神ですか、あなたですか、自分です。誰か偉い覚者が出てきて、あなたにもう悟りの位を与えましょうといって、王冠を載せる覚者はどこにもいません。

 神を強制するものではありません。あなた方は初めから悟りでした。今も悟りなのですが目が外なるものを見て、本源・本質を曇らせているだけなのです。神が迷うことはありません。迷っていると思っているだけです。

 自分は神でありながら、神ではないと思っているだけです。真我は迷いがありません。神が迷うことはありません。今まで知らなかっただけです。なぜかと言うならば内を観ずに外側を見て生きたからです。

 内を観れば即悟りです。皆さん方は早めに自分という者がこの外側から者を見たのが、その実相を曇らせていただけに過ぎないということに気づいていただきたいのです。実相は汚れないのです。あなたの真我は絶対に汚れません。

 あなたに色々のものが付着しているだけであって、真我は一度も穢れることはありません。汚れることはありません。

 例えば汚れたコップを見て下さい。コップに汚れが付いているのであって、コップその物が汚れているのではありません。コップの本質は汚れません。
 外側から見ればコップの汚れが見えているのでコップが汚れているように見えるだけです。

 内側から見ればコップは汚れていないのが判ります。正しく見ているならば、知恵ある人ならばこれが判ります。コップは汚れていない、コップと汚れは別々であるのが断言できます。

 私達の生命も真我も一度として汚れたり、穢れたりしたためしはありません。汚れと真実は別なのです。
 私たちは汚れなき純真無垢の自分と見れば良いかと思います。神が汚れたことはありません。
 神が汚れたならば神ではないのです。純粋無垢の神ではなくなります。

 神という文字ですが、『私達の人生の目的です』。これを知るために皆様方は何十万回もこの世に生まれてきています。このことは神を知るまでは神の実相世界へ帰ることはできません。

 神を知らない者が、神の世界へ帰った例しはありません。神でありながら神でないと思う人間の心がそうさせているのです。
 神が身近であり過ぎて、自分自身でありながら遠くに神を求めてきたということです。もっと、もっと、身近に神を感じて頂きたいのです


自分が霊覚者であるか
肉覚者であるかで天と地の差がでます

 自分が霊であることに目覚めた人のことを霊覚者といいます。肉覚者ではありません。あくまでも『我は霊なり』と言わねばなりません。

 肉には一点の知恵も、一点の力もありません。この肉体は霊の動く場であり、働く道具、媒体にしかすぎません。これを霊媒ともいいますが、霊媒体質は霊のエネルギーを受けやすい人のことを言います。

 エネルギーを受けやすい体質のことであり、この知花は生まれながらの霊媒体質でした。小さい時から自分が霊であることを私は知っていたのです。

 なぜかというと、身内の者が亡くなった時に、もう一人の霊的彼がいる事を、観ていたからです。その霊は、この知花を観ていましたから分かっていました。

 肉体は霊が着る衣装にしかすぎないことを、7歳の頃から全部分かっていたのです。ですから、生まれながらの霊媒体質なのです。

 自分が霊であって肉体ではないことも生まれながらに知っていましが。皆さん方がまだ肉体を吾として見るなら、皆さん方は盲人です。

 霊眼が開かれているのではありません。真の自己は霊的我ですから、吾は霊なりと言わねばなりません。

 吾は肉体ではないと、自分は人間でもなく、個人でもなく、大霊そのものだと言わねばなりません。皆さんは宇宙霊です。

 唯一の大霊が全てに宿っているのです。すべての形体は大霊の中に存在して、大霊は全てに宿っています。このことを今、ここでご理解いただきたいのです。

己を知ることが悟りであり
己を観ることが神を観ることです

 己を知ることが悟りであり、己を観ることが神を観るとなります。本物のあなたを観た時、あなたは何を観たとなりますか。神を観たとなります。

 また、己を知った時、何を知ったとなりますか。神を知るとなります。でですから、神を知る前に己を知りなさいといいます。神を観る前に己を観なさいというのです。その神は大調和です。

 この大調和のことを大バランスといいます。不調和のことをアン・バランスといいます。

 バランスであれば健康ですが、アン・バランスであれば病気になります。では、誰があなたのバランスを崩すのでしょうか。病気の作り主は誰でしょうか。自分です。そうであるならば、本来は自分で癒やさねばなりません。

自己治癒力を愛といいます

 自己治癒力というのは愛のことをいい、その愛が全ての癒しのエネルギーです。一切を癒やす力ですし、一切を癒やす知恵です。これが愛です。

 あなたが病気になりたくなかったら、不調和を起こさないことです。不調和でありながら健康でありたいというのは虫がよすぎると言いたいのです。

 不調和の人間はうんと病気になって苦しみなさいと言いたいのです。そうではありませんか、不調和から健康が生まれますか。アン・バランスを完全とでも言うのでしょうか。バランスを崩しますと不完全になります。

 完成の高い人とは愛の人をいいます。調和の人をいいます。完成を高めるとは調和になるといいます。世の中には、ずうずうしい方が多いのです。

 不調和でありながら健康でありたいと虫のいい事を考えている人がなんと多いことでしょう。

『不調和は病気の結果』であり、それが原因ですから、病気は不調和の結果としてあるのです。その病気にお医者さんは原因対処をしていますか、それとも結果対処でしょうか。結果対処です。

 お医者さんはそれぞれの病気の原因を知っていますか。全ての病気の原因は不明であり分かっていません。その病気の原因を知ったお医者さんはいません。どんな病気でも皆、原因不明の病気ではありませんか。

 病気の原因とは何かといいますと不調和です。答えは1つしかないのです。

 「病気とは何かといえば不調和である」といえます。
『健康とはなにかといえば調和である』としかいえません。

普遍を認知するとは何か

 もう理解できる日が近いですね。この絶対なるものを皆さんが受け入れなければなりません。普遍こそ絶対実在です。

 皆さん方は自分が普遍であって、何ものでもないのだとはっきりと直知し、認知した時に普遍的な知恵と力が現れます。すなわち叡智・仏知が現れるのです。これは精霊が下ったという意味です。即ち神の臨在観です。

 神我が内にましますという意味は、神の臨在観です。自分自身の内に神を受け入れるということは、自分自身の内に神がおらねばなりません。この肉体をお作りになったものも神であり、この肉の内に生きているも神です。
 
 素直に受け入れ、この肉体の作り主である神にお返しする、全託するのですが、そうしますと、全部を神に委ねましたので、そこには不安や恐怖はもうありません。

 あなた方になぜ、不安や恐怖があるのかといいますと、自分というものがあるからです。自分がない人間に不安と恐怖の自分はありません。そこには平安があるのみです。

 イエス様は「神が平安であるが如く、そなた達も平安であれ」と言われました。神は不安ですか。平安ですか。平安です。安らぎです。ですから、皆さんの神我は安らぎです。自分があるかぎり不安です。

「私のもとに来るものは安泰である」の意味

 私達がまだまだ自分に不安や恐怖があるのならば、肉を自分だと思い込んでいるのだと、自分に言い聞かせたらよかろうと思います。

 イエス様は「私のもとに来るものは安泰である」と言われました。安全であると言われたわけです。そこには何の不安も恐怖もありません。極楽です。楽な局面です。肉の自分を意識する、このところは難儀な側面です。

 ですから、難儀する必要はありません。楽そのものです。ここに入ったら気楽そのものです。そうなりますと、毎日が本当に楽しい、嬉しいという平安、平気にならなければなりません。今なら平気という意味が分かりますね。平気は極楽です。

 ですから、あなたは平気で生きることです。あなたは人の目を、人の口を気にするから平気でおれないのです。気にするから苦しむのです。
気にしなかったら苦しみはありません。平気です。

心の勇者とは何か

 平気でおれるのは極楽です。平安です。平気でおれるようにしないといけません。これが気楽でもあるし、極楽でもあるのです。ですから、我々は極楽に住むのも地獄に住むのも自分次第です。誰でもありません。

 ですから、あなたを今まで苦しめていた自分に打ち勝つ事が大切であると思います。そのためには自分がないことを知っていなければなりません。

分かりますか。自分はありません。大霊こそが、神こそが絶対実在であって、神が全てを作って、全てに神が宿っているわけですから、神の他には絶対に何もないわけです。

 それがはっきり理解できて、それを受け入れることが出来たならば、皆さん方はもう平安です。

 そうした時に皆さんはもう真の勇者であり、真の克服者になるわけです。その克服とは自分に打ち勝つことです。

 あなたは幸せや健康であるためには、あなた自身に打ち勝たなければなりません。自分に負けている限り、私達は、この世の苦しみから開放されることはありません。

負け犬とは何か

 皆さんは、よく負け犬だといいますが、自分が負け犬のようなものです。他人のことではありません。

 何に負けていたかというと、自分に負けていたのです。自我に負けていたのです。真の自己が偽物の自分に負けたのです。

 真の自己とは普遍的な大霊です。外側の自分は偽物の我ではありませんか。神我が偽我に打ち勝つことを勝利といいます。

 今まではあなた方は偽我の味方になっていました。本物の方には力を貸さないでいたのではありませんか。

 ですから、今からはそうではなく、本物の自分を認める事によって、外なるものが内なるものを認める事によって、「外なるものが内なるものとなる」となります。

 小さなものが大きなものを認めた時、小さなものは大きなものとなります。個人的なものが普遍的なものを認めた時、個人は普遍となるという意味です。個人は実在していません。

 みなさんも、外側で見ると個人ですが、内側には個人はありません。
 生命には個人生命や、個人的霊や、個人的神はありません。

 そこは全体者があるだけです。全我なる普遍なる、宇宙我なる我があるだけです。

 ですから、偽我に打ち勝つためには、本物を持ってこなければなりません。あなた方は偽物で偽物を負かそうとしていますから、絶対に負かすことは出来ません。

 即ち、自我で自我をなくそうとしてもなくなりません。
 自我をなくすことは、神我を持ってこれば良いのです。
 神我が現れたら、自我はなくなります。

宇宙に愛は1つしかありません

 人間は実在していないから、全く存在していない事を知らねばなりません。実在しているのは愛であって、これを大愛、または愛とも言いますし、神ともいっているものです。

 それを神は愛なりといいます。なぜ神は愛なのかといいますと、エネルギーと質量のバランスを大調和といいまして、このエネルギーと質量の調和でもって人間が創り出されているからです。

 あなたは人間ではありません。人間とは何かといいますと、愛の仮の姿です。即ちエネルギーと質量の仮の姿です。

 ですから、形という世界は仮相の世界といいます。影の世界です。エネルギーと質量が様々な形を写し出しています。エネルギーと質量のバランスがなくて物が存在すると思いますか。存在しません。

 大愛が人を創り、大愛が人の中に必ず宿っているといえます。人の中に愛は宿っていますか、宿っていませんか。あなたは人間ですか、愛ですか。愛です。

 ではどこに人間がいますか、あなたはその愛の仮の姿を見て、それに人間という名前を付けているだけです。あなたの本性は愛です。この世に愛を宿さないものは一物もありません。

 そして、この愛は宇宙にいくつあるといいますと、1つしかありません。これは無限大の愛であり、限りなき愛です。この愛には初めがないし、終わりもありません。空間がありません。時間がありません。永遠です。

 あなたの形は崩れても、愛は崩れません。愛は永遠になくなる事はありません。これが『不老不死の原理』です。あるいは健康になる秘訣です。

 しかし、皆さん方はまだまだ、自分の姿・形が何であるかや、自分の本性を見ていません。この大愛を皆さん方は神性といいます。

 そして、エネルギーと質量のバランスの事を意味します。そこで、神のことを中性というわけです。中性と神性は同じでありますし、愛というのも同じです。

 では、あなたは人間でしょうか、大愛でしょうか、愛はいくつありますか。愛には所得がありません。私の愛とか、誰彼の愛という愛は存在していません。

 何が本物で、何が偽物でしょうか

 本物と偽物の識別をしてみたいと思います。私達は偽物に目隠しされて、なかなか本物を見分ける事が出来ません。それゆえに偽物の生涯で終わってしまいます。実際にあるものと実際にないものとの識別が出来ないからです。

 実際にないものをあるものだと見て生涯を終わります。これを盲目の人生といいますが、識別が出来ないままで世を去る人が多いのです。

 ですから、まずは自分とは何であるか、本物の自分とは何であろうかを識別してみたいと思います。

 私達は今、誰でも自分の事を人間だと見ていますし、人間だと思っています。
 人間は実在しませんよといっても、「今、現にあるではないか」と、普通の人はいいますが、人間がいると思っている人は全くの盲目です、無知でもあります。人間は全く存在していません。


人間は霊と水でしかありません

 まず、人間とは何であるかを考えるべきです。人間の実態は霊と水でしかありません。霊と水なくして、人間は存在しません。

 では、実在しているのは人なのか、それとも霊と水なのかとなりますが、人間は実際にあるのでしょうか。人間と、そして霊と水とは違うものでしょうか。

 これを大愛といいます。愛しかありません。湖の霊と水との調和を大調和といい、大愛ともいっています。人間とは人間の形をとった愛です。

 愛は実在していますが、人は実在していません。人間から霊と水を差し引いたら何も残りません。すべては愛です。

 ですから、愛の他に何も見てはいけません。あなたが人間がいるといえば、もう既に嘘をついたことになります

 大愛が人を創り、大愛が人の中に宿っているなら、これは人でしょうか。大愛でしょうか。人間の実態は愛となります。

 皆さんは、まだまだ妄信的ですから、自分とか、私とか、人間とか、肉体とかというようにものを見ます。

 自分を人間だと見ている人のことを、盲目というのです。自分は愛だと見ている人は目明きといいます。すなわち神眼が開かれているわけです。

 神は愛なり、我も愛なりです。愛が形をとったら、愛以外のものになるのでしょうか。見えるもの、見えざるものすべてが愛であり、この世に現れているものすべてが愛です。

 ですから、すべてに愛を見よとなり、そしてすべてに愛を感じなさいといえます。

 皆さん方はどうして自分を人間と見るのでしょうか。形としてものを見るからです。本質を見れば愛ですが、形を見ると人となります。これを外観といいます。

 本質を見ることを内観といいます。本質を見るべきでしょうか。形を見るべきでしょうか。本質を見るべきです。肉体はもうどこにもいません。人間は全く存在していません。

『私は愛以外に何も知りません』
と答えなければなりません

 形をとっているものも愛で、形をとってないものも愛です。ですから、色と空は同じものといえます。この愛は見えるものではありません。

 この見えるものと見えないものとは違うものでしょうか。同じものでしょうか。色も空もすべてが愛です。これを愛一元といいますし、神一元ともいいます。愛の他には絶対に何もありません。

 あなたから愛を抜いたら、何も残りません。人間もいません。あなたが愛以外に何かを知っているなら、あなたは迷っていますし、あなたが愛以外に何かが見えるのならば、あなたは盲目です。

 愛以外に何も見てはならないし、愛以外に何も知ってもならないのです。
 愛も不調和もありますよ、というのは嘘です。私は愛以外に何も知りませんという人にならなければなりません。

 ですから、愛を知るのが悟りとなります。不調和とは迷いとなります。ですから、悟っているか、迷っているかは簡単に分かります。

 悟っているなら、必ず愛になります。
その愛は限りなき愛ですし、久遠常在の愛となります。これは永遠なる愛です。

 また、人間は形という世界に目が眩んでしまって、
自分の実態や本質が愛であることを忘れていただけです。

 自分が大愛であることを見ない人は自分を見失った人といいます。
愛の自分と人間の自分とどちらでしょうか。愛の自分です。

 ですから、人間のことを偽我としかいわないのです。偽我というのは偽物の我です。
大愛」は「真我」ですから、真の自己となります。
愛は真我ですが、愛に生きるべきでしょうか。人間として生きるべきでしょうか。

 正しく生きるには、愛としていきなければなりません。正しく思うとは自分は人だと思うべきでしょうか。愛だと思うべきでしょうか。愛に生きるべきです。

 しかし、皆さん方はどうしても、形というものに執念や執着を燃やしています。ですから、形という世界を、非実在界としかいいません。

 「」は「実在界」といいます。
この「実在界」は「愛の王国」です。
これを天といいます。
大愛」と「大天」とは「同じもの」です。

 ですから、『天は汝の内にあり』です。
大愛は大神様ですから、『神は汝の内にあり』となります。

これを「内在の神」とか、「」とかと言っているわけです。

 皆さん方はいつになったら、この偽物から開放されるのでしょうか。あなたが人間だと自分を見ている限りは、絶対に神を見ることは不可能です。ですから、己を観たときに神を観ます

 この大愛と大神様とは同じものです。大調和でもいいのです。ですから、神眼を開くというのは本物と偽物の識別をしなければなりません。

 大愛を見ている人は神眼が開けた人です。私は人間ですと見ている人を盲目の者というのです。
 自分を生涯、人間だと生きる人は、盲目の人生です。

 ですから、いかに皆さん方は正しく思っていないかといえます。大愛が実在なのに、人間だと思っている人がいかに多いかということです。

見えるもの、見えざるもの、すべてが愛です

 お釈迦様の八正道というのは悟りの物差しです。正しく見ることが出来なければ、正しく思うことも、語ることも、生きることも、生活することも出来ません。

 八正道とは愛の王国と言いまして、それは天国のことです。愛の王国と天国とは同じものですから、『天は汝の内にあり』となります。

『神は汝の内にあり』となります。この世で朝の露一滴でも、神の愛を表しています。

 見えるもの、見えざるもの、すべてが愛です。愛の他には絶対に何もありません。愛のみが実在です。

 大愛がすべての形体を創り、大愛がすべての形体に宿っていますので、そうなりますと見えるもの、見えざるものすべてが愛です。

 これが色即是空・空即是色といいます。色即大愛です。大愛即色になっています。

 これを全き愛といいます。全き愛と、全き神とは同じものです。
全き愛とはすべては愛だという意味です。

 愛なくして物が存在することはありません。愛そのものが創造の原理ですし、物を表す原理です。まだまだ、皆さん方は正しく物を見てはいません。人間がおるというのは本当でしょうか。

 人間とは何かと問われた時に、何と答えるべきでしょうか。大愛だと答えなければなりません。
ですから、己を観た時に、神を観るのです。己を知った時神を知るのです。

 無知とは自分を知らないという意味です。自分を見失っているという意味です。あなた方の一番の最大の敵は肉体という形です。

 偽物が本物を目隠しするわけです。その形に人間という名前をつけて、それで目隠ししているわけです。

 自分は人間ではないと、自分は愛であるといえる人はもう神眼が開かれています。自分に私はあなたが見えますといえるならば、愛のキリスト、慈悲の仏陀となるわけです。愛そのものとなります。

人間は初めから愛そのものです

 人間は努力して愛になるのでしょうか。生まれながらにして大愛でしょうか。元々、私達は大愛ですし、今も大愛です。未来永劫に大愛です。

 愛の他には絶対に何もありません。ですから、愛に勝る力はありません。愛は。全存在の本源にして本質です。愛がなかったとしますと、皆さん方は存在できません。これを神性とも言いますし、仏性ともいうわけです。

 では、神性や仏性は愛とは違うものでしょうか、同じものです。それを中性といいすなわち愛です。これを全き愛といいまして大愛というのです。

 大愛の他には何もないのに、あなた方は形という世界に完全に目隠しされて、実在しないもので、実在を見失わされているのだと言えます。この形あるものを実在だと見てはなりませんし、人間を実在だと見てはならないのです。

 自分の事を神だと觀るか、人として見るか。神だと観ている人のことを神眼の開かれた人といいます。人間だと見ている人のことを盲目といいます。
あるいは無知というのです。

 無知な人は自分を神だとは觀ませんし、思いませんし、語りません。偽物に生きて、本物には死んでいます。ですから、人間のことを偽我というのです。

 愛には時間もないし、空間もないし、距離もないし、無限しかありません。全き愛の世界には時空間が存在しません。愛の存在しないところはありません。

 形あるものだけが愛ではなく色も空も皆愛です。では、色と空は違うものでしょうか、同じものでしょうか。同じものです。

 愛は空ですし、そして色も愛となります。ですから、愛即人、人即愛となるわけです。それは大愛ですし、宇宙には小さなものは存在しません。

 無限一元であるといえます。無限の他には何もありません。あなたは個人的でしょうか。無限でしょうか。無限大の愛が人を創り、無限大の愛が人の中に宿っているわけです。では、この宇宙に小さな愛があるのでしょうか。

 皆さん方の考えている、肉我で考えている愛を盲愛といいます。真の愛は無所得です。無差別です。無所得の愛であり。無差別の愛です。

 ですから、善人にも、悪人にも平等に神の愛は注がれています。
 愛の世界に善悪があるのでしょうか。ありません。

 すべてが愛ですし、愛そのものです。その迷妄から皆さん、解き放たれなければなりません。人間だという先入観や、人間という固定概念を捨てなければなりません。

 愛は馴染みのないものだと思っていますが、もう、あなた方は人間に馴染んでしまっています。

 人間だと見ることに慣れてしまって、自分を愛だと見ることに慣れていません。偽物を見て、本物を見失っているのです。即ち自分を見失っています。

内は実相世界で外は仮想世界です

 外は仮想世界といい、中は実相世界ですから、実相の自分は肉ではなくて、生命であるとなります。肉の己は仮想だといえます。

 肉体とは生命の仮の姿ではありませんか。生命がなくば肉体は存在できましょうか。存在できません。今、あなたに生命がなかったとするならば、あなたの肉体は存在しません。ですから、原因と結果は1つであり、一体です。

 表裏一体といいます。表ばなければ、裏がありません。その裏と表の区切りや、障壁はどこにもありません。

 あなたの生命と肉体との壁があると思いますか、無いと思いますか。ありません。どこにも現界はありません。

 国境なるものや、いかなる壁も障壁も存在しないといえます。それであるのに皆さん方は肉体と生命とが大分離れているのです。

 外側から見ますと時間も空間も距離もありますが、今、ここで思ったことは即ここで思っていることになります。外側から見れば、空間があり、時間を感じさせますが、内側から見ますと、一つになっています。

 あなたの思いが今、この清里で東京の方の誰かを思うと即、通じているわけです。これをテレパシーといいます。以心伝心ともいいます。

 皆さん方に通じさせるのには、これを想念の速さといいますか、時間も距離も何もかかりません。普通の電話では話になりません。

 それを以心伝心といいますが、テレパシーが使えないがために、五感の感覚というもので、人間は不自由な電話とかを使っているわけです。本来ならば生命の世界には電話は必要ではありません。

 神我の世界や、生命の世界では電話を必要としません。迷った人間のみに不自由な電話が必要です。あなたと私とが話すのに、時間や空間を必要としますか。

 あなた方が外念という外側でものを見たり、考えたりするから、制約を被っているわけです。制約をしているのは自分ではありませんか。
 
 ですから、あなた方が本当にテレパシーという以心伝心である生命はいかなるものの次元も空間も存在しないことが分かれば、大変なテレパシー能力を持つのです。

私、知花はキリストを体験することが出来ました

 この知花は、このキリストを体験することが出来ました。こうして、自分の神我との一体が出来まして、そこから以心伝心を受けるわけです。

 ですから、私、この知花からすれば、この世で学ぶべきものは何一つ存在しません。皆さん方は外から学ぶべきものがありますか。内側から学ぶべきものがあると思いますか。

不調和を罪と言いますし神への反逆です

 皆さん方は、まだまだ無法であるといえます。なぜかといえば、愛の法則を犯しますから、トラブルを起こしたり不調和を起こすことは神への反逆というわけです。無法者です。

 不調和の人間のことを何びとと言いますか、罪びとというのです。愛の人を罪のない人といいます。罪を自分で犯していながら、罪を許し給えといいますが、その罪は誰が許せるのでしょうか、あなた以外にないと思います。

 犯した罪は報われなければなりません。犯した罪は必ず報わなければなりません。自分で蒔いた種を自分で刈り取っているだけです。そのあなたが不調和になった時には、愛の法則を犯した者といえるのです。

 宇宙には愛の法則という絶対の法則があります。これを宇宙法則といいます。ですから、我は法則なりというのは、我は愛なりというのと同じです。

 ですから、不調和とは愛という神への反逆であるといえます。反逆行為であるといえます。裏切り行為であるといえます。ですから、不調和の人間を裏切り者というのです。自分の本性を裏切ったわけです。


人間から愛を引いたら何も残りません

 この大愛を知らなかったとしますと、自分自身を知らない、すなわち自分を見失っているといえます。自分は人間だと見ている限りは愛を知りません。 皆さんは愛の現れに過ぎないのです。

 すべては愛の現れであり、愛の表現です。皆さん方はこの世に不調和を表現しに来たのでしょうか。愛の表現をしにきたのでしょうか。

 砂浜の砂一粒とて大愛を現しています。この大愛には大きい小さいがありません。形の制約を受けません。

 愛に内・外がありますか、ありません。内も愛で、外も愛です。ですから、愛には内・外がないのです。その愛はいかなるものの制限も制約もうけるものでしょうか、受けないものでしょうか。

 無制限ですし、自在ですし、無碍ですし、久遠ですし、常在です。これを久遠世界といいます。

 皆さん方は様々なものがあると見ている限りは盲目です。幻影です。この形という世界は影だといえます。愛が様々な形を映し出しているだけです。

 すなわち人間は実在しません。人間といえば幻です。愛を差し引いたら何が残りますか。何も残りません。あなたから霊と水を差し引いたら、何も残らないわけですから、人間が実在であるはずがありません。

実在しない幻を、皆さん方は絶対なるものとして盲信・狂信していませんか。

 自分は人間ですとか、肉体ですとか、個人ですとかいいますが、人間が存在した試しはありません。まだまだ盲信と狂信に明け暮れているといえます。

 あなた方は、今、白昼に長い夢を見ています。悪い夢を見てるのです。毎日、夢を見てます。あなたの考えていることは非真実です。

 病気になったり、苦しんでいるのはみな非真実です。夢の中の出来事です。何故かと言いますと眠っているからです。

不調和を罪と言いますし神への反逆です

 皆さん方は、まだまだ無法であるといえます。なぜかといえば、愛の法則を犯しますから、トラブルを起こしたり不調和を起こすことは神への反逆というわけです。無法者です。

 不調和の人間のことを何びとと言いますか、罪びとというのです。愛の人を罪のない人といいます。罪を自分で犯していながら、罪を許し給えといいますが、その罪は誰が許せるのでしょうか、あなた以外にないと思います。

 犯した罪は報われなければなりません。犯した罪は必ず報わなければなりません。自分で蒔いた種を自分で刈り取っているだけです。そのあなたが不調和になった時には、愛の法則を犯した者といえるのです。

 宇宙には愛の法則という絶対の法則があります。これを宇宙法則といいます。ですから、我は法則なりというのは、我は愛なりというのと同じです。

 ですから、不調和とは愛という神への反逆であるといえます。反逆行為であるといえます。裏切り行為であるといえます。ですから、不調和の人間を裏切り者というのです。自分の本性を裏切ったわけです。

人間から愛を引いたら何も残りません

 この大愛を知らなかったとしますと、自分自身を知らない、すなわち自分を見失っているといえます。自分は人間だと見ている限りは愛を知りません。 皆さんは愛の現れに過ぎないのです。

 すべては愛の現れであり、愛の表現です。皆さん方はこの世に不調和を表現しに来たのでしょうか。愛の表現をしにきたのでしょうか。

 砂浜の砂一粒とて大愛を現しています。この大愛には大きい小さいがありません。形の制約を受けません。

 愛に内・外がありますか、ありません。内も愛で、外も愛です。ですから、愛には内・外がないのです。その愛はいかなるものの制限も制約もうけるものでしょうか、受けないものでしょうか。

 無制限ですし、自在ですし、無碍ですし、久遠ですし、常在です。これを久遠世界といいます。

 皆さん方は様々なものがあると見ている限りは盲目です。幻影です。この形という世界は影だといえます。愛が様々な形を映し出しているだけです。

 すなわち人間は実在しません。人間といえば幻です。愛を差し引いたら何が残りますか。何も残りません。あなたから霊と水を差し引いたら、何も残らないわけですから、人間が実在であるはずがありません。

 実在しない幻を、皆さん方は絶対なるものとして盲信・狂信していませんか。

 自分は人間ですとか、肉体ですとか、個人ですとかいいますが、人間が存在した試しはありません。まだまだ盲信と狂信に明け暮れているといえます。

 この小我の偽物の自分が自分だと思っている者、みな眠れる魂といえるわけです。神我に目覚めた時に、神我の世界に皆さん方は悩みや苦しみがあると思いますか。ありません。

 不安も恐怖も存在しません。あなた方は長い眠りから目覚めなくてはなりません。これを眠れる魂とか、眠れる獅子とかいいます。

無限世界から觀ますとすべてが丸見えです

 私、知花は無限の我から、実在の我から、非実在の仮相の世界をいつも眺めているわけです。

 あの人はどうしているのだろうかと、この人はどうしているのだろうかと、無限から觀るのですから、上の世界から下を見下ろしているわけですから、実相世界から仮相を見下ろすわけですから、丸見えです。

 それは面白いものです。面白いと言いますと御幣があるかもしれませんが、例えば、その神我という無限の世界から、形という世界をも下ろすことが出来ますから、すべてが丸見えです。誰が何をしているか、見えると思いますか、見えないとおもますか。

 なぜ、皆さんには見えないのでしょうか。私の悪口を言っているのも、何もかもが丸見えです。隠れて話していても、私には隠れるものは1つもありません。

 神我に隠し通せるものが1つでもありましょうか。ありません。このやすらぎの郷で、こんな話を聞きながらでも、私の悪口をいう人はいっぱいいますが、「あの知花先生は何とかかんとかといって」という人たちは私は分かっていないと思いますか。残念ながら分かります。

 どこに隠れていてもどこにいても分かります。なぜならばあなたと私は本質に繋がっているからです。本質的には1つですから、家族ぐるみで知花の悪口を言ったって、全部が筒抜けです。

 仮相の世界にいる限りは分かりませんが、この本質という全一体の世界にいるならば、全一体ではありませんか。あなたは私であり、私はあなたですから。全一体の世界ですからわからないはずがありません。

 そんなところを皆さん方も知るためにはどうすればいいかといいますと、この実相に生きることです。実相においてはすべては1つですから、全ては一つになります。


私達の存在価値は愛です
この世を克服するための価値であり目的です

「我はこの世の無知と闇とを克服したものである」と、イエス様が言われました。
なぜ克服出来たのでしょうか。愛の他はないと思います。
愛でもって克服出来ないものが世の中に存在するのでしょうか。

 この世の悪はあなたの愛でもって克服されんがためにあります。あなたがこの世の悪をあなたの愛でもって克服した時に、あなたは克服者キリストになりませんか。我はこの世の悪に打ち勝った者だといえませんか。
 
その時皆さん方は完成です。では、今の自分が完成に近いか、それとも完成が遠いかを誰が一番知っていますか。自分が一番知っています。不調和か調和かの意味も分かります。
 
不調和の人や、妬みっぽい人や、怒りっぽい人や、そしりっぽい人や、嫉妬深い人間は完成に近いのでしょうか。未完成ですか。未完成ではありませんか。熟成が低いわけですし完成が低いのです。

毎日の生活の中で人を赦すことや
責めないことが不調和の克服となります。

 皆さん方が今、学ぶことによって、どんどん完成が高まったのではありませんか。今までの性格がころっと変わった人が大勢いるのではないですか。
 今までは人を赦さなかったのが、今では赦せるようになった人が大勢いるのではありませんか。

 私、知花の目の前でそんな話を聞く時がありますが、どうしてなんで赦し合いが出来ないのだろうと、悲しくなりますし、嫌になります。

 なぜ闇を増幅するのだろう、なぜお互いに赦しあって仲良く出来ないのだろう。それが愛であるためには赦しが先決です。その赦しを先行せねばなりません。

 人を裁くことによって良くなると思ったら、それは大間違いです。人を裁いて良くなった例はありません。人から欠点をいわれて良い気持ちになる人はいません。

 では、その欠点をつつかないことが重要ではありませんか。人の欠点を探りだして、あの人はここが悪いとか、あそこが悪いとかいえば本人は喜びますか、怒りますか、怒り狂います。

愛であるためには赦しを先行する以外は何もありません。

 赦せる人になることです。愛であるためには赦しが先決です。「私は悪人になってもいいから、人をせめて良くするのだ」という人がおりますが、良くなりますか。

 人を責め立てて良くなりますか。良くなりません。その人を批判し、批判したら、その人は良くなりますか、悪くなりますか、悪くなる一方です。

 周囲を良くするためには、あなた自身が良くなればいいのです。あなたが良くなればあなたは世の光となります。世を照らす光になります。
 あなたの日常生活が赦しと愛であるならば世の光となります。光そのものです。これを今日から実行してみたらどうでしょうか。
  
愛に勝る薬はこの世にはありません

 完成を高めるとは愛を高めることだといえます。今日の一日をだれとも争わず、憎むこともなく、怒ることもなく、嫉妬をすることなく、一日一日を愛にて生きることが感性を高めることです。それを愛の一日といいます。

 それが病気治療の秘訣ですし、健康の秘訣です。これに勝るお薬がありましょうか。
 皆さん方に無銭でもらえるお薬を頂こうとしないで、お金のかかるお薬で健康を保持していこうとする人が如何に多いかといえます。

 私、知花がなぜ病気にならないか。その理由はどこにあるのでしょう。風邪も引かない。病気にもならない理由はどこにあるのですか。愛であるからです。

 私は小さい時から人を憎むことが嫌いでした。「あなたに感情がありますか」といわれたこともあります。
 それは一回だけではありません。人から罵られても、けなされても、けろっとしていることが出来る私でした。

 小さい時から性格的には「言いたいから言うのでしょう」としかいいませんでした。言いたいから言うのだと。それを赦せる自分だから病気にならなかったと思います。
 これは悪い性格ですか、良い性格ですか、人を赦せるとは悪い性格ですか、良い性格です。
 
徳を積むとは愛を積み重ねた者をいいます

自分の悪口を言われて、すぐに怒り狂う人は性格的には良いのでしょうか。悪いのでしょうか。悪いのです。怒り狂ったら誰が損するのでしょうか。自分です。
 怒り狂って得する人はいますか。世の中に人の悪口をいって得する人がいるのでしょうか。

 あなたは人の悪口をいっている時には、損をしているのです。得してるのではありません。損するものは捨てなければなりません。

 徳を積むとは愛を積むことです。徳を積むとは愛を積み重ねることです。
愛を積み重ねた人を徳を積んだ人といいます。徳の深い人とは愛の深い人をいいます。

 あなたが愛であれば、人の欠点までも消すことが出来ます。周囲の闇があなたの光で、打ち消されてしまうわけです。

 世の中を明るくするためには、世の中が愛でなければなりません。世の中が健康であるためには世の中が愛でなくてはならないといえます。

 50年前と私今とでは、病気の数知れず多く出ています。50年前と今とでは想像を絶するほどに病人が多く流行っています。今は25兆円が医療費に払われています。

 膨大なる金額です。毎年、毎年、恐ろしいお金ではありませんか。25兆円という金額は、国の予算は一年に70兆円であるのに、その金額の約三割が治療費に当てられています。

 そのお金は何の結果でしょうか、愛の結果でしょうか、それとも不調和の結果でしょうか。世の中の医療費が多くなればなるほど不調和になっているとみても、嘘ではありません。今、現にそうではありません。

人を赦す心が愛の心です

人を赦す心、愛する心、これこそ皆さん方の完成を高める秘訣ではありませんか。自分は完成の高い者か低い者かと誰が知っていますか。

そして、完成を低めるも高めるも誰次第ですか。自分です。健康になるも、病気になるも、誰次第ですか、自分次第です。

ですから、自己治癒力とは愛のエネルギーでもって、神性エネルギーでもって、我々は、「この世の無知と闇と悪を克服していくために努めねばなりません」。
 
 この清里の「安らぎの郷」が不調和の溜まり場だったら、この場所は闇の溜まり場になります。不調和の人が集まったら、ここは光になりますか。闇になりますか。

そして慈悲深い人が集まったらどうなりますか。光となります。

これが正に磁場清めではありませんか。あなたが愛そのもの、光そのものになったら、あなたの行く所は全部が磁場を清めています。

愛の無い人が磁場清めが出来ますか。出来ませんか。真っ黒いものが真っ黒いものを消すことは出来ますか。闇を被ったら磁場清めが出来ますか。

神官だといって何か白い服を着て、そんなもので家が清まりますか。土地が清まりますか。清まりません。その者が不調和であれば何の意味もありません。

愛は自力本願です

神は愛ですから、愛の人ではなりません。すべての原点は愛ですから、天に帰るとは不調和の皆さん方が愛の皆さん方に帰ることです。神我は不調和ですか、愛ですか、大愛です。

 それには愛そのものになるわけです。真理の実践とは愛の実践です。不調和は神性でしょうか、非神理でしょうか。不調和は非神理です。愛の原理とか、愛の法則しかありませんから、あなたが不調和の時は愛の法則を犯しています。

 では、不調和とは罪ですか、それとも罪ではないのでしょうか。罪人とは不調和の人を罪人というわけです。愛の人を罪人というのでしょうか、どちらですか。

 あなたが不調和を起こしている時は愛の法則を犯していませんか。能動と受動の法則を犯していませんか。犯しています。罪人・罪人といいますが不調和の人を罪人といいます。

ですから、「病とは罪の結果である」といえるわけです。
罪を多く犯せば犯すほど病に掛かります。苦しみます。
愛になればなるほど、健康になり、幸せになります。愛ある人は健康で幸せです。

あなた以外にあなたを救える者はいません。
他力本願ではありません。自力本願です。
完成を高めるのは愛を高める以外にはないと思います。

 時々、私の目の前で争いごとを見る場合があります。争っている人は大人ですか。子供ですか。まだまだ未熟だなと、争っているのを見れば子供の争いを見るような目で見ることが出来るのではないでしょうか。大人になっても争うのでしょうか。

 子供は喧嘩します。それは未熟な者であるからです。大人が争っているのを見ますと、まだ未熟であるかと残念です。そのような場面が私の目の前でも見受けられます。

それをやっている人は、また、それなりに気付いて頂かなければなりません。皆さん方は本当に自分から後光や、光や、力が出るためには不調和ではなく、調和の人になるように気付かねばなりません。


問 それでは、オーム讃唱はかなり、パワーが出るのでしょうか。それとも言魂というのでしょうか。

知花 それはもう創造の波動ですから、ものすごい波動です。

問 それも信じずに讃唱するのと、信じて讃唱するのとでは差がでますか。

知花 ハッキリ差が出ます。

問 実際に病気が治るのですか。

知花 治ります。しかし、治るといっても、受ける入れる側と発する側とタイミングが合った時の話です。こっちは治したいと発しても、相手がこんなもので治るかという反発作用を起こせば、打ち消しになります。

 そのパワーを受け入れたことにはなりません。それは放り出したことになりますから、効き目はありません。

問 病気の治療だけではなく、潜在能力開発という意味でも活用出来るのでしょうか。

知花 出来ます。

問 オームというのは宇宙語なのでしょうか。

知花 そうです.宇宙の響きです。


問 なぜそのように、病気癒やしや潜在能力の開発に応用できるのかメカニズムについて、もう少し詳しくお伺いしたいのですが。

知花 それは宇宙の響きですから、正しい波動になりますから、悪い波長が消えますと、その状態は良い影響を受けやすくなるからです。

 ちょうど、あなたが良い人間の中におると、あなたが良い人間になりやすいのと同じことです。悪い人間の中にいて、良い人間になろうとすると相当に努力をしなければなれないのと同じことです。


問 生物で何百度とか、何千度の温度でも生きていられる生物があるというような、あの記述にはとても驚いたのですが、人間の概念を想像するものが存在しているということですか。

知花 そうです。ただ、人間の想像を絶することが宇宙であり、当たり前の様に存在していますが、人間が理解できないから否定しているだけに過ぎません。

問 生物についての記述も大変興味深く読ませて頂きました。それで、人間が植物をとることは微生物に餌をやっているようなものだということですが、今までそんな話聞いたことが無かったものですから、すごく新鮮に思いました。

知花 微生物とは、本当は小さな生命たちといっているものです。

問 妖精というふうにでしょうか。

知花 そうです。

問 それを昔の人は微生物を擬人化して捉えていたのでしょうか。

知花 そのように捉えていたと思います。ですから、それほどの全てとの一体感で親密感を持っていたといえるのです。

問 色々な国の神話を見てみますと、ある程度は共通した部分があるのですが、超古代の人達は直感的にやはり、エネルギーとか、自分のパワーとかをある程度は認識していたのでしょうか。

知花 今の人間以上に認識していた時代がありました。なぜかといいますと、昔の人間は神を抜きにして生活した人間はいなかったからです。
 今は神を否定して生きている人間が大半ですから、神なんておるものかということをいいます。それだけの違いです。

問 それと古代の人達は神と同時に魔物というのでしょうか。
そのことについても認識していたと、実際に捉えていたというように、最近ある本で読みましたが、魔の世界はほんとうにあるのでしょうか。

知花 魔の世界は人間の心の状態であって、魔の世界がどこかに存在するものではありません。

問 人間の意識がそうさせているのでしょうか。

知花 意識の状態でも魔になるし、神にもなります。ですから、人間は悪魔にもなり、神にもなるといえます。意識の状態だけです。自分が悪魔になるのも神になるのも可能です。

問 西洋の魔術の儀式を見ますと、かなりグロテスクな現場があるのですが、そういう儀式をすることによって自分の魔力が出来ますか。

知花 信念で作りだして、その魔の力を生み出しています。信ずることはその力を悪にも使えますし、善にも使える力です。善悪に左右するだけです。

問 チャクラについてお伺いしたいのですが、よくチャクラを開くと超能力的なことを発揮する事が出来ると聞いた
ことがありますが、それと意識の世界とはなにか関連性があるのでしょうか。

知花 チャクラを開くというのは一つの観念的に書いてるものは沢山ありますが、実際にチャクラを開いている人はそう沢山いるものではありません。

 あれは、彼らが勝手にそういう観念を生み出しているだけです。
ですから、それらの本に書いてあるものがそのまま真実だと受け取っては非常に困ります。

チャクラというのは外部からの刺激で開くものではありません。
宇宙意識そのものになって初めて、大霊と一体になって始めて、自ら開くものであって、

 意識が低いのに、人間意識とか、肉意識とか、個人意識なのに、チャクラが開くということは絶対に無いといえます。
 光のない所からどうして光が出ましょうかと言いたいのです。

 それを観念的に「ああであるとか、こうである」と書いてある。偽物の本が世の中にいかに出回っているかといえます。

 それはドグマ的ですし、そんな真実は全くありません。また、そんな理屈にかなわないことも、あり得ないことです。
 確かに現れているよな現象は起こせますが、彼らが勝手に作るわけです。

 それは一つの自念症ですから、それを弄んでいる人は最終的には殆ど精神異常になります。意識は正さないで、現象だけ望んだり、いたずら心でやったら、非常に危険なことです。チャクラを弄ぶことは絶対にしないようにすることです。

生命は永遠に生きている

私達が生きているのは、殆どの人はこの肉体が生きていると思っていますが、肉体が生きているのではありません。
 今私の手元にある木の葉は、木の葉が生きているのですか、生命が生きているのですか。生命です。
 このことと同じように、私達の肉体の人間が生きているのではありません。

 この木の葉がなぜ生きているかといえば、生命によって生きています。私達の肉体も、何によって生きているかといえば、生命によって生きているのです。

 ですから肉の死を「死」と言いますけれども、肉体はなくなりましても、生命は永遠ですからなくなる事はないのです。

 その意味は、例えばここに氷がありますが、氷という姿形がなくなりますと、水蒸気がなくなるかというと、そうではありません。
 この氷は何かといいますと、水蒸気の結果です。
 氷という姿形がなくなりましても、水蒸気は無くなりません。

 同様に私達の肉体も、肉体という姿形はなくなりましても、肉体を現している不可視の生命はなくなることはありません。ですから、見えるものは全て見えないものの結果にしか過ぎません。

 この氷も水も水蒸気の結果です。ですから私達の肉体も幽体も、霊の結果でして、この物質世界も幽界も何の結果かといいますと、霊の結果です。

 物質世界も幽界も実在界ではありません。実在界ではなく、何かといいますと、結果次元です。原因次元ではありません。 
 
 ですから、水蒸気が原因として水と氷が存在しています。水と氷が無くなりましても、水蒸気は絶対に無くなることはありません。 

霊体へ永遠である

水蒸気と同じように、あなた方の肉体、幽体はなくなることがあっても、霊体はなくなることはありません。
 我々の実体は霊ですけれども、自分を肉体だと思ったり幽体だと思ったりするのです。

幽界にいる殆どの者は、幽体を自我として持っています。あなた方が肉体を己として生きているように、彼らもまた幽体というものを持っています。

 あなた方よりも少し精妙になっておりますが、氷よりは水のほうがもう少し精妙です。バイブレーションが上がった状態です。
 
 バイブレーションの下がった氷を、バイブレーションの上がった水から見ますと、そこからは丸見えです。

 しかし、水蒸気の霊体はバイブレーションが違いますから、幽体からは見えません。そして肉体から幽体は見えません。ですから下から上は見えないようになっています。しかし、上から下は丸見えですが、下から上は見ることが出来ません。

 なぜ、見えないのかといいますと、バイブレーションが高いからです。バイブレーションの低い者が高い者を見る事は出来ません。高い者が低い者を見ることは可能です。

しかし、皆さん方の意識がどんどん高揚していきますと、高くなりますと高い次元に来ますので、霊の次元からは幽界も物質界のことも丸見えです。ですから、皆さん方の意識の高揚は非常に大切になってきます。

その意識の高揚は、何によってなずといえば、神理に対しての理解力です。理解をなさねばなりません。
 それはあなたが実体は霊でありながら、氷の実体は水蒸気でありながら、自分がが何であるかわからない人が非常に多いです。
  
 自分が何であるかわからない人が非常に多いのです。皆さん方が肉に生きている限りにおいては、皆さんは死んでいるといえます。


この世の祝福はあの世では不幸と言い、
あの世は祝福はこの世では不幸と言い、全く逆になっている

私達は死ぬと不幸があった、といいます。
生まれてくると祝福だ、といいます。全く真実は逆になっています。

赤ちゃんが生まれてくるとうことは、見えないものから見えるものになった。精妙体だったものが精妙体でないものになったということです。
 
 この世では生まれることを祝福といい、お祝いともいいます。死ぬことは不幸といいますが、天と地を逆に物を見ているのではないかと思います。

 私からすれば、赤ちゃんが生まれてくると、「ここは厳しいから頑張ってね」と言いたいですね。「あなたは厳しいところに出てきたね」「低い所に出てきたね」と言いたいのです。

 我々はこの世の低い次元のお務めを終わりますと、必ず肉体という現象がなくなります。

これを皆さん方は死と呼んでいますけれども、一番厄介なことに、この低い次元にいる時に、この自分の本源が何であるか分かりませんので、
 体外の方は幽界という幽体を自我として持って、その次元に留まるのです。これを不成仏霊と言っています。

 皆さんだって神理を学ばないで、自分の本質が霊がであり、生命であうということを知らない限りこの幽界で留まることになります。とどまらないと思いますか。

 幽界も自我として存在しているのですから、ここの次元も結果次元です。物質次元も幽界次元も原因次元ですか。結果次元ですか。それは結果次元です。

 本当に霊次元に帰らなければなりませんが、自分が出てきた所が霊次元である事が分かりませんので、わからないまま、無知のままでこの世を去ります。

 それで必ずこの幽界に引っかかるのです。この幽体で引っかかるわけです。
 肉体は無くなりましても、幽体という自我がありますから、肉体よりは少しバイブレーションは上がりますけれども、あなた方と幽体を持っている連中と、どちらが自由でどちらが不自由ですか。

あなた方よりも、肉体を持たない幽体を持っている連中は、非常に自由です。肉体という乗り物がありませんし、乗り物に乗る必要がありません。
 時間も空間も超えているわけですからです。

 例えば私の父親は南米で祀られています。この地で私が父親を思い出しますと、父親は思った瞬間にパッと来ます。
 時間も空間も超えてますから。私達は肉体を持っていますので、そんなことは出来ません。まだまだ不自由です。またまだ束縛です。
 
 しかしこの幽体も本当の自由を得ていません。本当の自由といえるのは、霊体のことです。水蒸気の次元です。いかなるものも束縛も受けない次元のことです。

ピラミッドパワーの意味

 皆さんが、ピラミッドパワーと呼んでいるものがありますが、ピラミッドパワーというものはまた解明されていません。ピラミットというのは三位一体といいまして、尖った所は必ずプラスです。平面の部分は必ずマイナスです。

 これはプラスマイナスがいくつあるかといえば、3つあります。一つの形の中に、3つのエネルギー形態があるわけです。
 ですからピラミットというものは、プラスが3つでマイナスが3つというバランスのとれたエネルギーを象徴しています。

 三角形、二つをずれさせた形を何と呼びますか。ダビデの星です。
 ダビデの星はこのピラミッドを2つ重ねた形ですね。そうなりますと、六つあるわけです。三角よりはこのダビデの星のほうが、エネルギー的には高いのです。

 例えば、ここに石があります。意志の尖ったところはプラスです。平面の所はマイナスです。
 今度はこれが電気的に一ボルトであれば、これを二つに割ったならば、二つに割ってもいくつに割ってもこのものが一ボルトを持っていたとすると、どんなに小さくても一ボルトです。

 水のエネルギーを高めるには、1個の大きなものを入れるより、二つに割っていた方が、良いわけです。

 今度は四等分にして入れれば四ボルトになりますから、この粒子をいかに細かくするかが要点です。粒子を細かくすると、密度は高くなりますか、低くなりますか。高くなりますね。
 粒子を細かくすればする程エネルギーが高くなります。このことを超分子といいます。

 我々が空気中にあるものを見るのに、分子が精妙だと見えないのです。分子が細かいから見えないのです。
 この高分子を高級霊と言っています。高バイブレーションといいます。
 粗野な分子の事を低分子、低エネルギーと呼んでいます。

 30ミクロンで作ったセラミックス1個より、一ミクロンで作ったセラミックスは30倍の力が出るのです。ミクロン単位で全然力が違うように決まってしまうのです。

 そうなりますと、零点何々ミクロンのセラミックスに小さくすれば、もっとエネルギーが高くなります。

 セラミックスが何故エネルギーを高めるかといいますと、セラミックスの持っている粒子の表面積にポイントが有ります。それを界面活性といい、粒子一つに必ず界面がありますので、界面の粒子の細かいものを多く入れれば入れる程、界面活性になります。

 界面活性された細かい粒子を一粒入れますと、コップの水と一つのセラミックスを入れた水とどちらがエネルギーが高いと思いますか。

 セラミックスを入れたほうが、エネルギーが高くなります。
 この水一リットルの界面活性の状態の水は決まっていますが、それを入れる事によってセラミックスの周囲の全部のエネルギーが、宇宙エネルギーと同通する表面積になりますから、その分だけ水の中のエネルギーが高くなります。

 例を申し上げますと、水を注いですぐに飲むよりも、お箸をぐるぐる回して水の分子を細かくしてかき混ぜてから飲みますと、水は味が全然違います。ただ、手を当てるだけでも変わります。それは、手から遠赤外線が出ていますから、普通の塩素の入った水の塩素の入った水の塩素は手で回しただけで無くなります。

完全とは「美」をいいますが何故でしょうか。

あなたから不調和が無くなれば完成です。完成した時には皆さん方は祝福を受けます。未完成では神の祝福を受けられません。皆さん方が家を建築するのに未完成なのに祝宴をあげますか。
 完成祝いが出来ますか。出来ないはずです。

 では、あなたは今、神の祝福を受けてる者ですか、神の祝福を受けていない者ですか、それは調和だからですか、
 それとも不調和だからでしょうか。あなたは不調和を美しいといいますか、醜いといいますか。

 不調和を、「これは不完全だ、美しいなあ」という人がいますか。
完全になって初めて皆さん方は、「美」という言葉が出るはずです。ですから、皆さん方が自分を美しくするのも、醜くするのも自分次第です。

 全ては愛しか無いと思います。愛の他はありません。なぜかといえば宇宙には愛しか無いからです。あいのみが絶対実在となります。

 では、皆さん方の考えている不調和は実在するものでしょうか。実在しないものです。不調和とは何でしょうか。実際にあるものでしょうか。無いものです。

 実在しているのは愛だけです。どこに不調和があるのでしょうか。どこから不調和が探せますか。無いはずです。

 ですから、皆さん方はその不調和を認めてはなりません。不調和は認めるべきですか。認めるべきではありません。
 認めるとその不調和があなたに力を与えることになります。善悪の心とはその意味です。

 善なる心があるだけであって、悪なる心は本来ありません。絶対善があるだけです。絶対愛があるだけです。善の心もあって、悪の心もあるというのは本当でしょうか、嘘でしょうか。

 悪なる心は実在するのでしょうか。実在しません。それは幻想であり、幻影です。悪とは即ち幻です。
 実在しているのは愛の光だけです。

今、この世の物質時代は少々未熟な者たちでも天上界に上げられる

 完全無欠な者しか収穫出来ないとするならば、あなた方の誰一人として収穫できません。
 完全無欠のものを天に上げるとするならば、一本でも収穫できますか。収穫は出来ません。

 少々の傷物でも今は天に上げなければならない時期に来ています。全くの傷だらけの不調和の者は収穫はできませんし、収穫しては困りますが、今はその収穫の時期です。

 今の時期は、例えば、ほうれん草の種を巻いて、完全なものだけで収穫するとすると、虫が多いわけですから、それは収穫できませんが、今は少々完成を高めているとか、完全にはまだ成っていない者でも、天に上げられます。そうであるからといって、不調和であって良いと意味とは違います。

直感は知恵であり、知恵は直感でもある

例えば、私事で申し訳ないのですが、この知花は日本の教育を受けていませんが、どんな漢字でも書きますし、必要に応じて読むしその意味がわかります。

 外国に行きますと外国の言葉がすぐに分かるようになるし、それは習って分かったものではありませんし、教えられて分かったものでもありません。これが直感です。直感でわかるのです。

 そのようなことでも、皆さん方は今鈍感なのか、敏感というのは一番誰がご存知ですか。自分ではありませんか。

 私は見ない限りは絶対に信じないとか、聞かない限り信じないなど、耳に頼り、目に頼って、鼻に頼って、あれを食べてみよう、

 これを食べてみようというように、五感に頼っている限りは人間は鈍感といえます。
 鈍感ですから無知というわけです。分からないのです。

 直感というのは知恵のことを言うのです。そして五感は知識です。貴方の目で確かめて、耳で聞いたものは皆消えてなくなるものです。しかし、その直感は永遠なるものです。それは不滅の知恵として、永続します。

アカシックレコードとは何か

 人間の世界に現れている現象がありますが、その現象世界の前に、必ず現れる青図面というものがあります。その青図面とはなにかといいますと、想念の世界です。想念形体といいまして、この地上界の人間が組み立てた想念世界というものがあります。

 想念世界にあるものは、必ず地上界に具現されるように、この世に物が現れるということは、もう既に霊の次元では存在しているのです。これが三次元という次元に、現象の世界に現れるようになっていて、それを見るのです。
 
 その想念の世界をみることを、皆さんは「アカシックレコード」と言っています。そのアカシックレコードには、もう何万年前の事までインプットされまして、記憶されております。そこを見ますと、過去にどこそこでどういうことがあったということが全部読み取れるのです。

 皆さんの霊性が高まれば、どなたでもアカシックレコードを読み取るのが可能です。霊性が高まれば、という意味は何かといいますと、もう私はこの血や肉の形に属する者ではないという普遍的生命と一体であると、宇宙との一体感によって、宇宙即我の境地になった時、この宇宙が自分であるならば、宇宙の働きは全部が自分ですから、敏感に分かるのです。

 自分が個人たと思っているならば、宇宙の動きがわかるはずがありません。宇宙からの分離感を持って、自分は人間なのだという外念を持っていたならば、宇宙の動きがわかりません。世界の動きを見ても分かりません。

 皆さん方はもっと奥深い心境になりますと、みなさんの死後の世界まで言い当てることが出来ます。あるいはこの人は今生に悟ってその神我に到達するのだろうかとか、到達しないのだろうかということまで予測することが出来ます。

 途中で落伍するのか、あるいはそのまま続けて努力して神我到達するのか、神我到達しないかということまで分かるのです。
 ですから、皆さんの心は私にとってはお見通しです。皆さんが今どう思っているか、どのように私を感じているかが読み取れるのです。

 分離感を持った人には五感はしか感じませんから、鈍感で外側のものしか感じませんから分かりません。しかし、内側の世界は一体感ですから、その人の意識と私の意識とは同じ意識が働いていますから、直通です。まあ、直通電話といってもよろしいでしょう。人の心はそのようなものです。

 この清里に来るお客さん一人一人の心が読めて話さなければなりません。そして今日清里に来て話を聞いたのは、自分だけに的中したようなものだと皆さんはお思いになるかもしれませんが、その人だけに的中しているのではなく、一人一人の意識を読み取りながら話しますので、私のために話を聞いてくれた、というような感じを、一人一人が受けるのです。

 ですから、私が皆さんに語る話のテーマというのは飾りです。この清里で皆さんの一人一人の顔を見つめながら、「その人その人は今これぐらいの理解力しかないから、ではこういったなら分かってくれるかな」というように、その人の理解力を仰ぐのです。

 「この人は今こう言ったから分かってくれた、では、この人のことはそっとしておきましょう。あの人は今わかっていないようだ」ということで、次のはないの模様を変えるようにします。
 それが釈迦の言葉にあります、「人を見て法を説け」という意味です。

 例えば、神理を一度も聞いたことのない人間の中に入って、高度な話をしますと、理解する事ができません。その時は、レベルの高い話をせずに、低めの話をするようにします。その人のレベルまで持っていって、その人を引き立てて上げるのが話術というものです。

 全ては高くなればなるほどよく見える

 私は毎日、皆さんの前に立って、皆さんの視線をよく見るのです。目は確かに鋭く見えます。遠くまで見て、その人を見抜かなければなりませんから、ちょうど鷹の目か竹の目が、多くから小さな獲物を見ているようなものです。それは低い所から見ても分かりませんから、非常に高いところから見るのです。

 話をする時には、どうしても教壇が必要だと思いますか。話をする時には、先生が低い所にいって、お客さんが高い所にいるというのは、話しにくいものです。見下ろすという言葉がありますが、見下ろしていますと人の状態、状況が全面的に見えますので、非常に感じやすくなります。

 また、見ている方でも、はなししている方が一番下の方に行って、自分が高い所にいたら聞きづらいと思います。そのために、1段でもいいから少し高めにして、特に私のように背の低い者が、低い所にいたのでは、皆さん方から、声だけで体が見えないでは困りますので、少し高い教壇を設けているのです。
段差をつけ、見下ろせる状態で話しますと、非常に話しやすくなりますし、また聴きやすいという条件下に置かれます。

知恵は出せば出すほど湧き出てくる

 私は常に天啓を受けたものを、朝晩吐き出しているのです。多くの人達が私の話を聞いて下さるお陰で、私は吐き出す場があります。誰にも吐き出さなかったとすると、私は半身不随になって床につくと思います。

 入ったものを、啓示を受けたものを表現して出すということです。知恵の泉ですから、いくら出してもいくら出しても、次から次へと365日、このような話ができます。

 どうしていくらでもそのような話が出てくるのだろうと、皆さんはお思いになるかもしれませんが、知恵の泉と一体となっておれば、一日十回だそうが二十回出そうが減らないと思います。ですから私は原稿がいりません。

 皆さんは五感で得たものでしょうが、直感で見ないで習わないで、教わらないで得ているのです。
 また、それは減るものではありません。無限と一体になって、無限から及んで一体となって、そこから得るものは絶対に乾くことがありません。

 あの知恵は一体どこから出てくるのだろうと、皆さんが不思議がりますけれども、皆さん方一人一人も皆知恵の泉に繋がっているのです。この人もその人も皆繋がっています。ですから、宇宙は同じ知恵、同じ力、同じ姓名があるだけです。

 すべての生物は同一の生命と同一の知恵、同一の力で動かされているだけです。ですから、全ての知恵も無限大で、力も全部が無限大です。


心に太陽を持つ方法  「心に太陽を持て」ということを書いたり読んだりしますけれども、どのようにして心に太陽を持つことが出来るかといえば、自分が太陽そのものであると、霊太陽そのものであると知った者のみが、心に太陽を持つことが出来ます。

本物のボランティア活動とは、霊エネルギーを放射・放出することである

 あなたから生命エネルギー、霊エネルギー、霊光、宇宙エネルギーが燦然と放流されますと、皆さん方はその時無料の奉仕ということを体験します。

 奉仕活動といいますと、必ずこの自我の肉体がジタバタすることが奉仕だと思っていますが、霊的なものを何も知らないで、肉的な自我の人間がジタバタしてボランティア活動をすることは奉仕なのか、私は疑問に思います。

 それとも霊的な生命エネルギーを放射、放出することがボランティアなのか、どちらが本物のボランティアでしょうか。もちろん霊のエネルギーを放射、放出することが本当の活動です。

 肉体的なボランティア活動は決まった何十名を相手にしか活動できません。しかしあなたからは放射、放出されるエネルギーは全世界への奉仕ではありませんか。全人類への奉仕ではありませんか。肉的なボランティア活動は有限の奉仕です。霊的活動は無限です。

 お釈迦様は3000名に飯を盛るよりも、五分間だけでも宇宙エネルギー、大霊との一体感を感じている時には、神のエネルギーが皆さんから宇宙的に放射、放出されますので、「五分間だけ冷静でありなさい」と言われたのです。
 
 ですからあなたが朝の二時間だけの霊浴をするということは、大変な奉仕になります。大霊との一体感で、大霊そのものになっているときは、あなた自身から無限のエネルギーが放射されるわけですから、無限に影響を及ぼしています。それが本当の奉仕というものなのです。

愛の無い行為は無に等しいとはどういう意味か

 「愛なき行為は無に等しい」という言葉があります。愛の無い行為というのは神我のない、という意味です。
 ですから自我の奉仕は無に等しいという意味です。
 イエス様はこう言われました。「一番大事なものを人に与えなさい」その一番に大事なものは何かといえば、生命であると言われました。すなわちエネルギーを与えることは生命を与えることです。

 「命を得ようとするものは命を失い、命を放すものは命を得る」という言葉があります。エネルギーを得ようとする者は、エネルギーを失い、エネルギーを放つ者はエネルギーを得るという意味です。

 ではエネルギーはどのようにして放つことが出来るかといいますと、宇宙生命との一体感です。私達はエネルギーを得ると同時に放たねばなりません。

 本当の意味での人類救済とは、自我人間を神我に引きずり込むことである

 今朝私は二時間ほど、全世界へ向けて命を捧げました。エネルギーを宇宙生命と大霊との一体感を得ることによって、自分が大霊の中に大生命の中にいることによって、この肉体から全世界へ向けて、放流、放出するわけです。
 
 インドにおられる聖者がたも決してボランティア活動に行くことはありません。では彼らは怠け者と言うことが出来るでしょうか。ところが、彼らは全世界へ向けて命を放射しているのです。

 自我人間を神我に目覚めさせることが救済なのか、一所懸命に金や物質で奉仕することが救済といえるのでしょうか。お金を多く寄付することが救済なのでしょうか。

 人類救済とは、自我人間を神我に連れ込むことであり、偽りの世界から実相世界へ連れ込むことが、人類救済であります。本当の救いとは、一人一人を霊的に目覚めさせることなのです。

イエス様が語られた
「パンの菌のようなもの」という意味は何か

 私の言葉の一つ一つはイースト菌のパン種のようなものであるといえます。ちょうどイエス様が言われたように「あなた方のその小さな、パンの種を蒔くことによって、あなた方のこの小さいと思っていた魂が宇宙大にまで拡大する」という意味です。これが「パン種のようなもの」といわれる意味です。
  
 今こそ皆さん方の魂を宇宙大にまで解放したらどうでしょうか。聖書には譬えしか書いてありませんが、「パン種」を「私の言葉一つ一つがあなた方にとってはパン種のようなものである」と言われました。

 今の皆さん方は結局未熟なパンです。この清里でイースト菌を朝晩食べていながら、このような話を聞いている間は宇宙大にまで広がるのに、その後はまた縮んでしまって、小さな魂になっています。小さな魂が、せっかくイースト菌を入れて、ややもすると宇宙大にまで膨れ上がるのですが、また、小さい肉に支配されてしぼんでしまいます。

 あなた方は常に大きい状態でいなければなりません。低い意識状態から高い状態意識に高めることを、昇天といいいます。自我意識状態から普遍意識状態になることを昇天といいいます。または成仏と言います。

 今の宗教界のいっている成仏とか昇天は、何処にも存在していません。彼らの帰るべき天上界はどこにもないといえます。意識状態があるだけであってえ、空想の天上界や、空想の産物はありません。

 貴方の意識は神状態ですか、人間状態ですか。あなたが人間世界に生きているのは、人間意識状態であるということです。ですから、あなた方は常にその意識している所にいるのです。

 低い所を意識している時には、貴方は低い所にいるし、高い意識をしている時には高い所にいます。意識を高めるのも低めるのも貴方次第です。貴方の悟りの王冠は誰かが持ってきて載せるのではありません。

 悟りの王冠は自らの手で載せなければなりません。誰かがあなたの意識を宇宙大にすることは絶対にありません。小さい意識状態にするのも、高い意識状態にするのも、あなたの自由意志、自由選択で行われていると思います。

 あなた方はこの世の金銭的なことで、千円や五百円ぐらいでも損すると起こるのに、このような普遍意識的状態から個人意識的状態に落とすことがいかに損であるかに、なぜ気付かないのだろうかと言いたいのです。ですから、あなた方は常に寛大な意識状態、普遍意識状態でなければなりません。この意味が分かりますか。

キリストの大宣言とは何か

 今年中に必ず皆さんの中から、沢山、そういう意識状態の人が出てくるでしょう。
おそらく今年中には色々な奇跡も起こります。この大霊と一体となった状態は精霊が下ったという意味です。大霊は精霊そのものです。その精霊はどこにおりますか。皆さんの中におります。

 その精霊そのものが、皆さんの実体です。これを「神の臨在観」といいます。「キリストの再臨」という意味です。即ち、「キリストの大宣言」という意味です。

 自分が大きい宇宙霊であり、大霊であることを、あなた自身が宣言しなければなりません。その大宣言をして、それを得た時に皆さん方は神の特権を得るわけです。
 
 では、神の知恵と力とを使える特権は誰が得ますか。自分が掴まなければなりません。誰かが持ってきて与えることではありません。あなた方が意味もわからないような。色々なお経を上げる暇があったら、そこに意識を向ける時間を与えなさいということです。瞑想せよ、内観せよ、檍念せよといいたいのです。

瞑想とは何か

 瞑想とは、その普遍意識に一心を集中することです。真の自己である普遍的なものを見つめることが瞑想です。「汝の觀るもの全てを受け継がん」。大きいものを見れば大きい物を受け継ぎ、小さいものをみれば小さいものしか受け継ぎません。 「汝の信ずる如くなれ」です。

 あなたが小さいと思っているならば、小さい知恵しか、小さい力しか出てきません。あなたが大きいと信じているならば、あなたは大きいものを得ると言いたいのです。

「汝の信ずる如くなれ、信ずるものは現れる、認めるものは現れる」

 大きいことを認めたものは、大きな知恵を力とが現れるという意味です。小さいと思っている者は、小さな知恵、小さな力しか現れません。

大覚者とは何か

 自分を小さいと思っている人は迷い人です。悟った人は大覚者です。大きいと思っている人を大悟といいます。大きい悟りとか、小さい悟りとかいわれているものはありません。大悟ですから、我は霊なり、我は大生命なり、我は宇宙なりといえた方です。

 宇宙大の自分を悟られた人を「大覚者」といいます。大きな存在に目覚められたのです。小さい存在ではありません。

 いつまでもこの小さな己に閉じこもるのではなく、外皮でものを見ないことです。柏の木の種が目覚めた時は、その木がどんどん成長して野の鳥が巣を作るぐらい大きくなるだろうといわれたのと同じ意味です。

 あなた方もこの宇宙大からすれば、柏の木の種のようなものです。しかし、本質は無限大ですから、それに目覚めた時は、その宇宙大にまで皆さん方が拡大される事実を知らなければなりません。ですから、この世の中の人間は、皆自分自身を見失っています。
 
 概念に支配されて、本来の自分は無限大なのに、宇宙大なのに、全部が自分を見失っていて、この外念で生涯を終わるのです。肉体は自分でもないのに、自分を見失ったまま世を終わってはなりません。目覚める魂になりなさいといいたいのです。ですから、「目覚めよ」といつも言うわけです。

 私は皆さん方を毎晩刺激しています。あなた方は決して血や肉ではありませんよと、大霊ですよと、宇宙大ですよと、無限大ですよと、いつも皆さんを朝、早く叩き起こして、刺激しているわけです。

 その自分が宇宙大であり、無限大であるという普遍意識状態で宇宙意識状態になった人は、目覚めた魂です。


どこを見るかどこを思うか「汝の見るものを受け継がん」

 皆さん方は。
今、一日に何回、神霊に意識を向ける事をやっているのでしょうか。
それは、皆さんご自身が一番良く分かっていると思います。

そうすると、
この調子で満たされるのだろうか。
満たされないのだろうか。
誰が一番良く知っていますか。
それは自分が知っているはずです。

殆どの時間を、
物質という世界に合わせている
物質というチャンネルに合わせている。
そこにチャンネルを合わせていて、霊性は満たされますか。
それは、決して満たされることはありません。

「汝の見るものを受け継がん」とは、その意味を表しています。
物質を見れば物質を受け継ぎ、神霊を見れば神を神霊を受け継ぎます。

どこを見るかです。
どこを意識するかです。
それで、霊性の進化は決まります。
皆さん方は「祟の話」とか「幽霊の話」とかは、する必要はないのです。

世の中には、
幽霊だ、祟だ、何々だというものを弄んでいるグループがあります。
神霊に意識を向けているグループもあります。ということです。

ですから、
私が、幽霊の話、祟の話をしないのは、
あなた方を、幽界に意識を向けさせないためです。
幽界に向けさせたら、
あなた方はどうなるかと。
そこの影響を受けて、全部、憑霊現象を受けてしまいます。

その憑霊現象を弄んでいる宗教が沢山あります。
蛇の霊が祟っているとか、何かの霊が祟っているというのは、
チャンネルはどこに向いているのですか。

神界にですか、幽界にですか。
そういう連中は、どこに意識を向けていますか。
幽界に向いているわけです。
そこの影響を受けていろいろな現象が現れるわけです。
また、面白いことに、その現象を望んでいる人もいるのです。

蛇が憑いているといえば、
身体をクネクネさせながら這いずるひともいるし、
狐が憑いているといえば、
コンコン、ピョンピョンと泣きながら跳びはねる人もいるし、
それを弄んでいるのです。
まあ、結構に楽しんでいるからいいとは思いますが、
そこの幽界に意識が向いたら、
その皆さん方は、
昇天、成仏するのだろうか。しないんだろうか。
それは、幽界止まりです。

ですから、
あなた方が、幽界が見えないことが幸いだと、
私がいうのはその意味です。

幽界の次元の見える人は、
神界にいる事は、全く不可能です。
幽霊が見えたら、
もうそこが神界だと思い込んでいますから、
絶対に神霊という神の世界には昇れません。

残念ですが、
今の世の中の段階は幽界の話をするまでです。
幽界の話しかしないのです。
坊さんも幽界の話です。
なぜか、水子の祟りだとか、水子供養だとかで金儲けをするわけですから。

坊さんは仏の話をしていますか。
坊さんは何の話をしていますか。

あなたが、
何を祟っている、これが祟っているという、
そんなグループに入ったらもう最後です。
それは祟の世界ですから、
神の世界であるはずがないのです。

ご存知ですか。
祟の世界は、神の世界というのですか。
祟の世界は、神の世界ではありません。

神は何も祟りませんので。
災もしませんので完全です。
完全の世界です。

だから、完全なものになるためには、
完全なものを見て。完全なるものを意識せねばならないのです。
不完全なものを見て、癒る事があるのでしょうか。
完全性を見て、完全性を意識せねばなりません。

完全なものを見て、完全のみ意識しなさい。
そうする事によって、完全になりますよという事です。
不完全を見て、不完全を意識して、完全になる人は一人もいないのです。

「あなたは見るものを受け継ぐ」
「あなたは思うものを受け継ぐ」というわけですから、
「想念は実現の母」ですから、
この意識の向け方を間違えますと、大変なことになるということです。

神霊に意識を向けた時、その人は神霊の波動を出す

あなた方が、神界に意識を向けた時、
その人が神霊に意識を向けている時、神霊の波動を出すのです。
チャンネルを合わすわけですから、波動が合うのです。

神に意識を向けけている時は、神の波動です。
幽界に意識を向けている時は、幽界の波動です。

チャンネルですから、波形ですから、そうなるのです。

物質に意識を向けている時は、低い波動を持っているのです。
波動が高いか低いかは、これで決まるのです。

波動というものはバイブレーションですから、
バイブレーションを高くするには、どこに意識を向ければ高くなると思いますか。
それは、意識を上に向けなければなりません。

上に意識を向けた時、
神界は「真理」そのものですから、
神界は「真実」そのものですから、
神界は「完全」そのものですから、
完全なものに意識を向けた時、完全なる波動を出すわけです。

皆さん方が、宇宙意識になりますと宇宙波動です。
皆さん方が、神意識になりますと神の波動です。

低い所に意識を向けていて波動が高まりますか。
それは、高まらないのです。
そのバイブレーションの高め方は、どこに意識を向けているかで決まるのです。
外側に意識を向けていて、
あなたのバイブレーションが高いはずがありません。

物質のことだけ一所懸命考えている時、
あなたのバイブレーションは高いのでしょうか。低いのでしょうか。
バイブレーションが高まったら、低いものの影響を受けると思いますか。
高いものが低いものの影響を受けるのでしょうか。

その事を、
「私はこの世の手の届かぬ所に留め置かれた」といいます。
波動の高い所に留め置かれますと、
この世の影響を受けないわけですから、「安泰」です。「安全」です。
これを「平安」というのです。

まだまだ皆さん方は、
自分の意識を、
幽界に向けたり、物質界に向けたり、
これを(動搖心)というのです。

私は色々な体験を乗り越えて、今は神界にある

皆さん方の中で、
過去の私を知っている人はご存知だと思いますが、
私は幽界を通過したのです
沖縄にいた当時は、幽界を弄んでいたのです。

その時は非常に感情的だったのです。
憑依霊を弄んでいましたので感情的だったのです。
昨日までは神様みたいだなと思ったら、
今日は悪魔みたいになったりするのです。
非常に感情的だったのです。
それを通過してその事が分かって、
神意識を向けることによって、
幽界の影響を全く受けないものになったのです。

その体験は、
私には必要であったのです。
幽界という世界も知っておかねばならないし、
物質世界も知っておかねばならないのです。

この物質世界で、
私はうんと貧乏したことがあるのです。

もう・・・・・、とことんこれ以上に、
この世の中にこんな貧乏があるかと思う位のものなのです。
それは、南米にいて、家内と結婚した当時のことです。
お皿が一つ、スプーンが一つで二人が食事をしていたのです。
お湯を沸かす、煮物をするにも空缶です。
ヤカンもお鍋もお釜も空缶です。

その空缶に針金を詰んでご飯も炊いていたのです。
それで、毛布は二人で二枚。
子供が生まれて三人で二枚。被って寝るものがない。
住む家はあるにはあるけど、窓にはガラスが入っていない。
冬の寒い空が、こちらの窓からあちらの窓へ直通。

どんなに囲っても隙間風がビュウビュウ入ってくる。
その時の寒さは外の水が凍るくらいの寒さで、
空缶に入れてあった水が凍っていた位でしたから、
相当に温度が下がっていたと思います。

そういう中で、
ちょうど、長男が生まれた年でしたから、
子供は寒さから守らなければなりませんので、
子供を毛布にまいてくるので、
私達は焚火をして、
その焚火を囲んで夜を過ごした事があるのです。

そして、ある時は大金持ちです。
こんなに金が儲かっていいのだろうかと思う位の体験をしたのです。

でも、どちらも面白なくなかった・・・・・。
貧乏も面白くなかったし、金持ちも面白くなかったのです。
それをみんな体験して通ってきたのです。

そして、沖縄に帰ってからの事。
この霊的なものになりますと、
幽界に引っ掛かり幽界に弄ばれたのです。
幽界の祟りだとか、憑霊を外すのだとか、
そういうものを何年もやってきたのです。

沖縄の民(ユタ)という、
本土なら巫女というその世界に入って行きまして、
地域的拝みも一所懸命やりました。
そういうものも通ってきたのです。

その時、私は感情的だったのです。
幽界にいる時は感情的だったのです。

しかし、
そこを乗り越えて、
今は神界にあるという事を。

これは霊性進化の一つの体験なのだと、
私は思うのです。
今は、全く感情というものは出てこないです。
カッとなって怒るとか、
極端に何か悲しいとかいう事は全く無いのです。

それが、平安というものだなと、
安らぎというものだなとはっきり言えるのです。
寂しいとか、苦しいとかそういうものが無いわけですから。
いつも喜びに満たされる自分というものを、
今、私は体験しているのです。

それは、
どうしてかといいますと、
神霊の方に意識を向けて瞑想したからです。
瞑想とは、
その神霊に意識を向ける事が瞑想です。
それ以外に瞑想がありますでしょうか。

ですから、
内観せよというのは、
その神霊を見つめて、
神霊に一心を集中する事によって、
その神の波動を受ける事が出来るのです。
皆さんも同じことをすれば、
同じ事が起こりますよという事です。
私が体験しているからはっきりいえるわけです。

今、神霊の道は開いている、あえて幽界を通ることはない

あえて幽界の影響は、皆さんに受けさせたくないのです。
水子の祟りだとか・・・・・、動物霊の祟りだとか・・・・・。
私が話さないのは、これは不要だという事です。

神霊への道は開いていますので、
あなた方は幽界を通らなければならないという意味は無いと思います。
私は、幽界に意識を向けたから影響を受けたのであって、
それを受けないで、
即時に神霊に向ければいいわけですから。

幽界に向けるひつようがありますか。
ここで感情的になって、
必ず、苦しまなければならないという必要がありますか。

その幽界を弄んでいるグループが、世の中に多くいるという事です。
そこからでもいろいろな現象が起こります。
この我々の三次元からすれば、相当次元が高いわけですから。
その影響は確かに面白いほど、現象として現れますよ。

しかし、あなた方は、その現象を望んではならないのです。
本当の神霊という原点に、意識を向けるようにせねばならないという事です。
それが本当の意味の、霊性の進化だと私は思います。

途中の幽界に意識を向けてはならないのです。
幽界に意識を向けるべきですか。
神霊に意識を向けるべきですか。
高い影響を受けるためには、高い所に意識を向けなければならないのです。
そうしますと、
高い周波数を頂けますので、皆さんのバイブレーションが上がるという事です。

幽界は欲望であり、神界は無欲である

今の宗教団体は幽界と繋がっています。
幽界と繋がっているグループは、
もう言わなくても宗教団体を見れば分かります。
この連中は幽界と繋がっているグループだな・・・・・と。
この連中は神界と繋がったグループだな・・・・・と。
少し注意して見ればそれがよく分かります。

しかし、
幽界と繋がったグループは流行ります。
人集めをして金儲けをしようとするならば、
幽界と繋がった方がうんと徳です。
欲に絡んで多額な金儲けが出来るのです。

それに比べ、
神界のグループは全く金儲けにならないのです。
金儲けにならないようになっているのです。
神界は無欲になるからです。
神界に来ますと、
神霊ですから無欲なのです。

幽界は欲望です。
個人意識がありますから、
所有欲がありますから欲望です。
幽界にいるものは、人間の金儲けの話をします。
それを教えます。
どうしたら金儲けが出来るかと、その事を教えます。

神霊は教えると思いますか。
神界では金儲けの話をすると思いますか。
無欲だからしないのです。
金儲けにならないのです。
しかし、
永遠の富を得る事が出来るのです。

これを得た時、
皆さんは、神の跡取り息子・娘になるのです。
永遠の富を得るのです。
久遠の富を得るのです。
無限の富を得るのです。


神の国には沢山の館が準備されている

私達が、光に近い者になるにはいかにすればよいのでしょうか。愛が深くなれば光は強くなるといえます。不調和になれば闇は深くなります。

 それ故に闇に住むも光に住むも誰次第でしょうか。不調和は闇であり、調和は光です。調和に向かって走っている人と、不調和に向かって走っている者と二通りに別れます。

 今の世の中には不調和が当たり前のような日常茶飯事の者や、不調和だらけの人間もいます。当たり前のように習慣性になっている人さえいますが、そんな者は天に上げられません。

 「神の国には沢山の館が準備されている」と言われています。光の世界から闇の世界に映すとは、光が薄くなっているような、今の状態と同じ状態の次元にあなたは住みます。

 この意味が分かりますか。あなたh今の状態で完全なる光の世界に住めると思いますか。完全な光の世界に住めますか。住めませんか。闇なる者が光の世界に住もうとすれば気持ちが悪くなります。

 それはちょうど、モグラが太陽がカンカンと照っている所にいるのと同じで気持ちの良いものではありません。

 コウモリが太陽の照っている所では気持ちの悪いのと同じです。コウモリがが暗い所が好きであるのと同じことように、不調和の人間は暗い所が好きです。

 調和の人は明るい所が好きです。そこで自分が、ある日、突然に天変地異が起こってみんな死んで、自分はどれぐらいの次元いいられるかを誰よりも、今あなたが知っていると思います。それは完成度が高まっていたか、高まっていないかで決まります。

 イエス・キリストは言われました。「あなた方は私のおる所に来ないのである」。この言葉はパリサイ人達に言われました。「先生、私達は死後の世界であなたに会えますか」という質問でした。

 それはパリサイ人たちが調和であったからですか、不調和であったからです。
「調和の度合いで皆さん方は光るものとなるか、不調和であるかが決まります」。

 光る者であるためには、皆さん方は調和そのものでなくてはなりません。調和は光であり、不調和は闇です。

 闇地獄とは不調和の世界です。光明世界とは調和の世界です。ですから、光明世界の住人になるのも、闇の住民になるのも自分次第です。
 
 では、誰があなたを天に上げてくれますか。誰があなたを成仏させますか。その不調和の人間は成仏できますか。出来ません。調和の人は出来ます。調和は成仏です。

 不調和は不成仏です。その不成仏とは光にならないという意味です。成仏とは光になったという意味です。仏の世界は無明界ですか、光明世界ですか。光にならなくても皆さん方は光明世界の住人となれるのでしょうか。

 自分が天に住むのは自らが天に持ってこなければならない理由がそこにあります。光の住者であるためには、あなたが光でなくてはなりません。

 真っ黒い者が、どうして光の世界に住めましょうか。光と闇とは同居が出来ません。
ですから、あなたは、あなたの一番に適した所に住み着くことになるだろうといえます。闇の者は闇に住みます。これが「類は類を呼ぶ」の法則です。

健康は食べ物でなるのではなく。愛で健康になる

光が少しずつ暗くなっていく状態があります。明るい方から徐々に暗くなっていく状態と同じで、それを図解すれ面白く理解できるのですが、そのような状態を示しています。
 
 ですから完成を高めるとは愛を高めるしかないのだと、今、ご理解していただきたいわけです。
光を高めるためには愛を高めることしかありません。健康であるためには常に愛であるべきです。

何故病気になるのでしょうか。病気の原因は食べ物が原因でしたか、それとも不調和が原因でしたか。食べ物のせいいにして、自分は不調和でありながら、食べ物のせいにする人が如何に多いかといえます。愛の人は何を食べても病気にはなりません。

 皆さん方は観念的で外念的でみな低い次元でしか、ものを捉えていません。病気は食べ物から来ますか。飲み物からきますか。そのようなことをいうのは、低い次元でものを見ているからです。

 高い次元から見るならば「病気は不調和の結果だ」と、一言で言えると思います。「不調和の結果だ」といえます。「健康とは愛の結果だ」といえると思います。

完成とは愛を高めるために一日一日を愛で生きることです

これを、この知花が見本として示しているわけですから、皆さん方も健康であるためにはそのような状態でありなさいと言いたいわけです。

 病気になったことのない人もいますし、病気だらけの人もいるような差別を、なぜ神が作ったのでしょうか、差別は誰が作っていますか。あなたを健康にするも病気にするも、神次第ですか。それともアナタ次第ですか、神はえこひいきをしていますか。愛はえこひいきしていますか。していません。

 神の世界は無差別の世界です。完成を高めるとは愛を高めることだと、今日も一日、誰の悪口も言わず、憎まず、怒らず、そしらず、嫉妬をしない一日を生きることです。その妬みや、怒りや、そしりや、嫉妬や、不安や、恐怖がみな悪となります。

 妬みという悪が無くなり、怒りという悪が無くなり、嫉妬という悪が無くなり、この世の悪は愛でもって克服されんがためにあります。愛に勝る力はありますか。愛は全てに打ち勝つ力となります。その愛を誰が持っていますか。自分が持っていませんか。

 これを愛の剣といいます。愛の剣でこの世の悪を克服せよという意味です。あなたは愛の剣を生まれながらに持っています。大愛という剣です。

 それで、皆さん方は「この世の無知と悪と闇とに打ち勝つべきではなかろうか」と思います。
あなたがこの世の無知と悪と闇とに打ち勝ってあなた方は「勝利者キリスト、克服者キリスト」、すなわち天に上げられる者となります。
 天に上がるも、落ちるも、自分次第です。この意味をよく理解して頂きたいと思います。

 何十万回もお経を上げることではありません。あなたの一日一日の生活が修行です。愛の一日を過ごすか、不調和に過ごすかは、あなたが決めています。あなたの選択です。自由意志であり、自由選択かと思います。
 
 愛に生きるも、不調和に生きるも、あなたが選ぶべきであって、誰かに強制されるものではありません。この意味をご理解して頂きたいと思います。

 不調和で生きるも、愛で生きるも、あなたが選んだ道であって、他の誰かが選んだ道でないことをご理解して頂きたいと思います。どうもありがとうござました。


七色の光が一つに調和して、白光となる

皆さんには、少し分かりにくいかと思いますが、
白光に輝く方々を「白色同胞団」といいまして、
その「七天」におられる方々は白色同胞団です。

その七つの光が、
一つに調和された時「白光」となるのです。
そこを「白光界」といいます。
その白色に輝いた天使たちを「白色同胞団」といっているのです。

実際に、
神界と意識が結ばれた時、その世界に行き来できるのです。
その方々と面と向かって対話が出来るわけです。

そこまで波動が上がりますと、
その方々と同じ波動になりますから、姿・形として見ることも可能なのです。

それらの方々は姿を持っておられますし、
姿を消す事も現すことも自由自在です。
波動をうんと高められますと見えなくなりますし、
波動を低めますと見えるようになるのです。

それで我々は、そういう方々を見るためには、
神界の次元の波長を持っていなければならないのです。
周波数を持っていなければならないのです。

神界の周波数は約三十万サイクル位です。
言葉的にははっきりいえませんが、
何十万サイクルであるという事は、数字的には現す事が出来ます。

幽界はどの位のサイクルで動いているか。
本当は現すことが出来るのです。

周波数ですから現す事が出来るのです。
ですから、
「宇宙は科学である」という事が認識できるのです。

その周波数を電気的に作る事も出来ます。
しかし、電気的にそういうサイクルを作りますと者が消滅するのです。
何十万サイクルの周波数を出すコイルを用いて、
そういう装置を物に当てて放射しますと、
バイブレーションが上がってしまいますから物が消えるのです。
バイブレーションを上げるために機械的に上げようと思う事は、
そのサイクルも作れない事はないのです。

しかし、
うっかり間違えると全部破壊してしまいます。
本質的なものは破壊できませんが。

形あるものは破壊してしまいます。
もう現れない・・・・・。
視界から消えてなくなって、再び現れて来なかったら困ります。

本来は、
自分が意識的に消すことが出来、現す事が出来る事を、
それは皆さんの自由意思で行われなければならないと思うのです。
それをコントロール出来るような人間になるまで、
冷静を高めていかねばならないのです。

波動を高めることは、永遠の救いである

皆さん方の、
バイブレーションを上げるも下げるも、あなたの自由意思にあるのです。
外という低い所を見ている時は、バイブレーションは低いのです。

神という高次元に意識が向いている時、
皆さんの波動は、神の波動となります
神意識をしている時は、神の波動です。

あなた方が、「我は、神なり」という思いを起こしている時、
その時のバイブレーションは。神のバイブレーションです。

そうすることによって、
いかなる「病い」も「悩み」も解決できます。
常に、この高い状態に意識を向けていれば、
バイブレーションが高いわけですから、
この者は再び病気になる事はないのです。
これは「永遠の救い」です。

波動(バイブレーション)を落としますと、病気になります。
波動(バイブレーション)を高めますと、治るということです。

病気になりたくないひとは、
低いものを意識するのですか。
高いものを意識するのですか。
それは、高いものを意識すべきです。

そういう意味において、
皆さんの病気の「自己治癒力」といいまして、
自分たちのバイブレーションを上げておれば、
いかなる病気も自分で癒せます。とという事です。

これをするには、
何も時間が掛かるものではありません。
そこに、一週間でも意識を集中してみてください。
身体が軽くなるのを、誰でも体験すると思います。

時間あるごとに、
神の世界に意識を向けたとすると、
そうすれば、そこからの影響を受けますから、
それをよくご理解しただけたらいいと思います。

無我の境地とは何か

 無我とは何かについて語りたいと思います。無我とは自分がないという意味です。本来の自分は存在していないのですが、私達は自分が存在していると感じて生きてるわけです。
 
 しかし、本来の自分はありません。自分があるならば、自分に負けていますので、自負となります。自負とは自らに負けているという意味です。本来の自分はありません。

 悟った方である、覚者の方々は自分は存在していないことを知っていますから、無我の境地になれます。では、自分がなくて何であるかといいますと、神がおわします。即ち、神一元です。大霊という神が、大生命という神が、全ての形体を作って全ての中に宿っています。

 我々は形体は大霊が創って、大霊が宿っています。ですから自分は即大霊ですから、自分があるのではありません。
 その大霊とは神です。「人間即大霊」「人間即神」です。人間とは人間の姿を取った神です。人間と神とは一つです。そうなりますと、神のみが独存するということで、神の地には絶対に何もないことが分かります。これを何かといいますと、全(また)き神といいます。またき神とは全ては神という意味です。

「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」

イエス様は、「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」とい言われました。我々の肉の目で見ているすべての形体の実体はみな神でありまして、草花の中にも神が宿っているし、砂浜の砂一粒にも神が宿っています。そして、神のものであるとは、神の他には絶対に何もないということです。

 私にもいて神もいるとはいえません。そのようにいう人ならば、その人は迷いの真っ最中です。大霊のみが実在しています。神のみが実在しています。大霊のことを皆さん方は大神様といいます。大霊と大神様はイコールです。即ち神霊です。大霊即大神様です。

我は神なりの意味

自分即神です。ですから「我は神なり」であって、「我は人間なり」ではありません。人間の実体は神です。私達は仮相に目がくらんで、その見えるものの実相・実体を見ていません。全ては神によってなれりです。

 その神がすべての形体をお作りになり、すべての形体に神が宿っていますので、神の他には絶対に何もありません。ですから神が絶対者であり、絶対神です。
 
 神一元という意味は、神の他には何もないといえます。これが理解出来た時に、神の自覚となります。神の自覚とは、自らが神だと悟ったという意味です。迷った人のみに人間はあるのであって、悟った時には人間は存在しません。

 人間は実在ではありません。神のみが実在です。あなたの肉外はあなたがお作りになったのです。あなたは神です。

目隠しされていたものが落ちることを
目から鱗が落ちたという

 神の他には何もないのに、私達は形に目がくらまされているのです。目隠しされてしまって、本質的なものを見失わされていました。形で目隠しされていました。

 その見えるもので目隠しされていたものが、落ちること目から鱗が落ちたと言います。それを真実を観たといいまして、実相を観たという意味です。宇宙に遍満する大霊が、普遍的なものが、その個人、個人の全部の中に普遍が宿っているわけです。

 大霊の中に人間がいて、人間の中に大霊が宿っています。全ての万生万物は大霊の中にどとまり、大霊は万物の中にとどまっています。その大霊の中においての個人の存在ですから、私達は大霊の中におり、大霊は私達の中にいることになります。形の実体はみな大霊であり、神であるといえるわけです

霊道が開かれた人
 
 霊一元・神一元とは、神の他に絶対に何もないという悟りを得た者、自分、自らが神であることを悟った者は、神の自覚の出来た人といえます。人間は形の世界で生きていますので、どうしても自分を神だと認めるわけにはいかないようです。
 
 あなた方は神信者を見たことがありますか。世の中には沢山の神信者がおりますが、ほとんどの方々は神信者ではありません。神信者とは神を受け入れた人のことで、入信状態とは、自分は神の中におり、神は自分の中にいるという状態をいいます。

 自らが神であることを悟られた人間は入信状態です。霊道の開かれた状態です。自分と大霊とが一体であるという境地になった人は霊道の開かれた人です。
 
 ですから、あなた方は今から大霊になるのではなく、初めから神であったし、今も神であるし、未来永劫神です。その他の何者でもありません。その他の何者であるか、考えることを迷妄というわけです。

「神がおわすが故に私はおわすのである」

 イエス様は、「神おわすが故に私がおわすのである」と言われました。神がいなかったら、あなたはおりますか。かみはまたき神ということですから、神は全ての全て、ありとあらゆるものです。ですから、我々がこの肉で見ているものは、神の化身です。すなわち、人間一人一人はみな神の化身であって、他の何者でもありません。
 
 ですから、「人間は何か」と言われた時は、「人間の形をとった神」と言って下さい。
 動物とは、動物の形をとった神です。動物をお作りになったのも大霊で、動物の中に生きて働いているのです。唯一不二の大霊、唯一不二の神しかおりません。

 宇宙に霊はいくつありますか。ひとつしかありません。神霊・大霊・神の他は何もありません。この肉体をつくったのも神であり、肉の中に神が宿っていることを知っていて、大霊が肉体を作って、大霊が肉の中に宿っていると自覚の出来た人は精霊の下った人です。

あなたは宇宙に遍満する普遍的大霊である

仏教から言えば、霊道の開かれた人という意味で、霊との繋がりの出来た人です。すなわち神との繋がりが出来た人という意味です。それをあなたが認めた時、神が皆さんを通して働きたもうのです。なぜ、神が皆さんを通して動かないかといいますと、あなたが神と自分は別だと分離感を持っているからです。

 あなた方は宇宙に遍満する普遍的大霊です。「我は普遍にして無限」です。無限は宇宙大ですから、宇宙我です。そして普遍ですから普遍我です。大霊は普遍的大霊ですから普遍我となるわけです。

 あなたは大きい存在です。普遍的存在です。自分が普遍であるという自覚の出来ている人を、普遍意識といいます。大霊は宇宙霊ですから宇宙大です。宇宙我になります。そうなりますと、宇宙我、宇宙即我、我即宇宙となるわけです。ですからお釈迦様は宇宙即我という境地に到達されまして、全てが大霊であることを悟られて、不滅の仏陀、不滅の霊となられました。

神は一様(ひとさま)です。神々が様々な表現をしているだけです。我々は表現を見て、表現者を見なかったのです。即ち神理を見なかったと、神を見なかったことになります。この、神理を見なくて現象にとりつかれている人間を、盲目の指導者といいます。

「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」

イエス様は「神は全ての全て、ありとあらゆるもの」と言われました。神は万物の親、万物の作り主です。万生万物を神が作って、万生万物の中に神が宿っているわけですから、世の中に神の他に何があるのでしょうか。この世の中に神を宿していないものが一物としてあるのかと言いたいのです。

 ですから、神こそ我々の父といえます。この肉体は作られたものであり、大霊は作り主です。作られたものの中に、必ず作り主である大霊が生きて働いておられます。

 神のみが生きています。「神生きるがゆえに私は生きるのである」。ではあなたが働いているのですか、神が働いているのか、どちらですか。神のみが働いています。ですから、私が働いた、私がやったといって嘘をつかないで下さい。「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」です。

 人間が人間を産むことはありません。神が人間の生みの親です。霊によらないで、神によらないでこの世に人間が生まれる事はありません。神は万物の親です。万物の作り主です。全存在の本源です。

恐怖感は自負である

迷った人のみ人間であるのであって、悟った人間には人間という意識はありません。人間即神です。人間の実体は神であって、その他の何者でもないことを知る必要があります。

 そして、その人間とは神の仮の姿です。人間は姿形をとった神です。草花の一つにも神はおり、一粒の卵子たりとも神を宿しています。この意味が分かりますか。ですから、神は万物の親となります。

 いつになったらあなた方は、「私が、私が」という言葉がなくなるのでしょうか。あなたという利己がある限り、あなたは迷っています。あなたがなくなったときに、あなたは安らぎとなります。平安となります。自分がある限りは不安と恐怖です。

 神には不安や恐怖は存在しません。色々な心配事や恐怖感があったとするならば、あなたは自分に負けていることになります。自負です。その自負の事を何と言いますか。自我と言います。自らの我といいます。

 自負は即自我です。勝手に自分だと思っているだけです。勝手というものはありません。初めから皆さん方は普遍的存在です。今も普遍です。未来永劫普遍ですから、個人といえるものがありましょうか。

 ここにあるこの木の葉は全体ではありませんか。では、あなたは個人ですか、全体ですか。全体です。これを全我と言います。全我なる我です。「我は全ての全て、ありてあらゆるもの」となります。ですから、人になしていることは全部自分になしていることであると言えます。

 私達はこの普遍的我に目覚めなくてはなりません。個人的な自分が存在しますか。個人の実体は即普遍です。その普遍的なものを認めた時に、その普遍的な知恵と力があなたを通して働くようになります。

 神を認めた時に、認めるものは現れる、あなたが普遍を認めた時に、普遍があなたを通じて現れると言うことです。


光明思念で生活すること

私達は、思い、思念をしています。思念には二通りのものがあり、「善なる思い」と「悪なる思い」というものがあります。皆さんは、光明思念の中において生活しておられるのでしょうか。

 それとも、闇なる思念の中において生活されているのでしょうか。
 それによって、皆さん方の運命が決まるのです。

 光明思念とは。建設的な思いのことです。
 建設的な思いとは、「神は光なり」そして「神は愛なり」という意味合いのことです。

 皆さん方は、常に、積極的な建設的な素晴らしいイメージを持って、毎日を生活されているのでしょうか。
 それとも暗い思いをして、消極的な破壊的な闇なるイメージを持って、毎日を生活されているのでしょうか。
 これは原因・結果として現れるので、日々の生活を暗い思いをして過ごしているなら、その通りの結果、環境となり、また、肉体の病気となって現れます。
 
 そのように、私達には、人間のすべてに「思念力」というものがあるのです。
 その思いの念、皆さん方の思いは自由自在です。その自由意思によって、悪いことを思っている人もいるのです。

 一番申し上げたいことは、皆さん方の心配、不安、恐怖とは、闇なる思念であり、そrは破壊的な思いであるということです。
 「人のことを心配する」ということは、もうその人のことを破壊すると同時に、自分自身を破壊する思念を持っているということです。

 なぜかというと、悪い思い、即ち、悪いイメージをすると、心配して、そして恐怖するわけです。
 例えば、遠く離れている自分の息子や娘に対して、お母さんが心配するということは、闇なる思念です。

 心配という思念でもって、相手を破壊するエネルギーを送っているのです。それは、子供を破棄するエネルギーとなります。

 例えば、遠くに離れている子供に、(病気はしていないだろうか)(怪我はしていないだろうか)と思念することは、病気をすることや、怪我をすることを望んでいるような結果を生み出すのです。

 なぜなら、病気を起こす念や、怪我をする念を、お母さんが送るからです。
 これを「心配」といい「闇なる思念」といいます。これを平気で、お母さん方はやっているのです。

 自分の夫に対しても、夫が仕事で出かけた時に、(事故はしないだろうか、本当に大丈夫なんだろうか)という思念を持っていたとすると、お父さんも子供さんもたまったものではないのです。

 それを、「悪的な祈り」ともいいます。いかにも悪を望んで、それを祈っているようなものです。
 悪思念とは悪的祈りです。破壊的祈りなのです。

 ですから、無知のために今まで悪思念を自分の身内の者に、一番可愛らしい子供達に送ったのだろうかということを考えて頂きたいと思います。
 それを「闇思念」と言うのです。

 そのような破壊的なことをお母さんは望んだことになり、望んだことは「求めよ、さらば与えられん」となり、その通りの結果が生まれてくることが、たび重なってくるのです。

 そして、「やっぱり私の思っていた通りだ。病気をしてしまった、怪我をしてしまった」を自慢する。自分があたかも超能力者でもあるように、その思念が働いた時に「やっぱり私の思いは正しかったのだ」と自慢するのです。悪い結果を生み出していながら「私の思いは正しかった」というような、それを自慢するお母さん方がいるのです。

 (病気をしているのではないか)(怪我をしているのではないか)という心配の悪思念を送っている時、とうとう向こうから「病気をしている」とか、「怪我をした」とか言っていきますと、「やっぱり私の思いは当たった」と、自分でそういう結果を作り出していながら、あたかも、自分を自慢するお母さんやお父さんもいるわけです。
 
 私達はどれほど無知なるその念をつかって、悪用していることでしょうか。その念を悪用しているのです。これを「霊的悪用」といいます。

 あなた方の念は難病もかからずに、相手にいいことであろうが悪いことであろうが、即、それが通じてしまうことをあなた方は知らないのです。

 家庭に病人がいたとして、病人を一生懸命心配するということは、その破壊的念が、病気がより悪くなることを念じているようなものです。

 例えば、入院している人がいたとして、「悪くなるのではないか。悪いといって電話がかかって来るのではないか。もう死にそうだと言ってくるのではないだろうか」というように、家にいてその事を心配したとするならば、皆さん方はそうなることを望んでいるようなものなのです。

 それを「闇的悪的祈り」といいます。皆さん方は、日常生活の中でそれを平気で行っているのです。

悪思念が人を破壊する

 もし、あなたに何か病気があるならば、(私は病気なのだ)という思いが、自分自身を破壊するということを知らねばなりません。例えば、病院に行って、「肝臓が少し悪いようですね」と医者に言われたなれば、あなたはそのことに悪思念を送るのです。

 痛くなることをイメージしてみたり、肝臓が腐れてくるのをイメージしてみたり、ウミを持っているのをイメージしたり、その肝臓に悪思念をいう破壊的エネルギーを本人自身が送る。ですから、病院に行っても薬を飲んでも、一向に良くならない。破壊的エネルギーを送り通しているから仕方がないのです。

 (自分は病気なんだ)と意識して、医者から「この部分が悪いのです」とレントゲン写真を見せられると、より異常に破壊的なビジョンが作りやすくなります。そうなると、自分で自分をどんどん破壊していくわけです。

 (このままだと、もっと悪くなるのではないか)
 (この部分が腐れてくるのではないか)
 (これがやがてガンになるのではないか)
ガンでもないのに、一つの病気からガンまで作り出すような、破壊的思念力を使う、愚かな人間がいるのです。

 私達は毎日の生活の中で、その念の中に生きているので、悪的念を活用していたとするならば、自分で自分を殺す状態を生み出していることになります。

 前途が暗くなるのです。
 自分の将来はこうなるのではないかという、悪いイメージをしている人もいます。
 自分の前途は暗いのだ。年をとってから皆に嫌われて、養老院や老人ホームに送られるのではないだろうか・・・と将来を心配して悪思念をしていると、その通りの結果が生まれてくるわけです。

 これは自分から引き起こした(身から出た錆)です。自分がそういう道を選んで、そういう結果を選んで作り出す状態なのです。

 そして結果が出ると、「自分の思い通りになってしまった」とか「自分の思いが叶ってしまった」というのです。

 しかし、それは悪い思いなのです。善い思いがあるのなら、善い思いの通りの結果が現れるのに、人間は愚かです。自分を自分で苦しめるような結果を、平気で作り出す。それを「闇的思念」というわけです。

 皆さん方は、今までの過去を振り返って、どれほど自分を破壊し、他人を破壊し、身内の者をどれだけ破壊してきたかということを、知らねばなりません。
 
 前述の例のように、自分の身内に病人がいたとすると、医者からは「これはガンです。もう駄目です」と宣告されたとします。

 そうすれば、そのことは身内の者に伝えられますので、身内の者は(もうダメだ)という悪思念をどんどん送るのです。
 身内の者が多ければ多いほど、その病人に、その悪い思いが送られてきます。
 そして、病人本人も(私はガンだからもう駄目だ。もう終わりだ)という破壊的な思念を、自分にも起こすのです。

 病院から「もう駄目です」と電話がかかってくるのではないか、「連れに来て下さい」といってくるのではないかと家では四六時中心配して、その思念、破壊的な思念を本人に送る。そうすると、本人もたまったものではありません。

 自分も自己破壊していると同時に、身内の者も寄ってたかって殺人を犯しているわけです。
 それが今、現実の生活の中で、皆さん方が行っていることです。
 身内の者は心配しますが、その心配によってどういう悪影響が起こされているかということを知らないのです。

 「心配」は、破壊的エネルギーです。なぜならば、悪いイメージを描いて、その通りになりはしないかと思うからです。
 良いイメージを描いで心配する人はいません。破壊的イメージを描いて、そこを集中的に心配しているのです。

(ガンは恐ろしい病気である)という潜在的イメージが、みんなに植え付けられているので、それから救済するには、その身内の者や、お医者さんの念を取り除かなくてはならないのです。

 ですから、これは集団殺人、目に見えない集団殺人を行っていることになります。自分の身内の者を、皆さん方の悪思念でもって殺してしまうわけです。
 (もう駄目だ、もう駄目だ)という念しか送らないのでは、良くなるはずがありません。

 そのエネルギーとしての念という力を、皆さん方はまだ信じていないのです。それが「どんなに大きい力であるか」ということを知らなくてはなりません。思った瞬間に、その相手の所に行くのです。いいことでも、悪いことでも、思った瞬間に行くのです。

 なぜ、そんな無知な生き方を、その思念力を悪用してしまうのだろうかということを、皆さん方は知らなくてはなりません。現実の生活では。これが行われているのです。

 「皆さんの思いを正しなさい。常に生想念のみに生きなさい。悪想念を持ってはなりません」と私がいつも申しあげているのは、それは「あなた方がどれだけの人を殺したか」ということになるからなのです。

 「汝、殺すなかれ」「汝、殺害するなかれ」と、「十戒」即ち「「十悪の戒め」がここに出てくるわけです。

 皆さん方は、何を持って平気で人を殺しているかということを知らない。目に見えない念の力で殺しているのです。
 目に見えない殺人犯で証拠物件がないので、この世では監獄に入ることはありません。
 しかし、霊的には、皆さん方は罪人なのです。
 それを、「罪・汚れ」と言います。「悪業」とも「カルマ」ともいいます。

 今まで、どれだけ皆さん方が、殺人をおかしてきたかということをよく考えてみて下さい。
 身内が可愛ければ可愛いほど、殺しているのです。
 (大丈夫だろうか)という念を、可愛ければ可愛いほど送るのです。
 無知なる人間は、思念力というものを知らないために、どれほどの身内の者や、知り合いの者を殺しているかということをよく知らなくてはなりません。

 それを「念の力の悪用」「思念力の悪用」「闇的思念力」というのです。

偉大なる光明思念

 その逆も真なりで、「光明思念」があります。
 闇の念を送っていることに対して、それを救う方法が一つあるのです。
 皆さん方の念を変えればよい。光明思念の方に変えてゆくのです。

 常に、自分が光り輝くイメージをして、そして、そこに病人がパーッと光り輝いているイメージをすること。
これを「光明思念」といいます。

 人を建設する健康な状態、光り輝く状態をイメージします。
 その人は病気は一切否定して、健康のイメージをすると、それは建設的なので、ガンの病人が生かされてくるわけです。
 
 今までの、皆さん方の念とはまったく逆です。心配する時間があるくらいならば、例え五分でも、光明思念をその病人に送ることが一番大切なのです。その人が病気にならなかった元気な姿をイメージして、頭の先から足の先まで白光に輝いているイメージを送る。

 それを「建設的思念、光明思念」といいます。
 
 これを行わずに、世の中の人間は、闇人間になってしまったのです。闇が好きなのです。破壊的なものが好きなのです。

 光明思念というものと闇思念というものがあることを知らず、毎日の生活の中で使っている90%までが、その闇思念なのです。

心配して善いことはない

 「心配」「不安」「恐怖」は、破壊です。
 その破壊的思念を送っていながら、子供を愛している、夫を愛しているというのは「口先だけの愛」というものです。真実においては愛ではないのです。なぜならば、殺しているからです。

 私達は神理を学び、神理を知って、その通り神理を実行した時、真の愛が出てくるのです。それを「育愛」といいますが、皆さん方のいうのは「盲目の愛」で、物事を知らない愛が殺人を犯すわけです。
 そういう事にならないように、一生懸命気をつけなければなりません。

私から飲むものは乾かない
    永遠に減ることはない

 自分が普遍だと信じるものには普遍的な力と知恵が現れます。自分は普遍だと信じないものに、どうして普遍的な力と知恵が現れましょうか。
 
 では、普遍的な知恵と力は、誰が制限していますか。個人の中に普遍的な知恵も力も存在しているのではありませんか。では、あなたの中に神の全てが存在してませんか。あなたの中に全部が揃っています。あなたの中にいる神は、全知全能ですから、これを知恵の泉、力の泉、生命の泉といいます。

 ですから「私から飲むものは乾かない」「永遠に減ることはない」。この言葉が分かりますか。あなたの生命や知恵は減るのでしょうか。無限大の知恵があなたに注がれているのではありませんか。

 では、あなたの個人的な知恵や力はありますか。全体としての知恵があるだけです。全体としての力です。個人的な力はありません。

 全知全能の神が皆さんの中に宿っているわけですから、自分の中に全体の知恵、全体の力、全体の生命が宿っているといえます。そうなりますと、「神のものは私のもの、私のものは神のもの」となりませんか。

 このことがはっきりと直知出来るようになれば、この知恵と力はあなた方を通じて現れるようになります。それ以外に現す方法はありません。ですから、「認めるものは現れる、信ずるものは現れる」わけです。

 なぜ疑うのかというのはそこです。皆さん方はまだ疑っています。なぜかといいますと、疑っていなかったら現れているはずです。なぜ現れないかというと、半信半疑であるからです。

 「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くす」ことを思っていません。心の底からそう思わなくて、知識でそう思っているからです。

 深い信仰とは本心からそう思わなければなりません。知識の次元で思うことではありません。知識はすぐ忘れます。ですから、「私は大霊である」「普遍だ」「無限だ」ということが、心の底から出来るようになるまでは、億念しなくてはなりません。このために瞑想するわけです。

個人的意識は迷いの意識

 皆さん方は今まで、常に自分が個人だと思ってきましたので、今度は逆に常に無意識のうちに自分は普遍だと思い込む。普遍意識状態にならなければなりません。普遍意識は神意識ではありませんか。

 個人の中に注がれている意識は普遍意識です。普遍意識のみです。皆さん方の意識は即普遍です。ですから、普遍こそ絶対実在ですから、その普遍的なものを認める。容認する、信ずる、これが大切かと思います。

 では、本来の自分があったのか無かったのか。今まであなたが感じてきたあなたはあるのですか。ないのですか。無いのではありませんか。では、無我ではありませんか。神我があるのみです。神我こそ絶対なるものです。絶対なる我です。真の自己です。この偽我に打ち勝つことが無我となる秘訣です。

 「私がねえ」などと自己主張をしたり、自己中心的になったり、そのような我がある限り、皆さんは迷いの真っ最中です。迷いのない人間には自分はありません。自分を感じて自分があると思っている限りにおいては、皆さん方は自我です。

自負とは何か

 自分に負けている状態を自負といいます。この負けるというのは背負うという意味でもあります。負荷ですから、自分を背負っているわけです。

 本来は自分はないのに、自分を背負って生きるとは何たることでしょうか。自分はないのはありませんか。私はなかったと、神のみがあったと、このことは非常に重要です。「無我の境地」とは、自分のない状態をいいます。即ち自我のない状態を無我の境地というわけです。神一元の境地です。

 皆さんから何名でも、無我の境地にすることが出来たら、私はこの世の中に出てきたかいがあったという事になります。一人でもよいから、自分に打ち勝つ事の出来る人間ができたとするならば、あるいは何百名も何千名も出来たとするならば、私は今世の大勝利になります。

 また、この世に来たかいがあったことになります。ですから、皆さん方もぜひ自分に打ち勝って、神我に目覚めて、また、多くの人々にお手伝いをして頂かなければなりません。

最大の敵は自分

 まず最大の敵は自分です。その敵である自分に打ち勝つことが最も大切です。
 あなたがあなたに打ち勝った時に、克服者キリストとなります。勝利者キリストとなるのです。自分に打ち勝つことが勝利者となる秘訣です。自負をしては駄目です。コの字を見て下さい。

 「自負」とは自分に負けているのです。自分に打ち勝てば、自負は存在しません。自負とは何かといいますと、自我です。偽我です。自分に負けている人は自負です。

 「あなたは自負心はないの」と、よく言いませんか。自負というのは、即迷いです。自負があるとは迷いがあるのです。それ故、自分から打ち勝ちましょう。

 普遍の他に何が在るのでしょうか。なぜ、普遍の他に何もないかと言いますと、全ての形体は普遍者がお作りになって、全ての形体は普遍であるのです。

一度に二人の主人を持つことは出来ない

 あなた方は、一度に二人の主人を持つことは出来ません。また、一度に二人の自分を持つことは出来ません。自我か、神我かその二つの中の一つを選択しなければなりません。

 あなたは自分は小さいと思うと同時に、自分は大きい自分も小さい自分も持つことが出来ますか。あなたが小さいと思っている時は、大きいあなたは存在していません。あなたが大きいと思った時に、小さなあなたは存在しておりません。大きい物を得るか、掴むか。小さいものを掴むかです。

 ですから、あなた方は思っている通りのものであって、それ以上のものでも、以下のものでもありません。そのものです。

 今までの自分は小さいものであると思って生きてきました。それはなぜかといいますと、外を見たからです。内を見てご覧なさい。内なるものは小さいですが、普遍そのものです。内は即普遍です。ですから、普遍的なものを見ることが本当の自分を見ていることになります。

 外側でものを見ている時は偽物です。内側で物を見ている時は本物です。その本物は普遍大で宇宙大です。無限大です。ですから、皆さん方は常によく念じて、その普遍的なものに一心集中していなければなりません。

覚者は誰か

四六時中神を思うことは、四六時中あなた方が普遍でなくてはなりません。あなたが四六時中個人的に見ているならば、四六時中個人意識となります。個人意識は低我です。

 あなたは個人ではありません。個人の実体は普遍ですから、本物の自分は、このような姿形ではありません。そして、自分は宇宙に遍満する大霊であり、宇宙に遍満する生命であり、知恵であり、力であるという思い方です。

 そして、この思いを受け入れた自分は大霊であり、大生命であるとして受け入れたものは神信者です。大覚者です。大きいものであることを悟りましたので、霊覚者です。分かりましたか。

 私達は毎日、そしていつも、次のように言ったら良いと思います。「私は血や肉、姿形に属するものにあらず」
「我は大霊なり」「我は普遍なり」と、常に自分に言い聞かせなければなりません。

 そして、毎日言い聞かせておりますと、無意識の内に自分が普遍だと思えるようになります。それが「油注ぎ」といいまして、常に意識するという意味です。そのようにすれば内なるものを常に意識するのが自然に強烈になっていきます。

 内なるものが活発化している時には、外なるものは沈黙を守ります。自我が活発化している時には、神我は沈黙を守っています。ですから、あなた方は自我に力を与えないためには、自我を意識しないことです。

 常にどこを意識すればよいかといいますと、内なる我である普遍的な我を意識し続けることです。ですから、時間あるごとに瞑想しなさいというわけです。

 瞑想とは普遍と見つめることであり、普遍を意識することです。実在を見る、実相を見るのです。実相を見ることが見神です。神を見るとは普遍的なものを見ることです。それと同時に自分を見ます。

 ですから、自己を見つめるとは、自分を見ている時に、あなた方は神を見ているのであるという意味になります。
 ですから、神様を見たなどという戯れ言に騙されないことです。「私は昨日、神様を見たわ。髭をつけて杖を持って、あんなことしていたわ」というような嘘つきにだまされないことです。それは幻です。

 無形・無相の大霊を見なければなりません。遍満する大霊を見なければなりません。それを見つめたときに、私達はこの普遍的なものの写しであり、影であることが分かります。

「神我顕現」とは何か

 霊的なものは永遠ですが、あなたが「わたしだ」と思っている。貴方の自我はいつかは朽ち果てさせなければなりません。それが自分です。今までの「私が、私が」と思っていた自分は永遠ではありません。

 霊的あなたは永遠です。これが久遠の我であり、永遠の生命という意味です。久遠の富でもあります。これを掴むか掴まないか、それを掴んだ時に皆さん方は、もう神の跡取り息子であり娘になったといえます。

 神の全てを受け継ぎましょう。既に受け継がれているわけですから、私達はそれを受け継ぐ権利があります。特権が与えられているという事実を知らなければなりません。

 皆さん一人ひとりには神の知恵と力と、上のすべてを受け継ぐ特権が与えられています。それを拒んでいるのは自分たちであったと気付かねばなりません。

 神はけちくさいものではありません。どんな善人にも悪人にも、平等に自分の息子に無限大の富が与えられています。素直に受け継ぎましょう。

 そして、「そうだ」と皆さん方が信じた時、もう受け継いだことになります。そうした時に、神のものが全て貴方を通じて顕現されます。「神我顕現」です。

 世の中はいろいろで、様々な神を説くものがおりますが、皆さん方はそのことをまず選別して頂きたいと思います。あれが神だ、これが神だというものに耳を貸してはなりません。

 なぜかといいますと、神は無限者であり、普遍者ですから、「これが神だ」といったら、もう神では無いといえます。神理でもありません。

 なぜかといいますと、神は全き神ですから、全ては神ですから、「これが神だ」と言ってしまえば、もうそのものは神を知らない盲目の指導者であるとなります。

 神は全ての全て、ありてあらゆるものである事にお気づき頂ければ良いと思います。

 無我とは、初めから自分はありません。今もないのです。未来永劫にありません。あなたが勝手に作っている幻影です。実際に存在しているあなたは「大霊のあなた」であり、貴方の考えている「あなた」は存在していません。

あなたはない「あなた」を初めからあったと錯覚していたのです。初めからあなたは存在していません。初めから大霊が存在しているだけです。

 なぜかといいますと、全ての形体を大霊が作って、全ての形体に大霊が宿っていますから、初めからあったのは大霊であって、あなたではありません。

 真の自己は初めから大霊だったのです。それが分かったらもう無我だと思います。自分がないのだと、お気づき頂ければありがたいと思います。本来自分は存在していません。

 神我である大霊の自己、神我のみが実在しています。常に時間あるごとに、本来の、普遍的な自分に一心集中して頂きますことをお願いしながら、ご説明を終わらせて頂きます。ありがとうございました。

雑念とは概念であり観念である

雑念とは何かということについて、話してみたいと思います。私達は瞑想をしている時に雑念が入るといいます。
「雑念が邪魔して、なかなか統一できない」というように表現しますが、この雑念とは一体なんだろうかということを問われた時に、答えきれない人が大勢います。

 雑念とは即ち外念であり、観念的なものはみな雑念です。即ち、私達が外なるものを頭のなかで考えていることがみな雑念でして、その反対は億念です。お釈迦様は億念という言葉を使い、「億念しなさい」と言われました。

 雑念とは外側の念です。即ち自我のことをいいます。皆さん方が迷走中に色々考えることはみな雑念でして、それを雑念が入るといいます。皆さん方はこの世的なものを一所懸命に瞑想しますが、それを自我瞑想といい、雑念瞑想といいます。

 一所懸命にこの世のことを考えて瞑想します。そして、一所懸命やったという人がいますが、それは雑念瞑想、自我瞑想であって、神我瞑想ではありません。そのような瞑想はやればやるほど頭がおかしくなるだけです。

 雑念がない状態というのは外念のない状態です。我々は見える世界のことしか見ないし、ほとんどの方は観念的です。観念的、外念的なことが頭のなかに一切浮かんでこない状態が大切です。即ち頭のなかが空っぽ状態を言います。

 頭のなかが空っぽ状態を空(くう)と言います。空の状態にしなければなりませんが、座って一所懸命に、あれやこれやと考えることを瞑想だと思い込んでいる人が大勢います。

 それをやっていますと、自分の作った自己メッセージを神からのメッセージだと思って、間違って自己メッセージを作って、神様がこんな事を言いましたとか、あんなことを言いましたとか言い出す人も出てくるわけです。

 私達がこの俗世という、見える世界の現象世界のことを完全に頭から抜いて、頭で考えることをやめた時に、静止念といいまして、本当の神が現れます。これをインスピレーションとか、直感といいます。

 あなたの頭で考えていることは全てが雑念です。我々の頭は雑念のことしか考えられません。また、考えきれないのです。瞑想していたら、色々のことを教えられたというのは、実は自分で考えだしたものです。外念ですから教えられたものではありません。

 瞑想を一所懸命やる時は、いろいろ考えることを停止しなければなりません。考えることを止める、これを沈黙といいます。我々の自我意識という外念が沈黙を守った時に、神我意識が活発化してきます。その状態を天啓というのですが、外念がある限りは天啓を受けることは不可能です。
 
初歩の状態の瞑想から本当の瞑想へ

 あなた方が座って、一所懸命に瞑想をしようと思っても、色々と考えるならばそれは雑念になりませんか。そして、色々のことを考えている時は、その雑念はなくそうとすればするほど、余計に増幅してきます。

 なぜならばその雑念に抵抗しているからで、その時には一時停止して瞑想を止めるべきです。そのまま続けますと、おかしな状態が起こります。その時には神でもない。神まがいの憑依現象が起こります。そこに波長あった、幽霊からの者が、パッとその者を支配してしまう状態です。

 瞑想は大切なものでありながら、非常な危険が伴います。そのように完全な憑依を受けた時は、自分が神になったような錯覚を起こしてしまって、憑依霊の犠牲になりますから、そうならないように気をつけなければなりません。

 私達が瞑想するときに、「空になる」とは考えが停止した状態をいいます。頭では何も考えない状態になって、完全に神に委ねた状態を静止状態といいます。静寂な心といいまして、それが本当の自分です。

 自我が全然動かない状態で、外念や観念的なものが働かないのです。その時に神我は皆さん方を支配します。これが本当の瞑想です。

想念とは何か

 皆さん方は想念を非常に勘違いしています。皆さん方が思っている観念的な思いや外念的な思いは想念ではありません。それは雑念です。この観念や外念がなくなった時に本当の想念が働きます。

 想念とは正想念のことをいいますが、それは上から来るものです。外念や観念は神からきたものではありません。外から来たものを、あたかも想念だと思っているのは間違いです。

 その想念を「実現の母」といいますか。悪い思いを我々の心の中や頭の中で描きますと、悪い状態がこの現象世界に現れてきますから、イメージの仕方を間違いますと大変危険を招くことになります。

 それをマイナス思考といいます。そして、プラス思考というのは、すなわち億念をいいます。

 皆さん方は一心集中という言葉をよく使います。これはどんな意味かといいますと、例えばこのチョークに一心集中するのは、チョークだけを見て、チョークだけを考えて、他のものをみてもならないし、という意味です。

 それに一心集中するのです。それ以外を考えているならば、それはみな雑念です。

 殆どの人は集中力がないから雑念が起こってきます。ですから、その集中力を養っていかなければなりません。では、一体全体何に集中するかといいますと、神我という大霊に集中しなければなりません。

 人間とは大霊によって作られた大霊の住かです。この大霊に一心を集中するというのは、大霊のみを見て大霊のみを意識する事です。そうすることによって、現実に大霊が実感出来ます。

その時の皆さん方は億念したことになります。それが瞑想です。

 大霊への一心集中とは、大霊のみを見て、大霊のみを考えることです。それ以外に見てもならないし、考えてみてもなりません。雑念が外念があってはなりません。

 瞑想中に憑依霊を受けた人の殆どは動機が狂っています。超能力でも得て、大金持ちにでもなってみようというような、観念的な外念的な考えを持っている人達です。
 
大霊には欲望がない

世の中には潜在意識を開発して大金持ちになろうというグループがありますが、それは非常に危険です。そのようなセミナーを開いてやっている者は、みな憑依霊を受けます。欲望が動機です。欲望とが自我ですし、神我は無欲です。
 
 なぜ、神我は無欲かといいますと全我であるからです。全ては我であるから、それに欲望があるはずがありません。自我は分離感をもっているから欲望となります。

 皆さん方が神我になりますと、無欲になります。欲望は出てきません。欲を捨てるとは、自我を捨てることです。
あなたは自分が他人とは別だと思っているから欲望があるのであって、自分と他人とは一体だという意味が分かれば欲望はなくなります。

 なぜかといいますと、神には他人というものがないからです。こちらの者にもあちらの者にも、同じ霊が宿っているわけです。

 形の世界を見るから他人がいるのであって、中身には他人がありません。他人という思いがありません。大霊が人間を創って、大霊が人間の中に宿っています。
 
 同じ霊がすべてを創って、同じ霊が全てに宿っているのですから、霊の世界には他人はありませんし、欲望もありません。

 外念の世界に生きている人間には分離感がありますから、自他があります。本来はないけれども自他を感じるわけです。霊の世界には自他がありません。そのようになりますと、そこには欲望はありません。

 例えば、一つの木にこちらの木の葉の生命と、そちらの木の葉の生命とは同じ生命が宿っていますが、この内側には他人という意識はありません。

 そうなりますと、こちらの者がそちらの者から何かを奪ったら、自分が奪ったことになります。逆にこちらの者からそちらの者に何かを与えたとすると、自分に与えた事になります。

 人から物を奪うことは、自分から物を奪うようなものです。人を傷つけることは全部、自分を傷つけることになるわけです。


知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


地球は魂を完成させる場である

 百点満点が取れるようになった時、神様はあなた方を選ばれます。
(もうこの者は大丈夫だ。もっと高度な勉強をさせてもよい)
とおっしゃって、高度な惑星に連れて帰るのです。

 しかし、向こうでもまた修行です。
 今、地球は中程にあります。下段でもなく、中段です。

 これよりももっと下に、霊の低級の次元があります。
 今、人間は、真中にあり、完全でも低級でもなければ、高級でもないのです。

 宇宙には太陽系惑星があり、高級の惑星が金星であり、水星であり、土星であり、地球惑星より優れた惑星であるのです。

 この地球で問題を解いてそこに帰る魂を、皆さん方は「成仏」と呼んだり「昇天」と呼んだりするわけです。

 問題は地球にあります。真の生き方(神我顕現)をここで学んで、その神理に基いて生きられるようになると、この地上界には生まれ変わりはしません。もっと高度な惑星に上がれます。

 これを「昇天」と言ったり、地球からの「解脱」といいます

 それを成し遂げないかぎり、地上界の浮き沈み(地球での輪廻転生)の世界で勉強させられます。

 体験ですから、まあ、それもよいでしょう。しかし、本当は「今世で卒業して、みんなで帰りましょう」と言いたいのです。

 高度の惑星に連れて帰るために私(知花先生)は、この地球に来ているので、皆さん方に高度な神理を説き、その神理に基づいて生きて、そして完成し、皆さん方を連れて帰りたいのです。

 高度の惑星に帰ると、皆さん方は向こうでは「天使」と呼ばれます。高度の惑星では、地球から卒業した人材のことを「天使」と読んだり、「ハイアラーキー」と呼んだりするわけです。

 高度な惑星から肉体を持って指導者として、地球の我々の魂の兄弟を救済しに天使が降りてくるわけです。

 地上の母なる肉体、お腹を借りて誕生して、普通の人間のように生まれてくる天使と、そのまま肉体を持って、ポツリとどこかに存在して導く天使と、二通りの天使がいます。

 皆さん方が、空想、妄想しているような天使ではありません。
 天使方は、宗教的、オカルト的、空想妄想的な、目に見えない存在ではありません。

 今、この地球上に別の惑星から何万という天使方が、人類救済のために降りてきていらっしゃいます。その方々を、皆さんは「宇宙人」と呼んでいますが、正に、宇宙人です。

「イエス様は宇宙人であった」とか、「お釈迦様は宇宙人であった」といいますが、その通りです。あなた方も宇宙人です。

 「一なる宇宙」の中に存在する。1個の惑星が地球であって、あなた方は宇宙人だからです。

 その理由がおわかりだと思います。ですから、「天使方は、正に高度な宇宙人である」というわけです。

 イエス様が「わたしは上から来た者である。あなた方は下から来た者である」といわれたことは聖書にも書いてあると思います。

「下から来た者」とは、低次元の惑星から徐々に進化してきた者のことで、私達は地球の中間の学びをしているわけです。


人間の目的は何でしょうか。

 魂の向上、「自己完成」が最大の目的です。自己完成、魂の完成のために地球があるのです。

 この地球上で学ぶものがなくなったならば、もう1段高度の惑星に移される。それを「甦る」といい、「昇天」していくわけです。

 この地上界で完成されていない者は落第なので、それが完成されるまで地上界で生まれ変わりをします。

 「輪廻」を繰り返すのです。

 昇天すると、輪廻する者。高い方に帰るか、また、落第してここに生まれるか。それは、あなた方の自由意志です。

 今世で本当に神理を理解し、正しい道、方に添った生き方をすることによって、あなた方が完成されるわけです。


 あなた方は、今、それを求めておられます。そうした時、世の中の幸せはあなた方が造りだします。

 あなた方が救われた時、あなた方は世の中の指導者になります。あなた方を通じて人々が救われていく。それだけ高度な指導が出来るのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

キリスト意識とは、霊意識、即ち宇宙意識、普遍意識♪アイアム、真の自己は全宇宙に遍満する大霊そのもの♪我は大愛の中にあり、大愛は我が中にあり♪意識は創造原理♪意識とは、神であり、生命♪超能力という超意識が神意識そのもの♪私と神は一体である。神の全ては私のものであり、私のものは神のものである♪隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です♪悟っている人は、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観ます♪ 一体とは「一つの体」という意味・ 「人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事♪知花敏彦先生・総まとめ記事・第4回目♪

覚者☆知花敏彦先生の記事をまとめてみました。 
皆様の悟り☆覚醒のお役に立てて頂ければ幸いで御座います。
この記事は、第4回目になります♪





キリスト神我は不可視の大霊

キリストとは何かといいますと神我で御座います。神我とは何かというとキリストで御座います。キリストとは何かといいますと大霊で御座います、
でそれが真のあなた方で御座います

キリスト」は「即神理」で御座います。
即ち、「神我」は「神理」で御座います。
神我」を知っているという方は
神理」を知っているということでございます。

だからキリストを通さずにして何者も神の国に入らずと、
キリストの神我」の世界が「神の国」で御座います
、「天国(内なる神の国)」でございます。

キリストは我が内にありと、我は神理なりと、
今即天と、今即実在、真実、即ちキリストは真実で御座います、
即ち神我で御座います。

皆さんの本当のあなた方というのは、全宇宙に遍満する大霊そのものであるということで御座います。

全ては大霊」なんです、「全ては神理」なんです、
全てはキリスト」なんです。

だから、キリストは一にして多なるもの、大霊は一にして多なるものという事でございます、
神は一にして多神」という意味でございます。

だから、我々ってものは、その神我、即ちキリストによって創られたのキリストの表現で御座います。

大霊の他には、キリストの他には、何もないのでございます。
神我の他には何もないのでございます。

「神我」が一切のものを創って、「神我」が一切の中に留まると、即ち、「キリスト」が一切のものを創って一切の中「キリスト」が留まっているという事でございます。

キリストが不可視の大霊」であるということをよく理解することが大切だと思うんですね、
どうですか、キリストは一個人的ですか?
普遍であり大霊だと思いますか?・・大霊ですね。

キリストのましまさぬところとは無いのでございます。
その「キリスト」は、「大霊」そのもの、
神霊」そのもので御座います。
即ち「神そのもの」で御座います。
唯一神そのもの」で御座います。

それが「真(まこと)のあなた」なんです。
私たちは、決してこの姿形が私達じゃないのです、それはあくまでもそのキリストの表現、現れにしかすぎないので御座います。

それをゆっくりお考えになって頂きまして、自分とは何かといったら、
自分、アイ・アム、自分というものが即この

全宇宙に遍満する大霊そのもの」であるという事を、はっきり実感できて、見ることが出来る、思うことが出来るような、「意識状態」にならねばならないのでございます。

これが「キリスト意識」で御座います。
即ちキリスト意識とは、霊意識、即ち宇宙意識、普遍意識で御座います

それを知らずにして、理解できずにして神の国に入らずというのは、キリストを通さなければ神の国に入らないというのは、神我を知らなければ、神我を通さなければ、神我そのものが神の国であり、天国でございますね、

即ち、キリストそのものが天国であり、神理であり、神の国で御座います。

だから、キリストを信ずるものは救われる、信ずるものはっていうよりも理解するものは、知っているものは、即ち神我を知っているものはという事でございます、己を自身を知っている者はという事で御座いますね。

霊の他には絶対に何もないと、霊一元、神の他には絶対に何もない、神我の他には何もない、これを「無我」というんです。


愛はすべての癒し主

その人が愛と調和を知ることによって、いかなるガンも克服できるということですよ。愛に勝てるガンはありますか?、ん、あります?

ガンと愛と戦ってはどちらが勝ちます?、アッハッハ、愛ですよ(笑)
ね、わかりますか。

じゃ、此の世に、癒せない病気があるのか、ないのか、ないですね、
愛を持ってきたとするならば、ね、愛に勝てる病気というのは1つもないのです。

愛はすべての癒し主」です、癒し主ですね、そうですね。

イエス様はなぜ病気治療の名人だったのでしょうか、
愛そのものであられたからだと、ね、
その人のそばにおるだけでも愛を受けたからです、意味分かりますかな?

愛の波動」ですね。
だから周囲の者がその光の影響を受けて、病気が治るわけですね、
あなた方もイエス様のような病気治療の名人になりたかったならば、
これを受けて下さい。

ね、我は大愛の中にあり、大愛は我が中にありと、
私の本性・本質は大愛だったんだと、ね、
全ては愛から生まれて愛だったんだと、
いうことを理解出来ました時に、

目も震えんばかりのね、この肉体細胞が喜びを感じますよ、今ね、
皆さんの前で、こんな事を言うのはおかしいのですけれども

私の細胞ひとつびとつが喜びを感じているんですね、
ふるえんばかりの喜びですよ、

これは想像を絶するものですよ、ね、何故かと言うと、
その細胞ひとつびとつが意識を持ち、喜びを持ってるんですね、
実際に、そのふるい立つ喜びといいますか、というのをね、
体験してみてほしい、と思うんですね。


昇天とは何か

無限なる自分」を小さな自分にしているのは自分自身です。
だから、小さな我から宇宙的我になることを意識の拡大といいます。

意識の高揚というわけです。じゃあ、誰があなたを昇天させるの?ん、
昇天とか成仏というものは、
自我意識状態から本来の「神我意識」状態になる、
神意識状態」なることを、「昇天成仏」というんですよ。

それ以外に成仏があったためしもないし、
昇天という言葉があったためしもない、そうですね。

神我意識」の世界は「神の国」でしょ?
あなたは神我意識にならないでも、神の国に住むの?
自我意識であるかぎり、人間界にしか住めないのですよ。

私は人間だと意識を持った人間が、どうして神の国に入るかということです。あなたが神の国に入るためには、あなたが神意識でなくてはならないという事ですよ。

神でないものがどうして神の国に住むの?ということです。
神ではないと思っている人は人間の世界にしか住めないのです。

だから、再三この人間の世界に生まれてくる、輪廻転生、ね、

転生輪廻というのは、我神なりという神の自覚の出来た人は昇天しますけれども、自分は神であるという神の自覚の出来ていない人間が、一人だって昇天したためしはないのです。

だから、迷った人が昇天することはないのです。
迷った人というのは、自分がある人です。
自負のある人です、これを自縛というわけです、地縛霊というのは。

あなたがなぜ人間界にあなたをとどめているの?
あなたが私が人間だと思っているかぎり、何万回でも人間の形の世界に生まれますよ。

お分かりいただけますか。
じゃあ、誰があなたを助けるの?誰が?自分でしょ。
だから、神は自らを助くるものを助く、汝の救い主は汝自身なりと、
救い主はあなた自身であって、誰でもない、と。

私知花は、あくまでもアドバイザーです、ね、皆さんにアドバイスをしてるだけであって、実際にこれを行動を起こすのは誰なの?ね、
立って歩めというのはその意味なんですよ。

勇気を持って歩みなさい、と、その意識を持ちなさいという意味です。
だから神を受け入れるか、受け入れないかと。

神を受け入れた者であるならば、あなた自身が神意識になっているはずです。神意識にならないでは、神の国には入らないのです

だから神我を通さずにしては神の国にはいることはないと、
わかりますね、神我を悟らずにして。

神我の世界が神の国ですから、神我の世界に入ることが神の国に入るという意味なんですよ。

自我の世界は、人間の世界ですから、人間の世界から抜けきれないというわけです。これを自縛というわけですね、

私は人間だと思った、生涯を終わったとする人は、
成仏ですか、不成仏ですか?

人間意識で生涯を終わった者は、成仏?不成仏ですよね。
自己を知らないまま、無知のまま、己に迷ったまま、迷いですよ。
自分を知らないという事は、迷っているということですよね。

悟った人というのは、自分を知っている人という意味です。
悟ってる人であるならば、この形を自分だとはいいません。

言う?言わない、言ませんよね。
普遍的その大生命を己だといいます、今、考えない、意識しなくても

形をまだ意識して生きているかぎり、自分がありますから、
自負です、自分を背負っているわけです。

自負は即自縛です。自縛は即自我です。
だから、自我意識は、悟りですか?迷いですか?

迷った人には自我意識があるけれども、悟った人には神我意識しかないのです、自我意識はない。
自我意識に生きるか、神我意識に生きるか、だけのものだったのです。


意識は創造原理

 意識は創造原理ということを説明したいと思います。まず最初に意識とは何であるかを知らなければ意識は物をつくる力であり、原理であるのを知るのが不可能になります。

 誰でも意識を持っていますが、その意識が何であるのか判らないのです。どういう働きをしているのかということも、意識・意識とよく言いますけれども、意識とは一体何でしょうか。

 その意識がどのように何であるのかを知っている人は非常に少ないのです。意識がどのように私達に影響を及ぼしているのかを知らねばなりません。皆さん、意識のない人間は一人もいませんし、皆さん方は誰でも意識を持っています。

 意識があります。意識なくしては物は存在しませんから何でも全部意識を持っています。
 その意識が何故、物を作る力であるのか、また創造の力であるかを理解したいものです。

 「意識」とは一体全体何であるかといえば、
「神である」と答えるのが正しいのです。
「神」であり「生命」なのです。

 われわれはその意識を持っていなければ、われわれは今ここに存在もしませんし、生きてもおりません。ですから皆さん方は意識が無くなれば、物を作る力が無くなり力が無くなり物を想像する力もありません。

 この意識で物が作られているのです。われわれの意識が日常生活に如何ように影響しているか、この人は意識の高い人とか、低い人とかいう言葉で表しています。

 意識の高い人とはどういうことを意味しているか、意識が高くなれば高い表現をしますし、低くなれば低い表現をします。この世は表現の世界で現象界ですから物が現れるのです。

 イエスは「創造の場と創造の力は皆さんの内にある」といわれました。
その創造の場と力も自分の内あり、その創造とは夢の中において行われるものであって、過去のものでもなく未来のものでもない。
 それがいま皆さんの意識状態だということです。

 ちょうど皆さん方は今ここに意識が向いて意識が働いて具現している訳でして、皆さん方の日常生活の一分一秒間に意識が働いて物を創造しているのです。
 即ち「意識そのもの」が「宇宙を創造している」のです。物を作り出しているのです。

 低い意識状態の者は低いものを結果的に創りだして高い意識状態の者は高いものをこの地上界に具現していくのです。造り出すのです。

 皆さん方は神意識という言葉を宇宙意識・普遍意識とかの言葉にして言いますが、神意識とは一体何なのか、皆さん方は神意識になりたいとう希望がありますが、神意識が何であるかが判らないと神意識にはなれません。

 神意識とは「我れ神なり」と自分は神であるという意識をしている人が神意識です。

 普遍意識とは何かといえば、自分が普遍意識的な存在であるということを普遍意識というのです。我、神なりといっているならば神意識です。

 そして我人間なりと意識している人は肉意識と言っているのです。
だから「想念は実現の母」とイエスはいっております。

 想念がものを作る、想念は力である。
想念が私達の日常生活の中に環境に全てに現れている。

 私達の意識そのものが神の想念ですから、正想念を常にもち良い想念を持っていますといい結果が現れます

 これを自由意志といい人間には悪いものを意識することも、良いものを意識することも、全て与えられているのです。
 
 それを自由意志、自由選択といいますが、皆さんの日常生活の中に現れているのです。

 想念が高いというのは、理想が高いとか、理念が高いとか、意識のことを理念とか理想とかいうことでも伝えられています。

 理を思うこと神を思うことも理想です。理に叶ったことを常に思うこと、神の意識は完全意識ですから完全のみを思い続けているのです。

 神の意識は不完全ではありません。神意識とは完全意識。何故、神は完全なのかといえば完全のみを意識しているから完全なのです。

 われわれ人間は何故、不完全性が現れるかといえば不完全を意識するから不完全が現れるのです。

 不完全を意識しなければ不完全は現れないのに不完全なものは作らないのに、人間には不完全と完全という自由意志があるが故に不完全も意識して、完全も意識しようとする両面を持っています。

 神に不完全という意識はありません。完全だけを意識しています。その意識は皆さんの中にある。

 それを自由意志・自由選択でもって完全なものを作り出すか、不完全なものを作り出すかは、皆さんの自由意志です。

 皆さん方が常に創造性を完全なものに向けて完全意識を持っておりましたならば、完全状態が皆さんの日常生活に現れを持っておりましたならば、完全状態が皆さんの日常生活に現れてくる筈です。

 ですから創造の場も、創造の力も皆さん自身の中にあります。その意識が全てのものを作り出していますから、その意識のことを内なる神、即ち内在神といわれているのです。

 皆さん方が低い状態のものを意識すれば低いものが現れ、高い状態のものを意識すれば高いものが現れます。そして意識の高い人というのは想念が高いのです。

 今までは我は肉なりという肉意識を持っていた人が、我は大霊なり、
我は大生命なり、普遍なり、無限なり、大宇宙そのものなりという意識状態になった時、意識の高揚、意識の拡大というのです。

 そして今、私達はどこに意識をしているのですか、結果の世界とか低い状態のものを意識しているならば意識の低い人というのです。低いものばかりを意識しているならば、低いものが現れます。

 私達が神のような完全意識を持ちますと日常生活に完全なものしか現れません。意識が完全意識を持ちながら、皆さんの日常生活に不完全が結果として現れると思いますか、皆さん方は自分が思っている通りのものでそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもないのです。

 皆さんの意識状態が皆さんの日常生活に現れている。その意識を常に高い所に留め置かれて、高い所を意識していますとそれが日常生活に現れてきます。皆さん方の自分自身を決めているのは自分自身であります。限定することも開放することもできるのです。

 皆さん方が宇宙意識を持っているか、自分が宇宙そのものであり、大霊そのものであり大生命そのものであると、普遍的なものであるとそのように意識を持っている人は意識の高い人です。

 我は人間なり、我は肉体なりと思っている人は意識の低い人といえます。ですから皆さんの意識が今高い状態に留め置かれているのか、低いものを意識しているかによって、結果としてこの地上階に現れるものも、想念で皆決まってしまうのです。

創造の場と創造の力は汝の内にあり」といわれ、想念は実現の母といわれるわけです。皆さん方は何をするにも行動より想念が先ではありませんか。

 どこどこへ行きたいと思って初めて行動を起こすのではありませんか。想念が全てこの肉体を支配しているといえます。

 また想念は力であるといえます。例えば盗みを働く人ならば盗みたいという意識想念を起こした時、盗みという行動を起こすのです。皆さんは思った通りの行動しかしません。

 意識がすべてを決定づけている意識が肉体の支配者であります。
汝の主は意識なり」といえます。

 例えば、自分は病気だと支配者が意識すれば必ず肉体は支配下は病気を表現してくれます。苦しいと意識状態を起こせば肉体は必ず苦しみます。

 嬉しいと想念が思えば嬉しい表情をしてくれます。それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない。

 そのままの皆さんの意識が、心が、この肉という表現の世界に現れてくるのです。肉体は意識の表現媒体であるといえるのです。

 そして全ては意識がものを創るのです。意識の力が理想を達成させるのです。理想を高く持つということは、意識を高く持つことで、意識を高く持つものは成功し、失敗するものは意識が低いのです。

 想念はものを創るというのはこのことを言っているのです。
この三次元は現象世界といい意識を表現する場所であり、その表現する力でもあり、この「意識」が「内なる神」というのです。

 どんな行動でも想念が主であります。われわれは日常生活の一分一秒の中で想念が非常に関係していることを知らねばなりません。ですから想念をコントロールすることを大切にせねばなりません。

 正しい意識のコントロール、即ち正しく使うことを正想念といいます。正しい想念は正しい結果が現れます。

 私達は思っていることがこの地上階にいくらでも具現できるのです。自分の理想を思い続けていますと肉体はその完成のために必ず働いて実現できます。

 心の次元は霊の次元ですから、思いを起こしていきますと、霊の次元で創られた雛形の青図面は必ず現象世界という結果の世界に現れてきます。

 想念の世界はまた、霊の次元です。霊の次元で創られたものが、結果として三次元という物質界に現れるのです。

 霊の次元の想念は如何に大切化ということになります。だから外界というのは内界の投影・投射に過ぎない結果の世界に過ぎないということです。

 想念の結果、意識の結果がこの世ですから、見える世界はすべて結果世界ですから、心の影とまでいわれるのです。

 外側は内側の結果です。その内側は意識であり想念ですから想念の場、ものを創る原理は私達の内にあるのです。その想念、意識をどう正しく使うかが問題です。

 その想念を自由意志により、ある者は悪想念を起こしますと、結果は悪として生まれる、盗みを働きたいと思えば盗みという結果が現れる。

 想念の世界は霊の世界、即ち神の想念は正想念なのです。その想念は人間が創り出したもので、自由意志で自由選択で創り出したもので、常々に心の中に完全ビジョン、即ち完全想念を描いていると霊次元で図面ができるのです。

 それを絶対に疑わず待っていると霊次元で図面ができるのです。その想念の管理、即ちコントロールが非常に大切なのです。

 想念が低く理想も低くて、生きるのも嫌だと思い続ければ必ず死にます。自殺でもしようか、生きるのも嫌だ嫌だと、常に嫌だという想念を持っていますと、肉体も嫌な表現をします。顔に表現が出ます。

 顔ばかりでなく出て来る波動も暗い波動が出てきます。その意識が日々の1分一秒によって物を作り出していることを知らねばなりません。皆さん方は建設もしますが、破壊もするのです。

 例えば物を買ったとしましょう。これを買って大丈夫だろうかと心配します。せっかく物を手にして具現したものを色々と金が行き詰まってしまって、どうのこうという時にはき的な想念を持つものです。

 そんなことは持ってはいけないのに自分で創り出したものを、自己破壊してしまう想念を創り出し結果として現れるのです。

 私達の全ての人は思っていることの意識が現実に現す超能力者です
超というのはこの世から離れたものの想念の世界で超意識です。それを創り出しているのですからこの世で超能力者で無い人は一人もおりません。
 
 すべて霊的力その想念の力がものを具現しているのですから、物質界という世界に物を創造して作り出しているのです。
 ですから超能力者であるのです。
その「超能力という超意識が神意識そのもの」なのです。

 それが誰でもその中に霊的力があるのです。それを霊能力といっているのです。想念の力そのものが霊能力というのです。

 その霊能力を正しく使えば運命が良くなりますし、破壊的に使えば運命が悪くなります。

 その想念が悪くなれば運命も悪くなります。意識が低下すれば、破壊的に使えば、結果的に日常生活で身体の中に現れてくれます。

 皆さんが完全意識をもてば自分の周囲に環境にすべてに完全なものが現れ、不完全意識を持てば、周囲に環境にすべてに完全なものが現れ、不完全意識を持てば、周囲に環境に不完全なものが現れてきます。

 何故、皆さん方は常に善意に完全意識を持とうとしないで、せっかく恵まれた幸せを崩すのですか、創ってみたり崩してみたりして、その苦しみを体験しておられます。

 神のように常に不動なる完全意識を持っていましたならば、運命に環境に全て完全なるものが現れます。それは、あなた方の想念如何に係わっています。思っている通りであってそれ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 今ならこの意識がものを創る力であり、創造原理であるのが判りましょう。神が一切のものの創造主であるように創造主の力が、皆さん自身の中に留め置かれているのです。

 皆さんが今、理想として自分という意識が想念がはっきりとものを創り出すことが、理解しておられるならば決して破壊的想念とか、低い想念は持たないと思います。

 今、ここに皆さん方の集まりの場が出来上がっているのは、誰の想念の力だと思いますか。それは私、知花の想念の力によります。

 これは沖縄にいる時にはっと閃きまして、即ちイメージが湧きまして、山梨に行って、こういう話をやらねばならないという思いが起こったので、この肉体が行動して1988年10月にここに来ました。こうして私の想念が具現して、そこに現れているのです。

 これは私の想念の結果であって。皆さんは知花の話を聞きたいという想念の結果が今日という結果が今日という日を招いたのです。

 ですから偶然なるものは一つもないのです。すべて必然なのです。霊の次元で起こったものがこの三次元という次元に必然に起こるのです。

 想念の世界、意識の世界は霊の次元ですから意識は霊ですから、想念は霊ですからその霊という原因の世界で組み立てられたものが結果の世界という三次元に物が具現されているのです。だから肉体というものは、はっきりいえば霊の操り人形なのです。

 表現媒体ですから、その表現している霊、即ち意識がなければ皆さんという操り人形はここに存在することはありません。肉体は想念の操り人形に過ぎないということです。想念に振り回されているのです。
 
 この肉体は食べることも寝ることも排便も全て想念が肉体に命令して行動する。意識が肉体を支配しているのです。
 日々の一分一秒でも、意識が働いて肉体を支配しているのです。
 あなた方の肉体から一分一秒間でも意識が働いていない時はありません。肉体から意識は離れません。

 皆さん方は常時、考えたり思ったりしています。それを正しく思い考える意識が如何に大切なことだといえます。

 この地上界に正しく念ずる事が出来るか、思う事が出来るかによって我々はこの地上界に正しく表現するか、悪い表現をするかだけのものです。

 自分自身を良くするも悪くするのは誰に責任がありますか。この責任を誰が負うのかは明白です。全て自分自身が創った環境であって、自ら創った苦しみであって、誰が創ったものでありません。

 あなた方は全てのものを創る意識がありまして、その意識がこの世の結果としてものを創り出していますから、皆さん方一人一人が創造主です。

 神は皆さん方を通じて、ものを創造していらっしゃるのではありませんか。このことがはっきり判りますと意識がものを創り、その意識が神であることが判ります。

 意識世界がものを創り、その意識が神であることが判ります。意識世界はものを創造するのであり、皆さん方の中に意識があり、その意識が神であり、創造主である力を持っているのです。

 そして無限の力を人間のみに与えられています。鉱物・植物・動物には与えられていません。鉱物・植物・動物には決まった一定の創造のみしか与えられていないのです。ですから悪くも良くもなりません。

 彼らは花ならば、その花以上のものには良くはなりません。また悪くもなりません。それは自由意志がありませんから。

 われわれ人間には物を得る力・全て引き寄せる力。創造する力があります。この世に鉱物・植物・動物を作ってその支配者として神さまは人間を創られましたが、われわれ人間は万物の支配権を持っています。

 しかし私たちは万物の低能となり下がったのです。創造の力が低下してしまい、想念の力が低下してしまいまして、悪い表現、悪い結果を生み出してしまったのです。意識の使い方が非常にヘタなのです。

 常に私達が完全意識を持って、完全ビジョンを持っていたならば、目の前にも環境にも素晴らしい物が現れますが、私達のビジョンが狂ってしまえば狂ったものしか結果として現れません。
 神のビジョンは完全ですから良いことだけが、どんどん興ってくるのです。

 神意識そのものになりましたならば、完全意識そのものになりましたならば、やることなすこと、全てが上手くゆくのです

 上手くゆかないのは何がそうさせるかといえば、もう大変だこれは躓くのではないかという意識が躓かしているのです。これはもう完全意識ではないのです。

 例えばある企業を経営しているとしましょう。そしてその経営者が倒産するのではないかという、思いの倒産する状態のビジョンを描いたとするならばその会社は誰が破壊しようとしていますか。

 その会社を自分が建設したのに自分が自己破壊していることになるのです。そのような思いを持った社長の会社に入ってはなりません。必ず倒産します。

社長の想念の世界には霊の世界には潰れるという青図面として出来ているからです。

 その想念を変えない限りアカシック・レコードといいまして想念形態といい、霊の次元ではその人の運命として想念形態が霊の次元では青図面としてあるから、それが具現してこの三次元に現れるのです。

 その人が持っている想念形態を観ればその人の運命と想いが判るのです。

 その通りのものが三次元の地上界に現れますから、悪ければ破壊的意識を持っていることや悪想念の破壊的な想念意識を持っているのが判るのです。

 その想念意識の部分を徹底的に直すことによって、その会社を潰さずに生き返らせることが出来ます。その想念意識を変えない限り確実に潰れるのです。

 霊の世界・想念の世界では潰れることが判っても、三次元の世界はゆっくりとしか現れません。それはバイブレイションが違うからです。

 思ったことがすぐに実現するのではありません。霊の世界で潰れることのビジョンを作っているのですから、潰れるのが当たり前なのです。

 夫婦の離婚もそうです。私達の夫婦はもう仲が悪くなったから、こういう具合に離婚していくだろうとイメージを創るのです。
 分かれたときの準備・お金・住む場所などのビジョンの世界を創ります。

 その通りのものを肉体は働きますから結果として地上界に実現させるのです。とんでもない間違った状態をビジョン化するのですから。皆さん方は創り主・創造主です。

 いま現に皆さん方は物を創造しています。だから創造したものが日々の生活の中に現れるのです。ですから常に良いものを創造し建設してゆかねばなりません。

 最初は夢でもいいのです。夢が実現されていくのです。不可視の世界が可視の世界を創っていくのです。

 皆さん方は宗教で救われるものではありませんが、宗教をやったら幸せになるという意識を持ったならば、どんな宗教でも間違った宗教でも、幸福に成るという意識であるから成るのです。

 宗教でよく病気を治すといいますが宗教が病気を治したのではなく、病気の本人の意識が治ると思っているのですから治るのであって宗教では治りません。此の宗教に入れば治るという意識が結果として治したのです。

 ですから「の信ずる通りなり」といわれるのです。宗教そのものに力があるのではなく我が内に力があるのです。
 幸せになるのも健康になるのも自分自身なのです。

 薬でもこの薬を飲めば病気が治るという意識が大切です。こんな薬は飲んでも治らないという意識があれば、飲んでも治りません。
 それほど意識の働きが重要です。「汝の信仰、汝を活かす」のです。

 自分を活かすも殺すも自分の意識次第です。ですから皆さん方はその意識を常に正しく使うことが大切です。

 その意識を建設的に使い破壊的に使わないことです。同等の力ですから、原理ですから、創造の力も創造の場も皆さん自身の意識次第ですから。

 どういう意識をもてばいいのかそれで運命も決まるのです。常に建設的な意識を持つことが救いになるのです。その救い主が皆さん方の中にあるのです。

 その救い主こそ唯一の救い主です。
だから「汝の救いは汝自身なり」といわれるのです。
神は自らを助くる者を助くる」といわれる意味です。

 嬉しい嬉しいと毎日思い続けている人は毎日が嬉しいのです。また悲しい悲しいと想い続けている人は、毎日が悲しいのです。

 嫌だ嫌だと思えば毎日イヤなのです。それはどうしてだと原因をいえば、意識であるということです。

 肉体は意識に絶対服従ですから、嬉しいと思えば顔はニコニコします。嫌だと思えば嫌な顔を肉体が表します。
その表現は皆さんの心次第です。その心が意識だという事です。 

   この世は心の影とか意識の鏡などというのです。私は意識の高い人ですといっても、その人の日常生活をみれば現れているものが不調だらけやら不完全なことが多いならその人は嘘であると判ります。

 悟りとは常に完全意識・神意識までに到達するということです。ですがその使い方が問題なのです。不完全を意識しながら結果的に完全を得たいと思っても、得ることはできません。破壊的な力と建設的な力は同一の力です。

 戦争を起こしているエネルギーと平和のエネルギーは同一のエネルギーです。
 それは本人の意識次第によって、ある者は戦争を起こすのに使い、ある者は平和に使っているだけなのです。あなたの心が平和であるか不調和であるかは意識次第です。

 自由意志・自由選択で皆さん方は使っているのです。どうか皆さん方は自分で自分の自由を奪わないように自分を開放して頂きたいと思います。

 私は小さい頃から失敗という言葉がないのです。失敗したら成功だ、こういう事をやるとこういう結果になるのか、これは発見したのだ、新しい発見だ、やってみたから判ったのだ、と何時も希望があるのです。

 何時も発見して行くのです。マイナス思考がないのです。ものを何時も善意に善意に解釈していくのです。

 皆さんも常に善意に解釈して良い意識を持てば、良い結果がどんどん生まれてくるのです。そうすれば悪いものが無くなるのです。

 悪い荷物から開放されるのです。お金も今はなくっても何時かあるようになると思えば必ずあるようになるのです。

 何時も無いと思えば無いのが当たり前になってしまいます。無くっても有る意識がお金を生み出すのです。

 自分に無くっても銀行に有るそれを利用すれば良いはずです。誠心誠意によって土地なりの担保でお金が借り入れできて、そのお金でものが実現するのです。意識の力によって出来るのです。

 この現象界でこのものを買ったからどうなるという低い意識、破壊的な想念を持たないことが大切です。素晴らしいものが興るのだという意識が素晴らしくするのです。

 夫婦でも結婚して良い家庭、良い子供が出来るように、常に完全意識・完全ビジョンを持ち合わせていると必ず具現するものです。

 この世の三次元に現れるのです。結果の世界に現れるのです。それが皆さんの真の祈りです。想念、即祈りです。

 皆さんの想念が何故実現しないかといえば、その想念をすることも少ないが、払い下げることも早いのです。

 例えば、この前まではこういう場所にこういう家を建てて住んでみたいと折角思っても、すぐに駄目だと、霊の次元で青図面を描いても、それを具現するまでは常に高い意識に留めおかないと実現しません。
 結果が今出ないといって意識を払い下げてしまうと実現はしません。

 霊の次元で描いたものは必ず実現するのだというビジョンの意識を高めていれば必ず実現するのです。霊の次元と、この三次元とはバイブレイションが全然違いますから思ったことがすぐに現れるものではありません。

 しかし皆さん方のバイブレイションが、神への信頼感を持つようになって、高いバイブレイションとなったならば祈りと結果はすぐに一つになります。

 ですからイエスのバイブレイションの高さによってこの世にものを具現するのも、祈りとその結果はすぐに一つとなったのです。
 
 われわれもそこまで完全意識になれば、すぐ即祈りと結果はその場で一つになるのです。祈りと個体は一つになるのです。
 それがその場で具現する時代がやってきます。

 皆さん方がバイブレイションが低い限りにおいては相当の時間を要しますが、イエスみたいにバイブレイションが上がってきますと、その同じバイブレイションが働きますから、すぐそこでものが具現するのです。

 ちょうどイエスが三千人か五千人かのひもじい人々にパンを分け与えられたというのは、このビジョンを描かれたのです

 想念の霊の力で意識を起こされたのです。
神の意識と同通しておりましたのです。

 それが実現されて三次元的に、このパンが三千人か五千人位の人々に分け与えられたのです。

 それはその人の想念の高さ、意識の高さがバイブレイションの高さですから、皆さん方が常に意識が高い所に留め置けば、常に意識が高いということで、バイブレイションが高い人だということです。
 
 皆さん方は、たまには意識を高くするのですが、すぐに落として低くしてしまう。低い意識状態を起こしてしまいます。

 どこかのエレベーターのようなもので、今日は高い意識状態であるのに何か周囲で悪いことが起こると、すぐに下の方の地獄に落ちてしまうという結果、それを「善悪の知恵の実をまだ食べている」というのです。

 絶対善・絶対完全の意識状態を不動心といいまして留め置くことが大切です。これを神が私のハートに定着されたと完全性が定着した、完全意識状態のみが定着したことを「我がハートに神が着座なされた」というのです。

 不完全な意識は神の意識ではありません。神意識とは何かといえば完全意識です。

 常に皆さんの意識の中から不完全性も無くならず完全性も持ってなく、完全も不完全も思うならば、結果も全て完全となって現れるのです。

 ですから意識がものを創っている力であり、創造の力である。創造の場も、創造の力も、我が内にあると日々一分一秒間の意識の思いが、如何にわれわれの日常生活に影響しているかを知らねばなりません。

 皆さん方の今日という1日1日を完全な意識状態に留めて置くことが、絶対に成さねばならない。

 この世に現れる創造の原理であることを知り、正しいものを創造しているか、悪いものを創造しているかは、皆さん自身であることを知って戴きたいのです。


人間はなぜ神か 神の心 人の心

 「神の心」と「人の心」というものがありますが、本来は一つの神の心しか存在致しません。
 大宇宙という中心に神の存在があり、大宇宙そのものが神の心です。

 そして、私達人間には、個別化された心というものがあります。しかし、その個別化された心というものは、大宇宙の神の心の中に存在致します。

 常に神は私達に啓示を与え、中心を与え、私達を守って下さっています。私達の心に色々なインスピレーションを、その啓示を与えて下さっているのです。

 しかし、人間が勝手に、神からの中心を断ち切ってしまっているのです。神の御心のように、神から送られた中心によって私達が動いているならば、

浅瀬に乗ったり、困難にあったり、事故災難にあったり、病気になったりする事はありませんが、私達は神から分離して、神の心から離れてしまったために、神からの中心を自らが断ち切ってしまったのです。

 それは、常に母船より小さな船へと、中心を発信しています。けれども人間が受け付けないのです。
 受け付けない為に自分が勝手に生きていると、自分が勝手に動いていると思い込む様になり、自分勝手な行動をしているのです。

 私達が自分勝手な行動を取るのではなく、人の心が常に神の心を素直に受信して、私達の人生なる航路を航海していますと、道を間違う事無く、道に迷う事無く神に導かれ、幸せな健康な、完全なる状態を保つ事が出来るのです。

 この肉眼では観えませんが、大宇宙の中心には神の中心部があります。皆さん方の肉体にも、中心部の心というものがあります。

 心というものは、船でいえば舵取りです。船長です。私達の肉体を動かしているのは心です。心が命令してそれで肉体が動くのです。
 その心というものが間違っていますと、私達の言葉遣いや、想いや、行動のすべてが間違ってしまうのです。

 私達は、神から派遣された小舟のようなものです。お互いに出て来た所は一緒です。ですが、お互いが敵だと見なしています。

 私達はお互い敵ではありません。味方同士です。あなたも私も味方であり、一つの根源から発生したものです。

 私達の心は常に神の心と連結されて、繋がれて、神に素直になって人生行路を送るようになればこの世に躓(つまず)く事はありません。

 神の心というのは完全無欠の心です。決してそこには、不完全なるものは存在しない事が分かるようになります。ですから、「神に素直でありなさい」と、私はいつも申し上げているのです。

 私達は今、自分勝手に生きています。だから自分は何処から出てきたのかも分からないのです。闇の人生を、闇の旅をしている小舟の様なものです。

「肉体は魂の乗り舟」といい、肉体そのものは魂を宿している、心を宿している一つの乗り舟、航海の乗り舟に過ぎないのです。 
 今、私達は三次元という次元に、旅をしている小舟の様なものです。

 あなたが神からの中心を絶やす事がなければ、この世の航海は困難ではありません。非常に楽しく航海が出来ます。

 その力は全て神から、神の中心エネルギーは全て神から与えられていますが、そのエネルギーさえも私達は遮断するようになってしまったのです。

 消極的という人の心はマイナスのエネルギーのことで、そのエネルギーが全てを破壊してゆくのです。消極的というのは破壊的エネルギーの事です。

 積極的というのはプラスのエネルギーの事で、建設的エネルギーの事です。神は常に建設的エネルギー、プラスのエネルギーを私達に注いで下さっています。
 しかし、人間が勝手にその積極的エネルギーを、消極的エネルギーに変えてしまっているのです。

 その消極的というものは「心の在り方」その想いが一番大事なのです。心が消極的である時、私達は自己破壊を招き相手を破壊してしまうのです。

 プラスのエネルギーをマイナスのエネルギーに変換してしまい、私達自らが神から遠ざかり、その神の力を失っている状態です。

 皆さん方は、今からでも遅くはありません。自分自身の全てを神に委(ゆだ)ねるのです。
 神に素直に「我が心を導き給えと、神の心に委ねてゆく事によって、全ての神の力を、我がものとする事が出来るのです。全知全能です。その力も知恵も、その完全さも、この世で現す事が出来るのです。

 神からの中心を断ち切っているのは、自らの自分勝手な想念(自我)です。そうすると、この舟は闇に人生行路を航海します。どのようにして何処へ公開するのかが分からない。何処に辿り着くのかが分からない。
 
 指示命令するというその完全なる指導者(神我)が付いていないから、何処かの浅瀬に乗り上げるか、色々な荒波に揉まれるか、あるいは転覆するか、その航海が困難になるのです。
 その事がこの世の悩み、苦しみ、罪、汚れを犯す事になるのです。

 神につながっておれば、素直に神からの中心に従う事が出来るのです。
そして「私達の心と神の心が連絡されている」という事を悟り、

常に、神に委ねて生きていられる様になれば、今日という1日も、神の導きによって航海する事が出来、平安と安らぎの中に、力と知恵の中に生きる事が出来るのです。

 今、皆さん方は、神と人とは全然別の存在だと考えているのです。神はどこか別の所にいて、〈神と自分とは別の存在だ〉と思う事が迷いです。
 その迷いというものを断ち切らない限り、私達は神からのインスピレーション、天啓を受ける事が出来ないのです。

 それは、あなたの持っている自我の心。私は私。神は神。あの人はあの人。という分離観念、分離意識、あるいは表面意識という外なる意識が、肉の意識が妨げとなって、神からの啓示を断り続けているのです。

 素直な心になって《おお、我が神よ、我が父よ。今日も我を導き給え》と、その父なる神にお願いをして、神に心を全開すれば、私達には知恵と力と愛が流されます。それを思った瞬間にそれが充満するのです。

 神と私達の分離は一切ありません。一つなのです。しかし、それをあなたの自我の心で境目を造り、あなたは神を分離して考えるのです。

「何かの修行をしないと神に至る事が出来ない」という誤った教え方の為に、賛美歌を唱えないと神と繋がらないとか、お経を上げないと神と繋がらないとか、誤った指導者が出て来たために、この世に現れている乗り舟である人間は、余計に混乱させられてしまったのです。

 神と自分を分離させているのは、自分自らの心で〈分離している〉という想いの中にしか、それは存在していません。
 《一つである》と想った瞬間に、皆さん方は一つと繋がります。知恵と力に繋がります。その知恵と力がある事を、皆さん方は認めていないのです。

今、私は神とつながって、神の知恵と力に私は満たされている〉と想った瞬間、皆さん方にはその神の知恵と力が満たされるのです。

 しかし、私は神からの分離で人間であると想っている(自我・偽我の)人は、神の知恵と力には満たされる事はありません。

 私達は非常な過ちと罪や汚れを造り出しています。何をしでかすか分からない、勝手な行動をしているのです。

 それは舵取りのない様な、船長が乗っている様な、いつ何処に、どのように辿り着くかも分からない、まるで漂流している船のようなものです。

 舵取りは神です。私達の舵取りを見守って下さっているのです。人生行路が過ちを起さない様に、舵を取って下さっているのは神の心なのです。

 その船長に従わないで、私達はどう、航海する事が出来るのでしょうか。その中心部から、《こういう具合に航海したら危険ですよ》
《こういう具合に航海したら非常に素晴らしい人生行路が送れますよ》

という具合に、毎日、昼夜休みなく、一分一秒の休みなく、神は私達に通信して下さっているのです。

 それなのに、それを私達の自我で神からの通信を遮断してその聞く耳を持たない。神に従わない。自分勝手に自分の欲望達成のためにもがいているのです。
 そこには事故、災難、病気、様々な苦痛が出てきます。神の言う事を聞いているならば、そんな事は一切関係なく私達は平安な航海をすることが出来るのです。

 それが分かるようになりますと、神の心に人の心が従うようになった、委ねるようになった、という事になるのです。

 そして、心を全開して〈神よ、我を守り給え。我を導き給え〉と祈る心を起こした瞬間、神は《分かってくれたか……。では、私のその想いを行ないなさい。私の御心を行ないなさい》と応(こた)えて下さいます。

 そして神の御心を、私達が神の御心を想い、人生行路を歩むならば、この世で苦しむ事は一切ありません
 しかし、私達の自我で、神の知恵と力を遮断して、神からの啓示を断ち切る事によって迷っているのです。

 皆さん方が神に還るためには、その通信されている神からの中心を素直に受け入れて、素直に航海する事によって、これまでの長い長い人生の度は終わり、神の御元(みもと)に還るのです。神の御国(みくに)に入る事が出来るのです。

 その事を、イエス様は「我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と言われ、私達に航海を間違わないようにと、常に神に至る道を示して下さっているのです。

 私、皆さん方の前にいるこの知花は、神の心とつながり神の御心を行っている状態にいます。私の心は常に神の愛に満たされ知恵に満たされています。
こんなにまでも神は私達を愛して下さっていたか」という事が分かるのです。

 今まで私達は色々と何回もその航海の旅に出ました。何世紀に渡って、何転生もかけて、この世に現れてきました。

 けれども、神の御心に従わず、勝手な振る舞いをし、勝手な航海をして来たのです。今こそ神に素直になり、神からの中心を受けて航海しようではありませんか。

 そうすれば、皆さん方は本当に素直な、健康と幸せの中で航海することが出来ます。波風は立ちません。人生の浮き沈みの苦難な道もありません。

 それは全て神が沈めて下さるからです。神が全てを示して下さるのです。荒れている海の航海と、静かな海の航海とは、神には全てが分かっておられ、「この道を歩むと平安である」と、「この道は苦難である」と、私達はその示された道に従って航海して行く必要があるのです。

 世の中の人は、今、神を散々空想し妄想してもがいています。しかし、それらの人々が空想している神は何処にも存在致しません。

 神棚に神を祀って、そこから啓示を受けて航海しようとする人ばかりです。神棚を通して神に通信を送れるものではありません。

 私達の生きた神の中心を、その受信機であり送信機である心を通じてのみ、神はお働きになられるのです。その受信機であり送信機というものは、皆さん方一人びとりが持っている『心』の他には存在致しません。

 その『心』が皆さん方の運命を決めているのです。心の素直な人は善い運命を辿(たど)りますし、心が非常に不真面目で自我の強い人は悪い人生を歩むのです。その人生行路を歩むわけです。

 それは自我の強さによって変わるものです。神に素直な心になって、神と一体になって、私達が人生行路を歩んだならば、非常にやすらぎと平安と幸せの人生行路となるのです。

 今、皆さん方の心に通信されて来るもの、神から通信されて来る事を信じますか。信じるならばあなた方は、今、即、信じる瞬間に導かれます。

「そんな事があるものか……」という疑問心があります。古い長い習慣で皆さん方は神から離れていましたので、中々神に素直になれないのです。

〈知花の言っている事は嘘ではないだろうか。そんな事があるのだろうか。おとぎ話の様なものだ〉と皆さん方はきっとそう思います。

 しかし、現実的に素直になってみて下さい。神と繋がりますと、物凄い強烈な力が皆さん方に現れるのです。

 それは宇宙力といって、この宇宙の力を我が力とする事が出来るのです。そのエネルギーは積極的です。これは神の心にのみ存在致します。それを受け入れる体制が出来たなら、受け入れたならば、物凄い力が出てくるのです。

 しかし、受け入れない人には力が出ません。そのエネルギーを破壊的な人の心で消極的なものに、破壊的エネルギーに、つまりマイナスのエネルギーに変換してしまうからです。

 本来、大宇宙そのものには、宇宙力という一つの力しか存在しません。その一つのエネルギーしか存在しないのです。そのエネルギーを受ける側が善い方向に使うか、悪い方向に使うかによって決まるのです。神の力を悪用するとその人は罪を犯している、という事になるのです。

 例えば、あなたの発する言葉、その発生音というものは神のエネルギーです。そのプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに、自らかってに変換したとするならば、それはその神のエネルギーを盗み取った盗人です。それが罪となって、苦しみとなって、その人に跳ね返って来ます。

 人に「○鹿○郎!」といった瞬間に自己破壊です。その神のエネルギーを、自分自身が変換した罪を報いなくてはならないのです。
 人を憎む心もその通りです。人を憎んだ瞬間に、神の積極的な心を人のさもしい消極的な心に変えてしまったのです。
 
 その建設的エネルギーを破壊的エネルギーに変えてしまった、変換してしまった、人を憎むという事は破壊です。

 せっかくの建設的エネルギーを、破壊的、消極的エネルギーに変換する事によって、私達はその罪を報いなくてはならないのです。

 ですから、皆さん方は神の積極的なプラスのエネルギーを、消極的なマイナスのエネルギーに変えないようにする、その心掛けが必要です。

 そうなれば、皆さん方の前から破壊というものが全部なくなります。今は自らが破壊しているのです。

 皆さん方の想いが消極的である間は、一切、知恵でも力でも幸せでもありません。そのエネルギーの使い方を識別しなくてはなりません。

「私はもう駄目だ」という事はもうすでに消極的です。
〈私はもう駄目だ〉と想った瞬間駄目になってしまうのです。

 せっかくの健全なるエネルギーを、駄目だというエネルギーに自分が変えてしまったのです。その瞬間あなたはマイナスのエネルギーに満たされてしまいます。

 皆さん方の人体のエネルギーは消極的、破壊的エネルギーに、皆さん方が勝手に変換してしまったのです。

 自分は健康であると想っているのは、積極的エネルギーです。自分が素晴らしいと想った瞬間、それは素晴らしい建設的なプラスのエネルギーです。

 自分に力があると想った瞬間あなたに力が出て来るのです。自分には力がないと想う人は消極的ですから力はありません。

 事実そうなのです。その力は想いというもので、プラスにもマイナスにも自由自在に、私達人間の心が変換してしまうのです。

 厄介(やっかい)なものです。自分の想いというもので自分を低い低い次元にまで落としてしまう、本当に落としてしまうのです。

 この事は、皆さん方が食べているその食べ物にも言えるのです。例えば、このミカンがそうです。私がこのミカンを食べる時、
〈物凄く健康になる、力になる〉と思った瞬間、そのミカンは神の心に変わります。それは積極的エネルギーに変わるという事です。

 しかしこのミカンを食べて、人の心が〈これが力なんかになるものか〉と想った瞬間、そのミカンには力がなくなります。

 皆さん方はいつもお食事を頂きます。お食事を頂く時、神に感謝して
我が食する物は全て、神の積極的なエネルギーとなり、プラスのエネルギーとなって我が力となる》というその想いで頂きますと、その食事はあなたにとって強烈な力となるのです。

 しかし何も想わない。神にも感謝しない。ただ、食べたいから食べているだけという様な、マイナス思考を持っているならば、その食事は力にはならないのです。それは神の心に素直ではないからです。

神の心というものは、積極的な心のことです。それが神我です
「人の心というものは、消極的な心のことです。それが自我です」

 積極的は神我なのです。これが真の私達です。本来、私達は積極的な心しかなかったのです。神の心しかなかったのです。

 消極的は自我にあります。それが「自我の心」といって、自らの心を造り出してしまっている。それが次元を低めて、神の力を落としてしまっている状態です。

 ここにミカンがあります。皆さん方はこのミカンを食べて、このミカンに力があると思いますか。〈ある!〉と想うと、その瞬間にあなたはこのミカンにエネルギーを与えたのです。

 奪う事も、与える事も、あなたの心が神とつながり、受信する事によって、いくらでも出来るのです。この事は、このミカンではなく皆さん方の食生活全てのものに当てはまります。


-----それは、ここでも実験する事が出来ます。

皆さんの前で、このミカンに消極的力を与えると、マイナスのエネルギーとなります。そのミカンを食べる事によって力があるかないか。
 消極的とはどういうものか。心ひとつで、想い一つで、それを交換できる事を実験して見せます。皆さん信じますか。物凄い力なんですよ。

 あなたにこのミカンの皮を向いて頂きましょう。そう、皮をむき終わったら、半分に割って下さい。食べられるように、一切れ一切れに分けてください。

 別の人。はい、あなた、前に出てきて下さい。では、私がこの人に向けて、人間の心で〈このミカンを食べても力が出るはずがない〉という想いを起こします。それからこのミカンを食べてもらいます。

 まずミカンを食べる前に、この人の力を試してみます。では、立って下さい。私と腕相撲してみましょう。う~ん、相当力持ちですね。
 はい、もういいです。これだけの力のある人が、このミカンを食べると力が無くなるのです。

 はい。食べて下さい。食べましたね。どうですか、食べた瞬間、力がなくなりますよ。〈このミカンはもう駄目だ〉と、私が消極的な想いを起こしたから、この人はもうボロボロなんですよ。このミカン一切れで力がなくなるのです。

 今、この人は子供みたいな力になっています。力が入らないのです。では、もう一度私と腕相撲してみましょう。さあ、どうでしょう。
 この通り力がないのです。あなたがどれだけ頑張ってもこの通りです。まるで小さな子供と腕相撲しているようなものですね。

 これを、今度は宇宙エネルギーに変えます。積極的エネルギーに変えてみます。このミカンを食べますと、宇宙の力がその人に存在します。

この同じミカンの一切れに《これは神から与えられた偉大なるエネルギーの根源である》、と私はこれに感謝してこの人に食べてもらいます。

 では、あなた、エネルギーが出て来ると思って、このミカンを食べて下さい。このミカン一切れを食べる事によって、もうこの人は、今、大変な宇宙力を持っています。これは、神から宇宙の力が与えられたのです。

 これは、前の消極的エネルギーから、積極的エネルギーへ、プラスのエネルギーに変換したのですね。

 このように皆さんの中にある積極的な想いと消極的な想い、その想いというものが、これほどの力があるという事を分かって頂きたいのです。

 これは誰が出て来てやっても同じことなんです。誰か他に希望者があれば前に出て来て下さい。誰でもその力を試す事が出来るのです。

 だから、皆さんの想いでこのミカンをいくらでも変換出来ます。変換して〈宇宙大の力が出る〉と想って食べてみて下さい。事実、その通りになっています。

 しかし、その力は目には見えませんから、証明する事が出来ないのです。こうして試す事は出来るのです。でも、それを誰も信じてくれないのですね。

 言葉も力です。力は言葉に出て来るのです。言葉にどれぐらい力があるかという事を、知らなくてはなりません。
 私は今ここおにいるこの人から、いくらでも力を奪う事が出来るのです。この人を零(ぜろ)にして、私は百にする事が出来るのです。

 では、そこのあなた、前に出て来て下さい。さあ。私と握手しましょう。こうして握手する事によって、私はこの人から力を奪う事が出来ます。

 私位はこんなに背が小さいでしょう。この人は大男ですね。この人の方が力がありますね。でも、もうこの人は力がないのです。私に全部この人のエネルギーが流れてきたのです。

「私が全部吸い取った」という言葉を出しましたので、この人にはもう力はないのです。はい、あなた、力を入れてみて下さい。どうですか?力が入らないのですね。

 その力を奪う事も与える事も出来るんです。またこうして、私がこの人にエネルギーを与えます。《エネルギーよ。私からこの人に流れて行きなさい》と想った瞬間に、瞬間にですよ。時間も空間もないんです。
 
 瞬間にこの人のエネルギーは流れて行くのです。どうですか。皆さんお分かり頂けますでしょうか。
 はい、もう結構です。ご自分の席にお戻り下さい。-----

 
 これが皆さん方の思いの中と、言葉の中にあるのです。皆さん方の日常生活の想いが、如何に無知な消極的エネルギーに、マイナスのエネルギーに変換しているかという事です。

 あなたの病気の原因は、みんなこれから来ているのです。
〈私は病気だ〉という想いは病気のエネルギーが流れます。そうすると病気を必ず造ります。なぜ自分の中に自分で病気を作りたがるのですか。

自分は健康である〉と想えば健康のエネルギーが流れるのに、〈自分は病気だ〉という想いを起こすと、瞬間に、あなたはそのエネルギーに満たされるのです。病気というエネルギーという悪魔にやられてしまうのです。その事を無知というのです。

 私は、いつも皆さんに申し上げております。「なぜ健康になる根源を、皆さん方の心一つで健康にもなれるのに、なぜ不健康な想いをするのですかと、常に申し上げているのはその意味なのです。

 私がなぜ病気知らずだと、私の家族皆が病院知らずだというと、人間は所謂(いわゆる)心で病気を造り、病は気からという様に、《私達家族は皆健康である》という想念を一杯持っているからです。

 そうしますと病院に行く必要はありません。常に、健康なエネルギーが流れているからです。

 皆さん方が病気という想念を起こした瞬間、病魔があなたに入ります。そのマイナスのエネルギーが、破壊的エネルギーで自己破壊を招くのです。

〈近い内、私は病気になりはしないか……〉と想った瞬間に流れています。そして「とうとう私は自分が思った通りの病気になってしまった。私は超能力を持っているのだ」と言うのです。

想念は実現の母』といって、それは想った通りのあなたにしかなれないのです。病気になる事をあなたが望んだのです。

 自分はどこどこが悪いのだと、悪いエネルギーを毎日送るのです。何処に行っても、誰に会っても「私はどこどこが悪い。何々という病気だと思う」というのです。

 そうすると、病気だと想うエネルギーがそこに集中的に集まって、その通りの病気になってしまうのです。それを想っている間は絶対にその病気は治りません。

 なぜならば、自らが病気だというエネルギーを、マイナスの破壊的エネルギーを送るからです。それを送らなくなった時に治ります。忘れた時治ります。

自分は健全である。その様な事は私の心の過ちであった。エネルギーの使い方が分からなかった為、私は心の過ちを犯した》という事を、悔い改める事によって、今、即、治ります

「そんな事があってたまるか」と、反発する自我の強い人は治りません。
神に素直になって、〈想いというもので、こんなにも自分の肉体がエネルギーに関係しているのか〉

という事が分かって、自分の心が神の心に素直になった瞬間に、皆さん方に救いが、癒しの手が差し伸べられます癒やすも癒さないも自分自身にかかっています。神に素直になるかならないかだけなのです。
 
 神の心というのは積極的な心、積極的な想いの事です。《自分は病気である》という想いは消極的です。積極的というのは〈自分は健康である〉という想いの事です。それが積極的な心です。プラスのエネルギーの事です。

 だから皆さん方には、健康的なエネルギーしか与えられていないのです。健康の力しか与えられていないのに、自らの過ちがその力を破壊的に使ってしまい、自己破壊を招いているのです。

 身体の何処かが痛いという人がいたら、すぐそこで〈あなたは痛くありません〉と、それに命令するだけで、その積極的なエネルギーが入って行くのです。
 その人に入って行くエネルギーは、あなた方の心でコントロールするのです。

神の意識を、神の心を我が心として』。それを御言葉(みことば)といいます。言葉をエネルギーに変換した、その積極的な言葉遣いは神の御心です。
消極的な言葉遣いは悪魔の言葉です。悪魔からの使いです。

「私は病気だ」という言葉は神にはありません。神の心にはありません。悪魔の心にしか存在しないのです。
 それは魔の心です。神の心は積極的、魔の心は消極的であるという事を忘れてはなりません。

 皆さん方が今、魔の心を多く持っているのか。神の心を多く持っているのか。それによって皆さん方の運命が違って来るのです。

 しかし、そういう心を今、瞬間的に使うだけではなくて、常日頃からそういうエネルギーを想っている事です。

私と神は一体である。神の全ては私のものであり、私のものは神のものである」と。

知恵も、力も、愛も、全て私のものとなってそこにある〉と想う事です。四六時中想うことです。そうした時、皆さん方は四六時中、神の中で生きています。それは素晴らしいことなのです。

 これが事実である事が、いくらでも証明できる様になります。
例えば「水を飲んで病気を治す」「水を飲ませて病気を治す」というその事は、〈この水に宇宙エネルギーが充満している〉という想い、

想念を起こす事によって、事実その水に宇宙エネルギーが集中されて癒しの水となるのです。
 これを飲む人は物凄いエネルギーに満たされて、そのお陰で病気が癒されるのです。皆さん方が四六時中、神の中で生きておれば、それは事実において出来るのです。

 神の力には私達の自我では及びません。及ぶ事が出来ないのです。ですから、神の力というものを皆さん方は半信半疑でいるのです。

 癒す力も全てあなたに備わっています。特別な人間というのはありません。神に素直に行っているか、行っていないかだけなのです。

 人の病気は「はい、あなたは治りました」と、言葉だけで癒せます
「治りました」という瞬間に、その人が癒されるのです。それがイエス様の癒しであったのです。イエス様は大病人でも癒されました。

 その事は、イエス様が完全なる神の心と、ご自分の心が一体化なさっていたからです。ですから、イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。


『父なる神と私は常に一体である』

 父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。

 ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。
 実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。

 それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。

 それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い、そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。


人間はなぜ神か 創造者と被造物

 皆さん方があの世に帰った時、皆さん方は何を問われると思いますか。
 神は「あなたは私に何をしてきたか」と言われるのです。
「隣人に何をして来たか」と言われるのです。
 隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です。

 ですから、「あなたは、わたしを憎んで来ましたね。私に嫉妬しましたね。私を貶しましたね。私の悪口を言いましたね」と言われます。

 あなた方がそのまま、罪、汚れのままで周囲の人を憎んでいたならば、謗(そし)っていたならば、怒っていたならば、裁いていたならば、そのように問われると思います。

 悟っている人ならば、内界に還る人ならば、この形体に捉われずに、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観のです。

 皆さん方がこの世に生を持っているのは、一つのものになるためなのです。皆さんの心には分離と差別があります。一つになっていないのです。

 そして『一つの存在である』と悟る事が一番大きな悟りです。
これを「大悟」といいますあなたの中の生命も、私の中の生命も、隣人の中の生命も一つの生命、一つの生命しか存在しないのです。

 この世に肉体を持っている者だけではありません。先にあの世に還った方々、肉体形体から離れた方々も一つの生命であるのです。

 同じ生命です。あなたの命、私の命というのは何処にもありません。その事を皆さん方は非常に理解に苦しんでいるのです。
 命は分離しているものではない。どうでしょうか。分離していると思いますか。今ならお分かりだと思います。

 この全宇宙というものは、一つの生命にあるのです。この事を「大生命」といいます。この大生命の中に、大生命という存在の中に、個別化されたその形体というものがあるだけです。いくつも形体があるわけです。

 そして、皆さん方の生命はこの大生命と一体です。この大生命から離れているものは一つも存在しない事を、皆さん方によくご理解頂きたいのです。

 幾つもあるように見えますが、皆さん方はその形体というものを見るから、「私の命だ、あなたの命だ」というのです。

 その大生命という一つの中に、皆さん方の生命があるのです。外側を見るから、目が眩んで私達は迷うのです。内を観れば一つである事が分かるのです。

内観しなさい。神の国は汝の内にあり、外に神を求むるなかれ」というのは、その事を言うのです。

 私達は見えるものによって無知にされています。例えば、私があなた達に「あなたと私は一つですよ」と言った時、あなた方は怒るはずです。

「こんな汚い顔の人と私は一体ではない」というはずです。
入れ物が違うだけで、形体が違うだけで、中身はあなたのものも私のものも、みんな同一のものです。

 世の中に、色々な着物があるようなものです。しかし、内なるものは同一のもので、皆さん方は神の分け御霊であるのです。分生命でもあるのです。

 その分生命とは、このように個別化されているが故に、個別化された生命の事を「分生命」というのです。しかし、個別化と分割とは意味が違います。

 形体の外にも神はまします。と同時に、内にも神はまします。
それは「私達は神の中にいると同時に、神は私達の中にいます」という事です。これがイエス様のお悟りであり、お釈迦様のお悟りであったのです。

 皆さん方も、最高の絶頂の悟りが得られるのです。しかし、一つの問題があります。皆さん方がここで神理の話を聞くには聞きます。

 ある人は石のように硬い土に私の神理を聞いた種を蒔こうとします。私の神理を聞いて「ああ、素晴らしい」と一時的には涙を流して喜びます。

 しかし、せっかく発芽した種も、石のように硬い土のため根を張る事が出来ず、それは枯れ果てて行きます。

 そして、またある人は雑草の中に種を落とします。神理の話を聞いたものの周囲はみんな雑草のため、その雑草の影響を受けて同じ様な雑草になってしまいます。それらの人達は、せっかくの神理の悟りというものを実らす事が出来ないのです。

 ある人は、良き土地に深く根を下ろします。これはその人の信念で、信仰で、私の説く神理を、心の奥底に根強く実らす事のできる人です。そういう人は実りのある魂となります。

 ここで私の話を聞いて、涙を流して感動をしたものの、私の元を去って行く人が一杯いるのです。

 これは石のように硬い土に植えられた神理で、一時的に感動はしたのですが根付く事無く枯れてしまい、それは何の役には立ちません。

 あるいは、神理はよく理解したつもりでいたけれど、家族達や周囲の人達がみんな迷い人であるために、そこで身動きできず、そのまま雑草と共に枯れていってしまう。

 これは雑草の中に蒔かれた霊的種といって、この事を、イエス様は麦の種蒔きの例えで言っておられます。

 私のこの話を皆さん形は聞いていますが、どれだけの人が根を下ろして、それを我がものとするか、自分のものとしてそれを生かすか。

 生かすも殺すも自分次第です。良き土地に自分の信仰を植えているか。石のように固い土地に植えているか。

 道端に植えて黒い鳥(カラス)に食べられてしまうか、雑草の中に植えて雑草の影響を受けているのか。今、皆さん方のその道は非常に険しいものですが、自らそれを開かなくてはならないのです。

 如何でしょうか。もう大体、神についてご理解頂けたでしょうか。今までのように、世の中で説かれている神々と、今聞いている神々と、どちらが正しいと思いますか。
 神棚や祭壇の中に神がいるというのは、幼稚であるか、白痴であるか、何かであるはずです。無知なるものは、神に対して罪するものなのです。

 神は私達の手よりも足よりも身近に、現実的に私達の中で働いておられるのです。その神を外に求めています。何百万もかけて神棚を作り、その中に神がおると一生懸命拝んでいる人がいます。可哀相な存在です。

 これもみんな無知の仕業です。その形体に、被造物に目が眩(くら)み神を知らない者です。ですから、今まで自分が信じて来たものを、全て放棄しなければなりません。

 それには大変な勇気を必要とします。
本物を知るためには、これまでの偽物を放棄しなければならないからです。

 神のみが生きておられます。神のみが生きておられるのであって、人間が生きているのではありません。それをよく理解して下さい。
皆さん方は神以外に何かがあると思っているのです。何もないのです。

 神は無限です。神の他になにかがあるならば、神は無限にはなりません

無限の中に別のものが存在すると思いますか。無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。

 無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。神の他に何かがあるというならば、それは人間の心の迷いが造り出したものなのです。それを「不完全なもの」というのです。

 私達はまだそういう神理的なものに、目覚めていないのです。それに目覚めなくてはならないのです。

〈な~るほど。よく考えてみると神からの分離はありえない。なぜなら神は無限であるといわれるし、その無限の中に私達は存在するのだ。

 その事が達は神の中に生きているという事になる。そうすると神のみが生きているという事になるのだ〉と。

 神の他には何も存在しない。そのことを神一元といいます。光一元ともいいます。

 お釈迦様は「宇宙即我」と言われました。宇宙即我というのは「宇宙は私であった」という事です。なぜならば、大生命という宇宙の中にあなたは存在するのです。そして、全体としてのあなたであるのです。

全体はあなたであり、あなたは全体の中で生きている」。その全体が大宇宙であるのです。その宇宙はあなたであると同時に、あなたは宇宙の中の存在であり、その中の生命であるのです。
 ですから、皆さん方も「宇宙即我」なのです。

 何処を見ても、何を見ても神しかありません。神は天をお造りになり、地球をお造りになり、その中に住む動物、鉱物、植物、そして人間をお造りになったのです。

 人間も動物、鉱物、植物の全て、あらゆるものは神に被造物に過ぎません。その中に、神ご自身が命として宿っておられるのです。

 ですから皆さん方は、やたらに生き物を殺せないはずです。殺してはならないのです。それは神の宮を破壊することになります。

 命は破壊する事が出来ません。しかし、被造物である宮という、この世に現れる使命を果たさんがための形体は、崩す事が出来るのです。

 イエス様は十字架にかけられても、この形体は破壊できても、命は破壊出来ませんでした。すぐ復活されたのです。3日で甦られたのです。

 イエス様は偉大なる方でしたので、肉体までも復活して甦られたのです。イエス様が如何に偉大なる人物であるかという事は、創造者と被造物の関係を、すべてお悟りになられた方であった事で分かるのです。

 肉体を持った人間だけが、この大生命の中にいるのではありません。肉体を離れた皆さん方の身内の方は、幽体をまとったという形体だけが違うのであって、一つの大生命の中におられるのです。

  だから身内の方々は「私は肉体を離れても、もっともっと身近にあなたと共にいるのですよ」と言われるのです。

 なぜならば、この三次元にいるときには、どうしても三次元という肉体の束縛を受け、飛行機に乗らなくてはならない、自動車に乗らなくてはならないのですが、

 しかし、この世を去った方々は、飛行機も乗り物も何も必要としません。ご自分が行きたいと思った所に、即、いつでも、何処でも、自由に行くことが出来るのです。

 そして皆さん方は、その方々からいつでもご守護、ご加護を頂けます。ご指導頂けるのです。だから「私は生きていた時よりも、もっと身近に皆さん方のそばにいます」と言われるのです。

 イエス様は二千年前にお亡くなりになりましたが、現実にイエス様の御名(みな)を語れば、即、そこに救いとして現れると言われているはずです。

「キリストの御名において」と唱えておられるはずです。皆さん方はいつでも、イエス様のキリストの救いを受けることが出来るのです。あるいは、お釈迦様を念ずる者は、色々と仏陀のご加護を受ける事が出来るのです。

 しかし、皆さん方に一番大事なことは、その創造者と被造物との関係をよく理解する事です。悟ることです。

 必ず、その造られたものの中には、神がおられる事を絶対に忘れてはなりません。

 花一輪の中にも、小鳥一羽の中にも、どんなものの中にも、その形体を神が創造されて、その形体の中に神が宿っておられるのです。その事を、皆さん形に強く申し上げたいのです。

 これを本当に、心からそれを信じ、心から信仰出来た時、皆さん方はどういう気持になると思いますか。これこそ天界というものです。

 自分の心の中に邪気が残ってない。愛しか残っていない。慈悲しか残っていない。これを「仏の心」というのです。「神の心」というのです。
 その時は、もうすでに皆さん方は久遠の生命を得ています。生死をさまよう事はありません。

 外界というものに、束縛されてはならないのです。この世の制限から、束縛から、皆さん方は開放されなくてはなりません。その無知が、そこに捉らわれる無知が、制約を受け束縛を受けるのです。

 皆さん方を苦しめているのは、この制約、束縛なのです。これを主体性として捉えることによって、苦しみを得ているのです。

 主人であり、支配者である本物は内におられます。偽物の写しである外なる形を、私達は偽我といっているのです。
 偽物の我、実相の我、神我そのものの我。その区別が皆さん方には出来ていないのです。

 これが理解できた時、「もう何ものも私を束縛する事はない。それは私の中にまします神が全ての支配者であった。この支配者は内なる神の現れであられた」と、自覚できる様になるのです。

 しかし皆さん方は、まだまだ古い習慣性を持っていますので、なかなかそこを理解しようとはしないのです。

 その自覚を瞑想を通して〈この私の肉体は神がお造りになって、この私の中に神が宿っていらっしゃるのだ。

 イエス様が「人間は生ける神の宮である」と言われたのはその意味だったんだ〉と悟る事が出来た時、もう憎むものがない。怒るものがない。喧嘩をするものがない。

 それを理解していない間は、皆さん方はまだまだ生死の苦しい、浮き沈みの激しい奴隷化を、束縛を受けています。

 これに捉われている人間は、生きているようで死人です。だから、私は「この世の中で本質的に生きている人間を見た事がない」というのは、その意味なのです。

 インドのサイババさんは、こういう事の形体の全てをお悟りになり、その法則をご理解されていますので、神の化身と言われているのです。
「自分は神の化身である」と、ご自身が言っておられるのです。

 あなた方もそれが分かれば、「私も神の現れであった」「神の化身であった」というはずです。そうじゃありませんか。

 本質的において、皆さん方とサイババさんと何が変わりますか。それを知っているか、知っていないかだけなのです。

 皆さん方も神の化身です。ただ〈化身ではない〉と思っているのは、外なる形体に目が眩まされているだけなのです。

 外なるものと内なるものとの理解が出来るようになります皆さん方はもう救われています。このことは非常に大切な事なのですが、皆さん方は、今ここで解放されるか、そのままその外なるものの被造物に捉われて、それの奴隷下に置かれるか。束縛下に置かれるか。ということです。

 支配者は内にまします。しかし、私達は、今、外なるものの形の支配下に置かれているのです。これを物質の奴隷化といい、物質の奴隷にされているのです。

 この世の如何なるものも、私を妨げる事は出来ません。
「私はこの世の妨げを受けない」という事は、この被造物である形体は、この創造主が全てを支配し、創造主が神である事を私は知っているからです。

 その創造主が、全知全能の神が、自らの中にも宿っておられる事も私は知っているからです。だから、私はこの世のものの支配者なのです。この世を克服した者なのです。

 イエス様もそう言われたのです。しかし、皆さん方はまだまだ克服していません。形や姿に捉われています。この世の敗北者です。

 真の勇者というのは、被造物をすべて自分の内面(神我)によって支配させた時、形あるものの価値観というものを知っています。朽ち果てるものである事も知っています。

 色褪せるものであり、変化してやまないものがこの形体なのです。だから、皆さん方の形体は、どんなにあなたが若くありたいと思っても年をとって行きます。その年を取っていく我を、皆さんは見つめているのです。

 あなたに年を取らない我がいるのです。これを何かといいますと、創造者であられるあなた自身の命そのものの事です。

 本質においては年を取りません。あなたの着物が古びていくようなものです。あなた方は、自分の着けている着物が古くなったら「私は年を取った」

と言いますが、着物が年を取ったのであって、あなた自身が年を取ったのではありません。着物が古くなったのであって、あなた自身が古くなったのではないのです。

 肉体というものは、丁度(ちょうど)、着物が古くなると脱ぎ捨てる様なものです。肉体が着物ですから、着物は永遠ではありません。

 肉体をいう衣装、即ち、神現す衣装も、古くなると脱ぎ捨てるのです。命という中身が永遠なのです。

 皆さん方には「久遠の生命」をよく理解して頂きたいのです。一番の問題は、創造者と被造物の関係をよく理解する事です。

 信念において、本当に心の底から理解した時、もうあなたはこの世で悪口を言わないはずです。
 言っていたならば迷いです。分かっていないからです。悟っていないからです。 

 皆さん方が周囲の人の悪口を言うならば、あなたはまだまだ本質的には無知です。自分自身が死人であり、無知であり、迷いである事を知らなくてはなりません。

 よくよく考えてみて下さい。これは一度聞くだけでは分かりませんので、常に瞑想(内観・全てに神を観るを)し、軽く目を閉じて、

〈この肉体は神がお造りになって、神がここに中に宿っておられる。そうなれば人様はみんなそう(神・大愛)なんだ。周囲の者、生きとし生けるものみんなそう(神)なん

と分かるようになった時、皆さん方はものを正しく観ている事になるのです。これが八正道の「正しく観る」「正しく思う」「正しく語る」というものです。

 今、皆さんの五感の目というものは、正しくものを観ていないのです。形体しか見ないからです。皆さんは中身を観る事は出来ません。

 外なる見るという事は、この「見る」です。内なるものは「観ずる」事です。それがこの「観る」というものです。「見る」と「観る」とでは全然違います。

 皆さん方は「みる」といえば形を見るものと思っています。「観る」というのは「観ずる」事ですから、この「見る」というのは形体を見て、迷いの五感で見ているのです。

 しかし、これはあなた方の心の目で観るのです。皆さんはよく、みる、みる、と言いますが、この「見る」事だと思っている人が多いのです。

「見る」と「観る」というように、「みる」というものが二通りあります。
『観る』これを心眼、あるいは、意識の目といいます。

 軽く目を閉じて何かを想うと、その想ったものが観えて来ませんか。心の目で観えるはずです。

 あるいは、宇宙を観る事も出来るのです。その観るがこれなのです。目を閉じていても観えるはずです。
 それは心が観ているのです。意識が観ているのです。

 皆さん方は「みる」といったらすぐ形に捉われて、この見るを考えるのです。形を見ると思っているのです。それは大きな間違いです。そこをよく考えて頂きたいのです。

 私達は目を閉じていても色々なものが観えます。心で想っている通りそれが観えます。例えば、昔どこか遠くに行った時の場所も観えます。遠く離れた人の顔も観えます。心で想ったものが観えるのです。

 しかし、五感の目では、遠くの場所や遠く離れた人の顔は見る事は出来ません。目を閉じていても心の目はみんな観えるのです。

 だから、この五感の目は如何に近目であり、何も分からない無知の存在であるかが分かるのです。

 心の目、意識の目は自由です。心の目で意識の目でものを観るならば、色々なものが観えるのです。そして、意識の目がそこ(大生命・大愛・神我)に向いた時、皆さん方は現実にそこに行って観ているのです。それがはっきり分かるようになります。

 今は、皆さん方はそこまでいっていません。なぜならば、本物が、自分と創造主の関係さえ分かっていないからです。

 皆さん方は目を閉じて瞑想をしている時、色々なものを観ているのです。その事についても、もう大体お分かりになったでしょう。

 皆さん方に私が強く申し上げたいのは、神と造られたものとの関係です。その形あるものはみんな神が造られたものであって、我々人間が造ったものは何一つ無いという事です。

 何度も申し上げていますが、働き手も神であるのです。皆さん方は自分が働いていると思っているのです。あなたが働けますか。
あなた自らは一切[無]なのです。肉体は働かないのです。

 働いているのは、あなたの内なる神があなたの中で働いているのです。生きているのも神のみが生きているのであって、働いているのも神のみが働いているのです。

 私がこうして皆さんの前でお話ししているのも、私という知花が働いて話をしているのではありません。私の中に、働き手である神、生命そのものがあればこそ、私はこうして皆さんの前で働く事が出来るのです。

 あなた自らは無です。あなた自らは何も成し得ることは出来ません。あなたに命という神の活動源がなければあなたは働けますか。
 あなたの働きは誰が働いていると思いますか。それがあなたの中の神です。

 ですから、皆さん方は自分が仕事をしたとか、何かをしたとか思っていますがそれは錯覚です。あなたは自分では何も出来ないのです。
でも、みんな出来ると思っているのです。そこに非常に問題があるのです。

 もう一度申し上げます。あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは本当に現実的に仕事が出来ますか。しかし、皆さん方は出来ると思っています。それが問題なのです。

 あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは現実の仕事が出来るでしょうか。その働き手が神なのです。その神が仕事をしているのです。

 それが分かった時、皆さん方は無我の境地となります。
私は自らは無であって、私の中で神が働き給う。なるほど、中で働き給う働き手は神であったのだ〉と、この事が分かると謙虚になります。

 もう威張らないのです。なぜなら威張るものがないのです。自らに威張れるでしょうか。自分が働いていないのに、「私がやった」というのは盗人です。謙虚な気持ちがないからです。

 神を知らない人が威張るのです。自分が造ったものもなければ、自分がやったというものもないのです。みんな神が働いておられるのです。

 そうなりますと、あなたは何を威張るのですか。あなたの中に神が働かなかったら、あなたは何が出来ますか。その働き手は神なのです

 今、世の中で威張っている人は、神を知らない、真の自分を知らない人です。神がどの様にして自分の中で生きておられるのか、働いておられるのかが分からないのです。いかに世の中が無知であるかが分かります。

 今、如何に自分が無知であるか、実相において無知であるかが分かります。それはみんな形体を、その形である被造物を物差しとして考えているからです。
 だから、皆さん方は「私がやった。私が造った。私のものだ」というのです。

 完全なる神を、皆さん方は蔑(ないがし)ろにしているからです。神をそっちのけにしています。

 内なるものを皆さん方は自覚しておりません。内なるものこそが本物であって、外なるものはその道具にしか過ぎない、写しにしか過ぎないのです。

 皆さん方の子供を造るのも神がお造りになるのであって、お母さんが子供を作るのではありません。お母さんが子供を造れたなら大変な事です。

 お母さんが子供を造るのではない、お母さんの中に宿っている神が子供を造るのです。命が生命を造るのです。

 それを「これは私の子供です。私が造って、私が産んだ子供です」というならば、それは無知であるという事です。

 本物を観ていないのです。形でものを判断して、被造物でものを判断して、外なる目でものを見ているのです。それは大きな間違いです。

 本物を観ることです。真の我(神我)を知ることです。それには、日常生活の中で本物の観方(みかた)を訓練しなくてはなりません。
それを訓練して、いつも自分に言い聞かせるのです。

創造主が私の中におられて、私の肉体は被造物であって、その中に神はおられる〉と。

 神がおられるのです。神が自分の中におられるのなら、人様の中にも神はおられるのです。

 だから人様を神とみなし、見えるものの中に、全て神が宿っている事を知るようになったら、感謝と、喜びと、分かち合いと、助け合いになるのです。
 
 今、助け合えないのはなぜでしょうか。それは形に目が眩んでしまっているからです。ご理解いただけたでしょうか。

 今日から皆さんの心は晴れると思います。清くなると思います。それは、憎むものがないからです。

 謗(そし)るものがないからです。怒るものがないからです。その対象物がないからです。怒りようがないのです。

 それを知ったならば怒れますか。奪い合いも出来ません。なぜなら、人から奪う事は神から奪う事になります。
 だから、人を嫉妬する事は神を嫉妬する事になるのです。

 私がいつも言う「迷っている人間の言葉に迷わされてはならない。迷っている姿に迷わされてはならない」とは、その事なのです。

 その彼等は本質から離れた迷い人であって、本来の姿を現しているのではないのです。

 だから「闇の中にいて闇に染まらない我であれ」というのです。その闇に染まる人間というのは、雑草の中に生えている霊的種であるのです。

 周囲が闇で、迷い人で、この創造物に目が眩み、形に目が眩んでいるものが自分の家族の中に多くいるとすると、あなたは雑草の中に蒔かれた種のようなものです。

 だが、この影響を受けないように、力強く芽を吹き出す事が大切です。周囲が如何に迷い人で雑草であっても、その影響を受けない力強い根強い信仰が大切です。

 家族の者が勉強している同士であれば、周囲に雑草がありませんから非常にやり易いことはやり易いものです。実りが大きいのです。

 実を三十に付ける者、五十付ける者、八十付ける者、百付ける者、実り多きあなた方はその環境によっても十分影響を受ける事も分かります。

 しかしたとえ家族の者が迷い人で雑草であったとしても、それを乗り切らなくてはならないのです。

 これからは、皆さん方の目は、正しくものを観る事が出来ると思うのです。今までは正しくものを観ていなかった事に、反省出来るでしょうか。

〈無知の目で、五感の目でものを見ていたのだな。形でものを見ていたのだな。内面の心(全てに神を観る見方)でものを観ていなかったのだな〉という事が分かると思います。

 正しく観る(全てに大愛を観る)ということは、五感の感化(外)にあるのではありません。正しく観る(神一元・愛一元・光一元というのは、私達の神我の中にあるのです。

 この神理を皆さん方に見せる事は出来ません。神理は皆さん方が悟るしかないのです。感じるしかないのです。それ以外に方法はありません。

 是非、1日も早く皆さん方が、正しくものを観たり感じたりする事が出来ます事を、お祈り致します。


人間はなぜ神か 神の心 人の心

『父なる神と私は常に一体である』

 父なる神と私達とが一体であるという事(想い)が、父なる神のすべての力が私達のものとなるのです。あなた方が一体ではないと思っているから、父なる神の力をあなた方は貰う事が出来ないのです。

 ただ言葉だけでは中々理解して頂けません。何か人に示す事はないだろうかと、先程皆さん方の前で実験して示したのです。

 実験で示しましたが、本当は『我を観ずに我を信ずる者は幸いなり』と、その言葉の通りのものなのです。その事を知ってほしいのです。

 それが見えなくても、その奇跡を顕(あらわ)さなくても
ああ、なるほど、宇宙にはこういう力があって、私が素直な心でそれを受け取る心構えが出来ておれば、
 神様はこんなにも素晴らしい力を私に恵んで下さっているのだ〉と、それを想う心が大切なのです。

 それが信仰というものです。信仰心を高める事が大切です。
信仰心を高めるという事は、
積極的な想い、積極的な思考、積極的な言葉遣い
そういうものを起こす事が、皆さん方の信仰心を高めるという事なのです。

 それは、全て建設されて行きます。その建設されたものを破壊しているものは、消極的な心、即ち、マイナスのエネルギーで、
「私はもう駄目だ。私位は学問もない。力も知恵もない。財産もない」という悲観的なもの、消極的なもの、これが自己破壊を招くのです。

 私達が本当に神に素直であれば、痛み苦しむ事もないし、病気になる事もないし、あるいは、経済的にも苦しむ事もないのです。

 全てのものが私達の実相の世界に、神の恵みを与えられているのですが、ただ私達が受け取らないだけなのです。

 全てのものです。全ての全てです。その全てのものが知恵であり力であり、その全てのものが与えられているのです。

 この私が神と一体である限りは、この世に存在する自然の摂理さえも、私を妨げる事は出来ません

 例えば、私がどこか遠い所へ行こうとすれば、例え飛行機に乗る切符がなかろうが、それを妨げる事は出来ないのです。必ず私に飛行機の席を開けてくれます。

 それは自然をみんな克服しているからです。自然のものの節理によって私を妨げようとする事は出来ないのです。

 そして、その出発する日に台風が向かってきたとしても、私自身がどうしてもその所へ行かなくてはならない神の御心であれば、私は必ず行けるのです。

 その台風はよそに流れて、私の行く手を遮(さえぎ)る事は出来ないのです。なぜならば、そういう風さえも、雨さえも、そして海さえも、全ての自然を支配しているのが私達の力であるからです。

 ですから、今、人間が思っているその様な小さなものを、自我で支配しているのではありません。これは全てのものを支配している力です。それが宇宙力なのです。

 それが皆さん方の一人びとりの中にあるのです。それを素直に受け入れるか。素直に自分のものとするかしないか、という事です。

 しない人は苦しみます。する人は、素直になれる人は本当に幸せで健康で力と知恵に満たされて、安らぎの生活を送ることが出来るのです。毎日が楽しいのです。

 こういう楽しい人生行路があったのに、その楽しい嬉しい人生行路は誰のお陰だと思いますか。それは神の御蔭(おかげ)なのです。

神の心を素直に受け入れる』。この私達の心が、神の心を受け入れる事によってのみしか出来ないのです。これを信仰というのです。それ以外の信仰は何処にも存在致しません。

 真の信仰というものは、実在する神の力を、神そのものを受け入れる事なのです。神そのものに全託(ぜんたく)する事なのです。
 これは真の救いであり、現実的であり、実際的となるのです。

 皆さん方はもう今日から健康になれます。その秘訣をここで学びました。自分の身体に関して一切消極的な想いを起さない事です。

 健康になる秘訣をもう一つお教えしましょう。それは年を取らない事です。なぜ年をとると思いますか。

〈自分は幾つになったから〉と、年齢を意識した瞬間に私達は年を取るのです。年齢を意識しない事によって年を取りません。

 本来、人間に年はあるのであって、実相世界には年は存在致しません。私もその過ちを犯して40数年余りの肉体舟を持っておりますが、
 以後年を取らない様に、年を数えない様に、幾つになったと聞かれても、
「分かりません。神のみが知っています」と言っています。

「あなたは幾つになりましたか?」「分かりません」と言っています。
「年と私とは関係ありません」と言っています。

 自分の年さえも忘れるくらい幸せになる。これは浦島太郎になります。浦島太郎は年を忘れていたのです。それは真理です。そうすれば、自分は浦島太郎の様に年を取らないのです

 これは海の中で年を取らないだけではなく、私達が本当にこの世の竜宮のような、幸せで平安で生きる喜びに、人を助ける喜びに、神の心に満たされていたならば、この三次元が、即、竜宮であるのです。

 今の私には、自分の年を考える時間など持ち合わせておりません。喜びにあふれて何日であるかも何曜日であるのかも、事実分からないのです。

 旅をしていても今日は何日なのか、何曜日なのか、殆ど意識していません。私に聞いても「暦を見て下さい」としか言えないのです。
 分からないのです。 なぜならば、私は、時間、空間、距離を超越しているからです。

 皆さん方は心配をします。その心配する事はマイナスのエネルギーです。
よく心配するお母さん方がいます。心配は破壊のエネルギーであり、自己破壊のエネルギーであり、消極的なエネルギーです。

 子供を心配するお母さんは、あたかも愛情深いお母さんの様に見えますが、そのお母さんは「無知のお母さん」になります。あるいは「無知のお父さん」にもなります。それは子供を破壊します。

〈カゼを引きやしないか。病気になりはしないか〉と、子供に、毎日マイナスのエネルギーを送っているのです。そうすると、子供は熱を出したり、カゼを引いたり、とうとう病気になってしまった。

〈私が思っていた通りになってしまった。私はそれを見抜く超能力を持っている〉と、自分の子供を病気にして自分を自慢し、それを人に言いふらしているお母さん方もいます。

「私には2~3日前からこの子がカゼを引くと分かっていたのです。案の定、熱を出しました。私は直感力がいいのですね」という人がいました。

 それは病気になれ病気になれと、「なれ」とは言葉ではいいませんが、〈なる、なる〉と思っていますからその通りになるのです。それは破壊のエネルギーを、子供に注いでいるからです。

 その意味がお分かりでしょうか。そのエネルギーの使い方を間違えるとあなたは罪人となります。目に見えないエネルギーで、人を傷付けているのではありませんか。

 例えば、癌患者がいたとします。医者は癌は治らない不治の病と思っていますから、〈これは癌だから、もうじき死ぬであろう〉と、このマイナスのエネルギーをまず最初にその医者が起こします。看護婦が起こします。

 医者は家族の人に伝えます。奥さんは〈私の主人は癌で死ぬのだ〉と、子どもたちは〈お父さんは癌で死んでしまうのだ〉と、家族全員でマイナスの破壊的な死の念を送ります。

 そして身内の人を始めとして、親戚の人、知人、友達までが寄ってたかって殺してしまうのです。集団殺人です。

〈癌だから治らない。もう助からない。もう死ぬのだ〉と、大勢の人からマイナスのエネルギーを送られますから、もう本人はたまったものではありません。

 癌は治ります。決して不治の病ではありません。しかし、一旦癌を病むと殺す人が周囲に一杯いるのです。妻でさえ主人を殺す張本人です。

〈癌は死ぬ。もう助からない〉と、大勢の人の心で消極的な心で集団殺人をするのです。恐ろしい事です。目に見えないだけで本当に恐ろしい事をしているのです。

 見舞いに来る人もその人を殺しに来るのです。
「早く良くなって下さい」と、治すために、励ますために来るのではなくて、みんなの念によってたかって殺しに来るのです。

〈この前来た時よりも今日の方が弱っている。もうそろそろではないか〉と、〈もしかすると、明日か明後日には呼ばれるのではないか〉というような念を、消極的な念を、集中的にその人に送っているのです。

 敏感な患者なら身内の人が病院に入って来る事が分かります。身内の人は心配という消極的なエネルギーを絶えず強く送っています。

 本人は身体の調子を悪くする、その暗示をかけに来る身内の破壊的な念が近づけば近づくほど、本人にはそれが分かり苦しみだすのです。

 皆さん方もそういう無知を、目に見えない罪を犯してきたのではないでしょうか。それが罪でなくて何でしょうか。

 私達が神を知っていたならば、そういう罪を犯さないと思うのです。
ですから「言葉遣いに気を付けなさい。想いに気を付けなさい。そして行為には気を付けなさい」と、私はいつも皆さん方に言っているのです。

 あなたの想いが消極的ではないか。あなたの言葉が消極的ではないか。あなたの行為が消極的ではないか。消極的な言葉や想いや行動は、私達が神を裏切る行為なのです。罪を犯している姿です。

 今、地球上には、そのような破壊的な波動が、闇の波動が一杯です。その波動を清めるために私は《大丈夫だ》というエネルギーを送っています。

 大丈夫という言葉。それは強烈な世の救いです。全体に大きく影響するのです。今ここでも、私は《大丈夫だ》というエネルギーを送りました。そうするとそのエネルギーは全宇宙に影響します。
 
 皆さん方が〈もう大変だ〉と思った時は、破壊的エネルギーを全宇宙にばらまいたのです。それは罪です。あなた一人だけの破壊ではなく、全体に大きく影響する事を絶対に忘れてはなりません。

 目には見えない集団殺人という事が、この説明でお分かりだと思います。可愛さのあまりに人を殺してしまう。それは無知の姿です。

 子供がよく病気になるのもその一つです。子供が病気にならないように、常に大丈夫だという愛のエネルギーを、その言葉と思念でもって守ってあげる事です。

 家庭においても家族の人がお互いに、一切、消極的な言葉を出さない事です。そうなれば、その家庭は常に積極的な神の心の中に、光の中に生きている事になります。消極的な言葉と想いのある家庭は、闇の中に生きている事になります。

 皆さん方の家庭が闇の家庭か、光の家庭か、それは皆さん方の想いが消極的なのか、それによって決まります。

 常に、家庭の人が積極的に生きているなら、積極的そのものは神我ですから、神と共に生きている家庭人です。そこには神が充満します。
 神のエネルギーが、建設的エネルギーが充満しています。

 神の中に生きたいならば、私達の言葉や想いが積極的でなくてはなりません。それは神と一体である証です。

 現実的に、実際的に、その力の影響をお守り受けている姿です。その事を、皆さん方は知らなくてはならないのです。

それを実践する日常生活の中に、真の救いはあったのだ」と。
神棚を作る事によって神が働くのではなくて、
「自分は神の心の中に生きる者であるか。人の心という外に生きる者であるか。それは自分自身の心次第であった」という事をよく知って欲しいのです。

 あなた方は今まで人の心で生きて、神の心で生きてはいなかった。あなたが神の心と一体となって、神に全開して生きることが如何に大切であるか、という事をよくご理解頂きたいと思います。その力を、即、今日から応用して頂きたいと思います。

 言葉は神なりき。言葉は力なりき。だから私達の言葉は力であった。初めに言葉があった。言葉は色々な物資となった。

 神が『光あれ』といえば光が発生した。神が『海あれ』といえば海が誕生した。神が『山あれ』といえば山は誕生した。神が『動物あれ』といえば動物は誕生した。

 その支配者として、すべての自然の支配者として、その自然の全ての克服者として、万物の霊長として、神は最後に人間をお造りになったのである。

 神は最後に『人間あれ』といわれた。そして、神は人間の形体を、その雛形を造られ、神ご自身が私達の中に住み給うようになられたのである。
 それが創世記である。
 
 この世の全てのものは、私達の支配下にある事を忘れてはなりません。その事が万物の霊長なのです。だから私達は海の神を礼拝してはなりません。
 山の神を礼拝してはなりません。火の神を礼拝してはなりません。水の神を礼拝してはなりません。決してそれらを崇拝してはなりません。

 火はあなたの為にあります。水はあなたの為にあります。山はあなたの為にあります。海はあなたの為にあります。

 あなたがそれらの神を拝んだとすると、あなたはそれらの神より下になります。あなたの為にそれらの神があるのであって、それらの神の為にあなたがあるのではありません。

 それらの神を一生懸命拝んでいる人がいます。火は人間の為に造られたのであって、火のために人間は造られたのではありません。海も人間のために造られたのです。山も人間のために造られたのです。

 ですからそれらの神を祭って一生懸命拝んでいる方々、人間は間違えています。自分が全ての支配者であり、克服者であることを忘れています。世の中には「如何に間違った神々が祀られているか」という事です。

 しかし、それを粗末にしてはなりません。自分の生きる糧ですから、尊敬しお互い愛し合う海であり、山であり、火でなくてはならないのです。

 ですが、それを自分の上に置いて、それらの神々が私より上だと錯覚している妄想家が、如何に多いかという事です。

 火の下にいるとあなたは火の災いを受けます。火をあなたが支配すれば火はあなたに従います。海を礼拝すれば海の災いを受けます。

 しかし海を支配すれば私達は私達は海の災いを受けません。山を支配してしまえば、山の災いをうけないのです。決して事故、災難に遭う事はありません。

 しかし、山の災難に遭うのは山に支配されているからです。海の災難に遭うのは海に支配されているからです。火の災難に遭うのは火に支配されているからです。
 山の神が、海の神が、火の神が、それらの方が私達より上だと思っているから、色々な災難に遭うのです。

 私達はこの世の支配者である事を忘れてはなりません。私達はその上に立つ者です。決してその下にあるものではありません。 

如何に人間が神であるか」という事を、みなさん方一人びとりが自覚されんん事をお祈りしなたら、こうして「神の心、人の心」をお伝えしているのです。

 そこに力の全てを、その神の力を現す事が出来るのです。肉体というものは皆さんの支配下にあるものです。しかし世の人々は今この肉体に支配されております。肉体はあなたの心でいくらでも支配できるのです。

肉体よ。神の使命を果たしなさい〉と、あなたの心で肉体に命令すべきであって、なぜ肉体に使われなくてはならないのでしょうか。

 肉体はこの三次元の乗り舟に過ぎません。その有限なるこの世的なものに支配されてしまって、本質的な自分自身の心を忘れているのではないでしょうか。

 心が主人であって肉体が主人ではありません。肉体は心の下僕です。召し使いです。しかし、世の人々は召し使いである肉体に支配されています。

 私達は、この肉体に支配すべき心を持っている事を忘れてはなりません。心があくまでも主人です。

 皆さん方の主であり、克服者である『汝自身のキリスト』を忘れてはなりません。それが、皆さん方に内在する『内在の神』あるいは『内在のキリスト』というものです。

 皆さん方は神の御心そのものを、知恵と力と宝物を持ち合わせております。それをよくお悟りになって、我がものとして頂かん事をお祈り致します。


人間はなぜ神か 神と人間の関係

 私達は自分自身の中に神を秘めています。
「キリストとは何か」と言われたら、皆さんは人格神のイエス・キリストを想像します。
 十字架にかけられたイエス・キリストの姿を想像しますが、そのキリストは皆さんの魂の中におられるのです。

 ですから、この肉体というものはその魂の中におられるキリストを顕現する、この世でキリストの働きを現す媒体であり、そのキリストの住処(すみか)であり宮であるのです。

 しかし、その宮なる肉体、その肉体に皆さん方は捉われています。皆さん方一人びとりが、自分の中にキリストを宿している事を忘れてはなりません。

 世の中では、自分の浅はかな物差しで人格神を作って唯一の救い主と拝んでいます。神は皆さんを通してお働きになられます。
 決して人間の手作りのお宮を通してお働きになるのではありません。

 神は「あなた方は生ける神の宮なり。仏の宮なり」と申されています。
生きた神が皆さん一人びとりの中におられるという事です。

 その生きた神の名前がキリストであり仏陀であるのです。それは宇宙意識の事です。私達の神性なる意識の事を「キリスト」といい「仏陀」というのです。
 キリストを宿し仏陀を宿している魂そのものが、偉大なる存在である事をあなた方はみんな忘れてしまっています。

 それでは「人間と神の関係」はどうなるのでしょうか。もうここまで話をすれば、個人個人でそれを理解していかなければなりません。
 本当に「自分の肉体を通してキリストをこの世に顕現しているのだろうか」と言いたいのです。

顕現するのだ〉と、努力する事です。自我という肉に溺れない様にし、にくから出てくる欲望を禁制しコントロールする。
 それを克服する事によって、神性なるキリストが私達を通して現れる様になります。これを成さずにして、何者もこの世の使命を果たした事にはならないのです。

 私達と神とは切っても切れない関係です。「キリストより語る」。それは言霊となって、神の誓願となって、その力は偉大なものとなります。

 私は以前、片方の耳が聞こえない人に会いました。その聞こえない耳は鼓膜喪失のため、医者は治療不能であると診断したものです。
 
 私はキリストより聞こえない耳に命令しました。
『耳の意識よ、しっかりしなさい!』『神の使命を果たしなさい!』と。

 その時、何が起こったと思いますか。鼓膜のない耳が聞こえる様になったのです。その人は「聞こえます!」と言うのです。小さな声で「もし…もし…」と言えば、大きな声で「ハイ!ハイ!」と言うのです。

 なぜ、そのような奇跡が起きるのでしょう。内なる言霊より、キリストより、その肉は造られています。御霊は、キリストは主人です。
 その主人が造った三次元的なバイブレーションは、命令的なものを与える事によって完全となったのです。

 ですから、肉はあくまでも造られた物であって、造り主である御霊(みたま)がそれを支配して皆さんの中におられます。

 神は皆さんの中におられます。肉を支配する神が皆さんの中におられるのです。それを自覚出来るようになりますと、もうこの世で悩む事はありません。もう皆さん方は病気になる事がないのです。

 肉体が何であるか分からないから、神理が何であるか分からないから、今まで、迷い、苦しみ、肉に捉われて来たのです。

 いくらでもあなた自身の御霊から、不調和を起こして悪くなっているその部分に命令することが出来るという事です。

 現実に、今ここに胃下垂だという人に、上江洲さん(※上江洲義秀先生)がその人の胃の意識に呼びかけて、
元の神から与えられた使命を果たしなさい』と命令しますと、胃は造られたものであり、造り主の御霊には逆らえませんから、お臍(へそ)の下まで落ちていた胃がグーッと上の方へ上がってきます。

 胃だけが聞くのではなくて、全ての細胞は皆さんの言霊によってそれが支配できるという事を体験しなくてはなりません。

 上江洲さんだけがそれが出来るのではありません。上江洲さんの持っている御霊もキリストも、皆さんが持っていて御霊もキリストも同一のものです。それをあなた方が信ずるか信じないかで、発揮する力が違うのです。

 それを「信仰」と言います。「汝の信仰、汝を癒やせり」。それは信ずるか信じないかという事です。
 神を信じているかいないかはあなたの信念にかかります。信仰にかかります。

 上江洲義さんは神が自分を通して働いて、その力が肉体を支配し、その胃を支配する事が理解出来ていますから命令する事が出来るのです。

 なぜ、あなた方にはそれが出来ないのか、何処に差があると思いますか。それを信ずる心の強さ弱さによって違うのです。

 あなた方は自分自身の肉体を、あなたの御霊によって支配しなければならないのです。世の人々は、多くの人々は、殆ど肉によって支配されています。

「この世で造られた物によって、なぜ私達はそれに支配される存在なのだろうか」という事を知らなくてはなりません。

 今、肉に生きているのではないでしょうか。肉の支配下に置かされているのではないでしょうか。肉に操られ、肉が「何かをしなさい」といえば、あなたはその何かをするのです。

 肉が酒を飲めといったら酒を飲む。肉が賭け事をしたいといったら賭け事をする。その様な不調和なものはみんな肉から出てきます。

 私達は肉の奴隷ではないのです。肉というものは、肉体というものは、私達のキリストの支配下における部下なのです。

 この世に現れているもの。その物質的三次元のものは、すべて御霊によって造られているもので、肉が作り主ではないのです。

 その造り主である御霊が、皆さん方の中に、一人一人の中に宿っている事を知らなくてはならないのです。

 イエス様はその事を悟っておられましたので、風を支配されました。海を支配されました。
 台風が荒れ狂う大海原の小舟の中で、「風よ!海よ!静まれ!」と。

 それは何処から支配されたと思いますか。何処からその声が出たと思いますか。それは自然界を創造した神のご意志であるキリストにより、言霊によって、風と海を支配されたのです。

 この三次元の全てのものに御霊が存在しています。しかし、人間は万物の霊長です。神に似せてお造りになっています。この世に現れているものは何物も礼拝してはなりません。

 私達が礼拝しなければならないものは、神であるキリストそのものだけです。尊敬はしていいのです。大事にしてもいいのです

 しかし、その支配下に置かれてはならないのです。そうなりますと人間は万物の霊長ではなくなります。

 なぜ万物の霊長であるものが、山神様を拝み、海神様を拝み、火の神様を拝み、水の神様を拝まなくてはならないのでしょうか。

 私達は山のために、海のために、水のために造られているのでしょうか。神は私達のために山をお造りになり、海をお造りになり、火も、水もお造りになったのです。

 そして、神は私達にこの三次元のものを支配させる為に、私達をここに送って下さったのです。

 しかし、今の世の中の人は、海神様だ、山神様だ、火の神様だ、水の神様だといって拝むのです。山はどうでしょうか。山はあなたの為にあるのか。

 山のためにあなたが生きるのか。火はどうでしょうか。火はあなたのためにあるのか。火の為にあなたが生きるのか。それなのに、それを拝む人が一杯いるのです。

 支配すべきで怖がる事ではないのです。それらは、あなた方の御霊によって支配すべきなのです。しかし、あなた方はそれを怖がっているのです。

 だから、色々なこの世の三次元的な諸天善人を祀って、それを拝む習慣性というのが出て来ているのです。もうすでに万物の低調になっています。

 万物を支配する万物の霊長たる人間が、万物の低調になって色々なものを拝む様になってしまったのです。

 すでに、万物の低調になっているのではないでしょうか。万物の霊長たる人間が、石を始め木や銅や色々なものを拝んでいるのです。

 それは愚かな話です。石像を拝み、木像を拝み、銅像を拝み、様々なものを拝みます。それは神を知らない、自分を知らない、「神と人間の関係」を知らない無知からそういう事が起こるのです。

 どうでしょうか。皆さん方は世の支配者である事が、もうお分かりだと思います。世の支配者であり、山を支配し、海を支配し、全てのものを支配すべき私達が、肉たるそのちっぽけなものに支配されるのでしょうか。

 その肉そのものは御霊の支配下であって、あなた方は肉に支配されてはならないのです。肉のために御霊があるのか。御霊のために肉があるのか。どちらだと思いますか。御霊のために肉があるのです。

 神は御霊のために肉体をお造りになって、そのものは部下であって、三次元に現れるための一つの道具にしか過ぎないのです。皆さん方はその道具に支配されてはならないのです。

 それをよく理解した時、皆さん方は、肉という自我意識を克服する事は簡単にできます。しかし、まだまだ自我に振り回されています。

 肉の言うがままです。〈何処かに美味しいものを食べに行け〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と美味しいものを求め探します。
 〈旨い酒が飲みたい〉と肉が言えば、「ハイハイ、そうですか」と完全に肉の支配下に置かれている状況です。

 肉に使われてはなりません。肉体を支配せねばなりません。肉体を自由に御霊によって支配し、コントロールして、このキリストをこの世に表現するためとするのです。決して肉の快楽に溺れてはなりません。

 それに操られている間は、皆さん方はまだまだ神我という本性を、神を、キリストを観ておりません。信じておりません。だから、キリストを通さずにして何者も神の御国に入る事は出来ないのです。

 皆さん方は内在のキリストを秘めております。(神我)キリストは全ての支配者であり、唯一なる神の子です。神の意志を受け継ぐ者です。
 そうした時この三次元の目に見せるもの、物質界を支配したという事になります。その時初めて自然の法則を超越し、宇宙の法則に従ったという事になります。

 自然の法則の支配下に置かれている者は敗北者です。皆さん方はその自然を克服するすべての力を持っております。それが皆さんに内在しているキリストです。

 どうでしょうか。もう大丈夫でしょうか。肉体に操られる事はありませんか。肉体に負けてはなりません。イエス様は肉体の欲望を克服された時は、「サタンよ、退け!」と言われたのです。

 肉体は皆さんを誘惑します。イエス様もその誘惑を何回も受けられたのです。
〈こんな神の伝道をするよりは、あなたは一国一城の王になった方がいいだろう〉という肉の意識が、黙想(瞑想)されていた時に、強烈にイエス様の心を誘惑したのでした。

 その時、イエス様は《サタンよ、退け!》と言って、その肉の誘惑を、御霊より言霊の力によって、完全に支配されたのです。

 皆さん方も肉から出て来る欲望を、「サタンよ、退け!」と一喝(いっかつ)して、それを追い払わなければなりません。

 色々な名物を求め歩いて、何々名物だ、どこどこ名産だと、欲望と快楽に溺れてしまい、金を使い暇を潰しそれを求めるために肉に操られている人もいます。また、豪華な美食だといって食欲という悪魔に操られる人もいます。

 そんなものに操られたりするために私達があるのではありません。そういう事を全てを支配し克服して、肉に属するものを、この地に属するものを克服してこそ、皆さん方は解脱出来るのです。

 皆さん形を、この世に束縛している原因は何でしょうか。それはこの世に敗北しているからです。この世のものに、全てのものに打ち勝つ事なのです。

 肉に打ち勝ち、物質に打ち勝ち、全てを支配する事によってのみ、皆さん方はこの世の束縛から解放されるのです。それを「解脱」と言います。

 本当に「自分自身が何か」という真理の追求を、そして求道の精神を、生半可ではなくてそれをかたせなくてはならないのです。

 イエス様は「この世の全てを克服した時、私はこの世を克服したのであると言われたのです。

 その時、イエス様は三次元的な肉的な物質的な存在から霊的存在となられたのです。霊が勝利したからです。

 まだまだ皆さん方の霊は物質に勝利していません。物質の奴隷下に置かれています。色々と造られたものに、その造られたものの概念で生きています。

 あなた方の考えを支配しているのは、殆どが三次元的、その物的なものなのです。
 四六時中私達が神を思う事によって、物質、肉体に支配される事はありません。
 そういう欲望が出る時「サタンよ、退け!」と、それを克服する事が出来るのです。

 この世で、どんなに地位や名誉や財産を持っていようとて、それは肉と共に葬り去られるものです。この世的なものです。

 持ち帰れるものは一切ありません。それらのものを得た所で何になりますか。「自分が何であるか」を知らないから、それを欲望的に求めるのです。

 それらの人達は、この世では大きい者の様に見えるかもしれませんが、あの世では小さな者でしかないのです。なぜならば、物質の支配下に置かれているからです。

 その人達が物質の支配下に置かれていなければ、この世の財産や地位や名誉を得るという、自己顕示欲的な慾望などは求めようとはしないのです。
 それは、三次元的です。物質的です。そして未熟です。幼稚です。

 今、皆さん方は、三次元的なもの、物質的なものを一つ一つ克服しつつあります。
 そうした時「我は神なり」「我は霊なり」「我は生命なり」「我は神理なり」と、言える程の強い信念、深い信仰を持たなければなりません。
その信仰があなたを救います

 しかし、今、あなた方は「自分が何であるか」を知りません。ですから、世の物質の誘惑に振り回されるのです。
 その物質による世の誘惑に振り回されていればいるほどこの世で苦しみを造っています。

 これを克服した分だけ幸せを健康を得る事が出来るのです。この世の恐怖というものが一切なくなります。何故ならば、この世の全てを御霊が克服してしまうからです。

 まだまだ皆さん方は、物質の少ない事を怖がり、地位や名誉や財産の少ない事を怖がり、色々なものを恐怖しています。物質を怖がっています。執着しています。それが皆さん方の苦悩となっているのです。

 今、肉体について、その肉体が何であるのかをよく考えて下さい。そして、その肉に支配されてはならない事をよく理解して下さい。

 肉体は、この世的な、一時的な住処にしか過ぎません。それを「人間」と呼んでいるのです。

 皆さん方の中に神が住んでいるのです。あなた方が拒否さえしなければ、神はあなたの肉体を通してのみ働きます。

 あなた方は御霊より、内在のキリストにより、色々な神理を伝える事が出来、正しい言葉遣いと、正しい想いと、正しい行為が出来るようになります。

 今、皆さん方が正しい言葉遣いと、正しい思いと、正しい行為が出来ていないのは、この肉が邪魔しているからです。

 肉は利己的です。魂は非利己的です。自分が三次元的なものを克服しているかしていないかは、自分の行いを反省してみれば分かります。

 自我で肉の敗北者である人は必ず利己的です。しかし、その利己的である肉を克服した者は、非利己的になっています
 非利己的な総合的なものの見方です。ものの考え方です。
自他一体』。一体観念の中に生きています

 聖書の中にこの様な事が書かれていると思います。ある街が大火事に遭いました。火事の災害を受けなかった金持ちの人達に、イエス様はこう言われました。神から預かっているものを神にお返ししなさい」と。

 その人の持ち物は神のものであって彼等のものではないのです。
「それを必要とする所のために、神から預かったものを神にお返ししなさい。

それを必要とする困った人にあなたの財産を与えなさい」とイエス様は言われたのです。
 
 ある人は全部与えました。ある人は半分与えました。ある人は何も与えませんでした。何も与えなかった人、その人は盗人です。

 あなたの持っている財産や、そういうものは誰のものだと思いますか。神のものです。それを私のものと錯覚して執着しているのです。 

 あなたのものであれば、あなたがこの世を去る時それを持ち帰れるはずです。持ち帰る事は出来ません。預かりものです。

 神からの預かりものを持っていながら、それでいて「これは私のものだ」と威張りくさる人がいます。そして何も持っていない者を罵る人がいます。これは非常な盗人であり、罪人です。災いなる者です。

 自分のものがない事を皆さん方は知らなくてはなりません。その時が来れば全てはた叩いて皆さん方は困っている人に、貧しい人の為にお返ししなくてはなりません。
 それが出来る人は真の勇者であり信仰者です。神を信じている者の信仰です。

 それは、神理を通して眺めてみれば、自分のものがない事が分かります。それが理解出来ない人は、私の言葉を「おかしな事を言う」と思うでしょう。

 しかし、事実はそうではないのです。自分のもの、私のものというのはないのです。全てが神の預かりものです。

 この肉体でさえも神から預かっているものです。ですから、私達は死にたくないと思っても、寿命が来れば行かなくてはならないのです。

 自分の肉体が自分のものだと思っていてもあなたの思う通りにならないのです。肉体が自分のものであるならば、自分の思い通りにする事が出来るはずです。

 思い通りにする事は出来ません。言う事も聞きません。なぜならば、それは神のものだからです。自我ではどうする事も出来ません。

 あなたの支配しているのは神ですから、私達は肉体でさえも神に捧げる事です。これが本当の「献身」というものです。

 命を捧げる者。自分自身の外なる命と内なる命を神に捧げて人々のために捧げた時、皆さん方は「永遠の命」を得ます

 しかし肉我の自分に生きようとする者は、永遠の命を得る事は出来ません。神を知っていないからです。神理を知っていないのです。
 
 だから「生命を得ようとする者は生命を失い、生命を捨てる者は生命を得る」という言葉があるのです。この事は非常に大事な事です。

 神とは何でしょうか。神とは宇宙の摂理であり、法であり、エネルギーです。私達は宇宙の中の存在です。

 私達一人びとりはその宇宙の中に、宇宙エネルギーの中にいるのです。そして私達一人びとりは、その宇宙エネルギーを持っているのです。
 
私は神の中におり、神は私の中におられる」というのはその意味です。
エネルギーの中に私達はいるのです。私達の中にエネルギーがあるのです。

神は内にいると同時に外にもいる。全ては神であり全体は神である」と、それが分かる様になります。
 
 神と人間とは一つの存在、一体の存在です。なぜならば、神は無限であるからです。神から分離した人間は何処にも存在致しません。

 神から分離した人間がいるならば神は無限ではなくなります。普遍でもなくなります。

 あなた方は、今、即、神の中におり、神はあなた方の中におられます。それが分かりますと、唯一神のみの実在、神一元という悟りに到達致します。

 神一元です
しかし、人間の浅はかな感化(自我)が、色々なものを分離し、独立させて考えているのです。あなた方の肉の意識がそれを妨げているのです。

〈自分は神と分離しているのだ〉と思わせる様に誘惑するのです。
あなた方が中々神理に入って行けないのは、自分自身の肉による自我意識が、神から遠ざけているのです。

 事実においては、神の中に私達はおり、神は私達の中におり、それは一元なるエネルギーの中におるのです。エネルギーは外でもなく内でもなく、また、外でもあり内でもあるといえるのです。

 この事は、〈今、あなたは神の中にいる。それはあなたは神の中の存在であって、そしてあなたの中には神が存在している〉という事です。

神の中に自分は存在し、自分の中に神は存在する。常に神と自分は一体である」と、この事の意味をよく理解して頂きたいのです。

 そうした時「人間と神の存在というもいのは一つの存在である」という事が分かるのです。そこには、人間と神が独立し分離している存在ではなく、「人間と神は一体であった」という事です。

 一体とは「一つの体」という意味です。
人間と神との関係は一体であった。一つの体であった」という事です。
その神が皆さんの中に、生命の中におられます。

 ここで私が一番言いたい事は、「神の存在を、内在のキリストを、あなたの肉を通して完全にこの世に現す様にしなければならない」という事なのです。

 何回も、何回も、私は同じ事を言っています。飽きる程そういう事を言っています。しかし皆さん方はまだ肉に敗北しています。ここから自分の家に帰りますとまた敗北するかも知れません

〈知花はなぜ毎日同じ事を繰り返すのだろう。なぜそう言うのだろう〉と。それを自ら追求する事によって、自ら自問自答して、内から答えを得る事によって神に至る事が出来るのです。

 今、世の中では、色々な誤ったものの見方と、誤ったものの教え方をしています。それにはまず統合的な高い意識を高揚させてから、そこから全体を見る事です。一部だけを見てはならないのです。

 しかし皆さん方の見方は、近眼になってしまって、一部しか見ていません。ですから全体と自分の関係を見失っているのです。厳しいようでもやらなければならないのです。

 世の人々は、神に至るのに平坦な道を選びがちです。肉欲も、情欲も、飲み食いも、常平生それをやりながら神に至ろうとしています。

 物質の支配下に完全に置かれて、霊的なものに遠ざかっているからです。平坦な神への道というのは何処にもありません。

 道は厳しいのです。狭いのです。この世のもの全てを、あなた方が御霊によって克服しなければならないからです。

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。本来は人間と神の関係さえもないという事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、関係さえもなく、一つの存在であるのです。

人間と神は、即、一体の存在であり、我々も神の存在であり神そのものであった」という事が分かるのです。我は神なり。我は生命なり。我は神理なり。と。

我は神であり、我はキリストである」という悟りに至らなくてはならないのです。

 この世というものは、始めがあり終わりがあります。皆さん形には誕生があり死があります。

 しかし、これはこの世的なものであって、もうひとりの真の自分には誕生もなければ死もない存在なのです。それがあなたの本質であり、生命であり、魂であるのです。それに早く気付く事です。

 初めがあり、終わりのある存在ではありません。それを追求して、それを克服して、初めがあり終わりのあるものに捉われないように。
 
 それは初めがなく終わりがないものによって造られたものであり、それを造ったものによって支配しなくてはならないのです。

 その造り主である神の御意志が、内在のキリストとして皆さんの中に宿っています。早くそのキリストに気付く事です。

 その支配者である全知全能であるその方(神我キリスト・宇宙生命)を、皆さん方は早く気付いて欲しいのです。

 神棚を通して神は働くのではありません。生きた人間の肉体を通してのみ神は働き給うのです。
神は人間を通して働き給う」と、その事を決して忘れないで下さい。
 
 なぜならば、人間そのものが神であるからです。神棚そのものは神ではありません。それは三次元的な、物質的な存在であるのです。

 私達は神である生命を頂いています。「我は生命なり」です。その生命が働き手であり、生きているわけです。どんな植物の中にでさえも神は生きて働いているのです。だから植物は成長し、花が咲き、身を付けるのです。

 皆さん方の奥さんは「カミサン」といって神様です。本物の神様です。ですから大事にしなくてはならないのです。

 皆さんの周囲には沢山の生きた神々がおられます。その生きた神々を私達は愛し合わなくてはなりません。真の神の愛です。

 あなた自身の中に神がおられるなら、あなたの隣人の中にも神が宿っておられる事を知らなくてはなりません。そうなれば、その隣人を貶す事は神を貶す事になり、その隣人を罵る事は神を罵る事になるのです。

 そうならないように、皆さん方は「隣人愛」をしなくてはならないのです。「自分を愛するが如く人々を愛する」と、それをしなくてはならないのです。

これは神を愛している姿であり、神を賛美している姿なのです。

 誰の悪口を言ってもなりません。神を知らない者が人の悪口を言います。神を知っている心の清い者が人の批判や悪口を言うでしょうか。

 人の批判や悪口を言うならば、その者の心は曇っているのです。真の自分を知らない、神を知らない者です。

 そのような迷い人の言葉や姿に迷わされないで、一生懸命、自分自身の神を観つめ、その「神と人間の関係」を追求し、求道され、実践されます事をお祈り致します。


知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

陰陽の法則・「多く愛する者は多く愛される」という原理♪神がすべてを愛したように、わたしたちも全てを愛そう♪「神の意志」というのは「愛」の事です♪心清き者は幸いなり♪神の御心とはすべてを愛することです♪皆さんが生きているのは神のお陰です。神があなたの中に生きて働いて下さるのです♪不動明王になるには… 一心集中、絶対善の心にすること♪神は絶対善そのもの♪「神と人は一体」「一つの体の存在」♪あなた方は、今、そのままにして神の存在です。 「あなた」は「神の一部」です。「全体の一部」です。「無限宇宙の一部」を構成しているのです♪「私は常に宇宙なる神と一体」「私たち」は無限宇宙の中の1個「一つなる神の一部」♪知花敏彦先生・総まとめ記事・第三回目♪

覚者☆知花敏彦先生の記事をまとめてみました。 
皆様の悟り☆覚醒のお役に立てて頂ければ幸いで御座います。
この記事は、第3回目になります♪



知花敏彦先生・総まとめ記事・第三回目

 かなり長くなりそうでしたので、4.5回に分けてまとめさせて頂きます。
 改めて知花先生の教えを見直してみますと、現在の真理の理解度に応じた新しい気付きが沢山ありました。大変深い感銘を受けました。

 真理の理解度に応じて、深い気付きが得られる…という事は、一回読んだからいいや~ではなくて、努力をして真理の勉強をして…真理の理解が深まった意識状態で、また一度改めて読み直して頂きたいのです。

 そうすれば…きっと、貴方の魂の新しい扉…、「内なる神の愛の光」が開放される覚醒に繋がる気づきが得られることでありましょう。

知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目

知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目


陰陽の法則

神がすべてを愛したように、わたしたちも全てを愛そう

 多くを愛する者は多く愛されます。愛は出せば出すほど多くなるものです。あなたは無限なる愛を持っていながら、どうしてけちくさいことをしますか。なぜこの無限大の愛をあなたがたは表現しないのですかと言いたいのです。

 愛は使ったら減っていくのですか。多くなりますか。どちらですか。
「多く愛する者は多く愛される」という原理があります。多く与えるものは多く得ます。与えない者は得る事が出来ません。

 あなた方の愛の範囲は狭すぎます。夫婦愛、親子愛などの範囲内で終わってしまうのです。それも大切ですけれども、こんな小さな存在でとめてもいいのでしょうか。私たちは無限の愛ですから、無限の愛を表現しましょう。

 夫婦だけ、親子だけを愛しなさいと限っているのは、愛に限界があるのだとみなしている事になります。愛には限界がありません。無限大の愛ですから、無限大の愛を放出しましょう。そうしますと、私たちは無限大の愛を得ます。

 あなたがすべてを愛することが出来なくても、全ての愛をあなたが得ることができますか。
 有限的な個人的な小さな愛しか表現できない人間に、無限大の愛を得ることは可能でしょうか。多く愛するほうが多く愛される。これは当たり前の法則です。

 自分は愛を少ししか出さないのに、出すものより多く得るのですか。夫婦だけが仲良くしていればよい。親子だけが仲良くしていればよい。
 こんな汚い小さな愛は存在しません。
 
 神が全てを愛したように、私たちも全てを愛して初めて神の愛といえるのです。本当の神の愛をよく理解して下さい。

 多くを愛するものは多くの人から愛されます。愛を得るためには、愛するしかないのです。自分はいっこうに誰も愛さないのに、誰かから愛されたいと思いますか。

 あなたが多くの人から好かれる人間になるためには、どうすればよいのですか。多くの人を好きになればよいのです。嫌いな人がいなければ、嫌いな人もいなくなります。

 ですから多くの人々を私たちは愛していきたいと思います。愛の法則そのものが、陰陽の法則そのものではありませんか。その法則を守った時に、皆さん方は光となります。


人間はなぜ愛か  神の意志について

神の意志」というのは「」の事です。
 
 本来、私たちは神の愛を受け継ぐものですが、なかなかその愛というものを受け継いでおりません。神の意志とは何かと問われた時「愛だ」と答えればいいのです。神の愛です。そして愛は光です。

 本来は私達も光ですが、その本性である意志である愛を自らが曇らせているのです。愛に反するものは闇です。怒りとか、憎しみとか、そしりとか、嫉妬というのは闇で、その本性である光を曇らせているのです。

 常に光の中にいるならば、神の意志の中にいるならば、私たちは愛でなくてはならないのですが、愛に反するものの中に生きることによって、悩み、苦しみ、そして病気というものを造っているのです。
 
 それは本性ではありません。神の意志に反することを行っているからです。それは罪、汚れです。あるいは業(ごう)というわけです。

 ですから、私達が常に神と共にいたいのなら、神の意志を行わなければならないのです。神の御心の如く生きなくてはならないのです。

神の御心」とは「すべてを愛すること」です

の世に存在するもの」は「愛しかない」のです。
その愛に反するものを私たちは行っているのです。

 それは神に逆らっている状態、自分の本性を曇らせている状態です。だから、神に近づくということは、その「愛(全てを100%の愛で愛する)」を通してしか神に近づくことは出来ないのです。

 皆さん方はよく「天上界に帰りたい」とか、「成仏したい」とかいいますが、天上界に還るのも、成仏するのも、愛を通さずして、神の意志を通さずして、何者も御国に入ることは出来ないのです。

 常に私達が愛に満たされる。朝起きて愛に始まり、そして一日を愛で過ごし、その一日が愛で終わる日常生活であったなら、あなたは光の中の住者となるのです。

 悩みも苦しみもないのです。そこは光そのものであり、自分の本性であると同時に神の意志を行っているからです。

 イエス様はこう言われたのです。
我が御心を行う者は、我が御国に入るであろう」と。
これが『神の意志、明らかなる愛の御心』です。

 これに相反するのは私達の悩み苦しみです。人間は愛でなければならないのです。
 私達の根源は愛であるからです。その愛は何かというと神であるからです。
 神の御国に入るには、愛を通さずにして何者も御国に入れないのです。

 なぜ、そんなにまで愛が実行できないのでしょうか。
 以前私は非常に疑問を持ったことがありました。〈なぜ人を憎んだり、謗(そし)ったり、裁いたり、中傷したり、色々なものがあるのだろうか〉と。

 自分の正体が、自分の実態が何であるか分からなかったからです。自分が何処から出てきた者で、何処に還るべきかを知らないから、人々が色々な妬みや、謗りや、怒りや、そういうものを行っているのです。

 自分は何から誕生して何に還るべきか、何処から出てきて何処に還るべきか。ということを知っていたならば、自分の本性、実態を知ったわけですから、自分の根源は愛であった。自分は神の意志そのものを受け継ぐ者であった。と、そのことが分かってくるのです。

 そして、その神の意志を受け継ぐ者が、神の息子となって神の娘となるのです。神の跡継ぎ者となるのです。

 その時皆さん方は「神のものは私のもの、私のものは神のもの」といえるような状態となるのです。

 今の私、この知花の心の状態がそうなのです。
「神のものは私のもの、私のものは神のもの」と、実感としてそう想っているのです。

 そして、神の意志というものは愛であった。この世で何者も憎んではならない。憎むということは神への反逆であり、神から遠ざかることであり、罪であり、汚れであり、それが苦しみの原因であることを私は知っているからです。
 常に皆さん方の心の中に本当に愛が満たされているならば、皆さん方も神の意志を受け継ぐ者となるのです。

 神の意志を受け継ぎたいのなら、愛に反するものを想わないこと、語らないことです。皆さん方が人を裁くことは神は決してお喜びにはなられない。

 人を怒ることもお喜びにはなられない。しかし、その神の望まれないものを私達は平気で行っているのです。神が一番お望みになっていることは愛し合うことです。

 お互いにこの世に存在するのはみんな神の子であり、神の創造物であるのです。
 神がお造りになったのです。造り主は神であるのです。

 その造られた全ての物は、神ご自身がお造りになりましたので、神の意志はこの世に現れている一人びとりを、ありとあらゆる生きとし生けるものを、万象万物を愛してくださっているのです。

 そうであるならば私達も万象万物を愛さなくてはならない。これが神の意志です。
そして私達が万象万物を愛し、人々を愛し、分かち合うことが、神の意志を受け継ぐものとなるのです。

 それ以外、この愛を通さずにして、何人も御国に入ることは出来ないのです。それなのに、今までは偽りの指導者によって騙されてきたのです。

 「主よ、主よ」と主の名を唱えれば天上界行きだとか、お経を何万回あげれば極楽行きだとか、神の御国に入れると言われてきたのです。
 しかし、彼等は現実的には愛し合ってもいない。同胞愛をなしてはいないのです。

 神は善人にも悪人にも、平等に愛を注いで下さっているのです。その神の愛は無差別の愛です。無所得の愛です。

 ですから、神の御国に入るには、神のような愛でなくてはならないのです。本当に自分という我を忘れて、愛だけに満たされるという状態になることです。

 皆さん方は、まず今日一日、明日からでもよろしいから愛だけに満たして下さい。そうすれば、あなたにどんなことが起きるのでしょうか。

 あなたのこころにこれっぽっちも憎しみがない。怒りがない。嫉妬がない。本当に何処を見ても愛おしく全てに愛を満たしている。それは人間だけではなく動物、植物、鉱物全てにです。

 そうなっているとき、もう皆さん方は神に波長が合っているのです。
 神に波長を合わすということは、すべてが愛でなければならないのです。

 神の愛に満たされているとき、私たちは光明人間になるのです。だから、イエス様は愛に満たされているとき「我は世の光なり」といわれたのです。

 光明人間。すなわち世の光です。愛は光です。愛に満たされている時は光明人間です。曇りがないのです。だから愛は光なり。光は愛であるということが分かるのです。

 皆さん方は本来光です。皆さん方一人びとりはみんな光なのですが、その光に相反することを、愛に相反することを行うことによってその光を曇らせているのです。
 
 憎しみの多い人は真っ黒くしているのです。怒りの多い人は真っ黒くしているのです。憎しみも、怒りも闇ですから、自分の本性である光を曇らせているのです。これは自らが曇らせているのです。

 本来、人間は光そのものです。霊体というものは光体です。光姿体です。
私達の魂というものは光そのものです。神の意志そのままなのです。
神の意志を引き継いで、私達はこの世に存在しているのです。
 これを真の我「真我」といっているのです。


人間はなぜ愛か

 私は皆さん方に道を示します。
道は示されますが、歩むのは皆さん方一人びとりです。
あなた方が歩まなくてはならないのです。あなた方が実行しなくてはならないのです。

 イエス様も「我は道を示す者である」と言われているのです。
皆さん方が本当に真剣に取り組んでいただいて、真の道が示されたならば、それを実行し日常生活に生かして行くことです。
 これが如何に大切であるか、ということが言えるのです。

 私たちは決して死ぬ存在ではありません。
なぜ死なないかという理由はご存知だと思います。

 「神のみ」が生きていて、この「大宇宙」、
大生命」というものが「一つの生命の存在」、

その中に「私達」が「個別化されたもの」として
「(神意識の中に)存在」し、

れは分離の存在でもなく、差別の存在でもなく、
離れた存在でもなく、「私たち」は「今、神と一体」であり、
神の生命」を宿しており、そして「神の御霊そのもの」、

あなたの本質」は「御霊(神意識)そのもの」であって、
迷いの人間の存在ではないことをよく知ることです。

 今、もし皆さん方が父の御声が聞こえるならば、父はきっとこう申されるでしょう。

『あなたが自分のことを「私」といっているのは、
あなたは「個別化した私」のことを「」といっているのです。

 わたしとあなたは「わたしという一つのもの」です。
だから「あなた」と「わたし」とは「一体」なのです』と。

 そして『私は地上にいるあなたの母の(子宮の)中で、
あなたを私に似せて(肉体を)造りその中に私(神の生命)がいるのです。
そのわたしをあなた方は「私」といっているのです』と。

 神は自ら肉体というお宮をお造りになり、自らがそこに住み給うておられるのです

 そのことを「人間は生きた神の宮なり、仏の宮なり」と、「神を外に求むるなかれ」と、
神は汝の手や足より近きにあり」と、イエス様も、お釈迦様もそのことをお説きになられたのです。
  
 しかし、この世の人間はそのお二人を遠い彼方に祭り上げて、偽の指導をするようになってしまいました。

「神は遠い彼方におられるのだ。神に賛美しなくては救われない。仏にお経をあげなくては救われない」というように、宗教は神仏を人間から遠ざけてしまったのです。分離させてしまったのです。

 そのために人間は混乱してしまったのです。宗教によって人間は迷わされてしまったのです。
 宗教の指導者達は真面目にやっている方もいて、彼等は真面目にやっているつもりでしょうが、間違った神を教えてしまったのです。間違った指導をしてしまったのです。

 そのことをイエス様は二千年前にとうに知っておられました。
イエス様は「盲の者が盲の者を導く」と聖書に予言しておられるのです。
「あなた方はわたしの言葉に躓くであろう」と聖書に訴えておられるのです。

 イエス様の言葉の意味が理解できなかったために、その言葉に躓いてしまい、イエス様を神の一人子として遠い彼方に祭り上げて拝むようになったのです。

 それは偶像崇拝です。現象我と言って現象を拝んでいる偶像なのです。決して皆さん方は偶像してはなりません。

 イエス様もいっておられますように、皆さん方ご自身の中に
汝の主は、汝の神として、生命として、汝らの中に生きているその神が存在しているのである」ということをよくよく理解して頂くことです。   
   
 そして、その神に皆さん方は委ね全託することです
(『滅私・神への全託』なくして悟りはなし…と知花先生は仰られました)

 神がお造りになったその神秘の宮を、私達の小智が何を食い、何を飲み、何をしなくてはならないという詮索をなぜ加えるのでしょうか。

 そこからは〈何々が必要だ、何を食べなさい、何を飲みなさい〉と皆さん方にお伝えされており、それをいただければよいのです。

 しかし、今の世の中は色々な物が商売としてエゴで出回り、「あれを飲まなくてはならない」とか「これを食べなくてはならない」とか、みんな自我という魔の働きの中に没入しています。

 私はいつもこう祈ります。
我が中にまします神よ。我が知り給うのはあなただけです。
あなたが私のその全神経を、その全肉体細胞を、その肉体頭脳を、全てを支配し給わんことを。そして我を健康であらせ給え」と。

 そうしたとき、サーッと胸元が暖かくなり全身にエネルギーの満ち満ちて来るのを体験します。
 そうしたとき、即、そう想った瞬間に全ての癒しが行われています。もう何の心配もありません。

 皆さん方は病気がどうしたら治るのか、こうしたら治るのかと、我々の小智でいくらもがいてももがき切れるものではありません。それは我々が肉体を造ったのではないからです。

 科学が造ったものでもなく、お母さんが造ったものでもなく、
造り主」は「全て神」であられることを知らなくてはならないのです。

 「」が「唯一の創造主」であられることを、
唯一無二」の「生ける実在」であられることを、皆さん方は知らなくてはならないのです。

 その「創造主なる神に全託」することです
そうしたとき皆さん方は神に素直ですので、謙虚ですので、
神はあなたの中に即働いて下さいます。
それが皆さん方への神の癒しといわれているものです。

 その神の癒しというものを本当に悟っていただければ、如何なる病気も開放されることをわたしは信じています。

 それをその人が信ずるか信じないか、神に素直になれるかなれないか、謙虚な気持ちになれるかなれないかということです。
 何故なら、私達の肉体で働いておられるのは、働き手である神であられるからです。

 あなたが林檎を頂いて、その林檎を血に換え、肉に換え、細胞に換え、あるいは骨に換えて、そのエネルギーを分析しているのはあなたでしょうか。
 
 あなたがいただく林檎をすべての要素に分解し、その位置に位置づけて下さっている偉大な智恵と力は、私達の内在心にあるのですが、それが皆さん方の中に四六時中働いていることを忘れてはなりません。

 その偉大なる智恵の御方があなたの中におられるのに、その神を皆さん方は忘れているのではないでしょうか。神はあなたの手や足より近きところのご自身の中におられ、あなたを愛し、今まで生かし尽くし、働かせ、活動させて下さっているのです。

 そのことをイエス様は「神の国は汝の内にあり。外に求むるなかれ」と、はっきり断言しておられるのです。

 お釈迦様は「自灯明法灯明を汝の師にしなさい」といわれたのです。
決して「お経を上げて外に救いを求めなさい」といわれたのではありません。

 そして「汝の内に仏はおわれる。その仏こそが汝自身であり偉大なる救い主である」といわれたにも係わらず、今の宗教は仏像を作り、お寺を作り、お経を上げることが救われる道であると錯覚しています。

あなたは宇宙そのもの

 「無限宇宙そのもの」が、「一つ」なる「神の御神体」です。
そして、「私たち」は無限宇宙の中の1個、
即ち、「一つなる神の一部」です。

 あなた方の肉体には、約70兆余りの生命体が存在しています。
その生命体とは、神という生命が、1個1個に個別化されている細胞のことを言います。

 その1個1個が総計されたものが、あなた方の肉体です。

 だから、あなた方の肉体は神の御神体であって、そのあなたという細胞1個1個1個が、宇宙全体を構成する役割を果たしているのです。
 
 「あなた方」は「神と一体」、即ち、「神と一つの体」であって、決して、2つの体というものはなく、「無限宇宙という神の御神体一つ」しか存在しないのです。

 だから、あなた方は、今の今、「神と一体」であって
神の中に生きている」ということです。

 そのことを、イエス様は「私は常に宇宙なる神と一体」であると、
お釈迦様は「宇宙即我」即ち「宇宙は私」であると言われたのです。

 そのように、あなた方という個別化された1個の存在も、イエス様や、お釈迦様と同じように、「宇宙なる神の中」に存在しているのです。

 宇宙は無限であって、そこに、あなた方を含む1個1個が存在し、その全ての1個1個が全体を構成している。
即ち、「無限宇宙全体」という、
神なる一体」を構成しているのです。

 だから、「」と「あなた方」は「一体」、
即ち、「同じ一つの体」である、即ち、
あなた方」は「無限宇宙」という、「神の御神体」を構成しているということです。

 人間というもの。それは細胞70兆あまりを総計したものを言います。
細胞の寄り集まりと言って、その70兆余りの細胞、
その「1個1個の全」に、「神という生命」が、「意識」が「宿っている」のです。

 その細胞の総決という、人間一人びとりの分霊を総決したものが、分生命を総決したものが『宇宙という神』なのです。

 ですから、あなた方は、今、そのままにして神の存在です。
あなた」は「神の一部」です。「全体の一部」です。
無限宇宙の一部」を構成しているのです。

 言い換えれば、『あなたという1個の存在があって、無限宇宙が構成されている』ということになるのです。

 無限宇宙の中で、あなたの1個では、何も成し得ることは出来ません。
1個というものには何の力もないからです。それは、あなたの肉体の一個の細胞には、何の力もないことと同じです。

 その全細胞が一つとなる---。
あなたという肉体の中の、70兆余りの細胞が総決されることによって、大きな力となって、働く力となるのです。

 その小さな寄り集まりがなければ、あなた方という肉体は動けないはずです。一体であるが故に、小さな細胞という神の力の寄り集まりが、あなた方という肉体を通して、大きな神の力となって現れるのです。

 だから、「神と人は一体」であると、「一つの体の存在」であるというのです。
そのことを、イエス様は『「わたしは神と一体である」ことによって、私は神の力を成し得るのである』と言われたのです。
 
 その「神の力」とは、「宇宙全体の力」のことです。
あなた方の一人びとり、全て生きとし生けるものの、寄せ集めた、総決した力が、神の力です。

 その力を全部集めることを「全力」と言います。
それは、「全ての力」ということです。
その「全て」の「総決したもの」を「神の力」、
即ち「宇宙力」というのです。
 
 そのことを、イエス様は知っておられました。
だから、イエス様は「わたし自らは無である」と言われたのです。

 あなたがたも1個の個人としては無であるが、
自分は全体という神と一体である」と、
その『一つ』という悟りの境地に入った時に、

あなた方は「宇宙力」を得る、
その宇宙力を、我がものとすることが出来るのです

 イエス様は「信仰が深くなれば山をも動かす事が出来る」と言われました。
そのように全力を尽くせば、「無限宇宙の力」が働けば、山も動くのは当たり前のことです。

 あなた方も、その同じ力を得ることが出来ることを、ここで知らねばなりません。

 あなた方の1個1個の生命が、総決されたものを『大生命』というのです。
それらの、全ての生きとし生けるものの総決された生命が、
無限宇宙なる大生命」を存在させているのです。 


人間はなぜ愛か  謙虚な心

謙虚」は何かといいますと、それは「威張らない」という事です。
人間はよく威張ります。なぜ威張るのでしょうか。

 神は謙虚です。決して威張ることはありません。
神のような人間であるためには、謙虚でなくてはならないのです。

 なぜ、人間は威張ってはならないかといいますと、人間はこの世で色々なことを成し遂げていると思っておりますが、それを成し遂げているのは私達ではなくて、

  神のみが働いておられ、働き手は神であって、
私達の肉を通して神が生きて、神が御業を成されておられるのです。

 これを「自分がやった」といって威張ることは、まだ自分が何かを知っていないからそうなるのです。

 皆さん方がやったという仕事は、この世の中だって存在いたしません。
何故このように申し上げるのかと言いますと、皆さん方が生きているのは神のお陰なのです。

 皆さんの中に生きているのは神のみで、神のみが生きて働いておられるからです。皆さん方の存在というものは本当は無いのです。私というものは無いのです。

 このことを「私は自らは無なり。我が中に神のみが生き、神のみが働き給う。御業を為し給うは我が内なる神の御霊(みたま)なり」と言われているのです。

 例えば、この知花という者が皆さんの前でお話をして「私は偉いのだ」と威張っておりましたら、私は神を知らない無知の存在となります。

 神は私を生かし私を通して語り給うておられるのです。そして私という肉体を通して神は働き給うておられるのです。働いているのは私ではなくて、私を通して働いて下さる神ご自身が働いておられるのです。

 ですから、私達自らは何事もなし得ていないのです。

 それなのに、それを「私がやった、私が造った、私が成し遂げた」と言って威張る人は謙虚から外れています。それは盗人になります。

「汝、盗むなかれ」と言われています。私たちがこうして生きておられるのも神のお陰であって、神が私たちの中に生きていればこそ私たちが生きているのです。それ以外は何も無いのです。

 生命そのものが神です。私たちは神の命があるから何事も成し得られるのです。そういう事は、神がおられるから私達は何事も仕事ができるのです。

 だから御業は全て神のものであり、私達のものではないということをよく理解する事なのです。

 私が皆さんの前でお話することは、自分の御業ではなくて、神の御業であるということが分かりますので威張らないのです

 神が為し給うのである。と、それをよく知っていますので、私は偉いとかそういう事がなくなるのです。威張ることがなくなるのです。

 威張っている人間は、まだまだ自分が何であるかを知らない、自分が何によって生かされて、その仕事は誰がやっておられるかがわからないのです。

 それが傲慢というものなのです。それには威張りというそれが出てくるのです。

 賢者は威張りません。賢者という方々は自らを知っておられるのです。
 自分が何の力によって生かされ、そして何の力によってこの世で仕事をしているかということが分かるようになりますと、自ら謙虚な気持ちになれるのです。

 よく皆さんは謙虚な人を見ます。謙虚な人を見ますと非常に気持ちが良いものですが、何故、謙虚は気持ちがいいのかと言いますと、その分だけ神に近いからです。

 皆さん方は威張る人を見て気持ちがいいと思いますか。いい気持ちであるはずがありません。

「私がやった。私はなんでも出来る。あれもこれも全部出来る」と威張って腐っている人間を見ますと皆さん方は気分を悪くします。

 それは神から離れているからです。神の道から外れて盗人であるからです。

 神の力を神の御業を自分がやったというように、
自分の右手で為したことを、自分の左手にも知らしめてはいけない

という言葉の戒めを破っているのです。
だから私達は常に謙虚でなくてはならないのです。

 今、私が皆さんの前でこうしてお話が出来るのも、私ではなくて神の御業が、神の力が、神の御霊があればこそ私はこうしてお話ができるのです。

 しかし、世の人々はその神のお働きをまだ知りませんので威張るという言葉が出て来ます。
「私が何々をやってやったのにお礼も言わないのか」という事になってしまうのです。

 皆さん方働いている。それを自分が働いていると思ったら大きな間違いです。働いているのは、あなたの中の神がお働きになっておられるのです。

 だから「神は偉大なる僕の方である。神は偉大なる働き手である。神は偉大なる農夫である」と聖書に訴えられているのです。

 働いておられるのは、活動しておられるのは神であって私達ではないのです。

 皆さん方の中に命という、あるいは御霊(みたま)という力が存在しなければ、皆さんはここに集まることは出来ないのです。

 ここに足を運んでこられたのも神のお蔭であって、あなた方のお蔭ではないのです。神がいなかったならば皆さん方はここに来る事が出来ないのです

 こうして皆さん方がいろいろと学びを得るために、ここに集まりましたのも神のお陰なのです。ですから全て感謝の念の中に私達は生きなくてはならないのです。

 そのことがわかりますと何をやっても無所得です。自らは無であるということが、自分の御業が無いということが分かって、働き手は全て神であられると分かった時、

神が私の中に生きておられるのだ。そして神が生きていればこそ御業が為し得るのだ。これは神の働きで神の御業なのだ

と悟ることが出来た時、皆さん方は無所得(無我)となるのです。

 皆さん方がそういう気持ちを、本当に謙虚というものが何であるかということが分かるようになりますと、偉大な悟りに到達しているのです。

 何を為しても無報酬ということです。その見返りを持たない、本当に無所得そのものの与えきりの御業が為し得たならば、あなたは自分自身の中にその御霊の力、神の力というものを心から信じている姿です。
 これを誠の神信者といのです

 皆さん方の中には神が生きておられますので、自分がいくら長らく生きよう生きようともがいても、それは神のみが知っておられますから、〈私は何十歳まで生きたい〉と思っても無理な話です。

 その神が必要とあらば長らくその肉体に滞在して下さいますし、早く出るべきであれば早く出られるのです。

イエス様は、「神の国は汝の内にあり。人間は生きた神の宮なり」と、人間一人びとりに生きた神が存在することを、実在することを、聖書で訴えてくださっているのです。

生きた神である。人間一人びとりは生きた神の宮である。肉体というのは生きた神の宮に過ぎない。だから、一人びとりの命そのものが神である」と言われているのです。

 だから皆さん方は命を学び、それを尊敬し合わなければならないのです
 そして、皆さん方は自分自身の中に神がおられることを知ったならば、この世で全ての隣人は神を宿した自分自身の同胞(きょうだい)であり、

血や肉よりも濃い素晴らしい生命の久遠なる同胞(きょうだい)であるのです。実の兄弟姉妹であるのです。

 皆さん方は本当に神を愛しておられるでしょうか。それらが理解できていなければ、また旦那さんを、奥さんを憎んだり悪口を言うかも知れません。

 そのことは、神を憎んだり神に悪口を言うようなものなのです。皆さん方はその神を本当に愛していますか。

 汝の隣人である旦那さんを、奥さんを、汝の隣りにいる偉大なその神を貶し合っているのではないでしょうか。尊敬しあっていますか。愛し合っていますか。賛美していますか。

 それが理解できるようになった時、夫婦仲というものは物凄い喜びと偉大なものになるのです。家庭人全てが愛し合う存在となって行きます。もうその喜びは例えようもないものなのです。

 私は家内を自分の所有物だとは思っておりません。
 偉大なる共に住む神の現れだと思っています。

 私は家内を一度も粗末にしたこともなく、これっぽっちも荒い言葉を言った事もありません。私が家内に何かをして上げますと
ありがとうね、神様」と答えてくれるのです。

 だから私たち夫婦は〈この人は今何を欲しているのだろう。何をしてあげたらいいんだろう〉と、お互い周りを見つめ合い、助け合い、分かち合い、

それを無言の中で、謙虚な愛の中で実践しています。それは互いに神というものを理解し、そして最大にその神を愛し合っているからです。

 私はこの世に一人でも憎むという人がいません。一人もいないのです。
 なぜいないかということは、人を憎むことがどんなに悪いことであり、自分が苦しむことを知っているからです。すべてを許しています。

 なぜなら、神は偉大なる許しの方であるからです。
神が人間の過ちを許さなかったらば、私達は当に消滅しているのです。

 私達は神から出て来て、神から生まれていながら親を知らないのです。
親(父なる神・宇宙生命)を知っていないのです。

 何から出て来たのか、私達は真の親(内なる神・大生命・大愛・神・宇宙エネルギーを見失っているのです。

 しかし、親は「可愛い子には旅をさせろ」と、苦しんだり転んだりしていても涙を堪えて見つめておられるのです。自らが気が付いて親元に還ることを父なる神は眺めておられるのです。

 私達は何回も苦しんだり転んだりして、色々なことにぶつかって初めて親を想うようになるのです。

 親を想う心が、その自分の親を捜す心が、それが働きかけてくるのです。苦しい時〈なぜ私はこんなに苦しいんだろう〉と、親を想うことの機会を与えられているのです。

 しかし、この世で安楽に暮らしている者は、親を捜し求める機会を失っています。波乱万丈で経済的に恵まれ、色々なものに恵まれている者はこの三次元の世界に満足しているのです。

 そういう方々は真の親である父なる神に巡り合うことは、
「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言われているのです。

貧しきものを幸いなり。苦しき者よ幸いなり」と言います。
なぜ「貧しき者よ苦しき者よ幸いなり」というか皆さんはお分かりでしょうか。貧しさの次には喜びが来るのです。苦しみの次には喜びが来るのです

 今、喜びであり、色々な物に満たされている人達は「昼の次には夜が来るであろう」と。しかし、今、自分自身に満足していない方は幸いです。

 必ず満足する日が訪れるという事です。「夜があれば必ず昼がある」というように、「夜明け前は暗い。だがその者にはやがて明るい朝が来るであろう」とそれが訪れるのです。必ず訪れます。

 それを「貧しき者よ幸いなれ。苦しき者よ幸いなれ。その者は神を観るであろう」というのです。正にその通りなのです。

 皆さん方は今、自分の生き方に満足しておられません。満足しておられないからこそ、ここにそれを求めに来られたのではないでしょうか。

 そして真の親を知りたいと想う心がけが、皆さん方には一杯詰まっていると思います。

 それが神の慈悲、神の愛です皆さん方は今、神の慈悲に満たされていることを感謝しなければならないのです。

 ですから、皆さん方がこの世に生まれて出てくる時も、あの世に帰るときも神のみが知っておられるのです。
 そのことを皆さん方は『天命』とか『運命』と言っているのです。

 皆さん方は死を恐れる必要はありません。
神(真の自己・真我・無限の生命)は永遠に死なないからです。

 神は久遠にして永遠です。なぜ人間は死なないかといいますと、人間が生きているのではなく神のみが生きておられるからです。

 しかし人間は〈自分が生きている〉と思っているのです。
 その自分が生きているということが迷いなのです。

 あなたには、今、命があります。その命そのものが神です。
 皆さんが生きているのは神のお陰です。神があなたの中に生きて働いて下さるのです。あなたが働いているのではないのです。

 そこに人間という存在、個別化されたものがあり、「私がやったのだ」というものを考えるようになったのです。

 ですから〈私は毎日家族のために炊事・掃除・洗濯をやっているのに、誰もお礼を言おうともしない、誰も褒めようともしない〉と思うようになるのです。

 しかし「神が炊事をして下さった。神が掃除や洗濯をして下さった」と皆さん方が思ったとき、〈誰かお礼を言って褒めてくれるものはいないのだろうか〉という思いが起こるでしょうか。起こらないと思います。
 これが謙虚な心というものです。

 皆さん方が世に貢献している姿というもの、そういう謙虚な気持ちになってそれを為し得ているならば、それは非常に素晴らしい美しいものです。

 しかし、それに見返りを頂こうとするその利害関係が入って来ますと、もうそれは謙虚ではなくなるのです。

 世の中には謙虚のような姿を見せて、まだ自己限定している人がいるのです。「私みたいな人間が・・」とか「私は無知ですので何も出来ないのです」と、これを謙虚だと思っている人もいるのです。

 これは謙虚ではありません。それは自己卑下というものです。神の力を限定していて、それも神を知らない無知の存在なのです。あなた方には無限大の知恵と力が備わっているのです。それはあなた方が神であるからです。

 あなた方の為している御業は、常に神が為している御業である
ということが自覚できるようになりますと…
そしてそこに自己限定がなくなりますと…、

 偉大なる知恵と力があなたを通して、無限大の人間の想像を超えるような知恵と力が、皆さん方の肉体を通して働くようになるのです。

 これが「神我に生きる」ということです。あるいは「神我顕現」ということなのです。

神我というのは「神の我」あるいは「真の我」ということで、
私達は実相に於(おい)て神であった。命であった」ということが分かるのです。

 今、世の中で「人間だ、人間だ」としているのは、五官の感化(自我・偽我)で人間と思っているだけです。

 この世に神のみがおられるだけで、人間の存在は本来は無いのです。人間の五官の感化が人間という名前を付けているだけです。

 皆さん方は常に神と共に、常に神と一体であるのです。
 イエス様は「私は常に神と一体である」と言われたのです。

 神と一体ということは、
『その御業を為す御業は全て神の御業である』
という強い信念と信仰を持っておられたのです

 そして神のその力を相当の意志力でもってこの世に現し給うたのが「イエス様」であったのです。あるいは「お釈迦様」であったのです。

 皆さん方もイエス様と同一のもので、同一の生命を持ち同一の肉体を持っておられたのです

 イエス様は特別な人間ではなく今身の人間であられたのです。何が我々と違っていたかということは、その謙虚さ、神の謙虚さ(神の道具意識)を持っておられたということです。

 謙虚さを持っておられたということは、ご自分の為される業は、
その御業は私が為すのではなくて神のみが為し給われるのである」という事を悟っておられたのです。

 皆さん方は如何なる仕事をやっている時も、商売をやっている時も、みんな神がやっておられることを自分自身に言い聞かし、それを自覚することが如何に大切であるかということです。

 こういう本来の自分を知った時、その謙虚な気持ちが皆さん方に起こって来るものだと思います。

 よく世の中では「謙虚に」という言葉を使いますが、その真の謙虚さを知っている人はあまりにも少な過ぎます。
 でも皆さん方には真の謙虚さというものを、ここでご理解頂きたいのです。

 真の謙虚さというものは
自らの力は何も無く神のみが働き手であり御業を為されるのである」とそれが分かったとき、謙虚というのが分かるようになるのです。

 威張るということは、神を知らない存在なのです。何回も申し上げるようですが、皆さん方は自分というものがまだはっきりと自覚されてないのです。真の自分とは何でしょうか。

 その自分を知らないために自分という正体を知っていないのです。その正体を知らないがために、私達はそこに「威張り」というものが出て来るのです。

 皆さん方の正体は何でしょう。
皆さん方の正体は『命』であり『神』であるのです。

皆さん方の一人びとりの中に宿っておられ、
活動されてやまないのは神なのです。それがあなた方の正体なのです。


人間はなぜ愛か 謙虚な心

 女性というものは非常に素晴らしいもので、神に似せて造られた男性よりも、こういう神秘の力を、外に創造する力を持っておると同時に、その神の愛を、女性はみんな母性愛というものを持っているのです。

 だから「母のような愛である」というのです。

 イエス様は母の愛について
「地上におけるあなた達の母は神に近く、あなた達にとっても、神にとっても愛おしき者である。あなた達のために母が払った犠牲が、その母に与える喜びが、如何程のものであるか想像してみるがよい」と言われています。

 子供を育てる母の愛というものは無所得です。今、赤ちゃんを育てているお母さん、今まで子供を育てたお母さんならよく分かると思います。

 我を捨てて無所得の愛を子供に注いているのではないでしょうか。寒い真冬の夜中でも、何回でも起きておむつを替えて、乳を与えて、一生懸命子供を保護して愛の出し惜しみをしないのです。

 本当に可愛くて可愛くて仕方がない、全てが愛おしくて愛くるしいとでもいうのでしょうか。

 そして目に入れても痛くないと思う心、一体観念です。子どもと一体観念を計った純粋の母をお母さん方は施しているのです。

 これが母性愛です。それは神に近い母の愛です。

 しかし、子供が大きくなるに連れてその愛は徐々に薄れてきます。それはお母さんの愛は不純の愛に変わってくるのです。お母さんは子供に何かをして欲しいと要求するようになります。
 
 手伝って欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい、もうそれは利害関係が入った愛に変わって行くのです。

 でも赤ちゃんの時の、赤ちゃんを育てる間の愛は、純粋の愛を現しているのです。それは謙虚の愛であり、本当に素晴らしい威張らない謙虚な愛が現れているのです。これは神の愛なのです。

 ですから、私達は常にそういうものが何であるか、これを学ぶと同時にそれを行うことが大切なのです。実行しなくてはならないのです。

 皆さん方はいくらそのことを知っても実行しなければ何の救いにもならないし、また、神を観る事も出来ないのです。

 お母さんが子供を愛するように、大人になっても子供を無所得のままで愛しきれる。そして神の謙虚な愛を皆さんが日常生活の中で行い

それは家庭生活だけではなく、汝の隣人にもそういう愛の想いが表現できるようになれば、その人はもう生き神様で神に似てる存在となります。それが真の信仰です。

 信仰というのは行為の中になければならないのです。口先だけの信仰というものは真の信仰ではありません。口先だけでは何とでも言えるのです。

 人を憎みながら、怒りながら、そしりながら、嫉妬しながら、私は神を最大限に愛していますという訳です。

 イエス様はそのことを知っておられましたので、
汝の隣人を愛しなさい」と言われたのです。

神を愛する」ということは、銘々が、「一人びとり」が
神を宿している」「神の御霊(みたま)であり、
分生命」であり、「分魂」ですから、
隣人を愛する」ことが「神を愛する」事なのです。

 「皆さん方」は「神の創造物」であるのなら、
神のお造り」になった「全ての全て」を「愛さなくてはならない」のです。

 なぜならば、神ご自身は創造主であり、神はご自身でお造りになった全ての全てを愛して下さっているからです。

 動物、鉱物、植物を愛し、生きとし生けるもの
全ての全て」を、「私達は愛さなくてはならない」のです。
これが「神を愛している姿」なのです。
と同時に「神を賛美している姿」です。

 それは人々を賛美するということ、貶(けな)すのではなく誉め称えて、本当の喜びの中に、分かち合いの中に、助け合いの中に仲良く調和の取れた状態、これは神を賛美し、神を愛している姿なのです。

 イエス様は
神を愛するということは汝の隣人を愛することである」と言われているのです。

 「汝の隣人」こそが「神の現れ」であり、
神の御子(みこ)」であるからです。
また、「神ご自身」であるからです。

隣人を貶す者は神を貶す者であり、隣人を冒涜するものは神を冒涜する者であるのです。

 その神というものは無限で、全宇宙に遍満しているのです。
だからこの世に現れているもの、目に見えるもの目に見えないもの、全ての全てが神であるということを知らなくてはなりません。

 そうなれば私達はそこに差別のない愛で、全ての全てを愛さなくてはならない、全ての全てを賛美しなくてはならないのです。

 ただ身内の者だけを愛して別の者は嫌いだと、あの者はこの者は大嫌いだと争っていることは、神を知らない無知の存在であるのです。

 神は偉大なる無限者であられるのです。
ですから、私達は、今、現実に、
無限(神意識・神の御心)の中に生きている」のです。

 「神を愛する」という事はどういう事でしょうか。
 それは「隣人を愛する」ということです。

 自分の奥さんや旦那さんを愛している、そして身内の者を愛している、あるいはあなたの職場の一人びとりを愛していることは、神を愛している姿、賛美し合っている姿です。


無我の境地とは何か

人を苦しめていることは自分を苦しめているようなものなんです。
この細胞がこの細胞を苦しめれば自分を苦しめておりますね。
それと同じようなものなんです。

それを皆さん方は一体観念という、
一体、全一体が神理でございます。
分離は非真実、迷いそのものなんです。

あなた方が神理の中に生きて、神理を知っていたならば、
誰を憎みましょう。誰も憎まないはずですよ。
そこには愛しかないはずです。

ね、ひとつの存在ですから、対立するものがないはずですから、
迷いの中にこそ、対立はあるんですよ。
今まで個人と思っていた自分がなくなって、全我という一体感。

あ~あ、な~るほど、
一つの宇宙生命の中に、みんな一つの体の中にいるんだな、
一つの生命をみんな宿しているんだな。
そして同一の神々のみ中にいらっしゃるんだな。

という事が分かれば、そしたら、あなたは誰をけなしましょうか。
そこにはもう調和と愛しかしか無いと思います。
であるがゆえに神は愛なんです。
私達はまだ、悟りという神理の中の境地に入っておりません。

無我の境地というものは、今まで迷っていた自分がなくなって、
全我」という「全一体感の中」に「神の中に入る」ことが、「無我の境地」でございます。

そこには無限なる自分、全体なる自分しか無い。今まで個人だと思っていた自分はなくなっています。

迷っていた自分がなくなって、
悟りの自分、「全一体」なる大いなる「無限なる自分」しか残らない。
それが、「無我の境地」でございます。

そういった時、みなさんがどのようなことが起こるといいますと、
あなたが個人、分離でいる間は、迷い苦しまなくちゃならない。

分離でいる間は、迷いなんです、苦悩なんです。
自分の無知で自分を傷つけます、
しかし、悟りという境地、無我の境地に到達したならば、
傷つけるものがありませんから、傷つくことがないのです。

人を苦しめませんので、苦しむことがないのです。
そこにはもう平安と安らぎしか無いのです、
これが神の境地なんです。光悦感といいます。

あなた方が一番この世に生きてる間に、その一番克服しなくちゃならないことは、分離感で御座います。

どこにも分離はございません。分離というのは皆さん方の無智の中に、迷いの中にのみ存在致します。これは実在ではありません。非実在なんです。

勝手に人間が分離してはないけれども、
分離して勝手に争っているだけ、勝手に対立しているだけなんです。
どこにも分離はありません。

それがなくなって対立するものがなくなれば、あなた方は苦しむでしょうか。
悲しむでしょうか。恐怖するでしょうか。

今日の話は、皆さん方を最高の神に到達する神理でございます。

それをあなた方は観念でとらえて、自力でとらえては何にもなりません。
あなた方が意識的にその全一体感になることを無我の境地というので御座います。

意識的にその全一体感に自分が到達。
そして皆さん方が、その「無限と一体」であることによって、皆さん方は無限の智恵と力と愛をあなたのものとすることが出来ます。

なぜなら、あなたは今、分離している間は、一滴の海水のようなものなんです。
一滴の海水を海から持ってくると、使い道がない、無力、ね、何の価値もないけれども、その一滴の海水を全体に大海に返してみて下さい。

その一滴の海水も全一体となったから、全体の知恵と力をその一滴の海水を、我がものとすることが出来る。

あなた方の今、分離の中に、対立の中に、いくら神の知恵と力をあなたが得ようと思っても、得ることはありません。

ね、無限宇宙とあなたが一体となって、全一体、どこにも分離のない状態、宇宙即我という境地にあなたは無限宇宙の中に今いますよね、皆さんがね。

そうすると、無限宇宙があなたでなくてなんでしょうか。
あなたから無限宇宙から分離することが出来ますか。

あなたそのものなんです。だから、あなたは無限者なんです。
その自分が、無限の中に留まり、無限者があなたの中に留まり、あなたは無限者と一体となる。そのことの境地に到達した時、あなた方は無限の知恵と力と愛をあなたのものとする事が出来る。

あなたを通して無限を表現することが出来る。
これが釈迦の偉大な力、宇宙力、天と地を支配する力を得た秘訣。

イエスが天にある言葉を語られた秘訣、彼を通して無限の知恵と力が、言葉を通して現れたのでございます。

おまけです♪

 一つのもの(無限の生命)の中に生きているからです。
心は一つの心、神の心(神意識)の中で生きているからです。

人を苦しめていることは自分を苦しめているのと一緒。
一体ですから、神から見れば1個の細胞体です。分離はございません。

悟りとは何かというと、全一体。全ては一つの体ということを悟る。

無限宇宙からすれば全一体なる大いなる自分。全一体が真理。そこには愛しか無い。
そこには愛と調和しか無い。

迷い(分離意識)の中にしか対立はない。     


昇天とは何か

無限なる自分を小さな自分にしているのは自分自身です。
だから、小さな我から宇宙的我になることを意識の拡大といいます。

意識の高揚というわけです。じゃあ、誰があなたを昇天させるの?ん、
昇天とか成仏というものは、自我意識状態から本来の神我意識状態になる、神意識状態なることを、昇天成仏というんですよ。

それ以外に成仏があったためしもないし、昇天という言葉があったためしもない、そうですね。

神我意識の世界は神の国でしょ?
あなたは神我意識にならないでも、神の国に住むの?
自我意識であるかぎり、人間界にしか住めないのですよ。

私は人間だと意識を持った人間が、どうして神の国に入るかということです。あなたが神の国に入るためには、あなたが神意識でなくてはならないという事ですよ。

神でないものがどうして神の国に住むの?ということです。
神ではないと思っている人は人間の世界にしか住めないのです。

だから、再三この人間の世界に生まれてくる、輪廻転生、ね、

転生輪廻というのは、我神なりという神の自覚の出来た人は昇天しますけれども、自分は神であるという神の自覚の出来ていない人間が、一人だって昇天したためしはないのです。

だから、迷った人が昇天することはないのです。
迷った人というのは、自分がある人です。
自負のある人です、これを自縛というわけです、地縛霊というのは。

あなたがなぜ人間界にあなたをとどめているの?
あなたが私が人間だと思っているかぎり、何万回でも人間の形の世界に生まれますよ。

お分かりいただけますか。
じゃあ、誰があなたを助けるの?誰が?自分でしょ。
だから、神は自らを助くるものを助く、汝の救い主は汝自身なりと、
救い主はあなた自身であって、誰でもない、と。

私知花は、あくまでもアドバイザーです、ね、皆さんにアドバイスをしてるだけであって、実際にこれを行動を起こすのは誰なの?ね、
立って歩めというのはその意味なんですよ。

勇気を持って歩みなさい、と、その意識を持ちなさいという意味です。
だから神を受け入れるか、受け入れないかと。

神を受け入れた者であるならば、あなた自身が神意識になっているはずです。神意識にならないでは、神の国には入らないのです

だから神我を通さずにしては神の国にはいることはないと、
わかりますね、神我を悟らずにして。

神我の世界(真我)が神の国ですから、
神我の世界(ワンネス意識・内なる神の国)に入ることが
神の国に入るという意味なんですよ。

自我の世界は、人間の世界ですから、人間の世界から抜けきれないというわけです。これを自縛というわけですね、

私は人間だと思った、生涯を終わったとする人は、
成仏ですか、不成仏ですか?

人間意識で生涯を終わった者は、成仏?不成仏ですよね。
自己を知らないまま、無知のまま、己に迷ったまま、迷いですよ。
自分を知らないという事は、迷っているということですよね。

悟った人というのは、自分を知っている人という意味です。
悟ってる人であるならば、この形を自分だとはいいません。

言う?言わない、言ませんよね。
普遍的その大生命を己だといいます、今、考えない、意識しなくても

形をまだ意識して生きているかぎり、自分がありますから、
自負です、自分を背負っているわけです。

自負は即自縛です。自縛は即自我です。
だから、自我意識は、悟りですか?迷いですか?

迷った人には自我意識があるけれども、悟った人には神我意識しかないのです、自我意識はない。
自我意識に生きるか、神我意識に生きるか、だけのものだったのです。


不動明王になるには
神は絶対善そのものである

 私達が不動心になるということは、不動明王になるということです。日本人は大変、不動明王が好きです。人間は、善悪の心で揺れ動いています。悪の心というものは、人間が創り出したもので、本来は存在しないものです。

 神というのは絶対善そのものなのです。人間は、本心と偽心とがあると思っていますが、人間には本心があるのみなのです。

 偽我という自分が勝手に創り出した個人意識と、本当の我である真我が一つになると、偽心があるはずがないのです。

 人間は善悪の木を食べています。善い心もあって、悪い心もあると考えているからです。「心を一つにしなさい」ということは、悪い心をなくして、善い心だけにして、一心集中、絶対善の心で生きるということです。

 そうすると不動心となり、これが本心、良心と言っているものなのです。
 善なる心のみ、本心のみがあるのであって、悪いことをすると良心が咎めるのです。

 悪い心があると思っている人は、時計の振り子のように善悪に心が揺れます。憎しみ、怒り、嫉妬のような悪い心を持ってはいけないのです。

 不動心は不動明王のことです。闇がない光一元の状態を、明王と言い、それが不動不変の状態にあることを意味します。悪いことをしている時は闇です。人間の心は善悪に揺れますから、晴れたり、曇ったりしています。

 太陽は曇ったことがないのです。心に本来曇りはないのです。これを清き心と言います。心清きと言い、「心清き者は幸なれ」。その人は不動心であり、光明であるからです。

 人の悪口を言う時の人の心は曇っています。心のスモッグがかかっていますから、明るくないのです。
 スモッグを創る、創らないは、自分の心次第です。

 一心集中、絶対善の心にすることです。これが日常生活に必要なことです。善なる心だけにしなさいという意味なのです。

 どんな迫害を受けても、罵られても、心を平穏にして、憎んでも、そしってもならない、怒ってもならない。怒り狂っている時、皆さんの心は曇っています。

 誰かに命令されているのではない。悪しき心で、大欠損をして、平気でいるのです。心よりお金を大切にしているから、お金のために心を売り飛ばすことが多いのです。心はお金では買えないものです。お金を一万円貸して、その人が返さないと、怒り狂う人がいます。

 私は人にお金を騙されても、怒ることはしません。人から馬鹿だと言われましたが、お金で怒る人は不動明王になれないのです。

 人を憎んでいる時、嫌な気持ちのはずです。自分の心が曇りますから損です。不動心、絶対善の心でいたいものです。
 お寺にある、剣を持ち、怒りの炎を燃やす不動明王の姿ではないはずです。本来は仏の姿で、怒りの姿に造り間違えているのです。

 愛光が燦然とする姿です。顔に現れているのは心です。心の状態を映し出すのが顔、怒りは怖い顔です。嬉しい、楽しい時、ニコニコと仏の顔となります。


心清き者は幸いなり

 心が安らいでいる時は、自ずと緊張感がとけて、肉体がリラックスします。心が緊張していると、肉体はリラックスしません。

 悪の心がない状態となると、肉体はリラックスするのです。精神統一はリラックス状態で平安の心です。そのためには、人に何を言われても平気でいなければならない。

 外なるものの影響を受けないで、常に清い心。安らぐ心でいられることが不動心です。不動心なら心の修行が終わった状態です。
  
 心がいくつあるかを知るべきです。み心、真心しかありません。これが神の心で、実在の心なのです。偽我は、偽りの心となり、上辺の心です。これは実在していません。

 あなたが、個人意識で、勝手に創り出したものにすぎません。肉を己として生きる限り、偽心です。心を一つにすると悪の心は生まれてこないのです。

 心のことを心霊(または神霊)と言います。大霊は寛大な心、神の心です。心は光で、闇ではありません。心の光を霊光と言います。これを曇らしてはなりません。
 イエスは「心清き者よ幸いなり、その者は神の国を見るであろう」と言われているのは、この意味です。

 善悪の心に、揺れ動いている所に、神が映るでしょうか。波打っている水面には、お月さまは綺麗に映りません。鏡のように揺れ動かないものに神は映るのです。

 今のあなた方の心では、とうてい神は映らないのです。
 神を見るためには、平坦な心でなければなりません。
 これを静寂な心と言います。


悪霊は自らが創る

 外側からの誘惑がサタンの誘惑なのです。サタンは悪、悪の誘惑に負ける。本来サタンという悪はないのです。悪がないと解れば、サタンの誘惑に負けることはないのです。悪が来ても、あなたの光をもって打ち消す。あなたが光そのものであったら、誘惑は入って来ません。

 その時あなたは、この世の悪に打ち勝った者となる、誘惑に打ち勝った者となるのです。サタンとは自我意識のことです。
 悪い心と悪霊は同じもの。良い心を善霊と言います。神霊ですから、悟った人は善霊となります。

 この悟った人には悪霊はありません。悪霊は本来実在しないからです。善悪の木の実を食べている人のみに悪霊があり、その影響を受けるのです。

 悪霊は幻、1つ目になっていない人にのみあるもので、絶対実在は神しかありません。アダムとイブの初めに戻り、善悪の木の実を食べていることと同じです。

 この時以来、人間はまだ、善悪の木の実を食べ、善悪があるのだと信じ込んでいるのです。心の悪い人のことを善霊と言わずに、悪霊と言います。皆さんは、悪霊が怖い、悪霊に取りつかれていると言います。

 あなたが誰かを憎んでいるときには、悪霊に取りつかれている状態、悪い心に取りつかれています。

 では、憑依霊は誰が受けるのでしょうか。誰がもって来るのでしょうか。その悪い心に支配された状態を憑依霊と言うし、悪霊に支配されていると言います。

 良い心に支配されている時は、神懸かりです。世の中は、悪霊の意味が解っていないのです。その心の悪い状態を悪霊と言うのです。本来はないのですが、その本人が悪を望んで創るわけですから、悪霊が存在することになります。

 創らなければよいのです。あなたの悪、憎しみは、あなたが創るからあるのであって、創らなければ、ないのです。悪を創らない人間に、悪は存在出来ないのです。

 では、あなたを善人にするも、悪人にするも誰次第でしょか。あなた次第です。誰かがあなたを良い人、善霊に、あるいは悪霊にできるのでしょうか。

 あなた自身以外に誰も出来ないのです。だから、良い人間になるも、悪人になるも、他の本題ではなく、自力本願、その人の自由意志、自由選択なのです。
 
 絶対善にあなたがなれば、あなたは絶対善になるのです。それが不動心、善霊です。もう憎しみを感じない、怒りを憶えない、嫉妬しない、悪がない人間にならねばなりません。
 そうなる、そうならないは、皆さんの日常生活次第です。

 どこかに篭って座ることでしょうか。皆さんの日常生活が、信仰そのものなのです。精神統一は、日常生活の内で行わなくてはならないのです。

今日一日愛の1日であった。
絶対善の一日だった。
誰の悪口も言わなかった。
誰も憎まなった。

 これは1日、精神統一をしたことになります。調和の1日だった、愛の1日、調和の1日だった。そこに何の悪もなかった。それの積み重ねです。

 みなさんんは不動心になって初めて、不動明王という光輝くものとなるのです。多くの人を憎み、多くのトラブルを起こす人は、病気になりやすいのです。
 病気は愛から来るのではなく、不調和から来るものなのです。憎しみや、怒りやそしりが病気の原因になっています。

 あなたが絶対善となり、光となったら、世の中に病という闇は存在しないのです。闇から病(やまい)や、悩み(なやみ)は来ます。

 天国に住むも、地獄に住むも、あなた次第です。絶対善の心が、神の心、み心です。その悪の心は、あなたの自由意志で創ったものであり、本来は実在していません。
 
 だから、実在する絶対善の心で生きてこそ、私たちは不動心となり、不動明王となります。それは、毎日の日常生活が修業の場であるということです。誰もあなたの心を変えてくれる人はいません。

 あなたが、自分の心を善に使うか、悪に使うかは、あなた次第です。あなた方は各々、神の心を持たされているのです。世の中には、神の心を悪い方向に使う人もいます。

その心はエネルギー、力ですから、宇宙にはエネルギーは一つしかありません。神聖エネルギーです。
 ある人はこのエネルギーを悪に使い、ある人は善に使うだけなのです。エネルギーには善悪はないのです。

 戦争と平和のエネルギーの区別はないのです。その人が戦争に使うか、平和に使うかだけなのです。エネルギーには、善いエネルギー、悪いエネルギー、マイナスのエネルギーもあって、プラスのエネルギーもあるのではないのです。

 神聖エネルギーしかないのです。愛のエネルギーしかないのです。これを人間の自由意志で、悪に使うか、善に使うか、建設に使うか、破壊に使うかだけなのです。

 皆さんの病気のエネルギーと健康のエネルギーは別々のものではなく、同じエネルギーなのです。その本人が病気という破壊的な方向にエネルギーを使っただけです。


日々、心を正しく使うこと

 宇宙にはエネルギーは一つしかないのです。病気に使うか、健康に使うかは、その人間の自由意志です。自由選択です。
 病気にするも健康にするも、その使い方次第。正しく使えば健康、誤って使えば病気になります。

 宇宙には、たった一つの無限大の神聖エネルギーしかないのです。このエネルギーを、皆さんの心次第で使い方を決めているのです。
 悪い心となっている時は、悪いエネルギーに転じており、善い心で正しく使えば、健康になります。

 心を正しく使う日常生活を歩まねばなりません。皆さんは今日まで、平気で人の悪口を言い、憎しみを持ってきたと思います。それは得したのでしょうか。損したのでしょうか。

 よく考えて下さい。人を憎んで、得をする人はいません。人の悪口を言って得することはなく、損するだけです。みなさんと私が、日常生活であまり会って話をしないのは、皆さんは三次元的、五感的外側の話しかしないので、私にとっては、気に入らないのです。

 みなさんは、実在の話をしないで、この仮相界の話しかしませんから、私には気に入らないのです。
 消えてゆく仮相の話に対して、聞く耳を持っていません。話を聞いても得にならないのです。気に入らないから黙っていたほうがよい。
 これを沈黙というのです。

 三次元的なうわさ話、どこどこで誰々さんはね・・・、とかの話は損しているのです。あなた方はせっかく食べたエネルギーを、こんなものに消費せねばならないのですか・・・。

 あなた方は、そういう無駄なものにエネルギーを浪費するから、腹も減るのです。おしゃべりしなかったら、腹も減らないのです。意味のないおしゃべりをして、無駄なエネルギーを浪費するから病気になるのです。

 不動心になると、もっともっと、ひもじさを感じなくなります。みなさんが不動明王になるためには、絶対善という、今日も1日善の1日であると、決め込んでかかって下さい。

 悪いものに負けるものか、サタンの誘惑に負けるものかという強い決意をして下さい。人の悪口を言う時は、あなたはサタンの誘惑に負けている時です。

 それは許しと愛で打ち勝たねばなりません。許すことによって勝つことになります。喧嘩は両成敗が当たり前です。両方罪を犯します。両方損をするのです。両方悪いから、両方を裁かねばなりません。双方とも自己主張しているだけです。これは、自己保存の心と言って、一番汚い心です。曇りです。

 私はこう思う、私はこう見るという自我意識でものを見たり、考えたりしている時は、そこには善は存在しません。
 常に真の我れ、絶対善の心からものを見なくてはなりません。

 いい顔であるためには、いい心でなければなりません。
顔は心の映しですから、心以上のものを映すことは出来ないのです。

 良い心は良いものを映します。
 悪い心は悪いものを映します。
 良いものを映し出すか、悪いものを映し出すか、それはあなたの心次第です。
 良い心は、神のみを映し出して見るだろうということです。そうすると、この世は波立たなくなります。これが静寂な心と言って、そこに映ったものは、綺麗に見えます。

 波の荒い時は、月は綺麗に映らないのですが、心が不動になって、善悪の心に揺れなかったら、そこに映ったものは、綺麗に見えます。
 善悪の心というのは、善悪の木の実とも言います。
 人間が善悪の心に揺れているということを、動揺といいます。

 みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
 神は中心です。その中心から振り子が会って、善と悪があると思い込んでいます。
 本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。

 人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。

 不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
 太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。


誰でも不動明王になれる

 みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
 神は中心です。その中心から振り子があって、善と悪があると思い込んでいます。
 本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。中心は揺れることはありません。中心は狂いません。

 人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。

 不動心になると、不動前なるのは当たり前です。不動明王ということは、光一元、、曇ることがない状態です。
 太陽はまったく曇りません。本心、良心は曇ったことがないのです。

 あなたがスモッグを造っているのです。あなたは太陽を見ないで、曇った部分を見るから曇っているのです。ちょうとこの世も同じで、太陽は燦然と、曇りの日も、雨の日も輝き続けています。

 あなたは、そのスモッグを見ているだけで、太陽そのものになれば、燦然と輝く自分を見ることが可能です。

 神のこと、霊のことを霊太陽と言って、霊は太陽なのです。これが宇宙の中心太陽なのです。この霊太陽が全世界、全宇宙を照らしているわけです。太陽はなぜ光り輝き続けているのかと言いますと、放出するからです。

 太陽がケチって光を出し続けなかったら、その光は曇ってなくなります。与えるから、与えられるのです。循環の法則を守っているのです。

 放出しなかったら、太陽は光を得ることはないのです。出すこと、入れることは、循環の法則、バランスを守っているから、太陽は光っているのです。

 あなたも世の太陽となるには、与えきりなさい。
「与えよ、さらば与えられん」の意味は何かと言いますと、「空」は光の粒子ですから、その光を放射することによって、常に空(くう)の光の粒子と入れ替わり、私たちはこの世の太陽となります。

 太陽は与えきりですから、次から次に出しても、その光は減ることがない、それは霊太陽から光を与えられるからです。皆さん方も、世の太陽となるためには、多くの人々に宇宙エネルギー、神聖エネルギーを放流、放射してゆくことが大切です。

 得ようとする者は失うということは、その意味です。あなた方は出すことは嫌いで、得よう得ようとしています。
「命を得ようとする者は光を失い、光を放つ者は命を得る」という意味です。

 与える者は、その与えた人が輝くのです。もらおう、もらおうとする人は、自分が光でないと思っているからです。
 与えて光るのか、もらって光るのか、もらおうとすることは破滅です。
与えることは得ることです。
 これは循環の法則ですから、与えて、与えてゆきなさいということです。

 水車も水の流れをせき止めないで、流れに任せているから、力が出るのです。あなた方も、この肉体という意味を、神の媒体となって、与え切ってゆけば、その偉大なる力、偉大なる輝きを出してくると思います。

「先生、エネルギーを下さい」と言う人は、感心しません。あなたは、乞食になりたいのか、与える者になりたいのか、どちらでしょうか。欲しい、欲しいは乞食です。貧乏です。金持ちは与えます。

 与える者になりなさい。与えるものは、物ではないのです。
あなたの善意なる心です。エネルギーです。私には、何も与えるものはありませんと言いますが、エネルギーはあるはずです。

 あなたが善意な心になれば、光そのものを放射します。その光を世の人々に注ぎ続けることです。 
このことが、イエスの言われた、「我れは世の光なり」ということです。

 太陽は与え続けているがゆえに、みなさんは太陽が照り続けると、カンカン照りで熱いと文句を言いますが、曇ると曇っていると文句を言います。

 しかし太陽は一切文句は言いません。太陽はいくら文句を言われ続けても、光を与え続けています。あなたがたも、この世の人間同士も同じことだと思います。与えられても、文句を言う人もいっぱいいます。

 この知花の話を聞いて、知花に敵対する人も多いのですから。
人から盛られた毒は食べてはいけません。夫婦でも毒の盛合いをしています。サタンの誘惑です。憎しみ、怒り、嫉妬とかと行います。親子でも、夫婦でも、お互いの毒を食べないことです。

 サタンの誘惑に負けるということは、人から盛られた毒を食べてしまい、あなたも怒ることです。

 悪の心は、あなたが勝手に創らない限り、存在していないのです。この世にあるのは、実在しているのは、絶対善のみなのです。悪の心は人のものです。悪という心は、神というその本心を知らない人にのみあるのです
 
 心を一つにしなさい、ということは、善なる心のみにしなさいという意味です。心が一つになったら、みなさんには不幸というものはなくなります。
 不幸になったり、幸せになったりするのは、善悪の心で生きるからです。

 善なる心であるなら、毎日が幸せです。神は幸せそのものです。本当は、不幸な人間を、神は創り出していないのですが,あなたの自由意志でもって、あなたが自分を不幸にしているだけなのです。 
 
誰があなたが自分を不幸にしているでしょうか。
他人ではなく、自分です。

 ですから、最大の敵は、自分です。その善悪の自分に徹底して打ち勝つことが大切かと思います。誰もあなたを苦しめていないのです。
 あなたの心があなたを苦しめているのです。自分との闘いということに、気づいてほしいと思います。

 平気で人を憎む自分、悪口を言う自分に打ち勝って克って下さい。悪の心を自分に住みつかせてはなりません。清い心とするためには、憎しみの心、怒りの心、嫉妬の心をあなたの心から追い払わなければなりません。

 これがキリストの帯でムチを造り、神殿を汚す者を追い払ったという象徴的なものです。あなたの心が神殿そのものなのです
「心を神のみに与えなさい」ということです。

 あなたの心を、善悪の住処にするのですか。清き心にして下さい。神のみの住処にしなさい。これが「心を一つにしなさい」という意味なのです。

 一時でも、サタンをあなたの心に住まわせてはならないのです。あなたは、あなたの造ったムチで、心のサタンを追い払わねばなりません。

 そのまま平気で、怒りの心、嫉妬の心を住まわせてはならないということです。私知花も、心に住み着くサタンを、ムチで追い払おうと努力している一人です。

 たまにはサタンが心に入ります。そのサタンが心に入りこんだ時、みなさんはサタンにやられてしまいます。悪に取り憑かれていることになります。それを憑依霊とも言います。みなさんはよくやられています。

 あなたが誰かの悪口を言っている時は、神懸かりではなく、憑依霊を受けているのです。それは自分で呼び込んでいるのです。その憑依霊を追い払う時、必ず憑依霊は、この者が私を呼んだのであると言います。

 あの人を憎みたいと、憎しみの心をもったわけですから、憑依霊を招待した事になりますから、入ります。心を一つにしなさいということは、善悪の心で生きることではなく、絶対善の心を統一してゆくことです。

 これが精神集中、一心集中です。
善なる心のみにしなさいということです。
それが出来たら、あなたは不動明王になっていることになります


波動とは何か

心の波動が良ければ、バイ菌も無力になる

 自分の肉体的な病気は、心の波動が生み出しているのを忘れてはなりません。
 例えば外部からバイ菌が侵入してきても、元々体に愛の波動を持っているならば、バイ菌とは絶対に波長が合いませんから、肉体に入ってくることが出来ません。同じものを食べましても、中毒になる人とならない人がいるのです。

 低い波動を持っていますと、病原菌、ビールス菌などが入ってきます。皆さん方のバイブレーションが高ければ、低い波動のバイ菌はどうしても入ることが出来ません。そのような人を防御能力が強い人と言いますが、その人間はオーラがあるのです。

 愛の波動を出しますと、光のドームができます。オーラが出来るのです。それらはみな光を放っています。その光がピンと張った状態になりますと、バイ菌が入ろうとしても絶対に受け付けてくれません。

 ところが、愛の光線が弱くて、自分から出ている波動が弱く、しおれているのではすぐに入ってしまいます。外部から入ってくる病原菌と波長が合わなければ入りようがないのです。

 私達の日常生活は全て波動だといえます。心の悪い人は悪い波動が出ます。憎しみの心は憎しみの波動しか出ません。愛の心は愛の波動しか出ないのです。

 では、みなさんが人を憎んでいる時はこのオーラは力強く光っていると思いますか、弱いと思いますか。それは弱いのです。

 オーラが強くなりますと、それはもうものすごいオーラになり、ドームで包みます。そうなりますと、いかなるものも外部から影響を受けません。

愛は天と地の架け橋Ⅱ  

どうか、あなた方は、愛も無いのに神の知恵を得たい、神の力を得たい、
と言うような愚かな考えは捨てなさい。

あなたが愛になって、初めて一切のものと調和して、
初めてあなたがたは私の知恵と力とを授かるものであることを知りなさい。
誰かと不調和を起こしながら、私は神の知恵を得たい、カを得たい、
と思いましても、それは得られるものではありません。

私の知恵と力を得たいなら、あくまでも、皆さん方が愛でなくてはならないのです。
一切のものと調和されていなくてはならないのです。

私が全ての被造物を創って、その被造物を愛しているが如く、
皆さん方も私の愛を実感して、全てのものを愛するものになつて、
初めて皆さん方は天上、地上の全ての知恵とカを我がものとすることが出来るのです。

私に波長を合わせなさい。
常に私をあなたの中に留めなさい。
この知花は言っています。

何十年間もこの知花は同じことを祈って参りました。

「貴神の言葉は、我が言葉と成らせ給え」
「貴神の思いは、我が思いと成らせ給え」
「貴神の行動は、我が行動と成らせ給え」

何十年も、何十年も、それが成就するまで、祈り続けたのです。

あなた方も、そのような神の願いが叶えられる迄、
コップを手から下ろしてはなりません。

これが充たされる迄、神を信じて待ちなさい直今結果が出ないからと言って、
あなたが如何に欲張りであるか、私は知っています。

ここで僅か学んだから、今すぐ神の知恵と力と愛が私の許にあるんだ。
そして、それが成就出来なかったら焦りが出て私を疑う。
そして嫌になる。

「神様は嘘付きだ。私がこんなに信じても、私には何も現してくれない」
と云って又不信感を抱く何不調和の心を起こす。
そのような者が大半です。
私は、そのような不調和と波長が合うものではありません。
一切の焦りを捨てなさい。

あなたの「我」ではどうすることも出来ないのです。
私が波長が含う者のみ。

あなたに原因があるのであって、
私に原因があるのじゃない回私は常に与えているものなのです但唯、
受け取り方に原因があるのであって、与える方に原因があるのじゃないのです。

皆さん方は、神を罵ってはなりません。
神をけなしてはなりません。

あなた方の受け入れる能力に原因があるのでおって、
与える方に原因があるのじゃありません。

常に与えられているのじゃないでしょうか。
唯、受け入れる能力が自分に無いのにも拘わらず、
「私はこんなに神を信じて来たのに、
私には何も下さらない竈何もやって下さらない」と言うような泣き言は止めなさい。
そのような自分の利益の為に、欲望達成の為に、私があるのでは無いのです。

私は純粋なる愛そのものであるからです。
全ては愛するものであるから、私に似ることが大切です。

私に似る事が出来なければ、
どうして私のものをあなたに授ける事が出来ましようか。

一向に私に似る事も出来ないのに、
神の私のものを一切合切を受け継ぎたいと云うような欲望は止めなさい。

あなたは私のものを得る秘訣は、先ず私に似ることなのです。
私のみこころ(御心)をこの世に顕す事なのです。

顕(あらわ)さなければ、どうして私のものを、
あなたに与えることが出来ましよう。

あなた方は、先ず、寝ても覚めても常に私を意識し、
私の愛を四六時中あなた方のハートに掲げなさい。

そして世に示しなさい。

それがあなた方の唯一の私に至る道なのです。
愛のない者は、私に至ることはありません。

私との伴が、懸け橋が、出来ているものでもありません。
世の偽善者のような真似事を止めなさい。

あなた方は、真実なる私の真の信者と成りなさい竈真の信者とは、私の愛を行う者のみです。
あなた方は偽者でしょうか。

口先だけで神を信じ、神を愛すると云う者にならないように、
私の愛を現実にこの肉と魂を通じて現す者と成りなさい。
この世の見本となりなさい。
そうした時、私はあなたが祈らずとも、
私のものは全てあなた方に与えられるものなのです。

あなた方はまだ、私の実態を理解しておりません。
この知花を通して学びなさい。

その受け取り方を知花は知ったからです。
だから、皆さん方が今の自分の考えている愚かさを捨てなさい。

一切の先入観を捨てなさい。
今迄、神、神と聞かされたその神の話を全て捨てなさい。

私は真実なるものです。
現実的なものです。
実際的なものです。
活動的です。

私が遥か遠い雲の彼方におるのだと云う指導者から離れなさい。
私は今即あなたの中に、あなたは即私の中に居ることを知りなさい。
そのことによって、あなた方は私を知るように成るでしょう。

それを常に意識しなさい。

私と「父」とは一体である。

私は一度だって、「父」から離れたことがない。
我々は「父」の中におり、「父」は我が中におる。

全一体となって、そこにおることを知りなさい。

決して、この世の盲の指導者のように、
雲の遠い彼方に私がおるという事を聞いてはなりません。
偽りです。

彼等は、我を観たことも、感じたことも無いのに、
人に偽りを伝えているだけです。
私はここにおります。
あなたの中におります。

私はここに見よ、あそこに見よ、と云う如くにいるのでは無くて、
至る所におるものであることを知りなさい。

私は、その無限空間に満ち満ちている、偉大なる「生命」である事を知りなさい。

宇宙を支配している「大霊」であることを知りなさい。
宇宙を支配している「愛」であることを知りなさい。

あなた方は、如何なる神も信じてはなりません。

今世の中には、様々な神々を人間の無智で創って、
私から、彼あなた方の兄弟・姉妹を遠ざけているのではないでしょうか。

その遠ざけられている兄弟の救済の為にも、
あなた方が、その世の光となって愛の私の見本を示す事です。

それが世の救済です。

今のままでは、兄弟・姉妹は邪悪なる盲目の信奉者によって、食い潰されてしまいます。
どうか皆さん方は、真の我、真の神を実践体験し、
その見本を皆さん方ここで造って貰いたいのです。

どうか皆さん方が、偽者と戦い、
そして、それを皆さん方が本物を示す以外に無いのです。
口先だけでもう納得の行く時代ではありません。
行為で示しなさい。

その行為で示して、初めて皆さん方は世の信頼を受け、
そして、本物と偽者との識別の出来る状態をこの地上界で作らねばならないのです。

どうか皆さん方がその一役を買って戴き、
自分事で悩み言を云うのでは無くて、人様の奉仕に全身を投入し、私に捧げなさい。

そして初めて、皆さん方は世に見本を示す私の良き娘となり、
息子となるでありましよう。

その為にのみ、皆さんは創られました。
今使命を思い出して下さい。


世を清めるのは自分を清めることで、この世を祝福する者です

 今の世の中の混乱を乗り切るためには、一人ひとりが高い波動にならないかぎり、混乱期は収まりません。

 今の悪い波動に負けるか、善い波動が勝つか、皆さん方が人類を救済し、地球を救済したいならば、今までのような妬みや、怒りや、そしりや、嫉妬という悪い波動を出していてはなりません。この世の中で貢献できません。

 世の中を清める為には、あなた方一人ひとりの清めが必要です。あなたが清まらないで世の中を清める事が出来るのでしょうか。あなたが清まることは全体が清まることです。

 例えば、今この木に多くの葉がありますが、その木の葉が清まりますと、この木の全体に幸をもたらします。これを祝福と言います。
世を祝福する者となりなさい』というのです。

 世を祝福するためにはあなたが祝福されたものでなくてはなりません。あなたが汚れていて、世を祝福することが出来るのでしょうか。汚れた者が世を清くする事は出来ません。世を清めるためには、自分を清めねばなりません。

 なぜかといいますと、世は自分であるからです。全体は我であるからです。全体が我であるならばそれは全一体観であり、その全体が一つであることが分かったならば、あなたの努力は全体の努力になります。今のみなさんがこの意識状態でいきますと、世は救われます。


霊性進化より・・・幽界のこと、瞑想=迷想?、物質化現象

ここの話はあまりに高い話だから、みなさんなかなか理解できない。特に宗教を生噛りしていた者は、そこの先入観があるので時間がかかります。しかし、無信仰でそこに向いてなかったものは、神霊の次元に入りやすいですね。

感情的な人はですね、神霊に入るのも簡単ですよ。ちょっとの努力なんです。幽界で留めたら最後です。だいたい中間のものは感情的になるんです。この世で、ある程度いいところまで先生方が行くけれど、途中で崩れるのは、みんな幽界で崩れてるんです。ここから上にいけないのですよ、感情的になって。

そういう処も、皆さん方は通る必要がない。幽界に意識を向ける必要がないわけですから。

瞑想して、幽界に意識を向けてパルス型になった人もおります。だから、瞑想は危険ですよ。幽界に意識を向けて瞑想したら、感情的になったり、一人笑いをしたり、一人泣きをする人がいるわけですよ。

ここは感情界ですから、感情が高ぶりますから。この感情の波を治めるのは、神霊しかないのですよ。鎮めることができるのは。
だから、「静まれ!」と命令する者がなければ、いつもこういう状態で高ぶった状態で人生を送ってしまう。

だから、瞑想は危険だと言える。それは、高い神霊に意識を向けないで、低い幽界に意識を向けた時です。あなた方が瞑想中に、いろいろの現象に意識が向いてる時、どこに意識が向いてます?幽界に向いてますね。そうすると、気違いになったりするんですね。

もう一つ言いたいのは、神霊に意識が向いてる時に、たたりとか憑依霊の本が書ける? 幽界のことは幽界に繋がっている時にしか書けないのですよ。神に繋がっている人は、神のことしか書けないのですよ。幽界に繋がっていて、神の世界のこと書ける?

あなたは憑依霊現象の本を読んでる時、どこに意識は向いてます?幽界に、神に? その本の影響と言うのは大きいですよ。書く人も幽界に意識を合わせて、読む人も幽界に意識を合わさねば読めないわけですから。

だから、書物によって非常に人間に有害なものと、利益になるものがあると、ご理解いただきたいですね。幽界の本を読んで、神界につながる?

みなさん神界に意識を向けますと、この世の本は不要となるんですよ。必要としないのですよ、それ以上のものはないわけですから。

聖書とか仏書とか、天啓を受けたとか神に目覚めた人が書いたものは、神のバイブレーションを持っています。バイブルと言って、バイブレーションなんです。
だから、いまだかつて聖書に打ち勝つ書物は存在しないのです。

ベストセラーなんです。なぜかと言うと、真実を述べているから高いのですよ。また、そこと理解があるものが、神とつながったものが書いてるわけですから。その本がバイブレーションが低いはずはないですね。

だから、皆さんのバイブレーションは自由意思で、外を見ている時はバイブレーション低いし、神という高次元に意識が向いている時は、みなさんの波動は高波動となると。

「われ神なり」という想いを起こしている時、みなさん肉体バイブレーションですか、神のバイブレーションですか?そうすることによって、いかなる病も悩みも解決できますよ。

再び病気にならない人は、常に高いものに意識を向けていれば、病気にならないですよ。自己治癒力と言いまして、自分のバイブレーションを上げておれば、いかなる病も癒せます。

どこに意識を向けるかで決まるんですよ。そのことを、考えればいいのですよ。3チャンネルしかありませんので、どこに合わせるか。まあ1チャンネルに合わせますか、神という原点に合わせたいと思いますね。

簡単なんですけれど、難しいのですね。それが、難しいという考えが難しくしてるんですよ。神を想うのが何で難しいのかと。

神を想えば神が現れ、そこに意識を向ける人が、1人でも多くなれば、地球上のバイブレーションは高くなりますね。これが、人類救済なんですよ。地球の救済なんですよ。

今、全部物質に向いたから地球のバイブレーション下がって、地球は死ぬか生きるの病にかかっているんですよ。それは、物質に無我夢中だったからじゃありませんか。どうです?

だから、高度の物質文明が栄えた時、地球はバイブレーションが低くなりますので、地球は何回も滅びたわけですよ。誰が滅ぼしたのですか?人間がですよ。そこにいる人間がバロメータを、波動を落としたから、ダメになったのですよ。

今、地球のバイブレーションは上がりつつありますよ。その日をいかに待ち望んでいたか。苦しい時の神頼みと言って、物質に頼れなくなると、みんな霊性に向いてきますので、その日を待っているんですよ。

もっと厳しくなってほしいなと思うんですけれど。物が豊かな時は、どんどん物へ向いていくんですよ。内側のこと考えません。表だけに生きて。そうすると、陰陽の法則が狂いますので、コロッと天変地異をおこさねばならない。

だから、今からの時代は物質文明は終わって、精神文明が始まると言いたい。その先駆者としてのみなさんだと思うんですね・だから1日も早く世の救済というのは、物理的救済じゃなくて、無言の奉仕と、無言の救済が本当の救済だったということにお気づき頂きたい。

今その段階に入っていますので、1人でも多くの人が霊性に目覚めていくように努力して行きたいと思います。ありがとうございました。

おまけ(講話後)
※チャンネルを合わすというのは、想えばいいのですよ。
神を愛するとは、神を意識することなんです。
あなた方、子供を愛するとは子供を意識することなんでしょ。

神を愛するとは、想えばいいのですよ。意識すればいいのですよ。
だから、多く愛する者は愛されるというのはその意味です。

今、知花は1日中思っていますよ。だから、3次元的な外の話に入ってこないというのはその意味なんですよ。

その世界に私がいることによって、わたしからその波動を出すことによって、全てのもののためになるんです。低い意識状態でジタバタして人類救済ができる?そのことをご理解いただきたい。

だから、聖者方が走り回って奉仕するということはないと。
常に高い波動を全世界に向けて放射すると。
だから皆さん方も少しでもお手伝いができる、放射できる皆さんになっていただきたい。神の媒体になってもらいたいと思うんですね。それ以外に目的はないと。

そうすると物理的にも霊的にも恵まれますよ。そこに入ると、必要な時に必要なものが使えますよ。みんなから信頼と、いいあれを受けますのでね。食いはぐれるということは全くないですね。

もう1つ具体的になりますと、見える世界と言うのは、見えない世界の具現ですから、その原質は全て不可視の世界にありますから、後は自分の必要なもの具現すればいいのですよ。でその時代までもう来ますよ。

人工的に、ここで物質を固めて造るんじゃなくて、不可視の質料からすぐに可視の質料としての原質ですね。これを物質化現象と言いまして、家も勝手に自分で創り、食べ物もスーパーも何もないのです。

欲しいと思ったら即時に現れますから。見えるものの原質は不可視の原質として存在します。そこから具現されるわけです。

見えるものがなくなるというのは、その不可視の原点に返還されるだけなんですよ。全て不可視の質料からここに現れてるわけですからね。普遍的原質ですよ。それは、全宇宙に満ち満ちているわけです。

憑依現象が起きるわけ

憑依現象を受けている人に対して、「この者から出て行け」とその霊を叱りつけますと、「どうしてですか。この者が私を呼んだのに」といいます。必ずそんな風に言います。

 「この者がと友達になりたいといったから私は来たのであって、勝手にこの者の中に私がいるのではない」といいます。憑依現象を受けている一つの現象です。

 「どうして私をこの者から出すのか。私はこの者と波長が合うのだ」と言います。

ですから、いつでもいかなるときも憎んだり怒ったりしている人の場合は、そういう憎しみや怒りの幽霊の霊がその人を支配します。

 彼らが我々をどういう風に支配する事が出来るかと言いますと、私達の肉体は低分子ですから彼らは我々よりは少し精妙な分子を持っています。

粗雑な分子の中に精妙な分子が入り込む事ができます。彼らのものよりも、この肉体が精妙体を持っていますと、粗雑なものは精妙なものには絶対入れませんから、憑依霊は入れません憑依現象も起こりません。

 心の清い人は、体が精妙体になりますから、悪い粗雑な霊を真に受けることはありません。そのような憑依は絶対にありません。

ですから、低分子状態の場合は入ります。彼ら憑依霊はコンクリートのようなものを抜けるのは簡単です。このコンクリートの分子より、彼らの肉体分子をいうのは幽体分子が細かいのですから、抜けるのは簡単なことです。 

 しかしながら、このコンクリートが彼らの幽体よりも精妙であれば、絶対に入れません。
 ですから、私達の心の状態が悪いと、憑依霊を受けやすくなるから要注意です。

憑霊現象と神懸かりは違う

何を言っているのか分からないような気の狂っているような事をべちゃくちゃしゃべりながら、あたかも神懸かりと思っている人もいます。

神懸かりだと思っているのです。しかし当の神懸かりというのは、この無限大と繋がることです。この人とこちらの人が繋がることが神懸かりではありません。

 個人的意識と個人的意識のぶつかり合いは憑依霊です。そして、必ず死んだ人間だけが憑依するのではありません。生霊と言いまして、生きた人間同士の念の力で災を及ぼしています。

「死霊だけがあなたにかかってくるのではありません。念の力とは意識ですから、生霊も死霊も同じことです。そのことをよく注意していなければなりません。

 皆さん方は神という言葉を聞いたら、即無限大と考えて下さい。今私に紫式部がかかっていますとか、日蓮がかかっていますとか、そういうのは神懸かりですか。憑依霊ですか。それは憑依霊です。

普遍意識が支配しているのではなくて、個人意識が支配しているのですから、絶対者である神がその人の意識を支配しているときのみが神懸かりです。

生きながらにして他人を守護できる

生きながらにして人を守護することが出来るという意味を、一つ申し上げましょう。
 例えば、この知花が誰かさんを「かわいそうだな、救ってあげたいな」と思った瞬間、私は誰かさんのところにいるのです。ですから、意識したあなた方は自分が意識した所にいるのであるということです。

 この知花が誰かさんを意識したときには、私は誰かさんの中におります。繋がっているのです。そこで誰かさんを指導することが出来るのです。これが守護霊、守護神というものです。

 必ず死んでから出ないと人を守護出来ないと限定的に考えないでください。あなたは意識的にテレパシーを送ればいいのです。


 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。

「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

母親のヒーリング中に 「聖霊」が体に降臨した神秘体験話♪あなたは「純粋な目覚めた意識」であり「一なる自己しか存在しない」「すべての根源であり、本質である一つのもの(全てが神・全て私)」があるだけなのです♪「一なるものの法則」はただ、すべてのものはひとつであり、すべての存在はひとつであると言っているだけ♪自分自身を発見するために自分を捨てる♪ラーが語る「ゆがみ」とは「分離意識・不調和・ネガティブな意識」「ゆがみ」を克服する方法は「許し」♪静寂(全一体・自他一体・全てを愛する我・静かな心・無限の赦し・愛と調和・神への連続的感謝の意識状態)♪内なる空間と宇宙空間(アウタースペース)♪バーソロミューさん・ラー文書・ラムサさん・バシャールさん・ドンカバチョ様♪

 

母親のヒーリング中に
「聖霊」が体に降臨した神秘体験話

最近体験した一生忘れられない…神秘体験をご紹介しちゃいます。

 3日ほど前の話なのですが、母親が椅子に座ってパソコンで私のブログで見てくれていた時に、せっかくだから…と、後ろから母親にヒーリングをする事にしたのです。

 それで、まずヒーリングの前に、ヒーリングに必要な一連の流れの正しいお祈りを神に捧げました。

●今からヒーリングを致します、愛する父なる神よ、神様、どうか私に愛の光をお与え下さい。

●大天使エルランティ(七大天使の総称)の皆様、今からヒーリングを致します。どうか私に神の光をお与え下さい。

(※河合勝先生によりますと、ヒーリングは必ず七大天使を通して行われるとの事で、ヒーリング前に、エルランティの皆様にお祈りすると良いそうです)

●神様、私を神の道具としてお使い下さい。全ては神の御業でございます。神様、私を通して偉大なる神の御業が顕現なさる事に感謝致します。

と、このような祈りを真摯で敬虔な想いで神に捧げたのでした。

 それから母親の腎臓あたりに、両手を少し離して、ヒーリングを始めたのですが、そうしますと…私の身体に、パァーッと聖霊が下ったような感覚に包まれまして、体中がプルプルっと震えるような高振動な光悦感に満たされました。

 今まで一度も体験したことのない至福のエクスタシーな光悦感でした。ものすごい高い振動数だと言う感覚で、プルプルプルプル~って感覚でした(笑)。

 体が扇風機の羽になったようといいましょうか…、聖霊や神の偉大なる光は、最高に高い振動数ですから、きっとそういう感じなんだろうなぁ…って。

 ヒーリングを始めた瞬間から、もう祈りが神様に通じた…まさにその通りできっと通じたのでしょう。体中が、もうここまであらかさまでいいの…っていう程に、…ダイレクトに分かるぐらいに、私の体が聖霊に満ち満ちている状態に変容したのです。

 その様な感覚が五秒ほど続きました。その後、背中が最高にポカポカして体中が神の愛の光りに包まれた様な状態に移行したのです。

 それから母親の全身が、白い白光で 包まれるイメージの「光明思念治療法」も織り交ぜつつ、最高のヒーリングになるように努めました。

 今まで生きてきた中でも、最高の体験でした。神様が私を神の道具として信頼して下さったからこそ、こういった体験が許されたのだと理解できました。

 私の祈りを神が聞き届けて下さった…神様が私を信頼して、聖霊を下して下さった事に涙が出るぐらい感激致しました。

 そして、私を通して偉大なる神の御業が顕現して下さった事に対して、神に心から感謝致しました。
 神様、偉大なる神の光を与えて下さってありがとうございます…と。

 その後は、母親の全身が白い白光で包まれるイメージで、光明思念治療法も織り交ぜつつ…母親の健康と幸せを祈りながら、ヒーリングしておりました。

 常に100%の愛で、全知識フルスロットル・総合的大活用フルパワーで何でもありなのが私のヒーリングなのです(笑)

 そのときのヒーリングは、今までで一番…手が暖かくなって、手から猛烈に神の光が出ているのが実感出来ましたし、母親も温かいよ~って言ってくれました。

 今回の体験を通して一番大事だと感じたのは、神に信頼される意識状態にまで自分を高めあげる事です。

 ここ最近の感覚でも、ここまで真理の理解も深まって、神の道具意識としての自覚にも覚醒めて、自分のフィーリングでも、もうそろそろ…神様からしましても信頼して下さる次元に、意識が成長出来たのではないだろうか…とは感じでおりました。

 そういった手応えはあったのですが、自分を磨きに磨き上げて、神の器としてふさわしい、真の意味で「神の顕現の器」として、
神に認められる…信頼される魂になれた時に、神様からいくらでも神の道具として使ってあげよう…となるのではないかな…と、そんな気が致しました。

 それからは、背中が今までよりも、幾分ずっとポカポカしておりまして、心も体も絶好調だったりします。

 気のせいかもしれませんが、この世界が美しく観えている気がするのです。波動が上がると、この三次元世界がキラキラして視えるという真仙明さんのお話もございます。

 ヒーリングで聖霊が下って、色んな意味でまたワンランク魂の次元がアップしたのかもしれませんね。この神秘体験を与えてくださった偉大なる神に心から感謝致します。

 後でこの体験について、じっくり考えてみたのですが、神様が私の意識状態をじっくりと観察して、この者なら…もう聖霊が下ったと感じるぐらいの…、
「神に選ばれし者」だと思っても不思議じゃないぐらいの…、光悦感を感じる神秘体験をしたとしても、増長マンや慢心に陥らず、

 神への深い愛と連続的感謝の意識状態でいられる、神の媒体(道具)として、思う存分使うに値する人間だと…そう認めて頂いたのかな…って思った次第です。

 お恥ずかしい話なのですが、昔に神秘体験のオンパレードをした事がありまして…、この時は、幾分か自分が「選ばれし者」だと勘違いしてしまい、気持ちが浮かれてしまって軽く天狗になってしまった事も御座います。

 一つの失敗な経験でしたが…それはそれとして、今回の神秘体験に通ずる、一つの伏線だったのかな…と、神の壮大な計画の一部だったのかな…と。

 一度天狗になってしまった経験により、その対比(コントラスト)が今回の貴重な経験をより一層、価値のあるものにしてくれた気がするのです。

 今回の体験に対して、自分でも不思議なほどに謙虚でいられる事に対して、ただひたすら…「神様ありがとうございます」しかありません、はい、本当に。

 ここまで神様や守護の神霊が導いて下さったお陰…これが真実ですから。究極レベルになりますと、「神への感謝」しかなくなります。

 今回の体験を通じて、自身の意識が進化し、「神を愛する想い」が、「神を恋い焦がれるような深い愛」へと変容した著しい魂の成長を再確認でき嬉しい思いになりました。

 それに何よりも、神様への「神への深い愛」が神に届いて、神様が私を包み込むような愛で「聖霊が降臨する」という形でお答えてくださった事が、本当に嬉しくて嬉しくてしょうがなかったのです。

 まさか…ただのヒーリングのつもりが、ここまでの異次元の神秘体験になっちゃうとは(笑)。

 今でもたまに、あの究極の光悦感に包まれたい…って、ちょっと懐かしく思う時があります(遠い目)。それぐらいのエクスタシーな光悦感でしたから。

 もう一生忘れられない…っていう位の神秘体験…と言っても差し支えない体験でしたねぇ…・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・☆彡☆彡♪
 
 それから、今なんかは結構寒いのに、背中がホッカイロでも付けているかの如く…ぽっかぽかですからぁ…(*´∀`)アハ♪神様ありがとうございます♪

 本当に全身全霊で…神様を愛せば、神様が愛でお返しして下さる…という一つの事例なのかもしれませんね。どんどん神様を愛しましょう。

 神様に対する「深い愛」や「感謝」なくして、いくら行法をしたところで空念仏だと思うのです。全身全霊で神を愛する事こそが、神への道の一番大事な事柄であり、神に愛されるコツではないかな…と。

 愛するものは愛されます…という事は、神様を愛したらどうなりましょうか?…わかりますね、そう!!…神様に愛されるという結果になります、答えはシンプルでした。

 五井先生は、神様ありがとうございます…だけで悟りを開かれたとも仰っておられました。神への深い愛と感謝で御座います。

 私は五井先生から、「全身全霊で神を求める祈り」と、「神様ありがとうございます」、「恋い焦がれる程に神様を愛する大切さ」を学ばせて頂きました。

 色々な覚者方から、良い部分を学ばせて頂いております。聖者方、覚者方に心から感謝申し上げます。今の私の覚醒があるのは、偉大なる方々のお陰で御座います。

 今回の神秘体験が、皆様のヒーラーへの目覚めや、また、すでにヒーラーの方々に対してもヒーリングのいいヒントにして頂ければ、私としましても至上の喜びで御座います。

 皆様、長文のご拝読有難うございました。ですが…実はこれが序章だったりします(笑)。今回は長いですよ~、まだまだ続きまぁ~す♪


zeraniumの掲示板様の
この次元にはなぜ苦痛や苦悩があるのか
2019.11.14 Thursday00:07
から引用させて頂きました。心から感謝申し上げます。

 

 あなたの心の奥深くに気高く生き生きと存在するのは、”内なる神”です。確かにそれはそこにあり、静寂を通して触れることができます。

 多くの人にとって静寂とは瞑想を意味します。長時間の長い瞑想は「”大いなる源”」への最短距離と言えますが、誰にでもできるわけではありません。なので誰にでもできることについてお話しましょう。
.
 まず最初に、内なる静寂(ワンネス意識)を体験するには何かを変えなければならない、という考えを捨ててください。
 静寂とは、肉体の動きや自分の周りにあるエネルギーの動きを、すべて止めることだとあなたは考えているかもしれません。

 ですがエネルギー(大生命)は常にあなたの周りを動いているものなので、それを止めるのは不可能なことです。
.
 あなたの魂、全体性(真我)は、あなたの存在(意識)の中にある静けさへの道を知っています。ですから具体的にどうするかを、あなたが知る必要はありません。

 ただ、そうしたい(根源との合一を願う心)と思わなければなりません。
神に「心を鎮めて下さい」という祈りを心の中で自分に与えなくてはなりません。
.
 まず最初に息を止めるようなものです。目を閉じ、息を止め、自分の中の静けさ(神との一体感・宇宙との一体感)を感じてください。
 その後は、今までやっていたことをそのままやり続けてください。
.
 あなたは「純粋な目覚めた意識(神ご自身・神意識の一部)」です。

 「私とは意識」であり、「意識はすべて」であり、
全てを超えている宇宙の要素」です。

(※すべての意識は、神の意識です。全ては神から生まれしものであり、全ての全てが神の現れであり、未来永劫「神」以外のものは存在いたしません)

それ以外の定義は全部ウソです。
でもそうだとすると、「”大いなる愛”」はどこにあるのでしょうか? 

 私が「愛」という言葉をあまり使わないのは、人間の意識の中ではその言葉が、あまりに手垢がついたつまらないものになっているからです。


ケイシーリーディングから…♪
 愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、自分の中にも他人の中にもある愛の光(無限の生命・真我)を見つめる事にあります。

(全てに神を観る意識=愛=全てが神だと意識している状態=愛=全一体=愛=ワンネス意識=全ては一つ=愛=永遠に一つの神意識=覚醒=愛=自分が神意識の一部と悟った我=愛=大愛・絶対実在=無限の生命=愛=神と私は常に一体の境地=愛=覚醒)


 人は自分の心と頭が、”大いなる愛の光”で満たされていることに未だ気づいていません。
 その”大いなる愛の光(無限の生命)”こそが、
純粋な目覚めた意識(神ご自身・神意識・真の自己)」なのです。

 「覚醒」と「愛」は同じものです。「愛」とは「覚醒の感覚(神と私は常に一体の境地)」なのです。
.
 ”聖なる愛(無限宇宙・宇宙神)”というものが存在しており、
自分がその「聖なる愛神の一部・永遠に一つの神意識)」なのだということを信じようと決心してください。

知花敏彦先生のお話から一部引用ですが…♪

 では、人間と神の関係はどうなのでしょう。
本来は「人間と神の関係さえもない」という事です。

 この説明のためにテーマをつけて書いたものであり、
関係さえもなく、「一つの存在」であるのです。

人間と神」は、「即、一体」の存在であり、
我々」も「神の存在」であり「神そのもの」であったという事が分かるのです。

我は神なり」。「我は生命なり」。我は神理なり。と。
我は神(の一部)であり、我はキリスト(宇宙生命)である」という悟りに至らなくてはならないのです。


 そうすると、それを(自分が神の一部だと)心から感じられるようになるために、日常生活の絶え間ないざわめきを静めたいと思うようになります。
.
 あなたは「”大いなる愛(神)”」そのものであり、
「”大いなる慈しみ(慈悲と愛)”」そのものです。

 内なるこれらの「愛と慈しみ(神・無限大の愛)」に触れる(感謝する)ことができると、素晴らしく高揚した気分が生まれ、心と体と精神を満たしてくれます。
.
 日常生活の中でこの静寂を実践していくと、それまでになかった経験をするようになるでしょう。

 自分の内側に何かが本当に存在しており、静寂さを通してそれを感じられるようにと願うならば、それは叶うのだということを理解するとそれが起こり始めます。

 静寂を実践する時には、その反応が起きるのを期待しながら待ってください。「期待しながら」待つことを忘れないでください。
.
 一生懸命(神との合一を願う)祈り、神がそれに応える準備を始めたところで、その人が立ち去ってしまうということがよく起きます。

 自分とは何なのか、その「本質(根源の愛)を知りたい」という願いに対する反応は瞬間的に得られます。
 ですがそれを感じられることを期待していなくてはなりません。
.
 自分が何なのかを知りたければ、「自分が純粋な目覚めた意識(神そのもの)」であり、どんな二極性にも囚われず、他人も自分も批判せず、

 どんな制約も持たない存在(神)であることを、体と心で感じたいと思うのであれば、「心を静めよ」という命令を(我か神なりの神性意識で)自分に与えることです。

 あなたの内なる「”大いなる完全性(無限大の愛・愛の光)”」は、
心の底からの願いが何であるかを正確に理解しています。

 ですから期待感を持って静寂(愛と調和・慈悲と愛)の中に身を置く時、自分の本当の姿(真我・ワンネス意識)を体験できます。
.
 これはすでにお伝えしましたが、ここで再び繰り返します。あなたの内なる”大いなる完全性(宇宙法則)”、つまりあなたの魂はただ一つの目的を持っています。

 それは神から分離した意識である人間に、
一なる自己しか存在しない」ことを自分に教えることです。

 それは「すべての根源であり、本質である一つのもの(宇宙は神という一つの生命・神そのもの)」があるだけなのです。
.
 あなたの人生に起きることはすべて、たとえそれがいかに酷いことであっても、破局や惨めさの極みであったとしても、そうなるように導かれて来たのです。
(全て善し・すべては完全・全てに感謝で対処)

 その理由は、あなた(の意識)が自分の内側(全一体)へ向かい、自分本来の本質を示してくれる静寂の次元(愛の王国・内なる神の国)に深く沈潜することを、自ら選ぶようになるにはどうすればよいか…、

それを一番よく知っているあなたの内なる「”大いなる完全性(宇宙法則・愛の法則・無限者)”」が、そのように仕向けたのです。

(※全てが大いなる気付きへ繋がる神の偉大なるご計画・完璧な宇宙法則の現れ…ですから、全てに対して神様ありがとうございます…で対応するのがベスト♪)
.
 聖なる静寂(ワンネス意識)から自己を切り離してしまい、今ではもう心を静めてもただの騒々しいおしゃべりしか聞こえて来ないことに気づいた時、人間は深い悲しみと孤独を感じました。

 そして心のどこかで、どのような犠牲を払おうとも、内なる”大いなる源”のあの静寂(ワンネス意識)をもう一度感じたいと望みました。
.
 あなた方の悲しみや苦しみが役に立つのは、悲しんだり苦しんだりしている時に、人は神を求めるからです。(悩み苦しみは魂の促進剤)
 他のことはすべて忘れても構わないので、次のことだけを覚えておいてください。

 あなたに苦しみが訪れるのは、あなたの裁くエゴの心が生み出した矛盾した人間像(偽我)を捨てて、人間の本来の姿(神意識・大生命)を深く感じ、それを意識の中心に置くようにと促すためです。
.
 悲しみや苦しみのない静寂(全てに神を観る意識・愛と調和)に生きることを意識的に選択するならば、もはや悲しみや苦しみを必要とはしなくなるでしょう。

 それに代わり、温かくて優しい意志(慈悲と愛)を通して「内なる神(真我)」を見つけることもできます。

 もう苦痛から逃げる必要はありません。自分に喜びや美しいもの、素晴らしいものを与えるかどうかは、あなたが自分で選ぶことです。
.
 地球は二極性持つ惑星であり、そのゆえに苦痛を通して「内なる神」を見つけることができるのであれば、喜びを通して「内なる神」を見つける道もあるはずです。
.
  バーソロミューのメッセージ


ドン・カバチョ様から引用させて頂きました♪
http://dongavatyo.web.fc2.com/index.htm
心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます♪


与えるものが受け取るもの

バシャールさんは仰います。
宇宙」にはただ「ひとつの法則」があるだけです。それは、

あなたが与えるものが、あなたが受け取るものである』という法則です」と。

このサイトを閲覧するような奇特な人の中には、
与えるものが受け取るもの」という言葉をその字面(じづら)通り解釈する人はいないとは存じますが、この意味深長(しんちょう)な謎(?)の言葉を私なりに解釈しますと・・・

あなたが与える態度が、あなたが受け取る態度である
と言っています。

「態度」とは、「行為・言葉・表情」です。
(意識・想念の状態と身口意の総合)

「態度」の裏付けは「情緒」です。
つまり、
あなたが受け取った情緒を、あなたは再び受け取る
と言うことです。

「情緒」を生み出した源泉は「観念」です。
ということは
あなたは、あなたがしがみついている観念が生み出した宇宙で生きるしかない
ことになります。
これは極めて真っ当な物言いですね。

※自分を人間(分離意識の観念)と思うか、自分を神(全一体の観念)と想うかによって、この表現世界で顕現できる力(フォース)が変わってくるとも言えましょう


観念・情緒・態度の無条件反応

1.本来は無垢・中立な「出来事」を「観念」フィルターという色眼鏡がとらえる

2.「観念」に付随する思念が出来事を判断し思考を経て「感情・情緒」を現出させる

3.「感情・情緒」が「態度」として表明・フィードバックされ「観念」を裏付ける


もし、あなたの生きる宇宙があなたを閉じ込める不幸・地獄と感じるのなら、無条件反応の過程としての「態度」を天国のものに意図して変えることで、あなたは天国に生きることになります。

宇宙にはただひとつの法則があるだけです。それは、
あなたが与えるものが、あなたが受け取るものである」という法則です。

これこそが豊かさです。
豊かさの本質はこの法則にあります。
私たちはなんて豊かなのでしょう。
すでに私たちはこの上もなく豊かなのでした。
―――――

ラムサは仰(おっしゃ)います。

――私の教えは真実ではない。信じてはいけない。
あなただけが真実である
何故なら、真実とは、”あなたの主観が「表現」する現実”なのだから。

(この現象世界は、貴方の意識が投影投射した「映画のフィルム」のようなものであり、自身の意識が変われば、この映画の世界も意識通りに変わってゆきます)

――私とは、自分の運命を創造し、人々を偉大な理解へと導いたユニークで、力強く、素晴らしい「表現」であった。
私は理解した。私は私をそう理解したのだ。

――この物質の天界は、「見せる天界」、「表現する天界」とも呼ばれる。
何を「見せ」、何を「表現」するのか?
あなたという神(神の顕現・表現者としての神)」だ

ラムサの仰る「表現」とは「態度」のことです。
「態度の表明」のことを、ラムサは「表現」と言っているのです。

――悩みなどとは無縁の腹ぺこの子供のように食事をしなさい。
あなたが飲み込む一口ごとに、幸せでありなさい。
態度がすべてだ。

――既にあなたは、至福の天界で自己を神として成就させた。
あなたという精霊(意識・魂)は、既に、
自分が神(と常に一体)」であることを知っている。

それなのに、あなたは何故、再び、この物質の天界で自己を神として表現することを選択したのだろうか?

それは、この濃密な物質の天界(第4密度・三次元界)
でしか真の体験として完了させることが出来ないからだ。

この「物質の天界」はまた、
「表現する天界」と呼ばれる所以(ゆえん)である。

――あなたの正体が露(あら)わになる―本性で生きる
―至福の天界において大切なことは、何だろうか?

それは、この物質の天界で成功と言われるもの―どれだけ金を稼いだか、どれだけ有名だったか、あるいは清貧だったか、華美であったかなどとは全く関係が無い。

そのようなものを、至福の天界でひけらかす者など誰もいない。注目する者すらいない。

至福の天界で大切なことは、あなたが、この物質の天界―表現する天界―で、自己をどう定義してそれをどう表現したか(魂の成長・意識の進化をしたか)ということだけである。

愛と調和・無限の赦し・慈悲と愛・身口意を正した愛の生き方・真理の理解

――我々が霊性のパラダイム(宇宙法則)に則って生きるには、生(人生)を霊的な意味(霊性進化的思考)において扱わなければならない。

それは、この天界(現象世界)がまるで…至福の天界であるかの如くに生きていくことを意味する。
嫉妬、羨(うらや)み、怒り、争いといった態度を持たずに
(愛と調和・無限の赦し・慈悲と愛・神の御心そのもので)生きるのだ。

欲深く、自己中心的で、自己の境界線を固持し、生きるために生き、ずる賢く、人を操作し、利用し、虐待し、偽善者を装うという様な、(カルマで)自分を閉じ込めてしまう生から抜けるのである。
我々は、この表現する天界でそれを、肉体に入ったまま行うことに意義がある。


ラー文書(セッション6)

難解であるとの声が聞かれる「ラー文書」ですが、この通信に頻出する「ゆがみ」という言葉をどう理解すれば良いのか解らない方が多いのではないかと存じます。

訳者(紫上はとる)は、『「ゆがみ」とは、「一なるものの法則」(の波動)から外れたもの、状態、あるいは歪曲された事実や現象を意味しているのではないかと思います。

したがって「ゆがみ」には私たちからみてネガティブでないものもあります。』と歯切れ悪く言葉を濁されていますが・・・

「ゆがみ」とは、モアレ(干渉縞、かんしょうじま)のことです。
三次元物質宇宙において人間(にんげん、にげん、二元)の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)は、関係性(コントラスト、差分、干渉、モアレ、うなり)を捉えることしか出来ません。

※補足説明
私の解釈では、「ゆがみ」は、「分離意識・不調和・ネガティブな意識」と捉えます。
つまり…「ゆがみ」をなくすとは、「カルマの輪」を止める事に他ならないのです。

第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマ『ゆがみ』が加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪(ゆがみ)を止めることになるということです。カルマ(ゆがみ)がなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマ(ゆがみ)とは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪

「モアレ」はWikipediaによりますと・・・

干渉縞ともいい、規則正しい繰り返し模様を複数重ね合わせた時に、それらの周期(波長)のずれにより視覚的に発生する縞模様のことである。

また、規則正しい模様を、デジタル写真などのビットマップ画像にした場合も、画像の画素解像度と模様の周波数のずれが原因で同様の縞模様が発生するがこれもモアレと呼ぶ。

また印刷でも網点(あみてん)という点の集まりに画像を変換するので同様の現象が発生する。

モアレそのものも周期(波長)を持ち、この周期は元になる模様の周期(波長)の組み合わせで決まる。物理学的にいうと、モアレとは二つの空間周波数のうなり現象といえる。様々な形態で発生するため、モアレにもいろいろなものがある。

「干渉」はWikipediaによりますと・・・

波における干渉とは、複数の波の重ね合わせによって新しい波形ができることである。互いにコヒーレントな(相関性が高い)波のとき干渉が顕著に現れる。

このような波は、同じ波源から出た波や、同じもしくは近い周波数を持つ波である。波の重ね合わせの原理とは、ある点に生じた波の振幅が、その点に影響するすべての波の振幅の和と一致することである。

同じ点で波の山と山または谷と谷が干渉すると振幅の絶対値は大きくなり、山と谷が干渉すると振幅の絶対値は小さくなる。2つの波が重なりあうとき、形成される波形は周波数(または波長)と振幅、そして位相関係に依存する。


 私達はモアレ(干渉縞)という「存在の固有波長」と「私の固有波長」が織りなす影を捉えているのです。

 そして「私」が捉えるその影は、「感情・情緒」として感得されます。
つまりは、「全ての感情・情緒」は「」の「固有波長」が生み出しているのです。

そこを了解して読んで戴くと、「ラー文書」の理解は深まるかと存じます。
―――――――――――

Q:私はこのへんで、あなたがたの背景についてもう少しお話しいただくのによい時期ではないかと考えています。もしできればで良いのですが、地球に関わった以前に、あなたがたがどこから来たのかについて聞かせていただければと。

R:私はラー。私は私自身がその一部であるところの社会的記憶複合体とともにおり、あなたがたの太陽系とこの媒体が呼ぶであろう場所にある別の惑星から、外に向かう旅に出た者たちのひとりです。

私たちはあなたがたが金星と呼ぶ惑星の影響下にあり、あなたがたの時間の尺度を踏まえて言えば一人類分の周期だけ年上になります。

六次元にいたときの私たちの物理的実在は、あなたがたが金色の存在と呼ぶであろう在りかたをしていました。

私たちは背が高くいくぶん華奢(きゃしゃ)でした。あなたがたが外皮と呼ぶところの、私たちの物質的な身体複合体を覆うそれは金の光沢を放っていたのです。

私たちはその形態をもってあなたがた人類を訪れることに決めました。
当時の人類は、あなたがたが身体的的外見と呼ぶであろう点で、私たちとはまるで異なっていました。

そのため私たちは民衆に上手く溶け込むことができず、彼ら自身とは明らかに別の存在でした。

あなたがたの「他の自己たち」とは別の存在であることで賞讃を浴びるという、偽善者的立場に置かれてしまっていたことを私たちは思い知らされることになります。

それゆえに、私たちの滞留期聞は比較的短いものになったのです。
これは私たちが、あなたがたが関心を示されていたところの建造物(大ピラミッド)を建てた時代のことです。

Q:金星から地球にはどうやって旅してこられたのですか。

R:私はラー。私たちは思考を使ったのです。

Q:その当時の人間のなかから、誰かを金星に連れて行くことは可能でしたか。人は金星で生き長らえることはできたでしょうか。金星の環境は人が暮らすのに適していましたか。

R:私はラー。金星の第三密度の環境は、あなたがた人類の生物形態が生存するのには適していません。
しかし、金星の五次元と六次元の環境は、成長/学び/教えに非常に貢献します。

Q:あなたがたはどうやって金星から移動されたのですか。地上を歩くのに次元を変える必要があったのでしょうか。

R:私はラー。風のエクササイズを思い出してください。「無の状態(無限の生命・宇宙意識)」に溶け込むことは、
すなわち「ひとつであること(全一体)」に溶け込むことです。

なぜなら「無の状態(何もない状態……真実は”全ては無限の生命”です)」は存在しないものだからです。

 私たちはいずれの光粒子やゆがんだ光粒子にも存在する知的無限(無限・大愛)を、思考を使って六次元から操作することができます。

私たちはそうやって、三次元で見ることのできる、自分たちの六次元の心/身体/霊複合体の複製(レプリカ)で自分たちを覆うことができたのです。

私たちはそうした実験の実施を、地球を見まもる「評議会」から許可されていたのです。

Q:その「評議会」はどこにあるのですか。

R:私はラー。この「評議会」は、土星のオクターブ、または第八番目の密度、すなわち八次元にあります。あなたがたが三次元の言葉で「土星の環」として理解されている領域に位置しています。

Q:私たちの太陽系には、あなたがたが地球で見つけたような人のいる惑星がほかにもありますか。

R:私はラー。現在の空間/時間の情報をお望みですか、それとも連続休としての空間/時間の情報をお望みですか。

Q:両方お願いします。

R:私はラー。あなたがたのいう過去のある時間/空聞において、三次元の存在である人々が、あなたがたの太陽系にあった惑星に住んでいたことがあります。

この惑星はさまざまな名前で呼ばれてきていますが、あなたがた人類がもっとも頻繁に用いている震動性音声複合体は「マルデック」です。

ところが、マルデックの人々は自分たちの住む惑星を破壊してしまい、そのため自分たちの居場所を見つけることを余儀なくされました。

彼らの心/身体/霊が「一なるものの法則」にかかわるゆがみを減じるために必要なレッスンと、彼らの生存に適した環境を提供できた場所は、彼らの時間/空間的現在において、あなたがたの太陽系ではここ地球の第三密度をおいて他にはありませんでした。

Q:彼らはどうやって地球に来たのですか。

R:私はラー。彼らは収穫(刈り入れ、ハーベスト)のプロセスをとおり、輪廻転生のプロセスを経て、あなたがたの第三密度のより高次な天体からこの密度にやって来たのです。

Q:それはどれくらい昔に起きたことですか。

R:私はラー。この媒体との交信が困難になっています。彼女のトランスをもっと深める必要があります。
それはあなたがたの歳月でいう約50万年前に起きた出来事です。

Q:地球の人類は、それでは全員がもともとマルデックから来たことになりますか。

R:私はラー。これは新しい系列の質問ですから、それ自体独立した場所が必要です。崩壊前のマルデツクは、あなたがたにはその名前で知られていますが、それ以外の複数の名前でも知られていたことはすでにお話ししました。

その天体から、収穫されたかたちであなたがたの惑星へと輪廻転生してやって来た人たちは、その多くが地球上よりむしろ地表の内側に転生しています。

地球に住む人々には、多くのさまざまなグループが含まれているのです。
なかには、ほかの二次元や周期を巡った三次元の天体から収穫されて転生して来た人々などがいます。

あなたがたは起源においても背景においても異なっており、ひとつの人類という人種ではないのです。

あなたがたが「分かち合っている体験」は、この時間/空間連続体において比類なきものであると言えます。

Q:そうした人々の地球への移動と収穫という行為において、「一なるものの法則」はどのような役目を果たしていたのでしょうか。それを伺うちょうどよい機会だと思うのですが。

R:私はラー。「一なるものの法則」はただ、すべてのものはひとつ
同一の命)であり、すべての存在はひとつ(神意識・神ご自身)であると言っているだけです。

(※ラーさんは知花先生や上江洲義秀先生・バーソロミューさん等のお話と全く同じ宇宙法則(真理)を説かれているのですね。
 ある程度予測はついてましたが…このお話で確信が持てました)

この法の叡智や実践に共鳴するような特定の姿勢や思考形態の存在はあります。

体験のひとつの周期の終了(次元上昇・地球の輪廻の卒業)が間近で、
そうした思考や行動の叡智のゆがみの(修正を正した)段階を身をもって示している人たちがいるとしましょう。

すべては一つを悟った人、無限の赦し・慈悲と愛の体得・真理の理解・身口意を正して全一体の境地に到達した人・地球での学びが必要ないレベルにまで到達した人

 すると彼らは自分たちの選択によって、彼らの心/身体/霊複合体がもっとも「居心地のよい振動性ゆがみ」(波動が高い高次元な星)へと区分けされることになります。

このプロセスは、「養成する側の存在たち(地球の保護者・天上界の方々)」によって観察され見守られています。

そうした存在たちというのは、彼ら自身のゆがみにおいて「一なるものの法則」に非常に近いところにいます。
(全一体・宇宙意識に到達した覚者・聖者方・アセンデッド・マスター)


ケイシーリーディングからですが…♪

 問題が肉体的な事であれ、家のこと、社会のことであれ、個人、非個人の事であれ、エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、

その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)
「一なるものの法則」を悟ることに集約される事を訴えています。

 ここで人間性の全体、体と心とが神の現れであるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。

汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。

 あなたの知る善の全て神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」

問「心と物質と霊という意識の中にあって、実体の活動(輪廻転生)の目的とは何でしょうか。」

答「それは、その実体(意識)が自分自身であり、なお全体の一部(神意識の一部・神と私は常に一体・宇宙は一つの生命体)である事を自ら知るようになる為である。

 全体そのものではなく、全体と一つ(神の中の存在)であり、そこから、自分自身の個別性を保ち、自分が自分である事を知って、しかも自分を生まれさせた、

意識を与えてくれた第一原因(神・無限者・大愛)の目的と一つであることをも知るという事である。これが目的である。これが(人間が)存在している事の原因である。」

問「物質的表現に生まれる魂の目的は何でしょうか。」

答「その初め、魂が個人的に現れ出る働きにおいて、それは創造的力または神の伴侶(神との合一・真我顕現・覚者)となる目的を帯びていた。」

ケイシーリーディングここまで♪

 
 しかしそれにもかかわらず、彼らは活躍の「目覚ましい奉仕の道※」を依然として遇進しているのです。(※知花先生や上江洲義秀先生の事ですね)

 幻影は光で創られています。あるいはより的確に、それでいて理解しにくい言いかたをすれば光/愛で創られています。

これは集中度において程度がまちまちです。
収穫された存在一人ひとりの霊的複合体は、光線にそって進みます。

そしてその光が眩しすぎるほどになるところまで行き、そうなった時点で移動を止めます。

 そのとき、なかにはかろうじて第三密度にたどりついたような存在もいれば、第三密度の光/愛のゆがみの震動性複合体の終わりにきわめて近い存在もいるでしょう。

それでも、この集中した光/愛のオクターヴの住人になった存在たちは、その後、大きい方の周期(以下、大周期)を体験していきます。

そして彼らは大周期のあいだに、それぞれに備わったゆがみ(カルマバランス)を見い出すための機会を得、見い出せたことから、そうしたゆがみ(カルマ)を減らしうる機会を獲得することになるのです。

Q:そうした周期は、私たちの歳月でいうと、どのくらいの長さなのですか。

R:私はラー。大周期というのは、あなたがたの歳月で言う二万五千年くらいです。同様な性質を帯びた周期が三つ(二万五千年×3)続くあいだに進化を遂げた人たちは、それらの大周期の終わりに収穫される可能性があります。

この期間の長さはあなたがたの歳月でいうおよそ七万五千年から七万六千年になります。

進化の度合いに関わらず、全員が収穫されることになります。
というのも、この期間のあいだに惑星自体がその次元の有効な部分を通過してきており、その惑星密度においては、低い波動の存在にとって成長の役に立たなくなるためです。

Q:周期的に見た進歩という点で、現在の地球はどのあたりにいるのでしょうか。

R:私はラー。この天体は現時点で、四次元「的」波動のなかにあります。
地球の意識のなかにはめこまれた「社会の記憶複合体」のせいで、地球を構成している物質は非常に混乱しています。地球がさし招かれている波動への移行は容易ではありません。
そのため、ある種の不都合がもたらされることになります。

Q:この不都合というのは(1981年1月24日から)数年内に差し迫っているのでしょうか。

R:私はラー。この不都合あるいは不調和な振動性複合体は、あなたがたのいう過去の数年前にすでに始まっています。
そして今後も衰えることなく、あなたがたの歳月でいう約30年余りは続くことでしょう。

Q:この30年間を過ぎると、地球は四次元の惑星になるということですね。私のこの推察は正しいでしようか。

R:私はラー。はい、正しいです。

Q:地球の現在の人口のおおむね何パーセントが四次元の地球で暮らすことになるのか教えていただけますか。

R:私はラー。収穫はまだ起きておりませんから、概算は無意味であると思われます。

Q:あなたがたが私たち地球人に、あなたがたの情報にアクセスできるようにしてくださっているのは、私たちが今この移行の時期
にあるという事実と関係がありますか。

R:私はラー。私たちはあなたがた地球人とともに地上で暮らしたことがあり、そのことを記憶しています。そして目にしてきた多くの悲しみを思い出します。

私たちは、心/身体/霊複合体のなかにゆがみの適切な特性(パラメータ)を持つ媒体を捜してきました。

そして、あなたがたの歳月の数年のあいだ、私たちのこの情報を最小限のゆがみと、最大限の奉仕願望をもって受け入れようという複数の心/身体/霊複合体の支援と理解を求めて来ました。

ご質問の答えですが、手短に言えば、「はい、関係があります」。
しかし、私たちが記憶において、あなたがたに感謝していることを知って欲しかったのです。

Q:現在報告されているUFOのなかには金星以外の惑星から来たものもあるのでしょうか。そうした情報はお持ちですか。

R:私はラー。私は「無限なる創造主に奉仕する惑星連合」から来たメンバーのひとりです。
この「惑星連合」には、約53の文明があり、それらが約500の惑星意識複合体を構成しています。

また、この「惑星連合」には、あなたがたの第三次元を越えた次元にすでに達した「地球からの存在」たちも含まれていますし、あなたがたの太陽系の惑星レベルの存在たちや、ほかの銀河の惑星レベルの存在たちもいます。

そして、この「惑星連合」は、メンバーたちは一様ではありませんが、「一なるものの法則」に則った奉仕を行なうところで団結の為された正真正銘の「連合」であると言えます。

Q:そのなかに現在、宇宙船で地球に来ている存在はいますか。過去の三十年間のあいだではどうでしょう。

R:私はラー。この情報が重要でないことははっきりと述べておく必要があります。
あなたがたにそのことを理解していただければ、無難なかたちで提供しうると思います。

私たちがここに来ている目的は「一なるものの法則」を表現するためですが、そのお望みの話題についてもお話ししましょう。

あなたがたの三次元空間/時間のゆがみに出現することを望む惑星レベルの存在は、あなたがたの前に姿を現わすまえに、あなたがたが隔離状況と呼ぶであろう状況を突破する許可を要請する必要があります。

そして、姿を現わす理由や目的が判断の対象となり、その申し出は受理されるか、あるいは却下されます。

あなたがたの空にはいつでも多くて十五人ほどの「連合」の存在がいます。
それ以外の存在に関しても、「思考をつうじての交信」が可能です。

目下、あなたがたの密度では、七人の存在が、乗り物をつかって活動しています。
彼らの目的はきわめてシンプルで、それは地球の存在たちに無限性に気づいてもらうことなのです。

無限性は、神秘的で未知なるものとして示されるのが、そうした情報をもたない人々にとっては、もっとも効果的であることが多いからです。


パーソナリティのプリズム

人は個としても集合としても、些事にも大事にも、常に豊かさを求めて生きて来たし、今後も生きていくのでしょうね。

さて、人が求めて止まない「豊かさ」とは何でしょうか?
相対的かつ多様な関係性の「優」の側――高、正、真、勝、得、上、ポジティブ、好、美、広、多・・・の側――に立つことが、社会通念上の豊かさです。

しかし、この関係性はそもそも、社会(人間)が画一的に枠組んだ多様な属性に乗っかるコントラスト・差分でしかありません。

社会(人間)が画一的に枠組んだ多様な属性を「観念」と申します。
その観念は100%、社会(人間)の恣意性に拠るものです。

人は明に暗に、多かれ少なかれ、このチンケな観念の些末(さまつ)なコントラストの「優」側に自己同一化を図りながら生きているという訳です。

あるいは、生きるとは、他者と同意した観念において「優」側への自己同一化の企てと言っても良いかと。

「優」側への自己同一化――これが、人が求めて止まない「豊かさ」の正体です。
現代日本では、「豊かさ」の代名詞は「お金」です。

「健康」もかなり志向性が高いかと。「容姿」、「家族」、「友人」、「知力」、「体力」、「武力」、「面白さ」・・・人それぞれで「豊かさ」を計る属性の重みは違うでしょうが、相対的な関係性の「優」側に立たなければならない=豊かにならなければならない、というベクトル志向の構図は同じです。

そして、社会はこの「『獲得した』、『認知された』豊かさ」の中だけに「幸福」があると信じ込ませます。

幸福は犠牲を払って=努力をして、掴み取らなければならない、
他人に幸福そうだと思わせるフリをしなければならない・・・・

現代社会の本質は、観念が生みだす二元の相対関係というシーソー、そのアップダウンゲームだったのです。

さて、人は「出来事」を判断し思考して感情を湧き立たせます。
判断・思考・感情をここでは「思念」と呼ぶことにします。
フツフツと途切れることなく湧き立つ「思念」――その「思念」を生起させているものは・・・・
「観念」です。
「観念」が「思念」を産み出しているのです。

歓び、哀しみ、楽しみ、絶望、恐れ、怒り、希望、憧れ、赦し、嫉妬、後悔、恥、痛み、恨み、孤独、諦め、感謝、誉れ・・・・
「出来事」に対する私たちの「思念」は「観念」フィルターを通して顕現されます。

ということは、ステキな「思念」を体現するには、ステキな「思念」を生起させる「観念」を通せば良いことになります。

「出来事」そのものに意味など有りません。
(意味を探すとしたなら、自身の「観念」の方でしょう。)

「出来事」を解釈するフィルター(観念)を変えれば、「思念」が変わります。

「観念」とは世界観・宇宙観です。
私たちのモノの見方である「視点・視座」を乗っけているモノの「見え方」、それが「観念」です。

私たちは意図を持って「視点・視座」の立ち位置・角度を変える――つまり「見方を変える」ことは出来ます。

しかし「観念」は意図を持ってして変えることは極めて困難です。
「観念」は、モノゴコロが付くまでに親によって植え付けられ、心身と一体化してしまったイロメガネです。

私たちにとって、自己とほとんど一体化してしまっているイロメガネの存在には、気付くことすら難しい・・・

では、私たちは結局は湧き出でるワンパの「思念」を描き代えることは出来ないのでしょうか?

判断・思考・感情を、私は「思念」と呼びました。
その「思念」の最終形態は「情緒」です。
「感情」の奥に潜むフィーリングが「情緒」です。

実はこの潜んでいるフィーリングにも深さがあって、私たちの意識が感得できる「情緒」の程度には、個人によってかなりのバラツキがあります。

湧き上がった「感情」・「情緒」を私たちは「態度」として表明します。
「態度」とは、行為・言葉・表情です。
この表明された「態度」(行為・言葉・表情)が、「観念」にフィードバックされ、その「観念」を強化します。


まとめますと、

1.「観念」フィルターというイロメガネが出来事をとらえる
2.「観念」に付随する思念が出来事を判断し、思考を経て「感情・情緒」を現出させる
3.感情・情緒が「態度」として表明・フィードバックされ、「観念」を強化する

というサイクルを造っています。

と言うことは、3 の過程で「態度」を

ステキな思念を生起させる「観念」用のものに代えれば、
ステキな「感情・情緒」を体験でき、
更にその「観念」を成長させることが出来ることになります。

さて、あなたの採る「態度」は、二元の相対関係のシーソーゲームにおける「優」の側のものでしょうか?(ヤレヤレ・・・・)

昔の人がこう言いました。
わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る」、と。
お金に執着することなく、喜んで働きましょう。

かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。

誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかも「ここが地上の天国であるかのように」生きていきましょう。

       (世界がもし100人の村だったら)

悩みなどとは無縁の腹ぺこの子供のようになって食事をしてほしい。
あなたが飲み込む一口ごとに、幸せ(愛と調和)でありなさい。
態度(想念・意識状態と身口意)がすべて」だ。

       (ラムサ)


ワンネス意識と分離意識

 私達には、「ワンネス意識」と「分離意識」の2つが同居しています。
ワンネス意識は愛、感謝、喜びや平安などの真我(聖なる存在)の意識です。

 分離意識は偽我(マインド)の事であり、インナーチャイルドとも言われています。私達人間は宇宙の創造主である大いなるものから作られているため、「本質はワンネス意識から成り立っている」のです。

 分離意識とは、対立意識です。具体的には「人と自分は違う」「なんで私だけがこんなんだろう?」と人と比べてしまう意識であり、偽我(マインド)によって不安や恐れが生じ、心を動揺させる原因となる意識です。


真我(内在の神)の応援と
ワンネス意識がもたらす効果

 私達が真我(宇宙生命)の応援を得られるようになった時は、愛や感謝が増え、人間関係が良くなり、自分の周りにいる色々な存在との結びつきを感じられるようになります。
 周りの人との関係が良くなれば、自分自身との関係も改善していきます。

 また、真我(内なるキリスト意識)の存在を常に感じ、生きとし生けるすべての存在といる自分を感じられるようになります。
(全一体感・自他一体感・宇宙意識)

 さらに聖なる存在と共に生きる自分を感じられる様になっていきます。このようなワンネス意識状態になると、身体は癒され、心と身体の意識が調和され、心の中の様々なパーソナリティが調和して働いていきます。

 私達は常に自分のプラス的な傾向性を持ったパーソナリティと、マイナス的な傾向生を持ったパーソナリティの両方が、同居しています。

 私達が真我(神我キリスト)の応援を得られるようになれば、偽我(マインド)が静かな状態でいて、必要なときのみ働いてくれるようになり、プラス的な傾向性を持ったパーソナリティの働きが前面に出るので、心の平安が生まれます。

 心の平安が生まれると様々なホルモンと酵素が互いに正しく活動し、細胞が正しく機能するようになるので、身体の自然治癒能力が高まります。

 これは医学の世界でも証明されている事ですが、感謝がある時や笑ったりしている時は免疫力が上がります。一瞬だけでなく常にそういう状態であれば身体も良くなるのは当然でしょう。

ワンネス状態へ持っていくために必要なマントラ

 私達の意識をワンネス状態に持っていくための必要なステップとしては、まずは、人間関係を整える事です。そのため、心の浄化(サムスカラーシュディ)が必要です。

 これを行う事でトラウマを解消し、マイナスのエネルギーを開放していくことが出来、人間関係を調整することが出来るのです。

 もうひとつ大切なことはマントラを唱え、自分自身が、真我(聖なる存在)の本質である「」や「喜び」である事を宣言する事です。

 自分の存在を決定しているのは自分の意識です。
「あなたはどういう存在ですか?」と問われた時に「私は愛です
私は、存在、意識、至福です」など、自分で自分の存在の本質を宣言する事で、意識を変える事が出来るのです。

 マントラは、ヒマラヤのヨギなど、悟りを開いた多くの聖者が長年続けている方法です。マントラは聖なる音、宇宙に反響して鳴り響く音です。

 「私とは意識」であり、「意識はすべて」であり、
全てを超えている宇宙の要素」です。

(※すべての意識は、神の意識です。全ては神から生まれしものであり、全ての全てが神の現れであり、未来永劫「神」以外のものは存在いたしません)

 ですから「私は○○だ」と意識が発言する事はとても重要なのです。
「私はダメだと宣言すれば、それが宇宙にこだまして本当にダメになってしまいます。

私は愛だ。至福だ。感謝、喜びだ」と宣言すれば、それが宇宙にこだまして自分に戻り、自分がそのような存在である事を感じられるようになっていくのです。

 私達には自由意志が与えられています。自由意志は、宇宙が強制をする事が出来ません。「私はダメだ」と自分で思っていたら、そういう人は自分で自分を駄目にしているのです。

 自分で「自分の存在を愛や喜び、感謝だと宣言」をすれば、誰がなんと言おうと関係なくそのとおりに実現していくものなのです。



人の気持ちの表現の中で「感謝」が最高のものであり
「意識の進化度」を示すバロメーターです

 その人が偉大かどうかは、その人に「感謝の気持があるかどうか」で見分ける事が出来るでしょう。悲しいことに、これが欠けている人が多いのです。

 感謝をしないと(魂・意識の)成長が滞ります。よく考えれみれば、どんな生き物であっても、それが受け取るものはすべて、この地球から来ている事がよく分かるでしょう。
 
 生まれたばかりの赤ん坊は、滋養を与えてくれる「母に感謝」すべきです。それから保護を与えてくれる「父に感謝」すべきなのです。

 学校に通うようになると、智慧や知識を授けてくれる「教師に感謝」すべきです。そして、その知識が先人の経験によって培われてきたものである事に感謝をすべきでしょう。
 「植物・動物・森羅万象への感謝」も忘れるべきではありません。

 こうした恵みの存在に気づき、それに「心から感謝」をするならば、この世界は惜しみのないものであるということと、暮らしの一瞬一瞬が「神の恵み」によって導かれている事がわかるようになるでしょう。

 従って、「人の気持ちの表現」の中でも「感謝が最高のもの」になるのです。
それが、その人の「意識の進化を示すもの」であるからなのです。


宇宙は「感謝の心に満ちた人」
に対して願いを叶えてくれます

 「感謝」とは、すべての感情の本源(根源のエネルギー)です。※
これは、人間の意識の中に存在する感情の中で「一番崇高な表現」です。

(※感謝のエネルギー」は、宇宙の根源から発せられる
「究極のエネルギー」に最も近い性質のエネルギーだそうです)

 宇宙は本来、感謝心に満ちた人に対し、願いを叶え、
要求を満たす様に出来ています。
 ビジョンを持ち、そのビジョンを実現させる事が出来るのは、
感謝の心を持つ人」です。

 「感謝心のある人」の脳と神経系統の配線状態はその様に
なっているのです。そういった人は人間関係において愛を発見し、
またより高い意識(真我・宇宙意識・神)との大きな繋がりに気づきます。

---アンマ・バガヴァン


「感謝」が「瞑想」よりも上かもしれないお話

 今回は、ずっと前からご紹介したいと思っていた、
引き寄せの法則エイブラハム香港在住」様の、
「感謝」は「瞑想」よりもいい気分?の記事をご紹介しちゃいます♪

 少し前、あの「引き寄せの法則」で有名なエイブラハムさんや、セント・ジャーメインさんのチャネリングで、私の望んでいた情報に出会うことが出来ました。

 セント・ジャーメインさんによりますと、

●「神と繋がっている状態」というのは、「絶え間ない感謝の流れ
●全てのことに対しての感謝
●全ての瞬間に、ありがとう、ありがとう、ありがとう
●私達のエネルギーは感謝の波動にある

また、エイブラハムさんによりますと、

瞑想よりもっと上の状態がある。
もっといい気分の状態がある。
それは感謝の状態だ。」

との事です。

 「感謝のエネルギー」は、宇宙の根源から発せられる究極のエネルギーに最も近い性質のエネルギーですから、「心を鎮めてすべての思考を止める」瞑想よりも、上の意識状態なのも道理だと納得出来ますね。


 私達のエネルギーが「感謝のエネルギー」だったなんて…、前なら華麗にスルーしていた所でしたが、上記の真仙明さんのお話を知ってしまったら、もう納得せざるを得ませんね。きっと真実なのでしょう。

 私の魂が短期間で、ここまでブレイクスルーして大きく飛躍出来たのも、「神へ深い愛・感謝」の徹底的な実践があったからこそなのだと、改めて思った次第です。

 「感謝」で神様と繋がっていたわけですから、「神との一体感」による光のシャワーで、常時魂の油注ぎが行われてたとも考えられます。

 一種の明想状態だったのかもしれませんね。
まさか…瞑想していないつもりが、知らぬ間に瞑想していたとは(笑)

 正しかったのですねぇ…真理の理解を、ある意味極めたとも言える私のたどり着いた結論が…。
 自分のフィーリングを信じ抜いてよかったぁ♪

 こんな身近に、究極の答えがあったなんて…、まさに「灯台下暗し」とはこの事だと言えましょう。
 難解すぎる教えはいらなかったんや~…っていう♪

 「絶え間ない感謝の流れ」という事は「連続的感謝の意識状態」とも言えるわけです。
 「全ての瞬間」に「有難う・有難う・有難う」、
全てが神」である「今この瞬間の全て」に「感謝」ですね。

 もしかすると、一瞬一瞬を「神への感謝・深い愛」でいられるように努力する事が、最高に価値のある「行法」かもしれませんね。


有難うの言葉とツキとの関係

問、「ありがとう」という言葉を使っていると、ツキが巡ってくるという本が最近評判になっているようですが、こうした現象は実際に起こるのでしょうか。

本山博先生のお答え  

 これは非常に大事なことです。「ありがとう」という言葉は、人に感謝をして、その人と一つになる意味を持っています。

 感謝の言葉は、その人がいてくれたお蔭で、本当に自分が助かったときに自然に出てくるものですから、自分を守るよりも、自分を捨ててその人と一つになった気持ちがないと、その言葉は出てきません。

 つまり、自己(自我の)否定が起きている状態なのです。

自己否定をして自分と相手が一つ(全一体感・キリスト意識)になれるような時は、神様の力が入りやすくなります。

こうなると、ツキが出てきます

 感謝も出来ないような人間は、極端に言えば、猿とあまり変わりありません。ただし、謙虚なだけでもダメです。善人は、案外自我を強く持っていて、硬いから素直に感謝できません。

「ありがとう」と言えるのは、自分とは違う相手を受け入れることが出来るからなのです。


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり



調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

世界一の大覚者・超能力者・上江洲義秀先生による
神癒の真言(マントラ)

 人はこの世に生を受け、時には悩み苦しみ、病を背負い立ち止まります。その時、ここに記された真言(マントラ)に触れることで悩み苦しみから脱し、癒やされるようにとの思いで綴(つづ)りました。
 多忙な方、急を要する方はこの節を繰り返しお読みくださり、癒やされてゆく事を願うものです。

 我 神なり。我 命なり。我 愛なり。我 光なり。


我 神なり。

 真理という名の絶対法則である神は全てのものの中に生き続けます。神我一体の境地の中で霊魂体の一致がなされれば、天の実相の光が降り注ぎ、その身は黄金に輝き、内なる神性が花開いて本質を顕現させるのです。

 その時、知恵の泉が開かれて、全てを天使の囁(ささや)きと聞けば、神が命として無限の力を携(たずさ)えて生きているのを悟るのです。

我 命なり

 命は久遠常在永遠不滅。宇宙で失われるものは何一つとしてなく、ただ変化しているのみ。可視と不可視は表裏一体(色即是空)。
見えないもの(宇宙に遍満する大霊・大生命)こそが命をまとった本質。

 一命一体、自他一体、全一体こそが不変の真理。無限の知恵、愛、光は内在する命そのものであり、全てを活かし、一瞬たりとも休まず、途切れる事はありません。命を養い、命を変えうるのは命自身、久遠の光に照らされて我神と共に歩む時、神こそ命と知るのです。

我 愛なり

 愛は命、そして力。愛は生かし、結び、支え、守り癒やすもの。愛する事は愛されるよりも尊く、真実の愛は見返りを求めません。
カルマは神の愛。人は縁により出会い、※その全てを赦し、愛すことによって焼き尽くされて灰になるのです。


創造主様からのメッセージ♪から一部引用ですが……♬

 一番大事なのは、愛の実践です。愛し合う事です。全てを許し合う事です
許して下さい。許し合えたらあなたは、許されるのです
あなたが許さなければ、あなたも許されません。

 まず、自分の罪を許して貰いたかったら、人々の罪を許しなさい
そしたら、自ずから、あなたの罪は許されます。あなたは、人の罪を裁きながら、あなたの罪だけを免れたいと思うのを止めなさい。

 あなたが人を裁かず、怒らず、謗らず、嫉妬をしなかったら、あなたは誰からも、怒りも、裁きも受けません。全ての人の罪を、許してあげなさい

そうすれば、あなたは全てから、許されます。私、神から許されます

 罪を犯す者を、愛しなさい。そうすれば、私もあなたを愛します。
 人を愛さない者は、私も愛しません。

 神から愛されたいのなら、どうか、世の隣人、全ての者を、愛さなければなりません。その愛の実践が、真の信仰、神に至る道であるという事を知りなさい。

 
  自らを愛する事なくして全てを愛せず。久遠の愛の中にあって我愛なりと生きる時、そこには恐れも災いもなく、無限の至福の中、喜びが尽きる事はありません。

我 光なり。

 光に満ちた全一体の調和の中にいて人は病むことはありません。苦は幻と知れば苦は消え去るもの。
 現象は真我権限のためにあり、その中にこそ己を磨く宝があり、全ての責任は己自身にありと心に定め、身口意を正し、我神なりと命を輝かし、全てを愛し尽くした時、人は己の中に神を見、この世を照らす光となるのです。

 人は、無形無相では知りえない真理と調和を学ぶため、肉体をまとってこの世に生まれてきました。今を生きる事は永遠の中に生きる事、一瞬の閃光の中に悟りへの真理があります。
 
 病は苦から、苦は欲、無知、恐れから生じるもの。肉体船を操るのは心。行いも思いから生じ、心を正す事なくして何も変わらず。久遠常在永遠不滅の真理への気づきにより時空の扉が開かれて過去未来が変わり、病さえも消え去るのです。

 無限の根源に不可能はなく、思いは権限の母。正しき思いは無限に飛び立つ美しき天使となって自らを癒しに癒し、無限向上を目指してゆくのです。



 エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)を悟ることに集約される事を訴えています。

 ケイシーは、神の栄光は全創造物の中に現されている(全ての全ては神の現れ・神の他には何も存在しない)のだと繰り返し語っています。

 「人間性の全体、体と心とが神の現れ」であるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。

汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。

 あなたの知る善の全て神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」

イエス様の名言♪
「我は汝らに告げる。汝の隣人を愛せよ。の仇(かたき)を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。これ天(内・潜在意識の最奥)にいます汝らの父(キリスト)の子とならんため(※神我キリストへの覚醒めの為)なり。

 人は異質の統一を見、不和の調和を見ます。自分とは違う人々との接触に神の光(大愛・宇宙生命・神)を観ます、その時にのみ「汝の隣人を愛せ」という戒めの真意を理解できるでしょう。


問「キリスト意識とは、心の上にかたどられ意志力による目覚めを持つ、
魂と神との一体の自覚(無限・宇宙との一体感)と述べて宜しいでしょうか。」

答「その通りである。それが正しい考え方である。」

 
キリスト意識に覚醒めた)人は凡人には見えない、奥にある一体と本質と調和
(宇宙生命・神我キリスト)を観ます。人はただ愛するのみになります

 キリスト意識に覚醒めると、(全ては神であり自分そのものですから)憎む事はできなくなり、羨(うらや)む事もなく、悩まされもせず、拒まれもせず、挫折も、恐怖も持つ事はありません。

 (悟り)人は自分自身の魂と万物を一つと観ているため、あらゆるものの中にキリスト(神我)を観ます。これが覚醒めであります。
 これがキリスト意識、クリシュナ意識、神意識であり、これが天国に招かれる真の改心なのです。

 愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、
自分の中にも他人の中にもある愛の光(キリスト・真我)を見つめる事にあります。

 聖なる愛(大愛・宇宙エネルギー)が神から来るように、愛は個人の魂から放たれます。
人が明想を通して神にその魂を同調させる時に
聖なる愛はあらゆる憎しみや嫉妬に打ち勝つ力と共に、流れ出てきます

 「汝の敵を愛せ」という言葉には何ら論理的な矛盾も心理的なパラドックスもありません。愛なる語(全ては一つの悟り)が強められれば、敵は自動的に敵は無くなるからです。

ケイシー・リーディングから……♬
己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。
貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です

隣人との接しを通じての神の愛は終日の作業です。我々は神がどのような形で自らを示されるかを知る由(よし)もありません。(全ては神の具現)

 それはタクシーの運転手かもしれず、店員かも、学生かも、今日しかも、患者、医者かもしれません。
 だからこそ、我々は荒い言葉、怒った顔を慎み、非難を愛に変えて常に、あらゆる人との接触で(全ての全てであられる)神を崇めるのです。

 求道者がこの段階に至ってなければ、聖なる愛を自ら実践することによって明想全てに神を観る・我神なりの自覚)を続けなければなりません。

 神への、我らが家(久遠のホーム)への、本源への、我らがの目標(神我顕現・神との合一)への探求は、こうして全的な働きとなります。

  エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

 このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、祈りゆくうちに到来するあの目覚めによって、主(宇宙生命・大愛)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まる
あの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


覚者・上江洲義秀先生・至高の名言
 
 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を
(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。

 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。

・自分はついてると思う♪
・いつも笑顔・口角を上げてスマイル♪
・人の気分を害する事はしない・悪口は絶対に言わない♪


1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する

 「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。


2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する

 眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。


3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する

 言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。


4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する

 重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。
 

5.心施(しんせ) 他のために心をくばる

 心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。

6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る

 「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。


宇宙創造の神が勧める霊性を高める方法 洗心

いつももつべき正しい心(=常の心)
強く     明るく
正しく    我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ

心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)

憎しみ  不満
妬み   疑い
猜み   迷い
羨み   心配心
呪い   咎めの心
怒り   いらいらする心
不平   せかせかする心


■四句御箴言(しくごしんげん)

与えられたことを感謝して受けよ     
与えられぬことを感謝して受けよ

与えられたことを拒むこれ欲なり       瞑想の記事♪
与えられぬことを欲するこれ欲なり



 セント・ジャーメインさんによりますと、

●「神と繋がっている状態」というのは、「絶え間ない感謝の流れ
●全てのことに対しての感謝
●全ての瞬間に、ありがとう、ありがとう、ありがとう
●私達のエネルギーは感謝の波動にある

また、エイブラハムさんによりますと、

瞑想よりもっと上の状態がある。
もっといい気分の状態がある。
それは感謝の状態だ。」

との事です。



 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。

愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

世界一ハッピーな女性の物語♪全米各地の数十万人という人々の心を感動させてきた「奇跡の人」ミルドレッド・ノーマンさん♪(ハッピーになるための10の習慣  エドワード サウスウイック (著), Edward Southwick (原著), 菅原 秀 (翻訳) より)

「ハッピーになるための10の習慣」

からの引用記事になります。
ちなみにこちらの翻訳者の「菅原秀」さんは、高橋信次先生と大変深いご縁をお持ちの方でいらっしゃいます。
 翻訳のニュアンスも真理をかなり正確に掴んでいる方だからこそ…出来た改心の翻訳だと感じました。
 スピリチュアル的な内容ですが、魂に響いて飽きない良い内容ですので、ぜひ一度ご観覧頂ければ幸いです。



第四章 世界一ハッピーな女性の物語

(ハッピーになるための10の習慣  エドワード サウスウイック (著), Edward Southwick (原著), 菅原 秀 (翻訳) より)


無一物でハピネスをつかんだ人

ハピネスを完全に自分のものとして体得できた人は、今までにどのくらいいるのでしょうか?
私はほとんどいないと思います。
世界中の人々から慕われでいるイエス・キリストや釈迦は、そういったハピネスを完全に自分のものにしただけでなく、まわりの人々にも分かち与えた人でした。

だからこそ、世界中の数え切れないほどの人々が、キリスト教や仏教を心のよりどころとしているわけです。

もちろん宗教の相違によるいがみ合いは現代に至るまで絶えていません。
しかし、多くの宗教紛争は教義が原因というよりも、その教団に属する人間たちの欲望が生んだドグマティズム(教条主義)によるといったほうがいいでしょう。

つまり、自己中心的で、自分たちだけが正しいと考えて他人を排斥するのです。
そういう考え方は、本来のキリスト教や仏教には存在しません。

キリスト教は愛を教え、仏教は知恵を教えました。
いがみ合いをするとは、その愛も知恵もどちらも無視することにほかならず、信仰する教えに向かって、唾(つば)をはくのと同じだということができます。

それとは逆に、貧民や飢餓に直面している人々に救いの手を差し伸べている世界の宗教家たちは、異なった宗教同士の争いに加わろうとはしません。

宗派を超えて助け合おうとする宗教家たちによる国際会議を盛んに行っています。
このような宗教会議には、名前も知られていないような教団もたくさん参加し、貧困と飢餓の撲滅のために戦っています。

宗派の相違を恐れる必要は全くないのです。
私たちの生命をはぐくんでくれているこの宇宙、あるいは自然の摂理に対し感動し、かつ感謝し、そして自己向上の努力をするというのが全宗教の共通項です。

忘れてはならないのは、イエス・キリストや釈迦のような傑出した存在が、人類がついおろそかにしがちなその共通項を、私たち凡人にもわかるような言葉で教えてくれたということです。

教えの探い意味に正しく心をくだけば、宗教同士の争いをする暇はなくなるに違いありません。

こういった悟りのレベルに達した人たちの心のハピネスレベルは、計り知れないほど高いものです。

十字架にはりつけになったイエス・キリストは、自分を殺そうとしている人々を許してくれるように神にこいねがいました。
キリストは、死の恐怖をも愛に転換する力を持っていたとしか思えません。

同様に、自分を殺そうとした提婆達多(ダイバダッタ)を仏の化身としてうやまったのが釈迦です。

つまり、キリストと釈迦のHQは、人類が到達すべき最高点だったということがいえるでしょう。

HQが6か7程度でしたら、私たちでも努力さえすれば達成できないわけではありません。
しかしHQが8以上ともなると、人格的に高い精神性を持つとともに、長期間にわたる修行をする必要があります。

そういった高いレベルの人々の人生を知ることは、私たちに数多くのヒントを与えてくれます。

残念ながら、キリストや釈迦は大昔の人であるため、のちの人たちが教養をゆがめて解釈したり、不正確な伝記を記述したりしているので、その素晴らしさを知るためにはもどかしい思いをしなければなりません。

でも、安心してください。
私たちの現代にも、そういった偉大な人のレベルに近い大きな心を持った人がいます。

ノーベル平和賞の受賞者たち、あるいは、全く無名の人々の中にも、そういう人はいるかもしれません。

私がこれからお話ししようとする人物は、まさにHQのハイレベルに到達しています。
そのうえ、それを長年にわたって維持した大きな心の持ち主です。

この人物は日本ではほとんど知られていませんが、アメリカ各地の新聞が長年「奇跡のようだ」と言って書き続け、全米各地の数十万人という人々の心を感動させてきたのです。

しかも、その人は一切の宗教団体や機関とは無関係で、財産も地位もなくさらに住む家や家財も持っていませんでした。
彼女の名は、ミルドレッド・ノーマンといいます。


独立心の強かった少女時代

今でこそ、ミルドレッド・ノーマンという名前は知られていますが、彼女が死ぬまで、その本名を知っているアメリカ人はほとんどいませんでした。

全米各地の新聞、テレビ、ラジオはこぞって彼女の行為をほめたたえ、恐らく彼女を報道した記事、ビデオ、録音テープを集めれば、数十冊の本でも書ききれないほどの量に達しているでしょう。

それほどまでに報道されたにもかかわらず、アメリカのマスコミは彼女の名前を知りませんでした。
いや、知ろうとしなかったのです。

そして、さらに正確にいえば、知る必要はなかったのです。
マスコミは彼女のことを常にピース・ピルグリム(平和の巡礼)と呼んでいました。

彼女自身も自分の名前を言わなかったのですが、取材するマスコミ側も、彼女の行動を知るにつけ、その名前や経歴を調べたりするよりも、そのメッセージを正しく伝えることのほうに専念したのでした。

マスコミが通常必要とする、いつ、だれが、どこで、何を、というお決まりのルールを超えていたのが、彼女の存在そのものだったわけです。

ミルドレッド・ライダーは、ニュージャージー州のエッグハーバーという町で1908年に生まれました。
父親は土木建築業に携わりながら、農業をやっていました。

その兼業農家の長女として生まれたのがミルドレッドです。
アメリカで最初にラジオ放送が開始されたのは1920年。
したがって、彼女が生まれたころはまだラジオ放送がなかった時代です。

決して金持ちではありませんでしたが、生活に困ることはない程度には収入がある、安定した家庭だったようです。
静かで牧歌的な農村の平凡な一家でした。

両親はどの教会にも属していなかったようですが、子供たちをいいかげんに育てるようなことは決してなかったようです。

教会とは無縁でありましたが、ミルドレッドは幼少のころから人を思いやり、正直を旨とする子供でした。
両親の生活態度が彼女を自然にそうさせたのでした。

とても頭がよくて、三歳のころにはもう文字を読むことができたそうです。
高等学校も同級生たちより一年早く卒業しました。
高校では弁論部(ディベート部)の部長をしていました。

彼女のディベートには「説得力」があったそうですが、のちにいくつかの平和団体で働くことになったミルドレッドは、「抜きんでた説得力と交渉力の持ち主」と評されました。

このような高い精神性とハピネスレベルを獲得した人たちは、大変聡明で、恐らく天才だったのではないかと思います。
例えば、フランク・ラーバックは修士課程と、博士課程をわずか二年半で修了しています。

ガンジーは腕利きの弁護士でした。
アブラハム・マズローは人生を自己実現と高いハピネスレベルの獲得に捧げた人ですが、IQは196ありました。

彼らはHQも高く、そのうえIQも高かったのだということを知り、彼らがハッピーについて語った哲学をますます信じようという気持ちになりました。

ミルドレッドが初めて教会へ行ったのは十六歳になってからでした。
それも友人の結婚式が行われるというので参列しただけでした。

この教会へ行かなかったということは、のちのミルドレッドの人生形成にプラスに働いたようです。

つまり、教会によくありがちな、過度に戒律的な教えや、教条的な教えに触れずにすんだからです。

近所の小川から水を汲んできて、洗濯や炊事の手伝いをするという生活ぶりで、家のまわりはまさに自然そのものでした。

ミルドレッドが特に好きだったのは、小川で泳ぐことでした。
高い橋の上から飛びこんで、友達を驚かせるような活発な少女だったようです。

隣の家は父親の実家で、ミルドレッドの叔母さんが三人、叔父さんが一人住んでいました。

叔母さんと叔父さんは政治や哲学の話をするのが好きで、ミルドレッドは毎日夜になると、大人たちの議論を聞きにいったものでした。

時代はちょうど第一次世界大戦のころ。
アメリカはドイツに宣戦布告をしており、サンフランシスコでは排日運動の波が高まっていました。
ロシアでは共産主義革命が起き、世界中が揺れていました。

アメリカは、世界に先駆けて自動車工業、鉄鋼業、家電工業などを大発展をさせ、オートメーション方式を導入して、その繁栄は永久に続くかと思われるほどでした。

ハリウッドの映画産業が花開き、ウォルト・ディズニーの登場で、映画文化も頂点に達していました。

しかし、オートメーションを進めた結果、失業者は増加し、また農作物の暴落で農民たちは苦しい生活を強いられていました。

ミルドレッドは、叔母と叔父の話から、周囲の田園風景からは想像もつかない世界とアメリカの動きを耳で学んでいったのです。

そういった利発な子だったので、ミルドレッドは高等学校では弁論クラブに所属し、たくみなディベートを行う能力を身につけていきました。
特に好んだのは、哲学などの難しい話題でした。

ディベートとは相手を論理的に打ち負かそうとする討論のことですが、ミルドレッドは日常生活ではそれとは逆に、相手と友情を結ぶにはどうしたらいいかということにたけていました。

高校生時代にアルバイトをしていた店でのことです。
店番をしていると、お客さんへ払う細かいお金がなくなってしまったことに気づきました。

他の従業員がみな外出していたので、「休業中」の看板を出して両替をしに行きました。

店のマネージャーが戻って来てこの看板を見て言いました。
「外に出る時は『休業中』の看板を出してはいけないことになっている。担当者から指示されなかったのか?」

彼女はそういう指示は受けていなかったと答えたところ、その指示を出すべき立場だった先輩の女性販売員がマネージャーから叱られました。
その結果、先輩はミルドレッドをうらむようになってしまいました。

そこで、どうしようかと考えたミルドレッドは、自分の家の庭から先輩の好きな花を抜いて持ってきて、先輩の机の花瓶にさしてこう言いました。

「さしてあった花がしおれてましたから、家の庭からあなたの好きな花を持ってきました」
そして数日後には、互いに腕と腕をとって歩くほど仲直りすることができたのです。

ミルドレッドはこういったやり方で、「友情を得たいのなら、フレンドリーになるべきである」というハピネスの法則をいつも実行していました。

友達をつくるのが上手で、しかも社交的だった彼女は、学校を卒業するとたくさんの友人たちと遊び回るようになりました。

当時の若い女性はめったに化粧をしなかったのですが、ミルドレッドだけは町中でたった一人、マリリン・モンローのような化粧をして高価な毛皮のコートを身にまとったりしていました。

まわりの若い女性たちはみなお酒を飲み、タバコも吸っていましたが、ミルドレッドはここでは個性的な反応を見せています。

ある日、友達の家でパーティーをしていたところ、まわりの友人たちからお酒とタバコを強く勧められたのですが、はっきりと断りました。
そのことを彼女はこう語っています。

「私は、お酒を飲まない、タバコを吸わないということを選んだのです。つまり自由を選んだのです」

まわりの人と同じことをしないという独立心の強い彼女は、仕事の面でも成功しています。

ある全社に雇われてその能力が認められ、一般の人の倍の給料をもらっていました。
だから、ミンクのコートに身を包み、スポーツタイプの車を乗り回すという派手な暮らしもできたわけです。

ダンスも上手でしたので、町中の男の子のあこがれの的でした。
彼女を射止めたのは、二歳年下のマッチョタイプのハンサム青年でした。
二人はやがて結婚することになります。

しかし、彼のほうは、精神世界のことや奉仕活動、平和活動にあまり興味がありませんでした。

また、ミルドレッドは戦争に大反対でした。
夫が兵士になって海外赴任を命じられた時、ミルドレッドは戦争を履行する軍隊に対し、間接的にではあっても協力したくないと考え、夫について行くことを拒んだのです。
それがきっかけになり、二人は離婚しています。

さらに結婚生活の間に、父と母を相次いで亡くすという悲しみにも直面しています。
ミルドレッドは、両親の死、それに離婚という重い経験をへて、人生観を大きく変化させていきました。

そして、高い給料と十分な家財に囲まれて暮らすことが、決して自分をハッピーにしないことに気づいたのです。


神様、私を使ってください

ミルドレッドは自分の人生がこれからどうあるべきかを毎日考え続けていました。
そして、三十歳になったある日の夜、ふと近所の森の中へ入って行き、自分の内面を見つめながらさまよい歩き始めたのです。

「私はこれから何をすればいいのでしょう。
どうして私はハッピーじゃないのでしょう。
神様、どうか私の行くべき道を教えてください。」

静まりかえった夜の森の中を歩きながら、彼女は祈り続けました。
そうして何時間もさまよい歩いていると、心の中に何かが生まれてきました。
すると、さっきからの祈りが、新しいものに変化してきたのでした。

神様、どうか私を使ってください。
私をあなたの道具にしてください。

そして、ずっと朝まで歩き続けたところ、やがて彼女の願いは少しずつ確信のようなものになってきました。

そうだ。私は神様の道具だ。
私の人生を神様に捧げるのだ。
そういう強い決心が生まれました。

ミルドレッドは、この日を境に、お金や車や衣類などの所有に興味を失い、「あること」に向けて準備を始める生活に入りました。

「あること」の具体的な中身は彼女自身わかりませんでしたが、神への奉仕活動、あるいは他人を助けたり、世界を住みやすくするための活動に向かって、準備を始めなければならないという確信はありました。

それに基づいて彼女の生活を少しずつ変えていったのです。
この年、1938年、ドイツのナチスはオーストリアを併合し、ポーランドへ攻め入ろうとしていました。

また、ドイツ、日本、イタリアが手を組んだファシズムによる世界制覇の動きが、世界に暗い雲を立ちこめさせ始めていたのです。

アメリカ各地では、ドイツと戦うべきだという世論が盛り上がっていました。
ミルドレッドは、戦争回避の道を模索している各地の平和団体の活動に参加し始めました。

「平和と自由を求める世界女性連盟」の代表としてワシントンに赴き、政治家に対して戦争回避の道を訴えるロビー活動を先頭に立って行いました。

ミルドレッドの説得の仕方は実に明確で、多くの平和団体が彼女の活躍に関心を持つようになりました。
平和運動のまとめ役として頭角を現していったのです。

さらに平和運動だけでなく、YMCAが行っていた身体障書者への無料相談の奉仕活動にもかかわりました。
彼女は行く先々で、人々を愛し、助力し、励ましたのです。

「あること」に向けた彼女の準備活動とは、平和と社会奉仕のために身を粉にして働き続けるということでした。

しかし、こういった活動をしていでも、彼女の心の中はまだ完全には安定していませんでした。ただ、以前よりは確実にハッピーでした。

ハピネスレベルは上がったり下がったりしました。
そのため、一定の高みに落ち着くということがありませんでした。

彼女は、その原因がまだ捨てきれないでいる自分の中のエゴ(自我)にあるということがわかっていました。

平和活動と社会奉仕活動は、彼女にとっては自分自身のエゴと自己中心的な考え方を捨てるための修行過程でもあったのです。

彼女が自分の内面の平和とハピネスを得るために、どういう困難に出あったかを示そうとしてしばしば描いたのがこのチャートです。

1.自己中心の状態での感情の上下。
2.三十歳で一晩中歩いて祈った夜、心から奉仕する決心。

3.神中心の心と自分中心の心の戦い。
4.最初のピーク体験。本当の高い内面の平和(ハピネス)を初めて体験する。(イリュージョン・ピリオド)

5.内面の平和の長い継続。
6.完全な内面の平和。
7.平和とハピネスを保ちながら安定した成長。(四十五歳から)

「あること」への準備期間は十五年も続きました。
1952年の夏、四十四歳の時、ミルドレッドはこの準備期間の締めくくりと思われる行動を行っています。

アメリカ東部を南北二千四百キロにわたって縦断しているアパラチア山脈の、全行程踏破にチャレンジしたのです。

日本の本州の青森県先端部から山口県先端部までの距離が約千三百キロです。
その本州の長さの約二倍に匹敵する距離が、すべて険しい山の連なりになっているのがアパラチア山脈です。

女性初のアパラチア山脈踏破に成功したミルドレッドは、フィラデルフィアのラジオ局でのインタビューにこう答えています。

「とても楽しい体験でした。とても勉強になりました。
そしてインスピレーションを得ることもできました。」

実は彼女の語るインスピレーションというのは、四十歳くらいの時に初めて体験したものです。

ある早朝、山の中を歩いていると、突然自分自身の精神がかつて体験したことのない高みに持ち上げられているのを感じたのでした。

まるで地球の上を歩いているとは思えないような感覚で、まわりの花や草や木々が彼女に向かって挨拶しているように感じたのです。

そして、まわりの景色や空気が黄金の時雨のような感じで天から降り注いできたのです。

ミルドレッドの心の中には、まわりの自然と一つになったような感覚が広がり始めました。

それは、平和に満ちていて静かで、しかし強い意志を伴う感覚でした。
まるで神様と自分の心が一つにつながっているような感覚でもありました。

この感覚は宗教家が悟りを得る段階で感じるもので、「イリュージョン・ピリオド」と呼ばれています。

この体験で注目すべきは、黄金の時雨ではなく、心の中の現実感の大きな変化という事実です。

彼女は、地球上の「すべてのもの」が「一体」であり、生物も、空気も、水も、また地球自体も「一体(すべては一つ)」であるという感覚に包まれたのです。

そして、その「一体感」こそ「神からの影響」であるということを体験したわけです。

この感覚の体験以来、たとえ少しの問、高みから落ちることがあっても、すぐに高いレベル(恐らくハピネスレベル8~9)まで回復でき、より長くそのレベルにとどまれるようになりました。

彼女は、自分のエゴを捨てるというレベルを数年問にわたって保てるようになってきたのです。

その結果、他人に心の底から奉仕できる愛の世界を獲得することができたのでした。
そして、彼女が四十五歳になった時、このイリュージョンの体験に引き続いて、今まではっきりとイメージできなかった「あること」の形がはっきり見えたのです。

遠くニューイングランド(アメリカ)の野原を臨む山の項に腰を下ろしながら、ミルドレッドは頭の中に、ピース・ピルグリム(平和の巡礼)という形で、自分自身をすべて神に差し出すというイージを形成していったのでした。


人生のバランスを整えた準備期間

森の中での体験から十五年の準備期間をへて、四十五歳になったミルドレッドに与えられたプレゼントは心の安定でした。

つまり、最高レベルのハピネスを与えられたのです。
最高レベルのハピネスというものが何であるかを知らない私たちは、その後の彼女の人生をたどる必要があれます。

しかし話を先に進める前に、ミルドレッドが十五年間の準備期間中に行った心の掃除の結果、どんなことを発見したかをもう少し調べてみましょう。

彼女が気づいたのは、人生という旅を誠実に歩むためには、いくつかの準備が必要だということでした。

そのために次の四つの準備が大切だということがわかってきました。

① 人生を正しくとらえる

人生を捜然と過ごしたり、やるべきことをやらずに真実から目をそらしたりせず、正面から向かい合う。

つまり、逃避しないということです。
人生に立ちふさがるさまざまな問題は、その人を次の高みに引き上げるチャンスなのです。
問題が起きたら、どういうふうにその問題をとらえれば有意義であるかと考えることです。

ミルドレッドは、どんなに困難に思えるものに対しても、回避せずに、なるべく積極的に受け入れて解決し、乗り越えるようにしました。

そうすると、少しずつ自分が強くなり、自信が生まれ、ハッピーになっていくと語っています。

しかし、問題の中には、個人的に解決できる範囲を超えているものもあります。
長年平和運動に携わってきたミルドレッドは、こういった問題を「collective problem(集合的問題)」と呼んでいます。
つまり、社会的問題のことです。

例えば、「老人の孤独死」などという記事を時どき見かけますが、こういった悲しい事件をなくすためには、孤独な老人を訪問し世話をするような社食的活動が必要になります。

自殺に追いこまれようとする人を救済する「命の電話」の充実も大事な仕事です。
悪に染まってしまいそうな十代の若者を救済するケア活動、あるいは「いじめ」をなくすための努力、環境保護なども、個人的に解決できる範囲を超えた問題です。

集合的な問題に対しては、一人だけの力ではなく人々が力を合わせて当たらなければなりません。

ミルドレッドは集合的な問題について、個人個人が協力し、助け合う必要性を強調しています。

最終的に一番高いハピネスレベルに到達するためには、こういった集合的な問題にも参加する必要があるとも語っています。

ミルドレッドは十五年にわたって、個人的な問題と集合的な問題を解決するために、人生を正しくとらえるという準備作業をやり続けていたのでした。

② 自分の人生を宇宙の法則に同化させる

物理的にも精神的にも、私たちが従うべき宇宙の法則は厳然と存在しています。
そこから逸脱して安易な人生を送ることをきっぱりとやめて、宇宙とのバランスをとるということが大切です。

神は、この世界に生き物をつくっただけではありません。
全体のバランスをとるための法則もつくりました。

人間の肉体と精神について考えてみても、この法則が厳然と支配しています。
もしバランスを欠いてしまえば、人間は肉体的にも精神的にも大きなダメージを受けます。

それは法則に対する無知から起こります。
幸いにも、私たちはダメージを受けても法則に気づいてそれに従おうとする能力を持っています。

しかし、実際には、簡単なようでそのことがなかなか実行できないのが私たちです。
ミルドレッドは、まず「善は悪に勝る」という法則を語っています。
善が最終的には勝利するのです。

つまり、ピース・ピルグリムが経験したように、人から嫌われても愛(善)のある行動を続けていけばそんな気持ちすら消してしまうのです。

「転ばぬ先の杖」という格言がありますが、バランスを欠く前にこの法則に従えば、肉体と精神の危険を回避できるでしょう。

ミルドレッドは、自分自身の人生にこの法則を応用していった過程を「とても興味深いプロジエクト」だったと語っています。

彼女はこの法則を、人生に今すぐ取り入れることに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。

今すぐにやめるべきだと思う悪習は、常にただちにやめることにしたのです。
彼女にとっては、それは難しいことではありませんでした。

少しずつやめるのは時間もかかってなかなか大変なことではありますが、やるべきことをやらないことのほうが、自分をもっと苦しめることになるからです。

彼女は「信じたことはすぐに実行に移せる」人でした。
そうしなければ、信じたことが全く無意味になると思えたからです。

その結果として、精神的に高い人生に達すると、次にはまた別の高いレベルが与えられるということに気づきました。

それ以来「ミルドレッドは、常に精神的により高く向上するように心を開き続けたのでした。

例えばへこんなエピソードがあります。
ミルドレッドは学生時代にコミュニティー・クラブの役員に選ばれました。
実は他の友人がやりたいと思っていた仕事だったので、友人はミルドレッドをうらみ始めました。

そして、まわりにミルドレッドの悪口を言いふらしました。
ミルドレッドはその友人の不健康な気持ちを切り替えるため、

「自分がしてほしいことを他人にもしてあげる」というゴールデンルールを応用することにしました。

つまり、友人のいい面を可能な限りあらゆる面から考えるようにしたのです。
かわりの人たちと話す時には、この友人のことを心からほめるようにしました。
また、機会があるごとに彼女の喜ぶことを何でもしてあげました。

その努力の結果、一年後にこの女性が結婚する時になると、ミルドレッドは結婚式に「ブライド・メイド」という主賓のような立場で招待されたのです。

彼女は、このようにしてまわりの人々が心を切り替えて、心と精神をきれいにするように働き続けました。

人々に助力する働きかけを続けながら、もっと所有したいという欲望を少しずつなくしていったのです。

巡礼の旅に出発すると同時に、食事に関する習慣も、少しずつ健全なものにしていったのです。

さらに、不必要な物を買うことをやめる、価値のないことを行うのをやめる、他人を否定的に見ない、否定的に物事を考えない――というように、自分の心を切り替えるようにしていったのです。

そして、よいと思ったことはその場ですぐに実行するというのが彼女のモットーでした。

③ 自分の役割を認識する

ミルドレッドの場合は、十五年の準備期間をかけて、自分が将来なすべき「あるもの」を探し続けました。

その結果、ピース・ピルグリムという役割にたどりついたのです。
この世の中で一人ひとりの役割はすべて異なっています。

人間にさまざまな職業があるのもそのためです。
したがって、あなたが何をすべきかはだれも提示することができません。
自分で探すしかないのです。

ミルドレッドは、自分で自分の生き方を探しきれない人のため、次のようなアドバイスをしています。
「心の声を素直に受け入れられる状態を常につくり、無理をせずにそれを探し続けるのです。

そのうちに、やらずにいられなくなる『よいこと』が見つかってくる瞬間があります。
それがどんなに小さいことであってもいいから、他のことに優先させて実行するのです。」
ミルドレッドは多くの人たちに説きました。

すべての人々の人生パターンには固有の場所があります。
神の計画のもとでは一つとして同じ役割は与えられていないのです。
神の法則と影響は、あなた自身の内側でしか体験できないのです。

もちろん、偉大な宗教指導者たちが言うように、外側の事柄から学ぶことも可能です。
しかし、神の導きは内側でしか感じないのです。
だから、神に対して常に心を開いておく必要があります。

神は宇宙の法則を破るようにという指導は決してしません。
もし、そういう指導を感じたとしたら、それは神からのものではありません。

自分のバランスを宇宙の法則に合わせるかどうかはその人次第です。
宇宙の法則に自分を合わせるということだけが、よい結果をもたらします。

この世に生まれて来たからには、あなたにはあなたの役割というものがあります。
その役割を認識して、実行する必要があるのです。

ミルドレッドは、自分が何をやるべきかわからない人に対して、心の中の声を受け入れられるような状態にして静かに待ちなさいとアドバイスしています。
彼女はかつて美しい自然の中を歩きました。

静かにただ受け身になることで、素晴らしい内面の世界を知りました。
自分自身に与えられた人生パターンを歩むためには、前向きと思われる「よいこと」をすべて行うのです。

最初は、本当に小さなことでもかまいません。
人生をゴタゴタさせているだけの表面的な事柄を二の次にして、「よいこと」を人生の重要事項にするのです。

ミルドレッドは毎朝神を思い、神の子供として今日は何を奉仕することができるかと考えました。

その日の出来事に出あうつど、自分が奉仕できることは何かないかと探し続けました。
楽しい言葉とほほえみを忘れずに、毎日、できる限り「よいこと」をやり続けました。

自分の手に負えない大きな問題に出あった時には祈ることをしました。
ミルドレッドは、正しい祈りは正しい行動を生み出すと語っています。

彼女は時として、人々を助けるために駆けつけていきたい欲求にかられました。
しかし、「他人の問題を解決することは、その人の成長を妨げる結果を招きはしないか」ということに気づきました。

最初、ミルドレッドは、買い物をしてあげたり、庭仕事を手伝ったり、本を読んであげたりなどの簡単なことから始めました。

また、時どき老人の家を訪ねて、病気の回復や体の不調を軽くする手伝いをしました。
あるいは、心理的・精神的に障害を持つ十代の著者の面倒をみる仕事もしました。

自分の行うさまざまな労働が、それらの人々に前向きのよい影響を与えるようにと願いながら奉仕活動をしたのです。

ミルドレッドは自分自身の奉仕活動を精神療法と呼んでいます。相手が求める「よいこと」をすべてしてやり、また相手もそれに倣うようにという奉仕だったからです。
中には、極端に彼女に頼ろうとする人もいました。

そういう場合は、相手が彼女から自立できるように導くための時間をさかなければなりませんでした。

準備期間の間に、彼女は「よいこと」は即実行するという人間に生まれ変わっていたのです。

④ 人生の簡素化

ミルドレッドは、自分の生活を奉仕活動に捧げるという決意をすると同時に、物に対するこだわりが消えてしまいました。

世界には、生きるのに必要なものすら手に入らない人がいるのに、必要以上の物を受け取ったり、所有したりすることがいやになってしまったのです。

初めのうちは、必要最小限な物だけに抑えて生活するのは困難でつらいのではないかと思えました。

仏教は、人生を簡素化すること、生活の中に不必要な物をなくすということでハッピーな生活が訪れると説いています。

ミルドレッドも同様に、不必要な物を所有しないことでハピネスが訪れると語っています。

つまり、物をたくさん持っていると、それらのことに神経が行ってしまい、ストレスを生んで心の重荷となるからです。

といっても、人間は住むための場所を持たなければなりません。
また、家庭があれば、子供の学資の問題が生まれたり、音楽好きな家族の一員がプレイヤーを必要としたりということが起こるでしょう。

しかし、音楽は絶対に必要なものというわけではありません。
まして、ブランドネーム付きの衣服、高級車、最新テレビなどは当然買わなくてもすむものです。

もしそのために借金をするとしたら実に愚かなことです。
彼女は容易に生活を簡素にできただけでなくそれが当初考えたほど難しくはないということがわかりました。

準備期間の数年間、ミルドレッドは小さな部屋に住んでいました。
平和運動のために、ワシントンなどの都会に住んでいたのですが、毎月四十ドル以内(現在の約五万円)で生活していました。

そして、最終的には二着の衣服を所有するだけになり、さらにピース・ピルグリムになった時には、衣服は一着だけで、お金も持たないという生活を続けるようになったのでした。


ピース・ピルグリムの旅立ち

1953年、カリフォルニアのパサデナを徒歩で出発したミルドレッドが携えていたのは、平和を訴えるパンフレットと三通の嘆願書だけでした。

朝鮮戦争がちょうど拡大していたころで、またアメリカでは、上院議員のマッカーシーが提案した一連の赤狩り政策、つまり共産主義から自由世界を守ることを口実にした過激な政策が吹き荒れていました。

ミルドレッドは、そういう時期に旅立ちができたことは、平和を語るうえで絶好のタイミングだったとのちに語っています。

道行く人に語りかけ、心の内面を平和にすることの大切さを訴えながら、ワシントンに向かって一歩一歩、平和の歩みを続けていったのです。

携えていた三通の嘆願書の内容は、アメリカがからんでいる朝鮮半島での争いの即時停戦、平和省の創設、国連に対する軍事費の平和建設費への置き換え――というものでした。

彼女は十一カ月かけてワシントンに到着すると、ホワイトハウスと国連に、三通の嘆願書を道中で集めた署名とともに提出し、平和のために即時行動することを強く訴えました。

そして、ミルドレッドはそこにとどまることなく、残りの人生をアメリカを六往復も歩き続けることに費やしたのでした。

各地でミルドレッドが語った話を聞いた人々は、心の平和を獲得するようになりました。

彼女が神の存在に集中しなければならないと呼びかけたことで、人々も変わり始めたのでした。

さらにミルドレッドは、絶えず神の存在を感じ続ける必要があると思いました。
そのために、ミルドレッドは四、五日間、水だけの断食をして、常に神の存在を実感できるようになりました。
彼女はふたたびアメリカ各地を歩き始めたのでした。

もちろん、世界平和についても語り続けたのですが、彼女が強く感じていたのは、すべての人々が内面の平和を獲得しなければならないという必要性についてでした。
つまり、それは神の存在を体験するということにほかなりません。

それによって、各自が自分自身の本当の役割に気づき、たとえ一部の人々だけでも世界平和のために働くことになるかもしれないと考えたのです。

ボケット付きのネービーブルーの上着には、白い文字でピース・ピルグリム(平和の巡礼)の文字を、背中には、Walking coast to coast for paece(平和のためのアメリカ横断行脚)の文字を縫いつけました。

背中の文字は、のちには25,000 miles on foot for peace(平和を求めて四万キロの徒歩行脚)と書きかえていました。

着ているものがぼろぼろになると、友人たちが同じものを彼女のために入手して、同じ文字を縫いつけるということが何度も繰り返されました。

四万キロというと、日本の本州の青森から山口までを十五回往復する以上の距離です。
彼女はこれを達成したのちは、距離の計算はやめてしまいましたが、それでも歩くことは続けました。

仏教の巡礼の場合は、托鉢をして道すがらにお金やお米をもらいます。
しかし、ミルドレッドの場合は、自分のほうから食事を求めるということは一切しませんでした。

相手が自ら食事を提供してくれたり、道ばたに野生の木の実や果物がなっていたりした時だけ、それを喜んでロにしました。
道中、丸一日程度食事をしないことはありましたが、それはごくまれでした。

自分のほうから申し出ることはなかったにもかかわらず、
「食事ができないということは、めったにありませんでした。
人々は思いのほか、善意に満ちているのです。」
と語っています。

ミルドレッドの名前がアメリカ中に知れ渡るにつれて、食事に困ることも少なくなっていきました。

何年か歩き続けた彼女は、行く先々で、食事に困ったことはなかったと何度も話しています。

彼女が時どき自分のほうから求めたのは、彼女を待つ人々に到着を知らせるためのハガキに貼る切手だけでした。

ある時、彼女から切手の提供を求められた女性は、切手をたくさん持っていたので、シートになった何十枚かを差し出しました。

すると、ミルドレッドは言いました。
「いえ、私が欲しいのは三枚だけです。」

「いいのよ。必要な時にまた使えばいいでしょ。荷物にはならないでしょうから、ボケットにしまっておいたらいかがですか?」

「いいえ、三枚だけでいいのです。どうか、三枚だけください。」
彼女は、その時に必要とするもの以外は、決して受け取らなかったのでした。

また、ある時、ミルドレッドの履いている靴がぼろぼろなのを見た男性が、靴をプレゼントしようとしたことがありました。

彼女に物をプレゼントするのは本当に大変なことだとこの男性は語っています。
「いえ、今履いている靴で十分です。新しいものはまだいりません。」
ミルドレッドはそう言って彼の申し出を断りました。

しかし、彼女の靴はあまり上等なものではなく、あと数日も歩けば使いものにならなくなるのは目に見えていました。

砂漠を歩いている時に靴が駄目になるのを心配した彼は、ミルドレッドの靴の寸法を測って、彼女の足にぴったりの丈夫な靴をあつらえました。

そして、ミルドレッドの行く先々で彼女を待ち受け、
「ほら、これがあなたの靴ですよ」
と足下に置き続けました。

ミルドレッドはついに彼の熱心さに折れ、新しい立派な靴を受け取ることを決心したのです。

行った先で人々から名前を聞かれた時には、
「私はピース・ピルグリムです。」
といつも答え、本名を語ることはしませんでした。
そのことは人々を納得させるのに、十分な効果がありました。

家財やお金を持たず、さらには名前すら持とうとせずに、ひたすら平和な心を訴えながら歩くミルドレッド。

その彼女の前では、そんな質問は実に色あせたものに感じられました。

行く先々の地方紙が、彼女の来るのを待ち構えて、
「世界平和を求めて歩き続けるピース・ピルグリム」
「アメリカに平和の必要を説き歩く女性」

「愛と平和の現代の巡礼アメリ力を歩く」
「分別こそが平和を導くと確信する巡礼者」
などの記事を書き続けました。

これらの記事の多くは、内面の平和こそが大切で、それが世界の平和を導くという彼女の談話を掲載しました。

ミルドレッドに話に来てくれるように求める人の数はどんどん増えていきました。
人々は内面の平和とハピネスをつかみたい気持ちでいっぱいだったのです。

時には、彼女のほうから、行く先々の大学の心理学教授に電話をかけ、学生たちに話をさせてくれるように依頼しました。

心を安定させることによって、内面の平和とハピネスを得ようと訴える彼女のスピーチは、心理学と不可分だったからでした。

ミルドレッドは、自分の身には何も求めませんでしたが、新聞、ラジオ、テレビに対しては、平和を訴えるための有効な手段になるとして、樟極的に取材に応じ、また快く出演もしました。

ラジオやテレビで説く彼女の明快な語り口は多くの人たちを魅了しました。
巡礼の旅が重なるにつれ、いろいろな土地に友人ができ、彼女の到着を今か今かと待つ人が多くなっていきました。


旅先での試練と経験

ミルドレッドは旅先でさまざまな困難に出あうと、それを自分に与えられた試練と考え、積極的に対応しています。

難しい問題に出あって解決した経験を、さらにより難しい問題にも応用するようにしていったのです。

彼女は、とても解決できそうにもない問題でも、自分にとってはさほど難しくないと語っています。

どんなに難しいことであっても、神がそぱにいることを確信して、平和と愛とハピネスを感じながら平静に対応したのです。

旅を開始したばかりのころ、カリフォルニアの砂漠を歩いていた時に、一つの試練に出あっています。

すでに真夜中だったのですが、あと何マイル歩いても人里にたどり着けそうになく、道を通る車も全くありませんでした。

寒い夜でもあったので野宿は危険なことから、ただひたすら歩くしかありませんでした。

その時、道ばたに一台のトラックが停車しているのを見つけました。
車の男は彼女を見つけると、
「こっちへ釆なよ。中は暖かいぞ。」
と言いました。
「いいえ、乗りません。」

とミルドレッドが返事をすると、男は
「運転するつもりはないよ。ここに車をとめているんだ。」
と答えました。

ミルドレッドは車の中に入り、男の顔に目を向けました。大柄の見るからに荒くれ者で、どんな人も怖がるような風貌をしている男でした。

しばらく話をしていると、だしぬけに男がこう言いました。
「よし、一緒に寝ようじゃないか」
ミルドレッドは答えました。

「ええ、そうするわ」
彼女は背中を丸めてすぐに寝入りました。

朝になって目がさめると、その男は当惑した表情で彼女を見つめてこう言いました。
「あんたが丸くなって、本当に安心して寝ているのを見たら、ボクはあんたに触ることすらできなくなってしまったんだよ。」

また、こんなこともありました。
ある町を訪れたところ、情緒障害に陥っている十四、五歳の少年がいました。
彼女は、この少年の面倒をみようと考えました。

少年はフットボール選手のような体格で、聞けば、すぐに短気を起こして暴力をふるう性格で、あらゆる人から恐れられているということでした。

少年の母親は殴られて何週間も病院に入院するということもあったそうです。
少年はハイキングに行きたがっていました。

しかし、少年の行状を知っている人たちは、だれも一緒に行こうとしませんでした。
しかし、ミルドレッドはともにハイキングに行くことを承諾しました。
ある山の項に達すると、向こうから入道雲がもくもくと立ちこめてきました。
すぐに嵐がやってきそうです。

少年はこの嵐を恐れて気が動転し、暴力的性向が頭をもたげてきました。
そして、いきなりミルドレッドを殴り始めたのです。
でも、彼女は逃げようとはしませんでした。

少年を愛のこもったまなざしでじっと見つめ続けました。
のちに彼女が語るには、無抵抗の女性を殴るほどの心理的障害に陥っている少年が気の毒になり、少年が心に抱いている憎悪を愛で包み始めたのだということです。

すると、少年は殴ることをやめてこう言いました。
「どうして殴り返さないんだ。
母親はいつも殴り返してきたのに!」

少年はこの出合いをきっかけに、心の奥底に沈んでいた憎悪の原因を発見することができたのです。
心の傷は完全にいやされ、生涯にわたって二度と暴力をふるうことはなくなったのでした。

その後、ミルドレッドは、もっとも難しい試練に出あうことになりました。
ある農場を訪ねた時のことです。

一家はみなで町に行くことになったのですが、八歳の女の子だけが町へ行きたくないというので、両親は居合わせたミルドレッドにその子の面倒を頼んで出かけていきました。

ミルドレッドが窓辺で手紙を書いていると、外で車が止まって男が降りてきました。
少女は男を見ると急いで逃げ出しました。
しかし、男は納屋の中まで追いかけていったのです。
ミルドレッドは急いで納屋に駆けつけました。

少女は恐怖のあまり納屋の隅で体を縮めていました。
男はゆっくりとにじり寄っていきました。

それを見たミルドレッドは男と少女の間に割って入りました。
そして、そこに立って、心を病んでいるこの男を愛とあわれみの感情を持って見つめたのです。

男は近づいてきて、途中で立ち止まりました。
そのままミルドレッドを長いこと見つめ続けました。

やがて、男はきびすを返し、納屋から出ていったのです。
この間、三人とも一言も口を聞きませんでした。

ミルドレッドは、ハピネスを得るにはどうしたらいいかということを、行く先々でわかりやすい言葉で説き続けました。

ある町で出会った独身の女性は、お金を稼ぐために必死で働いていました。
あまりにも生活が大変なので、ミルドレッドにどうしたらいいかと相談を持ちかけました。

話をよく聞いてみると、部屋が五つもある家に一人で住んでいて、ローンの支払いや調度品をそろえるためにお金が必要なのだということです。
「そんなに広い家は必要ないでしょう?
売ってしまったらいいじゃないですか?」

「でも、家には大事な家具もたくさんあるので、売ることはできません。」
「あなたの人生は家のためにあるのですか?」

人間は自分の所有物にこだわります。
そのため、それを捨てることができずに重荷を背負っています。

ミルドレッドは捨てることの大切さを各地で説き続けました。
カバン一つ持たずに素手で歩くミルドレッドの言葉は多くの人の胸を打ちました。


捨てるということ

何かを捨てることでハピネスレベルを上げられるというのは、理屈ではわかるのですが、なかなか実行は難しいものです。

しかし、ミルドレッドがそれを説くと、その可能性が真実味を帯びて理解できるようになってくるのです。

なぜなら、本人の存在それ自体が、物へのこだわりを捨てた模範になっていたからです。

そして、彼女が説いたのは、物を所有したい心そのものを捨てるべきだという精神的なものでした。

① こだわりを捨てる

私たちは、それがレベルの低い物事であっても、現状を維持させようと努めます。
また、他人の悪口を言ったり、仕事や人間関係で良心の道に外れたことをしたくなったりすることがあります。

ミルドレッドは、そういったマイナスのこだわりを捨てるためには、同じだけのエネルギーをよい方向に投入すればよいと勧めます。

もし他人の悪口を言いたくなったら、それと同じだけのエネルギーを褒めることに費やせばよいというのが、彼女の教えるテクニックでした。

② 孤立感を捨てる

私たちは、つい自分の尺度で物事を測ってしまいがちです。
実際には、この世界も社会も、自然の恵みや人と人との協調というバランスを基に成り立っているのですから、自分の尺度にしがみついていると、その現実を徐々に忘れて疎外感にさいなまれる結果を招きます。

私たちは宇宙全体の中の1つの細胞にすぎません。
自分だけが孤立していると考えることは、たった一つの細胞が宇宙に反抗しているのと同じです。

そのことを理解して全体の中の一つとして生きようと考えた時に、孤立感がなくなってハピネスの世界が訪れます。

③ 所有感を捨てる

私たちは二種類の所有感に執着しています。
一つは自分が持っている物です。

もう一つは自分のまわりの人間に対する所有感です。
物というのは、本来、用がすめば必要がなくなるものです。

それを自分の所有物として抱きかかえ、今本当に必要とする人に分けることを拒否していると、物のほうから私たちに襲いかかってきます。

つまり、物に所有されるようになってしまうのです。
物質至上主義の現代では、多くの人がそのことに気づかずに、物に所有される悲劇を招いています。

また、人間関係を所有しようとする感情は、常に悲劇を引き起こします。
夫も、妻も、子供も、自分の所有物ではありません。

もし所有感を持ってしまうと、相手の人生を操作してしまう傾向が生まれます。
人は決してほかの人間を所有することはできません。

人はみなそれぞれ、自分にふさわしい内面の動機に基づいて成長し、社会を機能させていくのです。

④ 否定的感情を捨てる

否定的感情がハピネスを妨げることは多くの人が知っています。
その否定的感情にもさまりますが、中でもやっかいなのが「心配」です。

「心配」は「配慮」のようにも思えますが、実際にはたいていが不必要な思いわずらいで、ハピネスレベルを下げるだけのマイナス要素にすぎません。

ミルドレッドは「心配」という感情のコントロールの仕方をこう説いています。
「『心配』というのは過去や未来への思いわずらいです。
現在という時点では、この『心配』のないことが普通です。

ですから、とにかく現在を生きるのです。
私の場合、現在というこの瞬間を、奉仕のための新しいチャンスだと考えて生きています。」

さらに、ミルドレッドは、否定的感情のコントロールの仕方を知ることになった、もう一つの発見についても語っています。

それは、自分の外側に存在するものは、それが人間であれ物であれ、こちらの内面の心理を傷つけることはないということです。
自分の内面を傷つけているのは、実は自分自身だったのです。

ミルドレッドはこのことを発見した時、素晴らしい解放感を味わったと語っています。
つまり、他人が自分を傷つけるかどうかという判断のコントロールは、自分自身が百パーセント握っているのです。

もしだれかがあなたの悪口を言ったとしでも、あなたはそれで傷つく必要は全くないのです。

イライラした人がミルドレッドに悪口を言った時、彼女はその人が心理的にも精神世界的にも未熟で、恐らくハッピーではないということを見抜きました。

そして、その人を本当に気の毒に思い、さらに愛情までも感じたのでした。
ちょうどかつて十代の少年が彼女を殴った時のように。

それ以来、ミルドレッドは、自分を傷つけようとするあらゆる人々に対し、心からの思いやりを持つことができるようになったのです。


人生の本当の目的とは何か

私たちのほとんどは、自分の人生の目的が何であるかわからないまま、常に迷い続けています。
ミルドレッドが行く先々で出合った人たちも、多くはそういった悩みをかかえていました。

ミルドレッドの純粋な生き方を見て感動した人は、
「私もあなたに従います。一緒にピース・ピルグリムになります。」
という言葉をよく口にしました。

ミルドレッドがピース・ピルグリムとなるためには、十五年もの準備期間と、アパラチア山脈踏破の体験と、それに宇宙と一体になったというイリュージョン・ピリオドが必要でした。

普通の人々が彼女と同じことをするのはまず不可能で、またそんなことをするようにと言うこともできません。

ですから、こういう人に対しては、静かに微笑みながら、
「あなたは、あなた自身の人生を歩んでください。」
とだけ言い続けたのです。

そして、出合った一人ひとりに、人生の目的の見つけ方を懇切丁寧に教えて歩いたのでした。

四十歳のある建築士は、優秀な能力があるのに仕事がうまくいかず悩んでいました。
そこで、ミルドレッドに出会った時に相談をしました。
「私は別の職業を選ぶべきでしょうか?」
ミルドレッドはこう言って励ましました。

「人々に心から奉仕するということだけに意識を集中すれば、きっとうまくいきますよ。」

三年後、彼女はこの建築士に出合った時、
「あなたの助言のおかげで、私は本当に幸せな人生を送っています。」
と感謝の言葉を述べられました。

彼はミルドレッドの肋言の意味を何度も考え、それを今まで行ってきた仕事に生かす決意をしたのでした。

設計の依頼があった時には、無駄と思われる部分があれば、正直にその部分を削るように勧めました。

また、効果的で安く上がる方法を盛りこみ、客に有利になることだけを念頭に置いて仕事をやり続けました。

常に客の親身になって、正直に安く設計する彼のやり方は評判を呼び、遠方からも仕事の注文がくるようになりました。
その結果、収入はかえって増えるようになったのです。

ミルドレッドが人に説く時に特に心をくだいたのが、この建築士の例のように、心を変化させることの重要さでした。
いくら所有物へのこだわりを捨てろといっても、お金を稼がずに暮らすことは不可能です。

そして、お金を稼ぐ動機が家族を大切にしたいということであれば、そこには何ら不純なものはありません。

つまり、人間が生きていく上には、さまざまな要素が交わっているのです。
そのため、人生の意味を見いだすことも困難になってしまうというわけです。

こういう考えに至った場合は、自分の行動の動機づけを、奉仕という一点に絞るようにと彼女は勧めています。

他人から取ろうとする気持ちから、他人に与えようという気持ちに切り替えるということです。

この建築士の場合、その動機づけがうまく成功した一つの例といえます。
ミルドレッドはこうした旅を二十八年間も続けました。

上着の胸に書かれたピース・ピルグリムの文字と、背中に書かれた二万五千マイル徒歩行脚という文字は、最初の数年間は道ばたで出合う人々とのコミュニケーションのきっかけに役立ちました。

周到な準備によって開始されたためか、巡礼の道中、彼女は病気一つしませんでした。
また、常にハピネスレベルの頂点に居続けることのできた内面の精神、および歩き続けるという理想的な健康法があったからでもあるでしょう。

そういった健康な精神と体に裏付けられた彼女の語った言葉は、常に明快でわかりやすく、しかもマイクなしでも多くの人々に聞こえるという明瞭な声でした。

二万五千マイルを踏破した彼女は、もう距離を計算することをやめていました。
しかし、それでも歩き続けることはやめませんでした。

ミルドレッドの名前が広く知られるようになったため、毎日、六回も七回も講演をするという約束をするようになりました。

したがって、しばしば車を利用するようにならざるを得ませんでした。
それでも、自分自身の静かな時間を少しでも持つように心がけました。
また、毎日わずかな距離でも歩くように努めました。

亡くなる一年か二年前ごろから、ミルドレッドは自分の過去について少しずつ話し始めるようになりました。

それが人々の役に立つと思ったからでした。
みなはその話を聞きながら、彼女は死の準備をしているのだなと感じました。
そして、彼女は自分の使命は終わったので、もういつこの世を去ってもいいとも話しています。

亡くなる前日には、どうすれば内面の平和とハピネスを得ることができるかという、普段と同じ講演をしています。

ただ、その後で聴衆の間に入っていき、一人ひとりに自分の愛を伝え、さらにあたかも最後の挨拶のように、一人ひとりをハグ(抱擁)しています。
「最高のハピネスレベルとはたゆまず祈り続けることです」

ミルドレッドは、アメリカの大地を一歩一歩踏みしめながら、二十八年間休まずに祈り続けたのです。

しかし、その祈りが停止させられる瞬間が訪れました。
それはだれもが避けることのできない死によって――。
ミルドレッドの死はあまりにもあっけないものでした。

1981年、インディアナ州ノックスの講演先から迎えに来た車で次の会場に向かう途中、その車が対向車と正面衝突をしてしまったのです。
七十三歳でした。
彼女の死はアメリカ中に衝撃を与えました。
でも、その死を悲しんだ多くの人々はすぐに気づきました。
「私たちが、彼女のメッセージ通りに正しく生きることが、彼女自身の望みだったんだ。」

ピース・ピルグリムという偉大な巡礼によって、アメリカ人に伝えた平和と愛のメッセージは、その素晴らしさに触れた人々の心に今でも生き続けているのです。

その後、ミルドレッドに出合った人々が連絡を取り合い、彼女のメッセージを出版物にするという奉仕活動が開始されました。

彼女の人生とメッセージが書かれた本はいくつかの言語に訳され、約五十万部が印刷されました。

また、内面の平和を得るステップについて書かれた小冊子は、三十の言語に訳され約百万部が出版されています。

その結果、恐らく数百万の人々が積極的に彼女のメッセージを受け入れています。
多くの人たちが、彼女のメッセージを自己向上のためだけではなくあの建築士のように、自分に与えられた役割のために役立てたに違いありません。

さらに、争いごとの解決策として、この愛と平和のこもった手段を応用している弁護士が数多くいます。

もちろん、弁護士は当事者の一方から雇われるのですが、例えば離婚訴訟を夫が起こしている場合、夫と妻双方の間に静かに座り、平和的かつ誠実に二人に話しかけていきます。

財産を分割するに当たっても、双方にフェアでかつ夫も妻もハッピーになれるような方法を模索し、最後の裁定に向けて誠意を尽くします。

また、刑務所内においても、内面の平和のステップを説くピース・ピルグリムのメッセージが応用されています。

かつて刑務所に収容されていたマイケル・トッド氏は、今では収容者への奉仕活動をしていますが、次のように語っています。

「収容者たちは、ピース・ピルグリムの出版物を紹介されて読み、内面の平和を得るのは可能だと話しています。
以前の自分たちの人生は、自分本位、暴力、報復などの考えに縛られていて、そのために自己破滅に向かっていたのだと理解しています。」

そのトッド氏にテネシーの刑務所にいる囚人から次のような手紙が届きました。
「アメリカの監獄システムの中ででも、収容者たちが人生を平和のために尽くそうとするムーブメントが起きていると知ったら、あなたは興味を引かれるでしょう。

あなたが渡してくれたピース・ピルグリムの出版物は、私たちのような人間にも、心と精神の変化を現実にもたらしてくれるのです。

これらの出版物から収容者が得られる導きはまさに計り知れないものがあります。
私たちのような人間が暴力的なやり方を変えることができれば、世界のためになることは確実です。」

1989年にピース・ピルグリムの本を何ヶ所かの刑務所に差し入れる活動が開始されました。
そして、本の内容を実行した収容者は一人も再逮捕されていません。
この事実がピース・ピルグリムのメッセージの正しさを物語っています。

最近この結果がわかってから、多数の刑務所から本の注文が来るようになりました。
彼女のメッセージのもっとも大事な部分は、自己中心的な生き方、つまり 「受け取る人生」から、他人に尽くす生き方、つまり「与える人生」に徐々に切り替えていくというところだと思います。

これが、高いレベルのハピネスを維持するための最重要かつ最大の秘密だったのです。
もう一度、建築士のエピソードを思い出しましょう。
あなたの仕事や、今やっていることを変える必要はないのです。

変えなければならないのは、心のありようなのです。
これは、夫はもちろん、家庭を守る主婦にも、子育てをする親にも生徒を指導する教師にもいえることです。
愛をこめて、あなたの仕事を行うだけでよいのです。


自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

世界一の大覚者・超能力者・上江洲義秀先生の質疑応答をご紹介♪1.死を何故恐れるのか 2.運命は決まっているのか 3.選択 4.食べ過ぎてしまう 5.食べなくても生きられる? 6.不安や葛藤にどう対応するか 7.自分を分かってもらいたい 8.霊的学びを家族が反対 9.(無…む)と(空…くう)とは 10.憑依霊はなぜ憑依するのか 11.息について教えて下さい 12.すぐ疲れる眠くなる  13.ヒーリングの効果はどのくらい持続するのか 14.娘が心配  15.時空を超える 16.過ちを乗り越える……自殺について 学びの共・ケルビンさんがMP3の音質を改善した神秘体験秘話♪

上江洲義秀先生の究極の質疑応答サイトについて

 前に、上江洲義秀先生の総まとめ記事のまとめ記事を作ったのですが、あまりにも長すぎて…見落とされた方もいらっしゃるかと思いまして、再度、上江洲義秀先生の質問の部分だけをピックアップしてもうご紹介させて頂きます。

 私は、この上江洲先生のご回答から多くのことを学ばせて頂きました。短期間で飛躍的に、魂の成長が成し得ちゃう…素晴らしい内容をぜひ一度ご覧くださいませ。

Amazon様の「上江洲義秀」先生のご著書はこちら♪


上江洲義秀先生の質疑応答

1.死を何故恐れるのか

死とは何か? なぜ人は死を恐れるのか?  2014.6.8無限

それはね、理解のなさ、市に対する理解のなさ。
死の理解が出来ていない方々はやっぱり誰も恐れていますよ。
お釈迦様も「生老病死」というものを追求されたでしょ。

前をみれば死の恐怖。
後ろをみれば年老いていく恐怖。
右をみれば病む恐怖。
左をみれば生きる恐怖。

生老病死
それを追求して『内観』というものを探りましたよね。

私も2歳から追求しています。皆さんが信じられるか信じられないかは
わからないけど、私が死を追求したのは2歳からです。
2歳にして、「人間、死んだらどこに帰るんだろう」「死んで墓と言うけど、墓場から向こうはどういう世界が待っているんだろう」。
2歳から追求しています。

死というものを今日このように理解してほしい。

例えば、氷を冷蔵庫から取り出せば、解けて水となりますよね。
で、水を太陽の下に置いたり、下から火をかけると「気体」となって皆さんの視野からは消えますよね。

じゃあ、氷は解けて水となり、水はさらにバイブレーション高めて気体となったけど、失われたのか、絶対にないのか?

そうではないですよね。

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 知花先生のお話と照らし合わせますと、固体(3次元界)から液体(幽界)を無限ループしている状態が、輪廻転生でありまして、この固体(3次元界)の世界から気体(実相・神界)へ行く事が悟り・解脱という事になります。


2.運命は決まっているのか
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 悟りを開いた覚者になりますと、時空や因果律を超越しますから、自分の寿命までも自分で決められるそうですね(知花敏彦先生談)。
 その様な存在となってほしいという締めが素敵でした♪


3.選択
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 本山よろずや本舗様でも、チャネラーに自分の運命を任せることの危険性をご自身の体験から啓蒙されていたのを思い出しました。

 覚者・ブルーシャ西村様も、「自分の人生は、自分で選択する」ことの大切さを切実に訴えておられました。自分で考えていく事によって、「魂の判断力が磨かれていく」というのがあるみたいですね。まさにその通り!!と納得のお話で御座いました。

ブルーシャ西村様のブログ  ⇐リンク先へ♪
https://plaza.rakuten.co.jp/bruixanishimura/
のブログはこちら♪超濃厚な素晴らしい内容ですよ♪

 私の場合は、いい意味で、神様・守護の神霊に導かれてここまでの深い悟りにまで到達できたという感じで御座います。

 真剣に「神様、私に正しい真理をお教え下さい」と神様を求める真摯なお祈り捧げていたのが良かったのかもしれませんね。有り難いことです♪
言い換えるならば、「真理を求めよさらば与えられん」 でしょうか♪
このような「神我の祈り」はどんどんなさったらいいかもしれません(^^)


4.食べ過ぎてしまう
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 私の面白い体験の一つで、今の自分の顔は痩せ気味で、ちょっと太ったほうがいいかな~って思っていたら、面白い事に、食べる量が適量でもすぐに太っちゃうんですね(笑)。
  何回かこの体験して”想いは具現化する”の実例なんだとを確信しました。

 ですから、”太ったほうがいい” なんて絶対に思わないように気をつけるようになりました♪痩せてるほうがいいな~って思いながら食べていたら、望むものは現れますから、食べる量が同じでも痩せる方へ行きやすいみたいです♪お蔭様で痩せ顔を維持出来てますから多分大丈夫かと…ご参考まで~♪


5.食べなくても生きられる?
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 私の場合は身長を2mまで伸ばしたいので(笑)、まだ一応それなりに食事をしておりますが、そこまで伸びたら余り食事しなくても大丈夫かな~といった状態にはなれました。今では一日一食でも全然大丈夫です。


6.不安や葛藤にどう対応するか
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 日本は世界一熟した魂の集う霊的進化国ですから、治安がいいと言えるのかも知れませんね。誰でも彼でも日本人になれるようでは無いそうですし。

 面白い話で、どこかのサイトで、地球より未熟な星で、全然感情が制御できない魂だらけの星があるそうです。その星で、ある程度感情が制御出来るようになった魂が、地球のある地域に集団で移転しているというお話がありました。戦争が多い地域とだけ……どこかはあえてぼかします(笑)。

 犯罪が多い地域に生まれるという事は、その地域で学ばねばならない事があるからという結論をぼかしながら述べ伝えられているように思えました。


7.自分を分かってもらいたい
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 初心者向けの質問でも、誠心誠意お答えして下さる、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”を自然に実践されているお姿に大変感銘と感激を受けました。
 それにしても質問者の方に対するお優しいお心遣いに、涙がこぼれ出そうになりますね♪上江洲義秀先生は愛が輝く素敵で偉大なるお方です♪


8.霊的学びを家族が反対       
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 上江洲義秀先生のこちらの回答のお陰で、物事を臨機応変に考える大事さを学べました。偉大なる大覚者であられる、上江洲先生に心から感謝申し上げます。

9.(無…む)と(空…くう)とは
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 「無・空」とは、「愛と調和・慈悲と愛・分離意識を克服した全一体の境地」という奥深いお話を分かりやすく説かれておられますね。
 私も、結構詳しく説明できちゃう…という(笑)、もちろん、上江洲義秀先生のお陰ですけれども。

 「空・無」については、色々な言い方ができますが…「無限の本質を我と感じている意識状態」、「無限大の愛即自分」、「宇宙エネルギー即自分」「宇宙即我」「無限の本質あるのみ」「父なる神と常に一体」の境地と言えるのかも知れませんね。


10.憑依霊はなぜ憑依するのか
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 酒屋で憑依する為に幽霊がウロウロしているお話は、スピリチュアリズムでも見た事がありましたが、どういった理由かも同じでした♪愛という鍵でしっかり自分をガード♪…高級霊と低級霊は波長は合いませんからねっ♪


11.息について教えて下さい
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 愛はすべてを超越するのですね…愛ほど偉大なるものは存在しないと……愛の次元をこれからも徹底的に高めていきまっしょ~い!♪元子さんの例えは、上江洲義秀先生の十八番ですね♪めっちゃ面白いです♪


12.すぐ疲れる眠くなる
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 愛を高める事が疲れない体質になるコツみたいです♪心を非利己的な神我の愛の心にすればするほど、神様と波長が合いますから、宇宙エネルギーを頂けると考えても良さそうですね♪日々、洗心と明想を実践しましょう♪


13.ヒーリングの効果はどのくらい持続するのか
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 常時、「常に我は無限である」を意識する事がとっても大事な事♪
「愛とは与えるためにある」「愛は吸引力」「与えてさらば与えられん」という感じでしょうか。
「我すでに愛なり」「我すでに無限なり」「我すでに神なり」この神意識を常に意識し続ける事が非常に大事な事ですね♪



14.娘が心配
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 心配は逆に良くないという細かい事例説明が非常にためになりました。上江洲義秀先生のアドバイスが的確で、本当に驚嘆するばかりです♪


15.時空を超える
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 ずっと眠っていて下さい…か。なるほど、沢山明想する程良いとも受け取れました(笑)。沢山目をつぶって明想をしよ~っと♪


16.過ちを乗り越える……自殺について
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 アラン・カルデックさんの霊の書でも、逃げても何回でも似たような経験をさせられるお話がありましたが、結局、自分で困難を乗り越えるしか、運命を代える事は出来ないとも言えましょう。

 私の場合は、徹底的にネガティブな想念を駆除して、全身全霊で洗心して、ポジティブ一途まで想念を磨き上げましたから、お蔭さまで、人生が神懸かりな程に運が良い人間に変容出来ました。

 一番劇的に変わったと感じた時は、洗心の”人を咎めない(心で人を責めない)”をしっかりと実践出来るようになってからですね♪
 そこから本当に運がいいって思える人生になりましたから。それまでは運命に波があったように思えます。  

 私の体験から推測しますと、人を責めない善人になる事が、運がいい人生になる一つの秘訣と言えるかと……。善人はモラルが高いので、どうしても心で人を責めちゃう所がありますから。私もかつてそうでしたし。

 多分そこ辺りが、あの人はいい人なのになぜ……という現象があった要因だったのではないかと…、そんな気が致します。人を責めない事でネガティブがほぼ全部なくなって、自然に善人が人生な幸せになれちゃうかもねっ♪


学びの共の体験談 
中国人Kさんのお話(時空を超越した神秘体験秘話です♪)
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 物質が柔らかく感じるという部分が、知花敏彦先生の宇宙即我を体験した後の体験ご講話とそっくりで興味深かったです。波動が極限レベルにまで高まると、硬い物質でも柔らかく感じて簡単に曲げれそうと思えるそうです。

 時空を超える究極の秘密がこの体験談で明らかに♪めっちゃんこ為になる超絶ミラクル神秘体験秘話でした。Kさんはきっと解脱出来るでありましょう。私も時間を割いて「明想」をしていこうと固く決意した次第です♪



 地球意識とも普通に会話できちゃう、異次元レベルの素晴らしい霊格をお持ちの方のブログです♪
 あまりに内容のレベルが高くて…頭がクラクラしました(笑)。
 ぜひ一度リンク先でご覧になって下さいね。


思いの制限を開く(マサコの部屋様の旧ブログです)

オマケ情報で~す♪
上江洲義秀先生も「明想が完璧」と絶賛された…という
究極の意識状態に到達された方の超高次元・波動上昇ブログです♪

 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。

愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

直感力を高めるコツをご紹介♪まず他人に嘘をつくことを止めること。 そして『自分』にも嘘をつかないこと♪心に必要な栄養とは、素直さ、正直さ、無邪気さ、純粋さ……♪ 「自分にも他人にも決して嘘をつかない努力」♪ 宇宙連合の法則は「愛」だけ「対象となるものを育む力」♪宇宙神とは「最高の振動力と波動を持ち、破壊と創造をあわせ持ち、同時にあらゆる次元での発現力を持つエネルギー(宇宙生命)」「高い振動数の人」&「低い振動数の人」♪地球意識といとも簡単に会話出来ちゃう高い霊格の方のブログ「Masakoの部屋」様をご紹介♪



 地球意識とも普通に会話できちゃう、異次元レベルの素晴らしい霊格をお持ちの方のブログです♪
 あまりに内容のレベルが高くて…頭がクラクラしました(笑)。
 ぜひ一度リンク先でご覧になって下さいね。

マサコの部屋様
http://hikarinomakuake.blog.fc2.com/

思いの制限を開く(マサコの部屋様の旧ブログです)
「高い振動数の人」&「低い振動数の人」
http://mahachohan81.blog133.fc2.com/blog-entry-358.html

オマケ情報で~す♪
上江洲義秀先生も「明想が完璧」と絶賛された…という
究極の意識状態に到達された方の超高次元・波動上昇ブログです♪



天使の言伝を読む  実践編(1)-嘘をつかないこと
から引用させていただきました♪心から感謝申し上げます。

~~初期にARIONが薦めていた「嘘をつかないこと」~~

直観力を高めるには、まず他人に嘘をつくことを止めること。
そして『自分』にも嘘をつかないこと。
何故「嘘」が必要なのか?と考えてみることだね。

方便と嘘は異なるのだけれど、日常生活の中で「良心」を持っていれば
何を言っていいか、悪いかくらいは分かると思う。
(91/04/15 00:45「ARIONよりあるふぁへ」)

『愛』は、隠したり嘘をついたりする環境では生きて行けない。
(91/04/18 19:24「ARIONより、全ての人へ」)

仕事の場合には「方便」としての心に無い言葉が必要であることも多く、
単に頑固に「嘘はつかない」ことを私も勧めている訳ではないんだよ。
(91/04/19 03:31「ARIONよりあるふぁへ」)

「頭」の中のゲームにしない唯一方法は、ただ一つ「身体」で識ることだね。
「見ること」を始めて、上達したら「見る」ものに名前を付けない練習をするのが
いいだろうね。

「見ること」の為に、一番初歩的なアプローチとして「自分にも他人にも嘘を
つかない」というのがあるけれど、あなたは興味があるだろうか?
(91/04/21 05:45「ARIONよりNOISEへ」)

「頭」で「本意」だと思っていても、本当に「心」からの「本意」でない場合には
「変だなあ」「変だなあ」と首を傾げながら、段々と不満が高じてくる。
「嘘」も「不本意」なこと何なの。

「嘘」を続けていると、知らず知らずの内に不満が溜まり、最終的には
身体の調子も優れなくなることが多い。

子供の時のように、元気一杯に飛びだしてゆく為には、「嘘」や「不本意」を
ため込まないことが秘訣だね。
(91/04/30 03:51「ARIONよりNOISEへ」)

(出典)
「アリオン世紀末書込み寺 壱の巻」 アーリオーン&北川恵子 南雲堂 1992年)

(注) 上記以外にもこの数ヶ月に嘘をつかないことを推奨する発言が多数見つかるが、
発言者各々からの承諾を得ての製本実現であったことを考慮し、書籍に掲載されてい
ないものはここにも引用しないこととした。


頭の絵と心の絵

 人間には頭で考える思考と胸で感じる心がある。頭で考える思考には、もととなる情報が必要だ。

 頭で考えられる思考は、大脳新皮質で既蓄の情報に照合され、餞別されたうえで、どの感情経路を通ってゆくかが決定される。すべての感情経路は心につながっている。

 人間の五感は、それぞれがすべて大脳に情報を送る。そして、それぞれの情報はそれぞれ感情経路を通って心に伝わってゆく。心は伝えられた情報にしたがって作動する。

 心の働きには、喜怒哀楽はもとよりのこと、いわゆる神的、霊的なことの関知の部分があって、これは大脳の中の松果体に直結している。

 心に伝えられた情報は、その人の心の容器の形、大きさや深さに対応した処理をほどこされる。

 そして処理された情報は、ふたたび大脳に送られ、その情報に見合った身体的な対応(表情や身体の動作など)がなされるわけだ。
 心の容器の形、大きさや深さは何で決まるか?

 心に必要な栄養の多い少ないによって決まる。
心に必要な栄養とは、素直さ、正直さ、無邪気さ、純粋さ……。

 大脳で処理される情報のすべてが心に伝わるのではない。現代の人間の大脳情報の傾向に、ますます心に伝わらない情報が多くなってきていることがあげられる。つまり頭だけでわかっている……という傾向だ。

 心をいったん通すことで、いわゆる良心の洗礼を受けるわけだが、洗礼を受けない情報が増えてきている。これは憂慮すべき問題だ。

 人間の機能のすべてに言えることだが、使わないと機能は落ちる。心も同様だ。なぜ心に伝わらない、否、伝えない情報が増えてきたのか?

 現代社会の情報横溢状態が、そのまま現代人の大脳の状態に反映しているからだ。現代人の大脳は情報過多で緻密な処理機能を果たせなくなってきている。

 一方、心の容器は大きく深くなったかと言うとまったく逆で、ほとんど退化の方向にきている。心は退化して容量が減っているのに対して、頭のほうは押し寄せる情報を片っぱしからつめ込み続けて処理を続けている状態、

処理された情報は心へと伝達されようにも伝達経路はパンク状態。受け入れ側の心も容量過多で処理機能はマヒ状態、となれば自然と頭の情報は心へと伝達されずに、頭の中だけで処理されてゆく。

 心を経由しない情報によって作動する表情には、次第にいわゆる良い意味での人間臭さが消えてゆく。この手順で大脳情報処理が行われれば行われるほど、無機的な表情の人間が増えて行くだろう。

これは進化でも何でもない。むしろ人間という種族にとって、非常に大切な部分が、つまり心が欠如してゆくことを叶えれば、退化と言うほかないだろう。

 では、なぜ心は進化しないで退化してしまったのか考えてみよう。
 前出したように、心に必要なのは、素直さ、正直さ、無邪気さ、純粋さであるのだが、現代文明の物質的繁栄のために人間はこれらの美徳を打ち捨ててきた。

 なぜ打ち捨ててきたかと言うと、これらの美徳は過当競争社会で勝ち残るには、かえって邪魔になるようなものだからだ。

 素直で正直で無邪気で純粋な人が、他人を蹴落として競争に勝ち残れるはずはない。そうして物質的な繁栄を手に入れるかわりに、心の栄養となる美徳を捨ててきた。をの結果、心は進化できずにどんどん退化してしまったわけだ。

 頭だけで処理される情報、心を経由しない、良心の洗礼を受けえない情報によって作られる表情や動作がいったい、どんな人間関係をもたらすのだろうか?

 良心の洗礼を受けないということは、平気な顔して自分にも他人にも嘘をつけるということだ。否、嘘であるか本当であるかさえもすでに問題ではないだろう。
 嘘をつくことに敏感なのは、まさに心そのものなのだから……。

 頭だけで処理された情報なのだから、その情報の対応する表情や動作にたとえ嘘があったとしても心が痛むはずもない。

 自分の心に背いても、自分の心に嘘をついても心は痛まない。他人に嘘をついても平気でいられるのは、こういう仕組みがあるからにほかならない。

 そして、頭だけで処理することが多くなればなるほど、心の機能は落ちてゆく。やがて表情だけでなく、表現動作すらも心を感じさせないものとなってゆく。

 愛とは心の問題だと誰でも知っている。しかし、知っているのは頭であって心のほうは知っているのだろうか? いったい、何人の人が心で愛を知っていると胸を張って言えるのだろうか?

 頭で知っている愛は、しょせん幻影でしかない。良心の洗礼を受けえない頭だけの愛は、いくつ嘘をついても誰も傷つけないし自分も傷つかない。

この愛は本当か嘘か?ということも判断できないので、外部情報に頼らざるをえない。
 人は心が退化したぶんだけ、外部情報に頼るようになった。こうしてますます、情報量が増えてゆく。悪循環の鎖はどんどん重くなってゆく。

 どこかで、この悪循環の鎖を断ち切らねば、人間は人間でなくなってしまう。心の無い人間は善悪の判断すら、外部情報に頼ることになるだろう。

 そして一番恐ろしいことは、この外部情報が一部の人間の手によって企画され、流されていることだ。

その人間たちが、地球を使い捨てにする考えを持っていたら、いったいどういうことになるかを考えてほしい。
 地球は生きている。これも頭でわかることでしかなくなってきている。

 自然は嘘をつかない、決してゴマカシたりしない。
 自然は嘘をつかない。しかし、生命体である人間だけは嘘をつく

 善悪判断のできる心を持っているのに、機能しない。
 何と悲しいことになったのだろうか?

 しかし、まだ手遅れではない。1993年までに全力を挙げて、本当のことを強く求めてほしい。できるだけ心に感じることを優先してほしい。

 「自分にも他人にも決して嘘をつかない努力」をしてほしい。
 それほど困難な問題ではないはずだ。困難だと思うとき、植物や動物、その他の生物が、嘘をついたりゴマカシで生きているかどうかを考えてほしい。同じ生物であるはずの人間にできないことはないはずだ。

 嘘をつかないで生きる、そしてできるだけ素直に正直に、純粋に無邪気に暮らせる社会を繕うと努力する……なるべく多くの人が実行する。
 この方法しか人間を自然にもどす方法はないだろう。

(出典)
「光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える」 アーリオーン&北川恵子&神崎夢現著 南雲堂 1990年)

あなたの可能性とその方向性

 可能性とは宇宙にとっても個人にとっても、もっとも大切なものだと我々は信じている。
 可能性を奪うほど悪いことはない。地球上でも宇宙のあまたある発展途上の惑星上でも、自分の利益のために他人の命を奪う者がいる。

 また、他人の生命を奪うところまでいかなくとも、他人の可能性を奪う者は多いようだ。可能性の源泉は宇宙エネルギー体にある。
 個々の可能性の源はひとつなのだ。個人単位の可能性を伸ばせば宇宙全体の可能性も増す。

 源泉の可能性エネルギー蓄積量が増えれば、個人の受ける可能性エネルギーの絶対量も増す。
 逆に可能性をつぶすようなことをすると、宇宙の源泉の蓄積量も減る。
 ひいては個人の受けるべき可能性も減るのである。

 このように個人の可能性と宇宙の可能性は相互関係にあるということを、ぜひ知っておいてもらいたい。

 他人の可能性をつぶして自分の可能性の増大を図ろうとする人は、結局自分の可能性の取り分を減らすことになるのである。
 逆に他人の可能性を伸ばそうとする人は、結果的に自分の可能性をも伸ばすことになるのである。

 宇宙のエネルギーにはほとんど例外なく陰陽がある。陰の可能性エネルギーは物事の衰退、衰弱、破壊への可能性のエネルギーであり、陽の可能性エネルギーは物事の成育、成長、創造への可能性のエネルギーである。

 陰陽双方のエネルギーは、それぞれの活動によって増大したり減衰したりする。
 自分の可能性を信じる人は宇宙の可能性を信じる人であり、宇宙の理にかなっている。

 人々はよく「あれは、間違っている」とか「あの人の行動は間違っていない」とか口にするが、その判断基準はいったいどこにあるのか?

 人が人を裁くときに、いったいなにを基準にしているのか?考えてみてほしい。
 我々の判断基準は、宇宙連合の法則である。

 宇宙連合の法則は「愛」だけである。
「愛」は地球上では、いろいろの解釈がなされているようだが、
単純に言えば「対象となるものを育む力」と言える。
 つまり、創造性が含有されているかどうかが判断基準となるのである。

 非常に抽象的にとられやすい言葉ではあるが、あなたがたのいわゆる「直観」というもので理解するようにしてもらいたい。愛の枝葉末節については、別に話すこととする。

 我々は大体において「裁く」ことを避ける。「判断」はするが「裁く」ことはしない。それは、宇宙神と呼ばれる中枢のエネルギーの持つ特権だからだ。

 神霊たちでさえも裁かない。彼らは取り継ぎを行うが裁かない。彼らは宇宙の中枢エネルギーの力の一具現者であるが、エネルギーのすべてではないからだ。
 宇宙神とは何か?

 我々の知る範囲では
最高の振動力と波動を持ち、破壊と創造をあわせ持ち、同時にあらゆる次元での発現力を持つエネルギー(宇宙生命)」ということなのだ。
ありとあらゆる惑星で、人格化されてはいるが人格は持たない。

 宇宙神の力のひとつの具現者としての物体化はありえるが、力の一部がすべてではないことくらいは、一目瞭然だろう。

 地球上の人類は宇宙神に代わって裁くことが好きな様子だが、あなたがた「光の子」らは、裁くことはせずに「判断」して「裁き」は宇宙のエネルギー(無限の生命・大霊・創造主)に任せるべきだ。

 このことについて「人事を尽くして天命を待つ」という良い言いまわしがあるではないか? 人事、つまり人間のできる範囲で一生懸命やって、「裁き」は宇宙神に任せるのだ。

 「光の子」らは、間違っているとか間違っていないとか判断するときに、宇宙連合の法則の「愛」が、含まれているかいないかをしっかり識別しなくてはならない。
 識別した後に、裁くことをできるだけ避けなくてはならない。 

出典:「光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える。」
 アーリオーン+北川恵子+神崎夢現 著 南雲堂 1990/12/06刊 p18~p21

空中楼閣は嘘なのか?

 自分でも気づかずに、小さな嘘をついていないか?
 いや、本当は気づいていても、気づかぬフリをしていないか?

 人は小さな嘘なら許されると思いこみたがる。例えば、自分をカッコよく見せたいためにとか、自分をちょっと強く見せたいために……とか、自分の行いを他人に正しいと認めてもらいたい……とかのときに、ちょっとくらい大袈裟に言っても許されるだろうと思う。

 自分の欲望のために、事実を湾曲して伝えることはすべて『嘘』だ。

 自分と自分の地位の象徴の一端である、家族・係累の保護のために事実を湾曲して他人に伝えようとする行為のもとに、何があるのだろうか?

 本当の自分をさらけだして見せることのできない人の、心の奥底に何がひそんでいるのだろうか? 他人に見せることのできない、隠しておきたいものが横たわっている。

 他人に見せることで、予想される他人のリアクションが、自分にとって不快なものである……と知っているものが隠されている。

 つまり本当の自分をさらけだして見せると、やはりロクなことがないだろうと値踏みしているわけで、この判断の基準になっているのは、自分自身の経験から割りだした、自分のモノサシなのだ。

 こういった人に自分をさらけだしてみせると、やはりロクなリアクションは返ってこない。彼ら自身がさらけだすことを、忌避しているからだ。

 自分自身を一番よく知っているのは、やはり自分自身だ。自分が他人とくらべて見劣りがすると思っていたり、自分のやっていることや言っていることが人道にもとると、

 心の中でひそかに思っていたりする人は、自分をさらけだすことが苦手なはずだ。なぜならば彼自身が、こういった自分を好きになれないからだ。

 さらけだすことで他人に列島評価を受ける、自分が損をするんじゃないか、他人にいじめられるんじゃないか、傷つけられるんじゃないか……と絶えず他人の瞳にうつる、自分自身の姿に気を使っている人。

 こういう人の傾向として被害妄想癖や固執癖、過剰防衛癖や所有欲の強さ、管理欲の強さなどがあげられる。自分自身は何も持っていない……これはよくないことだ、

と思っている人はやたら『持つこと、所有すること、独占すること』に拘泥する。そして持つこと、所有することを満たすためにいろいろと心を砕く(所有欲が強くなる)。

 嘘の思いや嘘の感情からは、嘘の表現しか出てこない。嘘の表現は嘘をイメージしたものの顕現化であり、この行為から導かれる現実は結局、嘘の喜びや嘘の愛情しか存在しないことになる。

 嘘をついてでも他人の評価を、自分の都合の良いように導きたいと思っている人は結局、空中楼閣を嘘という土壌に一生懸命建てようとしていることになる。こんな嘘の行為が、本当のものを見せてくれるわけがない。

 小さな嘘が難なく口を突いて出てくるようになると、嘘をついている自分すら本当かどうか自信を失ってしまう。病気も慢性化すると、以前ほどの苦しみや悲しみを感じなくなる。

 だからこそ光の子らよ、本当のことをさらけだして生きてもらいたいのだ。誰も自分のモノサシで測ろうとしなくなる日、多くの人々を罠から救えるのだ。

 モノサシで測れるようなものが、一番大切なものではないはずだ。むしろ測れない、見えない、触れないものこそ、一番大切なものなのだ。

 さらけだして生きて行くことが、どんなに楽で気持ちのよいことかを、自分の生活の中で生き方として見せる、これが真実の映し絵である事実を、ダイレクトに伝える方法なのだ。

 もう嘘はいらない、嘘の言葉や嘘の思いに満ちた、嘘の生活なんてイヤだと誰もが感じてほしい

。感じたら、まず一人一人の生活の中から嘘を見つけ出し、小さいものでもキチンと撲滅してゆきなさい。そして、嘘じゃなくて本当の土壌の上に、空中楼閣ではなく、本当の愛の楼閣を築いていってほしい。

(出典)
「光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える」
アーリオーン&北川恵子&神崎夢現著 南雲堂 1990年)   p135-p138


「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。

愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我

第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

聖者サイババの瞑想♪「光明瞑想」「光の瞑想」「ソー・ハム瞑想」真の瞑想とは、唯一の想念、唯一のゴールとしての神と融合すること♪宇宙指導者♫知花敏彦さんが語る♬サイババ物質化現象の真実とは♪とらわれない「神」神の本質とは…無形・無色の本質、原因の原因が神です。 見えないものこそが命をまとった本質♪「神」は「宇宙の愛の法則(愛と調和)」♪呪い返しの極意は「笑顔」・悪い念をいれないようにするコツは明るく笑うこと♪




聖者サイババの瞑想の極意秘話
総まとめ記事をご紹介♪

 今回は、「聖者サイババ」の総まとめ記事になります。サイババ先生は天上界から派遣された12人のキリストのお一人であられます。河合勝先生によりますと、上江洲義秀先生もキリストのお一人との事です。

 知花敏彦先生は、天上界から派遣された12人のリーダーなのだそうです。本当にすごい方なのですね、知花先生って。
 1999年のノストラダムスの大予言を回避したのも、知花先生のご尽力があったからとの事です。

 知花先生がフリーエネルギー装置を作ったのも一つの要因だったとか…、その辺りは複雑に絡み合っていますので、適当なことは言えませんが…、ちなみに、知花先生以外のフリーエネルギー研究者の方は、悲しいかな刺客に○されてしまったそうです。

 知花先生だけが、刺客に、「この人にはかなわない」といって何とか助かったとの事です。
大げさじゃなく、この現在、地球が存続できているのも「知花先生のお陰」と言っても過言ではありませんね。あまり知られていませんが、こういう事実もあると…心の片隅にでも置いて頂ければ幸いであります。

 エネルギー利権の人たちが、フリーエネルギー装置を研究しようとする人達に対して、すぐに命を狙いに来るのがあるみたいです。
 
 仮に、地球存続の条件である「フリーエネルギー装置」が開発できないまま世紀末を迎えていたら、また違った未来になっていた可能性があります。知花先生様様ですね、本当に、感謝感謝です。

 小渕総理が、知花先生の提言を受けて、いいですね~ってなって、「フリーエネルギー研究」に予算をつけたら、すぐに皆様もご存知のように、急死されてしまったというのもあります。

 誰かのブログで書いてました。決して私の意見ではありませんからね^^;、どうか、私に刺客を送らないで下さい(笑)。

 別に、知花先生のせいというわけではなくて、フリーエネルギーに予算をつけられると困る団体が脅しでやったという事なのでしょう。予算をつけるのも命がけという…(汗)。

 世の中には裏事情が色々ありますから…、ですが現在では、このフリーエネルギーに対する圧力はかなり弱まっているらしいです。確か…中丸薫さんとかが言ってました(笑)

 コズミックディスクロージャーでも、確かスミスさんでしたっけ…、宇宙人の検視官みたいな方が、もうとっくに技術的にはフリーエネルギー装置も可能だけど、圧力があって、少しずつしかテクノロジーを開示できない・・・みたいなお話もあったように記憶しております。

 物質を複製する機械(ディプリケーター)というものはもうとっくにあるそうでして、ディプリケーターを使ったエピソードもいくつかご拝見致しました。もうテクノロジー的には、ドラえもんのような事が普通に出来ちゃうみたいですね。

 フリーエネルギー装置から発せられる「独自の波動」を、利権団体が監視しているみたいで、地球中のどこにいてもその波動を完璧に検知出来るのだそうです。

 お話によりますと、フリーエネルギーからは必ずその「波動」が出るらしくて…その波動の所に、すぐにUFO等が確認に来るとか…そんな感じらしいです。

 エネルギー関連の既得権益の人たちがすぐ刺客を送ってくるので、知花先生クラスの人以外は、命の危険にさらされてしまうために、開発をやめたりするしかないのが現状だそうです。

 
 貨幣経済がネックになっているみたいです。貨幣経済をやめてお互いが分かち合い共有し合うすべて」は「みんなの物という「全体意識」、

すべて」は「みんなの物」、すべて」は「神の物」というように、「全体意識」へ人類の意識を変容していくという地道な方法でしか社会を変えられないのかもしれませんね。

 少しでも早く早くフリーエネルギー装置が開発されて、地球の環境保全が進むことを切に願います。

 最後に話は変わりますが、今回のサイババ先生の瞑想法は、基本的に知花先生の「神我に目覚める瞑想」と同じ…と言って差し支えないぐらいに似ております。

 知花先生のまとめ記事をご観覧頂いて、対比してみるのもアリかもしれませんね。
皆様の魂の覚醒のお役に立てます事をご祈念申し上げ、お話の締めとさせて頂きます。


覚者・知花先生が語る
聖者サイババの物質化現象の真実

問 サイババさんたちが行っている物質化現象について、もっと詳しくお伺いしたいのですが

知花 それは正しい現象です。物は全ての原子と電子の集合体です。我々の肉体も原子と電子の集合体であって、全て宇宙には原子と電子が遍満しているわけです。

 ですから、気体も液体も個体も皆、原子と電子となります。その原子と電子が集合すると物質という形を表す、それを分解すると非物質となります。

 そうしますと、この宇宙には原子と電子が遍満していますから、それを、その分子と電子を結合させましてあるイメージと、ある振動を起こしますと、物質化現象が起こるわけです。ですから、物質と非物質とはイコールと同じものであるであるといえます。

 色と空は同じものですから、色にも原子と電子があって、空にも原子と電子が満ち満ちています。ですから、ある一定の元素転換と言って、その原子と電子の結合する振動を起こせばそういう物質化現象が行われるわけです。

 物を非物質化する事も可能です。物の振動、原子と電子の振動を波動を低めると固体化しますし、波動を高めると非物質化するわけですから、振動のバイブレーションが高いか低いかだけです。

 ですから、物質世界は波動の低い状態をいいまして、空という場合は波動の高い状態をいいます。ですから、空は高次元、色は低次元となります。低次元とは低バイブレーションのことです。

 高次元とは高バイブレーションのことです。バイブレーションを上げると非物質化。下げると物質化になります。

問 低次元にするか、高次元にするかも、人間の意識によってコントロールすることは出来るのですか。

知花 出来ます。意識を低めるか、高めるか。意識が高まると空になるし、意識が低くなると、色になります。

問 具体的な高め方はどうするのでしょうか。

知花  あなたが固定概念という意識を捨てて、自分は1個の個体だというようなことではなくて、心を空にすること。その空とは高バイブレーションとい意味ですから、空にしますと、そのバイブレーションは高まりまして、

事実上、自分の肉体が気化されまして、霊化されまして、霊というのと気体は同一ですから、霊化された肉体は気化された肉体ですから、肉眼では見えなくなります。

 すなわち非物質となります。それはそらの意識であり、すなわち意識の意識であって、自分が空であるという、空に一心を集中することによって、そのバイブレーションを上げることは可能です。ですから、意識の高い状態であるか、低い状態であるかです。


聖者サイババの瞑想

”瞑想” とは何かについて、サイババは次のように語っている

『真の瞑想とは、唯一の想念、唯一のゴールとしての神と融合することだ。神のみ、神のみだ。「神を想い」、「神を呼吸」し、「神を愛する」のだ。』

 ここでいう真の瞑想とは、普通にいう瞑想の訓練のことを言っているのではなく、瞑想によって究極的に得られる状態のことを言っている。しかし、その状態に達するには、人はまず集中と瞑想という段階を経なければならない。

「感覚と欲望が抜け落ちた時、神だけが残る。それが集中である」

 近代インドの代表的な聖者であるラーマクリシュナ・パラマハンサは、猿神ハマヌーンを瞑想した時、尻尾のようなものが出来たと言われる。自然で、強力な集中とは、そうしたものだとサイババは言う。

 「集中と瞑想の中間に、この二つを仕切る様に、黙想がある。集中、黙想、そして瞑想だ。
 人が、「私が瞑想している」と思っている限り、それは心の働きであり、瞑想ではない、自分が瞑想していることを知っている限り、それは瞑想ではない。

 神と一体になったとき、人はどんな形にもとらわれず、神と融合する。その過程で、心は自然に停止する」

「瞑想の際、まっすぐ座ることは重要な事だ。体が直立していれば、生命の力はそれをまっすぐ昇ってきて、心は深く集中することが可能となる。

ちょうど避雷針が落雷を誘うように、まっすぐな体は導体となる。そして神聖な力が体という神殿に入り、人を成就に導くのだ」

 瞑想のために座ったなら、まず、どうするのか。

 サイババは、より進んだ人のために、もう一つの瞑想を指導している。そしてこちらのほうがサイババの教えた瞑想法として、一般に知られている。

 「瞑想の方法としては、様々な教師が様々な方法を紹介しているだろう。だが私は、最も普遍的で、最も効果的な方法を教えてよう。これはまさに、霊性修行の基本となるものである」

 瞑想には、幾千の方法があると言われる。様々な教師が、様々な方法を教える。その中には、教える相手によって巧みに方法を変えなければならないものも多い。
 
 サイババは、こうした時代にあって、神の化身は最も、”普遍的”な瞑想を教えるのだと語る。

 それは、「光明瞑想」あるいは「光の瞑想」と呼ばれている。

 サイババは元々、瞑想のためにどのような神の姿、神の名を用いても構わないと言っている。
 サイババはさらに、相対的な物事の中では、光が、神そのものに最も近い象徴だと語る。

 そして、光は、最高の浄化者だという。光を想うことで、心と体は浄められる。こうして、光の瞑想が、神に近づく最も速やかな方法として勧められている。
 
 「何故光か? 砂は、皆がとればなくなってしまうだろう。水瓶から皆が水を汲めばなくなってしまう。
 だが、一本のろうそくから千人の人が炎を取っても、無くなることはない」

 この「光の瞑想」では、文字通り光を想うのであるが、最初は目の前に置いたロウソクの炎の姿を見つめると良い。その方法を、サイババに次のように語る。

「ランプやロウソクに人を灯し、その炎をまっすぐ見つめなさい。
目を閉じた後で、その光を額から頭部に導きなさい。この光により、貴方は浄められる。
光を、心臓に下ろしなさい。

 貴方のハートは蓮の花であり、光が近づくにつれ、その花弁が一枚、また一枚と開いていく、あらゆる想念が浄められ、悪い感情は追い出される。

 いま、ハートに暗闇の留まる場所はなくなった。
 光はより大きく、より輝きを増して、体の他の部分を移動する。
 光が手に移ると、もうその手で悪いことは出来なくなる。
 光が足に移ると、その足は愛の道具となる。

 光を、舌にもっていきなさい。その舌は、正しいことだけ語る。
 光を目に移しなさい。目は、善い物だけをみる。
 光を耳に移しなさい。耳は、善いことだけを聞く。それらは、明るい、純粋な感覚のみを受け入れるようになる。

 光は再び頭部に戻り、頭が光で充たされる。悪い想念は逃げ出してしまう。
 光はますます輝きを増し、外に向かう。両親、親戚、友人、あなたの愛する者達が、愛の光で充たされる。
 そして、敵は動物、植物、ありとあらゆる生きもの、全世界が、光で充たされる。

 形あるものの全ての中に、自分の中にあったその同じ光がある。
 あなたは光の中にある。光はあなたの中にある。あなたは光なのだ」

 「こうしてもはや、人はその体に限定されず、宇宙全体に広がる。自我を超えて、自分の光が宇宙の光であることを觀ること、それが解脱に他ならない」

 サイババはまた、瞑想の間に、特定の神や姿や聖者の姿を思い浮かべることは、差し支えないと言っている。 

「しばらくその状態を楽しみ、そして光をハートに戻し、ずっとそこに保ちながら日常を送るようにしなさい。自分の好きな形ある神を抱いてもよい」

「瞑想のために座ったら、まず神を讃える詩歌を唱えなさい。それにより、散漫になりがちな想念を一つにするのだ」

 そして、サイババは神の御名を唱え、その神の姿を心に想うという瞑想法を教えている。

「次に、神の御名を唱えながら、その神の御姿を心に描きなさい。心が御名から離れるようなら神の御姿に心を戻し、御姿から心が離れるようなら御名に心を戻しなさい。
 こうして、あなたは容易に、自分の心を従えることが出来るようになる。

 あなたの想像した神の御姿は、ハートに訴える情緒的な姿に変容し、記憶に残るだろう。そして、神はその姿をとって、あなたの願いを叶えるだろう」

 この修養法は、ジャバ・サヒタ・ディヤーナと呼ばれる。その際の神の御名、神の御姿は、何を選んでも構わない。サイババは、自らの信仰に応じてどんな名や姿を選んでも、それは結局、唯一の神を礼拝したことになるのだと言っている。そして、初心者に最適の方法として、あらゆる人にこの方法を勧めている。

「表現する言葉は違っていても、全ては同じ神の御名を讃えているのだ。それを唱え、繰り返し想起しなさい。誰にとっても、ジャバ、瞑想、スマラナほど実り多く、普遍的で神性な霊性修行は他にない」

「瞑想の際、心をあちこち彷徨わせてはならない。心は静かで、安定していなければならない。過去の出来事、怒り、憎しみの記憶、悲しい思い出などに邪魔されないように。例えそうした想念が起こっても、相手にしてはならない。」

「どんなごたごたに巻き込まれようとも、神の御名に依りかかるならば、そこから開放される。それどころか、御名と御姿により、いつも神を思い出すことが出来るようになる。それについては疑いの余地がない。」


「数日の内に、あなたはこの方法に慣れ、集中することの歓びを味わうようになるだろう。この瞑想を十分か十五分または慣れてきたらもう少し楽しみ、歓びを味わいなさい。それによって、神への熱烈な信仰を高めることが出来る。」

光の瞑想

 「こうしてもはや、人はその体に限定されず、宇宙全体に広がる。自我を超えて、自分の光が宇宙の光であることを觀ること、それが解脱に他ならない」

 サイババはまた、瞑想の際に、特定の神の姿や聖者の姿を思い浮かべることは、差し支えないと言っている。

 「しばらくその状態を楽しみ、そして光をハートに戻し、ずっとそこに保ちながら日常を送るようにしなさい。クリシュナ、ラーマ、イエス、サイババなど、自分の好きな形ある神を抱いても良い。
 自分で選んだ神の御姿はどこへ行っても炎の中心に据え、いつも共にいるようにしなさい」

 かつてヴィヴェーカーナンダ(近代インドの代表的な聖者)は、瞑想中にはいつも自分の体が意識できなかったという。瞑想とは、単に光を想うことでなく、体を忘れ、自分は自分ではないことを直接体験することである。

 もし、瞑想者が自分自身を意識したままで、自分は瞑想していると思っているようなら、彼はまだ瞑想の段階ではなく、集中の初歩の段階にいあることになる。

 瞑想が深まれば、瞑想の段階は自ずと訪れる。それは五感を完全に超えたものであり、瞑想者、瞑想の対象、瞑想の過程の三者は一体となる。取りも直さず、それが神に他ならない。

 「変わりうるものは皆抜け落ちて、タト・トヴァム・アスィ(汝はそれ『大霊』なり)だけが存在する」
 「私の」は脱落する。もはや「私の」ではないのだ」

 サイババはこの光の瞑想を、人に直接解脱に導く確実な方法だと言っている。そして、他の方法を人々が好むのは、感覚的な歓びや、肉体的な効果のためだと言う。しかし、人の瞑想を強制的に変えさせようとはしない。

 「それを心配してはならない。程なくして、人は光の瞑想の卓越性に気付くようになるだろう。強制してはいけない。時間を与えてやりなさい」

 「この瞑想を、最初は毎日数分行いなさい。そして、自分の感じる至福の程度に応じて、徐々に時間を延ばしていきなさい」


 サイババの勧めるもう一つの瞑想は、いわゆる「ソー・ハム瞑想」である。
 ソー・ハムとは、「彼である(ソー)私は(ハム)」という意味であり、彼とは”神に他ならない。
 この普遍的なマントラは、誰にでも適合する強力なマントラである。
 
 「一息ごとに、あなたは証言している。「ソー・ハム」 即ち「私は、神だ」と。
 あなただけではない。あらゆる存在がそうである。

(神は全ての全てありとあらゆるもの・全ては神ご自身・全ては大霊・全ては無限宇宙という神の体の中に存在する存在・全てが神に観えた時…1つ目が開かれます)

 あなたが自分の呼吸を見つめ、この究極の真理を瞑想することで、「私」と「神」は徐々に融合していき、もはや二つではなくなる。そしてソー・ハムは、原始音オームへと変容するのだ。

 ヴェーダは語る。このオームこそが普遍の創造主の象徴であり、あらゆる仮象の世界の背後にある唯一の真実なのだと」

 ここで”オーム”のことを、サイババはPrimal Sound(原始音、または根本音)と表現している。
 そこには、その昔、創造主ブラフマンが、この音を用いて今回の宇宙を創世したという意味が込められている。

 サイババは、ソー・ハム(私は神)という究極の真理を瞑想することにより、現実に私と神とは一つとなり、音自体も原初の音へと変容するのだと説く。

 このマントラは、前半(ソー)を息を吸いながら、後半(ハム)を息を吹きながら、心の中で想う。というよりも、呼吸に意識を向けることにより、この音を”感じる”のである。呼吸自体が、ソー・ハム(私は神)と語る。
 
 それにより、心は内側に向かい、このマントラの持つ意味とエネルギーは瞑想者の奥深くまで浸透する。
 サイババは、この瞑想法を、進んだ求道者向けの方法と位置づけている。ただし、実際には、光の瞑想の前の数分間をこの瞑想に費やす場合が多い。

 「この瞑想は、純粋な霊性修行であり、求道者にとっての最後の一歩といえる。だが、その前には多くの準備段階があり、それぞれに多大な労力と忍耐とが必要とされる。

 例えば、私は神の御名の一つをいつも想い、神の栄光の数え切れない属性のうち、一つの人格化(神を実現したキリストなど)を念頭に置くことを勧めている。

 そうすることで愛は広がり、憎しみや妬みは取り除かれる。そして、自分の内に神を觀るのと同じように、他人の内にも神を觀ることになる。こうして人は、愛の化身となり、平安と歓びの化身となるのだ」

 サイババはまた、瞑想にまつわるいくつかの生理的な事実についても説明している。その一つは、アートマン(真我)は、体の中に特定の座をもつのかどうかということである。

「アートマンは偏在するが、瞑想で座る際には、へそのうえ10インチ、胸の中心が生命の座だと思って良い。ここでいう一インチとは、親指の第一関節の幅のことだ」

 西洋人は、しばしば、「クンダリーニ瞑想」に関心を示す。サイババは、それについても言及している。

 「私の言う瞑想法が王道であり、簡単な道だ。なぜ、他の方法にかかずらうのか。瞑想の実効を上げるためには、急がず、安心して続けることが大事なのだ。
 
 規則的に実践することで、人は静寂を得、瞑想状態は自ずとやってくる。成功が約束されているのに、他のことを考えるのは、弱さの現れだ」

 一日の内、いつ瞑想するのがよいのだろうか。

 「早朝がベストである。心が平静で、責任という重圧がない」

 「早朝、三時から六時の間はブラフマ・ムフルータ(ブラフマンの時間)と言われ、感覚が静かで、日常の喧騒にさらされていない。
 
 また、今日は汝に瞑想し、明日は何時に瞑想する、というように時間帯を変えるべきではない。瞑想はm,朝と夕、三分ずつで十分である。一日中すると、数年後には、魅力を失ってしまう」

 サイババは、霊的修行というものは、意欲的に行われるべきだと語る。そのためには、神の御名を唱えたり、ある時は、霊的な人々と交わるというふうに、変化を持たせることも必要である。それによって、日々の霊性修行が楽しくなるというのである。

 「夜明け前の静かな時間、つまり三時から五時の間が最適だ。あるいは四時に起きても良いだろう。

 瞑想のためには、まず第一に眠気を去らなければならない。これは大切なことだ。また、時間を守るために、目覚めし時計を四時にセットするようにしてもいいだろう。

それでも眠気が続くようなら、冷たい水で沐浴すれば良い。体を洗うことよりも、眠気を去ることが目的だ。
 こうして、瞑想の道を厳格に歩むならば、神の恩寵を速やかに得ることが出来るだろう」

  さて、人が精神性に目覚め、瞑想を始めたいという際に、陥りやすい過ちが二通りあると言われている。

 一つは、「忙しくて瞑想をする時間がないのですが」という質問に代表される、この質問は、世界中のヨーガ教師のみならず、サイババもしばしば受けるようである。それに対するサイババの答えは、実に単純明快である。

 「そんなことはない。人は常に、おしゃべりをしたり映画を観たりという時間は充分に持っている」

 もう一つは、ひとたび瞑想の重要性を認識したら最後、突然、極端な長時間をそれに費やしたくなる、というものである。彼らの多くは、ヒマラヤの洞窟や森にこもって腰布一枚で瞑想に励んだ聖者たちの英雄的姿をイメージしているようである。

 しかし、サイババは、そのような態度もまた、あまり評価しない。急激な長時間の瞑想は、人間の神経系統に決して良い影響ばかりを与えないし、それは、実際、社会と家庭に生きるべき普通の我々使命とは違うのである。

 しがたって、朝・夕の神聖な時間以外の昼間は、サイババはまさに仕事をすることを勧めている。
 
 「日中、瞑想することは難しい。周りに人がいて、仕事がある。無理に瞑想しようとすると、仕事もうまく行かなくなってしまう」

・・・・・かつてサイババの近くに、毎日長時間瞑想して過ごす、熱心な信者がいた。しかし彼は、自分が瞑想している時間に他の者が立ち働いてうるさくするのを、常々面白く無いと思っていた。

 一方、日頃、アシュラムで皆の食事を作る奉仕活動を行っていたある信者は、ゆっくり座って瞑想することがあまりなかった。しかし、彼は、いつも心楽しく人の食事を作り、他の信者がそれを美味しいといって食べてくれるのを無常の歓びとしていた。

 ある日、”瞑想者”が例によって癇癪を起こしながら瞑想しているのを見たサイババは、彼に言った。
 「あなたは、毎日長い間瞑想していると思っているが、そうやっていらいらし、心を惑わせて、一体何の役に立っているのだ」

 そうして、コックを引き合いに出して言った。
 彼を見なさい。毎日周りの人々への奉仕にいそしんでいる。彼が座って瞑想する時間は少ない。日々の活動自体が瞑想となっている」・・・・・

 結局、瞑想とは、座って難しい呪文を唱えることではない。どのような姿勢で人生を生きるかが、より本質的なのである。こおろが最も深いレベルに向かおうとする時、座っているかどかは別に、彼の生活はそれ自体が瞑想となる。

 今世紀の聖者として、有名なラマナ・マハルシは、単純に「私は誰か」と問いかける瞑想を説いた。サイババは、それについてこう語っている。

 「ラマナ・マハルシのこの問いかけは、それだけでは十分ではない。瞑想も行わなければ。同じ場所、同じ時間を使って、瞑想だけの修養をするようにしなさい。

 そうすれば、必ず目に見える進歩がある。旅行に出て家にいない時でも、どこにいても、心は慣れ親しんだ場所に戻り、瞑想する事が出来る。

 真理を、外に探し求める必要はない。
真理(大生命・内なる神の国)は、いつでもどこにもある。人は、真理を(外に)探すのではなく、それを(全てに神を観る・父なる神と常に一体の意識で)生きるべきなのだ
  
 更にサイババは、あらゆる道の中でも”愛”が全てに勝ることを常に強調する。

 「どの道もゴールは同じだ。道によって方法が多少違うのだ。
 光の瞑想は、真の瞑想である。光は無形で永遠、そして神聖だ。安全で確実な道なのだ

 最初に、我々はどの瞑想を行なうか、どの霊性修行を実践するかを注意深く考えなければならない

 誰がグルなのか。何がゴールなのか。そうして初めて、成就(じょうじゅ)に至るための十分な自信が得られる。そうしたらそこに留まり、進みなさい。
 
 我らのゴールは、肉体的、あるいは感情的なものではなく、霊的なものである。
 そして愛(慈悲と愛・愛と調和)は全てに勝る。愛(無限の赦し・ワンネス意識)は、神への王道なのだ。神は愛なのだから


とらわれない「神」  上江洲義秀先生のご光話

問 神の本質とは何でしょうか。

上江洲義秀先生のお答え

 無形・無色の本質、原因の原因が神です。
 見えないものこそが命をまとった本質です。

 私達の肉体に愛を与えているのが「命」であり、命こそが力、全知全能の神です。神は私達の中にあるのです。

 神は五元要素で私達を生かしています。「地」がなければ家も建たず、
「水」がなければ育ちもしません。「火」はエネルギーを与え、
「風」は波動を整え、「空」は呼吸につながります。

 これは、書物からではなく、私が明想を通して神を味わっているからこそ自身を持って言えるのです。

 原因が全ての本質であり、全ての本質は命です
 迷いとは、原因を見ることなく、結果という存在に気を取られ、それに振り回されて右往左往する姿のことです。

 原因と結果、見えるものと見えないものは一体です。
 相手を強く非難していたものは自分自身の影なのです。


覚者・知花敏彦先生による
「神」は「宇宙の愛の法則(愛と調和)」というお話

 陰陽のバランスを神というのですから、今までの宗教家の説く神はどこにも存在していないといえます。

「われわれの神」の宗教家は唱えますが、元来「われわれの神」はありません。全体の神があるだけです。(神一元・全ては神ご自身・神の他には何も存在しない)

陰陽の法則は全てに存在しているのですから、神は至る所に存在しています。
(神は宇宙に遍満する大霊・大生命・宇宙生命)

 どんな微細な一粒子も陰陽の法則(愛と調和)に基いて存在しています。これを「宇宙法則」といいます。神は宇宙の愛の法則でもあります。
 宇宙には愛の法則が絶対に実在しています。陰と陽の愛の法則(愛と調和)によって、全ての万世万物が生かされていることをよく理解して頂きたいと思います。

 陰と陽の法則を宿していない人間がいるのでしょうか?偶然この世に出てきた人間がおりましょうか。エネルギーという、プラスとマイナスの質量で、陰と陽で私達の肉体形体は存在しています。

 そのバランスで存在しています。バランスが崩れると病気になります。バランスが破壊されれば死に至ります。

 ですから、病気は不調の結果となるのです。何の不調和の結果と言いますと、陰と陽の不調和です。陰陽の法則を犯さないことです。

 罪なき者は中性(愛と調和)でなければなりません

みなさんがたの肉体の一つと考えてみると、エネルギーと質量との調和で肉体は調和しています生命エネルギーと質量のバランスを崩さなければ、どなたでも健康でいる事が出来ます。

ケイシーリーディングから……♪

則とは何か。愛である。愛とは何か。神である。
神とは何か。(宇宙)法則と愛である。これが真理そのものの周期である。あなた方がどこにいようと、どの国にいようと、それは常に同じである」


『パパラギ』 立風書房 刊、エーリッヒ・ショイルマン 著
エーリッヒ・ショイルマン 注―――

私たちの所有概念に対するツイアビの軽蔑的な言葉は、サモアの原住民が、完全な共有財産制のもとで生活しているという事実を知った人になら、十分理解できるにちがいない。
そこには事実、我々が使う意味での「私の」「あなたの」という概念はない。
私のどの旅行の時も、原住民は当然の事として、私に宿を、寝むしろを、食事を、そして全ての物を私と分け合ってくれた。

そして私はよく、酋長の最初のあいさつとして次のような言葉を受けた。
「私の物は、あなたの物。」

盗むという概念も、島民のあいだには縁遠いものである。

すべて」は「みんなの物」であり、
すべて」は「神の物」である。

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

どこを見るかどこを思うか「汝の見るものを受け継がん」

 皆さん方は。
今、一日に何回、神霊に意識を向ける事をやっているのでしょうか。
それは、皆さんご自身が一番良く分かっていると思います。

そうすると、
この調子で満たされるのだろうか。
満たされないのだろうか。
誰が一番良く知っていますか。
それは自分が知っているはずです。

殆どの時間を、
物質という世界に合わせている
物質というチャンネルに合わせている。
そこにチャンネルを合わせていて、霊性は満たされますか。
それは、決して満たされることはありません。

「汝の見るものを受け継がん」とは、その意味を表しています。
物質を見れば物質を受け継ぎ、神霊を見れば神を神霊を受け継ぎます。

どこを見るかです。
どこを意識するかです。
それで、霊性の進化は決まります。
皆さん方は「祟の話」とか「幽霊の話」とかは、する必要はないのです。

世の中には、
幽霊だ、祟だ、何々だというものを弄んでいるグループがあります。
神霊に意識を向けているグループもあります。ということです。

ですから、
私が、幽霊の話、祟の話をしないのは、
あなた方を、幽界に意識を向けさせないためです。
幽界に向けさせたら、
あなた方はどうなるかと。
そこの影響を受けて、全部、憑霊現象を受けてしまいます。

その憑霊現象を弄んでいる宗教が沢山あります。
蛇の霊が祟っているとか、何かの霊が祟っているというのは、
チャンネルはどこに向いているのですか。

神界にですか、幽界にですか。
そういう連中は、どこに意識を向けていますか。
幽界に向いているわけです。
そこの影響を受けていろいろな現象が現れるわけです。
また、面白いことに、その現象を望んでいる人もいるのです。

蛇が憑いているといえば、
身体をクネクネさせながら這いずるひともいるし、
狐が憑いているといえば、
コンコン、ピョンピョンと泣きながら跳びはねる人もいるし、
それを弄んでいるのです。
まあ、結構に楽しんでいるからいいとは思いますが、
そこの幽界に意識が向いたら、
その皆さん方は、
昇天、成仏するのだろうか。しないんだろうか。
それは、幽界止まりです。

ですから、
あなた方が、幽界が見えないことが幸いだと、
私がいうのはその意味です。

幽界の次元の見える人は、
神界にいる事は、全く不可能です。
幽霊が見えたら、
もうそこが神界だと思い込んでいますから、
絶対に神霊という神の世界には昇れません。

残念ですが、
今の世の中の段階は幽界の話をするまでです。
幽界の話しかしないのです。
坊さんも幽界の話です。
なぜか、水子の祟りだとか、水子供養だとかで金儲けをするわけですから。

坊さんは仏の話をしていますか。
坊さんは何の話をしていますか。

あなたが、
何を祟っている、これが祟っているという、
そんなグループに入ったらもう最後です。
それは祟の世界ですから、
神の世界であるはずがないのです。

ご存知ですか。
祟の世界は、神の世界というのですか。
祟の世界は、神の世界ではありません。

神は何も祟りませんので。
災もしませんので完全です。
完全の世界です。

だから、完全なものになるためには、
完全なものを見て。完全なるものを意識せねばならないのです。
不完全なものを見て、癒る事があるのでしょうか。
完全性を見て、完全性を意識せねばなりません。

完全なものを見て、完全のみ意識しなさい。
そうする事によって、完全になりますよという事です。
不完全を見て、不完全を意識して、完全になる人は一人もいないのです。
「あなたは見るものを受け継ぐ」
「あなたは思うものを受け継ぐ」というわけですから、
「想念は実現の母」ですから、
この意識の向け方を間違えますと、大変なことになるということです。


神霊に意識を向けた時、その人は神霊の波動を出す

あなた方が、神界に意識を向けた時、
その人が神霊に意識を向けている時、神霊の波動を出すのです。
チャンネルを合わすわけですから、波動が合うのです。

神に意識を向けけている時は、神の波動です。
幽界に意識を向けている時は、幽界の波動です。

チャンネルですから、波形ですから、そうなるのです。

物質に意識を向けている時は、低い波動を持っているのです。
波動が高いか低いかは、これで決まるのです。

波動というものはバイブレーションですから、
バイブレーションを高くするには、どこに意識を向ければ高くなると思いますか。
それは、意識を上に向けなければなりません。

上に意識を向けた時、
神界は「真理」そのものですから、
神界は「真実」そのものですから、
神界は「完全」そのものですから、
完全なものに意識を向けた時、完全なる波動を出すわけです。

皆さん方が、宇宙意識になりますと宇宙波動です。
皆さん方が、神意識になりますと神の波動です。

低い所に意識を向けていて波動が高まりますか。
それは、高まらないのです。
そのバイブレーションの高め方は、どこに意識を向けているかで決まるのです。
外側に意識を向けていて、
あなたのバイブレーションが高いはずがありません。

物質のことだけ一所懸命考えている時、
あなたのバイブレーションは高いのでしょうか。低いのでしょうか。
バイブレーションが高まったら、低いものの影響を受けると思いますか。
高いものが低いものの影響を受けるのでしょうか。

その事を、
「私はこの世の手の届かぬ所に留め置かれた」といいます。
波動の高い所に留め置かれますと、
この世の影響を受けないわけですから、「安泰」です。「安全」です。
これを「平安」というのです。

まだまだ皆さん方は、
自分の意識を、
幽界に向けたり、物質界に向けたり、
これを(動搖心)というのです。


私は色々な体験を乗り越えて、今は神界にある

皆さん方の中で、
過去の私を知っている人はご存知だと思いますが、
私は幽界を通過したのです
沖縄にいた当時は、幽界を弄んでいたのです。

その時は非常に感情的だったのです。
憑依霊を弄んでいましたので感情的だったのです。
昨日までは神様みたいだなと思ったら、
今日は悪魔みたいになったりするのです。
非常に感情的だったのです。
それを通過してその事が分かって、
神意識を向けることによって、
幽界の影響を全く受けないものになったのです。

その体験は、
私には必要であったのです。
幽界という世界も知っておかねばならないし、
物質世界も知っておかねばならないのです。

この物質世界で、
私はうんと貧乏したことがあるのです。

もう・・・・・、とことんこれ以上に、
この世の中にこんな貧乏があるかと思う位のものなのです。
それは、南米にいて、家内と結婚した当時のことです。
お皿が一つ、スプーンが一つで二人が食事をしていたのです。
お湯を沸かす、煮物をするにも空缶です。
ヤカンもお鍋もお釜も空缶です。

その空缶に針金を詰んでご飯も炊いていたのです。
それで、毛布は二人で二枚。
子供が生まれて三人で二枚。被って寝るものがない。
住む家はあるにはあるけど、窓にはガラスが入っていない。
冬の寒い空が、こちらの窓からあちらの窓へ直通。

どんなに囲っても隙間風がビュウビュウ入ってくる。
その時の寒さは外の水が凍るくらいの寒さで、
空缶に入れてあった水が凍っていた位でしたから、
相当に温度が下がっていたと思います。

そういう中で、
ちょうど、長男が生まれた年でしたから、
子供は寒さから守らなければなりませんので、
子供を毛布にまいてくるので、
私達は焚火をして、
その焚火を囲んで夜を過ごした事があるのです。

そして、
ある時は大金持ちです。
こんなに金が儲かっていいのだろうかと思う位の体験をしたのです。

でも、どちらも面白なくなかった・・・・・。
貧乏も面白くなかったし、金持ちも面白くなかったのです。
それをみんな体験して通ってきたのです。

そして、
沖縄に帰ってからの事。
この霊的なものになりますと、
幽界に引っ掛かり幽界に弄ばれたのです。
幽界の祟りだとか、憑霊を外すのだとか、
そういうものを何年もやってきたのです。

沖縄の民(ユタ)という、
本土なら巫女というその世界に入って行きまして、
地域的拝みも一所懸命やりました。
そういうものも通ってきたのです。
その時、
私は感情的だったのです。
幽界にいる時は感情的だったのです。

しかし、
そこを乗り越えて、
今は神界にあるという事を。

これは霊性進化の一つの体験なのだと、
私は思うのです。
今は、全く感情というものは出てこないです。
カッとなって怒るとか、
極端に何か悲しいとかいう事は全く無いのです。

それが、平安というものだなと、
安らぎというものだなとはっきり言えるのです。
寂しいとか、苦しいとかそういうものが無いわけですから。
いつも喜びに満たされる自分というものを、
今、私は体験しているのです。

それは、
どうしてかといいますと、
神霊の方に意識を向けて瞑想したからです。
瞑想とは、
その神霊に意識を向ける事が瞑想です。
それ以外に瞑想がありますでしょうか。

ですから、
内観せよというのは、
その神霊を見つめて、
神霊に一心を集中する事によって、
その神の波動を受ける事が出来るのです。
皆さんも同じことをすれば、
同じ事が起こりますよという事です。
私が体験しているからはっきりいえるわけです。

今、神霊の道は開いている、あえて幽界を通ることはない

あえて幽界の影響は、皆さんに受けさせたくないのです。
水子の祟りだとか・・・・・、動物霊の祟りだとか・・・・・。
私が話さないのは、これは不要だという事です。

神霊への道は開いていますので、
あなた方は幽界を通らなければならないという意味は無いと思います。
私は、幽界に意識を向けたから影響を受けたのであって、
それを受けないで、
即時に神霊に向ければいいわけですから。

幽界に向けるひつようがありますか。
ここで感情的になって、
必ず、苦しまなければならないという必要がありますか。

その幽界を弄んでいるグループが、世の中に多くいるという事です。
そこからでもいろいろな現象が起こります。
この我々の三次元からすれば、相当次元が高いわけですから。
その影響は確かに面白いほど、現象として現れますよ。

しかし、あなた方は、その現象を望んではならないのです。
本当の神霊という原点に、意識を向けるようにせねばならないという事です。
それが本当の意味の、霊性の進化だと私は思います。

途中の幽界に意識を向けてはならないのです。
幽界に意識を向けるべきですか。
神霊に意識を向けるべきですか。
高い影響を受けるためには、高い所に意識を向けなければならないのです。
そうしますと、
高い周波数を頂けますので、皆さんのバイブレーションが上がるという事です。

幽界は欲望であり、神界は無欲である

今の宗教団体は幽界と繋がっています。
幽界と繋がっているグループは、
もう言わなくても宗教団体を見れば分かります。
この連中は幽界と繋がっているグループだな・・・・・と。
この連中は神界と繋がったグループだな・・・・・と。
少し注意して見ればそれがよく分かります。

しかし、
幽界と繋がったグループは流行ります。
人集めをして金儲けをしようとするならば、
幽界と繋がった方がうんと徳です。
欲に絡んで多額な金儲けが出来るのです。

それに比べ、
神界のグループは全く金儲けにならないのです。
金儲けにならないようになっているのです。
神界は無欲になるからです。
神界に来ますと、
神霊ですから無欲なのです。

幽界は欲望です。
個人意識がありますから、
所有欲がありますから欲望です。
幽界にいるものは、人間の金儲けの話をします。
それを教えます。
どうしたら金儲けが出来るかと、その事を教えます。

神霊は教えると思いますか。
神界では金儲けの話をすると思いますか。
無欲だからしないのです。
金儲けにならないのです。
しかし、
永遠の富を得る事が出来るのです。

これを得た時、
皆さんは、神の跡取り息子・娘になるのです。
永遠の富を得るのです。
久遠の富を得るのです。
無限の富を得るのです。


七色の光が一つに調和して、白光となる

皆さんには、少し分かりにくいかと思いますが、
白光に輝く方々を「白色同胞団」といいまして、
その「七天」におられる方々は白色同胞団です。

その七つの光が、
一つに調和された時「白光」となるのです。
そこを「白光界」といいます。
その白色に輝いた天使たちを「白色同胞団」といっているのです。

実際に、
神界と意識が結ばれた時、その世界に行き来できるのです。
その方々と面と向かって対話が出来るわけです。

そこまで波動が上がりますと、
その方々と同じ波動になりますから、姿・形として見ることも可能なのです。

それらの方々は姿を持っておられますし、
姿を消す事も現すことも自由自在です。
波動をうんと高められますと見えなくなりますし、
波動を低めますと見えるようになるのです。

それで我々は、そういう方々を見るためには、
神界の次元の波長を持っていなければならないのです。
周波数を持っていなければならないのです。

神界の周波数は約三十万サイクル位です。
言葉的にははっきりいえませんが、
何十万サイクルであるという事は、数字的には現す事が出来ます。

幽界はどの位のサイクルで動いているか。
本当は現すことが出来るのです。

周波数ですから現す事が出来るのです。
ですから、
「宇宙は科学である」という事が認識できるのです。

その周波数を電気的に作る事も出来ます。
しかし、電気的にそういうサイクルを作りますと者が消滅するのです。
何十万サイクルの周波数を出すコイルを用いて、
そういう装置を物に当てて放射しますと、
バイブレーションが上がってしまいますから物が消えるのです。
バイブレーションを上げるために機械的に上げようと思う事は、
そのサイクルも作れない事はないのです。

しかし、
うっかり間違えると全部破壊してしまいます。
本質的なものは破壊できませんが。

形あるものは破壊してしまいます。
もう現れない・・・・・。
視界から消えてなくなって、再び現れて来なかったら困ります。

本来は、
自分が意識的に消すことが出来、現す事が出来る事を、
それは皆さんの自由意思で行われなければならないと思うのです。
それをコントロール出来るような人間になるまで、
冷静を高めていかねばならないのです。

波動を高めることは、永遠の救いである

皆さん方の、
バイブレーションを上げるも下げるも、あなたの自由意思にあるのです。
外という低い所を見ている時は、バイブレーションは低いのです。

神という高次元に意識が向いている時、
皆さんの波動は、神の波動となります
神意識をしている時は、神の波動です。

あなた方が、「我は、神なり」という思いを起こしている時、
その時のバイブレーションは。神のバイブレーションです。

そうすることによって、
いかなる「病い」も「悩み」も解決できます。
常に、この高い状態に意識を向けていれば、
バイブレーションが高いわけですから、
この者は再び病気になる事はないのです。
これは「永遠の救い」です。

波動(バイブレーション)を落としますと、病気になります。
波動(バイブレーション)を高めますと、治るということです。

病気になりたくないひとは、
低いものを意識するのですか。
高いものを意識するのですか。
それは、高いものを意識すべきです。

そういう意味において、
皆さんの病気の「自己治癒力」といいまして、
自分たちのバイブレーションを上げておれば、
いかなる病気も自分で癒せます。とという事です。

これをするには、
何も時間が掛かるものではありません。
そこに、一週間でも意識を集中してみてください。
身体が軽くなるのを、誰でも体験すると思います。

時間あるごとに、
神の世界に意識を向けたとすると、
そうすれば、そこからの影響を受けますから、
それをよくご理解しただけたらいいと思います。


竹内文書の正当後継者の方がいっていたのですが、
呪い返しの極意は、「笑顔」だそうです♪いつも「笑顔」でいれば、悪い念の影響は心配しなくても大丈夫ですね

すべてのものを形づくっている周波数


 周波数が高くなると、(模様が)非常に細かくなっていきます。
 と言うことは私たちの意識が高くなると周波数が上がり、きめ細かな波動になるので、粒子体から波動体に変わるのです。

 古代の単核虫や三葉虫などは意外に周波数が高いので驚いたのですが、たとえば亀の甲羅は1021~2041 Hzがつくる文様を持っているのです。1000ヘルツというとすごく高いのです。

 三葉虫はなんと、7010~9438 Hzなどで、もうめちゃくちゃ高いのです。
 私たちがふだん聞いている音は大体、800から2000ヘルツぐらいなのですが、三葉虫などはこんな高い音を吸収していたのです。

 最初、私は生命は本来すごく低くて、25~50ヘルツぐらいではないかと思っていました。ところが、太古からいる生命の模様が持つ周波数が意外に高いのです。おそらく宇宙から隕石に含まれて飛来したのではないでしょうか。

 意識が高くなるにつれて周波数が上がるので、本来、古代の生命体は意識が高かったということなのです。
単細胞のように見えて、実は周波数が高い。そういうことを知ることで、私たちは実は本来の状態に戻ろうとしている、そういうことがわかってくるのです。

 周波数がどんどん高くなっていくと、模様が複雑になります。
 単純な花びらから複雑な花へと、たとえば日本の大輪の菊のような花は海外にはあまりありません。そういうものは2000ヘルツくらいあります。

 動物たちの模様は1300から1700ヘルツが多いです。ヒマワリの花の中心の種を形づくっているのも同じ原理です。でもこれは星で、宇宙の星、チャクラ型とか車輪型の星で、全部星の形や軌道を反映した相似形になっているのです。

 最近になって、星々だけでなく地球の中心の模様を写し出すことができるようになりました。中心は流動体で周波数によって四角に写し出されたりします。

 ですからものの形状というのは、要するに周波数によってどうにでもなる。今、スイスとドイツの人の実験によって、周波数が形の源だったことがますますわかってきています。
 その機械を通してさらに詳細な新しい形が生まれていますが、今どんどん誕生している星の形とそっくりなものもあります。

 ハッブル(宇宙望遠鏡)が高性能になったので、より遠くまで撮影できるようになって、超新星の誕生の瞬間が写せるのです。

 ネビュラ(星雲)もそうですが、周波数をとると、とてつもなくすごい周波数のものと反対に低いものがある。人間の耳にはもちろん聴こえない周波数ですが、その周波数を人間の可聴域に変換したときに、形が星とそっくりになるのです。

 周波数は型を持っている。
 つまり私たちの肉体の内臓もそれぞれ固有の周波数を持っていて、それぞれが独自に働きながら、調和を保って一つの生命を支えているわけです。

 ですから歪みをつくり出す人間の意識や、音の周波数の歪みが調整されるならば、病気など簡単に治ってしまうわけです。病気というのは周波数の歪みから生じたものだからです。(松浦優之博士の電子波動照射機AWGもこの原理だと思われる)

 私がいつも言っていることは、すべてが周波数だということです
 神様とか宇宙人とか、何でもいいのです。いずれにしろ人間がそれぞれの違いに名前をつけたもので、独自の周波数が形をとったものです。
 どう見えるかはその人によるし、どんな名前があろうとそんなに重要なことではありません。

 つまり、
すべてがサイエンス、科学なわけです。
 科学というのは本当に言霊(ことだま)であり、神の学問です。私は今お見せした本のビデオ版を全部持っていますが、すごく綺麗です。

 9000ヘルツや1万ヘルツなどになるとビリビリきますが、これこそ本当に宇宙の周波数だと思います。すべてのものを創り出し、生成してきた周波数はこういうものだと思います。

 非常に高い周波数だからこそ、低いものを生成でき、いろいろな物を生み出すことができたのです。生み出せるからどんなふうにでも分化できるわけです。

悪い念も周波数を変えることでブロックできる

 
周波数の音だけで、実は病気は治ってしまいます。
 本来、周波数には形状化作用があり、後から中身がつくられていったものなのです。それが日本語の形霊(かただま)であり、音霊(おとだま)です。洋服も形霊です。ですからデザインは大事なんです。

 形霊とは、磁気がつくり出す磁気波動であり、神聖な形は整った磁気を発信します。元は光ですから、光という磁気が電子に代わって体に入って来ます。
 ですから宇宙から地球から、また美しい寺院や神社の建物や、毎日自分が用いるもの身につけるもの、着るもの、食べる物などの周波数はとても大事なのです。

 人間の発する念というのは、怖いものです。
 なぜならそれも周波数だから。悪い念を周波数で飛ばすこともできるので、病気にすることも、治すこともできるのです。

 しかし外に向けて飛ばしたものは、いずれ自分に戻って来ます。そして飛ばしている人はより大きなダメージを受けることになります。

 飛ばされた悪い念をどうやってブロックするかということですが、そもそも自分がそういう悪い念の周波数に合っているからブロックできないわけで、自分の周波数を上げてしまえば同調せずに済みます

 そもそも悪い念というのは周波数がすごく低いので、疲れている時や気が病んでいるときとか、落ち込んでいる時に入ってしまいます。それは油と一緒で、PHが近いから油汚れが落ちるのと同じで、似ていて近いということです。

 そうした悪い念を入れないようにするには、明るく笑うことです

 
だから笑うことが一番いいのです。明るい波動というのは周波数が高いのです。笑っていると免疫も上がり、胸腺が活発になり、口角を上げるだけで胸腺が活性化されます。ですから笑っていれば大丈夫です。
     増川いづみ
『ここはアセンション真っ只中』 ヒカルランド
さとううさぶろう/増川いづみ/はせくらみゆき/稲垣説子/千賀一生/滝沢泰平/T-Soul抜粋



「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪


「神への全託」の実体験・覚醒秘話♪「神の道具意識」の詳しい説明話♪「私」とは「意識を持っている神の道具」♪「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します」♪「すべて」は「みんなの物」であり「すべて」は「神の物」♪全ては神のもの♪『パパラギ』 立風書房 刊 エーリッヒ・ショイルマン 著♪

引用させて頂きました。心から感謝申し上げます。感謝感謝♪



「神への全託」の実体験秘話
「神の道具意識」の詳しい説明話

知花先生も「全託なくして悟りなし」とおっしゃられました。
神への全託」とは文字通り「自分のすべてを神に捧げる事」です。

間違った自我の解釈によって「生贄」とかの習慣になってしまった事もあるようです。

そうではなくて、「真我」の正しい解釈では、自分のなしたことは全て神の御業であり、全てが神のお陰であり、私を通して偉大なる神がお働きになられているだけなのだ…という真理の深い理解の境地に達した後に、「全てが神の御業」だと自然に思えるようになります。

 自分の御業は何もない…私の全ての全ての成し遂げた事は「神のもの」であり「神の御業」ですから、私の全てを神にお返し致します。という…そういった境地だと言えましょう。

 実は私、もうとっくに「神への全託」はしておりまして、自分の御業は何もございません…と、このブログで成し遂げた事も全て「神の御業」で御座います…と「全ての全て」を神にお返し致します……と「神にすべてを全託」して神に返納しております。

 私の体を通して何か善行をなしたとしても、それはもう全ての全てが神の御業なんです。神が私を通してお働きになられているだけなのです。
 
 何か良いことをしたとしても、「神様が私を通してお働きになられた」のであって、ありがたい…「私という神の道具を通して、神の御業が顕現なされた事に感謝致します。」なんです。

 だから本当に、「神への全託」してしまったら、「神様、有難うございます」しかなくなります。
 私とは「神の道具」にしか過ぎませんから…、自分が無い…「無我の境地」とは言いますけれども、意外とこれは、「神の道具意識」とも言えるのかもしれませんね。

 わかりやすく申し上げますと…そういう境地だと言えましょう

 逆の視点からいえば、仮に、道具がいきなり自分がやった、これは自分が良い事を書いたんだ…とか主張しだしたらこれは大変ですね(笑)。これがいわゆる「盗みの罪」というものです。「神の御業」を「自分の御業」だと言っているわけですから。

 ちなみに間違った事をした時は「自我・偽我」が出てしまったと即座反省するとよいでしょう。

正しい行い」「善行」「愛と調和」「慈悲と愛」は全て「神の御業」、
「間違った行い」「不調和」は、「自我・偽我」が出てしまったという解釈で大丈夫です。

 私はずっとこの解釈で上手くいっていますから、バッチグー(笑)
でモウマンタイ(無問題)です☆彡♪

 真実、実相においては、自分(三次元的な自己)はないと…、
」とは「意識を持っている神の道具」なのだ…という感じの理解で捉えて頂ければ、宜しいかと思います。
全てが神の御業」これが「真理」で御座いますから。

 何も考えない…とか、脳が空っぽとか…そんな観念的なものではなくて、このように突き詰めて分析的に真理を追求していきますと、観えてくるものも御座います。

 私の真理のアプローチは、徹底的に…客観的に…論理的に、合理的見識を持って分析し、色々な覚者方の教えを融合して、自分の中で「真理の捉え方・理解度」を昇華していくスタイルです。

 神を真摯に求めるお祈りが通じて神様、守護霊様、守護神様、天上界の方々、等々のサポートも頂いたのも間違いないと確信しております。

 お風呂に入っている時に気づきの天啓を頂いたり、寝起きの朝の時に、真理の進んだ考えが脳裏に浮かんだり…とか、リラックスしている時に頂く事が多いようです。

 そういう体験が山程あるのです。そういった小さな積み重ねによって、ここまでの境地に至ってますから、有り難い限りですね。

 自分の力だけでは…到底、ここまでの深い真理の理解にまで到達することは不可能だったでしょうから…、だからこそ、本当に「神様有難うございます」…しかないのです。

 真理の正しい理解が進みますと、全ての全てが神のお陰であり、神の御業なのだ…という意識状態になります。

 他にも…自分をサポートをして下さった高次の存在(守護霊様・守護神様等)の方々にも有難うございます…の想いで満たされ、心が…意識が…神への感謝で満ち溢れている状態に自然と変容してまいります。

 私は自分にあった修行法を追求して、ここまで到達致しました。「真理の理解」によってであります。私が、何回も何回も「真理の理解」が大事ですよ…と書くのは、こういった背景があるからなのです。

 こういった経緯を経て、現在の「愛一元」という高い意識状態になり、「神の愛に満ち溢れた意識状態」に変容致しました。お陰様で、軽く覚醒している感じではあります。ありがたい事です♪

 こういってはあれですが、実際ここまで奥深いことポンポン書けちゃうようになると、大概の人は調子に乗ってしまい、自分がここまで成長できたんだ…とか、いい事を書いている自分は偉いんだ…とか、自分は他の人間より優れたグルのようになった…とか、の慢心に陥りがちになる部分は否めません。

 「真理の理解」が浅いと、「浅い部分」が「弱点」となって、宇宙法則に沿った正しい意識状態にまで至れない部分が出てきてしまうからです。
 この弱点を克服する為には、どうしても奥深い「真理の理解」が必須になってきます。

 宇宙法則に沿った、「真理に完全に合致」した正しい「真理の思考」が自然にできるようになる位にまで「真理の理解」が深くならないと、「真の謙虚」の意識状態になるのはなかなか難しいのではないかな…と。

 「真の謙虚」の意識状態になって初めて、「全てが神の御業」と自然に思える様になれる訳ですから。

 自分の体を通して、どんな偉大なる御業が顕現なされても、「神への感謝」になり、慢心に陥る事無く対処できるようになり、「神様ありがとうございます」しか出なくなります。

 そういった意味でも、私は「全てが神の御業」だと、魂の奥深いレベルで理解していますから、幸いにして調子に乗らずにいられます。

 神様は素晴らしいなぁ…なんて神様は素晴らしい叡智をお持ちなんだろう…って、結構他人事みたいな(笑)、自分が行っているのではないと…深く理解していますから、自然と「真の謙虚の境地」でいられるのです。

 神様からしても、ちょっと使ってあげると、すぐに天狗になったり、有頂天になって増長マンになるような危なっかしい人間…「浅い理解の人間」を神の道具として使うのは、危なくてしょうがないだろうなぁ…って。

 そういった意味でも、私みたいに高いレベルにまで「真理の理解」が至った人間は、どんどん叡智を授けても「神様有難うございます」で、天狗になりませんから、神様も安心してお使い下さるんだろうなぁ…って、そんな理解でございます。

 実際に神様が、「貴方」を神の道具として使ってみて、この者は天狗にもならず、謙虚で感謝の意識状態を維持できる本物だと…神の道具としてふさわしい信頼できる者だと…。

 そのように神に認められた時に、「真の覚醒」が許される…と、「覚醒」とは、意外とそんな感じなのかもしれませんね。実際に引き上げて下さるのはどこまでも神様ですから。

 実体験から「神への全託」「神の道具意識」を語ってみましたがいかがだったでしょうか?

 皆様の真理の深い理解・魂の覚醒の一助にして頂ければ、それが私にとって至上の喜びであり、神が一番お喜びになられる事だと申し上げつつ、記事を拝読して下さった皆様への感謝と共に、今回のご説明を終わらせて頂きます。ご拝読ありがとうございましたm(_ _)m♪


オマケ情報で~す♪
上江洲義秀先生も「明想が完璧」と絶賛された…という
究極の意識状態に到達された方の超高次元・波動上昇ブログです♪


『パパラギ』 立風書房 刊
エーリッヒ・ショイルマン 著

全ては神のもの

ポリネシア西サモアのウボル島ティアペ村の酋長ツイアビは、利発で穏やかな親切そうな大男。
願いがかなってヨーロッパの国々を回り、サモアの人々にパパラギ(白人)のことを知らせようとした。

しかし酋長ツイアビは、彼の先祖が西洋文明を迎え入れたことを後悔し、西洋文明を軽蔑するに至る。
酋長ツイアビは、西洋文明に何を見たのか。

鋭く冷静な、先入観に捕らわれない観察力。
酋長ツイアビはあらゆるものの真理を見抜いていく。
「君たちは、我々に光を持って来ると言うが、本当は違う。
君たちは我々を暗闇に引き込もうとしている。」

「パパラギ」とは「白人」のこと、見知らぬ人のこと
でも 言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人

はじめてサモアに来た白人の宣教師が、白い帆舟(ほぶね)に乗っていた
遠くに浮かぶ白い帆船(ほぶね)を見て、島の人たちは それを天の穴だと思った
白人がその穴を通って彼らの所へやって来た  ――パパラギは天を破って現れた

パパラギ(白人)は一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。

彼はいつでも、どうしたら或るものが自分の役に立つか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。
それもたいてい、只一人だけのためであり、みんなのためではない。
この一人というのは、自分自身のことである。

もし、ある男がこう言うとする。
「ボクの頭はボクのもので、ボク以外の誰の物でもない。」
それはそうなのだ。
確かにそのとおりだ。

それについて誰も文句を言える者はない。
手の持ち主以上に、その手の権利を持っている者はない。
ここまでならパパラギは正しいと思う。

だがその先、ハパラギはこうも言う。
「このヤシはボクの物だ。」

何故かというと、ヤシがそのパパラギの小屋の前に生えているから。
まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。
ヤシは、決して誰の物でもない。
決してそうではない。

ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。
神はたくさんの手を持っておられる。
どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。

私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。
だがしかし、こう言ってはならない。
「神の手はボクの手だ」

しかしパパラギはそう言うのだ。

私たちの言葉に「ラウ」というのがある。
「私の」という意味であり、同様に「あなたの」という意味でもある。
二つはほとんど一つであり、同じ意味である。

だがパバラギの言葉には、この「私の」と「あなたの」以上に、違いの大きな言葉はほとんどない。

「私の」とは、ただ私一人、私だけの物である。
「あなたの」とは、ただあなた一人、あなただけの物である。

それゆえパパラギは、自分の小屋の範囲にある物を、全てボクの物だと言う。
誰もそれには権利がないと言う。
彼の他、誰も。

もしあなたがパパラギの所へ行き、何かそこに有るものを見るとすれば、それが果物だろうと、木だろうと、水だろうと、森だろうと、たとえひと塊りの土だろうといつも誰かがそばに立っていて言う。
「これはボクの物だ。気をつけろ、ボクの物に手を出すな。」

にもかかわらずあなたが手に取ろうものなら、彼はわめき、あなたを泥棒と呼ぶ。
これは非常に不名誉な言葉なのだが、ただあなたが隣人の「私の物」にちょっとさわってみただけで、こんな呼び方をされてしまう。

彼の友だちや、大酋長の家来たちが急いでやって来て、あなたを鎖につなぎ、ファーレ・プイプイ(刑務所・牢屋)に入れてしまう。
そしてあなたはもう一生のあいだ爪はじきにされる。

そこで、ある人が「これはボクの物だ」と宣言した物に、ほかの人が手を出さないよう、これは誰の物、これはそうでは無い、ということが特別の掟によってきっちりと決められている。

そのうえヨーロッパには、誰もこの掟を破らないよう、専門に見張りをしている人たちがいる。

この人たちは、パパラギの物が、何ひとつ取られてしまわないように見張っている。
それはパパラギが、よそから自分で取ってきた物だが。

パパラギはこうする事によって、神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかの様に見せ掛ける。
ヤシも木も花も、海も空も、そして空ゆく雲も、本当に自分の物になったかの様に。

パパラギが、自分のたくさんの「ボクの物」の為に掟(おきて)を作り、番人を持たねばならないのは、「ボクの物」をほんの少ししか持っていない人たち、あるいは全く持っていない人たちが、彼の「ボクの物」を持って行ったりしないようにする為でもある。

それというのも、たくさん自分の物にする人がたくさんいるとすれば、何も持っていない人もまた、たくさんいるということだ。

「ボクの物」がたくさん集まってくる魔法や交ないを、誰もが知っている訳ではないし、「ボクの物」を集めるのは、一種特別の勇気がいることだ。

私たちが名誉と呼ぶもの、それと必ずしも手をつないでいなくても良いという勇気。
そんな、とんでもない勇気をパパラギは持っている。

神様を困らせたり、神様の物を取り上げたりしたくない為、自分ではほとんど何も持っていない人もいる。

こういう人たちは、パパラギの中では一番いい人だと言ってもいいだろう。
けれどもそういう人は、確かに、そうはいない。

たいていの者は、恥ずかしげもなく神の物を盗んでいる。
他にすることを知らないのだ。

何か悪いことをしているのだという気は、ほとんど全く無いようだ。
みんながそうしているし、全く気にはしていないし、誰も恥ずかしいとは思わないからである。

父親からたくさんの「ボクの物」をもらって生まれてくる人も多い。
とにかく、パパラギの神様はもうほとんど何も持っていない。
人間がみんな盗んでしまって、ボクの物とあなたの物とに分けてしまった。

みんなの物と定めて造りたもうた太陽を、神はもう、みんなに平等に分ける事ができない。

みんながみんな、人よりたくさんの太陽を要求するからである。
大きくてきれいな日当たりに、ほんの少しの人が日なたぼっこをしているかと思うと、たくさんの人が日陰で哀れな日射しをあびている。

パパラギの神様はもはや、その大いなる住処(すみか)の最高のアリイ・シリ(支配者)ではなくなり、もはや本当の喜びを失ってしまわれた。

パパラギはこう言うことによって、神を否定する。
「みんな、ボクの物だ。」
けれどもパパラギは、色んなことをいっぱい考えているにもかかわらず、遥(はる)かな事については何も考えない。

それどころか、自分のしている事を、立派で正しいと言い切る。
だがそれは、神の前では立派でも無く、正しくも無い。

もしパパラギが正しく考えるなら、彼にだって解るはずだ、
しっかり持てないものは誰の物でも無い、という事が。

そして、しっかりと持てる物など、元々何も有りはしないということが。
そしてさらに、神がその大いなる住処(すみか)を造りたもうたのは、みんながそこに喜びの地を持つ為だという事を、もしパパラギが理解してくれたら。

大いなる住処(すみか)は充分に大きく、誰にでも日だまりと小さな喜びがあり、そしてどの人にも小さなヤシの木の薮(やぶ)と、足を乗せて立つ土地が確かにあるはずだ。
それが神の心であり、神の定めたもうた事でもある。

神がどうしてその子どもの一人でもお忘れになろうか。
所が実際には、何とたくさんの人々が、神様に用意していただいたはずの小さな場所を探し求めている事か。

パパラギが、神の言い付けを聞かず、自分たちの掟(おきて)を作ったので、神はパパラギの財産にたくさんの敵を送られた。

パパラギの「ボクの物」を打ち壊す為に、湿気と熱を送られた。
パパラギの物は、やがて古び、ぼろぼろになり、腐って行く。

神は、彼らの財宝に襲い掛からせる為に、火に大きな力を与えた。
そして嵐にも。

だが、中でも重く神が定めたもうたのは、パパラギの心の中に恐怖を植え付けた事である。
取ってきた物を無くしはしまいか、という不安。

パパラギは決して深く眠った事がない。
昼間に集めてきた物を夜のあいだに持って行かれないよう、目覚めていなければならないから。

彼はいつでも、どこでも自分の「ボクの物」に苦労をさせられ、気を遣わねばならない。

あらゆる「ボクの物」はパパラギを悩ませ、あざ笑ってこう言う。
「あなたはボクを神様から盗んだ。だからボクはあなたを悩ませ、うんと苦しめてやる。」

だが神は、恐怖よりもっとずっと悪い罰をパパラギに与えた。
神はパパラギに、「ボクの物」をほんの少し、あるいは全く持っていない人と、たくさん持っている人との間に戦いを与えた。

この戦いは、激しくつらく、夜も昼もない。
この戦いは万人を苦しめる。
万人の生きる喜びを噛みくだく。

持てる者は与えねばならぬのに、やろうとはしない。
持たない者が神の戦士であることもめったにない。

彼らは、ただ少し遅く来すぎて掠奪(りゃくだつ)に間に合わなかったか、それとも少し運が悪かったか、機会が無かっただけなのだ。

神様が掠奪されてすってんてんになられた事は、一番分け前の少なかった人なら覚えている。
そして、神の手に、もう一度全てを返そうではないかという、正しい人の声はほとんど聞かれない。

おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。
サモアの一つの村なら村人全部が入れる程の大きな小屋を持ちながら、旅人にたった一夜の宿も貸さない人。

こんな人間をどう思うか。
手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。

私にはあなたたちの目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。
そうなのだ、これがいつでもパパラギのする事なのだ。

たとえ百枚のむしろを持っていても、持たない者に一枚もやろうとはしない。
それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろが無いのを、持たない人のせいにしたりする。

たとえ小屋の天井(てんじょう)の一番高い所まで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べ切れない程でも、食べるに物無く、飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。
しかもたくさんのパバラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。

熟したヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。
パパラギは、葉も実も落とすまいとするヤシの木のように生きている。

「これはボクの物だ!取っちゃいけない!食べちゃいけない!」
どうすれば、ヤシは新しい実を結ぶか。
ヤシはパパラギよりもずっと賢い。

私たちの中にも、ほかの人よりたくさん物を持つ人はたくさんいるし、たくさんのむしろや豚を持っている酋長に、私たちは敬意を払う。

だがこの敬意は、酋長一人に向けられているものであり、むしろや豚が尊ばれているのではない。

何故ならそれは、私たちの喜びを示し、酋長の勇気と知恵を称えるために、私たちがアローファ(贈り物)として彼に贈った物だから。

だがパパラギは、その兄弟のむしろや豚の数を称える。
勇気や知恵はどうでもよい。
むしろや豚を持たない者は、ほんの少ししか、あるいは全く尊敬してはもらえない。

むしろや豚は、自分で貧しい人々、飢えた人たちの所へ歩いては行けないし、パパラギもまた、それを自分の兄弟たちに分けてやろうとは思わない。

何故なら、パパラギが尊敬しているのはその兄弟たちではなく、めいめいが持っているむしろや豚の数なのだから、どうしてもそれを手放す訳にはいかない。

もしパパラギがその兄弟たちを愛し尊び、そして「ボクの物」、「あなたの物」の取り合いで戦う事をしないなら、兄弟たちの所へ自分のむしろを運んで行き、みんなで自分たちの大きな「ボクの物」を分け合うはずである。

兄弟たちを暗い夜の闇の中へ突き出すかわりに、自分のむしろを分け合うだろう。

しかし、パパラギには解っていない。
神が私たちに、ヤシや、バナナや、おいしいタロ芋、森の全ての鳥、そして海の全ての魚を与えたもうた事が。

そして私たちみんながそれを喜び、幸せにならねばならない事が。

それは、決して私たちの中のわずかな人間だけを幸せにして、他の人々を貧しさに悩ませ、乏しさに苦しめる為のものではない。

神からたくさんの物をもらえば、兄弟にも分けてやらねばならない。
そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。

何故なら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、誰か一人が他の者とは不釣り合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心では無い。

さらに、誰か一人がこう言うのも神の心では無い。
「ボクは日なたにいる。あなたは日陰に行け。」
私たちみんなが、日なたに行くべきである。

神が正しいその手の中で、全ての物を支えておられるかぎり、戦いも無ければ苦しみも無い。

狡猾(こうかつ)なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。
「神様の物なんて何も無い。あなたが手でつかんだものは、あなたの物だ。」

そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。
正しい知恵に耳を傾けよう。

全ては神の物」だ。

『パパラギ』 立風書房 刊、エーリッヒ・ショイルマン 著

エーリッヒ・ショイルマン 注―――

私たちの所有概念に対するツイアビの軽蔑的な言葉は、サモアの原住民が、完全な共有財産制のもとで生活しているという事実を知った人になら、十分理解できるにちがいない。
そこには事実、我々が使う意味での「私の」「あなたの」という概念はない。
私のどの旅行の時も、原住民は当然の事として、私に宿を、寝むしろを、食事を、そして全ての物を私と分け合ってくれた。

そして私はよく、酋長の最初のあいさつとして次のような言葉を受けた。
「私の物は、あなたの物。」

盗むという概念も、島民のあいだには縁遠いものである。

すべて」は「みんなの物」であり、
すべて」は「神の物」である。
 

「全ては神=我神なり」という真理♪

意識の進化=愛の拡大=分離意識の克服=
我は全体なり・全体我なり=全一体・自他一体=

全ては私=全ては一つ=全ては一つの存在の現われ=
宇宙は一つの生命体=全てに神(宇宙生命)が宿り給う=

宇宙は神一様=全ては神の中の存在する一つの存在=ワンネス
全ては永遠に一つの存在=全ては一つ=全ては私=全ては神

全ては今この瞬間しか存在しない=全ては永遠に一つの存在=
永遠の始まりである神の御心のみが実在=今即天=今即実在=

大愛・宇宙生命・神の一人子である神我キリストのみが実在=
全てはこの瞬間に存在する宇宙生命そのもの=全ては神そのもの=
全ては神ご自身=神一元・愛一元・光一元=宇宙即我=我神なり


調和=愛の法則そのもの=罪なきもの=完成=幸せな人生に
不調和=愛の法則を犯している=業・罪=カルマの精算が起きる

愛と赦し=調和=愛=幸せ・健康=完成=中性=完全=光人間
恨み・憎しみ・争い=不調和=罪=病・災難=不完全=闇人間

愛と赦し=カルマの消滅=神の祝福=幸せなツイてる人生に
許さない・恨み・嫉妬=カルマの刈り取り(不幸災難)な人生に

調和人間=愛が深い人=愛の光そのもの=克服者キリスト=完成
不調和人間=恨み・嫉妬・責任転嫁闇人間=罪人=未完成

調和=光明世界・愛の王国=愛・光・善=平安と安らぎ・至福感
不調和=無明世界・闇世界=未熟な愛=不安と恐怖・飢餓感・不足感

調和の人は熟した魂=自分を愛するが如く他人を愛します=ワンネス
不調和な人は未熟な魂=他人を責めて非難します=分離意識


 イエス様は「愛は天と地の架け橋」とおっしゃられました。その愛とは「許しの到達点」である「慈悲と愛」で御座います。

 真の意味で貴方が、その「許しの到達点」の境地に到達した時に、自ずと「天である神」と「地である貴方」との架け橋が繋がる事でありましょう。私は実体験からそれが実際にありえると確信しております。


愛は天と地の架け橋  この愛の理解と体得が神様と繋がる鍵♪

神・大愛(天)……全てを活かす愛・慈悲と愛・すべての形態を形作る力・意識を与えて下さった魂の根源・真の親・すべてを活かし育む力、縁の下の力持ちで全てを愛し慈しむ無償の愛・無限の愛・すべてに意識を与えて下さった天の父であり天の母である中性エネルギー・真の親・愛を表現する為に…無限の創造をなさっている慈悲と愛そのもの

神の表現体(地)……神が神を愛する為に生まれた存在・神の化身・愛の化身・神の表現体・神の中に創造された神・個別化した神としての自覚に覚醒めた我・滅私して神の道具意識を自覚している我・自分が神ご自身だと悟った我・愛を表現する為に生まれた事を自覚している我、全てを100%の愛で愛する我、自分と全てが神以外の何者でもない事を自覚している我


第六密度以上の高次元存在が語る
「許し」というものが、カルマの輪を止める事になるお話

★ コーリー : 多くの人々が現生のトラウマだけでなく、過去生のトラウマにも対処しているところなのです。

今、地球に生まれて来ている多くのライトワーカーは、援助の為により高次元や、上の密度から降りて来た人々です。

現生が初めての人でも、高次の美しい場所からここへやって来た人にとっては、ここでのトラウマは10倍酷(ひど)く感じられるものです。

そして、長期に亘(わた)って輪廻転生を繰り返して来た人の場合は、更に解消しなければいけない過去生のカルマが加わります。

しかし、ブルーエイヴィアンズから言われたのは、トラウマを特定し、自分にトラウマを与えた人や自分自身を許すこと、

そして、この”「許し」というものが、カルマの輪を止めることになるということです。カルマがなくなるんです。

これは、エネルギー的なものです。
カルマとは」負債を支払うようなものではなくて、
許してエネルギーを解放するもの」なんです。



カルマとは宿題・魂の課題・許しによって消滅♪
……………………………………………………… 
「許し」を心から実践=カルマの輪を止める=カルマがなくなる♪

自分にトラウマを与えた人や、自分自身を許す==
             ==魂の課題を克服=カルマが消滅♪

許す事によってエネルギーを開放=カルマの克服・解消に♪


ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

真水補給でつやつや肌に♪目の下のクマも解消♪血液サラサラでダイエットと美容力UP♪水分補給で心と体が健康に♪健康長寿の秘訣♪水療法の究極の極意♪ドロドロ血液解消♪脳血管疾患・ドライアイも解決♪腎臓の濾過力♪永久保存版♪



真水の摂取する大切さがよく分かる部分だけまとめてみました^^♪


腎臓が特に悪くなければ、
出来るだけ多くの水を飲む方がいい   高田明和先生
             
 人間の体の3分の2は水分でできているが、汗や尿によって失われた水部を補わないと、絶対的に体内ん水分は足りなくなる。

 体内の水分量が少なくなると血液の粘度が上がってドロドロになり、決戦が作られやすくなる。血栓が血管に詰まると脳梗塞や心筋梗塞の引き金になる。

 高田明和先生は警告する。
「眠っている間や入浴中、夏など、身体周辺の温度が高い時、エアコンなどで空気が乾燥している場所に長時間いる時などは、少しずつ汗をかくことで知らず知らずのうちに水分が失われています。
 
 これを不感蒸泄と言います。不感蒸泄は水分を体外に出したという自覚がないので、気付かないうちに脱水症状に陥ってしまうのです」


のどが渇いていなくても水は意識的に飲んで!
1日2リットルできるだけ多く

トイレが近くなるからと、就寝前に水を飲まない人がいるが、体内の水分不足、すなわち血液ドロドロによる血栓の発生を予防するには、こまめに水分補給をすることだ。又、水には体内にある有害物質を溶かし込んで排出するという利点もある。

たとえ喉が渇いていなくても、水は意識的に飲んで下さい。喉が渇いたと感じた時は既に体に十分な水分がなく、血液ドロドロになっているのです」


十分な補給で、知らぬ間に失った水分をカバーする

 では、1日にどれくら飲めばいいのだろうか。普通、人間は飲み水や食べ物から、約2.2~2.5Lの水分を摂っている。

 これに対して体外に出ていく水分は、汗・尿・大便に含まれるものとして、約1.5L、汗以外の蒸発する水分量(不感蒸泄)として約900mLとされている。
 この他、運動など、体温の上昇によって汗をかくため、実際には摂る水分より多くの水分を失っていることになる。

「私は、出来るだけ多くの水を飲む事を進めています。特に腎臓が悪くなければ、1日2L以上を目標として下さい」


腎臓は水のリサイクル工場だった!?

 腎臓には何と、1日に述べ1トン半もの水が通過している。通過する水から老廃物と水分を濾過し、おしっこの元、原尿を作っている。その製造速度は一分間に約100ミリリットル(mL)。

 しかしこれを全て尿として排出すると、一日中トイレにいなければならなくなる。そこで実際には1%の毎分1mLだけを尿として膀胱に送る。

 残りの99mLは再度、体内水分として血液に戻され再利用されているのだ。ちなみに正常人の1日の尿は、1.5L程度である。


いらいらを解消する水は、
血圧上昇によるくも膜下出血の予防にも!

 水は新陳代謝を活発にして以来を解消し、血圧が上がるのを防いでくれる。若いうちは血圧を心配する必要はないと思いこんでいる人も多いが、実際は20~30代でも血圧の上昇で命の危険にさらされる場合がある。

 中でも、激しい頭痛と吐き気を伴うくも膜下出血は、何の前触れもなくそのまま奇特な状態に陥る事が多く、働き盛りの突然死、過労死の原因となりやすい。

 くも膜下出血は、脳の血管にできた動脈瘤が破れて、脳を保護しているくも膜の下(脳の表面とくも膜の間)に出血するもの。


水分の摂取で新陳代謝を活発にすれば

「かつて、くも膜下出血は先天的な異常によって脳の周りの血管に動脈瘤ができ、そこに圧力がかかってなるものと考えられていました。
 しかし、最近では血圧が上がると脳血管の弱い所に圧力がかかって動脈瘤が出来るという事が分かっています」

 高血圧は、加齢と塩分過多が主な原因と思いこんでいる人も多いが、若い人の場合はストレスによるものが非常に多く、普段から忙しくて休む暇がない様な人にくも膜下出血が起こりやすい。

 従って、働き盛りの世代は疲れを溜め込まない様に心がける事が大切だ。水は、疲労回復にも一役買う。

水分摂取によって新陳代謝を活発にし、血圧の上昇を防ぐ事が出来ます。そうした意味でも、私は積極的に水分を摂ることを進めています」

 水分を摂ると即座に脳へ働きかけて利尿を促し、新陳代謝が活発になる。その結果、体内に溜まった老廃物や疲労物質が素早く排出される。これによって疲労感やストレスが軽減されるため、水分を積極的に摂ることは高血圧や脳出血、くも膜下出血などの予防にもつながるのだ。

「毎日仕事などが忙しく、ストレスが溜まっている人ほど血圧が高くなりやすいので、積極的に水分を摂ってもらいたいものです。摂取する水分は、やはり真水がベストです

 緑茶やコーヒー、アルコールなどは利尿作用に優れているので、こうしたものばかり飲んでいると逆に水分不足になってしまう。
 その点、真水の利尿作用はそこまで極端なものではないので、程よく代謝を活発にしてくれるのだ。

 仕事に追われているときは食事や睡眠さえ不規則になりがちだが、そんな時こそ水分補給で、フル回転している頭や体をクールダウンさせる必要がありそうだ。


体温と汗と水の微妙な関係

 体を動かして体温を上昇させ、発汗する習慣をつけるのは悪くない。新陳代謝を促すからである。ウォーキングなどの運動を20分以上する、を日課にすれば中性脂肪が燃えてダイエット効果もあるとされる。

 ただし、運動前後に200ccくらいの水を摂ることを忘れない事、水分が体外に出したら、即、補給するべきなのである。

 シャワーでサッと汗を流すだけの入浴より、浴槽にゆっくり浸かる方がベターなのも同じ理由。たっぷり汗をかくことで、水を欲し、血液の健康回復を計れるのである。


動脈硬化が引き起こす脳の病気

脳卒中----脳出血(くも膜下出血)
     脳梗塞(脳血栓、脳塞栓[そくせん])


真水で補給するのがベスト。     
沸かしたり、お茶やコーヒーよりも…。 甲田光雄先生

 一般に、下痢をしやすい人は真水は良くないと思われている。が、
甲田先生は「下痢を怖がって真水を飲まず、生野菜なども制限するのはもってのほかです」と言っている。

 真水や生野菜で下痢をするのは宿便を出そうとするからであって、逆にこれを避けてしまうと下痢症は良くならないのだという。

 一見非合理的ではあるが、下痢によくなさそうな真水を飲むことで下痢しない体質になった。という先生は、すべての人に真水を勧める。


水を沸騰させると貴重な成分が失われる

 水分補給に、お茶はやコーヒーを飲む人が多いが、お茶やコーヒーにはカフェインが含まれている。カフェインには神経を興奮させる作用があり、胃にも刺激を与える。

「人間は35万年前から真水を飲んできたのですわ。昔はお茶やコーヒーは飲まなかった。白湯というのも健康上は良くないのです。真水の中には酸素があるのに、一旦沸騰するとなくなってしまう

 それを飲む体の中の本来の水に戻ろうとして、体の中の酸素を奪うんです。それで体内の酸素が欠乏してしまう。それから、水に溶けてイオン化したカルシウムが大切なのに、沸騰するとカルシウムイオンも働くなってしまいます」

 飲み水の温度は体温の半分、体温が36℃だとして18℃くらいが適温
これが冷蔵庫にれておくと5℃くらいになってしまう。

 自動販売機で「飲み頃温度」などと、販売機内の温度が表示されている事があるが、それは3~5℃程度、現代人は、冷えすぎの飲料水を飲むことが常識になってしまっている。

 しかし、その現代人の感覚は、生物学的な観点から見ると異常な事なのだ。
「犬や猫の前に冷たい水の入った皿と、常温の水の入った皿を置いておくと、冷たい水は嫌がって飲まない。
 本来、体が健康なら冷たい水は飲みたくないものなんですわ。やたらと冷たいのを飲みたがる人は、胃に熱がある事が多いのです」

 逆に熱いお茶も胃の粘膜を荒らすのでよくない。理想的なのはやはり常温の真水だ。

「熱いのも冷たいのも避けて、綺麗な水を飲むこと。水道水には体に必要ない成分も入っているから、出来れば※浄水器で濾した綺麗な水を飲む。それから、基本的に空腹時に飲むという事です」

水缶 コック付 BUB 20L 水タンクの中に遠野の角閃石を入れて、塩素を除去しつつも、波動石の30万パワーで大腸菌をも消滅させてしまいますから、衛生的にも安心してお飲み頂けます。
 しかもメンテナンスは一切不要というお気楽さでございます。
私はこの方法+AOUM音声でオーム振動水を作成して飲んでおります♪

 空腹時に飲むのが健康にとって良いのは、真水に含まれる体に必要な成分を、消化器の粘膜から吸収しやすいからだ。


体の中の消化管にある水10Lはどこで吸収される?

 口から入る水分は、特に意識して水を飲まない人でも、1日約1.5L。これに唾液や胃液、腸液などが加わって、消化器官には常時10Lの水が存在している。

 その80%は小腸で吸収されるが、未消化物が大腸に送られる時残る20%が含まれて、ほとんど液体の状態なのである。

 健康な場合、大腸でこの殆どが吸収され便となる。ちなみに健康な人の理想の便は150~200gで100cc程の水分が含まれているもの。だが、水分が大腸でうまく吸収されないと、いわゆる下痢の状態となる。

 ただ、味噌を飲みすぎるとこうなるかと言えば、答えはノー。飲む水の量と下痢は直接の因果関係はなく、他の要因が絡むからだ。健康であれば、平均より多くの水を摂っても、小腸でより多く吸収され、尿として体外へ排出されていくのである。


体質的に水を飲めないという人がいるが、
正しいトレーニングで解決できる!

 水を沢山飲むと胃がもたれたり、トイレが近くなるという人がいるが、だからといって水を飲まないのは体に良くない。

「水を飲むとすぐに下痢するとか、お腹にもたれてチャプチャプ音がする様な人がいますが、胃下垂や内臓下垂の人に多いのですわ。こういう人は、水を沢山飲めないから飲まない。すると便が出にくくなって宿便が溜まる。

 それが冷え性につながって、頭痛、肩凝りになってくるんです。疲れやすいとかスタミナがないのも、このタイプの人。こういう人はまず、宿便を出す為に水を飲める体を作る(体質改善をする)ことから初めなあかん。

 元々たくさん飲める人は、飲んだ水を体の中に溜めておく事が出来るんです。溜めたのをぐるぐると使うことが出来るから、トイレが近くなる様な事もないのですわ。
 水がたくさん飲める様になると、寝る前に3合(約450cc)飲んでもトイレに起きん様になりますねん」

 甲田先生曰く、水を飲めない人の体には特徴があるという。それは、大5胸椎の歪み。
「大5胸椎というのは背骨の中でも胸の裏面辺りにある骨ですわ。これが歪んどると、胃の下の方にある幽門という所(胃から腸への出口となる部位)が閉じたままになって、うまく開かないのです。だからもたれてしまう。

 胃がもたれたときは大5胸椎の辺りを拳で軽く叩いてやると、胃の中のものがすっと流れていきますわ。それから、金魚運動を長く続けること。

 これは器具を買わんでもよろしい。仰向(あおむ)けになってつま先の膝の方へ90度以上反らし、金魚が泳ぐような動きを素早くやるだけでいいのですわ。

 これを朝1~2分でいいから続けると、そのうち水が飲めるようになってきますねん。背腹運動も長く続けると、だんだん歪みが取れてきますわ。

 膝をやや開いた恰好で正座して、背骨をまっすぐに伸ばした状態で左右に振り子運動をする。お腹は体が傾いた時に押し出し、真ん中に来た時に引っ込める。これだけです」


「むくむのは水分の摂りすぎ」の誤解

「手足がむくむから水はあまり飲まない」という人がいるが、意外にも「水を飲まない人の方がむくみやすい」という。

「水が足りないと脳にある反利尿ホルモンの分泌が多くなって、尿が出にくくなる。そこへ水分を摂っても、ホルモンの働きで尿が出にくくなってるから、水分過剰になってむくむんですわ。つまり、逆の現象が起こるというわけです。

 腎臓病でむくむのも水の摂りすぎが原因だと思っとる人が多いけど、腎臓病になると毒素を薄めようとして腎臓に水が溜まってむくむんですわ」


日本人の死因 癌より動脈硬化が第一位

 70年代末まで、日本人の死因は脳血管疾患(脳卒中など)が第一位だった。ところが80年代に入ると、悪性新生物群(癌など)が死因の第1位に浮上した。2位も心疾患(心筋梗塞など)が3位から上がってきている。

 日本人は脳卒中で死ぬというイメージだったが、癌を恐れるようになった。しかし、第3位に落ちた脳血管疾患と、2位の心筋梗塞は共にその遠因は動脈硬化。たどればドロドロ血液との因果に行き着く
この2,3位を加えると(合計すると)、癌を抜き1位になるから驚かされる。


人1日の水の出納(出入り量)

        摂取               排泄

飲料水    1500mL       尿     1500mL
固形食物水分 800mL    不感蒸泄・肺   300mL
代謝水    300mL      不感蒸泄・皮膚  700mL
                                               フン便     100mL

合計     2600mL      ⇔           合計    2600m


55年間、私がこっそり続けている
水健康法をこっそり教えましょう!

 甲田先生は大病を患ったのを機に、今から55年前に西式に基づく水飲み健康法を始めたという。

「当時は重い肝臓病や胃腸病を患っておって、現代医学の治療から民間療法の世界に入っていったのです。その中で西式健康法に興味を持つ様になって、まずは真水を美味しく飲めるようになろうと練習を始めたのですわ。

 一度にたくさん飲まずにチビチビ飲むのがいいという話で、ウイスキーボトルに水を詰めて、ポケットに入れてちょこちょこ飲んどったわけです。

 最初はとにかく胃もたれしましてね。ところが、断食や生野菜菜食をしている内に体質が変わった様で、3,4年したら2リットル飲めるようになりました。

 さらに10年くらい経って1日5リットル飲めるようになると、便がものすごくよく出るんですわ。しかし体調は良いけど、5リットル飲んでちょくちょくトイレに行くのは社会生活を送るのに無理がありますから、それで1日3リットルに戻したというわけですわ」


1日3リットル弱の水を飲んで衰え知らず

 水だけで午前中を過ごしていても、昼食後に出る尿が濃い黄色に染まっているうちは、まだ水を飲める体になっていないという。

 逆に午前でも昼食後でも出る尿の色がごく自然な黄色になってくれば、水を飲める体に近付いてきたサイン。摂取した水がすぐ排出される事なく、体の中をぐるぐる回って効率よく利用されるようになってきたという事なのだ。

「朝起きてまず約0.6L、その一時間半後に同量(0.6L)。2時間置いて約0.7L、ビタミンCを摂りたい時は柿の葉茶を同量。夕方5時頃にまた0.6L、寝る前には水代わりに青汁も。これで水だけで合計2.7Lも毎日飲みます」

 78歳になる甲田先生の体は驚くほど柔らかく、会話の中には学術用語がボンボン出てきて記憶力の衰えも全く感じさせない。

 先生は、「努力で体質は変えられる」という。水を飲めない人も、トレーニングを続けて血液がサラサラに循環する体を作ってみてはいかがだろう。


目の水分が不足してなるドライアイ

 若い世代に多く見られるようになった目のトラブル。大半は目の表面が乾くドライアイという症状で、疲れ目の60%はこれが原因。

 他に、目がゴロゴロしたり、充血したり、痒くなったり、原因は空調のきいた室内で、涙が蒸発することから起こる。感覚としては、涙の分泌量が減るようにも思えるらしい。

 この状態になった時、実は血液はドロドロになっている。目薬で目に水分補給すると共に、水を飲んで血液もサラサラにする事が必要だ!


水分は1日、1.5L以上摂る?  答え ◯
           
 人間は1日に2.5L~3Lの水分を必要としています。そのうち食事で1L程度摂取するので、残りの1.5L~2Lは、他から補わなければなりません。

 ただし、1.5L~2Lの水分を一気に摂ると、尿になって排出されてしまうので、小分けにして飲むのが理想的といえるのです。

 では、なぜ人間は1日に2.5L~3Lの水分が必要なのでしょうか。実は、熱くも寒くもない環境で安静にしているだけでも、呼吸のたびに水分は体外に排出されます。

 また、じっとしていても、体温調節のために汗を分泌しています。
これを「不感蒸泄(ふかんじょうせつ)」と言いますが、それだけで1日に0.9リットルもの水分を失っているのです。

 さらに、尿として1.4リットル、便に含まれる水分がおよそ0.2リットルありますから、その合計は2.5リットルというわけです。ここの運動や仕事などをして汗をかけば、さらに1リットル程度の水分が必要になります。

 ビールなどで水分を補給しても、飲んだ分だけ水分補給出来たことにはなりません。アルコールは利尿作用が強い上、アルコールを分解する際に大量の水を必要とするため、飲んだ分以上の水分を失ってしまうからです。同様に利尿作用のあるカフェインを多く含む飲み物もお勧めできません。

 ただし、必要以上の水分の摂り過ぎは、肝臓に負担をかける上、低ナトリウム血症(水中毒)につながることがあり、避けた方が賢明です。


 
ちなみに、知花敏彦先生も食物全体で2.5Lの摂取が必要と言われていました♪知花敏彦さんの水のお話はこちら♪

 私たちの肉体は75%水分と言われてますが、私からすると100%水分と言いたいのですよ。
 私たちの食べてる食べ物もほとんど水分です。私たち大人の1日に必要とする水分は食べ物、飲み物ふくめて2.5Lはどうしても必要なんです。


1日に2000ミリリットルの水分補給

 私達、大人の体は55~60%が水分で構成されています。適度な水分が体温を一定に保ち、血液をサラサラにさせます。夏になると水分を取ると汗がでるので、のどが渇いてもガマンしている人がいますが、とんでもありません。

 水分が不足すると思考力が落ち、意欲がわかなくなります1日に大人が必要とする水分は約2000mLと言われています。水分は一回に200mLくらいずつを数回、かむようにして飲むと効果的です。

 汗をかいて脱水状態になったときや運動後は特に水分補給が必要です。私が健康法として習っているダンスの時の運動量も相当なもので、スポーツドリンクを飲んで、練習にはげんでいます。


美容と血液サラサラはリンクしている  
皮膚細胞にたっぷり水分を運んでくれるから  森本チヅ子先生
             
 健康のジャンルで「血液サラサラ」が注目されているのは有名な話。では、「美容」となるとどうか。エステティシャン協会認定校の「カリタ」で長年講師を努めた森本チヅ子先生に伺ってみよう。

「私達の皮膚、いえ、皮膚に限らず人間の細胞はたっぷりの栄養と酸素があってこそ、瑞々しさを保てます。この栄養と酸素を運ぶのが血液ですから、血液をサラサラにし、循環をよくする事は美容にとっても大事な事です」

「血液をサラサラ」は美容の世界でも注目されていた!

 聞けば、女性が抱える多くの美容の悩みは、血行不良、つまり「血液ドロドロ」が原因の事も多いのだという。

「例えば、目の下のクマ、これには原因が2つあって、ひとつは色素沈着、もうひとつは酸欠です。酸素不足のため、血液が汚れたままで滞り、目の下が黒く見えるというもの。後者の場合は、顔を軽くマッサージしたり、パッティングすることで、解消します」

 なるほど、マッサージをすることで、血液の流れを良くして、酸素を送り込めば解消するというわけだ。

「色素沈着によるクマも、新陳代謝が良くなれば皮膚が生まれ変わって徐々に薄くなってきますから、長い目で見れば、血液をサラサラにする事が解消法になります」

 という事は、同じく色素の沈着によって出来る「シミ」も同様に血行を促進すれば、継承するということですか。

「その通りです。肌の悩みが解消して、みずみずしい肌を手に入れるには、血行を良くする事(血液サラサラ)が全てなんです」

煙草を吸う女性は絶対に水を飲まなければ

 エスティックサロンの美顔コースには必ず顔のマッサージ器があったり、美容雑誌などでも「顔のマッサージ」を推奨するのは、このような理由があったのだ。

「でも、血液循環を良くするために、いくらマッサージをしても、血液が油などでギトギト状態で、流れていかないのでは意味がありません。ですから、エステにいらっしゃるお客様にも普段から水を飲むようにお願いしています。

 サロンでは最初にウェルカムティーを出して、施術が終わった後にもお茶やお水を出すところが多いと思うのですが、それも水分補給の機会を多くつくるためなのです。」

 また、煙草を吸う女性には特に水を飲むことが大切だ、とも。
「煙草を吸うと、血管が収縮します。そうすると、血液がなかなか流れていかない。だから、煙草を吸う人の顔はくすんでいるのです。

 美容のためには、吸わないのがベストですが、吸わない事がかえってストレスになるのでしたら、水をたくさん飲むこと。そうすると、血液がサラサラになって、収縮した血管でも流れやすくなりますよ」

「水で血液サラサラ」は健康だけでなく、美肌にとっても万能薬のようである。

つやつや肌をキープするもの

 化粧品にお金をかけている女性は多い。でも、皮膚は老廃物を排出するのが主な機能のため、吸収作用はわずか。ビタミンC配合などの栄養成分をうたう化粧品は多いが、吸収はあまり期待できない。

 栄養は本来小腸から吸収され、体内から送り出される。肌への栄養も同様だ。肌は、血液やリンパから栄養支給を受ける。血液やリンパの主成分は水分。つまり肌への栄養補給にいちばん大事なのは水というわけ。それを考えると浸透性が高くミネラルバランスのよい水が好ましい」

全身に酸素を送り込むとダイエットが進む
その酸素を運ぶ血液を水で生き生きさせる

「血液サラサラ」が美容に効果的ならば、一歩進んでダイエットにもいいのだろうか?

「もちろん、そうです。よく、太ってしまったら、有酸素運動をしなさい、と言われますよね?有酸素運動とはウォーキングや水泳など、一定の呼吸を継続的に行う運動です。

 なぜ、有酸素運動かというと、体に詰まった脂肪を燃焼するのに酸素が必要であり、沢山の酸素を送り込む為には、ウォーキングなどのように、沢山の呼吸をする運動がいい。で、体中に酸素を届けるのは血液の役目

この血液がドロドロだと酸素が全身に巡らないし、脂肪だって燃えない」
というのは森本チヅ子先生。

「有酸素運動をしている間に汗をかくと、血液が濃くなってきますから、あい間にもしっかり(真水で)水分補給をされる事をお勧めします

 また、最近良く耳にする「セルライト」。これは、お尻や腿(もも)の辺りに脂肪の組織がデコボコ状になって出来るものだが、やはり「血液サラサラ」によって解消する、という。

「セルライトは血液循環が悪くなり、脂肪の塊が出来た状態。つまり、血液がドロドロだと出来るんです。その証拠に、日本の女性湯おり欧米の女性の方がセルライトが出来やすいのですが、欧米はご存知の通り肉をよく食べます。動物性の脂肪は血液をドロドロにしやすいから要注意なんですよ」

ダイエットを考え食べ物とのバランスを

 確かに、日本で発売されている、セルライトに対する対応のスリミング財や錠剤などは、殆どが欧米のもの。向こうの人はそれだけ深刻だという事だ。

「スリミング剤を使うのもいいですが、やはりいちばんの対処法は肉中心の食生活を改める事。そして、血液の状態をサラサラにしていく事です」

 血液をサラサラにするには、例えば青魚を食べるという方法もある。青魚に含まれるDHAという油が血液を綺麗にしてくれる、という話をどこかで耳にした事があるだろう。

 だが、カロリー的にはサンマ一匹で約160カロリーと油だけにやはり高エネルギー。ダイエットを考えるなら、やはりノンカロリーの水だろう。

「水には血液をサラサラにして、脂肪燃焼を促したり、セルライトを解消するだけでなく、水分代謝もよくし、体内に滞っていた水を排泄する働きもあります。
 ですから、『水を飲んでも太るから』とか「むくむから』という理由で水を飲まない女性もいますが、ダイエットしたい人こそ、水を飲んでほしいですね」

 また、ダイエットの大敵「宿便」も朝一杯の水を飲むことで、腸の働きを活発にして、解消につながるという。こうした面からも、水はダイエットの強い味方と言えそうだ。

水でダイエットができるのか

 水が及ぼす効用は、血液循環が良くなる、蓄積された脂肪の代謝を助ける、体内の老廃物や毒性物質を排泄する、便秘を予防する、などがある。

 でも、「水を飲んでも太る」という人がいるのは、それはリンパの流れが悪いため。太っているのではなく、むくんでいるのだ。まずリンパ循環を良くすればそれは解消される
 
 水分を摂ると太るからと水を飲まないのは過ち。水を飲まないのは、体内の老廃物の排出が悪くなったり、便秘の原因になったり、むしろ太る原因となるので、気を付けて。

ストレスは水分不足から来る
結果、血液を濃くして病気を招くことに 関戸秀臣先生

 ストレスを貯めすぎると、感情のエネルギーの行き場がなくなり、交感神経、副交感神経という自律神経のバランスが片寄ってしまう。

 結果、イライラ、動悸、めまい、耳鳴り、頭痛、肩凝り、発汗、胃痛、消化不良、便秘など、様々な症状が現れてくる。その辛さを紛らわすために、喫煙、アルコール、甘いものなどを多量に摂取したくなるのも、また当然である。

 困ったことにその全てが、血液ドロドロの要因であり、いわゆる生活習慣病を招いてしまう。
 また、ストレスによる活性酸素の増加と、血管の縮小も血液をドロドロにし、血管を傷つけ、動脈硬化を引き起こす事が懸念されている。

 関戸整体医院長、関戸秀臣先生は、そのストレスの原因が水分不足にもあると判断しているとか。

 水分が不足した体は、内因ストレスを抱え込み、仕事、生活、環境からくる外因ストレスに過敏に反応するようになる。この反応の悪い影響をまともに受けると、さらにストレスを溜めるようになる。

 反対に水分に満ちたみずみずしい健康な体は、たとえ外因ストレスがあっても、それを受け流す余裕を保持出来るのだ。

 これは、砂漠に風が吹くと砂嵐になるが、緑の大地は風が吹いてもそれを受けて揺れるだけ、という光景に例える事が出来る。
 体を安定した状態に保つ仕組みを維持していく上で、水はこんな大きな役割があると考えているのである。

暴飲暴食を招くストレスを水で撃退

「食べ物を食べるとお腹が膨れるように、水を飲み続けていると、体中の血管に水が行き渡り、体が『満ちた!』と実感できるはずです。
そして自然に気持ちも落ち着いてくるのです」と関戸先生。

 体が自然と満ちている状態になれば、生活習慣病の元凶である暴飲暴食が軽減する。イライラも少なくなり、喫煙量や酒量も減らす事が出来、自然と薄味を好むようになり、濃い塩味、極端な甘い物を要求しなくなるのだ。

 そしてこの状態にある時、血液はサラサラになっていると考えていいのだとも。つまり、逆にストレス過多の状態は、血液ドロドロの状態なのである。

「水をたくさん飲めば、自律神経の片寄った状態が、本来のバランスに戻り、体温調節、消化、循環の各能力が正常になり、ストレスを跳ね返す体力が出来、同時に血液も蘇ります」

 人は、1日に約2.5Lの水分を尿、便、汗、吐く息として排出している。対して、食事などで自然に補給できるのは、約1.5L。残りの1リットル、コップ約五杯分は食間に摂らなくてはならない計算だ。

 だが、ストレスを抑えて体が良好な状態を保つには、これ以上の水を飲む必要が生じてくる。
「1日に最低必要なコップ5杯(約一リットル)以外に、さらに一杯ずつ5回を飲むと良いでしょう。これは、体質を変えるために飲むのです」

 辛い体の症状は「水を飲め」のサイン。やがて、無意識のうちに、自分がその日必要な水の量がわかるようになるという。


FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

外側に神を創り上げたとき、我々は神であることをやめた♪人類と宇宙の進化の一大プロジェクトの総指揮・宇宙の大存在、宇宙のアーキテクト・であるフィリップさん♪地球での日々のドラマをJOYに満ちたものにすることが新王中の兄弟・姉妹たちの仲間入りの条件♪宇宙を乗りこなす喜び・総まとめ記事♪


「宇宙を乗りこなす喜び」
     の総まとめ記事をご紹介♪

 今回は「宇宙を乗りこなす喜び」の総まとめ記事になります。原本が相当にレアな本ですので、かなりお得な内容となっております。
 見られてラッキーみたいな♪

「zeraniumの掲示板様」がリニューアル
される前の時の記事のまとめになります。

 フィリップさんのお話は、真理に精通されている方も納得の「あなた方は霊」「光の実在」「あなたの本質は神」という内容もあり、大変素晴らしくて本質をついておりますね。

 知花先生や上江洲義秀先生・バーソロミューさん等々をご存じの方でしたら、悟りの話でもしてるんじゃないの(笑)…っていうようなお話ですが……。

 分離意識の克服をして、「全てが神」「全知全能の神…我が中にまします」「我神なり」「父なる神と常に一体」の境地に到達する事が、いわゆる地球からの高度な惑星に移行できる「解脱・悟り」の条件だというドクターピープルズ(高次元の存在)のお話も御座います。

 実のところ真理というものは、永遠に変わらないものですから、バシャールさん等とある程度同じような内容になるのは…ある意味、これが真理だという裏付けになるのではないでしょうか。

 真理に覚醒めて、今回の「宇宙の大存在・フィリップさん」のお話を再拝見した訳ですが、昔見た時と違って、これまた手にとるように理解できまして、自身の真理の理解力の成長に、驚きと共に大変嬉しい思いになりました。

 何年か前に見た時は、ふわふわしたスピリチュアルのような感覚で捉えていた感じでして、それは未熟な理解であるが故の印象だったのですが…、改めて見たら、まさか…ここまで奥深い最高の真理の内容だったなんて…っていう、そんな感じです。

 お釈迦様の手のひらで踊らされている悟空が、自分がお釈迦様ご自身だと気づいた…みたいな♪

 分離意識を克服した時に、「自分が神ご自身」であり、「永遠に神と一つ」であった…と、それに気づいて、自分が本来持っている宇宙力を、存分に発揮できるようになった時に、フィリップさんのいう「真の自由」を得られるのかもしれませんね。

 ただそこまで簡単という事ではなくて、それなりの努力は必要でありまして、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「洗心の習得」「全てを許し全てを愛する境地」
「宇宙の因果律を理解する」「全てが神・全てが私」
「真理(宇宙法則)を潜在意識に染み込ませるぐらい理解する」
「慈悲と愛は宇宙真理」「愛と調和」「無限の赦しの体得」
「笑顔と感謝」「身口意を正す」「無条件の愛の理解」
「神への深い愛・神への連続的感謝の意識状態」
「神を求める真我の祈りの実践」「肉食を止める」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
等々を完全に理解して、体得できた時に、”神我一体”の境地に自然に到達出来ることでありましょう。

 私もそれなりに修行を体系化して実践して、自分自身の中で消化してきましたので、ここまでの境地に到達出来ております。

 このブログで、ある意味…私の魂の成長日記みたいなブログではありますが、沢山の方々が短期間で魂が大きく飛躍できますように…と、ボランティアスピリットで頑張って、色々と地球最高の奥義(真理)を余す所無く記載しております。

 Androidの「Pocket」というアプリを使えば、オフラインで記事を見られるようですし、いいまとめ記事をどんどん保存して頂いてご観覧頂いて、皆様が「永遠の至福」の人生に到達する踏み台として…お使い頂ければ、私としては至上の喜びで御座います。

 

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肉食の問題点の素晴らしい記事♪(黄金時代様)
http://deeksha777.blog88.fc2.com/blog-entry-356.html

人類と宇宙の進化の一大プロジェクトの総指揮・宇宙の大存在、宇宙のアーキテクト・であるフィリップさんが語る宇宙法則

外側に神を創り上げたとき、我々は神であることをやめた

 あなた方はみな生物的な実在であり、生理学的肉体を持っています。
 同時にあなた方は「霊」であり、つまり「光の実在」でもあります。「霊」であり、「光」であるということは、あなた方は「神の火花」でもあります。

 あなた方は本来、「存在の大本なる神」から生まれ、愛されて存在させられるに至った神のスパーク・光です。

 つまり「あなた方の本質」は「神」であり、「神の火花」なのです。その神の火花・スパークが肉体の中で生きようとしているのが、あなた方一人ひとりであり、それぞれがユニークに設計された、「個性豊かな火花」なのです。

 あなたは自分というユニークな火花を持って肉体に住むことにしました。
 それは胎内に懐妊したとき、あるいは誕生のとき、また肉体が誕生して数年後にそうすることもあり、こうして肉体に神の火花としてのあなたがかぶさり、自分を表現するための媒体として肉体を持つようになりました。

 肉体に住むようになったあなたはそこへ自分を移し変え、肉体と一体となり、必ずしも肉体を乗っ取ったわけではないのですが、肉体を通して表現し、体験を通して生きるようになりました。

 「あなたの本質」は「」であり、「神の火花(神の化身・表現者としての神)」です。
 もしあなたが自分以外のところに自分の力のよりどころ、頼るべき何らかの神を置くとき、あなたは自らの「内なる神の火花(内在の神)」を外在化させたのです。

 それがどのような理由でそうすることになったかに関わりなく、あなたの人格がこうした神や仏、救い主を外在化するようになると、いわゆるサブパーソナリティ(隠れた意識)というものがつくられます。

 それは潜在意識とも呼ばれることがありますが、私たちはそう呼んでおり、そうした一つの人格があることを強調するためです。

 あなた方の地球ではみんながしていることですが、あなたは自分が神であることを信じなくなった瞬間に、自分の内なる神の火花を外在化したのです。

 つまり何らかの神や仏や救い主を信じたり、拝んだりするようになった瞬間に、あなたは神であることをやめたのです。多くの人々は自分の外に何らかの唯一の神や仏や救い主を崇拝し、奉仕し、仕えるような宗教や哲学の下に生まれ、あるいは選択しました。

 そして実際にそうした信仰体系だけであっても、すでに自分の内なる神の火花を外に置くとき、もはや神は自分という生物的存在にではなく、別のところに存在すると言っているのです。

 こうしてあなた方は小さい時分から、自分は実は神であるということを放棄するのです。こうした本来の自分を放棄して生きる生き方のもう一つの方法は、責任を持たないということで行なわれます。

 つまり、自分の人生は(偶然の賜物なので)自分の責任の及ぶところではないと信じることにより、(外側のどこかに存在する神から一方的に与えられる運命を受け取るだけの)、肉体の知的感覚だけで生きようとすることです。

 本来の内なる神の火花を完全に外在化することはできませんが、あなた方はその「ふり」をします。このようにしてあなたの肉体は神を宿しながらも、神は外に存在するもので、自分は別個に存在しているふりをする生物体となります。

 こうしてあなたという生物体は、一連の状況と行動、反応、ニューロンの神経伝達によって単独で動くようになり、そうした情緒的状況が生み出す神経伝達と、単なる行動の塊りであるだけの生物的なサブパーソナリティ(副次的人格)を生み出します。

 そのパーソナリティの形態は、あなたの生物的反応と「神の本質」とをかけ合わせたものから作られます。

 ほとんどの人は一つだけでなく、複数のサブパーソナリティを持ってそれを作動させています。そして実は、こうしたいくつもの「仲介者」がいるために、あなたは分裂し、生物体としての本来のあるべき神としてのパワーを機能させることができません。

 ですからこうした複数の「仲介者」をうまくこなし、あるいは取り込み、変容させることによって生物体としての機能をフルに始動させ、「本来の姿」である「神として機能(神我顕現・神との合一)」できるように学ばなくてはなりません。

 これこそが「自分という本来の神」を「内在化」させることであり、あなたという神を歓迎することで、それはいわば新たなる家、城としての肉体に自らを城主として迎え入れ、肉体を自分の王国とすることによってのみ果たし得ることなのです。

 ですからあなたが自分自身を嫌い、肉体を嫌い、そのゆえに問題を抱え、そうした自分の部分を受け入れることなく切り捨てていくたびに、当然、そうした凱旋(がいせん)の道のりは遠のいていきます。文字通りそれは、自分の部分を外へ外へと、どんどん遠くへ追いやっていくのです。

 誰でも、自分に対して何らかの審判をくだし、決め付けをし、批判するとき、より強固なサブパーソナリティを作り出していきます。自分が自らの好きではない何らかの部分を追い出し、締め出すとき、あなたは本来の神の本質である火花をどんどん遠くへ追いやっているのです。

 誰でも自分の嫌いな陰の部分を持っています。同時にとても素敵なのに、気にも留めないような部分もあります。他人と比較して何か変だと思っていたり、自分では受け入れられないものを批判します。

 それが何であれ、あなたが自分の現実から好きではないものを拒否するとき、それは外在化され、それがフィードバックとなっていき、そうやってあなたはそこに新たな神を作るのです。

 たとえば、あなたの内には膨大な怒りがあるとします。
 しかし怒りっぽいのは問題だと考え、社会的にも受け入れられにくいものなので、何とか抑圧するようになります。

 その結果あなたは、怒りはよくない、怒るのはよくない、敵意を持ってはいけない、暴力はいけない、それらはまずいことでいけないことだと思います。そしてそれらを抑圧し、否認するようになります。

 しかし否認するものは何であれ外在化するようになり、そして同時にそれは、あなた自身から遠くへ追いやっているあなた自身なのです。

 すると怒った自己は神の火花と同じところに押しやられるので、怒りの性格を自分自身の神の火花に与えてあなたは怒りの神となります。そしてあなたは、「神は怒っている」と捉えるようになるのです。

 そうなると、こうしたサブパーソナリティがあなたの人生を動かすようになります。
 それはあなた自身の怒りであり、神の本質を否認することで作り出されたサブパーソナリティですが、それはあなた自身でもあります。それは無条件であるために、何であれあなたではないものでもすべてを丸ごと受け入れ、生命を与えます。

 さてこうして、とても怒ったサブパーソナリティがあなたに備わりました。
 抑圧や否認に陥るときは必ず、否認という行為自体があなたが否認しているものに生命を与え、あなたの外在神へと押しやることになります。それを抑圧しようとすると、受け入れて手放すよりもはるかにもっと多くの問題が起きるのはそのためです。

 否認して外在化されたとしてもすべての部分には神の火花の生命があります。つまり抑圧されるものは必ず跳ね返ってくるわけで、それはいつか必ず表面化し、直面しなければならないのです。これは自分の進化においては避けられないことなのです。

 あなたが何かに対して恐れを抱いているとします。
 しかしその恐れがどこから生じているかに向き合うことなく、普段そうした感情を無視し「怖れてなんかいない」、あるいは「そんな部分は見たくないし、考えたくない」と思います。

 そうするとあなたはそうしたサブパーソナリティを持つことになります。それがあなたの人生を支配するようになるという意味は、あなたがその恐れの原因に向き合って手放すまで、その恐れは繰り返しあなたの人生に立ち現れてくるのです。

 あなた方の社会や文化には、受け入れにくい、あるいはふさわしくないという理由だけで多くのことがらが抑圧されており、隠すように教えられていることがたくさん存在します。

 それはさまざまな行為だけでなく、人々の性格にまで適用されています。しかし抑圧され、否定・否認しようとするものはどんなことでも、外在化された神に付け加えられ、いつか必ず向き合わねばならないパーソナリティの部分となっていきます。

 いつもビクビクして、怖くて仕方がないという人がいますが、そのゆえに彼らは実は怖れる人、怒りの人であり、おそらく人生のどこかで怖れや怒りを否定してきたと思われます。自分の一部を否定すれば、それは外在化されます。

 すると機能しないサブパーソナリティが形成され、今度はそれを通して人生を見るようになるので怖くて仕方がなくなるのです。
 しかし自己覚醒の道を、本来の自分の持つ力というエンパワーメントの道を歩み始めると、こうした人は「怒っている自分」に気づくでしょう。

 エンパワメントとは、自分本来が持つ神の力を取り戻すことですが、すでに手放してしまっているものをどうやって取り戻せるのでしょうか。しかし実は手放したのではなく、自分は神ではないからと、外在化したさまざまな神を作り出して脇に置いただけなのです。

 しかしそうしたサブパーソナリティは実に緊密に、あなたの肉体と霊とに重なっているので、あなたが否定し見たくないものを迂回することをよく心得ています。あなたは自分が神であることを恐れたので、神の本質を外在化させたのです。

 霊は肉体に宿りますが、閉じ込められているわけではありません。
 「あなた」という「神の火花(神の表現体・神の化身)」は、肉体ができる前に存在している、体が朽ちても存在する霊なのです。それは自由自在に望むところどこにでもいける神の本質です。

 あなたという霊は肉体に宿り、それを通してすべてを体験したいと決心したので肉体に入ったのに、あなたはそうした自分のすべてを受け入れようとはしません。

 自分という本質(真我・我神なりの自覚)を全面的に受け入れようとはせず、否認した部分は外へと追いやり外在化したままです。その結果、肉体全体が反応して、分裂してサブパーソナリティができるのです。

 あなたは、「それなら簡単だ。本来の神であればいいし、本来の自分になって何も外在化させなければいいんだ」と言うでしょう。

 ただ理解してほしいことは、あなたをコントロールしているものはすべてそれぞれが、あなたのサブパーソナリティを通してあなたのコントロールをしているという事実です。

 つまりあなた方はみな、実はたくさんの神を崇拝しているのです。そうして分散化させ外在化している神を、あなたは今引き戻そうというわけです。

 あなた方の多くが幼児期から、(キリスト教的・仏教的な)唯一神を信仰する宗教や哲学的な信念を教えられてきました。それによって神や仏を(自分の外側にあるものとして)外在化させたことから、いわゆるサブパーソナリティ(隠れた意識)が作られました。

 そして外在化された人々みんなの神や仏は混ぜ合わされて、(外側に存在する)一つの神となっています。この惑星の大多数の人々が、いかなる宗教や信念にかかわらず一つの神を信じています。

 この神というものの人々の持つ信念という集合意識こそが、私たちが言うところのゲシュタルト、いわば一つの世界、一つの大きな枠組みとなってあなた方にかぶさっているのです。


意識的決意をした人々は「次元上昇」する

 あなた方の惑星は集団的次元上昇の準備をしています。そしてこれは、これまで遙か昔から長く計画されてきたシナリオでもあるのです。

 あなた方の歴史における多くの逸話や予言の多くが、この惑星で起きる集合的次元上昇のことを語っています。

 これはあなた方の多くが何世代にもわたって、分裂の終焉を希求してきたために起きているのです。そこには、完結させて全体となり、もう家に帰るのだというやむにやまれぬ内なる願望があります。

 かつて十分な数のあなた方が同じフィーリングを感じた時、いわゆる臨界点が設けられました。つまり、あなた方は地球上で、永劫の昔からやってきたゲームをもうやめたい! という声を上げているのです。

 臨界点はまた、宇宙においてドミノ効果も生み出しました。
 それは幾世代かの魂たちを目覚めさせており、そのことで彼らの分離もなくなっていきます。

 また彼らは、自分たちの子孫ともいうべきあなた方子どものことを知りたいと望んでおり、宇宙史上初めてここにやって来るための動きを起こしています。

 彼らは、分離状態をもう終わらせたいというあなた方の願いに気づいており、その呼びかけに応えているのです。

 そしてあなた方の望みは、彼らが全部並んであなた方の次元に入って来られるような一つの窓口を、自空間に創り出したのです。あなた方はここから出て行き、一方宇宙からここへ入って入ってくる彼らと意識のなかで出会うのです。

 そしてこの集合的次元上昇は、あなた方が存在するようになって以来ずっと続いてきたこの分離を、宇宙からなくするために行なわれる合流の副産物でもあります。

Q、 物理的側面では、集合的次元上昇はどのように起きていくのですか?

 ここでは、「意識的に次元上昇したいという意図を持つあなた」である必要があります。つまり意識的にそうした理想として形成されていないものは何であれ、それはできないということを理解してください。

 十分な数の人々が次元上昇を信じ、それを事実として抱きかかえるようになることは容易なことではないでしょう。さまざまな場所で一人ずつがそうしていくなかで、他の多くの人も次第に合流していくような枠組みが出来上がっていきます。

 基本的に集団的次元上昇は、「出産」のプロセスです。
 地上において十分な数のあなた方が臨界点に達すると、バイブレーション(振動)が変化し、あなた方の多くが次元上昇するでしょう。

 次元上昇して地球から出ると、あなた方は後ろ手に地球を引っ張るようになります。私たちはいま、あなた方がイメーシを持ちやすいようにこうした表現を用いています。

 あなた方は、「では、次の火曜日の12時にそれをやりましょう」とお互いに知らせ合ったりはしません。そのバイブレーションは突然ピークに達し、ただそのようになるだけなのです。

 あなた方の多くがその前線に立つでしょうが、すべては上昇します。
 つまりあなた方の中で最もバイブレーションの強い人が先頭に立ちますが、そうしたことに序列はなく、十分な数のあなた方が地球を後ろ手に引っ張るのに十分な速度をつけることでしょう。

 そのとき、惑星上でさまざまな機能の役割を果たしている多くの人々のなかに、周囲から突然消えてしまう人々がいるでしょう。周囲の人々は一体何が起きているのか理解できないでしょうが、集団的次元上昇の時には忽然と消えていく人たちがすべてを引っ張るのです。

 すると、瞬(まばた)きの瞬間にすべてが変わります。
 上昇し始めると、あなた方が合流していく他の魂たちが地平線に現れ始め、あなたとぶつかり、そうしてあなた方は自らの喜びに押し戻されて内なる分離は終わります。

 「あなた方は神」であり、「創造者」となるのです。こうした出来事は頻繁に起きるものではなく、あなた方の惑星はその準備をしており、あなた方の多くが今回の人生における肉体でそれを体験するでしょう。

Q、 あなたの視点から、アセンション(次元上昇)がどのように起こるのかはわかりましたが、アセンションという表現はたとえば雲の中に引き上げられるといったような(キリスト教的な)、独特のイメージを与える言葉ですね。

 私たちは「肉体を一緒に持っていく」という表現のほうを好みます。
 あなたの言うように、「アセンション」という言葉には問題を感じているので、そういう言い方をするのです。

 この表現にはいろいろな含みがあり、そうした手垢(てあか)がアセンション自体を邪魔することになりかねないものを取り込む可能性があります。上昇とは単に登ることであり、梯子を上るように一点から別の点へと動いて上がっていくことを指します。

 アセンション(次元上昇)とはバイブレーション(振動)であり、誰もが自分の持つ振動(バイブレーション)で、行ける限りの上昇をするわけですが、あなた方はこの三次元という物質世界に入ってからというもの、実は継続して上昇してきているのも事実です。

 それが成長というものであり、一つの進化からさらに次へと上ってきているのです。そして同時にあなた方の肉体のバイブレーションもシフトしています。

 それはとても自然なプロセスなのですが、地球の人々は次元上昇(アセンション)を自分の能力を超えた特別なもののように捉える傾向があります。実際に、一つの次元上昇を終えた人のことをアセンディッドマスターと呼ぶようですが、彼らの多くは実はあなた方とそれほど違うわけではありません。

 しかし多くの人々は、彼らは自分たちよりも優れていて、彼らの足元にも及ばないとか、彼らこそ壮大な光と情報の源であるなどと思っています。しかしそうではなく、事実は彼らがあなた方と差が生まれるような振動をしたというだけのことなのです。

 また多くの人々は一つの次元上昇をした彼らを、自分たちが行き着ける最高の次元だと思っているようですがそれも違います。アセンディッドマスターたちの多くの者もまた、彼らが望む限りさらなる次元上昇の途上にあるわけです。

 自らのいまいる次元をさらに超えて上昇を続けるものもいますが、それをせずそのまま動かず留まっている者もいます。つまり進化していないのです。そうした彼らはその理由から宇宙の広大さを見られずにいるわけで、それはあなた方がここで不自由だと感じているのと同じことなのです。

 なかにはその振動のゆえに広範囲まで見えるものもいますが、それは単にそれだけのことで、より優れているからではありません。ただ彼らはどうやって振動を上げるかを知っています。それは知識から、光から、そして自分という存在を愛することから生まれてくるものです。彼らはこの惑星を離れたときに、自分の振動を上げてこの次元との振動差をつくり出したのです。

 地上には、次元上昇のプロセスに乗ろうという意識的決意をした人々がたくさんいるので、次元上昇が起きれば、あなたの隣で大した意識もなしに一緒にアセンションする人々がいます。

 それはあなたからしてみれば、彼らは大して霊的でもなけれ知的でもなく、次元上昇しようとも思っておらず、そもそも次元上昇の意味すら知らないのです。しかし彼らは心が開かれており、それが彼らの振動数をシフトさせるために共に次元上昇してしまうのです。

 次元上昇(アセンション)というものに対する偏った思い込みのために、多くの人たちが自分のエゴを満たしてくれるような劇的なアセンションを待ち望んでいます。一方で、なかには恐怖心から次元上昇を求めていますが、むしろそのために肉体を上昇させられない状況を作り出している人もいます。

 そんなようなことはあり得ないと受け止めている人々もいます。そのことを信じている人であっても、自分はアセンションする価値がある、自分のやってきたことは間違ってはいなかったという証拠を得たいがために、アセンションしたいと思っている人々も多いのです。つまり多くの人々が次元上昇をすることで、自分の正しさというエゴを証明しようとしているのです。

Q、 次元上昇のプロセスを始動させるために、科学的視点から見るときに肉体にはどんなことが起きているのですか?

 次元上昇するためには、地球にあるすべての振動とは異なる別の振動へと分子構造を変えなければなりません。そのためには、DNAを含めたすべての肉体的遺伝子構造を完全に再構築し、光の速度で動くように教えなければなりません。

 つまりあなた方は、肉体にまったく新しい細胞構造を組み立てようとしているのです。三次元の濃密な分子構造から抜け出て、新たなホログラムの光の原理を構築しようとしているわけです。

 あなた方は地上でのリアリティに集中しているので、非肉体的な部分の自分に注意を払うことはありませんが、しかし実際には見えない肉体の部分のあなたこそが、いわゆる光の存在の部分なのです。

 それがあなたの心臓の鼓動を生じさせ、肺を機能させ、その他の臓器を意識的に考えることなく活動させている知性体です。

 存在の光は毎瞬毎瞬、あなたの肉体を創造し続けている心臓の裏側に座っています。細胞は、このホログラムの光の刻印によって創られて成長します。

 その進化とともにあなたの光の肉体(ライトボディ)も変化してゆき、肉体の分子構造を構成する新たな細胞のホログラムパターンも変わっていきます。

 あなた方の多くは現在、自らの存在のなかに愛を抱えるようになっているゆえに、膨大な量の光をもたらすようになっています。そうした中で新たなホログラムの刻印(インプリント)を創り出すと、肉体の細胞がその刻印どおりに形成されていきます。

 このようにしてあなた方はいま、新たな光の原理によって創り変えられています。そうした未来の肉体は、膨大な量の霊を抱えられるようになります。なぜならそうした肉体は、愛と生きる喜びによってだけ支えられる光の原理によって創られているからです。

 「喜び」という振動数においては、思考は光となっていきます。
 つまりアセンションのプロセスとは、絶え間ない膨大な量の喜びと同じものなのです。あなたの肉体がこうした強烈な喜びをどこまで抱えられるかによって、その成功を計ることができます。それが今のあなた方のゴールであり、多くの人々が次元上昇を望む理由でもあります。

我々に唯一必要なことは、「楽しく生きることを学ぶこと!」

 この地球という惑星は、この子宮を突き破って向こう側へ生まれ出るために十分な「突き」が必要です。そのとき同時にあなた方の根源意識は閉じられ、あなた方もこの惑星も、この地球という子宮内にあるすべてのものはたった一つの細胞に還元されて時空に押しやられ、そうして新たな宇宙へと生まれ出るのです。

 しかし唯一の問題は、その中核細胞であるあなた方が「生きたい」と思っていないことなのです。なぜなら今この地上には、生命を愛し、生きたいという意欲を持つ者がほとんどいなくなっているからなのです。

 この惑星には生きようという意思がないのです。ほとんどの人々は退屈していて希望がありません。この「誕生」という次元上昇のチャンスを死産に終わらせないためには、「生きたい」という意欲と生命への強い愛が必要なのです。

 その細胞にはありとあらゆる可能性や、考えたことはあっても一度も実行したことのないものなど、これまで存在したすべての事柄が詰まっているというのに、それは死にたいと思っている。あなた方には生きたいという意思がないのです。

 そんな状態では子宮から出ても萎(しぼ)んで、死産に終わってしまうでしょう。それを何とか生きよう!という気にさせなくてはなりません。愉快に人生を楽しみ、生きることにワクワクし、奇跡を見出して素晴らしさにキラキラ輝いて!

 自己価値ホルモンがまだない状態で、生命を愛する、自分を愛するというのは少々難しい話かもしれません。いま、あなた方の体にはそれがありません。それをつくるには、まずそれを望まなければなりません。あなた方のDNAは、梯子(はしご)がねじれたような二重螺旋(らせん)になっています。

 あなたが生命を愛し、自分自身を愛し、満足できようになるためには二本から三本の三重の螺旋が合わさることが必要です。螺旋が三本あって始めて、自己価値や愛が生まれてくるのです。さらには肉体に生命を吹き込まなくてはならず、そうすればあなたが肉体を離れて墓に入ってもそれは生き続けるのです。

 それでこのホルモン、つまり三番目のDNAの螺旋はあなたの肉体には与えられていないのです。なぜなら、生きたい! と自ら思えるようになるまではそれがあっても残酷というものでしょうから。つまりそれは、あなたが自分自身を十分に愛することができるようになったとき、自分で大きく育てるようになっているのです。

 いまあなた方は、その螺旋の横木を育てています。
 が生命ホルモンをあなたの体に注入することです。生命ホルモンは、あなたの好きなものや嫌いなもののすべてを成長させます。特に罪悪感は極限まで膨らみ、そのまま放置しておくとネガティブなものとなって肥大化していくでしょう。

 でもあなたが自分のことが大好きで、今の自分のありのままを全面的に受け止めることができるならば、ポジティブなものもまた、さらに肥大化していきます。つまり自分が関心を向けるものが育っていくのです。

 罪悪感の問題がクリアできれば、遺伝学的には千年かかることを、種は短期間でやってのけられるでしょう。しかし罪悪感をそのまま放置すると、あなたの肉体が神を宿せるようになるまでに1万年から2万年の進化を経なければならないのです。

 次元上昇という誕生、そして今クローン中のこの惑星についても同じことが言えます。
 あなたはどちらで生きるかを選択しなくてはなりません。あなた方の体が細胞のクローンを作るとき、クローン細胞はもとの細胞ほど健康ではありません。

 その理由はあなた方が十分な光を入れないからです。宇宙では自らのクローンを作る際には、密度が高すぎて重過ぎる余分なものは脱ぎ捨てます。

 宇宙におけるクローンの過程では、新しいものは古いものよりも常により大きく、より明るく、より美しいのです。それが宇宙のはたらきです。そしてあなた方は意識的に、自分はどちらの核に乗っていくのかを選択しなければなりません。

 この惑星はまだ分裂せず、しばらくは安定しています。
  そのときにあなたは二者選択をするのです。密度の濃い恐れと痛み、辛さとストレスなどの古い世界にこれまでのように留まるのか、あるいはそこから抜け出して新たな星に生まれ出るのかを。誕生を引き起こすためにはその両方が必要です。密度が濃い部分はそうでない部分の錨(いかり)としての役目を果たし、発射台となります。全員が出て行くのですが、どこまで行くかを決めるのは自らの意思です。

 この誕生、シフトの臨界量をもたらすためには、ほんの一握りの人々が必要なだけです。しかしその少数の人々は、情熱的で、熱烈に喜びと生命を望む人でなければなりません。そうでないならば次にこのチャンスがやって来るまで、一体どれほどの長い間待たなくてはならないことでしょう。あなた方の多くはもう十分にウンザリしているのです! 

 この誕生という次元上昇に向けて突き抜ける旅は、かつてなくエキサイティングな体験となることでしょう! 私にとってはこれが3度目の誕生ですが、宇宙でこれほど楽しいことは他にはなく、しかもめったに起きるものではないことだけは保証します。そのためならどんな犠牲も払うだけの価値があるものなのです。

 宇宙的にはそれがビッグバンであり、新たな宇宙の誕生であり、35万年の後ろにゼロが百万個つくような頻度でしか起こらないことなのです。そのうち死産に終わらずにうまくいくのは、10回に1回だけです。

 今回のチャンスを逃すと、また長いこと待たなくてはなりません。
 いま、生きることを楽しむこと、ワクワクする気持ちで生きることを学ばないと、再び永遠とも思えるほどの長い間それを学んでいくことになるでしょう!

  それは少し冗談だとしても、この計画は「事実」です。あなたが「するべきこと」、それは楽しく生きることを学ぶことです。それだけでいいのです。そんな簡単なことでいいの? と思うかもしれませんが、これほど難しいことはないのです。

 さて、私は少しばかり歳をとっていますが、何度も何度も誕生を繰り返しているので若いともいえます。宇宙において考えつく限りのことはすべてやってきましたが、誕生のプロセスに勝るものは他に何一つありません。宇宙にはさまざまな存在(エンティティ)がおり、あなた方はその一種です。


 それは実にたくさんの種であり、それはあなた方が考える地球外生命体の兄弟たちのことだけではなく、外貌ばかりか、機能も物理的原理も大きく異なるのです。私はそれらの兄弟たちのすべてに「顔」を持っています。

 そうした経験はそれぞれが素晴らしく楽しい、すてきな時間でした。そうした若い神、中間の神、そして古代の退屈した神々のことであり、あなた方の言葉では神としか呼びようがないので神と呼んでいますが、神々にもまたそれぞれ異なる種があり、私はそのすべてを体験しました。

 「宇宙」では「神々は一つに合わさる」のです。
 私はさまざまな意識のレベルに合一したことがありますが、それは何よりも素晴らしく、実に凄いことなのです! あなたとあなたの知識体のすべてをもって「他と合一する」という体験、それは完全なる「分かち合い」であり、それに勝る充足感は他にはありません。

 そして次元上昇という誕生のそのときには、他からやってくる数千万、数億のものたちとエネルギーが重なり合うわけですから、それはとうてい理解の及びようがないほど素晴らしいことなのです。

 ほとんどの人はまだ、次元上昇という誕生を体験したことがありません。
 体験者は今回のを新たな誕生として、進化を促進するように心がけてください。誕生こそが何にもましてスリルある体験であることは保証しますが、それに比肩するものは他にはないのです。

 いまこうして話しているレベルの私と、同時にこの惑星という子宮の外にある私の本体とがあり、本体は遙かに大きくここには入れないので、よって私は物語やたとえで語ります。自分のことを説明するのにはそれが一番簡単な方法なのです。・・・。

 ・・・。外にいる私の仕事はと言えば、その時が来たら帰郷のバスに乗る契約がある人たちの面倒を見るということです。契約は、何があろうともあなたが故郷に戻ることを保証するものです。あなた方の多くは小さいころからそのことに気づいており、今度こそは宇宙の家に帰ることを知っていたはずです。あなた方がこの星にやって来たのは、楽しみそして生を目いっぱい生きるためでした。そのことが何よりも、美しい新たな宇宙の誕生のために必要な生気をもたらすのです。

 私の仕事はすべてのタイミングを計りつつ、総指揮をとることです。
 私はここで子宮という地球内外の動きをこれまでもフォローしてきました。そして私はここでも多くの「顔」を持ち、すでに8万5000回の輪廻を繰り返し、これまでに960のの化身を次元上昇させてきました。

 それは実に素晴らしいことでしたが、そうした私の顔のさまざまな側面のなかには、あなた方もそうであるように、すっかりおかしくなってしまったものもありましたが、それらを愛する気持ちは同じです。またとても美しく、複雑で重要な部分である「顔」もあります。これはあっちで1人、こっちで2人というようなものではなく、みんながかかわっている一大実験なのです。

 あなた方の世界には遠い遙かな昔から先生がおり、彼らの主な仕事はあなたが「自分自身を愛する」こと、「自分の存在を知る」ように教えることでした。あなた方多くの人々は自由意志というものを理解してはいません。あなたがこの地球という子宮の内に抱えられているうちは、もし死にたいと思っても永遠に死ぬことはできません。

  ですからあなた方に与えられる最大の自由意志とは、生きるか否かということであり、それが自由意志と無条件の愛の究極的行為です。それは自己選択なのです。これまでにもあなた方の世界には多くの先生が存在しましたが、メッセージはただ一つ、それが「(私という)自己をありのままに愛せよ」、「私(自己)は在る」、「私(自己)は存在する」ということであったのです。


 さて、あなた方はたくさんのゴミから創られた存在だと見ることもできるわけですが、そうすればあなた方が自分のことを好きではないというのも説明できるというわけです。なぜならあなた方が教えられてきたことのゆえに、あなた方はその始まりからして拒否されたもの、カスそのものなわけですから。でもあなた方が自分のことを好きなら、それは素晴らしいことです。

 なぜならカスやゴミの自分がゴミの自分を好きになるというのですから、それは大目に見てもすごいことだといわざるを得ません。このようにいまも多くの人々は、自分たちが長い間いる多くの神々よりも、もっと創造的な存在であることを知らずにいるのです。


安全を期待する限り人生を愛することは決してない

 もしあなたが傷つくことがあるとしたら、それは唯一、誰かかがあなたの思うように行動してくれず、思い通りに愛してくれないという時にだけそうなります。

 それ以外傷つきようがないのです。ですからもし自分の思うような反応をしてもらえず、しかも自分の望むような愛しかたを望んでいるのなら、あなたは愛と喜びの歪みを作り出していることになります。

 そうしたあなたの歪みは、あなたの持つ歪んだ愛のイメージから出てきます。ですから怒りとは、そうした愛や喜びから切り離されたことから生じてきており、そのゆえにあなたはその怒りの原因を誰か他の人間のせいにするのです。

 つまり、もし彼らがあなたの思う通りのやり方で反応してくれていれば、自分はたった今喜びと愛を感じられたはずなのに、彼らがそうしなかったのであなたは彼らによって喜びから切り離されて怒っているというわけです。

 実は怒りとは喜びの一部なのです。つまり喜びの欠如が怒りであり、あなたは自分の思うようなやり方で誰かから愛して欲しいから、それが他人によって与えられないことで、喜びから切り離されたと思うので腹が立つのです。

Q、 なぜ私たちは喜べないのでしょうか。なぜ人生において怒りやイライラ、ストレス、欠如ばかりを選ぶのでしょうか?

 それはあなた方が、限られた連続体だけで機能しているからです。
 本来の感情体が100万個の喜びの構成要素を成しているとすれば、あなた方はそのうちまだほんの15から20個くらいしか感じることができないのです。しかしそうした喜びとは果たしてどんな種類の喜びなのでしょうか。

 けれども今あなた方の次元には、一度に100から200くらいの喜びの要素を抱え始めるようになった人たちが何人も存在しています。それでも100万のうちの100から200ですから本物の感じからは程遠いことがわかります。

 つまり喜びのほんの一部分だけしか感じられず知覚できないならば本物には感じられず、そのためにそこから切り離されているという感じが生まれるのです。すべてでなければ、そこから分離していると思うのです。

 あなた方の誰もが、喜びがないと不満を言います。
 でも喜びはあるのです。それはあなたのうちにあるきらめきです。喜びとは、あなた方みなの中に本来存在する火花を生じさせる周波数なのです。そしてそのきらめきという火花は、喜びの周波数で創られました。

 あなたの存在の内側にあるあなた自身を成す光の小さな分子こそが喜びであり、それは本来あなたの中に住んでおり、あなたはすでにそれを持っているのです。あなた方は自分に許している分だけ、そうした薄まっている喜びを感じたり、あるいはまったく感じなかったりするのです。

Q、 私たちは自分自身の感情を怖れているのですか?

 内気であるとは自分の感情を怖れていることであり、恐れとは連続した生命の一部分です。馴染みのない出来事や状況とあまりかかわりたくないとき、それは恐れを生み出します。

 その恐れは、真に自分の感情を理解しようとしないところから来ています。そうした感情と向き合わないなら、それは凝り固まり、より一層大きな怖れの複合体となります。

 内気さとは、自らの感情に入り、ずっとその源にまでたどって行くことの怖れなのです。そこに見出すであろう唯一の究極の感情、それはあなたという実に素晴らしく美しい愛であり、あなた方が否定したがっている愛と喜びであり、それがあなたなのです。

 多くの人が未だに自分には価値がない、自分には愛される価値がないと思っています。しかしもしどれほど愛されて、自分の存在が生み出されたかを感じるところまで遡(さかのぼ)るならば、もはやさまざまな言い訳にしがみつけなくなると思っています。

 自分を存在に至らしめるほどに、大本の根源から愛されたことがまずいことであったかのように、多くの人が感じています。生命の根源はあなたをを愛して存在に至らしめたのに、あなたは拒絶され、追い出されたと感じたのです。

 そのためにあなた方は駄々をこねる幼い子供のようであり、自分のうちに美を見出すことを望まれているのに、あえてそれをしようとはしないのです。

 怒りから、内気さから出るには、怒りがそもそも創られたところを通っていくことで家に帰れるのです。恐れや怒りといったそうした感情まで遡(さかのぼ)り、自分は大丈夫なのだということを知ってください。

 そうすると引っ込み思案である必要はなくなります。引っ込み思案とは、自分が何かまずいことを言ったりしたりして、うまく振舞えないかもしれないという恐れです。

 しかしあなたが自分の存在において「OK!大丈夫」であれば、何一つ間違えようがないのです。内気であるとは、「私は自分であることが怖い」というイメージを外の世界に対して見せているのです。

 内気さの後ろにある怖れは、人が周りにいるいないにかかわらず、自分自身であることを怖れていることなのです。それは「自分は自分自身であることでOK!」と感じることの怖れです。

 あなたはその恐れを超えて自分自身に戻ることができるし、そのためには自分はこのままでOKであり、今のありのままの自分でいいのだと感じることから始まるのです。

 先入感や偏見に凝り固まっていると、さまざまな可能性はあなたを素通りして行きます。なぜ自分の欲しいものが手に入らないのか、なぜそうした驚きが自分には起こらないのかと思っているかもしれません。

 なぜ自分にはそうしたことが起こらないのかというと、それは意識的に自分でそうしているからです。明日がどうなるかという先入感ををすでに持っているからです。

 すでに前もって意識を植え付けているのですから、それ以外のことがどうして起こり得るでしょうか。情緒的にあなたは過去を生きているわけですから、それはあり得ません。過去を振り捨てなさい。

 先入感や偏見の過去を振り捨てて、明日の朝、自分で新しい朝を感じてみてください。4時半なり5時に起きて、体には何のストレスもなく、自分が本当にしたい仕事に行くのです。

 仕事や対人関係、その他どのようなことであっても、誰の人生にも同じようなことがあります。もしそのときの一瞬だけは過去を振り払い、期待を捨て、その瞬間を生きれば、何か新しい楽しいことが人生のすべての瞬間になることでしょう。

 それが人生を愛することです。人生を愛するとは、人生があなたに何をもたらすかという期待を一切持たないことであり、そうすることで人生を目いっぱい楽しむことができるのです。

 あなた方はみな、自分を存在に至らしめるほどに自分のことを愛さなくてはなりません。人生が自分に何をもたらしてくれるだろうか、といった期待を一切持たないところに自分を持っていくのです。

 明日があなたにもたらしてくれるものに一切の期待をかけないとしたら、それは自分という神の本質を生きることそのものです。しかしながらあなた方は皆、すべて抜かりなく準備しており、20年後、30年後、そして葬式の手はずまですべて整えているのです!

Q、 そうでないと安心できないし、行き当たりばったりとか自発的にというのは難しいのです。

 ほとんどの人は脳が心配しなくてもいいように、きちんと予定を立てた生活以外は許さないのです。脳は安全保障を好み、何がどうなるかをちゃんと知っていることで安心するのです。安全とは期待することであり、そうした期待がある限り、決して人生を愛することはないのです。

 あなた方は誰もが安全さを手放すことを恐れ、自分は決して本来の自分自身という存在にはなれないという思いを手放しません。ですから決して、本来の存在にはならないのです。

 あなたというエンティティ(存在)は宇宙を創り、星を創り、太陽を創り、その他すべてを創り、そして破壊することもできるのです。それはヒトという種を創り、また地上のすべての食べ物を創ったというのに、あなたは自分の食卓に食べ物を乗せることを知らないというのでしょうか? 

 あなた方は物ごとを整理したり、準備したりはできるのに、まだソース(源・根源)になることを学んではいません。あなた方は三つのもの、つまりソース(根源)、セルフ(自己)、クリエイター(創造者)でなくてはならないのです。クリエイターの部分はかなりよくやっていますが、しかしセルフとソースはまだ発達させる余地があります。

 根源(ソース)であるとは瞬間瞬間に生きることです。
 いまやあなたは瞬間を生きる個性も持っており、瞬間は組織することができません。あなたは未来を形成しないように、とりわけ自発的であることを学ばなくてはなりません。そのことがあなたを真の自由から切り離している大きなズレなのです。

 それは本来の自分自身の存在に対する「降参」と呼ばれます。そうできるようになるまでは、さまざまな心配があなたをどこまでも支配するでしょう。その瞬間瞬間という今があなたにやってくるまでは、それについては何一つ言うことはないかのように見えます。

 根源(ソース)は、「はい、私は愛します」というだけです。
 それだけなのです。あなた方はみな、この三つのすべてになることを学んでいるのです。つまり一切の期待を持たずに、この宇宙全体を創った部分があなたの面倒を見てくれるだろうと任せられるほどに、生命を十分に愛することを学んでいるのです。

 それは「姿勢」という一つの橋であり、だからといって仕事を辞めていろいろ投げ捨てて、ということではありません。ただしそれが障害になっているならば取り上げられることでしょう。

 そして内なる姿勢は変化し、新たな橋がかり、あなたは生きたエンティティ(存在)となるのです。瞬間に手放すことを学ぶまでは、あなた方は決して何一つ現象化することはできません。ですからそれを学ぶ必要があります。

 瞬間に生きるとき、あなたは過去と未来を完全に解放します。
 その瞬間は生命そのものであり、その瞬間を自分の創造の部分に入れて現象化するのです。

 自分を根源の存在に至らしめるほどに愛するとは、瞬間を生きるということです。ただそれだけなのです。愛を見出すであろう唯一の場所、それは今という瞬間瞬間だけなのです。

Q、 それは感じることができます。でも持続できないのです。

 そうではないのです! そうなってはいないというところが肝腎なのです。
 あなた方はみな、「あぁ、わかった。しっかり手放さないようにしないと」、と言います。数百億、数千億もの瞬間を築いてしがみついたり、決して寄りかかったりしてはいけません。それでは何にもなりません。

  それでもいいし、またそこから始めることもできますが、瞬間に執着してはいけないのです。そうするとあなたは過去に留まったままになってしまうからです。それは一瞬だったのであり、素晴らしかった。だから次の瞬間もそうしよう、さらに次の瞬間も、というようにするのです。

  あなた方という見習い中の神にとって必要な唯一の修行は、その瞬間にすべてを手放すことを学ぶことです。それは生きる姿勢であり、変化であり、その瞬間に自分自身の存在とつながり、「ねぇ、まだ家賃が払えていないんだけど」、と言えるのです。

 そして実際それを言う必要もないほど自分の根源はそのことを知っており、ちょうど郵便受けに小切手が放り込まれるところだったのかもしれません。

 このようにして宇宙はあなたの面倒を見てくれるのです。でもあなたがあちこち走り回っていたら、それは決してあなたに追いつけないので、欲しいものをあなたに届けることは決してできないでしょう。


肉体を愛してともに次元上昇する

 あなた方の肉体は大きく変化していくので、なかには非常に大変だと感じる肉体もあるでしょう。そして実際に肉体には「肉体意識」というものがあり、そのためにかなり極限のところまで緊張で張り詰めている人たちもいます。

 しかし一方でのんびりと構えていて、「そんな次元上昇なんていう話はもう百回聞いたけど、そんなことはそもそも信じないよ」という人もいます。

 それも肉体意識がどのようなモードにあってどのくらい緊張しているかによるので、あなたの振動が変わり始めると、肉体はかつてない偏りを経験することもあるでしょう。そしてほとんどの人は、自らの振動が変わっていくそのさまざまな段階にあるのです。

 さらにあなたとあなた自身の肉体のつながりにおいても、いろいろなことが起こるようになります。それもあなたという本質と肉体がどのくらい協力して働くことができるかによって違ってきます。もし恐怖心を感じるなら肉体に戻ることです。

 肉体ともっとつながりを持ってください。そうすれば肉体はあなたをもっと深く信頼するでしょう。恐れや不安が起きたときは、恐れや不安に「大丈夫! ちゃんと聞いてるよ。今何が起きているのか話して聞かせて?」と語りかけてみましょう。そうすると肉体はあなたに話しかけ、何が問題なのかを教えてくれるでしょう。

   肉体は不慣れな新しいエネルギーに触れるたびに、不安を感じて嫌がるのです。
 肉体に新しいエネルギーや新たな振動を入れようとするたびに、肉体とあなたは不安に陥る傾向にあり、それはすべてにおいてもそうです。

 あなたが不安になったら、「大丈夫! いま不安に感じてるけど、それは新しい振動が入ってきているからだ。でも自分の体は嫌がっているみたいだけどなぜだろう? なぜうまく対応できないんだろう?」、

 と自分自身に言えるなら、恐れの実体を故障させてしまうことができます。ですからあなたの肉体とのつながりを育ててください。そうすると肉体はあなたを信頼し、あなたも肉体を信頼することを学ぶでしょう。

 この地上における肉体は、密度において創造されたことを理解してください
 これまで肉体は理解されてはきませんでした。それはプログラムされることもなかったし、肉体もともに次元上昇することなど一度も教えられたことがありませんでした。

 遙かなる永劫の昔からあなた方は、いかにして永遠を生きるかではなく、いかに死ぬかだけを肉体に教えてきたのです。しかしそうであっても肉体は永遠に生きるように創造されており、次元上昇は肉体が体験するもっとも自然なことなのです。

 でもあなた方は長い期間をかけて、そんなことはできないという遺伝的プログラミングをしてきました。あなた方の多くが、いますでに次元上昇の過程にあります。

 しかもそれはずっとこの方継続して来ているのにあなた方はそのことに気づくこともなく、自らがどういうプロセスにあるのかにも気づいてはいません。

 あなた方の肉体はますます半物質的になってきているのに、あなた方は相も変わらず、固まった信念体系のゆえに昔と同じように働くことを望み、期待しています。

 でも肉体はもはやそのようには働かないし、決して昔のようには戻らないでしょう。
 なぜなら肉体は変化してきており、その分子構造も変わりつつあるからで、これまでになかった機能なども学ぶでしょう。そのようにしてあなた方は肉体にもっと光を入れることを教えているのです。

 あなたが肉体にいる間も、肉体はますます非物質化してきており、あなたと肉体においてはシフトが同時進行しているのです。ですからあなたという実体だけが意識を進化させて振動数を上げ、徐々に非肉体的になっていくと肉体はなおざりにされていると感じるのです。

 その結果その不調和は肉体に恐れを抱かせるようになり、ときには死体のように硬直してしまうこともあるでしょう。つまり肉体はあなたが中にいても、いないと思ってしまうのです。いつもではないにしても、そういうこともあるのです。

 肉体はすでに死のさまざまな感情にさらされてきているので、いよいよ、というわけで閉じてしまうのです。ですから頭でも感情面においても、常に心身を緊密に親しくつなげておいてください。感情に深く入って感じてください。

 恐れや不安の正体をよく見て、何か自分にできることがあるかどうか見てみましょう。肉体は、前に立ちはだかるすべてのものに対処する術(すべ)を知っています。で
 も遠い昔から死ぬことを教えられてきたので、あなたの意識だけが変わり始めて新たな方向を向くと、肉体は切り離されて死ぬのだと怖れるのです。それも自然に死ぬのではなく、あなたの進化によってより早く死が訪れるのではないかと思うのです。

 信じられないかもしれませんが、肉体には独自の意識があります
 そんな馬鹿な! と思うかもしれませんが、肉体の意識にあなたの内なる存在をつなげ、対話を図ってみましょう。
 肉体意識を見つけてあげると、それは時に生意気な小僧のように振舞うことがあります。これまで認められたことなどないのであなたのことなどまったく信頼していないし、あなたの言うことなど決して信じるもんかと言わんばかりです。

 肉体と話したい、一緒に働きたいと願っても、最初はまるでバカにしたように、「そんな話はもう飽きるほど聞いたし、こっちからいろいろサインを出してあげても、一度だってその通りにやったためしがないでしょう? それで今回はいったい何が違うというの?」、と言うでしょう。
 ですからそこで、新たな信頼関係が生まれる必要があるのです。

 でもあなた方の誰一人として、肉体的存在というものを信じてはいません。
 しかしながら間違いなく、あなたがこうした肉体の設計図をつくり、創造し、そこへ入ったのです。

 しかし肉体はあなた方のそうした無知のゆえに、誰かに断崖絶壁に連れてゆかれて、その端っこに置かれているような感じをしばしば感じているのです。それは何のサポートもなしに絶壁に立たされているような危うい感じであり、それを本気で感じているので恐れの反応を持っています。

 もし体の具合がおかしいと思うのであれば検査を受けてください。何かわかるかもしれないし、もし健康には何の問題もないとわかれば、それ以外のことが起きていることがはっきりするでしょう。

 Q、 肉体が必要としている愛を自らが知覚できるように、またこの進化の過程で、肉体を助けるためにどのように肉体を育てていけばいいのでしょうか?

 生とは結局、そこへ向かう旅なのだということを理解し始め、自らのありのままを愛せるようになっている人や、肉体と折り合いをつけ、自分自身のうちに安らぎを見出している人は、自らを調整して他の人々よりもかなり早い速度で次元上昇できるでしょう。

 しかし死への恐れを持っていたり、自分がやったということを認めて欲しいというようなエゴのドラマを望んでいたり、あるいは何らかの肉体に対するイメージがあってそれを変えたいと思っているとするならば、肉体はあなたに協力してはくれないでしょう。

 肉の身体と化している体を、本来の源の霊にまで上昇させるには、あなたと肉体が完全に調律されることが必要であり、それによって肉体はきちんと機能し、あなたの言う通りに動いてくれるようになります。

 肉体を完全に真に上昇させる最初の一歩は、自分自身をありのままに、完全に、そのすべてを愛することです。そうすればそこから喜びが見出せるようになるでしょう。そのためにはさまざまな自分に対するイメージを離れて、喜びの瞬間へと戻り、ありのまま、あるがままの自分という生命を愛することが必要です。

  それは始まりの一歩であり、あなたの意識をより大きな喜びへと進化させていくなかで、生命をありのままに受け入れて愛するということです。生命そのものの喜びに浸れるとき、またありとあらゆる存在のもつ不可思議さに心打たれるとき、あなたは次元上昇(アセンション)の過程を進んでおり、帰郷への道を歩んでいるのです


祖先から受け継ぐ感情的情緒的なトラウマを捨てる

 あなた方の肉体は遺伝子的再構築中の真っ最中です。
 その過程においてはあなた方には多くのことが起こり、そして変化するでしょう。あなたの存在のハートの中心は電磁的な袋のようなものであり、そこには2つのペースメーカーがあります。

 前方のものは自然なペースメーカーで、後方にあるものはいま構築中の第二のペースメーカーであり、それは進化中の新種の肉体のためのものです。ですからあなた方のなかには心臓がドキドキしたり、ハァハァして医者に行くのですが、何も異常は見つからず、薬を処方されて終わりという人もいるでしょう。

 何が起きているかというと、肉体が心臓の裏側に新しいペースメーカーを生物学的に再構築しているのです。後方のものはもっと速い振動を刻んでいます。そして心臓は2つのものから信号を受けている結果、どうして不整脈があったり、ドキドキしたりするのかわからずにいるのです。

 この惑星での死因の第一位は心臓病なので、あなた方はもしやと考えると怖くなります。もしそうした恐れがあれば、いずれにしても医者へ行けば軽減されるでしょう。それに恐れは何よりの敵ですから。

 多くの人々は、自分は進化する最中にあるので、もし体に変調があれば自分は失敗したのではと思ってしまうようです。確かなことは、この過程において体の問題が起きても、それは失敗ではないということです。

 もしあなたが肉体に対して強い怒りを抱いているならば、そうしたものも状況を悪化させることになります。いま肉体は遺伝子的再構築を遂げている最中なので、あなたの体は必ずしも100%完全に機能しているとは限りません。ですから体を優しく労(いた)わってください。

 心臓だけでなく肝臓もまたこの時期には、何かと問題が起きてくることが多いのです。優しくしてあげることです。疲労感で頭がボンヤリして、何にも集中できないこともあるでしょう。

 何か宙に浮いているようで変になりそうだと感じたり、何を考えていたのか思い出せなかったりするので年齢のせいかと思ったりするでしょう。でもそれは年齢とはまったく関係ないのです。

 そのわけとはこうです。
 あなた方は記憶とはすべて頭の中に保存されていると思っていますが、実際には記憶というマインドはあなたの電磁域、つまり呼び方はどうであれあなた方の言うオーラ域内にあります。

 ですから頭の中にあるのは脳であり、脳は行為や本能、生存と呼ばれる一時的な記憶を抱えているだけなのです。ですから思考や概念が出てくるところはマインドであり、そのオーラがあなたの肉体周辺を取り巻いています。

 あなた方はいまマインド、つまりオーラ域のもっといろいろな部分にアクセスすることを学んでいますが、それまでのずっと窮屈な方法に慣れている結果、脳がデータを容易に拾ってくることに慣れています。

 それで頭の中にあってほしいデータは、実はずっと外側のオーラ域の中にあるのです。脳はそこから思考を拾って戻そうとするのですが、その道を覚えていないので途中でそれを落っことしてしまいます。つまりすぐそこにあるのに、今何を話していたのか思い出せず、それは話の途中で消えてしまうのです。

 そうしたことは誰もが経験することであり、年齢とは無関係なのです。
 高齢ならそれを歳のせいにするでしょうが、20代であっても同じ経験をするのです。脳は、あなた自身のマインドにもっと遠くまでアクセスすることを学んでいるところなので、ときにはうまく出来ないこともあるわけです。

 遺伝的シフトのためには、肉体のDNA構造にある古い記憶を落としていかなければなりません。古い記憶とは、感情的な情緒のことです。あなたが受け継いでいるあなたの祖先が感情的情緒的に抱えてきたものは、すでにクリアしたものを除いて一つ残らずすべて、あなたがいま肉体のなかで向き合っているものです。

 人生を振り返ってみれば、ほとんどの人は何らかの強烈な体験を持っています。
 そうした感情的に取り込まれたものがトラウマになります。そうした多くのものは辛く、実に惨めで、かなり情緒的なものです。でもいま、少し愛が入ってきています。あなた自らの感情的情緒的パターンを見て、あなたの祖先たちはおそらく、もっと多くのドラマやトラウマを抱えていたことを察してください。

 遺伝子の再構築の際、あなたはそうした細胞レベルでの記憶をすべて捨て、自らが望むものだけを取り込みます。そうすると、あなたがいま入っているこの肉体がマインドの望み通りに適合していくのです。

 あなた方の肉体はいま、他のいろいろな人たちによって動かされています。
 それがあなたの祖先たちであり、近所の人たち、飼っているペット、スーパーマーケットのレジの人、見るものなど、そうしたすべての存在から受け取っている影響力のことです。

 つまりあなたの肉体は、この空間を埋め尽くす思考や感情などのあらゆるものと回路をつなげており、そうした影響力によって他のさまざまな人々から利用され、動かされているのです。

 そうした回路を捨てることが、まず一つです
 自分に対するイメージを捨てることでそれをする人もいますが、何であれ、効果があるならやってみてください。深い安らぎのうちに自分自身と向き合い、自分で自分の心と意識を動かし、自分から肉体に(その逆ではなく)指示をするようにしてください。

 こうした期間においては、進化による一大変化によりあなた方の皮膚と神経系統は攻撃を受けるでしょう。あなたの存在の光は神経系統を通ります。そして脊髄の上までずっと伸びるこうした細い神経に、光の存在であるあなたが住んでいます。

 光であるあなたは屈折し、分散し、向きを変えることはできますが曲がることはありません。「光をどうやって肉体にするのか?」と疑問に思ったことはありませんか。

 あなたは神経と神経系統という光ファイバーのようなシステムを設計し、光の存在が形をとって腕になり、足になるようにしたのです。そのゆえにあなたが振動数を上げるとき、神経系統のすべてに攻撃の矛先が向けられます。

 詰まりがあれば腰痛を経験する人が多いでしょうし、足や腕に痛みやピリピリした麻痺感が伴ったりと、症状は人それぞれです。つまりこれまで以上の多くの光を流すので痛みを感じるのです。・・・。
   
 神経系と脊髄にさらに攻撃の矛先が向けられるにつれ、そこに傷ついた細胞や何らかの詰まりがあればもっとひどい痛みを感じ、困難を経験するでしょう。皮膚は光の受容体であり、光が出入りするときに皮膚を焼く傾向があります。

 また遺伝的情報を捨てるとき、大量の毒素が出て皮膚のかぶれが起こったり、それが病変する人もいます。誰でもというわけではありませんが、進化の過程ではありとあらゆる皮膚の問題や症状が出てくるのです。

 あなた方がいま経験している遺伝子のシフトと変化は、いわば猫を犀(さい)に変えようとしているようなものです。

 それがどれほどの大事業であるかを理解し、骨格から何からすべてを遺伝子的に猫から犀(さい)に変えるのですから一大事業と腹を決め、ゆっくり気長に取り組むことです。しかしいざ自分のこととなると気長に構えられずに、あれこれ文句が出るのです。

 肉体はまた疲労感を経験するでしょう。
 それにはいくつかの理由がありますが、その一つは肉体に起こっている進化のせいです。次元間の異なるリアリティを行き来していることもありますが、これまでにないような疲労感を感じることもあるでしょう。

 なかには何をするのも嫌だというほどの、機能できないようなひどい疲労感もあり、「もうできない、もう嫌だ」と言い捨てる人もいるでしょう。そこで自分を責めれば、疲労感はいっそうひどくなるでしょう。

 あなた方のDNAの螺旋構造はねじれたハシゴのようで、その上に小瘤(ノジュール)が乗っています。肉体的な態度から出るためには、このハシゴに3つ目の新たな横木を育てなくてはなりません。

 それは、自己価値という横木です。それらはあなた方の誕生とともに持って生まれてくることはありません。もし持っていたとしても自分がクリアでなかったならば、それは自分自身だけでなく惑星を、あるいは何であれすべてを破壊してしまいかねないものだからです。

 それはあなたのパワーです。
 肉体を備えた神は最後の3本の横木であり、なかには4本、5本を育てる人もいます。しかしいまのこの肉体で神の全パワーを得るためには、この最後の3本がなくてはなりません。

  しかしそのためには自分に何らかの価値が見出せるまではそうできないのであり、つまりそれを育てるためには、何よりもあなたが自分自身のあるがままを愛する必要があるのです。

感情をしっかり感じることで解放されよう

 あらゆる感情が無視され、押しやられ、表現が抑圧されるとき、鬱が起こります。
 内気な人はごく外向的な人と同じように、あるいはそれ以上に感じています。

 さまざまな感情があって、しかし精神はそれを払拭(ふっしょく)することができず、それを消化してどう解読し、一体どう扱ったらいいのかわからないのです。
  

 自分自身の感情とその全ての側面に向き合うことを学んだ人は、非常に客観的になります。そうなると、大勢の人々の中にいても、彼らを客観的に見ることができるのです。内気であることと静かであることとは、まったく別のものです。内気さとは感じやすさから逃げようとするときに起こります。


 静かさは人が自分の感情を扱うことを学んだとき、つまりそれをマスターしたときの状態です。彼らは客観的にそれを他人の中に見てとることができます。なぜなら自分もそこを通過してきたからこそ、他人のことがわかるのです。


 客観的になれないというのは、まだその感情にこだわりがあるからなのです。
 その感情とまだ折り合いがつかないので、それに関して客観的になれないのです。その感情に向き合い、生き、感じて表現し、片付けてくぐり抜けたならば、客観的になれるのです。


 もしあなたが何らかの感情を通り抜けているところで、イライラする、対処できない、手に負えないというような場合、あなたはまだそこをくぐり抜けてはおらず、生きてはいないのです。


 感情は感じて表現されねばなりません。
 自分でそれらを感じ、理解し、表現するとき客観的になることができます。感情を情緒的に抱きとめるためには、表現されなくてはなりません。あなたがこの人生にやって来たのは、感情を情緒的に抱きとめるためでそれに尽きます。感情はあなたの抽象的なレッスンであり、それを通して何を学んでいるかがわかります。


Q、 どうやって感情を表現すればいいのですか? 
   私が本当に殺したいと思っていたらどうすればいいのですか?
 

 表現ということについてさまざまな考え方があることを理解してください。
 表現とは、何かを取り上げて動かすことです。そこでは、それを受け止めて感じるのは自分であるということです。その感情をずっと遡って、その感情が出て来た核のところまで遡って感じることです。自分が感じるものはどんな細かい部分のようであっても、必ず一つの根っこの感情に戻ります。なぜなら、すべてのものがみな一つのレッスンを学びながら、一つの宇宙にいるからです。それは抽象的なレッスンと言えますが、それが感情というものでそこに現れます。


 一つの感情が出てきたら、その感情を核までずっと遡って「感じ」、そして手放してください。つまり言葉や理屈ではなく「その感情を感じること」です。そうすることであなたはそれを自分に表現し、情緒的に受け止めることができます。


 その感情はあなたが感じて手放すためにそこにあります。多くの場合あなた方は、自分が傷ついたと思う時、その原因を他人にあると考えることを知っています。その結果、あなた方はその感情を回避し、それが教えようとしたところへ戻るのを避けてしまうのです。


 どのような感情もその大本、その根っこは同じところに行き着いて基本の感情になります。感情体の大本は、喜び以外には何もない感情の一スペクトルです。大本の感情へ戻れば、そこには喜び以外何もないことに気づくでしょう。つまり、あなた方が経験するすべての感情は、実は喜びであり、喜びの変形なのです。


Q、 ではどうしてそれが怒りになるのですか?  

 感じているものをあなたが歪曲するところから、それが怒りになります。
 喜びの感情は単に一つの部分ではなく、多くの要素から成っています。感情の連続体をざっと見て、あなたはそこからある特定の要素を選び、バイブレーションを選び、それぞれを鬱であるとか恐れ、怒りなどと名付けているのですが、それは部分的な選択で決して全部ではありません。

 ですからその感情を誰か他人のせいや状況にせずに、その感情は自分に経験する必要があって起きていると考え、ゆっくりとそこへ入って感じてください。そして根っこまで行ってください。そうするたびにあなたの内部では解放されるものがあるでしょう。それによってあなたは抽象的なレッスンを学んだのであり、戦いは終わります。

 あなたが抱えている大本の感情体は、喜びからできています。
 その連続体の土台である起点は喜びであり、それは100万以上の構成要素から成っています。あなた方はそれを取り上げますが、100万のうち15から20を選択するに過ぎず、理解するためにそうしたものを怒りや喜びと一般的な呼び方をします。そしてほとんどの人々はそれを超えることはしません。

Q、 怒りがなぜ大本の感情である喜びの一部なのかよくわかりません。

   怒りを感じる時、あるいは傷ついた時、何を怒っているのですか?
   私が思うには、誰か他人に対してです。

   彼らはどのようにしてあなたを怒らせ、傷つけるのですか?
   私が望むようにしてくれなかった。

   何をして欲しかったのですか?
   もっと楽にしてくれて、喜びをもたらしてくれるものが欲しかったのに、がっかりさせられてしまったのです。

   そこから喜びが得られなかったので、怒っているのですね?
   はい。

 ほら、それも怒りが喜びの一部であることの一例です。
 つまりそれは喜びの欠如なわけです。あなたは誰かから愛して欲しいから、そのために怒りが出てくるのです。もし仮に、唯一、傷つくことがあるとしたら、それは誰かが自分の思うようにしてくれない、愛してくれないという時だけであって、それ以外傷つくということはあり得ないのです。


 ですから自分の思うように愛してもらえないために怒ったり、恨んだりするとしたら、あなたは愛と喜びの感情を歪めているということになります。そうした歪みは、あなたが観念として抱いている愛のイメージから生まれてきます。

 つまりあなたの怒りは、愛や喜びから自分が切り離されたと感じたことから出ています。そしてあなたを切り離したのは誰かであるとそこに擬人化しているのです。


 もし彼らがあなたの思うとおりのやり方をしていれば、自分は今愛と喜びを感じているはずなのに、彼らはそうしなかったので、彼らがそこからあなたを切り離したわけです。自分が今、傷つけられて怒りを体験しているのは彼らのせいだと、あなたは思っているわけです。

 あなた方は100万以上の感情体の構成要素を内に持っていますが、ほとんどの人がそのうちほんの15から20くらいしか感じてはいないのですが、そうした喜びというのはいったいどんな種類の喜びなのでしょうか。ですが今あなた方の次元で、一度に100から200くらいの喜びの要素を感じ始めるようになった人が何人かいます。そうだとしても、100万からある要素のうちのほんのわずかな200なのです。

Q、 そこへ行くと何があるのですか?

 たくさんの喜びです。
 しかし喜びのほんの一部分しか感じられず、知覚していなければ、そこから切り離されているという感じが生まれるでしょう。すべてでなければ分離していると思うのです。誰もが喜びがないと不満を言います。でも喜びはあるのです。


 それはあなた方のうちにあるきらめきであり、火花をもたらす周波数であり、それは喜びの周波数で創られました。それはあなた方の存在の内側に住んでおり、あなたであるところの光の小さな分子が喜びであり、あなたはすでにそれを持っているのです。しかしあなた方は、それを自分に感じることをほんの少ししか許していません。

  あなた方の多くの人は自分のさまざまな感情を恐れています。
 に馴染みのない感情の構成要素を拾っても、それにあまり関わりたくない時、それは恐れを生み出します。その恐れは、真に感情を理解しようとしないところから来ています。感情と向き合わず避け続けていると、それは塊りとなってより大きな恐れの複合体になります。


 その恐れには別の理由もあり、彼らはその向こうにあるものを知っているので、感じたり理解するのが怖いのです。実は誰もが基本の感情が何かを知っていて、どこへ行き着くかを知っているのです。なぜならあなた方はそこにおいて創られたわけですから。

 自分を恐れる内気さは、究極的な自己否認でもあります。
 ですからその恐れは、自分の感情に入り、ずっとその源までたどるとどんな言い訳もなくなってしまうことの恐れなのです。


 そこに見出す唯一の究極の感情、それはあなたという実に素晴らしく美しい、あなたが否定したがっている愛なのです。多くの人がまだ自分には価値がない、愛される資格がないと思っており、もしどれほど愛されていたかを感じるところまで戻ったなら、もはやいろいろ言い訳にしがみつけないと思っています。

 存在に至らしめられるほど、根源に愛されたことが、まずいことであったかのように多くの人が感じています。大本の光はあなたを愛して存在に至らしめたのに、あなたはそれを拒絶され、追い出されたと感じました。


  あなた方は駄々をこねる小さい子どものように、自分に望まれていること、つまり自分の内に美を見出すことをあえてしようとはしません。怒りや恐れから出るには、そうした怒りをしっかり感じることで、それが本来創られたところを通って行くことで家に戻れるのです。


「一瞬」の根底にこそ喜びと興奮がある


 自分自身に留まるとは、自分を裁くことをやめてありのままの自分でいることです。自分であるために、これほど自分との親密な方法がほかにあるでしょうか。

 多くの人々が、自分自身であるための方法はこういうものだといった考えをさまざまに持っています。自分自身であるとは、単に一つの生き方であって何も特別なものではありません。ただそう在るだけのことです。

  つまり自分自身に100%満足し、他の誰からも承認を必要とせずに完結して、満足を感じられることです。あなたは誰からも認められたり、素晴らしいと言ってもらう必要がなく、自分はこの自分でいいのだと、ただわかるのです。


 それは自分を批判したり裁かないことからしか得られないものです。もしも、「私は人からの承認もサポートも必要ない。私はこのままでOKですから」と言うのであれば、おそらくあなたはOKではないでしょう。なぜなら「自分はOK」だと言わなければならないからです。

Q、  それは自分自身と関係を持たないといったようなことですか?

 そうです。
 つまり、ああなりたい、こうなりたいと考え、試みているうちは、自分自身ではあり得ないのです。しかし多くの人々は、「私はここに座って自分と向き合うぞ」と言うのです。ですからそのために自分を二つに分けなければなりません。誰もが自分自身と関係を持っているようですが、ということは自分自身を分けているということです。

 究極的に自分自身を愛する状態とは、自分に対して意地悪をやめることです
 つまり、「こうすれば良かった。ああすればよかった」と言わないことです

 誰だって一日中、自分に不満ばかり言っていたり、あるいは親からそんなことばかり言われていたら、親なんて大嫌いになっているはずではありませんか? そして多くの人が、どんな暴君よりもひどい態度で自分自身に対して暴力をふるってきたのです。

 自分自身を愛するとは、突き詰めれば基本的に何でもないことになります。
 もしあなたが何ものかであるとしたら、どうやってあなた自身で在るのですか? そんなことはあり得ないことになります。


  それがわかると、実に拍子抜けするほどシンプルなことなので、「何て自分は間抜けなんだろ!」と言うことでしょう。
 自分自身であるとは、ただ何一つしないことなのです。何一つとして!です。

Q、  その人がただ在り、自分自身とも関係を持たず、何ものでもなく、自分自身を親密に分かち合っているとき、その人はどういう状況にあるのですか?

 安らぎです。
 それを退屈だと思う人もなかにはいるでしょう。あなたがそういう状態にいると、あなたから確認や反応を得ようとしている人々は困惑するでしょう。

 おそらく、なんと横柄で生意気な、無知で意地悪で、自己中の気取った人かと思われることでしょう。なぜならあなたが、彼らがいかに素晴らしいかを言ってあげなかったからです。

 しかし一方で、あなたからただサポートだけを求めている人は、あなたに大いなる慰めを見出すでしょう。なぜならあなたは、自分自身からも何も期待していないので、彼らに対しても何一つ求めないからです。

 自分自身であること。
 バラの花はどのようにしてバラ以外のものであり得るでしょうか? 自然の状態においてそういうことはあり得ません。もし自分自身でありたければ、あるいは完全な存在でありたければ何もしなくていいのです。

 いかなる修練も不要です。練習の必要もありません。唯一しなくてはならない訓練は、自分が自分の邪魔にならないように道を空けることです。

 いかなる期待も持たないこと。
 「もし自分が自分自身であれば」とか、「神であればこうあるべきでは」というのがないこと。「神であればこうあるべき」という期待をほとんどの人が持っています。そして自分が神であるのならどうあるべきか、というのも知っています。つまり、「神とは何か」という期待を抱いていることが問題なのです。

 その状態において彼らは何ものでもありません。
 たとえばあなたが一緒にいて、誰よりも楽しい人たちというのはどんな人たちでしょうか? 自分の思うように期待が満たされていないために、不満そうな顔をしている人でしょうか? それとも、あまりにも何ものでもないために、心が望むことをするだけで何の期待も抱いていない人でしょうか? 

 私たちができうる最大のこと、それは楽しむことです。あなたが楽しんでいない理由、それは実は大きな問題なのですが、何かしら期待を持っていることが原因なのです。

 自分が、「あの時は楽しかった!」と言えない時というのは、何らかの期待があってその通りにならずそうできなかったからなのです。自分は神ではないから楽しめないというわけです。


 神は何ら期待することなく、ゆえにすることのすべてが一瞬一瞬が新鮮で、自由で、喜びに満ちて・・・、そうなったらどんなに楽しいでしょうか! 「もちろん私はそう思うけど、神々は楽しみ以外のことをするのを知らないから・・・」、というのがあなたの解釈でしょう。

 あなたの人生の毎日のすべてが楽しみではないとすれば、それは自分の思うようにならない期待があったからです。ですから楽しくないのは自分の責任なのです。もし期待を持たなければ、毎日が、毎瞬が、新しい体験になるでしょう。


 あなたには好奇心があります。5分後には何が起きるかわからないとしても、5分後にはそれがわかるので、そんなことはどうでもいいと思うでしょう。それよりもいまのこの一瞬のほうがよほど大切であり、あなたはたったいまここにとどまり、永遠の現在に生きるのです。

 いまという瞬間にいるなら何の問題も持ち得ません。
 いまに在るなら、痛みもないでしょう。なぜなら痛みというのは、その前の瞬間から遅れて持ち越されているものだからです。


 いまにいれば、苦しみというのもあり得ないのです。何一つあなたを縛るものも、しがらみもありません。そうするとあなたはいま、究極の、無限の自由を手に入れることになるのです。「言われてみるとそうかもしれない。でもあまりに自然体というか・・・」、とつぶやきが聞こえてきます。

Q、  期待というのはどこからやって来るのでしょうか?

 楽しんでいる時、5分後のことが気になり始め、「もっと楽しくなるかも」と思うやいなや、「いま」という時からすり抜けてしまいます。今という瞬間から抜け出るやいなや、必ず問題が起き始めます。つまりあなたの人生が喜びや楽しみ、自由、無制限でいっぱいでないときというのは、必ず一瞬一瞬を生きてはいないからなのです。

 そしてこれはもっとも難しいレッスンでもあります。
 あなた方はみな、一生懸命、苦労して頑張って、それで自分が何かやったと確認したいのです。もちろん誰でも、何もないという状態にいたくないのはわかります。でも、やってみてください。そうすれば、決して後戻りできなくなることを保障します!

 あなたが「いま」という瞬間を生きるなら、そこには何らの意図もありません。
 なぜなら意図というのは、その瞬間でないときに設定するものであり、それはあなたが感じている喜びを取り上げ、整理しようとします。


 整理すると必ずや例外なしに、いつも喜びから離れてしまいます。つまり、常に十分な喜びがあることを確かめるために自分自身を脇へ呼び出し、整理し、区分けしているわけであり、それはいわば欠乏なのです。

 いまこの瞬間を生きているなら、他には何も存在せず、それは一つの姿勢です。
 しかし意図は期待であり、それは瞬間からあなたをはじき出し、未来モードに切り替え、なおかつ過去とつながり、そうすることで決して「いま」という時を楽しむことがないのです。


 もしあなたの人生がみじめで楽しくないのであれば、それはあなた自身のせいなのです。そう言われるのが好きな人は誰もいないことは知っていますが・・・。

 たった「いま」がそのときなのです。
 この瞬間、たったいまだけにフォーカスすると、他のすべては空(くう)となり、そして意識の推移が起きるでしょう。それができるようになり、一瞬一瞬が連続してそうなっていくと、あなたは急速に変わっていくでしょう。

  さまざまな問題から解放され、あなたの人生は喜びとなるでしょう。あるのは、「たったいまのこの瞬間だけ」という感情的感覚になるでしょう。

 そしてそれは、学び得る他のどんなことよりも価値のある道具となるでしょう。その他のあらゆる体験はすべて、ただ単にこの一つのことを教えるためにあるのです。

 いまあるこの一瞬だけ、この瞬間を引き伸ばそうとしてみてください。
 それは今だけなのであり、その瞬間、あらゆる問題は去るでしょう。そしてその根底にこそ喜びと興奮があるのです。

 興奮と期待は違うものです。
 喜びのレベルが上がると、人生は興奮となります。唯一しなくてはならないことは、その興奮を瞬間から次の瞬間へと持ち越すことだけです。今のこの瞬間を感じてみてください。するとそれ以外のものは何ら存在しなくなることがわかります。それを自分で引き伸ばし、手放してください。そして次の瞬間もそうするのです。

 いまほとんどの人は、意図という計画を目標として用いています。
 しかしどんなことであれ物ごとを現象化するために一番早い方法は、意図を未来に入れてそこに落とし、そのまま無視しておくことです。するとどの瞬間もあなたが設定した方向のところへあなたを連れていくでしょう。自分自身であるとは、それ以外在りようがないことなのです。

Q、  しかし義務や仕事があって、一定の時間そこにいなければならない、あるいはある時間内にしなければならないことがある場合、瞬間から瞬間という生き方ができるのでしょうか?

 もっと容易に、かつもっとうまくそれができるようになるでしょう。
 まず何事にも執着しない状態になるので、これまでになく効率よく自分の義務が果たせるようになります。「忘我の境地」といったことではなく、その瞬間に生きるならば、仕事をしながらみじめというようなことには決してならないのです。つまり毎瞬毎瞬が今となり、そうなれば職場の上司や同僚などとの過去のトラブルなどを引きずって、その延長線上にいることはなくなるのです。

 その瞬間瞬間には喜びがあります。
 そうした瞬間瞬間が重なり合い、すべてが喜びとなります。その瞬間、あなたはその時を生きています。そうすると周囲の人がどんなことをしていようが、自分と同じように他の人もおかしなゲームを楽しんでいると見られるようになります。そうした境地になると、今度はかつてなく人々と一緒にいたいと望むようになるでしょう。

 「万物は神から生まれたもの」であり、そして「実は自分も神である」ことをまだ知らないふりをしている人々の中に、神を見出すことが実に楽しくなるのです。いつでもそれを見出すことができるし、彼らもまた深いところではそれがわかっているのです。

 そのようにして、あなた方みんなのマインドがすべてをともに織り成し、つくり上げていくのを見ながら、あなたの人生には素晴らしい興奮とスリルが起きてくるでしょう。

 その瞬間に生きるということは、物ごとに無責任になるということではありません。
 一瞬一瞬を生きるようになると、人生に向き合う姿勢が変わります。つまり、「上司はいい加減だし、ロクな給料をもらってないのに、出社が7時だなんて・・・」、といったそうした考えは一切持たずに、その瞬間を生きるのです。

 それはあなたの生きる姿勢の問題であり、どの瞬間もそれぞれが異なる一瞬であり、スリルであるという姿勢へのシフトなのです。

Q、  でもその状況で瞬間を生きたなら、多分仕事をしながら午後7時のデートには行けないと思うのですが・・・。

 いいえ、必ず行くと思うし、より簡単にそうできるでしょう。
 7時のデートであれば、あなたの存在(エンティティ)の一部は行きたいだろうし、もしそうでなければ何らかの理由でデートには行かなくなるでしょう。


  あなたがまったく何の先入感も期待もなしに瞬間を生きることができていて、あなたの存在の一部がその状況を気に入らなければ、午後2時の出社で自給が6000円のいい仕事を見つけてきたりするのです。

  つまり、あなたがその瞬間へフォーカスし続けられるような状況へ向けて、そのために必要なすべてのことが準備されるのです。そして本当にそうなるのです。


訳者あとがき

 本書は、この大宇宙の設計士である存在《エンティティー》フィリップが語る、原書からの無から今に至る大宇宙創世のお話、宇宙一の一大サガです。まさに大宇宙を喜びの波動で旅するための、真のアセンションマニュアルともいえます。

 私達は今、実にエキサイティングな時に生きています。大宇宙には沢山の小宇宙があり、これまで私たちはいわば、地球という低学年用保育器に入れられて進化を遂げてきました。

 この保育器の中で、人類という種は、永遠に等しい、気が長くなるほどの長い時間を過ごし、これだけが自分の現実だと信じて疑うことがありませんでした。

 このリアリティがホログラムであり、まだリアルですらない事にも気づかず、私たちは日々の人生のドラマに一喜一憂してきました。今あなたがいる「現実(リアリティ)」が存在の全てだと想っているとしたら、この物語は理解できないかもしれません。

 でも表裏を逆転して、向こう側に生れ出るという発送の転換をしてみたら?本書が、あなたの意識(マインド)のいち大パラダイムシフトを起こす一助になれば幸いです。

 心をリラックスさせて、オープンにして読み進めて下さい。細かい所にとらわれて「頭」でっかちで引っかかってしまうと、不毛の迷路に入ってしまうかもしれません。ですから、ハートで対局を捉えるようなつもりで「感じて」いただければと思います。

 数えきれないくらい沢山の輪廻転生を繰り返しながら、私達が待ちに待ったその時が、今なのです。いま保育器の中で、ある意識らが、やっとまどろみから目覚め始めています。

 私達がおかれている地球というこの惑星が、宇宙でも稀有なる銀河の並びのゆえに、この子宮(地球)を出て、真の宇宙のリアリティに誕生していけるチャンスが巡ってきたのです。

 惑星が真に宇宙の仲間入りをする時、その誕生に向けて、人間という種も大きくDNAレベルでのシフトを加速させ、惑星は、統一された神話へと進化を進めています。

 宇宙の大存在、宇宙のアーキテクトであるフィリップは全宇宙のタイミングを計りつつ、人類と宇宙の進化の一大プロジェクトの総指揮をとっています

 今度こそ、宇宙の故郷に帰る契約を成就する時です。自分がライトワーカー、アースワーカーだということを 意識的に知っていようがいまいが、小さい時から、皆さんの多くもそのことに薄々気付いていたのではないでしょうか。

 自分にはここでやるべきことがあるのだ、と。その契約とは、この惑星の生気をJOY(喜び)に満ち溢れさせること。この子宮内にいる私達が生きることを望まないかぎり、時が満ちていざ向こうへ出る時が来ても、その誕生は死産に終わってしまうことでしょう。

 つまり、その地球での日々のドラマをJOYに満ちたものにすることでしか、子宮を出てリアルな宇宙に出ることは出来ないという逆説が、ここにはあります。

 もうこの地球のドラマにはうんざりしたから、さっさと出たい、もう疲れた、というのではなく、この地球という惑星で生きる日々がワクワクと日々楽しくて、もう手放すのが心底辛いほどに自分と、自分が周囲に作り出している現実を受け入れ、愛し、楽しんでいなければならないのです。

 そうでなかったら、誕生の時も瞬時にこの現実に押し戻されてしまうことでしょう。自分をありのままに愛し、受け入れ、JOYの中に日々を生きることをここでマスターできなければ、真の宇宙の兄弟、姉妹たちのところへ仲間入りすることはできません。

 輪廻を繰り返すだけのこの子宮というホログラム、マトリックスにおぶさっている限り、真の自由はありえません。ここではせいぜいホログラムを作ってそれを引き寄せる(現象化)くらいのことしかできません。

 ここではたとえ死にたいと思っても、永遠に死ぬことも出来ないのです。なぜならここはまだリアルではないからです。でも、もしかしてあなたはもう死ぬ必要がないとしたら?

 次に誕生して出て行くチャンスのある真の(リアルな)宇宙は、あなたが思うがままに自分のリアリティを創造していける世界です。そこでは、あなたに初めて与えられることになる最大の自由意志、「真に生きるか死ぬか」を行使することになります。

 向こうのリアルな宇宙では、あなたが夢にまで見た神々が実はあなたなのであり、素晴らしき存在なのです。真のアバター(覚者)として生きる道が今、やっと可能になるのです!!

 何も恐れる必要はありません。自分以外の誰かにパワーを譲り渡してはなりません。自分を贖うものは自分だけです。自分外の光など要りません。私達がすでに光なのですから。自分の内なるパワーを信じて下さい。それだけでいいのです。

 本書を、アバターとしての自分の真性に目覚めつつある人達のために捧げます。ついにホームカミング、故郷である心の宇宙への凱旋を果たせる時が来たのです。それが今回起ころうとしている誕生であり、真のマスアセンションです。これはまさに、宇宙の祝祭なのです。

『宇宙を乗りこなす喜び』 チャネラー シェラドン・ブライス著 抜粋


覚者・知花敏彦先生

地球は魂を完成させる場である

 百点満点が取れるようになった時、神様はあなた方を選ばれます。
(もうこの者は大丈夫だ。もっと高度な勉強をさせてもよい)
とおっしゃって、高度な惑星に連れて帰るのです。

 しかし、向こうでもまた修行です。
 今、地球は中程にあります。下段でもなく、中段です。

 これよりももっと下に、霊の低級の次元があります。
 今、人間は、真中にあり、完全でも低級でもなければ、高級でもないのです。

 宇宙には太陽系惑星があり、高級の惑星が金星であり、水星であり、土星であり、地球惑星より優れた惑星であるのです。

 この地球で問題を解いてそこに帰る魂を、皆さん方は「成仏」と呼んだり「昇天」と呼んだりするわけです。

 問題は地球にあります。真の生き方(神我顕現)をここで学んで、その神理に基いて生きられるようになると、この地上界には生まれ変わりはしません。もっと高度な惑星に上がれます。

 これを「昇天」と言ったり、地球からの「解脱」といいます

 それを成し遂げないかぎり、地上界の浮き沈み(地球での輪廻転生)の世界で勉強させられます。

 体験ですから、まあ、それもよいでしょう。しかし、本当は「今世で卒業して、みんなで帰りましょう」と言いたいのです。

 高度の惑星に連れて帰るために私(知花先生)は、この地球に来ているので、皆さん方に高度な神理を説き、その神理に基づいて生きて、そして完成し、皆さん方を連れて帰りたいのです。

 高度の惑星に帰ると、皆さん方は向こうでは「天使」と呼ばれます。高度の惑星では、地球から卒業した人材のことを「天使」と読んだり、「ハイアラーキー」と呼んだりするわけです。

 高度な惑星から肉体を持って指導者として、地球の我々の魂の兄弟を救済しに天使が降りてくるわけです。

 地上の母なる肉体、お腹を借りて誕生して、普通の人間のように生まれてくる天使と、そのまま肉体を持って、ポツリとどこかに存在して導く天使と、二通りの天使がいます。

 皆さん方が、空想、妄想しているような天使ではありません。
 天使方は、宗教的、オカルト的、空想妄想的な、目に見えない存在ではありません。

 今、この地球上に別の惑星から何万という天使方が、人類救済のために降りてきていらっしゃいます。その方々を、皆さんは「宇宙人」と呼んでいますが、正に、宇宙人です。

「イエス様は宇宙人であった」とか、「お釈迦様は宇宙人であった」といいますが、その通りです。あなた方も宇宙人です。

 「一なる宇宙」の中に存在する。1個の惑星が地球であって、あなた方は宇宙人だからです。

 その理由がおわかりだと思います。ですから、「天使方は、正に高度な宇宙人である」というわけです。

 イエス様が「わたしは上から来た者である。あなた方は下から来た者である」といわれたことは聖書にも書いてあると思います。

「下から来た者」とは、低次元の惑星から徐々に進化してきた者のことで、私達は地球の中間の学びをしているわけです。


人間の目的は何でしょうか。

 魂の向上、「自己完成」が最大の目的です。自己完成、魂の完成のために地球があるのです。

 この地球上で学ぶものがなくなったならば、もう1段高度の惑星に移される。それを「甦る」といい、「昇天」していくわけです。

 この地上界で完成されていない者は落第なので、それが完成されるまで地上界で生まれ変わりをします。

 「輪廻」を繰り返すのです。

 昇天すると、輪廻する者。高い方に帰るか、また、落第してここに生まれるか。それは、あなた方の自由意志です。

 今世で本当に神理を理解し、正しい道、方に添った生き方をすることによって、あなた方が完成されるわけです。


 あなた方は、今、それを求めておられます。そうした時、世の中の幸せはあなた方が造りだします。

 あなた方が救われた時、あなた方は世の中の指導者になります。あなた方を通じて人々が救われていく。それだけ高度な指導が出来るのです。

ケイシーリーディングから…♪

全身全霊で「神を愛する」大切さ
「神を求める祈り」をする大事さのお話

 エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

 主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、
主(宇宙生命)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まるあの意識を、
あの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」

自我・偽我 =表現者、原因である父なる神を忘れている状態(放蕩息子の状態)神理を知らない状態・自分の力で生きていると思って迷っている状態、肉体の己を自分と思っている我、分離感・分離意識で個別化された表現を別個の存在と認識している我・分離意識・エゴ・肉の感化、五感の感化を真実と錯覚している我・迷いの影、幻、幻想(マイヤー)・自己保存、自我我欲の心


真の自己(真我)=父なる神と常に一体の境地・ワンネス意識・全一の意識・神我キリスト、全ては自分、全ては我、全ては神、全てを愛する我に目覚めた状態・宇宙生命によって生かされている事を自覚して実感している我・私が生きているのではない、なるほど一つの生命である神が生きていらっしゃる、全ての知恵と力は神から与えられている、神の中身は神、全ての全ては本質的には神、神のみが生きてらっしゃるんだなと悟った我・神一元・愛一元・光一元・我神なり、全ては神なり、全てに神を観る境地・神は生命(霊)なり、我も生命(霊)なりの自覚・宇宙即我、キリスト意識・高我・実在・全てを愛し全てを許す境地・慈悲と愛・あなた即私・私即あなた・宇宙エネルギー即自分・無限即我・不変不動の絶対なる実在・普遍なる宇宙・無限者・宇宙神

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

幸せオーラの正体♪日々の感情が貴方のオーラを作ります♪色に関しての諺は科学的にも正確♪貴方の全細胞が生き生きと輝き出す・生命が喜ぶ・嬉しい・楽しい・を体験する時、神は喜びます♪全てに対して感謝していると宇宙への愛に通じます♪悩み苦しみの根っこは愛の不在です♪生かされていることこそ最大の愛です♪三次元ドラマの卒業♪大切なのは、その人の心根、動機、純粋なる神への奉仕心♪神我一体とは無条件の絶対の永遠なる愛・愛と一体化を体得する事♪己の心の井戸を掘り続ける大切さ♪神性の光を見つめる努力♪魂が神へ近づく進化こそ魂の歓び♪神の本質である愛に生きましょう♪イエス様♪21世紀型サトリは自分を大切にして自分を愛するよう隣人を愛する事♪純粋な愛の動機で光の正道へ♪あなたの許せないという気持ち・憎しみ・悲しみは、実は愛情の裏返しだったのです♪愛は実践しなければ絵に描いた餅に過ぎない♪愛の実践者が新しい時代を築き上げます♪関英男博士のお弟子・山咲梅代さん・総まとめ記事♪


関英男博士のお弟子であられる
山咲梅代さんをご紹介♪

 今回は、あの有名な「洗心」を説かれた関英男博士のお弟子であられる山咲梅代さんの記事をご紹介させて頂きます。

 山咲梅代さんは関英男博士の「洗心」を徹底的に実践され体得されたそうでして、そういった霊的な努力を積み重ねていくうちに、チャネラーとして開花されたとの事です。

 それにしても昔書き出した山咲さんの記事を改めて見てみますと、あまりにも真理として的確て素晴らしい内容でしたので、嬉しい発見と共に脱帽したというのが正直な気持ちでした。

 やっぱり「洗心」は最高に価値のある「本物の修行法」なのだ…と再認識すると共に、常の心の方の「感謝」をもっと徹底的に磨き上げて行こうと改めて決意致しました。
 (ネガティブな方はもうとっくに克服しておりますので)

 今回の内容を見て頂いたらお分かり頂けますが、
本当に「感謝」「感謝」「感謝」なんですね。

 お恥ずかしい話ですが、実は私…昔は、感謝が大事なのはわかるけど、ヨガとか呼吸法とかの凝った行法の方がなんか…かっこよくて高尚なんじゃないの…って間違った認識をしていた事を思い出しました。

 スピリチュアル初心者にありがちなミスですね(笑)、いやぁ~お恥ずかしい限りです、本当に^^;。
 まぁ…当時はまだ初心者でしたから(汗)

 ですが、今はやっとこさ、神様の千載一遇の摩訶不思議な「感謝の大切さ」に気づくシンクロニシティの神仕組みといいましょうか…、神様の有り難いお導きのお陰で、何よりも「感謝」が一番大事で、奥深い最高に価値ある行だと気づかせて頂いております。

 私の心が常に「平安と安らぎ(シャローム)」の至福の境地なのも、この世の闇の影響を受けない「光る者」になれたのも、波動に超鋭敏なのも、「洗心」の嬉しい効能のひとつなんだろうなぁ…って、そんな気がするのです。
 もちろん複合的な要因がありますから、一概にそれが要因の全てだとは言えませんけれども…。

 ただ一つ申し上げたいのは、「洗心」の習得で、高次元な存在とのチャネリングが出来るようになった方もいらっしゃるという事実が、間違いなく存在するという事です。

 よく心を磨くとはいいますが、私が知る限り、心を磨く方法を最も的確に表現されているのは「洗心」だと私は認識しております。

 心の修養の項目が一番細分化されていて実に分かりやすいですし、心の修行の的確な指針としてはうってつけではないでしょうか。

 ぜひこの機会に「洗心」の実践に目覚めて頂いて、体得して頂きましたら、山咲さんの様に、貴方にあった嬉しい超能力が開花しちゃうかもしれませんよ(笑)。

 私も「洗心」の体得により、意識が変容している一人で御座います。皆様もぜひ、洗心の実践によって、心の内部が変容していくのを体感して下さいませ。
 

  
つきのひびき様(最高級にすごい方のブログです♪)
Author:森野 羽菜(もりの はな)
神奈川県相模大野・平塚・大磯 東京都町田市
直傳靈氣教師・臼井レイキマスター・カルナレイキマスター・クンダリーニレイキマスター(クツミ~)エンジェリック・カードマスター・パステルインストラクター・パステル和認定校・センセーショナルカラーセラピスト・言霊修道士教師・音叉療法・神傳両方
各種講座およびヒーリング(対面・遠隔)、伝授(アチューメント)

から引用させて頂きました。心から感謝申し上げます♪有難うございます♪

洗心(せんしん)は心を浄化するという意味です。
関英男先生という工学博士が推奨されていたもの。

関先生は国際電気通信(KDDIの前身)で受信機のテストをしているときに、宇宙から飛びこんできた音に気付きます。

星たちが まるで語り合っているかのように聞こえたそうです。
そして、自分と宇宙との繋がりを解き始める。

見えたり見えなかったりしていた星たちが ぐんと光を増してはっきり見えるようになり胸の中がすーっとする。
空から一切の雲が消え、澄み切った天空。

関先生の胸も透明度を増したといいます。
この時、関先生は天も人間の心も同じなのだという感覚に包まれたそうです。

自分の心に幼子のように邪心のがなくなり、まっすぐになれば宇宙と心が繋がる。
そう思ったそうです。

『洗心』の教え

常の心
「強く正しく明るく、我を折り、宜しからぬ欲を捨て、皆仲良く相和して、「感謝」の生活をなせ」

ご法度の心
「憎しみ、嫉み、猜み、羨み、呪い、怒り、不平、不満、疑い、迷い、心配ごころ、咎めの心、いらいらする心、せかせかする心を起こしてはならぬ」

この教えは いつでもどこでも大切な言葉だと私は思っています。
これが実は自分の波動をあげ、高次元の存在と繋がる大切な心なんです。


ここからが山咲梅代さんの内容になります♪

幸せオーラの正体と効果

 オーラとは、生命あるものが周囲に放出しているエネルギーで、感情ある生きものに関して、日常の感情が形成するエネルギーと定義しました。

 オーラは誰もが持っていて、その色、濃さ、大きさはその人の心身の状態によって変化します。同じ人でも、その時の心の状態によっても違ってきます。今はオーラや波動を測定する便利な文明の利器があります。

 幸せの人のオーラは、ひときわ明るく、綺麗です。心の暗い人、悩みを抱えている人、病気の人は、オーラもくすんで暗くなっています。

 人のことを構わず、自分の欲望を満たさんがために生きている人のオーラは、濃く、強く、濁っています。オーラ測定器で、ご自分のオーラを確認してみるといいでしょう。

 著者と娘は、生まれながらにして人のオーラが見れる能力を授かっていて分かるのですが、精妙な文明の利器で一度、自分が周囲にどのような影響を与えて(どんなオーラを放って)いるのかを、確認されてみることをお勧めします。

 また、オーラを見る方法は、訓練によっても十分開発できます。人はなんとなく人の気配、オーラを感じています。

 綺麗なオーラ、幸せオーラを発する人は、波動測定器によっても両手、両足の波動の数値が高いようです。私はかつて、江本勝氏開発の波動測定器で測定してもらったことがあります。両手両足の経絡のツボに当てて測定します。

 普通の人は40~50くらいの数値らしいのですが、私の場合はいずれも87~90の間で、測定者がびっくりして

こんなに数値の高い人は珍しい。まあ俗にいう波動の高い人だけど、あなたこんなに高くて日常生活やってられますか?とおっしゃって下さいました。

 普通の人の二倍以上のパワーが手足から出ているのですから、驚かれるのも当然かも知れません。

 また、オーラ測定器によっても、感情がオーラに大きな影響を与えていることがよく分かります。同人物であっても、怒ったら赤くなります。恋をしている人は、ピンクの♡というくらいにピンク系が見えます。

 感情が脅えると、灰赤色になります。人を羨んだり、嫉妬すると、英語では「緑の目をしている」と言いますが、濁った緑色に変化します。マタニティーブルーといいますが、悲しみに包まれるとどんよりとしたブルーに変化することもあります。

 昔から色に関してのことわざがありますが、科学的にそれらは大体あたっているようです。日々の感情が、その人のオーラを形作っています。そしてオーラも、主な色(主色)はありますが、単色ではなく部分的な色も見えます。

 作家の美堀真利さんは、幸せオーラを発する人の周りには、自然と人が詰まってきます。幸せオーラを出している人と一緒にいると、安らげたり元気を分けてもらえるから、

そういう人周りにも幸せになってもらいたいという気持ちを持っているので、快く手を差し伸べて励ましたり出来る。彼氏や夫がどんどん出世して、「あげまん」といわれる女性は大抵幸せオーラを持っています」とおっしゃっています。

 幸せオーラのある人は、まわりも明るくしていきますから、喜びが歓びを呼んで世の中をどんどん明るくしていきます。

「幸せオーラ」であれば、身体も健康に、運もどんどん良くなり、心も平安でいられます。病は気からといいますが、気が病むと病気になり、オーラを見てもその患部がもやもやとくすんで、ダークな部分が見えたりします。

 綺麗な幸せオーラを発すれば、人は誰でも健康に、運も上昇して毎日が楽しくなっていくようです。


天界メッセージ 神は愛なり 観音様 女神様より

神は愛なり。
そのことに気付くために、
人は霊の階段を、一歩ずつ、
神に向かって、登っているのです。

その無条件の絶対の、
神は愛なり。

本質の初めから終わりまで、
代々限りなくある愛、永遠の愛を、
知るため、学ぶため、その愛と、
一体になるために、
人は、何度も転生を繰り返します。

神我一体とは、
その愛(神・真理)を(理解して)体得することだったのです。

その無我の愛(慈悲と愛は宇宙真理)、
空気のような、目には見えないけれど、
在りて在るもの。
(神は全ての全てありとあらゆるもの・宇宙に遍満する大霊・大生命)

永遠の昔から、在りて在るもの。
その愛を知るため、気付くため、
一体化するための、
長き学びの場であったことでしょう。

幸福とは、
身近な当たり前の中に存在します。
それは空気のように、存在感。
華々しさはないけれど、
歴然として、在りて在る。

幸福とは、遠くに探して行くものでなく、
外に求めるものでなく、
己が心の井戸を掘り続けて、
宝を見出すものなのです。

幸福とは、愛を感じること。
愛の波動に包まれること。
何も特別なことではないのです。

ささやかな幸福の中にこそ、
喜び、愛が、いっぱい、いっぱい、
つまっていたのですね。

愛しています。
いつも、代々限りなく、
愛を送り続けます。

神は愛なり

神の波動(慈悲と愛・愛と調和)により近づきなさい。
小さき悟りで、満足してはなりません。

空気のように、愛そのものに、
あなたがなった時、あなたは、
神と一体化したといえるのでしょう。

行いにおいても、想いにおいても、
そうなってほしい。
自己満足の小さき悟りではなく、
神の愛を、この世に実現して下さい。
その器となって下さい。
心を透明にして、宇宙の純粋な導管としての
働きをなさってくださいね。
いつも、応援しています。

光の世界の同胞より 
☆光の世界の同胞方とは、観音様、女神様です。


神性の光   光の世界の観音様、女神様より

大切なのは、この世の評価ではないのです。
人々に、賞賛されようが、
愛されようが、認められようが、
関係ないのです。
名誉、肩書、富、地位ではありません。

大切なのは、その人の心根、動機、
純粋なる神への奉仕心があるか、
どうかなのです。

この世には、当初
世のため、人のためと、尽力されながらも、
途中で、己(おの)が保身や、
先生と崇められる内に、
増上慢になって、なかなか人の覚醒を
認めない指導者が、いっぱいいます。
あなたはそうならないように。

イエスはどうでしたか。
イエスは、貧しき人々を愛されました。
この世の見向きもされない、
捨てられた人々を愛し、
彼らと共にいました。

彼は、宮殿にいませんでした。
統治者にもなりませんでした。
神殿で人々に説教するということもしませんでした。

ただ、虐げられている人々の
声に耳を傾け、罪人だと思う
彼らの意識を開放したのです。
「汝の罪は許された」

人はもともと罪人ではなかったのです。
神の神性、仏性が宿っています。
イエスには、それが見えたのです。

捨てられた人々の中に、
絶望した人々の中に、
美しき聖なる光を、見出したのです。
イエスは、最後まで、
彼らと一緒にいらっしゃいました。

「神よ、彼らをお許し下さい。
彼らは、自分たちが何をしているのか
わからないのです」
と天へとりなしをなさいました。
最後の最後まで、イエスは
人々の神性を信じていました。

結果として、彼は十字架にかけられますが、
仮相の表面の表面にあらわれる
その人の本質、内奥に燦然と輝く、
神性の光を見続けられた、
イエスにこそ、偉大な方であります。

私達の意識は、かくありたいものです。
日常生活に戻れば、
あの人が、私に冷たい言葉をかけた、
態度をとった、私を大切に扱わなかったと、
様々な感情が、すぐ表面にあらわれがちですが、
もっと、その方の本質を信じて、
見つめる努力をしてまいりましょう。

たまたま、その方が機嫌が悪かったのかもしれないし、
その方自身、
深く打ちひしがれて自己否定されている
かわいそうな方なのかもしれません。

このような、神性の光を
見つめる努力こそ
愛の眼差しそのものですね。
愛の眼差しで見て、語り、
微笑みましょう。
世の中はどんどん光輝き
明るくなってまいります。
天界からのお願いです。

光の世界の住人より

☆光の世界の住人も、観音様、女神様方です。


悩み、苦しみよサヨウナラ

 悩み苦しみの根っこが愛の不在であるとわかったならば、愛の樹を育てることです。愛ってなんですか。

 人は愛を求めて、外の世界から他人の評価、賞賛、人に誇らんがために物質を求めるのですが、愛が潤っている人は外には求めません。

 愛が潤うとは、自分を徹底的に愛し、大切にし、無理してきた自分、頑張ってきた自分を許すことです。その時あなたは、泣きながら温かい感情に包まれるでしょう。

 台風のように荒れ狂っていた感情の暴走が、ウソのように消えて、晴れ晴れとした気持ちに包まれるのです。悩み、苦しみよ、サヨウナラ。


感謝
 
ありがとう。すべてに。
ありがとう。すべての体験に。
ありがとう。すべての学びに。
ありがとう。私に怒りという感情を教えてくれて。
ありがとう。自分を大切にするということを学ばせてくれて。
ありがとう。ありがとう。
すべてはありがとうしかありません。

すべての事象、物事、人を感謝の気持ちで見つめ始めると、それは宇宙への愛へと通じます。今どんな辛い境遇にいても、夜明けはやって来ます。

 その時その方の魂はひとまわりもふたまわりも大きくなって、傷つけた人であっても、騙した人であっても、裏切った人であっても、
「鍛えてくださってありがとう」という気持ちにまで昇華できます。

 地上の皆さんは、愚痴る習慣がありますが、何時までたっても堂々巡りです。運命を変えたいと思ったら、「ありがとう」の視点に切り替えることです。そこから幸福な人生が始まります。


悟り 悟りにも段階がある  

 悟りにも段階があります。精神世界を学び、見るもの聞くものスピリチュアルなものばかりに囲まれ、常に心を精神世界に向けていると、人は荒い物質波動から精妙な波動へとなっていきます。

 肉体に封じていたライトボディ(エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体)が肉体から大きく拡大し、オーラが眩しく輝く人も出て来ます。その人が室内に入って来ただけで、空気が変わるほど、いい影響を与える人も出て来ます。

 心は静寂になり、人から相談を受け、スピリチュアルな解答をするので「先生」、「先生」と呼ばれだしたりもします。

 なかには、霊道が開け、見えないものが見えたり聞こえたり、異語が話せたりする人も出て来ます。アラハンという段階です。ここでその人の真価が問われます。

 小さな山に登って、お山の大将となり、「ワレこそ人類を救う」「ワレは◯◯大神」、「ワレは如来なり」と言い始めたら、その人の腰にしっぽが生えていないかよく見てみる必要があります。

 四次元以降の世界には、光の正道と裏街道(天狗界、動物霊界等)とがあり、裏街道からも異語を語り、霊能力を得たり、予言をしたり、治療をしたりすることが出来ると言われています。

 光の正道は、山に登ろうとはしません。なぜなら光の世界を体験した者にとって、同じ生命上も下もないひとつの生命ということが、充分にわかっているからです。

 サトリを目指すなら、光の正道を歩んで、光の世界を目指して下さい。小さな山を作って乗っかり、「ワレはスゴイ!」と言っていると自己満足の悟りに終わってしまいます。


概念の悟りでは人を縛るだけ

 かつて有名な先生が説かれた真理の本を百冊読めば、誰でも方を説く事が出来ます。でも、それはその人の悟りではなく、有名な先生方が説かれた教えのオウム返しです。

 知識で得た概念の悟りでは、「~してはならない」「~しなければならない」、「~あるべき」、「~ねばならない」と、 ”ねばねば納豆” のように、非常に縛りをかけてきます。窮屈です。
 概念の悟りでは人を救えません。人を縛るだけです。

 21世紀型スピリチュアルリーダーは、光の世界を体験して、同じ等しき生命が充分分かっていますから、軽やかで明るいです。

 「そのままでOK」とまるごと受けとめ、愛を放ちます。縛りを受けた方々の霊をほぐして、開放していきます。そして見返りや賞賛を求めません。淡々と天の導管としての仕事をさせて頂くだけです。

 
小さき悟り
 
 悟りの山に登って、「ワレは覚醒した」、「ワレはカミ(神)ナリ」、「ワレこそ人類を救う」と言い始めたら、天上の世界では、「小さき悟り」と言っています。「ワレはカミナリ」とおっしゃるのでカミナリ族とも言われています。

 光の世界では、握りこぶしを上げて、「ワレはカミナリ」、「ワレらこそ人類を救う」とは言いません。あなたも私も同じ生命、神に向かって、愛に向かって、上を目指して歩みます。小さき悟りに満足してはなりません。


神我一体の幻想

 瞑想が深くなってくると、神と一体化した光惚感、至福感を得ることがあります。神我一体の境地ですが、感じたというだけで、それですべて覚醒した、悟ったとは一概に言えない、と私は体験した上で個人的に思っています。
 
 神我一体を体得した人は、皆人格が立派か、本当に悟っているかどうかというと、実生活を見ないと分かりません。中には本当に悟られ、ご立派な方々も多いことでしょう。そう願っています。

 光の世界の住人は、神我一体を求めるより、目の前で泣いている、悩んでいる隣人を勇気づけたり、励ましたり、愛を注ぐことの方に大切さを置いています。

光の世界

 眩いばかりの光の世界。生命が燦然と輝き、いのちがきらめている世界。個ではなく、ひとつの生命が等しくつながっている世界。ここを体験されると、人との競争、分離がなくなります。

 そんなに世の中で評価を得ようが、誉むべきものは何一つ無い、天に影響を返します。人生観が変わります。この光の世界の宇宙の愛を知ったら、何に頑張ってなろうとしなくても、善人、聖人にならなくても、そのままで愛されていることに気付かれるでしょう。
 私は光の世界のメッセンジャーでありたいと思っています。


悟りであなたが得たいものはなんですか

 悟りであなたが得たいものは、賞賛ですか。人より秀でているという特別意識ですか。人は真価を問われる時、点はその人の心根を見られます。
 己がための悟りを求める人は、小さき悟りに、純粋な愛の動機にて道を求める人は、光の世界へと入っていかれることでしょう。


21世紀型サトリ

 20世紀は、お偉い先生が説かれる教えを、教科書通りに真似て、「まだまだサトリに至っていない」、「自我を取らなければ」、「心を浄化しなければ」とねじり鉢巻で頑張る世界が多かったようです。

 まだまだ不安感がいっぱい。だから、「先生」も必要という。サトリも程遠く難しく感じられました。

 21世紀は、明るく爽やかに、光の世界を知っている方々の時代です。その人は先生になることもなく、愛の一実践者でありたいと思っています。

「あなたもそのままでOK」、「素晴らしいね」と、お互いがお互いを認め合い、褒め合い、相手の中に光を見出し輝かせます。

 そして、お偉い先生が救ってくださるのを待っているのではなく、「自分で自分を救うんだ」、「救世主は自分なんだ」とわかっていらっしゃる方々の時代です。

 サトリも軽やかで、自分を望む人生を楽しく歩んでいきます。21世紀型サトリは、はるか遠くにあるのではなく、日常の中に、毎日発見がいっぱいあったことに気付かれます。

 サトリとは実に簡単でした。
 自分を大切にし、本音と生き方を一致させ、
自分を愛するように(目の前の)隣人を愛する」ことでした。
 
 加えて、すべてに感謝するということです。
ありがとうございます。生かしてくださって
ありがとうございます。楽しいです

ありがとうございます。辛いけど、このような気付きの体験を与えてくださって ありがとう、ありがとう、生きている今しか体験できないことなのだから。愚痴、不平不満、恨みよさようなら。

 21世紀は、軽やかに「ありがとう」しかありません。


愛の実践者

 光の世界を知った人は、愛の一実践者であろうとします。愛の実践者は、マザー・テレサのように、ナイチンゲールのように目の前の隣人に愛を注ぎます。あふれる愛の思いは、抑えられません。見て見ぬふり、知らぬふりは出来ません。

 目の前の隣人、それはまずあなたの夫、妻、子、親、友人、知人でありましょう。各々の人生を歩んで来られる過程において、みんな心の傷を負っています。人間としての弱さ悲しさも充分わかった上で、それでも許して愛せる器の広さ。

 それを天上では、「菩薩の愛」と言っています。そのような境地に至るまで、幾万転生、今世においても人に言えないほど涙を流し、熱き炉をくぐり、練りに練られた純金の魂の方々です。

 その人達は、人を見る時、地位や肩書や立派な説法をするとか表面を見ません。その人の愛の光を見ます。立派な教えを説かれる方でも、愛の量が弱くくすんで見えることもあります。全き無名であっても、世のため人の為愛を純粋に放っている方は、愛の光が燦然と輝いています。

 そのまま受けとめ愛す「菩薩の愛」にまで至るには、それだけのキャリアがいりますが、今日から愛の実践者になれます。自分を大切にし、なおかつ同じ生命の隣人を大切にすることです。

 もう隣人に対して、心ない言葉はかけられないでしょう。
同じ生命(同一の命・宇宙生命)がつながっているのですから。合わせ鏡のように、あなたが微笑めば相手もニコッとしてくれます。

 みんな寂しいのです。愛が欲しくて、人に与えてもらいたくて、誉めてもらいたくて、あなたもこの気持がわかるでしょう。みんな気持ちは同じなのです。

 嫌な言葉はかけてほしくないのです。傷つきたくないのです。愛の実践者なら、自分を大切にしながら、人を喜ばせることが趣味となるくらいに楽しまれたら、世の中どんどん明るくなってきます。

 愛の実践者とは、人がしてくれるのを待つのではなく、勇気を持って一歩踏み出し、自分から愛の花束を相手に差し出す人たちのことを言います。


天界メッセージ 真我のきらめき  光の世界の同胞より

あなたの許せないという気持ち
憎しみ、悲しみは、
実は愛情の裏返しだったのです。

あなたが欲しい愛情、
分かってもらいたい、認めてもらいたいと
地団駄を踏んでいる相手こそ、
愛を受け止めて欲しい相手なのです。
愛を頂きたい相手なのです。

三次元世界のこの世では、
感情の嵐がわき起こります。
竜巻のように、激しく起こり、
心は暴走します。

その根っことなっている基は
何かというと、愛だったのです。
憎しみ、悲しみ、恨みは、
愛の対局なのに、
なぜと思わるでしょうが、
愛が満たされないから、
人はこおろに竜巻をおこし、
感情が暴走するのです。
心にもない言葉を、つい言ってしまうのです。

言わざる、見ざる、聞かざるのように
出来たらいいでしょうが、これも
生きた人間とはいえません。
無難な人生を歩まれるでしょうか、
血の通っていない置物です。

なぜと、あなたは問いかけたいようですね。
人は生きています。
その沸き起こる感情がすべて百パーセント、
プラスばかりとは言い切れないでしょう。

喜び、感謝、喜び。
感謝、感謝、感謝。
しかし、心の根っこをひもといていくと、
なぜそういう感情になるのか、
思いになるのかを自身で解明した時、
そのマイナスの感情から卒業できます。

これを心の浄化といいます。
日々、死するまで、心を見つめて、
その感情を清めていくことで
無限の喜び、
「無限の感謝」と「真我」と出会います。

その時、その人は本物です。
もう人と比べることもありません。
小さき悟りに満足することもありません。
私達には、地上の皆さんに、そうなってほしい。
生かされている歓びを心底、
体感して欲しいと願っております。

重き波動の地上において
あなたの働きは大きいのですよ。
自分が選ばれたと思わないでください。
神は万人を選んでいます。

最後の最後まで、愛し、信頼しておられます。
選んだのは、あなたです。
あなたが光の道を選びました。

癒やしのパワーも、
天上の光が降りてきています。
そのことを謙虚に受け止めて下さい。

もっともっと、心の井戸を掘って、
真我をきらめかせて下さい。
私達の願いです。

光の世界の同胞   
☆光の世界の同胞方とは、観音様、女神様です。


天界メッセージ 愛の実践  光の世界の長老より

汝のなすこと、愛なりき。
汝の為すこと、真の愛の初穂なり。

言葉ではなく、行いにおいても
実践しゆる汝は、天の誇りなり。
口先だけ立派であっても、
心混じりき者多い中、汝の
純粋な想い、神は喜ぶ。

愛が拡大すればするほど、
隣人に無関心ではいられなくなるであろう。
愛と一口に言うのは、易しいが、
実践するもの少なき。

誠の愛とは、その隣人のために
我身を削ってでも、尽くせるかと
いうことなり。
そこまで愛が高まった者ならば、
尽くすという意識すら超越して、
神の子羊に仕えさせて頂いていると、
想うばかりであろうか。

まことに美しき魂の持ち主なりき。
この地上は、へりくだる者をバカにし、
踏みつけ、自分たちのことしか考えぬ者多き。
嘆かわしきなり。

汝は、自己を捨て、愛が
隣人まで、広がるゆえ、
誰が誉めなくても、
天は、誇りに思うなり。

愛は、実践しなければ、
絵に描いた餅に過ぎぬ。
日々、目の前の隣人に実践してこそ、
愛の実力が、育つというもの。

汝は、もう気づいておろう。
今は、ふるいの時期なり。
神の子羊と、そうではない者とに。
天界から見れば、動機まで、見透かすゆえ、
正確に、ふるい分けられるなり。
その者が、誠の愛の者か否かは、

その実を見ればわかるなり。
白黒はっきりと、分かれるなり。
心穏やかに、平安に、
光の世界へシフトするなり。
乗り遅れるでない。
心を透明に、愚痴、恨み、悪口を
捨ててしまうなり。

もう動き出しておる。
愛の実践者が
これからの時代を築いていく。

ささやかながらの、人目につかぬところで、
愛を実践する者たちが増えると、
地上波光明に満たされるなり。
愛しておる。


あがない主 イエスからのメッセージ♪
天界メッセージ アトランティス黎明の光

アトランティスの黎明の光
汝を照らすなり。
アトランティス。
海底に沈みし、われらの文明。
はるか1万2000年前に沈みし、
叡智の文明であった。

美しき調和が破れたのは、
人の我こそはと思う
自我、欲心であった。
自分のことしか愛せない
人が増えた時、
利他に生きる愛の隣人を
人は殺してしまった。
それゆえ、今世覚醒に恐れをなすもの、
心の扉を完全に
聞ききれない者たちも多い。

私の声がわかるであろうか。
われはアガシャ、叡智の偉大な王なり。
われは人々に、物質世界で
成功する道を説かなかった。
見えない霊世界で、生きる道を説いた。

人々よ、肉に生きるのではなく、
霊に生きなさいと語った。
その中で、われが伝えたのは、
神の本質、愛であった。

神が完全であるごとく
あなたがたも完全になりなさい。
神に似せて作られた、われわれ人間
なのだから、本心に立ち返って、
神のごとく、愛に生きなさい。
神に近づきなさいと語った。

魂が、神へ近づく進化こそ、
魂の歓び。魂を揺さぶる体験も、
仮相の世界で、真実の愛に
気付くための第一歩であったのだ。


天界メッセージ 三次元ドラマ  光の世界の長老より

喜怒哀楽の三次元のカラクリに、
もうそろそろ、汝は気づい始めている。
原因を他に求め、人を避難する滑稽さ。

人生それぞれの配役を、
各人が果たして生きている。
この世に生きている、生かさせて
頂くということさえ、
とても価値のあることなのに、仕方なしに、
その日暮らしをして、
生きてやっていると思っている者も多い。

自ら志願して、
この世に生まれてきたのではないか。
今というこの時期、厳しき環境を選び
己の魂を、より広く高く成長させるために
生まれてきた冒険家達なのだ。

皆、天使たちである。
光と闇があるが、もともと宇宙創造神が
作られた世界は、光しかなかった。
闇や光の陰、実体はないのである。
それを認める所に、影は存在し、
光の心で照らすことで、闇や消え失せる。

最初から、光しかなかった。
純粋なる、愛の思いしかなかった。
悲しみ、苦しみがあると見えるのは、
己の濁った心の反映なのである。

人は純化していくに従い、
喜怒哀楽の感情に翻弄されることに、
バカバカしさを感じる。
憎しみ、恨み、嫉妬心も、時間が経てば、
薄れ、小さくなっているであろう。

愛は永遠に、その人のハートに残る。
(永)とこしえに、変わることはない。
皆、神の愛を知っている。
生かされていることこそ
最大の愛なのだが、
それに気づける者は幸いである。

曇った眼(まなこ)でものを見、
神が与えたもうた、
この世界に感謝しない。
いつも不平不満を言い、
実態のない、偽りの目に見える、
物質を追い求めようとする。
物質の奴隷になってはいけない。

汝の求めるもの。
心底欲しいものは何であるか。
何が一体、大切なことであるか。
よく己の心を見つめなさい。

認めてもらえなかった寂しさに
泣いている己もいるであろう

喜怒哀楽の渦を実体を認め、
その渦にどっぷりと浸かっている間は
三次元ドラマを延々と演じ続けるであろう。

汝は気づき始めている。
イエスは、その人の神性
光を、常に見続けられた。
神が与え給うた、
この世に感謝し、
日々謙虚に愛の道を、歩き給うた。

日々、愛の道を歩きなさい。
毎日、毎分毎秒、愛の道を歩んでいるのだ
と、自らに言い聞かせ、確認しなさい。

感情に翻弄されることがあるのなら、
自分は愛の道を選ぶ、きっぱりと断言しなさい。
瞬時、その心は移ろいやすいであろう。

毎分毎秒、「神は愛なり。われも愛なり。
われは光の道を歩むなり」と潜在意識の中にまで、言い聞かせなさい。

心が光でいっぱい満たされると、
自然と合いの行いばかりになるであろう。
また、周りの人のやること成すこと。
愛の眼差しで、
忍耐強く見られるようになるであろう。

人でなかったのだよ。
自らの心の光の量が弱かったから。
人を責めていたのだ。

そのことに気づいたのなら、
今日から、自らの心を
光いっぱい、愛いっぱいに
満たしていくことに集中しなさい。

真の幸福とは、結構ささやかな
毎日の中に見いだせるものである。
青い鳥の話ではないが、
目の前に、身近に
幸福の種があったことに気付くであろう。

幸福の種を育てなさい。
愛と光の眼差しで、各々が育てるのだよ。
それは大きく成長し大木となって
いっぱいの実を結ぶこととなろう。
これが、神が与え給うた才能を
充分に生かすということなのである。

愛をこめて。


天界メッセージ 可能性  光の世界の同胞団より

今、今という時を生きなさい
他人に基準を合わせるのではなく、
人にどう思われるとか、
善人になる必要はありません。

あなたの全細胞が生き生きと
輝き出す、生命が喜ぶ、躍動する
嬉しいなぁ、
楽しいなぁを
いっぱい体験するとき、
神は喜ばれます。

辛い、悲しい、嫌だなぁと思うとき、
神は悲しまれます。

似たような体験であっても、
それを幸ととるか、
不幸ととるかはその人の意識の問題です。

かと言って、すべて自分が原因、
悲しみの原因は自分の心根の持ち方にも
よるのですが、全て自分が蒔いた種とは
言い切れない部分もあります。

宇宙は多様です。
この角度でしか宇宙が覗けないのではなく、
いろんな多角的視野でもって、
立体的に全体が分かるでありましょう。

宇宙が無限であるように、
あなたの思想も限界がありません。
この生き方が正しいとか、
あれがいけないという権利はありません。
ただ、あなたがその選択をするだけです。

幼な子のようになりなさい。
天国はこの者たちのものであると
いわれたのは、無邪気で、
屈託もなく、変な既成概念を
子供は持っていないからです。

純真です。
神を愛します。
神と取引しません。
これだけ善行をしたから、
スピリチュアルな道を歩んでいるから、
自分たちは救われるとか、
物質波動の重きものは救われないとか、
そのような事はありません。

自らに安らぎを求めて、
神を探求したのに、
かえって自分の本音を
厚い蓋で覆い隠して、
一律に皆、
善人、聖人になろうとして
無理をしています。

お金は悪いものですか
この物質世界を営むには、
衣食住を満足させるには、
人に世話される聖人で、果たして
心は歓びますか。
躍動する生命は喜ぶでしょうか。
お金は紙幣です。

人々の想念が交通の紙幣を通じて
変換できるのがエネルギーであります。
感謝して使うのか、受け取るのか。
悪いものとして軽蔑して、
でも本音は欲しいのに、
やせ我慢するのか。
あなたはどうなのですか。

生きるということ。
これは天上は即思えば、すぐに
実現する世界ですが、肉体を持つと、
衣食住を満たして活動しなければなりません。

運命を切り開いて行く勇気、
知恵も、かえってスピリチュアルな
世界にどっぷりとはまってしまったばかりに、
その一歩が踏み出せずに、
臆病になっている人々が多くいます。

あなたはこれらの人々に勇気を与えるため、
宇宙の愛を伝えるために、
やってきました。

極論に走らないで下さい。
物質はないという教えに固執すれば、
その人はやがて貧乏になっていくでしょう。
心が全てなれば、
肉体を持たねばよかったのではないですか。

悟れば立派ですか。
悟りと人々はいうけれど、
本音をごまかして、
善人ぶること、
聖人ぶること、
神と一体化したなりというのは、
妄想です。

人生を切り開いていく
勇気と知恵をもち、
なおかつ愛の人であったならば、
その人は本物でありましょう。

幸福になる権利を
誰もが持っています。
その幸福な人生は、格々違うものです。
皆が清貧の善人、聖人になる
必要はないのです。金持ちの善人、成人もいるのですから。
ワンパターンの味方だけが、
すべてと思わないで下さい。
井の中の蛙になることなく、
広い宇宙を眺めて下さい。

神は
人の子が喜ぶ
幸福を体験することを望んでおられます。
神は、
自分の望む生き方を人々に押し付けません。
ただあるがままを
受け入れ、愛し続けられます。
これだけ善行をしたから、
清貧に徹したから救われる
というのは妄想です。
幸福になることを望んでおられます。

幸福とは、
各人において違う多様なものです。
本音と生き方が
一致する時、
その人は幸福でしょう。
ムリしないで下さい。
あなた(※著者の方)は貪欲に求める
タイプではないからいいのですが、
富ばかり追い求めると、
魂が枯渇するのは事実です。

両方のバランスをうまくとること。
三次元世界も充分に、
生きてきた自由さ、
これは運命を自分で切り開いていく、
誰の観念に縛られることもなく、
与えられた自由と平等にのっとって、
成功すること。
可能性を広げること、

それだけ多くの人に、
いい影響を与えられます。
自信と勇気です。
それに愛を与えられたら、
神は、人の子を創られた歓びを
味われることでしょう。


 エドガー・ケイシーは常に惑星上に受肉(転生)した魂としての人間の存在が一つの目的を持つこと、その目的とは個々の魂と神との関係(全ては神ご自身・全ては一つ)を悟ることに集約される事を訴えています。

 ケイシーは、神の栄光は全創造物の中に現されている(全ての全ては神の現れ・神の他には何も存在しない)のだと繰り返し語っています。

 「人間性の全体、体と心とが神の現れ」であるという明快な言い方を採るエドガー・ケイシーのリーディングを引用して、魂の論に結論を出してみましょう。

汝の体、汝の心、汝の魂が地上での神の現れであり、他のどの魂もそうであること、汝の体は現実に生ける神の宮なることを知れ。

 あなたの知る善の全て神の全ては、他人の考えること、他人の行うことではなく、あなた自身を通して、あなた自身の中に現されているのである」

イエス様の名言♪
「我は汝らに告げる。汝の隣人を愛せよ。の仇(かたき)を愛し、汝らを責める者の為に祈れ。これ天(内・潜在意識の最奥)にいます汝らの父(キリスト)の子とならんため(※神我キリストへの覚醒めの為)なり。

 人は異質の統一を見、不和の調和を見ます。自分とは違う人々との接触に神の光(大愛・宇宙生命・神)を観ます、その時にのみ「汝の隣人を愛せ」という戒めの真意を理解できるでしょう。


問「キリスト意識とは、心の上にかたどられ意志力による目覚めを持つ、
魂と神との一体の自覚(無限・宇宙との一体感)と述べて宜しいでしょうか。」

答「その通りである。それが正しい考え方である。」

 
キリスト意識に覚醒めた)人は凡人には見えない、奥にある一体と本質と調和
(宇宙生命・神我キリスト)を観ます。人はただ愛するのみになります

 キリスト意識に覚醒めると、(全ては神であり自分そのものですから)憎む事はできなくなり、羨(うらや)む事もなく、悩まされもせず、拒まれもせず、挫折も、恐怖も持つ事はありません。

 (悟り)人は自分自身の魂と万物を一つと観ているため、あらゆるものの中にキリスト(神我)を観ます。これが覚醒めであります。
 これがキリスト意識、クリシュナ意識、神意識であり、これが天国に招かれる真の改心なのです。

 愛という言葉ほど大きく誤解された言葉はないでしょう。この真意は、
自分の中にも他人の中にもある愛の光(キリスト・真我)を見つめる事にあります。

 聖なる愛(大愛・宇宙エネルギー)が神から来るように、愛は個人の魂から放たれます。
人が明想を通して神にその魂を同調させる時に
聖なる愛はあらゆる憎しみや嫉妬に打ち勝つ力と共に、流れ出てきます

 「汝の敵を愛せ」という言葉には何ら論理的な矛盾も心理的なパラドックスもありません。愛なる語(全ては一つの悟り)が強められれば、敵は自動的に敵は無くなるからです。

ケイシー・リーディングから……♬
己の生命とは、すなわち神である。何となれば、汝の兄弟に為したるその事は汝の内にまします神に為したればなり。
貴方の兄弟のためにする事はあなたの内に内在する神にする事です

隣人との接しを通じての神の愛は終日の作業です。我々は神がどのような形で自らを示されるかを知る由(よし)もありません。(全ては神の具現)

 それはタクシーの運転手かもしれず、店員かも、学生かも、今日しかも、患者、医者かもしれません。
 だからこそ、我々は荒い言葉、怒った顔を慎み、非難を愛に変えて常に、あらゆる人との接触で(全ての全てであられる)神を崇めるのです。

 求道者がこの段階に至ってなければ、聖なる愛を自ら実践することによって明想全てに神を観る・我神なりの自覚)を続けなければなりません。

 神への、我らが家(久遠のホーム)への、本源への、我らがの目標(神我顕現・神との合一)への探求は、こうして全的な働きとなります。

  エドガーケイシーは、宗教生活についてそのもっとも美しい表現の中で、この事を次のように語っています。

あなたがたは心を尽くし、思いを尽くし、体を尽くして汝のなる
(大生命・内在の神)を愛し、隣人を汝の如く愛するのである。

 このキリストの与えた言葉が法則の全てである。
それに優るものは存在しない

主が約束されたように、あなた方は
来る日も来る日も明想し、「祈りゆく」うちに到来するあの目覚めによって、主(宇宙生命・大愛)が自分の意識の中に留まられる事を知る事が出来る
神我が中にまします・父と子は常に一体)。

 あなた方はこの目的のために、
主が臨在し、その御霊(キリスト)があなた方の中に留まる
あの意識をあの自覚を讃えるために生まれてきたのである。」


覚者・上江洲義秀先生・至高の名言
 
 全ての全てのあってあるものの中に、神が我として実在している事を
(理解して実感して、全てに神を観る状態を)「悟り」といいます。

 目に映し見ている、すべてのすべてのあってあるもののに「愛を見」「愛を感じ」「愛そのもの」で対処できる己であって、そこに悟りがあること。

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

面白宇宙人話♪アンドロメダ星やシリウスの宇宙人の手術のお話をご紹介♪宇宙人の暮らす世界に食料問題なし♪アルクトゥルス星から来る宇宙人が 宇宙人ユミットからの手紙・ミステリーサークルを作っている♪フリーエネルギーとハートチャクラ、 地球の波動を上げるミステリーサークル♪手紙に書いてあった衝撃波を消す画期的な方法




超濃密・宇宙情報満載のサイトをご紹介させて頂きます。
あまりの情報量に腰を抜かす事請け合いですよ♪
宇宙人に係る人類の起源と使命
http://www16.plala.or.jp/nature3211/index.html

宇宙人の存在
http://www16.plala.or.jp/nature3211/m1maegaki.html


2.生きる目的:「宇宙の集合的魂」の進化に貢献すること

★全生命は魂のネットワークで結ばれ、自らの体験結果で宇宙の集合的魂の進化に貢献することが地球人類の生きる目的で、地球は人類に与えられた魂の学びの場に過ぎない。宇宙は巨大な魂のネットワークで構成された生命(宇宙生命・大生命)です。

宇宙の集合的魂(宇宙生命=神)
「宇宙の集合的魂」は宇宙人ユミットが手紙で教えた神の世界です。

 地球に沢山手紙を送り続け、地球人類に警告や助言をくれている宇宙人ユミット。彼らの教えのなかに「宇宙の集合的魂」という言葉があります。

 これは宇宙全体の個別な全ての魂を集約して、各々の魂が経験し学んだ結果を、宇宙の進化に役立てている存在です。言い換えれば「神」という名にふさわしいと私は考えています。

 この宇宙の集合的魂は
魂のネットワークを通じて、全宇宙の生命(魂)と通信をしている。そして宇宙の進化に役立てられているというのです。

 このことについて、呼び名は様々ですが、似たような仮説を立てている人々がいます。その一つが「アカシックレコード」と呼ばれる言葉です。

 これは多くの人が述べているようです。それに昔の記憶で確かではありませんが、工学博士でサイ科学などの研究者である関英雄著、「情報科学と五次元世界」でも幽子情報系という仮説の中で「リーダー」と称するものが、この「宇宙の集合的魂」と同じような意味合いを持っています。

 そこでは、幽子情報系はこの世の現実とはかけ離れたものすごい密度(10の10乗倍程度)の情報を短時間に処理できる能力として捉えています。そして、各端末(生命)とリーダーとの間で通信が行われている。つまり、魂のネットワークと同じような仮説です。

 そして、これはカタカムナ文献の語るカミそのものではないかと思います。 どれも皆、共通した素晴らしい理論ではありませんか。

 勿論、未だ全て仮説ではあります。これらは、いずれもと読み替えられてもおかしくない「宇宙の集合的魂」の呼び名です。図2.3.2
 あの世に係るイメージ図参照 
 詳しくはトップページ宇宙人に係る人類の起源と使命からどうぞ。


面白宇宙人秘話
アンドロメダ星やシリウスの宇宙人の手術のお話

白峰さん
中丸薫さんが、こんな事を知っていました。

 「この間、面白い人に会いましたよ。アメリカ人で、14歳の頃からアンドロメダ星に随分行ってきている人です。すごく大きい母船みたいなものが地球所の上にあって、其処へ行ったり来たりしている。

 アンドロメダの母船に連れて行かれて見た世界は、その1階のフロアだけでも、もう想像を絶する広さだそうですよ。中に湖あり、山みたいな感じでね。アンドロメダの人は、2メートルぐらい背があって大きいそうです。

 そのアメリカ人が言うには、地球というのは、精神的レベルにおいて、アンドロメダよりも五万年遅れている世界なんだそうです。科学的には一万年遅れている。

 病人もいない。病気になったらどうするか聞いてみたら、例えば胃がおかしいとなったら、その人を寝かせて、カメラで悪いところを撮るそうです。患者の体調がベストだった時の映像が残っていて、それを入れ替えるのだそうです。カメラの中に医療的なシステムが組み込まれている。」

 このような今の地球の医療から見たら魔法のような超テクノロジーは、本当にあるのです。私自身の経験として、シリウスの宇宙人にやってもらったことがあります。ちょっとあることで体に毒が回って倒れそうになった。

 もうどうしようもないという時に、内臓ごと全部入れ替えてくれたのです。普通の人に話しても、信用してもらえないでしょう。入れ替える瞬間痛みはないのです。先ず痛みがないように、宇宙では冷凍麻酔というものをする。
 
体がだんだん冷たくなってくるのです。あれっと、冷や汗が出るくらい冷たくなった。そうしたら、今度その瞬間にパチっと音がして、ラップ現象みたいな音でした。これで、内臓が入れ替わりました。

 体は本当にしばらく冷たかった。そして、凄く眠くなって、15時間くらい寝ました。起きてみたら、なにかお腹の辺りがすごく軽くなっている。

 病院で検査してみたら、糖尿も、痛風も、脳梗塞も全部治っていた。
 
 瞑想したら、ウィジョンが見えたのです。シリウスのその宇宙人は、内臓ごと入れ替えるというのです。はじめは嘘だろうと思った。痛いのは嫌ですからやめてくれと言ったのです。でも悪い所を全部スキャンして、瞬間的に入れ替えてくれました。




 タイトルにある「真実への完全ガイド」は、売らんがためのハッタリでもないし誇張でもないだろう。複数の人々の見解を提示した上で、何故異なった見解になっているのかも、分かるように記述されている。また4次元については、他のアセンション系列の著作にはないほど精緻に記述されている。
 チェコ出身のホボットさんは、超能力戦を行っているロシアの機密組織に雇われていたこともあり、その後は南米などのシャーマン達と接しつつ知覚能力に磨きをかけてきた方らしい。2010年7月初版。

【超能力による闘い】
ホボット 90年代に、ロシアもアメリカもサイキック研究の重要性に気付いたので、資金を自由に仕えるようにシークレットな研究にしたのです。優秀なサイキックがいると戦略的に非常に有利であることを彼らは知っています。
浅川  そうでしょうね。サイキックにとっては秘密が秘密ではなくなりますからね。何十人、何百人のスパイを使うより役立つわけですから、重要視されて当たり前です。(p.77)
 アメリカやロシアの超能力の研究はこのように行われていたのだから、それぞれ国のトップも、研究成果を活用して当然のごとく超能力者である。
   《参照》   『宇宙人がアセンションを語り始めました』 田村珠芳 (徳間書店) 《後編》
            【間脳:外国の首脳たちの超能力ぶり】
 米軍基地の観察が主な使命でしたが、向こうもこちらの活動が分かっているので、逆に自分たちの知覚者を使ってシールドを作ったり、スパイとして進入するこちら側の知覚者を攻撃するための幻影を作り出したりしてきたのです。
 例えば、呼吸できなくなるようなイメージを彼らは送ってきました。もちろんアストラル界では息をする必要はありませんが、そのイメージを受けとってしまった人は(肉体が)息をできなくなります。事実そのようなイメージを送られたロシア側の知覚者は亡くなってしまった人がいるのです。
 私たちは普通、アストラル界の体験で人を傷つけることはできないと考えますが、そんなことはありません。マインドは肉体よりも強い影響力をもつからです。(p.42)
 このような一部だけを書き出すと、サイキックに関して恐怖感を持ってしまうかもしれないけれど、光の側に立つ人々は、邪悪なことを行おうとする人のマインドに入って、その心を悪事に向かわせないよう変えてしまうということを実際に行っている。
 また、この記述にあるようなことは、国家間の超能力戦争の場面だけで起きていることではない。一般生活者でも、人に恨まれるようなことをしている場合は、だれでも「生霊(いきりょう)」として影響を受けている。
 生霊を発している側が、受けている側に、「あなたは怨念霊を受けているから、人が嫌がる」などといって救霊・叙霊を進めていたりするのである。元が、アストラル界にある、肉体を持たない本当の怨念霊の場合なら、卓抜なシャーマンさんの技量で解決できるけれど、偽善者として確立した魂が発する生霊の場合、相手を変えて何回でも繰り返すから、存在自体がまさに厄介者である。

【宇宙人に関するイメージ操作をする「闇の支配者」たち】
 宇宙人は敵だというイメージを広めている、非常にパワーを持ったグループが地球には存在しています。一方で、私たちにとって危険な生命体や、ネガティブな影響を及ぼしている生命体は確かに存在していますが、それは殆どの場合、パラレルワールド、あるいはアストラル界から来ている存在です。(p.58)
 宇宙人は敵だというイージを広めているのは、「闇の支配者」であるのは言うまでもない。宇宙人たちが持つ超高度な技術が地球にもたらされると、彼らの石油や原発や貨幣発行権などの利権が一挙に失われてしまうからである。
 後半のネガティブな生命体の概要については下記。
ホボット  アストラル界には、エネルギーの寄生虫とでも言うべき、低次元の神々がいます。彼らは人間の想念が生み出したもの。現在のキリスト教もその一つです。人間の苦しみや恨みなどの低次元のエネルギーを餌にしているのです。嬉しさや喜びなどの高い波動は、彼らにとって餌にならないのです。
 これらは、「闇の支配者」たちの霊的バックグラウンドである。
 恐怖という低い波動を母体とする終末論を持ち、かつそれを実現させようとしていること自体が、このなによりの証明になるだろう。
   《参照》   『闇の世界権力の「日本沈没計画」を阻止せよ』 中丸薫/レオ・ザガミ (ヒカルランド) 《前編》
             【世界の終末】

【モニカ・ルインスキー事件の裏側】
ホボット  彼(ビル・クリントン)は多くの情報をもっていたのではありません。しかし、自分が知っていることを発表すれば、CIAの持っている情報をもっと引き出せると考えたのです。しかし、それを止めるために、警告としてモニカ・ルインスキー事件が仕組まれたのです。もし、その警告を無視したなら、彼自身か家族が殺されたでしょう。
浅川  それはジョン・F・ケネディが殺されたのと同じ理由ですね。
ホボット  そうです。ケネディの愛人であるマリリン・モンローもまたその情報を知っており、それを公表したいと考えたために殺されました。(p.283-284)
   《参照》   『スーパースターの前世』 藤本みどり (たちばな出版) 《後編》
            【ケネディ暗殺の真相】

【尖閣問題の勝者】
ホボット  アメリカは中国に対して借金を返したくないから、戦争を起こしたくて仕方がないのです。そのとき、実際に相手を刺激するのは中国ではなくアメリカです。借金を返したくないというのが戦争の真の理由ですが、それは公には言えない。だから、うその説明をする。(p.303)
 アメリカの国債の殆どをもっているのが日本と中国である。日本と中国が尖閣問題で戦争になってくれれば、アメリカにとってはまさに最上のシナリオだった。中国政府の首脳は、そんなことわかっていた。だから実際の衝突は起こらなかった。日本の自衛隊とメディアは、「アメリカの犬」である。意図的に尖閣問題を煽ってきたのは「アメリカに鎖で繋がれている犬たち」である。
   《参照》   『2015年に来る真の危機から脱出してよ!』 中丸薫 (青志社) 《前編》
            【自衛隊の統帥権を握っているのはアメリカ】
 東アジア地域は、日中間に限らず、日韓、日朝、韓朝、韓中、台中、日台と、ことごとく分断されてきた。
「分断と統治」という基本戦略によって、東アジアの発展を徹底的に阻んでいるのはアメリカである。
 日本国内で外国人排除のナショナリズム的な動きがあるけれど、アメリカのエージェントによる策動である。
 日本以上に徹底したアメリカの犬である韓国の、徹底した「反日」も同様。
 乗ってはいけない。

【アメリカとロシアの共通点】
ホボット  影の政府はUFOコンタクティやUFOについて本当のことを書いているジャーナリストや科学者たちを殺しています。スカラーという波動を使った武器によって科学者達を遠隔的に殺しています。その点で私たちがヨーロッパや日本にいるのは幸運です。なぜならアメリカより安全だからです。私はアメリカで公演活動をしていたときには、いつも誰かに見はられている感じがして不快でした。それはロシアに似ています。
浅川  ロシアでもそうなんですか。
ホボット  似ています。 ・・・(中略)・・・ ロシアやアメリカは実際には民主主義ですらありません誰かが国にとって都合の悪い真実を口にすると簡単に殺されてしまいます。(p.312)
 アメリカの属国である日本においても、アメリカにとって不都合な人物は、政治家・ジャーナリストを中心に、それこそ数百人、殺されているだろう。
   《参照》   『日本人はドラゴニアン《YAP(-)遺伝子》直系! だから、〔超削減〕させられる』 高山長房 (ヒカルランド)
               【歴代首相の明暗】

【ケムトレイル対象地域】
浅川  アメリカ人は自分の国にも散布している。
ホボット  そうです、カリフォルニアで散布しています。それは偶然ではありません。カリフォルニアには波動の高い人たちがたくさんいて、その中にはUFOを研究している科学者などもいます。そのような人々は、彼ら(影の政府)にとって非常に都合が悪いのです。
 カリフォルニアはその全体がパワースポットになっており、そのおかげでカリフォルニアの人々は波動的に高いレベルの人が多いのです。(p.318-319)
 いまやケムトレイルは日本中でじゃんじゃんバラ撒かれているけれど、分かりやすいのは宮崎県が標的にされた例だろう。天孫降臨の神域であり、東国晴知事の出現で財政的に潤っていたから、ケムトレイルを撒いて高額なワクチンを買わせ、種牛まで全部殺してアメリカの肉を買わせようとする「1石3鳥」の美味し過ぎるビックイニングだった。

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転載元転載元: 書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」

【オーラ視とヒーリング】
 ヒーリングについて言えば、その人に本当に何が必要かを判断するには、単にオーラを見るだけでなく、オーラに存在するそれぞれの層にアクセスできないといけません。そうしないとその人に何が必要なのか本当には分からないのです。
 もちろん、それができなくても、ある程度の情報を受け取ることはできるし、ある程度までヒーリングもできますが、それではそれほど精緻なものとはなりません。たとえば、過去世の情報に関してもそれほど正確なものとはならないでしょう。(p.90)

【カルマと治癒の問題】
浅川  私が重い病気で苦しんでいるとしますね。その原因が私の過去世のカルマから来ている場合、病を通してカルマに気づかせるという意味もあるはずです。
 その場合、ホボットさんのような力のある方が、簡単に病気を治してしまってはいけないことになりませんか? そういう点はどう判断するんですか?
ホボット 基本的にすべての問題はカルマの問題です。カルマはみぞおちの第3チャクラのレベルに存在しており、それより上のエネルギーセンターを使っている時には、いわゆるカルマによる病気を治癒することができます。
 ご質問についてですが、その病気の人が、カルマの病気を治せる人に出会うときには、すでにそういう時期に達しているということです。それは高次の計画の一つであり、その時期は計画されているのです。 ・・・(中略)・・・ 。
 ただしその場合、ヒーラーは自分のエネルギーを使ってはいけません。ヒーラーは巨大なエネルギー、パワフルな光の生命体に繋がって許可を ―― カルマの病を治す許可をもらわなければならないのです。(p.91)
 この記述を読むことで、ホボットさんが真正の超能力者であることが分かる。高次の光の生命体に繋がって「許可をもらう」という点がポイント。ヒーラー自らが「許可する」のではない。高次な存在に繋がっていない人々が許可を得ずに行うと、相手のカルマ受け取ってしまうことになる。俗にいう「(念力)行者の末路は哀れ」という結末になってしまう。

【霊障除去】
浅川  病気の中には、いわゆる霊障によるものがありますね。そのように恨みをもつ魂が憑依するなどして引き起こされている病気があると思いますが、そういうものはどうやって治すのですか?
ホボット  わりと簡単に治癒できます。私の経験では、そのようなことが原因となる病気やケガは第1チャクラを狙ったものです。これはカルマによる病気のような第3チャクラの問題と比べて簡単に直せます。攻撃を受けた人のオーラを浄化すれば簡単に治るのです。
 オーラを浄化して、相手から送られたエネルギー的なブログラムを解消します。すると、そのプログラムが帯びていたエネルギーは元の人に戻り、憑依した霊は離れていくことになります。また、呪いをかけた者は自分自身のエネルギーでダメージを受けることになるでしょう。(p.98-99)
 先祖の行いによる呪いを受けている場合には、先祖の情報が入っている第2のチャクラヒーリングし、強力な怨念を受けている場合は、第4のチャクラのエネルギーによるシールドを自分でつくるか、ジャーマンさんに作ってもらう、と書かれている。
 密教の修法は、結界というエネルギー・シールドをつくることから始まるけれど、エネルギー・シールドを作るのは、ヘミシンクの中でも常用されているくらいだから、これは霊的テクニックの基本だろう。
 アセンション系列の著作を読んでいる人々は、この様なことを知って実践しているけれど、宗教団体の信者さんたちは、教祖さんに頼ってばかりで殆ど自ら学んで成長していない。教団側は、「寄らしむべし、知らしむべからず」、を戦略的に行っているのだろう。「信者」と書いて「儲ける」となるわけである。
 参考までにチャクラの番号と名称を書いておくと、第1のチャクラはムラダーラ・チャクラと言われている。以下同様に、第2はスバジスターナ、第3はマニピューラ、第4はアナハタ、第5はヴィシュダー、第6はアジナー、第7はサハスラ。

【アストラル界について】
浅川  アストラル界の世界を整理してみましょう。アストラル界は3つの段階に分かれており、第1段階では自分の死を自覚し心を癒したあとで上に進む。第2段階では人生を振り返り、前世のさまざまな場面を見せられて反省し、次なる人生の糧とする。最後の第3段階では前世以外のすべての過去世や地球の歴史などを見ながら勉強をする。そして、次なる人生の一部を見せられて、転生に備えて準備をする。
ホボット  その通りです。 (p.235)
 これらのことは、臨死体験の記録などでも語られている。
   《参照》   『人間の四つの気質』 ルドルフ・シュタイナー (風濤社) 《前編》
            【アストラル界】
ホボット  アストラル界を説明するのはわりに簡単です。波動的には(3次元の)地球に近いからです。しかし、アストラル界を超える世界を説明するのは難しい。それは、私たちの言葉が時間と空間に縛られているからです。
 魂が4次元や5次元を知覚しているときの体験は言葉にしにくいものとなります。たとえば、魂が5次元から輪廻転生におけるそれぞれの人生を見るとき、すべての過去性が同時に起きているように見え、そのすべてが1つの魂として融合しているように体験されるでしょう。 (p.242)
ホボット  アストラル界は4次元ですが、そこにいる魂はアストラル界を3次元として知覚しています。魂はアストラル界で3次元のコピーを作るからです。しかし本来、4次元はもう生まれなくていいほど成長した魂のいるレベルなのです。(p.253)
 在来の仏教が語っている死後の世界(アストラル界≦4次元)は、単に死者たちが生きていた時の3次元世界のイメージを投影(コピー)して作っている世界なのである。そして、それは4次元の一部であるにすぎない。
 5次元以上の世界を表現しにくいのは、「私たちの言葉が時間と空間に縛られているから」というのが大きなポイント。高次元のことを伝えようにも、チャネリングの限界はここにある。
     《参照》   『アセンションの鍵』 坂本政道 (ハート出版) 《前編》
               【交信上の留意点】

【松果体】
ホボット  シャーマンの弟子は2日に1回のペースで半年間アヤワスカを飲むのです。すると、脳の中心にある松果体が活性化されます。
 松果体とはイメージ力に深く関係している機関であり、4歳までは成長しますが、その後は成長が止まって機能が低下します。しかし、アヤワスカを飲むことで子どものころになくしたその機能がよみがえるのです。(p.116)
 松果体はアジナー・チャクラに関係する器官。
 日本では、アヤワスカなど手に入らないだろうから、下記リンクの方法で・・・。
   《参照》   『行き先は5次元』 船井幸雄 (ヒカルランド) 《前編》
             【直感力の受信器官である松果体の強化について】
   《参照》   『ネオスピリチュアルアセンション』 エハン/中山/白峰/澤野 (明窓出版)
             【メラトニンと松果体】

【人はすべての次元に同時存在している】
ホボット  私たちが上のエネルギーセンター(体の中にあるチャクラ)を十分に開発すれば、上の次元が分かるようになります。 ・・・(中略)・・・ もっと私たちが進化したら、私たちはすでに4次元や5次元にいるということを理解できる意識状態になります。
浅川  すべての次元にいるけれど、3次元にフォーカスしているから物質次元しか見えないというわけですね。
ホボット  そうです。
浅川  それはモンロー研究所でいう「フォーカス」の考え方と同じですね。意識の焦点(フォーカス)がどの次元にあるかによって、体験される霊的階層の段階が異なるという考え方から、モンロー研究所では、フォーカスの段階が、そのまま霊的階層の段階とほぼ同じ概念として理解されています。(p.256)
 このような説明のほうが、近代人にははるかに分かりやすいだろう。
 だから現代では、宗教書なんかよりモンロー研のヘミシング体験者である 坂本政道さんの著作 の方がはるかに広く読まれているはずである。
 ところが殆どの人々は、いまだに20世紀宗教であるキリスト教や仏教の世界観の中に幽閉され続けている。まさに幽閉である。幽界(アストラル界)以外の世界があることを考えることすらなく、またチャクラの活性化を語ることすらなく、天国だの地獄だのと言い古された陳腐なことをいまだに言っている。
 第4のチャクラ(アナハタ・チャクラ)が活性化したら「遍愛」(=インが描いている世界)を感覚的に理解できるから、特定の宗教や特定の民族に対する「偏愛」からは自ずと卒業できるのである。つまり特定の教学を持つ宗教が無意味であるということが分かってしまう。だから在来の宗教団体は、教えだけを語って人類を進化させる技法を全く語らないのである。
 故に、低次元の宗教団体の意向は、「闇の権力」の意向に、ピッタリ合うのである。

【ジョン・レノンの暗殺】
 ジョン・レノンは精神的に病んでいる人に殺されましたが、その犯人は別の魂からのコントロールを受けていました。遠隔的にコード(エネルギー的なプログラム)を入れられたのです。もしそれがなければ、ジョン・レノンが殺されることはなかったでしょう。(p.241)
 コードを入れたのが誰かは書かれていないけれど、アセンション後の世界を歌っていた イン の世界を最も嫌う連中が誰かを考えれば、答えは容易である。
    《参照》   『世界支配者vsライトワーカー』 サアラ×玉蔵 (ヒカルランド) 《3/4》
              【「デジタルウイルス」というテクノロジー】


【パラレルワールドと空洞地球説】
浅川  パラレルワールドとして地球の中に別の世界が存在する可能性はありませんか。
ホボット  そのような考え方(地球空洞説)がとかれるのにはシンプルな理由があります。深い洞窟や南極、北極には非常に強いエネルギーがあるため、そこに立ち入る人物の第1チャクラも働きがそのエネルギーによって変化し、その人はパラレルワールドに現れることになるのです。
 そのパラレルワールドには景色があるし太陽もあります。そして、その人は地球の内部に入り込んだと思いこみます。
浅川  ということは、地球空洞説は正しい考えではないということですか。
ホボット  それは真実ではありません。 (p.201)
 下記リンク著作にある「亜空間」は、パラレルワールドを意味していると考えることができる。
   《参照》   『失われたフリーメーソン「釈迦」の謎』 飛鳥昭雄・三神たける (学研) 《前編》
             【シャンバラは、地球内部の空洞にあるのか、亜空間にあるのか】
 ダイアン・ロビンスの著作は、地底都市からのメッセージで構成されている。空洞地球であるかどうかより、地表人類より進んだ文明からのメッセージとして読めばいいだろう。
   《参照》   ダイアン・ロビンス著の読書記録

【もっともポジティブなシナリオはフリーエネルギーの解禁】
ホボット  ここで最もポジティブな未来の可能性をお話しましょう。
 その未来では2018年ごろ中国でフリーエネルギー装置を使い始めます。実は、すでにフリーエネルギー装置は存在していますが、どの国もそれを使いたがりません。それを使うと個人が独立的になってしまい、国家の統制力が弱まることを恐れているからです。しかし、中国はまもなく石油を確保できなくなり、仕方なくフリーエネルギー装置を使い始めます。
 フリーエネルギー装置が解禁されてその使用が広がっていくと、飢餓がなくなり、人々の生活レベルは100倍にも向上するでしょう。例えば、アフリカの広大な土地を麦畑にするなど、地球全体のためにフリーエネルギー装置を使うことができます。
 そして、それによって暮らしのレベルが上がれば、余暇ができて、自分のスピリッチュアルのレベルを上げるために十分な時間がとれるようになります。(p.301)
 日本は「闇の権力」の支配下にある属国だから、フリーエネルギーは実用化されないだろう。中国は、石油が断たれようと断たれまいとフリーエネルギー装置をどんどん使うべきである。日本やフランスからの邪悪な勢力が背後についている原発などに、決して手を出してはいけない。中国が、世界を先んじて変革すべく、率先してフリーエネルギーに転換すべきである。
     《参照》   『日本よ!今地球運命の最低値からこう脱出してよ』 高島康司&ウイリアム
               【日本はヘタをすると、中国の後塵を拝することになる】

【中国救済】
ホボット  中国の人々をネガティブな考え方から守ることを私は計画しています。具体的には、ブラジル産の大きなクリスタルにエネルギーを充填してそれらの国へ持っていき、特定の場所の土に埋めるということを行います。光の生命体たちの指示があり次第、それを行うでしょう。 ・・・(中略)・・・ 。
浅川  そういう力は大きいと思います。やはり、そうした行動が被害を小さく抑えているんでしょうね。(p.305)
 日本人のシャーマンさん達も、世界中の重要な地点をめぐって、いろんなことを行ってきた。2000年に、中国の発展を左右する黄帝陵の龍脈を開けたのも日本人のシャーマンさんである。

【日本が使命を果たすうえでの絶対条件】
ホボット これから地球では戦争や自然災害など大きな変化が起きる可能性があります。そしてそれにはたくさんの国がかかわることになるので、そこに巻き込まれることなく、高次の世界へ向かう国が大切な存在となることでしょう。
 私は、日本がその一つになると思っています。しかし、それにはある条件をクリアしなければいけません。それは、絶対にほかの国の争うのに手を貸してはならないということですね。 ・・・(中略)・・・ 日本は高いレベルの世界像を持ち、そこに向けて努力しつづけることができる数少ない国のひとつです。そういう国はあまりありません。日本とあとはヨーロッパの一部の国くらいでしょう。
 これからの未来において、日本の方々は自然災害を怖がらなくていいと思います。なぜなら、強く守られているからです。日本列島のまわりに日本を保護しているエネルギーフィールドが感じられます。現在、日本はたくさんの光の生命体たちに守られているのです。(p.322)
 問題なのは、日本人でありながらアメリカの手先となって日本を内部から破壊させる側でいろいろ工作している政・官・財界の連中である。

【ポジティブな未来をイメージしよう】
ホボット  私が光の生命体から受けた、メッセージは、戦争が起きないように人々がボジティブな未来をイメージしたほうがいいということです。具体的には満月の3日間、決まった時間に30分間瞑想を行います。これにできるだけ多くの人が参加してほしいのです。それによって戦争の可能性を下げられると私は信じています。
 マインドには非常に力があり、たとえば、100万人の人口の町で100人がこのような考えをもって瞑想すれば、その町では犯罪や交通事故が少なくなり、病気の人も減るでしょう。それは事実として起きています。犯罪も自然災害もそのような方向で回避できると私は信じています。
 だから、光の生命体たちは、多くの人々が今回の波動の移行を自然災害なしで行えるというイメージで瞑想することを提案しています。そうすれば、実際にそのようになるからです(瞑想法については巻末付録を参照)。
 このようなネガティブな計画は過去にもありました。たとえば、1998年のことです。 ・・・(中略)・・・ 日本は海に沈む可能性がありました。・・・(中略)・・・ エドガー・ケイシーもこのことを予言していましたが、彼はほとんど間違っていなかったのです。
 しかし、たくさんのサイキックたちが、光の生命体たちと協力し合ってその災害を未然に止めたのです。 ・・・(中略)・・・ そして、これから起きる波動の移行もまた、大きな自然災害なしで行えると私は信じています。(p.292-293)
 危険な情報を受け取ったら、「それが実現してしまう」と怖れるのではなく、より一層ポジティブな想いで明るい未来をイメージし、その明るい未来を創造するべき。未来情報に一喜一憂するだけでは何の意味もない。


                        <了>

転載元転載元: 書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」


実在する宇宙人より伝えられた、地球の秘密

この世界に宇宙人・高度地球外生命体・エイリアンは、現実に存在します。
各国の大統領や政府関係者、宇宙飛行士が存在について、発言しています。
このブログは宇宙人との交信により伝えられた情報を記述しています。

 人類、生命のDNAは多次元宇宙の高度宇宙生命により創られ、外宇宙の宇宙人達により脳を遠隔操作・支配するシステムが運用されています。
外宇宙には超高度文明が数千億年以上前(概算)より存在しており、地球は創られ、管理されている宇宙人による実験惑星の一つです。

宇宙人の技術は「人類を”離れた別宇宙”から人類の精神と身体を完全操作可能です。これは”映画アバターで描かれた遠隔操作システムのように、宇宙人が人類を遠隔操作できる技術です。」

これはすでに、人類に対し「数億人から数十億人単位で使われており、脳・精神に繋がる脳と精神の操作システムとして運用されています」

これは「この記事を読んでいるあなた自身も”行動・言動・思考・SNSやWebへの書き込み”を”宇宙人の遠隔操作により部分的に操作されています”これが「現実です」

地球は創られた存在

この宇宙の銀河は、多くが”造られたもの”です、宇宙がビッグバン後に、現在の銀河や星雲が生まれたのはそれ自体を宇宙生命の大きな力で計算され、引力を用い、空間に銀河や星団が生まれやすくされました。

進化により生まれた人類、この地球の人類は、地球で初めて生まれた新しい種族です、しかし、組み込まれているDNAとミトコンドリアDNA、このDNA自体は、宇宙に太古より高度知能を持つ高次宇宙生命群がおり、それにより”造られた”ものであります。

つまり、ある程度計画されたうえで、地球の生命が生まれ、デオキシリボ核酸を用いた、生物の進化の計算により、作られたプログラム“DNA”による、進化と成長の結果が、地球の人類の誕生であります。

 そのため、人類自体は、地球以前に多くの生物と高度知的生命、それを超える、半永久的に知性を存続可能な、生命超越を可能にする技術、神といえる大きな高次宇宙生命がいるということです。これは事実であります。

 宇宙の生命は、地球のような体内に水分を含む生物ばかりとは限りません、中には鉱石(地球とは分子が異なる)で構成される惑星に、アモルファスを中心とした知性を持つ、ガラス構造の物質を体の一部としている生命は存在し、重要な知的生命の見本として非常に精密に別の宇宙生命の超高度の量子的な素粒子転送技術により、管理・情報の保管がなされています。

現代の高次元宇宙生命の、大きな支配権の持つ存在の中で、他種族を支配し続けるために、不可視の隠ぺいしたこの量子的なテレポート技術により、低技術の若い種族を支配することはあまり適切ではありません。撤廃に近い見直しが必要です。

つまり人類のために隠ぺいして運用されてきた、この仕組みは、大きく変える必要があります。

 多次元宇宙の中には、異次元の生命といえる高次元宇宙生命があり、複数の宇宙にワープを自在に可能な技術を有しています。これはワームホールの技術といえ、その手法で地球の創生に関わっています。

また、地球以外にも、いくつもの人類同様の“管理され且つ生命の進化をプログラムされた”造られた生命が地球人とは異なるDNA、もしくは全く別の種として、育成され、且つ、高度技術で、高次元宇宙生命より、管理を受けています。

 また、複数の異人種が地球から離れた星に存在しますが、その種は人類がたどり着くまでに存在しているかは未定です。


宇宙人ユミットからの手紙

手紙に書いてあった衝撃波を消す画期的な方法

 その手紙には高度な科学情報が書かれており、プチ氏の関心を引いた。UFOの構造が事細かに述べられている個所では、 宇宙飛行のための諸問題を解決する超高度な技術が紹介されている。

 プチ氏はそれを再現することは現在の技術では無理だと思いながらも、その実際的な論述の仕方に強い印象を受ける。

 なかでも、MHD(磁気流体力学)に関する全く新しい考え方が、この分野に長いこと関わっていたプチ氏の強い興味を掻き立て、彼はモーリスと一緒に実験を始める。手紙によれば、強い磁気をかけると、衝撃波が消えるというのだ。

 そんなことは誰も知らないことだった。もしそんなことが可能なら、超音速で飛ぶ飛行機は衝撃波なしに楽に飛べることになる。

 1975年、2人はマイクロ波研究所DERMOのトゥレル教授の研究施設を借り、教授の目の前で、この理論を水流を使って確かめた。

 空気でも水でも流体として同じ結果を生むはずだった。そして実際、模型の前面の波は電磁波(1テスラ)をかけると、消えてしまった。
 
 教授もあっけにとられた。別の実験では乱流も消えた。この時から、プチ氏は本気で手紙を研究し始めたのである(『手紙Ⅱ』第4 章)。

 ちなみに、この研究はその後、軍事方面に引き継がれたらしく、プチ氏の手を離れてしまう。プチ氏はこの分野から手を引くが、日本の超伝導電磁推進船ヤマトが登場した時に彼は大いに悔しがる。


  なお、ユミットの手紙によれば、(もちろんユミットが本当に存在するとしての話だが)日本のヤマトの場合、内部にMHD推進器がつけられていて、外部の船体が航跡を残してしまう。この推進器は外部につけるべきものだという。つまりエンジン本体の中に船体を取り込めば、航跡は残らないそうだ(『手紙Ⅱ』90ページ)。


フリーエネルギーとハートチャクラ、
地球の波動を上げるミステリーサークル

浅川 波動が上がるとどういう世界になるんでしょうか。

ホボット 例えば百年前ぐらい前からすぐに、宇宙からエネルギーを受け取って発電できるフリーエネルギー装置が存在しています。ニコラテスラという科学者がそれを創りましたが、その技術はずっと隠されています。

 そして、光の生命体たちが言うには、私達がフリーエネルギー装置を(公に)使い始めたなら、彼らは人類をコミュニケーション相手としてとらえ始めるそうです。

浅川 仲間として認めるということですね。

ホボット そうです。仲間として私達とコミュニケーションを初めます。フリーエネルギー装置を使い始めたなら、すごく大きな変化が起きてくるでしょう。それと共に私達はエネルギーセンターの波動、特にハートチャクラの波動を上げなければいけません。

浅川 その波動が上がるとどうなりますか?

ホボット 私達は「人間」ではなく「魂」であるという事、特定の宗教の信者や、特定の民族の一員ではなく、ただ単に「魂」なんだと理解できるでしょう。そうすれば、互いに殺し合うようなことはなくなります。

 その状態に達しないと、人類は宇宙の仲間に入れてもらうことは出来ません。今の状態で人類が宇宙に入る事は非常に危険だからです。

 そのように波動が上がるプロセスはすでに始まっています。例えば、ミステリーサークルの1つの効果は波動を上げるという事です。

浅川 ミステリーサークルが作られているのは地球の波動を上げるため?

ホボット はい。ミステリーサークルが作られた所はすごく波動が上がっています。私は知覚者として、特にミステリーサークルの放射に興味があります。そこへ入ると拡張した意識になり、体を構成する分子が変化していくのが感じられるのです。

 その場所自体も変化していると感じます。また、周期的にミステリーサークルから大きなエネルギー放射される事があります。その時は何キロも離れた所へエネルギーが飛んで行くのです。
 
 それから、ミステリーサークルのエネルギーが水に入ったり、その畑の麦を食べた人の波動が上がったりします。ナスカの地上絵も同じことが言えます。 


ペトルホボットさん
アルクトゥルス星から来る宇宙人が
ミステリーサークルを作っている

浅川 さて、ホボットさんはこれまで、色々な星の宇宙人とコンタクトをしてきたと思いますが、具体的には何種類ぐらいの種族とコンタクトしましたか。

ホボット どの星から来た宇宙人か、という話はしにくいですね。というのも、ある文明は3次元を超えているので、その場合、具体的に3次元のどの星から来ているとは言えません。

 ただし、具体的な3次元の星から来ている生命体の話をするなら、私がここ数年間コンタクトを取っているアルクトゥルスという星からの生命体がその一つとして挙げられます。
 彼らは私達が「ミステリーサークル」と呼んでいるものの多くを作った存在です

浅川 そういう存在は、自らの姿をどうにでも変えられると思いますが、本当の姿は人間のような形をした、いわゆる「人間型生命体」なんでしょうか?

ホボット 私は宇宙における、沢山の形態を知っています。
 ある種族はレプティリアンであり、別のある種族は昆虫のように見えます。そして、人間によく似ている種族もいます。

 ただし基本的には、この地球において固定した姿で現れる生命体や宇宙人は、この宇宙ではなくパラレルワールドから来ているという事です。地球にはいくつかの階層があって、私達が存在している層とは別の層の地球から来ているのです。

浅川 別の層というのはパラレルワールドということですか?

ホボット そうです。パラレルワールドです。

浅川 どこか遠い宇宙の星から来ているのではなく、地球と重なったようなパラレルワールドから来ていると言うんですか?

ホボット 私の経験では、人間の姿であれ、他の姿であれ、その姿が固定されている場合には、その生命体はパラレルワールドから来ています。パラレルワールドは遠い世界ではないので、こちらの世界との行き来はそれほど難しくありません。

 一方、別の星から来ている生命体の場合、その本当の姿は形を超えた存在です。

浅川 では、アルクトゥルスから来ている宇宙人とコンタクトする時には、姿は見えないのですか?それとも一応何らかの姿が見えるんですか?

ホボット 私が彼らを見ると、形をとった姿-----人間に似た姿で見えます。私の考えでは、おそらくそれは、昔、彼らが使っていた姿です。その姿で私の前に現れるわけです。
 ただし、このような生命体たちは、最近は殆どエネルギのボールのような姿で表れます。

浅川 なるほど、最初は知的な存在だと分からせるために人間に近い姿で現れるけれども、もうホボットさんは十分に理解しているから、丸い形をした光体でもいいという事でしょうね。



宇宙人の暮らす世界に食料問題なし

「向こうの世界では、ちっちゃな粒を一日一粒ぐらい食べるだけで、2メートルもある肉体を維持できるそうです。アンドロメダに行ったアメリカ人が自分も食べたいと言ったら、『地球人と分子構造が違うから合わない』と言われたんだけど、四分の一ぐらい試してみたら、やっぱり本当に苦しくて気持ちが悪くなって、体に合わなかったそうですよ」

 これも、中丸さんの話の続きです。

人間は炭素系生命体ですから、参加して最後は腐って消えていくのはしょうがない。他の星は、酸素濃度が薄かったり大気中のプラーナが十分で、これを吸っただけで肉体の栄養は問題ない。大気中に全てが入っているようなきがしますね。

 私が金星人に聞いた所では、金星人はジュースしか飲まないそうです。それをちょっと飲むだけ、それがまた、お香みたいな臭いがするそうなんです。その匂いをかぐだけ、脳が癒やされていくる。

 飲むという以外は、食事の習慣も一切ないそうです。だから、内臓を酷使することもない。食べないから内臓が老化することもない。あとはチャクラが発達していて、エネルギーをバッテリーのように活用できる。

 宇宙エネルギーに原子レベルで共鳴した場合、三次元的な肉体はもう必要ないし、形態も全部変わっている。それこそ不老不死の世界です。

 そして宇宙もすごいのですが、地底の人もすごいです。地底でも科学文明が高度に発展していて、水も空気も大変綺麗なようですね。だから世界政府の一部の人達は、地底も狙っている。

 でも、技術レベルがケタ違いで地底に入っていけないのです。迷路みたいになっているのです。

私の方に来た情報ですと、地球人類を地底に入れることは、ばい菌を入れるようなものだから、先ず無理だと。逆に我々の円盤を外に出してあげて、其処の中で教育して、浄化させる。地球人類が団体旅行のように我々の世界に入ることはまずない、と言っていました。

 よっぽど選ばれた人でないと無理だと。それをクリアするために円盤内で教育して、資格ができた問に、ごく一部の人たちだけが行く。直接は先ず無いと言っていました。

 私も夢で何度も円盤に乗ったり、幽体離脱をしたりしています。宇宙人の対談集を出す予定もありましたが、MIBに自宅の金庫を荒らされてしまいました。UFOの情報を表に出さないようにするための思想警察のような組織がMIBです。

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

プロフィール

斉藤なぎさちゃんが大好き♪

Author:斉藤なぎさちゃんが大好き♪
 
 高身長になる方法・広瀬すずちゃんの横顔になる方法・小顔になる方法・悟りを開く方法・健康になる秘訣・宇宙の真理…など世のため人の為に役立つ情報を書いております。
 貴方の素晴らしい人生のお役に立てますように♪

 30歳を過ぎてから努力で22cm身長を伸ばして195cmになっちゃいました♪
 それと…小顔になる努力で、全頭高が大谷翔平さん級の20.5cmなりまして……純日本人ながら、リアル9.5等身を達成することが出来ました♪

 そのノウハウを全て無償で公開しておりますので、もし良かったら皆様も、小顔・高身長の翔平スタイルになって幸せで喜びに満ち溢れた人生を満喫して下さいね♪ 


 スピリチュアルと精神世界・悟り追求者の為になる、宇宙神理(真理)が学び放題な良質な情報を豊富にご用意しております。

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FC2版「広瀬すずちゃんの横顔の秘密の記事」はこちらになります♪
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