私達の存在価値は愛です
この世を克服するための価値であり目的です
「我はこの世の無知と闇とを克服したものである」と、イエス様が言われました。
なぜ克服出来たのでしょうか。愛の他はないと思います。
愛でもって克服出来ないものが世の中に存在するのでしょうか。
この世の悪はあなたの愛でもって克服されんがためにあります。あなたがこの世の悪をあなたの愛でもって克服した時に、あなたは克服者キリストになりませんか。我はこの世の悪に打ち勝った者だといえませんか。
その時皆さん方は完成です。では、今の自分が完成に近いか、それとも完成が遠いかを誰が一番知っていますか。自分が一番知っています。不調和か調和かの意味も分かります。
不調和の人や、妬みっぽい人や、怒りっぽい人や、そしりっぽい人や、嫉妬深い人間は完成に近いのでしょうか。未完成ですか。未完成ではありませんか。熟成が低いわけですし完成が低いのです。
毎日の生活の中で人を赦すことや
責めないことが不調和の克服となります。
皆さん方が今、学ぶことによって、どんどん完成が高まったのではありませんか。今までの性格がころっと変わった人が大勢いるのではないですか。
今までは人を赦さなかったのが、今では赦せるようになった人が大勢いるのではありませんか。
私、知花の目の前でそんな話を聞く時がありますが、どうしてなんで赦し合いが出来ないのだろうと、悲しくなりますし、嫌になります。
なぜ闇を増幅するのだろう、なぜお互いに赦しあって仲良く出来ないのだろう。それが愛であるためには赦しが先決です。その赦しを先行せねばなりません。
人を裁くことによって良くなると思ったら、それは大間違いです。人を裁いて良くなった例はありません。人から欠点をいわれて良い気持ちになる人はいません。
では、その欠点をつつかないことが重要ではありませんか。人の欠点を探りだして、あの人はここが悪いとか、あそこが悪いとかいえば本人は喜びますか、怒りますか、怒り狂います。
愛であるためには赦しを先行する以外は何もありません。
赦せる人になることです。愛であるためには赦しが先決です。「私は悪人になってもいいから、人をせめて良くするのだ」という人がおりますが、良くなりますか。
人を責め立てて良くなりますか。良くなりません。その人を批判し、批判したら、その人は良くなりますか、悪くなりますか、悪くなる一方です。
周囲を良くするためには、あなた自身が良くなればいいのです。あなたが良くなればあなたは世の光となります。世を照らす光になります。
あなたの日常生活が赦しと愛であるならば世の光となります。光そのものです。これを今日から実行してみたらどうでしょうか。
愛に勝る薬はこの世にはありません
完成を高めるとは愛を高めることだといえます。今日の一日をだれとも争わず、憎むこともなく、怒ることもなく、嫉妬をすることなく、一日一日を愛にて生きることが感性を高めることです。それを愛の一日といいます。
それが病気治療の秘訣ですし、健康の秘訣です。これに勝るお薬がありましょうか。
皆さん方に無銭でもらえるお薬を頂こうとしないで、お金のかかるお薬で健康を保持していこうとする人が如何に多いかといえます。
私、知花がなぜ病気にならないか。その理由はどこにあるのでしょう。風邪も引かない。病気にもならない理由はどこにあるのですか。愛であるからです。
私は小さい時から人を憎むことが嫌いでした。「あなたに感情がありますか」といわれたこともあります。
それは一回だけではありません。人から罵られても、けなされても、けろっとしていることが出来る私でした。
小さい時から性格的には「言いたいから言うのでしょう」としかいいませんでした。言いたいから言うのだと。それを赦せる自分だから病気にならなかったと思います。
これは悪い性格ですか、良い性格ですか、人を赦せるとは悪い性格ですか、良い性格です。
徳を積むとは愛を積み重ねた者をいいます
自分の悪口を言われて、すぐに怒り狂う人は性格的には良いのでしょうか。悪いのでしょうか。悪いのです。怒り狂ったら誰が損するのでしょうか。自分です。
怒り狂って得する人はいますか。世の中に人の悪口をいって得する人がいるのでしょうか。
あなたは人の悪口をいっている時には、損をしているのです。得してるのではありません。損するものは捨てなければなりません。
徳を積むとは愛を積むことです。徳を積むとは愛を積み重ねることです。
愛を積み重ねた人を徳を積んだ人といいます。徳の深い人とは愛の深い人をいいます。
あなたが愛であれば、人の欠点までも消すことが出来ます。周囲の闇があなたの光で、打ち消されてしまうわけです。
世の中を明るくするためには、世の中が愛でなければなりません。世の中が健康であるためには世の中が愛でなくてはならないといえます。
50年前と私今とでは、病気の数知れず多く出ています。50年前と今とでは想像を絶するほどに病人が多く流行っています。今は25兆円が医療費に払われています。
膨大なる金額です。毎年、毎年、恐ろしいお金ではありませんか。25兆円という金額は、国の予算は一年に70兆円であるのに、その金額の約三割が治療費に当てられています。
そのお金は何の結果でしょうか、愛の結果でしょうか、それとも不調和の結果でしょうか。世の中の医療費が多くなればなるほど不調和になっているとみても、嘘ではありません。今、現にそうではありません。
人を赦す心が愛の心です
人を赦す心、愛する心、これこそ皆さん方の完成を高める秘訣ではありませんか。自分は完成の高い者か低い者かと誰が知っていますか。
そして、完成を低めるも高めるも誰次第ですか。自分です。健康になるも、病気になるも、誰次第ですか、自分次第です。
ですから、自己治癒力とは愛のエネルギーでもって、神性エネルギーでもって、我々は、「この世の無知と闇と悪を克服していくために努めねばなりません」。
この清里の「安らぎの郷」が不調和の溜まり場だったら、この場所は闇の溜まり場になります。不調和の人が集まったら、ここは光になりますか。闇になりますか。
そして慈悲深い人が集まったらどうなりますか。光となります。
これが正に磁場清めではありませんか。あなたが愛そのもの、光そのものになったら、あなたの行く所は全部が磁場を清めています。
愛の無い人が磁場清めが出来ますか。出来ませんか。真っ黒いものが真っ黒いものを消すことは出来ますか。闇を被ったら磁場清めが出来ますか。
神官だといって何か白い服を着て、そんなもので家が清まりますか。土地が清まりますか。清まりません。その者が不調和であれば何の意味もありません。
愛は自力本願です
神は愛ですから、愛の人ではなりません。すべての原点は愛ですから、天に帰るとは不調和の皆さん方が愛の皆さん方に帰ることです。神我は不調和ですか、愛ですか、大愛です。
それには愛そのものになるわけです。真理の実践とは愛の実践です。不調和は神性でしょうか、非神理でしょうか。不調和は非神理です。愛の原理とか、愛の法則しかありませんから、あなたが不調和の時は愛の法則を犯しています。
では、不調和とは罪ですか、それとも罪ではないのでしょうか。罪人とは不調和の人を罪人というわけです。愛の人を罪人というのでしょうか、どちらですか。
あなたが不調和を起こしている時は愛の法則を犯していませんか。能動と受動の法則を犯していませんか。犯しています。罪人・罪人といいますが不調和の人を罪人といいます。
ですから、「病とは罪の結果である」といえるわけです。
罪を多く犯せば犯すほど病に掛かります。苦しみます。
愛になればなるほど、健康になり、幸せになります。愛ある人は健康で幸せです。
あなた以外にあなたを救える者はいません。
他力本願ではありません。自力本願です。
完成を高めるのは愛を高める以外にはないと思います。
時々、私の目の前で争いごとを見る場合があります。争っている人は大人ですか。子供ですか。まだまだ未熟だなと、争っているのを見れば子供の争いを見るような目で見ることが出来るのではないでしょうか。大人になっても争うのでしょうか。
子供は喧嘩します。それは未熟な者であるからです。大人が争っているのを見ますと、まだ未熟であるかと残念です。そのような場面が私の目の前でも見受けられます。
それをやっている人は、また、それなりに気付いて頂かなければなりません。皆さん方は本当に自分から後光や、光や、力が出るためには不調和ではなく、調和の人になるように気付かねばなりません。
問 それでは、オーム讃唱はかなり、パワーが出るのでしょうか。それとも言魂というのでしょうか。
知花 それはもう創造の波動ですから、ものすごい波動です。
問 それも信じずに讃唱するのと、信じて讃唱するのとでは差がでますか。
知花 ハッキリ差が出ます。
問 実際に病気が治るのですか。
知花 治ります。しかし、治るといっても、受ける入れる側と発する側とタイミングが合った時の話です。こっちは治したいと発しても、相手がこんなもので治るかという反発作用を起こせば、打ち消しになります。
そのパワーを受け入れたことにはなりません。それは放り出したことになりますから、効き目はありません。
問 病気の治療だけではなく、潜在能力開発という意味でも活用出来るのでしょうか。
知花 出来ます。
問 オームというのは宇宙語なのでしょうか。
知花 そうです.宇宙の響きです。
問 なぜそのように、病気癒やしや潜在能力の開発に応用できるのかメカニズムについて、もう少し詳しくお伺いしたいのですが。
知花 それは宇宙の響きですから、正しい波動になりますから、悪い波長が消えますと、その状態は良い影響を受けやすくなるからです。
ちょうど、あなたが良い人間の中におると、あなたが良い人間になりやすいのと同じことです。悪い人間の中にいて、良い人間になろうとすると相当に努力をしなければなれないのと同じことです。
問 生物で何百度とか、何千度の温度でも生きていられる生物があるというような、あの記述にはとても驚いたのですが、人間の概念を想像するものが存在しているということですか。
知花 そうです。ただ、人間の想像を絶することが宇宙であり、当たり前の様に存在していますが、人間が理解できないから否定しているだけに過ぎません。
問 生物についての記述も大変興味深く読ませて頂きました。それで、人間が植物をとることは微生物に餌をやっているようなものだということですが、今までそんな話聞いたことが無かったものですから、すごく新鮮に思いました。
知花 微生物とは、本当は小さな生命たちといっているものです。
問 妖精というふうにでしょうか。
知花 そうです。
問 それを昔の人は微生物を擬人化して捉えていたのでしょうか。
知花 そのように捉えていたと思います。ですから、それほどの全てとの一体感で親密感を持っていたといえるのです。
問 色々な国の神話を見てみますと、ある程度は共通した部分があるのですが、超古代の人達は直感的にやはり、エネルギーとか、自分のパワーとかをある程度は認識していたのでしょうか。
知花 今の人間以上に認識していた時代がありました。なぜかといいますと、昔の人間は神を抜きにして生活した人間はいなかったからです。
今は神を否定して生きている人間が大半ですから、神なんておるものかということをいいます。それだけの違いです。
問 それと古代の人達は神と同時に魔物というのでしょうか。
そのことについても認識していたと、実際に捉えていたというように、最近ある本で読みましたが、魔の世界はほんとうにあるのでしょうか。
知花 魔の世界は人間の心の状態であって、魔の世界がどこかに存在するものではありません。
問 人間の意識がそうさせているのでしょうか。
知花 意識の状態でも魔になるし、神にもなります。ですから、人間は悪魔にもなり、神にもなるといえます。意識の状態だけです。自分が悪魔になるのも神になるのも可能です。
問 西洋の魔術の儀式を見ますと、かなりグロテスクな現場があるのですが、そういう儀式をすることによって自分の魔力が出来ますか。
知花 信念で作りだして、その魔の力を生み出しています。信ずることはその力を悪にも使えますし、善にも使える力です。善悪に左右するだけです。
問 チャクラについてお伺いしたいのですが、よくチャクラを開くと超能力的なことを発揮する事が出来ると聞いた
ことがありますが、それと意識の世界とはなにか関連性があるのでしょうか。
知花 チャクラを開くというのは一つの観念的に書いてるものは沢山ありますが、実際にチャクラを開いている人はそう沢山いるものではありません。
あれは、彼らが勝手にそういう観念を生み出しているだけです。
ですから、それらの本に書いてあるものがそのまま真実だと受け取っては非常に困ります。
チャクラというのは外部からの刺激で開くものではありません。
宇宙意識そのものになって初めて、大霊と一体になって始めて、自ら開くものであって、
意識が低いのに、人間意識とか、肉意識とか、個人意識なのに、チャクラが開くということは絶対に無いといえます。
光のない所からどうして光が出ましょうかと言いたいのです。
それを観念的に「ああであるとか、こうである」と書いてある。偽物の本が世の中にいかに出回っているかといえます。
それはドグマ的ですし、そんな真実は全くありません。また、そんな理屈にかなわないことも、あり得ないことです。
確かに現れているよな現象は起こせますが、彼らが勝手に作るわけです。
それは一つの自念症ですから、それを弄んでいる人は最終的には殆ど精神異常になります。意識は正さないで、現象だけ望んだり、いたずら心でやったら、非常に危険なことです。チャクラを弄ぶことは絶対にしないようにすることです。
生命は永遠に生きている
私達が生きているのは、殆どの人はこの肉体が生きていると思っていますが、肉体が生きているのではありません。
今私の手元にある木の葉は、木の葉が生きているのですか、生命が生きているのですか。生命です。
このことと同じように、私達の肉体の人間が生きているのではありません。
この木の葉がなぜ生きているかといえば、生命によって生きています。私達の肉体も、何によって生きているかといえば、生命によって生きているのです。
ですから肉の死を「死」と言いますけれども、肉体はなくなりましても、生命は永遠ですからなくなる事はないのです。
その意味は、例えばここに氷がありますが、氷という姿形がなくなりますと、水蒸気がなくなるかというと、そうではありません。
この氷は何かといいますと、水蒸気の結果です。
氷という姿形がなくなりましても、水蒸気は無くなりません。
同様に私達の肉体も、肉体という姿形はなくなりましても、肉体を現している不可視の生命はなくなることはありません。ですから、見えるものは全て見えないものの結果にしか過ぎません。
この氷も水も水蒸気の結果です。ですから私達の肉体も幽体も、霊の結果でして、この物質世界も幽界も何の結果かといいますと、霊の結果です。
物質世界も幽界も実在界ではありません。実在界ではなく、何かといいますと、結果次元です。原因次元ではありません。
ですから、水蒸気が原因として水と氷が存在しています。水と氷が無くなりましても、水蒸気は絶対に無くなることはありません。
霊体へ永遠である
水蒸気と同じように、あなた方の肉体、幽体はなくなることがあっても、霊体はなくなることはありません。
我々の実体は霊ですけれども、自分を肉体だと思ったり幽体だと思ったりするのです。
幽界にいる殆どの者は、幽体を自我として持っています。あなた方が肉体を己として生きているように、彼らもまた幽体というものを持っています。
あなた方よりも少し精妙になっておりますが、氷よりは水のほうがもう少し精妙です。バイブレーションが上がった状態です。
バイブレーションの下がった氷を、バイブレーションの上がった水から見ますと、そこからは丸見えです。
しかし、水蒸気の霊体はバイブレーションが違いますから、幽体からは見えません。そして肉体から幽体は見えません。ですから下から上は見えないようになっています。しかし、上から下は丸見えですが、下から上は見ることが出来ません。
なぜ、見えないのかといいますと、バイブレーションが高いからです。バイブレーションの低い者が高い者を見る事は出来ません。高い者が低い者を見ることは可能です。
しかし、皆さん方の意識がどんどん高揚していきますと、高くなりますと高い次元に来ますので、霊の次元からは幽界も物質界のことも丸見えです。ですから、皆さん方の意識の高揚は非常に大切になってきます。
その意識の高揚は、何によってなずといえば、神理に対しての理解力です。理解をなさねばなりません。
それはあなたが実体は霊でありながら、氷の実体は水蒸気でありながら、自分がが何であるかわからない人が非常に多いです。
自分が何であるかわからない人が非常に多いのです。皆さん方が肉に生きている限りにおいては、皆さんは死んでいるといえます。
この世の祝福はあの世では不幸と言い、
あの世は祝福はこの世では不幸と言い、全く逆になっている
私達は死ぬと不幸があった、といいます。
生まれてくると祝福だ、といいます。全く真実は逆になっています。
赤ちゃんが生まれてくるとうことは、見えないものから見えるものになった。精妙体だったものが精妙体でないものになったということです。
この世では生まれることを祝福といい、お祝いともいいます。死ぬことは不幸といいますが、天と地を逆に物を見ているのではないかと思います。
私からすれば、赤ちゃんが生まれてくると、「ここは厳しいから頑張ってね」と言いたいですね。「あなたは厳しいところに出てきたね」「低い所に出てきたね」と言いたいのです。
我々はこの世の低い次元のお務めを終わりますと、必ず肉体という現象がなくなります。
これを皆さん方は死と呼んでいますけれども、一番厄介なことに、この低い次元にいる時に、この自分の本源が何であるか分かりませんので、
体外の方は幽界という幽体を自我として持って、その次元に留まるのです。これを不成仏霊と言っています。
皆さんだって神理を学ばないで、自分の本質が霊がであり、生命であうということを知らない限りこの幽界で留まることになります。とどまらないと思いますか。
幽界も自我として存在しているのですから、ここの次元も結果次元です。物質次元も幽界次元も原因次元ですか。結果次元ですか。それは結果次元です。
本当に霊次元に帰らなければなりませんが、自分が出てきた所が霊次元である事が分かりませんので、わからないまま、無知のままでこの世を去ります。
それで必ずこの幽界に引っかかるのです。この幽体で引っかかるわけです。
肉体は無くなりましても、幽体という自我がありますから、肉体よりは少しバイブレーションは上がりますけれども、あなた方と幽体を持っている連中と、どちらが自由でどちらが不自由ですか。
あなた方よりも、肉体を持たない幽体を持っている連中は、非常に自由です。肉体という乗り物がありませんし、乗り物に乗る必要がありません。
時間も空間も超えているわけですからです。
例えば私の父親は南米で祀られています。この地で私が父親を思い出しますと、父親は思った瞬間にパッと来ます。
時間も空間も超えてますから。私達は肉体を持っていますので、そんなことは出来ません。まだまだ不自由です。またまだ束縛です。
しかしこの幽体も本当の自由を得ていません。本当の自由といえるのは、霊体のことです。水蒸気の次元です。いかなるものも束縛も受けない次元のことです。
ピラミッドパワーの意味
皆さんが、ピラミッドパワーと呼んでいるものがありますが、ピラミッドパワーというものはまた解明されていません。ピラミットというのは三位一体といいまして、尖った所は必ずプラスです。平面の部分は必ずマイナスです。
これはプラスマイナスがいくつあるかといえば、3つあります。一つの形の中に、3つのエネルギー形態があるわけです。
ですからピラミットというものは、プラスが3つでマイナスが3つというバランスのとれたエネルギーを象徴しています。
三角形、二つをずれさせた形を何と呼びますか。ダビデの星です。
ダビデの星はこのピラミッドを2つ重ねた形ですね。そうなりますと、六つあるわけです。三角よりはこのダビデの星のほうが、エネルギー的には高いのです。
例えば、ここに石があります。意志の尖ったところはプラスです。平面の所はマイナスです。
今度はこれが電気的に一ボルトであれば、これを二つに割ったならば、二つに割ってもいくつに割ってもこのものが一ボルトを持っていたとすると、どんなに小さくても一ボルトです。
水のエネルギーを高めるには、1個の大きなものを入れるより、二つに割っていた方が、良いわけです。
今度は四等分にして入れれば四ボルトになりますから、この粒子をいかに細かくするかが要点です。粒子を細かくすると、密度は高くなりますか、低くなりますか。高くなりますね。
粒子を細かくすればする程エネルギーが高くなります。このことを超分子といいます。
我々が空気中にあるものを見るのに、分子が精妙だと見えないのです。分子が細かいから見えないのです。
この高分子を高級霊と言っています。高バイブレーションといいます。
粗野な分子の事を低分子、低エネルギーと呼んでいます。
30ミクロンで作ったセラミックス1個より、一ミクロンで作ったセラミックスは30倍の力が出るのです。ミクロン単位で全然力が違うように決まってしまうのです。
そうなりますと、零点何々ミクロンのセラミックスに小さくすれば、もっとエネルギーが高くなります。
セラミックスが何故エネルギーを高めるかといいますと、セラミックスの持っている粒子の表面積にポイントが有ります。それを界面活性といい、粒子一つに必ず界面がありますので、界面の粒子の細かいものを多く入れれば入れる程、界面活性になります。
界面活性された細かい粒子を一粒入れますと、コップの水と一つのセラミックスを入れた水とどちらがエネルギーが高いと思いますか。
セラミックスを入れたほうが、エネルギーが高くなります。
この水一リットルの界面活性の状態の水は決まっていますが、それを入れる事によってセラミックスの周囲の全部のエネルギーが、宇宙エネルギーと同通する表面積になりますから、その分だけ水の中のエネルギーが高くなります。
例を申し上げますと、水を注いですぐに飲むよりも、お箸をぐるぐる回して水の分子を細かくしてかき混ぜてから飲みますと、水は味が全然違います。ただ、手を当てるだけでも変わります。それは、手から遠赤外線が出ていますから、普通の塩素の入った水の塩素の入った水の塩素は手で回しただけで無くなります。
完全とは「美」をいいますが何故でしょうか。
あなたから不調和が無くなれば完成です。完成した時には皆さん方は祝福を受けます。未完成では神の祝福を受けられません。皆さん方が家を建築するのに未完成なのに祝宴をあげますか。
完成祝いが出来ますか。出来ないはずです。
では、あなたは今、神の祝福を受けてる者ですか、神の祝福を受けていない者ですか、それは調和だからですか、
それとも不調和だからでしょうか。あなたは不調和を美しいといいますか、醜いといいますか。
不調和を、「これは不完全だ、美しいなあ」という人がいますか。
完全になって初めて皆さん方は、「美」という言葉が出るはずです。ですから、皆さん方が自分を美しくするのも、醜くするのも自分次第です。
全ては愛しか無いと思います。愛の他はありません。なぜかといえば宇宙には愛しか無いからです。あいのみが絶対実在となります。
では、皆さん方の考えている不調和は実在するものでしょうか。実在しないものです。不調和とは何でしょうか。実際にあるものでしょうか。無いものです。
実在しているのは愛だけです。どこに不調和があるのでしょうか。どこから不調和が探せますか。無いはずです。
ですから、皆さん方はその不調和を認めてはなりません。不調和は認めるべきですか。認めるべきではありません。
認めるとその不調和があなたに力を与えることになります。善悪の心とはその意味です。
善なる心があるだけであって、悪なる心は本来ありません。絶対善があるだけです。絶対愛があるだけです。善の心もあって、悪の心もあるというのは本当でしょうか、嘘でしょうか。
悪なる心は実在するのでしょうか。実在しません。それは幻想であり、幻影です。悪とは即ち幻です。
実在しているのは愛の光だけです。
今、この世の物質時代は少々未熟な者たちでも天上界に上げられる
完全無欠な者しか収穫出来ないとするならば、あなた方の誰一人として収穫できません。
完全無欠のものを天に上げるとするならば、一本でも収穫できますか。収穫は出来ません。
少々の傷物でも今は天に上げなければならない時期に来ています。全くの傷だらけの不調和の者は収穫はできませんし、収穫しては困りますが、今はその収穫の時期です。
今の時期は、例えば、ほうれん草の種を巻いて、完全なものだけで収穫するとすると、虫が多いわけですから、それは収穫できませんが、今は少々完成を高めているとか、完全にはまだ成っていない者でも、天に上げられます。そうであるからといって、不調和であって良いと意味とは違います。
直感は知恵であり、知恵は直感でもある
例えば、私事で申し訳ないのですが、この知花は日本の教育を受けていませんが、どんな漢字でも書きますし、必要に応じて読むしその意味がわかります。
外国に行きますと外国の言葉がすぐに分かるようになるし、それは習って分かったものではありませんし、教えられて分かったものでもありません。これが直感です。直感でわかるのです。
そのようなことでも、皆さん方は今鈍感なのか、敏感というのは一番誰がご存知ですか。自分ではありませんか。
私は見ない限りは絶対に信じないとか、聞かない限り信じないなど、耳に頼り、目に頼って、鼻に頼って、あれを食べてみよう、
これを食べてみようというように、五感に頼っている限りは人間は鈍感といえます。
鈍感ですから無知というわけです。分からないのです。
直感というのは知恵のことを言うのです。そして五感は知識です。貴方の目で確かめて、耳で聞いたものは皆消えてなくなるものです。しかし、その直感は永遠なるものです。それは不滅の知恵として、永続します。
アカシックレコードとは何か
人間の世界に現れている現象がありますが、その現象世界の前に、必ず現れる青図面というものがあります。その青図面とはなにかといいますと、想念の世界です。想念形体といいまして、この地上界の人間が組み立てた想念世界というものがあります。
想念世界にあるものは、必ず地上界に具現されるように、この世に物が現れるということは、もう既に霊の次元では存在しているのです。これが三次元という次元に、現象の世界に現れるようになっていて、それを見るのです。
その想念の世界をみることを、皆さんは「アカシックレコード」と言っています。そのアカシックレコードには、もう何万年前の事までインプットされまして、記憶されております。そこを見ますと、過去にどこそこでどういうことがあったということが全部読み取れるのです。
皆さんの霊性が高まれば、どなたでもアカシックレコードを読み取るのが可能です。霊性が高まれば、という意味は何かといいますと、もう私はこの血や肉の形に属する者ではないという普遍的生命と一体であると、宇宙との一体感によって、宇宙即我の境地になった時、この宇宙が自分であるならば、宇宙の働きは全部が自分ですから、敏感に分かるのです。
自分が個人たと思っているならば、宇宙の動きがわかるはずがありません。宇宙からの分離感を持って、自分は人間なのだという外念を持っていたならば、宇宙の動きがわかりません。世界の動きを見ても分かりません。
皆さん方はもっと奥深い心境になりますと、みなさんの死後の世界まで言い当てることが出来ます。あるいはこの人は今生に悟ってその神我に到達するのだろうかとか、到達しないのだろうかということまで予測することが出来ます。
途中で落伍するのか、あるいはそのまま続けて努力して神我到達するのか、神我到達しないかということまで分かるのです。
ですから、皆さんの心は私にとってはお見通しです。皆さんが今どう思っているか、どのように私を感じているかが読み取れるのです。
分離感を持った人には五感はしか感じませんから、鈍感で外側のものしか感じませんから分かりません。しかし、内側の世界は一体感ですから、その人の意識と私の意識とは同じ意識が働いていますから、直通です。まあ、直通電話といってもよろしいでしょう。人の心はそのようなものです。
この清里に来るお客さん一人一人の心が読めて話さなければなりません。そして今日清里に来て話を聞いたのは、自分だけに的中したようなものだと皆さんはお思いになるかもしれませんが、その人だけに的中しているのではなく、一人一人の意識を読み取りながら話しますので、私のために話を聞いてくれた、というような感じを、一人一人が受けるのです。
ですから、私が皆さんに語る話のテーマというのは飾りです。この清里で皆さんの一人一人の顔を見つめながら、「その人その人は今これぐらいの理解力しかないから、ではこういったなら分かってくれるかな」というように、その人の理解力を仰ぐのです。
「この人は今こう言ったから分かってくれた、では、この人のことはそっとしておきましょう。あの人は今わかっていないようだ」ということで、次のはないの模様を変えるようにします。
それが釈迦の言葉にあります、「人を見て法を説け」という意味です。
例えば、神理を一度も聞いたことのない人間の中に入って、高度な話をしますと、理解する事ができません。その時は、レベルの高い話をせずに、低めの話をするようにします。その人のレベルまで持っていって、その人を引き立てて上げるのが話術というものです。
全ては高くなればなるほどよく見える
私は毎日、皆さんの前に立って、皆さんの視線をよく見るのです。目は確かに鋭く見えます。遠くまで見て、その人を見抜かなければなりませんから、ちょうど鷹の目か竹の目が、多くから小さな獲物を見ているようなものです。それは低い所から見ても分かりませんから、非常に高いところから見るのです。
話をする時には、どうしても教壇が必要だと思いますか。話をする時には、先生が低い所にいって、お客さんが高い所にいるというのは、話しにくいものです。見下ろすという言葉がありますが、見下ろしていますと人の状態、状況が全面的に見えますので、非常に感じやすくなります。
また、見ている方でも、はなししている方が一番下の方に行って、自分が高い所にいたら聞きづらいと思います。そのために、1段でもいいから少し高めにして、特に私のように背の低い者が、低い所にいたのでは、皆さん方から、声だけで体が見えないでは困りますので、少し高い教壇を設けているのです。
段差をつけ、見下ろせる状態で話しますと、非常に話しやすくなりますし、また聴きやすいという条件下に置かれます。
知恵は出せば出すほど湧き出てくる
私は常に天啓を受けたものを、朝晩吐き出しているのです。多くの人達が私の話を聞いて下さるお陰で、私は吐き出す場があります。誰にも吐き出さなかったとすると、私は半身不随になって床につくと思います。
入ったものを、啓示を受けたものを表現して出すということです。知恵の泉ですから、いくら出してもいくら出しても、次から次へと365日、このような話ができます。
どうしていくらでもそのような話が出てくるのだろうと、皆さんはお思いになるかもしれませんが、知恵の泉と一体となっておれば、一日十回だそうが二十回出そうが減らないと思います。ですから私は原稿がいりません。
皆さんは五感で得たものでしょうが、直感で見ないで習わないで、教わらないで得ているのです。
また、それは減るものではありません。無限と一体になって、無限から及んで一体となって、そこから得るものは絶対に乾くことがありません。
あの知恵は一体どこから出てくるのだろうと、皆さんが不思議がりますけれども、皆さん方一人一人も皆知恵の泉に繋がっているのです。この人もその人も皆繋がっています。ですから、宇宙は同じ知恵、同じ力、同じ姓名があるだけです。
すべての生物は同一の生命と同一の知恵、同一の力で動かされているだけです。ですから、全ての知恵も無限大で、力も全部が無限大です。
心に太陽を持つ方法 「心に太陽を持て」ということを書いたり読んだりしますけれども、どのようにして心に太陽を持つことが出来るかといえば、自分が太陽そのものであると、霊太陽そのものであると知った者のみが、心に太陽を持つことが出来ます。
本物のボランティア活動とは、霊エネルギーを放射・放出することである
あなたから生命エネルギー、霊エネルギー、霊光、宇宙エネルギーが燦然と放流されますと、皆さん方はその時無料の奉仕ということを体験します。
奉仕活動といいますと、必ずこの自我の肉体がジタバタすることが奉仕だと思っていますが、霊的なものを何も知らないで、肉的な自我の人間がジタバタしてボランティア活動をすることは奉仕なのか、私は疑問に思います。
それとも霊的な生命エネルギーを放射、放出することがボランティアなのか、どちらが本物のボランティアでしょうか。もちろん霊のエネルギーを放射、放出することが本当の活動です。
肉体的なボランティア活動は決まった何十名を相手にしか活動できません。しかしあなたからは放射、放出されるエネルギーは全世界への奉仕ではありませんか。全人類への奉仕ではありませんか。肉的なボランティア活動は有限の奉仕です。霊的活動は無限です。
お釈迦様は3000名に飯を盛るよりも、五分間だけでも宇宙エネルギー、大霊との一体感を感じている時には、神のエネルギーが皆さんから宇宙的に放射、放出されますので、「五分間だけ冷静でありなさい」と言われたのです。
ですからあなたが朝の二時間だけの霊浴をするということは、大変な奉仕になります。大霊との一体感で、大霊そのものになっているときは、あなた自身から無限のエネルギーが放射されるわけですから、無限に影響を及ぼしています。それが本当の奉仕というものなのです。
愛の無い行為は無に等しいとはどういう意味か
「愛なき行為は無に等しい」という言葉があります。愛の無い行為というのは神我のない、という意味です。
ですから自我の奉仕は無に等しいという意味です。
イエス様はこう言われました。「一番大事なものを人に与えなさい」その一番に大事なものは何かといえば、生命であると言われました。すなわちエネルギーを与えることは生命を与えることです。
「命を得ようとするものは命を失い、命を放すものは命を得る」という言葉があります。エネルギーを得ようとする者は、エネルギーを失い、エネルギーを放つ者はエネルギーを得るという意味です。
ではエネルギーはどのようにして放つことが出来るかといいますと、宇宙生命との一体感です。私達はエネルギーを得ると同時に放たねばなりません。
本当の意味での人類救済とは、自我人間を神我に引きずり込むことである
今朝私は二時間ほど、全世界へ向けて命を捧げました。エネルギーを宇宙生命と大霊との一体感を得ることによって、自分が大霊の中に大生命の中にいることによって、この肉体から全世界へ向けて、放流、放出するわけです。
インドにおられる聖者がたも決してボランティア活動に行くことはありません。では彼らは怠け者と言うことが出来るでしょうか。ところが、彼らは全世界へ向けて命を放射しているのです。
自我人間を神我に目覚めさせることが救済なのか、一所懸命に金や物質で奉仕することが救済といえるのでしょうか。お金を多く寄付することが救済なのでしょうか。
人類救済とは、自我人間を神我に連れ込むことであり、偽りの世界から実相世界へ連れ込むことが、人類救済であります。本当の救いとは、一人一人を霊的に目覚めさせることなのです。
イエス様が語られた
「パンの菌のようなもの」という意味は何か
私の言葉の一つ一つはイースト菌のパン種のようなものであるといえます。ちょうどイエス様が言われたように「あなた方のその小さな、パンの種を蒔くことによって、あなた方のこの小さいと思っていた魂が宇宙大にまで拡大する」という意味です。これが「パン種のようなもの」といわれる意味です。
今こそ皆さん方の魂を宇宙大にまで解放したらどうでしょうか。聖書には譬えしか書いてありませんが、「パン種」を「私の言葉一つ一つがあなた方にとってはパン種のようなものである」と言われました。
今の皆さん方は結局未熟なパンです。この清里でイースト菌を朝晩食べていながら、このような話を聞いている間は宇宙大にまで広がるのに、その後はまた縮んでしまって、小さな魂になっています。小さな魂が、せっかくイースト菌を入れて、ややもすると宇宙大にまで膨れ上がるのですが、また、小さい肉に支配されてしぼんでしまいます。
あなた方は常に大きい状態でいなければなりません。低い意識状態から高い状態意識に高めることを、昇天といいいます。自我意識状態から普遍意識状態になることを昇天といいいます。または成仏と言います。
今の宗教界のいっている成仏とか昇天は、何処にも存在していません。彼らの帰るべき天上界はどこにもないといえます。意識状態があるだけであってえ、空想の天上界や、空想の産物はありません。
貴方の意識は神状態ですか、人間状態ですか。あなたが人間世界に生きているのは、人間意識状態であるということです。ですから、あなた方は常にその意識している所にいるのです。
低い所を意識している時には、貴方は低い所にいるし、高い意識をしている時には高い所にいます。意識を高めるのも低めるのも貴方次第です。貴方の悟りの王冠は誰かが持ってきて載せるのではありません。
悟りの王冠は自らの手で載せなければなりません。誰かがあなたの意識を宇宙大にすることは絶対にありません。小さい意識状態にするのも、高い意識状態にするのも、あなたの自由意志、自由選択で行われていると思います。
あなた方はこの世の金銭的なことで、千円や五百円ぐらいでも損すると起こるのに、このような普遍意識的状態から個人意識的状態に落とすことがいかに損であるかに、なぜ気付かないのだろうかと言いたいのです。ですから、あなた方は常に寛大な意識状態、普遍意識状態でなければなりません。この意味が分かりますか。
キリストの大宣言とは何か
今年中に必ず皆さんの中から、沢山、そういう意識状態の人が出てくるでしょう。
おそらく今年中には色々な奇跡も起こります。この大霊と一体となった状態は精霊が下ったという意味です。大霊は精霊そのものです。その精霊はどこにおりますか。皆さんの中におります。
その精霊そのものが、皆さんの実体です。これを「神の臨在観」といいます。「キリストの再臨」という意味です。即ち、「キリストの大宣言」という意味です。
自分が大きい宇宙霊であり、大霊であることを、あなた自身が宣言しなければなりません。その大宣言をして、それを得た時に皆さん方は神の特権を得るわけです。
では、神の知恵と力とを使える特権は誰が得ますか。自分が掴まなければなりません。誰かが持ってきて与えることではありません。あなた方が意味もわからないような。色々なお経を上げる暇があったら、そこに意識を向ける時間を与えなさいということです。瞑想せよ、内観せよ、檍念せよといいたいのです。
瞑想とは何か
瞑想とは、その普遍意識に一心を集中することです。真の自己である普遍的なものを見つめることが瞑想です。「汝の觀るもの全てを受け継がん」。大きいものを見れば大きい物を受け継ぎ、小さいものをみれば小さいものしか受け継ぎません。 「汝の信ずる如くなれ」です。
あなたが小さいと思っているならば、小さい知恵しか、小さい力しか出てきません。あなたが大きいと信じているならば、あなたは大きいものを得ると言いたいのです。
「汝の信ずる如くなれ、信ずるものは現れる、認めるものは現れる」
大きいことを認めたものは、大きな知恵を力とが現れるという意味です。小さいと思っている者は、小さな知恵、小さな力しか現れません。
大覚者とは何か
自分を小さいと思っている人は迷い人です。悟った人は大覚者です。大きいと思っている人を大悟といいます。大きい悟りとか、小さい悟りとかいわれているものはありません。大悟ですから、我は霊なり、我は大生命なり、我は宇宙なりといえた方です。
宇宙大の自分を悟られた人を「大覚者」といいます。大きな存在に目覚められたのです。小さい存在ではありません。
いつまでもこの小さな己に閉じこもるのではなく、外皮でものを見ないことです。柏の木の種が目覚めた時は、その木がどんどん成長して野の鳥が巣を作るぐらい大きくなるだろうといわれたのと同じ意味です。
あなた方もこの宇宙大からすれば、柏の木の種のようなものです。しかし、本質は無限大ですから、それに目覚めた時は、その宇宙大にまで皆さん方が拡大される事実を知らなければなりません。ですから、この世の中の人間は、皆自分自身を見失っています。
概念に支配されて、本来の自分は無限大なのに、宇宙大なのに、全部が自分を見失っていて、この外念で生涯を終わるのです。肉体は自分でもないのに、自分を見失ったまま世を終わってはなりません。目覚める魂になりなさいといいたいのです。ですから、「目覚めよ」といつも言うわけです。
私は皆さん方を毎晩刺激しています。あなた方は決して血や肉ではありませんよと、大霊ですよと、宇宙大ですよと、無限大ですよと、いつも皆さんを朝、早く叩き起こして、刺激しているわけです。
その自分が宇宙大であり、無限大であるという普遍意識状態で宇宙意識状態になった人は、目覚めた魂です。
どこを見るかどこを思うか「汝の見るものを受け継がん」
皆さん方は。
今、一日に何回、神霊に意識を向ける事をやっているのでしょうか。
それは、皆さんご自身が一番良く分かっていると思います。
そうすると、
この調子で満たされるのだろうか。
満たされないのだろうか。
誰が一番良く知っていますか。
それは自分が知っているはずです。
殆どの時間を、
物質という世界に合わせている
物質というチャンネルに合わせている。
そこにチャンネルを合わせていて、霊性は満たされますか。
それは、決して満たされることはありません。
「汝の見るものを受け継がん」とは、その意味を表しています。
物質を見れば物質を受け継ぎ、神霊を見れば神を神霊を受け継ぎます。
どこを見るかです。
どこを意識するかです。
それで、霊性の進化は決まります。
皆さん方は「祟の話」とか「幽霊の話」とかは、する必要はないのです。
世の中には、
幽霊だ、祟だ、何々だというものを弄んでいるグループがあります。
神霊に意識を向けているグループもあります。ということです。
ですから、
私が、幽霊の話、祟の話をしないのは、
あなた方を、幽界に意識を向けさせないためです。
幽界に向けさせたら、
あなた方はどうなるかと。
そこの影響を受けて、全部、憑霊現象を受けてしまいます。
その憑霊現象を弄んでいる宗教が沢山あります。
蛇の霊が祟っているとか、何かの霊が祟っているというのは、
チャンネルはどこに向いているのですか。
神界にですか、幽界にですか。
そういう連中は、どこに意識を向けていますか。
幽界に向いているわけです。
そこの影響を受けていろいろな現象が現れるわけです。
また、面白いことに、その現象を望んでいる人もいるのです。
蛇が憑いているといえば、
身体をクネクネさせながら這いずるひともいるし、
狐が憑いているといえば、
コンコン、ピョンピョンと泣きながら跳びはねる人もいるし、
それを弄んでいるのです。
まあ、結構に楽しんでいるからいいとは思いますが、
そこの幽界に意識が向いたら、
その皆さん方は、
昇天、成仏するのだろうか。しないんだろうか。
それは、幽界止まりです。
ですから、
あなた方が、幽界が見えないことが幸いだと、
私がいうのはその意味です。
幽界の次元の見える人は、
神界にいる事は、全く不可能です。
幽霊が見えたら、
もうそこが神界だと思い込んでいますから、
絶対に神霊という神の世界には昇れません。
残念ですが、
今の世の中の段階は幽界の話をするまでです。
幽界の話しかしないのです。
坊さんも幽界の話です。
なぜか、水子の祟りだとか、水子供養だとかで金儲けをするわけですから。
坊さんは仏の話をしていますか。
坊さんは何の話をしていますか。
あなたが、
何を祟っている、これが祟っているという、
そんなグループに入ったらもう最後です。
それは祟の世界ですから、
神の世界であるはずがないのです。
ご存知ですか。
祟の世界は、神の世界というのですか。
祟の世界は、神の世界ではありません。
神は何も祟りませんので。
災もしませんので完全です。
完全の世界です。
だから、完全なものになるためには、
完全なものを見て。完全なるものを意識せねばならないのです。
不完全なものを見て、癒る事があるのでしょうか。
完全性を見て、完全性を意識せねばなりません。
完全なものを見て、完全のみ意識しなさい。
そうする事によって、完全になりますよという事です。
不完全を見て、不完全を意識して、完全になる人は一人もいないのです。
「あなたは見るものを受け継ぐ」
「あなたは思うものを受け継ぐ」というわけですから、
「想念は実現の母」ですから、
この意識の向け方を間違えますと、大変なことになるということです。
神霊に意識を向けた時、その人は神霊の波動を出す
あなた方が、神界に意識を向けた時、
その人が神霊に意識を向けている時、神霊の波動を出すのです。
チャンネルを合わすわけですから、波動が合うのです。
神に意識を向けけている時は、神の波動です。
幽界に意識を向けている時は、幽界の波動です。
チャンネルですから、波形ですから、そうなるのです。
物質に意識を向けている時は、低い波動を持っているのです。
波動が高いか低いかは、これで決まるのです。
波動というものはバイブレーションですから、
バイブレーションを高くするには、どこに意識を向ければ高くなると思いますか。
それは、意識を上に向けなければなりません。
上に意識を向けた時、
神界は「真理」そのものですから、
神界は「真実」そのものですから、
神界は「完全」そのものですから、
完全なものに意識を向けた時、完全なる波動を出すわけです。
皆さん方が、宇宙意識になりますと宇宙波動です。
皆さん方が、神意識になりますと神の波動です。
低い所に意識を向けていて波動が高まりますか。
それは、高まらないのです。
そのバイブレーションの高め方は、どこに意識を向けているかで決まるのです。
外側に意識を向けていて、
あなたのバイブレーションが高いはずがありません。
物質のことだけ一所懸命考えている時、
あなたのバイブレーションは高いのでしょうか。低いのでしょうか。
バイブレーションが高まったら、低いものの影響を受けると思いますか。
高いものが低いものの影響を受けるのでしょうか。
その事を、
「私はこの世の手の届かぬ所に留め置かれた」といいます。
波動の高い所に留め置かれますと、
この世の影響を受けないわけですから、「安泰」です。「安全」です。
これを「平安」というのです。
まだまだ皆さん方は、
自分の意識を、
幽界に向けたり、物質界に向けたり、
これを(動搖心)というのです。
私は色々な体験を乗り越えて、今は神界にある
皆さん方の中で、
過去の私を知っている人はご存知だと思いますが、
私は幽界を通過したのです
沖縄にいた当時は、幽界を弄んでいたのです。
その時は非常に感情的だったのです。
憑依霊を弄んでいましたので感情的だったのです。
昨日までは神様みたいだなと思ったら、
今日は悪魔みたいになったりするのです。
非常に感情的だったのです。
それを通過してその事が分かって、
神意識を向けることによって、
幽界の影響を全く受けないものになったのです。
その体験は、
私には必要であったのです。
幽界という世界も知っておかねばならないし、
物質世界も知っておかねばならないのです。
この物質世界で、
私はうんと貧乏したことがあるのです。
もう・・・・・、とことんこれ以上に、
この世の中にこんな貧乏があるかと思う位のものなのです。
それは、南米にいて、家内と結婚した当時のことです。
お皿が一つ、スプーンが一つで二人が食事をしていたのです。
お湯を沸かす、煮物をするにも空缶です。
ヤカンもお鍋もお釜も空缶です。
その空缶に針金を詰んでご飯も炊いていたのです。
それで、毛布は二人で二枚。
子供が生まれて三人で二枚。被って寝るものがない。
住む家はあるにはあるけど、窓にはガラスが入っていない。
冬の寒い空が、こちらの窓からあちらの窓へ直通。
どんなに囲っても隙間風がビュウビュウ入ってくる。
その時の寒さは外の水が凍るくらいの寒さで、
空缶に入れてあった水が凍っていた位でしたから、
相当に温度が下がっていたと思います。
そういう中で、
ちょうど、長男が生まれた年でしたから、
子供は寒さから守らなければなりませんので、
子供を毛布にまいてくるので、
私達は焚火をして、
その焚火を囲んで夜を過ごした事があるのです。
そして、ある時は大金持ちです。
こんなに金が儲かっていいのだろうかと思う位の体験をしたのです。
でも、どちらも面白なくなかった・・・・・。
貧乏も面白くなかったし、金持ちも面白くなかったのです。
それをみんな体験して通ってきたのです。
そして、沖縄に帰ってからの事。
この霊的なものになりますと、
幽界に引っ掛かり幽界に弄ばれたのです。
幽界の祟りだとか、憑霊を外すのだとか、
そういうものを何年もやってきたのです。
沖縄の民(ユタ)という、
本土なら巫女というその世界に入って行きまして、
地域的拝みも一所懸命やりました。
そういうものも通ってきたのです。
その時、私は感情的だったのです。
幽界にいる時は感情的だったのです。
しかし、
そこを乗り越えて、
今は神界にあるという事を。
これは霊性進化の一つの体験なのだと、
私は思うのです。
今は、全く感情というものは出てこないです。
カッとなって怒るとか、
極端に何か悲しいとかいう事は全く無いのです。
それが、平安というものだなと、
安らぎというものだなとはっきり言えるのです。
寂しいとか、苦しいとかそういうものが無いわけですから。
いつも喜びに満たされる自分というものを、
今、私は体験しているのです。
それは、
どうしてかといいますと、
神霊の方に意識を向けて瞑想したからです。
瞑想とは、
その神霊に意識を向ける事が瞑想です。
それ以外に瞑想がありますでしょうか。
ですから、
内観せよというのは、
その神霊を見つめて、
神霊に一心を集中する事によって、
その神の波動を受ける事が出来るのです。
皆さんも同じことをすれば、
同じ事が起こりますよという事です。
私が体験しているからはっきりいえるわけです。
今、神霊の道は開いている、あえて幽界を通ることはない
あえて幽界の影響は、皆さんに受けさせたくないのです。
水子の祟りだとか・・・・・、動物霊の祟りだとか・・・・・。
私が話さないのは、これは不要だという事です。
神霊への道は開いていますので、
あなた方は幽界を通らなければならないという意味は無いと思います。
私は、幽界に意識を向けたから影響を受けたのであって、
それを受けないで、
即時に神霊に向ければいいわけですから。
幽界に向けるひつようがありますか。
ここで感情的になって、
必ず、苦しまなければならないという必要がありますか。
その幽界を弄んでいるグループが、世の中に多くいるという事です。
そこからでもいろいろな現象が起こります。
この我々の三次元からすれば、相当次元が高いわけですから。
その影響は確かに面白いほど、現象として現れますよ。
しかし、あなた方は、その現象を望んではならないのです。
本当の神霊という原点に、意識を向けるようにせねばならないという事です。
それが本当の意味の、霊性の進化だと私は思います。
途中の幽界に意識を向けてはならないのです。
幽界に意識を向けるべきですか。
神霊に意識を向けるべきですか。
高い影響を受けるためには、高い所に意識を向けなければならないのです。
そうしますと、
高い周波数を頂けますので、皆さんのバイブレーションが上がるという事です。
幽界は欲望であり、神界は無欲である
今の宗教団体は幽界と繋がっています。
幽界と繋がっているグループは、
もう言わなくても宗教団体を見れば分かります。
この連中は幽界と繋がっているグループだな・・・・・と。
この連中は神界と繋がったグループだな・・・・・と。
少し注意して見ればそれがよく分かります。
しかし、
幽界と繋がったグループは流行ります。
人集めをして金儲けをしようとするならば、
幽界と繋がった方がうんと徳です。
欲に絡んで多額な金儲けが出来るのです。
それに比べ、
神界のグループは全く金儲けにならないのです。
金儲けにならないようになっているのです。
神界は無欲になるからです。
神界に来ますと、
神霊ですから無欲なのです。
幽界は欲望です。
個人意識がありますから、
所有欲がありますから欲望です。
幽界にいるものは、人間の金儲けの話をします。
それを教えます。
どうしたら金儲けが出来るかと、その事を教えます。
神霊は教えると思いますか。
神界では金儲けの話をすると思いますか。
無欲だからしないのです。
金儲けにならないのです。
しかし、
永遠の富を得る事が出来るのです。
これを得た時、
皆さんは、神の跡取り息子・娘になるのです。
永遠の富を得るのです。
久遠の富を得るのです。
無限の富を得るのです。
神の国には沢山の館が準備されている
私達が、光に近い者になるにはいかにすればよいのでしょうか。愛が深くなれば光は強くなるといえます。不調和になれば闇は深くなります。
それ故に闇に住むも光に住むも誰次第でしょうか。不調和は闇であり、調和は光です。調和に向かって走っている人と、不調和に向かって走っている者と二通りに別れます。
今の世の中には不調和が当たり前のような日常茶飯事の者や、不調和だらけの人間もいます。当たり前のように習慣性になっている人さえいますが、そんな者は天に上げられません。
「神の国には沢山の館が準備されている」と言われています。光の世界から闇の世界に映すとは、光が薄くなっているような、今の状態と同じ状態の次元にあなたは住みます。
この意味が分かりますか。あなたh今の状態で完全なる光の世界に住めると思いますか。完全な光の世界に住めますか。住めませんか。闇なる者が光の世界に住もうとすれば気持ちが悪くなります。
それはちょうど、モグラが太陽がカンカンと照っている所にいるのと同じで気持ちの良いものではありません。
コウモリが太陽の照っている所では気持ちの悪いのと同じです。コウモリがが暗い所が好きであるのと同じことように、不調和の人間は暗い所が好きです。
調和の人は明るい所が好きです。そこで自分が、ある日、突然に天変地異が起こってみんな死んで、自分はどれぐらいの次元いいられるかを誰よりも、今あなたが知っていると思います。それは完成度が高まっていたか、高まっていないかで決まります。
イエス・キリストは言われました。「あなた方は私のおる所に来ないのである」。この言葉はパリサイ人達に言われました。「先生、私達は死後の世界であなたに会えますか」という質問でした。
それはパリサイ人たちが調和であったからですか、不調和であったからです。
「調和の度合いで皆さん方は光るものとなるか、不調和であるかが決まります」。
光る者であるためには、皆さん方は調和そのものでなくてはなりません。調和は光であり、不調和は闇です。
闇地獄とは不調和の世界です。光明世界とは調和の世界です。ですから、光明世界の住人になるのも、闇の住民になるのも自分次第です。
では、誰があなたを天に上げてくれますか。誰があなたを成仏させますか。その不調和の人間は成仏できますか。出来ません。調和の人は出来ます。調和は成仏です。
不調和は不成仏です。その不成仏とは光にならないという意味です。成仏とは光になったという意味です。仏の世界は無明界ですか、光明世界ですか。光にならなくても皆さん方は光明世界の住人となれるのでしょうか。
自分が天に住むのは自らが天に持ってこなければならない理由がそこにあります。光の住者であるためには、あなたが光でなくてはなりません。
真っ黒い者が、どうして光の世界に住めましょうか。光と闇とは同居が出来ません。
ですから、あなたは、あなたの一番に適した所に住み着くことになるだろうといえます。闇の者は闇に住みます。これが「類は類を呼ぶ」の法則です。
健康は食べ物でなるのではなく。愛で健康になる
光が少しずつ暗くなっていく状態があります。明るい方から徐々に暗くなっていく状態と同じで、それを図解すれ面白く理解できるのですが、そのような状態を示しています。
ですから完成を高めるとは愛を高めるしかないのだと、今、ご理解していただきたいわけです。
光を高めるためには愛を高めることしかありません。健康であるためには常に愛であるべきです。
何故病気になるのでしょうか。病気の原因は食べ物が原因でしたか、それとも不調和が原因でしたか。食べ物のせいいにして、自分は不調和でありながら、食べ物のせいにする人が如何に多いかといえます。愛の人は何を食べても病気にはなりません。
皆さん方は観念的で外念的でみな低い次元でしか、ものを捉えていません。病気は食べ物から来ますか。飲み物からきますか。そのようなことをいうのは、低い次元でものを見ているからです。
高い次元から見るならば「病気は不調和の結果だ」と、一言で言えると思います。「不調和の結果だ」といえます。「健康とは愛の結果だ」といえると思います。
完成とは愛を高めるために一日一日を愛で生きることです
これを、この知花が見本として示しているわけですから、皆さん方も健康であるためにはそのような状態でありなさいと言いたいわけです。
病気になったことのない人もいますし、病気だらけの人もいるような差別を、なぜ神が作ったのでしょうか、差別は誰が作っていますか。あなたを健康にするも病気にするも、神次第ですか。それともアナタ次第ですか、神はえこひいきをしていますか。愛はえこひいきしていますか。していません。
神の世界は無差別の世界です。完成を高めるとは愛を高めることだと、今日も一日、誰の悪口も言わず、憎まず、怒らず、そしらず、嫉妬をしない一日を生きることです。その妬みや、怒りや、そしりや、嫉妬や、不安や、恐怖がみな悪となります。
妬みという悪が無くなり、怒りという悪が無くなり、嫉妬という悪が無くなり、この世の悪は愛でもって克服されんがためにあります。愛に勝る力はありますか。愛は全てに打ち勝つ力となります。その愛を誰が持っていますか。自分が持っていませんか。
これを愛の剣といいます。愛の剣でこの世の悪を克服せよという意味です。あなたは愛の剣を生まれながらに持っています。大愛という剣です。
それで、皆さん方は「この世の無知と悪と闇とに打ち勝つべきではなかろうか」と思います。
あなたがこの世の無知と悪と闇とに打ち勝ってあなた方は「勝利者キリスト、克服者キリスト」、すなわち天に上げられる者となります。
天に上がるも、落ちるも、自分次第です。この意味をよく理解して頂きたいと思います。
何十万回もお経を上げることではありません。あなたの一日一日の生活が修行です。愛の一日を過ごすか、不調和に過ごすかは、あなたが決めています。あなたの選択です。自由意志であり、自由選択かと思います。
愛に生きるも、不調和に生きるも、あなたが選ぶべきであって、誰かに強制されるものではありません。この意味をご理解して頂きたいと思います。
不調和で生きるも、愛で生きるも、あなたが選んだ道であって、他の誰かが選んだ道でないことをご理解して頂きたいと思います。どうもありがとうござました。
七色の光が一つに調和して、白光となる
皆さんには、少し分かりにくいかと思いますが、
白光に輝く方々を「白色同胞団」といいまして、
その「七天」におられる方々は白色同胞団です。
その七つの光が、
一つに調和された時「白光」となるのです。
そこを「白光界」といいます。
その白色に輝いた天使たちを「白色同胞団」といっているのです。
実際に、
神界と意識が結ばれた時、その世界に行き来できるのです。
その方々と面と向かって対話が出来るわけです。
そこまで波動が上がりますと、
その方々と同じ波動になりますから、姿・形として見ることも可能なのです。
それらの方々は姿を持っておられますし、
姿を消す事も現すことも自由自在です。
波動をうんと高められますと見えなくなりますし、
波動を低めますと見えるようになるのです。
それで我々は、そういう方々を見るためには、
神界の次元の波長を持っていなければならないのです。
周波数を持っていなければならないのです。
神界の周波数は約三十万サイクル位です。
言葉的にははっきりいえませんが、
何十万サイクルであるという事は、数字的には現す事が出来ます。
幽界はどの位のサイクルで動いているか。
本当は現すことが出来るのです。
周波数ですから現す事が出来るのです。
ですから、
「宇宙は科学である」という事が認識できるのです。
その周波数を電気的に作る事も出来ます。
しかし、電気的にそういうサイクルを作りますと者が消滅するのです。
何十万サイクルの周波数を出すコイルを用いて、
そういう装置を物に当てて放射しますと、
バイブレーションが上がってしまいますから物が消えるのです。
バイブレーションを上げるために機械的に上げようと思う事は、
そのサイクルも作れない事はないのです。
しかし、
うっかり間違えると全部破壊してしまいます。
本質的なものは破壊できませんが。
形あるものは破壊してしまいます。
もう現れない・・・・・。
視界から消えてなくなって、再び現れて来なかったら困ります。
本来は、
自分が意識的に消すことが出来、現す事が出来る事を、
それは皆さんの自由意思で行われなければならないと思うのです。
それをコントロール出来るような人間になるまで、
冷静を高めていかねばならないのです。
波動を高めることは、永遠の救いである
皆さん方の、
バイブレーションを上げるも下げるも、あなたの自由意思にあるのです。
外という低い所を見ている時は、バイブレーションは低いのです。
神という高次元に意識が向いている時、
皆さんの波動は、神の波動となります
神意識をしている時は、神の波動です。
あなた方が、「我は、神なり」という思いを起こしている時、
その時のバイブレーションは。神のバイブレーションです。
そうすることによって、
いかなる「病い」も「悩み」も解決できます。
常に、この高い状態に意識を向けていれば、
バイブレーションが高いわけですから、
この者は再び病気になる事はないのです。
これは「永遠の救い」です。
波動(バイブレーション)を落としますと、病気になります。
波動(バイブレーション)を高めますと、治るということです。
病気になりたくないひとは、
低いものを意識するのですか。
高いものを意識するのですか。
それは、高いものを意識すべきです。
そういう意味において、
皆さんの病気の「自己治癒力」といいまして、
自分たちのバイブレーションを上げておれば、
いかなる病気も自分で癒せます。とという事です。
これをするには、
何も時間が掛かるものではありません。
そこに、一週間でも意識を集中してみてください。
身体が軽くなるのを、誰でも体験すると思います。
時間あるごとに、
神の世界に意識を向けたとすると、
そうすれば、そこからの影響を受けますから、
それをよくご理解しただけたらいいと思います。
無我の境地とは何か
無我とは何かについて語りたいと思います。無我とは自分がないという意味です。本来の自分は存在していないのですが、私達は自分が存在していると感じて生きてるわけです。
しかし、本来の自分はありません。自分があるならば、自分に負けていますので、自負となります。自負とは自らに負けているという意味です。本来の自分はありません。
悟った方である、覚者の方々は自分は存在していないことを知っていますから、無我の境地になれます。では、自分がなくて何であるかといいますと、神がおわします。即ち、神一元です。大霊という神が、大生命という神が、全ての形体を作って全ての中に宿っています。
我々は形体は大霊が創って、大霊が宿っています。ですから自分は即大霊ですから、自分があるのではありません。
その大霊とは神です。「人間即大霊」「人間即神」です。人間とは人間の姿を取った神です。人間と神とは一つです。そうなりますと、神のみが独存するということで、神の地には絶対に何もないことが分かります。これを何かといいますと、全(また)き神といいます。またき神とは全ては神という意味です。
「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」
イエス様は、「神は全ての全て、ありてあらゆるもの」とい言われました。我々の肉の目で見ているすべての形体の実体はみな神でありまして、草花の中にも神が宿っているし、砂浜の砂一粒にも神が宿っています。そして、神のものであるとは、神の他には絶対に何もないということです。
私にもいて神もいるとはいえません。そのようにいう人ならば、その人は迷いの真っ最中です。大霊のみが実在しています。神のみが実在しています。大霊のことを皆さん方は大神様といいます。大霊と大神様はイコールです。即ち神霊です。大霊即大神様です。
我は神なりの意味
自分即神です。ですから「我は神なり」であって、「我は人間なり」ではありません。人間の実体は神です。私達は仮相に目がくらんで、その見えるものの実相・実体を見ていません。全ては神によってなれりです。
その神がすべての形体をお作りになり、すべての形体に神が宿っていますので、神の他には絶対に何もありません。ですから神が絶対者であり、絶対神です。
神一元という意味は、神の他には何もないといえます。これが理解出来た時に、神の自覚となります。神の自覚とは、自らが神だと悟ったという意味です。迷った人のみに人間はあるのであって、悟った時には人間は存在しません。
人間は実在ではありません。神のみが実在です。あなたの肉外はあなたがお作りになったのです。あなたは神です。
目隠しされていたものが落ちることを
目から鱗が落ちたという
神の他には何もないのに、私達は形に目がくらまされているのです。目隠しされてしまって、本質的なものを見失わされていました。形で目隠しされていました。
その見えるもので目隠しされていたものが、落ちること目から鱗が落ちたと言います。それを真実を観たといいまして、実相を観たという意味です。宇宙に遍満する大霊が、普遍的なものが、その個人、個人の全部の中に普遍が宿っているわけです。
大霊の中に人間がいて、人間の中に大霊が宿っています。全ての万生万物は大霊の中にどとまり、大霊は万物の中にとどまっています。その大霊の中においての個人の存在ですから、私達は大霊の中におり、大霊は私達の中にいることになります。形の実体はみな大霊であり、神であるといえるわけです
霊道が開かれた人
霊一元・神一元とは、神の他に絶対に何もないという悟りを得た者、自分、自らが神であることを悟った者は、神の自覚の出来た人といえます。人間は形の世界で生きていますので、どうしても自分を神だと認めるわけにはいかないようです。
あなた方は神信者を見たことがありますか。世の中には沢山の神信者がおりますが、ほとんどの方々は神信者ではありません。神信者とは神を受け入れた人のことで、入信状態とは、自分は神の中におり、神は自分の中にいるという状態をいいます。
自らが神であることを悟られた人間は入信状態です。霊道の開かれた状態です。自分と大霊とが一体であるという境地になった人は霊道の開かれた人です。
ですから、あなた方は今から大霊になるのではなく、初めから神であったし、今も神であるし、未来永劫神です。その他の何者でもありません。その他の何者であるか、考えることを迷妄というわけです。
「神がおわすが故に私はおわすのである」
イエス様は、「神おわすが故に私がおわすのである」と言われました。神がいなかったら、あなたはおりますか。かみはまたき神ということですから、神は全ての全て、ありとあらゆるものです。ですから、我々がこの肉で見ているものは、神の化身です。すなわち、人間一人一人はみな神の化身であって、他の何者でもありません。
ですから、「人間は何か」と言われた時は、「人間の形をとった神」と言って下さい。
動物とは、動物の形をとった神です。動物をお作りになったのも大霊で、動物の中に生きて働いているのです。唯一不二の大霊、唯一不二の神しかおりません。
宇宙に霊はいくつありますか。ひとつしかありません。神霊・大霊・神の他は何もありません。この肉体をつくったのも神であり、肉の中に神が宿っていることを知っていて、大霊が肉体を作って、大霊が肉の中に宿っていると自覚の出来た人は精霊の下った人です。
あなたは宇宙に遍満する普遍的大霊である
仏教から言えば、霊道の開かれた人という意味で、霊との繋がりの出来た人です。すなわち神との繋がりが出来た人という意味です。それをあなたが認めた時、神が皆さんを通して働きたもうのです。なぜ、神が皆さんを通して動かないかといいますと、あなたが神と自分は別だと分離感を持っているからです。
あなた方は宇宙に遍満する普遍的大霊です。「我は普遍にして無限」です。無限は宇宙大ですから、宇宙我です。そして普遍ですから普遍我です。大霊は普遍的大霊ですから普遍我となるわけです。
あなたは大きい存在です。普遍的存在です。自分が普遍であるという自覚の出来ている人を、普遍意識といいます。大霊は宇宙霊ですから宇宙大です。宇宙我になります。そうなりますと、宇宙我、宇宙即我、我即宇宙となるわけです。ですからお釈迦様は宇宙即我という境地に到達されまして、全てが大霊であることを悟られて、不滅の仏陀、不滅の霊となられました。
神は一様(ひとさま)です。神々が様々な表現をしているだけです。我々は表現を見て、表現者を見なかったのです。即ち神理を見なかったと、神を見なかったことになります。この、神理を見なくて現象にとりつかれている人間を、盲目の指導者といいます。
「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」
イエス様は「神は全ての全て、ありとあらゆるもの」と言われました。神は万物の親、万物の作り主です。万生万物を神が作って、万生万物の中に神が宿っているわけですから、世の中に神の他に何があるのでしょうか。この世の中に神を宿していないものが一物としてあるのかと言いたいのです。
ですから、神こそ我々の父といえます。この肉体は作られたものであり、大霊は作り主です。作られたものの中に、必ず作り主である大霊が生きて働いておられます。
神のみが生きています。「神生きるがゆえに私は生きるのである」。ではあなたが働いているのですか、神が働いているのか、どちらですか。神のみが働いています。ですから、私が働いた、私がやったといって嘘をつかないで下さい。「汝、嘘つくなかれ」「汝、盗むなかれ」です。
人間が人間を産むことはありません。神が人間の生みの親です。霊によらないで、神によらないでこの世に人間が生まれる事はありません。神は万物の親です。万物の作り主です。全存在の本源です。
恐怖感は自負である
迷った人のみ人間であるのであって、悟った人間には人間という意識はありません。人間即神です。人間の実体は神であって、その他の何者でもないことを知る必要があります。
そして、その人間とは神の仮の姿です。人間は姿形をとった神です。草花の一つにも神はおり、一粒の卵子たりとも神を宿しています。この意味が分かりますか。ですから、神は万物の親となります。
いつになったらあなた方は、「私が、私が」という言葉がなくなるのでしょうか。あなたという利己がある限り、あなたは迷っています。あなたがなくなったときに、あなたは安らぎとなります。平安となります。自分がある限りは不安と恐怖です。
神には不安や恐怖は存在しません。色々な心配事や恐怖感があったとするならば、あなたは自分に負けていることになります。自負です。その自負の事を何と言いますか。自我と言います。自らの我といいます。
自負は即自我です。勝手に自分だと思っているだけです。勝手というものはありません。初めから皆さん方は普遍的存在です。今も普遍です。未来永劫普遍ですから、個人といえるものがありましょうか。
ここにあるこの木の葉は全体ではありませんか。では、あなたは個人ですか、全体ですか。全体です。これを全我と言います。全我なる我です。「我は全ての全て、ありてあらゆるもの」となります。ですから、人になしていることは全部自分になしていることであると言えます。
私達はこの普遍的我に目覚めなくてはなりません。個人的な自分が存在しますか。個人の実体は即普遍です。その普遍的なものを認めた時に、その普遍的な知恵と力があなたを通して働くようになります。
神を認めた時に、認めるものは現れる、あなたが普遍を認めた時に、普遍があなたを通じて現れると言うことです。
光明思念で生活すること
私達は、思い、思念をしています。思念には二通りのものがあり、「善なる思い」と「悪なる思い」というものがあります。皆さんは、光明思念の中において生活しておられるのでしょうか。
それとも、闇なる思念の中において生活されているのでしょうか。
それによって、皆さん方の運命が決まるのです。
光明思念とは。建設的な思いのことです。
建設的な思いとは、「神は光なり」そして「神は愛なり」という意味合いのことです。
皆さん方は、常に、積極的な建設的な素晴らしいイメージを持って、毎日を生活されているのでしょうか。
それとも暗い思いをして、消極的な破壊的な闇なるイメージを持って、毎日を生活されているのでしょうか。
これは原因・結果として現れるので、日々の生活を暗い思いをして過ごしているなら、その通りの結果、環境となり、また、肉体の病気となって現れます。
そのように、私達には、人間のすべてに「思念力」というものがあるのです。
その思いの念、皆さん方の思いは自由自在です。その自由意思によって、悪いことを思っている人もいるのです。
一番申し上げたいことは、皆さん方の心配、不安、恐怖とは、闇なる思念であり、そrは破壊的な思いであるということです。
「人のことを心配する」ということは、もうその人のことを破壊すると同時に、自分自身を破壊する思念を持っているということです。
なぜかというと、悪い思い、即ち、悪いイメージをすると、心配して、そして恐怖するわけです。
例えば、遠く離れている自分の息子や娘に対して、お母さんが心配するということは、闇なる思念です。
心配という思念でもって、相手を破壊するエネルギーを送っているのです。それは、子供を破棄するエネルギーとなります。
例えば、遠くに離れている子供に、(病気はしていないだろうか)(怪我はしていないだろうか)と思念することは、病気をすることや、怪我をすることを望んでいるような結果を生み出すのです。
なぜなら、病気を起こす念や、怪我をする念を、お母さんが送るからです。
これを「心配」といい「闇なる思念」といいます。これを平気で、お母さん方はやっているのです。
自分の夫に対しても、夫が仕事で出かけた時に、(事故はしないだろうか、本当に大丈夫なんだろうか)という思念を持っていたとすると、お父さんも子供さんもたまったものではないのです。
それを、「悪的な祈り」ともいいます。いかにも悪を望んで、それを祈っているようなものです。
悪思念とは悪的祈りです。破壊的祈りなのです。
ですから、無知のために今まで悪思念を自分の身内の者に、一番可愛らしい子供達に送ったのだろうかということを考えて頂きたいと思います。
それを「闇思念」と言うのです。
そのような破壊的なことをお母さんは望んだことになり、望んだことは「求めよ、さらば与えられん」となり、その通りの結果が生まれてくることが、たび重なってくるのです。
そして、「やっぱり私の思っていた通りだ。病気をしてしまった、怪我をしてしまった」を自慢する。自分があたかも超能力者でもあるように、その思念が働いた時に「やっぱり私の思いは正しかったのだ」と自慢するのです。悪い結果を生み出していながら「私の思いは正しかった」というような、それを自慢するお母さん方がいるのです。
(病気をしているのではないか)(怪我をしているのではないか)という心配の悪思念を送っている時、とうとう向こうから「病気をしている」とか、「怪我をした」とか言っていきますと、「やっぱり私の思いは当たった」と、自分でそういう結果を作り出していながら、あたかも、自分を自慢するお母さんやお父さんもいるわけです。
私達はどれほど無知なるその念をつかって、悪用していることでしょうか。その念を悪用しているのです。これを「霊的悪用」といいます。
あなた方の念は難病もかからずに、相手にいいことであろうが悪いことであろうが、即、それが通じてしまうことをあなた方は知らないのです。
家庭に病人がいたとして、病人を一生懸命心配するということは、その破壊的念が、病気がより悪くなることを念じているようなものです。
例えば、入院している人がいたとして、「悪くなるのではないか。悪いといって電話がかかって来るのではないか。もう死にそうだと言ってくるのではないだろうか」というように、家にいてその事を心配したとするならば、皆さん方はそうなることを望んでいるようなものなのです。
それを「闇的悪的祈り」といいます。皆さん方は、日常生活の中でそれを平気で行っているのです。
悪思念が人を破壊する
もし、あなたに何か病気があるならば、(私は病気なのだ)という思いが、自分自身を破壊するということを知らねばなりません。例えば、病院に行って、「肝臓が少し悪いようですね」と医者に言われたなれば、あなたはそのことに悪思念を送るのです。
痛くなることをイメージしてみたり、肝臓が腐れてくるのをイメージしてみたり、ウミを持っているのをイメージしたり、その肝臓に悪思念をいう破壊的エネルギーを本人自身が送る。ですから、病院に行っても薬を飲んでも、一向に良くならない。破壊的エネルギーを送り通しているから仕方がないのです。
(自分は病気なんだ)と意識して、医者から「この部分が悪いのです」とレントゲン写真を見せられると、より異常に破壊的なビジョンが作りやすくなります。そうなると、自分で自分をどんどん破壊していくわけです。
(このままだと、もっと悪くなるのではないか)
(この部分が腐れてくるのではないか)
(これがやがてガンになるのではないか)
ガンでもないのに、一つの病気からガンまで作り出すような、破壊的思念力を使う、愚かな人間がいるのです。
私達は毎日の生活の中で、その念の中に生きているので、悪的念を活用していたとするならば、自分で自分を殺す状態を生み出していることになります。
前途が暗くなるのです。
自分の将来はこうなるのではないかという、悪いイメージをしている人もいます。
自分の前途は暗いのだ。年をとってから皆に嫌われて、養老院や老人ホームに送られるのではないだろうか・・・と将来を心配して悪思念をしていると、その通りの結果が生まれてくるわけです。
これは自分から引き起こした(身から出た錆)です。自分がそういう道を選んで、そういう結果を選んで作り出す状態なのです。
そして結果が出ると、「自分の思い通りになってしまった」とか「自分の思いが叶ってしまった」というのです。
しかし、それは悪い思いなのです。善い思いがあるのなら、善い思いの通りの結果が現れるのに、人間は愚かです。自分を自分で苦しめるような結果を、平気で作り出す。それを「闇的思念」というわけです。
皆さん方は、今までの過去を振り返って、どれほど自分を破壊し、他人を破壊し、身内の者をどれだけ破壊してきたかということを、知らねばなりません。
前述の例のように、自分の身内に病人がいたとすると、医者からは「これはガンです。もう駄目です」と宣告されたとします。
そうすれば、そのことは身内の者に伝えられますので、身内の者は(もうダメだ)という悪思念をどんどん送るのです。
身内の者が多ければ多いほど、その病人に、その悪い思いが送られてきます。
そして、病人本人も(私はガンだからもう駄目だ。もう終わりだ)という破壊的な思念を、自分にも起こすのです。
病院から「もう駄目です」と電話がかかってくるのではないか、「連れに来て下さい」といってくるのではないかと家では四六時中心配して、その思念、破壊的な思念を本人に送る。そうすると、本人もたまったものではありません。
自分も自己破壊していると同時に、身内の者も寄ってたかって殺人を犯しているわけです。
それが今、現実の生活の中で、皆さん方が行っていることです。
身内の者は心配しますが、その心配によってどういう悪影響が起こされているかということを知らないのです。
「心配」は、破壊的エネルギーです。なぜならば、悪いイメージを描いて、その通りになりはしないかと思うからです。
良いイメージを描いで心配する人はいません。破壊的イメージを描いて、そこを集中的に心配しているのです。
(ガンは恐ろしい病気である)という潜在的イメージが、みんなに植え付けられているので、それから救済するには、その身内の者や、お医者さんの念を取り除かなくてはならないのです。
ですから、これは集団殺人、目に見えない集団殺人を行っていることになります。自分の身内の者を、皆さん方の悪思念でもって殺してしまうわけです。
(もう駄目だ、もう駄目だ)という念しか送らないのでは、良くなるはずがありません。
そのエネルギーとしての念という力を、皆さん方はまだ信じていないのです。それが「どんなに大きい力であるか」ということを知らなくてはなりません。思った瞬間に、その相手の所に行くのです。いいことでも、悪いことでも、思った瞬間に行くのです。
なぜ、そんな無知な生き方を、その思念力を悪用してしまうのだろうかということを、皆さん方は知らなくてはなりません。現実の生活では。これが行われているのです。
「皆さんの思いを正しなさい。常に生想念のみに生きなさい。悪想念を持ってはなりません」と私がいつも申しあげているのは、それは「あなた方がどれだけの人を殺したか」ということになるからなのです。
「汝、殺すなかれ」「汝、殺害するなかれ」と、「十戒」即ち「「十悪の戒め」がここに出てくるわけです。
皆さん方は、何を持って平気で人を殺しているかということを知らない。目に見えない念の力で殺しているのです。
目に見えない殺人犯で証拠物件がないので、この世では監獄に入ることはありません。
しかし、霊的には、皆さん方は罪人なのです。
それを、「罪・汚れ」と言います。「悪業」とも「カルマ」ともいいます。
今まで、どれだけ皆さん方が、殺人をおかしてきたかということをよく考えてみて下さい。
身内が可愛ければ可愛いほど、殺しているのです。
(大丈夫だろうか)という念を、可愛ければ可愛いほど送るのです。
無知なる人間は、思念力というものを知らないために、どれほどの身内の者や、知り合いの者を殺しているかということをよく知らなくてはなりません。
それを「念の力の悪用」「思念力の悪用」「闇的思念力」というのです。
偉大なる光明思念
その逆も真なりで、「光明思念」があります。
闇の念を送っていることに対して、それを救う方法が一つあるのです。
皆さん方の念を変えればよい。光明思念の方に変えてゆくのです。
常に、自分が光り輝くイメージをして、そして、そこに病人がパーッと光り輝いているイメージをすること。
これを「光明思念」といいます。
人を建設する健康な状態、光り輝く状態をイメージします。
その人は病気は一切否定して、健康のイメージをすると、それは建設的なので、ガンの病人が生かされてくるわけです。
今までの、皆さん方の念とはまったく逆です。心配する時間があるくらいならば、例え五分でも、光明思念をその病人に送ることが一番大切なのです。その人が病気にならなかった元気な姿をイメージして、頭の先から足の先まで白光に輝いているイメージを送る。
それを「建設的思念、光明思念」といいます。
これを行わずに、世の中の人間は、闇人間になってしまったのです。闇が好きなのです。破壊的なものが好きなのです。
光明思念というものと闇思念というものがあることを知らず、毎日の生活の中で使っている90%までが、その闇思念なのです。
心配して善いことはない
「心配」「不安」「恐怖」は、破壊です。
その破壊的思念を送っていながら、子供を愛している、夫を愛しているというのは「口先だけの愛」というものです。真実においては愛ではないのです。なぜならば、殺しているからです。
私達は神理を学び、神理を知って、その通り神理を実行した時、真の愛が出てくるのです。それを「育愛」といいますが、皆さん方のいうのは「盲目の愛」で、物事を知らない愛が殺人を犯すわけです。
そういう事にならないように、一生懸命気をつけなければなりません。
私から飲むものは乾かない
永遠に減ることはない
自分が普遍だと信じるものには普遍的な力と知恵が現れます。自分は普遍だと信じないものに、どうして普遍的な力と知恵が現れましょうか。
では、普遍的な知恵と力は、誰が制限していますか。個人の中に普遍的な知恵も力も存在しているのではありませんか。では、あなたの中に神の全てが存在してませんか。あなたの中に全部が揃っています。あなたの中にいる神は、全知全能ですから、これを知恵の泉、力の泉、生命の泉といいます。
ですから「私から飲むものは乾かない」「永遠に減ることはない」。この言葉が分かりますか。あなたの生命や知恵は減るのでしょうか。無限大の知恵があなたに注がれているのではありませんか。
では、あなたの個人的な知恵や力はありますか。全体としての知恵があるだけです。全体としての力です。個人的な力はありません。
全知全能の神が皆さんの中に宿っているわけですから、自分の中に全体の知恵、全体の力、全体の生命が宿っているといえます。そうなりますと、「神のものは私のもの、私のものは神のもの」となりませんか。
このことがはっきりと直知出来るようになれば、この知恵と力はあなた方を通じて現れるようになります。それ以外に現す方法はありません。ですから、「認めるものは現れる、信ずるものは現れる」わけです。
なぜ疑うのかというのはそこです。皆さん方はまだ疑っています。なぜかといいますと、疑っていなかったら現れているはずです。なぜ現れないかというと、半信半疑であるからです。
「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くす」ことを思っていません。心の底からそう思わなくて、知識でそう思っているからです。
深い信仰とは本心からそう思わなければなりません。知識の次元で思うことではありません。知識はすぐ忘れます。ですから、「私は大霊である」「普遍だ」「無限だ」ということが、心の底から出来るようになるまでは、億念しなくてはなりません。このために瞑想するわけです。
個人的意識は迷いの意識
皆さん方は今まで、常に自分が個人だと思ってきましたので、今度は逆に常に無意識のうちに自分は普遍だと思い込む。普遍意識状態にならなければなりません。普遍意識は神意識ではありませんか。
個人の中に注がれている意識は普遍意識です。普遍意識のみです。皆さん方の意識は即普遍です。ですから、普遍こそ絶対実在ですから、その普遍的なものを認める。容認する、信ずる、これが大切かと思います。
では、本来の自分があったのか無かったのか。今まであなたが感じてきたあなたはあるのですか。ないのですか。無いのではありませんか。では、無我ではありませんか。神我があるのみです。神我こそ絶対なるものです。絶対なる我です。真の自己です。この偽我に打ち勝つことが無我となる秘訣です。
「私がねえ」などと自己主張をしたり、自己中心的になったり、そのような我がある限り、皆さんは迷いの真っ最中です。迷いのない人間には自分はありません。自分を感じて自分があると思っている限りにおいては、皆さん方は自我です。
自負とは何か
自分に負けている状態を自負といいます。この負けるというのは背負うという意味でもあります。負荷ですから、自分を背負っているわけです。
本来は自分はないのに、自分を背負って生きるとは何たることでしょうか。自分はないのはありませんか。私はなかったと、神のみがあったと、このことは非常に重要です。「無我の境地」とは、自分のない状態をいいます。即ち自我のない状態を無我の境地というわけです。神一元の境地です。
皆さんから何名でも、無我の境地にすることが出来たら、私はこの世の中に出てきたかいがあったという事になります。一人でもよいから、自分に打ち勝つ事の出来る人間ができたとするならば、あるいは何百名も何千名も出来たとするならば、私は今世の大勝利になります。
また、この世に来たかいがあったことになります。ですから、皆さん方もぜひ自分に打ち勝って、神我に目覚めて、また、多くの人々にお手伝いをして頂かなければなりません。
最大の敵は自分
まず最大の敵は自分です。その敵である自分に打ち勝つことが最も大切です。
あなたがあなたに打ち勝った時に、克服者キリストとなります。勝利者キリストとなるのです。自分に打ち勝つことが勝利者となる秘訣です。自負をしては駄目です。コの字を見て下さい。
「自負」とは自分に負けているのです。自分に打ち勝てば、自負は存在しません。自負とは何かといいますと、自我です。偽我です。自分に負けている人は自負です。
「あなたは自負心はないの」と、よく言いませんか。自負というのは、即迷いです。自負があるとは迷いがあるのです。それ故、自分から打ち勝ちましょう。
普遍の他に何が在るのでしょうか。なぜ、普遍の他に何もないかと言いますと、全ての形体は普遍者がお作りになって、全ての形体は普遍であるのです。
一度に二人の主人を持つことは出来ない
あなた方は、一度に二人の主人を持つことは出来ません。また、一度に二人の自分を持つことは出来ません。自我か、神我かその二つの中の一つを選択しなければなりません。
あなたは自分は小さいと思うと同時に、自分は大きい自分も小さい自分も持つことが出来ますか。あなたが小さいと思っている時は、大きいあなたは存在していません。あなたが大きいと思った時に、小さなあなたは存在しておりません。大きい物を得るか、掴むか。小さいものを掴むかです。
ですから、あなた方は思っている通りのものであって、それ以上のものでも、以下のものでもありません。そのものです。
今までの自分は小さいものであると思って生きてきました。それはなぜかといいますと、外を見たからです。内を見てご覧なさい。内なるものは小さいですが、普遍そのものです。内は即普遍です。ですから、普遍的なものを見ることが本当の自分を見ていることになります。
外側でものを見ている時は偽物です。内側で物を見ている時は本物です。その本物は普遍大で宇宙大です。無限大です。ですから、皆さん方は常によく念じて、その普遍的なものに一心集中していなければなりません。
覚者は誰か
四六時中神を思うことは、四六時中あなた方が普遍でなくてはなりません。あなたが四六時中個人的に見ているならば、四六時中個人意識となります。個人意識は低我です。
あなたは個人ではありません。個人の実体は普遍ですから、本物の自分は、このような姿形ではありません。そして、自分は宇宙に遍満する大霊であり、宇宙に遍満する生命であり、知恵であり、力であるという思い方です。
そして、この思いを受け入れた自分は大霊であり、大生命であるとして受け入れたものは神信者です。大覚者です。大きいものであることを悟りましたので、霊覚者です。分かりましたか。
私達は毎日、そしていつも、次のように言ったら良いと思います。「私は血や肉、姿形に属するものにあらず」
「我は大霊なり」「我は普遍なり」と、常に自分に言い聞かせなければなりません。
そして、毎日言い聞かせておりますと、無意識の内に自分が普遍だと思えるようになります。それが「油注ぎ」といいまして、常に意識するという意味です。そのようにすれば内なるものを常に意識するのが自然に強烈になっていきます。
内なるものが活発化している時には、外なるものは沈黙を守ります。自我が活発化している時には、神我は沈黙を守っています。ですから、あなた方は自我に力を与えないためには、自我を意識しないことです。
常にどこを意識すればよいかといいますと、内なる我である普遍的な我を意識し続けることです。ですから、時間あるごとに瞑想しなさいというわけです。
瞑想とは普遍と見つめることであり、普遍を意識することです。実在を見る、実相を見るのです。実相を見ることが見神です。神を見るとは普遍的なものを見ることです。それと同時に自分を見ます。
ですから、自己を見つめるとは、自分を見ている時に、あなた方は神を見ているのであるという意味になります。
ですから、神様を見たなどという戯れ言に騙されないことです。「私は昨日、神様を見たわ。髭をつけて杖を持って、あんなことしていたわ」というような嘘つきにだまされないことです。それは幻です。
無形・無相の大霊を見なければなりません。遍満する大霊を見なければなりません。それを見つめたときに、私達はこの普遍的なものの写しであり、影であることが分かります。
「神我顕現」とは何か
霊的なものは永遠ですが、あなたが「わたしだ」と思っている。貴方の自我はいつかは朽ち果てさせなければなりません。それが自分です。今までの「私が、私が」と思っていた自分は永遠ではありません。
霊的あなたは永遠です。これが久遠の我であり、永遠の生命という意味です。久遠の富でもあります。これを掴むか掴まないか、それを掴んだ時に皆さん方は、もう神の跡取り息子であり娘になったといえます。
神の全てを受け継ぎましょう。既に受け継がれているわけですから、私達はそれを受け継ぐ権利があります。特権が与えられているという事実を知らなければなりません。
皆さん一人ひとりには神の知恵と力と、上のすべてを受け継ぐ特権が与えられています。それを拒んでいるのは自分たちであったと気付かねばなりません。
神はけちくさいものではありません。どんな善人にも悪人にも、平等に自分の息子に無限大の富が与えられています。素直に受け継ぎましょう。
そして、「そうだ」と皆さん方が信じた時、もう受け継いだことになります。そうした時に、神のものが全て貴方を通じて顕現されます。「神我顕現」です。
世の中はいろいろで、様々な神を説くものがおりますが、皆さん方はそのことをまず選別して頂きたいと思います。あれが神だ、これが神だというものに耳を貸してはなりません。
なぜかといいますと、神は無限者であり、普遍者ですから、「これが神だ」といったら、もう神では無いといえます。神理でもありません。
なぜかといいますと、神は全き神ですから、全ては神ですから、「これが神だ」と言ってしまえば、もうそのものは神を知らない盲目の指導者であるとなります。
神は全ての全て、ありてあらゆるものである事にお気づき頂ければ良いと思います。
無我とは、初めから自分はありません。今もないのです。未来永劫にありません。あなたが勝手に作っている幻影です。実際に存在しているあなたは「大霊のあなた」であり、貴方の考えている「あなた」は存在していません。
あなたはない「あなた」を初めからあったと錯覚していたのです。初めからあなたは存在していません。初めから大霊が存在しているだけです。
なぜかといいますと、全ての形体を大霊が作って、全ての形体に大霊が宿っていますから、初めからあったのは大霊であって、あなたではありません。
真の自己は初めから大霊だったのです。それが分かったらもう無我だと思います。自分がないのだと、お気づき頂ければありがたいと思います。本来自分は存在していません。
神我である大霊の自己、神我のみが実在しています。常に時間あるごとに、本来の、普遍的な自分に一心集中して頂きますことをお願いしながら、ご説明を終わらせて頂きます。ありがとうございました。
雑念とは概念であり観念である
雑念とは何かということについて、話してみたいと思います。私達は瞑想をしている時に雑念が入るといいます。
「雑念が邪魔して、なかなか統一できない」というように表現しますが、この雑念とは一体なんだろうかということを問われた時に、答えきれない人が大勢います。
雑念とは即ち外念であり、観念的なものはみな雑念です。即ち、私達が外なるものを頭のなかで考えていることがみな雑念でして、その反対は億念です。お釈迦様は億念という言葉を使い、「億念しなさい」と言われました。
雑念とは外側の念です。即ち自我のことをいいます。皆さん方が迷走中に色々考えることはみな雑念でして、それを雑念が入るといいます。皆さん方はこの世的なものを一所懸命に瞑想しますが、それを自我瞑想といい、雑念瞑想といいます。
一所懸命にこの世のことを考えて瞑想します。そして、一所懸命やったという人がいますが、それは雑念瞑想、自我瞑想であって、神我瞑想ではありません。そのような瞑想はやればやるほど頭がおかしくなるだけです。
雑念がない状態というのは外念のない状態です。我々は見える世界のことしか見ないし、ほとんどの方は観念的です。観念的、外念的なことが頭のなかに一切浮かんでこない状態が大切です。即ち頭のなかが空っぽ状態を言います。
頭のなかが空っぽ状態を空(くう)と言います。空の状態にしなければなりませんが、座って一所懸命に、あれやこれやと考えることを瞑想だと思い込んでいる人が大勢います。
それをやっていますと、自分の作った自己メッセージを神からのメッセージだと思って、間違って自己メッセージを作って、神様がこんな事を言いましたとか、あんなことを言いましたとか言い出す人も出てくるわけです。
私達がこの俗世という、見える世界の現象世界のことを完全に頭から抜いて、頭で考えることをやめた時に、静止念といいまして、本当の神が現れます。これをインスピレーションとか、直感といいます。
あなたの頭で考えていることは全てが雑念です。我々の頭は雑念のことしか考えられません。また、考えきれないのです。瞑想していたら、色々のことを教えられたというのは、実は自分で考えだしたものです。外念ですから教えられたものではありません。
瞑想を一所懸命やる時は、いろいろ考えることを停止しなければなりません。考えることを止める、これを沈黙といいます。我々の自我意識という外念が沈黙を守った時に、神我意識が活発化してきます。その状態を天啓というのですが、外念がある限りは天啓を受けることは不可能です。
初歩の状態の瞑想から本当の瞑想へ
あなた方が座って、一所懸命に瞑想をしようと思っても、色々と考えるならばそれは雑念になりませんか。そして、色々のことを考えている時は、その雑念はなくそうとすればするほど、余計に増幅してきます。
なぜならばその雑念に抵抗しているからで、その時には一時停止して瞑想を止めるべきです。そのまま続けますと、おかしな状態が起こります。その時には神でもない。神まがいの憑依現象が起こります。そこに波長あった、幽霊からの者が、パッとその者を支配してしまう状態です。
瞑想は大切なものでありながら、非常な危険が伴います。そのように完全な憑依を受けた時は、自分が神になったような錯覚を起こしてしまって、憑依霊の犠牲になりますから、そうならないように気をつけなければなりません。
私達が瞑想するときに、「空になる」とは考えが停止した状態をいいます。頭では何も考えない状態になって、完全に神に委ねた状態を静止状態といいます。静寂な心といいまして、それが本当の自分です。
自我が全然動かない状態で、外念や観念的なものが働かないのです。その時に神我は皆さん方を支配します。これが本当の瞑想です。
想念とは何か
皆さん方は想念を非常に勘違いしています。皆さん方が思っている観念的な思いや外念的な思いは想念ではありません。それは雑念です。この観念や外念がなくなった時に本当の想念が働きます。
想念とは正想念のことをいいますが、それは上から来るものです。外念や観念は神からきたものではありません。外から来たものを、あたかも想念だと思っているのは間違いです。
その想念を「実現の母」といいますか。悪い思いを我々の心の中や頭の中で描きますと、悪い状態がこの現象世界に現れてきますから、イメージの仕方を間違いますと大変危険を招くことになります。
それをマイナス思考といいます。そして、プラス思考というのは、すなわち億念をいいます。
皆さん方は一心集中という言葉をよく使います。これはどんな意味かといいますと、例えばこのチョークに一心集中するのは、チョークだけを見て、チョークだけを考えて、他のものをみてもならないし、という意味です。
それに一心集中するのです。それ以外を考えているならば、それはみな雑念です。
殆どの人は集中力がないから雑念が起こってきます。ですから、その集中力を養っていかなければなりません。では、一体全体何に集中するかといいますと、神我という大霊に集中しなければなりません。
人間とは大霊によって作られた大霊の住かです。この大霊に一心を集中するというのは、大霊のみを見て大霊のみを意識する事です。そうすることによって、現実に大霊が実感出来ます。
その時の皆さん方は億念したことになります。それが瞑想です。
大霊への一心集中とは、大霊のみを見て、大霊のみを考えることです。それ以外に見てもならないし、考えてみてもなりません。雑念が外念があってはなりません。
瞑想中に憑依霊を受けた人の殆どは動機が狂っています。超能力でも得て、大金持ちにでもなってみようというような、観念的な外念的な考えを持っている人達です。
大霊には欲望がない
世の中には潜在意識を開発して大金持ちになろうというグループがありますが、それは非常に危険です。そのようなセミナーを開いてやっている者は、みな憑依霊を受けます。欲望が動機です。欲望とが自我ですし、神我は無欲です。
なぜ、神我は無欲かといいますと全我であるからです。全ては我であるから、それに欲望があるはずがありません。自我は分離感をもっているから欲望となります。
皆さん方が神我になりますと、無欲になります。欲望は出てきません。欲を捨てるとは、自我を捨てることです。
あなたは自分が他人とは別だと思っているから欲望があるのであって、自分と他人とは一体だという意味が分かれば欲望はなくなります。
なぜかといいますと、神には他人というものがないからです。こちらの者にもあちらの者にも、同じ霊が宿っているわけです。
形の世界を見るから他人がいるのであって、中身には他人がありません。他人という思いがありません。大霊が人間を創って、大霊が人間の中に宿っています。
同じ霊がすべてを創って、同じ霊が全てに宿っているのですから、霊の世界には他人はありませんし、欲望もありません。
外念の世界に生きている人間には分離感がありますから、自他があります。本来はないけれども自他を感じるわけです。霊の世界には自他がありません。そのようになりますと、そこには欲望はありません。
例えば、一つの木にこちらの木の葉の生命と、そちらの木の葉の生命とは同じ生命が宿っていますが、この内側には他人という意識はありません。
そうなりますと、こちらの者がそちらの者から何かを奪ったら、自分が奪ったことになります。逆にこちらの者からそちらの者に何かを与えたとすると、自分に与えた事になります。
人から物を奪うことは、自分から物を奪うようなものです。人を傷つけることは全部、自分を傷つけることになるわけです。